74話 仮面の記憶 ―失われた舞台と証人たち―
登場人物紹介
•玲
サイコメトリー能力を持つ探偵。冷静沈着で、物事を深く観察し、対象の記憶や感情を読み取る。舞台事件の核心に迫る。
•朱音
玲の調査に同行する少女。無邪気さと鋭い直感を併せ持ち、事件の謎を解く鍵となる。舞台上で演じることで、失われた物語をつなぐ役割を担う。
•高梨ユウタ
舞台照明のスペシャリスト。照明の計算や舞台設営に精通し、劇場内外での証拠解析も担う。静かに現場を支える。
•水無瀬透
記憶探査官。被害者や現場の記憶を解析し、封印された事実を引き出す専門家。
•柊コウキ
記憶を封じられた少年。自身の過去と向き合い、台本や日記を通じて記憶の断片を取り戻す。
•服部たまき
事件に関わる外部人物。祠での供花など、舞台の象徴的場面に関与し、物語の余韻を示す存在。
•椎名環
台本分析のスペシャリスト。演劇史や舞台演出の知識を駆使して、事件と台本の関連性を解明する。
•久保谷裕臣
学園理事長代理。事件の背後で動く管理者的存在であり、記録や台本の不自然な操作に関わる。
•御子柴理央
データ・スペシャリスト兼法科学分析官。証拠の分析や現場調査を担当し、科学的な観点から事件の真相を補強する。
•石庭慎一
白ノ座劇場の元芸術監督。夏目薫の学生時代の演劇仲間で、舞台にまつわる過去の事実を知る隠遁者。
•夏目薫
かつての天才的演劇指導者。未完の台本や演目を残し、物語の中心に暗示的な痕跡を遺す。
―冒頭―
【場所】地下室
【時間】深夜
地下室の奥は闇に覆われ、冷たいコンクリートの壁が狭い空間を囲んでいた。
唯一の光源は、無造作に積まれた資料や古びた演劇台本をかすかに照らすデスクライトだけだった。
「おい、もう時間だ。やめてくれ!」
男子生徒は後ずさりながら壁際に追い詰められ、声は震えていた。目は恐怖で見開かれ、出口を探すが、この部屋にはひとつしかない。
「君は“選ばれた”んだ」
フード付きの黒いコートを纏い、白く無機質な能面の仮面で顔を覆った人物が、冷ややかに機械のような声で告げる。
「ぼくは……関係ない、ただ……台本を――」
言葉は途中で途切れた。
男の手が素早く動き、鈍く光る凶器が深く刺さる。返り血は最小限に留まった。
白い仮面の男はひと息つくと、倒れた生徒の胸元から小さな紙片を取り出す。それは未発表の儀式演目台本の一部だった。
「役を放棄した者に幕は下ろさねばならない」
仮面の男は小さく呟き、床にもう一枚――新品の仮面を置く。
それは“証拠”ではなく、“演出”の一部に過ぎなかった。
デスクの上の古びた台本が、風もないのにふと一ページめくれる。
《第一幕・終演前の犠牲者》
ページ中央には赤く縁取られた手書きのサイン。
その横には、走り書きで「演目はつづく」と記されていた。
―プロローグ―
【場所】地下室
【時間】夜
薄暗い地下室の一角。冷え切った空気に、鉄錆びた匂いが混じっている。蛍光灯の一部がちらつき、濁った白い光が床に広がる鮮血を鈍く反射していた。
机に突っ伏すように倒れている三年生の野村悠真の体は、すでに動かない。背中から血が広がり、最後に握っていたと思われるメモ用紙が掌の下で濡れてふやけている。倒れた椅子、散乱する演劇関連の書類、そして足元には白い仮面がぽつりと置かれていた。
「……うそ、でしょ……?」
低く震えた声が背後から響く。
懐中電灯を手に現れたのは演劇部の後輩、真壁紗良。足を止めたまま、目の前の異様な光景に凍りついている。
「……野村先輩……なんで……」
彼女の手から懐中電灯が滑り落ち、カツン、と床に転がる。その光が仮面を映し出した。目も口もない無機質な白面。演目用の小道具とは異なる、異様な存在感があった。
少女は悲鳴を上げることもできず、ただひと筋の涙が頬を伝った。
【場所】玲探偵事務所
【時間】午後
報告書を前に机に肘をつき、玲は小さく息をついた。指先で書類の端を押さえながら、文字を追う。
「……聖桜学園、か」
彼の声は低く、冷静そのものだ。焦りの色は見えない。しかし、目の奥に一瞬だけ暗い光が揺れる。それは過去の事件や未解決の謎を思い起こさせる光だった。
横で朱音がスケッチブックを抱え、控えめに呼吸を整える。玲の視線が書類から逸れ、窓の外の冬の光をぼんやりと見つめる。
「今回の件も、ただの事故じゃない……」
玲は口に出さずとも、指先の動きや微かな息づかいから、状況を慎重に整理しているのがわかった。
スケッチブックの端に置かれた鉛筆に触れる朱音の小さな手。二人の間に、言葉にせずとも事件を解くための緊張感が静かに張り詰めていた。
【場所】聖桜学園・図書室
【時間】午前
図書室の静寂の中、玲は机に広げた資料を前に慎重に指先でページをめくった。朱音は隣でスケッチブックに目を落とし、鉛筆を静かに動かしている。彼女の線は、舞台の階段や緞帳の角度、舞台袖の細部までを忠実に再現していた。
「……この時刻表、怪しいな」
朱音は鉛筆を止め、顔を上げた。
「え、どういうこと?」
「部室や舞台での目撃記録と、ここに書かれた時間が合わない。誰かが動きを隠した可能性がある」
朱音はスケッチブックを近づけ、舞台装置の描写と照らし合わせる。階段の踏み板の位置、照明用のワイヤーの微かな傾き、小道具の置き方──そのどれもが、資料に書かれた時刻と微妙に食い違っていた。
「……ここの角度、変じゃない? 本来なら右端の照明に影が落ちるはずなのに」
玲は朱音の指差す場所を見つめる。確かに、現場写真や設計図とスケッチが重なると、ひとつの不自然な点が浮かび上がった。舞台装置の一部だけ、誰かが意図的に操作した痕跡があるように見える。
朱音は鉛筆を握り直し、細い線で微妙な傾きと陰影を加える。紙の上で再現された舞台は、まるで事件現場の縮図のように息を潜めていた。
玲はページをめくりながら小さく息を吐く。
「……やはり、誰かが時間を操作している。見落とせない」
窓から差し込む冬の陽光が二人の影を机に落とし、静かな図書室は、まるで事件の痕跡を見守る舞台のように緊張感を帯びていた。
【場所】聖桜学園・図書室
【時間】午前
足音は、静まり返った図書室の奥からじわりと近づいてきた。
制服姿の若い女性が、資料ファイルを抱え、名札を胸につけて慎重に歩いてくる。
「……玲さん、朱音さん……」
声は低く、だが確かな緊張を帯びていた。
「この件、私も少し手伝わせてください。かつて、この学校で演出補佐をしていた時に……気づいたことがあります」
彼女の視線は、机に広げられたスケッチと資料に留まり、細かく目を走らせた。
「舞台装置の動き、そして稽古の進行……何か、誰かが不自然に介入した痕跡があります」
朱音は小さく鉛筆を握り直し、スケッチを指差す。
「ここ……光と影の落ち方がおかしいんです。誰かが、この角度を意図的に変えた……」
女性は頷き、資料ファイルから古い舞台記録を取り出した。
「私が記録していた当時のメモです。これと照らし合わせると、不自然な動きがより鮮明になります」
静かな図書室に、わずかに紙をめくる音と、彼女の呼吸だけが響いた。
外の冬の光が差し込み、机の上の資料とスケッチを照らす。緊張感が、空気のすべてに張り詰めていた。
【場所】聖桜学園・図書室
【時間】午前
早乙女梓は古びた舞台台本のページをそっと開き、朱音のスケッチと見比べた。
「――最後に現れる仮面は、かつての演者を映すのです」
彼女の声は小さいが、言葉には揺るがぬ確信があった。
「つまり……誰かが舞台上で、過去の役者の影を意図的に再現させようとしているということですか」
玲は眉をひそめ、資料に目を落とす。
「……この時刻表、怪しいな」
朱音は鉛筆を止め、ファイルに書き込まれた古いメモをじっと見つめた。
「光の位置、動線、すべてが計算されている……まるで、舞台全体が“誰かの手”で動かされているみたいです」
梓は目を細め、声を落とす。
「演者たちが気づかぬうちに……“演目”は進行していた。舞台の影に、過去が封じられているのです」
静寂が図書室を包む中、資料の紙が微かに震え、空気の緊張をさらに増幅させていた。
【場所】聖桜学園・旧設備棟裏手
【時間】午後
鉄製の扉の前に立ち、玲はそっと手袋をはめた指先で冷たい取っ手に触れた。
「……中はどうなっているのか、確認する必要があるな」
朱音は肩にスケッチブックを抱え、足元の落ち葉を踏みしめながら小さくうなずいた。
「……ここ、怖いね……」
御子柴理央は懐中電灯を握り、慎重に扉を押した。軋む金属音が静かな敷地に響く。
「誰も来ていない。まずは内部の安全を確かめる」
扉がわずかに開き、冷たい空気が流れ込む。埃と鉄の匂いが混ざり、過去の痕跡を含んだ空間の存在を告げていた。
「……あの台本に記されていた場所は、ここに繋がっている可能性が高い」
朱音は懐中電灯の光で床や壁の亀裂、古い配線の跡を注意深く観察し、緊張した息を吐いた。
「……何か、隠されている……」
【場所】聖桜学園・地下演劇準備室
【時間】午後
階段を降りきると、ひんやりと湿った空気が頬を打った。薄暗い地下室の奥、昨日の事件現場――野村孝介が命を落とした場所は、簡易なパーテーションとビニールシートで区切られていた。
玲は手袋越しにシートを軽く撫でながら、視線を細める。
「状況を整理する。昨日の足跡、血痕の広がり、すべてまだ残っているはずだ」
朱音はスケッチブックを膝に置き、光の当たり具合で壁の汚れや血痕の色合いを確認しながら小さくつぶやいた。
「……ここ、すごく冷たい……でも、何か匂う……」
御子柴理央は懐中電灯の光を床やパーテーションの隙間に当て、微細な痕跡を拾っていく。
「血の飛び方、体勢、落ちた位置――これを見れば、動きの順序は推定できる」
玲は古びた配線やパイプの位置にも目を走らせ、舞台装置に精通したスペシャリストとして分析を始める。
「この部屋の構造、そして昨日使われた舞台道具の配置……犯人はそれを完全に理解している。偶然ではない」
朱音は震える手でスケッチを取り出し、影の付き方や血痕の角度を丁寧に描き写した。
「……線、ここまで……事件の痕跡、全部残しておきたい……」
御子柴は控えめに頷き、冷たい空気を吸い込みながら言った。
「すべてを記録する。次の行動は、この痕跡をどう解析するかにかかっている」
【場所】聖桜学園・地下演劇準備室
【時間】午後
玲は手袋を外し、血痕のすぐ近く――野村が最後に触れていたであろう机の角に手を置いた。
次の瞬間、彼の瞳が一瞬、遠くの何かを見つめるように揺れる。
「……感じる……この場所に残された“痕跡”の重み……」
御子柴理央が小さく息をのむ。玲の動作は単なる観察ではなく、残留した記憶の“断片”を拾い上げる行為だった。サイコメトリーとしての能力が、過去の動きを彼に語らせる。
「野村がここで何を思い、どの方向に動いたか……すべて残っている」
朱音はスケッチブックを抱きしめ、息を潜めた。
「……玲さん、何が見えるの……?」
玲は静かに指先を血痕の周囲に滑らせながら、低く答えた。
「恐怖、戸惑い、そして――最後の抵抗。全てがここに“刻まれて”いる」
御子柴は控えめに頷き、照明の角度を微調整しながら分析を続ける。
「残留エネルギーの濃淡を確認すれば、犯行の順序も特定可能です」
玲は血痕の流れと机の角の微細な擦れ跡に視線を落とす。
「犯人はここを知り尽くしていた……野村を、計画的に誘導している」
朱音はスケッチの線を、彼の指の動きに合わせるように伸ばしながら呟いた。
「……全部、描き留める……これを忘れたくない……」
【場所】聖桜学園・地下演劇準備室
【時間】午後
視界が、変わる。
目の前に映ったのは、まさに“あの瞬間”。
玲の手は机に触れたまま、微動だにせず。
「……動くな……声を立てるな……」
机の角に残る温もりが、彼に過去の記憶を“再生”させる。野村孝介が後ろ手に台本を握る。仮面の男の黒いコートの裾が揺れ、冷たい光を反射した凶器が、一瞬の間に振り下ろされる。
「――っ!」
その瞬間、机の角の血痕に、微かな震えが残る。
御子柴が息を飲む。
「サイコメトリーによって……犯行の動きが完全に浮かび上がってます。手の動き、犯人の姿勢、野村の反応……すべて、ここに残っている」
朱音はスケッチブックをしっかり抱き、目を丸くする。
「……見えた……怖い……」
玲は低く、淡々と呟く。
「計画的だ……すべてを読み尽くした上で、野村をここへ誘導している」
御子柴は照明と残留血痕を照らし合わせ、分析を続ける。
「微細な痕跡の連鎖が、犯行手順の完全なタイムラインを示しています」
玲は視線を固定したまま、最後に冷静に言った。
「……これで、真実の全貌が見えてきた」
【場所】聖桜学園・地下演劇準備室
【時間】午後
玲は立ち上がり、口を引き結んだまま答えた。
「犯人は“誰かの指示”で動いていた。そして――野村は“劇”について知っていた。それが動機になっていた可能性がある」
御子柴は机の上の資料を広げながら、微細な痕跡を指でなぞる。
「サイコメトリーで浮かび上がったのは、犯人の手順だけじゃない。野村の行動、周囲の反応、そして、犯人が置いた痕跡の順序までもが精密に設計されている」
朱音は手元のスケッチブックに、手早く舞台装置の構図と人物の位置を描き込む。
「……演劇の“演出”みたい……でも、これは現実の人を傷つける演出なんだ」
玲は深く息をつき、低い声で続ける。
「こういう犯行は、一度流れを理解すれば逆算が可能だ。装置、動線、時間軸……すべて計算されている」
御子柴は冷静に分析を重ね、微細な指示の痕跡を指摘した。
「ここに残された指紋の角度、机の傷、血痕の乾き具合……どれも単独犯ではなく、複数の指示を受けて動いた証拠です」
朱音は震える手でスケッチブックを抱きしめながら、ぽつりと言った。
「……怖い。でも、これで誰が関わっていたか、少し分かるかもしれない」
玲は頷き、静かに言った。
「……犯人の全貌を暴くには、さらに証拠と記録を照合する必要がある」
【場所】聖桜学園・地下1階廊下
【時間】午後
地下1階の長い廊下を進み、突き当たりの左手に位置する鉄扉の前で、玲はふと立ち止まった。
手袋をした指先で冷たい扉の表面をなぞりながら、微かな凹凸を確認する。錆びた蝶番の音が、かすかに響く。
「……この扉、普段は施錠されているはずだが、何者かが操作した痕跡がある」
御子柴が隣で資料を見ながら指摘する。
「ここには誰も立ち入った形跡はなかったはずだが、埃の付き方からして、少なくとも最近、人が手を触れた」
朱音はスケッチブックを抱え、壁に映る影を見つめる。
「……影が、ゆがんで見える。床に残った足跡も、微妙に不自然」
玲は扉に耳を当て、低く息をつく。
「中に誰かがいる……かもしれない。慎重にいこう」
御子柴が懐中電灯を扉の隙間から差し込み、影を探る。
「……装置や資料が散乱している。だが、何か重要なものも、ここに隠されている可能性が高い」
朱音は小さく息を飲む。
「……この部屋、ただの倉庫じゃない……」
玲は頷き、鉄扉の取っ手に手をかけた。
「……ここが、事件の核心に触れる場所だ」
【場所】聖桜学園・地下1階・鉄扉奥の旧設備室
【時間】午後
ギィ……と鈍く重たい音を立てて、鉄扉が開く。
内部から吹き出した空気は、冷たく湿り、長く閉じ込められていた記憶のように重い。埃が舞い、懐中電灯の光に粉塵が踊る。床には古い書類や演劇関連の小道具、散乱した机の脚が不規則に倒れていた。
「……誰か、ここに入った形跡がある」
御子柴が低く声を漏らす。
「埃の付き方、足跡……最近のものだ。しかも、計画的に動いている」
朱音はスケッチブックを握りしめ、床の陰影を観察する。
「……あれ、机の下に……手袋の跡? それに、紙が……少し血で染まってる」
玲は慎重に足を踏み入れ、扉の隙間から中を見渡す。
「これは……単なる倉庫じゃない。過去の“事件”の痕跡が残されている」
御子柴が懐中電灯の光を棚の上へ向ける。
「古い台本、破れた封筒……あそこに何か封印されていたかもしれない」
朱音は小さく息を呑む。
「……ここに、真実がある……」
玲は鉄扉を半開きにしたまま、ゆっくりと足を進めた。
「……気をつけろ。この部屋に触れた瞬間、全てが“見える”かもしれない」
【場所】聖桜学園・講堂舞台
【時間】夜、閉館後
舞台の上、三人の演者が静かに立つ。
白い仮面をつけた二人と、黒い仮面をつけた一人。光は天井の小さなスポットライトから、三人を順に照らす。
沈黙が空間を満たす。呼吸さえ吸い込まれそうなほどの静けさ。
「……光が入った。位置は……合っている」
御子柴理央が控えの暗がりから低く呟く。
「黒の仮面……演者ではない。間違いない、仕掛けだ」
朱音はスケッチブックを胸に抱き、舞台装置の影を目で追う。
「……白の二人は演者。黒は……犯人?」
玲は手袋を外し、舞台の床に手を置く。
「この床、触れると過去の動きが“残響”として伝わってくる……そう、サイコメトリーだ」
床の感触から、演者がそれぞれ立った位置や動きの軌跡が、微かな振動として玲の意識に入り込む。
「犠牲者の動き、犯人の足取り……全て、この舞台に刻まれている」
朱音は静かに息を整えながら、手元のスケッチに影の流れを書き込む。
「……この通りに光を動かせば、真実が見えるかも……」
御子柴は懐中電灯を黒仮面の方向へ向け、慎重に光を差し込む。
「黒の仮面が揺れた……何かを見ている、あるいは、誰かを待っている」
玲は一歩前へ進み、床に残された痕跡を目でなぞる。
「……犠牲と誓約。全ては、この光と影の交錯の中で明かされる」
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】夜、閉館後
鈍い金属音と共に、旧礼拝室の重い扉が開かれた。
中はほの暗く、月明かりがステンドグラスを通して床に淡い色の影を落としている。埃と古い木の匂いが立ち込め、空気はひんやりとしていた。
玲は扉の脇で手袋を外し、慎重に床に手を置く。
「……ここもサイコメトリーに反応する。過去の動きが残されている」
朱音はスケッチブックを抱き、壁の影に目を凝らす。
「……ここ、演劇部の誰かが以前、秘密裏に使用していた場所……」
御子柴理央が懐中電灯を上げ、祭壇や古びた椅子の隙間を照らす。
「構造上、この空間には人の動線が限定される。犯行もここで行われた可能性が高い」
玲は床や祭壇に残る微細な痕跡を指先でたどりながらつぶやく。
「……犠牲者が通った軌跡、犯人が置いた物の痕跡……全てが交錯している」
朱音はスケッチに影の流れを描き込み、目の前の光景を正確に記録する。
「……この光と影の配置が、事件の全貌を語ってくれる……」
御子柴は低い声で確認する。
「残された証拠の位置からすれば、黒い仮面の人物が最後にここに立った……間違いない」
玲は深く息をつき、視線を祭壇に固定した。
「犠牲と誓約……全ての真実は、この旧礼拝室で明らかになる」
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
第三幕の稽古用台本が、玲の手元で開かれている。
「……遺された者は、ただ見守るだけではない。真実を語ることで、事件の軌跡を全て呼び覚ます」
御子柴理央が資料ファイルを床に置き、光にかざして文字を追う。
「語り手の位置、光の角度、観察者の視線……全てが緻密に計算されている。犯人の行動も、この舞台上に暗示されている」
朱音はスケッチブックを広げ、照明の角度や影の落ち方を鉛筆で細かく描き込む。
「……ここで、黒い仮面の人物が全てを見守る……だけど、その影に残る痕跡が、誰かを指し示している」
玲は指先で机の上の台本をなぞりながら低くつぶやく。
「犠牲者と語り手、そして黒い仮面……三者の関係と位置関係が、この最後の儀式を完結させる鍵だ」
御子柴は懐中電灯で舞台装置の残骸を照らし、痕跡を確認する。
「ここまで計算され尽くした舞台装置。犯人は演劇の知識を熟知していたに違いない」
朱音は息をひそめ、スケッチに細かく線を重ねる。
「……すべての光と影、すべての位置関係……これで事件の全貌が見える」
玲は深く息をつき、台本を閉じる。
「遺された者が語る真実。それを我々が受け止める。これが、終幕の儀式だ」
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
扉が鈍い音を立てて閉まると、室内には深い静寂が戻った。
玲はゆっくりと息を整えながら、周囲を見渡す。
「ここから先は、光と影がすべてを語る場所だ」
御子柴理央は床に置かれた資料と舞台模型を慎重に確認する。
「過去の記録と現場の痕跡を照らし合わせれば、誰が“黒い仮面”を操ったか見えてくる」
朱音はスケッチブックを抱え、手元の鉛筆で光と影のラインを追う。
「……影の方向、光の届き方、すべて計算されてる……犯人は舞台装置の構造に詳しい人だ」
玲は手袋を外し、机の上の台本をそっと押さえる。
「この礼拝室はただの舞台ではない。犠牲者の証言も、目撃者の痕跡も、この空間で全て交差する」
御子柴は小声で付け加える。
「言葉ではなく、光と影、そして位置関係……それが事件の核心を示している」
朱音は息をひそめ、ページとスケッチを見比べる。
「……ここまで細かく仕組まれているのに、誰も気づかなかったなんて……」
玲は静かに頷き、礼拝室の中央へ歩を進める。
「今夜、この空間で、すべての真実が語られる――終幕の儀式だ」
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
バンッ!
重い扉が激しく叩かれ、礼拝室の静寂が一瞬で破られた。
玲は反射的に身を低くし、視線を扉へ向ける。
「……誰だ、こんな時間に」
御子柴理央は素早く資料を手で押さえ、声をひそめて言う。
「この空間に不意に入られると、痕跡が乱される……気をつけて」
朱音はスケッチブックを抱きしめながら、扉の影に目を凝らす。
「……影の形が、前と違う……誰か、いる」
玲は静かに床に跪き、手袋を着けた指先で舞台模型を軽く触れる。
「黒い仮面の位置、光の角度……今の音で痕跡がわずかに変わった。奴は舞台構造を熟知している」
御子柴は暗闇の中で声を潜め、朱音に指示する。
「動かないで、光を当てるな。まず状況を把握する」
朱音は息を殺し、スケッチブックに扉と影の位置を描き留める。
「……この一瞬の動きで、犯人の手の内が見えそう……」
玲は立ち上がり、扉の方にゆっくりと近づく。
「ここから先は、光と影、そして動きだけが語る。準備はいいか」
御子柴は頷き、朱音も小さく息を整える。
旧礼拝室に張り詰めた緊張の空気が、再び夜の深みに吸い込まれていった。
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
玲は扉を押し開けると、室内に漂う異様な空気を即座に察知した。
「……ただの冷気じゃない。死体の周囲の微細な空気の流れが乱れている」
御子柴理央は手袋をはめ、倒れている青年に近づきながら言う。
「刺傷の角度、血の飛び方……犯行は計算されている。演劇の舞台構造を知る者の手口だ」
朱音はスケッチブックを抱え、床に跪く。
「……血の広がり方も、仮面の位置も……何か、意味がある」
玲は仮面の裏側を覗き込み、接着剤の痕を慎重に指先で確認する。
「この仮面……ただの小道具じゃない。顔に密着させる方法も、意図的に計算されている。演者の“消失”を演出するための仕掛けだ」
御子柴は周囲の舞台装置を視線で追いながら指摘する。
「照明の角度、舞台布のたるみ、足元の微妙な傾き……すべてが演出と殺意を同時に成立させている」
朱音はスケッチブックに血痕と仮面の位置を線で結びながら、小さな声で呟く。
「……犯人は舞台を知っている。舞台の上も下も、全部、計算してる……」
玲は深く息を吸い、低く言った。
「……ここからは痕跡だけが語る。私たちは証人として、この“演出”を読み解かねばならない」
御子柴は頷き、朱音も小さく息を整える。
旧礼拝室に張り詰めた緊張の空気が、再び深く、濃密に染み渡った。
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
玲は倒れている青年の傍らに立ち、仮面の角度や血痕の向きを確認しながら低くつぶやく。
「……《台詞を忘れる者に、舞台の資格はない》……ただの脅しじゃない。犯人の“哲学”だ」
御子柴理央は手袋越しに仮面の接着痕を指でなぞり、周囲の舞台装置を見渡す。
「犯行現場自体が舞台装置の延長だ。殺意を含めて演出している……この痕跡一つひとつが“演出”の一部」
朱音はスケッチブックに血痕と仮面の位置を描き込みながら、耳元で小声で言った。
「……全部計算されてる。どこに倒れるか、どう見えるか……舞台の上も下も」
玲はゆっくりと仮面を持ち上げ、血の飛び方を指でたどりながら言う。
「台詞を忘れた者への“制裁”。舞台上の死は、犯人にとって演出の完成形なんだ……」
御子柴は周囲の暗がりを鋭く見渡し、朱音の肩に手を置いた。
「……我々は目撃者だ。演出と殺意が交錯するこの現場から、真実を読み解かねばならない」
朱音は小さく息を整え、スケッチブックの線を最後まで引き終える。
旧礼拝室に漂う“演出された死の空気”は、さらに重く、緊張を孕んでいた。
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
玲は慎重にその台本を取り上げ、ページをめくる。
「……これは……第七幕……印刷されたものだ。手書きではない。まったく新しい展開が書かれている」
御子柴理央はルーペを取り出し、紙質やインクの種類を確認する。
「通常の第一幕~第三幕までの台本とは明らかに違う……紙もインクも、新しく作られたものだ。この幕だけ、意図的に追加された可能性が高い」
朱音はページの図版と舞台指示を指で追いながら、小声でつぶやく。
「……舞台の構造まで指示が書かれてる……演出補佐以上の知識がないと作れない……」
玲は眉をひそめ、声を低くした。
「犯人は単に殺意を演出するだけじゃない。第七幕を通して“誰が演者として生き残るか”“誰が幕を下ろされるか”まで設計している……」
御子柴は台本を慎重に閉じ、朱音に向かって言う。
「これがあれば、我々は“演出の全貌”を読み解ける。だが、犯人の意図を完全に理解するには、現場と照らし合わせなければならない」
朱音は手にしたスケッチブックを握りしめ、緊張した面持ちで言った。
「……第七幕。誰も知らない幕。ここから全てがわかるんだね……」
旧礼拝室に漂う緊張感はさらに重く、三人の心を締め付けていた。
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
御子柴理央がページを指でなぞり、声をひそめる。
「……見てください。演者リストです。被害者の名前と仮面番号が記されている……そして……」
朱音の視線が、台本のリストの末尾に釘付けになる。
「……私の名前……“演者Ⅴ”……?」
玲は冷静に、しかし鋭い声で指摘した。
「第七幕はただの演目ではない。犯人は君を“次の標的”として組み込んでいる。ここに名前がある以上、君は演じざるを得ない」
御子柴は資料ファイルを開き、朱音に近づいて解説する。
「このリストからわかることは、犯人は舞台構造と演者の動きを完璧に把握している。誰がどの位置で、どの瞬間に危険にさらされるかまで計算済みです」
朱音はスケッチブックを握りしめ、震える声でつぶやく。
「……私……どうすれば……」
玲は彼女の肩に手を置き、落ち着いた声で言った。
「君一人で戦う必要はない。だが、これを避けるためには、台本のすべてを読み、犯人の意図を理解しなければならない……」
旧礼拝室の静寂に、朱音の小さな息遣いだけが響く。
空気は厚く、緊張の糸が張りつめたままだった。
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
玲はゆっくりと、白い仮面の縁に指先を添えた。
「……この仮面、ただの小道具じゃない。触れるだけで、過去の“感情”や“記憶”を伝えてくる」
御子柴理央が横で頷きながら説明する。
「そうです。これは特殊加工された舞台用の仮面で、演者の心理状態や場の緊張を可視化する仕組みがある。簡単に言えば、心理的な痕跡を残す“記憶媒体”のようなものです」
朱音は恐る恐る仮面を覗き込み、低く呟く。
「……こんなものが……事件と関係しているなんて……」
玲は冷静に目を細め、仮面を慎重に扱いながら言った。
「被害者はこの仮面を通じて、最後の瞬間に犯人の手の内を感覚として残していた。これが、第七幕の“鍵”になる」
部屋の空気は静まり返り、床の古い木のきしむ音だけが、緊張感をさらに増幅させていた。
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
玲は深く息を吸い込み、手袋を外したまま被害者の残した痕跡に指を触れる。
「……視覚と感覚が、繋がった……」
御子柴理央が冷静に説明する。
「サイコメトリーです。指先で触れることで、対象の記憶や感情の“痕跡”を読み取る特殊能力です。しかも、被害者が経験した極限の恐怖や痛みも、視覚化されて脳内に流れ込みます」
朱音は手を握りしめ、小さな声で呟く。
「……怖い……でも、これで誰が……」
玲は静かに仮面に手を添え、目を閉じる。
「犯人は冷静で計算高い。対象に接触した瞬間、心理的な抵抗も物理的な痛みも最小化する手口を知っている。仮面の接着剤、強力な硬化ジェル……これは、舞台の小道具ではなく、殺意を完璧に演出するための“道具”だ」
部屋の空気がさらに重く、湿った静寂が二人を包む。
御子柴が小声で付け加えた。
「これを見抜けるのは、通常の捜査では不可能です。玲さんのサイコメトリーがあって初めて、犯行手口と被害者の最後の瞬間がつながる」
玲は指先に力を込め、暗転した記憶の断片を脳内で追う。
「……次は、犯人の“姿”を残す痕跡だ」
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
玲が、静かに目を開けた。
「……わかった。犯人はこの部屋に侵入していた。間違いない」
御子柴理央は資料を差し出しながら、冷静に言った。
「サイコメトリーの結果、被害者の最後の動きと、触れられた物体の痕跡が一致しています。つまり、犯人は意図的に痕跡を残し、演出のように見せかけている」
朱音は震える手でスケッチブックを抱きしめ、問いかける。
「……でも、どうやってそんなことがわかるの?」
御子柴は軽く肩をすくめ、説明する。
「玲さんの能力は、物理的な接触だけで過去の記憶や感覚を再現することができる。しかも、それが演劇に関わる複雑な状況下でも、被害者の視点から犯行の一連を“再生”できるんです」
玲は静かに床を見下ろし、指先で血痕のわずかな凹凸を確かめる。
「……この跡。犯人は慌てずに、確実に次の行動を計算していた。舞台装置も、仮面も、すべては計画の一部だ」
御子柴は続ける。
「だからこそ、通常の捜査では気付けない。手口も動機も、物理的な証拠だけでは見えてこないのです」
朱音は息を呑み、震える声で呟く。
「……こんなこと、普通の人にはできない……」
玲はゆっくりと立ち上がり、黒い仮面を手に取りながら小さくつぶやいた。
「……次は、犯人の行動の“形”を追う。ここで止めるわけにはいかない」
【場所】聖桜学園・旧礼拝室
【時間】深夜、閉館後
《第七幕:Finale》
黒布で覆われた舞台の上、仮面を被った演者たちの影が揺れる。
白・白・黒――三つの仮面が沈黙のまま、光を受けて浮かび上がる。
玲は舞台袖で観察しながら、低くつぶやいた。
「……これが最後の幕。演者の動き、装置の操作、すべて計算されている」
御子柴は手元の資料を確認しながら、補足する。
「被害者の行動と舞台装置の動きが完全に一致しています。この黒い仮面――“語り手”として選ばれた者の視点を、犯人は完全に把握していた」
朱音はスケッチブックに目を落とし、震える手でページをめくる。
「……わたしが、演者Ⅴ……?」
玲は頷き、指を仮面に添えながら言った。
「君の役割は“目撃者”。真実を映すこと。それ以外に逃げ場はない」
御子柴が資料を差し出し、冷静に続ける。
「第七幕の台本は、被害者の視点と犯行の手順を結びつける“鍵”。犯人の計画は、演劇として完成させるつもりだった」
朱音は小さく息をつき、覚悟を決めるようにスケッチブックを抱きしめた。
「……わかりました。真実を、見せます」
玲は視線を舞台上に戻し、低く言った。
「……最後まで目を離すな。すべてがここで決まる」
微かな緊張の波が空気を揺らす中、黒布の下で物語の“Finale”が静かに幕を開けた。
【場所】聖桜学園・校内放送室
【時間】昼休み直前
校内放送のスピーカーから、落ち着いた低い声が響いた。
「生徒の皆さんにお知らせします。昨日、地下室にて発生した事件について、学校は警察と連携し調査を行っています。生徒の皆さんは、当面、地下施設及び旧設備棟には立ち入らないようにしてください」
ざわめきが広がる廊下。制服の学生たちは、互いに顔を見合わせながら立ち止まる。
玲は朱音の隣で、手袋を外しながらつぶやく。
「……これで校内の安全が一時的に確保された。だが、真相はまだ明かされていない」
御子柴理央は資料を手に、冷静に分析する。
「犯行現場は地下室。未発表台本の存在、そして仮面の痕跡……この三つが今回の事件の核心です。校内放送で警告しても、情報の断片だけでは生徒は完全に理解できない」
朱音はスケッチブックを抱きしめ、声を震わせながらつぶやく。
「……地下室のあの場所、もう二度と行きたくない……」
玲は軽く頷き、視線を放送室の方向に向けた。
「……我々は事実を見届け、必要な証拠を確保する。ここから先は慎重に動くしかない」
廊下に響く足音の代わりに、放送の低い声が再び、生徒たちの間に緊張を残した。
【場所】聖桜学園・生徒ホール脇 資料保管室
【時間】13:12
薄い蛍光灯の光が机の上を照らし、静まり返った部屋に紙の擦れる音だけが響いていた。
玲は腕を組み、仮面の破片に視線を落とす。
朱音はその隣でスケッチブックを抱え、不安を隠しきれずに指先をぎゅっと握る。
椎名環――台本分析のスペシャリストは、落ち着いた表情で未発表台本のコピーを読み込んでいた。
「……仮面の破片、そしてこの接着剤の痕跡」
玲が呟くと、環が顔を上げた。
「この台本、“第七幕”の構成が明らかにおかしい。通常の演出脚本では使わない言い回しが多すぎる。まるで……意図的に歪めてあるみたいです」
そのとき──
資料保管室の扉が静かに開き、水無瀬透と高梨ユウタが入ってきた。
「遅れてすみません。玲さん」
透は軽く頭を下げながら、持ってきたタブレットを机の上に置いた。
記憶探査官としての冷静な目が、机の上の小瓶を見て細くなる。
「……これが、仮面に使われていた接着剤のサンプルですか」
「ええ。被害者の皮膚に強く残っていたものと同じ成分よ」
環が応じる。
ユウタは資料棚にもたれ、少し不安げな顔で言葉を続けた。
「照明倉庫でも、同じタイプの接着剤が一本だけなくなっていました……。ただの道具じゃない。舞台の装置用として、学園で使われてるものです」
玲は静かに目を細めた。
「つまり……犯人は“内部の人間”である可能性が高い、ということか」
透がタブレットを操作しながら言う。
「台本の手書き部分、筆跡は偽装されています。でも少しだけ、特徴が残っていた。おそらく──“同じ人物が過去にもこういう書き方をしていた”」
環は深く息を吸った。
「……“儀式演目”を作った人間。その影が、まだ学園に残っている」
朱音は小さな声でつぶやいた。
「……じゃあ、誰かが……まだ『第七幕』を続けようとしてるって……こと?」
玲は朱音の肩に軽く手を置き、落ち着いた声で言った。
「大丈夫。ここから先は、私たちが止める。“演目の終幕”は……犯人に書かせはしない」
資料保管室の空気は重く、静かで──
だが確実に“真実”へ向かって近づき始めていた。
【場所】聖桜学園・生徒ホール脇 資料保管室
【時間】12:05(昼休み開始直後)
カチリ、と壁掛け時計の針が静かに進み、薄い音が部屋の緊張をいっそう際立たせた。
窓の外では昼休みを告げるチャイムの余韻がまだ漂っている。しかし、小さな資料保管室の空気は、校内の喧噪とはまったくの別世界だった。
深い木目のテーブル。その上には、
・事件現場から採取された白い仮面の破片
・強力接着剤の残留物が入った小瓶のサンプル
・そして椎名環が持ち込んだ“演目台本の変遷資料”
が並べられ、どれもただの証拠ではなく、まるで次の“幕”を促す舞台装置のようだった。
玲は椅子に浅く腰掛け、じっと仮面の破片を見下ろした。
「……第七幕が“追加されていた”という事実が、最も異常だ。誰かが台本そのものを改変し、事件を演出している」
朱音はスケッチブックを抱え、震える指でページを押さえながら小さく呟いた。
「……犯人、まだ……終わってないってことだよね……?」
玲は朱音の肩にそっと手を置き、優しく返す。
「大丈夫だ、朱音。必ず止める。今回の“演目”は、俺たちが幕を下ろす」
椎名環(台本分析スペシャリスト)は、台本を広げながら冷静に口を開く。
「この台本の改ざん箇所……犯人は、演劇の“構造”を正確に理解している。
しかも、仮面の番号管理や役割配置――すべて学園内部の人間しか知らない情報です」
そこに、静かに扉が開いた。
水無瀬透(記憶探査官)が一歩入り、その後ろに照明技師の高梨ユウタが続く。
透は一礼し、落ち着いた声で報告した。
「玲。被害者の“意識残渣”……わずかだが、痕跡が取れた。
強い恐怖の直前、誰かの影を見ている……ただ、顔は見えない」
ユウタは照明のチェック用ケースを置き、眉をひそめた。
「地下室の照明系統も調べたけど……あれは“意図的”に暗くされてた。
舞台照明の扱いに慣れてる奴の仕事だ」
玲は短くうなずく。
「……やはり内部犯か。いや、“内部に入り込んだ演者”かもしれないな」
緊張を裂くように、ノックの音が響いた。
入ってきたのは、学園理事長代理・久保谷裕臣。
穏やかな笑みを浮かべているが、その目には鋭い光が宿っていた。
「状況は聞いています。お力添えできることがあれば、何でも言ってください。
……だが、学園の名を落とすような騒ぎは避けたい。迅速に終わらせねばならない」
玲は久保谷の視線を真っすぐに受け止め、低く答えた。
「こちらも同じ考えです。ただ――“終わらせる”には、真実を隠さないことが条件です」
久保谷は薄く笑みを崩し、意味深に目を細めた。
「……それはもちろん。ですが、気をつけてください。
“この学園にはまだ表に出ていない歴史がある”。
演劇部の“黒い幕”は、簡単には開かないかもしれませんよ」
椎名環が息を呑む。
朱音はスケッチブックを強く抱きしめる。
玲は静かに、しかし確実な声で言った。
「それでも構わない。――幕が下りるまで、俺たちは進む」
資料保管室の空気が、さらに重く沈み込む。
まるで“第七幕”の見えない観客が、息を潜めて彼らを見守っているかのようだった。
【時間:午後0時47分/場所:聖桜学園・理事長応接室】
久保谷裕臣は、両肘をデスクに置いたまま、ゆっくりと息を吐いた。
その言葉は、応接室の空気そのものを重たく沈めた。
「第七の台本のラストには、“理事長の息子が真犯人を演じ、自ら舞台で命を絶つ”と書かれていた。演劇部の誰もが、その演目は“狂気に取り憑かれた演出”だと感じ、封印された。だが……湧人だけは違った。彼だけが、本気で“演じ切ろう”としていた」
沈黙が落ちた。時計の秒針の音さえ、遠くに感じる。
玲が静かに口を開く。
「湧人さんは……“役”を現実に持ち込んだんですね」
裕臣は痛みをこらえるように目を伏せ、喉奥で声を震わせた。
「私は……止められなかった。湧人は幼い頃から、芝居の才能があった。だが同時に…“物語と現実の境界”が薄い子だった。脚本に書かれた行動が、そのまま“使命”だと信じてしまう傾向があったんだ」
朱音がそっと息をのむ。
「じゃあ、今回の事件は……湧人さんが?」
「違う。」
玲がゆるく首を横に振る。
「湧人さんは“犯人役”を演じたが、本当の犯人ではない。彼は“誰かに導かれていた”。自分の意志ではなく、“演出された台本”に従っていた」
椎名環が資料をめくりながら、硬い声で言う。
「導いた者……つまり、その台本を書き換えた人物がいる。湧人くんの性質を理解し、彼を“駒”として利用した誰か」
久保谷裕臣は、苦悩を隠さず、顔に手を当てた。
「湧人は……本当に、ただの子どもだ。演目に従えば、皆が喜ぶと信じていた。理事長の息子なんて関係ない。あいつは、ただ……舞台が好きだっただけなんだ……」
朱音がそっと口を開く。
「湧人さん、今はどこに?」
「保護している。だが混乱がひどい。“幕が下りていない”と言い続けている」
玲の瞳に冷たい光が宿った。
「――幕を下ろさせる。
湧人さんではなく、“本当の演出家”の手でね」
椎名環が机に置かれた第七幕のコピーを指で叩く。
「この脚本を書けたのは……学園内でも、ごく一部。旧演劇部の中心にいた者か、台本の管理を担当していた者……もしくは――」
「……“黒い仮面”を持っていた人物。」
玲が低く言った。
その瞬間、応接室の空気は凍りついた。
久保谷裕臣は顔を上げ、震える声で問う。
「玲さん……犯人は、もう絞れているのですか?」
玲は迷いなく答えた。
「はい。あと一歩です。
犯人は――“舞台の外側”から、すべてを操っている」
椎名環が真剣な眼差しで続ける。
「そして……その人物は、湧人くんの“弱さ”と“才能”を知り尽くしていた。
だからこそ、彼を主役に選んだ」
朱音が不安そうに手を握る。
「玲さん……その人って……」
玲はゆっくり立ち上がり、静かな声で言った。
「これから向かう場所で、すべてが繋がる。
――舞台は最終幕に入ったんだ」
応接室の扉を開け、彼らは歩き出した。
“演目はつづく”
第七幕の最後に書かれたその言葉が、誰よりも重く響いていた。
冬の陽が傾きはじめた午後四時すぎ。
【場所:聖桜学園 本館2階・教職員控室】
窓際のブラインド越しに差し込む光は細く、教室棟から聞こえていた部活の掛け声も、次第に遠くなりつつあった。
控室では数名の教員が書類をまとめたり、保護者連絡に追われたりと、慌ただしさの中にも日常の空気が漂っている。
――ピッ。
控室に設置された校内電話の着信音が、静かに、しかし異様に鋭く響いた。
「……はい、教職員控室です」
受話器を取ったのは、若手英語教員の三枝。
だが、彼女の表情は一瞬で強張った。電話の向こうから聞こえてきたのは、尋常ではない声だったからだ。
「……え? ちょっと、落ち着いてください。
どこにいるんですか? え? “旧礼拝室に……血が……”」
周囲の教員たちが、その言葉に反応して顔を上げる。
空気が、ピンと張りつめた。
三枝はさらに耳を澄ませ、眉を寄せた。
「……仮面が? “貼りついている”って……それ、どういう……」
聞くほどに青ざめていき、やがて震える手で受話器を押さえながら、隣の教頭に視線を送った。
「教頭先生……救護班をお願いします。事故じゃ……ありません。
これ、事件です」
控室のざわめきが急速に消えていく。
冬の陽が沈む前の薄闇が、部屋の空気まで飲み込んでしまったようだった。
そして――控室の扉が勢いよく開く。
「失礼します」
入ってきたのは玲、椎名環、朱音、それから水無瀬透。
背後には、仮面の破片とサンプルの入った保管ケースを抱えた高梨ユウタの姿もある。
湧き立つ空気の中、玲は受付カウンターの前に立つと、静かに、しかしはっきりと言った。
「旧礼拝室周辺の封鎖を。
犯人は、まだ“台本どおりに次の幕を進めている”。
こちらで動きます」
教頭は息をのんだまま、すぐに無線を取る。
そのとき――
控室の奥、職員ロッカーの間でひとり座り込んでいた女性教員が、震える声で呟いた。
「……こんなこと、また起きるなんて。
あの“第七の演目”は……全部、過去の話じゃなかったの……?」
玲がその声に振り返り、目を細める。
「過去じゃない。
“再演”されているんだよ――犯人の都合でな」
冬の陽はほとんど失われ、窓の外は蒼く沈みはじめていた。
聖桜学園の“最終幕”は、すでに静かに動き出していた。
旧礼拝室
午後 4時42分
乾いた空気に、医療用ゴム手袋が擦れる音だけが響いていた。
旧礼拝室のステンドグラスから差し込む西日が、赤と青の淡い光を床に落としている。
その光の真ん中に――仰向けに倒れた一人の生徒の遺体が、静かに横たわっていた。
胸元には深い刺創。
血はすでに黒く乾きはじめており、周囲に広がる扇形の染みは、まるで“舞台の幕開け”のように演出めいていた。
そして、その顔には。
「……また、白い仮面か」
玲が、ゆっくりとしゃがみ込む。
声は低く、だが明らかに緊張の色を帯びている。
白い仮面――
死んだ者の表情を隠すように被せられたそれは、今回も強力な透明ジェル状の接着剤で、皮膚に完全に貼りつけられていた。
仮面の縁からわずかに固まった樹脂がにじみ、額から頬にかけて濁った光沢を放つ。
「……外すのに、また時間がかかりそうね」
遺体の横で検査キットを広げていた御子柴理央が、深く息を吐いた。
医療灯の白い光を操作しながら、淡々と続ける。
「付着量は前の事件より多い。犯人は“演者を固定するための儀式”として、作業に慣れていっている……そんな手つきです」
「慣れていくってことは、まだ終わらないってことだな」
背後で腕を組んだまま立つ、水無瀬透が呟いた。
低く落ち着いた声だが、礼拝室の静寂には不気味なほどよく響く。
玲は遺体の手元に目をやり、小さく息をのむ。
「……環、これを見て」
呼ばれて駆け寄った椎名環が、玲の指し示すものに目を凝らした。
それは、被害者の左手の下に押しつぶされるようにして残っていた一枚の紙。
小さな台本のページの切れ端だった。
黒い太字でこう記されている。
《第三幕・“語り手”が舞台に倒れる》
《黒い仮面は沈黙し、観客の前に“次の犠牲者”を示す》
環が顔色を変えた。
「……まさか、これ……第七幕の連動部分……!」
その声に朱音が小さく震え、玲が即座に振り返る。
「朱音、大丈夫か?」
朱音は唇をかみしめ、震える指で切れ端の文字をなぞった。
「……“次の犠牲者”って……これ、誰かが“続けて演じる”前提で書いてる……」
玲はわずかに目を細めた。
その奥に、冷たい推理の火が灯る。
「犯人は、まだ“台本どおりに事件を続ける”つもりだ。
……演目は終わっていない」
水無瀬が周囲を見渡し、呟く。
「つまり――ここはまだ、舞台の途中というわけだな」
御子柴がさらに仮面の縁を調べ、顎をわずかに上げた。
「玲、これ……接着剤の種類が変わっています。
前に使われた“透明硬化ジェル”じゃない」
「違う?」
「はい。これは……舞台備品室にあった“特殊装飾用レジン”。
本来は仮面の装飾のためのもの……。
理事長代理・久保谷が管理していた種類です」
その瞬間、礼拝室に重たい沈黙が落ちた。
玲は一歩、被害者の隣に膝をつき、静かに目を閉じる。
「……犯人は、確実に“次を準備している”。
そして――台本の“観客が次の犠牲者を知る場面”……それが、今だ」
ゆっくりと目を開けた玲の声音は、冷たく、決意に満ちていた。
「犯人はこの礼拝室に“ヒント”を置いていった。
次の“演者”が誰なのかを示すための……」
水無瀬が息を呑む。
「まさか……」
玲は答えず、ただ、礼拝室の奥――
古い説教台の上に置かれた“何か”を見つめた。
薄い光の中、その上には――
白い仮面が一枚。
そして、朱音の名前が印字された、学生証のコピーが置かれていた。
朱音が息を止める。
「……わたし?」
玲は静かに言った。
「落ち着け。これは“誘導”だ。
犯人は、お前を次の“役者”に見せかけたいだけだ。
……本命は、別にいる」
その言葉と同時に、礼拝室の電話が突然鳴り響いた。
金属的なベルが、古い室内に鋭く響く。
環が青ざめた声で言った。
「……このタイミングで……?」
玲は立ち上がり、受話器に手を伸ばす。
その瞬間、朱音の肩が小さく震えた。
礼拝室の空気が、さらに冷え込む。
玲が受話器を耳に当てた。
「……玲だ」
返ってきた声は、ノイズ混じりの低い声。
そして、
《――第七幕、つづけよう》
礼拝室に再び、深い静寂が落ちた。
【場所:聖桜学園・臨時鑑識室(旧理科準備室を封鎖して使用)
時間:夕刻・外が薄青く暮れ始めるころ】
蛍光灯の白い光が、薄暗い室内に規則的な影を作っていた。
もとは理科準備室だった空間は、今は簡易の鑑識室として改造され、金属棚には試薬瓶や分析器具、黒いケースに収められた器材が整然と並んでいる。
外の廊下から聞こえる生徒の気配は遠く、ここだけが事件の真ん中に沈んだように静かだった。
ステンレス製の証拠台の上には――
仮面、接着剤の残渣が付着した小瓶、被害者が着ていた制服の上衣。
寒々しい光を反射しながら、そこに“物言わぬ証人”として並べられていた。
「第A検体、接着面の成分、採取完了。分離に入ります」
御子柴理央は無駄のない動きで薄い手袋越しに器具を扱い、淡々と呟く。
革ブーツの底が床に微かに触れてきしむ音すら、ここでは異様に響いた。
玲は彼女の横で、腕を組んだまま証拠台を見つめていた。
分析器の電子音が短く鳴る。
御子柴が画面に視線を走らせ、その眉がわずかに動いた。
「……やっぱりか」
玲が小さく声を落とす。
御子柴は資料パッドを玲へ向けながら言った。
「接着剤の成分、完全一致。“舞台装置用の固定ジェル”です。しかも通常の備品ではなく、演出補佐のみが管理する《ハイグレードタイプ》。一般の生徒はアクセスできません」
朱音が息をのむ音が、静かな室内に響いた。
「じゃあ……使える人が限られるってことですか……?」
玲は短く頷く。
「そうだ。旧礼拝室で使われていた“あの仮面”……
あれを貼りつけられた瞬間、被害者はもう“演者”として扱われていた。
犯人は、劇を“現実に持ち出している”。」
御子柴が新たな分析結果を見ながら口を開く。
「それと……制服の繊維に付いていた皮脂。ほぼ間違いなく“別の人物”の手が加わっています。被害者は仮面を自分では付けていない」
「つまり、犯人は被害者を“道具”として舞台に立たせた……か」
玲の声は静かだったが、その目は冷たい光を宿していた。
御子柴はさらに、証拠台の端に置かれた折れ曲がった仮面の欠片を指で押しやる。
「この破片……衝撃じゃなくて、“意図的な折り目”です。
まるで……開演の合図みたいに折り筋が入れてある。
これ、儀式とセットで使われてますよ」
朱音の小さな声が震えた。
「そんな……本当に“誰かが台本通りに”……?」
玲は朱音に目線を向け、言葉を選ぶように静かに言った。
「ああ。
台本は“使われている”。
犯人はまだ“次の幕”を演じるつもりだ」
御子柴が短く息を吐く。
「……急ぎましょう、玲さん。
この“演目”、途中で止めなきゃ次の犠牲者が出ます」
玲は静かに頷き、証拠台に置かれた仮面を見下ろした。
その仮面は何も語らない。
ただ、冷たく。無機質に。
――“この先も幕は続く”とでも言うように。
「行くぞ。第七幕を終わらせるために」
玲のその言葉だけが、重たい部屋の空気を切り裂いた。
場所:聖桜学園・旧設備棟資料アーカイブ室
時刻:午後4時42分
古い金属製キャビネットの引き出しが、鈍い音を立てて開かれた。
中には、長年誰にも触れられていないような、埃をかぶったファイルが数十冊。
そのうち一冊――赤いインデックスが貼られた“封印記録”のファイルに、玲の指が静かに触れた。
「……これか。演目封印の正式記録が残っているはずだ」
隣でライトを構えていた椎名環が、息を飲んだように小さく呟く。
「封印資料って……理事会の許可がなきゃ触れないはずじゃ……?」
玲は答えず、ファイルをゆっくり引き出した。
その瞬間――
室内の隅から、微かな咳払いが聞こえた。
「許可なら、出しておいたよ」
薄暗い棚の影から姿を現したのは、
学園外部捜査顧問であり、文化遺物データの専門家でもある 綾城セラ。
黒いタブレットを片手に、落ち着いた笑みを浮かべていた。
「“演劇部封印事件”……あれは表向きには事故扱いだったけれど、裏ではもっと面倒なことになっていたの。
資料も保管庫ごと改ざんされてね。今日はあなた達が来るだろうと思って、先に仕掛けを解除しておいた」
玲はわずかに眉を動かした。
「君が、封印タグを外したのか」
セラはタブレットを操作しながら、軽く頷いた。
「正確には“本来の状態に戻した”だけよ。
このキャビネット、表面の鍵はただの飾り。裏側に“電子封鎖”が仕込まれていた。
御子柴さんの解析がなければ、気づかれずにデータごと消されていたわ」
椎名が驚いた声を漏らす。
「裏封鎖……じゃあ、誰が?」
セラは赤いファイルに視線を落とし、静かに言った。
「封印したのは、当時の理事長と“演目の演出家”。
だけど――改ざんしたのは別人。
その人物は、この資料に触れられたくなかった。
第七幕が、本来どんな“結末”だったのか……知られたくなかったのよ」
玲はその言葉に、ゆっくりと息を吸った。
そして、赤いインデックスのファイルを開いた。
紙の擦れる音が、冷えたアーカイブ室に鋭く響いた。
ページの冒頭には、こう記されていた。
《第七幕 完全封印》
理由:精神負荷の危険性
追記:演者Ⅴの選抜は“中止”。再開不可。
その後のページに書かれた名前を見た瞬間、
朱音の肩がびくりと震えた。
――“演者Ⅴ:佐々木朱音(予定)”
セラは机にファイルを広げながら、淡い声で言った。
「この“予定”という文字……本来は消されていた箇所よ。
復元して出てきた。つまり――」
玲が目を伏せ、低く続けた。
「朱音は、十年前から“選ばれていた”」
空気が、張りつめた。
アーカイブ室の冷たい蛍光灯が、封印ファイルの赤いインデックスに不吉な光を落としていた
場所:聖桜学園 図書室・最奥の半個室
時刻:夕方前、放課後のざわめきが遠ざかる頃
半個室の中は、図書室とは思えないほどの熱気を帯びていた。
蛍光灯が書類の山を白く照らし、その中央に玲、朱音、椎名環が座っている。
そこへ、ゆっくりと足音を立てながら新たな人物が近づいてきた。
扉がわずかに開き、長身の男が姿を見せる。
「失礼する。……状況は、どこまで進んでいる?」
落ち着いた低音。
男の名は 黒瀬航大。
外部から招かれた 行動心理プロファイラーであり、劇場型連続事件の分析を専門とするスペシャリストだった。
玲は視線を上げ、淡々と応じた。
「黒瀬さん。ちょうど、“第七幕”の構造解析が終わったところです」
椎名環が分厚い書類をまとめ、黒瀬に差し出す。
「この台本……普通の演目じゃありません。舞台脚本に見せかけた“処刑の手順書”です」
黒瀬は受け取った紙束をめくりながら、眉をわずかに動かした。
「仮面、接着剤、演者の配置……すべて儀式的だな。しかし、一番の問題は――」
「“演者Ⅴ”に朱音の名前があること、ですよね」
朱音が俯きながら言った。声が震えていた。
黒瀬は彼女を見ると、静かに言葉を置いた。
「安心していい。犯人は“朱音さんを舞台に上げる前”に、必ず準備行動を取る。
それを追えば、こちらが先に仕掛けられる」
玲が小さく頷き、机の上の一枚を指先で押した。
それは、事件現場から押収された 仮面の内側の接着剤の化学分析結果だった。
「理央の鑑定によれば、この接着剤……劇場用の市販品じゃない。
“特注品”だ。製造ロットの追跡ができる」
黒瀬の瞳が鋭く光る。
「つまり――購入者を割り出せば、犯人が見える」
朱音が息を飲む。
「じゃあ……犯人はもう、特定できるってこと?」
玲はゆっくりと椅子を引き、立ち上がった。
「まだ“候補”だ。だが――絞れた。
この学園内で特注品の取り扱いが可能な人物は一人だけ」
椎名環も緊張した面持ちで口を開く。
「旧設備棟の権限を持ち、舞台装置の特殊素材にアクセスしていた人物。
おそらく、この“第七幕”を封印した時から関わってる」
黒瀬が書類を閉じ、静かに告げる。
「名前を言え、玲」
玲の目が細くなる。
「――久保谷湧人。
理事長代理の息子。そして……“封印された演目”の最後の演者だ」
朱音の手が震え、環が軽く彼女の肩を押さえた。
白い紙の上には、台本の一行が浮かび上がっているように見えた。
《第七幕:終幕の演者は、必ず誰かを連れて舞台に立つ》
黒瀬が息を深く吸って言う。
「急ぐぞ。
次の“舞台”は、もう準備に入っている」
――聖桜学園のどこかで、終幕の幕が、静かに上がろうとしていた。
図書室・半個室
静かな空気の中
朱音の指が、台本の紙をつまんだまま動かなくなった。
「……これ……」
その声に、隣で資料を広げていた姉崎千紗が顔を上げた。
彼女は“舞台心理のスペシャリスト”――演出家が仕込む暗示や意図を読み解く専門家だ。
「どれを見つけたの?」
朱音は、震える息を整えながらページを押し出した。
そこには、わずか数行の舞台指示が記されていた。
《孤児の少女が、仮面の男の手を取る》
姉崎の目が細くなる。
「……この指示、明らかにおかしいわね。
儀式演目の“原典”には存在しないシーン。追加されたものよ。」
朱音は台本に手を置いたまま、低く呟く。
「……これ、私のこと……?」
千紗は即座に首を振る。
「違う。そう見せかけるために書かれている。“演者Ⅴ”を暗示するフェイクよ。」
「フェイク……?」
「そう。観る者――そして“読む者”の心に、ある人物像を刷り込むための仕掛け。
仮面の男が少女を導く構図は、昔の寓話劇の引用だけど……ここでは“犯人像の誘導”として利用されている。」
姉崎はさらにページをめくり、細く線をなぞった。
「この追加指示は、明確に誰かの意図で書かれたもの。
犯人――ではなく、“脚本を書き換えた者の存在”が浮かび上がるわ。」
朱音は息をのむ。
「じゃあ……本当の犯人は、台本を……?」
姉崎は朱音の瞳をまっすぐ見つめた。
「ええ。
《第七幕》そのものが、“事件を起こすために編集されたシナリオ”なの。」
そしてページの端を指で軽く叩く。
「このシーンは、犯人が作った“嘘の演目”。
あなたを巻き込むための――“呪いの行”と言っていい。」
朱音の手が、無意識に胸元を押さえた。
「……わたし、最初から……見られていたんだ……?」
千紗は静かにうなずく。
「ええ。
でも大丈夫。これは“誘導の証拠”。
ここを突破すれば、台本の書き換え主――真の“演出家”に辿りつける。」
その言葉に、朱音の表情が僅かに引き締まった。
机の上の古い台本は、まるで息を潜めるようにページを閉ざしている。
しかしその中には、まだ暴かれていない“脚注”と“影の演者”の気配が、確かに潜んでいた。
【場所:聖桜学園 本館2階・図書室奥の半個室】
【時刻:18時10分】
壁に設置された赤いランプが点灯し、スピーカーから微かなノイズのあと――
学園内に、静かで奇妙に抑揚のない女性の声が流れた。
「本日18時45分より、本校演劇部による臨時公演『仮面の告解』を職員棟裏・演劇倉庫にて実施いたします。一般生徒の観覧は制限されますが、関係者の立ち入りは許可されます。どうぞ静かにご移動ください」
朱音は息を呑み、台本を握りしめる手にうっすら汗がにじんだ。
隣で資料を束ねていた玲は、すぐに顔を上げる。
「……来たな。始まるぞ、“第七幕”。」
椎名環がページを閉じ、眉間を押さえて言う。
「ありえません。演劇部は今日、公演予定なんて――出していません。
これは……誰かが勝手に流した放送です」
環の声は震えていた。それでも分析官としての冷静さは崩れていない。
朱音が不安に揺れる目で二人を見る。
「玲さん……これ、罠……だよね?」
「罠だろうな。でも――行くしかない」
玲はゆっくりと立ち上がり、黒いコートの裾を整える。
その表情は読めない。だが、瞳の奥だけが鋭く光っていた。
扉が開き、記憶探査官・水無瀬透が緊張感をまとって顔を出した。
「玲、放送を聞いたか? 倉庫の周辺、すでに立入禁止テープが外されてる。誰かが“準備してる”」
高梨ユウタも、手に照明器具のケースを抱えたまま駆け寄る。
「倉庫の照明システムも、勝手に通電されてた……。あれは誰かが“舞台を開くつもり”なんだよ」
玲は短く息を吐いた。
「……第七幕は、ついに“本番”に入った。
犯人は全員をあの倉庫へ集めようとしている。
そして――“演者Ⅴ”、朱音を舞台に立たせるつもりだ」
朱音は肩を震わせる。
「……私、舞台に……?」
玲はそっと朱音の肩に手を置いた。
「安心しろ。舞台に立つのは犯人だ。
おまえには、一歩も“幕の外”へ出させない」
環、水無瀬、ユウタもそれぞれうなずく。
「分析は私が続けます。犯人が何を再現しようとしているか――必ず突き止めます」
「記憶の残滓があれば、僕が拾う。舞台のどこに仕掛けがあるかも探る」
「照明ブースは俺が押さえる。倉庫内の暗転は、もう犯人の思い通りにはさせない」
玲は視線を倉庫の方角へ向けた。
「行くぞ。
次の一幕を閉じるのは――俺たちだ」
朱音がぎゅっと台本を握りしめ、立ち上がる。
“演目はつづく”
それなら、こちらも終幕を用意するだけだ。
そして一行は、静まり返った図書室をあとにして、
“舞台”へと向かった。
午後6時42分/旧演劇部倉庫(学園裏)
夕闇が落ちきる直前の薄紫の空の下、倉庫の前に立った朱音は、手に持つ台本を胸に抱えたまま息をのんだ。
扉には、あるはずの南京錠が掛かっていない。
風が横から抜け、錆びた取っ手をわずかに揺らす。
まるで「開けて」と囁くように。
朱音は扉に指を触れた。冷たい。
押すと、わずかに軋む音を立てながら開いた。
中は薄暗く、埃と古い木材の匂いが積もっていた。
しかし、その奥に――見慣れない人影があった。
黒いコートを着た青年が、舞台用の照明スタンドに寄りかかるように座り、こちらを見ていた。
照明もないのに、その眼だけが妙に明るい。
朱音は足を止める。
「……だれ?」
青年は微笑んだ。だが、その表情の奥にあるものは読めない。
「君のほうこそ、何をしにここへ?」
声音は落ち着いている。
だが、倉庫に似つかわしくないほど澄んだ声だった。
朱音は手にしていた台本をそっと持ち上げた。
「……練習。台本、もらったから。ここ、前は演劇部の……」
「知ってるよ。十年前に廃部になった場所だ。」
その言い方は、まるで“立ち入り禁止”と言わんばかり。
しかし同時に、彼はここを守っているかのようにも見えた。
朱音の眉がわずかに寄る。
「じゃあ、なんで鍵が開いてたの?」
青年は顎を少しだけ上げ、朱音を見る目つきを鋭くした。
「それを確かめに来たのさ。」
その瞬間、風が倉庫の隙間から吹き込み、散らばった台本のページが一枚めくれた。
朱音がさっき読んでいた一幕――《孤児の少女が、仮面の男の手を取る》。
青年はそのページを目にして、表情を止めた。
「……そのシーン、まだ配られてないはずだけど?」
朱音の心臓が跳ねた。
「え……? 今日の放課後に、机の上に置いてあって……」
青年は立ち上がる。
その動きは静かだが、倉庫に張りつめた空気を震わせた。
「誰が置いたか、分かってる?」
朱音は首を振った。
青年は少し考え、口を開く。
「……ここには“台本を書き換える人間”がいる。
そしてそれは、現実のほうも書き換えようとする。」
朱音の指先が冷たくなる。
「え、それってどういう――」
「まずは外に出よう。ここは長居すべきじゃない。」
青年が歩き出し、朱音の方へ手を差し出した。
倉庫の奥で、また一枚、台本の紙がひらりと落ちる。
そこには、新しい舞台指示が書かれていた。
《少女、知らぬ男の手を取る。》
朱音は、その行に凍りついた。
まるで――今の自分が、台本に“書かれている”かのようだった。
青年の手は、まだ差し出されたまま。
朱音は、ごくりと息をのみ――
その手を取るべきか、迷った。
【19:12/学園裏手・旧演劇部倉庫】
夕闇が濃く落ち込み、倉庫の壁に長い影が伸びる。
風が草を揺らし、扉の金具がかすかに鳴った。
南京錠の外れた扉に視線を奪われながらも、胸の奥で小さなざわめきが広がる。
――おかしい。誰かが先に入った?
息を潜めて耳を澄ます。
カチ…カサッ。
突如、倉庫の裏手で物が擦れるような音がした。
心臓が跳ねる。足音だ。確かに、誰かがこちらへ回り込んでくる。
倉庫の角を回ったその人物が、ゆっくりと姿を現した。
白い息を吐きながら立ち止まったのは、一人の生徒。
手には古びた仮面。握る指が微かに震えている。
足取りは不安定で、ふらつくたびに靴裏が砂利を踏む音が静けさを破った。
「……こんなところで、何をしてるの?」
思わず声が落ちる。
問いかけというより、息の漏れに近い。
生徒は顔を上げたが、瞳の焦点はあいまいで、どこか遠いものを見ているようだった。
「……呼ばれたんだ。ここに、来いって」
「誰に?」
「……わからない。でも…聞こえたんだよ。舞台の“裏側”から」
風が吹き、倉庫の扉がかたりと揺れた。
その音に、生徒の肩がびくりと跳ねる。
「その仮面……演劇部の?」
「うん。倉庫の中で…勝手に落ちてきた。手に取れ、って言われた気がして」
生徒の声はかすれ、だが確かに怯えていた。
「まさか、あの台本の“続き”が……」
言いかけた瞬間、倉庫の奥から何かが落ちる硬い音が響いた。
ガタンッ。
二人とも反射的に扉を見る。
夕闇より深い暗さが入口の向こうに沈んでいる。
生徒がひそりと囁く。
「……ねえ。あれ、“誰か”いるよね」
耳の奥で、低いざらついた声がふっと触れたような気がした。
――舞台の幕は、まだ降りていない。
倉庫の闇の奥へ、冷たい空気が流れ出す。
「…行かないと。“スペシャリスト”が言ってた。
“最初の矛盾は必ず現場に残る”って」
その声が、確実に何かの始まりを告げていた。
学園理事長代理・久保谷の姿が消えた“その夜”の続き。
(※名前のふりがな無し、時間・場所を記入、小説形式、左寄せ、線引きなし)
―――――――――――――――――――――
【23:18 学園・生徒指導室】
薄暗い室内に、モニターの残光だけが浮かんでいた。
消灯後の校舎は静まり返り、窓の外から入り込む冷気が、紙の端をかすかに揺らす。
デスクの上に置かれた端末は、誰も触れていないはずなのにスリープを解除したままだ。
画面には、いくつものファイル名が点滅していた。
“仮面 在庫管理 ― 旧演劇部保管”
“舞台演目データ 履歴変更”
“音声ログ 椎名環”
“外部人物照合プロファイル 玲”
「……消し忘れ、にしては露骨だな」
低くつぶやきながら、玲は椅子を引き寄せ、端末に残ったアクセスログを指で辿っていく。
「23時4分から23時11分。たった七分……その間に四つのデータを閲覧して、二つ編集、そして一つを外部にコピー?」
奈々が肩越しに画面を覗き込み、眉をひそめた。
「ログを消してない……? 久保谷がやったにしては雑すぎる。
むしろ“見つけてください”って言ってるみたい。」
玲は唇を結び、小さく首を振る。
「いや、違う。これは“誰かに急かされていた時の痕跡”だ。
隠蔽の手順が途中で途切れてる。外部コピーのあと、急に操作が止まってる。」
奈々は画面の右端にある、かすれたエラーメッセージを指した。
「……アクセス強制遮断。
誰かが遠隔から端末を停止させた?」
「少なくとも、久保谷は自分の意思でここを離れたんじゃない。」
玲はゆっくり立ち上がり、薄暗い室内を見渡した。
「“仮面”のデータ、椎名環の音声ログ……そして俺のプロファイルまで。
これらを集めて、いったい何をしようとしていた?」
奈々が小声で答える。
「――舞台を、再現する気だったんじゃない?
十年前の、あの倉庫で。」
室内の沈黙が、息の詰まるほど重く落ちた。
玲は目を細め、背筋に走る寒気を押し殺すように言った。
「久保谷は、まだ学園のどこかにいる。
だが……“自分の意思”とは限らない。」
外の廊下で、風もないのにブラインドが、かすかに揺れた。
【時間:22:41/場所:旧演劇部倉庫・外周通路】
冷たい風が倉庫の壁を撫でる。
その外側――暗闇を切り裂くように、二つの影が駆けてきた。
足音を殺すように走る影の先頭で、玲が小さなライトを床に向けて照らす。
照らされた土埃の上には、ついさきほどまで人がいた痕跡――揺れた足跡と、擦れた跡。
「……ここだ。朱音は、この先に運ばれた可能性が高い。」
奈々は端末を抱え、息を整えながら画面をなぞる。
「演劇倉庫のログ、全部復元できたわけじゃないけど……このICチップのアクセス記録、絶対に久保谷のものよ。しかも“音楽準備室”にも寄ってる。何か仕込んだ形跡がある。」
玲は眉をひそめた。
「椎名環のデータも奪われていた。あの仮面の構造と舞台演出を利用して、どこまでやるつもりなんだ……。」
そのとき。
倉庫の内側から――かすかな声が漏れた。
「……だれか……」
玲と奈々は目を合わせ、無言のうちに動いた。
玲がドアに肩を当て、ゆっくりと押し開ける。
閉ざされた倉庫の空気が流れ出し、埃の匂いが夜気に混じった。
【時間:22:43/場所:旧演劇部倉庫・内部】
薄暗い倉庫の奥。
倒れた衣装ラックのそば、古い舞台幕の上――朱音がいた。
小さく丸まった身体、震える指。
その横には、誰かが落としていった“白い仮面”が転がっている。
奈々が駆け寄り、朱音の肩にそっと手を置く。
「朱音ちゃん、聞こえる? もう大丈夫だから……!」
朱音は目を開け、ぼんやりと二人を見つめた。
「……仮面の……ひと……あれ、ね……ひとじゃ……なかった……」
声は震え、しかし必死に何かを伝えようとする。
玲が低く落ち着いた声で続ける。
「朱音、ゆっくりでいい。何があった?」
朱音は胸元を握りしめ、か細い声で答えた。
「“だれかの声”がしたの……耳のなかに……
――『連れてこい』って。
でも、隣にいた仮面のひと、ふらふらしてて……
声のとおりに動いてるみたいで……」
奈々が顔を強張らせる。
「……遠隔誘導。舞台用の仮面、内部にデバイスが仕込まれてた可能性が高いわ。」
玲は仮面を拾い上げ、裏側を確認する。
その内側、スポンジの下――隠された小さな基盤があった。
赤いランプは消えているが、焼け焦げた匂いがする。
「暴走させたデバイス……久保谷、自分で証拠を燃やしたな。」
朱音は玲の袖を握る。
「……まだ、もうひとつ……ひと……いる……。仮面のひと、倉庫を出る前に言ってたの……
“廃墟の部屋に呼ばれた”って。」
奈々が端末を強く握る。
「“廃墟の部屋”……。久保谷は、そっちに逃げた!」
玲は立ち上がり、朱音を奈々に預けた。
「朱音は任せた。俺は久保谷を追う。」
倉庫の扉が再び風を切る音を立てる。
夜の学園に、ひとつの真実が残されたまま眠っていた。
学園近郊・旧住宅街の外れ
廃墟となった二階建て家屋跡/午後10時42分
崩れた外壁から、夜風が笛のように吹き抜けていた。
足元には割れたタイルと、雨で湿った紙片が散らばっている。
朱音は震える指で、埃をかぶったノートを拾い上げた。
表紙には、かすれたペン字でこう記されていた。
《第十四回特別公演 — 記憶と影の観客たち —》
「……これ、演劇部の……?」
朱音がつぶやくと、横で懐中電灯を構えていた玲が静かに頷く。
「GPSログはここの一点で止まってる。久保谷は――ここで作業をしていたはずだ」
朱音はノートを胸に抱え、周囲を見回した。
部屋の中央には、古い衣装ラックの残骸。
その上に無造作に置かれた、未使用の白い仮面が三枚。
「ねぇ、玲……。なんでこんなに仮面があるの?」
「――役者が複数いたということだ。久保谷一人じゃない」
玲は草稿を手に取り、ページを素早くめくった。
そこには、演劇とは思えないほど詳細な“行動指示”が並んでいる。
《仮面A:目撃者を誘導》
《仮面B:証拠を改ざん》
《仮面C:記録媒体を回収》
朱音の喉がかすかに鳴った。
「これ……舞台じゃなくて、事件の……計画書?」
「そうだろうな。しかも、相当綿密だ」
ページをめくる玲の手が、ふいに止まった。
黒いインクで書き足された走り書き――
《椎名環:処理済》
《次、朱音》
朱音の肩が小さく跳ねた。
玲はわずかに目を細め、ノートを閉じる。
「……もう隠す気もなかったらしい」
「わ、私……狙われてたの……?」
「違う。狙われ“ている”。まだ終わっていない」
玲が言い終えるより早く――
廃墟の奥、倒れた本棚の向こう側で
ガサッ…… と乾いた音が響いた。
朱音が息を呑む。
玲は迷いなく朱音を自分の背にかばい、低く囁いた。
「朱音、後ろへ——誰かいる」
薄闇の向こうで、微かに白いものが揺れた。
光を反射した仮面の輪郭だった。
そして、その奥からかすかな声。
「……間に合わなかったか。もう、気づかれてしまったんだね」
その声は、二人のよく知る人物のものだった。
【場所:学園図書館・地下階段入口前】
【時間:22:41】
薄暗い図書館の奥、普段は職員しか入らない資料庫。その床板の一枚をずらすと、冷たい空気が吹き上がった。
「……ここ、本当にあるんだね」
朱音が息を飲む。懐中電灯の光が地下へ続く細い階段を照らし、土壁が不気味に光を吸い込んだ。
「夏目薫の手記だけじゃ足りない。朱音の記憶と一致したからこそ確信できた」
玲は静かに答え、手にしたタブレットを操作する。
階段の入口横で、小柄な人物が金属ケースを開いていた。
記録分析を専門とするスペシャリスト――御子柴が、無言で光学スキャナを取り出す。
「地下に入る前に、通気口近くの粉塵を採取しておきます。……数日前に人が出入りした痕があります。靴底の付着汚れ、材質は――演劇用の大道具木材と一致」
御子柴の声は落ち着き、淡々としているのに、どこか緊張を含んでいた。
「久保谷がここを使った可能性が強いってこと?」
朱音が尋ねる。
「強いどころじゃない。ここで“何かを隠した”。あるいは“誰かを閉じ込めた”。」
玲は階段へ視線を落とす。
深い闇が、呼吸を潜めて待ち構えているようだった。
「行こう。――朱音、後ろにいて」
「うん……でも、あの場所、見覚えがある気がするの」
玲は一瞬だけ朱音を見る。
その反応を、御子柴は横目で観察していた。
「記憶の断片が刺激されているようですね。無理はしないでください。必要なら心理行動のスペシャリスト・九条を呼びます」
朱音は首を振った。
「大丈夫。思い出さないといけない気がするの」
玲は懐中電灯を前に向け、一段目へ足を踏み入れた。
ギシッ……
古びた階段が、まるで“侵入者を歓迎していない”かのように軋む。
【場所:図書室下層・元演劇部リハーサル倉庫】
【時間:22:47】
地下に降り立つと、湿った空気が肌に張りついた。
奥には、黒いカーテンが吊られ、光の届かない空間がぽっかりと開いている。
「……舞台の控え室みたい」
朱音の声が震える。
「ここ、昔、誰かが“練習してる音”を聞いたことがあるの」
玲はカーテンへ近づく。
御子柴は周囲に目を走らせ、足元の粉塵をスキャンする。
「人の出入りは三日前が最後。重量のあるケースをここに運んだ跡があります」
「ケース?」
「楽屋用メイクボックスに似たサイズ……ただし通常より重い。内容物は――」
御子柴が言いかけた、その瞬間。
カーテンの向こうで、ガタン、と何かが倒れた。
朱音が息を詰め、玲はライトを構えた。
「……誰かいる」
朱音の声が震えていた。
玲は短く息を吸い、静かに答える。
「朱音、下がって。ここからは慎重に行く」
カーテンの向こうには――
久保谷が残した“最後の舞台”が広がっているかもしれなかった。
静まり返った校舎の中――
旧図書室下層・非公式リハーサル倉庫
午後10時42分
玲と朱音は、埃を払って広げた夏目薫の最後の台本を、小さな卓上ライトの下で読み進めていた。
紙はところどころ湿気で波打ち、しかしその文字だけは、まるで誰かが“今書いたばかり”のように鮮明だった。
朱音は、震える指で一行をなぞる。
「……『君が見てきたものは、本当に他人の劇だったか?』って、どういう……意味なの?」
玲はしばらく黙って台本を見つめていたが、やがて低く答えた。
「夏目薫は、演者を選ばなかった。
“観客”すら、役者にしてしまうタイプの脚本家だ。」
朱音の眉がわずかに寄る。
「つまり……わたしたちも?」
「おそらく、最初から“巻き込まれている”。
台本に名前を記されなくても、行動が役を決める……そういう舞台を作る人だった。」
そこで、暗い階段の方から、落ちるような足音がひとつ。
ふたりは同時に振り返る。
ライトの外の闇から姿を現したのは――
白い手袋に、黒縁の無線付きメガネ、胸元に「記録分析官(Forensic Record Specialist)」のプレートを下げた人物。
声は静かで、無駄に抑揚がない。
「……やはり、ここに来ていたか。」
玲が目を細める。
「記録スペシャリストの“御子柴”か。
どうして内部資料班が、こんな時間に?」
御子柴は答えず、代わりに懐から小さな封筒を出して卓上に置いた。
「夏目薫の台本の原本。
そして――久保谷が隠していた“未登録の上演記録”。
あなたたちが読んでいるその草稿は、第三稿だ。」
朱音が息をのみ、玲が封筒を開く。
薄い紙が何枚も重なっている。
一枚目の上部には、こう印刷されていた。
《第零幕:観客指名》
“役を決めるのは、観客自身である”
朱音「……観客が、役を……決める……?」
御子柴はゆっくり視線を上げ、言葉を落とす。
「“この地下倉庫に足を踏み入れた者は、自動的に配役される”。
――夏目薫が最後に設計した“仕掛け”です。」
玲「……つまり、ここは舞台装置そのものってわけか。」
御子柴はわずかに頷き、続けた。
「そして朱音さん。あなたの“見た記憶”は、劇の順番を変えてしまった可能性がある。」
朱音「わ、わたしの……?」
「夏目薫は、観客の視線が“どの演者を見ていたか”で構成が変わる演目を構想していた。
記憶を持つ観客は――台本の改稿と同じ影響を与える。」
闇が、少しだけ冷たくなる。
玲は台本を閉じ、短く言った。
「……つまり。
朱音の記憶そのものが、この事件の“改稿理由”ってことか。」
御子柴は沈黙のあと、静かに結論を置いた。
「夏目薫の最終稿には、こう書かれていました。」
ライトに白い紙が差し出される。
“最後に幕を下ろすのは、舞台の中央に立つ者ではない。
――その瞬間を見届けた者である。”
朱音の喉が小さく鳴る。
玲は、その肩にそっと手を置いた。
「……朱音。
どうやら、夏目薫が“選んだ観客”は――最初から、君だったみたいだ。」
台本のページが、誰も触れていないのに、ぽたりと落ちる。
地下倉庫の静寂は、舞台の開演を告げる鐘のように響いていた。
第二音楽室
午後9時42分
静寂を切り裂くように、玲が防音扉を押し開けた。
室内には淡い非常灯だけが灯り、影がゆっくりと揺れていた。
床には、砕けた仮面の白い破片。
そのすぐそばに、朱音がいつも髪に結んでいたものとよく似た――赤いリボンが落ちている。
椅子に座らされた少女は、視線を虚空にさまよわせていた。
痩せた肩が微かに震え、両手は後ろで縛られている。
玲は駆け寄りながら声を落とした。
「動かないで。いま、縄を外す」
少女は焦点の合わない目で、かすかに瞬いた。
「……ここ、暗い。だれも……こなかった」
朱音がそっと膝をつき、少女の頬の高さに顔を合わせた。
「もう大丈夫。わたしたちが迎えに来たよ。怖かったよね?」
少女は唇を震わせたが、すぐには言葉を返せなかった。
その代わり、足元の仮面の破片に視線が吸い寄せられる。
「この仮面……割れてる」朱音が呟く。
玲は破片を拾い上げ、照明に透かした。
「ただの舞台小道具じゃない。裏に識別チップ……いや、これは別の“記録媒体”だ」
そのとき、第二音楽室の入口で足音が止まった。
ゆっくりと姿を見せたのは、白衣を羽織り、肩から分析パックを下げた人物。
記憶解析のスペシャリスト――水無瀬透だった。
「……やっぱり、ここでしたか」
透は破片を一瞥し、玲へ短く頷く。
「この仮面、記録データの“残滓”があります。破壊される寸前まで、誰かが強制的に書き換えようとしていた形跡がある」
玲が眉を寄せる。
「久保谷の仕業か?」
「可能性は高い。ただ……」透は部屋の奥を見つめる。「この子の記憶に、“仮面を外そうとした第三者”が接触している。記録と証言の齟齬がある」
朱音が驚いたように少女の手を握った。
「誰か……助けようとしたの?」
少女は震えるまま、ゆっくりとまぶたを閉じた。
やっと搾り出した声は、小さく痛むような囁きだった。
「……白いコートの人……“演目を終わらせるな”って……言ってた……」
透が息を呑む。
「白いコート……久保谷だけじゃない。もう一人、介入者がいる」
玲は静まり返った室内を見回しながら呟く。
「舞台はまだ終わってない、か……」
朱音はリボンを拾い上げ、少女の肩にそっと乗せた。
「じゃあ、わたしたちが終わらせる。“誰かの劇”じゃなくて――ほんとうの結末を」
第二音楽室には、緊張と決意だけが静かに満ちていった。
【場所:学園・警備室前通路】
【時間:22:41】
鈍く光る白色灯の下、警備室前の通路はしんと静まり返っていた。
張り詰めた空気の中、警備主任・梶原は、小型タブレットを手に立ち止まる。
通路の先には、さっきまで誰かが立っていた気配――わずかな空気の乱れだけが残っていた。
「……おかしいな。巡回ログが、また書き換えられてる」
梶原はタブレットをスライドし、監視カメラの一覧を呼び出す。
その動きは焦りよりも、むしろ“慣れている”ように見える。
画面に映るカメラ名が、次々と灰色に変わっていく。
「三番廊下、四番階段、旧演劇棟前……全部同じタイミングで落ちてる。これ、偶然じゃねぇ」
彼は低く息を吐き、イヤホンマイクを指先で押さえる。
「――こちら梶原。サーバーに再度侵入があった可能性あり。残ってた仮面関連の管理ファイル、誰かが“完全削除”しにきてる」
返答は、しばらくなかった。
その沈黙こそが、異常だった。
わずかに眉を寄せた梶原の視線が、通路の奥へと吸い寄せられる。
白色灯の端、影がかすかに揺れた。
「……誰だ。そこにいるのは分かってるぞ」
足音はない。
ただ、影だけがゆっくりと輪郭を変え――細く、ひどく歪んだ“人の形”に伸びていく。
梶原の喉が、わずかに鳴った。
「……まさか、お前まで……“仮面”に関わっていたのか?」
影が一歩、前へ出た。
その瞬間、通路の照明がひとつ、ぱちりと消える。
闇が落ちる直前――梶原の目に映ったのは、白く光る“仮面の縁”だった。
「――ッ!」
タブレットが床に落ち、音が響く。
そして通路は、完全な沈黙に包まれた。
以下、指定どおり
・時間と場所は“文章の前”に記載
・小説形式/左寄せ/線引きなし/名前振りなし/詳細セリフ入り
で続けます。
⸻
【午後10時12分 霧ヶ谷村・旧郷土資料館分館 外周】
霧に沈んだ山道を抜けると、黒ずんだ木造の建物が姿を現した。
二階の窓はすべて割れ、裏手の外壁は雨で崩れかけている。
しかし――その異様な静けさは、ただの廃屋のものではなかった。
玄関の引き戸の前に立った瞬間、朱音が袖をつかんだ。
「……ねぇ。ここ、誰かいる。」
囁きは震えていなかった。むしろ、確信に近い。
玲が耳を澄ませる。
風の音に混じって、かすかに――壁の裏で何かが軋む気配。
靴底の泥を落としながら、玲は小声で告げた。
「入るぞ。夏目薫の手記にあった“第二保管室”は、この建物の奥だ。
久保谷がここに来ていたなら、必ず痕跡がある。」
朱音は小さく息を吸い込んだ。
その瞬間、背後の闇がふっと揺れる。
「動かないで。」
玲が朱音の肩を押し、素早くライトを後方へ向ける。
そこに立っていたのは――
薄灰色の作業服、濡れた髪、そして胸元の社員証をひっくり返したままの男。
片手には、小さく点滅するデータ解析用の携帯端末。
「……ここは立入禁止だ。帰れ。」
低い声。だが震えている。
朱音が一歩踏み出す。
「おじさん……その端末、久保谷先生のじゃない?」
男の瞳が大きく揺れた。
「な……なんで、おまえ……それを……」
玲は静かに歩み寄る。
「質問はあとだ。
その端末に残ってる“仮面データの移動ログ”、今すぐ見せてもらう。」
男はバックし、扉の影へ逃げようとした。
だが――床板が鳴るより速く、低く乾いた声が響いた。
「……逃げるな。君は“記録改ざん担当の補助員”だろう?」
暗がりから姿を現したのは一人の人物。
黒い薄手のコート、冷静な眼差し、そして手には分厚いフォルダ。
「スペシャリスト・御子柴です。
その端末、私たちが追っている“仮面劇記録系列”のキーになります。」
男の顔から、一気に血の気が引いた。
「どこまで……知ってる……?」
御子柴はわずかにフォルダを持ち上げる。
「仮面の在庫改編ログ。
舞台の“役”をすげ替えるための配役記録。
椎名環の音声データ改ざん。
そして――“本来この村には存在しない第十四回特別公演の草稿”。
すべて、ここに繋がっていた。」
朱音が息を呑む。
「夏目薫さん……ここで書いてたの……?」
玲はゆっくりと玄関の引き戸へ手を掛けた。
「行くぞ。
この廃館の中に、“誰が観客で、誰が演者だったのか”の答えがある。」
引き戸が、軋んだ音を立てて開いた。
冷たい闇の奥から――誰かが、ゆっくり椅子を引く音がした。
23:41 学園・旧図書室地下層への階段前
薄暗い階段の前で、ページをめくる手が止まった。
革表紙の台本は古く、紙は乾き、ところどころインクが滲んでいる。
『仮面祭──第零幕』
手袋越しに台本を持ち直し、静かに読み上げる。
「……“ここから先、舞台と現実の境界は消える”……か」
隣で朱音が息を呑む。
「ねぇ……これ、本当に“劇”なの?
だって……わたし、この文章……どこかで、見た気がする」
「夏目薫の手記と同じ文体だ。
しかも――仮面の管理データ、久保谷が抜き取ったファイル、
全部、この“第零幕”と符合している」
朱音は肩をすくめ、怯えるように囁く。
「誰かが……誰かを“役”にしようとしてるみたい……」
ページをそっとめくる。
そこに記されていたのは、黒インクで太く書き殴られた一文。
【観客のいない劇に、役者は存在しない。
―ならば“観客”とは誰だ?】
「……これは挑発だな」
「挑発……?」
「俺たちが、ここに来ることを前提に書かれている。
つまり、この地下に“まだ続きがある”。」
朱音の喉が小さく鳴った。
「……降りるんだよね?」
「もちろん。ただし、慎重にだ」
階段下から、微かに風が吹き上がった。
誰かが動いた気配――だが、足音はしない。
そこで、低く落ち着いた声が闇の下から聞こえた。
「――まさか、君たちが先に辿り着くとは思わなかった」
ライトが揺れ、影が浮かび上がる。
白い作業用コート。
手には、夏目薫が使っていた“記録用の特殊デバイス”。
“記録改ざん”のスペシャリスト、御子柴理央がいた。
「ここが“本当の舞台裏”だ。
夏目が隠した台本の答えも、仮面の出所も……全部この先にある」
朱音が身を寄せる。
「御子柴さん……夏目さんは、何を残したの?」
「それを、今から確かめる。
ただ――覚悟してくれ。
これは事件じゃない、“演出された犯罪”だ」
階段下の闇は、劇場の幕が開く前の静寂のように重かった。
【06:42/学園から北へ向かう旧山道】
車窓を流れる風景は、徐々に山間の影へと沈んでいく。
夜明けを過ぎたはずの空が、不自然なほど暗い。
まるで、夜がもう一度戻ってきたかのような錯覚すら与えた。
助手席で地図アプリを確認していた奈々が、眉を寄せた。
「……おかしい。衛星光量の変化が極端すぎる。
このエリア、気象データと照合が合わない。」
運転席の玲は、前方を見据えたまま低く言う。
「久保谷が向かった“廃資料館”。
あの場所がただの空白地帯だと思うか?」
「思わない。むしろ——意図的に消されてる。」
奈々はタブレットを再接続しようとするが、画面に警告が走る。
《ローカル通信妨害:強制遮断》
「ジャミング……? こんな山奥で?」
「違う。ここは“遮断されている場所”なんだ。」
玲の声には、わずかだが確信めいた重さがあった。
後部座席の朱音が、窓の外を見ながらぽつりとつぶやく。
「……この道、知ってる気がする。
前にも来た……“誰かの記憶”の中で。」
奈々が振り返る。
「朱音ちゃん、どんなふうに?」
「暗くて……でも、誰かが呼んでたの。
“舞台が始まる”って。」
玲の手が微かに止まる。
「“仮面祭──第零幕”か。」
車はゆっくりと坂を登り、視界の先に影のように建物が浮かび上がった。
かつて郷土資料館の分館だった廃屋。
管理も記録も途絶え、地図から削除された場所。
奈々が息を呑む。
「……ここ、完全に“覆われてる”。
データの空白だけじゃない。
誰かが“記憶”そのものを曇らせてる。」
玲はエンジンを切り、静寂の中で言った。
「降りるぞ。
ここで何が行われていたのか……確かめる。」
朱音は抱えていたスケッチブックをきゅっと握りしめる。
「……こわい。でも、行かないと。」
玲はうなずき、ドアを開けた。
冷たい風が、まるで“幕開け”を告げるように吹き抜けた。
【午前10時12分/白ノ座劇場・正門前】
冷たい山風が、劇場跡の前に立つ男のコートの裾をゆっくりと揺らした。
その男――石庭慎一は、錆びついた南京錠を見つめ、わずかに目を細めた。
胸ポケットの万年筆に触れながら、静かに息を吐く。
「……まさか、またこの場所に戻ってくるとはな」
背後の砂利道を踏む足音が近づき、ふたりの影が彼に近づく。
「あなたが……石庭慎一さん?」
問いかけに、男はゆっくりと振り返る。
皺の刻まれた顔に、微かな驚きと懐かしさが混ざった。
「俺を知っているのか?」
「夏目薫の手記に、あなたの名前が出ていました。
“白ノ座で最初に舞台に立つ意味を教えてくれた人”だと。」
石庭の表情が一瞬だけ揺れる。
しかしすぐに元の静けさへ戻り、ポケットから古い鍵束を取り出した。
「……あいつの名前を聞くのは久しぶりだ。
それで? 俺に何を聞きに来た?」
「第零幕です」
「そして――“仮面祭”という言葉の意味も」
石庭は目を閉じた。
まるで時の底に沈んだ記憶を探るように。
しばしの沈黙のあと、ゆっくりと口を開く。
「……知っていると思うが、俺は演出のスペシャリストだ。
舞台の構造、照明、裏導線……そして“隠した演目”を見抜くことにも長けている」
男の声は静かだが、その奥に冷たい鋭さがあった。
「白ノ座には、公式の劇とは別に――
“選ばれた者だけが観客になる舞台”が存在していた」
「選ばれた……観客?」
「そうだ。
夏目薫も、そして……あの事件に関わった者たちも、皆その舞台の“痕跡”の中にいた」
風が吹き抜け、錆びた看板が軋む。
石庭は劇場の方を見上げ、深いため息をついた。
「白ノ座の本当の最終公演……“第零幕”。
あれは、上演されるはずのない舞台だった。
観客のいない、役者だけの――“記録されない演目”だ」
そして、こちらを見据えた。
「お前たちの探している答えは、この中にある。
だが……覚悟しておけ。あの日、俺は“仮面を被らなかった者”の末路も見た」
男は、白ノ座の正門へ鍵を差し込み、錆びた音を鳴らしながらゆっくりと開けた。
「さあ、入るか?」
劇場の奥は、闇が口を開けて待っていた。
【時間:午後3時12分 場所:白ノ座劇場・地下収蔵庫】
錆びた扉が完全に開ききると同時に、冷たい湿気が肌にまとわりついた。
ライトの円が揺れ、積み上げられた木箱や古い幕布が、まるで息を潜めた亡霊のように浮かび上がる。
朱音は袖をつかみ、かすれた声でつぶやいた。
「……ここ、息が詰まる……。この空気、なんか……怖い」
「怖がらなくていい。もう“劇”は進行している。あとは、舞台の裏側を確認するだけだ」
低く落ち着いた声が、背後から届いた。
暗がりの通路に姿を現したのは、記録分析のスペシャリスト――
深層解析官の机島。
灰色のジャケットに薄い青の手袋。
手には携帯型スキャナを持ち、収蔵庫の床を見つめながら歩いてきた。
「予想通りだ。ここ、最近“動かされた痕跡”がある。
埃の層が不自然に薄い部分が二つ……そして、どちらも足跡の方向が同じだ」
玲がライトを向けると、机島は膝を折って床を指した。
「ほら。靴の摩耗パターンが一致している。
一人は、足を引きずる癖がある。右足の外側が減りすぎているだろう?」
朱音が目を丸くした。
「……久保谷?」
「そうだと思う。ここに“何か”を運び込んだ。あるいは、隠した」
机島はスキャナを起動し、箱の群れを静かに照射していく。
薄い電子音が収蔵庫に反響した。
「木箱の内部温度、ひとつだけ周囲と違う。
……これ、最近誰かが開けた形跡があるな」
玲が一歩進み、手袋越しにその箱の蓋を押し上げた。
古びた舞台幕の下から――
白い仮面が、三枚。
そして折り目のついた紙束。
朱音が震える指で拾い上げる。
「……これ、脚本……? “第零幕補綴メモ”?」
机島は朱音の肩越しに覗き込み、小さく息をついた。
「いや……これは“脚本”じゃない。
“記録修正の指示書”だ。
役者の動き、観客導線、舞台裏の出入り……すべて“記録として上書き可能な部分”が記されている」
玲が眉をひそめる。
「久保谷は……過去の“演目”を、書き換えようとしていた?」
机島は即座に首を振った。
「違う。“客観記録のほうを”書き換えてたんだ。
……事件そのものの“見え方”を変えるために」
収蔵庫の天井から、水滴がぽたりと落ちた。
朱音は唇を震わせた。
「……じゃあ……私たちが見てきたことって……」
机島は静かに言葉を置いた。
「――すべて、“舞台の裏側”を誰かに整えられた可能性がある」
薄闇の中で、白い仮面が揺れた。
その形は、どれも少しずつ違うのに――
どれも“表情が読めない顔”になっていた。
【時間:午後0時42分/場所:白ノ座劇場・地下収蔵庫】
朱音は指先で埃を払うと、薄暗い部屋の奥に視線を向けた。
「……ここ、本当に“誰も使ってない場所”だったの?」
懐中ライトの光が揺れ、壁の影が不規則に伸びる。
「使っていない、という“ことになっていた”だけだ。」
低く落ち着いた声が横から返る。
ライトの光の先に立っていたのは、劇場の構造解析に詳しい元舞台技術監督――
舞台構造スペシャリスト・堂島雅彬。
灰色の作業着に身を包み、手には古い図面を丸めて持っている。
もはや職員ではないはずの彼が、なぜここにいるのか。それを朱音は問えずにいた。
堂島は床に片膝をつき、すでに剥がれかけたタイルの継ぎ目を指でなぞる。
「普通の収蔵庫に見えるが……ここは“二重構造”だ。
元々は、白ノ座が実験舞台を作るために組んだ臨時の“可動床”。
こういう仕掛けは、公式資料にはまず載らない。」
玲が眉をひそめる。
「つまり、誰かが隠し部屋として転用しても気づかれにくい構造……ということだな。」
堂島は短くうなずき、掌で床を叩いた。
鈍い音が返る。空洞がある証拠だった。
朱音は息をのんで後ずさる。
「でも、なんでそんな場所に……夏目さんの台本が?」
堂島は朱音に視線を向けると、ゆっくりと答える。
「夏目薫は、ここを“公演前の調整室”として使っていた。
照明の光量、舞台の間合い、役者同士の距離――
彼女は、本番に入る前に必ず“この場所”で最終確認をしていた。
……つまり、“作品の核”がここに残っている可能性が高い。」
玲が懐中ライトを少し上げる。
「床下に、何かがあると?」
堂島はタイルの縁を指で引っかけ、わずかな隙間を作る。
「ある。“隠された最後の仕込み”がな。」
朱音は喉を鳴らした。
「……お芝居の“仕込み”にしては、ずいぶん怖い場所だよ……。」
堂島は静かに微笑む。
「芝居は、怖いものだ。
役者も観客も、真実と嘘の境界に立たされる。
――そして時に、誰かの人生すら巻き込んでしまう。」
玲は、その言葉に反応するように視線を鋭くした。
「誰かが、この劇場を使って“もう一つの舞台”を仕込んでいた可能性がある。
久保谷も、夏目薫も、その影響を受けていたのかもしれない。」
堂島はタイルの隙間に指をかけ、わずかに力を込める。
ギィ……ッ。
床が、動いた。
朱音は息を飲む。
「ひ、開いた……!」
堂島は静かに頷き、暗闇の中へ懐中ライトを向けた。
そこには階段があった。
どこまでも深く沈んでいくような、黒い階段。
そして――
その一段目に置かれていたのは、埃ひとつかぶっていない一枚の紙。
玲は慎重に拾い、ライトで照らす。
そこに書かれていた文字に、朱音が息を止めた。
――《第零幕:終幕前日譚》
舞台は、再び下へ降りる。
役者が揃ったら、幕は上がる。
朱音の声が震えた。
「……これ、夏目さんの……?」
玲は紙を見つめたまま、低くつぶやく。
「いや。筆跡が違う。
この“第零幕”を書いたのは、別の誰かだ。」
堂島が階段の暗闇へ目を向ける。
「下から……風が上がってきている。
誰かが、つい最近までここを使っていたということだ。」
朱音は、手に持つライトを握りしめる。
「……行くの?」
玲は短く答えた。
「行く。
――この舞台を、終わらせるために。」
暗闇は、静かに口を開けたまま待っていた。
【真白町・旧アトリエ共同室 午後3時12分】
開け放たれた窓から吹き込む冷風が、壁にかけられた仮面を揺らした。
朱音は長机に広げられた“第二の台本”の断章を一枚ずつ指で押さえながら、ぎゅっと唇を結ぶ。
「……これ、全部つながってる。夏目薫さんの書いたやつだけじゃない」
紙片の端には、異なる筆跡、異なるインク。
ひとつの物語を複数の手が“書き足した”ような、不自然な構造をしていた。
すぐ隣でページを照らしていた人物が、深く息を吐く。
「改ざん……いや、共有された“脚本”。事件の加害側と被害側の両方が、この物語を使っていた可能性がある」
「じゃあ……夏目さんは、それを止めようとして?」
「断言はしない。でも――“演目の外”に立とうとした人間が、排除された形跡はある」
紙片の一枚に、黒いペンで殴り書きされた文字があった。
《役を離れる者は、舞台の外に落ちる》
朱音は思わず肩を震わせた。
「……これ、ほんとうの舞台の言葉じゃないよね」
「舞台に見せかけた“管理”だ。演者の意思を奪う、形の違う拘束だ」
そこへ、アトリエの奥の扉がきしむ音がした。
冷気をまとったような足音――
灯りの届かない通路から、ゆっくりと人影が現れた。
「……探していたよ」
現れたのは、灰色のコートを羽織った男。
表情は読めず、手には古い舞台演出ノートを抱えていた。
「その断章、全部そろえないと“終幕前日譚”は読めない。
だが――足りないページがまだある」
朱音は息をのむ。
「どこに……?」
男は一瞬だけ朱音に視線を向け、そして机の奥、仮面が揺れる壁を指差した。
「白ノ座の地下第三収蔵庫。
かつて“観客のいない舞台”が作られた場所だ」
朱音が震える声でつぶやく。
「……また、行かなきゃいけないんだね」
「行くだけじゃない。今度は“観客”じゃいられない。
君は――この物語の役を奪われかけている」
冷たい風が、部屋の紙片を舞い上がらせた。
仮面が壁で揺れ、カタン……と落ちる。
まるで、それが合図であるかのように。
【07:12 真白町・旧白ノ座劇場 外部通信ログ検知】
乾いた通知音が静かなアトリエに響いた。
玲は紙片から視線を上げ、スマートフォンの画面を素早く確認する。
「……照明が、勝手に点いた?」
朱音が息を呑む。
机の上の紙片が、小さな風に煽られて揺れる。
冷たい空気が、部屋の隅に影を濃く落とした。
玲は画面を朱音へ向ける。
「機材はすべて電源を落としてあるはずなのに。
誰かが、中にいる。」
朱音の指先が震える。
けれど、その瞳は怯えではなく、決意の色を宿していた。
「……行かなきゃ。
だって、あそこ…まだ“誰か”が待ってる気がするから。」
玲は一瞬だけ朱音を見つめ、それから静かに頷く。
「分かった。行こう。
でも、絶対に俺から離れるな。」
外では風が唸り、窓辺の仮面がカタ…と微かな音を立てた。
まるで、この先に続く“舞台”の幕が、ゆっくりと上がり始めたかのようだった。
【時間:午後3時42分/場所:古書店「ルフラン」地下書庫】
ひんやりとした空気が、足元から這い上がってくる。
石壁の隙間に入り込んだ冷気は、外の温度とは明らかに異質だった。
古びた裸電球が、かすかに明滅しながら書庫の奥を照らす。
紙の乾いた匂い、酸化したテープの鉄臭さ、棚の影の深い静寂。
その中で、玲は一枚の棚板を指でなぞり、ふっと息を吐いた。
「……全部、ここに眠っていたのか。誰にも触れられずに」
朱音はライトを握りしめ、目を丸くする。
「これ……ほんとに劇場の資料なの? こんなにいっぱい……」
「いや、量が不自然だ。白ノ座だけじゃない。
県内の複数の劇団、学校公演、個人制作……
“拾い集めた”痕跡がある」
玲の声は低く、分析的だった。
照らされる棚には、時代も団体も異なる台本が無秩序に並んでいる。
その後ろから、重い足音が近づく。
「……やはり、来たか。」
暗がりから現れたのは、白手袋をはめた中年の男。
めがねの奥で、静かな観察者の目がこちらを窺っている。
彼は書庫に眠る資料を長年扱ってきた “舞台記録保全のスペシャリスト”――御子柴理央だった。
「ここの存在を知っている者は、ほんの一握りだ。
だが……君たちが辿り着くとは思っていたよ。」
玲は一歩前に出る。
「御子柴さん。あなたに聞きたい。
――誰がここに、これほどの“舞台の記憶”を集めた?」
御子柴は棚に軽く触れ、静かに答えた。
「集めたのではない。
“隠した”のだよ。
ある者が、自分の劇に不要な“記憶”を封じるために。」
朱音は息を飲む。
「……封じる、って……?」
御子柴は朱音へ視線を落とし、ゆっくりと首を振った。
「舞台とは本来、観客の心に残るものだ。
だが、例外がある。“記録を上書きする劇”だ。」
玲の眉がわずかに動く。
「――夏目薫が追っていた、“第零幕”の正体か。」
「近い。だが、まだ核心には届いていない。」
御子柴は小さく笑い、背後の棚の奥から一冊の黒いファイルを取り出した。
「これが鍵だ。
『白ノ座 記録再構成計画――補遺資料』」
朱音が震える声で尋ねる。
「……これ、誰が書いたの?」
御子柴は答えなかった。
ただ、黒いファイルの表紙を指で軽く叩く。
「ページを開けば分かる。
――“この劇の観客”が誰なのか。」
玲はファイルを受け取り、深く息を吸う。
そして――そっと、最初のページを開いた。
以下、左寄せ/小説形式/時間と場所は文章の前に記録/名前振りなし/線引きなし/玲は男性で続けます。
あなたが指定した「最初のページ」の一文から、自然な“次の展開”として書き起こします。
⸻
【白ノ座劇場・地下書庫 午前10時42分】
薄暗い書庫に差し込むのは、階段上部のわずかな外光だけだった。
紙と埃の匂いが沈殿する空気の中、長机の上に置かれた古びた台本が、静かに開かれている。
その最初のページには、太い万年筆の筆跡でこう刻まれていた。
《本番の舞台では、“想定外の演者”が現れることを前提に構成すること》
その文を読み上げた玲は、眉を寄せ、小さく息を吐いた。
「……まるで、最初から誰かの乱入を計画していたみたいだな」
朱音は机の反対側でページを覗き込みながら、喉の奥で小さくつぶやく。
「これ……夏目先生の字じゃない。もっと、強い感じ……」
玲は頷いた。
「石庭のものだ。薫と組んでいた頃によく使っていた筆跡だ」
ふたりの視線は、ページの下部へと吸い寄せられる。
そこには、赤いインクで書き足された一行があった。
《“役者が欠けたときは、観客の中から補うこと”》
朱音が息をのむ。
「……観客? まさか……」
玲は指先で台本の縁をなぞりながら、低く言った。
「つまり、これは――“観ているはずの者”すら舞台に巻き込む構造だ。
そして夏目薫は、それを実際にやろうとしていた」
朱音は、隣に立つ舞台用仮面へ目を向ける。
白い仮面は、外から吹き込む冷気に揺れ、まるでこちらを見返しているようだった。
「玲……」
「大丈夫だ。続きがあるはずだ」
玲はページをめくる。
その動作の途中、紙束の間に挟まれた“別の紙片”がふわりと落ちた。
朱音が拾い上げ、表に返す。
そこには――手書きの走り書き。
《“想定外の演者”が名乗り出た。
公演は予定より前倒しとなる。
――白ノ座の“最後の舞台”は、すでに始まっている。》
朱音の手が震える。
「……夏目先生は、これを“誰に”残したんだろう?」
玲は静かに答える。
「誰でもない。“見つける者”へだ。
想定外の演者が名乗り出る――つまり、俺たちもその一部ということだ」
書庫の天井で、微かな振動音が響いた。
照明のない暗闇が、かすかに揺れて見える。
朱音が目を上げる。
「今の……?」
玲はポケットからスマートフォンを取り出し、画面に走る通知を確認した。
『白ノ座劇場・照明設備、第二段階起動を検知』
玲は短く言った。
「……誰かが、“舞台の次の幕”を開けた」
朱音は唇を固く結ぶ。
「行こう。
行かないと、誰かが……“舞台にされちゃう”」
玲は台本を閉じ、手袋越しにしっかりと抱えた。
「覚悟はいいか、朱音」
少女は小さく頷く。
「うん。だって――もう、『観客』じゃないから」
ふたりは、地下書庫の静寂をあとにした。
階段を上がるその背後で、机の上の仮面が、かすかに揺れた。
まるで――
“次の演者を待っている”かのように。
【23:41/白ノ座劇場・舞台】
照明はすでに本番用の強度で焚かれていた。
客席は空っぽなのに、舞台の上には“誰か”が立っていた。
細身の身体。
長い袖のコート。
そして――白い無表情の仮面。
呼吸の音すら響きそうな静寂の中、
仮面の演者がゆっくりと首を傾けた。
「……待っていたよ」
低く抑えられた声。性別さえ判別できない。
舞台の床に反射した光が、演者の影だけを長く伸ばす。
扉の影から姿を現した玲は、わずかに眉を寄せた。
「ここは立入禁止だ。
勝手に照明を起動して、何をしている」
仮面の演者は答えず、両腕を広げる。
その動きは――舞台で“役”を迎え入れる合図そのものだった。
朱音が玲の後ろから顔を覗かせる。
「……お芝居、してるの?」
次の瞬間、仮面の演者は静かに一歩、前へ踏み出した。
「違うよ。
これは“本番”じゃない。
皆が忘れていた――“第零幕”のつづきだ」
白ノ座劇場の照明が、一段階だけ強くなる。
仮面は光を浴びて無表情のまま、ひどく不気味に輝いた。
「君たちが来ることは、
最初から台本に“書かれていた”」
玲が鋭く声を返す。
「――誰の台本だ」
仮面の演者は、胸元に隠していた一冊の紙束をそっと掲げた。
それは、夏目薫の台本に酷似していながら、紙の縁が黒く焦げている。
「“この劇”を書いたのは、
まだ名前を持たない演者だよ」
足元の舞台床がわずかに軋む。
客席の影が、息を潜めるように沈黙する。
「さあ――幕を開けよう。
本来、ここから始まるはずだった“物語”を」
その言葉とともに、舞台裏の暗闇から、
かすかに複数の足音が近づいてくる。
まるで、隠されていた“出演者たち”が、
順番を思い出したように――。
【17:48/真白町・駅前バス停】
夕闇が完全に街を包みはじめたころ、ひっそりとしたバス停のベンチに二人は腰を下ろしていた。
風は冷たく、街灯の光が朱音の足元に伸びる影を細く揺らす。
朱音は指先をぎゅっと組み、ぽつりとつぶやいた。
「……ねえ。あの“仮面の人”、どうして私たちを見て、逃げなかったんだろ」
隣で腕を組んでいた玲が、ゆっくりと首を横に振る。
「逃げる必要がなかった。――あれは“見せたい側”の動きだった」
朱音は顔を上げる。
「見せたい側?」
玲はベンチに背を預け、空になったロータリーを見渡した。
冷たい風がコートの裾を揺らす。
「俺たちが白ノ座に着いた時間を、やつは正確に読んでいた。
照明を起動し、舞台に立ち、仮面をつけて……“遭遇”する準備をしていた。
まるで――舞台の“役者”のように」
朱音は唇を噛む。
「じゃあ、あの人は……敵?」
玲は短く考え、首を横に振った。
「敵というより、“誘導者”だ。
こちらを次の場面へ進める役割を与えられた演者……そういう動きだった」
朱音の瞳がわずかに震える。
「次の……場面……」
その時、遠くからゆっくりとバスのライトが近づいてきた。
朱音は立ち上がりかけたが、玲の視線が彼女を止めた。
「朱音。覚えておけ」
「……うん?」
玲は静かに視線を夜闇へ向ける。
「“仮面祭”は舞台劇じゃない。
本番は、俺たちのいる“外側”で進んでいる。
――そして、誰かがこの街全部を舞台に変えようとしている」
朱音は息をのむ。
玲の声は続く。
「今のところ、相手の狙いはお前じゃない。
……“観客の座”に誰を座らせるか。そこに一番の意味がある」
朱音は胸に手を当て、小さく震える声で言った。
「でも……私、何もできてないよ……?」
玲は立ち上がり、朱音の肩に手を置く。
「違う。
お前が“見たもの”が、誰かの仕掛けを狂わせてる。
だから向こうは“役”を調整しているんだ」
朱音は驚いたように顔を上げる。
「私の……見たもの?」
玲は小さくうなずく。
「夏目薫の手記にもあっただろ。
“観客が変われば劇は変わる”――ってな」
朱音はぎゅっと唇を結んだ。
バスがバス停に止まり、ドアがゆっくりと開く。
二人の前に、車内の灯りが温かく広がる。
玲は前を向いたまま言う。
「さあ、行くぞ。
次の“場”は――白ノ座の裏口だ」
朱音は深く息を吸い、頷いた。
「……うん。行く」
二人が乗り込むと、バスは静かにドアを閉じ、闇の中へ走り出した。
その背後で、駅前の街灯がかすかに揺れ、まるで幕がそっと降りるように、影が地面を包み込んでいく。
【午前8時12分 夕映町・旧市民劇場「ルミエール座」前】
白い朝靄の向こう、静まり返った劇場のシャッターが、まるで長い眠りのまま息をひそめていた。
朱音は肩掛けバッグを握りしめながらつぶやく。
「……ここ、本当に誰も使ってないの?」
隣に立つ玲は、手袋を直しながらシャッター前の地面に目を落とした。
薄い砂埃の上に、靴跡が二種類――片方は軽い足取り、もう片方は深く沈んだ大人のもの。
「使ってない“はず”だ。だが、足跡が新しい。深夜か早朝に誰か入ったな」
朱音は息を呑む。
「じゃあ……また“演者”が?」
玲は首を横に振った。
「ここでの演目は終わっている。だが、“別の舞台”が用意された可能性は高い。
それに――」
シャッターの端、小さくめくれた金具。
そこに、異物が挟まっていた。
薄い紙片。
そこには、黒インクでこう書かれていた。
《第二幕は“観客不在”のまま開演する》
朱音の顔色が変わる。
「……観客不在って……誰が、見るの?」
「見る必要がないという意味だ。
“演者”だけで完結する舞台――つまり、証人も生存者も想定していない」
朱音は震えた声で言った。
「玲……もしかして、誰かを閉じ込めてる?」
玲は紙片をライトにかざし、インクのにじみ具合を確かめながら答えた。
「紙は湿気を吸っている。ここで書かれたものだ。
そして――後ろに微かな押し跡。万年筆のニブの形だ」
朱音ははっとして顔を上げる。
「……石庭さんだ!」
玲は静かにうなずいた。
「可能性はある。あの人は“舞台の構造”を知っている。
そして、夏目薫の“未完の台本”にも深く関わっていた」
朱音は一歩、劇場へと近づいた。
「じゃあ……入ろう。早くしないと」
玲はシャッターの鍵部分を確かめ、工具を取り出した。
「中の構造は古いままのはずだが、油断はしない。
“白ノ座”と同じ仕掛けが流用されている可能性もある。
朱音、俺の後ろに」
「うん……」
シャッターがわずかに持ち上がるたび、冷たい空気が外へ吐き出されていく。
その向こう――真っ暗な劇場の内部から、
低く、小さく、まるで遠くの舞台で“誰かが歩く音”が響いた。
コツ、コツ、コツ――。
朱音の手が、ぎゅっと震える。
「……玲。誰か、中にいる」
玲はライトを構えたまま、呟いた。
「――ああ。開演中だ」
そして二人は、闇の劇場へ足を踏み入れた。
【時間:午前10時12分/場所:夕映町・旧市民劇場「ルミエール座」舞台裏】
沈む。
思考の輪郭が薄れ、視界が塗り替えられていく。
朱音がその気配に気づいた時には、すでに玲の手は“第三の台本”の題字をなぞり終えていた。
紙の表面は乾いているはずなのに――
まるで、触れた指先を“掴み返す”ような感触があった。
「……っ!」
玲は一歩、後ずさる。
朱音が慌てて腕を掴んだ。
「だ、大丈夫……?」
「今のは……普通の紙じゃない。“記録”が反応してくる感触だ。」
声は低く抑えられているが、僅かに震えがあった。
朱音は息を呑んだ。玲がこうした反応を見せるのは、危険が濃い時だけだ。
その時――
台本の表紙が、ぱたり、と自動的に開いた。
紙面には、墨のような文字が浮かび上がっていく。
《第三幕・導入:記録の補正を行うスペシャリストの到来》
《彼らは“演者”の記憶を読み取り、舞台の虚構と現実の境界を修正する》
《ただし――演者自身が“役”を拒んだ場合、境界は崩壊する》
朱音が眉をひそめる。
「……スペシャリストって、もしかして……
ユウタくんとか、御子柴さんたちのこと……?」
玲は静かに首を振った。
「いや、違う。これは“もっと古い時代”の専門家だ。
夏目薫が学生だった頃……白ノ座の裏方に実在した“役割”だ。」
朱音はごくりと喉を鳴らす。
「そんな……昔の劇場に、そんな仕事が?」
「記録をつなぎ合わせて“舞台の事故を防ぐ”。
脚本の矛盾や役者の混乱を修正し、芝居の流れを一定に保つ……
本来の意味での“舞台整備のスペシャリスト”だ。」
玲は台本をもう一度見つめる。
その視線は、紙の向こうの“何者か”を睨むようだった。
「だが――ここに書かれている“スペシャリスト”は、舞台の枠を超えている。
記憶の補正まで介入してる。これはもう演劇じゃない。」
朱音は息を詰めた。
その瞬間、舞台中央の方向から、金属の軋む音が響いた。
ぎ……ぎい……
シャッターが、誰も触れていないのに僅かに持ち上がる。
朱音が小声でつぶやく。
「……誰か、いる。」
玲は懐中ライトを構え、朱音を後ろにかばう。
「単独行動じゃない。
“第三の台本”が起動したってことは……
ここに、“想定外の演者”が来る。」
冷たい風が、舞台から吹き抜けた。
仮面をかけられた何者かが、舞台袖の暗闇で息をひそめている気配があった。
そして――
まだ開いたままの台本には、たった一行だけが追加されていた。
《幕が上がる。観客はすでに“配置済み”》
了解しました。
以下、“時間と場所を文章の冒頭に置き、左寄せ・小説形式・セリフあり・線引きなし”で、あなたが提示した最後の一文 「薄明かりの射し込むルミエール座。閉鎖されて久しいその舞台は、埃と沈黙の中でなお、“記憶”を抱えていた。」 の続きです。
名前の振りも入れません。
専門家の導入も自然に組み込んで描写します。
⸻
【続き】
〔午前9時12分/夕映町・旧市民劇場ルミエール座〕
薄明かりの射し込むルミエール座。
閉鎖されて久しいその舞台は、埃と沈黙の中でなお、“記憶”を抱えていた。
観客席の奥で、誰かの靴音が静かに響いた。
「……空気が違うな。やはり、この劇場も巻き込まれていたか」
舞台へと歩み寄ったのは、一人の男。
黒い薄手のコートに、肩から下げた細長いケース。
表情は穏やかだが、その瞳は舞台上の痕跡を逃さない。
“記憶痕跡解析”の専門家。
舞台芸術に残る“無意識の演技の残滓”を読む、異色のスペシャリスト。
照明の落ちた天井を見上げ、男は静かに息を吸った。
「ここで……誰かが“演じた”。
それも、自分の意思ではなく“誘導された役”だ」
舞台の中央へ踏み出した瞬間、朱音が袖の影から顔をのぞかせた。
「さっきから言ってる“誘導”って……どういう意味?」
男は振り返り、朱音の目をまっすぐ見た。
「役者が自分の役を選ぶのではなく、
“記録された演技”が役者を選んでしまう現象だ。
台本ではなく、記憶の方が舞台を先に動かす」
朱音は喉を鳴らし、小さく息を飲んだ。
「そんな……ことが本当に?」
「起きる。とくに――“第三の台本”のような、劇場ごと記憶を巻き込む作品なら」
そこへ遅れて足音が近づき、舞台の奈落へ通じる扉が軋んだ。
「記録の反応、ここで途切れてる。
たぶん、下層。事件の痕跡はそこに残ってる」
薄い埃を踏むたび、沈黙の劇場が微かに震える。
男は懐中ライトを取り出し、舞台奥の暗がりを指し示した。
「――行こう。
“役者のいない舞台”が、いちばん真相を語る」
朱音はうなずき、小さな足取りでその後に続いた。
閉ざされた劇場の奥――
誰にも観られなかった“第三の舞台”が、静かに息を潜めていた。
【時間:午前11時42分/場所:夕映町・旧市民劇場「ルミエール座」舞台上】
薄明かりに沈む舞台の中央で、空気が揺れた。
木製の床板がきしむような、ごく微かな振動。
照明装置は死んでいるはずだった。
だが、舞台上に差し込む一筋の光だけが、不自然に揺らめいていた。
その光の中に、誰かが立っていた。
声は、照明の明滅と同じリズムでふっと漏れた。
「“主役不在のまま幕は上がらない”…それが、薫の最後の台詞だったはずだよ」
玲が息を呑む。
朱音は、舞台の手前で足を止め、震える声を漏らした。
「……誰、なの……?」
照明が瞬く。
姿が、輪郭だけを残して揺れる。
ゆっくりと光の中から現れたのは――
黒いシャツに細身のパンツ、そして深い灰色のコートを羽織った男。
彫りの深い目元。
舞台を歩く人間特有の“癖”――沈黙の中で観客席を読むような立ち方。
男は片手に古びた台本を持ち、もう片手をゆっくりと上げた。
「名乗るほどの者じゃない。ただの“舞台整備のスペシャリスト”さ。
――本来、表に出る役じゃない」
玲は眉を寄せる。
「舞台整備……? あなた、ここを管理している人間じゃない。
照明の起動ログは三年前に途切れていたはずだ」
男は薄く笑い、舞台袖へ視線を向ける。
「管理はしていない。ただ、“仕組みを知っている”だけだよ。
薫の遺稿を読めばわかる。第三の台本は、舞台の“構造”そのものを物語化した作品だ」
朱音は小さく息を呑んだ。
「じゃあ……薫さんは、この劇場で何かを“残そうとした”の?」
「残したかったのは、演者じゃない。観客でもない」
男は朱音の方へゆっくりと顔を向ける。
「――“記憶を観測する者”だ」
玲の指が無意識にスマートフォンへ伸びる。
ほぼ同時に、劇場の奥、暗闇の向こうから低い駆動音が響きはじめた。
男は舞台中央から一歩横へ避け、二人に向かって言った。
「さあ。幕が上がる。
君たちは“想定外の演者”として、ここに呼ばれたんだ」
朱音の小さな声が、沈黙の劇場に吸い込まれる。
「……どうして……私たちなの……?」
男はふっと目を細めた。
「薫が最後に書いた言葉を、知っているだろう?」
玲は思わず、手にした古い台本を見下ろした。
そこには――
《本番の舞台では、“想定外の演者”が現れることを前提に構成すること》
男は続ける。
「台本は“読むもの”じゃない。
――“気づく者”が現れたとき、初めて動き出すんだよ」
沈黙。
舞台奥の闇が、わずかに呼吸しているように揺れた。
そして、男は舞台の縁に立ち、静かに告げた。
「さあ、二人とも。
第三の台本の“第一幕”が始まる」
舞台照明が――完全に点灯した。
【時間:午前10時14分 場所:ルミエール座・舞台袖】
薄い埃が舞い上がる。
舞台袖の暗がりの中で、朱音は静かに息を整えた。
先ほどの言葉がまだ空気に残っているようだった。
「わたし、演じるよ。この物語を。……ユウタくんや、薫さんが残した“幕”を」
その声音は、小さくても揺るぎなかった。
玲は隣で片膝をつき、床に落ちた照明のケーブルを手袋ごしに確かめる。
微かな焦げ跡――誰かが最近、舞台照明の旧回路に触れた形跡。
「……覚悟はいいのか?」
低い声が、舞台袖の静けさに落ちていく。
朱音は小さく頷いた。
その瞳には恐怖よりも、決意が宿っていた。
「怖いよ。でも、それでも……“あの記憶”を放っておけない。薫さんの言葉も、ユウタくんの声も……全部、まだ、ここに残ってる気がする」
言い終わると、朱音は舞台中央へと歩きかけ――ふと立ち止まった。
舞台の奥の暗闇に、気配。
微かな衣擦れの音。
玲も即座に気づいた。
ライトを落とし、静かに腰のホルダーから小型のメモリ解析装置を取り出す。
その瞬間――暗がりから、一人の影がゆっくりと姿を現した。
白いラボコート、乱れた髪、肩から提げた記録端末。
年齢は四十代半ばほど。
だがその目は、一晩中思考を続けていた研究者のものだった。
「……まさか、ここで君たちに会うとは思わなかった」
玲は目を細める。
「“記憶舞台演算”の第一人者……夕凪研究所のスペシャリスト、篠原統矢。
お前が、薫の“第三の台本”に関与していた研究者だな」
篠原は微かに苦く笑い、端末を朱音へ向ける。
「薫は確かに“物語を記憶として刻む方法”を研究していた。
君が見た“残響”も、その副作用だ。
……だが、薫は死んでいないよ。
まだ――幕は降りていない」
朱音は息を呑む。
「どういう、こと……?」
篠原は舞台の方を静かに見つめた。
むかし薫が立っていた位置。
その足元の光景を、まるで今も見えているかのように。
「薫が残した台本は“未完成”だ。
完成させるには、彼女が最後に信じた“演者”が必要だった。
……君だよ、朱音くん」
朱音の指先が、わずかに震えた。
玲が前へ出る。
「それで――薫はどこにいる?」
篠原は、静かに口を開いた。
「この劇場の“下”だ」
その声だけで、空気が震えた。
朱音の背筋にひやりとしたものが走る。
玲は眉をしかめる。
「地下倉庫は閉鎖されているはずだ。行政記録にもない」
「ないように見せただけだよ」
篠原は淡々と言った。
「“演者の記憶を保存するための舞台”を造るには、外部に漏れては困るからね」
朱音の喉がひくりと動いた。
「ねえ……薫さんは、本当にそこに?」
篠原は静かに、しかし確かに頷いた。
「生きている。
ただし――“観客”としてではなく、“記憶の演者”としてだ」
朱音の瞳に、強い光が宿る。
「行こう、玲さん。薫さんを……連れ戻さなきゃ」
玲は無言で頷き、舞台袖の奥にある古い鉄扉の前に立つ。
篠原が一歩前へ出た。
「君たちが降りるなら、条件がひとつだけある。
――朱音くん。
君は“役を選ばなければならない”。
薫の劇を継ぐのか、否定するのか。
どちらかを選んだ瞬間、この舞台は“次の幕”へ進む」
舞台の上の静寂が、ひどく重く響いた。
朱音は、小さく息を吸い――
「……選ぶよ。わたしの役を」
篠原が端末を操作する。
古びた床の下で、装置の作動音が低く唸りを上げ始めた。
玲は朱音を守るように寄り添う。
鉄扉が、ゆっくりと開く。
闇の中へ続く階段。
その奥から――薫の残した“幕”が、微かに揺らいでいた。
【時間:午後7時42分/場所:ルミエール座 第二客席通路】
黒い帽子の男が微動だにせず舞台を見下ろしている。
朱音は息を呑み、玲はわずかに前へ出た。
薄暗い照明の下、男の足元だけが不自然に影を落としている。
まるで――そこだけ“別の舞台”の光が差しているかのように。
「動くな」
玲の声は低く、しかし静かな凄みを帯びていた。
その瞬間、二階席の奥から、かすかな金属音が響く。
カチリ。
階段の影から現れたのは、専門の探索装備を身につけた人物――
“記憶接合のスペシャリスト”として知られる 御子柴理央 だった。
彼は手にした携帯型データスキャナをかざしながら、冷静に告げる。
「地下から、異常な反応が上がっている。
……“舞台インスタンス”が起動してる。
この劇場の構造じゃない。誰かが、記憶会場を作り替えた」
朱音が小さく震えた。
「記憶……会場?」
「簡単に言えば、特定の“出来事”を再現するための空間だ。
演者の記憶を軸にして、環境そのものを書き換えることができる」
玲が眉を寄せた。
「それを作れるのは……久保谷か、あるいは夏目薫を研究していた誰かだ」
御子柴は頷き、男――二階席に立つ黒衣の人物へ視線を向けた。
「そして、おそらく“鍵”を握っているのは、あいつだ」
男がゆっくりと顔をこちらに向ける。
帽子の影で目元は見えない。だが――確かに、微笑んだ。
その瞬間、劇場全体がかすかに震えた。
舞台の床板が軋み、客席の照明がまばらに点滅しはじめる。
朱音が玲の袖をつかむ。
「……下だ。
あの人、わたしたちを“地下の舞台”に呼んでる」
玲はためらわず、舞台袖へと向かう。
「行くぞ。幕はもう上がってる」
御子柴が続き、朱音もその後に小走りでついていく。
***
【時間:午後7時47分/場所:ルミエール座 地下への階段】
舞台裏の壁の一部が、誰かにこじ開けられたようにずれていた。
かすかな隙間から、冷たい空気が吹き出す。
埃の匂いではない。湿った土の匂いでもない。
――記憶が集まる場所特有の、“空白の匂い”。
御子柴が囁く。
「……これは、劇場じゃない。
個人の意識空間に近い。
誰かの“未完の演目”がこの下で回り始めてる」
朱音は階段の闇を見つめ、きゅっと拳を握った。
「わたし……ちゃんと見届ける。
ユウタくんも、薫さんも……全部が混ざったこの“物語”を」
玲は朱音の頭に軽く手を置き、ただ一言。
「大丈夫だ。
これは“終幕”じゃない。
ここからが本当の——開演だ」
三人は闇へと降りていく。
足元に響く靴音が、まるで舞台の序曲のように静かに重なっていった。
そして――
地下の“記憶舞台”の幕が、ゆっくりと開こうとしていた。
【時間:深夜0時12分/場所:ルミエール座・地下階段前】
冷たい空気が、舞台裏の隙間から漏れ出していた。
まるで誰かが、ついさっきまでその空間で“稽古”をしていたかのような湿り気を含んだ息遣い。
朱音は階段の入口で足を止め、胸元を押さえる。
細い肩が震え、小さく呟いた。
「……ここだよね。薫さんが“残しておいた”場所」
横に立つ玲は、懐中ライトのスイッチを押す。
白い光が階段の奥に沈む闇をわずかに切り裂いた。
「気をつけろ。下は……普通の地下じゃない」
朱音が目を瞬かせる。
「普通じゃ、ない?」
「記録が残っていた。薫が学生時代に演出家として関わった“特別稽古場”――
正式な図面には記載されていない。“記憶舞台”と呼ばれていたらしい」
朱音が息を呑む。
玲は続けた。
「彼の仲間だった石庭慎一も証言していた。
“あそこは、人の記憶が勝手に役を持つ場所だ”と」
朱音はそっと階段を見つめ、
暗がりの向こうから微かに聞こえる気配に身を固くした。
その瞬間――
地下から、乾いたページをめくる音が響いた。
パラ……
朱音の喉が震える。
「……本?」
玲の声が低く響く。
「いや……“台本”だ」
階段の底に、誰かがいる。
そして――台本を開いている。
玲は一歩前へ踏み出そうとした。
だが、その時。
階段の影から、低く落ち着いた男の声が浮かび上がる。
「来たね。二人とも」
ライトが影の中の男を照らす。
黒い帽子、黒いマント。
そしてその手には――古びた装丁の一冊。
《Finale(終幕)》と刻まれた、“第三の台本”。
朱音が震える声で問う。
「……どうして、あなたがそれを持っているの?」
男は静かに本の表紙を撫でた。
「これを託されたからだよ。
あの子に――ユウタに。
“終わりの幕は、観客ではなく演者が下ろすべきだ”と」
玲が目を細める。
「お前は……誰だ。元演者か、それとも監督か?」
男は、ゆっくりと階段を降り始める朱音と玲を見据え、口元だけで笑った。
「違う。
私は“記憶の舞台”を読み解く者……
アーカイヴィスト・真壁」
その肩書は、朱音も玲も聞いたことがあった。
――舞台・映像・記録の専門家。
――封じられた演目の復元と、欠落した記録の読み解きを専門とする人物。
真壁は第三の台本を開きながら、静かに告げた。
「さあ、始めよう。
薫が書き残し、ユウタが守り、君たちが辿り着いた“記憶舞台”の終幕を。
……ここから先は、誰も“観客”ではいられないよ」
朱音の瞳が揺れ、足元の階段へと向けられる。
玲が短く頷いた。
「行くぞ。これは……俺たちの幕だ」
そして二人は――
“記憶舞台”へと続く地下の闇へ、静かに降りていった。
【07:12/ルミエール座・地下階段入口】
冷たい空気が足元を撫でる。
舞台裏へ続く古い鉄階段は、ところどころ錆び、踏みしめるたびに金属の軋む音を響かせた。
「……“舞台に入り込んだ”ってどういう意味だよ」
声を張った玲に、二階席の男はゆっくりと視線を向ける。
黒い帽子の影に沈むその目だけが、異様なほど静かだった。
「役は消えない。演者が消えることもない。ただ――舞台が覚えているだけだ」
男は手にした古い本の背表紙を撫でた。
金文字で刻まれた《Finale(終幕)》が、照明の埃に揺れて鈍く光る。
「夏目薫が書き残した“第三の台本”……
完成していないはずのそれが、こうして一冊の本になって現れた理由を、君たちは理解しているはずだ」
玲の眉がわずかに跳ねる。
「記憶……舞台に刻まれた“誰かの記憶”を利用して、勝手に組み上げたって言いたいのか」
男はふっと笑った。
「組み上げたのは“舞台”だよ。
人が持ち込んだ感情、未練、決断――そういった断片が地下に“沈殿”して、ひとつの演目になる。
ここは、ただの劇場じゃない。
記憶の舞台(Memory Stage)を扱う専門家が、かつて存在した場所だ」
朱音が息を飲む。
「……専門家?」
「そう。夏目薫の大学時代の協力者、“記憶演算スペシャリスト”――
七野琥珀。
彼が作った実験舞台が、この地下にある」
玲がわずかに目を細めた。
「七野……聞いたことがある。
演技心理学と記憶操作の境界研究をしていたが、十年前に失踪したはずだ」
男は肩をすくめる。
「失踪? 違うよ。彼も“入った”んだ。
第三の台本の中へ。
夏目薫を追いかけて、ね。」
朱音の握る仮面がかたん、と小さく鳴る。
「……だったら、わたしも行く。
薫さんの残した“幕”を……ユウタくんのためにも、終わらせたい」
玲がすぐ隣で低く息を吐いた。
「朱音、これは危険だ。舞台装置じゃなく、記憶だ。
“出口がある保証はどこにもない”」
朱音は首を横に振った。
「……でも、誰かが行かなきゃ。
第三の台本が“終幕”を求めてるなら、演じる人が必要なんでしょ?」
男が静かに頷く。
「幕は上がる。
そして――演者が揃った今、**地下の記憶舞台(Sub-Memory Stage)**が開く」
その言葉と同時に、舞台袖の板張りがゆっくりと震えた。
埃が舞い、古い装置がひとりでに動き出す。
照明が床の一点を照らし、そこに黒い影の“入口”が広がる。
まるで舞台の底が、深い深い記憶の井戸へと変わっていくように。
朱音は仮面を持ち直し、震える息を整える。
「行こう……玲」
玲は一瞬、迷うように朱音を見つめ――
次の瞬間、スーツの胸元にしまっていたライトを握り直した。
「……分かった。
だが、絶対に離れるな。舞台の中で迷ったら、帰って来られない」
朱音は小さく笑った。
「うん。だってこれは――“わたしたちの幕”だから」
二人は舞台の中央へと歩き出す。
その先に開いた、記憶の深淵へ向かって。
【午後3時半/ルミエール座前】
風が、乾いた落ち葉を運んでいった。
曇天続きだった空に、久しぶりの陽射しが差している。
ルミエール座の古びた正面扉は、静かに閉じられていた。
観客はいない。
幕は降りた。
仮面はすべて集まり、“役者たち”はそれぞれの人生へと戻っていく。
けれど、朱音は立ち止まっていた。
劇場の前、かつてポスターが貼られていた掲示板の前で、その手には、ひとつの仮面が握られている。淡く色あせた、無表情な“白の仮面”。
「……終わったはずなのに、心がまだどこか、舞台の中にいる」
隣にいた玲は、何も言わず、彼女の言葉を受け止めていた。
玲の視線は、舞台で起きた全ての出来事を静かに整理し、朱音の心の奥に残る残響を理解していた。
彼の専門であるサイコメトリーが、今は穏やかに、しかし確かに現場の記憶を朱音と共有しているかのようだった。
【午後3時35分/ルミエール座前】
「この仮面……“あの人”が最後にかぶっていたものと、同じ……?」
朱音が見つめるその仮面には、薄く――
だが確かに演者番号“Ⅳ”の刻印がある。
劇中には存在しなかった配役番号。
薫の代役として現れ、そのまま“失踪した演者”だけが、かつて仮面の裏に刻んでいた印。
「“Ⅳ番目の演者”。彼の人は、この劇に自分を刻みながら、どこにも帰らなかった」
玲が静かに口を開いた。
「……地下ホール。あそこに、まだ残響がある。未完の台詞が、誰にも語られないまま残されている」
玲の手袋に覆われた手が、微かに仮面を撫でる。
彼の専門であるサイコメトリーが、かつて舞台で起きた記憶の残響を感知し、朱音の瞳に映る仮面の奥に潜む“声なき演者の痕跡”を確かに認識していた。
その静かな空気の中で、過去と現在が交錯する。
【午後3時42分/ルミエール座・地下ホール】
扉は重く、冷たい鉄の軋む音を立てて開かれた。
地下へと続く階段の先には、封印された“第二の舞台”が広がっている。
埃と湿気の混ざった空気。
古い木製の舞台板はところどころ軋み、かつての光と歓声の記憶を吸い込んでいるかのようだ。
中央には、未使用の仮面が三枚、整然と並べられている。
「……ここか。残響は確かに、まだ消えていない」
玲は手袋を外さず、ゆっくりと床に手をかざす。
サイコメトリーの感覚が、過去の演者たちの緊張や恐怖、そして決意の一瞬を、空気を通して微かに伝えてくる。
朱音はその光景を見つめながら、息を呑み、次の一歩を踏み出す覚悟を固めていた。
【午後3時45分/ルミエール座・地下ホール】
光の粒が、円形舞台を中心に広がる。
まるで時が逆巻くように、埃が舞い、椅子が音もなく立ち上がり、仮想の“観客席”が満たされていく。
玲の視界に映るのは、過去に舞台に立った演者たちの残像。
動作の一つひとつ、吐息のひとつ、緊張に震える指先までが、空気の振動として伝わってくる。
「……これは、サイコメトリーの残響だ」
玲は手袋越しに舞台板に触れ、その冷たさを感じながら、過去の記憶を紐解く。
すべての動き、音、声の残留が微かに彼の感覚に入り込み、事件の核心に迫る手がかりを示す。
朱音は静かに横でその光景を見つめ、次に何をするべきかを心の中で整理していた。
【午後3時50分/ルミエール座・地下ホール】
玲が目を開けた。
視界には、埃と微かな光に包まれた円形舞台。過去の残響が消え、静寂だけが支配している。
手袋をはめた指先には、舞台板の冷たさが直接伝わってくる。
彼の横には朱音が立ち、微かに息をつきながら、先ほどまでの異様な光景を心の中で整理していた。
玲は低くつぶやく。
「……全ての残響を確認した。未完の台詞、演者の痕跡、舞台の空気――これが事件の核心だ」
その言葉に朱音は軽くうなずく。
彼女もまた、舞台の中に刻まれた“過去の演劇の記憶”を受け止め、次の行動を心に決めていた。
地下ホールに漂う冷気と埃の匂いは、事件の残像を静かに閉じ込めたまま、二人を包み込んでいた。
音【午後4時05分/ルミエール座・地下ホール】
もなく閉まる重い扉の先――そこは、時間に見捨てられた舞台だった。
椅子は覆い布に隠れ、割れた照明は静かに沈黙を守る。誰もいない、観客もいない。けれど、物語だけがこの空間に残されていた。
玲はゆっくりと手袋を外し、舞台板に触れる。冷たく、乾いた木の感触が指先に伝わる。
「ここに、全ての証拠がある……演者の意志、舞台の残響、そして未完の台本の痕跡」
朱音は横で息をひそめ、手に持った白の仮面をそっと抱きしめる。
「この舞台に残された全てを、わたしは覚えておく……」
玲は深くうなずき、地下ホールに漂う埃の匂いを吸い込みながら、過去の演劇と事件の重みを全身で受け止める。
彼らの背後、薄暗い空間に、かつての“舞台の声”が微かに残響として蘇る。
【午後4時15分/ルミエール座・地下ホール】
玲の視界に、舞台の“最後の場面”が浮かび上がる。
暗闇の中、ひとつだけスポットライトが灯る。そこに立つ白い仮面の演者。顔は見えない。ただ、微かに息づく空気の震えと、声だけが残されていた。
その声は、かつて舞台で語られた言葉そのまま――静かで、しかし胸に突き刺さる響きを持つ。
「……幕が、終わるわけではない……誰かが見て、誰かが覚えている限り――演劇は続く」
玲は手を軽く舞台板に触れ、目を閉じる。過去の演者たちの意思、舞台に残された感情、そして仮面に刻まれた記憶の“残響”が、一瞬にして彼の脳裏を駆け抜ける。
横で朱音が小さく息を呑む。手の仮面が微かに揺れ、光を受けて影を落とす。
玲は静かに言った。
「これが……未完の幕の声。誰も知らない、最後の演者の想い……そして、僕たちが繋ぐべき記録だ」
地下ホールに、重く、しかし確かな空気が流れた。舞台の“残響”は、ここに生き続けている。
【午後4時30分/ルミエール座・地下ホール】
玲はそっと朱音に言った。
「……彼は、君に“舞台を引き継いでほしい”と思っていたんだ。ただの目撃者ではなく、“次の演者”として」
朱音はその言葉を受け止め、握っていた白い仮面を胸元に抱きしめる。目に微かな光が宿る。
横で立つ玲は、手袋越しに仮面の縁に指を添えたまま、静かに解析ノートを確認する。
彼の専門は“記憶の残響を読むサイコメトリー”。舞台に残された微細な痕跡――指紋や接触痕、微量の薬品や仮面に刻まれた演者の意思――それらを通して、未完の台本に込められた意図と動機を読み解くことができる。
朱音の背後に広がる暗い舞台空間は、もう空虚ではなかった。
過去の演者の残響と、今、ここに立つ次の演者の意思が重なり合い、薄暗い地下ホールに確かな“物語の線”を描き始めていた。
【午後4時45分/ルミエール座・地下ホール】
舞台に立つ朱音の手には、あの仮面が握られていた。
番号は、Ⅳ。誰にも演じきれなかった台本の最後のページをしっかりと抱えている。
照明の落ちた舞台裏、深く沈んだ記憶の奥にある空間――かつて失踪した演者が立ったはずの場所。
だが、その姿を知る者は誰もいない。台詞すら、記録に残っていない。
朱音は深く息を吸い、仮面をそっと顔に押し当てた。
その瞬間、玲のサイコメトリーが反応する。彼の指先に伝わるのは、舞台に染みついた過去の微細な痕跡――
仮面の縁に残る皮膚の形状、わずかに残った接着剤の匂い、そして呼吸の残響。
それらすべてが、失踪した演者の“意志の断片”として玲の感覚に流れ込み、朱音の動きと同期する。
玲は静かに、しかし確信を持って告げる。
「……彼は、君にここを託したんだ。舞台の続きを、君に任せるために」
地下ホールの空気が微かに震え、朱音の仮面の奥で、過去と現在が一瞬だけ交差した。
彼女【午後4時50分/ルミエール座・地下ホール】
朱音は静かに歩く。
記された足跡の上をなぞるように、かつての演者がそうしたように。
舞台袖に残された薄れた白線。
台詞の順を示す赤いマーキング。
そして舞台中央、最後に立つ“終幕の印”。
朱音は手にした台本の切れ端を開いた。
そこには、こう書かれていた――
玲の視界に微細な情報が流れ込む。
舞台装置のわずかな摩擦音、仮面に残る汗の成分、呼吸の僅かな振動――
すべてが過去の演者の行動を映し出すデータとなり、朱音の一歩一歩に重なっていく。
「ここからが、本当の舞台の始まり……」
玲は静かに横に立ち、必要なタイミングで朱音の動きを補足しながら、舞台上の残響と過去の痕跡を分析していた。
【午後5時15分/ルミエール座・舞台出口】
舞台の扉が開かれる。
朱音はゆっくりと外に出てきた。
その手には、もう仮面はない。
足元で砕けた破片が散らばっている。
あの白い仮面――番号Ⅳが刻まれていた仮面だった。
玲が隣に立っていた。
彼女を静かに見つめ、低く、しかし確かな声で告げる。
「これで、幕は本当に閉じられた……君が次の“語り手”として、すべてを受け継いだんだ」
玲は手袋越しに朱音の動きを観察しながら、舞台上に残る微細な痕跡、舞台装置の摩擦音、残留した汗や接着剤の痕を頭の中で解析していた。
舞台上の“記憶の残響”をすべて把握することで、過去の演者たちの意思や動き、未完の台詞までを可視化していた。
朱音は少し肩を落とすように息をつき、舞台を後にした。
その足取りには、過去と向き合い、次の物語へと歩みを進める覚悟が確かに刻まれていた。
【午後5時30分/ルミエール座・外周】
物語は終わった――だが、“記憶に残された劇”は、静かに生き続けている。
朱音は舞台前の石段に腰を下ろし、遠くに広がる町の景色を見つめる。
風がやわらかく吹き、木々の葉を揺らす。
舞台で交わされたすべての言葉、残された仮面の重み、そして“語られなかった台詞”の余韻が、静かに胸に刻まれている。
玲は朱音の隣に立ち、無言でその背を見守る。
彼の視線は、舞台装置の微かな傷、舞台裏の埃、そして演者たちの足跡まで、全てを把握している。
だが、それを口に出すことはない。
過去の真実は、今ここに立つ者の心の中にのみ残ればいいのだ。
朱音は手に持つ白い仮面を見つめ、ゆっくりと息をつく。
「……終わったんだね」
玲は軽く頷き、柔らかい声で返した。
「そうだ。君が、この物語を繋いだんだ」
町の空は夕暮れに染まり、ルミエール座の影が長く伸びる。
仮面はもう手の中にはない。
しかし、その存在感は、確かに心の中で生き続けている。
朱音は立ち上がり、ゆっくりと石段を降りる。
玲は一歩遅れて続く。
二人の影が、長く夕陽に伸びる町並みの中に溶け込んでいった。
【午後3時/ルミエール座前】
秋風が頬をかすめた。
舞い上がる落葉の音が、静寂の中に淡く響く。
玲は、古びた劇場の正面玄関に立っていた。
朱音やユウタ、そして“演者たち”が去ったあとの静けさは、どこか舞台の終わりを告げる鐘のようだった。
錆びついた扉やひび割れた看板、埃のたまった石段――全てが、かつての喧騒を静かに記憶している。
彼はゆっくりと手袋を外し、掌で鉄の扉を触れた。
冷たさと重みが、過去の事件と失われた記憶の余韻を思い起こさせる。
「……あの劇も、もう終わったか」
小さな吐息とともに、玲は視線を遠くの町並みに向ける。
人々の営みが静かに流れる中、舞台の記憶は誰かの心の中で、そっと生き続けている。
一歩を踏み出し、彼は劇場の影を後ろに残して歩き始めた。
秋風に舞う落葉が、まるでかすかな拍手のように、静かに彼の背中を包んだ。
【午前10時/探偵事務所内】
カリ、カリ――
クレヨンが紙の上を滑る音だけが、静かな事務所に響いていた。
朱音は机に向かい、真剣な眼差しでスケッチブックに向かう。
そこには、過去の舞台で見た光景や、消えた演者たちの姿が、淡く色鉛筆で描かれていた。
「……こうして残しておかないと、全部忘れてしまいそう」
隣では玲が資料を整理している。手を止めることなく、時折朱音の描く線をちらりと覗く。
彼女の描く一枚一枚が、失われた舞台と演者たちの記憶を、そっと呼び戻しているかのようだった。
窓の外、冬の柔らかな光が差し込み、机の上の色鉛筆や紙を淡く照らす。
朱音は小さく息をつき、次のページに向かってクレヨンを手に取った。
その手は、確かな意志を持って、失われた物語を紡ぎ続けていた。
【午後4時/湖畔の祠前】
冷たい風が湖面を渡り、薄暮に染まる祠のまわりを静かに撫でていく。
小さな石段を上った先、祠の前に白い花が供えられていた。昨日までにはなかったものだ。
服部たまきは、そっと膝を折り、手を合わせる。
指先に触れるのは、まだ温かい花の茎ではなく、心の中の静かな祈りだった。
「……もう、悔やまない」
湖面に映る沈む夕陽が、彼女の肩を淡く照らす。
遠くで小鳥の声が響き、風に揺れる花びらが、静かに波紋を広げる。
たまきは立ち上がり、祠を後にした。
歩き出すたびに、足元の落ち葉が小さく踊る。
心の中には、まだあの事件の影は残るものの、少しずつ日常の光が戻り始めていた。
【夕方16:30/学園図書室】
放課後の気配もすっかり消えた学園の図書室。冬の夕暮れが、曇りがかった窓越しにやわらかく差し込んでいた。
朱音は静かに机に向かい、スケッチブックを開く。鉛筆が紙を滑る音だけが、静寂を破る。
「……今日も描こう」
ページの端には、かつての舞台や仮面、そして失踪した演者の影を思わせる線が、淡く記されている。
その線を追いながら、朱音の指先は少しだけ震える。けれど、それは恐怖ではなく、思い出と決意の震えだった。
窓の外、夕暮れの光が少しずつ消え、室内はやさしい薄明かりに包まれる。
朱音は深く息を吸い、次のページに新しい線を刻んだ。
舞台は終わったが、物語はまだ、彼女の手の中で静かに生き続けている。
【午後17:15/学園舞台整備室】
金属の香りが漂う整備室。高天井の空間には、分解された照明灯体が無数に吊り下げられ、無言のまま点検を待っていた。
工具を片付け、ネジの感触を確かめながら蓋を締めた高梨ユウタは、黙って手帳を取り出した。表紙は擦れて角がめくれかけていたが、中にはびっしりと光の計算と舞台図が書き込まれている。
「……これが、光の“余韻”になる」
ユウタは小さくつぶやき、ページをめくるたびに過去の舞台で見た光景や、演者たちの表情を思い返す。彼の指先が描き込んだ数字や線は、ただの技術ではなく、失われた舞台の記憶を映すようだった。
夕陽が窓から差し込み、金属の影を床に長く落とす。ユウタは深呼吸を一つして手帳を閉じ、静かに整備室を後にした。舞台は終わったが、光の計算と記憶は、まだこの空間に生き続けている。
【午後16:40/学園分析室】
白い蛍光灯が天井から静かに明滅し、分析室に微かな振動を落としていた。
水無瀬透は、解析端末に表示された深層記憶のラストフレームを見つめながら、静かに息を吐く。画面に映るのは、もう動かない演者たちの姿と、そこに残る微かな感情の残響。
「……結局、誰も置き去りにはできないんだな」
透は指先でデータをスクロールし、消された記憶や未完の台詞の断片を慎重に読み解いていく。机の上には小さなノートが開かれ、観察記録や補足メモが整然と並ぶ。
夕陽が窓から差し込み、端末の光と混ざり合う。透は静かに端末の電源を落とし、深層に残る“舞台の残響”を心に刻みながら、分析室を後にした。
【夜20:15/自室書斎】
柔らかな灯りのもと、小さな書斎にはページをめくる音だけが静かに響いていた。
柊コウキは、古びた布張りの椅子に腰かけ、手元に広げた一冊のノートに目を落としていた。それは、自分が幼い頃に書いた日記帳――。
「……覚えている、あの声も、あの匂いも……」
過去の記憶が淡く蘇る。文字はまだ幼く、感情がそのまま残されている。ページを指でなぞりながら、コウキは自分の感覚の奥にある“消えかけた記憶”を、少しずつ拾い上げていった。
静寂の中、書斎の時計が小さく時を刻む音だけが、彼の集中を遮らずに響いていた。ページをめくる指先に、かつて封じられていた幼い日の自分が、静かに呼応しているかのようだった。
あとがき
本作『仮面の記憶 ―失われた舞台と証人たち―』を最後までお読みいただき、ありがとうございます。
物語は、失われた舞台、封じられた記憶、そして仮面に秘められた人々の思いを軸に展開しました。表面的には事件と謎解きが中心ですが、同時に「誰が見ているのか」「何を残すのか」という演劇の本質的テーマにも向き合いました。
玲や朱音、ユウタたちが歩んだ軌跡は、単なる謎解きの過程ではなく、過去と向き合い、記憶の残響を受け止める物語でもあります。彼らの目を通して、「舞台」とは、単に演者が演じる場所ではなく、記憶や想いを映し出す空間であることを描きたかったのです。
読者の皆様には、物語の細部に潜む「小さな証言」や「未完の台本の痕跡」を楽しみながら、登場人物と共に失われた舞台を歩んでいただければ幸いです。
最後に、この作品に関わってくれたすべての人々、そして作品を手に取ってくださった読者の皆様に感謝を。物語は終わりましたが、仮面の残す記憶は、読む人の心の中で静かに生き続けることでしょう。




