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77話 編集される未来、描かれる未来

■ 佐々木家


佐々木圭介けいすけ


過去の事件に縛られながらも真実を追う父。消された記録に敏感で、物語の道筋を探る存在。


佐々木朱音あかね


直感に優れ、描く絵が“未来を映す”ように変化する少女。

物語の方向を左右する“もう一つの記録媒体”。


佐々木沙耶さや


圭介の妻で朱音の母。強い感受性を持ち、家族を守るためなら影の動きにも気付く。


佐々木昌代まさよ


霊感を持つ圭介の母。過去と現在の“境界”に敏感。



■ 玲探偵事務所


れい


冷静沈着な探偵。アキトとは長い因縁を持つ“好敵手”。

だが同時に、彼を救おうとする数少ない理解者。


橘奈々(なな)


玲の助手。情報分析のエキスパート。

消された記録や上書きされた映像の裏側を読み解く。


御子柴理央りお


記憶分析担当。曖昧な証言やイレギュラーな記録の矛盾を整える専門家。


水無瀬透とおる


記憶探査官。深層意識から“隠された映像”を救い上げる。


九条凛りん


心理干渉分析官。抹消された記憶の復旧と精神ケアを担う。



■ 影班(チーム影)


旧・薊座事件で非公開任務に投入される隠密の専門集団。


成瀬由宇なるせ ゆう


暗殺実行・対象把握のスペシャリスト。

無表情だが、朱音にだけ柔らかい眼差しを向けるようになった。


桐野詩乃しの


毒物処理・痕跡消しの専門。

黒髪と紫瞳の無音の処理者。


安斎柾貴まさき


精神制圧・記録汚染のプロ。

強面だが朱音には妙に優しい、影班の「頼れる兄」。



■ 旧・薊座の関係者


川名詩織しおり


元映写技師。消えた記録を追い続け、事件の核心に最も近い女性。

アキトとの“編集室の因縁”を抱える。


中谷なかたに


劇場潜入を担当する技術員。フィルムの異常性を最初に見抜いた。



■ 特別な存在


アキト(RM-03)


かつて“選ばれなかった未来”を持つ青年。

映像の世界と現実の境界に立ち続け、時に敵、時に味方、時に「ふらっと現れる」放浪者として動く。

玲とは互いに唯一理解し合える関係。

 ー冒頭ー


【編集室・23時32分】


編集室の壁に掛かったアナログ時計が、静かに“11時32分”を指していた。窓のない密閉空間。冷房はすでに切られ、機械の放熱がわずかにこもる。暗がりに浮かぶのは、編集用のモニターが放つ冷たい光だけ。まるで“次の一手”を待っているかのように、編集ソフトのタイムラインは、ある一秒を指して止まっていた。


そこには、劇中で“存在しない”はずの照明落ちと、不自然なカットつなぎが記録されていた。だが──その瞬間、郵便受けに何かが滑り込む音。


編集スタッフが帰ったはずのドアに、無言の風が忍び込む。男はゆっくりと椅子から立ち上がり、足音を殺して入り口へ向かった。


封筒は、真白な洋封筒。宛名も差出人もない。だが裏返すと、「R」のイニシャルが、赤インクで小さく刻まれている。


男は無言で中身を取り出した。折り畳まれた一枚の紙。それは、“指示書”だった。


【指示書】


《映像編集用・第8稿──R》


●次回の編集処理について

▶ フィルム第三リール 6:32 における照明の「一度の消失」を、逆再生で再確認せよ。

▶ そこに映る「立ち位置の矛盾」を、カットせず残すこと。

▶ 音声ガイド第5場の消失部分は、そのまま“欠損”扱いで処理。再挿入禁止。

▶ 赤いガラス越しの反射カット(B1撮影分)は、次回素材に組み込むこと。


●次の搬入先

【日付】7月23日(火)

【時間】午後2時30分

【場所】神奈川県某市「旧劇場ステージ・控室跡」

【渡す相手】※「朱音」同伴者あり。


──“次の舞台”はすでに整っている。


お前が“削除したはずの真実”が、彼らの眼前に再生されることを、私は歓迎する。


──Rルートマスター


【玲探偵事務所・朝9時】


編集スタッフは指先で震えるフィルムケースを見やった。あの「消された第5場」が、実は“意図的に外された”ものであると、彼はこの瞬間、初めて理解した。誰かが──この真夜中に──真実の“再上映”を始めようとしている。


そしてそれは、かつて彼自身が「削除」した断片に、すべてが繋がっている。


編集室のモニターが、一瞬だけノイズを挟んで、再び動き出した。フィルム6:32──照明が消える直前、モニターに“何か”が立っていた。


その姿は……画面の“はじまり”にして、“終わり”を告げる者──ルートマスターだった。


照明を点けずに開け放たれた窓から、蝉の声がかすかに聞こえる。玲は湯気の消えたマグカップを片手に、ノートPCの電源を入れた。起動音が静かに部屋に響き、受信ボックスが自動で更新される。


未読の新着メールが一件。件名には、目を引く文字列。


《【至急】映像に関する調査依頼(第三リールの件)》


玲の指が無意識にタッチパッドを滑り、差出人名に視線を落とす。クロームピクチャーズ。映像業界では中堅ながらも、芸術性と独自路線で知られる制作会社。そのアシスタントプロデューサー・古賀こが 陽奈ひなからのものだった。


玲は小さく息を吐き、画面に集中する。


「……やはり、ルートマスターの指示は複数の現場に及んでいる……」


メール本文を読み進めるうちに、玲の眉がひそまる。


“第3リールの6分32秒”。昨夜、あの男から届いた指示書と寸分違わぬ時間指定。


ルートマスターの気配が、また別の現場で動いている。玲は湯気の消えたマグカップをテーブルに置き、隣の部屋へ向かう。朱音のスケッチブックを手に取り、赤く染まった舞台のイメージを確認した。


「……次のシーンの予兆だな」


朱音の手にあるスケッチブックのページには、まだ誰も立っていない舞台と、血のように赤い照明が描かれている。玲は静かに息をつき、窓の外の朝の光に目をやった。


【クロームピクチャーズ・スタジオ前 朝10時】


「……朱音、気をつけて。ルートマスターの痕跡は、どこにでもある」


玲は低く呟き、周囲を一瞥する。スタジオ前には、朝の光に反射するガラス窓と、うっすらと人影が揺れる影だけがあった。


朱音は小さくうなずき、スケッチブックを抱き直す。


「……なんだか……舞台が、生きてるみたい……」


玲は眉をひそめ、入り口の自動ドアに手をかける。背後でタクシーのエンジン音が消え、静寂が一瞬だけ戻る。


「よし……まずは中に入って、状況を確認する。音声、映像、照明……すべてだ」


二人は息を合わせるようにスタジオの内部へ歩みを進めた。外の光がガラス越しに差し込むと、朱音のスケッチブックの赤い照明が、まるで予兆のように微かに光を反射した。


「……ここが、第3リールの現場……」


玲の声は、低くも確かな緊張を帯びていた。


【クロームピクチャーズ・スタジオロビー 朝10時05分】


「こちらが第3リールの編集室です。すでに担当者は……その、昨夜から不在でして」


古賀は声を落としながらも、手で室内を示す。玲と朱音は互いに視線を交わし、静かに中へ足を踏み入れた。


「映像は、こちらの端末で確認できます。問題の6分32秒もすぐに再生可能です」


朱音がスケッチブックを胸に抱えたまま、小さく息を吐く。


「……なんだか、ここも……生きてるみたい……」


玲はモニターに目を移し、指示書に沿ってチェックを始める。


「映像の照明落ちは一瞬だけ。だが、不自然な影や立ち位置の矛盾は確かにある……」


古賀は小さく頷き、手早く操作しながら映像を再生した。


「これを……意図的に操作した者がいる、としか考えられません。誰もいないはずの場所に、影が……」


玲は言葉を遮らず、静かに画面を見つめる。朱音の目も、画面とスケッチブックの両方を行き来し、何かを直感していた。


【クロームピクチャーズ・スタジオ・編集室前 朝10時12分】


「失踪したのは、編集マンの村山慎也むらやま しんやです。昨夜、編集室で作業していたのを最後に、連絡が途絶えました」


古賀の声はわずかに震え、背筋をピンと伸ばす。


「ただの失踪ではなく、作業中の映像に関連している可能性が高いんです……。第3リールの異変に気づいた直後ですから」


玲は眉をひそめ、モニターの影を見つめる。


「……なるほど。つまり、この6分32秒の不自然な部分と、村山の失踪は何かで繋がっていると」


朱音はスケッチブックのページを開き、映像の画面と照らし合わせる。


「……影が、動いてる……でも、人じゃないみたい……」


玲は静かに頷き、古賀に視線を向ける。


「分かりました。まずは現場を確認し、村山の足取りと編集データの状況を精査する必要があります」


古賀は軽く息をつき、頷いた。


「はい……どうぞ、よろしくお願いします」


【クロームピクチャーズ・スタジオ・会議室前 朝10時25分】


「その編集室で見つかったメモがこれです」


古賀は一枚のA4紙を差し出す。手書きの文字が、ぎっしりと並んでいる。


玲は紙を受け取り、目を細めた。


「第3リール:6分32秒、照明を1.4秒だけ落とせ。立ち位置の切り替えは逆順でつなげ。音声ガイド:該当箇所は削除。音の“空白”を残せ。目的は、『本当の犯人を隠すため』……」


朱音がページの文字を追いながら小さくつぶやく。

「……また、指示してる……誰かを操って」


玲は眉をわずかに寄せ、口を開く。

「“R”……ルートマスターだな。間違いない」


古賀は俯き、声を潜めた。

「彼の指示は、映像だけじゃなく、人の行動まで操っている……と思います」


玲は静かに頷き、窓の外を見やった。

「村山の失踪も、この指示書と無関係とは思えない……さあ、調査を始めよう」


【クロームピクチャーズ・スタジオ・編集室前 朝10時38分】


玲と朱音は、古賀に案内され、事件の起きた編集室へと向かった。


ドアの向こうには、昨日、最後に村山慎也がいた部屋。そして――彼が失踪する直前に、ルートマスターからの“編集指示”を受けた現場だった。


古賀が息を潜めて扉を押し開ける。

「……ここです。昨日、村山さんはこのデスクで作業していました」


朱音の指がデスク上の散乱したメモやフィルムケースに触れ、ふわりと埃が舞う。

「……静か……でも、なんだか、息づかいまで残っているみたい」


玲は手袋をはめ、モニターに視線を移す。

「画面の状態を見れば、6分32秒の照明落ちはすでに残されている。意図的だ」


古賀が顔を曇らせる。

「指示書通り……。でも、村山さんはなぜ従ったのか……そして今、どこに……」


朱音はスケッチブックを開き、画面の映像と照らし合わせる。

「……玲さん、ここに……誰か立ってる」


玲はモニターを凝視し、静かに呟いた。

「ルートマスターの影だ……画面越しでも、存在感が異常だ」


【神奈川県・湾岸スタジオ搬入口前 午前11時15分】


湿った海風が吹き抜ける湾岸の空気には、工業用のオイルと照明機材の熱が混じっていた。

スタジオ街の一角。低く唸るような音を立てる搬入口のシャッター前で、玲はポケットから小さなメモを取り出し、目を通した。


「午前11時17分、搬入完了後、第三リールは直ちに控室に移動。対象者以外立入禁止」


朱音が隣でスケッチブックを抱え、玲の手元を覗き込む。

「……控室って、この建物の中? それとも別の倉庫?」


玲はメモを折りたたみ、視線をシャッターの隙間に落とす。

「ここだ。この搬入口を通して、ルートマスターはまた“次の場面”を操作するつもりだ」


古賀が息を詰めながら、扉横で控える。

「……まさか、こんな時間に……誰もいないと思っていました」


朱音は小さく唸るように言った。

「でも、私……なんだか、見える気がする。誰かの手の動きが、ここを通るって」


玲は懐中電灯を握り直し、静かに周囲を見渡す。

「……行くぞ。静かに、気配を消して」


【神奈川県・湾岸スタジオ控室前 午前11時20分】


スタジオの扉が開き、見覚えのある女性が顔を出した。


「ようこそ。お待ちしてました。……音響担当の志倉 しくら・あずさです」


女性は黒いキャップを目深にかぶり、肩から録音機材のケースを提げていた。

「音の不自然さに気づいたのは、私です。リールの5場、本来あるはずの環境音がごっそり抜けてるんです」


玲が軽くうなずくと、志倉は手元のタブレットを操作し、波形のスクリーンショットを示した。


「私はフリーの音響エンジニアとして、映画やCMの現場に関わってきました。主に効果音の収録と、編集後の環境音の補正を担当しています。今回も、第三リール全体の音声をチェックするためにスタジオに呼ばれました」


朱音がスケッチブックを抱えたまま、少し身を乗り出す。

「でも、どうして環境音が抜けちゃうの?」


志倉は眉をひそめ、ゆっくりと答える。

「単純なミスではありません。意図的に音を消す操作がされている……誰かが、このリールに手を加えているのです」


玲が静かに腕を組む。

「……つまり、映像と音声、双方に痕跡を残さず介入している。ルートマスターの仕業だな」


志倉は小さくうなずき、ケースを肩に掛け直した。

「はい。だから、今回は外部の目も必要です。私一人では、この“痕跡”を完全に追うことは難しいんです」


【神奈川県・湾岸スタジオ控室南側 午前11時35分】


控室の南側。窓に嵌め込まれた赤いガラスは、既にひびが入っていた。

朱音の絵に描かれていた“割れ”と一致する位置だった。


朱音が息を飲み、スケッチブックを胸に押し当てる。

「……この窓……描いた通りだ……」


玲が赤いガラスに手をかざし、微かに揺れるひび割れを見つめる。

「意図的にここを狙った痕跡だな。光の加減で映像に変化を与えやすくしている」


志倉は録音機材を持ち直し、窓の割れに耳を近づける。

「ここからも微細な空気の振動音が入ってくる……わざと、音の反射を操作するために赤いガラスを割った可能性があります」


朱音が小さくつぶやいた。

「……ルートマスターって、全部わかって描かせてるみたい……」


玲は静かに頷き、朱音の肩に手を置いた。

「そうだ。スケッチは単なる記録じゃない。次の現場を導く“地図”だ」


【神奈川県・湾岸スタジオ第5場セット 7月14日(火)18:00】


玲はスケジュール表に目を通し、朱音と志倉に説明した。

「第5場は18時から19時30分まで。照明落ちは1分22秒のタイミングだ。録音中は誰も現場に入れない」


志倉は機材をチェックしながら頷く。

「了解です。録音ログは別紙で管理されていますね。村山Sさんが担当していましたが、指示はすべてR氏経由」


朱音がスケッチブックを開き、照明位置と赤いガラスの位置を確認する。

「……この配置、絵の通り……不自然に光が反射する場所がある」


玲は窓のひびを見上げて呟いた。

「ルートマスターは、光も音も利用して映像に“痕跡”を残そうとしている。だから、現場の全員が知らぬうちに誘導されるんだ」


志倉は深く息をつき、録音機材を肩にかける。

「分かりました。全ての反射と音を記録して、後で解析します」


朱音が小声で付け加えた。

「……こんなに全部計算されてるなんて……」


玲は微かに笑みを浮かべ、彼女の肩を軽く叩いた。

「だから、我々がここにいる意味があるんだ」


【神奈川県・スタジオD棟南側 控室 午後2時30分】


楠本連は静かに周囲を見渡し、ゆっくりと口を開いた。

「楠本連です。ガラスの反射や透過を解析し、映像に映り込む“微細な痕跡”を追跡する仕事をしています。過去には美術館や舞台セット、映画撮影現場での調査経験があります」


彼の声は低く落ち着いており、言葉に無駄がない。

「赤ガラス越しに生じる光の屈折、わずかな色彩の変化、そこに映る人影や物体の位置。これらを精密に測定し、映像解析に活かすのが私の専門です」


志倉が補足する。

「つまり、光の“痕跡”から現場の再構築が可能ってことです」


楠本はスキャナを操作しながら頷いた。

「現場の光と影のパターンから、人物の立ち位置や動線を特定します。ルートマスターのような人物は、光を利用して痕跡を残すことが多いので、私の技術が役に立つでしょう」


朱音がスケッチブックをそっと差し出す。

「……この赤い窓のひび、光の反射、全部わかるんですか?」


楠本は視線を朱音に向け、静かに答えた。

「はい。ガラスは、微細な歪みや傷を通して、過去の出来事を“写し出す”ことがあります。それを読み解くのが私の仕事です」


【神奈川県・スタジオD棟 控室 午後2時45分】


志倉梓はヘッドホンを装着し、手元のミキサーを微調整しながら静かに呟く。

「……このタイミング、やっぱりおかしい。環境音が完全に抜けてるはずなのに、微かに呼吸や衣擦れの音が残っている」


玲が隣で画面を覗き込み、眉を寄せる。

「これは編集ミスじゃない。誰かが意図的に残した痕跡だ」


志倉はうなずき、再生を一時停止してメモを取る。

「私は音響のスペシャリストです。スタジオ録音から野外収録、舞台音響まで幅広く担当してきました。録音に混じる微細な環境音から、人物の位置や行動、さらには“誰が指示を出したか”まで推測可能です」


朱音がスケッチブックを覗き込み、目を丸くする。

「……この赤い窓の前で、誰かが動いていた音も拾えるってことですか?」


志倉は微笑む。

「ええ。マイクは見えない物理的な動きも記録します。照明が落ちる1.4秒の間に、誰が、どの方向に動いたか、音の位相から特定できるんです」


玲は短く息を吐き、画面の波形に視線を戻した。

「つまり、編集室で消されたはずの“真実”も、音は密かに記録している――それを読むのが君の仕事だな」


志倉は頷き、ヘッドホンのボリュームを少し上げた。

「はい……そして、私はそれを解き明かします」


【神奈川県・スタジオD棟 控室 午後3時05分】


楠本連はスキャナを床に置き、赤いガラスの窓面に光を照射しながら静かに説明する。

「私は、ガラスや反射面に映り込んだ映像情報の再帰解析を専門にしています。単純な撮影では捉えられない、微細な反射像を追跡し、逆再生や角度補正によって“隠された動き”を可視化できます」


朱音がスケッチブックを握りしめ、息を呑む。

「……さっきの、手を三本指で掲げていた人……」


楠本はうなずき、モニターに表示された解析結果を指し示す。

「赤いガラスの表面に残った微かな反射です。光の屈折や角度を補正すると、外部の人物の動作が断片的に確認できます。手の指の欠損まで、解析で特定できました」


玲が眉をひそめ、スクリーンに目を凝らす。

「つまり、窓の反射を使って、現場の“隠された指示者”を間接的に観測できると……」


楠本は静かに頷く。

「はい。ガラスというのは、単なる透明な壁ではありません。正確に角度を計測すれば、反射像は時間と位置の痕跡を残します。編集で消された映像も、この手法で補完可能です」


志倉梓が横から加える。

「音と映像、双方からルートマスターの“手の痕跡”が浮かび上がる……つまり、消されたはずの情報は、完全には隠せないということですね」


楠本は微かに微笑む。

「そうです。視覚の残滓を読み解くのが私の役目です。窓の外に立つ三本指の人物、それが次の行動を示す“鍵”です」


朱音はスケッチブックを抱きしめ、静かに呟いた。

「……また、何かが始まるんだ……」


【神奈川県・スタジオD棟 南側廊下 午後3時22分】


玲は懐中電灯を握りしめ、朱音の手をそっと取る。

「……この廊下、何かが潜んでいる気配がする」


朱音はスケッチブックを抱きしめ、息をひそめる。

「光が……脈打っているみたい……」


廊下の端に、黒い服装の人物が一瞬、影として浮かび上がる。

「見えますか? 光の反応から、電源ノイズの微細なパターンまで解析できます」


声の主は、先ほど控室で紹介された楠本連だった。彼は小型の解析端末を手に持ち、廊下の蛍光灯の明滅をデータとして読み取っている。

「私は反射像だけでなく、光学系の微細な揺らぎや電気信号の異常パターンも解析する専門家です。この蛍光灯の明滅は、単なる老朽化ではありません。誰かの操作、もしくは機材の微細な調整痕跡が残っています」


玲が端末の画面を覗き込む。

「……つまり、ここも監視下にあった、と」


楠本は頷き、廊下の壁際をスキャンしながら続ける。

「光の微細変化から、影の位置、動きの方向、潜む人物の手の振れまで推定可能です。ルートマスターは、見えない経路で情報を操作していることが、この光の“脈動”からも読み取れる」


朱音は小さく息を呑む。

「……私たち、次に何を見つけるんだろう……」


玲は拳を軽く握り、廊下の先を見据える。

「……確かめるしかない」


【東京都・クロームピクチャーズ編集室 午後3時45分】


柚月あさひは、操作卓に向かって腰を下ろすと、ゆっくりとスクリーンに映像を呼び出した。

「よろしくお願いします。未編集フィルム解析担当の柚月あさひです」


彼女の指先は素早く、正確無比にタイムラインを操作する。黒髪を後ろでまとめ、細いフレームの眼鏡の奥で、画面をじっと見据えていた。

「私は、現場で撮影された生フィルムやデジタル素材の原本から、加工痕やカット編集の痕跡を抽出するのが専門です。撮影時の光の変化や音声波形も解析可能で、今回のように“意図的な編集の跡”を見つけ出すことも得意としています」


玲が眉を寄せ、画面を覗き込む。

「……ルートマスターの指示書にあった“6分32秒”の照明落ち、解析できるか?」


柚月は小さく頷き、モニター上でフィルムをフレーム単位で止める。

「はい。このフレームごとの光量変化と音声波形を合わせれば、単なる故障か、意図的な介入かをほぼ特定できます。映像の中の微細な“ずれ”も、ここで見逃しません」


朱音が小さな声でつぶやく。

「……この人、本当に全部見抜けそう……」


柚月は軽く笑みを浮かべ、手元の機材に集中した。

「解析は感覚じゃなく、数値と証拠です。間違いは許されませんから」


楠本がそっと彼女の肩越しに覗き込み、低く言う。

「さすが柚月さん。光と音、双方の“痕跡”から、誰も気づかない操作の証拠を炙り出すんですね」


柚月は画面を凝視したまま頷き、指先が止まることなく動き続ける。

「ええ。今回も、このフィルムから真実を引き出します」


【東京都・クロームピクチャーズ編集室 午後3時48分】


柚月あさひの指が止まる。モニターが黒に染まり、わずかなノイズがフレームを走る。

「……ここです」


玲は画面に顔を近づける。

「6分32秒……照明が落ちた瞬間だな」


朱音も懐中電灯のように画面を見つめる。

「本当に、何も見えない……」


柚月は冷静にタイムラインを確認し、波形を拡大する。

「光は消えています。でも……音声波形に微細な揺れがあります。自然現象ではなく、人工的な“制御”が加わった痕跡です」


楠本が眉をひそめる。

「逆再生の解析を加えれば、窓の外の映り込み……手の形も確認できるかもしれません」


柚月は頷き、精密なフレーム解析を開始する。

「0.02秒単位でフレームを追います。光の変化、影の揺らぎ、反射の角度……すべて数値化します。6分32秒の“真実”をここで捕らえます」


黒く途切れた画面の向こうで、微かな影が揺らめく。

玲の目が鋭く光った。

「……また、奴だ。ルートマスターが動いた痕跡だ」


【東京都・クロームピクチャーズ旧倉庫跡 午後4時12分】


朱音がページを押さえる。

「……ここ、見て……扉の向こうに、影がある」


玲が懐中電灯を向ける。

「静かに……誰も入っていないはずだ」


楠本がスキャナを取り出し、光の反射を測定する。

「赤いガラスの反射を解析すれば、人物の動きが読み取れます。影だけでも、動線を復元可能です」


柚月あさひがモニターで映像解析を続けながら言う。

「光と影の角度から判断すると、侵入者はわずか数秒の間に複数の位置を移動している。制御された動きです」


朱音の目が大きく開く。

「……ルートマスターが、ここに来ているの?」


玲は唇を引き結ぶ。

「間違いない……でも、彼の意図はまだ、完全には見えていない」


古びた扉の隙間から、湿った冷気がゆっくりと室内に流れ込む。

影と光が交錯するその空間で、三人の視線はただ一点――扉の向こう――に集中していた。


【東京都・クロームピクチャーズ旧倉庫棟 午後8時47分】


朱音が息をひそめ、スケッチブックを抱え直す。

「……玲さん、影が……動いた」


玲が手元の懐中電灯を微かに振る。

「落ち着け。気のせいじゃないか、まず確認しよう」


楠本が静かにスキャナを床に設置する。

「赤外線で影の動きを捕捉できます。わずかな温度差も逃さない」


柚月あさひがモニターを凝視しながら言う。

「解析開始。動きは複雑……複数の人物が連携している可能性があります」


朱音の指がページをめくる。

「……やっぱり、スケッチと同じ……扉の向こうに……あの人が」


玲は低くうなずく。

「ルートマスターだ。計画はすでに動いている。僕たちも慎重に動く必要がある」


倉庫の闇の中、湿った空気が彼らの呼吸を冷たく包み込み、影は静かに、しかし確実に、彼らの視界の端を這いまわっていた。


【東京都・クロームピクチャーズ旧編集室 午後9時17分】


早瀬は肩をすくめ、低く沈む声で語り始めた。

「当時の火災……第三ステージの照明系統は、映像同期回路と完全につながってた。誰かが舞台全体を“操作”していたんだ」


朱音が眉を寄せる。

「操作って……誰のために?」


早瀬は少し間を置いて答える。

「俺たちは演出用だと思ってた。特殊効果の回路だって言われて疑わなかった……でも、そのせいで事故が起きて、記録は全部消された」


玲はゆっくりと彼に近づき、目を見据える。

「つまり、最初は殺意なんてなかった。でも……結果として人が死んだ、と」


早瀬は黙ったままうなずく。

「うん……誰も悪くないと思ってた。でも、現場はあの時からもう“誰かに操られてた”状態だった」


朱音は小さな声で呟いた。

「それって……ルートマスターのこと?」


玲が首を軽く振る。

「まだわからない。でも、アキトという新人が現場に入ったあと、状況が変わった。彼は指示書通りに動き、すべてを整理していた」


早瀬は視線を落とし、拳を軽く握った。

「俺は従っただけだった……でも、アキトは完璧だった。手順も、意図も、すべて」


玲は静かに息を吐き、倉庫内の暗がりを見つめる。

「その手順の痕跡をたどれば、ルートマスターの手掛かりにできる」


朱音はスケッチブックを胸に抱き、微かに震える声で言った。

「……あの人、まだここにいる気がする」


玲は背筋を伸ばし、倉庫の暗闇に視線を走らせた。

「油断するな……影は静かに、でも確実に動いている」


その瞬間、倉庫内の赤外線スキャナが微かに光り、温度差の映像に一つの点がゆっくりと動くのが映った。


【スタジオD棟・控室 午後8時45分】


朱音はスケッチブックを胸に抱え、鉛筆を走らせながら小さくつぶやいた。

「……あの光の位置、やっぱり変だ……」


玲が隣に立ち、控えめに声をかける。

「朱音、窓の外もよく見て。光の角度や影の動き、何か手がかりになるかもしれない」


朱音は目を細め、外の闇に意識を集中させる。

「うん……なんとなく、誰かがここを見ているような気がする……」


玲は腕を組み、静かに頷く。

「気配かもしれないし、映像の歪みかもしれない。重要なのは、君が見たものを正確に描くことだ」


朱音は鉛筆を握り直し、紙面に窓枠のひび割れや赤いガラスの反射を慎重に描き込む。

「……窓のひびも、光も……全部、前と同じじゃない……でも微妙に違う」


玲はそっとスケッチブックを覗き込み、眉をひそめた。

「微差を見逃すな。それが“次の指示”に繋がる」


控室の空気は、扇風機の羽音と朱音の鉛筆の摩擦音だけに満ちている。

静かすぎる空間に、二人の視線だけが、闇の向こうに潜む何者かを探していた。


【旧ステージ・午後9時15分】


玲が足元の瓦礫を踏みしめ、低く声をかける。

「川名、朱音、気をつけろ。床板が腐っている箇所もある」


川名が懐中電灯を片手に前を歩きながら答える。

「了解……でも、ここ、本当に火災があったとは思えないくらい静かですね」


朱音は肩に抱えたスケッチブックを握りしめ、ゆっくりと周囲を見回す。

「……光の入り方、前と少し違う……でも、見覚えのある配置……」


玲はステージ中央で立ち止まり、両手を腰に当てる。

「ここに何かが残されているはずだ。光と影の微細なズレ、それを手掛かりにする」


川名が懐中電灯の光を揺らしながら天井を見上げる。

「天井の梁も、ほとんど崩れてる……でも、一部だけ異様に整ってる部分があります」


朱音はスケッチブックを開き、手早くその光景を描き写す。

「……前に描いた絵と同じ場所……でも、誰もいないはずなのに……」


玲は静かに息をつき、床の瓦礫の間に目を凝らした。

「ルートマスターが“次の指示”をここに残している。俺たちは、それを見つけ出す」


三人の足音だけが、旧ステージに低く反響する。

冷たい空気と埃の匂いの中で、過去と現在が微かに交差していた。


【旧ステージ・午後9時20分】


朱音はステージ脇の壁を見つめていた。

「ここ……何か、描かれてる……」


玲がそっと肩越しに覗き込む。

「描かれてる? 朱音、光の反射か何かじゃないか?」


朱音の指先が壁のひび割れに沿って滑る。

「違う……前に見た、あの“赤いガラスの窓”のひびと同じ形……まるで、誰かがわざと残したみたい」


川名が懐中電灯を朱音の指先に向ける。

「確かに……この形、偶然じゃない。何か意味があるはずだ」


玲は壁に手を当て、視線をじっと凝らす。

「ルートマスター……ここに、俺たちが気づくのを待っているな」


朱音は息をのみ、スケッチブックを胸に抱え直す。

「……描かなくちゃ……これ、残さなきゃ」


三人の視線は、ひび割れの奥に潜む“次の手がかり”に吸い寄せられた。


【旧ステージ・午後9時27分】


川名が低く唸る。

「アキトは、ただの加害者じゃない。自分の復讐劇を“編集した観客”にも見せたかった。そのために、10年分の演出を重ねてきた」


玲が薄く眉を寄せ、壁のひびをなぞる朱音の手元を見つめる。

「……演出、って……単なる映像操作じゃなくて、現実の人間をも巻き込んでいた、ってことか」


朱音は小さくうなずく。

「絵に描いたものと同じことが、全部起きてる……」


川名は暗い床に視線を落とす。

「奴は、自分のシナリオを、犠牲者を通して完結させようとしていた。全員が“駒”だったんだ」


玲は深く息をつき、拳を握る。

「……俺たちは、その駒のひとつを今、ここで目撃している」


朱音はスケッチブックを強く抱きしめ、壁のひびを見つめ続けた。

「……次は……どうすればいいの……?」


【赤窓荘前・午前7時45分】


灰色の雲が垂れ込め、小雨がしとしとと降り続ける朝。

玲たちは、山間にひっそりと佇む旧洋館スタジオ「赤窓荘」の前に立っていた。


朱音が傘を小さく揺らしながら、屋根の破損箇所を見上げる。

「ここ……絵と同じ場所だ……」


玲はゆっくりと周囲を見渡す。

「古い建物だ。雨で足元が滑りやすい。気をつけろ」


川名が背後で傘を広げ、低くつぶやく。

「ここに来るまでに、既に誰かに観察されている可能性がある……油断はできない」


朱音はスケッチブックを胸に抱え、雨の匂いを吸い込むように息をついた。

「……でも、見たい……全部、見たい……」


玲は静かに頷く。

「……この先で、ルートマスターの狙いを、はっきりと確かめることになる」


【赤窓荘・正面玄関・午前7時50分】


案内人であるスタジオ管理人が、ゆっくりと錆びた鍵を回した。

金属の擦れる音が静かな朝の空気を震わせる。


朱音が小さな声でつぶやく。

「……この匂い、古い木と鉄……」


玲は玄関の扉を押し開きながら、周囲を警戒する。

「足元に注意。内部は雨で濡れているはずだ」


川名が扉の隙間から中を覗き、低く言った。

「……人の気配はない……しかし、何かがおかしい」


管理人は沈黙のまま一歩引き、朱音たちを中へ導く。

だが、彼の背後に隠された視線と微かな笑みには、誰も気づいていなかった――

その人物こそ、ルートマスター・アキトである。


【赤窓荘・旧スタジオ内部・午前8時】


部屋の中は撮影の名残が強く残っており、壁のひび、古いフィルム缶、記録用のマイク端子がいくつか無造作に置かれていた。


笠井はゆっくりと歩み寄り、赤い窓枠に指を滑らせるように確認した。

「……塗装の剥がれ方が、やっぱり不自然だ」


朱音が窓のひびを見つめ、そっと息を漏らす。

「このひび……絵に描いたのと同じ形……」


玲は慎重に部屋を一周しながら、周囲の影を見渡す。

「誰かが意図的に手を加えた跡だ。10年前の火災の痕とは違う」


川名が床に残る埃を指でなぞり、低くつぶやく。

「足跡は……最近のものだ。しかも複数、だな」


笠井は窓越しに外を見やり、独りごとのように言った。

「この赤窓……ただの窓じゃない。記録装置としても機能している……」


【赤窓荘・旧スタジオ内部・午前8時】


玲はモニターに目を凝らす。

「……8分41秒、ここだ」


朱音がスケッチブックを開き、窓の反射を指でなぞる。

「わ……二人目の人がいる……」


川名は眉をひそめ、声を潜める。

「画面の奥、逆再生で見ないと気づかないくらい微細だ……でも確かに、誰かがいる」


笠井がカメラ位置と光の角度を計算しながら、低くつぶやく。

「赤窓の反射が導くのは……本来映ってはいけない存在だ。つまり、舞台の裏側で観察していた者がいたということだ」


玲はゆっくり頷き、朱音の肩に手を置いた。

「……ルートマスターは、映像の中で“観客”も操ろうとしている。計算通りに、全てを見せるために」


朱音は息を呑み、スケッチブックのページをそっと閉じた。

「……もう、逃げられないんだ……」


【赤窓荘・旧スタジオ内部・午前8時15分】


朱音が小さく息をつき、スケッチブックを窓にかざす。

「ここ……光の加減、反射の角度……全部合ってる」


玲がそっと朱音の肩に手を置く。

「うん、その通り。君のスケッチが、この場の“真実”を映している」


川名は窓の外を覗き込み、眉を寄せる。

「……逆光だ。正確に反射してる。誰もが見落とす位置だ」


笠井は懐中電灯を手に、細部を照らしながら低くつぶやく。

「ルートマスターは、この光と影の差を完全に計算している……つまり、ここに隠されたもう一人の観客も、正確に映っているはずだ」


朱音の目が、窓の外に潜む“何か”を捉えたかのように光った。

「……あそこ……いる……」


【赤窓荘・旧スタジオ編集室・午前8時42分】


玲が画面に視線を固定する。

「……逆再生にすると、立ち位置が微妙にずれてる……普通の人間の動きじゃない」


朱音がスケッチブックを覗き込み、指で窓際の人物をなぞる。

「こっち……向きが違う……この人、最初からここにいたみたい」


志倉が操作卓のフェーダーを弄りながら答える。

「環境音もおかしい。逆再生で音がズレてるのに、人物の声だけは自然に入ってる……誰かが意図的に仕組んでいる」


川名がモニターに近づき、額に皺を寄せる。

「つまり、映像そのものが“観客用に編集されている”……演出じゃなく、監視と誘導のための仕掛けだ」


玲は静かに頷き、朱音の肩に手を置いた。

「君のスケッチとこの映像が合致している……ルートマスターは、すべてを計算している」


【赤窓荘・旧スタジオ編集室・午前8時57分】


扉のノック音が編集室の静寂を切り裂いた。


玲が振り返ると、そこに立っていたのは見慣れない男。作業着にキャップ、白い肌。機材搬入業者に見えるが、空気が微かに違った。


朱音の視線が、その男の左手に止まる。


──指は三本だけ。


男は薄く笑い、低く、しかしはっきりと告げた。

「これで、ルートはすべて揃った。あとは、お前たちが選ぶ番だ」


言い残すと、男は群衆の隙間に紛れるように消えていく。


朱音はその背をじっと見つめる。

「……玲さん、あの人……」


玲はスケッチブックを抱える朱音の肩に手を置き、落ち着いた声で答える。

「……ルートマスター、間違いない。すべての“駒”を揃え、次の手を待っている」


川名は息を吐き、床に視線を落とす。

「……ここまで来るとはな。演出でも、罠でも、計画は完璧だ」


編集室の空気が一瞬、重くなる。

朱音は小さな手でスケッチブックを握りしめ、覚悟を決めたように頷く。

「……私たちが、止めるんですね」


玲は頷き、モニター越しに映る映像を見据える。

「そうだ。次の一手を、私たちが選ぶ」


【赤窓荘・地下控室・午前9時12分】


玲が慎重に石段を下りる。朱音は後ろから続き、スケッチブックを胸に抱えている。川名は一歩置いて観察しながら降りた。


床に散らばった古い衣装箱や折れた椅子を避けながら、玲は低い声で言った。

「……この空間、当時のまま残されている。火災以前の痕跡も、何かを語ってくれるかもしれない」


朱音が壁沿いに手を伸ばし、剥がれかけた漆喰に触れる。

「……ここにも、描かなきゃ。火のあととか、影とか……」


川名が軽く眉を寄せ、埃を払う仕草をしながらつぶやく。

「……匂いも湿気も、記録の一部だな。視覚だけじゃなく、感覚で痕跡を読む必要がある」


玲は地下控室の奥、古びた鏡の前で立ち止まり、微かな反射に目を凝らす。

「……あの時、誰がここに立っていたのか。誰が“演出”したのか。映像だけじゃ見えない部分を、今、私たちは確かめる」


朱音は小さな声で答える。

「……私、見える気がする。あの人の影……」


玲は静かにうなずき、部屋の奥へさらに歩を進めた。

「……ルートマスターはここにも、痕跡を残している。全ては、この空間の中に隠されているはずだ」


【旧倉庫棟・午前10時45分】


玲はゆっくりと倉庫内を歩きながら、足元の木製パレットを踏みしめた。朱音はスケッチブックを抱え、壁際の埃をかぶった機材棚を見つめている。


「……この匂い……昔、ここで見た光景を思い出させる」玲が低くつぶやく。


川名が倉庫の中央で立ち止まり、鉄製の撮影台を指さす。

「照明やカメラの配置も、当時とほぼ変わってない。演出の痕跡がそのまま残ってる」


朱音は棚の奥から埃をかぶった小さなカメラを取り出し、指でなぞりながら言う。

「……ここに立って、見たものを描きたい。光や影、揺れる埃まで」


玲は視線を天井に向け、わずかに揺れる鉄骨の影を追った。

「……この倉庫の中に、ルートマスターの意図がまだ隠されている。映像には映らなかった“動き”を、今ここで確認する必要がある」


川名が眉をひそめ、静かに言った。

「……足跡も、空気も、音も、全部手がかりになる。この場所自体が証人だ」


朱音が息をつき、静かにスケッチブックを開く。

「……描くよ。ここで起こったこと、全部、忘れないように」


 【旧倉庫棟・午前10時45分】


玲はゆっくりと倉庫内を歩きながら、足元の木製パレットを踏みしめた。朱音はスケッチブックを抱え、壁際の埃をかぶった機材棚を見つめている。


「……この匂い……昔、ここで見た光景を思い出させる」玲が低くつぶやく。


川名が倉庫の中央で立ち止まり、鉄製の撮影台を指さす。

「照明やカメラの配置も、当時とほぼ変わってない。演出の痕跡がそのまま残ってる」


朱音は棚の奥から埃をかぶった小さなカメラを取り出し、指でなぞりながら言う。

「……ここに立って、見たものを描きたい。光や影、揺れる埃まで」


玲は視線を天井に向け、わずかに揺れる鉄骨の影を追った。

「……この倉庫の中に、ルートマスターの意図がまだ隠されている。映像には映らなかった“動き”を、今ここで確認する必要がある」


川名が眉をひそめ、静かに言った。

「……足跡も、空気も、音も、全部手がかりになる。この場所自体が証人だ」


朱音が息をつき、静かにスケッチブックを開く。

「……描くよ。ここで起こったこと、全部、忘れないように」


【旧倉庫棟・午前11時05分】


機材搬入から、まだ十五分ほどしか経っていなかった。

埃が微かに舞い上がるたび、天井の照明がその粒を白く縁取る。


朽ちた編集卓と、ラベルの剥がれたリールラック――

その狭間で、男は静かにフィルム缶を持ち上げた。


キャップを目深に被った作業員。

だが、その動きは無駄がなく、妙に洗練されていた。


彼は無言のまま、フィルム缶の蓋に親指をかけ、

カン……

と、金属が乾いた音を立てて開く。


ひやりとした冷気が、指先から腕へと伝わった。


「……やっぱり、触り慣れてる奴の手つきだな」

背後でその様子を見ていた玲が低くつぶやく。


朱音はその肩越しに覗き込みながら、男の指先をじっと見つめた。

「……あの人、なんか……変」


男は返事をしない。

ただ、フィルムの端をそっと摘み上げる。

その瞬間――


朱音の目が細く揺れた。


「……玲さん……指が……」


一瞬、影が揺れ、

男の左手が照明の明滅に照らされる。


指が、

三本に“見えた”。


玲が一歩踏み出した瞬間、男はゆっくりと振り返った。

その口元に、薄い、薄い笑みを貼りつけて。


「――大切に扱えよ。これが、最後の“ルート”だから」


その声は、倉庫の空気よりも冷たかった。


次の瞬間、男はフィルム缶をラックに置き、

まるで溶けるように、倉庫の隅の影へと消えていった。


残された冷たい金属音が、

しん、とした静寂の中にいつまでも響いていた。


【旧倉庫棟・午前11時30分】


アキトは石造りの階段に腰を下ろし、膝の間に顔を伏せた。

「玲……お願いだ。もう、誰も傷つけたくない」


玲はアキトの肩越しに視線を送る。

「……君が背負ってきたものは、誰も代わりに背負えない重さだ」


アキトは顔を上げ、かすれた声で続けた。

「でも……僕は間違い続けた。選ばなかった声が、誰かを苦しめる。だから、僕に代わって“正しい判断”をしてほしい」


朱音がそっと隣に座り、スケッチブックを膝に置く。

「アキト……私たち、見逃さない。全部描くから」


玲は深く息を吸い込み、アキトの目をまっすぐに見据える。

「……わかった。君の責任を奪うつもりはない。だけど、一緒に、この迷宮から抜け出す方法を探そう」


アキトの肩の力が、わずかに抜けた。

「ありがとう……玲」


倉庫内の空気が、少しだけ柔らかく揺れる。

選択の時は近いが、救いはまだ、ここに残っていた。


朱音は窓際に立ち、スケッチブックを胸に抱きながら外を見つめていた。

「ここ……確かに、前に描いた通りだ」


玲はそっと隣に立ち、彼女の視線の先を追う。

「君の目は、ただ描くだけじゃなくて“見抜く”力がある」


朱音は小さくうなずき、鉛筆を持つ手に力を込めた。

「描いたら、わかるんだ……何か、違うってことが」


玲は微かに笑い、控室の机に置かれた資料を手に取る。

「その直感が、今回の手がかりになるかもしれない」


窓の外、午後の日差しが少しずつ傾き、廊下の影が長く伸びていく。

静かな室内で、二人の時間だけがゆっくりと流れていた。


朱音は息を飲み、スケッチブックを握りしめた。

「……あの人、左手の薬指が……ない」


玲が眉をひそめ、そっと画面を覗き込む。

「間違いない。これはただの観客じゃない……ルートマスターの影だ」


朱音の目がわずかに揺れる。

「でも、どうしてここに……?」


玲は画面の映像を指でなぞるように示しながら答えた。

「この位置、この角度……あの人は自分の存在を“見せる”ためにわざと立っている。つまり、次の指示が隠されている」


朱音は小さくうなずき、鉛筆を取り直してスケッチブックに描き加える。

「……ここから全部、わかるんだね」


午後の光が差し込む控室の静寂に、二人の息遣いだけが響いた。


午後3時42分、神奈川県・旧洋館スタジオ内控室


朱音はスケッチブックを両手で抱き寄せ、ページを閉じた。

「……これで、終わるのかな……」


玲がそっと近づき、彼女の手元を見つめる。

「朱音、君の描いたものが、この舞台を締めくくる。最後に誰かに手渡されるために、描かれたんだ」


朱音は小さく頷き、目を伏せる。

「だれかのための……さいごのえ……」


控室の空気は、沈黙の中でかすかに揺れた。

窓の外から射し込む光が、スケッチブックの表紙に反射して、古びたラベルの文字をそっと照らす。


玲は柔らかく息をつき、朱音に手を添えながら言った。

「さあ、見届けるときだ。この舞台の幕が、本当に下りる瞬間を」


朱音の目にわずかな光が宿る。

「うん……私、ちゃんと見届ける」


午後の光が差し込む控室は、しんと静まり返ったまま、次の瞬間を待っていた。


午後3時42分、神奈川県・旧洋館スタジオ内控室


朱音はスケッチブックを両手で抱き寄せ、ページを閉じた。

「……これで、終わるのかな……」


玲がそっと近づき、彼女の手元を見つめる。

「朱音、君の描いたものが、この舞台を締めくくる。最後に誰かに手渡されるために、描かれたんだ」


朱音は小さく頷き、目を伏せる。

「だれかのための……さいごのえ……」


控室の空気は、沈黙の中でかすかに揺れた。

窓の外から射し込む光が、スケッチブックの表紙に反射して、古びたラベルの文字をそっと照らす。


玲は柔らかく息をつき、朱音に手を添えながら言った。

「さあ、見届けるときだ。この舞台の幕が、本当に下りる瞬間を」


朱音の目にわずかな光が宿る。

「うん……私、ちゃんと見届ける」


午後の光が差し込む控室は、しんと静まり返ったまま、次の瞬間を待っていた。


午後2時17分、神奈川県・響映スタジオ・搬入口前


玲は立ち止まり、静かに呟いた。

「……アキトか」


安藤光希は、にっこりと微笑みながら答える。

「ようこそ、響映へ。ご案内します」


玲の目は無意識に左手へと向かう。

黒い作業用手袋はしていない。その左手は――三本の指しか見えなかった。


「……君の手は……」


安藤は軽く肩をすくめ、淡々と言った。

「ええ、少し不便ですが、仕事には支障ありません」


朱音は小さく息を呑み、スケッチブックを握り直す。

「……左手、三本……やっぱり……」


玲は唇を引き結び、静かに頷いた。

「……やはり、ルートマスターは、ここにいる」


午後2時45分、神奈川県・響映スタジオ・編集ブース


玲は操作卓の前に立ち、目を細めてモニターを見つめた。

「……第三リール、6分32秒だな」


朱音はスケッチブックを胸に抱えたまま、静かに横に立つ。

「ここ……光の加減が……」


安藤光希は肩越しに画面を覗き込み、淡々と告げる。

「逆再生の準備は整いました。こちらの映像を、すべて確認してください」


モニターの映像は黒く途切れ、次の瞬間には照明が落ちる瞬間が映し出される。

玲は指先で画面をなぞり、音声波形にも目を走らせた。

「……環境音が消えてる……だが、微かな残響が……」


朱音は息を呑み、そっと囁く。

「……誰かが、ここにいた……」


安藤は冷静に頷く。

「その通りです。画面に映る人物の手の形……三本指の左手が示す通り、ルートはすべて揃いました」


午後2時48分、神奈川県・響映スタジオ・編集ブース


玲の目が画面に釘付けになる。

「……膝を……?」


朱音の手がスケッチブックのページに触れる。

「光の方向……床の影……確かに、人がいる……」


安藤光希は無言でスクリーンを指さす。

「映像が示すのは、物理的に不可能な位置関係です。逆再生の効果と微細な光の反射を利用した演出……ただし、これは“現実に存在した痕跡”です」


玲は唇を噛み、眉間にしわを寄せた。

「誰が……この瞬間を作った……」


朱音はページに描かれた線を指でなぞる。

「……ルートマスター……アキト……?」


安藤は短く頷き、低い声で告げた。

「その可能性が最も高い。これで、第三リールの“選ばれなかった声”は、完全に記録されました」


【時間】午後3時05分

【場所】神奈川県・響映スタジオ・ステージ奥・照明制御卓前


玲は封筒の中身を再度確認しながら、声を落としてつぶやいた。

「……A-0とは、この舞台上で“選ばれなかった対象”を指す符号か」


川名が腕組みをし、天井の古い配線を見上げる。

「選ばれなかった……って、観客側の誰か、という意味か?」


朱音はスケッチブックを抱きしめ、机の端で小さく頷いた。

「……光と影の動き、観客の席、全部描いたの……私、見たことがある」


安藤光希が制御卓のスイッチを軽く押す。

「指示通りに照明を操作すれば、再生される映像は完全に意図された通りに動きます。逃げ場のない演出です」


玲は薄く息を吐き、封筒を握り直す。

「……やつは、これで観る者すべてを“試す”つもりだったんだ」


【時間】午後3時18分

【場所】神奈川県・響映スタジオ・ステージ中央・仮設テーブル前


玲は仮設テーブルに手を置き、三つの断片を順に確認した。


「……編集指示書、未編集フィルム、そして朱音の絵。すべてが“ルートマスターの意図”を示している」


朱音はスケッチブックを抱え、視線を落として小さく息をつく。

「……私、ここに描いたんだ……誰かの動き、光の位置……でも、これは……まだ起きていないこと」


楠本 連がスキャナを肩にかけ、静かに近づいた。

「照明と反射のデータを組み合わせると、未編集フィルムの中で“欠けた情報”の位置が正確に再現できます。ここから、誰がどのタイミングで立ち、どの指が動いたかまで判明する」


志倉 梓がヘッドフォンを耳にあて、音声波形を凝視する。

「録音された環境音の欠損部分も、微細なノイズ解析で補完可能です。これで、映像だけでなく、音声側の“隠された手掛かり”も可視化できます」


玲は深く息を吸い、指示書に記された文字をなぞるように目を落とす。

「……やつは、映像と音、そして“絵”を使って、観る者を導く。これがルートマスターのやり方だ」


柚月あさひがモニターを前に静かに呟く。

「全ての断片を統合すれば、過去の“選ばれなかった声”が明確になる。つまり、次に起きるべき“決定の瞬間”が、ここに再現される」


玲は朱音に目を向ける。

「……君の絵も、重要なパズルのピースだ」


朱音は小さく頷き、スケッチブックをテーブルに置いた。

「……見せる……未来を、ちゃんと」


【時間】午後3時25分

【場所】神奈川県・響映スタジオ・編集室


静かな編集室の空気を、ひとつの電子音が破った。


──ピッ。


玲は無言でモニターを見つめ、朱音はスケッチブックを胸に抱きしめたまま固まる。

楠本 連が手元のスキャナをわずかに調整する。

「映像解析が完了しました……赤窓越しの人物、左手三本指の動き、光と影の変化、すべて再現可能です」


志倉 梓はヘッドフォンを押さえ、微細な波形の変化を読み取る。

「音声も補正しました。欠落した環境音と、逆再生によるノイズ再現。これで映像と音声が同期します」


柚月あさひが手元のタブレットを指でなぞる。

「全データ統合完了。これで“選ばれなかった声”が映像上に現れます」


玲は深く息をつき、朱音に目をやる。

「……君の描いたものが、次の一歩を決める。準備はいいか?」


朱音は小さく頷き、スケッチブックをテーブルに置いた。

「……うん、見せる……未来を、ちゃんと」


電子音──ピッ、ピッと続き、モニターが次の再生フレームへと移った。


【時間】午後3時27分

【場所】神奈川県・響映スタジオ・編集室


編集室の照明は抑えられ、わずかに机上を照らすモニターの光だけが、玲の表情を浮かび上がらせていた。


柚月あさひが静かに声をかける。

「玲さん、この再現には少し特殊な処理が必要です。通常の解析では消えた影の動きや微細な照明変化は認識できません」


楠本 連がスキャナを手元で微調整する。

「赤窓の反射データとフィルム上の逆再生情報を統合しました。人物の左手の三本指の動き、光と影の変化、ほぼ完全に再現可能です」


志倉 梓はヘッドフォン越しに音を確認しながら、声を低く響かせる。

「欠落した環境音も復元しました。ただし、逆再生処理によるノイズの微細な揺らぎもそのまま残しています。意図的な空白が意味を持つので」


玲は三人のスペシャリストの動きを見守りながら、ゆっくり頷いた。

「……わかった。これで、選ばれなかった声を映像上に確かに残せる」


朱音はスケッチブックを抱き締め、息を詰めて見つめる。

「……見せるんだね、ルートマスターの選ばなかった未来を」


モニターの光が一瞬強く輝き、編集室に沈黙と緊張が張り詰めた。


【時間】午後3時45分

【場所】響映スタジオ・第2階段通路


《……こちら外部警備。第2階段通路で、身元不明の編集者を確認。映像機材ケースを所持。現在、追跡中》


無線越しの声は冷静だが、背後に潜む緊張が微かに伝わる。


アキトは黒い作業服に身を包み、キャップを目深にかぶったまま影のように階段を下る。

指示通り、彼は外部警備員として振る舞いながら、玲たちの動きを遠巻きに観察する。


《追跡中。対象は赤窓荘方面に向かう。視認は保持、接触は避ける》


アキトの左手は、やはり三本指。だが外部警備員の制服と作業用手袋で完全に隠され、誰も異変に気づかない。


階段の影を縫うように、彼は静かに移動を続けた。

《……これで、監視は完了。直接介入はせず、すべての動きを記録下に置く》


無線が短く“ピッ”と鳴るだけで、現場は再び静けさに包まれる。


【時間】午後4時12分

【場所】響映スタジオ・控室窓際


朱音はスケッチブックを膝に抱え、そっとカーテンの隙間からステージを覗き込む。

室内の静寂は、照明が落とされたステージの影と一体化し、時間の感覚すら凍りついたかのようだった。


「……誰もいない……でも、なぜか……感じる」


彼女の小さな声に、玲が隣でうなずく。

「……ああ、ここに何かが残っている。目には見えない、でも確かに存在するものだ」


朱音はページをめくり、ステージの影をそのまま描き写す。

その鉛筆の線は、静かな空間の奥に潜む“もう一人の存在”をなぞるように動いていた。


控室の端に立つ楠本連は、静かに反射スキャナを調整する。

「赤窓のガラス越し……映り込みに微かな動きがある。光の角度を変えれば、過去の演出がわかるかもしれない」


朱音の目は描く手を止め、窓越しの微細な光の揺れに集中した。

それは、ステージの過去と未来を繋ぐ“欠けた瞬間”を静かに映し出していた。


【時間】午後4時25分

【場所】響映スタジオ・控室


男――アキトは、静かに朱音のスケッチブックに目を落とす。

「君の描いた“未来”は、もう他者の意志で上書きされ始めている。フィルムもそうだ。“素材”が、自分がどう使われるかを選び始めた」


朱音は息をのむ。

「どういうこと……?」


アキトは肩越しに控室のステージを見やる。

「全ては“選択”の連鎖だ。だが、君の手で描かれた線だけは、まだ消せない。誰も触れられない場所に残る」


玲が少し前に出て、声を落とす。

「君の左手……三本指に見えたけど、実際は?」


アキトは微かに笑みを浮かべる。

「フェイクだ。観る者の意識を操作するための演出。だが、指先に込めた意味は本物だ」


朱音の視線は、鉛筆を握る手に釘付けになる。

「……描くことが、選択になるんだね」


アキトは静かに頷く。

「そう。君の描く未来は、まだ誰にも縛られていない」


彼の足元に、細く巻かれたフィルム缶が落ちていた。

だがその瞬間、頭上の通気口から閃光弾のような光が走った。


【時間】午後4時38分

【場所】響映スタジオ・第2ステージ袖通路


薄暗いステージ袖に、乾いた足音が一つ、また一つと重なった。

照明は落とされ、非常灯だけが赤く揺れる。


アキトが一歩後ずさった瞬間――。


「動くな。暗号《影の号令》、起動済みだ。ルートマスター・アキトは護衛対象」


低く裂くような声が闇を走った。


真っ先に姿を現したのは、漆黒の戦闘服を纏った 成瀬由宇。

灰色の瞳が一切の感情を見せず、アキトの動線を寸分違わず封じる。


すぐ後ろから、暗色のマスクをつけた 桐野詩乃 が無音で壁際のスタッフを押さえ込み、

最後に、ダークグレーのロングコートを揺らしながら 安斎柾貴 が通路全体の逃走ラインを塞いだ。


「……影班?」

玲が息をひそめた。


由宇は振り返らずに答える。

「誤解するな、玲。対象は保護だ。敵対行動は確認していない」


詩乃が、制圧したスタッフの手首から不審な発信機を抜き取りながら言う。

「こいつ、外部の追尾コードを持ってた。アキトが誘導された可能性が高い」


安斎は通路奥を冷たい眼で見据える。

「……“観客席の外側”が動いてる。ここは戦場じゃないが、すでに舞台は囲われてる」


アキトは、影班の三人をゆっくり見回し、わずかに苦笑した。

「まさか……君たちまで“別ルート”に気づいているとはね」


由宇が短く返す。

「お前の選択だろ、アキト。

 だが――“朱音の未来”に干渉するなら、影は黙っていない」


その言葉に、朱音は小さく肩を震わせた。

玲がそっと彼女の背に手を置く。


緊張の静寂の中、非常灯が赤くぱちりと揺れ、

ステージ奥の暗闇が、まるで次の幕が降りるのを待っているかのように息づいていた。


【時間】午後4時41分

【場所】響映スタジオ・仮設控室前の薄暗い廊下


パタン──、パラ……。

朱音のスケッチブックが、誰の手も触れていないのに、風に押されたようにページをめくる。

紙と紙が擦れる微かな音が、やけに大きく響いた。


朱音は息を飲み、そっと表紙を押さえた。

「……ねぇ、玲。いま、誰か……」


玲はすぐに朱音の手を包み込むように抑え、耳を澄ませた。

「……風じゃない。いまのは“合図”だ」


その言葉とほぼ同時に、控室の照明がわずかに明滅した。

アキトが背後で一瞬だけ息を呑む。

「スケッチの“順番”が……書き換わっている。まるで、別の誰かが“編集”したみたいに」


朱音は震える声で言った。

「私……まだ描いてないページが、あるのに……未来が先に動いてる」


玲は朱音の肩に手を置き、低く答える。

「大丈夫だ。君の描いた線は、君のものだ。勝手に動いてるのは“向こう側”の意思だ」


アキトはその言葉に、かすかに顔をゆがめた。

「……やっぱり、来てる。“選ばれなかった声”が、形を持ち始めている」


朱音は胸に抱えたスケッチブックをぎゅっと握りしめた。

パラ……と、もう一枚だけ、勝手にめくれる。


そのページに描かれていたのは――

赤い窓と、その手前に立つ「三本指の影」。


朱音が小さくつぶやく。

「……これ、さっき外にいた“あの人”……?」


玲は、わずかに眉を寄せたまま、朱音の震える手を守るようにそっと覆った。

「いいか、朱音。これは“脅し”じゃない。“呼びかけ”だ。誰かが君に見せたい“次の一手”がある」


アキトはゆっくりと目を閉じる。

「……そしてそれを止められるのは、“描ける者”と“読める者”だけだ」


スケッチブックはもう動かない。

だが静寂の奥で、誰かが次のページを待っているような気配だけが、確かに残っていた。


【時間】午前4時12分

【場所】旧・薊座(裏口)


まだ夜の深さが残る時刻だった。

都心から少し外れた閑静な通りに面した古びた劇場――「旧・薊座(あざみざ)」の裏口の錠が、内側から音を立てて開いた。


かちゃり、と乾いた金属音。

そこから漏れたわずかな光が、濡れたアスファルトに細長い線を描く。


静かに姿を現したのは、朱音だった。


スケッチブックを胸に抱え、顔を上げる。

風は冷たく、劇場の壁面に積もった夜露が光を反射していた。


パタン──、パラ……。

彼女の指先でページがめくられ、紙と紙がこすれる小さな音が闇に溶ける。


「……ここ、だよね」


朱音の声はかすかで、だが迷いがなかった。


彼女が見つめる先――

旧・薊座の客席へと続く階段の影に、誰かがいた。


黒い帽子、黒いコート。

劇場の余響のようにそこに存在する“影”。


「……君が来ると、思ってたよ」


その人物は、ゆっくりと顔を上げた。

指が三本だけの左手を、光の中に差し出す。


だが朱音は気づく。

その“欠けた指”は、不自然に影が伸びている。

――実体ではなく、照明の角度で作られた“偽装”。


影がずれ、輪郭が正しく戻った瞬間――


アキトは、静かに微笑んだ。


「やっと……“選ばれなかった声”を、届けられる」


その声は、夜明け前の空気よりも静かで、

どこか救いを求めるようでもあった。


【時刻:午前5時12分】

【場所:玲探偵事務所・資料室】


朱音の指先は、机の上のスケッチブックから離れない。

白紙だったはずの一枚の絵が――夜のうちに、勝手に形を変えていた。


パタン……とページをそっとめくるたび、淡い鉛筆線が“増えている”。

それは誰かが描き足したように見えるのに、線のタッチは間違いなく朱音自身のものだった。


隣で記録端末を操作していた安斎が、気配を察して顔を上げる。

「……朱音ちゃん。今、触った?」


朱音は小さく首を振った。

「……ちがうの。わたし、描いてない」


安斎は椅子を引き寄せ、絵を覗き込む。

彼の青い瞳が僅かに細められた。


「線の圧が一部だけ違う。昨日の君の筆圧じゃない。

 ――“記録汚染”だ。外部から絵そのものに介入が入ってる」


朱音の唇が震える。

「また……“あのひと”が?」


安斎は否定しなかった。

むしろ、静かに目を伏せる。


「これは“誘導”だ。君の絵を通して、誰かが何かを伝えようとしてる。

 けど……この描き足し方は、アキトじゃない。もっと幼い。もっと揺れてる」


朱音は絵に映った“新しい線”を指でなぞった。

そこには――


*最前列の椅子

*左端の影

*そして、小さく震える文字で


【みてる】


そう書かれていた。


朱音は息を呑んだ。


安斎は、静かにスケッチブックを閉じた。

「……朱音ちゃん。これは“警告”だ。

 君の絵を媒介にできる誰かが、もう劇場の中に入ってる」


【時刻:午前4時12分】

【場所:旧・薊座/外壁 吹き抜け部】


薄藍の空に、まだ朝の匂いはなかった。

湿った夜気が、薊座の石壁に低くまとわりつく。

成瀬由宇は、外壁の梁に片足をかけ、風を裂くように双眼鏡の角度を変えた。


小さく呼気を吐き、通信を開く。


「中谷、潜入完了。裏ルートからの気配は……“人間”じゃない。

 フィルム由来の残留記憶、可能性あり」


通信の向こうで、無線が一拍遅れて反応する。


《了解。舞台中央に“揺れ”を確認。……記録の残渣が動いてる。成瀬、深入りはするな》


成瀬は目を細め、吹き抜けの奥に視線を滑らせた。

暗がりの中――舞台の幕が、人の手も風もないのに、ゆっくり揺れている。


「……あれは“誰か”を待ってる。昔の幕の癖じゃない。

 まるで、開演前の合図だ」


黒い影が、舞台袖を横切った。

だが、その影は“形を持たない”まま、照明の届かない奥へ吸い込まれていく。


成瀬は無意識に顎へ手をやった。

直感が、静かに告げていた。


(この劇場にいるのは……ルートマスター本人だけじゃない。“作品に刻まれた何か”が、まだ終わりを拒んでいる)


――そして、その“始まりの気配”に、朱音の描いたスケッチが反応し始めていたことを、成瀬はまだ知らなかった。


【時間】午前0時41分

【場所】旧・薊座/舞台袖


プロジェクターが、かすかに唸り声を上げた後――ふっと沈黙した。

冷えた空気が舞台袖に流れ込み、薄暗い空間の温度がひとつ下がる。


中谷は動きを止め、スクリーンを見上げた。

途端に、そこに映っていた“観客席の影”のひとつが、音もなく ゆっくりと首をこちらへ向けた。


静かに、確実に――こちらを見ている。


「……あれ、実在する観客じゃない」

中谷は喉を鳴らしながら呟いた。

「再生された“残留記憶”が……こっちに気づいたのか?」


スクリーンの中の影が、さらに輪郭をはっきりさせる。

照明もないのに、逆光のような“無音の明度”が影を縁取った。


その瞬間、 舞台袖の闇の奥から誰かが歩いてくる気配 がした。


足音はない。

だが、確かに床板が軋む。


「……中谷、すぐにその場を離れて」

無線から、成瀬由宇の低い声。

「“影の記録”が形を持つとき、人間は干渉を受けやすい。今の君は、観られている」


中谷はじり、と後ずさった。

だが視線を外せない。


スクリーンの影は、完全にこちらを向き――

次の瞬間、

その“左手”だけが、画面からゆっくりと持ち上がった。


三本指。

いびつに欠けた手。


「……ルートマスターの“観客側の姿”……?」

中谷が息を呑んだ、そのとき。


スクリーンの中の影が、まるでそこに“壁など存在しない”かのように、

――すっと前へ、にじみ出るように動いた。


空間が軋む。

映像と現実の境界が、ゆるく溶けた。


暗い舞台の上で、絞り出すように中谷が呟いた。


「……これ、もう“上映”じゃない……

 “誰かが続けてる編集”だ……」


影は近づく。

ただひとつの意思を持つように。

そして、まるで welcoming のように――三本指を、そっと広げた。


【時間】午前3時42分

【場所】旧・薊座 映写室(搬入口側)


川名の足音が、ひび割れた床に吸い込まれていく。

室内を満たすのは、長い年月の中で染みついた 焦げたフィルムと油の匂い。

天井近くの通風口が、ごく低く鳴りながら風を送り込み、その振動が棚の古いリール缶をかすかに揺らした。


ランプの柔らかな光が広がり、映写機の影が壁にゆらぐ。


「……ここだけ、時間が止まってるみたいだな」


川名が低くつぶやく。

その声は、乾いた空間に吸い込まれ、静かに消えた。


彼女は棚の最上段に置かれた古いフィルム缶に手を伸ばした。

指先が触れた瞬間、金属の表面がじんわりと温かい。


「(……誰か、ついさっき触った?)」


眉を細く寄せ、慎重に蓋を開ける。

中には――一本の未現像テープ。


側面には、震えるような筆跡でこう記されていた。


《観客席・左端 A-0

 レンズ越しの“振り返った影”》


川名の呼吸が止まる。

そのとき。


映写室の奥。

暗闇の中で、静かに置かれたスクリーンが――


ひとりでに、わずかに揺れた。


「……誰だ?」


返事はない。

ただ、揺れたスクリーンの先の影が、薄く、ゆっくりと形を変えながら――


こちらを、“見ている”。


ランプの灯りが、フィルム缶の縁で硬く反射した。


2025年12月11日 03:42

旧・薊座 旧映写室


鉄扉が、誰かの呼吸に怯えるように軋んで閉じた。

川名詩織は深く息を吸い、黒いコートの袖を一度払い、

バッテリーランプを棚に置くと、弱い光が円形に床を照らした。


焦げたフィルムの匂い――

熱ではなく、“焼かれた記録”特有の匂いだ。


詩織は手袋越しに金属缶を持ち上げ、そっと開ける。

中には、中谷が数時間前に持ち帰った一本のフィルム。


本来、全フレームが破棄処理済みのはず。

だが、彼女がフィルムを光にかざした瞬間──


「……やっぱり、動いてる」


フレームの中心。

わずかに揺れる人影が、光の反射ではなく、

“意志”のように輪郭を変えていた。


詩織は息を呑み、無意識に一歩後ずさった。


「記録の消失じゃない……上書き。

誰かが“ここに残れ”って命じた痕跡」


ランプの明かりがまた揺れる。

映写室の奥から、フィルムと同じ周期で──。


詩織は振り返り、ヘッドセットに手を伸ばしながら、

かすれた声で呟いた。


「……中谷、聞こえる? 旧映写室の残留……動いてる。

これは“記憶”じゃない。誰かが、まだここにいる」


2025年12月11日 午前5時12分

旧・薊座 舞台裏・楽屋スペース


朱音は、静まり返った楽屋でスケッチブックを開いた。

薄い紙が朝の気配に震え、まだ冷たい空気が彼女の頬を撫でる。


パラ……、とページが自動的にめくれた。


朱音は息を呑んだ。


昨日まで“空白”だったはずのページに――

黒い舞台、揺れる幕、そして、その隙間から覗く「誰かの片目」が描かれていた。


「……誰?」朱音は小さく呟いた。


後ろから足音がする気配。

だが楽屋の入り口には誰もいない。


その瞬間、ページの中の“片目”が、ほんのわずかに視線を動かした。


朱音「……やっぱり、動いてる」


スケッチブックの端を握る指先が震える。

それは恐怖ではなく――確信の震え。


「朱音」


低く、しかし優しい声が楽屋の入り口から届いた。


振り返ると、暗がりの中から安斎柾貴が姿を現した。

その青い瞳は、眠気より強い緊張の光を帯びていた。


安斎「今、ページが……動いたよな?」


朱音はこくりと頷く。


朱音「うん。……中にいる。『誰か』が」


安斎は一歩近づき、朱音の手元の絵を覗き込んだ。

見えた瞬間、眉がわずかに動いた。


安斎「……この“目”、見覚えがある。十年前の倉庫事件の、あのフィルムに記録されていた“観客の影”だ」


朱音「じゃあ、この子……助けを求めてるの?」


安斎「助けか、あるいは――警告だ」


朱音は静かにページを閉じた。

閉じる間際、スケッチの“片目”が、まるで何かを急いで伝えようとするように揺れた。


朱音「行かなきゃ。舞台に」


安斎は短く息を吐き、頷いた。


安斎「……ああ。中谷や成瀬たちが向こうで動いている。

お前の絵が示す“次の一手”が、連中の生存ルートになるかもしれない」


二人は無言で立ち上がり、静まり返った旧・薊座の廊下へ足を踏み出した。

まだ朝日は差し込まない。


けれど、朱音の胸の奥にははっきりと灯っていた。


――呼ばれている。


薄闇の先で、舞台の幕がふわりと揺れた。


【03:41 旧・薊座/北通路】


薄い床埃を踏みしめるたび、かすかな音が闇に吸い込まれていく。

玲は懐中灯を低く構え、壁に描かれた古い配線図を照らしながら歩を進めた。


背後で、影が三つ揺れた。

成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴――しかし名前を呼ぶ者はいない。

彼らはただ、ついてくる音すら最小限に抑え、玲の呼吸のリズムまで読み取るような足取りで進んでいた。


「……この先、温度が下がってる」

玲の声は囁きに近く、しかし確信を帯びていた。


成瀬が静かに前に出る。

「通路、右側。微細な風。空調じゃない。何かが、奥へ戻っていく」


桐野が携帯ライトを一点だけ天井に向け、照明器具の隙間を確認する。

「焦げ跡。スモークでもドライアイスでもない……フィルム焼けの粉塵」


安斎が一歩だけ周囲に集中し、低く呟いた。

「残留“感情”がある。ここを通った何かが、怯えていた……いや、逃げていた」


玲は息をのみ、懐中灯を消した。

暗闇の中、わずかな低周波だけが廊下に響く。

それは機械の音にも、人の足音にも似ていない“間隔の不規則な脈動”。


「……聞こえるか?」

玲が囁く。


成瀬はすぐさま答える。

「はい。“記録の中の存在”が動いてる。形はまだ曖昧」


桐野は表情を変えないまま、わずかに息を整えた。

「封じたはずの映像……まだ生きてるってことね」


安斎は前方を睨み、淡々と告げた。

「玲さん。ここから先は“現実と記録”の境目が曖昧になっていく。離れないでください」


玲は頷き、前へ一歩出る。


――その瞬間。


通路の奥、曲がり角のさらに向こうで、

“何か”が、ほんの一瞬だけこちらを見返した気配がした。


まるで──記録の中の影が、現実を覗き返したかのように。


了解しました。

以下、名前振りなし/日付なし/時間と場所あり/小説形式/左寄せ/線引きなしで続きを記します。



【03:12 旧・薊座 北通路 鉄扉前】


キーは、カチリと虚しい音を立てただけで沈黙した。


玲は眉を寄せ、扉の表面にそっと掌を当てる。

冷たい金属越しに、かすかな振動が伝わってきた。


その瞬間だった。


……ジ……ジ、ジ……


鉄扉の奥から、“ノイズ混じりの気配”が滲み出した。

音ではない。光でも熱でもない。

ただ、存在そのものが「乱れた信号」として漏れ出してくる。


成瀬由宇が一歩、前へ出た。


「この揺れ……生体反応じゃない。記録崩壊の波形だ」


桐野詩乃は腰の装備に手を添え、扉に視線を細める。


「フィルム由来の残留。しかも、まだ“稼働”してるわね……」


安斎柾貴が、小さく息を吐いた。

その声は低く、しかし妙に静かだった。


「扉の向こうに“意志”がある。

 ……開ければ、向こうがこっちを認識するぞ」


玲は手を離し、短く頷いた。


「なら──こちらが先に確かめるしかない」


北通路に静寂が落ちる。

ノイズは、扉の向こうでゆっくりとうねり、まるで“誰か”が近づく足音のように強まっていった。


……ジ……ジジ……ジ……


成瀬が低く囁く。


「来る。扉の前まで」


その時、鉄扉の向こうで──

コン、と何かが軽く触れた。


まるで、内側から「ノック」されたかのように。


以下、名前の振りなし/日付なし/時間と場所のみ記載/小説形式(線引きなし)/左寄せで続けます。



【04:32 玲探偵事務所・資料室】


朱音の指先が震えた。

ページの裏で“勝手に動く線”が、まるでそこに別の誰かの手があるかのように、静かに形を変えていく。


紙が擦れる、かすかな音。


パラ……、パサ……。


「……動いてる」

朱音の小さな声が漏れた。


隣で資料を整理していた安斎が、視線だけをそちらに向ける。


「裏面だな。朱音、触らずにそのままだ。誰かが“送り込んでいる”。記憶か、映像か、その境界の産物だ」


朱音は唇を噛み、ページをもう一度見つめた。


黒衣の人影たちが、重い鉄扉を押し開ける絵。

その奥──


うずくまった川名詩織の姿が、さっきまでは存在しなかったはずの場所に“描き足されていた”。


「安斎さん……これ、詩織さんが……“いる”ってこと?」


安斎は短く息を呑むと、低く呟いた。


「……場所は、おそらく劇場内部。旧映写室周辺だ。

ただし朱音、これは写実じゃない。

“予兆”だ。描いているのは君じゃなく、あちら側だ」


朱音は迷い、しかしページから目を離さない。


「……なら、行かなきゃ。

だって……詩織さん、怖いよ……」


「行くのは俺たちだ。朱音はここで待つんだ。

……大丈夫だ。お前の絵は、いつも助けたい方向を示す」


安斎はスケッチブックに近づき、動く線を見つめる。


黒い影が扉の向こうへ消え、絵はそこで動きを止めた。


まるで、“これ以上は見せられない”と言うように。


朱音は小さく息を呑み、ページにそっと触れた。


「……詩織さん、まだ間に合うよね?」


安斎は応えず、資料室の奥に置かれた通信端末に歩み寄った。

そして短く、鋭い声で指示を飛ばす。


「――旧薊座北通路付近へ通達。

朱音のスケッチが“警告”を発した。

内部に川名詩織の可能性。至急確認に向かえ」


その声は、すでに緊張に満ちていた。


劇場の奥底で、何かが“目を覚ましつつある”気配が、空気を重くしていく。


了解しました。

以下、小説形式・左寄せ・名前振りなし/日付なし、時間と場所のみ記載で、指定シーンの続きとして整った文章をお届けします。



【時間:午前4時42分 場所:旧・薊座 映写室】


鉄扉がわずかに開き、冷えた空気が流れ込む。

その隙間から差し込んだ一筋の光が、川名詩織の瞳を淡く照らした。


「……来た、か」


呟きは、崩れたフィルム缶の山に吸い込まれるように小さく響く。

彼女は、守り続けてきたリールに手を添え、ゆっくりと立ち上がった。


残された空気には、まだ“彼”の痕跡がある。

RM-03──アキト。

姿は消えたが、彼が触れた場所だけ、わずかに温度が違う。


詩織は目を閉じて、その微かな残響を確かめるように息を整えた。


「あなたが消したかった“記録”……ここから動き始める」


扉の向こうで、足音が止まる。

影が三つ。

そして、もう一つ、慎重に距離を計る影。


詩織は振り返らずに言った。


「この部屋の“未来”を、誰が編集するつもりなんだい?」


その頃――。


【時間:同時刻 場所:玲探偵事務所】


朱音のスケッチブックの“裏面”の絵が、止まらない変化を続けていた。

黒衣の影たちが、ゆっくりと鉄扉を押し開ける構図。

その中央には、小さくうずくまる詩織の姿が描かれ、それが次第に濃く、具体的になっていく。


安斎が息を呑む。


「……これ、現場を“追ってる”んじゃない。描かれると同時に、現場のほうが合わせてくる」


朱音は小さく頷いた。

彼女の指先が震えるたび、鉛筆の線がひとりでに“次の瞬間”を描き足していく。


ページの最下段に、ふと文字が浮かび上がった。


“編集される未来と、描かれる未来。どちらかが、もう一つを消す”


安斎がスケッチブックを覗き込む。


「……選択の瞬間ってわけか」


朱音は唇を噛み、静かにページを閉じた。


その手は、ほんの少しだけ温かかった。


午前4時42分 旧・薊座 裏手・旧化粧室通路の突き当たり


古びた壁紙が剥がれた細い通路の奥。

成瀬由宇が金属の面をなぞった指先に、かすかな震えが伝わった。


「ここだな。

……壁じゃない、“塞いである”。しかも最近の処理じゃない」


由宇の声は低く、冷静で、しかし警戒を含んでいた。


安斎柾貴が一歩前に出て、小型の携行装置を金属面へ当てる。

静かな駆動音──“キィン”と、電磁反応の高周波が通路に響いた。


桐野詩乃が後方を警戒しながら尋ねる。


「反応は?」


「……おかしいな」


安斎の眉がわずかに動く。


「金属の扉面なのに、表面の“記録値”が歪んでる。

まるで誰かが……部分的に記憶を削ったみたいだ」


「記録を?」

玲が振り返り、硬い表情を見せる。


安斎は頷いた。


「物体の経年の“痕跡”を消してあるんだ。

……触れた人間も、開閉の摩耗も、衝撃も。

本来なら絶対に残るはずの履歴が、ここだけ完全に空白になってる」


由宇が目を細める。


「封印じゃない。これは……“編集”だな。

中のものを見せたくない者がいる」


桐野がそっと手を挙げた。


「じゃあ、開けるしかないわね。

扉の向こう──何があっても、後退しないで」


安斎が装置のスイッチを押し込む。


「解除シーケンス、いくぞ。

……3、2──」


“ガコン”


倒れかけたような、しかし人の手ではない妙な揺れをともなう音が、

金属の奥から返ってきた。


玲が息を呑む。


「今……中から、返事をした?」


由宇は一歩前に出て、低くつぶやいた。


「……違う。“誰か”じゃない。

扉が覚えていた“残響”が、今になって漏れてる」


次の瞬間──


“……ひらけ……ない……もう……いや……”


かすれた声とも、ノイズともつかない音が、扉越しに微かに響いた。


桐野が肩を震わせた。


「子どもの……声?」


安斎がすぐさま反応を計測し、首を横に振る。


「違う。肉声じゃない。

昔、ここで録音された“恐怖の反応”が、編集前の状態に戻ろうとしてる」


由宇が短く告げる。


「……開けるぞ。

この扉の向こうに、“削られた真相”がある」


金属面の中央に、静かに手をかけた。


冷たい。

けれど、その奥は──ただの空間ではない。


まるで、何かがずっと待っていたかのように。


由宇の合図で、三人が力を合わせる。


“ギ……ィィィィ──”


封印されていた扉が、ついに、ゆっくりと動き始めた。


以下、名前振りなし/日付なし/“時間と場所のみ記載”/小説形式/左寄せ/線引きなしで続けます。



【04:12 旧・薊座 楽屋・第二控室】


朱音の手の中で、スケッチブックはまるで“別の誰かがめくっている”かのように、ぱら……ぱら……と勝手にページを送り続けていた。


「……やだ……やめて……っ」


小さな声が震えた。

だが、紙は意志を持ったように止まらない。


次のページが開かれた瞬間、朱音は息を呑んだ。


描かれていたのは、

先ほどまで何もなかったはずの“暗い通路”。

ページの中央には――


《影の三人が、ある一点に向けて武器を構えている》


そんな構図が、鉛筆の線で“いま書かれたばかり”のような生々しさを帯びて浮かんでいた。


「……お母さん……玲さん……どこ……?」


朱音の囁きに応える者はいない。


ただ、次のページだけが――

まるで誰かが“見せたいもの”を必死に押し出してくるように、ゆっくりと、じわり……じわり……とめくられ始めた。


その紙面の端から、黒い影が伸びてくるように見えた。

光のない輪郭線。

重なる視線の記号。


朱音の胸が痛いほど脈打つ。


「……これ……誰かが……助けてって言ってる……?」


彼女は震える指で、ページを押さえようとした。


だが――

スケッチブックは、朱音の抵抗などまったく意に介さず、

“次の未来”を描こうと動きを止めなかった。


【時間:午前5時42分/場所:旧・薊座 映写室】


冷えた空気が、薄暗い映写室の内部を満たしていた。

窓はなく、朝の気配は一切届かない。

外の世界だけが静かに明けていく中、この部屋だけは夜を閉じ込めたままだった。


川名詩織は、散乱したフィルム缶の間でじっと身を固めていた。

扉の向こうからは、誰のものとも判別できない微弱な“踏音”が続いている。

一定ではなく、まるでこちらを試すようなリズム。


詩織は息を潜め、フィルムのリールを胸に抱えた。


「……来るなら、はっきり来なさいよ。影だけ置いて揺さぶるなんて、悪趣味」


返事はない。ただ、扉の方から“存在の重さ”だけが増していく。


やがて──

映写機のランプが、誰も触れていないのにゆっくり明滅を始めた。

フィルムの端が風もないのに揺れ、床に影が落ちる。


それは、詩織ではなかった。


かつてこの劇場に記録されたはずの“観客”の影。

上映と同時に生まれ、上映の終了と共に消えるはずの影が──

今、フィルムの外側に立っていた。


詩織は小さく呟いた。


「……中谷、ほんとに“見た”のね。これはただの残像じゃない」


影は動かない。ただ、こちらを“視て”いる。


息を吸った瞬間、扉の錠がわずかに揺れた。

誰かが外側から触れた音だ。


影の視線と、人間の気配が重なる。

この小さな部屋が、二つの“未来”の境界になっているように感じた。


詩織はフィルムを握りしめ、低く呟く。


「私は……守るわよ。記録を、現実を、どっちだって」


だが、その言葉に呼応するように──

ランプのノイズが急に大きくなり、映写機が勝手に回転を始める。


封鎖された映写室の中で、詩織はただひとり、

静かに迫る“映らない観客”たちと向き合っていた。


17:42 旧・薊座 北側通路・非常区画前


扉の表面に走る溶接跡は、あまりにも新しかった。

玲は携帯ライトを低く構え、詩織と朱音を振り返った。


「選ばせようとする映像」と、「描き変えようとする未来」。

玲の声は、通路にこもった冷気を震わせるほど静かだった。


「……どちらも“意志”だ。だが、意志は衝突すれば必ず――跡を残す」


成瀬由宇が無言で斜め後方に位置取り、桐野詩乃は手袋をきゅっと締め直す。

安斎柾貴は壁越しに流れる微弱ノイズを読み取りながら、眉を寄せた。


「中の映像、まだ生きてる。詩織……おまえが触れた記録だな」


詩織はうつむいたまま息を吐いた。

その手には、まだ焦げた匂いの残るフィルム片が握られている。


「……あれは、私を“使って”残った。

 消された上映記録が、私を通して呼吸してるみたいだった」


朱音が静かに前へ出る。

スケッチブックを抱えたまま、彼女は震える指で扉を指差した。


「ここ……開けたほうがいいの。

 だって……“向こうの私”が、ずっと描いてる……」


ぱらり、と紙の端が自然にめくれた。

何かの手が触れたわけでもない。

ただ、未来が、自分の形を選んでいくかのように。


玲は肩越しに影班へ短く指示を送った。


「破壊は最小限だ。内部に“選択の跡”が残っている可能性がある」


由宇が頷く。

安斎が端末の操作を止め、詩乃が微かな気圧の揺らぎを感知する。


そして――


朱音のスケッチブックのページは、いまもなお

ゆっくりと、しかし確実に、“これから起きる扉の向こうの光景”を描き続けていた。


【08:42】

【玲探偵事務所・調査室】


薄曇りの空から差し込む微かな光が、調査室のカーテン越しに静かに広がっていた。

机の上には朱音のスケッチブック。そして、彼女の手元には──まだ色の入っていない最後の一枚の余白。


朱音は小さく息を吸い、指先で紙の端をそっと押さえた。

その横で、安斎が無言でその動きを見守っている。

表情は読みにくいが、眉間にはわずかな緊張の影が浮かんでいた。


「……描けるか?」

低い声で安斎が尋ねる。


朱音は首を横に振らなかった。

けれど、頷きもしなかった。

ただ余白を見つめ、言葉を探すように唇をわずかに開いた。


「……描かなきゃ、いけない気がするの」

「未来が決まるから?」

「ううん……“どっちが消えるか”、決まっちゃう前に」


安斎の目が細くなる。

まるで、その言葉の意味を慎重に測るように。


「朱音。君の“直感”は、時々──先に答えを知っている」

「でもね、安斎さん」

朱音は視線を上げた。

その瞳の奥には、怯えではなく、確かな意志があった。


「わたし、ただ絵が描きたいだけじゃないよ」

「……」

「“みんなが消えない未来”を……選びたいの」


その瞬間、机の上のスケッチブックがかすかに震えた。

紙がふわりと浮いたように見え──


めくられていない最終ページの余白が、朱音の指先の下で

ゆっくりと、勝手に“線”を生み始めた。


「……来るぞ」

安斎が身を乗り出す。


朱音の手に触れないまま、鉛筆の軌跡が紙の上に広がり、形を成していく。

そこに現れたのは──


開かれた映写室の扉。

光の中に立つ玲の影。

崩れ落ちるフィルムの束。

そして、誰かがその中心で手を伸ばしている姿。


朱音の喉がかすかに震えた。


「……これが、“描かれようとしてる未来”?」


安斎は絵を見つめたまま、小さくつぶやいた。


「違う。

これは──“未来を選ばせようとする力”だ」


朱音は強くスケッチブックを抱きしめた。


「じゃあ……これを描き切るのは、わたしじゃなくていい。

“わたしが選ぶ”んだよね?」


安斎は短く息を吐き、朱音の頭にそっと手を置いた。


「ああ。君の意思で決めろ。

……未来は、編集されるもんじゃない。描くものだ」


その言葉の中で、

朱音はゆっくりと鉛筆を握り直した。


最後の一枚の余白は──

まだ、白いままだった。


【時間】午前10時42分

【場所】旧・薊座 地下・無番号区画(元フィルム保管室跡)


地下にこもる湿った空気。

配線の切れたスピーカーが唸るように軋み、壁の奥ではまだ古いフィルムリールが回っている。


朱音のスケッチブックに描かれた“地下室”の構図と──

今、目の前にあるこの異様な空間が、ゆっくりと重なり始めていた。


玲が足元の湿った床を確かめるように踏みしめる。

「……音が生きている。誰かが意図的に“回してる”んじゃない」


成瀬由宇が壁際に身を寄せ、わずかに開いた配線ダクトへ指を伸ばす。

「電源は落とされているはずだ。なのに……これは“記録の残響”か」


安斎柾貴が背後に立ち、耳を澄ませた。

ノイズ混じりのフィルム音の奥で、何かの“声”が断片的に浮かんでは消える。


「──ま……て……」

「……あけ……るな……」

「……編集、禁止……」


詩乃がわずかに眉を寄せ、言葉の輪郭を追う。

「この地下……記録そのものが干渉してる。人が残した声じゃない」


玲はランプをかざし、壁に浮かぶ薄い白い線を見つけた。

それは誰かが道標のように残した“カット線”──

まるで編集作業のラインのように、地下室の壁を縦横に走っている。


「……朱音が描いた“最後の余白”。」

玲が小さく息をついた。

「ここで……未来が一度、切り直されるつもりだったのかもしれない」


そのときだった。


フィルムリールが、突如として回転数を上げた。

ガガッ──ガリッ……!


まるで、“この場を覗くな”と警告するかのように。


詩乃が素早く一歩下がる。

「フィルムが怒ってる……?いや……違う。誰かが“再生を奪われまいと”抵抗している」


由宇が静かにナイフを構えた。

「扉の奥……いるな。“記憶の持ち主”が」


安斎が短く頷く。

「覚悟して開けるぞ。ノイズが強すぎる、直接触れたら精神に刺さる」


玲が息を整えた。

「行く。朱音の“描いた未来”がここを示しているなら──」


ガンッ……


地下奥の鉄扉が、内側からわずかに震えた。


次の瞬間。


暗闇の向こうから、“手”がかすかに見えた。

細い腕。煤にまみれた手首。

そして、揺らぐように形を変える“影の子ども”の輪郭。


ノイズ混じりの声が再び響いた。


「……みないで……

   ボクの……“記録”を……編集、しないで……」


地下の空気が凍りつく。


玲は気づいた。


その声は──

十年前に“消されたはずの”少年の声と、酷似していた。


【時間】午前3時48分

【場所】旧・薊座 地下記録保管室前


静寂が訪れる。

だが、それは一時のものにすぎなかった。


壁の奥——

完全に止まったはずのフィルムリールが、


……ガリッ。

……ガタ、ガタ。


まるで“外側”から触れられているように、小刻みに震え始めた。


玲は足を止め、低く息を整える。


「……聞こえたな?」


背後で、成瀬由宇が無言で頷く。

その指先は、すでに次の行動へ移る準備を整えていた。


桐野詩乃は壁面のセンサーに耳を寄せ、囁く。


「内部で……何かが“歩いて”る。人間の体重じゃない。もっと……軽い。けど速い」


安斎柾貴が、小さく鼻を鳴らした。


「フィルムの残留記憶……いや、違う。これは“記録の意思”そのものだ。

封じた痕跡を破って出ようとしている」


次の瞬間。


……バンッ!!


地下の奥から鉄製の棚が倒れる激しい衝撃音が響いた。

古いフィルムケースが転がり、中身の巻かれた帯が床にほどけて散る。


玲は即座にライトを構え、低く声を張った。


「影班、前へ。無理に開けるな。まず“何が”動いているのかを確認する」


成瀬がつぶやく。


「……扉の隙間から“見て”いるぞ、これ」


暗がりの向こう。

錆びたスチールドアの下──ほんの指一本分の隙間。


そこに、ゆらりと“影”が揺れた。


人の形を持ちながら、人であるはずのない歪んだ影。


桐野が低く、呟く。


「……記録の、未編集部分。あれは……“フィルムが忘れたはずの観客”」


安斎がすぐさま解析端末を構え、わずかに目を細める。


「いや……違う。

“観客じゃない”。

もっと……近い。

『記録そのものが、自分の“続きを再生しようとしている”』」


玲はひとつ息を吸い、はっきりと命じた。


「全員、構えろ。

この場所——まだ終わってない。

『記録』が“未来を巻き戻しに来ている”。」


その言葉と同時に。


扉の隙間の“影”が、一瞬だけ、こちらの光を反射して——


ゆっくりと形を変えた。


まるで、“こちらの姿を模倣していく”ように。


【時間】午後4時12分

【場所】玲探偵事務所・調査室内/朱音のスケッチブック内 “最後の一枚”


薄曇りの空からの光はすでに弱く、調査室に満ちる空気はどこか冷たかった。

机の上、朱音の指先はまだ色の入っていない“最後の一枚”へそっと触れている。


そして──


それは現実ではなく、朱音の描いた最後の一枚の中。

色彩を失った灰の世界。

静まり返る観客席。

むき出しの梁と、煤けた重幕。


舞台の中央には、ひとりの人物が背を向けて立っていた。


その足元だけが、不自然に揺れている。

まるで“描かれた存在”でありながら、絵から外に踏み出そうとするかのように。


朱音の声が、小さく漏れた。


「……だれ、なの……?」


その瞬間、スケッチの中の“背中の人物”が、わずかに肩を震わせ──


ゆっくりと、こちらへ顔を向け始めた。


紙の上で、音がした。

ありえないはずの、足音に似た、乾いた擦過音。


朱音は息をのむ。


外の現実世界では、誰も声を発していない。

だがスケッチブックの中から、かすかな囁きが滲み出た。


「──選べ。描く未来か、編集される未来か」


朱音の手から鉛筆が転がり落ちる。

ページの上の灰色の人物は、もう完全にこちらを向いていた。


その瞳は、空洞のまま、ただまっすぐに朱音を見ていた。


「もう終わりにするよ。……玲、最後に一つ、頼んでもいいか」

アキトはゆっくり振り返った。

舞台の光が、彼の顔を照らす。どこか懐かしい、少年のような瞳をしていた。


「俺の……永遠のライバルでいてほしい。でも……できれば、友人としてさ」


玲は目を細め、微笑みすら浮かべた。


「もちろんだ。お前の“選ばれなかった未来”まで背負うつもりはないけど……“これからの未来”は、俺たちが編集してやろうじゃないか」


その言葉に、アキトの肩の力が少しだけ抜ける。

朱音の描いた絵の中、背を向けた“青年”の輪郭が、ゆっくりと光に融けていった。


【時間】未明

【場所】旧・薊座 舞台中央(朱音の最後の一枚の中)


アキトの輪郭が光に溶けていくその瞬間──

舞台に落ちた“灰色の影”だけが、まだ完全には消えずに残っていた。


玲は一歩、前へ出た。

足音は吸い込まれるように静かで、世界そのものが息を潜めているのがわかる。


「アキト。お前の選んだ答えは、ここで終わりじゃない」


光に溶けかけたアキトが、わずかに振り向く。

輪郭は崩れ、フィルムのノイズのように揺らいでいた。


玲は言葉を続ける。


「お前が守った“素材”は、もう誰にも上書きされない。

 朱音が描く未来は……編集じゃなく、“選択”だ」


その名を聞いた瞬間、淡い光粒が舞台に降りはじめた。

絵の世界に入り込んだような朱音が、スケッチブックを胸に抱えながら舞台袖に歩み出る。


「アキトさん……」


朱音の声は震えていない。

ただ優しく、まっすぐだった。


「わたし……あなたが消えちゃうの、嫌だよ。

 でも……“無理に残す絵”も、わたしは描かない」


アキトの瞳が、大人ではなく少年のころの光に戻る。


「朱音……君の絵はさ。

 俺が何を捨てても、最後まで“残してくれた”。

 それで十分だよ」


光の粒が強くなり、アキトの姿を包みはじめた。

それは消滅ではなく、“編集前の原稿へ還る”ような静かな輝きだった。


朱音はスケッチブックを開いた。


最後の一枚──

そこに色はまだなく、ただ“光を選ぶ余白”だけが残っている。


玲が朱音の肩に手を置いた。


「朱音。描け。

 未来は“渡された素材”じゃない。

 お前が選ぶんだ」


朱音は小さく息を吸い、鉛筆をそっと余白に置いた。


その瞬間。


光に溶けたアキトが、ほんの一瞬だけ姿を留め──

少年のころの笑顔で、二人を見た。


「……玲。

 やっぱ、お前は俺の“最高の編集者”だよ」


そして音もなく、光は舞台から消えた。


朱音のスケッチブックの最後のページに──

小さな光の線が一本、描き込まれていた。


【時間】午前6時42分

【場所】旧・薊座 最奥の未記載区画(地下階層)


薄明かりが、低い天井の隙間から細く漏れていた。

人が通ることを想定していない幅の通路。壁はむき出しのコンクリートで、無数の細い傷が刻まれ、まるで“何か”が内側から引っかいたように見える。


足を踏み入れた瞬間、玲が立ち止まった。


「……ここ、空気が違う。劇場じゃない。“保存庫”だ」


後ろでライトを構えた成瀬由宇が静かに周囲を確かめる。


「構造上、不自然だ。意図的に隠した区画。誰かが、長く──何かを閉じ込めていた形跡がある」


桐野詩乃は壁に手を当て、冷やりとした感触に眉を寄せた。


「この温度……舞台上より低い。外気と繋がっていないのに。まるで“地下のさらに下”に引っぱられているみたい」


照明の円が床をなぞる。


そこに──小さな木箱。

朱音のスケッチブックと同じサイズ。

そして、蓋の端には焦げ跡。


安斎柾貴がしゃがみ込み、手袋越しに触れた。


「……文字がある。焼けかけてるが、読める」


玲がライトを寄せた。


そこには、震えた筆跡でこう刻まれていた。


“描くスケッチャー編集者エディターの分岐点。

選ばれなかった未来は、ここに封じた。”


由宇が、わずかに顔を上げる。


「……これは、誰の手だ?」


玲は箱を見つめたまま、低い声で言った。


「アキトの……いや、“アキトでなかった可能性の彼”のものだろうな」


詩乃が息をのむ。


「未来の……“別テイク”……?」


安斎が静かに箱の鍵を探る。


「開けるか、玲さん」


玲は一拍おき、目を細めた。


「開ける。朱音の絵がここを指した以上……避けて通れない」


──小さな音を立て、鍵が外れる。


その瞬間、奥の闇が、ほんのわずかに息をしたように揺れた。

まるで、“選ばれなかった何か”が、気配だけを残してこちらを見ているかのように。


【午前6時42分】

【旧・薊座・最奥の隠し空間】


崩れかけた天井の継ぎ目から差し込む“光”は、太陽のものではなかった。

それはまるで、空間そのものの記憶が外側へ漏れ出しているかのような、薄く揺らぐ白い光だった。


壁一面に、かつて上映されたはずのない断片的な映像が浮かんでは消え、

床には解体された映写機の部品が散らばっている。

金属片がわずかに震え、光の反射が脈動するように明滅していた。


玲は足を踏み入れ、息を呑む。

その背後で、成瀬由宇が短くつぶやいた。


「……ここ、劇場の“記録”そのものだ」


桐野詩乃が壁の揺らぎに触れようと指を伸ばし、すぐ引っ込める。

触れた瞬間、紙のように薄い映像が──波紋を広げたからだ。


「熱……じゃない。これ、感情の残留だわ。誰かが“終わらせられなかった記憶”」


安斎柾貴は一歩踏み出し、空間全体を見渡しながら静かに息を吐く。


「……編集途中の未来、ってやつか。

 朱音の絵と同じだ。未完で、行き場を失ってる」


その言葉に、玲はゆっくりうなずいた。

視線の先──薄く光る空間の奥に、人影が立っていた。


かすれた映像のように揺らぎながら、青年の背中がこちらに向いている。

言葉ではなく、“記録の残り香”だけを漂わせる存在。


朱音が描いた最後の“灰色の舞台の青年”と同じ輪郭だった。


玲は声を落として言った。


「……アキト。

 これはお前の“消しきれなかったページ”ってわけか」


光は、静かに揺れ続けていた。


以下、指定どおり

・名前振りなし

・【時間】【場所】のみ冒頭に記載

・小説形式/左寄せ/線引きなし

で続けます。



【時間:午前5時42分】

【場所:旧・薊座 最奥・隠し区画】


玲は一歩、アキトの舞台に足を踏み入れた。


「……バカだな。お前、最悪の観客のふりして、一番正直な制作者やってるじゃねぇか」


微かな残光の揺れる空間。

アキトの目が驚きに見開かれ、その表情が数秒だけ、子どものように揺らいだ。


「……俺は……そんなつもりじゃ……なかったんだ。

 本当は……誰も巻き込みたくなかった……ただ……」


声が震え、空間がそれに同調するように淡く揺れる。

朱音の描いた“灰色の舞台”と、現実がわずかに重なり合い始めていた。


玲はその揺らぎを踏み越えるように近づき、ほんの少し目を細めた。


「……分かったよ、アキト。

 “事件”が起きるなら、俺は“その舞台”に立ち会う。」


アキトの喉がかすかに鳴る。

自分が作った舞台装置の中心で、自分が最も聞きたくなかった言葉を聞いたような、

それでいて、ようやく救いの糸をつかんだような表情だった。


「でもな……」

玲はゆっくりと、まっすぐにアキトを見据えた。

その声は、旧・薊座の奥に眠る埃すら動かすように静かで、強かった。


「お前が“本当に救いたい観客”の声を──

 絶対に、俺が聞き届ける。

 ……約束する。」


アキトの肩の力が、ほとんど音を立てるように抜けた。


小さく、かすれた声で彼はつぶやいた。


「……それは……ずるいよ……玲……。

 ……そんなこと言われたら……俺……もう……」


舞台の光がふっと揺れ、

朱音のスケッチの“青年の輪郭”が、またひとつ淡くほどけた。


アキトの瞳が濡れ、しかし確かに笑っていた。


【時間】午前6時42分

【場所】旧・薊座 最奥区画・未記載保管室


カタン──。


乾いた音が、静まり返った空間に吸い込まれるように広がった。

壁際に据えられた古い映写機のリールが、ゆっくりと惰性を失い、完全に止まったのだ。


機械の息絶える気配とともに、室内の薄闇がわずかに震えた。


「……終わった、のか?」


玲が低くつぶやく。

その声は、まるでこの部屋の“過去の残響”に問いかけるようでもあった。


アキトは前方のスクリーン──いや、スクリーンの“置かれていた跡”をじっと見つめていた。

そこには何も映っていない。ただ、光を失った白い布が静かに垂れ下がっているだけだった。


「選ばれなかった未来は……ここで止まったか」


アキトは小さく息を吐き、右手を胸の前で握り込む。

三本しかないように見えた指は、光の角度が変わると、ふっと五本に戻る。

影班を欺くためのフェイク──その役目も、もう終わった。


玲はアキトの横へ歩み寄り、止まったリールへ視線を落とす。


「……なぁ、アキト。

 これで“終わり”って顔してるけどさ……」


アキトは振り返らない。だが、わずかに肩が動いた。


玲は続けた。


「止まったのは“記録”であって……“未来”のリールじゃねぇよ。

 そっちは、まだ回してねぇだろ」


アキトの喉が、小さく鳴った。


「……強引だな、お前は。昔から」


「お前が曲げたレールを、俺が直す。それだけだよ。

 だって──」


玲は薄暗い光の中で、かすかに笑った。


「俺はお前の“永遠のライバル”で、“友人”でもある。

 編集する未来のフィルムぐらい、一緒に回してやるさ」


アキトはついに顔を上げた。

揺らぐ光の中で、その瞳はどこか救われたような、少年のままの色をしていた。


そして──止まったリールの奥で、微かに紙がめくれるような音がした。


朱音のスケッチブックの最終頁が、静かに風もないのに揺れていた。


“ここから続く未来は、描き換えられた。”


その余白。

まだ何も描かれていない白紙が、暗がりの中でゆっくりと光を帯びていった。


【数日後】

【佐々木家・朱音の部屋】


雨の気配を含んだ午後の空気が、薄いカーテン越しに淡く部屋を満たしていた。

朱音は窓際の小さな机に座り、静かにスケッチブックを開いた。


ぱらり──。


今日は、ページは自動ではめくられない。

朱音自身が指先で、そっと紙を動かしている。


安斎柾貴がドアの前に立ち、控えめに声をかけた。


「……具合はどうだ。無理に描かなくてもいい」


朱音は首を横に振る。


「ううん……描きたいの。

だって……“あの人”、まだ迷ってる気がするから」


安斎の目がわずかに細くなる。


「アキトのことか?」


朱音は小さくうなずき、白紙のページに鉛筆を置いた。

その表情は、不思議なほど落ち着いていた。


「ねぇ、安斎さん。未来って……書き換えられるの?」


安斎は一瞬だけ黙り、椅子を引いて朱音の隣に座った。


「……未来はいくらでも変わる。

ただし、“誰が”変えるかは……いつも争いになる」


「じゃあ──」


朱音はスケッチブックを抱きしめ、雨雲を映した窓を見上げた。


「じゃあ、わたし……“誰かを消す未来”じゃなくて……

“誰も消えない未来”を描きたい」


安斎は驚いたように朱音を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。


「……お前は強いな、朱音」


朱音は照れたように笑い、鉛筆の先を白いページに落とす。


最初の線が、静かに紙の上を走った。


その瞬間──

窓の外でポツ、ポツ……と雨粒が音を立て始めた。


けれど、朱音の部屋だけは、不思議なほど明るかった。


【時間】午後三時すぎ

【場所】裏通りの古びた建物・一階ロビー前


ビル風が、湿った午後の空気を押し流すように吹き抜けた。

朱音は傘を閉じながら、古いロビーの前で足を止めた。

雨の匂いが近い。アスファルトが冷たく沈黙している。


そのときだった。


「……よぉ。久しぶり」


ふいに、建物の影から“アキト”が姿を現した。

黒いパーカーに、軽い擦り傷のついたカメラケース。

まるで散歩の途中で寄っただけ、そんな飄々とした雰囲気。


朱音は驚いて目を丸くする。


「アキトさん……? どうしてここに……」


アキトは肩をすくめ、曇天を一瞥した。


「んー……“編集し直した未来”が、ちゃんと動いてるか確認に来ただけだよ。

 ほら、俺って意外と心配性なんだ」


そう言って笑うが、その笑みの奥にはどこか影があった。


朱音はスケッチブックを抱え直し、静かに尋ねる。


「……もう、消えちゃうの?」


アキトは一瞬だけ言葉を失い、それからふっと目を細めた。


「消えるとか残るとか、そういうのは――

 “観てくれる人”が決めることだろ? 俺が勝手に決める話じゃない」


雨粒がひとつ、アキトの肩に落ちた。

彼は手をひらひらと振って建物から離れる。


「じゃ、また。

 ――編集の続き、頼んだぜ。未来の監督さん」


朱音は思わず声を上げる。


「アキトさん!」


アキトはゆっくり振り返り、晴れ間のない空を背景に、柔らかく笑った。


「……ありがとな。

 君の“描いた未来”のおかげで、俺……まだ歩ける」


そして、薄い雨幕の中へと、彼の姿は静かに溶けて消えていった。


【時間】午後四時過ぎ

【場所】玲探偵事務所・第二作業室


カシャン……。


静かな室内で鳴ったその音に、玲は手を止めた。

古いスチール製のドアが、勝手に開いたわけではない。

気配が──あまりにも自然すぎるほど“普通に”、そこに立っていた。


「よぉ、玲。相変わらず湿度管理だけは完璧だな、この部屋」


どこか飄々とした声。

玲は一瞬だけ眉を動かし、ゆっくり振り返った。


「……アキト。お前、鍵を返した覚えはないんだが」


アキトは肩をすくめて笑う。


「返してもいいけどさ。そしたら、またお前に“合鍵の合鍵”作られるだろ?

 だったら持ってた方が早い」


玲はため息をついた。

怒る気にもならない――どころか、どこか安堵している自分に気づく。


「で? 何しに来た。事件の相談か、ただのコーヒー泥棒か」


アキトは足元の機材ケースを軽く指先でつついた。


「……んー、仕事と言えば間違ってないかな。

 “未来の編集権”、お前に渡したつもりだったんだけどさ」


玲「勝手に渡すな」


「まぁ聞けよ」


アキトはいつもの調子で室内を見回し、

散らばった記録媒体やモニターの明滅に目を細める。


「――俺、ちょっとした後始末に来たんだよ。

 旧・薊座のあれ……“消した未来”の残留ノイズ、まだ少し残ってる」


玲「こっちはこっちで処理してる。お前が気にする必要はない」


アキトは首を横に振る。


「いや……俺の“手癖”みたいなもんだからさ。

 責任もって片付けないと、落ち着かなくて」


玲「珍しいな。お前が責任なんて言うなんて」


アキトは笑わず、ただ静かに言った。


「お前と朱音ちゃんが“観てくれた未来”は、俺の中にも残ってるんだよ。

 ……ちゃんと、終わらせたい」


その声音に、玲はわずかに目を細める。


「安心しろ。お前の舞台は、もう観客席ごと崩れたりしない。

 ……俺たちが修理してやってる最中なんだから」


アキト「へぇ。じゃあ、俺は邪魔者か?」


玲「違う。お前は――」


少し間を置いて、玲は言葉を選ぶように続けた。


「……勝手に幕を降ろすタイプの相棒だよ」


アキトは驚いたように目を瞬き、

次の瞬間、破顔して肩を震わせた。


「……はは。そんな呼ばれ方、初めてだな」


玲「気に入らなかったら言え。編集し直してやる」


アキト「いや、最高に気に入ったよ」


静寂が戻った。

だが、二人の間に流れる空気は、不思議と穏やかだった。


アキトはポケットから、小さな黒いケースを取り出し、玲の机に置く。


「これ……残ってた“ノイズ”。任せたい部分もある」


玲はそれを受け取りながら、静かに尋ねた。


「お前はどこへ行く?」


アキトは軽く背を向け、ドアに手を掛けた。


「さぁな。

 でも……また来るよ。

 だって――」


振り返り、どこか少年のような笑みを浮かべる。


「俺の永遠のライバルでいてくれるんだろ?」


玲は鼻で笑い、椅子にもたれた。


「……好きにしろ。コーヒーくらいは出してやる」


アキト「おー、進歩したじゃねぇか」


再びカシャン、と軽い音がして、アキトは去った。


静かになった室内で、玲は机上の黒いケースを見つめ、つぶやいた。


「……まったく。

 本当に“勝手な幕引きばかりしやがる”」


それでも、その声色はどこか柔らかかった。


【時間】深夜2時12分

【場所】渋谷・某編集スタジオ(ビル7階)


編集スタジオには、機材のわずかな駆動音だけが残っていた。

モニターには古い撮影テープのざらついた映像──舞台の袖に立つ、名前も残されていない役者の影が映っている。


川名詩織は椅子にもたれ、目の下のクマを指で押した。

再生バーは、三時間以上巻き戻しては再生されている。


「……これ、ほんとに“誰もいない”はずのテープなのよね」


独り言は虚空に消えた。

残留記憶による“影”を見た旧・薊座の夜から二ヶ月。

再生するたびに、この映像の“間”の違和感が増している。


詩織は再生を一時停止し、肩で息をついた。


その瞬間だ。


カラン──。

背後の棚に立てかけてあった空ケースが、一つだけ自然に倒れた。


詩織は振り向かない。

深夜のビルで勝手に物音がしたくらいでは驚かなくなっている。

ただ──その数秒後、部屋の空気が変わった。


まるで、誰かが“入ってきた”ような気配。


「夜中に一人でフィルムなんて見てると、体に悪いよ、詩織さん」


軽い声が、すぐ背後から聞こえた。


詩織の手が、マウスからピタリと止まる。


「……アキトくん。ノックぐらいしなさいよ」


「ああ、ごめん。でも、扉は閉まってたし……鍵は開いてなかったよ」


つまり、入れるはずがない。


詩織はようやく振り返る。

スタジオの薄暗い照明の下、アキトはフードを軽く下ろし、片手で苦笑していた。


「心霊現象の編集担当みたいになってるけど、大丈夫?」


詩織はため息をつき、目元を指で押さえた。


「……あなたに言われたくないんだけど。あなたの“残像”の後処理で、私、二ヶ月まともに寝てないのよ」


「それは申し訳ない」


アキトの声は柔らかかった。

以前より、どこか穏やかで、刺々しさが抜けている。


「ねぇ、これを見に来たんでしょ?」


詩織はモニターを指す。

停止された画面には、暗いステージの中央に、かすかに“揺らぐ”影があった。


アキトは数歩近づき、画面を見つめる。


「……ああ。そこに写ってるのは、もう“俺じゃない”。

 でも、俺のいた場所の“後”を歩いてる誰か、って感じがする」


「未来の影?」


「いや──過去に置き忘れられた、誰かの意志の断片だよ」


詩織は苦笑しながら肩をすくめた。


「やっぱりあなた、説明が抽象的すぎるのよ」


「ごめんごめん。でも……」


アキトはモニターに近づき、手を伸ばす──ふりをして、触れずに止めた。


「今度は、俺も“編集される側”じゃなくて、ちゃんと“選べる側”に立ちたいんだ。

 そのために──詩織さん、手伝ってくれない?」


詩織は一度深く息を吸い、そしてゆっくり吐き出した。


「……まったく。あなた、ふらっと現れて、ふらっと面倒を置いていくのだけは変わらないわね」


アキトの目がわずかに細められる。

笑っているようで、どこか寂しさを抱いている光。


「でも、いいわ。どうせ私は編集屋よ。

 あなたの新しい“未来”がブレないように、きっちり補正してあげる」


アキトはほんの少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


「ありがとう。詩織さんは、やっぱり頼りになる」


深夜の編集スタジオ。

二人を照らすモニターの光だけが、淡い青白さを保っていた。

外の渋谷は眠りに落ちているが、この小さな部屋の中では──

まだ物語が、静かに動き続けていた。


【時間】

【場所:浅草・小さな映画館/ロビー裏のスタッフ通路】


上映終了から二十分後。

映画館の空気は、まだ物語の余熱をゆっくりと吐き出していた。

瀬尾ハルキは、ポスターを巻きながら、ふぅ、と小さく息をついた。


「……今日も、何とか終わったな」


客入りは多くない。

それでも、観客のあの“余韻を抱えた顔”を見るたび、彼は救われていた。


カツ、カツ、と控えめな足音。


誰だ? と思うより先に、ハルキは背後の空気が変わったのを察知した。

映画のラストシーンのような、しんとした緊張感。


「いい光だったよ。ラストのカット」


その声は、ハルキが忘れかけていた声だった。


「……アキト?」


振り返る。

暗がりに、いつものようにふらっと立っている青年がいた。

黒いパーカー、無造作な前髪、どこか“現実の解像度”から半歩だけズレた存在感。


アキトは、ロビーの看板を指で軽く弾きながら言った。


「お前、あの映画の“空気”をちゃんと受け取れてるな。

 ……だから安心して見れた」


ハルキは思わず眉をひそめる。


「何だよ、急に。

 ……あんた、またどっかで事件でも起こしてきたのか?」


アキトは肩をすくめて笑う。


「まさか。今日は“観客”として来ただけ。

 お前が今どんなを選んでるのか、ちょっと気になってな」


「俺の……?」


「そう。瀬尾ハルキがこれから撮る“未来の画”だよ」


ハルキが返答に詰まった、その一瞬。

アキトはロビーの消えかけた非常灯の下で、ふっと表情を和らげた。


「変わるなよ、ハルキ。

 お前の“選ぶ画”は、誰の編集にも染まらない……そういうところが好きだ」


「……アキト。

 お前、本当にどこまで見てるんだよ」


すると彼は、ごく自然に、しかしどこか寂しげに笑った。


「未来だよ。

 お前らがまだ“描いていないほうの未来”をさ」


意味を理解する前に、アキトは歩き出す。

非常扉へ、ゆっくりと。


「ちょ、ちょっと待て! まだ何も──」


ハルキが一歩踏み出した瞬間。


非常扉の向こうで、アキトの姿はまるで映像の切り替えのように、静かに消えた。


残ったのは、風の音と、彼の言葉だけ。


「……変わるなよ、ハルキ。

 お前の選ぶ“光”は、きっと誰かを救う」


ハルキはその場に立ち尽くし、握ったポスターの紙が小さく震えた。


「……何なんだよ、お前は。本当に」


だがその問いは、小さな映画館の闇の中に静かに吸い込まれていった。


【時間】午前九時すぎ

【場所】名倉家・地下書庫


分厚い石壁に囲まれた地下書庫は、今日も変わらず冷たい沈黙に包まれていた。

湿度を含んだ空気が肌にまとわりつき、古紙の匂いがゆっくりと肺に染み込む。

書庫管理者の名倉は、梯子を使って高い棚の整理を続けていた。


背表紙の古い洋書に指先をかけたその瞬間──

背後の静けさが、わずかに“揺れた”。


カツ、カツ、と階段を降りる軽い足音。


名倉は振り返った。

こんな時間に来る者はいない。家人ですら、地下にはめったに近づかない。


「……誰だ?」


階段の下に、ふらりと影が現れた。

逆光で顔は見えないが、無造作な歩き方と、手に持った一本のフィルムケースの輪郭が際立つ。


「お邪魔しまーす。暗いねぇ、ここ」


軽い調子でそう言いながら、アキトが姿を現した。


名倉は目を細め、慎重に距離を取る。


「許可なく地下書庫に入る者など、本来存在しないはずだが?」


アキトは肩を竦め、棚に並ぶ古い記録の数々を興味深そうに眺めた。


「いやぁ、ちょっと探し物。

 “未来を記録しない紙”ってやつがあるって聞いてさ。使い方によっちゃ……便利だろ?」


名倉の表情にわずかな緊張が走る。


「何を知っている?」


「ぜんぶじゃないよ。でも……必要な分だけでいいでしょ?」


アキトはフィルムケースを指先で回しながら、書庫の奥へと歩き出した。


「ここ、好きなんだよな。

 音が吸われて、誰の声も、誰の未来も響かない場所。

 編集する側には、ちょうどいい“静けさ”なんだ」


名倉は言葉を失う。

この男が何者で、何を目的にしているのか──完全には読み切れない。


アキトはふっと振り返った。


「安心していいよ。今日は“盗りに来た”んじゃない。

 ……ただの、挨拶。

 またちょっと、未来に手を入れたくなってさ」


名倉の喉が小さく鳴る。


「貴様、それ以上は——」


アキトは片手をひらひらと振って遮る。


「何もしないよ。

 だって今日は、“観客”だからさ。

 君たちがどう書庫を守るのか……ちょっと興味があってね」


そして、まるで散歩の終わりのように軽く笑い、階段へと向かう。


「じゃ、また来るよ。

 その時までに……ちゃんと“未来”を選んでおいて?」


アキトの足音は徐々に遠ざかり──

幽霊のように、静かに消えた。


残された名倉は、胸の奥に不気味なざわめきを抱えたまま、ただその余韻を見送り続けた。


【時間】

【場所:どこかの小劇場・客席】


客席には誰もいない。

だが、舞台の上には確かに“物語”だけが、まだ息をしているように佇んでいた。

照明は最低限。天井から吊るされたスポットライトが一つ、舞台中央にぽつりと灯りを落としている。

それは、まるで“誰かが出てくるのを待っている灯り”のようだった。


薄暗い客席に、静かに足音が響く。


コツ、コツ──。


「……ああ、やっぱりここ、落ち着くな」


自然体で、まるで寄り道でもするように。

アキトが客席の中央通路にふらっと姿を現した。


手には紙コップのコーヒー。

服装も適当で、まるでコンビニ帰りの青年のようだ。


アキトは舞台を見上げ、小さく息を吐く。


「誰もいない舞台ってさ……

 演じられなかった“未来”が一番よく聞こえるんだよな」


ぽつりと漏らすその声は、寂しげなのに、どこか楽しげでもあった。


アキトは数段の階段を上り、舞台袖に手を触れる。

照明の熱の残りを確かめるように、指先でそっとなぞった。


「玲のやつ、言ってたよな……

 “これからの未来は、俺たちが編集してやろう”って」


ふっと笑う。


「……ずるいよな。ああ言われたらさ、俺もまだフィルム捨てらんねぇじゃん」


アキトは舞台中央へ進み、スポットライトの真下で立ち止まった。

光が彼の肩を照らし、長い影が客席へ伸びていく。


手に持ったコーヒーを一口飲む。


「さて……次は、どんな物語が始まるんだろうな」


ふらっと現れたのと同じように。

アキトは舞台の奥へ歩き、そのまま暗がりに溶けるように消えていった。


残された舞台には──

ただ一つの光と、続きの物語だけが静かに佇んでいた。

アキトのあとがき


こんなふうに、自分が“あとがき”なんて書く日が来るとは思ってなかった。

だって、俺はずっと、裏側で編集する側の人間だったから。


物語っていうのは、カメラの向こうで、客席の暗闇の中で、

知られないまま終わる瞬間がいくつも積み重なってできている。

俺はその「知られないまま」を司る役目のはずだった。


……だけど。


今回、いろんな人に出会った。

玲、朱音、詩織、中谷、そして“チーム影”の連中まで──

気づけば俺は、「画面に映ってしまった側」にいた。


それはちょっと、怖かった。

本音を言うと、逃げたかった。

だって、映ってしまえば、編集できなくなるから。


未来も。

選択も。

自分が誰でいたいかも。


けれど結局、俺は最後まで逃げきれなかった。

逃げられない相手がいたからだ。


玲だ。


あいつは、嫌になるほど正面からまっすぐで、

俺が隠してきた“選ばれなかった未来”まで目をそらさずに見た。


……そりゃあ、敵わないよ。


朱音の絵もそうだ。

あれは、編集なんかじゃ触れられない“未来そのもの”だった。

俺がフィルムをいくら巻き戻しても、

あの子の一筆には追いつけなかった。


でも、それでよかったと思ってる。


人の描く未来に、俺が少しでも並んで歩けたのなら──

それはきっと、ただの編集者でも、ただの影でもなく、

「アキト」という名前の物語を持てた、ってことなんだと思う。


最後に、ひとつだけ。


もし、この物語の続きがあるなら……

その時はまた、ふらっと現れるよ。


たぶん何食わぬ顔で、

舞台袖の暗闇とか、劇場の客席の最後列とか、

お前たちの“物語の隙間”から。


その時はさ、

少しくらい俺のことを覚えていてくれたら嬉しい。


――アキト

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