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77話 『残響の編集室(ざんきょうのへんしゅうしつ)』

主要人物


朱音あかね


スケッチブックに「未来」を描く少女。

絵に込めた想像が現実や映像空間と共鳴し、物語の鍵となる。

事件を通して成長し、アキトを「お兄ちゃん」と呼ぶほど心を通わせていく。


れい


探偵。冷静で分析力に優れ、真相を追い続ける。

アキトにとっては“ライバル”であり“友人”。

数々の事件の裏側を読み解き、朱音の「描く未来」を見届ける立場に立つ。


アキト(RM-03)


かつて映像編集の天才と呼ばれた青年。

第三の編集者=ルートマスターとして、記憶や映像の選択・再構成を行う存在。

罪と向き合いながらも、遥という少女の視点を“未来”に残そうとしている。

玲に「事件の裏側をともに追ってほしい」と願い、非公式な協力者となる。



協力者・関係者


安斎柾貴あんざい まさき


記録改変と精神操作のスペシャリスト。

玲と共に行動し、“選択肢の上書き”を可能にするコードキーを持つ。

だが副作用のリスクも高く、選択の重さと向き合うことになる。


川名詩織かわなしおり


映像編集技術者。アキトの過去を知る一人。

拾われた未編集フィルムを解析し、事件の構造に気づく。

玲たちのために映写室の再生装置を操作するなど、重要な役割を担う。


瀬尾ハルキ


朱音の映像を預かり、ドキュメンタリー作品としてまとめる映写技師。

真実を後世に伝える立場として、静かにその使命を果たしていく。



関連人物


はるか


アキトが“編集によって切り捨てた観客”。

記憶の中でしか存在せず、しかし彼女の視点は作品に深い影響を与える。

アキトの原動力の源であり、すべての“編集”の出発点。


村山慎也むらやま しんや


事件前に映像を記録していたカメラマン。

最後のテープに謎の音声が含まれており、アキトの痕跡が紛れている。


名倉家の書庫管理者


封印された鑑定資料を保管していた人物。

アキトの調査によって“消された記録”の一部が明かされていく。

 ー冒頭ー

編集室の壁に掛かったアナログ時計が、静かに“11時32分”を指していた。

 窓のない密閉空間。冷房はすでに切られ、機械の放熱がわずかにこもる。

 暗がりに浮かぶのは、編集用のモニターが放つ冷たい光だけ。

 まるで“次の一手”を待っているかのように、編集ソフトのタイムラインは、ある一秒を指して止まっていた。


 06:32(第三リール)


 そこには、劇中で“存在しない”はずの照明落ちと、不自然なカットつなぎが記録されていた。

 だが──その瞬間、郵便受けに何かが滑り込む音。


 編集スタッフが帰ったはずのドアに、無言の風が忍び込む。

 男はゆっくりと椅子から立ち上がり、足音を殺して入り口へ向かった。


 封筒は、真白な洋封筒。宛名も差出人もない。

 だが裏返すと、「R」のイニシャルが、赤インクで小さく刻まれている。


 男は無言で中身を取り出した。

 折り畳まれた一枚の紙。それは、“指示書”だった。


【指示書】


《映像編集用・第8稿──R》


●次回の編集処理について


▶ フィルム第三リール 6:32 における照明の「一度の消失」を、逆再生で再確認せよ。

▶ そこに映る「立ち位置の矛盾」を、カットせず残すこと。

▶ 音声ガイド第5場の消失部分は、そのまま“欠損”扱いで処理。再挿入禁止。

▶ 赤いガラス越しの反射カット(B1撮影分)は、次回素材に組み込むこと。


●次の搬入先


【日付】7月23日(火)

【時間】午後2時30分

【場所】神奈川県某市「旧劇場ステージ・控室跡」

【渡す相手】※「朱音」同伴者あり。


──“次の舞台”はすでに整っている。


 お前が“削除したはずの真実”が、彼らの眼前に再生されることを、私は歓迎する。


──Rルートマスター


 編集スタッフは指先で震えるフィルムケースを見やった。

 あの「消された第5場」が、実は“意図的に外された”ものであると、彼はこの瞬間、初めて理解した。

 誰かが──この真夜中に──真実の“再上映”を始めようとしている。


 そしてそれは、かつて彼自身が「削除」した断片に、すべてが繋がっている。


 編集室のモニターが、一瞬だけノイズを挟んで、再び動き出した。

 フィルム6:32──照明が消える直前、モニターに“何か”が立っていた。


 その姿は……画面の“はじまり”にして、“終わり”を告げる者──

 ルートマスターだった。


【時間】7月21日(日) 午前8時47分

【場所】東京・玲探偵事務所/玲のPCメール画面


 照明を点けずに開け放たれた窓から、蝉の声がかすかに聞こえる。

 玲は湯気の消えたマグカップを片手に、ノートPCの電源を入れた。

 起動音が静かに部屋に響き、受信ボックスが自動で更新される。


 未読の新着メールが一件。

 件名には、目を引く文字列。


《【至急】映像に関する調査依頼(第三リールの件)》


 玲の指が無意識にタッチパッドを滑り、差出人名に視線を落とす。

 クロームピクチャーズ。

 映像業界では中堅ながらも、芸術性と独自路線で知られる制作会社。

 そのアシスタントプロデューサー・古賀こが 陽奈ひなからのものだった。


【メール本文】


玲探偵事務所 御中

はじめまして。クロームピクチャーズの古賀陽奈と申します。

突然のご連絡をお許しください。


実は、現在進行中の弊社制作作品において、**「第三リール」**と呼ばれるフィルムに不審な映像編集痕と、複数の矛盾点が見つかっております。


特に問題となっているのが、

•第6分32秒における照明の一瞬の消失

•カメラ位置から見て明らかに不可能な“立ち位置”の人物

•そして、それらに関連する音声ガイドの「消失」


現在、社内調査では原因不明のままであり、編集責任者が昨夜から行方不明となっております。


さらに、編集室で**匿名の「指示書」**が発見されており、その内容が非常に不可解で、

明らかに“誰か”が現場をコントロールしている形跡があります。


大変勝手ながら、この映像に映るものが事故か、それとも意図的な介入かを見極めていただきたく、ご連絡させていただきました。


詳細については、改めてご説明させてください。

ご都合よろしければ、本日13時、弊社スタジオロビーでお待ちしております。


どうかご検討ください。


クロームピクチャーズ株式会社

アシスタントプロデューサー 古賀 陽奈



 玲はしばし無言のままメールを見つめていた。

 “第3リールの6分32秒”。昨夜、あの男から届いた指示書と寸分違わぬ時間指定。


 ルートマスターの気配が、また別の現場で動いている。

 コーヒーを飲み干すと、玲は隣の部屋へ向かい、朱音のスケッチブックを手に取った。


 すでに描かれていた、“誰もいない舞台”と“赤く染まった照明”。

 それはまだ起きていない“次のシーン”の予兆だった。


【時間】7月21日(日) 午前11時58分

【場所】クロームピクチャーズ本社スタジオ前


 蝉が鳴き止んだ一瞬の静寂を縫うように、タクシーがスタジオ前に滑り込んだ。

 玲がドアを開けて降りると、すぐに朱音も続いた。スケッチブックを胸に抱えたまま、何かを感じ取るように建物を見上げている。


 「ここ、赤い光の匂いがする」

 朱音がぽつりと呟いた。


 玲は彼女の横顔を見ながら頷き、入口の自動ドアへと歩を進めた。

 ロビーは冷房が効いており、打ち合わせ中のスタッフの声が低く響いている。受付を済ませた二人を、すぐに若い女性が迎えに来た。



【時間】12時02分

【場所】クロームピクチャーズ・ロビーフロア


 「玲探偵さん、ですよね? 古賀です。こちらへどうぞ」

 やや早口で話しかけてきたのは、明るい茶髪を一つに束ねた細身の女性だった。

 アシスタントプロデューサー・古賀陽奈。

 彼女の目は疲れていたが、どこかで何かに抗う意志を灯していた。


 会議室に通された玲と朱音は、ガラス越しにスタジオの編集室を見下ろせる席に案内される。

 会議室の中央には、プリントアウトされた映像スクリプトと、問題のリールを焼いたDVDディスクが置かれていた。



【時間】12時15分

【場所】クロームピクチャーズ・会議室


 「失踪したのは、**編集マンの村山慎也むらやま しんや**です。昨夜、編集室で作業していたのを最後に、連絡が途絶えました」


 古賀が深く息を吐き、声のトーンを落とす。


 「彼は、例の《第三リール》の調整を担当していて……。ただ、そのリールには、なぜか編集記録が一切残っていないんです。誰が触ったかも、いつ何が変更されたかも、データが消されています」


 玲が口を開く。


 「編集ログが飛ばされているってことは、誰かが故意に“痕跡を消した”と」


 「はい。しかも、その編集室で見つかったメモがこれです」


 古賀は、一枚のA4紙を差し出す。

 手書きの文字でこう記されていた:


【指示書】

第3リール:6分32秒、照明を1.4秒だけ落とせ。

立ち位置の切り替えは逆順でつなげ。

音声ガイド:該当箇所は削除。音の“空白”を残せ。


目的は、「本当の犯人を隠すため」。


――R


 玲は眉をわずかに寄せた。

 「“R”……ルートマスターだな」


 その言葉に、古賀の顔色が変わった。


 「村山さんは数日前、こうも言っていました。“あのシーンの奥に、もうひとつの映像がある気がする”って」


 朱音はスケッチブックを開き、描きかけの絵を見せた。

 その紙には、“観客席の中にひとりだけ立っている人物”と、“赤い照明が舞台の一角を斜めに照らしている構図”が描かれていた。


 玲が目を細める。

 「その観客席の人間……次に犠牲になるとしたら、誰がその場所に座るかを調べる必要がある」


【時間】13時10分

【場所】クロームピクチャーズ内 編集スタジオB前


 玲と朱音は、古賀に案内され、事件の起きた編集室へと向かった。

 ドアの向こうには、昨日、最後に村山慎也がいた部屋。

 そして――彼が失踪する直前に、ルートマスターからの“編集指示”を受けた現場だった。


【時間】7月21日(日) 午後1時15分

【場所】東京・品川某スタジオエリア前


 湿った海風が吹き抜ける湾岸の空気には、工業用のオイルと照明機材の熱が混じっていた。

 スタジオ街の一角。低く唸るような音を立てる搬入口のシャッター前で、玲はポケットから小さなメモを取り出し、目を通した。


 「ここが、例の“ステージリール”の撮影が行われた現場か」


 灰色のスーツの襟を正しながら呟く玲の隣で、朱音がそっと日傘をたたみ、小さな声で答える。


 「うん……でも、なんだか変な感じ。絵の中と……匂いが似てる」


 玲が視線を向けると、朱音はバッグからスケッチブックを取り出し、ページをめくっていた。

 そこには、すでに数日前から描かれていた“赤い照明に照らされたステージ”の風景。

 その奥には、観客席の中でひとりだけ立ち上がる人影。そして、背景に“割れたガラス窓”が描き足されていた。


 「……朱音、その絵。いつ描いた?」


 「昨日の夜。あの編集室のあと、急に頭の中に浮かんで……。でも、ここの窓、本当に割れてるのかな?」


 玲は眉を寄せる。

 「……このロケ地。スタジオD棟、旧ステージホール。十年前に火災で一部が焼けたが、残されたセットだけ再利用されてるはずだ。赤いガラス窓があるのは、その南側の控室エリアだ」


 朱音がうなずく。

 その瞬間、スタジオの扉が開き、見覚えのある女性が顔を出した。


 「ようこそ。お待ちしてました。……音響担当の**志倉 しくら・あずさ**です」


 女性は、黒いキャップを目深にかぶり、肩から録音機材のケースを提げていた。

 「音の不自然さに気づいたのは、私です。リールの5場、本来あるはずの環境音がごっそり抜けてる」


 玲は軽くうなずきながら応じた。

 「消えた音。つまり、“観られたくなかった空白の時間”。それを隠すための編集ってことだな」



【時間】午後1時28分

【場所】スタジオD棟・旧ステージホール控室


 控室の南側。窓に嵌め込まれた赤いガラスは、既にひびが入っていた。

 朱音の絵に描かれていた“割れ”と一致する位置だった。


 志倉は、録音した未編集音声の断片を再生する。


 「……この部分、聞こえますか? 照明が落ちたタイミングで、ガラスが軋む音と、“誰かの足音”がするんです。しかも、台本にはない」


 玲は目を細める。

 「ステージの5場で、照明が一瞬だけ落ちる。その間に、立ち位置を変えた人物がいる。そして“誰か”を入れ替えた」


 朱音が、その場で絵を描き直し始める。

 赤い照明がずれるごとに、ステージ上の人物の“影の位置”がわずかに変化している。

 まるで――そこにいたはずの人物が、もう別の場所にいるかのように。


 玲は振り返り、控室の壁に貼られた古い撮影スケジュールを見つけた。

 そこにはこう記されていた:


【第5場 撮影予定】7月14日(火)18:00〜19:30

【注意事項】

・照明落ちタイミングは1分22秒時点で実施

・録音中、現場スタッフの出入りは厳禁


【備考】※編集マン 村山S、編集ログは別紙で管理(R氏経由)


 玲は唇を引き結び、呟く。

 「……ここで“何か”が起きた。そして、村山はその痕跡を見つけてしまった。ルートマスターにとって、不都合な真実を」


【時間】7月21日(日) 午後1時30分〜午後2時00分

【場所】東京・品川 スタジオD棟・旧ステージホール控室/南側赤ガラス窓エリア


 スタジオD棟の南側、赤いガラスの窓は午後の日差しを淡く通しながら、控えめな影を床に落としていた。

 玲が控室に入った時、その窓の前にはすでに一人の男が立っていた。


 「ご紹介します。ガラスの記録再帰――反射記録のスペシャリスト、《楠本 くすもと・れん》です」

 志倉が紹介すると、男は無言でうなずき、黒いポーチから細身の検査用スキャナを取り出した。


 「このガラス、撮影当時の照明角と被写体距離を再現すれば、ガラス面に映り込んでいた“反射人物”の位置が特定できます」

 そう言って、楠本はレーザー計測器と専用フィルターを赤ガラスに当て、ミリ単位で照明軌道をトレースしていった。


 朱音はスケッチブックに視線を落としながら、ふと口を開いた。

 「……この人、ここにいたのに……絵の中では、消えてる」


 玲が覗き込むと、朱音の絵には確かに、舞台上の三人の立ち位置が描かれていた。

 しかし、背景のガラスには、“存在しないはずの第四の影”が映っていた。


 「影の位置が逆になってる。これ、絵を逆再生すると――」

 玲は朱音のスケッチを撮影し、スマホで左右反転表示にした。


 「……やっぱりな。立っていたのは“村山慎也”だ。台本上にはいなかったのに」


【時間】午後1時45分

【場所】同スタジオ内・簡易モニタールーム


 その頃、音響担当の志倉 梓は、仮設モニターに自らの録音データを流し込んでいた。

 彼女が注目していたのは、「第5場」の照明が一瞬落ちるタイミング――その間に“消えた環境音”の中に、奇妙なノイズが混じっていたのだ。


 「……これです。1分22秒地点、照明ダウンの3フレーム後」


 志倉がフィルターをかけて再生すると、スピーカーから断続的なノイズ音が浮き上がった。


 ピー……ピッ、カチッ……ザ……(間)…… 6.3.2……(間)……R、オーバーラップ……


 朱音が顔を上げる。

 「6分32秒……第三リール……?」


 玲がすぐに反応する。

 「ルートマスターの“ヒント”にあった時間だ。照明が落ちた瞬間、音声に“編集指示”が紛れ込んでいた」


 志倉は唇を噛むように言った。

 「このノイズ、自然音には見せかけてるけど、**明らかに人工的。誰かが“音の中に指示を仕込んだ”としか思えません」


【時間】午後1時55分

【場所】スタジオD棟・赤ガラス窓前


 楠本が静かに口を開く。

 「映り込み、ありました。逆再生されたガラスの反射を再現したところ……窓の外に立つ人物が、手を“3本指”で掲げていました」


 玲と朱音が顔を見合わせる。

 「……ルートマスター。“本物の手を失った誰か”だ」


 赤いガラスの奥――そこには、次の指示が隠されているかのように、ぼんやりと人の形が浮かび上がっていた。


【時間】7月21日(日) 午後2時05分

【場所】スタジオ03・記録編集室前廊下


 蛍光灯が一つ、また一つと、細かく明滅を繰り返す。

 まるで、何かが静かに脈打つように――その廊下は音もなく張り詰めていた。


 朱音は玲の横を歩きながら、胸元に抱えたスケッチブックのページに視線を落としている。

 クレヨンの跡はまだ柔らかく、描きかけの色彩が滲むように揺れていた。


 「……誰かが、こっちを見てた」


 ぽつりと朱音がつぶやく。玲は歩みを止め、目だけを彼女に向ける。

 朱音のスケッチには、赤いガラス越しに見える“観客席”が描かれていた。

 そこに――本来、存在しないはずの“背広を着た人物”がただ一人、中央に立っている。


 「観客席? スタッフは立ち入り禁止だったはずだ」


 玲が低く言うと、朱音は小さくうなずいた。

 「……でもこの人、“前”にも描いた気がする。忘れてただけで……」


 スケッチの中の男は、左手だけを胸の高さに持ち上げている。

 不自然に丸まったその手には――三本しか指が描かれていなかった。


 その時、廊下の奥から足音が響いた。楠本 連が手にした端末を片手に近づいてくる。


 「ガラスの反射、再構成できた。やっぱりあの“人物”は……左手が“三本指”だった。しかも、**指の欠損部が完全に自然、義指じゃない。生まれつきか、事故か――だ」


 玲が目を細める。

 「三本指の左手……そして、音声ガイドに隠された逆再生の指示……」


 楠本が静かに頷く。

 「“その人物”は、スタッフの記録にも名前がない。つまり――ロケ地に“存在してはいけない”人間だったということだ」


 玲は、朱音の描いた人物と楠本の分析結果を頭の中で重ね合わせながら、ポケットからスマホを取り出した。

 連絡先リストを数秒見つめたあと、ある名をタップする。


 「……《柚月あさひ》。未編集素材のアーカイブと逆再生処理に関して、あの人以上はいない」


 玲の声には、久々に迷いのない確信があった。


 「あの人に、**“第三リールの本当の順序”**を解析させる。手に入れるんだ、“隠された本当の編集前の姿”を」


 朱音はそっと絵を閉じながら、小さく尋ねた。

 「……それって、見えちゃいけないものも、見えちゃうかもしれないの?」


 玲は答えなかった。ただ一歩だけ前へ進み、編集室の扉に静かに手をかけた。


【時間】7月21日(日) 午後2時30分

【場所】スタジオ03・記録編集室内


 編集室の空気は、しんと静まり返っていた。

 ブラインド越しに差し込むわずかな光と、モニターの明滅だけが、狭い室内を淡く照らしている。


 中央の操作卓に座るのは、未編集フィルム解析のスペシャリスト・柚月あさひ。

 玲と朱音、そして楠本が、その背後から無言で映像を見守っていた。


 モニターに再生されるのは、問題の第三リール。

 ――映像が「正しい時間軸で逆再生」されていく。


 6分31秒……6分32秒……

 その刹那、画面が黒く途切れた。


 「……あった」

 あさひが小さく呟き、手元のキーボードを数回叩く。


 次の瞬間、モニターが一時停止され、画面中央に「わずか2フレーム分だけ」現れた男の背中が拡大表示された。

 灰色のスーツ、崩れた立ち姿――そして、よく見れば左手がポケットに入っており、指が存在していないようにも見える。


 「これ、誰……?」朱音がスケッチブックを抱きしめたまま、ぽつりと呟いた。


 柚月あさひは画面を拡大し、さらに露出を調整する。

 「ここの編集ログ……このシーン、最初の編集データには存在しなかった。後から“別人”が混ぜたわけでもない」


 玲が静かに口を開いた。

 「……ということは、この“背中”は、最初から撮られていた。ただ、“意図的に消された”だけ」


 「そういうこと。しかも……」

 あさひは別ウィンドウを開き、旧版ログと現行データを比較表示した。


 「編集室で管理されていたログには、“6分32秒地点”が存在しない。数秒丸ごと削除されてる。しかも上書き保存じゃない、“ロール構成の指示書”ごと消えてる」


 その時――朱音が、スケッチブックを再び開いた。


 彼女の指先は、すでに止まらない。


 ざっ……ざっ……という紙の音と、クレヨンの擦過音が、沈黙の中に響いた。


 描かれていくのは、今ここにはいないはずの、別のスタジオセット。

 背景には、客席を備えた屋内ロケ地。

 そして、中央には、ガラス越しにこちらをじっと見つめる“黒い帽子の男”の姿。


 ――その左手。親指・人差し指・中指しか描かれていない。


 「……次は、あのスタジオだ」玲が絵を見て言った。


 楠本が端末を取り出し、画像からロケ地情報を照合し始める。

 「観客席の構造、この壁の骨組み、天井高……特定できる。たぶん、“調布旧撮影所”の第4ステージだ」


 あさひが目を細める。

 「そこ、数日前にロケ予定が急遽キャンセルされたって話、聞いたな……理由は『スタッフの体調不良』って書かれてたけど、真相は……」


 玲が即座に反応する。

 「急ぐぞ。次の“犠牲者”が出る前に、仕掛けを突き止める」


 その背後で、朱音のクレヨンがまた一つ、赤い線を描き加えた。

 ――黒い帽子の男の背後に、誰かが“立っている”。

 今はまだ、輪郭だけ。けれど、その“姿”には見覚えがあった。


 それは、あの日――あの倉庫で、第三リールを持って逃げた“誰か”の後ろ姿と、酷似していた。


【時間】7月21日(日) 午後4時45分

【場所】都内・旧撮影所第4ステージ 控室


 古びた鉄製の扉が、湿った音を立ててわずかに開いたままになっている。

 そこから吹き込む風が、朱音のスケッチブックのページをばらり、とめくった。


 ページには、今まさに足を踏み入れたスタジオと酷似した風景が描かれている。

 舞台の中央、赤黒い幕に囲まれたステージ。

 その周囲をぐるりと取り囲む“観客席”。

 そして、照明ブースの上に“黒い影”――誰かの“背”だけが描かれていた。


 玲がそっとそのページを押さえ、黙って見下ろす。

 あさひはすでに控室のモニターに接続されたラップトップを操作しており、指先が止まった。


 「……あった。未整理素材の中に、管理番号のない映像ファイルが混ざってる」


 3人は控室を出て、第4ステージの本番空間へと移動する。

 照明はまだ落とされたままだが、ステージの中央には照明トラスの一部が不自然に設置されていた。


 「ここ……」

 あさひが小さく息をのむ。

 「この照明位置、普通の舞台照明じゃない。特定の立ち位置に“光の影”を投げるように設計されてる」


 「つまり……逆光を使って、“別人の影”を作れるってことか?」玲が尋ねる。


 「そう。しかも、カメラ位置から見れば、“影の人物”だけが映り、本来そこにいた人物は完全に消される構造」

 あさひが手早く照明の角度を調整すると、舞台奥に黒く伸びた人影が、観客席にまで届く。


 その影の左手に注目すると、指は……三本しかない。


 朱音は、その光景を見つめながら、再びスケッチブックを開いた。

 そして、新たなページに、静かにクレヨンを走らせる。


 描かれるのは――観客席の中央に座る人物。

 顔は描かれていない。けれど、その服装と輪郭に、玲は覚えがあった。


 「……あのときの、リールを持ち出した男と同じ輪郭」


 その時、あさひがラップトップの音量を上げ、イヤフォンを外した。


 「……今流してる映像。これ、10年前のものだと思う」


 モニターに映っていたのは、当時の撮影現場の記録用素材。

 不自然に巻き戻されたような映像の中、炎の手前で何かを抱える人影――子供のような姿が確認できる。


 そして、背後から誰かがその子を引き離す。

 その人物の顔は映らない。だが、左手の指は……三本だけだった。


 「……やっぱりあの火災の中にいたんだな」玲が低く呟く。

 「ルートマスター……いや、“あの男”の正体は、10年前の火災の被害者。そして、生き延びていた」


 「そして今、“編集”という名の復讐を繰り返してる……」あさひの声も低くなる。


 朱音の描いた観客席の男。

 その背後には、もう一人の影が立っていた。

 それは、朱音自身でさえまだ気づいていない、次の犠牲者を見つめる“観察者”――。

 おそらくそれが、“ルートマスターの真の位置。


 だが、スケッチにはもうひとつ、異変があった。

 紙の端に小さく描かれた文字――

 「照明が落ちる、そのとき」


 玲はその言葉を見つめながら、言った。

 「……俺たちが“彼の演出”に追いつくまで、あと少しだ」


【時間】7月21日(日) 午後7時25分

【場所】都内・第C撮影所 倉庫棟裏手


 照明は落ち、倉庫棟の影がじっとりと地面に張り付いていた。

 空気は重たく湿っていて、夏の夜とは思えないほど冷たい風が吹いている。


 玲は倉庫棟の裏手、かつて機材車が並んでいた搬入口付近に立ち、手に持った小型懐中電灯をゆっくり動かしていた。

 その背後には、朱音、あさひ、そして連絡を受けて合流した映像技術者・早瀬誠司の姿があった。


「ここ……この床下、何かある」


 あさひが金属の溝をなぞるように指を滑らせ、錆びたパネルの一角を開けると、そこには不自然な配線と、小型の制御ボックスが取り付けられていた。


 「……この回路、照明用じゃない」

 早瀬がしゃがみこみ、懐中電灯を当てながら呟いた。

 「映像信号と同期する“トリガー”が組まれてる。照明が落ちた瞬間、映像の“別系統”が切り替わる仕掛けだ」


 「つまり、“演出の本番”は、観客が気づかない裏で切り替わってるってことか……」

 玲が言葉を噛みしめるように口にした。


「俺が……10年前に設置した回路に、似てる」


 沈黙の中、早瀬がぽつりと語り始めた。


 「当時、あの火災が起きた夜――第三ステージの照明系統は、映像同期信号とつながってた。誰かが、舞台全体を“編集するために”操作していた」


 「でも俺は……自分でそれが“殺すための仕掛け”だったとは、思ってなかった」

 「ただ、“演出用の特別回路”だって言われて、疑わなかった……。その日以降、俺は外されて、記録も消された」


 玲はゆっくりと彼を見た。

 「……それを指示したのが、“アキト”?」


 早瀬は首を横に振る。

 「ちがう。“アキト”はそのとき、まだスタッフじゃなかった。でも……その火災の数日後、“アキト”という新人が、映像編集の補助で現場に現れた」


 「そして――彼だけが、そのとき焼け残ったテープの“断片”をすべて持ち帰ったんだ」


 朱音がスケッチブックを開く。

 そのページには――二つのモニターと、手元でそれを操作する男の影。

 そして、画面の中で炎に包まれるステージ。


 その絵の端に、文字がにじむ。

 《最後の演出は、「客席」にある》


 「これは……」

 あさひが、手元のノートPCに残された未整理フォルダの中から、名前のないファイルを開いた。


 映し出された映像には、無観客の舞台、誰もいない客席、

 そして、ゆっくりとズームされる“ひとつの座席”――。


 そこに、焦げ跡の残る小型ビデオカメラが置かれていた。

 「……これ、あの火災当日の記録機材だ」あさひが小さく呟く。


 玲は立ち上がり、照明のスイッチに手をかけた。

 「……照明が落ちる、その瞬間」


 再点灯の直前、暗闇の中で朱音がまた一枚、絵を描き始めていた。

 その線はまだ途切れ途切れだったが――そこには、**座席に佇む“もうひとつの観客”**の姿が描かれようとしていた。


 左手の指は、三本だけだった。


【時間】7月21日(日) 午後8時00分

【場所】都内・撮影所構内 仮設控室


 控室の窓の外には、暮れ切った夏の闇が静かに広がっていた。

 扇風機の羽音だけが鳴り響くその空間で、朱音はひとり、机に向かってスケッチブックに手を動かしていた。


 そこへ、玲と川名が戻ってくる。

 川名は未だ険しい表情を浮かべたまま、朱音の背後に立ち止まった。


 「朱音。…何を描いてる?」


 朱音は、ちらりと振り返ったあと、また視線を紙に戻す。

 「“前のステージ”……。あの時、誰かが見てた。…カメラじゃない、“肉眼”で」


 彼女の描く絵には、焼け焦げた旧ステージと、その最奥の照明ブースの影が描かれていた。

 ただ、ブースの中にいる人物の“顔”は、まだ描かれていない。ただ――左手に映るシルエットだけが、異様な形をしていた。


 玲が近づき、静かに問いかける。

 「そこにいるのが“ルートマスター”、アキトなのか?」


 朱音はうなずく代わりに、細く息を吐きながら、ステージ左側の観客席を描き足していく。

 「そこにもいたの。もうひとり」


【時間】午後8時12分

【場所】旧ステージ施設内


 玲、川名、そして朱音は仮設控室を出て、旧ステージへと足を踏み入れた。

 10年前、火災が発生した撮影所のひとつ――今では廃墟同然となった空間に、わずかな照明機材が点在している。


 「ここが……最後のロケ地?」

 川名が確認するように呟く。


 「ちがう。ここは“始まりの場所”だ」玲が答える。


 ステージ上には、かつてのセットの一部が辛うじて残されていた。焦げた舞台床、歪んだ照明リグ。

 玲はその脇にある古びた照明卓のカバーを外すと、ある種の“後付け装置”が内蔵されているのを見つける。


 「これは……記録制御信号か。映像信号を同期させる仕組み……でも、これは市販品じゃない」


 川名が片膝をつき、構造を確かめるように装置を見つめた。

 「この仕掛け、まるで“ライブ編集”用のセットだ。リアルタイムで照明と録音を切り替えるための」


 「そして――これを使った“誰か”が、火災の夜、舞台にいた」玲が言った。


【時間】午後8時27分


 朱音はステージ脇の壁を見つめていた。

 「ここ……」彼女はつぶやく。


 その視線の先には、塗りつぶされたような壁の一部があった。

 玲が近づき、手で払うと、そこに黒く焦げた跡と、数字のような印字の断片が浮かび上がる。


 「これ……“リール番号”?」川名が目を細める。


 「いいや、“録画日時”だ」玲がつぶやく。

 「ここに固定カメラがあった。アキトは――ここに“火災そのものを記録させた”」


【時間】午後8時35分


 川名が低く唸る。

 「アキトは、ただの加害者じゃない。自分の復讐劇を“編集した観客”にも見せたかった。そのために、10年分の演出を重ねてきた」


 朱音が手にしたスケッチブックには、観客席に佇む指のない人物の“背中”が描かれていた。

 その背中の上には、なぜか三つの影が重なって見えた。


 玲が振り返る。

 「……私たちは“まだ観させられてる”んだ、あの火の中で始まった、“彼の物語”を」


 そのとき、ステージ奥の影がわずかに動いたように見えた。

 風が、焼け跡の幕を揺らす。


 だが、そこにはもう誰の姿もなかった。


【時間】7月22日(月) 午前10時15分

【場所】神奈川県 某洋館スタジオ「赤窓荘」


 灰色の雲が垂れ込め、小雨がしとしとと降り続ける朝。

 玲たちは、山間にひっそりと佇む旧洋館スタジオ「赤窓荘」の前に立っていた。


 館の重厚な木製扉には鉄の装飾が施されており、外壁の赤茶けた窓枠が、この場所の名前の由来を示している。


 案内人であるスタジオ管理人が、ゆっくりと錆びた鍵を回した。


 「ここが、“最後の素材”が収められていた部屋です」


 玲は頷き、ふと手にしたスケッチブックへ目を落とす。朱音が前夜に描き終えた、“最終フレーム”の一枚。


 その絵には、赤い窓の向こうに立つ“背を向けた人物”と、室内でこちらにカメラを向けるもう一人の影が描かれていた。


【同行者】

•朱音:淡い青のレインコート姿。目元に疲れの色はあるが、手にしたスケッチブックはしっかりと抱き締められている。

•川名詩織:資料ファイルと共に、事件の“映像記録管理リスト”を持参。

笠井玻璃かさい はり:30代前半の女性。無口で整った身なりの中に、観察者としての鋭い視線を携える「窓の構造」のスペシャリスト。


【館内・南西端の“赤窓の間”】


 部屋の中は撮影の名残が強く残っており、壁のひび、古いフィルム缶、記録用のマイク端子がいくつか無造作に置かれていた。


 笠井はすぐに、赤窓そのものに近づき、指を滑らせるように確認する。


 「……この窓、二重構造になってるわね。外側と内側で、“反射の角度”が違う」


 玲が応じる。

 「つまり、本来映らないはずの“背後”を、この窓は映せる」


 朱音の絵は、その二重反射を前提とした視点で構成されていたのだった。


 笠井は頷き、窓の中心部を指差した。

 「この角度、この高さ……あの夜、窓に映っていた“背を向けた人物”は、カメラではなく“朱音”の位置を見ていたことになる」


【時間】前日・午後9時07分

【場所】都内・B棟 編集室/最終解析シーン(回想)


 第三リール、8分41秒――

 暗転の直前、わずか1フレームだけ出現する**「赤窓荘の窓越しの反射」。

 それを逆再生したとき、明らかになるのは――“二人目”の観客**の存在だった。


 玲が声を低くして呟く。

 「これはもう、“事故”じゃない。

  あの夜、赤窓荘のこの部屋にいた“もう一人の観客”が……全てを記録していた」


 その人物の左手は、明らかに奇妙な形をしていた――3本の指。


【現在/赤窓の間】


 朱音が一歩踏み出し、スケッチブックを窓の前に掲げた。

 彼女の目は、何かを確かめるように窓の外を見つめている。


 「……もう、ここにはいない。でも、わかる。

  “あの人”は、自分の姿を見せたかったんじゃない。

  “誰が観ていたか”を、残したかったんだ」


 玲がゆっくりと口を開く。

 「それを、バトンとして君に託したんだろうな。朱音」


 川名が手にしたファイルには、既にクロームピクチャーズへの“最終報告”が封入されていた。

 公開か、封印か――

 その選択は、彼女ではなく、未来を記録する者たちに委ねられる。


 そして朱音は、スケッチブックをそっと閉じ、こう言った。


 「次は……この“バトン”を、もうひとりの絵描きに渡す」


 その名はまだ明かされていない。

 だが、次世代の記録者たちへと、物語は確かに受け継がれていくのだった――。


【時間】7月22日(月) 午後1時05分

【場所】都内湾岸・撮影チーム仮設編集ルーム


 機材が雑然と積まれた空間に、静寂が降りる。

 編集担当・志倉の手元で、逆再生された“第三リール”が再生されていた。


 ──映像には、「赤窓荘」で撮られた対話シーンが映し出されている。

 2人の人物が、窓際に立って話している。だが、“逆再生”にすることで、その立ち位置や視線の向きが、微妙に変化していることに、玲は気づいた。


 「このシーン……普通に再生してたときは、何の違和感もなかったはずなのに」


 志倉が小声で呟く。

 「逆再生にすることで、“時間軸”の偽装が崩れた。

  つまり、これは演技された記録じゃない……計画的に仕込まれた“映像トリック”だ」


 朱音は、編集室の隅で静かにスケッチブックを抱えていた。

 彼女が描いた“最終フレーム”には、赤窓の向こうから“ある人物”が手を伸ばしてくる姿がある。

 ──だが、その手は途中で途切れていた。誰に手を差し伸べているのかが、描かれていない。


 玲がふと、その絵に目をやる。

 「……まだ“終わり”じゃないんだな、朱音」


 朱音はゆっくりと頷き、スケッチブックの最後のページを破った。

 描かれたその絵を、無言で隣に立つ少年に手渡す。


 受け取ったのは──柊コウキ。

 薄く表情を浮かべながら、彼はその絵を見つめた。


 「これは……僕が、受け取っていいものなの?」


 朱音は、少しだけ笑って言った。

 「ううん。“思い出すべき人”に、渡してあげて」


 柊コウキは、スケッチブックの切り取られた絵を手にして、ひとり歩き出す。

 その先に待つのは、まだ記憶の欠片が眠る“倉庫跡”──十年前の現場。

 彼は、かつて“封印された記録”の中で沈黙していた少年だった。


 今度は、彼自身が“記憶の証人”になる番だった。


その時──編集ルームの扉をノックする音。


 扉を開けると、そこに立っていたのは、見覚えのない機材搬入業者風の男だった。

 キャップを目深にかぶり、日焼けした肌に作業着。


 だが、玲の視線が、その男の“左手”に向いた瞬間、空気が変わる。


 ──左手の指は3本。


 男は、ふっと笑って一言だけ。


 「これで、ルートはすべて揃った。あとは、お前たちが選ぶ番だ」


 言い残し、群衆の中に溶けるように消えていく。


 その背を、朱音はじっと見送っていた。


【時間】7月22日(月) 午後3時30分

【場所】赤窓荘 地下階・旧楽屋控室


 地下へ続く石段を降りた先に広がる、かつて俳優たちが身支度を整えていた控室。

 壁の漆喰はところどころ剥がれ、空気は埃と湿気の混ざった重たい匂いに満ちている。


 そんな空間で、照明スタッフとして登録されていたひとりの男が、不自然に動かない棚を見つけた。

 重いスチール製の金庫が置かれているが、裏側に空洞があることに気づき、周囲を確認する。


 ──そして、裏板をずらしたときだった。


 「……これは」


 埃をかぶった、黒い封筒が一通。

 中には、以下の3つのものが収められていた:


【黒い封筒の中身】


① 一本の【未発表短編フィルム】(8mm)


ラベルには手書きでこう書かれていた。


「“遥の視点”──記録者:RM-03」


それは、これまで誰にも見せられることのなかった、

はるかという少女の“最後の一日”を記録したフィルムだった。

彼女が見た劇場。彼女が見つめたアキト。

そして、彼女が**「残されなかった観客席」**に何を託そうとしていたのか。


これは、アキトの“原罪”とも言える映像だった。

映写すれば、すべてが明らかになる──だが玲はまだ、それを再生しなかった。



② 朱音への【直筆の手紙】


「朱音へ

君の描く“舞台”は、いつだって誰かの光だ。

もしも、未来を描くことに迷ったときは、

このフィルムを開ける前に、一度だけ“観客席”を描いてみてほしい。


誰もいなくてもいい。

でも、君が誰かの視線を想像したなら、それは“未来が動く瞬間”だ。

君なら、選ばなくても、誰かを照らせる。


──アキト」


朱音への、静かであたたかいメッセージ。

だがその裏には、もう一つの意図があった。



③ 【選ばれなかったエンドロール】の紙片(断片)


数行だけ記された、本来なら上映されなかったはずの結末の文字列。

そこにはこう記されていた。


「舞台は終わる。

だが、照明が落ちても、誰かが“観ていた”ならば──

それは物語の続きだ。


ルートマスターは舞台を去る。

選択肢はすべて、君たちに託す。」


そして最後に、小さな“黒い鍵”が添えられていた。

それは、かつてアキトが手放すことのなかった──

編集台の“最終権限キー”だった。


 控室に集まった玲、朱音、志倉、柊コウキ、古賀陽奈の視線が、テーブルに広げられた封筒の中身に注がれる。


 志倉が小さく息を呑んだ。

 「……これ、再生できる機材、うちにあるか?」


 玲は封筒を静かに見つめながら答える。

 「機材はある。でも、これは再生していいのかが問題だ」


 沈黙の中、朱音がスケッチブックを開いた。

 その最新の1枚には、2つに分かれた道の前に立つ人物が描かれている。

 片方の道は光に満ち、もう片方は、過去の映像がスクリーンのように降り注ぐ闇の中へ続いていた。


 朱音は言う。

 「“描くこと”は、残すこと。だけど、“残す”ことが、すべての人にとって救いになるとは限らない──」


 玲と川名は目を合わせる。

 “選択”の時が来た。


ルートマスター(アキト)が残した“最後の選択肢”とは:


「誰かが“結末”を描かなければ、物語は終わらない。

 でも、“誰にも描かせない未来”があってもいいと、今は思っている。


 この一行が、

 僕の最後の編集だ。」


「以下の選択肢は、

 未来に干渉する必要が生じたときのみ使用可能。

 記録された『観客の記憶』に基づいて未来を一度だけ“巻き戻し”、

 別の選択肢を提示できる権限を起動する。


 ──ただし、代償がある。

 ・世界の時間軸が“部分的に未確定”となる

 ・『描かれなかった者』が“干渉者”として浮上する

 ・再編集された未来は、元の未来と共存できず、必ず誰かが『記録外』となる


 使用の判断は、

 君に託すよ、玲。」


玲は言った。

「この封筒は、アキト自身の懺悔か、それとも……君たちへの最終テストだったのかもしれない」


視線が重なる。

誰が、どの“道”を選ぶのか──それは、物語の結末に向けて、今まさに選ばれようとしていた。


【時間】7月23日(火) 午前10時40分


【場所】都内 映像資料保管センター(旧・音響スタジオ内)


 雨があがったばかりの空気が、重く冷たい空間に染み込んでいた。

 天井の高い倉庫内には、磁気テープの匂いと古びたカメラの機械油の香りが漂う。


 そこは、かつて音響スタジオとして使われていた建物の改修施設――現在は、使用されなくなった映像資料や未編集フィルムの保管庫として、関係者のみに開かれている。


 無数の段ボールと、時代遅れの編集機材に囲まれた空間の中央に、玲と朱音、そして三人のスペシャリストたちが集まっていた。


 玲は、革の手袋越しに黒いリール缶をそっと開けた。

 中には、慎重に巻かれた一本の8mmフィルム。


 ──「Reel-A」


 それは、ルートマスターと名乗る男――アキトが遺した、最後の選択肢。


「……再生するかどうかは、君たちの判断に任せたい。そう言っていたな」

 玲の低い声に、周囲の誰もが反応しない。ただ静かに、沈黙が続いた。


 その沈黙を、朱音の声が破る。


「私は――知っておきたい。あの時、何が起きたのか。…あの人が、何を見せたかったのか」


 彼女は、手に持ったスケッチブックを胸に抱き締めながら言った。

 その目に迷いはなかった。例え、その真実がどんなものであったとしても。



 あさひがフィルムを受け取り、旧式の映写機に慎重にセットしていく。

 プロジェクターの起動音が微かに鳴り、スクリーン代わりの白布に、わずかな粒子が映り始めた。


「……いくよ」


 短く、彼女が言った。

 室内の明かりが落とされる。



【Reel-A|映像】


照明の落ちた映写室に、カタリ……とリールが回り始める。

スクリーンには、かすかに色褪せた舞台が映し出されていた。

劇場の天井、舞台の端、客席のシルエット。

だが、そこに観客の姿はなかった。


舞台の上にひとり、少女が立っていた。

名ははるか

静かに、何も語らず、ただ客席を見つめている。



【0:01:22】少女の視点カット


フィルムは、少女の目線へと切り替わる。

誰もいないはずの観客席。

だが、そこには“かすかな気配”があった。


 ──フィルムノイズ。

 ──カメラのズームが震える。

 ──「……アキトくん」


声がした。

まるで、カメラに直接語りかけるような声。



【0:02:40】断片のフレーム:未編集の会話


>「わたしが消えたら、あなたの記録は、誰のために残るの?」

>「……それでも、選ばなきゃいけない。記録者として」

>「記録者じゃなくて、人として、ここにいてほしかったのに」


映像は途切れがちに会話を拾い、ぶつぶつと消える。

音声ノイズの裏に、アキトのかすれた呼吸だけが残る。



【0:05:00】静止画カット


少女は、舞台の中央に立ったまま、振り返らない。

その背中に、ゆっくりと白い光が落ちてくる。

スポットライト──ではない。

“誰かが注ぐまなざし”のような光。


そして次の瞬間、一枚のスケッチが画面に差し込まれる。

それは、朱音が描いた未発表の一枚──

**「観客のいない劇場」**と酷似していた。



【0:07:13】映像終盤:アキトのモノローグ(吹き替え無し)


 ──「誰かが、記録してくれると思った。

    僕は記録者で、選択者で、ルートマスターだったから。

    でも、彼女は……記録されるべきじゃなかった。

    彼女は、舞台に立つはずの“誰か”だったんだ」


その声は、震えていた。

“罪の記録”ではなく、**“存在の悔い”**だった。



【0:08:46】フィルムのラストフレーム


少女が振り返る。

誰もいない観客席に、ほんの一瞬──

アキトの少年時代の姿が映る。

今の彼とは違う、未完成のアキト。


そして、少女は微笑む。


>「また、演じよう。今度は“誰か”の物語を」


画面が白く焼け、フィルムは終わった。


【時間】午後2時15分


【場所】港区・旧編集室(解体予定)


 機材を搬入したのはほんの十五分前だった。

 朽ちた編集卓と埃をかぶったリールラックに囲まれて、男は無言でフィルム缶の蓋を外した。缶の内側に指を差し込むと、金属の縁がひやりと冷たい。


 玲――彼は元・映像構成士、現在は記憶解析の専門家として“残された記録”の解読を請け負っている。

 だが今日、この場所に来たのは依頼ではなかった。ただ、“呼ばれた”気がしただけだ。


「この缶だけ、ナンバリングがされていなかった」

 そう言った嶺岸タクトが差し出したメモには、アキト(ルートマスター)が残した走り書きのような走査記号があった。


【Reel-A/改-03β】


副題:選ばれなかった声


再編集されたフィルム。

ノイズの中から、少女の声が一度だけはっきりと浮かび上がる。


「この記録が、誰かに届くのなら……私はまだ、ここにいる」


画面に映るのは、舞台袖で立ち尽くす“背を向けた少女”。

彼女に光は当たらず、誰の名前も呼ばれない。


だが、その最後のカット。

カメラは静かに、客席の**“ひとつの空席”を映す。

座席には、朱音が描いた白い花のスケッチ**が置かれていた。


そして、無音のエンドロール。

その最下段に、ひとことだけ記されていた。


《記録責任者:RM-03(アキト)》


それが、彼の“贖罪”であり、彼女への“最後の返答”だった。


映像に潜む痕跡


再生速度を落とすと、1フレームだけ歪む箇所がある。

ノイズではない。光の屈折でもない。


そこには、“誰かが見つめ返す視線”が映り込んでいた。

レンズの内側──まるで、記録する側ではなく記録される側の記憶が投影されているかのように。


また、無音と思われた場面の波形を解析すると、

ごく微かに、子供の声が残されていた。


「ここじゃない未来、誰かに届いて……」


それは編集によって消されたはずの**“選ばれなかった記憶”**の痕跡。

映像は黙して語らないが、確かに“誰か”の存在が刻まれている。


玲は言った──

「この記録は、誰かに見られることを前提に、残されたものだ」


構成の再逆転


本来、映像は「過去を記録する」ためにある。

だが、Reel-A/改-03βが示したのは逆だった。


編集されたフィルムが、“未来”を先に固定し、

それに合わせて現在が組み替えられていくという現象。


映像はもはや「過去の保存」ではなく、

現在の誘導装置として機能し始めていた。


玲は気づく──

「これは観客の記憶ではなく、記憶が観客を選んでいる」


選択肢は与えられたように見えて、

実際には構成自体が逆流していたのだ。


ルートマスターの“第三の編集”


ルートマスターが到達した“第三の編集”とは、

「記録」でもなく、「記憶」でもなく──

“忘却”すら編集することだった。


第一の編集は「記録の整形」、

第二の編集は「記憶の修復」、

そして第三の編集では、**選ばれなかった未来・語られなかった真実を、意図的に“伏せる”**という行為が行われた。


それは、悲劇を繰り返さないための“救済”であり、

一方で、事実を封印する“逃避”でもある。


アキトは自らを「罪の記録者」と呼び、

選ばなかった者たちの物語を、見えない場所に残した。


“選ばなかった”という選択もまた、

一つの編集行為である──

それが、第三の編集の本質だった。


選択と決定


朱音が迫られたのは、「描くか」「描かないか」ではなく、

“未来を選ぶのか、選ばないままでいるのか”という問いだった。


描けば、未来は“定着”する。

描かなければ、可能性は“揺らぎ”のまま残る。


その選択に、善悪も正解もない。

ただ一つ、選ぶことでしか「責任」は生まれない。


一方、アキト=ルートマスターは、

選択の裏側にある“決定”の重さを背負い続けていた。

誰かが「決めなかった未来」を、誰かが「記録しないといけない現実」として残すために。


そして玲は、その“決定”の記録者となる。

真実の代弁者でも、未来の指導者でもなく──

ただ、選ばれた者の“選ばなかった側”を見届ける者として。


それが、彼ら三人が到達した「選択と決定」の交差点だった。


【時間】午後4時00分


【場所】仮設控室(朱音のスケッチスペース)


 仮設控室の窓の隙間から、柔らかい午後の日差しが射し込んでいた。カーテンの影が揺れ、空気にかすかな埃の流れを描く。室内には冷房の気配はなく、どこか“停止”したような静けさが満ちている。


 朱音は、机に向かっていた。

 スケッチブックの上、まだ乾ききらないクレヨンの色が、紙の上で濡れたような質感を帯びている。肩越しに見下ろす玲の視線の先に、ゆっくりと“未来”が形を成していた。


 描かれていたのは、誰もいない劇場。

 空のステージ。そこに立つ一人の人物の背中。

 その人物は、明らかに観客席を見ていた。そして、観客席には“誰もいない”はずだった。

 だが、朱音の描いた絵には、ただ一つ、明確な“異物”が存在していた。


 ――最前列の左端。

 照明の届かぬその影の中に、黒い帽子をかぶった人物の姿。

 そして、その人物の左手は、途中で“欠けて”いた。


 「……あの人が、最後の観客……?」


 玲が小さくつぶやく。だが、朱音は頷かない。ただ静かに絵を見つめ、淡い声で答えた。


 「ちがう。“見てる”んじゃなくて……あの人、“確認してる”。」


 「確認?」


 「うん。……この舞台が、正しく終わるかどうかを」


 玲はその言葉に眉をひそめた。そして、絵の左上に描かれた“小さな何か”に目を留めた。

 それは、劇場の上手から吊り下げられた“舞台照明”。

 赤く塗られたそのライトが、まるで血のようにステージ全体を染めていた。


 ――照明が落ちる時、幕が下りる。

 それがルートマスターの“最後の演出”なのか。


 朱音はスケッチブックを閉じた。

 その表紙に描かれた古びたラベルには、彼女がかつて書いた小さな文字が残っていた。


 《だれかのための さいごのえ》


 玲は、それをそっと見届けた。

 この舞台が、真に閉じる時。

 朱音の描く“未来”が、誰かにバトンを渡すのだとしたら――その手渡しの瞬間が、すぐそこに迫っている。


【時間】翌日 午前9時45分


【場所】都内・映像スタジオ「響映第2ステージ」


 湿った空気が残る朝の都内。

 ひっそりと人気のない湾岸エリアに建つ「響映第2ステージ」は、今では使われなくなった旧式の撮影スタジオだった。だが、その扉をくぐった瞬間、朱音は歩みを止めた。


 「ここ……見たことある」


 彼女の声に、玲も川名も足を止める。

 目の前に広がるのは、古びた舞台。両側から重そうな“赤いカーテン”が下ろされ、その足元には、円を重ねるようにデザインされた独特な床模様が刻まれていた。


 「絵と、まったく同じ……」川名がそう呟いた瞬間、玲はもうポケットからスマート端末を取り出していた。

 朱音が前日に描いた“未来の舞台”の画像と、目の前の景色を並べる。


 色彩、角度、床の傷。すべてが一致していた。

 この場所こそ、朱音の“描いた終幕”の舞台。ルートマスターが最後のシーンを仕掛けた場所――。


 「ここで、“最後の観客”が現れるっていうのか……?」


 玲の呟きに、奥の暗がりから声がした。


 「……ようこそ、響映へ。ご案内します」


 静かに姿を現したのは、スタジオの管理責任者を名乗る男。

 名札には《安藤 光希》の名が記されていたが、玲の目が、その左手に注がれる。

 左手。――三本の指しかない。


 朱音の絵に描かれていた、“あの観客”。

 あの劇場に佇んでいた黒い帽子の男と、同じ特徴を持つこの男は――


 「スタジオの関係者……ではないな。君は、“演者”の側だろう?」


 玲の問いに、男はかすかに笑った。


 「さすがです。そう、私は……この”舞台”を、最後まで見届けるために残された一人です」


 「ルートマスター……アキトの、残した“最後の演出”を知っているのか?」


 「ええ。私も“編集された記憶”の一部でしたから」

 男――安藤の言葉に、朱音がそっと玲の袖を引いた。


 「……絵が、また、動き始めてる」


 朱音のスケッチブックには、赤いカーテンの向こうに誰かが立ち上がる姿が描かれつつあった。

 それは、観客ではない。舞台の上に“呼ばれた者”の姿だった。


 「まだ終わってない」玲が静かに言った。「むしろ、これからが――本当の“開幕”なんだ」


【時間】午前10時10分


【場所】響映第2ステージ 控室(簡易編集ブース)


 小さなブースに設けられた編集卓の上で、古びたリールが静かに回転を始めた。

 カチリ、と軽い音がして、モニターの中に映像が走る。


 それは、ざらついたモノクロの画面。

 何年も前に撮影されたことが一目でわかるような、未編集の舞台稽古風景だった。


 幕の下りた舞台の上。

 複数の役者が脚本片手に立ち位置を確認しながら、時折、誰かに視線を送っている。

 ――その「誰か」は、カメラの視界から外れている。まるで、撮影者が意図的に“監督”の姿を隠していたかのようだった。


 「……この映像、どこにも記録されていない」玲が呟いた。「台本番号も、制作ロールも……何もない」


 「非公式の稽古映像かもしれません」川名が口を挟む。「もしくは、最初から“表に出すつもりがなかったもの”」


 そのときだった。

 モニター内の映像が、ふっと揺れる。

 照明の位置が変わり、影が伸びる。その瞬間――一人の役者が、舞台の床に膝をついた。


 動きが止まり、他の全員が視線を向ける。

 しかし、声はない。

 マイクは切られ、音声トラックには**沈黙と、時折混じる微かな“ノイズ”**が残されていた。


 「……逆再生してみてください」


 朱音の言葉に、玲が無言で操作を切り替える。

 映像が巻き戻され、同じ場面が逆方向に流れていく――そして、ある瞬間だけ、“照明の奥にいる人物のシルエット”が浮かび上がった。


 背筋の通った細身の男。その左手には、明らかに三本の指しかなかった。


 「ルートマスター……」玲がつぶやく。


 それは演出の稽古風景ではなかった。

 すでに“仕掛け”は始まっていた。

 この映像は、舞台のための準備ではなく――記録されること自体が、“演出”だったのだ。


 「この人たち、何かに気づいてる」朱音が言った。

 彼女の目が、画面の端に描かれた暗い影を見つめる。


 「この稽古は、“舞台”じゃない。“予告”だったんだよ」


 玲は、映像が止まった最後のフレームをじっと見つめる。

 そこに映っていたのは、幕の隙間から舞台を覗く“観客席の影”――


 そして、最前列に佇む、顔の見えない誰かの姿だった。


【時間】午前10時35分


【場所】同ステージ内・照明制御卓付近


 ステージ奥に設置された古い照明制御卓。その前で、玲はひとつの薄い封筒を開いた。中から出てきたのは、やや黄ばんだ用紙。だが、そこに記されていた内容は明らかに――意図的な“指示”だった。


 「照明C-7はリハ中に点灯、タイムコード6:32にてフェードアウト」

 「その後、カメラBは視点変更。観客席の最前列を固定で撮影」

 「記録対象:A-0」


 「A-0?」川名が眉をひそめた。


 玲は静かに頷いた。「観客席に映っていた“あの影”……ルートマスターは、その人物を意図的に記録させたんだ」


 照明卓の裏側に立つ朱音が、ふと一歩前に出る。

 彼女の手には、さきほど描き終えたばかりの新しいスケッチブック。そこには――

 **最前列、ひとり座る男の姿と、その周囲に描かれた“矢印のような印”**が記されていた。


 「ここに、“選択肢”があるって……絵が、言ってる」


 玲は再び編集指示書に視線を落とす。

 脚本にはない動き、カメラの切り替え、照明の落ちるタイミング、そして“逆再生”でしか見えないシルエット。


 「これは……台本じゃない」

 「これは、選ばせるための手順書だ」


 川名がページをめくり、最後の一枚を確認する。


 ――そこには、こう書かれていた。


 >『本リールの再生は“視線の選択”によって意味が変わる。

 > 観客が誰を見ていたか。演者がどこを見つめていたか。

 > 編集者が“何を残すか”を選ぶことで、結末は変動する。』


 「“選ばせた”のか……」玲は低く呟いた。


 ふと、朱音の描いたスケッチの右下に、かすれた鉛筆の跡が見える。

 それは――**“ルートマスターが最後に見ていた目線”**の軌跡だった。


 「視点によって、真実は異なる。だから……」


 玲は、ゆっくりと視線を上げる。

 モノクロの映像、封印された選択、そして観客の“誰か”。

 それはもう、“記録”ではなかった。

 再生する者に“問う”ための装置――それが、この映像の本質だった。


【時間】午前11時20分


【場所】響映第2ステージ 中央(次の撮影準備が進む)


 ステージ中央は、次のカットに備えて機材が運び込まれ、スタッフたちが無言のまま照明の微調整を続けていた。だが、その喧騒の中にあって、玲だけは別の静けさの中にいた。


 仮設テーブルに並べられた三つの“断片”。

 一枚の編集指示書。

 一巻の未編集フィルム。

 そして、朱音の絵。


 朱音は少し離れたモニター前に座り、描き終えた絵の端をそっと指で押さえていた。

 その視線の先にいたのは、ステージ奥――観客席の、中央最前列。

 誰も座っていないはずのその場所に、彼女は“誰か”の気配を見ていた。


 「……この映像は、単なる記録じゃない」玲が低くつぶやいた。


 「選ばせている。いや――選ばせられていたんだ」


 編集指示書の最後の文言が、玲の脳裏に焼きついていた。


『視線の交差点に、次の道が生まれる』


 「誰かが、“視線の選択”をした。その瞬間、このリールの意味が決定されたんだ」


 川名が背後から声をかける。「つまり……その“視線”が、次のターゲットを指したってこと?」


 玲はゆっくりと頷いた。


 「演者がどこを見ていたか、観客が誰を見つめたか、その交差点に立っていた者が、“選ばれた”。それが、あの絵に描かれている人物だ」


 朱音のスケッチには、ステージ上の役者たちと、観客席の複数の視線が線で結ばれていた。

 その中心――すべての“目線”が重なる一点に、誰かの背中が描かれていた。

 顔のない、けれど確かに“そこにいた”何者かの、影。


 「玲……編集者って、どうするべきなの?」朱音が問うた。


 玲は少しだけ笑って、彼女の絵を見下ろした。


 「“編集者”が選べるのは、何を残し、何を切るか――それだけだ」


 「じゃあ、この選択肢は……?」


 玲は、封筒の中にあったもう一枚の紙片を静かに差し出した。

 そこには、こう書かれていた。


『再生者に託す。残すか、封じるか。記録者が選べ』


 選ばれた観客。それが誰かは、もう絵が示している。

 だが――その真実を記録として残すのか、闇に葬るのか。

 その判断は、最終的に玲に委ねられていた。


 ステージの上、照明が一度落ち、再び灯る。

 そこに立つ“誰か”の姿が、今まさに“編集されようとしていた”。


【時間】午後1時10分


【場所】映像スタジオ「響映第2ステージ」地下 編集室


 静かな編集室の空気を、ひとつの電子音が破った。


 ──ピッ。


 解析モニター上で、一本のラインが赤く点滅している。川名詩織は無言で眼鏡を押し上げ、数秒間その数値の推移を睨んでいた。


 「……あるはずのない素材が、下層に埋まってる」


 玲が机の向かいで、背筋を正す。

 「どの時点のリールだ?」


 「Reel-A。しかも、再編集されたあとに“非表示タグ”で隠されてた。視覚では検知できない、でも……再生シグナルには反応してる」


 川名がキーボードに指を走らせると、モニターにグレースケールの映像が浮かび上がった。

 ステージ最前列。観客席。照明が落ちる、その寸前のワンカット。


 観客たちは舞台を見ていた──ただ一人を除いて。


 その人物は、俯いていた。

 舞台も、他の観客も見ていない。ただ、自分の膝に置かれた、何かを見つめている。


 「……この人……どこかで」


 朱音がぽつりと呟く。

 玲もすぐに記憶を辿った。

 黒いコート。薄い青のスカーフ。そして、左手には“指が一本足りない”。


 「……古賀陽奈の証言に出てきた“指のない人物”」


 川名が頷く。「この映像、リファレンスを照合すると……十年前の倉庫事件の現場記録の一部と一致する。つまり、“選ばれた観客”ってのは――」


 「十年前の生還者。しかも、記録から“消されたはずの”」


 玲の手が、再生ボタンの前で止まった。

 その先に映っていたものを、彼は見なかった。


 「……再生は、ここで止めておく」

 「え?」川名が振り向く。


 玲は目を閉じ、朱音の絵を思い出していた。


 未来のスケッチ。

 赤いカーテン、切れた照明、落ちる天井。その中央にいたのは――まさに今、映っていたその人物だった。


 朱音の絵には、はっきりとその結末が描かれていた。

 その観客は、舞台の崩落とともに飲み込まれる。

 助ける者はいない。見ていたはずの誰もが目を背ける。


 「玲……編集、止めるの? でもこの人が“選ばれた”ってことは、何か意味が――」


 玲は静かに首を振った。


 「“選ばせられた”だけだ。これは……演出の罠だよ。編集者の役目は、真実を切ることじゃない。人を、守ることだ」


 彼はモニターに向かって、小さく呟いた。


 「映像の中で人が死ぬ。それを現実にしてはならない。……俺が、その責任を持つ」


 川名は静かにうなずいた。


 そのとき、朱音がぽつりと呟いた。


 「でも……この絵、もう“変わり始めてる”」


 見れば、朱音の絵の中で、舞台の崩落のラインが、わずかに歪み、別の方向へずれていた。

 まだ薄い線だったが、確かに違う未来の可能性が、そこに生まれていた。


 「……まだ、救えるかもしれない」


 玲はスイッチを切り、フィルムをそっと巻き戻した。

 そして編集室を後にし、誰にも気づかれないよう、そのフィルムを**“未来へと繋がる別の保管場所”**へ移動させた。


【時間】午後2時00分


【場所】響映第2ステージ 地下 編集室・再生カット No.13F-5-Reverse


 編集室の照明は抑えられ、わずかに机上を照らすモニターの光だけが、玲の表情を浮かび上がらせていた。


 「……逆再生を」


 玲の言葉に応じて、川名詩織がコントロールパネルに指を滑らせる。


 再生されるのは、「第3リール」の6分32秒地点──ルートマスターの指示書に、ただ一行だけ記されていた時間だった。

 《→Reverse / 3rdR / 06:32》


 映像は静かに巻き戻る。俯瞰視点の舞台、立ち上がる光、そしてひとり、立ち尽くす“観客”。


 逆再生された瞬間、その観客の背後に、不自然な“カットイン”が挟まれた。

 一瞬のフレームに、朱音が描いた“舞台の崩壊”が、実写映像として現れかけたのだ。


 「……今の、見たか?」


 玲は画面を一時停止し、数フレームをスクロールバックする。

 そこに映っていたのは──


 朱音の絵が、編集された映像の“中に”混入していた。


 「フィルムが……朱音の描写に影響されてる?」


 川名が息を呑む。


 玲は眉をひそめたまま、ゆっくりと呟いた。


 「いや、違う。“誰かが、朱音の絵を映像に挿し込んだ”んだ。 つまりこれは……“第三の編集者”の手口だ」


 ルートマスターでも、玲でもない。

 新たに介入している存在──ルートマスターの後継、あるいは模倣者。


 その者が、朱音の絵を“素材”として扱っている。

 未来のビジョンを、まるで撮影済みの映像のように。


 「朱音の描く絵が未来を変える……いや、“変えさせられている”」


 玲の声に、朱音がうつむいた。


 「……わたしの絵、もう……勝手に変わりはじめてる気がする。前よりも、“誰かに見せられている”っていうか……」


 そのときだった。


 編集室の通信機が鳴った。短く、鋭く。


 川名が応答ボタンを押すと、無線越しに重い男の声が流れた。


 《……こちら外部警備。第2階段通路で、身元不明の編集者を確認。映像機材ケースを所持。現在、追跡中》


 玲の表情が鋭く変わる。


 「動いたか。フィルムの行方を追って……“奴”がスタジオに侵入した」


 玲は机上の封筒を掴み取った。そこには「第3リール再編集・緊急手順」と記されている。

 だが、もうこれは使えない。


 「……編集は封じたはずだった。だが、“封じた”からこそ、奴はそれを解こうとしている」


 朱音が、そっと差し出した。

 新しく描き始めた、未完成の絵。


 まだ筆の途中だったが、舞台の上、中央に立つ“観客”の周囲には──

 黒い影のような何かが描かれ始めていた。


 玲は静かに言った。


 「……もう、守るだけじゃ済まない。選ばれた観客を救いたいなら、俺が“第三の編集者”を探し出して、止めなきゃならない」


 川名が立ち上がる。「私も行く。解析データ、フィルムにタグ仕掛けてある。追跡できるわ」


 玲は頷くと、朱音の絵に目を落とした。


 「……絵は変わる。未来も、変えられる。ただしそれは――」


 朱音が答えた。


 「信じて描いたときだけ、です」


【時間】午後2時30分


【場所】第2ステージ 舞台袖


 カーテンの隙間から覗くステージは、次の収録準備のため照明が切られ、静けさに包まれていた。


 その袖に立つ少女――朱音は、ひとりスケッチブックを抱え、じっと筆を止めていた。

 数分前に描き始めたばかりの新たな絵。そこには、誰もいないはずの客席が丁寧に描き込まれ、

 最前列中央――“空席”であるはずのそこに、黒い影のような何かが座っていた。


 「……あの人、まだ……いたんだね」


 朱音は小さく呟いた。

 その“影”は、まるで舞台を凝視するかのように前傾姿勢で座り、動かない。

 顔も輪郭も描けなかった。ただ、そこに“いる”ことだけは分かった。


 舞台袖に現れた玲が、朱音の背後に立った。


 「朱音……描いたな、“それ”を」


 朱音は無言で頷いた。


 「……誰?」


 「分からない。でも、さっきの映像に映ってた。“観客の中で、最後まで一度も瞬きをしなかった存在”……」


 玲は手にしたタブレットに目を落とす。

 解析された映像の観察データが並び、その中でひとりだけ、動きの記録が存在しない人物がいた。


 【No.Motion.Log/ID:NULL】

 【記録タグ:存在確定せず】


 「タグも、熱反応も、ない。存在が“編集された痕跡”だけが残ってる……つまり――」


 玲の背後、照明機材の陰から何者かの気配が近づいた。


 「――俺の後釜にしては、雑な仕込みだな」


 低く、微笑を含んだ声。


 舞台袖の暗がりから、ひとりの男が現れた。

 黒の帽子に、スモークがかった眼鏡。機材スタッフに偽装したその出で立ちは、どこか懐かしさすら感じさせた。


 玲が構える前に、男は胸元のバッジを掲げた。

 それは旧スタジオ編集部のロゴ、そして赤インクで書かれたサイン――


 《RM-03》


 「第三の編集者……?」


 玲が声を絞る。


 「名乗るほどじゃないさ。そもそも“俺”はここに“いない”ことになってるからな」


 男――**仮のルートマスター“RM-03”**は、静かに朱音の絵に目を落とした。


 「君の描いた“未来”は、もう他者の意志で上書きされ始めている。

  フィルムもそうだ。“素材”が、自分がどう使われるかを選び始めた」


 「それが……意思のある映像ってことか」


 玲の問いに、男は目を細めた。


 「“観客”を選ぶんだよ。この映像は。“誰に見せるべきか”をな。

  そして選ばれた観客は、死ぬ。編集のために。証明のために」


 朱音が顔を上げる。


 「でも……変えられる。まだ、未来は描き直せる!」


 その瞬間、スケッチブックの絵が、ゆっくりと“変わり始めた”。

 黒い影が、わずかに後ろを振り向くようにして、描線が変化する。


 玲が低く言った。


 「編集を拒絶してるんだ……あのフィルムは。

  そして、君の絵が、それを“守ろうとしてる”」


 “RM-03”が片眉を上げた。


 「――なるほど。“君”が“描いて残す者”なら、

  “俺”は“切り取り、隠す者”だった。そうして俺たちは、選ばれなかった未来を葬ってきた」


 彼の足元に、細く巻かれたフィルム缶が落ちていた。

 だがその瞬間、頭上の通気口から閃光弾のような光が走った。


 「動くな。暗号“影の号令”、起動済みだ」


 暗闇の中から現れたのは――成瀬由宇。

 続いて、桐野詩乃、安斎柾貴の影班三名が、一斉に袖を制圧した。


 玲が振り向くと、安斎が小声で言った。


 「……あのフィルム缶、標的に記録タグが付いていた。詩織からの転送分。

  “次に殺される観客”が映ってるらしい。だから俺たちが、確保しに来た」


 “RM-03”は微笑んだまま、静かに両手を上げた。


 「ようやく……正しい“選択”が見えてきたな。

  玲、お前が“編集を封じた”意味が、やっと形になりつつある」


 玲は、静かに言った。


 「……もう、選ばせない。“誰が消えるか”なんて、映像に決めさせるかよ」


 そして朱音が、新たな一枚を描き終えた。

 その絵には、空の客席。そして、そこからゆっくり立ち上がる“黒い影”が、描かれていた。


 その影が、客席を抜け出す姿で、筆は止まっていた。


【時間】午後5時40分


【場所】玲探偵事務所・応接スペース


 パタン──、パラ……。

 朱音のスケッチブックが、ページをめくられるたびに、紙と紙が擦れる静かな音が響いた。


 夕刻の事務所は、誰も声を発していなかった。

 机の上に置かれたノートパソコンには、再生を止めたままの映像――“観客席のフィルム”のラストフレームが、静止画として映し出されていた。


 影の観客が、席を立っていた。

 確かにその姿は、フィルムの中にしかいなかったはずだった。だが──


 「……あの影、現実にも“出てきた”ようにしか思えない」


 玲が、応接ソファに背を預けながらつぶやく。


 「いや、実際に画面外に干渉した痕跡がある。

  編集ソフトが、誰も手を加えていないコマの“光の流れ”を自動補正していた。

  “映像そのものが編集している”みたいに」


 川名詩織が、タブレット越しに映像のログを確認しながら答えた。


 朱音は何も言わず、また1ページめくる。

 そこには、影が扉を通り抜けて、街に出る場面が描かれていた。


 「このままだと、“選ばれた観客”は誰かを道連れにする。

  この“影”が求めてるのは、記録じゃない。再編集。

  自分の存在を、“未来に確定させる”ことだ」


 玲の言葉に、詩織が頷いた。


 「だから……私たちがやる。

  “未来を、映像に埋め込む”。あらかじめ回避された未来としてね」


 「予言の逆。既に救われた事実を、先に記録として残す」


 「うん。編集というより、“信号の埋め込み”に近いかもしれない」


 そのとき、扉の前で足音が止まった。

 ノックもせずに入ってきたのは――安斎柾貴だった。


 「……一手、遅れたかと思ったが。まだ間に合うか」


 玲がすぐに立ち上がる。


 「こっち側に?」


 「もう“記録の改ざん役”はやめた。

  今は、“記録の塗り替え”をサポートする立場だ」


 安斎は懐から一枚のディスクを取り出した。

 それは、第3リールの一部を“補正”したバージョンだった。

 ただし、補正と言っても、未来の映像が“すでに回避されていた”ように細工されたもの。


 「詩織。君と朱音の絵を同期させて、この映像に組み込む。

  玲、君には“仕上げの構成指示”を頼む。ターゲットが“救われた”ように見せる、完璧な構成だ」


 玲は安斎の目を見た。

 その奥に、かすかな痛みと、強い責任の色があった。


 「分かった。“次に消える未来”は、ここで止める」


 朱音が、手元のスケッチブックに新たな絵を描き出す。

 それは、観客席の空間に、ひとつの扉が開いている場面だった。

 黒い影が、そこへ歩いていく。


 詩織は呟いた。


 「これで、“彼”を現実から“戻す”んだ。映像の中に……」


 映像の反転は、安斎が手を加えた箇所と一致していた。

 それはかつて、朱音が“誰もいない客席”として描いた未来と、完璧に重なっていた。


 そして。


 その編集ログの最下部に、旧編集署名が浮かび上がった。


 《RM-03 / AKITO》


 玲が目を見開いた。


 「……アキト、だったのか」


 詩織が顔を上げる。


 「信号データの署名が、玲のかつての同期、“一ノ瀬アキト”の暗号と一致した。

  映像の中で観客を“選ぶ”ように細工していたのも、彼だった……」


 玲は静かに目を閉じた。


 「つまり……俺の“昔の相棒”が、未来を操作し始めた」


 朱音の絵が、完成した。


 開いた扉。

 そこへ静かに戻っていく“黒い影”。

 その影の中に、誰かの顔が浮かび上がりかけていた。


 玲は立ち上がり、静かに告げた。


 「次は、映像そのものに“記憶”を返す番だ」


【時間】翌日 午前4時17分


【場所】旧・薊座 劇場内部


 まだ夜の深さが残る時刻だった。

 都心から少し外れた閑静な通りに面した古びた劇場――「旧・薊座」の裏口の錠が、内側から音を立てて開いた。


 静かに扉を開けて顔を出したのは、中谷渉。

 映像部のアシスタントとして玲や詩織と行動していた彼は、予定より一日早く劇場の様子を下見に訪れていた。


 「……ここか、本当に“元の編集室”があったって場所は」


 彼が手にしていたのは、旧スタジオの配線図と、川名詩織が前夜に送り込んできた断片的な記録映像。

 そこに映っていたのは、観客席の奥に存在するはずのない“編集卓”と、それを操作していた背の高い男の背中だった。


 「……アキトさん、なんで……」


 呟いたその言葉は、観客席に吸い込まれていった。

 彼が足を踏み入れた舞台の空間は、ただの廃墟ではなかった。


 床板の軋み。天井に残るスポットライトの残骸。

 しかしその奥に――確かに“誰かがそこに座っていた記憶”が残っていた。


 「……この空気、まるでまだ……誰かが“観てる”みたいだ」


 そのとき、古いプロジェクターが動いた。

 何も触れていないにもかかわらず、フィルムのカタリと鳴る音とともに、薄暗い幕が舞台に浮かび上がる。


 スクリーンに映ったのは、過去の薊座の公演風景――観客席が“満員”だった頃の記録だった。

 ただ、その客席の顔が、すべて“ぼやけて”いた。


 いや、正確には──記憶が剥がれかけている。



 一方その頃。


 朱音は玲探偵事務所の一角で、安斎と並んで作業を続けていた。

 朱音の描いた一枚のスケッチには、昨日とは違う変化が起きていた。


 「……この人、昨日までは“影”だったのに。

  今日の絵では、“顔”が出てきてる……?」


 その人物の輪郭は、朱音がどこかで見た記憶が自然に手を動かしたように描かれていた。

 そして、安斎が見ていたデジタルログにも一致するフレームがあった。


 観客の記憶が、映像から“現実へと戻ろうとしている”――。


 「これは、良い兆候……なのか?」


 朱音が不安そうに尋ねる。


 「本来、“映像内の観客”は記録された過去の断片にすぎない。

  だがRM-03は、彼らを“記憶ごと”再現しようとした。

  その結果、記録と現実の境が崩れていってる」


 安斎の目が鋭くなる。


 「朱音。君の絵が進化するのは歓迎だ。だが、描ききってはいけない“ある顔”がある。

  それは……“RM-03=アキト”の記憶だ」


 朱音は、手元のスケッチブックをそっと閉じた。


 「……わたし、もう少しで描きそうになってた」



 同時刻。旧・薊座の外壁――上階の吹き抜け部分。

 そこに、チーム影の一人・成瀬由宇が双眼鏡を構えていた。


 「中谷、潜入完了。

  裏ルートからの気配は……“人間”じゃない。フィルム由来の残留記憶、可能性あり」


 インカムの先から、桐野詩乃の声が返る。


 「解析する。……由宇、そっちは“編集室の痕跡”確認できそう?」


 「確認済み。舞台裏の第3控室跡に、映像補正処理跡あり。

  ……ただし、中でまだ“誰か”が編集を続けてる痕跡もある」


 詩乃が言葉を詰まらせた。


 「アキトが……まだ、あの場所に?」


 「あるいは、“アキトの記憶”が、自動編集を続けてるのかもな。

  ──記録を、未来にまで残すために」



 舞台袖で、プロジェクターが止まった。

 中谷が顔を上げた瞬間、スクリーンに映っていた“観客の影”が、ひとつ、こちらを振り返った。


 明らかにそれは、“映像の中の存在”だった。


 けれど。


 その“視線”には、確かな知性と、意志が宿っていた。


 「……アキトさん……あなたが……“未来を編集する理由”って……」


 そして彼は気づいた。


 スクリーンに映っていた舞台の上に、ひとりの少女の姿が立っていた。

 朱音だった。だが、それは“まだ描かれていない未来”の彼女だった。


【時間】午前5時15分


【場所】薊座・旧映写室


 鉄扉の軋みと共に、川名詩織が旧映写室の中へ入ってきた。

 空気は重く、わずかに焦げたフィルムの匂いが残っている。照明は点けず、携帯用のバッテリーランプを静かに棚に置いた。


 数時間前、中谷が拾い出してきた「異常なフィルム」──それは一度消されたはずの上映記録だった。

 にもかかわらず、フレームの内部には確かに「動き」があった。


 再生装置の配線を組み直し、詩織は逆再生モードを起動する。

 旧式の映写機が静かに唸りを上げ、巻き戻された映像がスクリーンに投影された。



 始まりは、無音だった。

 観客席が映る。ただの空席。しかし、そこに光が走る。


 ──一人の少女がいた。


 ポニーテール。白いワンピース。細い肩。

 観客の中に、ただ一人だけ「名前を呼ばれていない存在」がいた。


 彼女はカメラを見つめていた。

 いや、「カメラを通じて、撮る側の誰か」を見ていた。


 「……これが、アキトの記憶……?」


 詩織は無意識に息を呑んだ。

 フレームの端に、舞台袖から走ってくる“少年”が映る。

 それが、若き日のアキトだと確信するのに時間はかからなかった。



 ──カットが切り替わる。

 観客席の少女の姿が消え、代わりに「未来の朱音」のような人物が映る。


 だが違う。表情がない。動きも、ぎこちない。

 それはまるで、「映像が彼女を“演じさせている”ようだった」。


 (……リンクが始まってる)


 詩織は気づく。

 これは偶然の一致ではない。朱音の描いた絵が“投影”され、フィルムがそれを素材として模倣し始めているのだ。



 再生時間・マーク時刻:5分42秒──。

 そこにあったのは、“未使用”とされていたシーンだった。


 アキトが編集卓の前に座っている。

 彼の背中には疲労が滲み、手は震えていた。

 だが彼は作業をやめない。「少女が消えたその日」を何度も切り貼りし、

 “まだそこにいたかのように”再現を試みていた。


 「……アキト……あなたは……あの子を……」


 少女の名は記録に残されていなかった。

 だが、その存在だけが、彼にとって唯一の“再編集する理由”になっていた。



 スクリーンに、現実の朱音の姿が映る。

 それは映像の中ではなく、「再生を見ている詩織の背後」にある鏡面反射だった。

 いや──その朱音は、微かに「瞬きをした」。


 「……朱音?」


 だが詩織が振り返ったとき、そこに朱音の姿はなかった。

 代わりに、スケッチブックの新しいページが開かれていた。


 描かれていたのは、「旧薊座の映写室の内部」。

 そして──中央に座る、川名詩織と、“背後に立つ黒い影”。


 (未来が……もう“選択を迫ってる”)



 その瞬間、機材が強制シャットダウンされた。

 フィルムが焼ける匂いと共に、部屋の空気が変わる。


 詩織は振り返る。

 扉の前に、人影があった。


 「──編集はここまでだよ、川名さん」

 静かに語りかけた声は、アキトのものだった。

 だが、その表情には感情がなかった。RM-03の仮面が、言葉を代弁しているだけのようだった。


 「選んだ未来を“閉じる”のが僕の役目だ。

  でも君たちは、“描き換えよう”としている」



 詩織は冷静にスケッチブックを手に取り、ゆっくりと後ろへ下がる。


 「朱音は……未来を救うために描いてる。

  アキト、あなたも……一度は誰かを守ろうとしたんじゃないの?」


 アキトの目がかすかに揺れる。


 だが、映写室の中で、再び“映像の波”がうねり始めた。


 映像空間が自壊を始めている。最終編集のタイムリミットが近づいている証拠だった。



 その中に、一瞬だけ反転して映る黒コートの男。


【時間】午前5時15分


【場所】薊座・旧映写室


 鉄扉の軋みと共に、川名詩織が旧映写室の中へ入ってきた。

 空気は重く、わずかに焦げたフィルムの匂いが残っている。照明は点けず、携帯用のバッテリーランプを静かに棚に置いた。


 数時間前、中谷が拾い出してきた「異常なフィルム」──それは一度消されたはずの上映記録だった。

 にもかかわらず、フレームの内部には確かに「動き」があった。


 再生装置の配線を組み直し、詩織は逆再生モードを起動する。

 旧式の映写機が静かに唸りを上げ、巻き戻された映像がスクリーンに投影された。



 始まりは、無音だった。

 観客席が映る。ただの空席。しかし、そこに光が走る。


 ──一人の少女がいた。


 ポニーテール。白いワンピース。細い肩。

 観客の中に、ただ一人だけ「名前を呼ばれていない存在」がいた。


 彼女はカメラを見つめていた。

 いや、「カメラを通じて、撮る側の誰か」を見ていた。


 「……これが、アキトの記憶……?」


 詩織は無意識に息を呑んだ。

 フレームの端に、舞台袖から走ってくる“少年”が映る。

 それが、若き日のアキトだと確信するのに時間はかからなかった。



 ──カットが切り替わる。

 観客席の少女の姿が消え、代わりに「未来の朱音」のような人物が映る。


 だが違う。表情がない。動きも、ぎこちない。

 それはまるで、「映像が彼女を“演じさせている”ようだった」。


 (……リンクが始まってる)


 詩織は気づく。

 これは偶然の一致ではない。朱音の描いた絵が“投影”され、フィルムがそれを素材として模倣し始めているのだ。



 再生時間・マーク時刻:5分42秒──。

 そこにあったのは、“未使用”とされていたシーンだった。


 アキトが編集卓の前に座っている。

 彼の背中には疲労が滲み、手は震えていた。

 だが彼は作業をやめない。「少女が消えたその日」を何度も切り貼りし、

 “まだそこにいたかのように”再現を試みていた。


 「……アキト……あなたは……あの子を……」


 少女の名は記録に残されていなかった。

 だが、その存在だけが、彼にとって唯一の“再編集する理由”になっていた。



 スクリーンに、現実の朱音の姿が映る。

 それは映像の中ではなく、「再生を見ている詩織の背後」にある鏡面反射だった。

 いや──その朱音は、微かに「瞬きをした」。


 「……朱音?」


 だが詩織が振り返ったとき、そこに朱音の姿はなかった。

 代わりに、スケッチブックの新しいページが開かれていた。


 描かれていたのは、「旧薊座の映写室の内部」。

 そして──中央に座る、川名詩織と、“背後に立つ黒い影”。


 (未来が……もう“選択を迫ってる”)



 その瞬間、機材が強制シャットダウンされた。

 フィルムが焼ける匂いと共に、部屋の空気が変わる。


 詩織は振り返る。

 扉の前に、人影があった。


 「──編集はここまでだよ、川名さん」

 静かに語りかけた声は、アキトのものだった。

 だが、その表情には感情がなかった。RM-03の仮面が、言葉を代弁しているだけのようだった。


 「選んだ未来を“閉じる”のが僕の役目だ。

  でも君たちは、“描き換えよう”としている」



 詩織は冷静にスケッチブックを手に取り、ゆっくりと後ろへ下がる。


 「朱音は……未来を救うために描いてる。

  アキト、あなたも……一度は誰かを守ろうとしたんじゃないの?」


 アキトの目がかすかに揺れる。


 だが、映写室の中で、再び“映像の波”がうねり始めた。


 映像空間が自壊を始めている。最終編集のタイムリミットが近づいている証拠だった。


【時間】午前6時30分


【場所】旧・薊座 楽屋裏


 朝焼けは、まだ劇場の奥まで届いていなかった。

 朱音はひとり、舞台裏の楽屋スペースに腰を下ろし、膝の上でスケッチブックをそっと開いた。


 先ほどまで描かれていた“映写室”の絵──その裏側に、もう一つのかすかな構図が浮かび上がっていることに、彼女はようやく気づいたのだ。


 スケッチブックの紙が、湿気を吸ってわずかに波打っていた。

 その歪みの中に、**「視点が劇場の外に向かっていく様子」**が描かれていた。

 歪んだ線の合間に、うっすらと見える──黒衣の人影たち。


 (……この服、見たことある)


 朱音はすぐに気づいた。

 それは、「チーム影」の装備だった。



 ──場面は切り替わる。

 その頃、旧薊座の北通路では、玲が慎重に廊下を進んでいた。

 その背後を、成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴が無言で追っている。


 「封鎖されてるのは映写室周辺。入り口に電子ロックの名残があるが、物理強化の痕跡はない」

 桐野が呟きながら、破損したセキュリティユニットに触れる。

 過去にここが何者かによって「編集専用空間」として隔離されていた証拠だ。


 「映像に“出入り口”を持つなんて狂ってる……」

 成瀬が低く吐き捨てた。


 玲は立ち止まり、古い鉄扉の前で一拍、目を閉じる。


 「朱音が、内側で待ってるはずだ」

 短く告げ、懐から一枚のカードキーを取り出した。



 キーは機能しなかった。

 しかしその瞬間──鉄扉の奥から、**“ノイズ混じりの気配”**が滲み出す。


 安斎が前へ出て、右手をかざした。

 彼の指先から微細な電気パルスが走り、旧装置の制御ラインを強制的に上書きしていく。


 「映像に“鍵”があるなら、現実にも“解錠の記録”がある」

 冷静な声。だが、その奥には焦燥も混じっていた。


 そして──

 カチリ、という解錠音が空間に響く。


 封鎖されていた映写室の扉が、わずかに軋みを上げながら開かれた。



 そのとき。


 朱音のスケッチブックの“裏面”の絵が、少しずつ変化し始めた。

 黒衣の人影たちが扉を開く構図。

 そして、映写室の内部で、うずくまる詩織の姿が描き加えられていく。


 (……この絵、未来じゃない……“いま”だ)


 朱音は確信する。

 自分が描いた線ではない。この紙が勝手に描き足している。


 スケッチブックそのものが、何かを媒介し始めていた。

 それは「観測された未来」の断片。もしくは、まだ見ぬ“選択肢”の一つ。



 映写室の内部では、川名詩織がまだフィルムを守っていた。

 RM-03──アキトは彼女の前から姿を消したが、その痕跡は空気の中に残っている。


 だが、扉が開かれ、差し込んできた一筋の光が、詩織の瞳を照らした。


 「……来た、か」


 彼女は静かに立ち上がる。


 そして、最後に描かれた一枚の絵。

 朱音のスケッチブックに、こう記されていた。


 “編集される未来と、描かれる未来。どちらかが、もう一つを消す”


【時間】午前7時20分


【場所】旧・薊座 劇場 楽屋通路


 劇場の裏手──かつて化粧室として使われていた細い通路の突き当たり。

 古びた壁紙が剥がれ、下地のコンクリートが露出した一角に、不自然な段差があった。


「ここだな。壁じゃない、これは“塞いだ”痕跡だ」

 成瀬由宇が低くつぶやき、手のひらでその面をなぞる。

 感触の違い。冷たい金属の反応。

 彼が合図すると、安斎柾貴が小型の携行機器を取り出して接触部に当てる。


 ──カンッ

 乾いた鉄音が響いた。


 その下から、埃にまみれた金属の表面が姿を現す。

 **分厚い鉄扉。**鍵穴も取手もない、ただの鋼鉄の塊。

 だが、明らかにそれは「出入り口」としての構造を持っていた。


「……これが、“映像の中”にあったあの扉か」

 玲が、詩織から受け取ったノートの一部を開く。

 そこには、舞台裏に存在しないはずの“扉”の座標と、逆再生映像で一瞬映った設計図の断片が貼り付けられていた。


 「中に“彼”がいる可能性は?」

 桐野が訊ねると、玲は一瞬、ためらい──


 「“彼”か、それとも“まだ誰にもなっていない誰か”か……どちらかだ」


 答えになっていない答えに、誰も異を唱えなかった。



 その頃、朱音は楽屋の一室にいた。

 スケッチブックのページが、自身の意志とは無関係に自動でめくられ始めたことに気づいたのは数分前のことだった。


 「……勝手に、描かないで」

 手でページを押さえても、次の瞬間にはまためくられている。

 そして現れるのは、まだ誰も目にしていない構図。


 “映写室の奥に座る、アキトの背中”

 “その周囲に浮かぶ無数の映像断片”

 “モノクロで塗り潰された客席。その中央で、何かを選ぶ朱音自身”


 (わたしが、選んだの?……未来を……)


 ページの端に、黒インクで走り書きのような文字が浮かんでいた。


 > 『次は、誰の記録を救う?』



 一方。

 封鎖された映写室の中。


 詩織は、再び稼働を始めた編集機材の前で膝をついていた。

 フィルムの一部が、誰の手にも触れられていないのに、自らの意志で回転を始めていたのだ。


 ──シャッ、シャッ、シャッ……


 音が逆再生される。

 そこに映し出されたのは、過去ではなかった。未来の記録。

 まだ起きていない“選択後”の出来事。

 それが、否応なく“いま”へと染み出していた。


 詩織の背後に、気配が立つ。

 鉄扉が開き、チーム影と玲が踏み込んできた瞬間、詩織は立ち上がって言った。


 「アキトは……いま、“最終編集”に入ろうとしてる。止めないと……」


 成瀬と桐野が周囲を警戒し、安斎が再生機材に目を走らせる。

 彼はふと、唇の端を引き上げるように笑った。


 「もう“記録”は書き換えられる。選択肢も提示された。あとは――」


 彼がポケットから取り出したのは、**“編集権限を一時的に上書きするコードキー”**だった。


 「君たちが、誰を守るかだ」



 玲は振り返り、詩織と朱音を見た。

 「選ばせようとする映像」と、「描き変えようとする未来」。

 その二つが、もう一度、交差しようとしていた。


 朱音のスケッチブックのページは、いまもなお──ゆっくりと、未来を描き続けていた。


【時間】午前8時15分


【場所】玲探偵事務所・調査室


 薄曇りの空から差し込む微かな光が、調査室のカーテン越しに静かに広がっていた。

 机の上には朱音のスケッチブック。そして、彼女の手元には──まだ色の入っていない最後の一枚の余白。


 鉛筆の先が、震えていた。


 誰かに強制されているわけじゃない。

 けれど、この絵を描けば、“未来は動かせる”。

 だが、それと同時に──もう**「選ばれなかった人の記憶」は戻ってこない**。


 ──午前8時00分、薊座・映写室の最奥──


 アキト、いや“RM-03”は静かに椅子に座っていた。

 その背後には、フィルムを映す巨大な投影面。そこには**「未来の選択肢」**が記録されていた。

 玲とチーム影、そして詩織がその場に立ち会う中、安斎柾貴はコードキーを差し込んだ。


「この記録、上書きするぞ」

 ──“ある一つの未来”を、選び直す。そう宣言し、実行した。


 しかしその瞬間。


 映写機の駆動音が狂い始めた。

 ガタ、ガガガガガ……ッ!

 画面の中にあった「観客の影」が、一人、二人と抜け落ちるように“現実の空間”に滲み出す。


 それは、かつてアキトが編集から**「外した」観客たち**──

 選ばれなかった存在たちの“記憶の残滓”。


 「……これが副作用か」

 安斎が眉をひそめ、機材から手を離す。

 フィルムは、もう編集すら拒絶し始めていた。

 意思を持ち始めた映像が、自らを守るように歪み、再生を制御不能にしていく。


 アキトの声が、かすかに響く。

 「君たちは……“描かない”という選択ができるのか?」



 再び、玲探偵事務所。


 朱音はまだ、絵の上に鉛筆を落としていない。

 描けば、「ある人の未来」が救われる。

 だが、その裏で「誰かが消える」かもしれない。


 描かなければ、「時間」はそこで止まり続ける。

 だが、現実の歪みもまた、止まらない。


「朱音……」

 静かに沙耶がそばに座る。

 その表情は優しく、けれどどこか、覚悟を孕んでいた。


 「大丈夫。描いても、描かなくても……私たちは、あなたの決めたことを守る」


 朱音は、こくりとうなずいた。

 ページの端に手をかけ、目を閉じる。


 次に目を開いたとき──彼女の目には、未来の構図がもう“見えて”いた。


 「これは、描くための最後の余白じゃない。

 選ぶための余白だ──」


 朱音の手が、ゆっくりと鉛筆を走らせる。

 その先に現れるのは、救われるはずだった誰か、

 それとも、もう誰も選ばない“白紙の未来”か。


【時間】午前9時00分


【場所】旧・薊座地下 映写機械室


 地下にこもる湿った空気。

 配線の切れたスピーカーが唸るように軋み、壁の奥ではまだ古いフィルムリールが回っている。


 「止めるな」

 そう言ったのはアキト──いや、“RM-03”。

 彼は再生を中断しようとした詩織の手を、そっと制した。


 「これは……僕の最後の編集だ」


 スクリーンに映されたのは、焼け焦げた劇場の舞台。

 崩れかけた背景セット。煤けた幕。

 だが、その中央に立つ“青年”は、まるで時間の外側に存在しているかのように、カメラの方をまっすぐ見つめていた。


 誰も口を開かない。

 リールの回転音と、映写機の微かな唸り声が空間を支配していた。


 「……彼女は、観客だった」

 アキトが静かに語り始める。


 「“切り捨てた”んじゃない。僕が……選ばなかったんだ。あの劇場の崩壊のあと、生き残ったのは数人だった。でも、彼女だけは……その場にいた証拠すら残らなかった」


 詩織が目を細めてスクリーンを見る。

 その視線の先、青年の足元──そこには、誰かの**“影”**が見えていた。

 まるで、すでに存在しない誰かが、彼の隣に立っていたかのように。


 「名は、はるか

 アキトは言った。


 「彼女は、“選ばれなかった観客”だ。僕が、再編集の中で……彼女の存在を**“なかったこと”にした**。正義のつもりだった。未来の調整、秩序の維持……それで、僕は……」


 朱音が、スケッチブックを握る手に力をこめる。

 彼女の描いた“最後の一枚”──その中にも、同じ構図があった。

 焼け焦げた舞台。青年の隣に、輪郭だけの少女。


 玲が一歩前に出る。

 「君は、彼女の記憶を再構成するために“RM-03”になったのか」


 アキトはうなずく。

 「彼女を“取り戻す”ためなら、何度でも編集を繰り返すつもりだった。……でも、もう無理だ。彼女は僕を選ばなかった。いや──最初から、そうだったんだ」


 その瞬間、スクリーンの“青年”がふと目を伏せた。

 そして、カメラに向かって最後の言葉を口にする。


 『この記録が再生されるとき、僕はもう、君を待たない』


 映像が、フェードアウトした。



 静寂が訪れる。

 だが、それは一時のものにすぎなかった。


 ──どこかで「未来の選択肢」が再び動き出す音がした。

 映写機の背後。未再生のリールが、一つだけ、自律的に回転を始める。


【時間】午前9時30分


【場所】朱音の絵の中──想像上の最後の舞台


 それは現実ではなく、朱音の描いた最後の一枚の中。

 色彩を失った灰の世界、静まり返る観客席、むき出しの梁と、煤けた幕。

 舞台の中央には、一人の人物が背を向けて立っていた。


 彼の周囲には、浮遊するカメラと照明機材が静止している。

 だが、どれもが“彼”ではなく、舞台の奥──誰もいないはずの場所を照らしていた。


 まるで「主役の不在」が、あらかじめ定められていたかのように。


 玲は、朱音が描いたその世界に“入る”ような錯覚を覚えていた。

 記憶でも未来でもない、映像と意識の狭間。

 そしてそこに、アキト──いや、元・RM-03の姿があった。


 「これが、僕の“最後の編集”の舞台だよ」

 背を向けたまま、彼は呟いた。


 玲が歩み寄ると、舞台の空気が少し揺れた。

 照明の一つが微かに瞬き、カメラのレンズがわずかに動く。


 「アキト、お前は……ここに誰を残したかったんだ?」


 沈黙ののち、アキトは振り返らずに言った。

 「遥。……遥って子がいた。僕が子どもの頃、劇場の観客席で、毎回最後まで拍手してた少女。

 何者でもなかった僕に、ただ“見てた”って言ってくれた唯一の観客だよ」


 その声には、どこか懐かしさと、後悔が入り混じっていた。

 「でもあの日、あの崩壊の日。編集指示書に従った僕は、彼女の存在を切った。証拠を、映像を、記憶を全部。

 未来のためだと信じて……でも、あれからずっと、僕は“観客がいない舞台”しか作れなくなった」


 玲は立ち止まり、静かに問いかける。

 「だから、RM-03になったのか」


 「ああ。でも、もう終わりにするよ。……玲、最後に一つ、頼んでもいいか」

 アキトはゆっくり振り返った。

 舞台の光が、彼の顔を照らす。どこか懐かしい、少年のような瞳をしていた。


 「俺の……永遠のライバルでいてほしい。でも……できれば、友人としてさ」


 玲は目を細め、微笑みすら浮かべた。


 「もちろんだ。お前の“選ばれなかった未来”まで背負うつもりはないけど……

 “これからの未来”は、俺たちが編集してやろうじゃないか」


 その言葉に、アキトの肩の力が少しだけ抜ける。

 朱音の描いた絵の中、背を向けた“青年”の輪郭が、ゆっくりと光に融けていった。



 そして、舞台の奥から――微かに拍手の音が聞こえた。


 玲がそっと目を上げると、客席の最奥。

 誰もいないはずの場所に、ただ一人、拍手を送る少女のシルエットが見えていた。


【時間】午前10時00分


【場所】旧・薊座の最後の小部屋


 薄明かりだけが射す、小さな扉の奥。

 そこは舞台袖でも映写室でもない。

 設計図にも記されていなかった、旧・薊座の最奥にひっそりと隠された空間だった。


 埃の匂い。塗り直された形跡のない壁。

 朱音が描いたスケッチには存在しない部屋。


 そこに──一つのフィルムケースが置かれていた。

 まるで、それが**「見つけられること」を待っていたかのように。


 玲が慎重に近づき、ケースの蓋に手をかけたとき、上に貼られていた小さな付箋に目が留まった。


 そこには、たった一言だけが、走り書きされていた。


 


 >「彼女は、最後まで観ていた。」


 


 ……それは、確かにアキトの字だった。


 玲は静かに蓋を開ける。

 中にはリールが一つ。ラベルは消され、どの記録とも一致しない。

 だが、手書きで“HR-Last”と書かれた小さなタグが、リーダーテープに括りつけられていた。


 「遥……」玲は呟く。「お前が、“最後まで観ていた”映像ってことか……?」


 背後で、朱音がスケッチブックを抱えながらそっと言った。


 「もしかして、それが……“彼女の記憶”なんじゃないかな。記録じゃなくて、観客として見ていた光景……」


 玲は頷く。


 「なら、これは“彼女の視点”だ。……記録されていない側の、もう一つの真実」


 チーム影の成瀬と桐野が部屋の入口を見張る中、安斎が機材を慎重に確認する。


 「これを再生するには、前の編集とは違う“逆順解読”が必要だ。……要するに、記録の末端から彼女の意識を辿るんだよ」


 玲は小さく息を吐き、フィルムを慎重に巻き取りながら言った。


 「次は、“遥の視点”を探る旅だ。……アキトが切り捨てた少女。

 でもそれは、きっと“何かを見ていた観客”の、最初で最後の声だ」


 朱音が言った。


 「それを“描く”のは、きっとわたしの役目なんだと思う」


 玲が静かにうなずいたとき──再び、遠くから小さな拍手のような音が聴こえた気がした。


【時間】午後3時15分


【場所】旧・薊座 劇場内 客席フロア


 崩れかけた天井から漏れる微かな陽光。

 ……いや、それは自然光ではなかった。


 天井に残された、ただ一つのスポットライト。

 舞台の中央に、淡く震える光を落とし続けていた。


 劇場は静まり返っている。

 誰もいないはずの客席に、誰かの記憶が、影のように揺れていた。


 その中心、舞台の袖からゆっくりと姿を現したのは──アキト。


 黒いコートの裾を引きずりながら、彼は舞台中央に立つと、顔を上げた。

 照明がその表情を優しく照らす。


 その目は、もはや狂気ではなく、確信を帯びていた。


 「……遥は、ずっと観ていたんだ。終わりまで。希望のない演目も、誰も救われない結末も──それでも、席を立たなかった」


 玲が静かに近づく。

 舞台の手前で足を止めると、まるで客席に向けて語るように、アキトは続けた。


 「彼女は“観客”として、それを受け止めていた。だから僕は……**彼女の視点を世界に残したかった。**それが“編集”の原点だったんだ」


 玲の声が響く。


 「それでも、お前は“RM-03”になった」


 アキトは微かに笑った。どこか寂しげに。


 「……ああ。だって、この世界には“演目の進行”を選ぶ者が必要だ。誰かが“台本”を整えないと、未来は暴走する」


 彼の瞳が、玲を見た。


 「だから、僕は……事件の度に“演出家”であり、“予言者”になるしかなかった。

 そして、お前には“探偵”でいてほしい。友人として、犯人を追い、捕まえてほしいんだ」


 朱音が静かに呟いた。


 「……犯人、になる人に……アドバイスするって……?」


 アキトは頷く。


 「僕はこれからも、“誰かの最悪の選択肢”に寄り添う。

 その時、もしも手遅れになるなら──その舞台の幕を引く役目を、お前に任せたいんだ、玲」


 客席の後方、安斎と桐野が無言で立ち尽くしていた。

 光の届かない席に、遥の姿は見えなかった。だが、確かに誰かがそこにいた。


 玲は一歩、舞台に足を踏み入れた。


 「……バカだな。お前、最悪の観客のふりして、一番正直な制作者やってるじゃねぇか」


 アキトの目が驚きに見開かれた。


 玲は微笑した。


 「……分かったよ、アキト。“事件”が起きるなら、俺は“その舞台”に立ち会う。

 でもな……**お前が“本当に救いたい観客”の声を、絶対に俺が聞き届ける。**約束する」


 沈黙が満ちた劇場に、遠くから再び拍手のような音が聴こえた。

 まるで、それが最後の観客──遥の記憶が、

 「ありがとう」と舞台に送った拍手のように。


 アキトは目を伏せた。


 「……じゃあ、幕は、まだ降ろさなくていいんだな」


 玲は頷いた。


 「降ろすのは、最後の真実が演じられた後だ」


【時間】午後4時30分


【場所】旧・薊座 劇場内 映写室


 カタン、と乾いた音を残し、最後のリールが静止した。


 暗幕がゆるやかに揺れている。

 古びた映写室に射し込むわずかな光が、埃の粒を浮かび上がらせる。

 機械の熱も冷え、再生機は沈黙したまま、次の指示を待っていた。


 静寂のなか、玲はフィルムの終端を見つめていた。

 焦げかけた端部。破れたフレーム。だが、そこには確かに“映像にならなかった何か”があった。


 その背後、微かな足音が忍び寄る。


 「終わったようで……終わらなかった、ってわけだな」


 振り返らずとも、声の主は分かっていた。


 アキト──いや、RM-03と呼ばれるべき男は、白い編集手袋を外しながら近づいてくる。

 その顔には、かつての冷徹さよりも、奇妙な“諦念”と“理解”が混じっていた。


 「君たちが思うほど、僕は悪役に向いてないよ」

 「だが、“全てを視た者”として、この座から降りるわけにもいかない」


 玲は肩越しに答える。


 「……だから“第三の編集者”ってわけか」


 アキトは笑う。「名付けてくれて、光栄だよ」


 背後で朱音がスケッチブックを閉じた。

 ページの余白には、まだ描かれていない“未来の枠”が静かに残されている。


 「君たちは“真実の証人”になる。僕は“舞台装置の管理者”であり続ける。

 お互い、……無理に交わらずとも、目指すものは似ているはずだ」


 玲はフィルムの端をそっと摘み上げ、光に透かす。

 その先に微かに映った、あの日の少女──遥の残像が揺らいだ気がした。


 「事件は終わらないんだな。お前が、そこにいる限りは」


 「そして君が“そこに立ち続ける”限り、事件は物語として成立する」


 二人の視線が交錯する。

 そこには敵対でもなく、協力でもない。

 ただ、同じ舞台に立つ“対話者”としての距離があった。


 ふと、アキトが手を伸ばし、古いキャビネットから新たなフィルムケースを取り出す。


 「次の“未編集の記憶”だ。これは……君に預ける。どの未来を残すかは、選べ」


 玲は黙ってそれを受け取った。

 ラベルもない銀のケース。重みだけが、確かな責任を感じさせる。


 アキトは去り際、ふと振り返った。


 「……もしまた、“演者”が道を外れそうになったら……助言くらいはするよ」

 「ただし、君が“最後の観客”であることを忘れなければ、だ」


 そして彼は、静かに映写室を後にした。


 残された玲、朱音、そして背後に立つ安斎たちの間に、わずかな沈黙が流れる。


 「不完全な同盟、か……」

 安斎が皮肉っぽく呟いた。


 玲は微笑む。


 「……それでも、利用できるうちは使ってやるよ。

 “編集者”が残した穴を、俺たちが塞ぐ。それでいい」


 朱音はページの余白に、ひとつの小さな点を描いた。

 それは、まだ何者にもなっていない未来の印──“描かれる前の選択肢”。


 そして劇場の奥では、再び新しい“記憶の再生”が始まろうとしていた。


【数日後】


【場所】朱音の机の上・都内


 雨が降り出しそうな午後。

 朱音の部屋には柔らかな光が差し込んでいた。


 机の上、スケッチブックが一枚、ゆるく開いている。

 そのページに描かれていたのは──誰も知らない、まだ訪れたことのない劇場だった。


 そこには、観客もいなければ、演者もいない。


 ただ、薄く白い光に包まれた舞台が、静かに佇んでいた。

 舞台の上にはセットもなく、椅子も照明も置かれていない。

 だが、なぜか“誰かが立ち上がることを待っている空気”だけが満ちていた。


 その最奥──舞台の端に、朱音はひとつの影を描いていた。


 長いコート。首もとまで閉じられたシャツ。

 片手に持つのは、銀色のフィルム缶。

 そしてその顔には、かつての“編集者”に似つかぬ、穏やかな眼差しがあった。


 アキトだった。


 スケッチの中の彼は、まるで朱音がこの絵を完成させるのを静かに待っているようだった。

 怒りも葛藤もない。ただ、“視る者”として、少女が何を描こうとするのかを受け入れようとしていた。


 朱音はそっと鉛筆を止めた。


 完成させるにはまだ早い。

 この劇場には、誰が登場してもいい。あるいは、誰も来なくても構わない。

 それでも、このページは──“未来”の余白として残しておきたい。


 机の上には、前のページからめくれかけた一枚の絵。

 それは、あの焼け落ちた薊座の舞台。

 そしてその背後に立っていた、カメラと照明がすべて逆を向いていた場面だった。


 過去の舞台は閉じた。

 だが、未来の舞台は、まだ描かれていない。


 朱音は微笑むように目を伏せ、

 ペンを置いた。


 静かな風が、窓の外でカーテンを揺らした。

 スケッチブックのページがふとめくれ、もう一度、アキトの優しい眼差しが現れる。


 彼は、朱音の選択を待っている。

 それが描くという行為でも、描かないという選択でも。

 どちらでもかまわないというふうに。


 それは、もう“編集”ではなかった。

 ただの――共存だった。


【場所】都内・とあるドキュメンタリー制作会社


【時間】一ヶ月後の午後、雨の気配


 午後三時。

 街の空は、今にも雨を落としそうな鈍い灰色に染まっていた。

 ビルの谷間にある、その古びた建物は、ほとんど人目につかない裏通りにひっそりと佇んでいた。


 朱音は、その入り口の前に立ち止まった。

 少しだけ躊躇してから、小さな封筒を胸元に抱え直し、ゆっくりと木製のドアに手をかける。


 扉には、金属製の社名プレートが貼られていた。

 その表面は経年劣化によりところどころ文字がかすれていたが、辛うじてこう読めた。



 「映像記録工房 ThirdEyeサードアイ



 朱音の瞳が、プレートに刻まれたその名前を映す。

 かすかな記憶が胸の奥で反響する──”第三の編集者”が残した言葉。

 それがただの偶然なのか、それとも誰かの導きかはわからなかった。


 けれど、足を止める理由にはならなかった。


 ドアが、静かに開いた。

 カラン……と小さなベルが鳴る。

 埃っぽさと、フィルム焼けしたような独特の匂いが鼻をかすめた。


 中は狭く、棚には年代物のビデオリールや、古びた編集スクリプトが並んでいた。

 奥の編集ブースには人の気配がない。


 朱音は一歩、また一歩と足を進める。

 封筒の中には、一枚のスケッチと、それに添えた短い手紙があった。



「これは、まだ誰にも見せていない“始まり”の絵です。」

「でも、もしこの場所が、“誰かの続きを見つける場所”なら、ここに託したいと思いました。」



 カウンターの上に、その封筒をそっと置いた朱音は、軽く頭を下げた。

 誰に向けたものなのか、自分でもよくわからなかった。

 けれど、その静かな一礼には、確かに「記憶」と「記録」の両方が宿っていた。


 帰り際、朱音はふと振り返った。


 その時だった。

 棚の奥から、誰かがこちらを見ているような“視線”を感じた。

 けれど、そこには誰の姿もなかった。


 ただ、棚の片隅に積まれたフィルム缶の一つに──

 薄く剥がれかけた付箋が一枚だけ、静かに貼られていた。



 「#004:遥の視点 - 未編集素材(返却不要)」



 朱音は、そっと目を細めた。


 この場所は、終わりじゃない。

 まだ誰も見ていない、**“もう一つの舞台”**の幕が、今──静かに開こうとしていた。


【場所】朱音の自室・夜


 窓の外では、静かに雨が降っていた。

 ぽつ、ぽつ……とリズムを刻むその音が、夜の帳の中に柔らかく溶けていく。


 朱音の部屋の明かりは落とされ、小さなデスクライトだけがスケッチブックのページを照らしていた。

 その灯りの下で、彼女は一人、じっと手元を見つめていた。


 開かれたスケッチブックの最後のページ。

 そこに描かれていたのは──今までのどの絵とも違う構図だった。


 舞台も、カメラも、照明も、何もない。

 ただ、広く静かな闇の中に、小さな椅子が一脚、ぽつんと置かれていた。


 椅子には誰も座っていない。

 だが、そのすぐ傍らに、誰かが立っているような余白があった。

 形は描かれていない。輪郭もない。

 けれど、その「何も描かれていない」空間こそが、この絵の主役のようにも見えた。


 朱音は、そっと鉛筆を置いた。

 そして、ぽつりと呟く。


 「……ここから、また始めるんだね。」


 その言葉は、誰に向けたものでもなかった。

 けれど、もし“彼”がここにいたとしたら、きっと、微笑みながらこう答えただろう。


 ──「うん。その椅子には、いつか君が座るかもしれない」


 朱音はページを閉じなかった。

 ただ、そっとスケッチブックの上に手を置き、静かに目を閉じた。


 雨の音はまだ続いていた。

 その音の向こうに、誰かの足音が聞こえた気がした。

 けれどそれは、想像か、それとも──


 記憶が語りかけてくる音だったのかもしれない。


【玲】──都内・玲探偵事務所


三週間後・午前十一時


 玲探偵事務所の一室は、今日も静寂に包まれていた。

 カーテン越しの光が淡く室内を照らし、機材の冷たい光が静かに瞬いている。


 モニターに映るのは、未編集のフィルムから切り出された断片的な映像。

 どれも、朱音がかつてスケッチブックに描いた「未来」と一致していた。

 何気ないカット。偶然にも似た構図。

 けれど、その“偶然”が並んでいくにつれ、玲の眉がわずかに動いた。


 これは記録ではない──再現だ。

 まるで、誰かが**“絵に描かれた未来”に合わせて、映像を生んでいる**かのようだった。


 「……やはり、続いていたのか」


 玲が呟いたその声は、空気をわずかに震わせるだけで、誰に届くわけでもなかった。


 だが、次の瞬間──


 「気づいてしまうのは、君の悪い癖だよ」


 その声が背後から、確かに響いた。


 玲は驚かず、ただ静かに一度、目を閉じた。

 そして、振り返る。


 そこに立っていたのは、黒いコートを羽織った青年──アキトだった。

 肩までの髪は少し伸び、目元にはかつての張り詰めた緊張感はない。

 けれど、その目の奥に宿るものは、相変わらず“選ぶ者”としての覚悟と孤独だった。


 「……いつからそこに?」


 玲の問いに、アキトは軽く肩をすくめた。


 「少し前。君が“映像と絵の同期”に気づいた時点で、もう十分だった」


 玲は、静かにモニターに視線を戻す。

 画面の中では、一脚の椅子が雨の舞台に照らされていた。

 それは、朱音が最後に描いた“観客のいない舞台”と同じ構図だった。


 「君はまた、誰かの罪の側に立つつもりか」


 問いかけは責めではない。

 ただの確認だ。

 アキトは微かに笑い、首を横に振った。


 「罪の側、じゃない。未来の“見落とされた余白”に立つだけさ。

  僕はそれを、物語に“補助線”として引いておく。それが僕のルール」


 玲は椅子に深く座り直した。


 「その線を越える者を、僕が止める。

  ……それが、僕のルールだ」


 ふたりの視線が、静かに交わる。

 戦いではない。

 だが、理解は相容れない。

 それでも──互いの“立ち位置”は、すでに確かだった。


 アキトは一歩だけ、玲の隣に歩み寄る。

 モニターを見つめながら、低く告げた。


 「次は、舞台ではなく“観客のいない都市”だ。

  視点がない場所で起きる選択……それを、君はどう記録する?」


 玲はわずかに笑う。

 「必要なら、また会おう。“第三の編集者”」


 アキトは軽く手を上げ、そして去った。

 足音を残さず、まるで影が夜に溶けるように。


 室内には再び静寂が戻る。

 玲は再生を止めず、次の映像へと手を伸ばした。

 モニターの中──朱音の描いた“未来”が、今も確かに動いている。


【朱音】──東京郊外・山のロッジ


一ヶ月後・夕暮れ


 風がやわらかく、杉の枝を揺らしていた。

 空には夕陽が、深く赤みを帯びて沈もうとしている。


 朱音はロッジのウッドデッキに腰掛け、

 膝の上に広げたスケッチブックを静かに見つめていた。


 描きかけのページには、まだ色のない舞台の絵。

 スポットライトだけが描かれ、客席はすべて空席。

 まるで、誰かを迎える準備だけが整った風景だった。


 けれど朱音の鉛筆は、しばらく前から止まったままだった。


 ──あの舞台。あの光景。

 夢とも現実ともつかない記憶が、時おり頭をかすめる。


 『描く』という行為が、過去を引き寄せるのか。

 それとも、描かれた絵が“これから”を呼び寄せるのか。


 朱音には、まだわからなかった。


 「……ずいぶん、やさしい線を引くようになったね」


 その声が背後から届いたのは、夕陽がちょうど山の稜線に触れた頃だった。


 驚きはしなかった。

 不思議と、自然な気持ちで朱音は振り返る。


 そこに立っていたのは──

 黒いコートを羽織った青年、アキトだった。


 以前よりもどこか穏やかな表情をしていて、

 けれど瞳の奥には、やはり深い影と責任の色があった。


 「……来てくれるって思ってた」


 朱音は、小さく笑った。

 アキトは軽く頷きながら、朱音の横に腰を下ろす。


 彼は朱音のスケッチブックをちらりと見て、ふと口元を緩めた。


 「この舞台、好きだよ。

  誰もいないのに、ちゃんと“誰かを待ってる”感じがする」


 朱音は視線を落としながら、ぽつりとつぶやく。


 「……でも、私、もう“描く”のが少し怖いんだ」

 「また誰かの未来を動かしちゃう気がして……」


 アキトはしばし沈黙し、静かに答える。


 「それはね、朱音。

  君が“本当に描けるようになった”ってことなんだよ。

  誰かを動かしてしまう絵なんて、そう簡単には描けない。

  だから──怖がっていい。でも、それは誇ってもいいことなんだ」


 朱音はしばらく黙っていたが、やがてそっと目を上げ、

 小さな声で、けれど確かに言った。


 「……ありがとう、アキトお兄ちゃん」


 その言葉に、アキトの目が少しだけ揺れた。

 懐かしい呼び方。

 かつて、妹にそう呼ばれていた。


 「……そう呼ばれるの、久しぶりだな」


 アキトは、少しだけ照れたように笑った。

 朱音もまた、肩の力を抜き、目を細めた。


 ふたりの間に、静かな風が通り過ぎる。

 ロッジの上には、夕暮れの空が広がっていた。


 過去を断ち切るわけでもなく、

 未来を約束するでもなく、


 ただ、この瞬間だけが、穏やかに続いていた。


【川名詩織】──渋谷・映像編集スタジオ


二ヶ月後・深夜


 渋谷の街が眠りに落ちる頃、まだ明かりの灯るビルの一室。

 編集スタジオのモニターには、古い撮影テープの映像が流れていた。


 川名詩織は、無言のまま画面に向かい、映像と音声の波形を凝視していた。

 それは、かつての映像監督・村山慎也が最期に撮った、未公開のフィルム。

 朧げな夕暮れの中で回された長回しの映像。

 風の音、鳥のさえずり、そして──妙なノイズ。


 「……この間に、何かがある」


 詩織はマウスを操作し、音声波形の細かな揺れを拡大していく。

 人間の声とは言いがたい微細な“揺らぎ”が、断続的に挿入されている。

 普通の耳なら聞き逃すその揺れが、詩織にはどうしても気にかかった。


 「誰かが……“何か”を入れた。編集されてない状態で、こんな波形は──」


 背後のスタジオは静まり返っている。

 空調の低い音と、モニターのかすかな発光。

 深夜の編集ルームに差し込むのは、青白い光と微細な緊張感だった。


 「“それ”、声だよ」


 ──その声は、突然、すぐ背後から届いた。


 詩織は身をこわばらせながら振り返る。

 暗がりの中、黒のコートを着た青年が立っていた。

 光を反射するモニターの青い光が、彼の顔の片側だけを照らしている。


 「アキト……!」


 詩織の声に、怒りや驚きはなかった。

 ただ、長い時間を越えて“やはり来た”という感覚がそこにはあった。


 アキト──RM-03は、一歩スタジオの奥に進み、

 モニターに映る波形と音声をちらりと眺めた。


 「慎也は、あの時点ですでに気づいてた」

 「“観客に選ばれなかった声”が、どこかに漂い続けることを。だから彼は、その残響をフィルムに残そうとした」


 詩織は少しだけ目を細め、声の再生を停止した。


 「……あなたの仕業?」

 「いや、違う」アキトは静かに首を振る。「これは、“僕ですら手を加えていない”断片だ。だからこそ残ってる」


 しばし沈黙が流れる。

 詩織は、再びモニターを見やりながら言った。


 「……この声の主が、“遥”だとしたら?」


 アキトの瞳がわずかに揺れる。

 だがすぐに、その瞳には静かな確信が宿った。


 「なら、これも舞台の続きだ。君の編集室が“次の劇場”になる」


 詩織は小さくため息をつき、机の上にあったメモ帳に一言だけ走り書きした。


 《Scene.01 ─ 未選択の声》


 そして、アキトに向かって言った。


 「今度は、私が“編集する”。けど、あなたにも手伝ってもらうわ。“第三の編集者”としてじゃない。観客として」


 アキトはふっと笑い、静かに頷いた。


 「……了解、編集助手さん」


 ふたりの間に言葉はなかった。

 ただ、未明の渋谷に、まだ知られざる記録の“呼び声”が、微かに響いていた。


【瀬尾ハルキ】──浅草・小さな映画館


一ヶ月半後・夜公演のあと


 静かな夜の浅草。

 公演を終えたばかりの小さな映画館には、熱気の余韻がまだ残っていた。

 観客たちは拍手を残し、静かに席を立ち、それぞれの現実へと帰っていった。

 ロビーの灯りが落とされ、館内は次第に暗くなっていく。


 映写室──

 狭く古びたその空間で、瀬尾ハルキは一人、フィルムリールの巻き戻し作業に没頭していた。

 かつて朱音から手渡された映像素材。

 誰にも理解されなくても、彼はその断片を繋ぎ合わせ、一つの短編として完成させた。

 タイトルは、《未編集の未来》。


 「……あいつ、観てくれたかな」


 ハルキは巻き取られていくフィルムに目を落としながら、ぼんやりと呟いた。

 静かな夜。機械の回転音だけが室内を満たす。

 朱音が描いた絵──その世界観を借景に、語られなかった誰かの“視点”をすくい取るように構成された作品。

 評価は二分された。

 だがそれで良かった。誰にでも伝わる必要はない。ただ、あの時の彼女が描こうとした“何か”が、確かにそこに息づいている──それだけで。


 「……いい編集だった」


 その声は、静かに、すぐ背後から響いた。


 ハルキは、振り返ることなく、ほんのわずかに息を飲んだ。


 「……出たな、幽霊」


 言いながら、少しだけ口元を緩める。

 アキト──RM-03。彼が、朱音たちの周囲で揺れ動いた事件の背後にいた“第三の編集者”。

 けれど今の彼は、ただ静かにそこに立つ、青年の姿だった。


 「映像の切り取り方に、君らしさが出てた」

 「本当に見たくなかった部分だけ、ちゃんと“余白”として残してた。……それは、難しい判断だったろ?」


 ハルキはようやく振り返り、わずかに目を細めてアキトを見た。


 「難しかったよ。……でもあれが、朱音の“視点”だったと思う」

 「俺じゃない。“俺が知ってる彼女”でもない。カメラが切り取れなかった“その時の彼女”を、画の隙間から追った」


 アキトはしばらく何も言わなかった。

 ただ静かに、巻き戻されたフィルムの動きを眺めていた。


 「彼女の“観客”として、君がいてくれて良かった」

 「僕のフィルムには、それが欠けてた」


 静かに、しかし深く滲む言葉だった。


 「……なあ、アキト」

 「お前はさ、“編集者”でいることに疲れたりしないのか?」


 ハルキの問いに、アキトはふっと笑った。

 それはどこか、懐かしさすら感じさせる少年のような微笑だった。


 「……疲れるよ。でも、それが僕の役割だから」

 「ただ一つ、わがままが許されるなら──“演者”や“観客”たちにだけは、誠実でいたいと思う」


 ハルキは苦笑した。


 「……それで、また何か新しいフィルムでも持ってきたのか?」


 「いや、今日は違う。観に来ただけだよ」

 「君がどういう風に、未来を繋いだのか……それを、“編集者の目”じゃなく、“観客の目”で観たくてね」


 そう言って、アキトは映写室の壁に立てかけられた一本のリール缶に、そっと手を触れた。


 「この作品は、まだ“続く”。演者が生きてる限り、舞台は閉じない」


 「……ああ。なら、その舞台裏に、俺のカメラがいたっていいよな」


 ふたりは目を合わせ、短く微笑み合った。

 機械のモーター音が止まり、フィルムの巻き戻しが完了する。


 静かな夜に、また一つ、記録が終わる。

 だがその記録は、誰かの未来を照らす“灯”となっていた。


【名倉家の書庫管理者】──非公開・名倉家屋敷 地下書庫


五週間後・午前八時


 分厚い石壁に囲まれた地下書庫は、今日も変わらず冷たい沈黙に包まれていた。

 地下へと続く螺旋階段には朝の光が届かず、わずかな照明が棚の隙間に淡く影を落としている。


 名倉家の書庫管理者──老いた男性は、いつものように記録台帳を手に、各棚を確認していた。

 扉に鍵がかかるのは午前八時ちょうど。

 定刻通りに開いた分厚い鉄の扉の向こうには、既に誰かの足音が残されていた。


 「……おかしいな」


 誰かが先にここへ入った気配。だが、警報は鳴っていない。

 管理者は眉をひそめながら、“第二棚”へと足を向けた。


 そこは、以前【焼却指示】が下された文書が収められていた区画。

 しかし、ひとつだけ例外がある。

 指示に背いて、**あえて“処分されなかったコピー”**──


 ──**「鑑定記録第24-03B:映写機内残留音声記録/人称視点反転解析」**


 そのファイルだけが、今もなお、“意図的に”棚の奥へと残されている。


 そして──その前に、誰かが立っていた。


 黒いシャツにグレーのコートを羽織った青年。

 管理者は即座に警戒するが、次の瞬間、その男が手にしていた名倉家の仮通行証に目を止めた。


 「……あなたは?」


 青年は振り返らなかった。

 ただ静かに、ページを一枚、また一枚とめくりながら言った。


 「記録は、誰かの“記憶”に由来する。だが時に、記録の中の視点は、記憶者の意志をすり抜けることがある」


 ページの一枚に、手書きのメモが残っていた。

 『彼女が見たのは、観客席のほうではなく──鏡の裏側だった』


 「……これは、被験者“遥”の記録だな」管理者が低く呟いた。


 青年──**アキト(RM-03)**は、その言葉に反応を示さなかった。

 ただ、ページを閉じ、ファイルの表紙に手を置いたまま、静かに言う。


 「焼却されたはずの“視点のズレ”……これを、誰かが意図的に残した。

 それは彼女の『存在』がまだ、“切り捨てられていない”という証拠でもある」


 管理者は、少しだけ口を開きかけ、そして何も言わずに黙った。


 「この資料は……持ち出すつもりか?」

 「いいや」アキトはゆっくりと首を横に振る。「記録はここにあっていい。だが“記憶”は、別の場所で目を覚ます」


 その瞬間、棚の上部──封印された“再編集指示票”の端がひとりでに剥がれ、ふわりと床に落ちた。

 アキトはそれに目をやりながら、低く、どこか寂しげに呟く。


 「……彼女の物語は、“舞台に戻る”必要がある」


 「誰がそれを演じる?」と管理者が問う。


 「彼女自身ではない。けれど──」

 アキトは一瞬、朱音の絵を思い出すように遠くを見る。


 「観客がいたなら、舞台はもう一度始められる。」


 そして、ファイルを棚にそっと戻し、背を向けた。


 「君は、ただここを管理していてくれればいい。僕たちが必要になるのは、“記録”ではなく、“その記録が残っていた事実”だから」


 青年の足音は、再び階段へと消えていった。


 重たい静けさが戻った書庫に、管理者は一人、ぽつりと呟いた。


 「……第三の編集者、か。次は、誰の記録を再生するつもりなんだろうな……」


【エピローグ】──どこかの小劇場


数ヶ月後・無観客リハーサル


 客席には誰もいない。

 だが、舞台の上には確かに“物語”が存在していた。


 照明がひとつ、またひとつと落ちていく。

 ラストシーンのセリフを終えた俳優が静かに一礼し、幕が音もなく下り始めた。


 ──拍手はなかった。

 客席は空っぽで、椅子の並ぶ列にはただ沈黙だけが座っていた。


 ……ただ一人を除いて。


 最前列の中央。

 黒いシャツにグレーのジャケットを着た青年が、静かに佇んでいた。


 アキト。

 舞台には立たず、裏方にも回らず、ただ“観客”としてそこにいた。


 彼の表情には微かな安堵が滲んでいた。

 それは、誰にも評価されずとも、誰にも届かずとも、「終わらせることができた」物語に対する祈りに似た感情だった。


 ステージの最後──

 演者の背後に吊るされた白布には、かすかに映像が投影されていた。


 ──《遥》の描いた風景。

 ──朱音の手による“再構成された世界”。


 観客はいなかった。

 だが、それを見つめるアキトの目には、確かに“誰か”の姿があった。


 彼は、小さく微笑みながら立ち上がると、

 静かに言った。


 「これで、彼女は“観客”になれる。

  ……それなら、僕は“次の編集”に進もう」


 アキトは振り返らなかった。

 その足取りは、次の舞台を探す編集者のように軽やかだった。


 舞台の幕が完全に下りる。


 そして、

 ──無音の劇場にただ一人、静かな拍手が響いた。


 誰のためでもない、

 物語そのもののための、ささやかな終演の証として。

【玲のスマートフォン/午前2時過ぎ・未明】


画面に未読通知。

件名のない一通のメール。

差出人:haruka.reel03@ghost.edit



メール本文:


玲さんへ


わたしが見ていた景色を、

誰かが覚えていてくれるなら

きっとそれで、充分です。


あのとき舞台にいたわたしは、

“観客のいない未来”に手を伸ばしていました。


でも、あなたは違った。

世界に向けて、

本当の終わりを“選ばせようとした”。


ありがとう。

アキトくんが、あなたのそばにいてくれて、わたしは嬉しい。


それでもきっと、選ぶのは“あなた”です。

この光景の続きを、誰に見せるかを。


わたしの視点は、もうこの記録に刻まれました。

だから、どうか――


終わらせてください、正しい方法で。


――遥



玲は、このメールに返信することはできない。

アドレスは既に存在せず、送信履歴にも記録は残っていなかった。

だが、その言葉だけは、確かにスクリーンに灯っていた。


まるで“選択の続きを託すように”。

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