表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
78/121

78話 「幻劇座殺人事件」

主要人物

れい – 探偵

都内郊外にある「玲探偵事務所」の所長。冷静な推理力と行動力で数々の事件を解決してきた。過去の事件の真相を追う中で、今回の「幻劇座」の連続殺人に関わっていく。

朱音あかね – 佐々木家の娘/無意識に未来を描くスケッチ画家

無垢な感性と鋭い直感を持ち、描いたスケッチが事件の手掛かりになる。本人は予知能力を自覚していない。

•アキト – ルートマスター(計画設計者)

元「演出型完全犯罪」の設計者。過去の計画を利用されていることに気づき、黒幕を炙り出すため自ら罠を仕掛ける。

理央りお – K部門・記録分析官

過去の事件記録や映像を解析し、隠された構造や改ざんの痕跡を暴く。玲の右腕的存在。

沙耶さや – 感情分析・人間観察のスペシャリスト/佐々木朱音の母

表情や仕草から心理を読み取る力を持ち、玲たちの捜査をサポートする。朱音の安全を守ることを最優先に動く。

九条凛くじょう りん – 心理干渉分析官

精神的な揺さぶりや記憶の歪みを専門に解析する。過去の「蓮池町事件」にも関与しており、黒幕の手口を知る数少ない人物。

水無瀬透みなせ とおる – 記憶探査官(拘置施設収監中)

封じられた記憶や無意識下の情報にアクセスする技術を持つ。拘置中ながらも重要な助言を送る。



事件関係者

•ドミノ – 連続殺人の一部を担った実行犯

幻劇座事件の中心人物と思われたが、真の黒幕ではなく、計画の駒にすぎなかった。

•秋津 – ドミノの協力者

アキトのかつての計画に関与していたが、今回の事件で命を落とす。

•代役(名前非公開) – 黒幕の指示を受け、舞台当日に現れた影の役者

アキトの罠を逆利用して逃走し、裏井戸経由の地下路で黒幕に接近する。

•黒幕(正体不明) – 二十年前の「蓮池町事件」と今回の幻劇座事件を繋ぐ存在

過去の計画を再演し、次の幕を宣言して姿を消す。



協力者・その他

•成瀬由宇 – 影班・暗殺実行/対象把握担当

•桐野詩乃 – 影班・毒物処理/痕跡消去担当

•安斎柾貴 – 影班・精神制圧/記録汚染担当

※朱音を護衛する過程で「対象」から「家族」的存在として守るようになる。

•小此木 – 古民俗研究者

「町家は奇数で完結する」という言葉で第七の間の存在を示唆。

ー冒頭ー


【時間】初夏の夕暮れ、午後6時15分

【場所】郊外の古びた町家・和室の一間



雨雲が空を覆い始め、遠くで雷の低い響きがゆっくりと近づいてくる。

湿った風が、わずかに開いた障子の隙間から流れ込み、畳の上に置かれた蝋燭の火を揺らした。


木造の町家は、長い年月を経た木の匂いと、湿気を含んだ土壁の匂いで満ちていた。

その和室の一間──障子越しの光は薄く、影は濃い。


アキトは、その中央に静かに座していた。

指先には一枚の、黒い封筒。封は糸で結ばれ、表には何も書かれていない。


彼の視線の先、座布団の向こう側には、無言のまま相手がいる。

表情は薄暗がりに隠れ、輪郭だけが浮かび上がる。


アキトは、息をひとつだけ深く吐いた。

そして、掌からその封筒を滑らせるように差し出す。


「……これが、君が求めていた“完全犯罪計画書”だ」


障子の向こうで、雷鳴が低く轟く。

相手は黙ったまま封筒を受け取る。その指先は、微かに震えていたが──それが興奮なのか、恐怖なのかは、アキトにはわからなかった。


やがて相手は封を切り、中身をゆっくりと引き出す。

数枚の紙。それは町家の見取り図、被害者の行動予測、そして実行時間までが秒単位で記された詳細な手順書だった。


「……これを、指示通りにやればいいんだな」

低く、抑えた声が問う。


アキトは短く頷く。

「一度きりだ。逸れるな。……そうすれば、誰にも辿られない」


蝋燭の炎が再び揺れ、二人の影が壁に伸びる。

外では、ついに雨が降り出した。


──この夜、計画の第一幕が動き出すことを、誰もまだ知らなかった。


【プロローグ】


【時間】翌日・午後7時30分

【場所】旧・井守町商店街 裏通りの町家「山本履物店」跡



 朽ちた商店街に、警察車両の赤灯が反射していた。

 通りは封鎖され、規制線の向こうに野次馬のさざめきがこだまする。


 通りの中央にかつて並んでいた商店は、どれもシャッターが錆びつき、看板は文字の判別も困難だった。

 その裏通りに、町家造りの古い履物店──「山本履物店」の跡地がある。

 硝子戸は割れ、入口は半ば崩れかけた格子戸で塞がれていた。


 だが、現場の惨状は、その古びた外観よりもずっと鮮烈だった。


 畳の間の中央に、若い男がうつ伏せに倒れている。

 背中には、深々と刺さった一本の錆びた靴べら──履物店に残されていた唯一の什器。

 その刃先は、血で黒く変色し、畳の目に沿ってじわじわと赤が広がっている。


 室内には荒らされた形跡はない。

 被害者の財布もスマートフォンもそのまま。

 だが、唯一奇妙なのは、被害者の足が濡れていたことだった。


 現場検証にあたる刑事の一人が、低く呟く。

「……床板の下に井戸? なんでこんな場所に……」


 履物店の奥、古い木の床板が外され、その下にぽっかりと黒い水面が見えていた。

 井戸の縁には、泥と水滴が散らばっている。

 そこから現場中央まで──足跡が一直線に伸び、被害者の足元で途切れていた。


 まるで、犯人が被害者の目の前で姿を消したかのように。


 規制線の外、人混みの中に混じって、一人の男がその様子を静かに見ていた。

 雨に濡れた黒いコート、帽子の影に隠れた顔。

 ──アキト。


 彼はポケットに手を入れ、封筒の中身と寸分違わぬ光景を目にして、ほんの僅かに目を細めた。

 雷鳴が再び鳴り、空気が震える。


 計画の第一幕は、指示書通りに終わった。

 ──次は、第二幕。


【時間】午後4時45分


【場所】都内郊外・静かな森の奥/玲探偵事務所



 都心から電車で一時間、さらにバスを乗り継ぎ、舗装の途切れた山道を歩くこと二十分。

 その先、木立に囲まれた空き地に、古い木造ロッジがひっそりと佇んでいた。

 看板には小さく「玲探偵事務所」と彫られた真鍮のプレート。

 扉の周囲には、落ち葉と土の匂いが漂っている。


 アキトは深く息を吐き、扉をノックした。

 数秒後、奥から足音が近づき、重いドアが静かに開く。


 現れたのは、長身で切れ長の目をした男──玲だった。

 室内からは、焙煎したコーヒーの香りがふわりと流れ出す。


「……珍しいな、こんな時間にお前が来るとは」

 玲は淡々とした声で言い、目だけでアキトを観察した。


 アキトは小さく頷き、上着のポケットから一枚の封筒を取り出した。

「依頼だ。井守町で──いや、これから起こる一連の事件についてだ」


 玲は封筒を受け取り、中身をざっと目で追った。

 手書きの地図、町家の構造図、そして一枚の紙にタイプされた短い文章。


 ──《第二幕は、古井戸の傍で。雨が上がる刻を狙え》。


 玲の視線が一瞬だけ鋭くなった。

「……これは、ただの予告じゃないな。すでに計画の半分は進んでいる」


 アキトは黙って頷き、視線を落とす。

「俺は……その計画の一部を知っていた。放っておけば、あと二人は死ぬ」


 静寂が二人の間を満たす。

 窓の外では、森の木々が夕風にざわめいていた。


 玲は封筒を机に置き、深く腰を下ろした。

「……分かった。お前の頼みなら、引き受けよう」


 それは、長い付き合いの中で数えるほどしか聞いたことのない、玲の“即答”だった。


 こうして──玲探偵事務所による、井守町連続殺人の調査が静かに始まった。


【時間】午前10時25分


【場所】井守町・町役場裏の旧家跡地



 雨上がりの湿った空気が、山の町に重く漂っていた。

 石畳の隙間からは苔が伸び、背後にそびえる森がかすかなざわめきを立てている。


 旧家跡地の中央──崩れかけた土塀の影に、古井戸が口を開けていた。

 苔むした井戸枠はひび割れ、桶を吊るす滑車は長らく使われていないように見える。

 しかし、その静けさは、そこに横たわる“異物”によって破られていた。


 井戸の縁に背をもたれかけるようにして倒れている男。

 作業着姿のまま、顔は白く、瞳は半ば開ききって虚空を見ている。

 胸元の濡れた布地には、雨では落とせない色──暗く固まった血が滲んでいた。


 規制線の向こうから、数名の警察官と鑑識が足早に集まり、低い声が交錯する。

「発見者は役場の清掃員で……」

「死因は鋭利な刃物による刺創だな。致命傷は心臓」


 玲は少し離れた位置から現場を見つめていた。

 足元の石畳には、雨に洗われたはずなのに、妙に形の整った濡れ跡が続いている。

 その跡は井戸の周囲で途切れ、あたかもそこから人影が“消えた”ように見えた。


 理央が隣でメモを取りながら、小声で言う。

「足跡じゃない……これは、井戸の縁に残った水滴の飛び方です。

 でも、この位置からだと……普通は届かない」


 玲は古井戸をじっと見つめ、視線を地面から井戸枠、そして背後の森へと滑らせた。

「……町家の構造図を、もう一度確認したい。ここは表に見える井戸じゃない」


 規制線の外側、さらに離れた場所で、アキトは腕を組み、黙ってその様子を見ていた。

 彼のポケットには、まだ開かれていない“次のページ”がしまわれている。


 ──計画は、今、第二幕へ進んだ。


【時間】午後3時10分


【場所】井守町・旧井戸のある町家裏手



 雨雲が再び町を覆いはじめ、光を失った空がゆっくりと沈み込んでいく。

 井戸のある中庭は、町家の裏手に隠れるように存在していた。苔むした石畳が不規則に並び、囲む土塀は幾度も補修された跡が残っている。


 異変を見つけたのは、地元の郵便配達員だった。

 普段は決して通らない細い裏道を、雨を避けるために近道として使ったという。

 その瞬間、塀越しに覗いた井戸の脇で、何かがゆらりと動いた──そう語っている。


 規制線の内側、玲は井戸の周囲を静かに歩き回っていた。

 理央は町家の見取り図を片手に、壁の位置と現場の構造を照らし合わせている。


「……おかしいですね」

 理央が眉をひそめ、図面を玲に見せる。

「この中庭は四方を壁で囲まれているはずです。図面上、ここに出るための廊下は──」

「……存在しない」玲が言葉を継いだ。


 二人は視線を壁の一角に移す。

 土壁の色がそこだけ僅かに違い、雨に濡れたはずなのに乾きが早い。

 玲はその部分に指を沿わせ、わずかに押し込んだ。


 かすかな軋みとともに、壁板が内側に沈む。

 その奥に、薄暗い木製の通路が口を開けていた。


「……隠し通路」理央が低く呟く。

 玲は頷き、井戸の位置と通路の向きとを頭の中で結びつける。

「町家は、この中庭を“表の庭”として見せていた。でも本当は……二重構造になっている」


 外から見える町家と、内部の構造が一致しない──

 それは、この場所に“幻の町家”が重なっている証だった。


 規制線の外側、アキトは再びその光景を遠くから見ていた。

 手の中の計画書はまだ閉じられたまま。

 しかし、その視線は明らかに、予定された筋書きから逸れ始めた動きに気づきつつあった。


【時間】午後4時00分


【場所】井守町・第七町家 裏手



 裏手の庭は、人の気配を拒むように鬱蒼とした植え込みで囲まれていた。

 古びた木戸を押し開けると、湿った土と腐葉土の匂いが一気に鼻を突く。

 玲と理央は、先ほど見つけた隠し通路の続きがこの町家にも繋がっている可能性を探っていた。


「町家の構造が、“普通じゃない”」

 理央が、手に持った古地図と現場の構造を見比べながら言った。

「この裏庭、図面上は袋小路のはずです。でも……壁の向こうに空洞があります」


 玲は無言で、壁際の竹垣を手で探った。

 しっとりと濡れた竹の節の一つに、わずかな段差がある。

 そこを押し込むと、低い音とともに地面がかすかに揺れ、苔むした板が横にスライドした。


 開いた先には、暗く沈む石段が口を開けていた。

 下から吹き上げる空気はひどく冷たく、井戸水の匂いと土の湿気を含んでいる。


「……地下回廊だな」

 玲が小さく呟き、懐中電灯を灯す。

 石段は長く続き、降りるたびに外の音が遠ざかっていった。


 やがて二人は広い地下通路に出た。

 天井は低く、梁の一部が崩れかけている。壁には古い漆喰が剥がれ、所々に煤の跡が残っていた。

 通路の左右には古い町家の土台のような石組みが並び、それが途切れるたびに別の空間へ繋がる扉が現れる。


 理央が一つ一つ数えながら進んでいく。

「……五、六……」

 次の扉の前で彼の足が止まった。

「ここが……第七の間」


 玲は無言で扉を押し開ける。

 中は、埃の匂いと長い時間の沈黙に包まれていた。

 壁は四方すべて木板で覆われ、窓はなく、天井の梁に吊るされた古い行灯だけがうっすらと室内を照らしている。


 その中央、畳の上には、色あせた麻の布に包まれた人型の影が横たわっていた。

 玲がゆっくり近づき、布の端をめくる──

 そこに現れたのは、十数年前に行方不明になったと記録されている“最初の犠牲者”の痕跡だった。


 理央の呼吸が一瞬止まり、地下の静けさがさらに濃くなる。

 その瞬間、玲の脳裏に、町家の構造全体を覆う“もうひとつの意図”が浮かび上がりはじめていた。


【時間】午後4時30分


【場所】井守町外れ・高台の庚申塔裏

【視点】アキト(RM)



 雨に濡れた石の庚申塔が、夕闇の中で鈍く光っていた。

 苔に覆われた石段を登りきった裏手──そこに、黒い影が立っていた。


 アキトは濡れた前髪を払いながら、懐の封筒を指先で押さえる。

 それはかつて自分が渡した“完全犯罪計画書”の、次のページを実行するための舞台。

 だが今、その計画は自分の意志で潰さなければならなかった。


 影の人物は、石塔の脇から滑るように動いた。

 その手には、鋭く研がれた刺突用のアイスピックが握られている。

 狙いは──坂道を上ってくる、黄色い傘の人物。


(……間違いない、次のターゲットだ)


 アキトは懐から小型の通信機を取り出し、低く呟いた。

「──玲、標的が動いた。庚申塔の裏手」


 返事は短く、「了解」の一言だけ。

 だがその声に、不思議な安堵が混じっていた。


 坂道の中腹、霧雨の向こうに玲の姿が見えた。

 その動きは一切の無駄がなく、獲物を狩る獣のように静かだった。


 影が傘の人物に接近し、突き出された刃が雨粒を切り裂く──

 次の瞬間、玲が横から飛び込み、犯人の手首を押さえつけた。

 金属音と短い叫びが、高台の空気を裂く。


「計画は、もう終わりだ」

 玲の低い声が、犯人の耳元で響く。


 アキトは庚申塔の影からゆっくり歩み出る。

 犯人の目に、自分の姿が映った瞬間──その瞳に混じる驚きと困惑を、彼は見逃さなかった。


「……お前が、裏切ったのか」

 雨に溶ける声が、濁った水面のように揺れる。


 アキトは答えなかった。

 ただ、濡れた計画書のページを指先で破り捨て、地面に落とした。

 その紙は雨水を吸い、泥に沈んでいった。


【時間】午後5時20分


【場所】井守町・町家裏の地下回廊

【登場人物】玲、御子柴理央、古民俗建築研究者・小此木慎人おこのぎ まこと



 石灯籠が並ぶ裏手に口を開ける地下への階段は、雨で滑りやすくなっていた。

 その奥に続く隠し道は、想像以上に長く、そして不気味なほど静かだ。


 理央の携帯端末が青白い光を灯し、漆喰壁のわずかな起伏を照らす。

 そこに、古い墨の跡のような線が浮かび上がった。


「……これ、町家の図面じゃないですか?」

 理央の声に、小此木慎人が眼鏡の奥で目を細める。

「図面ではある。しかし……この通路、実際の町家より“ひと間分”長い」


 玲は壁に触れ、その冷たさと微妙な凹凸を確かめた。

「つまり、建築記録には載っていない“もう一つの部屋”が存在する……?」


 小此木は頷き、低く言った。

「幻の町家──古くは“第七の間”と呼ばれた空間です。ここに入った者は戻らないとされ、江戸の終わり頃から口伝だけが残っている」


 その言葉を裏付けるように、通路の先から微かに風が流れ込んできた。

 湿った土と古木の匂いに混じり、どこか人の気配がする。


「行くぞ」

 玲の短い号令に、三人は闇の奥へと進んだ。

 足音が重く響き、やがて視界に古びた襖が現れる。

 襖絵はほとんど剥がれ落ちていたが、その中央に描かれた“円形の紋”だけが、不気味なほど鮮明に残っていた。



【同時刻】


【場所】佐々木家・ロッジ内リビング

【登場人物】朱音、沙耶



 窓の外で雨が細かく降り続く中、朱音はスケッチブックを広げていた。

 柔らかなランプの光の下、彼女の手はためらいなく鉛筆を走らせる。


 沙耶が声をかけようとした瞬間、朱音は小さく首を横に振った。

 紙の上に浮かび上がったのは、暗い地下空間──その中央に、鏡のように光を返す床が描かれていた。


 周囲には何人かの人影……だが、どの顔も描かれていない。

 そして、その端には小さく「七」という数字が書き込まれている。


「朱音、それは……?」

 沙耶の問いに、朱音はゆっくりと答えた。

「次に起こること。……“見えない部屋”で、誰かが待ってる」


 その声は、降り続く雨音に溶けるように低く響いた。


【時間】午後8時10分


【場所】井守町・旧村役場跡地(通称 “無音の館”)

【登場人物】ターゲット:井守町観光協会職員・佐山瑠璃



 旧村役場は、取り壊しの決まったまま数十年、放置されてきた。

 壁の漆喰は剥がれ、窓は板で打ち付けられ、内部は真っ暗だ。


 佐山瑠璃は、協会からの電話で「急ぎ渡す資料がある」と呼び出され、傘も差さずに駆けつけた。

 足元の雨水がきしむ音以外、何も聞こえない。


 玄関を開けた瞬間、外の世界の音が吸い取られるように消えた。

 時計の秒針すら、耳に届かない。

 ただ──奥から微かな足音が近づいてくる。


 瑠璃は不安を振り払うように声を上げた。

「……どなたですか?」


 返事はなかった。

 だが、次の瞬間、頭上の天井から白い紐のようなものがするりと垂れ──



【同時刻】


【場所】井守町・幻の町家地下回廊「第七の間」前

【登場人物】玲、御子柴理央、小此木慎人



 重い襖の前で、三人は一瞬、息を飲んだ。

 湿った空気の中に、金属とも土ともつかぬ匂いが混じっている。


 玲はゆっくりと懐中電灯を持ち上げ、襖の端に手をかけた。

 微かに反響する音──遠くで水が滴るような音が、扉の向こうから聞こえてくる。


「行きます」

 短く告げた玲が力を込める。

 襖がきしみ、闇の裂け目が広がった瞬間、理央が息を呑んだ。


 そこには、床一面が鏡のように光を返す、異様な空間があった。

 壁には煤けた紙片──おそらく“暗黒脚本”の一部──が貼られ、その中央には、誰かの足跡がくっきりと残っている。


「……誰か、ここにいた」

 玲の声は低く、だが確信に満ちていた。


【時間】同夜・午後9時


【場所】東京郊外・朱音の部屋



 机に広げたスケッチブックの最後のページ──そこだけ、ずっと手つかずだった。

 朱音は窓から入る湿った夜風に髪を揺らしながら、ふと鉛筆を握る。


 何を描くつもりだったのか、自分でも分からない。

 けれど、手は迷わず動き出していた。


 鉛筆が白い紙を走り、輪郭を形作る。

 暗い室内に吊られた一本の縄。

 その下には、ひとりの女性──だが、彼女の周囲にあるはずの観客席は、空っぽだった。


 最後に、背景に古びた窓枠と、閉ざされた舞台を描き入れた瞬間、朱音は手を止めた。

 その絵が、今まさに遠く離れた場所で起きていることを“見て”いると、なぜか確信した。



【同時刻】


【場所】井守町・旧村役場跡地(無音の館)

【登場人物】アキト、佐山瑠璃、犯人



 アキトは濡れた路地を駆け抜けた。

 胸の奥で、何かが確信に変わっている──第三の殺人は、今まさに行われようとしている。


 規制線を飛び越え、暗い役場跡の玄関を蹴破る。

 瞬間、耳が詰まるような静寂が押し寄せた。

 まるで世界から音が消えたかのように。


 奥の広間──白い紐が垂れ下がり、その下で佐山瑠璃が必死にもがいている。

 天井の梁の上に、影が動いた。


「やめろッ!」

 アキトは反射的に投げナイフを放った。刃は梁の柱に突き刺さり、犯人の手を止める。


 次の瞬間、天井から落ちてきた影とアキトがもつれ合い、埃と古材の匂いが鼻を刺した。

 沈黙の中での格闘は、奇妙なほど現実感がなかった。


 瑠璃が必死に縄を外すのを横目に、アキトは押さえ込んだ相手の顔を覗き込む──だが、その瞳に映る感情は、恐怖ではなく、演じる者の狂気だった。


【時間】深夜1時過ぎ

【場所】井守町・地下町家「第七の間」

【登場人物】玲、御子柴理央、小此木慎人



 地下の闇は、照明の薄い光さえも飲み込みそうに濃かった。

 壁面に貼られた古びた土壁がひんやりと湿っている。

 玲は携帯端末の光を頼りに、ゆっくりと前へ進んだ。


「ここだ…」理央の声が静寂を切り裂く。

 端末のスキャンが示す場所には、肉眼ではほとんど見えない細かな壁の歪みがあった。


「図面にも記録にもない、この空間…」小此木が息を呑みながら言う。

「言い伝え通り、町家は奇数の部屋で構成されて完結するはず。ならば、“第七の間”が存在する可能性は高い」


 その言葉に玲は目を凝らした。壁の奥、わずかな段差とひんやりとした空気の流れ。

 彼らは壁の一部を押した。隠し扉が、かすかに軋む音を立てて開いた。


 扉の向こうは、狭く古びた部屋だった。

 壁には複雑な暗号のような古文書の断片が張られ、床には散乱した書類や写真が散らばっている。


「これは……」理央が手に取った写真に、見覚えのある顔が写っていた。


「最初の犠牲者……生きていたんだ」玲の声は震えていた。


 さらに理央の端末が示したのは、デジタル痕跡の解析結果だった。

 犯人は、あの“ドミノ”ではなかった。


 この殺人計画の背後には、もう一人、さらに冷酷な“協力者”がいる。

 しかも、その黒幕は陰で事件を操り、利用していたことが明らかになりつつあった。


「これが、全ての真実の入り口だ……」玲は壁の文字を見つめ、暗く静かな地下室で深く息をついた。


【場所】井守町・旧校舎裏の隠し控室

【時間】同時刻



 アキト──ルートマスターとして計画を設計した男。

 だが、彼の手にある“完全犯罪計画書”は、確かに自分が書いたはずの文字で綴られていながら、いくつかのページが──僅かに異なっていた。


 誤字でも改行でもない。

 事件の順序、殺害の手口、犯行現場の配置──すべてが、ほんのわずか、しかし致命的に書き換えられている。


 ドミノが改ざんした?

 いや、違う。ドミノは自分の脚本に一言一句忠実で、アレンジを加える余地などなかった。

 この修正には、別の意図がある。


 ページをめくるたび、アキトは背筋に冷たいものを感じた。

 そこには、自分が意図しなかった「第三の犯行現場」の指示が追加されている。

 そして、その一文に見覚えがあった──二十年前の未解決事件「蓮池町連続殺人」報告書の文面と同じだ。


「……まさか」


 視界の端に、かすかな人影が映る。

 扉の隙間から覗くその目は、暗闇でもはっきりと光を放っていた。

 ドミノではない。

 計画書に手を加え、アキトの脚本すらも道具として利用する“もう一人”が、確かに存在している。


 アキトは静かにページを閉じた。

 この黒幕は、自分の計画の外側から“結末”を書き換えようとしている──その事実だけが、今は確かなことだった。


【場所】玲探偵事務所・資料保管庫

【時間】翌朝・8時過ぎ



 朱音の絵を受け取った玲は、それを一瞥した瞬間、胸の奥にざらりとした既視感を覚えた。

 障子越しの光を受け、紙面に描かれたのは──鏡面の床と、そこに映る誰もいない観客席。


「……これ、見たことがある」


 玲の低い声に、理央が資料棚の奥から分厚いファイルを引き抜く。

 埃を払い、金属の留め具を外すと、古びた新聞記事と現場写真が現れた。

 日付は二十年前、蓮池町連続殺人事件。最後の犠牲者の現場──廃劇場の舞台に倒れた被害者と、鏡のように磨かれた床面。


「ほら、この写真……構図がほとんど同じ」

 理央が朱音のスケッチと並べると、その一致は否定しようがなかった。


 玲は目を細める。

 蓮池町事件の主犯は死亡、共犯者も行方不明。だが当時、捜査資料には「計画立案者は別に存在する可能性あり」とだけ記され、未解明のまま封印された。


「……この“もう一人”が、今も生きている」

 玲の言葉に、理央は無言で頷く。


 朱音の手が、無意識のうちに二十年前の舞台を描き出した理由。

 それは、黒幕が同じ“脚本”を再演しようとしているからだ──そう考える以外、説明はつかなかった。


【場所】井守町・旧町営劇場の地下控室

【時間】午後11時45分



 冷たいコンクリートの匂いが充満する狭い控室で、アキトは一枚の紙を見つめていた。

 計画書──数年前から構築し、わずかな協力者にしか渡さなかった「演出型完全犯罪」の青写真。

 何十もの矢印と時刻、そして空間の配置が緻密に組み上げられたその図面は、彼にとって脚本そのものだった。


 だが──ページの一角に、見覚えのない線がある。

 計画の骨格に触れる、わずかな“指の跡”のような修正。

 その変更は、全体の構造を崩さないまま、最終幕の舞台だけを別の場所へとすり替えていた。


 机の端には、玲から回ってきた写真が置かれている。

 朱音のスケッチと、それと並べられた二十年前の蓮池町事件の現場写真──廃劇場の舞台、鏡面の床、空席の観客席。

 構図は、ほとんど完全に一致していた。


 あの事件の主犯はすでに死に、共犯者も姿を消したはずだった。

 だが、捜査資料にはただ一行、「計画立案者は別に存在する可能性あり」と残されていた。

 ──計画そのものを設計し、舞台の装置を選び、殺人を“演出”した人物。


 アキトの胸に、冷たい感覚が広がる。

 自分が練り上げたはずの舞台が、二十年前の“暗黒脚本”と重なっている。

 そして、触れてはいけない指──二十年前から生き延びている黒幕の指が、確実にこの計画へと入り込んでいる。


「……再演か」

 低く呟く声は、地下室の湿った空気に吸い込まれて消えた。

 これは、自分の脚本ではない。

 ──もっと前から書かれ続けてきた、誰かの舞台の続きなのだ。


【場所】井守町・町役場裏・旧資料館地下

【時間】翌日・午前9時半



 湿った土の匂いと、古紙のかすれた匂いが混じり合う地下資料庫。

 剥がれかけた漆喰の壁に、細長い窓から朝の光がわずかに射し込む。


 玲は机の上に並べられた二枚の写真を見比べていた。

 一枚は朱音が昨夜描いた予告画──鏡の床、左右に伸びる無人の観客席、そして奥の緞帳。

 もう一枚は、古い捜査資料から引き抜かれた蓮池町事件の現場写真だった。


「……完全に一致してるな」

 隣で理央が静かに言った。

 机の上のルーペ越しに見える細部──床の模様、舞台袖の柱の傷、緞帳の垂れ方までが、二十年前と寸分違わぬ構図だった。


 玲はファイルを開き、蓮池町事件の調書をめくる。

 そこに、一行だけ赤字で書き込まれた記載があった。


 ──計画立案者は別に存在する可能性あり。


 “ドミノ”と呼ばれた主犯は死に、共犯もすべて消息を絶ったはずだった。

 だが、舞台の骨格を設計し、殺人を“演出”した人物は、今も影の中にいる。


「二十年前の脚本……誰かが、もう一度演じようとしている」

 玲の言葉は、地下の静寂に溶けて消えた。


 資料の隅には、蓮池町事件の舞台装置の設計図が複写されている。

 それは、今回の計画書とほぼ同じ構造──ただし、ラストの舞台だけが別の座標に置き換えられていた。


 理央は低く息を吐く。

「つまり……“再演”だ。二十年前の舞台を、今の井守町で」


 玲は黙って朱音の絵を見つめた。

 観客席は空っぽ、舞台の中央にはひとつの影。

 それは、過去と現在を繋ぐ、黒幕からの招待状のように思えた。


【場所】山のロッジ・朱音のスケッチブック

【時間】同時刻



 朱音の指先は、意識よりも早く鉛筆を走らせていた。

 ページの上には、黒と白の線が絡み合い、やがて形を結ぶ。

 反射する床──その上に立つ半透明の人影。

 人影の胸元は空洞のように薄く、中心には黒い“裂け目”が描かれていた。

 裂け目の奥には、まったく別の部屋が覗いている。壁は赤く、床には散らばった紙片。


 朱音はふと我に返り、その構図を見つめた。

 ──自分はこんな絵を描くつもりではなかった。

 それなのに、鉛筆はまるで誰かに操られたかのように、この形を刻みつけた。



【場所】井守町外れ・高台の見晴らし台

【時間】同時刻


 アキトは携帯端末の画面を指先でなぞっていた。

 地図上に描かれる、赤い点と青い線。

 そのルートは、今回の計画書と酷似している──だが、最終地点だけが違う。

 そして、その最終地点は、朱音が先日描いたスケッチと同じ構図を持つ場所だった。


「……やはり、もう一人いる」

 彼はポケットから小さな送信機を取り出す。

 薄い金属板のようなそれを、計画書の“誤った座標”に沿って設定し、信号を仕掛けた。


 玲からの指示を待つ時間はない。

 黒幕は、ドミノの死後も動き続け、この“脚本”を書き換えている。

 ならば──こちらから、書き換えられた筋書きを逆手に取ってやる。


 アキトはひとり呟く。

「舞台を閉じるのは……俺だ」


 彼の背後で、山の風が低く鳴った。

 その瞬間、遠く離れたロッジで朱音が描いた“裂け目の絵”と、アキトが設定した罠の座標が、奇妙な形で重なり始めていた。


【アキト視点】

【場所】都内・旧劇場跡 地下室

【時間】午後10時10分



 アキトは、錆びついた取っ手を握り、音を殺して古びた扉を押し開けた。

 かつて観客のざわめきと拍手が渦巻いた場所──今は壁紙が剥がれ落ち、天井から垂れる水滴が、一定の間隔で床を濡らすだけだ。


 薄暗い通路を抜けると、かつての舞台裏へと続く階段が現れる。

 階段の中ほどで足を止め、耳を澄ませた。

 ……微かに聞こえる、紙を擦るような音。


 階下、半開きのドアの向こう──そこが地下控室だ。

 アキトは懐から小型カメラを取り出し、ドアの隙間に差し込んだ。

 レンズが捉えたのは、一枚の紙を机上に広げ、ペンで何かを書き加える人影。

 ……その紙は、彼が数年前から練り上げた「演出型完全犯罪」の計画書だった。

 だが、舞台の配置図と動線に、見覚えのない赤線が引かれている。


(やはり……お前か)


 アキトはポケットに忍ばせていた送信機を起動させ、赤い線の位置に対応する“偽の座標”を転送する。

 それは黒幕を罠へと誘導するための仕掛け──朱音のスケッチが示した“裂け目の間”と同じ位置だ。


 その瞬間、人影がペンを置き、ゆっくりと立ち上がった。

 アキトはすぐに壁陰に身を隠す。

 軋む床板の音が、階段をゆっくりと上がってくる。


 息を潜め、影が通り過ぎるのを待つ。

 わずかに見えた横顔──それは、二十年前の蓮池町事件の捜査記録に名前だけ記されていた、あの人物だった。


(……舞台は、明日だ)


 アキトは視線を地下控室の机に戻す。

 計画書の端に、こう書き加えられていた。


「再演──完結篇」


【玲と理央視点】

【場所】井守町・旧町家地下通路

【時間】午後10時14分



 冷たい空気が、石造りの回廊を這うように吹き抜けていく。

 天井は低く、湿った土の匂いが鼻を刺す。

 玲は懐中電灯の光を極限まで絞り、足元だけを照らした。


 石壁の途中、微妙に色の異なる箇所がある。

 理央が端末を取り出し、壁面をスキャンした。

 青白い線が表示され、輪郭が浮かび上がる。


「……ここだ、“第八の影間”」


 押し開けた扉の奥には、畳半畳ほどの狭い空間。

 壁際には古い行灯と、小さな漆塗りの箱が置かれていた。

 理央が慎重に箱を開けると、中には折りたたまれた舞台図面──二十年前の蓮池町事件で使われた舞台と同じ構造の設計図だった。


 図面の端には、墨で書かれた短い文がある。


「再演の刻、影は舞台に還る」


 玲は眉をひそめた。

「……これは、明日が本番ってことだな」



【翌日】


【場所】都内・旧劇場跡 大ホール

【時間】午後6時55分



 開演を告げるベルが、埃をかぶったホールにこだました。

 舞台袖では黒い幕がわずかに揺れ、照明の熱がじわじわと滲む。

 客席には関係者に偽装した捜査員が散らばり、玲と理央もそれぞれの位置についている。

 中央通路の影に、アキトの姿があった。


 舞台中央には、見覚えのある構図──朱音が描いた最後のスケッチそのままの舞台装置。

 反射する床。

 半透明の人物を模したマネキン。

 その中央に、わずかな亀裂が走る「裂け目の間」。


 観客のざわめきが一瞬、凍りつく。

 暗転。

 そして──舞台装置の影から、黒幕が動き出す。


 玲の無線にアキトの声が走った。

「……罠にかかった。次は、俺たちの番だ」


【朱音視点】

【場所】山のロッジ・朱音の部屋

【時間】翌朝 午前5時過ぎ



 朝焼けの光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。

 朱音は机に突っ伏すように眠っていた。

 机の端には、昨夜のまま開かれたスケッチブック。

 ページは──最後の一枚で止まっている。


 そこには、光と影が交錯する舞台。

 床の中央に裂け目のような黒。

 そして、その傍らに立つ二人の人影。


 一人は、台本を握りしめたまま、影の中に踏み出そうとしている。

 もう一人は、その手を掴もうと必死に伸ばしている。


 朱音は、まるでその絵の中の人物たちが、自分に何かを訴えかけてくるような感覚に目を覚ました。

 胸の奥で、不安が形を持ち始める。



【場所】都内・旧劇場跡 大ホール

【時間】午後8時02分



 舞台上──亀裂の間を挟んで、アキトと玲が向き合っていた。

 舞台照明は二人だけを切り取るように当たり、周囲は闇に沈んでいる。

 観客席の捜査員たちは息を潜め、動きを見守っていた。


 アキトの手には、例の“計画書”がある。

 その台本には、黒幕が書き換えた“最終演出”が組み込まれていた。

 この通りに進めば、黒幕は舞台裏から姿を現し、そして……玲かアキトのどちらかが犠牲になる。


 玲は、静かに言った。

「アキト……あんた、これを最後までやる気か?」


 アキトは目を逸らさない。

「この台本の最後を変えれば、黒幕は姿を現さない。……だが、その瞬間、今までの証拠は全部消える」


「じゃあ、全部演じきるつもりか?」

「……ああ。俺が役者でいる間は、奴は観客でいるしかない」


 玲の足元で、舞台の床が微かにきしむ。

 まるで裂け目が広がっていくように。


 理央の声が無線から響く。

『玲、あと二分で黒幕が現れる。……選べ』


 アキトは一歩、裂け目の方へ踏み出した。

 玲は、深く息を吸った。


「──だったら、台本を書き換えるのは、今だ」


 次の瞬間、玲の手がアキトの計画書を奪い、そのページを破り捨てた。

 破れた紙が宙に舞い、照明の中で白く光る。


 闇の奥から、誰かの低い声が響いた。

「……予定外だな」


 舞台裏の幕が揺れ、黒幕の影がゆっくりと現れる──。


【場所】都内・廃劇場裏通路

【時間】午前0時17分



 鈍く軋む鉄扉を押し開けた瞬間、湿った空気が押し返してきた。

 廃劇場の裏通路──舞台袖へ続く狭いコンクリートの道。

 壁は剥がれた塗装とカビでまだらになり、頭上には裸電球が点々とぶら下がっている。


 その最奥、わずかに揺れる影があった。

 玲だ。

 背を向けたまま、床に落ちた細長い紙片を拾い上げている。


 近づくと、それが計画書の切れ端であることがわかった。

 端には、赤いインクで「幕間Ⅱ」と書かれている。

 だが玲は視線を紙から外し、低くつぶやいた。


「……誰かが、まだ舞台を動かしてる」


 通路の奥、黒い幕の隙間からかすかに覗く光。

 まるで舞台裏に、もう一つの“影の劇場”があるように見えた。


 理央の声が、イヤーピース越しに届く。

『玲、位置は特定できた。でも……気をつけろ。黒幕はここに来ていない。代わりに“代役”を立ててる』


 玲は紙片をポケットに押し込み、扉の方を振り返らずに言った。

「……代役の狙いは?」


『アキトを舞台に上げること。それと──あんたを降ろすことだ』


 その瞬間、背後の鉄扉が音を立てて閉まった。

 通路は完全に闇に沈み、唯一の出口が断たれる。


 闇の中、足音がひとつ。

 低い声が響く。


「台本のない芝居は──成立しない」


 玲は腰の懐中電灯を握り、静かに構えを取った。

 今、この通路そのものが罠になっていることを悟りながら。


【朱音視点/玲探偵事務所ロッジ・早朝】

【時間】午前5時12分


 外の森はまだ朝靄に包まれている。

 朱音は机に置かれたスケッチブックを両手で押さえ、最後のページを見つめていた。


 そこには、昨夜描いたはずの構図がある。

 反射する床。半透明の人影。そして、その中央に“裂けた空間”──奥に覗く、もう一つの部屋。


 だが、描きかけの線が震えていた。

 まるで誰かに上書きされたかのように、鉛筆の筆圧が二重になっている。

 朱音は息を呑み、ページの端に視線を落とす。


 ──そこには、小さく「幕間Ⅱ」と赤インクで記されていた。


 胸の奥にざらつくような感覚が走る。

 昨夜の夢の断片と、この赤い文字が、何かを告げようとしている。



【玲視点/都内・廃劇場裏通路】

【時間】午前0時20分(数時間前)


 闇の中、足音が近づく。

 鉄扉は外から施錠され、唯一の脱出口は塞がれていた。


 玲は懐中電灯のスイッチを押さず、代わりに足元の床板をそっと踏み込む。

 乾いた音が響いた瞬間、相手が一歩引くのが分かった。


 ──この通路には、罠が二つ仕掛けられている。

 一つは相手が仕掛けた閉じ込め用の鍵。

 もう一つは玲自身が数時間前に忍ばせた「逆用の仕掛け」。


 壁の隙間に指をかけると、わずかに板が動き、背後の石壁が回転する。

 代役の影が戸惑う間に、玲は無音で別の通路に抜けた。


 次の瞬間、代役の背後に声が落ちる。

「……舞台はまだ終わってない。台本も──役者も、こっちで選ばせてもらう」


 代役が振り返った瞬間、懐中電灯の光が顔を撃った。

 その目の奥に、一瞬、迷いと恐怖が走った。


【廃劇場・舞台袖/午前0時44分】


 舞台袖の闇は、劇場そのものが息を潜めているかのように、じっと静まり返っていた。

 天井から垂れ下がる古い照明器具が、わずかな風に揺れて鎖をきしませる。その音が、沈黙をいっそう重くした。


 壁際に縛りつけられた人物──“代役”は、背中で冷たい木壁の感触を受け止めながら、こちらを睨みつけている。

 玲は近づかず、無言のままポケットから小さな紙片を取り出した。それは朱音のスケッチを縮小したコピーだった。

 紙の上には、裂けた空間の奥に覗くもうひとつの部屋、反射する床、半透明の人影が描かれている。


「この絵を知っているはずだ」

 玲の声は低く、抑えられていた。

「……どこで見た?」


 代役は短く息を吐き、かすかな笑みを浮かべた。

「答える義務はない」


 すぐ傍らに立っていたアキトが、一歩踏み込み、視線を真っ直ぐにぶつける。

「義務はなくても、時間はない。お前の雇い主は、この舞台を最後までやり切るつもりだ」


 代役は視線を逸らさずに、ゆっくりと口角を上げた。その笑みには諦めの影も、動揺の色もない。

「……あんたら、まだ分かってないな」

 低い声が、闇の奥に沈んでいく。

「この台本の“最初のページ”は、二十年前にめくられてる」


 玲の瞳が細くなる。

「二十年前──蓮池町事件のことか」


 返事はない。

 だが、その沈黙こそが肯定だった。


「黒幕は……誰だ?」

 アキトの問いかけは、刃のように真っ直ぐだった。

 しかし代役は、ただ静かに笑っただけだった。


「名前を知ったところで、幕が下りるのが早くなるだけだ。……お前らは、まだ舞台に“上がってすらいない”」


 その言葉に、玲は紙片をそっとポケットへ戻した。

 舞台の奥から、誰もいないはずの板がきしむ音が響き、空気がひやりと揺らいだ。


【幻劇座 地下構造/夜十一時】


 ドミノ──秋津の死から二日。

 幻劇座は警察の規制線で封鎖されたままだったが、その地下にはまだ微かな灯りが残っていた。

 古い裸電球が、湿った空気の中で白く滲み、床の水たまりにぼやけた光を落とす。


 その灯りの下に、椅子へ縛られた“代役”の姿があった。

 監視役の若い警官は、眠気を振り払うように何度も瞬きをしていた。

 代役は、うつむいたまま動かない──だが、その足元に投げ出された古びた木製のマスクが、わずかに転がった。


 かすかな音に警官が視線を落とした瞬間、

 代役は足首の縄を靴底の金具で断ち切り、身体を前に倒し込む。

 床を蹴る動きと同時に椅子が転がり、監視役の視界が遮られた。


 「──っ!」

 警官の声が響くより早く、代役は倒れた椅子を盾に通路の明かりを落とす。

 闇の中、舞台袖へと続く通路を、影が滑るように駆け抜けた。


 玲とアキトが到着した時、そこはすでに無人だった。

 懐中電灯の光が、朱音の最後の絵と同じ光景を照らす──

 観客席は空っぽで、舞台中央には誰も立っていない。


 「……罠を逆に使われた」

 アキトが低く吐き捨てる。

 玲は舞台の床を見つめたまま、声を返さなかった。


 ただ、残されたものが一つあった。

 舞台中央に置かれた、薄い紙の束──朱音の絵を模写したかのような、新しい“台本”。

 その最初のページには、まだ見ぬ黒幕の台詞が、ただ一行だけ記されていた。


 『幕は、まだ下ろさない』


【幻劇座・裏井戸経由の地下路/夜十一時半】


 代役の足音は、濡れた石の階段を滑るように下っていった。

 劇場裏手の井戸は、今や水を失い、底から冷たい風が吹き上げている。

 そこに隠されていた木製の格子戸を外すと、奥には苔むした横穴が口を開けていた。


 ──かつて、芝居道具や衣装を密かに運び込むための搬入路。

 今は誰も知らぬ“舞台外の通路”として、生き残っている。


 代役は懐から小さな銀色の懐中時計を取り出す。

 時刻は十一時三十四分。

 蓋の裏には、一行の文字が刻まれていた。


 『次の幕は、お前が開け』


 暗闇の奥から、わずかな光が滲む。

 その先には、粗末な木製の扉。

 扉の向こうに立つ影は、顔を見せぬまま低く笑い、手招きをした。


 「遅かったな」


 その声を聞いた瞬間、代役は確信する。

 ──黒幕は、生きている。

 そして、この舞台はまだ終わっていない。


 扉が閉まり、静寂が井戸へと戻る。



【ロッジ・朱音の部屋/翌朝】


 朱音は目を覚ますと、机の上のスケッチブックを開いた。

 最後のページに描かれていたのは──

 舞台袖のカーテンの向こう、半透明の人物がこちらを見ている絵。


 その人物の輪郭は、どこか玲にも、どこかアキトにも似ていた。

 しかし顔の中央は、黒いインクで塗り潰されている。


 窓の外、山の稜線に朝日が差し込む。

 その光の中で、朱音は小さく呟いた。


 「……まだ、終わってない」


 ページを閉じる音が、静かな部屋に響いた。


【幻劇座・裏井戸経由の地下路/夜十一時半】


 代役は石の階段を駆け下り、乾いた井戸の底へと降り立った。

 底の一角──苔の下に隠された木格子を外すと、ひんやりとした横穴が口を開ける。

 息を潜め、足を踏み入れるたびに靴底から冷たい湿気が伝わる。


 やがて、ぼんやりと明かりが揺れる空間に出た。

 粗末な木製の扉。

 その向こうから、低く湿った声が響く。


 「──遅かったな」


 代役は息を整えながら視線を上げる。

 だが扉はわずかに開いただけで、相手の姿は闇に溶けて見えない。

 その隙間から、白い指先だけが覗く。


 「次の幕は……お前が開け」


 その言葉とともに、扉がゆっくりと閉じる。

 木の軋みが止んだ瞬間、再び闇が井戸の底に降りてきた。



【ロッジ・朱音の部屋/翌朝】


 朱音はうっすらとまぶたを開けた。

 机の上には閉じられたスケッチブックがある。

 ふと、無意識にその最後のページを開く。


 そこに描かれていたのは──

 カーテンの奥に立つ人影。

 舞台袖からこちらを覗き込む半透明の人物は、輪郭が玲にもアキトにも似ていたが、顔の中央だけが黒く塗り潰されている。


 塗り潰しの下に、小さな文字がある。

 『幕が上がる ──次はあなたの番』


 朱音は、思わずページを閉じた。

 窓の外では、霧を透かして朝日が昇り始めている。

 その光の中で、彼女は小さく呟いた。


 「……まだ、終わってない」


 紙の擦れる音が、静かな部屋に溶けていった。


エピローグ:観客のいない劇場にて


【幻劇座・本舞台/夕刻・数日後】


 静まり返った客席に、朱音の足音だけが響く。

 薄橙色の夕陽が、高窓から斜めに差し込み、埃の粒を舞わせている。

 この場所は、二日前まで捜査線が張られていたが、今はただ、閉館の空気だけが漂っていた。


 朱音は舞台中央まで進むと、手に持ったスケッチブックをゆっくり開いた。

 最後のページ──そこには、幕の下りた劇場が描かれている。

 赤い緞帳が完全に閉じられ、客席は空っぽ。

 しかし、その舞台袖には二つの影が立っていた。


 一人は、コートの裾を翻す玲。

 もう一人は、帽子を目深に被ったアキト。

 だが──二人の顔は、白く抜け落ちるように描かれている。


 朱音はその絵から視線を外し、現実の舞台袖を見た。

 そこには、もちろん誰の姿もない。

 けれど、不意にカーテンの奥で何かが揺れたような気がした。

 空気が、ほんの一瞬だけ動いた。


 その時、スケッチブックの紙面に影が落ちた。

 夕陽の色が赤みを増し、絵の中の緞帳がまるで現実のそれと重なって見える。


 ページの隅には、小さな文字が書かれていた。


 ──次の幕が上がる。


 朱音は胸の奥がざわつくのを感じながら、そっとページを閉じた。

 夕刻の劇場には、彼女の息遣いと、遠くから聞こえるかすかな舞台機構の軋みだけが響いていた。


【後日談】


れい──都内郊外・玲探偵事務所】


 夏の終わり。

 都内郊外の住宅街の外れに、その洋館は静かに佇んでいた。

 白い外壁は少し色褪せ、蔦が一部を覆っている。二階の窓には薄手のレースカーテンが揺れ、玄関脇では、涼やかな風鈴がかすかに鳴っていた。


 玲探偵事務所──。

 内部は古い木の香りが漂い、長年の使用で艶を増した木製のデスクが中央に据えられている。

 そのデスクに、玲はいつものように向かっていた。

 机上には、未整理の書類の山と、手書きの地図、そして小さなコーヒーカップ。


 だが、その表情は以前とどこか違っていた。

 事件の渦中で見せていた鋭い眼差しとは別に、今はほんのわずか、柔らかさが滲んでいる。

 口元には、微かに笑みのような影。


 カーテン越しの陽射しが、木目の床を金色に染めている。

 外では、蝉の声が弱まり、入れ替わるように秋の虫の音が混じり始めていた。


 ──コツ、コツ。


 不意に、事務所のドアの向こうで、規則正しい足音が止まった。

 玲は顔を上げる。

 いつの間にか、ガラス窓の向こうにひとつの影が立っている。


 その影は、ゆっくりとドアを押し開けた。

 軋む蝶番の音とともに、柔らかな午後の光が室内に差し込む。


 「……やっぱり、ここにいたか」


 低く落ち着いた声。

 そこに立っていたのは──アキトだった。

 長い影が、玲のデスクの上まで伸びてくる。


 玲は軽く眉を上げ、何かを言いかけたが、口を閉じた。

 その沈黙の中に、二人の間にしか流れない空気があった。


【アキト──町外れの古書店の二階】


 町外れの路地に、ひっそりと佇む古書店がある。

 木製の看板は文字がかすれ、ショーウィンドウには色褪せた書籍や手描きの詩集が無造作に並んでいる。


 その二階──梁の低い天井と、古い本の匂いが染みついた小さな部屋が、アキトの居場所だった。

 窓から差し込む光は薄く、外の通りのざわめきはほとんど届かない。


 机の上には、分厚いノートと、インクのかすれた万年筆。

 アキトはそれらを前に、じっと手を止めていた。


 ノートのページには、複雑な矢印と短い単語、そしていくつもの日付が書き込まれている。

 その中心には──赤いインクで囲まれたひとつの言葉。

 「次幕」。


 指先でその二文字をなぞりながら、アキトはわずかに目を細めた。

 かすかな木の軋む音が、階下から響く。

 古書店の店主が客に応じる低い声が、くぐもって聞こえた。


 窓辺に置かれた小さな時計が、午後五時を告げる。

 アキトは立ち上がり、ノートを閉じた。

 その動作は、まるで舞台の幕が降りる瞬間のように静かで、無駄がなかった。


 ポケットにノートを滑り込ませ、階段を降りる。

 扉を開ける直前、わずかに立ち止まり、外の空を見上げた。

 夕陽に染まる雲の下、アキトの表情は誰にも読めなかった。


 ──ただ、確かに。

 彼の中では、もう“次の舞台”の構図が描かれ始めていた。


【朱音──佐々木家のロッジ・小さなアトリエ】


 森の中にひっそりと佇むロッジ。

 その一室──窓の外には、朝靄に包まれた木々が揺れ、鳥の声だけが淡く響いていた。


 朱音は机に向かっていた。

 真新しいスケッチブックを、ゆっくりと開く。

 まだ真っ白な紙の上に、鉛筆をそっと置き、軽く息を吐く。


 外界の音は遠く、鉛筆の芯が紙を擦るかすかな音だけが部屋に満ちた。

 線は迷いなく走り、やがて形を結び始める。

 ──舞台のような床。

 ──重たく下りた幕。

 そして、その幕の向こうで、かすかに浮かび上がる二つの影。


 朱音はふと、描きながら首を傾げた。

 その影は、まだ誰かを示していない。けれど、不思議な確信があった。

 いつか、この影が“名前”を持つ時が来ると。


 ページの端をめくるような小さな音が、背後から聞こえた。

 振り返ると──そこにアキトが立っていた。

 声もかけず、ただ静かに、朱音の肩越しにスケッチを覗き込んでいる。


 朱音は一瞬だけ手を止めたが、何も言わずに再び鉛筆を走らせた。

 アキトの視線が、紙の上の影に吸い寄せられていく。

 その瞳は、淡い光を湛えながらも、どこか遠い場所を見ているようだった。


 やがて朱音は鉛筆を置き、小さく呟く。

 「……また、始まるの?」


 アキトは答えなかった。

 ただ、スケッチブックの端に目を落とし、薄く笑った。

 その笑みは、次の幕がすでに上がり始めていることを告げていた。


【理央──K部門記録分析室・夜のラボ】


照明が落ち、静寂に包まれた記録分析室。

だが、その中でひとつだけ、まだ明かりが灯っている部屋があった。


理央はモニターの前に座り、画面に映し出された膨大なデータを解析していた。

指先がキーボードを滑り、微かな音だけが響く。


しかし、室内の空気はどこか張り詰めていて、理央は背筋に冷たいものを感じた。

そんな時だった。


──「夜のラボは、気をつけた方がいいですよ。」


不意に、部屋の入口から低い声が響いた。

理央が顔を上げると、そこにはアキトが立っていた。


その表情は普段の冷静さとは違い、どこか鋭い緊張感を帯びている。

理央は思わず身を強ばらせた。


「どうして……?」


問いかける理央に、アキトはゆっくりと近づきながら、さらに囁いた。


「ここにいるだけで、何かが動いている。気づかれているかもしれません。」


理央の視線は、アキトの目の奥に潜む警告を捉えた。

暗闇の中、何か大きな“影”が迫っている予感がした。


二人は一瞬、言葉なく互いを見つめ合い、

そして再びモニターの光の下へと視線を戻した。


外の世界は静かなまま、だがその静寂は、確実に壊れ始めていた。


【水無瀬透──拘置施設・面会室】


無音の面会室。

壁に沿った蛍光灯の光が白々と床を照らし、中央のテーブルと椅子を際立たせている。


水無瀬透はその椅子に腰掛け、ガラス越しの向こうをじっと見つめていた。

だが、そこに人影はない。


それでも透は、ゆっくりとした口調で語り続けていた。

まるで、誰かがそこに確かにいるかのように。


「……あなたが、舞台を描き直した。計画は、もう初期の形じゃない。」

「だけど、私は知っている。あの日の“欠けた台本”の続きを。」


沈黙。

空調の微かな音が、室内の空白を埋める。


──そのとき。


背後から、足音もなく影が差した。

透は視線を動かさず、ただ空気の変化を感じ取った。


「……やっぱり来たか。」


低い声がすぐ後ろから落ちてくる。

振り向けば、そこにアキトが立っていた。


彼は手をポケットに入れたまま、淡々と透を見下ろしている。

だがその眼差しの奥には、鋭い探りと、何かを急かすような光があった。


「時間がない。外の舞台が、もう上がる。」


透はわずかに唇を歪めた。

それは挑発にも、微笑にも見える表情だった。


面会室の静寂は、次の一手を予告するかのように、張り詰めたまま止まっていた。


【沙耶──町の駅前・喫茶店】


午後の光が、くすんだガラス越しに柔らかく差し込んでいた。

古びた木製のカウンターと、壁に掛けられた古時計。

針の音さえ、眠たげに響く。


沙耶は窓際のテーブル席に座り、グラスの中で氷が音を立てて溶けていくのを眺めていた。

アイスティーの表面には、店内の淡い光が揺れている。


左手には携帯。

画面には、短いメッセージのスレッドがいくつも並んでいたが、最後の一行から先は送られてこない。

彼女は親指を止めたまま、ただ液晶を見つめる。


──そのとき。


「失礼。」


低く抑えた声が耳元に落ちた。

顔を上げると、いつの間にか目の前の椅子にアキトが腰掛けていた。

姿勢は崩さず、だが背もたれに寄りかからず、両肘をテーブルに置く。


「……何よ、その現れ方。」

沙耶は眉をひそめるが、その口調にはわずかな安堵も混じる。


アキトは視線を彼女の携帯に落とし、ほんの一瞬だけ微笑にも似た表情を見せた。

「動きがある。外で話すと面倒だ。」


その声色に、いつもの軽さはなかった。

グラスの中の氷が、また一つ音を立てて沈んだ。


【九条凛──蓮池町・廃屋前】


風が、夏の終わりの草をざわめかせる。

この一帯は、もう何年も人の気配がない。

道路の亀裂には雑草が伸び、色褪せた看板が風に軋む音だけが響いていた。


九条凛は、足元の砂利を踏みしめながら立ち止まり、目の前の廃屋を見上げた。

黒ずんだ木壁、ひび割れた窓枠。

それは二十年前、あの「蓮池町事件」の最終現場となった町家だ。


──記録では、ここで幕は閉じたことになっている。

だが、凛は知っていた。

この場所は、終わりではなく“幕間”に過ぎなかったのだと。


ふと、背後の空気が変わった。

わずかな足音すらなく、隣に人影が立つ。


「……来ると思っていた。」


凛が視線を向けると、そこにアキトがいた。

夕闇に沈む背景の中で、その輪郭は妙に鮮明だった。


「ここから先は、記録にも記憶にも残らない道だ。」

低い声が、廃屋の軋みと混じって響く。


凛は短く息をつき、視線を前に戻す。

「……案内してくれるの?」


アキトは答えず、ただわずかに口角を上げた。

廃屋の奥、暗がりが二人を飲み込んでいく。

【都内郊外・玲探偵事務所/夕刻】


 風鈴が、ひときわ長く鳴った。

 玲は書類を整理していた手を止め、机端のノートパソコンに目をやる。

 新着メール──差出人不明、件名はただ一行。


蓮池町、再演の時が来た


 玲は即座に開封した。

 本文はわずか数行。


二十年前の幕は降りていない。

幕間の観客は、まだ席を立っていない。

次は、あなたとその“証人”を招く。──舞台は蓮池町。


 添付ファイルが一つ。

 開くと、白黒の古びた写真が現れた。

 蓮池町事件の現場写真──倒れた街灯、ひび割れた石畳、そして奥に見える旧町家の門。

 その門の前には、当時の記録には存在しないはずの、黒い傘を差した人物が写っていた。


 玲は静かに息を吐き、パソコンを閉じた。

 窓の外では、夕焼けが夜に飲まれていく。

 風鈴の音が、不気味なほど澄んで響いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ