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76話 雪螢館の指先(せっけいかんのゆびさき) —手紙と記憶が導く、影の指示者の物語—

登場人物紹介


れい

冷静沈着な探偵。卓越したIQと観察力を持ち、事件の裏側や人の心理を瞬時に読み取る。ルートマスターの手口を追う中で、雪螢館の事件に深く関わる。


佐々木朱音あかね

玲の助手兼重要な証人。純粋な直感と観察眼を持つ少女で、スケッチブックに描いた絵が事件の鍵となる。雪螢館の不可解な出来事に遭遇し、玲と共に真実に迫る。


石原冬彦いしはら ふゆひこ

雪螢館に関わる財産管理者。冷静に見えるが、館の陰謀やルートマスターの指示に巻き込まれる。封印庫や帳簿原本に関わる重要人物。


倉持辰夫くらもち たつお

館の理事代理。左手の薬指を隠し、手袋で操作された痕跡を覆う。ルートマスターの指示に関与した可能性があり、事件の重要な駒となる。


広瀬悠人ひろせ ゆうと

館の修復担当者。事件に関わる記録や資料の保管・移動を担当。ルートマスターの計画に知らず知らず巻き込まれる。


アリサ・柊木しらき

雪螢館の使用人で、事件の第一発見者。証言が事件の鍵となるが、心理的に揺さぶられる場面もある。


瀬名真澄せな ますみ

K部門・構造解析支援班所属。「記録解体士」として、館の増改築や閉鎖空間を解析。封印庫の構造や不自然な空間の痕跡を読み解くスペシャリスト。


ルートマスター(L.M.)

全てを見通す影の指示者。人の心理や正義心を逆手に取り、事件を計画的に操る。実体を現さず、文字通り「指先ひとつ」で現実を動かす。


柾木浩司まさき こうじ

館の財産整理や指示の伝達に関わる人物。ルートマスターの計画に巻き込まれ、中継役として利用される。


志村理人しむら りひと

名倉家の血縁者で帳簿管理の補佐。旧倉庫跡地でルートマスターの指示に従い、無意識に「中継地点」として関与。

【時間】夜

【場所】函館・古びた石造り倉庫二階 応接室


――夜の函館は静かだった。


港の灯りさえ雪に霞み、凍えた海風が倉庫群の隙間をすり抜けていく。クリスマス前の街の喧騒はすでに遠く、山の向こうでわずかに瞬く街灯が、人の営みをかろうじて伝えているだけだった。


その静寂を裂くように、古びた石造りの倉庫の二階、かつて商人の集会場だった応接室に蝋燭の灯がともっていた。


木製の長机を挟んで、向かい合う二人。

一人は黒いコートの青年――肩をすくめながら、手袋のまま封筒を受け取る男。

もう一人は深い帽子を目深に被ったまま、微動だにしない人物。顔は陰に隠れ、その輪郭さえ曖昧だった。


その男はゆっくりと話し始めた。低く、乾いた声。


「動機も、証拠も、逃走経路もすべて組み込んである。“事故”に見えるよう、君には準備だけをしてもらう。手を下すかどうかも選べる」


青年は黙ったまま、封筒を手に取る。

開封すると、中には綿密な計画書が数枚、写真が3枚、それにもうひとつ――白紙の封筒が入っていた。


「……この白封筒は?」


「それは、“真相にたどり着く者”への導火線だ。渡す相手は、こちらで指定する」


青年は不安と好奇心の混ざった視線で男を見つめた。


「どうして俺なんだ?」


ルートマスター――それだけが伝えられているこの謎の男は、一拍の間を置いて、静かに答える。


「君には“動機”がある。そして、自分の手で決着をつけようとは思っていない。だから、計画だけを与える。それで君は、“選ばれた犯人”になれる」


蝋燭の火が小さく揺れた。


「……もし、途中でやめたら?」


「構わない。だが、君が最初に動いた瞬間から、結末は“誰かの意志”でしかなくなる」


ルートマスターの声は、まるでそれ自体が運命を操るように響いていた。

青年はもう一度、計画書の束を見下ろす。そして、決意の色を浮かべたまま、小さくうなずいた。


その手が黒封筒を上着の内側に滑り込ませた瞬間――

完全犯罪の歯車は、静かに、音もなく動き始めた。


【時間】冬の午後

【場所】東京・玲の事務所


冬の雨は、音すら立てずに落ちていた。

東京の空は鉛色に沈み、事務所の窓を濡らす水滴が、曇りガラスにゆっくりと筋を描く。

静まり返った室内には、古い暖房機の低い唸り声だけが空気を撫でていた。


玲は、書類机の前に立ったまま、無言でひとつの封筒を見つめていた。

色は深灰。封蝋は黒――通常の連絡には使われない“極秘対応用”の識別印。


《K部門特別対応室》

差出人欄にそう記されていた。官公庁のような堅い名前の下に、小さく、筆跡の異なる書き込みがあった。


──《本件は、あなたにのみ開封を許可する》──


玲は眉をわずかに動かすと、ペーパーナイフを手に取り、慎重に封を切った。蝋の割れる乾いた音が、室内の空気を微かに震わせた。


中には一通の手紙。手書きではない。だが、文体には“切実さ”が滲んでいた。


【時間】冬の午後

【場所】東京・玲の事務所


玲は封筒から取り出した資料に目を落とした。


《極秘:特例調査要請》

対象:北海道・函館市近郊「雪螢館」関連死亡事件

依頼種別:非公式・非公開・刑事介入前段階


概要:

・館内での“不審死”が確認されるも、事件性を明示する証拠不十分

・現地署からの報告に矛盾あり

・関係者に対し、K部門が情報収集を試みたが、協力姿勢薄く

・依頼主は匿名、ただし当該館に“かつて所属”した人物からの密告と推定


要請事項:

・現地での非公式調査

・情報収集および関係者ヒアリング

・必要に応じた即時判断・特別措置(詳細は別封にて)


備考:

・本件は“第三者の関与”が疑われる

・また、“計画性を伴う事象”がすでに進行中の可能性あり


K部門 特別対応室長

佐伯 貴志


玲は資料を胸元に抱え、深く息をついた。

窓越しの雨粒が鈍く光り、室内の影を揺らす。

「……やはり、これはただの事故では済まされない」

彼はペンを取り、現地調査の手順を頭の中で整理し始めた。


【時間】冬の午後

【場所】東京・玲の事務所


玲は息を整え、地図を指でなぞった。館の入り口、倉庫、旧客室の位置関係が詳細に描かれている。

赤枠で囲まれた「名倉 玲音」の名前に、何か意味があることは明白だった。


「……関係者か。単なる目撃者じゃないな」


彼は地図を軽く折りたたみ、封筒に戻そうとしたが、指先に違和感を覚えた。

小さく折り込まれた紙片が隠れていたのだ。広げると、そこには淡く線引きされた館内のルートと、いくつかの矢印、そして「監視・警戒」と書かれた文字。


玲は唇を噛み、静かに呟いた。

「……これは、誰かに見られたくない痕跡だな。名倉玲音――何を知っている」


窓外の雨音が、事務所の静寂をさらに際立たせる。

玲はペンを取り、紙片の情報を別のノートに写しながら、頭の中で館内の動線と事件の可能性を組み立て始めた。


【時間】早朝

【場所】東北地方行きの特急列車・車内


「……東京とは、全然違うね」


朱音が小さく呟く。

その声に、隣の席の玲が軽く頷く。


「冬景色は確かに厳しい。でも、情報が集まりやすい季節でもある」


朱音は窓の外を見据えながら、手帳を取り出した。

メモ帳には、雪螢館の地図と、館内での“不審死”の情報、過去の目撃証言が細かく書き込まれている。


「玲さん、この館……本当に何もかも隠しているの?」


玲は少し目を伏せ、封筒から取り出した地図のコピーを朱音に見せる。

「隠すどころか、計画的に隠している。現地の情報は少しでも早く抑えないと、手遅れになる」


窓の外、列車は白銀の世界を滑るように進む。

その静寂の中、二人の視線は、これから踏み込む館の内部と、その闇を確かめるかのように、重く交わった。


【時間】午前中

【場所】山沿いのローカル線・車内


「ここまで来ると、本当に人が住んでいる気配がないね」


朱音が窓の外を見ながら、小さな声で呟く。

玲は手元の資料に目を落とし、地図と写真を交互に確認する。


「噂だけなら怖い話かもしれない。でも、過去の事件記録と現地の情報は矛盾だらけだ。油断はできない」


朱音は小さく息を吐き、窓の雪景色を指でなぞる。

「雪螢館……昔はどんな館だったんだろう。美しい建物って話もあったけど」


「外見だけなら、確かに壮麗な洋館だ。だが、内部の情報はほとんど封鎖されている。館の中に入る者は少なく、出てくる者ももっと少ない」


列車は森を抜け、山影の合間を滑るように進む。

外気は冷たく、雪の匂いが窓越しに漂う。

朱音の小さな手が手帳を握りしめ、玲の横で静かに固まる。

二人は言葉少なに、雪螢館への到着を待っていた。


【時間】午前中

【場所】函館郊外・雪螢館最寄りタクシー乗り場


「ここから館までは、歩いて十数分……雪が深いな」


朱音が慎重に足元を見ながら言う。

玲は地図を確認し、風で揺れる木々の音に耳を澄ませる。


「油断すると滑る。足跡を残さず慎重に進もう」


雪の上に二人の足跡が静かに刻まれる。

風が頬を打ち、雪の粒が二人のコートに淡く舞い落ちる。


「……本当に誰も来ていないんだね」


「この館の情報は閉ざされている。地元でも近づかないよう言われているからな」


朱音は小さく息を吐き、手袋越しに雪を握る。

玲は視線を前方の館に向け、静かに歩を進める。

白に覆われた道は、二人だけの世界だった。


【時間】午前中

【場所】函館郊外・雪螢館前の坂道


タクシーのエンジンが静かに止まり、雪の上にタイヤ痕だけが残る。

林の向こうに、古びた洋館が黒々と立ちはだかる。雪に覆われた屋根、ひび割れた外壁、窓ガラスには霜が張り付いていた。


「……これが、雪螢館か」


朱音は窓越しに息を白くしながら呟く。

玲は手袋を握り直し、館を一瞥して静かに言った。


「……長い間、人の手が入っていない。情報通りだな」


タクシーのドアが軋み、雪の中で二人は足を下ろす。

冷たい風が館を囲む林を揺らし、木々の影が館の壁に長く伸びる。


朱音は小さく唇を噛み、コートの襟を立てる。

玲は懐から地図を取り出し、館の正面玄関を確かめた。


「ここから先は……注意して進むぞ」


雪に沈む足跡が、新たな物語の始まりを静かに告げていた。


だが、ルームミラーに映った朱音の姿を見ながら、運転手はそっとつぶやいた。


「……計画通り。次の舞台は整った」


【時間】午前中

【場所】雪螢館・正門前


黒鉄の門は重く、長年の錆で軋みながらもわずかに開いた。

玲は息をひそめ、門の隙間から館の全景を見渡す。雪で覆われた庭には、人の気配はない。


「……誰もいないな」


朱音が小さく頷き、手をコートの内側に隠す。

玲は門を押し開き、雪を踏みしめながら、館の正面へと歩を進める。


風が冷たく頬をかすめ、古い館の扉の上で鈍い木の軋む音が響いた。

朱音は小さな手でリュックの肩紐を握り、玲の後ろをついていく。


「……中に入るの?」


玲は振り返り、低く応えた。


「当然だ。状況を確認するためにな」


雪の下で足跡が刻まれ、二人は静かに館の正面扉に向かって歩みを進めた。


【時間】午前中

【場所】雪螢館・玄関ホール


暗がりの中、黒服の老執事が背筋を伸ばして立っていた。

その顔には表情がなく、瞳だけが静かに二人を捉えている。


「遠路よりようこそ。雪螢館へ――お待ちしておりました、玲様。そして……朱音様」


玲は軽く会釈を返す。

朱音は小さく肩をすくめながらも、老執事の動きに目を逸らさなかった。


「中へどうぞ」


老執事はゆっくりと館の奥へと歩き出し、二人を導く。

廊下には古い絨毯の匂いが漂い、蝋燭の炎が微かに揺れる。

雪螢館の空気は、外の冬の冷たさとはまた違った、ひんやりとした静寂を保っていた。


【時間】午前

【場所】雪螢館・中庭温室


玲は息を整え、扉の影からそっと温室内を覗き込む。朝の淡い光が、湿ったガラスを通して冷たい影を落としている。青白い光の中、湿った土の匂いと植物の匂いが混じり合い、緊張感を増幅させた。


「……どうした、アリサ」


声は低く、抑え気味に出す。アリサは肩を小さく震わせるだけで、答えられずにいる。手元にある水やりのジョウロを握りしめたまま、視線はガラス越しの外をぼんやりと追っていた。


玲は足を一歩踏み出し、温室内へ入る。湿った空気が胸を押し、軽く息が詰まる。床には水滴が点々と落ちており、靴底にかすかに冷たく伝わる。


「誰か、ここに……?」


アリサはやっと声を絞り出した。言葉は途切れ、震えている。玲はじっと彼女の表情を読み取り、落ち着かせるように一歩近づいた。


「大丈夫、今は俺がいる。落ち着け……まず深呼吸だ」


玲の声に、アリサはかすかにうなずく。手の震えを抑えながら、肩でゆっくりと息を吸い込み、吐き出す。


温室の奥、観葉植物の影の間に何かが残されている。倒れた植木鉢、散乱する土、そして床に落ちた細いガラス片――。玲は視線をこれに集中させ、慎重に足を進める。


「誰かが……ここを荒らしたのか?」


アリサは小さく首を振る。唇を噛み、震える声で言った。


「……違うの。……悲鳴、聞こえたでしょ? あれ、私……見たの……」


玲は小さくうなずき、手元のライトを床にかざす。ガラス片が鈍く光を反射し、温室の奥へと導くように線を描く。湿った空気の中、玲は呼吸を整え、音に注意を払いながら慎重に一歩ずつ進んだ。


「俺と一緒に確認しよう。何が起きたのか……ここで、全てを見る」


アリサは微かに息をつき、玲の後ろについて足を運ぶ。温室の奥、青白い光に照らされた床に散らばるものたち――それら全てが、この館で進行中の“何か”を静かに示していた。


【時間】午前

【場所】雪螢館・中庭温室


「……うそ……忠久さん……!」


朱音の声は震え、目には涙が滲む。玲は片手で彼女の肩に触れ、落ち着かせるように促す。


「冷静に、朱音。今は取り乱しても状況は変わらない。まず、周囲の安全を確認する」


朱音は小さくうなずき、震える手で顔を覆ったまま、深呼吸を試みる。玲は腰をかがめ、忠久の周囲を素早く視察する。倒れた位置、凶器の状態、散乱した物の位置……すべてが事件の手掛かりになる。


「凶器はまだ抜かれていない……触るな。誰かが後で手を加えるかもしれない」


朱音は小声で呟いた。


「……どうして……こんなことに……」


玲は視線を忠久の身体から離さず、温室内を見回す。ガラス戸の外には雪が薄く積もり、足跡は一切残っていない。だが、温室内の空気には、何者かの“存在感”がまだ濃く残っている。


「……誰か、近くにいる……?」


朱音の声に、玲は反射的に足音を探す。だが、応えるものは冷たい静寂だけだった。


玲はポケットから手袋を取り出し、慎重に凶器の位置を確認する。刃物は短く、血で赤く染まった柄がわずかに床に突き刺さっている。周囲には水滴の跡、倒れた植物、散乱した土が混じり、まるで何かの“痕跡”を示すかのようだった。


「朱音、ここから絶対に目を離すな。声を出さずに、俺の指示だけを聞け」


朱音は小さくうなずき、玲の後ろに控えた。二人の呼吸が揃う。冷たい朝の光に照らされ、温室内は凍りついた時間の中に、事件の余韻だけを残していた。


【時間】午前

【場所】雪螢館・中庭温室


温室の扉が半開きになり、青白い朝の光が鈍く差し込む中、倒れている一之瀬忠久の姿が見えた。


玲は手袋を嵌め、慎重に足を踏み入れる。倒れた男の周囲には薄く踏み固められた雪と、濃く点在する血だまりが広がっていた。


スペシャリストが静かに現れる。白衣の上からコートを羽織り、手には小型ライトと計測用のスケールを持つ。


「……致命傷は喉元。短刀で血管を一撃で損傷している。死亡推定時刻は夜明け直後だ」


朱音が恐る恐る近づき、声を震わせて訊ねる。


「……背後から、一人で?」


スペシャリストは頷く。


「刺し傷の角度と倒れ方から判断すると、犯人は冷静に計算して行動している。無駄な足跡はなく、倒れる場所まで誘導した形跡だ」


玲は床面の血痕をスケールとライトで照らしながら朱音に指示する。


「触るな。観察だけだ」


朱音はうなずき、床の血痕、倒れた植物、散乱する土や小さな足跡のパターンを見つめる。


スペシャリストが床面の血痕を指でなぞりながら解説する。


「動かされた形跡はない。抵抗や体勢の変化から、忠久は油断していた可能性が高い」


玲は短刀の角度と痕跡を再確認し、静かに呟く。


「冷静すぎる……計画的犯行だ」


スペシャリストは小型カメラで現場を撮影しながら分析を続ける。


「血痕、凶器の位置、足跡――すべて意図的に配置されている。夜明け前に行われた犯行だ」


朱音は凶器と血痕を見比べ、震える声でつぶやく。


「……どうして、こんな冷たい朝に……」


玲は肩を叩き、彼女の視線を受け止める。


「現場は語っている。僕らが聞き取るんだ、朱音」


温室内の冷気と静寂の中、スペシャリストの分析が、事件の輪郭を少しずつ浮かび上がらせていった。


【時間】午前

【場所】雪螢館・中庭温室


玲は黙って、倒れた一之瀬忠久の周囲を見渡す。視線は、植木鉢の縁に残された小さな足跡に止まった。雪や土の上に残る、まだ新しい痕跡だ。


「アリサさん、あなたがここに入ったとき、扉は……」


朱音が後ろで息を飲む。アリサ・西園寺は顔を強張らせ、静かに答えた。


「少しだけ開いていました。……でも鍵は――閉まってなかったはずです」


玲は足跡の方向を確かめながら、手袋越しに土を指で軽く触れ、形状と深さを確認する。


「人の背丈にして、この程度か……小柄だな」


スペシャリストが静かに筆記用具を取り出す。


「足跡は片足ずつ、確実に地面を捉えている。慌てた様子はない。現場に入った者は、慎重に動いたことが分かる」


玲は周囲の物陰も調べる。倒れた忠久の近くに、足跡の方向とは異なる、かすかな土の乱れがあった。


「……誰かがここに立ち、忠久を待っていた」


アリサは手元のコートの裾を握りしめ、震える声でつぶやく。


「……そんな……」


玲は足跡と乱れた土を見比べ、冷静に現場の状況を整理する。


「扉は少し開いていた。鍵はかかっていなかった。小さな足跡が残っている――犯行の立ち位置と動線が、ここでほぼ特定できる」


スペシャリストは現場写真を撮影しつつ、慎重に分析を続ける。


「この足跡から、犯人は忠久の位置を正確に把握していたことが分かる。偶然ではない」


玲はアリサに目を向け、静かに言った。


「君は目撃者だ。しかし、この痕跡は“計画された行動”を物語っている。誰が、何のために――その答えを見つけなければならない」


温室の冷たい空気に、緊張がさらに深く満ちていく。


【時間】午前

【場所】雪螢館・中庭温室


室内が凍るような沈黙に包まれる。冷気がガラス屋根を伝い、微かに水滴が落ちる音だけが響く中、玲はもう一度、倒れた一之瀬忠久の懐に手を差し入れた。指先が触れたのは、薄い紙片。


それは白紙に近いメモ帳の切れ端。だが、鉛筆でかすかに文字がなぞられていた。


《12 → × → 7?》


玲は眉間に皺を寄せ、視線を走らせる。脳内で瞬時に情報を整理し、パズルのピースを正確に組み合わせる。


「なるほど……これは単なる数字の羅列ではない。時間軸と人物の配置、鍵の位置を暗示している……」


隣で観察していたスペシャリストの男が息を飲む。長年の経験と分析力を誇る彼でさえ、玲の解析の速さに驚愕を隠せなかった。


「……この暗号、忠久が誰かに伝えたかった意図を示している。だが、誤解を招くようにわざと混ぜられた箇所もある。巧妙だ……」


玲は紙片を軽く握り、空気を切るように言葉を吐いた。


「犯行の順序と動線、そして次の標的――すべて、この記号が示している。計算通りなら、ここに立つ者だけが理解できる」


スペシャリストは目を見開き、静かにメモを指差した。


「IQ200でも解読には時間を要するものを……一瞬で。貴様、異常だ……」


玲は短くうなずき、冷静に周囲を見回した。


「だが、この暗号が残っているということは、犯人もまた、俺に“読まれる”ことを想定していたのだろう。これは罠か、それとも挑戦状か……」


温室内の凍った空気が、さらに重く、緊張感を増していく。


【時間】午前

【場所】雪螢館・応接間


応接間のカーテンは閉ざされ、分厚い布地の向こうで雪の光がぼんやりと揺れていた。暖炉の炎がぱちりと弾けるたび、朱音の影がラグの上にやわらかく揺れる。


玲は古びた帳簿の束を膝に乗せ、静かにページをめくった。帳面には手書きの収支記録、館の修繕費、納入業者の名、そして不自然な余白。


「……やはり、12ページ目だ。ここに残された数字と、メモの暗号がぴたりと一致する」


朱音が隣で小さく息を呑む。


「この余白……誰かが何かを書き込むために空けていたの?」


玲は指先でページをなぞりながら、低く呟く。


「忠久は、計画の一部をここに“残して”いた。犯行の流れ、金の動き、そして誰が関与しているか……すべて暗号化されている」


朱音の目が少し大きくなる。


「暗号……って、メモと帳簿を組み合わせるの?」


玲はうなずき、目を細めて分析を続ける。


「そうだ。これは偶然ではない。犯人は、俺に読まれることを想定して、あえて残している。計算された“挑戦状”だ」


応接間の静寂に、再び暖炉の火が小さく弾ける音が響く。二人の間に張り詰めた空気が漂ったまま、玲は次の一手を考えていた。


【時間】午前

【場所】雪螢館・中庭温室


──最初に聞き取りを行ったのはアリサ・柊木。彼女は遺体発見の第一発見者だった。


玲はノートを開き、ペンを手に取りながら静かに訊ねる。


「アリサさん、あなたが中庭温室に入ったとき、扉の状態はどうでしたか?」


アリサは手を胸に当て、少し俯きながら答える。


「少しだけ開いていました……でも、鍵は閉まっていなかったはずです」


「誰かが先に中に入っていた様子はありましたか?」


「……いや、誰もいませんでした。静かで……誰もいないはずだったんです」


玲は視線をアリサの手元に落とし、足元の足跡も注意深く確認しながら続ける。


「では、扉の開閉や足跡以外に、不審な音や光、何か異変は感じましたか?」


アリサは小さく息を吐き、目を細める。


「……中庭の奥から、微かに物音がしました。でも、誰の足音かはわからなくて……」


玲は静かに頷き、メモを取りながら言った。


「わかりました。あなたの証言は非常に重要です。落ち着いて思い出せる限り、順を追って教えてください」


アリサは深く息を吸い、震える声でゆっくりとその日の行動を説明し始めた。


【時間】午前

【場所】雪螢館・応接間


──次に話を聞いたのは柾木悠人。事故後の館の修復を担当していた。


玲は机の上に広げた帳簿を軽く押さえながら、静かに問いかける。


「柾木さん、一之瀬氏に関して、何か異変や秘密を知っていることはありますか?」


柾木は目を伏せ、手で髪をかき上げる。


「……正直に言うと、一之瀬は昔、館の地下金庫に何か隠していたようなんです。でも、詳しいことは僕も知らない。見せてもらったことはありません」


「金庫の場所や内容は、どの程度把握していますか?」


「場所は覚えています。地下の東側倉庫の奥、壁の裏……ただ、開けたことはないので、中身まではわかりません」


玲はペンを動かしながら、慎重に言った。


「なるほど。では、館の修復作業中に見つけた異常や、不自然な箇所はありましたか?」


柾木は少し考え込み、指先でテーブルの端を叩く。


「……壁の一部に微妙な歪みがありました。木目や石の目が他と違って見える部分があって、そこだけ後から修復した跡があったんです。もしかしたら、一之瀬が金庫を設置する際に手を加えたのかもしれません」


玲は頷き、静かにメモを取った。


「その情報は非常に重要です。後ほど、実際に現場を確認させてもらいます」


柾木は小さく息を吐き、力なく肩を落とした。


「……わかりました。案内できる範囲で、手伝います」


【時間】午前

【場所】雪螢館・応接間


──次に話を聞いたのは広瀬義昭、館の管理人。

遺体のそばで見せた一瞬の視線の逸れを玲は見逃さなかった。


「広瀬さん、一之瀬氏の行動について、普段から何か変わったことはありませんでしたか?」


広瀬は手を組み、冷静を装うように答える。


「……特別なことはありませんでした。ただ、彼は常に地下金庫のことを気にかけていました。誰にも触らせたくない、と口にしていたことはあります」


玲はゆっくりとメモを取りながら、問いを続ける。


「事故当日の様子について、何か不審な点はありましたか?」


広瀬は一瞬目を細め、床を見つめる。


「夜、巡回していた時に、地下倉庫の明かりがいつもと違う形で漏れていたのは気になりました……でも、深く確認するほどでもないと思い、そのままにしていました」


玲は静かに頷く。


「では、一之瀬氏の地下金庫の内容や、開閉の習慣について知っていることは?」


広瀬は軽く肩をすくめ、声を低くした。


「開閉のタイミングや頻度は、彼しか知りません。私も、施錠の鍵を渡されていなかったので、詳細はわかりません」


玲は最後に確認するように視線を合わせる。


「……館内で、他に異常や不自然な痕跡を見かけたことは?」


広瀬は少し考え、言葉を選ぶように口を開いた。


「古い床板の軋み方や壁の傷など、修復箇所はいくつかありました。しかし、普段の仕事ではそれを問題視することはありませんでした。……ただ、地下東側の倉庫は、以前より不自然に湿っている気はしていました」


玲は静かにメモを閉じ、短く頷いた。


「ありがとうございます。後ほど現場も確認させていただきます」


広瀬は深く息を吐き、わずかに肩を落とした。


「……わかりました。案内はお任せください」


【時間】午前

【場所】雪螢館・応接間


玲は椅子に腰を下ろすこともなく、視線を固定したまま、床に散らばる帳簿や書類の配置を頭の中で再構築する。


「……この手口、計算し尽くされている……」


自分の指先に残る微かな感覚に気づき、無意識に後頭部を押さえる。

頭の奥で、鈍く、いやな嫌悪感が広がった。


「痕跡は残さず、人間の良心を利用する……」


静かに、低く呟く。


「……ルートマスター」


声は部屋にほとんど届かず、紙のざわめきにかき消される。

それでも玲の意識は、その名を聞いた瞬間、事件の全体像に一瞬の光を灯す。


手を汚さずに計画だけを示す存在。

人を導く“手引き人”。

永遠のライバル。


【時間】午前

【場所】雪螢館・応接間


朱音はスケッチブックを開き、細い指先で鉛筆を走らせる。

描かれたのは、影に隠れた人物に封筒を手渡す手の一瞬。


玲はページに目を落とし、静かに言った。


「……君には、見えたんだな。あの瞬間が」


朱音は小さくうなずき、言葉はない。

描かれた線は、白い手袋、金の封蝋、微かに弧を描く口元。

そして、封筒を差し出す“意思”が確かに伝わってくる。


玲は息をつき、スケッチを手に取り、深く思案する。

その絵が、事件の“動き”を可視化した唯一の証拠であることを理解しながら。


【時間】午前

【場所】雪螢館・応接間


暖炉の火が薪を焼くたび、ぱちり……と乾いた音が跳ねた。

そのささやかな音ですら、張り詰めた館内においては“唯一の生活音”のようだった。


玲は応接間の机に、数通の封筒と書類を一列に並べていた。

当主・西園寺宗佑の遺言書。

使用人たちの業務報告。

財産目録の一部――だが、いずれも決定的な情報に触れる直前で途切れている。


重ね合わせると、奇妙な共通点が浮かび上がった。

同じタイミングでページが抜かれ、同じ形式で“空白”が作られている。

意図的でなければ、決して起こり得ない一致だ。


朱音が暖炉の前で膝を抱え、そっと問いかける。


「玲お兄ちゃん……これ、誰かが隠したの?」


玲は視線を封筒から離さず、淡々と言葉を返した。


「“隠した”というより……誘導している。

 読む者が、ある結論にたどり着くよう、道筋を作っているんだ」


「道筋……?」


「そう。まるで、迷路の中に“正しい答えらしきもの”を置いておくみたいに」


玲は指先で封筒の端を弾いた。

わずかな振動で紙が揺れる。その裏に潜む意図を見透かすように、目が細くなる。


「――ルートマスターの“癖”だよ。

 証拠を捏造しない。削られた情報と、残した断片だけで、

 他人が勝手に“答え”を作るよう仕向ける」


朱音は不安げに唇を噛む。


「じゃあ……この館の誰かが、お手伝いしてるってこと?」


玲は即答しなかった。

暖炉の火が、彼の沈黙を照らす。


「……まだ断定はできない。けれど――

 少なくとも、“誰か一人”は、すでに道を歩かされている」


その声は低く、静かに、しかし確信を帯びていた。


外では、雪がさらに深く積もり始めていた。

雪螢館という密室の中で、用意された“道”は静かに形を成しつつあった。


【時間】午前10時過ぎ

【場所】雪螢館・地下へ続く階段前


階段は石造りで、濡れたように冷たかった。

手すりの鉄はかすかに錆び、落ちた埃の上に――一列だけ、濃く刻まれた靴跡が続いている。


懐中電灯の光が、最奥の扉へ細い道を切り開いたとき、

朱音が玲の袖をそっと引き、小さく囁いた。


「……ねぇ、玲。

 あの足跡……上から来てるんじゃなくて……下から“戻ってる”よ」


玲は足跡の向きを確認し、わずかに眉を寄せた。


「……確かに。踏み込みの角度が逆だ。

 犯人は、何かを“置いて”戻ってきた可能性が高い」


朱音は懐中電灯を握り直し、緊張で喉を上下させながら扉を見つめる。


鉄の扉には、ふだんはないはずの“微かな隙間”があった。

まるで、誰かが慌てて閉めた痕跡のように。


「玲……ここ、なんか……嫌な感じがする」


玲は朱音を背にかばうように一歩前に出て、扉へと手を伸ばした。


「大丈夫だ。君は後ろに。

 ――行くぞ。地下に“答え”がある」


冷たい鉄が、ぎぃ……と沈むように音を立てて開きはじめた。


【時間】午後 11時58分

【場所】雪螢館・地下階段下の物置部屋


中は物置のような空間だった。古びた布、木製の棚、そして乾いた埃の匂い。

だが、一角にだけ、そこだけ風が抜けたような“線”が残っている。

長く閉ざされた空間にあるはずのない、微細な気流の跡。


玲は懐中電灯の光をその一点に向けた。


「……通った跡だ。人間が何度も」


「え……でも、ここ、鍵が……」

朱音の声は震えていた。


そんな彼女の視線の先に――それは落ちていた。


封筒。

黒い封蝋。

そして、金で縁取られた “R” の頭文字。


朱音が息を呑む。

玲は何も言わずにしゃがみ込み、慎重に封筒を持ち上げた。


封蝋はわずかに温度を帯びている。

つい数時間以内に触られたばかりの、柔らかさ。


「……やはり、“奴”がいる」


玲の低い声が、物置部屋の暗闇に静かに沈んだ。


破られた封を開き、中の紙片を取り出した瞬間、朱音の肩が跳ねる。


「……これ……名前……?」


紙片に記されたのは、ただ一つの名前。


《広瀬義昭》


朱音は声を失った。


「ひ……広瀬さん? どうして……」


玲は視線を紙片から離さず、ほんの僅かに目を細めた。


「違う。これは“受取人”の名じゃない」


「え……?」


「これは、犯人に渡される “指示書” だ。

 次に“処理すべき相手”として、この名を挙げている」


朱音の顔色が一気に青ざめる。


「じゃあ……広瀬さん、狙われてるってこと……?」


玲は答えなかった。

答えの代わりに、紙片の裏側をそっと照らす。


そこには、微かにこすれた線で――まるで地図のような“案内”が描かれていた。


地下金庫へ続く隠し階段。

そこに記された奇妙な印。

そして、最後に書かれた一文。


《手を汚すな。導け。》


朱音が震える声で囁く。


「……これが……ルートマスター……」


玲は封筒を閉じ、立ち上がった。

瞳の奥に、冷たい火が灯る。


「ここから先は、“奴”の道筋の上だ。

 朱音、絶対に俺から離れるな」


「……うん」


その刹那――

物置部屋の奥の暗闇で、床板がぎしり、と小さく沈んだ。


誰かが…まだ、この地下にいる。


玲は懐中電灯を持つ手を、ゆっくりと構え直した。


「……来るぞ」


【場所:雪螢館・西棟 書斎】

【時間:午後 7時42分】


西棟の書斎は、まるで時間そのものが止まったかのような重い空気をまとっていた。

古い机の表面は蝋燭の光を鈍く反射し、壁に掛けられた肖像画が二人を静かに見下ろしている。

そして、その中央に——広瀬義昭が立っていた。


肩をわずかに揺らし、だが逃げる素振りはない。

彼の手には、茶色の作業用手袋が握られていた。


玲はゆっくりと歩み寄り、机越しに彼を見据える。


「……広瀬さん。ここに来てもらった理由は、話さなくてもわかりますね」


広瀬は唇をかすかに震わせた。

だが、その瞳には恐怖ではなく、何かを覚悟した人間の静かな色が宿っている。


「玲さん……俺は……やってない。ただ、それだけは……信じてほしい」


朱音が後ろで息を呑み、玲の袖をそっと引いた。


「れ、玲……本当に広瀬さんが……“次”だったの?」


玲は頷く代わりに、ゆっくり封筒を机に置いた。

黒い封蝋がひび割れ、そこに刻まれた「R」の頭文字が蝋燭の明かりに浮かび上がる。


広瀬の顔色が変わった。


「……この封蝋……まさか……まだ、生きていたのか……」


「“ルートマスター”。」

玲は低く、静かに言った。


「あなたは彼を知っている。そして、あなたが直接手を下していないことも……最初から分かっていました」


広瀬は大きく息を吐いた。

机の端に手をつき、肩がわずかに震える。


「……あいつは……俺じゃなくて、忠久さんを……“最初の犠牲”に選んだのか」


玲は紙片を広瀬の前に滑らせた。


「この名前は、あなたを“犯人が処理すべき順番”として記したものです。犯人にとっての“次の標的”。

……あなたではなく、あなたの動きを封じるための印。恐らく、あなたはこの館の“地図”を知っている」


広瀬はぎゅっと目を閉じた。


「……隠し通路のこと、ですか」


朱音がはっと顔を上げた。


「隠し通路……!」


広瀬は静かに頷く。


「忠久さんが殺された温室……あそこには、本来一つ、出入口があるんです。だが……誰も使わない“裏口”がもう一つ存在する」


玲は机から離れ、全体図を広げた。


「——やはり、そうか」


朱音は不安げに玲を見る。


「玲……何がわかったの?」


玲は指先で館の地図をなぞりながら、低く呟いた。


「忠久さんを殺した犯人は……扉からは出ていない。

痕跡が薄かったのは、扉ではなく“壁の向こう”から移動したからだ」


その場に沈黙が落ちる。


広瀬が震える声で言った。


「……あんた、本当に……全部、見抜いてしまうんだな……」


玲は目を細め、壁の古い地図を見上げた。


「犯人は“ルートマスター”の指示を受けて動いた。

だが——まだ終わっていない。

この館には、もう一人“指示を受けている者”がいる」


蝋燭がぱち、と音を立てて揺れた瞬間、

朱音の表情が強張った。


「……玲。

じゃあ……まだ、ここに“犯人”がいるってこと?」


玲はゆっくりと頷いた。


「——いる。そして、今もどこかで“次の指示”を待っている」


書斎の窓の外で、風が雪を叩く音がした。

その音はまるで、誰かが館の外壁を静かに叩いているようだった。


【場所:雪螢館・応接室】

【時刻:午後・薄曇り】


暖炉の前にしゃがみ込んだ玲は、灰の中に埋もれていた紙片を火箸でそっと持ち上げた。

薄茶に焦げ、端が波打っている。だが、中央だけは奇跡的に読める部分が残っていた。


朱音が、息を止める。


「……玲さん、そこ……文字、ある……?」


玲は灯りにかざし、焦げ跡の隙間に浮かぶ文字を読み上げた。


「――“背後”」


その瞬間。

朱音のスケッチブックに描かれた“未完成の背中”が、まるで言葉に呼応するように鮮明な線を帯びた。


小さく震える声で、朱音が呟く。


「……違和感の正体、これだ。

 私が見た“背中”は……あのとき、誰かが後ろに立ってた。アリサさんの……」


「つまり、封筒を焼こうとした本人の“背後”に、もう一人いたということだ。」


玲は立ち上がり、紙片をテーブルにそっと置く。

暖炉の火がわずかに赤く揺れ、その影が壁に歪んで踊った。


「アリサさんは“封筒を処分する役”ではなかった。

 焼いたのは彼女じゃない。彼女は“見られて”いた。」


朱音が顔を上げる。


「じゃあ……封筒を焼こうとしたのは誰なの?」


玲は迷いなく答える。


「——“もう一人の受取人”だ。

 そして“ルートマスターの影”に最も近い人物。」


応接室の重い空気が、さらに沈んだ。

雪螢館の外では風が唸り、窓の隙間を震わせている。


朱音はスケッチブックを胸に抱え、きゅっと唇を結んだ。


「玲さん……これ、誰かがまだ動いてるってことでしょ?」


「そうだ。

 本当の指示書はまだ破棄されていない。

 誰かがこの館のどこかで――次の“背後”に立つ準備をしている。」


玲の視線が、静かに部屋を見渡した。


暖炉。閉ざされたカーテン。微かに揺れる壁のランプ。

そして、部屋の奥の、もう使われていない古いドア。


「朱音……“背後”という言葉は、場所を指しているかもしれない。」


朱音が目を見開く。


「場所……?」


「応接室の“背後”。

 この部屋にもう一つの出入り口があるはずだ。

 ルートマスターの指示は無駄がない。

 ここに隠し扉がある。」


玲はゆっくりと、その古いドアへ歩み寄った。


取っ手に触れた瞬間――

中から、かすかな金属音がした。


朱音が息を呑む。


「……玲さん、誰か……向こうにいる……!」


玲は風のように静かに構えた。


「開けるぞ。

 “背後にいる人物”を――ここで特定する。」


【場所:雪螢館 応接室】

【時間:夕刻・外は吹雪】


灰の山に埋もれていた紙片を玲が拾い上げた瞬間、

応接室の空気がまるで凍りついたように静まった。


紙片に残っていた単語は――


《除外》


その二文字を見つめたまま、柾木悠人は微動だにしなかった。

だが、その沈黙こそが“答え”だった。


朱音はスケッチブックを抱え、玲の隣に立つ。

緊張で喉を鳴らしながらも、ページをめくり……完成した一枚をそっと机に置いた。


それは、背中を向けた男の絵。

暖炉に紙を差し入れ、燃やしかけている姿。


そしてその手の袖口には――

白糸で縫い込まれた“松葉紋”の刺繍。


その模様は、柾木悠人が今着ているセーターの袖に、

まったく同じ形で施されていた。


「……見ていたのか、朱音ちゃん」


柾木は微かに笑った。

だがその笑みは、どこか自嘲しているようでもあった。


玲は一歩踏み出し、低く静かな声で言う。


「柾木さん。

あなたは遺産から外されたことを恨んでいた。

しかし本当の問題は――誰が“外させたか”だ」


柾木の肩が、わずかに震える。


「……言うまでもないだろう。俺じゃない。

 あいつだよ……“指示書の男”だ」


応接室の奥で薪が弾け、火の粉がわずかに舞う。

まるでその名前に反応するように。


玲は紙片を柾木の前に置き、続けた。


「あなたはルートマスターの“駒”にされた。

『燃やせ』という命令どおりに、遺言の一部を隠滅しようとした。

だが――あなた自身は殺しに関わっていない」


柾木の瞳が揺らぎ、朱音を見た。


「……君は、どうして気付けたんだい?」


朱音はスケッチブックを抱きしめ、震える声で答える。


「背中が……泣いてるみたいに見えたの。

 本当に悪い人の背中じゃ……なかった」


柾木は唇を噛み、膝に置いた拳を強く握った。


「俺は……利用されたんだな。

あいつに“除外すべき者”として名前を挙げられ……

そして今度は“処理すべき相手”として広瀬さんの名を押し付けられた」


玲はゆっくりと視線を落とす。


「――ルートマスターは、あなたの弱さを読んだ。

あなたの怒りも、悔しさも、全部計算に入れて。

この館の人間関係すべてを、“盤面”にしている」


風が窓を叩き、館の重い木枠が軋む。


その音に、朱音がわずかに肩をすくめた。


柾木は深く息を吐き、

ついに観念したように顔を上げた。


「玲さん……俺は、あんたに全部話すよ。

あの封筒の指示……一之瀬さんのこと……

そして、まだ誰にも言ってない“もう一つの封筒”の存在を」


玲は一瞬だけ目を細めた。


「――まだ指示が存在する?」


柾木は頷く。


その瞬間、館の奥から――

深く、長い軋み音が響いた。


まるで、誰かが“第三の指示”を実行しようとしているかのように。


【時間:午後 3時14分】

【場所:雪螢館・西棟 書斎】


広瀬の手に握られた紙片は、薄く黄ばみ、端がほつれていた。

だが、その中央には確かに残っている——太い筆跡による署名と、遺言の一節。


玲はそれを受け取る前に、部屋の奥の扉に視線を向けた。


「入ってくれ」


その声に応じて姿を見せたのは、雪螢館に急遽呼ばれたスペシャリスト——

司法文書鑑定の専門家、真壁まかべ遼一。

無駄のない動きで机に近づき、小さなケースを開く。


「遺言書類の鑑定は、時間との勝負なのでね。すぐに判別できます」


広瀬が苛立ったように肩を強張らせる。


「……そんなもの、今さら必要か?」


真壁は広瀬に一瞥もくれず、淡々と紙を光に透かした。


「紙質は十数年前のもので一致。インクも当時の館主が使用していた“カーボンインク”……ただし——」


玲が静かに訊く。


「ただし?」


真壁は顎をわずかに動かし、紙の左下を指した。


「ここだ。署名の“止め”が不自然に強い。通常、老齢の筆跡は弱くなるが……これは逆だ。

——別人が“老いを装って”書いた可能性が高い」


広瀬の顔がわずかに引きつる。


玲は紙を受け取り、読み上げた。


「――『全財産の一部をアリサ・柊木に譲る』」


朱音が息を呑む。


「アリサさんに……財産を?」


真壁は淡々と補足する。


「内容自体は疑わしいものではない。ただ、“本物の遺言”にこの条文は存在しなかった。

つまりこれは、“捏造された遺言の草稿”だ。

誰かが、彼女に遺産が入るように見せかけた……もしくは、逆に“動機を与えるために”仕込んだ」


玲はそこで、広瀬の目を真っ直ぐに見た。


「——この草稿、あなたの机の裏から見つかった」


広瀬の喉が、ごくりと鳴った。


真壁が鋭く続ける。


「あなたは、この偽の草稿を“焚べた”んでしょう。

しかし……暖炉の構造を理解していなかった。灰受けの裏に紙片が残ることを知らなかった」


朱音が震える声で言った。


「じゃあ……広瀬さんが、あの封筒の“指示”に従ったってこと……?」


広瀬は初めて口を開いた。掠れた声だった。


「……違う。俺は……ただ、命令を受けただけだ。

あの封蝋の手紙が届いた時点で……逆らえなかった」


玲は一歩、広瀬に近づき、低く言った。


「命令したのは、ルートマスターだな?」


広瀬は目を閉じた。


「……ええ。“次に消せ”と書かれていたのが……俺だったから」


朱音が震えた。


「……“名前の紙片”……」


玲は広瀬の手から草稿を抜き取り、真壁へ渡した。


「真壁さん、引き続き鑑定を頼む。

この紙片が誰の手で、どの段階で差し替えられたのか——必ず突き止めてくれ」


真壁は眼鏡を押し上げ、短く頷く。


「かしこまりました。……これは、かなり複雑な偽造です。

“素人”の手じゃありませんよ、玲さん」


玲は静かに答えた。


「わかってる。

——だからこそ、“ルートマスター”の匂いがする」


暖炉の灰が、かすかに舞った。

その音すら、雪螢館の静寂では不気味に響いた。


雪螢館・本館南棟廊下

午後 風雪弱まる


朱音の足が、止まった。


白いカーディガンの袖をぎゅっと握りしめながら、静まり返った廊下の奥を見つめる。

南棟へと続く長い廊下。その先にあるはずの「鏡の間」の扉が、ほんの指一本ほど――開いていた。


誰も、そこへ向かった気配はなかった。

けれど、耳の奥で、薄い紙を擦るような音がかすかに揺れる。


背筋を撫でるような冷気。

館の温度とは違う、“意図された気配”が、確かにそこだけ流れている。


「……いやだ、これ……」


囁いた自分の声が、吸い込まれるように消える。


足が勝手に後退る。けれど、廊下の向こう――わずかに開いた扉の隙間が、朱音を見つけたように沈黙していた。


そのとき。

背後から、小さく、落ち着いた声が落ちてきた。


「……何か見えたのか?」


振り返ると、そこには玲が立っていた。

ほんの一歩の距離まで気づかなかったのは、朱音の耳が“あの音”に奪われていたからだ。


「……扉が、勝手に……」


朱音が言いかけると、またあの音がした。


——ス…ッ。


まるで誰かが部屋の中で立ち上がり、鏡の表面を撫でたような……そんな、乾いた摩擦音。


玲は朱音の肩に手を置き、扉へ向かってまっすぐ視線を伸ばす。


「ここだけ“生きている”。

 ……行くしかないな」


朱音は、ごく小さく頷いた。

ふたりの影が、長い廊下の上に寄り添うように伸びる。


扉の向こうでは、まだ誰かが呼吸しているようだった。


【雪螢館 本館・応接室 午後 5時12分】


暖炉の赤い残り火が、机の上に置かれた焦げた封筒の破片を照らしていた。

そこに焼け残った一語——Observation(観察)。

朱音のスケッチの“背中”と照らし合わせても、違和感は濃くなるばかりだった。


玲はその紙片を指先で持ち上げ、わずかに目を細めた。


「……これは、警告だ。あるいは、観察の報告」


その声は、炎の音より静かだったが、部屋の温度をさらに数度下げたような冷たさを帯びていた。


朱音はスケッチブックを胸に抱え、息を飲む。


「う、うちの“影の人”……まだ、本当にどこかにいるの?」


「いるさ。少なくとも——これは“結果”じゃなく、途中経過を示す書き込みだ」


玲は焦げ跡の縁を人差し指でなぞる。

紙の焼け方が不自然だ。端が焦げただけで中央は無事。

つまり——誰かが途中で火から引き上げた。


「焼却の意図は、痕跡を完全に消すためではない。

“誰かひとりにだけ、読ませるため”の燃やし方だ」


「誰か……って」


「俺たち、だ」


朱音の目が揺れた。

廊下の暗さより、雪嵐より、もっと深い何かが迫ってくる。


玲は続ける。


「これは“ルートマスター”がよく使う手だ。

見せたい情報だけを残し、捨てたい情報だけを燃やす。

読み手の思考を誘導しながら、あえて逃げる時間を作る——」


その瞬間、廊下の奥の鏡が、かすかに鳴った。


チ……ン……


朱音が肩を震わせて振り返る。


「今の……鏡?」


「応接室からは誰の足音も聞こえなかった。だが、鏡は“人の気配”に敏感だ」


玲は立ち上がる。

紙片を内ポケットにしまい、朱音の肩に軽く手を置いた。


「朱音。絶対に俺の後ろから離れるな」


朱音はうなずき、小さく息を整えた。


二人は静まり返った南棟の廊下へ出る。

雪の匂いを含んだ冷たい空気が、すぐに足元を撫でていく。


鏡の間へ続く廊下は、長い影を落としていた。

その奥——かすかに開いた扉の隙間から、まるで“誰かの視線”だけがこちらを覗いているようだった。


玲は歩きながら、低く呟く。


「……観察は完了。次は“選別”か。“奴”らしい流れだな」


朱音の指が、スケッチブックの端をぎゅっと握りしめた。


その一歩先に、まだ名も顔も見えぬ“観察者”が潜んでいる——。


木の壁に触れた瞬間、微かな“空気の揺らぎ”が、玲の指先を撫でた。

表面の色や質感は周囲と変わらない。だが、その一点だけ、手応えがわずかに“軽い”。


【場所:雪螢館 本館南棟・鏡の間 時間:午後2時14分】


空気が、わずかに沈んだ。

壁に沿って置かれた大きな鏡は、灯りのない室内にほとんど溶け込むように暗い。


扉が、きぃ……と軋みながら少しだけ開かれる。

廊下から差し込む光が細長い帯となり、床に冷たく落ちた。


その光の筋の中で、何かが――微かに揺れた。


「……今、動いたな」


玲は囁くように言いながら、一歩、足を踏み入れた。

朱音は息を呑んで後につづく。靴裏が床板を踏むたび、乾いた音が響く。


部屋の中央、覆い布がかけられた古い姿見の鏡が一つ。

布が、風もないのにふるりと揺れた。


「風ではない。空気の流れにしては不自然すぎる」


玲は布に手を伸ばし、慎重にめくり上げる。

その瞬間、鏡面がかすかに波打ったように見えた。

あり得ない。鏡は動かない。しかし、見間違いではなかった。


朱音が震える声で囁く。


「……鏡の中、誰か……いました」


玲の視線が、鋭く鏡へと向けられる。


「“観察者”がいる。これは、外側からの干渉だ」


鏡の縁には、肉眼では見逃しそうなほど細い傷があった。

細い爪で引っかいたような痕。

そしてその一点が――壁のラインとわずかにズレている。


「ここだ……。部屋の継ぎ目。建築構造そのものが“書き換え”られている」


まさにその言葉の直後。


ヒールの音が、廊下の奥から静かに近づいてきた。

規則正しく、ためらいのない足取り。


扉の前で止まった影が、低く落ち着いた声で告げる。


「……解析対象を確認しました」


現れたのは、黒のタイトコートに身を包んだ女性。

銀縁の眼鏡が光を弾き、冷静な視線が鏡へと向けられる。


「K部門・構造解析支援班所属、“記録解体士”……瀬名 真澄です」


彼女は懐から細長い器具を取り出し、鏡の縁へそっと当てた。

カツン――と小さく金属音が響く。


「この空間、外部から構造情報を上書きされています。

しかも……高度。手口として考えられるのは一つ」


玲が静かに続ける。


「“ルートマスター”だな」


瀬名は軽く眼鏡を押し上げ、鏡の傷跡をなぞった。


「観察。誘導。行動予測。それらをこの部屋ひとつで可能にする……。

まるで、ここそのものが“観測装置”の一部のようです」


朱音の喉が小さく鳴る。

鏡面は、ただの鏡ではない。

“誰か”が見続けている――その証。


玲は鏡から一歩離れ、低く呟いた。


「……これは、警告だ。あるいは、観察の報告だ」


鏡の奥に誰かが息を潜めているような、張り詰めた沈黙。

その静寂の中で、朱音の手がふるりと震えた。


「玲さん……誰かが、この館の全部を見てるの……?」


玲は朱音の肩に手を置いた。


「大丈夫だ。だが、この鏡はもう“証拠”だ。

ここに痕跡を残した意図――必ず突き止める」


瀬名が短く息を吐く。


「解析を急ぎます。

ここは……すでに“舞台の中央”ですので」


鏡の間に、薄い緊張と冷気が満ちていった。


【2025年12月10日/雪螢館・北棟 隠し通路 午後8時42分】


ほとんど人の気配はなく、空気は長い間閉ざされていたかのように乾いていた。

足を踏み入れた瞬間、靴裏が細かな埃をわずかに巻き上げる。壁のランプは点灯していない。懐中電灯の光だけが、細い通路を切り裂くように伸びていた。


「……誰も通っていないな。少なくとも数年は」


ぼそりと呟く声が反響し、空洞めいた通路に吸い込まれる。

しかし、その静寂のいちばん奥に——異質な“ひとつだけ新しいもの”があった。


薄闇の中、床にぽつんと置かれた封筒。

封は切られず、差し出されることなく、ただ静かにそこへ残されていた。


「おかしい……。こんな場所に“最近”置かれた痕跡がある」


懐中電灯の光がゆっくりと近づく。

封筒の角についた、わずかな指の跡。紙の皺。

そして、傍らに落ちている小さな黒い繊維。


「布地……いや、これはコートの裏地か?」


埃にまみれた世界のなかで、それだけが現代の痕跡のように鮮明だった。


通路は古びていた。

だが、この封筒だけが——誰かが“最近ここへ置いた”ことを語っていた。


静寂の奥で、わずかに風のような気配が揺れた。


以下、名前の振りなし/時間と場所の明記/小説形式・左寄せ/線引きなし/詳細なセリフ入りで続きを書きます。



【時刻:午後10時42分 場所:雪螢館・西棟裏通路】


ほとんど人の気配はなく、空気は澱んでいた。

壁際には長く使われていないランタンが掛けられ、厚く積もった埃がそのまま時の停滞を物語っている。


通路の最奥——

そこだけ、埃が不自然に途切れていた。


置かれていたのは、一通の封筒。


光を受けてかすかに波打つその紙面には、震えるような筆跡でこう記されていた。


「差出人:館主代理・広瀬信行」


懐中電灯の光を当てた瞬間、近くにいた者が小さく息を呑んだ。


「……封が、途中で止まってる」


確かに、封は閉じられていない。

糊付けしようとして——やめたような、あるいは、妨害されたような形跡。


さらに封筒の裏側にうっすらと書かれた文字があった。


「——届けられなかった記録について」


指先でなぞると、紙が微かに震えた。

まるで、誰かが急いで書き残した最後の証言のように。


「ここで、止まったんだ。」

低い声が、静かな通路に沈む。


「広瀬は……何を届けようとして、何を恐れた?」


ふと、背後で風が揺れた。

扉も窓もない、完全に密閉された通路だというのに。


そのとき——床に落ちていた埃が、ひと筋だけ “横に流れた”。


まるで、誰かが通り抜けたかのように。


懐中電灯の光が揺れ、照らし出した封筒の影が、わずかに歪んだ。

紙の端が、ひとりでに震えていた。


「……まだ、終わっていない。

 ここには“提出されなかった遺言”と、

 “封じられた誰かの手”が残ってる。」


封筒の口が、微かに開く。


中には、一行だけ——黒いインクで記されていた。


「この館には“もうひとつの当主”がいる」


【場所:雪螢館・南棟奥 封鎖通路】

【時間:23時42分】


差し出されぬまま残された封筒を、懐中電灯の光が静かに照らしていた。

湿った石壁に反射した光が揺れ、誰もいないはずの通路で影だけが生き物のように歪む。


封を切った瞬間、空気がわずかに震えた。

紙の乾いた匂い。長く閉ざされていた部屋から運び出されたような冷たさが、指先に張りつく。


手紙の文面を読み上げる声は、わずかに掠れていた。


「……『君だけは、知らぬままでいてほしかった。

 君が真実にたどり着くその時、

 この手紙が“渡されていなかった”なら、

 それは私の計画が、失敗した証だ。——L.M.』」


読み終えた者は息を呑む。

そして最後の署名——L.M.。

静まり返った廊下に小さく言葉が落ちた。


「……ルートマスター、か。」


壁に反響した声は、誰かがすぐ背後で囁いたかのように錯覚させる。

しかし振り向いても、そこには誰もいない。


かすかに揺れる封筒の端。

空調も、風もないこの場所で動くはずのない紙が震える。


そして、時間を測ったかのように、ポツリと声が続いた。


「……“渡されていない”なら——

 つまり、この封筒は誰かが意図的に残したということだ。」


通路の奥へと伸びる影が、不自然にゆっくりと形を変える。

その先に潜んでいるものを示すように——

まるで、手紙の主がこの瞬間を予告していたかのように。


【深夜 雪螢館・地下通路】


石の階段を降りきった先、ひんやりとした空気が肌にまとわりついた。

懐中電灯の光が、湿った岩肌に鈍く反射する。

冷たい地下通路の奥に、玲は黙って立っていた。


「ここか……」


声は低く、しかし確信を帯びていた。

足元には、かすかに踏み荒らされた砂埃。

通路の壁には、何者かが触れたような指の跡。

そして——微かに揺れる空気の流れ。


朱音の小さな足音が近づく。


「……玲。誰か、ここを通ったの?」


「通っただけじゃない」

光を壁面に沿ってゆっくりと滑らせながら、玲は目を細める。

「“導かれた”痕跡だ。進む方向を、最初から決められている」


その言葉に、朱音が息を呑む。


「あのルートマスターが……?」


「そうだ。奴はいつも、道筋だけを用意する。誰かが気づかぬうちに、自然とそこへ辿り着くように——」


通路の奥へ伸びる細い道は、ただの空洞に見えた。

しかし、玲はその空間の“違和感”を見逃さない。


「風の流れが逆だ。……この先に、もうひとつ空間がある」


彼は壁を指で叩いた。こつ、こつ、と乾いた音。

だが、ある一点だけ——鈍い。


「ここを抜けられる」


朱音が怯えた声で囁く。


「でも、誰が……いつ……」


玲は懐中電灯を持ち直し、わずかに笑った。


「ここへ来たのは、俺たちが“来ると知っていた人物”だ。

 そして、その人物を動かしているのは——奴だ」


照らされた先には、薄く開いた割れ目。

そこから、ひらりと落ちている一枚の紙片。


白地に黒いインクで、ただひとつ。


《進め》


朱音は震える指先でそれを拾い上げた。


「……見てたんだ。ずっと……」


玲は深く息を吸う。


「——行くぞ。終点を、逆に辿る」


彼の声は、冷たい地下の空気を切り裂くように静かだった。

足音が、ゆっくりと闇の奥へ進んでいく。


【時間:午後4時12分/場所:雪螢館・地下封印庫】


封印庫の扉が完全に開いたとき、中から吐き出されたのは、長く閉ざされた空気だった。

澱んだ埃と、古い紙と木が発する乾いた匂い。それが冷気と混じり合い、地下全体に独特の重さを落とす。


玲は一歩足を踏み入れた。朱音と瀬名も後に続く。


「……封印というより、“隔離”ね」


瀬名の低い声が、まだ湿った床に響いた。

懐中電灯の光が棚の影を長く伸ばし、古文書が積まれた木箱を浮かび上がらせる。

朱音は少し身を縮め、玲の背中の近くに寄った。


「隔離……何を、ですか?」


朱音の問いに、玲は棚の一つへ近づきながら答えた。


「この空気の質だ。誰かが“触れてはいけないもの”として、ここに閉じ込めた痕跡がある。

 ただの秘密じゃない……“誰かが必ず辿り着く前提で置かれた情報”があるはずだ」


瀬名が指先で壁をなぞる。

白く粉のように崩れた石灰が落ち、その下から――奇妙に新しい溝が浮かび上がった。


「見て。ここの壁、補修があまりに新しい。十年前じゃない。

 もっと最近……一年以内の手だわ」


「ルートマスターが動いた痕跡、だな」


玲は短く言い切った。

封印庫の奥、他よりも大きい箱がひとつだけ置かれている。

そこだけ、埃が薄い。最近触られた痕跡。


朱音が小さく息を呑んだ。


「この箱……誰かが開けようとして……途中でやめたみたい」


瀬名が眉を寄せる。


「途中でやめたのではなく、“開ける必要がなくなった”んだと思う。

 目的のものは、もっと先にある」


玲は懐中電灯を持ち替え、箱の後ろにある壁を強く照らした。


そこには――黒い封蝋で封じられた、細長い封筒が一本だけ貼り付けられていた。


「……来たな。これは“ここまで辿り着いた者”への、次の扉だ」


朱音が震える声で尋ねる。


「また……ルートマスター、の?」


玲は頷いた。


「ここからが、本当の“始まり”だ」


『左翼回廊・旧倉庫跡 21時。証拠はそこにある』


 【時間:21時00分/場所:雪螢館・左翼回廊 旧倉庫跡】


石造りの廊下は、まるで建物そのものが息を潜めているかのように静まり返っていた。

壁に取り付けられた古いランプが、弱々しい橙色の光を揺らし、長く伸びた影が床を波のように揺らしている。


扉の前で立ち止まった玲は、わずかに眉を寄せた。


「……ここが“指定場所”。あの手紙の通りなら、証拠が残されているはずだ」


朱音は懐中電灯を握りしめ、そっと身を寄せる。

瀬名は無言で携帯端末を起動し、周囲の振動や気流を解析している。


古い木扉に手を添えると、湿気を含んだ冷たい感触が返ってきた。

押し開けると、内部の暗闇がゆっくりとこちらへ流れ出す。


ぎぃ……。


【時間:21時01分/場所:旧倉庫内部】


中は、長年使われていなかったのが一目で分かるほど荒れていた。

木箱、破れた布、錆びついた工具。

しかし、その中で――ひとつだけ“新しい”ものが存在した。


朱音の懐中電灯が、それを照らす。


「玲……見て」


古い床板の中央に、真四角に切り抜かれたスペース。

その中に、黒い箱が置かれていた。

まるで誰かが「どうぞ見つけてください」と言わんばかりの位置。


玲は息を潜め、ゆっくり近づいた。


「……トラップはなし。置かれたのは数日前……いや、もっと最近だ」


瀬名が鋭い声で続ける。


「配置と埃の沈み方から判断して……“誰かが今日ここに来た”。間違いないわ」


朱音の喉が小さく鳴った。


「じゃあ……今も、館のどこかに?」


玲は箱の蓋に指を当てた。


「――開けるぞ」


ゆっくりと持ち上がる。


中には、紙束。

その一番上に置かれたのは、一枚の写真。


朱音が息を呑む。

瀬名が目を細める。


写真には――

雪螢館の二階廊下を歩く、一人の影。


黒い手袋。

白糸の刺繍。

そして、その影の背後には……鏡の間の扉が半開きで写っていた。


玲は写真を指先でなぞり、低く呟く。


「……これは“証拠”じゃない。“誘導”だ」


朱音が不安げに問いかける。


「誘導……?」


「この角度。このタイミング。この場所。

 すべて、俺たちが“この写真を見る流れ”になるよう計算されている。

 ……ルートマスターのやり方だ」


瀬名が端末を閉じ、静かに一歩引いた。


「じゃあ、この写真に写っている人物は……“犯人そのもの”とは限らない」


玲はすぐに頷く。


「むしろ――“犯人ではない誰か”だ。ルートマスターが差し向けた、偽りの標的」


倉庫の空気が、さらに冷えたように感じられた。


朱音は震える声でつぶやく。


「……じゃあ、次に狙われるのは……誰?」


玲は写真の裏に書かれたわずかなインクの線を読み取り、目を細めた。


そこには、ひと言だけ記されていた。


『次の“証人”は、鏡の間に立つ』


玲は息を吐き、決意を込めて言った。


「――行くぞ。鏡の間だ。ルートマスターは、そこに“次の舞台”を用意している」


三人は、深い闇の旧倉庫を背にして歩き出した。


冷たい風が、まるで何かを告げるかのように、廊下を抜けていった。


【雪螢館 地下封印庫/21時過ぎ】


湿った空気がまだ漂う封印庫の中で、玲は棚の隙間に指を滑り込ませ、わずかにずれた痕跡を確かめていた。

その指の感触がひやりとした瞬間、背後の通路から足音が近づいてくる。


「……来たわ」


瀬名が低く呟き、手元のライトを胸元へ下げる。

通路の奥、揺れる光に照らされて現れたのは——広瀬だった。


「こんな時間に、地下へ降りるとは珍しいな」


玲が言うと、広瀬は一瞬だけ眉を動かした。

その動きはわずかだが、朱音は敏感にその“揺れ”を見逃さなかった。


広瀬は懐を押さえながら近づき、乾いた声を発した。


「……あなた方が何を探っているかは聞かない。ただ——この場所は、当主が最後に“触れた”部屋です。乱暴に扱わぬよう願います」


「乱暴に扱った覚えはない。だが、あなたが何かを“扱った”痕跡は残っていた」


玲の声は冷たく、静かだった。


広瀬の表情に、微かに影が走る。

朱音はその瞬間、胸のスケッチブックをぎゅっと抱きしめた。


「……棚の裏に、封筒を挟んだのはあなたですね?」


朱音の小さな声が、封印庫に吸い込まれるように響いた。


広瀬は息を止め、視線が揺れ、そして——沈黙した。


玲が一歩踏み出す。


「あなたの仕業ではない。……“あなたの意志”では、ない」


瀬名が静かに補足する。


「ここは構造上、外部から導線を作りやすい。心理的にも、あなたは“指示”を受けやすい立場だった」


広瀬の手が震えた。

その震えは、罪悪感ではなく——恐怖の色が濃かった。


「私は……私は、ただ、封筒を受け取って……“棚の裏に戻せ”と……書いてあった……!」


「その指示書は?」


玲が問うと、広瀬は懐を探り、怯えた目を向ける。


「……燃やしました。従えと書かれていたから、怖くて……」


玲は息を吐く。


「焼き損ねた封筒も、地下の封印も……すべて“誘導”だ。犯人は痕跡を消すのではなく、我々が“辿る道筋”をあえて置いている」


瀬名が頷く。


「構造と心理。これは“ルートマスター”の常套手段よ。彼に操られた人は、自分の意思だと錯覚しながら、導線の一部になる」


朱音が小さく囁く。


「……犯人も……操られてるの?」


玲はゆっくりと朱音を見る。


「——操られた者の中に、必ず“選ばれた一人”がいる。

ルートマスターが〈黒封〉を渡す相手だ」


広瀬の顔が青ざめる。


「黒封……? わ、私は……白封しか、受け取って……」


玲は静かに目を閉じた。


「ならば黒封を受け取った“本当の犯人”は——他にいる」


その瞬間、封印庫の奥で、何か硬いものが落ちる音がした。


玲の目が細く光る。


「……まだ、誰かいるな」


冷たい地下の空気が、一斉に張りつめた。


【時間:21:04/場所:雪螢館・地下封印庫 最奥】


薄暗い封印庫の奥で、朱音が小さく息を呑んだ。

懐中電灯の光が、静かに、しかし確実に“そこにいる影”を照らし出す。


古い木箱が積まれた死角。その隙間に――人影がひそんでいた。


玲が一歩前に出る。


「……そこにいるのは、わかっている。出てきてくれ」


影がわずかに揺れ、ゆっくりと前へ出た。

現れたのは、灰色の作業着に身を包んだ男。肩を震わせ、額には汗。


それは、館の補修担当・柾木悠人だった。


「ま、待ってくれ……俺は……俺はただ……“そうするべきだ”と思っただけなんだ……!」


玲は目を細めた。

その後ろで、瀬名真澄が静かに眼鏡の位置を整える。


「……やはり、あなたでしたか」


「ち、違うんだ! 俺は、命令なんて受けてない……!

けど……“やらなきゃいけない気がした”。

ここに手紙を置けって……いや、誰かに言われたわけじゃない……けど……!」


声が震え、言葉が次第に崩れていく。


瀬名が玲に向き直り、低く言った。


「彼は“誘導”されているわ。

心理強制ではない……もっと厄介な、“判断の上書き”よ。」


玲の眉がぴくりと動く。


「……ルートマスター式か」


瀬名は頷いた。


「彼は命令を受けたと思っていない。

自分で考えて、自分で決めた――そう錯覚している。

ただしその“結論そのもの”が、最初から別の誰かに組み込まれていたの」


朱音が胸元を握りしめる。


「……かわいそう」


瀬名は静かに続けた。


「罪や恐怖、保身……そういう“人として当たり前の感情”を刺激して、

『最も合理的な行動』を本人が勝手に選んだと思わせる。

これが、ルートマスターの手法――

《パーソナル・ルート誘導》」


柾木が顔を覆って崩れ落ちた。


「俺は……俺はただ……“やらなきゃ死ぬ”って……いや違う、

“やらなきゃ誰かが困る”って……くそ……何なんだよ……!」


玲は静かに近づき、膝を折った。


「安心しろ。お前は“操られた被害者”だ。

だが、ひとつだけ教えてほしい――」


灯りの中、玲の瞳は鋭く輝いた。


「その“封筒を置け”という結論に至った時、

何か“きっかけ”はあったか?」


柾木は震える声で答えた。


「……あの時……西棟の廊下で……

黒い手袋をした誰かが……封筒を落としていった気がした。

でも……顔が……思い出せない……」


瀬名が小さくつぶやく。


「記憶薄靄〈メモリーヘイズ〉……

視界情報だけ“回収”されてる。

犯人は――やっぱり館の中にいる」


玲は息を吸い込み、封印庫の薄闇を見渡した。


この空間そのものが、

ルートマスターの“舞台”なのだ。


【場所:雪螢館・地下封印庫】

【時刻:21時42分】


重い空気が、狭い封印庫の奥で淀んでいた。

朱音の懐中電灯の光が、古い棚や木箱、使われなくなったワインラックの影を長く引き延ばす。


その薄闇の中央——。


玲が、沈黙のまま歩みを止めた。


足元に置かれているのは、一枚の封筒。

わざと目立つ場所に置かれた“導線の終着点”のように。


封蝋は黒。

刻印は「L.M.」。


その下、封筒の端に紙片が挟まれていた。


玲は手袋越しにそれを拾い、懐中電灯の光にかざす。


そこには、たった一行。


『次の処理対象:瀬名 真澄』


光が一瞬揺れ、朱音が息を呑む。


「……瀬名さん……?」


背後で、瀬名の眼鏡がかすかに光った。

だが彼女の声は揺らがない。


「来たわね……。“次はあなた”と。

まるで、私がここに来ることを計算済みのように」


玲は静かに紙片を折り畳んだ。


「計算済みだ。

ルートマスターは“人が選びそうな行動”と“合理的な導線”を組み合わせて、

まるで道しるべのように証拠へ辿らせる」


朱音は震える声で問う。


「どうして瀬名さんが……標的なの?」


瀬名の口元が、かすかに引き締まった。


「構造解析は、“隠された真実”に最初に気づく仕事。

封印庫の構造に手を加えた人物にとって、私は邪魔……そう判断したのでしょう」


玲は封筒の裏面を見つめた。

そこには細い筆記体が刻まれている。


『——破るな。開くな。ただ、辿れ。』


朱音「これ……何?」


玲「“誘導式指示書”だ。

開封して読ませる必要すらない。

ここへ来る前から、既に俺たちは“読まされていた”。」


朱音の目が揺れる。


——そのとき。


封印庫の奥、使われなくなったワイン棚の影で“かすかな人影”が動いた。


懐中電灯が反射し、黒い影がゆらりと揺れる。


玲が素早く一歩前に出る。


「そこにいるのは誰だ——出てこい」


ゆっくりと影が姿を現す。


薄いカーキ色の作業着。

額に煤。

肩にはワイン棚の木粉がついている。


“封印庫保守記録担当・杉村遼”


瀬名が低く言った。


「……あなた。

倉庫の補修時、私が指摘した“壁の疑わしい継ぎ目”……黙っていたわね」


杉村は青ざめた顔でぼそりと呟いた。


「ち、違うんです……俺はただ……“指示された”だけで……

自分で選んだわけじゃ……」


玲がゆっくりと近づく。


「選んでいる。

“従えば守られる”と思った時点で、君はもうルートマスターの道に乗っていた」


杉村の手が震える。

その掌の中には、もう一枚の“未使用の黒封筒”が握られていた。


その宛名——


『差出人:瀬名 真澄』


朱音が叫んだ。


「——瀬名さんを、犯人に仕立てるつもりだったの!?」


玲は杉村の手からそっと封筒を抜き取り、低くつぶやく。


「……ルートマスターの次の狙いは、“罪のすり替え”。

次の被害者名と、冤罪の種を同時に置く……。

これが奴の常套手段だ」


瀬名の瞳が、冷たく細められる。


「誘導、操作、心理の死角利用……

“記録解体士”として言わせてもらうわ。

こんな精度の指示系統、放置できない」


玲はゆっくり振り返り、封印庫の闇を見据えた。


「これで確定した。

ルートマスターは“館の内部”に協力者を置き、

さらに“外部”から監視している」


朱音が震える声で尋ねた。


「玲……どうするの……?」


玲の瞳が鋭く光る。


「——罠を張る。

ルートマスターに、“次の手”を選ばせるための罠だ」


地下封印庫の冷気が揺れ、

息をのむ沈黙が落ちた——。


【時間:夜/場所:雪螢館・西棟廊下】


 雪螢館の西棟――今は使われていないこの一帯は、かつて執事や家令が暮らした場所だ。廊下には薄く埃が積もり、空気は黴の匂いを孕んでいる。

 朱音はマフラーの端で鼻を覆いながら、玲の背にぴたりとついていた。


「……ここ、誰も使ってないんだよね?」

 小声で囁く朱音の声は、寒さよりも緊張で震えていた。


「ああ。しかし——足跡は“ついている”。最近のものだ」


 玲が懐中電灯を床に向ける。

 埃の上に、ひとつだけ“新しい靴跡”が残っていた。つま先が奥の部屋へ向いている。


「一人だけ?」

「そう見えるな。迷いがない……まっすぐ奥へ向かった足取りだ」


 朱音は息を呑む。

 そのとき、薄暗い廊下の壁にかかる古い写真額が、かすかに揺れた気がした。


「……今、動かなかった?」

「風ではない。ここは密閉されている」


 玲が写真額の裏に手を伸ばす。

 カチリ、と金属の鳴る音。

 額縁ごと壁がわずかに押し込まれ、隠し通路の取っ手が姿を現した。


「隠し部屋……やっぱりあるんだ」

「いや、これは“隠されていたのではない”。——“暴かれることを前提に”設置されている」


 朱音は背筋が冷たくなるのを感じた。


 玲がゆっくり取っ手を引く。

 ぎ……ぎぃ……

 古い蝶番が悲鳴を上げ、奥の暗闇が広がった。


「朱音、後ろに」


 玲が半歩前へ出る。

 通路は短い。だが、中に何か“ある”。

 懐中電灯の光が、その物体を照らした瞬間——朱音の口から小さな息が漏れた。


「……これ……」


 床にぽつんと置かれていたのは、古い木箱。

 蓋は開いており、その中に封筒が一通。


 封蝋は、深い黒。

 端に刻まれた紋章は——あの“R”。


「また……ルートマスターの……」


 朱音の声は震えていた。

 玲は無言で封筒を拾い、指で封蝋を割る。


 中には一枚の紙片。

 白い紙に、殴り書きのような筆跡で——


『次の処理対象:アリサ』


 朱音の顔が、驚愕に染まる。


「アリサさんが……狙われてる……?」

「いや、これは——“もう遅い”と書いている」


 紙片の下部には、小さな追記があった。


『——彼女は動いた。

 君たちが見つける前に。』


 朱音は震える手で口元を押さえた。

 玲の目が鋭く細くなる。


「……西棟に残された足跡。

 あれは“犯人”ではない。——“彼女”だ」


 朱音ははっと息を呑んだ。


「アリサさん……ここに来たってこと……?」

「そして——封筒を見た可能性がある」


 玲はゆっくりと立ち上がり、隠し通路の奥をもう一度照らした。


「アリサは逃げているのではない。

 ……“何かを隠すために動いている”。

 その理由は、この封筒の内容と——“彼女自身の罪”に関わっている」


 朱音は震える声で問う。


「玲……アリサさん、どうなっちゃうの……?」

「どちらにせよ、急がなければならない。

 彼女はルートマスターに“導かれた”。

 ——この館のどこかで、“次の罠”に向かっている」


 玲の靴音が、冷たい廊下に響いた。


「朱音、行くぞ。

 ——アリサを、救うために」


【雪螢館・西棟廊下 20時42分】

薄暗い廊下に、玲の懐中電灯が一本の細い光を落とした。

朱音はその後ろで、小さく震える吐息を押し殺している。


落ちた紙片を読み終えた玲は、指先で静かに折り目をなぞった。


「……“広瀬悠人宛て”。そして“柾木経由で渡せ”か。

 これは、柾木に罪を背負わせるための誘導だ」


床に膝をついている柾木が、弱々しい声で言葉を絞り出す。


「俺は……ただ、渡せと言われただけなんだ。

 封筒の主なんて……本気で知らなくて……」


玲は目を細め、彼に近づく。


「封筒を渡せと言った“相手”の顔は?」


「……わからない。暗くて……見えなかった。

 でも……声は、すごく落ち着いてて……

 “ここを通れば、すぐに広瀬と会える”って……」


朱音が、そっと柾木の袖を握った。


「その時……変だと思わなかったの?」


「思ったさ……! でも、俺……

 “広瀬さんにちゃんと謝りたい”って……ずっと……」

声がかすかに震えた。

「遺産の件で外されたのも、俺が悪いんだと思って……

 だから会いたかったんだ……正面から……」


玲は一瞬だけ柾木の顔を見つめ、視線を封筒へ戻す。


「……柾木。お前の“後悔”につけ込んだんだ。

 ルートマスターの常套手段だよ」


朱音が顔をあげた。


「……お兄ちゃんみたいに、“選ばせる”んだよね。

 自分が悪いと思った人から順番に……」


玲は苦く微笑し、立ち上がった。


「この文面……“安全な場所で話し合いを”

 ——この言葉ほど危険なものはない」


紙片の端を指で抑えながら、玲は廊下の奥を見据えた。


「旧倉庫跡。21時。

 ルートマスターは“そこで何かさせるつもり”だった。

 広瀬を、か……あるいは——柾木か」


朱音の肩がびくりと震えた。


「……じゃあ……この部屋に私たちが来たのも……」


「誘導された結果だろうな」

玲は懐中電灯を握り直し、硬い声で言った。

「だが、まだ遅れてはいない。

 本当の狙いは、この封筒が“誰の手に渡るか”だ。」


柾木が怯えた目で玲を見上げる。


「じゃ……広瀬さんは、まだ……?」


玲はわずかに頷いた。


「行くぞ。広瀬が“誘導される前”に追いつく」


廊下の奥へ向かう光が、ゆっくりと、しかし確実に進み始めた。


【場所:雪螢館・本館 応接間】

【時間:午後 6 時 42 分】


応接間には、重く沈んだ空気が漂っていた。

シャンデリアの光は暖かいはずなのに、室内の温度は低く、吐く息がほのかに白い。

窓際のカーテンが揺れるたび、外の吹雪の気配がかすかに染み込んでくる。


暖炉の前──玲は、テーブルに置かれた手紙を静かに見つめた。

封蝋の焦げ跡。半分だけ残った差出人名。

そして、そのすべてに共通する“意図的な誘導”。


朱音は、玲の隣でスケッチブックを胸に抱え、声を押し出した。


「……やっぱり、誰かを動かしてる。

 おじいさんを動かしたのと、同じ……“何か”が」


玲は視線を上げる。

その瞳の色は、まるで冷えた硝子に薄い光を通したように澄み切っていた。


「これは、ただの手紙じゃない。

 “状況の再構築”そのものだ」


テーブルの上に並べられた三通の封筒。

どれも微妙に違う字体、違う癖、違う口調。

だが——全てが、一つの方向を向いていた。


「受け取った者は、“自分だけが真相に近づいている”と思い込む。

 疑いを分散し、行動を誘導し、そして……互いを監視させる」


朱音の目が大きく見開かれた。


「つまり……全部、作られた“真相”?」


「そうだ。

 本物の真実から遠ざけ、偽の真実へ誘導する……“道筋の支配”。」


玲は小さく息を吐き、低く呟いた。


「ルートマスターの常套手段だ。」


応接間の扉が、かすかにきしんだ。

隙間風のような音が、空気の緊張をさらに張りつめさせる。


朱音が振り返り、囁いた。


「……誰か、来る」


玲は立ち上がり、ゆっくりと扉の方へ歩く。

その仕草ひとつで、応接間の空気が更に凍りついた。


「ようやく、“次の一手”が来たな。」


吹雪の向こうの鈍い影が、ゆっくりと扉の向こうに現れようとしていた——。


【時間:午後10時14分/場所:雪螢館・応接間】


暖炉の火は、もうすっかり消えていた。

けれど、壁に残る煤の筋が、ついさっきまでそこに何かが激しく燃えていたことを静かに物語っていた。

応接室の空気は乾ききっていて、焦げた紙の匂いがまだわずかに漂っていた。鼻腔の奥にひりつくように残る。


「……誰かが“証拠”を焼いた。しかも、時間をかけて徹底的に」


低く呟いた声が、静まり返った室内に落ちた。

玲は暖炉の縁に片手を置き、煤の残り方を指でなぞる。


「火の強さが一定だ。薪じゃない……紙を束で燃やしてる」


足元で朱音が、スケッチブックを胸に抱えたまま、わずかに震える声で言った。


「じゃあ……誰かが、この部屋で?」


「間違いない。ここで、“なかったことにされた情報”がある」


玲は暖炉の底に残された灰の奥へ静かに手を伸ばした。

金属製のトングで灰をかき分けると――焦げ残った封筒の端が、まだかろうじて形を保っていた。


「……また封筒だ」


灰の中から拾い上げたそれは、ほとんど炭と化していたが、かろうじて文字が読める部分が残っていた。


淡い焼け跡の中に、ひとつだけ浮かぶ単語。


         『——予定』


朱音が息を呑む。


「予定……って、なにかの計画?」


玲は目を細めた。


「いや。これは“スケジュール”じゃない。“予定された被害者”だ」


応接間の空気がきしむように張り詰めた。


「つまり……次がいるってこと?」


「焼いた理由はそこにある。

 ルートマスターは、自分の『予定』を隠す必要があった」


玲は焦げた封筒を見下ろし、わずかに冷笑を浮かべる。


「――だが、遅かったな。痕跡は残っている。必ず辿り着く」


部屋の奥、消えた暖炉の前に立つ三人の影だけが、薄い明かりの中で揺れていた。


【場所:雪螢館・応接室】

【時間:——午前0時45分】


暖炉の火は、もうすっかり消えていた。

けれど、壁に残る煤の筋が、ついさっきまでそこに何かが激しく燃えていたことを静かに物語っていた。


応接室の空気は乾ききっており、焦げた紙の匂いがまだわずかに漂う。

そのひりつく臭気の中、玲は黒く焦げた紙片を静かにテーブルへと置いた。


紙の端は丸まっており、その中央だけ、かろうじて文字が読めた。


「……これが、焼き残された“本物”か」


朱音が、息を呑む音を立てずに唇を押さえる。

薄い白い息がこぼれ、緊張で肩がわずかに震えていた。


焦げ跡の合間に浮かぶのは、たった二行の指示書。


──「次は、12月26日 午前2時、旧倉庫跡地にて。」

──「“記録”を確保し、処分せよ。対象は”彼女”ではない」


懐中電灯を手にした瀬名が、紙片をかざしながら低くつぶやく。


「……“彼女ではない”という言い回し。これは、事件の標的が二重に設定されている証拠。

 偽装の標的と、本当の標的……そして、記録そのものの抹消。

 どれも、単発の犯人ではなく……計画者の手口です」


玲は静かに頷いた。


「ここに燃えていたのは……“広瀬が処分しようとした”指示書じゃない。

 “広瀬に読まれたくなかった”ルートマスター自身の指示の一部だ」


朱音が震える声で問いかけた。


「……じゃあ……“彼女”って……誰のこと?」


玲は朱音の頭にそっと手を置く。優しく、しかし確かな力で。


「まだ断定はしない。だが……

 ——本当の標的は、人じゃない。『記録』だ。

 人間は、その次だ」


応接室の空気が、さらに冷たく沈み込む。


瀬名が焦げ跡の分析を終えると、眼鏡越しに密やかに言った。


「ルートマスターは……“倉庫跡の暗がりで、誰かを動かすつもり”。旧倉庫跡——封印庫と繋がる、あの場所です」


玲はゆっくりと立ち上がった。

沈黙の中、その声だけが静かに、鋭く響く。


「行こう。本物の“対象”を救い、記録を守るために……そして、——ルートマスターの計画を、ここで切る」


【時間:午後10時42分】

【場所:雪螢館・北棟 書庫】


扉を開けた途端、古い紙と埃の匂いが濃く押し寄せた。

朱音が小さくむせる。

床には、崩れ落ちた書棚が斜めに倒れ、木板が割れ、紙束が散乱していた。


その下――かすかに動く影。


玲は一歩踏み出し、低く声を落とした。


「……朱音、後ろに」


懐中電灯の光を向けると、書棚の重みに押し込まれた青年の姿がぼんやりと照らされた。

志村理人。相続資料整理の補佐をしていた男だ。

メガネは外れ、額には薄く血が滲んでいる。


「う……っ……」


弱々しく呻く声。まだ意識はある。


朱音が小さく叫んだ。


「り、理人さんっ……!」


「焦るな。落ち着いて――まずは呼吸の確認だ」


玲は冷静に膝をつき、書棚の角度を見極める。

支点になっている木片をそっと押し込むと、棚がわずかに浮いた。


「持ち上がる。朱音、光をこちらへ」


「うん……!」


光が定まり、理人の胸元が見えた。そこには――紙片が一枚、強く握りしめられていた。


玲がそっと指を添え、理人の手からそれを抜き取る。


紙はくしゃりと皺だらけだが、中央に残る太い筆跡だけは読めた。


『——“上書きの阻止者”を排除せよ。』


朱音が息を呑む。


「……これ……ルートマスターの……」


玲は短く頷いた。


「志村は“排除対象”だった。だが……棚が倒れたのは偶然ではない。意図的に仕掛けられた罠だ」


その言葉に合わせるように、背後の古い梁がぎし、と鳴った。

朱音が肩をすくめる。


「ねえ……玲……誰が理人さんを……?」


玲は紙片を折り畳みながら、散乱する書類の中にひとつだけ“異質な白”を見つけた。

それは、誰かが落としていった封筒――封蝋は赤。

手書きの文字は、震えるように滲んでいた。


【宛先:志村理人

   (旧倉庫にて、記録確認を)】


玲は目を細め、静かに呟いた。


「……志村をここに“誘導”したのは、別の人物だ。

   そして、棚を倒したのは――“第三の手”。」


朱音が震えた声で問う。


「第三……?」


「犯人ではない。ルートマスターでもない。

 だが……“指示書を受け取った人物”が、この館にはまだいる」


書庫の奥、薄闇の向こうから、ひたり、と床を踏む音がした。

朱音が玲の腕を掴む。


玲は振り返らず、その音に向けて言った。


「……出てこい。“君”だろう?」


暗闇の奥から、ゆっくり一人分の影が姿を現した。


《ルートマスター指示書 抜粋》


【時間:23時42分】

【場所:北棟・書庫】


木屑がまだ宙を舞っていた。倒れた書棚の影が、懐中電灯の光に揺れる。


玲は床に散らばった紙束の中から、一枚だけ質感の違う紙片を拾い上げた。

それは他の帳簿用紙よりも薄く、滑らかで、明らかに“最近ここに置かれた”ものだった。


小さな声で読み上げる。


「……『書庫にて“第二遺産目録”を発見次第、項番B‐7を抜き取り、所定の封筒に入れて保管。

 本件に関し、他者に報告するな。報告時は“未確認”と応答せよ。

 午前0時をもって、“次の者”へ引き継ぎを開始すること。対象は既に到着済み。合図あり。』」


朱音が息をのんだ。


「……これ、誰に向けた指示……?」


玲は紙片の裏側に指を滑らせる。

そこには、ほんのわずかに鉛筆の跡が残っていた。消しゴムで消した痕。だが、読み取れる。


――“R.M.”


「また……ルートマスターだね」朱音が震える声で言う。


玲は頷かず、ただ静かに紙面を見つめたまま言った。


「いや、これは“渡された者”がここに来る前に……無理やり“書かされた”か、“選ばされた”んだ。

 この書庫に運ばれ、志村君の作業とタイミングを合わせて“事故に見せかける”形で仕組まれた」


倒れた志村が、微かに声を漏らした。


「……お、俺……落とした……んじゃ……ない……

 “動かすな”って……言われて……でも……崩れて……」


朱音が驚いて振り向く。


「志村さん!しっかり……!」


玲は手で制し、短く言う。


「朱音、救急を。……この書棚の角度から見て、志村君は“棚を動かした側”じゃない。

 誰かが“外側から押し倒している”。」


沈黙。


そして玲は、指示書の最後の一文――“次の者へ引き継ぎを開始する”を指で叩きながら、低く呟いた。


「……“次の者”は、まだ書庫の中にいる可能性が高い。」


朱音の顔色が変わった。


「……ここに?」


玲は懐中電灯の光を、崩れた棚の奥――壁際の暗がりへ向ける。


その影の中で、何かが、かすかに動いた。


【時間:午前0時15分/場所:北棟・書庫】


朱音が崩れた本の山を見つめながら、不安げに声を落とした。


「……じゃあ、志村さんは、その“誰か”に渡すために……?」


玲は散らばった紙束を拾い上げながら、静かに首を振った。


「違う。志村自身は“渡す役目”を与えられていただけだ。

だが――」


指先が一枚の紙片に触れた。書庫の床に半分だけ突き刺さるように落ちていた封筒。

白地に銀の縁取り。封はされていない。


玲はその中身を取り出し、淡々と読み上げる。


「“第二遺産目録・項番B-7 抜き取り後、未確認として処理せよ。

引き継ぎ相手は午前0時に到着する。”」


朱音がぎゅっと袖を掴む。


「じゃあ……志村さんのところへ来た“次の人”って……まだ館のどこかに?」


玲は一度だけ呼吸を整え、書庫全体を見渡した。

崩れた棚。強引に引き抜かれた帳簿の跡。誰かが“焦って”探した形跡。


「──“次の者”はすでに志村から“B-7”を受け取っている。

そして、念入りに痕跡を消した……つもりだったんだろうな」


朱音は震えた声で囁いた。


「どうして……志村さんを……?」


答えるように、部屋の隅で沈んでいた瀬名真澄が小さく呟いた。


「志村は“未確認”ではなく、本当は“確認してしまった”……だから、排除された。

これは……ルートマスターの書式に似ている。段階指示。心理誘導型」


玲はその言葉に小さく目を細めた。


「やはり……“あいつ”が動いている。

志村は標的じゃない。“通過点”だ。

そして――“次の者”はまだ、この館にいる。」


朱音の息が止まる。


「じゃあ……次に狙われるのは……?」


玲は手にした紙片を朱音に向けて差し出した。

そこには、たった一行だけ、別筆跡で書かれていた。


【合図後、対象Hを沈黙させろ】


朱音が震えながら名をつぶやく。


「……Hって……広瀬さん……?」


玲は視線を落とした。


「そう。志村の次に消されるはずだったのは――広瀬信行だ。」


書庫の静寂に、風のような気配が走る。


「行くぞ、朱音。

“次の者”はまだ近くにいる。

そして――広瀬を止めれば、指示系統の端がつかめる。」


朱音が小さく頷き、二人は走り出した。


冷え切った書庫には、ただ一枚の紙片だけが取り残された。

“午前0時15分”と書き込まれたメモ。


まるで――誰かが“ちょうどその時間”に、この部屋を後にしたことを告げるように。


午前2時、旧倉庫跡地にて。


薄霧の中、ひんやりとした空気が肌を刺す。かつて火災で黒く煤けた鉄骨だけが残るこの場所は、夜になると息をひそめたように静まり返っていた。


暗闇を裂くように、無線のノイズが微かに響く。


「……聞こえるか。“午前2時、旧倉庫跡地にて。対象の“処理”完了次第、原本と報告書を消却。”これが最終指示だ」


低く落ち着いた声。作業車の影に身を潜めた男が、小さく返答した。


「了解。だが、本当に“彼女”ではないんだな?」


「誤るな。処理対象はデータだ。人間ではない。手順を乱すな」


一拍の沈黙。男は息を呑み、懐から耐火ケースを取り出した。中に収まっているのは、事件に関わる“原本”――手を触れた者の記憶にまで影響を残すと噂された、あの記録だ。


「……こんな夜中にやる必要があるのかよ」


「ある。誰かに見られれば面倒になる」


無線越しの声が冷徹に続ける。


「それと、もう一つ。監視の影が一つ、近くを移動している。こちらで処理する。お前は指示どおり、記録を消せ」


男は血の気が引くのを感じた。


「……影班か?」


「可能性はある。無駄口を叩くな。手を動かせ」


倉庫跡の奥で、カサ、と瓦礫が転がる微かな音がした。

男は振り返り、闇を凝視する。誰もいないはずなのに、視線だけは確かにそこにあった。


「……急ぐ」


男はケースを開き、耐火装置に原本を差し込んだ。点火ボタンに指を置く。


その瞬間――


闇の奥から低く、かすかな声がした。


「……やめて。消したら……戻れなくなる」


男は息を呑んだ。

声の主は見えない。だが確かに幼い少女のような、どこかで聞いた記憶の響きだった。


「……誰だ?」


今度は、無線から別の声が響いた。


「何をしている。予定時刻を過ぎている。“記録”を消せ。聞こえているな?」


男は震える指先で装置を見下ろす。

霧が濃くなり、倉庫跡地の空気が急に冷え込んだように感じられた。


「……本当に、これでいいんだよな?」


問いは届かない。無線は沈黙したままだ。


ただ、闇の奥からひとつだけ――

風に溶けるような囁きが返ってきた。


「……真実は、燃えないよ」


午前2時 旧倉庫跡地


闇に沈んだ敷地に、乾いた足音がひとつだけ響いた。

黒いフードを深くかぶった男が、インカムに触れながら低く報告する。


「午前2時、旧倉庫跡地にて。対象“処理”完了次第、原本と報告書を消却……了解した」


返ってくるのは、無機質なノイズ混じりの声。


──「失敗は許されない。証拠を一切残すな。いいな?」


男は小さく息を吐き、足元に倒れた“誰か”の影へ視線を落とした。


「……こちらの判断で“記録”の搬出を優先する。残りは指示通りに」


──「勘違いするな。対象は“彼女”ではない。

   あくまで“記録”だ。処理は最小限でいい」


声が途切れる。

男はインカムを外し、懐から袋に入った機材を取り出した。


「……最小限、ね。言うのは簡単だが」


淡く白い息が闇に溶けた。


◆ ◆ ◆


吹き抜けの天井から吊るされた古いシャンデリアは、風もないのにわずかに揺れていた。

雪螢館の中央階段ホール――昼間とは打って変わって、静寂と不穏がじわじわと床板を這っている。


階段を上がってきた玲が、その揺れに眉を寄せる。


「……誰か、さっき触った?」


奈々が首を横に振る。


「いいえ。空調も切ってるし、窓も全部閉まってる。

なのに……自発的に揺れてる?」


「自発的に、というより──」


階段下から圭介がゆっくりと顔を上げた。

揺れるシャンデリアの真下、かすかに積もった埃の上に、誰かの足跡がひとつだけ残っていた。


「さっき、ここに……誰かいたんじゃないか?」


奈々が青ざめた声で呟く。


「でも、モーションセンサーには反応なし……。

ログも全部正常。誰も通っていないはずなのに」


玲が跪き、足跡に手をかざす。

冷たさと、わずかな湿り気。


「……ついさっきだ。雪が溶けた跡だな。

外から入った足跡だ」


奈々が息を飲む。


「じゃあ……侵入者がいる。

しかも、警報を全部回避できるレベルで」


圭介は無意識に家族の部屋がある廊下へ視線を向けた。


「……朱音たちは?」


「沙耶さんが一緒にいる。部屋は施錠中……だけど」


奈々が震える声で続ける。


「今の揺れ……外からの“気配”に反応したんじゃないかって、

そんな気がしてならない」


玲がすっと立ち上がり、手元のライトを握り直した。


「いずれにせよ、この館に“別の誰か”がいるのは確かだ。

急ぐぞ。目的はまだ分からないが──」


階上から、かすかに床の軋む音がした。


玲が鋭く目を細めた。


「……誰かが、朱音のいる部屋の方へ向かった」


午前2時 旧倉庫跡地


闇に沈んだ資材置き場の奥で、黒い影がインカムを軽く指で叩いた。


「……こちらβ。午前2時、旧倉庫跡地にて。対象“処理”完了次第、原本と報告書を消却。――了解、指示通りに動く」


吐き出される声は冷ややかだが、その奥にはわずかな躊躇が滲んでいた。

影は足元の倒れた木箱を乗り越え、薄く開いた鉄扉の隙間から外を確認する。


「……誰も来ていない。風も無い。けど……嫌な“音”がするな」


微かな金属音。

倉庫のどこかで、誰かが何かを引きずるような――そんな気配。


影は一歩踏み出そうとしたが、その瞬間、インカムの奥で別の声が割り込んだ。


「対象は“彼女”ではない。取り違えるなよ。

痕跡を残すな。……“例の指”の件も、まだ処理が済んでいないはずだ」


影は短く息を吸い、返答を飲み込むように低く言った。


「了解。……記録はすべて処理する」


雪螢館 中央階段ホール 午後9時30分


吹き抜けの天井から吊るされた古いシャンデリアは、風もないのにかすかに揺れている。

昼間とは打って変わり、静寂と不穏がじわりと床板を這って、館の奥へと広がっていく。


階段下で朱音はスケッチブックを胸に抱え、震えるまつげを上げた。


「ねえ……玲さん。これ、見てほしいの」


玲は手元のライトを灯し、朱音の描いた絵に目を落とす。

その瞬間、眉がわずかに動いた。


左手の薬指が、途中から消えている。


朱音は絵を抱きしめるように体を縮め、ぽつりと呟いた。


「……この人、左手の薬指がないの。

最初、描いてて“おかしい”って思った。でも、何度描いても……やっぱり、ここだけ無いの」


玲は絵を慎重に受け取り、指先で指の欠けた部分をなぞった。


「朱音。これは“見たもの”を描いたんだよな?」


「うん……。私、知らないはずなのに……なのに、手だけが勝手に描いちゃうの」


階段上の廊下で、床板がわずかに軋む。

奈々が暗闇を横切り、低い声で言った。


「玲さん……“指の欠損”って、倉庫事件の未処理記録に同じ特徴があります。

――誰かが、生きている」


朱音の肩がびくりと震える。

玲はスケッチブックを閉じ、静かに言った。


「なら……朱音が見た“この人”は、まだこの館のどこかにいる可能性がある」


ホールに重い沈黙が落ちた。


そしてシャンデリアが――また、わずかに揺れた。


午前2時15分 雪螢館・中央階段ホール


吹き抜けに沈むような静けさの中、玲はゆっくりと朱音の肩に手を置いた。


「朱音。――その“反応”を、もう少し詳しく聞かせてくれないか」


朱音はスケッチブックを胸に抱いたまま、小さく頷いた。


「……あの時ね。倉持さん、ママが“落ちそうになった私の腕をつかもうとした”だけで……まるで“触られるのを恐れてる”みたいに、身体ごと避けたの。すごく不自然だった」


玲の視線が細く鋭くなる。


「触れられると困る理由がある……つまり“外から見れば分かる何か”があるということだ」


奈々が階段の柱にもたれながら、淡々とタブレットを操作する。


「倉持辰夫。三年前の火災事故で“左手を負傷”と報告されてるけど……火傷の記録、写真も診断書も、一枚も残ってない。全部テキストの記載だけ」


「記録が残ってない……つまり、意図的に“残さなかった”か“消された”かどちらかだな」


玲が呟いた瞬間――


バチッ。


ホールの照明が一斉に明滅した。


朱音が思わず玲の袖を掴む。


「いま……誰か、階段の上にいる」


玲と奈々が素早く顔を上げる。


二階の回廊。

暗がりの奥――そこに、誰かの影が立っていた。


わずかに傾いた肩。

左手だけポケットに深く突っ込み、右手には古びた帳簿のようなものを持っている。


玲の声は、低く、張りつめていた。


「……倉持辰夫。あなたに聞きたいことがある」


影は動かない。

ただ――シャンデリアの揺れに合わせるように、右手の帳簿だけがカタリ、と傾いた。


朱音が小さく震える。


「……玲さん……あの帳簿……」


「見覚えがあるのか?」


「うん……“何度も私の絵に出てくる本”と同じ。

誰が描けと言ったわけでもないのに……ずっと、手が勝手に描いちゃうの……」


奈々が画面を見つめたまま、呟く。


「その帳簿……“記録原本”じゃない? 倉庫事件で消されたはずの……」


玲が一歩、前に出る。


「倉持――その帳簿、どこで手に入れた」


沈黙。


次の瞬間。


コンッ。


倉持はゆっくりと左手をポケットから抜き出した。


朱音が息を飲む。


――そこには、途中で途切れた左手の薬指。


そして、皮膚ではない“何か”がはまっている。

金属でも樹脂でもない、見慣れない素材の器具。


玲が眉を寄せる。


「……義指じゃないな。機能補助用……いや、もっと別の……」


倉持がようやく口を開いた。


掠れた声。だが、妙に冷たい。


「――あなた方が追っている“記録”は、もう原本ではない。

これは……“上書きの途中”で止まった、未完の記録だ」


ホールの空気が固まる。


「そして――“私が処理される番”は、とっくに過ぎている」


倉持の右手の帳簿の裏――そこに、小型の黒い装置が貼り付いていた。


玲が目を見開く。


「……まさか、それは——」


午前1時42分 雪螢館・管理棟裏側の通路


薄い蛍光灯が、呼吸をしているかのように明滅した。


「……倉持辰夫。左手薬指欠損、約十五年前。手術痕の形状は“切断”に近い」


奈々が小型端末を指で弾きながら、低い声で続けた。


「火傷じゃありません。皮膚移植のパターンが不自然。むしろ“指輪状の何か”を外すために、指ごと落とした痕に近いです」


玲が眉を寄せた。


「指輪……“制御系”の可能性は?」


「限りなく黒ですね。外部指示を受け取る装置、あるいは“トリガー”」


そのとき、背後の影からもう一人が歩み出た。


精神制圧スペシャリスト

水無瀬透みなせ とおる


「倉持辰夫の精神パターン、先ほど一瞬だけ引っかかった。まるで……外部から“同じ文言”が繰り返し送られているようなノイズだ」


玲が振り返る。


「文言?」


「“終わらせろ”だよ。あれは命令だ。本人の意思じゃない」


朱音が胸に手を当て、小さく震えた。


「……じゃあ倉持さんは、だれかに操られて……」


水無瀬が頷いた。


「今の彼は“計画の残りかす”みたいな状態だ。自我が薄い。命令だけが身体を動かしてる」


奈々がさらに端末を操作し、画面の一部を玲に拡大して見せた。


「それに、これ。倉持辰夫の動線。午前1時すぎから……地下搬入口に向かってる」


玲の表情が鋭くなる。


「地下……“旧倉庫跡地”とつながっているはずだな」


水無瀬が静かに言葉を重ねる。


「おそらく、彼に下った最後の命令は——」


午前1時47分 雪螢館・中央階段ホール


吹き抜けに吊るされた古いシャンデリアが、再び震えた。


まるで“何かが近づいてきている”と知らせるように。


玲が朱音の肩に手を置き、短く告げる。


「——倉持辰夫は今、“記録”を消しに行ってる。その際に必要なら……“だれか”も消す」


朱音の目が揺らいだ。


「……だれかって……」


その問いに答えたのは水無瀬だった。


「“対象は彼女ではない”。つまり……本命は別にいる」


静かなホールで、シャンデリアが再び揺れた。


その微かな音が、これから始まる“確定した危機”を告げているようだった。


【午前3時15分 雪螢館・東棟201号室】


石原冬彦は、布団の端を握りしめたまま、低く息を吐いた。

暖房はついているはずだが、部屋の空気は夜更けの冷えを完全には追い払えていない。


「……冷えるな。歳のせいかね」


指先がかじかみ、喉もわずかに痛む。

迷った末、石原は枕元の呼び鈴にそっと手を伸ばし、押した。


――チリン。


乾いた金属音が、静かな部屋に控えめに響く。


数分後、扉の向こうで気配が止まり、優しい声が落ちた。


「失礼いたします。お呼びでしょうか」


「すまない……どうにも寒くてね。ホットミルクか、何か温かいものをもらえるかな」


「かしこまりました。ただいまお持ちいたします」


足音が遠ざかり、再び静寂が戻る。

石原は布団を胸まで引き上げ、じっと窓の外に視線を向けた。


雪は深く、音を吸い込み、世界を一段と白く沈めている。


やがて再びノックが響いた。


「……どうぞ」


扉が開き、深いグレーの制服を着た若いボーイが銀盆を抱えて入ってきた。

湯気がわずかに立ち昇り、甘い乳の香りが部屋の冷えを押し返す。


「こちら、ホットミルクでございます」


「ありがとう。助かるよ。夜中に悪いね」


「いえ。雪ですとどうしても館内が冷えますので……よろしければ角砂糖もございます」


微笑みながら、盆をベッド脇へと差し出す。

そのとき、視界の端にふと違和感が落ちた。


ボーイは手袋をしていない。


白く整った指先――だが、石原の視線が止まったのはそこではなかった。


左手の薬指が、なかった。


一瞬、呼吸が止まり、心臓が胸を揺らす。


「……おや、君……」


ボーイがゆっくり顔を上げた。

その瞳は、夜のように深い黒で、しかし氷のように温度を欠いている。


「……あまり、見ないほうがよろしいですよ。石原様」


声の調子が変わっていた。

丁寧な接客のそれではない。

まるで“ここから先は戻れない”と告げるような、低く静かな音。


石原は喉の奥に嫌な冷えを感じた。


「君は……従業員じゃ……ないな?」


「ええ。“今夜だけ”の仕事です」


少年のように若い顔で、ぞっとするほど無表情だった。


「どうぞ、温かいうちにお飲みください。……任務の前に、眠っていただく必要がありますので」


石原の手が、布団の上でわずかに震えた。


ミルクの表面から立ち上る湯気が、ゆっくりと形を歪ませる。


その白さが、薬指の欠けた左手と重なり――

胸の奥で、何かが強烈な警鐘を鳴らした。


時間:午前0時15分

場所:雪螢館・応接間


「……焼却指示……」

石原冬彦は、封筒の中の紙片を静かに指先で揉む。墨跡はかすれているが、命令の内容は明瞭だ。


「英一郎氏に渡せ……だと? “真実の一部だけ”……」

低く呟き、眉をひそめる。言葉の裏に潜む不穏な計画を理解しているのだ。


石原は銀盆のマグカップに手を伸ばし、指先で温もりを確かめる。その手元に、封筒と紙片。静かな応接間に、微かな緊張が張り付いたままだ。


「……これは、ただの相続作業じゃない。誰かを導くための――いや、操るための指示だ」


朱音がソファの端で、息を潜めて見つめる。小さな手でマフラーの端を握りしめ、まるで大人の世界の危うさを直感しているかのようだ。


「……僕がやらなきゃならないのか……」

石原の声は低く、震えることはないが、冷え切った空気に重く沈む。封筒の中の文字が、彼の意志と連動し、今まさに“行動”を促していた。


時間:午前0時20分

場所:雪螢館・応接間


朱音の目が見開かれる。

「……あ……」


スケッチブックのページを指先で押さえながら、彼女の声はかすかに震えた。

「この手……左手の薬指がない……」


石原はそっとスケッチを覗き込み、眉を寄せる。

「……倉持か……いや、これを描かせたのは、ただの偶然じゃない」


朱音はページの線を指でなぞる。

「手袋してるけど……指の形が、隠せてない……」


石原は唇を引き結び、冷静に視線を落とす。

「これは、次に動く人物の“印”だ……。ルートマスターの計画は、すでにここまで進んでいる」


朱音の小さな手がページを握りしめ、呼吸がわずかに早くなる。

「……やっぱり、危ない……」


石原は静かに封筒を机の上に置き、朱音に目を向けた。

「……でも、止められない。見て見ぬふりはできないんだ」


時間:午前0時45分

場所:雪螢館・地下封印庫


玲は息を詰め、金庫の扉の前に立つ。

「……これが、すべての始まりか……」


朱音は懐中電灯を手に、金庫の内部を照らす。光が埃を舞い上げ、微かに舞う粒子が冷気に揺れる。

「……こんなに古いのに……まだ、使われていたんだ」


金庫の奥、重厚な木箱や帳簿の山。古びた紙の匂いが鼻腔をくすぐる。

「……ここに、全てが……」


玲はゆっくりと手を伸ばし、最上段の封筒を取り上げる。封蝋はすでにひび割れ、金色の文字がうっすらと浮かんでいた。

「……ルートマスターの印……間違いない」


朱音は手を伸ばすが、言葉にならない。

「……ここから……誰が……」


玲は封筒を見つめながら、低くつぶやく。

「……次の行動は、もう決まっている。彼らは、すでに動き出している……」


時間:午前0時50分

場所:雪螢館・地下封印庫


玲は封筒から中身を取り出す。最初に目に入ったのは、小さな折りたたまれた紙片。

「……暗号か……」


朱音がそっと手を伸ばす。紙片には、細かく書き込まれた文字列と数字。

「……これ、さっきのメモと同じ形式……」


次に現れたのは、小さな鍵。真鍮製で、指先に収まるほどの大きさ。

玲は眉をひそめる。

「……これは……封印庫の別室か、別の箱に使うものだな」


最後に、薄手の手袋のような布が一枚。白く、柔らかい質感。

「……誰かの手を隠すためか……あるいは、指示された人物がこれを着用するのか」


朱音はその布に触れ、軽く息を吐く。

「……これ……誰のもの……?」


玲は封筒の残りを確かめながら、低くつぶやく。

「……すべては、ルートマスターの意図通りだ……次の指示は、ここから始まる」


時間:午前0時50分

場所:雪螢館・地下封印庫


玲は封筒から中身を取り出す。最初に目に入ったのは、小さな折りたたまれた紙片。

「……暗号か……」


朱音がそっと手を伸ばす。紙片には、細かく書き込まれた文字列と数字。

「……これ、さっきのメモと同じ形式……」


次に現れたのは、小さな鍵。真鍮製で、指先に収まるほどの大きさ。

玲は眉をひそめる。

「……これは……封印庫の別室か、別の箱に使うものだな」


最後に、薄手の手袋のような布が一枚。白く、柔らかい質感。

「……誰かの手を隠すためか……あるいは、指示された人物がこれを着用するのか」


朱音はその布に触れ、軽く息を吐く。

「……これ……誰のもの……?」


玲は封筒の残りを確かめながら、低くつぶやく。

「……すべては、ルートマスターの意図通りだ……次の指示は、ここから始まる」


時間:午前6時15分

場所:雪螢館・正面玄関前


玲は雪に覆われた石畳を踏みしめながら、視線を館の重厚な扉に向ける。

「……夜の間に、何が起きたのか……すべてがここに詰まっている」


朱音は手袋をはめた小さな手でスケッチブックを握り、寒さに震えながらも静かに絵を描き続ける。

「……玲さん、まだ誰も来ていないみたい……」


玲は頷き、封筒の中身を再確認する。

「今日、この館で全ての“流れ”が明らかになる。だが、誰も動かぬうちに、僕たちが先手を打つ必要がある」


冷たい風が頬を撫で、雪を舞い上げる。朱音は一瞬目を細め、光を避けるように身をすくめた。

「……怖い……でも、絵に描くと見える……」


玲は彼女の肩にそっと手を置き、低く言う。

「大丈夫だ。今日、この館の真実を暴く。それだけだ」


そのときだった。

カツン、と。石畳に靴音が響いた。


 時間:午前6時17分

場所:雪螢館・正面玄関前


玲の手が、自然と懐に伸びる。

「……誰だ?」


朱音の肩が小さく跳ねる。

「……足音……外から?」


雪の上に、淡く足跡が残る。黒い革靴の跡は、ひとり分だけ。ゆっくりと、館の扉へ向かっている。


玲は目を細め、息を潜める。

「無用心な訪問者か……それとも、予想通りの人物か」


足音が、さらに近づく。雪を踏むたび、金属質の光沢を帯びた音が混ざる。


朱音は小さく息を飲み、スケッチブックを握り直す。

「……誰……?」


玲は低く、しかし確信を帯びた声で答える。

「……確かめるしかないな」


時間:午前6時45分

場所:旧倉庫跡・森の奥


朱音の目が、描いた通りの風景を追う。

「……スケッチと同じ……」


玲は倉庫の前に立ち、手袋越しに鉄扉の冷たさを確かめる。

「この場所……間違いない。封筒に書かれた“指定地点”だ」


雪に埋もれた足跡を、玲は慎重に辿る。

「誰か来ている……気配は残っているが、人影はない」


朱音が小さく息を吐く。

「……でも、何かが動いた気がする」


玲は雪面をじっと見つめ、低い声で呟いた。

「ルートマスターの仕掛けた罠かもしれない。足跡の消え方が、不自然だ」


倉庫の影が、朝の光に淡く伸びる。

「ここで、待ち伏せされている可能性もある。油断はできない」


時間:午前6時50分

場所:旧倉庫跡・森の奥


朱音が息を呑む。

「……左手の薬指がない……あの人……」


玲は手袋越しに拳を握り、冷静に男を見据える。

「倉持辰夫……確かに、ルートマスターの駒として動いていた人物だ」


男はゆっくりとフードを上げ、顔の輪郭が薄暗い光に浮かぶ。

「……やっと、会えたか」


朱音が小さく後ずさる。

「……何を、するつもり……?」


玲は低く警告するように声を落とす。

「動くな。状況は君一人のものではない――誰も傷つけさせはしない」


男の瞳が、薄い光を反射して微かに揺れる。

「……俺に選択肢はない。命令通りに進めるだけだ」


朱音の手がスケッチブックに触れる。

「……でも……その手……その薬指……」


玲が鋭く答えた。

「そう。指一本で、すべてが見える。ルートマスターは、すでにこの瞬間を計算している」


時間:午前7時10分

場所:雪螢館・玄関前


朱音が小さく息を吐き、吐息が白く立ち上る。

「……館の中で、いったい何が……」


玲が肩越しに答える。

「すべては、まだ始まったばかりだ。封じられた記録、動く駒、そして——あの男。目を離すな」


朱音の目が、遠く雪に埋もれた西棟の影に留まる。

「……でも、あの封筒……本当に全部、見つけられたの?」


玲は手元の書類を軽く揺らす。

「確認済みだ。ただし、これで全てが明らかになったわけではない。真実は、まだ動きながら隠れている」


朱音がふと空を見上げる。

「……朝が来ても、怖さは消えないね……」


玲は静かに頷いた。

「恐怖は残る。だが、それを超えて進むしかない。目の前にある現実を、受け止めるんだ」


時間:午前8時30分

場所:雪螢館・応接間


雪螢館の応接間には、静かな朝の光が差し込んでいた。暖炉の灰はすでに冷め、室内は深い静寂に包まれている。雪に覆われた庭が窓越しに見え、白の静けさが室内の緊張を和らげるようだった。


朱音はスケッチブックを膝に抱え、描き上げた最後の絵をそっと見つめる。そこには、封筒と指の欠けた男の姿、そして雪に沈む倉庫跡の景色が、まるで現実の断片のように描かれていた。


玲は書類をまとめながら、深く息をつく。

「これで、一連の事件はひとまず落ち着いた。だが、ルートマスターの存在は消えてはいない。奴はまだ、どこかで次の手を考えている」


朱音が小さく頷き、口元に微笑みを浮かべた。

「でも……少なくとも、ここまで来れたんだね。怖くても、全部見つけられた」


玲は窓の外、遠くの森を見据える。

「人の心や行動は、操作されても完全には支配されない。今回の事件で、誰が何を選んだのか——それが真実だ」


応接間の静寂の中、暖炉の跡に残る灰が微かに揺れる。

外の雪はまだ白く、朝の光はゆっくりと館を包み込む。


「……さあ、次に向かう時が来る」


朱音はスケッチブックを閉じ、玲の隣に立つ。二人の影が応接間の床に長く伸び、冬の朝の静けさの中で、未来へと歩みを進める準備を整えていた。


封じられた記録、欠けた指、そして未解決の謎。

雪螢館の静寂は、まだすべての答えを明かしてはいない。

だが確かなのは、二人が目にしたもの、描き残したものは、確実に「次」へと繋がっているということだった。


ー後日談ー


時間:午後3時

場所:東京・玲探偵事務所


玲は探偵事務所の窓際に立ち、灰色の空を眺めていた。書類の山が机の上に整然と積まれ、古い時計の針が静かに時を刻む。コンクリートの匂いと都会の雑音が、雪螢館で味わった凍てつく空気とは違う現実を知らせていた。


「……あの館のことは、まだ整理できていないな」


玲は静かに呟き、窓の外を歩く人々の姿を目で追う。誰もが日常を生きているが、その背後には、それぞれの秘密と選択が隠されている。雪螢館で見たルートマスターの痕跡も、まだ完全には消え去ってはいなかった。


机に置かれた封筒を手に取り、朱音が描いたスケッチをそっと覗き込む。細かい線で描かれた倉庫跡、欠けた指、封蝋の印――すべてが玲の頭の中で整理され、事件の全体像がゆっくりと形を成す。


「でも、次がある……」


玲は封筒を机に戻し、デスクチェアに腰を下ろす。新たな事件の匂いはまだないが、準備だけは怠らない。東京の灰色の空の下、冷たさとざわめきの中で、彼女の頭の中は既に次の一手を考えていた。


静寂の中で、玲の指先がペンに触れる。

記録は残り、真実は待つ。雪螢館で得た経験は、次なる事件への羅針盤となる。

そして彼女は知っている。冷たい現実の中でも、人は必ず選択をする——その瞬間こそ、真実に最も近づくと。


時間:午前10時

場所:自宅・学習部屋


朱音は窓辺の机に向かい、スケッチブックを開いた。ページには雪螢館で見た光景や人物の記憶が、淡い鉛筆の線で再び描かれている。

「……まだ夢みたい」


小さく呟き、彼女は窓の外に目をやる。雪は溶け、庭の木々には春の兆しが見え始めていた。寒さの中で感じた緊張や恐怖は、今は遠く、柔らかな記憶として胸に残るだけだ。


朱音は鉛筆を持つ手を止め、深呼吸をする。

雪螢館での一連の出来事は、恐ろしいものでありながらも、彼女に新しい視点を与えていた。小さな直感、観察力、そして人を見抜く感覚――それらは絵に、日常に、自然と現れる。


「でも……私、少しずつ分かる気がする」


朱音はスケッチブックの端に描かれた自分の手の線を見つめる。あの時の恐怖、戸惑い、そして決意。それらすべてが、今の自分を形作っていることを実感する。


「これからも、ちゃんと描けるかな……」


窓の外の光を浴びながら、朱音は小さく微笑む。スケッチブックに向き直るその姿には、以前よりも強い意志と落ち着きがあった。

雪螢館で学んだことは、もう恐れではなく、未来を見据える力になっていた。


時間:午前9時

場所:北海道・雪螢館跡地


北海道の山間部。深い森に囲まれ、雪に閉ざされたその地に、かつて「雪螢館」と呼ばれた館の影が静かに横たわっている。冬の光が雪面に反射し、館の外壁の残骸を淡く照らしていた。


木々の間を吹き抜ける風が、かすかに軋む音を伴って通り過ぎる。屋根の一部は崩れ、窓ガラスはほとんど割れ、かつての華やかさの名残をわずかに残すだけだ。


遠くで鳥が羽ばたき、雪面に足跡を残す。かつての館の主人や使用人たちの喧騒は、もうどこにもない。ただ、雪と森と静寂だけが支配する空間となっていた。


それでも、館跡の前で立ち止まった人々の視線は、過去の出来事を静かに思い起こさせる。雪螢館で起きた数々の事件、ルートマスターの計画、そして朱音や玲たちの決意――すべてが、この地に記憶として残っているのだ。


雪の白さの中に、過去の影が薄く揺れる。館は崩れ去っても、その存在感だけはまだ、冬の山間に深く刻まれていた。


時間:深夜

場所:不明の隠れ家、一室


薄闇に沈んだ一室。雨が途切れたばかりのようで、空気にはほのかに土と苔の匂いが混じっていた。傾いた窓からわずかに差し込む月明かりが、机の上の封筒を淡く照らす。


ルートマスターは椅子に深く腰を下ろし、封筒の前に静かに手を置いた。その指先は冷たく、だが確かな意志を宿している。封筒の中には、かつて操った者たちの名、そして次に動かすべき計画の断片が、きちんと分類されていた。


「……まだ、終わりではない」


低く、呟く声に部屋は答えない。外の風が窓枠に当たり、かすかな軋む音が響くだけだ。


ルートマスターの視線は封筒を越え、遠くの都市の光を思い浮かべる。雪螢館の事件は終わった。だが、人々の心に残る混乱と恐怖は、まだ消えていない。すべてを見通し、次の一手を計る彼の瞳は、薄明かりの中で静かに光を宿す。


机に置かれた封筒をゆっくりと手に取り、ルートマスターは暗号のような文字を指でなぞる。計画は既に新たな段階へ――静かに、しかし確実に動き始めていた。


彼には薬指が、ない。


否。それは一瞬の錯覚だったのかもしれない。手元に視線を落とせば、指そのものが存在しているようにも見えた。光と影の交差。グラファイト塗料で着色されたような質感。いや、それは──特殊なメイクだ。


ルートマスターはその手を軽く握り、指の欠落を誰も気づかぬよう演出していた。視覚を欺き、情報を操作する。彼にとって、現実とは――操るための舞台に過ぎない。


「……完璧だ」


低く呟くと、封筒を再び机に置き、暗号の一部を指でなぞる。都市の向こうに広がる計画は、すでに次の幕を開けようとしている。雪螢館の事件も、ただの前奏だったのだ。


ルートマスターの影が、月明かりの中で微かに揺れる。薬指の有無さえも、彼の意図する幻影のひとつに過ぎなかった。

ルートマスターのあとがき


静かなる計画は、誰の目にも触れず、しかし確実に進行する。

私が手を下すのではない。選ばれた者たち自身の意思を導き、行動させる――それこそが、この世界で最も巧妙な“操作”だ。


雪螢館での出来事も、同様である。手紙は渡され、帳簿は動かされ、影の駒は静かに役割を果たした。誰一人として、私の存在を完全には認識していなかった。だが、すべての歯車は想定通りに噛み合い、事件は閉じた。


人は、自らの判断で正義を選ぶ。だが、その選択の背後には、微かに私の意志が存在する――気づくことのない、細やかな手引きとして。私はそれを楽しむ者であり、必要な者である。


雪螢館の指先が示したもの――記憶、封印、封筒、そして、見えざる“力”。

それは、私の世界のほんの一片に過ぎない。今も、どこかで物語は動き、誰かが気づかぬうちに導かれている。


この事件を閉じた後も、世界は静かに私の指先の下で呼吸している。

そして、またいつか、次の計画が始まるだろう。誰にも気づかれることなく、しかし確実に。


――L.M.

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