78話 影の号令
登場人物紹介
アキト
ルートマスターとして事件計画に関わる男。冷静沈着で、瞬時に状況を判断する。朱音や玲に対して、護衛・指導の両面で接する。口調は状況によって男口調・女口調を使い分けることもあるが、本質は男性。
佐々木朱音
純粋で直感力の高い少女。スケッチブックに描く絵が事件や未来の鍵となる。アキトに守られる立場だが、彼女自身の描く力が物語を動かす。
玲
冷静沈着な探偵。状況判断能力に優れ、事件現場でチームを統率する。朱音やアキトと協力しながら真相に迫る。
川名詩織
編集・映像分析のスペシャリスト。フィルムや映像の異変を見抜く能力を持つ。事件の証拠解析や情報整理を担当。
瀬尾ハルキ(せお はるき)
小劇場の舞台演出や公演を担当する役者・演出家。事件の舞台背景に深く関わる。冷静さと感性の両面を兼ね備える。
名倉家の書庫管理者
地下書庫を管理する人物。古文書や過去の事件資料に精通しており、事件の歴史的背景を整理する役割を持つ。
冒頭
【時間】深夜零時過ぎ
【場所】同じ町家・奥の土間へと続く廊下
雨脚は徐々に強まり、屋根瓦を打つ水音が、ひとつ、またひとつと重なり、町家全体を低く震わせていた。
封筒を受け取った相手が去ったあと──
アキトはしばらく、膝の上に置かれた自分の両手を見つめていた。
蝋燭は小さく揺れ、炎の輪郭は細く尖っていた。
静寂。
だがその静けさは、まるで「嵐が来る前の呼吸」を吸い込むような、落ち着かない静寂だった。
やがてアキトはゆっくり立ち上がった。
足音を立てず、畳を滑るように廊下へ出る。
──その先で、土壁の影がふと揺れた。
「……聞いていたのか、玲」
廊下の柱にもたれ、薄暗い灯りの中に佇んでいたのは、玲だった。
腕を組み、半眼のままアキトを見据えている。
「お前、またろくでもない計画を動かしただろ」
「“また”とは失礼だな。いつも必ず成功させているだろう?」
玲は鼻で笑う。
「成功してるのは“事件が起こる”方だろ。それを止めるのが俺の仕事だ」
アキトは肩をすくめ、薄い笑みを浮かべた。
「だったら──今回は、どう止めるつもりだ?」
雨音がいっそう強くなる。
雷光が障子を白く照らし、一瞬だけ二人の輪郭が鮮やかに浮かび上がる。
玲は柱から背を離し、アキトに近づくと低く告げた。
「止めるさ。絶対に。
……お前が“予告編”のつもりで撒いた火種を、本編にする前にな」
アキトは一拍おいて、微かに笑った。
「楽しみだよ。
──今回の“事件の編集権”が、どちらに転ぶか」
二人の視線が交差する。
その対峙は長く続かなかったが、その短い一瞬だけで、嵐より濃い緊張が町家の空気に刻まれた。
やがて玲が背を向け、雨の音に混じるように呟く。
「……アキト。
お前がどんな筋書きを用意しても、朱音は巻き込ませない。絶対にだ」
アキトは返事をしなかった。
ただその背中を見送り、雨に溶けるような声で独りごちた。
「守るか……。
なら僕は──『選ばせる』だけさ。彼女自身にね」
雷鳴が再び響く。
その夜、まだ誰も知らぬまま、“計画の幕”が静かに上がった。
【時間】午後六時三十二分
【場所】旧・山本履物店跡地 裏通り・封鎖区域内
朽ちた商店街は、雨雲による早すぎる夕暮れに沈み、警察車両の赤色灯だけが歪んだ光を壁面に反射させていた。
規制線の向こうでは、野次馬たちがざわめきながら、スマートフォン越しに封鎖された通りを覗き込んでいる。
畳の間に倒れた被害者。
背中に深々と刺さった靴べら。
濡れた足。
そして床板の下の井戸。
その異様さを前に、捜査員たちは言葉を失っていた。
薄暗い店内を照らす懐中電灯の光の中、刑事のひとりが井戸の縁に膝をつき、水滴の残る木枠を指でなぞる。
「……やっぱりおかしい。泥の付着が外向きじゃない。これは……“中から這い上がった”跡だ」
「犯人が井戸から? いや、そんなはず──」
「だが足跡は一人分しかない。被害者のものじゃない」
刑事たちは言葉を詰まらせる。
水面は静かに黒く、何も映していない。
まるで底そのものが存在しないように見えた。
外では、雨が本格的に降り始めていた。
規制線に弾かれる雨粒が、細かな霧となって漂う。
その雨の帳の中──
黒いコートを羽織った男が、静かに現場を眺めて立っていた。
【時間】午後六時三十五分
【場所】封鎖区域外・裏通りの陰
──アキト。
帽子の影に沈んだ彼の表情は読めない。
だが、薄く上がる口角だけが、計画の正しさを物語っていた。
「……予定通り、だな」
声は雨音に溶け、誰にも届かない。
彼は懐に手を入れ、黒い封筒の端をそっと指で弾く。
今夜、この惨劇を導いた“完全犯罪計画書”。
その第一幕が、図面通りの秒単位で遂行されたことを、現場は無言のまま証明していた。
警察無線が遠くで鳴り響く。
『……至急確認。井戸の水面に異常反応──』
アキトは背を向ける。
雨の中に溶け込むような、静かな足取りだった。
「第二幕を始めよう。……“観客”が揃う前にな」
雷鳴が遠くで低く唸り、
まるで次の幕開けを告げる合図のように町を震わせた。
【時間】午前十時二十二分
【場所】玲探偵事務所・木造ロッジ前の小道
都心から電車で一時間、さらにバスを乗り継ぎ、舗装の途切れた山道を歩くこと二十分。
その先、木立に囲まれた空き地に、古い木造ロッジがひっそりと佇んでいた。
外壁は雨で色が抜け、ところどころ苔むしている。
看板には小さく「玲探偵事務所」と彫られた真鍮のプレート。
その文字には、朝露がきらりと光っていた。
ロッジの前で、玲は郵便受けの確認をしていた。
ちょうど風が枝を揺らし、葉のざわめきが静かに広がる。
そのとき──
背後の落ち葉を踏む、ひとつの足音がした。
玲が振り返ると、木立の影から黒いコートの男が現れる。
風に揺れる前髪、無造作にかぶったフード。
だが、その軽い足取りと、どこか“ふらっと現れる”独特の気配に、玲はわずかに眉を上げた。
アキトだった。
「……珍しいな。お前が、人の家に正面から来るなんて」
玲の言葉に、アキトは肩をすくめる。
「正面から来た方が、今日は早い気がしてね。あと……礼儀もたまには大事かなって」
「お前の言う“たまに”は信用ならん」
アキトはその軽口に、ふっと笑った。
そしてポケットから、一枚の黒い封筒を取り出す。
糸で封じられた、薄い封筒。
「依頼だよ、玲。……俺じゃ手に負えなくなった」
玲は表情を変えず封筒を受け取る。
「また面倒な匂いがするな」
「うん。今回は特にね。
──“誰かが未来を書き換えてる”。そんな感じがする案件だ」
森の奥で、鳥の声が遠く響いた。
風が二人の間をすり抜け、落ち葉がひとつ転がる。
玲は短く息を吐き、扉のノブに手をかけた。
「詳しい話は中で聞く。入れ」
アキトは軽く頷き、ロッジの中へと足を踏み入れた。
静かな木造の扉が閉まる音が、森に吸い込まれていった。
【時間】午後一時四十二分
【場所】木造ロッジ《玲探偵事務所》応接スペース
アキトは、封筒を差し出した姿勢のまま、わずかに息を吐いた。
玲は受け取った紙束にざっと目を走らせ、眉をひそめる。
「……手書きの地図に、町家の構造図。しかも、この文章……」
玲の視線が一行の文字に止まった。
──《第二幕は、古井戸の傍で。雨が上がる刻を狙え》。
アキトは椅子の背にもたれ、足を組む。
「予告だ。……いや、“台本”と言ったほうが正確かもしれないな」
玲は紙を机に置き、アキトをまっすぐ見た。
「つまり──犯人は、これから起こる事件を“演出”しようとしてるってことか?」
アキトは小さく笑う。
「演出じゃない。“編集”だよ、玲。
起きるはずの出来事を上書きして、自分の思う形に整えていくタイプの犯人だ」
玲は腕を組み、しばらく沈黙した。
静かなロッジの窓の外では、風が木の葉を揺らしている。
「……で、お前はどっち側なんだ。
“編集者”の味方か? それとも、俺たちの側に来るつもりか?」
アキトは口元を緩めた。
「選択肢を二つに絞るなんて……らしくない質問だな。
俺はただ、“物語の行方”を見届けたいだけだ。
依頼は依頼として渡した。後は──お前たちの判断だ、玲」
玲は視線を封筒に戻し、深く息を吸った。
「……分かった。受けるよ。
ただし、その“台本”を書いたやつが誰か──俺が暴く」
アキトは立ち上がり、軽く肩をすくめる。
「期待してる。第二幕は……すぐそこまで来てる」
玄関に向かう足音は軽い。
扉が開く。山の湿った空気が流れ込む。
「玲。雨が上がる頃──古井戸のあたりを見ておけ」
言い残すと、アキトの姿は木立の中へと消えていった。
【時間】午後四時三十二分
【場所】井守町・古井戸へ続く石畳の小道
雨上がりの湿った空気が、山の町に重く漂っていた。
石畳の隙間からは苔が伸び、背後にそびえる森が、雨粒を落としながらかすかなざわめきを立てている。
玲は手にした地図を片手に歩みを進めた。
アキトが持ち込んだ依頼──いや、あれは依頼というより“予告”に近い。
第二幕が“ここで起こる”と、最初から分かっていたかのような書き方だった。
足元の小石が転がる。
玲が振り向くと、そこに当然のようにアキトがいた。
傘も差さず、濡れた髪をそのままにして、ポケットに手を突っ込んだ姿で。
「……来ると思ったよ」
玲がため息混じりに言うと、アキトは首を傾けた。
「そりゃ来るさ。俺の“計画書”を読んだ人間で、お前だけがまだ動いていないからな」
「それは依頼って言わないだろ。……誘導だ」
アキトは軽く笑った。
石畳の上で、その足音はやけに静かだった。
「行く先は一つだ。古井戸の前、雨が上がる刻──
“第二幕”が動き出す。
お前には、その証人になってほしいんだよ、玲」
玲はしばしアキトを見つめ、やがて地図を折りたたんだ。
「証人だけで終わらせる気はないけどな」
「だろうな。だからこそ、お前に頼んだ」
アキトの視線が小道の先へ向けられる。
森の奥、その先に古井戸があるはずだ。
湿気を帯びた風がふたりの間を通り抜ける。
雨の匂い、土の匂い、そして──
まだ誰も知らない事件の匂いが混ざっていた。
アキトは歩き出し、玲もその背を追う。
第二幕は、もうすぐ開く。
【時間】翌日・午前10時12分
【場所】井守町・神社裏の旧井戸跡地へ向かう山道
雨上がりの湿った空気が、まだ肌に張りつくように重かった。
山道には雨粒の残る落ち葉が散り、足を踏み出すたび、くぐもった音が響く。
玲はコートのポケットに手を入れ、隣を歩くアキトをちらりと見た。
彼は無言のまま、わずかに眉を寄せ、頭上の濃い雲を一瞥する。
「……お前、本当に“起こる前から知ってた”んだな」
玲が低く問う。
アキトは歩みを止めず、口の端だけを僅かに動かした。
「知っているというより……“順番が決まっている”だけだ。俺が書いた通りに、世界が遅れて追いかけてくる」
「気味の悪い言い方すんなよ」
玲は肩をすくめた。
だが、アキトの表情は変わらない。むしろ、少しだけ険しさを増していた。
やがて木々の隙間が開け、湿った風が吹き抜ける。
ぽっかりと空いた空き地──
そこに、警察の規制線が張られていた。
【時間】午前10時17分
【場所】井守町・旧井戸跡地(現場)
階段状に崩れた石垣の下に、古井戸の跡が黒い穴を開けていた。
その縁に──男が背をもたれかけるように倒れている。
作業着、濡れた布地、胸に固まりつつある暗赤色。
玲が近づき、表情を引き締める。
「……遅かったか」
アキトはその横で静かにしゃがみ込み、濡れた地面に指を触れた。
雨水の跡、泥に混じる足跡、そして井戸から伸びる奇妙に“まっすぐな”線。
「──玲」
アキトの声は、抑えたが確実に緊張を帯びていた。
「第二幕は、ここから“始まる”んじゃない。“もう終わったあと”なんだよ」
玲が目を細める。
「どういう意味だ」
アキトは立ち上がり、井戸の暗闇をじっと見下ろした。
その瞳は、まるで“未来の残像”を読むかのように揺れていた。
「犯人はここには来てない。
だけど……“ここにいたことになっている”。
計画を書いた俺にすら、矛盾が見えるくらいにな」
玲は息を呑む。
「つまり、“別の誰か”が台本を書き換えてる?」
アキトは無言で頷いた。
そして、雨上がりの空を見上げ、小さく息を吐く。
「……玲。
ここから先は、お前なしじゃ追えない。
世界そのものが、犯人を“守ろうとしてる”」
玲は苦く笑う。
「了解。付き合ってやるよ、天才脚本家。
ただし──書き換えられた台本のオチは、俺が暴く」
二人は並んで、井戸の縁をもう一度見下ろした。
湿った空気の中、風がひとつ、冷たく吹き抜ける。
それはまるで──“第三幕の開幕”を告げる合図のようだった。
【時間:午後四時過ぎ】
【場所:井守町・町家裏手の中庭】
雨脚は弱まっていたが、空は重く沈み、湿り気が肌にまとわりつく。
苔むした石畳はぬらぬらと光り、井戸の縁では、まだ雨粒が静かに滴っていた。
玲とアキトが裏道を抜け、中庭へ踏み込んだ瞬間、すでに現場を囲んでいた規制線の向こうで、地元警官が軽く頭を下げた。
「発見者は、まだその辺に……」
警官の視線の先、郵便配達員の男がレインコートの裾を握りしめ、不安げに落ち着かない足取りで立っていた。
アキトはすぐに彼へ歩み寄り、いつもの柔らかい声を落とした。
「少し話を聞かせてください。怖いことは何もない。……“見たまま”を教えてくれればいい」
郵便配達員は緊張した呼吸を整え、ぽつりと語り始めた。
「……雨を避けようと思って、この裏道を通ったんです。
そしたら……塀の向こうで、人影が揺れたように見えて。
誰か具合でも悪いのかと思って覗いたら……あの人が……井戸のところで倒れてて……」
アキトがわずかに眉を寄せる。
「揺れた、というのは? 誰かが走り去ったような?」
「い、いえ……。
風で揺れるみたいに、影だけが……」
言葉を失った配達員は、両手を握りしめた。
アキトは一度だけ目を閉じ、穏やかに頷いた。
「ありがとう。君の証言は大事な手がかりになる」
その優しい声音に配達員の肩が少しだけ緩む。
玲はわずかに横目でアキトを見た。
(……こいつ、こういう時だけ本当に“聞き上手”だな)
──その頃。
井戸脇では、御子柴理央がすでに検死準備を整えていた。
ゴム手袋をはめ、濡れた石畳に膝をつけ、倒れた男の状態を丁寧に確認していく。
「玲、アキト。状況、まとめるわ」
理央の声は冷静で淡々としているが、目の奥は鋭い。
玲とアキトは近づき、井戸の脇に倒れた男の遺体へ視線を落とした。
その胸元──布地が濃く固まった血で重く沈み、雨だけでは落ちない深い傷の痕が覗いている。
理央は指先で濡れた衣服をそっと押し、傷口の周囲を確認した。
「刺されたのは一度だけ。傷は深いけど、乱暴に刺した痕跡はない。
“狙って刺した”って印象ね。プロではないけど、素人でもない」
アキトが鋭く問う。
「致命傷は?」
「心臓……ただし、刺した方向が妙。
角度が低すぎる。
普通はこう刺さない」
理央は成人男性の胸を指し示し、刺突角度を空中で再現した。
玲は井戸の縁に目を向ける。
「井戸の影から刺した……とかか?」
「可能性はあるけど……」
理央は首を横に振る。
「刺した後の血の流れが不自然。
ここより、もっと“高い場所”で刺された痕跡があるわ」
玲が眉を上げる。
「じゃあ、ここに倒されたのか?」
その瞬間、アキトが低く呟いた。
「……犯人は、ここで殺していない」
玲も理央も彼を見る。
アキトの視線は、井戸の向こう、雨に濡れた地面に残る“二度つけたような”足跡へ向けられていた。
「この足跡──一度濡れた靴を、別の場所で踏みなおした痕だ。
ここに来る前に“水場”がある。井戸じゃなく、別の。」
理央が短く息を呑んだ。
「……じゃあ犯行現場は、町家のどこか?」
アキトはゆっくりと頷き、楽しげな笑みすら浮かべた。
「おそらくね。
しかも──犯人は“わざと”痕跡を二重にしてる。
見つけてほしいものと、隠したいもの。二つの匂いが混ざってる」
玲は深く息を吐いた。
「……面倒な相手だな」
アキトはどこか愉快そうに、雨に濡れた石畳を指で弾いた。
「玲、第二幕の幕が上がったよ。
ここからが、本当の“推理編”だ」
雷鳴が遠くで鳴る。
井守町は、静かに“事件”の深層へと沈み込みはじめていた──。
【時間:午後四時過ぎ】
【場所:井守町・山本家裏手の庭】
湿った空気が、動くたび肌にまとわりつくようだった。
古い木戸を押し開けた途端、腐葉土と濡れた土の匂いがむわっと溢れる。
玲は周囲を警戒しながら、枯れた植え込みの間を進んでいく。
その後ろを、白い手袋をはめた理央が静かに続く。
アキトは二人より数歩後ろ、手をポケットに入れたまま気怠げに歩いていた。
「……隠し通路の出口が、この庭のどこかにあってもおかしくない」
玲が低くつぶやく。
「構造図を見る限り、母屋の床下から伸びていた空洞は、この裏手と方角が一致しています」
理央は手元の資料を確認しながら答えた。
濡れた石畳を踏むたび、水滴がはねる。
そのとき──
アキトがふいに立ち止まり、首をかしげた。
「ねぇ理央。前から聞きたかったんだけどさ……」
「なんでしょう?」
「君さ……男なのに、なんでそんな女みたいな口調で話すの?」
玲が「おい、お前何を突然──」と言いかけたが、
理央はまったく動じず、むしろ淡々と答えた。
「……話し方は“分析の効率”です。相手が構えず、情報を引き出しやすいので。
それに──“声の調子”は記憶の読み取りに影響します」
アキトは目を瞬かせた。
「へぇ……記憶のスペシャリストってのは、そんな細けぇとこまで調整するんだ」
「あなたの声色も、実は情報収集の際に有利ですがね。
気づいていないだけで」
理央がさりげなく返す。
アキトは片眉を上げ、口元だけで不敵に笑った。
「……ほぉん。俺が“気づいてないだけ”ね。なるほどねぇ」
玲は呆れながら、ため息をひとつ。
「……二人とも、雑談はほどほどにしてくれ。
ほら――井戸はすぐそこだ」
三人が視線を上げると、鬱蒼とした植え込みの向こうに、
苔むした石の井戸がぽっかりと口を開けていた。
雨上がりの夕光の中、
その縁には血の跡。そして──倒れた男の影が、じっと沈黙していた。
物語は、静かに、だが確実に進み始めていた。
【時間】午後四時四十五分
【場所】井守町・古い町家の地下通路
理央は通路の壁に沿って懐中電灯を照らし、倒れた瓦礫を確認しながら呟いた。
「……この先、かなり入り組んでますね。誰かがわざと迷わせるために作った通路みたい」
玲は足元に注意しつつ答える。
「地下全体が迷路みたいだ。まさか町全体にこんな通路があったとは」
アキトは暗がりに立ち、軽く笑った。
「地下の設計は、私の得意分野だ。郵便配達員の証言も、ここへ誘導するための布石に過ぎなかった」
アキトは薄暗い通路の奥を指さし、淡々と告げる。
「今は重要なのは、先へ進むことだ」
三人は慎重に歩を進める。湿った石の匂いと、水滴の落ちる音が、地下通路の静寂に微かなリズムを与えていた。
【時間】午後六時三十分
【場所】井守町・裏手の石段脇
玲が石段を見上げる。
「誰かいる……。」
理央が懐中電灯で影を照らす。
「動かない……。息遣いも感じられません」
アキトはゆっくりと前に歩み出し、影を見据えた。
「逃げても無駄だ。俺を知っている者なら、すぐに分かる」
影の主は微かに動き、低く答える。
「……あなたが、ルートマスターか」
アキトは薄く笑い、影をじっと見つめる。
「そうだ。これから始まる“選択の舞台”を、君に見せよう」
三人の視線が、一点に集まる。雨に濡れた石段の上、黒い影は静かに、しかし確実に存在感を放っていた。
【時間】午後六時三十五分
【場所】井守町・裏手の石段付近
玲が声を潜める。
「……あれ、狙ってるのは朱音か?」
理央が身を低くして言う。
「黄色い傘……坂道の上に見える。狙われてる」
アキトは影の人物を睨みつけ、低く呟く。
「油断するな。奴は刺突を狙っている。距離も角度も完璧だ」
影の人物は滑るように動き、視線は黄色い傘に固定されたまま。
「……来るな、来るな……」玲は心中で祈るように呟いた。
三人は互いに目配せし、次の一手を待つ。雨で濡れた石畳が微かに光を反射している。
【時間】午後六時三十五分
【場所】井守町・裏手の石段
影が傘を握る人物に近づき、突き出された刃が雨粒を切り裂く瞬間、玲は素早く横から飛び込み、犯人の手首を押さえつけた。
「離せ! これ以上は……!」玲の声が雨音にかき消されそうになる。
犯人は一瞬ひるみ、刃が微かに傾く。
その隙をついて、アキトは朱音を抱き上げた。彼の腕に抱かれた朱音は驚きと恐怖で目を見開く。
アキトの心に瞬時に湧き上がるのは、冷静な判断よりも先に、この子を守らなければという本能だった。
「大丈夫だ……俺が守る」アキトは低く、力強く呟く。
雨の中、三人の影が複雑に入り混じる。玲は犯人の腕を押さえつけたまま、次の行動を考える。
アキトは抱えた朱音を守ることを最優先に、周囲の状況を瞬時に見渡した。
「逃がさない……!」玲の声が、濡れた石段に反響する。
【時間】午後六時四十五分
【場所】井守町・裏手の地下階段
アキトは抱えた朱音の体を軽く揺すり、低い声で囁く。
「怖がるな。すぐに安全な場所に連れて行く」
朱音は小さく頷き、アキトの腕の中で身を縮めた。
玲は石灯籠の縁に手をかけ、慎重に階段を下りる。
「濡れてる……足元に気をつけろ」
雨水が滴る階段を踏みしめるたび、薄暗い地下通路に小さな水音が響く。
アキトは朱音を抱いたまま、手探りで壁の感触を確かめる。
「この通路……昔から知ってた。だが油断は禁物だ」
玲が前方を確認しながら低く言った。
「ここを抜ければ、旧町家の裏庭に出るはずだ……」
三人は足音を忍ばせ、静かに長い地下通路を進む。
暗闇の中、滴る水音と自分たちの呼吸だけが、世界のすべてだった。
【時間】午後七時三十分
【場所】井守町・旧町家二階の一室
朱音は鉛筆を止め、そっと窓の外を見つめる。雨粒が淡く揺れる光を反射していた。
「……あの時と同じだ。光も影も、全部覚えている」
アキトは朱音の隣に座り、静かに声をかける。
「描きたいものを描け。誰にも邪魔はさせない」
朱音は小さく頷き、再びページに鉛筆を走らせる。
玲は窓際に立ち、外の雨を眺めながら低く言った。
「雨が止む前に、ここを通る通路を確認しておく……安全確認だ」
アキトは朱音の肩に手を置き、柔らかく言った。
「心配するな。お前は俺が守る。だから安心して描け」
雨音が室内に静かに響く中、朱音の鉛筆は止まることなく動き続けた。
その線は、これから始まる未来の輪郭を、確かに描き出していた。
【時間】午後四時
【場所】旧村役場・正面玄関
玲は足元の砂利を踏みしめながら建物の前に立つ。
「……何十年も放置されてきたとは思えないほど、雰囲気が生々しいな」
アキトは黒いコートの襟を立て、静かに建物を見上げる。
「こういう場所は、時間が止まったままの“記録”を抱えている。気を抜くな」
朱音は少し後ろに立ち、スケッチブックを抱えながら呟いた。
「暗くても……見える。壁のひび、床の歪み……全部、昔の出来事を覚えているみたい」
玲は板で打ち付けられた窓に手をかけ、慎重に光の隙間を覗き込む。
「内部を調べるには、入口をどうにかするしかないな」
アキトは朱音の肩に手を置き、低く言った。
「お前はここでは描いておけ。俺たちが先に確認する」
雨雲が空を覆い始め、風が古い建物の隙間から冷たい空気を運ぶ。
三人は静かに息を整え、次の行動を決めようとしていた。
【時間】午後四時十五分
【場所】旧村役場・内部・重い襖前
玲は襖の前に立ち、指先でゆっくりと表面を触る。
「……動かすと音が響きそうだな」
アキトは少し前に出て、低い声で告げる。
「音には気をつけろ。この建物、長年閉ざされていたせいで、振動や衝撃がすぐに響く」
朱音はスケッチブックを胸に抱え、静かに目を閉じて耳を澄ませる。
「……心臓の音が、ここまで聞こえるみたい……」
玲が息を整え、襖をゆっくり押す。わずかな軋みと共に、重い木の匂いが混じった冷気が流れ出す。
「……開いた。中に入るぞ」
アキトは朱音の肩に手を置き、すぐに前を見据える。
「ここから先は危険だ。俺が先導する」
三人は慎重に足を踏み入れ、薄暗い室内の奥へと進み始めた。
【時間】午後七時三十分
【場所】旧村役場・控室風の小部屋
朱音はスケッチブックの最後のページを見つめ、そっと鉛筆を握る。
「……まだ、描けるかな……」
アキトは彼女の背後に立ち、静かに声をかける。
「焦るな。朱音。お前の描く未来は、誰にも急かされるものじゃない」
玲も横に座り、薄暗い部屋の隅で観察する。
「そのページに何を描くかで、これからの流れが変わるかもしれない。落ち着いてやれ」
朱音は深呼吸し、窓から差し込む微かな夜風に顔をさらす。
鉛筆が紙に触れる音だけが、静寂の中で響いた。
【時間】午後八時十三分
【場所】旧村役場・広間
佐山瑠璃は白い紐に縛られ、床に倒れながら必死にもがいていた。汗と雨に濡れた髪が顔に貼りつき、声を上げて助けを求める。
「助けて……誰か……!」
アキトは迷わずその場に駆け寄り、紐を掴んで解こうとする。
「落ち着け、瑠璃!俺がいる!もう大丈夫だ!」
梁の上では影がじっと動かず、観察するかのようにアキトたちを見下ろしている。雨音と床の湿った匂いが、張り詰めた空気をさらに重くしていた。
玲が扉際から声をかける。
「アキト、急いで!影班が回り込む前に安全圏に!」
アキトは素早く判断し、瑠璃を抱き上げ、濡れた床に足を滑らせないよう注意しながら出口へと向かう。
「大丈夫、もう危険は……させない」
梁の上の影が微かに動き、低く唸るような声を残してその場を去る。広間には、しばし静寂が戻った。
【時間】午後八時二十五分
【場所】旧村役場・地下通路
玲は慎重に足を進めながら、端末の光で前方を照らす。湿った石壁に指先を触れ、歩幅を確かめる。
「足元、滑るな……」
アキトは後ろから朱音を抱きかかえ、低い声で指示する。
「朱音、しっかり俺に掴まれ。ここから離れるな」
朱音は小さく頷き、震える手をアキトの肩に添える。
「……うん」
理央は端末を操作しながら、通路の構造を確認する。
「この先、左右に分岐があります。どちらも崩落の危険がある……慎重に進むしかない」
壁のひびや湿気の匂いが、地下の深さをさらに実感させる。三人は息を殺し、闇に飲まれないように一歩ずつ進んでいった。
【時間】午後八時三十二分
【場所】旧村役場・地下通路
アキトは抱えた朱音を軽く揺らし、低い声で呟く。
「……おかしい。確かに俺が書いたはずの計画書だが、ページによって指示が微妙に変わっている」
玲が端末の光を通路の壁に当てながら、アキトの肩越しに覗き込む。
「改ざん……だな。誰かが“予定通りに進ませない”ために手を加えた」
理央は冷静に計算式のように紙面を追い、指先でページをめくる。
「差し替えられた箇所は時間指定と場所指定の一部だけ……これは確実に意図的だ。犯人、または別の観測者が存在する」
アキトは軽く唇を噛み、朱音の頭を優しく抱き寄せる。
「……だとしても、この子だけは絶対に守る。誰がどう動こうと」
朱音は安心したように小さく息を吐き、アキトの胸に顔をうずめた。
「……うん、アキト……」
三人は、湿った地下通路の闇を、さらに慎重に、音を立てずに進む。
【時間】午後七時十五分
【場所】玲探偵事務所・調査室
玲は朱音の絵を手に取り、ゆっくりと視線を巡らせる。
「……この床、鏡のようだ……そして、観客席には誰もいない」
理央は資料を広げ、写真と記事を重ねながら説明する。
「二十年前の蓮池町連続殺人事件……最後の現場と完全に一致するわ。床の光沢、舞台の構造、被害者の位置……まるで朱音の絵がその場を“再現”しているかのよう」
玲は眉を寄せ、唇を引き結ぶ。
「つまり……朱音は、過去の現場を目撃していたわけじゃないのに、無意識に描いている……この感覚、既視感……」
アキトが静かに後ろから声をかける。
「……まさに、未来と過去が交差する瞬間だな。俺たちが辿ろうとしている道は、単なる“事件現場の再現”じゃない。朱音の描く絵が、次の行動を導く“道標”になる」
朱音は小さく息を吐き、絵を抱きしめるように手元に置いた。
「……未来も、過去も、全部見えてるみたい……」
玲はその言葉に軽く頷き、資料と絵を並べて慎重に照合を始める。
【時間】午後十時四十五分
【場所】廃劇場・控室
アキトは紙面を前に指先を這わせながら、小さく呟く。
「──これが、すべての起点か……」
横で朱音が覗き込み、少し顔をしかめる。
「……こんなに細かく決まってるの? 全部、誰かの命がかかってるのに」
アキトは視線を上げ、淡々と答える。
「命だけじゃない。空間の一つ一つ、タイミング、光の角度──全部、観客に届く“効果”のために計算されている」
玲が控室の入口で腕を組み、声をかける。
「君がこれを作ったのか……いや、作らざるを得なかったのか。だけど、俺たちはその“道筋”を阻止するためにここにいる」
アキトは紙をゆっくり折りたたみ、朱音に差し出す。
「見ろ。これが、現実と虚構を繋ぐ地図だ。君が描く未来も、ここに繋がる」
朱音は震える手で紙を受け取り、ページをめくりながらつぶやく。
「……未来って、こうやって変えられるの……?」
アキトは短く頷き、控室の薄暗い空気の中で微かに笑った。
「変えられる……ただし、選ぶのは君たちだ」
【時間】午後十時五十二分
【場所】廃劇場・控室
朱音は写真とスケッチを見比べ、息を飲む。
「……これ、同じ場所……? 二十年前の、あの劇場……」
理央が背後から静かに説明する。
「君のスケッチは、過去の現場を“再現”している。偶然じゃない、意図的に一致しているんだ」
アキトは机に手を置き、低く呟く。
「計画の構造は、時間を超えて繋がっている。過去の記録も、君の描く線も──同じ軌道の上にある」
朱音は鉛筆を握りしめ、顔を上げる。
「……じゃあ、私が描いた未来も、誰かに使われるの……?」
玲が肩越しに見守り、慎重に言葉を選ぶ。
「違う。未来は君が決めるものだ。スケッチはただの“道標”。俺たちは、その道標を見て、正しい方向に導くだけ」
アキトは視線を朱音に向け、静かに告げる。
「君の手で描く線は、過去も未来も繋ぐ鍵になる。だが間違えれば、全ては計画通りに崩れてしまう」
朱音はゆっくり息を吐き、スケッチブックのページに目を落とした。
「……わかった。描くよ、私の未来を」
【時間】午前七時三十五分
【場所】旧町役場・地下資料庫
玲は埃を払いつつ、棚に並ぶ古いファイルを順に確認していく。
「……二十年前の事件資料が、ここに全て残っているな」
理央が近づき、指で埃を払いながら封筒を開く。
「写真、現場図面、目撃者の供述録……全部だ。だけど、重要なのは一部の書類だけ」
アキトは背筋を伸ばし、声を落として告げる。
「俺が関わった過去の現場も、少しだけ記録が残っている。使えるものは全て使うつもりだ」
朱音が棚の端で小さくつぶやく。
「……ここにあったの、全部、私のスケッチと同じ場所……」
玲は朱音に視線を向け、静かに頷く。
「偶然じゃない。君の描いた線は、過去と未来を結ぶ“鍵”なんだ」
アキトは薄く笑みを浮かべ、封筒の中身を机に並べる。
「さあ、この情報を使って、次の手を考えよう。時間は刻一刻と迫っている」
【時間】午前七時四十五分
【場所】旧町役場・地下資料庫
アキトはファイルの山から目を上げ、低く呟く。
「……だが、計画の全貌を把握しているのは俺だけじゃない。誰か――別の立案者が裏にいる可能性がある」
理央が眉をひそめ、慎重に応じる。
「裏に……他の“監督者”が? だとすると、全ての流れが操作されていた可能性もあるわね」
玲は資料に目を落としたまま、指で一枚の古い現場写真を押さえる。
「この配置、この時間差……計画書だけじゃ説明できない部分がある。誰か別の意図が介入している」
朱音は小さく息を呑む。
「……でも、どうして私のスケッチと繋がるの……?」
アキトは穏やかに、しかし確信を込めて答えた。
「君の描く未来の線が、計画者の手を映してしまう。だから、注意深く進める必要がある」
【時間】午前八時十五分
【場所】玲探偵事務所・作業室
朱音は息を詰めるように鉛筆を握り、ページに線を刻む。
「……ここ、見えてる……」
理央が隣から静かに覗き込み、声を潜める。
「その裂け目……ただの空間じゃない。別の視点、別の時間軸が見えてるわ」
アキトは腕を組み、慎重にページを観察した。
「……ああ、これは俺の計画書だけじゃ説明できない。誰かが“間”を操作している」
玲は机の上の古い写真と朱音のスケッチを重ね、指先で線をなぞる。
「この部屋、この配置……過去の事件現場と一致する。だが、空間の歪みが加わってる」
朱音の手は止まらない。
「……見えちゃうの、誰かがここにいて、見てる……」
アキトは低く、しかし冷静に言った。
「焦るな。これは現象じゃない。計画の一部だ。そして、君の描く線が未来の可能性を示している」
【時間】午前八時四十五分
【場所】玲探偵事務所・作業室
アキトは画面を指先でなぞり、赤と青の線をなぞるように視線を移した。
「……このルート、完全に計画書と一致してる。だが、最終地点が違う」
理央が眉をひそめ、画面に近づく。
「最終地点……朱音のスケッチの場所と同じね」
朱音は小さく息を呑む。
「……ここ、私が描いたのと同じ……?」
玲は静かに頷く。
「偶然じゃない。誰かが計画を修正している。そしてその修正は、朱音の視線と完全に連動している」
アキトは拳を軽く握り、低く呟いた。
「なるほど……“描かれる未来”が、現実を動かしてるってことか」
朱音の鉛筆が、無意識に次の線を刻む。
「……教えて……どっちの未来が、正しいの?」
玲は優しく答えた。
「まだ決まってない。だから、君の線が必要なんだ」
【時間】午後二時三十分
【場所】旧・薊座・客席入口
アキトは静かに息を整え、薄暗い客席の奥へ足を踏み入れた。
視線はステージへと向けられる。かつての華やかな舞台は、今や埃と蜘蛛の巣に覆われ、暗い影が床の隅々まで伸びていた。
手に持つ封筒をぎゅっと握り、低く呟く。
「……ここで、すべてが決まる」
床板の軋む音を聞き逃さぬよう、彼は慎重に足を運ぶ。
「誰もいない。だけど、観察者としての“責任”は消えない」
ステージに近づくと、かすかに紙片が散乱する光景が目に入った。
「ああ……やはり、誰かが先に手を付けている」
アキトは封筒を胸元に抱え、薄暗い空間をじっと見渡す。
「でも、俺が選んだこのルート。これだけは、誰にも譲れない」
彼の背後で、遠くから雨音がかすかに響いた。
「よし……始めるか」
【時間】午後二時四十五分
【場所】旧・薊座・地下控室前
アキトは息を潜め、カメラの小さなモニターを覗き込む。
「……誰だ、俺の計画書に手を加えたのは」
赤線が描かれたルートを目で追いながら、指先で封筒を握り直す。
「これが……勝手に書き込まれた“修正”か。意図的だな」
紙面の人影はペンを止め、立ち上がる。アキトは心の中で瞬時に判断する。
「……動くな。俺が確認するまでは、誰も触れさせられない」
ドアの隙間越しに、静かな息遣いだけが伝わる。
アキトは小さく頷き、モニター越しに計画書の赤線を凝視する。
「この変更……計画の成功率を下げるものじゃない。逆に、このルートで全てが壊れる」
胸の奥で、ルートマスターとしての直感が警鐘を鳴らす。
「……俺が介入しなければ、第三の幕が失敗する」
アキトは慎重に息を整え、カメラを持ったまま地下控室のドアを少し押し開ける。
「確認する……そして、修正する」
【時間】午後三時十七分
【場所】旧・薊座・地下回廊
玲はゆっくりと歩を進めながら、低く呟く。
「……こんな場所に、誰が隠れるっていうんだ」
湿った壁に手を沿わせ、指先で凸凹を確かめる。
「足音を立てないように……慎重に」
壁の奥から、微かに金属が擦れる音が聞こえ、玲は立ち止まる。
「……誰かいる」
光を最小限に保ちながら、懐中電灯の先で影を追う。
「アキト、前方に気配はあるか?」
アキトの低い声が闇から返る。
「確認済み。静かに近づく。無駄な刺激は与えない」
玲は小さく頷き、壁沿いに体を低くして前進を続ける。
「……第三の幕、もう始まっている……」
【時間】午後六時四十二分
【場所】旧・薊座・舞台ホール
アキトは静かに息を整え、袖の陰から観客席を見渡す。
「……すべて予定通りか」
玲は低く囁く。
「影を見逃すな。動きは慎重に」
理央は手元の端末を覗き込み、微かなノイズに耳を澄ます。
「音響は安定、照明も準備完了……」
アキトは朱音の方へ視線を向け、小さく声を落とす。
「君はここでじっとしていろ。絶対に危険に晒すな」
朱音はスケッチブックを抱きしめ、静かに頷いた。
「……わかった」
舞台中央の幕がゆっくりと上がり、薄明かりが床を照らす。
「始めるぞ」アキトの声は、闇の中で冷静に響いた。
【時間】午前6時半
【場所】玲探偵事務所・朱音の部屋
アキトは静かにドアを開け、足音を立てずに部屋に入った。
「……おはよう、朱音」
朱音は微かに目を開け、ぼんやりと上を見上げる。
「……あ、アキト……?」
アキトは机の脇に腰を下ろし、無言でスケッチブックに目をやる。
「最後の一枚、まだ描き終えてないな」
朱音は小さく肩をすくめ、鉛筆を握る手を動かしかける。
「……まだ、どう描けばいいか分からなくて」
アキトは柔らかく微笑み、静かに言った。
「焦る必要はない。君の描く未来は、誰も急かせない」
その言葉に朱音は少し安心したように息を吐き、ページを開き直す。
アキトはそっと背後で見守る。
「ゆっくり、君の手で、未来を描け」
【時間】午後7時15分
【場所】旧・薊座・舞台上
舞台の中央に、ふらりとアキトが姿を現した。
「……さて、そろそろ“本番”の時間だな」
玲は一瞬、目を細めて相手を見据える。
「また来たのか、アキト……お前の計画は終わったはずだろう?」
アキトは肩をすくめ、無造作に片手をポケットに入れる。
「計画は確かに形を終えた。しかし、舞台はまだ、誰かの手を待っている」
舞台の床に落ちた影が、二人の輪郭を揺らす。
「誰の手だ……」玲の声は低く、静かに、しかし確固たる響きを持っていた。
アキトは軽く笑い、周囲の闇を指差す。
「……未来を描く手だ。お前がその手を握る番だよ、玲」
観客席の捜査員たちは、息を飲み、次の展開を待つ。
舞台の亀裂に光が差し、二人の存在が鮮明に浮かび上がった。
【時間】午後8時05分
【場所】旧・薊座・舞台裏通路
玲は鉄扉を押し開け、湿った空気に顔をしかめた。
「……ここか。予想以上に閉ざされた場所だな」
アキトがその後ろから静かに歩み寄る。
「舞台袖に通じる通路だ。ここを使えば、人目を避けながら現場に近づける」
壁沿いに影が伸びる。玲の視線が、床に散らばった古い配線やほこりに止まる。
「この配線……まだ通電しているかもしれない。無駄に触るな」
その瞬間、理央が懐中電灯を手に現れる。
「湿気と埃の混ざった空気、そして古い建材の匂い……ここは危険です。慎重に進みましょう」
玲は頷き、足元だけを照らす光に集中する。
アキトは少し前に出て、両手をポケットに入れたまま通路を見渡す。
「誰もいないと思うが、もし何かあっても、俺たちはすぐ対応できる」
理央が軽く息を吐き、壁に耳を寄せて周囲を確認する。
「音も気配も……微かなものしかありません。進むなら今のうちです」
三人は互いに視線を交わし、慎重に階段を降り始めた。
湿ったコンクリートが靴底にわずかに吸い付き、微かな軋みを立てる。
アキトの声が、低く響いた。
「……くれぐれも、計画の通りだ。逸れるな」
理央の声が、イヤーピース越しに届く。
『玲、位置は特定できた。でも……気をつけろ。黒幕はここに来ていない。代わりに“代役”を立ててる』
【時間】午後8時12分
【場所】旧・薊座・舞台裏通路
玲はイヤーピース越しに理央の声を聞き、眉をひそめた。
「……代役、か。動きは読めるな」
アキトがすぐ隣で小さく頷く。
「黒幕が来ていないなら、手は読めるはずだ。だが、油断は禁物」
通路の奥、かすかな影が揺れる。湿ったコンクリートの床に、足音はまだ届かない。
玲は懐中電灯の光をゆっくり前方へ向ける。
「奴らの気配は薄い。だけど確実に、俺たちが踏み込むタイミングを見計らってる」
アキトの目がわずかに光る。
「朱音を守るなら、今がその瞬間だな」
玲は息を整え、影をたどるように歩を進めた。
イヤーピースから理央の低い声が続く。
『慎重に……階段下の角を曲がった先に、代役が待っている。視線を切るな』
二人は視線を交わし、床の湿気を意識しながら、静かに階段を降りた。
【時間】午前6時45分
【場所】玲探偵事務所・朱音の作業机
朱音は小さく息をつき、鉛筆を置いたままスケッチブックの最後のページをじっと見つめる。
「……ここで止まったままなのね、未来」
静かな足音が背後から近づく。振り返ると、アキトが扉の陰からふらりと現れていた。
「おはよう、朱音。……そのページ、見せてもらっていいか?」
朱音は一瞬ためらい、ゆっくりとスケッチブックを差し出す。
アキトは軽く頷き、慎重にページを手に取った。
「なるほど……やっぱり、君の“未来”はまだ動き出していないな」
朱音は小さく肩をすくめ、窓の外の朝靄を見つめる。
「……まだ、私に描けることがあるってこと?」
アキトは紙面に目を落としたまま、静かに答える。
「そうだ、朱音。君の手で描く未来は、誰にも止められない」
【時間】午後10時15分
【場所】廃劇場・裏通路
闇の中、玲は足音に耳を澄ませた。湿ったコンクリートの床が、わずかに軋む。
「……誰だ?」
答えはすぐに現れた。
扉の向こうから、静かに影が滑り出す。
アキトが、ふらりと現れたのだ。
「……遅かったか、玲」
アキトの声は落ち着いている。だが、その瞳の奥には計算された緊張が宿っていた。
玲は咄嗟に距離を取る。
「お前が来るとは思わなかった……まさか、ここまで追ってくるとは」
アキトは肩をすくめ、軽く笑う。
「追ってるんじゃない。――見届けるためだ」
鉄扉の陰で、二人の影が長く伸びる。
雨に濡れた夜の湿気が、空気を重くする。
壁際に縛りつけられた人物──“代役”は、背中で冷たい木壁の感触を受け止めながら、こちらを睨みつけている。
玲は近づかず、無言のままポケットから小さな紙片を取り出した。それは朱音のスケッチを縮小したコピーだった。
紙の上には、裂けた空間の奥に覗くもうひとつの部屋、反射する床、半透明の人影が描かれている。
【時間】午後11時18分
【場所】廃劇場・舞台袖
玲は紙片を代役の視界に差し出す。
「これを……見たことがあるか?」
代役は目を細め、かすかに息をつく。だが答えはない。
横で理央がイヤーピース越しに囁く。
『玲、気をつけて。映像の異変がまだ残っている。代役だけじゃない、監視者もいる』
玲は頷き、紙を手にさらに近づく。
「君に選ばせるんじゃない。見せるんだ。何を守るべきか、何を恐れるべきかを」
舞台袖の影に、アキトの姿もある。
「……朱音の描いた通りだな。俺たちの動きも、これで全部繋がる」
彼は低く、冷静だが、瞳の奥には守るべき存在への強い意志が光る。
冷たい木壁の感触を背に受けながら、代役の瞳が紙片の絵を追う。
空間の裂け目、床に映る半透明の人影……それは、過去と未来が交錯する証だった。
【時間】午後3時42分
【場所】幻劇座・地下通路
アキトは低く息を吐き、規制線の向こうの地下通路へ足を踏み入れた。
「……二日経っても、まだ動きはあるな」
玲は傍らで手元の資料を確認する。
「映像の残留記録が完全には消えていない。幻劇座の構造が、異変を物理的に保存している可能性がある」
理央が暗がりで懐中電灯を微かに揺らす。
『足元注意。湿気で床が滑りやすい。あと、監視の目もまだ生きている』
アキトは朱音のスケッチブックを胸に抱き、視線を通路の奥へ送る。
「……ここを通るのは、俺たちだけじゃない。動くものはすべて記録される」
三人は静かに通路を進む。湿った空気と古い電球の匂いが、過去の事件の痕跡を呼び覚ます。
理央は耳に装着したイヤーピースから情報を受け取りつつ、床や壁の異常に目を光らせる。
「玲、アキト、次の部屋は特に注意。記録保持の痕跡が残る可能性が高い」
アキトは頷き、朱音の描いた未来図と照合しながら、慎重に一歩を踏み出した。
「……この通路の先で、すべてが交わる」
【時間】午後3時57分
【場所】幻劇座・地下通路
アキトは低い声で呟く。
「……幕は、まだ下ろさない」
玲は彼の言葉を聞き、薄暗い通路の奥を見据える。
「そうだな。ここで止めてしまえば、真実は消えたままになる」
理央が懐中電灯を微かに揺らし、通路の壁面を照らす。
『地下の記録は、まだ完全に封じられてはいない。動きが残っている』
アキトは朱音のスケッチブックを胸元に抱え、指先でページをなぞる。
「ここから先、未来を描き直すのは俺たちの手だ」
三人は互いに目を合わせ、足音を抑えながらさらに奥へと進む。
湿った空気に混ざる古いフィルムの匂いが、過去と未来の境界を静かに引き裂く。
【時間】午後4時12分
【場所】幻劇座裏手・地下横穴入口
アキトは足元の苔を踏まぬよう慎重に進む。
「……ここの空気、変だ。封じられた場所にしては生きている」
理央が横で懐中電灯を軽く揺らし、横穴の奥を照らす。
『通路は古い設計のままだけど、微かな空気の流れがあるわ。誰かが最近通った形跡も……』
玲は耳を澄ませ、代役の足音を追う。
「音はこの方向だ。どうやら奴は地下通路を完全に掌握しているわけじゃない」
アキトは朱音のスケッチブックを胸元に抱き、低くつぶやく。
「俺がこの子を守る。今度は絶対に誰にも奪わせない」
湿った石壁の隙間から、過去の記憶と計画書の影がわずかに漂う。
三人は息をひそめ、苔むした横穴の奥へと歩を進めた。
【時間】午前7時45分
【場所】玲探偵事務所・朱音の部屋
朱音は鉛筆を握り直し、ページの人物に視線を合わせるように描き足す。
「……ここ、誰が立っているのかな……」
その瞬間、扉が静かに開き、アキトがふらっと現れた。
「おはよう、朱音。もう起きてたか」
朱音は少し驚き、顔を上げる。
「アキト……どうしてここに?」
アキトは軽く肩をすくめ、封筒を手に持つ。
「届け物だ。君に関係するものだ。……見せた方がいいと思ってね」
朱音は封筒を受け取り、ページの絵と見比べる。
「……この人、昨日描いたのと同じ……?」
アキトは静かに頷き、窓の外の光を眺めながらつぶやく。
「そう。君の描いた未来は、誰かの手で変わることもある。でも、君自身で描くこともできる」
朱音は少し笑みを浮かべ、鉛筆を握り直す。
「……描きたい、私の未来を」
【時間】午前2時30分
【場所】幻劇座・裏手井戸底
代役は息を整えながら苔の下の木格子を外す。
「……ここか……」
床に差し込む懐中電灯の光に、横穴の奥がぼんやりと浮かぶ。
玲の声がイヤーピース越しに届く。
「慎重に。床が脆い。足元注意」
代役は小さく頷き、湿った石壁に手をつきながら進む。
「分かった……しかし、この空気、何かがおかしい」
理央も端末を通じて声をかける。
「映像解析官、カメラを起動。異常は早めに報告する」
代役は身をかがめ、足音を抑えて横穴を進む。
「……了解。──ん?」
小さな金属音が奥から響き、横穴の奥でかすかに影が揺れる。
玲は低く囁く。
「黒幕ではない……だが、警戒を怠るな」
代役は息を潜め、次の角を曲がる。
「……くっ、まるで迷路だ。誰が仕掛けたんだ……」
理央が端末越しに警告する。
「足元の反応が不自然。潜入者以外の気配あり」
代役は目を細め、薄暗い横穴の先を見据えた。
「……わかった。進むしかない」
湿気と石の匂いが混じる闇の中、代役は静かに歩みを進めた。
【時間】午前6時15分
【場所】玲探偵事務所・朱音の部屋
朱音はゆっくりとまぶたを開け、薄明かりに包まれた部屋を見渡した。机の上には昨夜のまま閉じられたスケッチブックが置かれている。手を伸ばすと、自然に最後のページが開かれた。
ページの上には、舞台袖の暗がりからこちらを覗き込む半透明の人物が描かれていた。その輪郭は、玲の鋭い顔立ちにも、アキトの無骨な輪郭にも見えたが、中心の顔だけは黒く塗り潰され、表情を読み取ることはできない。
朱音はその絵を見つめながら、息を詰める。まるで自分の目の前にいる人物の気配が、紙の上でそのまま動いているかのような錯覚に囚われる。
外の風が窓の隙間から入り込み、カーテンを揺らす。その微かな動きが、絵の人物の影と重なり、朱音の胸にざわつきを生じさせた。
「……あれ……誰……?」
小さな声が零れたが、部屋には自分の声しか返ってこない。その沈黙を破るように、ふらっとアキトが部屋の入口に姿を現した。
「おはよう、朱音。随分早いな……って、見つめてるな、そのページ」
朱音はハッと顔を上げる。アキトは軽く肩をすくめ、椅子に腰を下ろすでもなく、部屋の端に立ったまま、静かに彼女の手元を見つめている。
その視線のせいか、スケッチブックの中の人物が、ほんの一瞬だけ動いたように見えた。
朱音は思わず鉛筆を握り直し、次の線を描こうと息を整える。
アキトは無言で微かに頷き、部屋の空気に溶け込むようにその場に立ち続けた。
静かな朝の光の中、朱音とアキトの間には、言葉にならない緊張が流れた。
【時間】夕方17時30分
【場所】旧・幻劇座・客席
朱音の足音が、静まり返った客席にぽつんと響く。薄橙色の夕陽が高窓から斜めに差し込み、埃の粒を柔らかく舞わせていた。かつての観客のざわめきも拍手も、今は跡形もなく消え、ただ静寂だけが空間を支配している。
朱音はゆっくりと通路を歩きながら、机に置かれたスケッチブックを取り出す。最後のページの中央には、舞台袖からこちらを覗く半透明の人影が描かれていた。輪郭は玲にもアキトにも似ているが、顔の中央だけが黒く塗り潰され、表情は読み取れない。
その瞬間、舞台上から微かな足音が聞こえた。誰かが階段を上るような軽い振動。朱音は身を固くし、スケッチブックを抱き締めた。
「……誰か、いる……」
その声がかすかに震える。すぐに背後から、慣れた低い声が返ってきた。
「気を付けろ、朱音。俺がいる」
アキトの声だった。彼は舞台上の暗がりからふらっと現れ、静かに朱音の隣に立った。その姿は影の中に溶け込むようで、どこか舞台の装置の一部のようにも見える。
アキトは朱音を守るという無言の意思を纏い、身を少し前に寄せた。朱音はその背に安心を覚えつつ、スケッチブックに視線を戻す。
「ここで……何かが起こる」
心の奥でそう直感しながらも、朱音は鉛筆を握り直し、静かにページの上で線を重ねる。
客席の静寂、夕陽の光、そしてアキトの影――三つが織りなす空間の中で、物語の次の一幕はゆっくりと動き始めようとしていた。
【時間】夕方17時45分
【場所】旧・幻劇座・舞台袖
朱音がスケッチブックに最後の線を引き終えると、アキトは静かに視線を外し、舞台上の暗闇を見据えた。光と影の中で、何かが確かに動いている――舞台の中央で、半透明の人影が微かに揺れるのを朱音は感じた。
「……まだ、終わっていない」アキトの声は低く、重みを帯びていた。
朱音は息を呑む。スケッチブックの絵と、目の前の現実が奇妙に重なり合い、予感だけが空気を支配する。影は人の形をしているのに、どこか別の世界からやってきたかのように揺らいでいた。
玲が舞台袖から小さく咳をし、二人の背後で静かに光を調整する。理央の声がイヤーピース越しに届いた。
『朱音、気を抜くな。あの影は計画書通りじゃない……誰かが“書き換えている”』
アキトは朱音を軽く抱き寄せ、無言のまま頷いた。彼の心は一つだけ――この子を守ること。だが、計画書に描かれた“未来”は、すでに自分の手を離れつつある。
舞台の中央で、半透明の影がゆっくりと形を変え始めた。朱音が描いた黒い裂け目が、現実の空間にも微かに浮かび上がる。光と影が交差し、次の展開を暗示するように揺れた。
「……これは、まだ幕の途中だ」アキトの言葉は、静寂の中で小さく響く。
朱音は鉛筆を握り直す。まだ描き足せる場所がある――未来は、完全には決まっていない。
そして舞台の暗がりの中で、誰かが静かに動いた。その影は、朱音にもアキトにも玲にも見えない。だが確かに存在している――次の事件、次の選択、次の未来を見届けるために。
夕陽が客席の埃を金色に染める中、三人は静かにその瞬間を見つめる。物語は終わったのか、まだ始まったばかりなのか――答えは、まだ誰にもわからない。
──次なる幕は、もうすぐ。
【後日談】
【時間】午前7時半
【場所】玲探偵事務所・朱音の部屋
朱音はスケッチブックの最後のページに視線を落とした。まだ白紙だが、手の中の鉛筆は確かな感触を伝えてくる。
窓の外では朝の光が柔らかく差し込み、小鳥のさえずりが静かに部屋に流れ込む。湿った空気がカーテン越しに舞い込み、紙の匂いと混ざり合う。
ふらりとアキトが現れる。コートの裾を軽く払うと、朱音に向けて微かな笑みを浮かべる。
「今日も描くつもりか?」
朱音は静かに頷き、鉛筆を持ち直す。
アキトは一歩下がり、影のようにそっと部屋の隅に立つ。言葉は少ないが、その存在感は守護のように確かだ。
静かな朝の光の中で、朱音の手は迷わず線を紡ぎ始めた。
【時間】午前10時
【場所】玲探偵事務所
探偵事務所は静寂に包まれていた。パソコンの淡い光が机上を照らし、資料棚の影が壁に落ちて揺れる。玲は椅子に腰かけ、窓の外の街路樹をぼんやりと眺めながら、事件の記録ファイルに目を通していた。
扉が静かに開き、アキトがふらりと現れる。黒いコートの裾を軽く払うと、玲に向けて短く頭を下げる。
「何か新しい依頼か?」
玲は目を細めて振り返るが、アキトはただ微笑むだけで、何も告げない。
その静かなやり取りの中に、互いの信頼と暗黙の連携が存在していた。
玲は再びファイルに視線を戻し、事件の影を静かに整理し始める。外の光が差し込む室内には、過去の事件の余韻と、新たな未来への予感が混じっていた。
【時間】深夜
【場所】渋谷・編集スタジオ
編集室のモニターには、古いフィルムテープの映像が静かに流れていた。川名詩織は椅子に腰を下ろし、ヘッドホン越しに音声を丁寧に確認する。画面には、過去の事件や現場の細部が映し出されていたが、彼女の目は冷静かつ鋭く、それを一つひとつ分析していく。
背後から静かな足音が近づく。アキトがふらりと現れ、肩越しにモニターを覗き込む。
「まだ、この映像に手を入れる余地はあるか?」
詩織は一瞬視線を向け、軽く首を横に振る。
「ええ、でも細部の調整が必要です。音声のタイミング、カットの繋ぎ……一秒のズレも見逃せません」
アキトは画面に目を落とし、短く頷く。
「了解だ。君の手で、過去を整理するんだな」
室内は再び静けさに包まれ、モニターの光だけが二人の輪郭を淡く照らしていた。
【時間】夜
【場所】浅草・小劇場
公演を終え、館内は観客の拍手の余韻でわずかに暖かさを保っていた。瀬尾ハルキはロビーの片隅に立ち、舞台衣装のまま肩の力を抜き、深呼吸をする。
舞台袖ではスタッフが小道具を片付け、音響や照明の機材を丁寧に戻していく。ハルキは目を閉じ、一瞬だけ舞台の熱気を思い返す。
ふと、背後に気配を感じる。アキトがふらりと現れ、舞台裏での様子を一瞥した。
「……無事に終わったな」
ハルキは軽く笑みを浮かべ、舞台に向かって小さく頷く。
「ええ。次の舞台も、この劇場で——いや、この街で、また挑戦するさ」
アキトは黙って頷き、静かにその場を離れる。ロビーには再び、静けさと夜の空気が戻った。
【時間】午後
【場所】名倉家・地下書庫
地下書庫は冷たく、湿った空気が棚の隙間を漂っていた。管理者は一枚一枚、古文書の埃を払いながら慎重に整理を続ける。ページの端の色褪せや手書きの注釈を確認し、必要な資料を机の上に広げていく。
足音もほとんど響かない階段を、アキトが静かに降りてきた。手に持った小型ライトで古文書の文字をなぞり、ページをめくるたびに薄く埃が舞う。
「ここに保管されていた資料も、結局は全体のパズルの一部か……」
アキトは小さく呟き、管理者と視線を合わせる。
管理者は軽く頷き、静かな作業を続けた。地下書庫に漂う沈黙は、二人だけの空間を守るように深く、長く続いていた。
【時間】午後
【場所】小劇場・舞台
客席は静まり返り、誰の足音も響かない。舞台上には、先日の出来事の残像のように、薄暗い光がわずかに揺れているだけだ。舞台装置はそのまま残り、カーテンの隙間から差し込む光が埃を浮かび上がらせる。
アキトが舞台袖にふらりと現れ、朱音のスケッチブックを手に取る。ページをめくり、半透明の人影や鏡面の床を描いた最後の絵をしばらく眺める。
「ここに描かれた未来も、まだ終わってはいないな……」
小さく呟き、アキトはそっとスケッチブックを閉じ、舞台袖に置いたまま、静かにその場を去る。
舞台の残像は、しばらくの間、空っぽの客席に光の輪を揺らし続けていた。
あとがき — アキト視点
この物語を書き終えて、改めて思うことがある。
計画を立て、ルートを組み、未来を設計する──それは一種の“制御欲”に近い行為だ。だが、結局のところ、どれだけ先回りしても、人の意志や偶然の軌跡には抗えない。
朱音の描いた一枚のスケッチ。それは、僕が何時間も緻密に設計した計画書よりも、ずっと正確に“真実”を映していた。誰かの意図を越え、未来を写すその筆跡は、僕の胸に深く刺さった。
玲や理央、詩織、ハルキ──そしてあの夜、舞台に現れた代役たち。彼ら一人ひとりの判断と勇気が、この物語を形作った。僕はただ、その影を追い、必要な瞬間に動いただけだ。守るべき存在を抱き、選択を導いただけだ。
この物語の結末は、決して完璧ではない。だが、それでいい。完全な未来など存在しない。重要なのは、今ここで選ぶ一瞬の意思と、他者とのつながりだ。
もし読者のあなたが、この物語の中で息を止め、心を揺さぶられたなら──それこそが、僕が伝えたかったことなのかもしれない。
「影の号令」は終わった。だが、未来はまだ描き続けられる。
そして、誰かが鉛筆を走らせる限り、この物語はまた新たに始まるのだ。
──アキト




