74話 仮面劇の終幕
● 佐々木 朱音
主人公格の少女。
無垢な直感と絵を描く力によって、“記憶”と“真実”に近づいていく。
劇場での出来事の中で、目撃者から“演者”へと踏み出すことになる。
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● 玲
探偵。冷静沈着で洞察力に優れる。
朱音を見守りながら事件の構造を解き明かし、
後半では自らも「物語の当事者」として巻き込まれていく。
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● 高梨 ユウタ(たかなし ゆうた)
元・仮面劇の演者。
終幕を演じたとされていたが、実際は“終わっていなかった劇”の残響を抱える存在。
舞台照明の知識にも通じており、仮面の舞台装置に深く関わる。
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● 黒衣の演出家(仮称)
仮面劇の真の演出者を名乗る謎の男。
ルミエール座二階席にて登場。
「仮面を通じてしか到達できない真実がある」と語り、朱音を導く。
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● “失踪した演者”
詳細な名は不明。
学園演劇祭の主役として準備されていたが、仮面をつけたまま舞台裏から消える。
彼女の“未完の演技”が事件の発端となり、朱音の行動へと影響を及ぼす。
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● サポート登場(回想・情報のみ)
・旧劇団関係者たち
名前は明言されないが、「仮面の舞台装置」の仕掛けや保存に関与。
後半で“再演”の準備とともに、過去の断片が浮かび上がる。
・観客たち
事件の中心ではないが、“ある種の記憶共有者”として舞台を取り巻く存在。
「観る者と演じる者の境界」が物語の大きな主題となる。
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■ 特徴的アイテム・記号
•仮面番号Ⅳ:失踪演者が最後に手にしていたとされる仮面。
•白い仮面:朱音が選び取った仮面。
•閉鎖地下ホール:記憶と演技の終着点として物語の核となる空間。
―冒頭―
【場所】聖桜学園・研修棟・地下室
【時間】11月18日(火)午後10時45分
闇に包まれた地下室の奥、冷たいコンクリートの壁に囲まれた狭い空間。
唯一の光源であるデスクライトが、無造作に積まれた資料や古びた演劇台本の背をかすかに照らしている。
「おい、もう時間だ。やめてくれ!」
声は若く、震えていた。声の主――一人の男子生徒――は、後ずさりながら壁際に追い詰められていた。
目は恐怖に見開かれ、逃げ場を探していたが、この部屋に“出口”はひとつしかない。そしてそこに立つ人物は、逃がす気など微塵もなかった。
「君は“選ばれた”んだ」
落ち着いた声が、機械のように冷ややかに返ってくる。
フード付きの黒いコート。顔は仮面で覆われている。白く無機質な仮面――目も口もない“能面”のようなものだ。
「ぼくは……関係ない、ただ……台本を――」
その言葉は途中で止まった。
男の手が素早く動き、鈍く光る凶器が深く刺さった。返り血は最小限。
白い仮面の男はひと息つくと、倒れた生徒の胸元から小さな紙片を取り出す。それは演劇の稽古で配られた“未発表の儀式演目台本”の一部だった。
「役を放棄した者に幕は下ろさねばならない」
男は小さく呟くと、仮面をもう一枚――新品のもの――床に置いた。
何も語らぬ仮面。それは、彼にとって“証拠”ではなく、“演出”の一部だった。
デスクの上の古びた台本が風もないのに、ふと一ページ、めくれた。
《第一幕・終演前の犠牲者》
ページの中央には赤く縁取られた手書きのサイン。
“演目はつづく”という走り書きが、その横にあった。
【場所】聖桜学園・研修棟・地下室
【時間】11月18日(火)午後10時50分
薄暗い地下室の一角。
冷え切った空気に、どこか鉄錆びた匂いが混じる。蛍光灯の一部がちらつき、薄く濁った白い光の中で、床に広がった鮮血が鈍く反射していた。
机に突っ伏すように倒れている青年――三年生の野村悠真の体は、すでに動く気配を見せない。
背中から血が広がり、彼が最後に握っていたらしいメモ用紙が、掌の下で濡れてふやけている。
彼の周囲には倒れた椅子、引き裂かれたように散乱する演劇関連の書類、そして――足元にぽつりと置かれた白い仮面。
「……うそ、でしょ……?」
低く、震えた声が背後から響いた。
懐中電灯を持って現れたのは演劇部の後輩、真壁紗良。
彼女は足を止めたまま、目の前の異様な光景に凍りついていた。
「……野村先輩……なんで……」
彼女の手から懐中電灯が滑り落ちる。
カツン、と床を転がり、その光が仮面を映し出した――目も口もない、無機質な白面。演目用の小道具とは異なる、異様な存在感があった。
その瞬間、少女は悲鳴を上げることすらできなかった。ただ、ひと筋の涙が静かに頬を伝った。
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【場所】玲探偵事務所・応接室
【時間】11月19日(水)午前9時15分
「……聖桜学園、ね」
玲は報告書を読みながら、小さく息をついた。表情に焦りはない。だが、目の奥に一瞬だけ、暗い光が揺れる。
「二年前の“模擬劇事件”と、同じ学校か。あの台本……まだ尾を引いていたか」
隣では朱音がココアを両手で抱えながら、玲の様子をじっと見つめている。
「れいさん、また“演劇”の事件……なの?」
「ああ。今回も“演目”が関わっているらしい。それに、“仮面”だ。舞台の上じゃない、実際の犠牲者に被せられていたという報告だ」
朱音は眉をひそめる。
「……それって、“演出”みたいに見せてるってこと?」
玲は静かに頷く。
「そうだ。誰かが“劇”を進めている。舞台を現実に引きずり出してな」
彼はコートを手に取り、立ち上がる。
「行くぞ、朱音。今回は……君の目が必要になるかもしれない」
【場所】聖桜学園・図書室
【時間】11月19日(水)午前10時30分
聖桜学園の図書室は、外の喧噪とは無縁の静けさに包まれていた。
大きなアーチ窓から差し込む冬の柔らかな陽光が、長い木製の机を温かく照らしている。高く積まれた蔵書の棚はどれも整然としており、その一角に玲と朱音が並んで腰掛けていた。
朱音の指先が、一冊の古びた演劇史のページをなぞっている。
「ねえ、玲さん。ここにある“儀式劇”って、さっきの“台本”と似てるんじゃない?」
彼女の声は静かだが、どこか鋭さを帯びていた。
玲は資料から目を離さず、朱音の指した箇所を一瞥する。
「――“仮面の演者が一人ずつ舞台に現れ、順に儀式を終えていく。その順序に意味がある”……確かに、似ているな」
低く呟く玲の目が細められる。
朱音は椅子の上で少し身体をずらし、顔を近づけるようにして続きを読んだ。
「“演者の役割は、祝福、沈黙、裁き、そして終幕”……これ、四人まで書いてある。台本も四幕だったよね?」
玲は頷いた。
「今のところ、被害者は一人。だが“第一幕”という意味なら、残りがあるということだ」
そのとき、図書室の奥から足音が響く。
制服姿の若い女性が静かに近づいてきた。手にした資料ファイルと名札――早乙女 梓。学園の演劇顧問であり、かつてこの学校の“演出補佐”を務めた人物だ。
「……玲さんですね。お噂は伺っています」
彼女の表情は沈んでいたが、その声には一抹の期待があった。
「彼の、野村くんの件……演劇部にも衝撃が大きくて……でも、あなたなら真実を見つけられると……」
朱音に目を向けて、一瞬戸惑いが走った。
「……この子は?」
「相棒です」玲は即答する。「年齢は関係ない。事件は、彼女の目に映る“違和感”が鍵になる」
梓はその言葉に一拍置き、ふっと小さく笑んだ。
「……わかりました。なら、お二人に託します」
朱音は小さく会釈し、再び資料に目を戻した。
ページの隅には、手書きで記された一文があった。
――“最後に現れる仮面は、かつての演者を映す”――
玲の表情が、わずかに引き締まった。
この劇は、単なる創作ではない。過去をなぞり、何かを再現しようとしている。
そして、その“再現”の目的は――誰かの復讐か、あるいは“完成”か。
「朱音、準備を。地下室の再調査に入る」
「うん。あの仮面……もっと何か、ある気がする」
静寂な図書室の中で、物語は再び動き出していた。
【場所】聖桜学園・地下施設入り口付近
【時間】11月19日(水)午前11時15分
聖桜学園の敷地の最奥に、ひっそりと佇む古い石造りの建物があった。研修棟の裏手、現在は使われていない旧設備棟の一角。
その壁の一部、かすれた蔦の裏に隠れるようにして存在する、重厚な鉄製の扉。
扉の前には、玲、朱音、そしてもう一人の姿があった。
黒縁の眼鏡に白衣を羽織る女性、御子柴理央。記憶分析官であり、玲とは過去に幾度も“現場”を共にした旧知の仲である。
「……錠はすでに外されている。昨夜、第一の事件現場として学園側が調査した形跡もあるな」
玲が鉄扉を押すと、鈍く軋んだ音が狭い通路に響いた。
「本当に、こんなところに……?」
朱音が小さくつぶやきながら、扉の向こうを覗き込む。階段は深く、奥は完全な闇に沈んでいた。
「空気が……冷たい」
朱音の声がわずかに震える。だが、それは寒さだけではなかった。
玲は小さく頷くと、懐から小型のライトを取り出して階段を照らした。
「昨日、野村孝介がここで命を奪われた。――その痕跡が、まだ残っているはずだ」
御子柴理央がポーチから手袋を取り出し、冷静に言う。
「サイコメトリーには私も立ち会う。記憶の“残留層”を二重に分析したい。あなたの発動の際、誤認情報が入り込まぬよう補助するわ」
玲は視線を横に流した。
「君がいるなら、精度は上がる。頼む」
その会話を、朱音がじっと見ていた。
「……玲さんの“見る力”って、本当に記憶を読んじゃうんですね」
「読む、というより……触れるんだ」
玲はそう言いながら、階段を降り始めた。
「記憶は、場所に宿る。そして、“忘れられた場所”ほど、それは強く残るんだよ」
静かに続く階段。その先には、昨日命を絶たれた青年の、最後の痕跡が残されている――。
【場所】聖桜学園・研修棟地下室
【時間】11月19日(水)午前11時20分
階段を降りきると、ひんやりと湿った空気が頬を打った。
薄暗い地下室の奥、昨日の事件現場――野村孝介が命を落とした場所は、簡易なパーテーションとビニールシートで区切られていた。
机の上には、まだ回収されていない書類の束と、倒れたままの椅子がそのまま残っている。床に広がった血痕は薄く拭かれていたが、その場に漂う「気配」は消えきっていなかった。
玲は静かにその場に膝をついた。
「……始める」
御子柴理央が手早く準備を整える。彼女は小型の記録装置を起動し、玲の脳波と心拍数をチェックしながらそっと言った。
「記憶残滓の深度は“第Ⅱ層”まで。急性の恐怖と混乱が強く残っているはず。巻き込まれないよう、意識を切らさないで」
朱音は少し後ろで見守っていた。目を見開きながらも、玲から目を離さない。
玲は手袋を外し、血痕のすぐ近く――野村が最後に触れていたであろう机の角に手を置いた。
次の瞬間、彼の瞳が一瞬、遠くの何かを見つめるように揺れる。
「――きこえる」
玲の声は低く、抑えた震えを帯びていた。
***
視界が、変わる。
目の前に映ったのは、まさに“あの瞬間”。
野村孝介が振り返り、何者かに背後から襲われる瞬間が、断片的なイメージとして流れ込んでくる。
(声……誰かの、指示……?)
彼は何かを拒もうとしていた。手元の書類、それを守るように机に手を伸ばしていた。
「やめてくれ……こんなこと、望んでないって……!」
だが、黒い影が口を塞ぎ、身体を無理やり椅子ごと押し倒す。
仮面――白く無機質な仮面が、一瞬だけ視界に映る。
そして、赤。
急激に視界が染まる。
「……終わらせないと、劇が……」
その言葉と共に、意識が暗転した。
***
「……っ!」
玲が肩を揺らして、現実に戻る。額には薄く汗が浮いていた。
「どうだった……?」朱音がそっと近づく。
玲は立ち上がり、口を引き結んだまま答えた。
「犯人は“誰かの指示”で動いていた。そして――野村は“劇”について知っていた。それが動機になっていた可能性がある」
御子柴が手元の記録を確認しながら頷く。
「“劇”。ここでもまた、その言葉が出てきたわね。被害者の脳内にも強く残っていた――抑圧された演目に関する断片的な記憶が」
玲は静かに、机の上の一枚の紙に目を落とした。
それは、昨夜の混乱の中で残されたままの1ページ。タイトルも配役も書かれていない、手書きの台本の断片だった。
「……始まってる。これは、“未発表の劇”をなぞった連続事件だ」
その言葉に、朱音がそっと呟く。
「……じゃあ、次の“役”が決まってるってこと……?」
玲は朱音に目を向け、静かに頷いた。
「だからこそ、急がないといけない。“第二幕”が、すでに準備されている」
地下の闇は、静かに息を潜めていた。
まるで、次の演目の“開幕”を待つかのように――。
【場所】聖桜学園・地下1階・旧備品保管庫前
【時間】11月19日(水)午前11時42分
地下1階の長い廊下を進み、突き当たりの左手に位置する鉄扉の前で、玲はふと立ち止まった。
「……空気が変わったな」
玲の声は低く、警戒心を帯びていた。
朱音もその隣で足を止め、肩をすくめるようにして言った。
「なんか、冷たい風……奥の方から吹いてくる……」
旧備品保管庫。このエリアは数年前から立ち入りが制限されており、生徒の間でも“近づくな”という暗黙のルールがあるという。
だが、最近の調査で、この場所が事件に使われた可能性が浮上した。特に、「劇の準備に使われた痕跡」がこの中にあるかもしれないという仮説だ。
同行していた御子柴理央が、小型の検出装置を操作しながら呟く。
「……この扉の向こう、微弱なフェロモン反応あり。人の“気配”のような痕跡が、6時間以内に。しかも2人分」
「開けるよ」
玲は無言でうなずき、古びた取っ手に手をかける。
ギィ……と鈍く重たい音を立てて、鉄扉が開く。
その瞬間、内部から吹き出した空気は、まるで長く閉じ込められていた記憶のようだった。
部屋の中は、埃まみれの棚や机、古い舞台衣装のようなものが無造作に積み上げられていた。
床には演劇部の道具らしき小道具や壊れかけた照明機器が散乱し、部屋の奥には仮設の幕が吊るされている。
「……演出の準備がされていたな」
玲が歩み寄って幕をめくると、そこには小さな黒板があり、チョークで何かが殴り書きされていた。
>【第四幕 犠牲と誓約】
>演者は三人。仮面は“白・白・黒”
>沈黙のあと、光が差す。
朱音が息をのんだ。
「……これ、次に起こる“劇”のこと……?」
御子柴が頷く。
「間違いないわ。しかも“仮面の色”が指定されている。これは、犯人……いえ、“黒幕”による演出の一部ね」
玲は仮面を模した木製のマスクをそっと拾い上げ、裏面を指差す。
そこには、細かく彫られた“Y.E.”という文字。
「夕映町(Yūei-chō)……」
玲の声がわずかに強張る。
朱音が不安げに尋ねた。
「そこって……」
「昔、“未完の劇”が行われた街だ。すべてが終わる場所――“記憶の劇場”の原点だ」
空気が、さらに冷たくなる。
まるで、この場所が“終幕”への入口であるかのように。
玲は静かに扉を閉め、朱音の肩に手を添えた。
「まだ間に合う。次の“演者”が舞台に立たされる前に、終わらせよう」
そう告げるその目には、確かな決意が宿っていた。
【場所】聖桜学園・地下1階・旧礼拝室
【時間】11月19日(水)午前11時45分
鈍い金属音と共に、旧礼拝室の重い扉が開かれた。
薄暗い空間には、朽ちた十字架と、木製の長椅子が並ぶ古めかしい礼拝の跡。数十年の埃が床に積もり、誰も立ち入らなかったことを物語っていた。
しかし、その場にいた者たちはすぐに察する。
この部屋は、何者かの手で“使われていた”。
礼拝台の奥には、黒布で覆われた舞台装置らしきものが組まれていた。スポットライト、反響材、仮設スクリーン――すべてが“劇”のために設けられたものだ。
「まるで、誰かがここを“劇場”として準備していたようだな」
そう口にしたのは、台本構成分析官・椎名 環。
肩までの黒髪を後ろで束ね、知的なメガネ越しに鋭い視線を送る。
彼女は玲に連れられてここに合流した、脚本の心理的構造を読むスペシャリストだった。
椎名は、仮設舞台に置かれた数枚の紙を手に取り、静かに読み上げる。
>【終幕の儀式 台本抜粋】
>―第三幕:“遺された者”が舞台に立つ。
>彼/彼女は選ばれし“語り手”であり、真実の目撃者。
>“黒い仮面”がそれを見守る――
「……この“語り手”って、まさか……」
朱音が不安げに声を漏らす。
「そう。“第三の犠牲者”だ」
玲は静かに言い切った。
その時だった。
――パキン。
部屋の奥、仮設照明の裏で何かが割れた音がした。
直後、かすかに聞こえる足音。誰かが、ここを訪れていた形跡。
玲が手をかざす。
「静かに。……記憶が残ってる。読み取る」
彼は床の一角に膝をつき、仮面の破片に触れる。
サイコメトリー、発動。
冷たい空間に、かすかな“過去の残滓”が広がった――
浮かび上がるのは、黒い服を着た人物と、仮面を手にした若者。
若者は何かを訴えていた。だが、その声は届かず、仮面は彼の手から落ちる。
「“彼”は逃げようとしていた……でも、“誰か”がそれを止めた。脅して……台本の通りに、“演じさせた”」
「脅迫と演出……殺人を“劇”として再構成させている。明らかに狂ってる」
椎名が言葉を噛むように言った。
朱音が指差した。
「玲……あれ」
礼拝室の奥のステンドグラスが割られ、そこに“黒い仮面”が新たに貼り付けられていた。
玲は呟く。
「第三の事件が近い。黒幕は、この礼拝室を“幕間”にして、次の舞台を仕込んでいる……」
その場の空気が変わる。
礼拝室の外、遠くからサイレンの音がかすかに聞こえ始める――
それはまるで、「次の犠牲」が既に出たことを告げる鐘のようだった。
【場所】聖桜学園・地下1階 廊下 → 美術準備室前
【時間】11月19日(水)午前11時50分
礼拝室の扉が音を立てて閉じられる。
玲は一歩先を歩きながら、足早に薄暗い廊下を進んでいた。その後ろには、椎名環、そして小走りで追いすがる朱音の姿。
廊下の空気は冷たく、重い。微かな粉塵が光に揺れ、まるで視界に靄がかかっているようだった。
「第三の事件、場所は?」
椎名が問いかける。
「……美術準備室。通報が入ったのは数分前。学内巡回中の職員が、扉の隙間から異常を確認した。今、封鎖中だ」
玲は懐から端末型タブレットを取り出し、K部門からの連絡ログを確認していた。画面には、**“仮面の貼り付けを確認”“被害者の身元未確認”**の文字が冷たく並ぶ。
「また“仮面”……!」
朱音が小さく呟いた。その声に、微かに震えが混じる。
彼女は夢で見た――黒い舞台、白い仮面、そして役割を演じさせられる誰かの姿を。
それが、いま現実になろうとしている。
「玲……もし、また“演じさせられてる”としたら……」
「止めるさ」
玲の声は低く、だが迷いがなかった。
美術準備室は、地下1階の東端に位置する。そこは普段、生徒の立ち入りを禁じられた管理区域。備品や仮設舞台の保管庫として使われていたが、数年前から“廃止扱い”になっていた。
にも関わらず、そこが“次の舞台”に選ばれていた。
突き当たりの角を曲がると、封鎖ラインが見えてきた。
警備員とともに、**記憶探査官・水無瀬 透**の姿があった。黒いジャケットのポケットには、特殊装置が複数差し込まれている。
「玲さん、待っていました。現場に“痕跡”が残っています。未発動の記憶もある」
「水無瀬、すぐに読めるか」
「可能です。……ただし、“ここ”はおかしい。誰かが意図的に記憶を“並べ直している”。順序が操作されているような……演出です」
朱音がぎゅっと玲の袖を握る。
「台本、全部通り……?」
「いや」
玲の目が鋭く細められる。
「台本は“終幕”を指していた。だとすれば、そろそろ黒幕が前に出てくる頃だ」
そのときだった。
バンッ!
扉の内側で、何かが倒れる大きな音が響いた。
その直後、仮面がガタンと落ちるような乾いた音。
全員が一瞬、静止した。
玲が扉に近づき、手をかざす。
「……中に、まだいる」
水無瀬がすかさず操作を開始し、扉横のセンサーに指をかざした。
ガチャン。
施錠が解除され、扉がゆっくりと開く。
その奥には――
白い仮面と、赤い血。そして、ひとつの“役割”が終わった痕跡だけが残されていた。
【場所】聖桜学園・地下1階・美術準備室
【時間】11月19日(水)正午12:00
扉を開いた瞬間、冷気とは違う、妙な“重さ”が室内に漂っていた。
それは湿った演劇幕の裏にたまる静寂にも似た、演出された“死の空気”だった。
部屋の中央――仮設舞台用の黒布が敷かれた上に、一人の青年が倒れていた。
制服の胸元には刃物による刺傷が一つ。傷口から広がった血の模様は、舞台の幕開けを告げるように扇形に染みを描いていた。
彼の顔には、白い仮面が乗せられていた。
いや、“貼りつけられていた”と表現するべきか。
仮面の裏側から接着剤のような粘着物が滲み出ており、まるでこの世から顔を奪うかのように、皮膚に食い込んでいた。
「……無残だな」
玲が静かに膝をつき、仮面の周囲を確認する。
仮面には番号があった――“Ⅲ”。そして、右頬には小さく、手書きのような文字が一行だけ刻まれている。
>《台詞を忘れる者に、舞台の資格はない》
「また“劇”の引用か」
後ろから覗き込んだ椎名環が、仮面の書き付けを見て呟く。
「この文言……《未発表の演目台本》の第四幕に、まったく同じ台詞があったはず」
朱音が、小さく息を呑んだ。
「……やっぱり、夢で見た通り……この部屋……黒い布の床に、真ん中で倒れてる人。そして、白い仮面……」
玲は朱音の手を握り返す。冷たい指先だった。
室内にはもう一つ、“異物”があった。
舞台装置用の古い譜面台――その上に、封筒が一つ、封蝋付きで置かれている。
封には赤インクで、《Finale:Ⅶ》と書かれていた。
玲は手袋をはめ、封を開ける。
中には、一枚の台本。手書きではなく、印刷されたそれは確かに“例の演目台本”と同じ書式、同じ用紙――だが、**誰も知らない“第七幕”**だった。
「……これは、今までになかった。未収録分だ」
椎名が小さく声を震わせる。
「最終幕、Finale。演者の一覧が……ここにある」
玲が、視線を落とす。
そして次の瞬間、眉がわずかに動いた。
演者のリストには、既に殺された被害者の名前と仮面番号、そして――“演者Ⅴ”に朱音の名前が記されていた。
沈黙が流れる。重く、濃密な空気が、部屋全体を支配する。
朱音が、それを読もうとしたが、玲が静かに紙を伏せた。
「まだ、その“幕”は始まっていない」
玲は、仮面を見下ろしながら言った。
「……黒幕は、“劇場の観客”を操る者。そろそろ、次の演出に移る頃合いだ」
【場所】聖桜学園・地下1階・美術準備室
【時間】11月19日(水)正午12:05
玲はゆっくりと、白い仮面の縁に指先を添えた。
冷たく、ざらついた感触。血のついた頬に、異物のように貼りついているそれは、まるでまだ“演者”の意志を吸っているかのようだった。
「……行くよ、朱音」
隣で見守る少女が、小さくうなずく。
玲の瞳が静かに閉じられた――
次の瞬間、空気がわずかに震え、部屋の温度が変わったような錯覚に包まれる。
サイコメトリー、発動。
──歪んだ視界。
舞台裏のように暗い空間。被害者の視点が、玲の中に流れ込んできた。
誰かがいる。仮面を手にした人物。顔は見えない。声も聞こえない。だが――
薬品の臭い。鼻をつくような、刺激臭。
――あれは……強力な接着剤だ。舞台装置用の、“瞬間硬化型の透明ジェルタイプ”。
犯人はそれを、仮面の内側――頬骨と顎のライン、額のあたりに薄く塗り広げる。
そして一言も発せず、それを無理やり被せた。
――はずそうとしても、もう遅い。
仮面が皮膚に焼きつくように張りつき、視界が一気に暗転する。
被害者がもがき、手を伸ばす。だが次の瞬間――
鋭い痛み。胸の中央、一突きの刃。
息が、止まる。
そして意識は、虚無に沈んだ。
──そこで映像は途切れた。
玲が、静かに目を開けた。
「……あの仮面、内側に強力な瞬間接着剤が使われていた。劇場用のハードタイプで、数十秒で硬化する。貼られた瞬間、もう剥がせない」
「それって……」朱音が息を呑む。
「呼吸も、視界も、すべて封じられる。そして――」
玲は視線を落とした。「仮面が完全に密着したあと、胸を一突きだ。逃げ場はなかった」
椎名が呻くように言った。
「それ……完全に“演出された殺人”だよ。まるで、台詞を忘れた役者が“舞台から退場”させられたみたいに」
玲は小さく頷いた。
「犯人は、“儀式”と称して殺している。仮面を貼り、台詞を刻み、順番通りに“舞台を進めて”いる。……そして、誰かの指示を受けて」
机の上の台本を見下ろす。その表紙には――
《第七幕:Finale》
朱音が小さくつぶやく。
「“最後の演目”……だね」
玲はその言葉に、わずかに目を細める。
「でも、“最後の演者”はまだ生きている。終幕を迎える前に……“舞台”を壊さなくては」
【場所】聖桜学園・生徒ホール
【時間】11月19日(水)午後0時15分
校内放送が鳴った瞬間、昼休みに向かっていた生徒たちの足が、一斉に止まった。
ざわめきの中、誰もが放送の続きを待っている。
──「本日、正午ごろ地下施設内で事故が発生しました。現在、関係者による安全確認が行われています。生徒の皆さんは、地階および旧礼拝棟方面への立ち入りを禁止します。繰り返します──」
空気が変わった。
笑い声は消え、廊下に漂うのは沈黙と不安。誰かがひそひそと「また……誰か死んだの?」とつぶやいたが、それ以上は誰も何も言えなかった。
*
【場所】同・資料保管室
【時間】午後0時25分
玲は朱音、椎名環(台本分析のスペシャリスト)と共に、生徒ホール脇の資料保管室にいた。
机の上には、事件現場から採取された仮面の破片と、小瓶に封じた液体サンプル。
そこへ、水無瀬透(記憶探査官)と高梨ユウタ(照明技師)が合流していた。
「これが接着剤の成分ね……」
椎名がサンプルを光に透かし、成分分析結果のレポートに目を通す。
「市販されているものじゃないわ。業務用、それも舞台装置か工業用途でしか流通してない、“即時硬化型エポキシジェル接着剤”。しかも、微量の黒色染料が混じってた」
「隠蔽目的だな」と高梨がつぶやく。「乾くと透明になるけど、舞台照明で透けないように、わざと色味を加えてある」
玲は頷いた。「つまり、学園内にあるはずのない接着剤だ」
朱音が顔を上げる。「じゃあ、誰かが外から持ち込んだの?」
「……正確には、一部の備品保管庫に“搬入記録”があった。ただし、それが今年のものか、誰かが過去に持ち込んでいたものかは、まだ不明だ」と椎名。
「仮面の方はどうだ?」と玲。
水無瀬がファイルを開いた。
「この仮面、元は学園の文化祭で使われていた演劇部の小道具だ。だが、ここ数年の文化祭では使用履歴なし。保管棚の記録も改ざんされていた。おそらく……誰かが、過去の演目から“型”だけ持ち出して、複製した」
朱音が、眉を寄せた。
「じゃあ……“台本も仮面も、ずっと前から準備されてた”ってこと……?」
玲は黙って仮面を見つめる。
仮面の裏、わずかに残された接着剤の跡には、異なる種類の樹脂層が混在していた。
「この仮面、誰かが何度も“試作”を繰り返してる痕跡がある。つまり犯人は、ただの模倣犯じゃない。演劇に、仮面に、明確な執着がある」
椎名がうめいた。
「つまり……“黒幕”は、この学園の“劇場”そのものを支配したい誰かってわけね」
玲の目が鋭くなる。
「そして、仮面の裏側に残ってた**“皮脂と血痕の混合微粒子”**から、もう一つ分かったことがある」
一同が息を呑んだ。
玲は静かに言った。
「被害者以外のDNA反応が出た。……それが誰のものか、今、鑑定中」
【場所】聖桜学園・職員棟・特別応接室
【時間】11月19日(水)午後0時30分
カチリ、と時計の針が静かに音を立てる。
窓の外からは、昼休みを知らせるチャイムの余韻がかすかに聞こえたが、この部屋にはまるで別世界のような重苦しさが漂っていた。
深い木目調のテーブルを挟んで、玲と朱音、椎名環、そして学園の理事長代理・**久保谷裕臣**が静かに向き合っていた。
「……ご覧になりますか」
椎名が封筒を差し出す。
中には、DNA鑑定の結果を記した報告書が収められている。仮面の内側から検出された微量な皮脂と血液に含まれるDNAが、過去の事件資料と一致していたのだ。
玲が報告書を開き、必要な箇所を指でなぞり、そして静かに口を開いた。
「検出されたDNAは、久保谷湧人……あなたの、息子さんのものでした」
ピクリ、と久保谷の頬がわずかに動いた。
だが、彼はすぐに眼鏡をかけ直し、何事もなかったかのように静かに言った。
「湧人は……三年前、卒業後に失踪しています。突然、連絡が取れなくなってね。私も警察に相談したんだが、何の手がかりもなかった」
朱音がぽつりと呟いた。
「……じゃあ、今回の事件って……その人が関係してるの?」
「仮面の裏に付着していた皮脂と血液は、かなり新しいものでした」と椎名が補足する。「少なくとも、事件が始まる数週間以内に付着したものと見て間違いありません」
玲の目が鋭く細まる。
「久保谷理事代理。あなたの息子は、過去の事件──七年前、学園で封印された**旧演劇演目“第七の台本”**に深く関わっていた。それは表沙汰にならなかったが……」
「それ以上はやめたまえ」
久保谷の声が初めて鋭さを帯びた。
だが玲は引かなかった。
「“終幕の演者”という言葉。仮面に残された血。そして、未発表の台本の内容が今、現実になっている。ここに偶然はない。……この劇を、もう一度完成させようとしている人物がいる」
朱音が、玲の袖をそっと引いた。
「……じゃあ、その“終幕”って……?」
玲は言葉を選んでいた。そして、低い声でこう答えた。
「第七の台本のラストには、**“理事長の息子が真犯人を演じ、自ら舞台で命を絶つ”**と書かれていた。演劇部の誰もが、その演目は“狂気に取り憑かれた演出”だと感じ、封印された。だが……湧人だけは違った。彼だけが、本気で“演じ切ろう”としていた」
椎名が小さく首を振る。
「演劇じゃない。これは“再現”。……彼にとってこれは、“救済の儀式”なんだ」
久保谷はゆっくりと立ち上がり、目を閉じた。
「……私は、あの子を止められなかった。過去も、今も」
玲の声が静かに響く。
「まだ、終わってません。彼の目的は“劇の完成”。……そして、次の舞台は“学園の外”に移る可能性があります」
椎名が、かすれた声で呟いた。
「……“記憶の街”、夕映町よ。湧人の原点。劇が書かれた場所。そして、彼の母親が……亡くなった場所でもある」
静寂。
久保谷の拳が、机の上でわずかに震えた。
【場所】聖桜学園 本館2階・教職員控室
【時間】11月16日(日)午後4時10分
冬の陽が傾きかけ、校舎の窓から射し込む光も弱まっていた。
本館2階の教職員控室は、教師たちの間で交わされる報告や相談の声が飛び交う、いつもの夕刻の光景だった。
――ピッ。
控室の端に設置された無線機が、乾いた電子音を立てて鳴った。
直後、緊迫した声がスピーカー越しに響く。
「……こちら、第三研究棟警備担当。北階段踊り場にて、生徒一名を発見。倒れており、意識反応なし。脈拍微弱。外傷なし。至急、医務室へ搬送を要請する!」
その瞬間、室内の空気が一変した。
「誰が発見した?」
「名前は?学年は確認できているのか?」
「北階段って……あの古い非常階段の方か?」
動き出す教員たちの間で、控えめだった足音が一斉に荒々しくなっていく。
最初に動いたのは、高等部副担任・時任教諭だった。
彼は無線機の受話器を取り上げ、素早く指示を返す。
「こちら教職員控室、了解。保健教諭とともに救護班を向かわせる。担架班、急行せよ」
同時に、部屋の奥で机に向かっていた玲も、小さく眉をひそめていた。
彼はここ数日続いている不可解な動き──演劇部絡みの「舞台台本」、それに関係する不可解な噂──が、何か重大な局面に差し掛かっていることを感じ取っていた。
朱音のメッセージが届いたのは、ちょうどそのときだった。
> 「北階段の“あの場所”って……演目で『最後の幕が下りる場所』って書かれてた。偶然かな?」
玲の目が鋭く細められる。
朱音の言葉はいつも、直感から核心に近づいてくる。偶然では済まされない。
控室の外に、走る足音が響いた。
教職員たちの緊迫した動きが廊下へと伝わっていく中、玲は静かに立ち上がる。
「……もう、“幕”は開いたということか」
すでに、第三の事件は始まっていた。
倒れていた生徒は、ある「役」を演じさせられた犠牲者だった。
そして――机の上に広げられていた未発表の台本のページには、まさにこのシーンが“予言”されていた。
【場所】聖桜学園・第三研究棟・北階段踊り場
【時間】11月16日(日)午後4時25分
乾いた空気に、医療用ゴム手袋が擦れる音だけが響いていた。
古びた非常階段の踊り場。鉄骨むき出しの手すり、長く使われていない非常灯、わずかな西日が差し込む中、仰向けに倒れた一人の生徒の体が、無言で横たわっている。
白い仮面――
まるで舞台のピエロが笑みを浮かべるかのように、死んだ目の上にそっと被せられていた。
「間に合わなかったか……」
階段を駆け上がってきた玲が息を整える暇もなく、しゃがみ込む。後ろから続いた朱音も、胸を押さえて現場を見下ろした。
「……この仮面、まただ。あたし……夢で、見たやつと同じ」
玲は朱音の言葉にうなずき、すでに手袋を着けながら仮面へと手を伸ばす。
「素材はプラスチック合成、表面にマットコーティング。……だが、これだな」
仮面と皮膚の間に、細く差し込んだ器具の先端に、透明な糸状の“膜”が絡んだ。
「接着剤。学校備品のものじゃない。……市販の二段活性型のポリマー接着剤だ。最初は液状、空気に触れて数分で強化されるタイプ。少量でも十分強力だ」
玲は慎重に仮面の右下角から、わずかに持ち上げる。
“ピリッ……”と音を立てて、皮膚が引き剥がされるように仮面が浮いた。
「……!」朱音が息を呑む。
仮面の裏面――
そこには赤黒い血の跡が点々と残っていた。だが、それは出血によるものではなく、鼻と口の周囲に密着した接着によって皮膚が裂けた跡だった。
「……窒息だな。強制的に口と鼻を塞がれ、もがくこともできずに……」
玲の声が低く沈む。
「しかも……仮面の裏、鼻孔の位置にだけ、吸水性パッドが仕込まれてる」
「え……それって、呼吸ができるフリをさせるため?」
「正解。殺すことが目的じゃない。“演出”として殺す手口だ」
玲は、剥がした仮面の内側をさらに確認する。
「これは、劇中の“仮面の演者”が倒れるシーンと一致してる。つまり……」
彼は静かに立ち上がる。周囲の教師たちや、立ち入りを制限されている保安スタッフたちが、緊張の面持ちで見守っていた。
「……これは偶然じゃない。脚本通りに、生徒を役に見立てて殺してる」
「台本が、次の犠牲者を決めてるってこと……?」
朱音の声が震える。玲は無言でうなずいた。
次のページが、どこかで開かれようとしている。
【場所】聖桜学園・本館 地下ラボラトリールーム
【時間】11月16日(日)午後4時30分
仮面、接着剤、そして被害者の衣服――
その全てが、ステンレス製の証拠台の上で静かに照らされていた。
「第A検体、接着面の成分、採取完了。分離に入ります」
ブーツを履いたまま無言で機器を操作するのは、御子柴理央。玲たちが信頼を置くデータ・スペシャリスト兼法科学分析官だ。
「御子柴、成分の特定は?」
玲が訊くと、彼は微かにメガネを押し上げた。
「接着剤は『メテック社製ポリロックS-82』。市販品ではあるが、業務用の高濃度タイプ。学園内の備品には登録されていない。調達には許可業者を通す必要がある」
「つまり、外部から持ち込まれたものか――内部の誰かがこっそり入手したか、だな」
理央がうなずいた直後、部屋の端から女性の声が飛ぶ。
「仮面の分析、完了よ」
現れたのは椎名 環。演劇脚本と小道具構造に特化した構成分析のスペシャリストで、今回の“台本殺人”において呼び寄せられた支援メンバーの一人だった。
「この仮面、元は五年前の学園祭舞台『沈黙の仮面』で使われた道具ね。当時の備品台帳に、同じデザインと材質のマスクが4つ登録されてる。……でも、実際に保存されてるのは2つだけ」
「じゃあ……残りの2つは、失われたまま?」朱音が訊いた。
「ええ。搬出記録も処分記録もなし。誰かが保管していた可能性が高いわ。劇の再演を企んでいたか、それとも最初から……」
その時、背後で機械が音を立て、理央が画面に目を走らせた。
「仮面内側の付着物からDNAが出た。被害者以外に――もう一つ、登録者と一致」
玲が顔を上げる。「誰だ?」
理央が答える。
「夏目 薫。演劇部の元部員で、三年前に**“自殺”とされた事件の被害者**だ」
一瞬、空気が凍りついた。
朱音が小さくつぶやく。「……どうして、今……?」
その答えを出す前に、さらに扉が開き、もう一人の男が入ってきた。
「光学分光分析、終わったよ」
高梨ユウタ(たかなし ユウタ)――玲が信頼を寄せる照明・反射痕跡の技術分析担当。
持ち込まれた高精度の照明機器と分光スキャナは、仮面の表面に付着した微粒子や光の屈折から、環境情報を読み取るという特異な分析方法を用いていた。
「この仮面……つい最近まで“暗所保管”されてた形跡がある。湿度と粉塵の状態、布繊維の転写からして、劇場の倉庫じゃなくて、もっと狭い“個人保管ロッカー”レベル。つまり、持ってた奴は――」
玲が静かに言葉を継いだ。
「仮面を“保存”していた。そして、“再び使う日”をずっと待っていた……」
【場所】聖桜学園・記録保管室(管理棟地下)
【時間】11月16日(日)午後4時50分
古い金属製キャビネットの引き出しが、鈍い音を立てて開かれた。
そこには、封印されたはずの記録ファイルが収められていた。
「……夏目薫、三年前の記録。やはり非公開指定になっていたな」
玲の声が低く響く。背後では朱音が書類を一枚ずつ丁寧にめくっていた。
「……死因は“自殺”とされてるけど……やっぱりおかしい」朱音が小さく呟いた。
“演劇部内でのいじめ”、そして“舞台脚本を巡る対立”。
その名残が、記録の中の断片的な証言として残されていた。
【【場所】聖桜学園 図書室・奥の個室
【時間】11月16日(日)午後5時30分
図書室の一番奥。厚いカーテンで仕切られた半個室には、静寂と埃の匂いが漂っていた。
蛍光灯の白い光が無機質に照らす中、古い舞台台本や報告書、鑑定結果のコピーが所狭しと机を埋めている。
その中心に、朱音が膝を抱えながら座っていた。
膝の上には、夏目薫が遺した改稿脚本。その最終ページの一文――“終幕の演者・朱音”――が、まるで冷たい刃のように視界を刺す。
玲は無言のまま、ページの隅々に目を通していた。
朱音がぽつりと、問いかけた。
「……ねえ、玲お兄ちゃん」
玲は顔を上げた。その表情は相変わらず冷静だが、朱音の声の揺れを受け取っていた。
「もし、わたしが……“演者”に選ばれてるって、本当だったら……どうする?」
玲は一瞬だけ視線を落としたが、すぐに真っ直ぐ朱音を見つめ直した。
「その時は、俺が隣に立つ。……最後の幕が閉じるまで、ずっとだ」
朱音は静かに目を伏せた。幼さの残るまつげが、かすかに震える。
「……夏目薫さんは、どうしてこんな“台本”を書いたのかな。こんな、悲しい役ばかり決めてさ……」
玲は書類の山の中から、手帳の切れ端を取り出した。
それは夏目薫が生前、個人的に記していたと思われるメモ――そこには短くこう書かれていた。
> 「“幕が降りることでしか終わらない痛み”がある。
> だから、終わらせる誰かが必要だった。
> でもそれを背負わせるのは、罪だ――」
朱音は、ゆっくりとそれを読んだ。
そして、両手でそのメモを胸に抱き、そっと呟いた。
「じゃあ……わたしが、終わらせてあげるよ。
夏目さんの、痛みも、物語も。……わたし、逃げない」
玲は何も言わず、朱音の頭をそっと撫でた。
あたたかく、そして強く。
【場所】聖桜学園・図書室・奥の個室
【時間】11月16日(日)午後5時40分
ページをめくる朱音の手が止まった。
机の上に広げられた台本、その一幕――《孤児の少女が、仮面の男の手を取る》という短い舞台指示が目に入る。
「……この“少女”って、やっぱり……」
朱音はぽつりと呟いた。
その声には、怯えと、そして不思議なほどの確信が混じっていた。
玲はノートPCを前にしながら、深く頷いた。
「おそらく、この脚本の構造上、“演者”の正体は……あらかじめ“舞台の外”から選ばれていた。
観客ではなく、演じるしかない立場……それが、お前だ」
朱音は唇を噛んだまま、再び台本に視線を落とす。
その瞬間、扉の向こうから、軽いノック音が二度。
「……失礼します」
入ってきたのは、椎名 環――“台本構成分析”を専門とするスペシャリストだった。
ラフなセーターに眼鏡をかけた彼女は、朱音と玲に軽く会釈し、手にしたファイルを机の上に広げた。
「夏目薫が書いたこの脚本、断片だけでも構成が異常に複雑。
でも、順番を物語の“心理展開”に従って並べ直すと、一つのルートが浮かびます。
――“演者が、演出家の意図を拒むラスト”が、隠されてる」
朱音が驚いたように目を上げる。
椎名はゆっくり頷いた。
「彼はきっと、“結末を書かなかった”。演者が決めるように、あえて残したんです。
あなたに選ばせるために。演じるか、終わらせるかを」
朱音は拳を握りしめ、しっかりと頷いた。
「……わたし、“演者”でも、“終わらせる人”でもいい。
でも、誰かの“犠牲”のままでは終わらせない。――夏目さんの痛みも、わたしが受け止める」
その言葉を受け、玲がPCの画面を回した。そこには、学園内の物資移動記録と、過去数ヶ月の警備ログが映っている。
「……仮面が一つ、まだ使われていない。
そして“最後の演目”は、職員棟裏の演劇倉庫で行われると予測される。
時刻は、18時45分。日没と重なるように仕組まれてる」
玲の指示で操作されるデータ群。その傍らで、**水無瀬 透(記憶探査官)**が静かに姿を現した。
仮面に残された“演者の記憶”を読むために、彼は独自の装置を手にしていた。
「この仮面――最後の一つには、明らかに“記憶の残滓”が濃い。
使われる前から、誰かの恐怖や苦悶が染みついている。おそらく、第一の事件の“模倣”が目的だろう」
朱音が息を呑んだ。
「じゃあ、次も……誰かが仮面をつけさせられるの?」
「……ああ。だが、次の演目が始まる前に、舞台を崩すことはできる」
玲は立ち上がった。
「行こう、朱音。“仮面劇”の終わりを、お前と一緒に迎えるために」
【場所】聖桜学園・放送室/【時間】11月16日(日)18:00
壁に設置された赤いランプが点灯し、スピーカーから微かなノイズのあと――
学園内に、静かで奇妙に抑揚のない女性の声が流れた。
>「本日18時45分より、本校演劇部による臨時公演『仮面の告解』を職員棟裏・演劇倉庫にて実施いたします。
>一般生徒の観覧は制限されますが、関係者の立ち入りは許可されます。どうぞ静かにご移動ください」
その声は明らかに、録音されたものだった。
放送室のブースでは、椎名環が録音データの解析に取り掛かりながら、低く呟いた。
「……おかしい。これ、“今朝の私の声”が使われてる……誰が?」
後方では、朱音が放送室の窓から掲示板を見下ろしていた。
そこには、今日まで存在しなかった**『第十三回 特別演劇公演のお知らせ』**と書かれたポスターが掲示されていた。
「“十三回”?……でも、記録では今年度は“第十二回”までのはず……」
ポスターの右下には、ごく小さく**“脚本・演出:K”**という署名。
玲が低く口を開く。
「――“K”。久保谷、か」
⸻
【場所】演劇倉庫前(職員棟裏)/【時間】18:30
夕闇に包まれた学園裏手、かつて廃部となった演劇部が使っていた小さな倉庫。
その扉に、南京錠が掛かっていなかったことが、すでに異常だった。
「開けるぞ」
玲の合図で、水無瀬透と椎名環が背後に回る。朱音は少し離れた位置から、懐中電灯を構えてうなずいた。
扉が軋む音を立てて開く――
中は、**明らかに“準備された舞台”**だった。
舞台中央には仮面をかぶせられたマネキンが吊られ、天井の照明が一点に当たっている。
「これは……模倣じゃない、再現だ」
玲の目が鋭く細まる。床には、過去の事件現場と酷似した「赤いライン」が描かれ、
壁には第三の事件と同じ構図で貼り出された**“告白文”**のコピー。
>「私は演じた、ただその役を。与えられた仮面と台詞で」
>「――でも、それは“私の意思”ではない」
⸻
【時間】18:45/“第四の事件”の発生(または阻止)
突如、倉庫の裏手から物音――足音。
そこに現れたのは、一人の生徒。仮面を抱え、足取りはおぼつかない。
「……やめてっ!」
朱音が叫び、駆け出す。玲は咄嗟に遮り、代わりに水無瀬が先回りした。
だが、その生徒は仮面を顔に押し当てる直前で、手を止めた。
「……“あの声”が、ずっと、言うんだ……
『君が主役なんだ』『最後の幕を閉じるのは君だ』って……でも、これって、嘘なんでしょ?」
手が震え、仮面が床に落ちる。
その音が、まるで“呪いが解けた鐘”のように響いた。
仮面が割れ、中からこぼれ落ちたのは、小さなICチップと記録メモリ。
⸻
【時間】19:00以降/“劇場の外”へ
その夜、学園理事長代理・久保谷の姿は校内のどこからも確認されなかった。
しかし、生徒指導室のデータ端末には――
・“仮面の在庫管理記録”
・過去の“舞台公演名”の変更履歴
・椎名環の音声ファイルと、玲のプロファイルデータの無断取得記録
――がアクセスされていた痕跡が、明らかに残されていた。
「……久保谷は、“演出家”じゃない。
“劇場の支配人”だったんだ。――演目が終われば、次の役者を送り出すために、舞台を整える側」
玲はそう呟き、PCを閉じた。
「“演目”は、学園の中だけじゃなかった。……この事件、まだ続いてる」
【時間】19:15/【場所】校内南棟 廊下
玲と朱音は、久保谷の足取りを追っていた。
先ほど演劇倉庫内で回収されたICチップと記録メモリから復元されたログには、「音楽準備室」付近の職員用端末にアクセスした履歴があった。
玲は、道中の端末でログインを試みたが、ある一点でアクセスが遮断された。
「不正認証を遮断――接続元:外部認証番号『E-A1025』」
玲が目を細める。
「……外部の人間が、校内の機器を使って動いてる。“E”から始まるコード……教育委員会か、あるいは民間の技術協力者?」
朱音が、どこか怯えた声で口を挟む。
「玲お兄ちゃん……それってつまり、“理事長代理の久保谷さんだけじゃない”ってこと?」
「――ああ。久保谷の“後ろ”に、誰かがいる」
その時――階段を駆け上がった朱音が、廊下の先に誰かの影を見つけて息を呑んだ。
⸻
【時間】19:20/【場所】本館南棟・音楽準備室前
微かに開いた扉の前、白いコート姿の人物が背を向けていた。
その手には、小型の記録デバイスと、未使用の白い仮面が握られている。
朱音が声を上げる前に、玲が静かに口を開いた。
「――久保谷」
ゆっくりと振り向いたのは、久保谷その人だった。
だが、その表情には“追い詰められた者”の気配はなかった。
むしろ、すでに全てを終えた人間のような――演目を降りた俳優のような安堵が浮かんでいた。
「来たか……玲くん。君は、やはり最後の観客でもあったな」
「……君は何をやった、そして、誰と組んでいた?」
問いに対し、久保谷はかすかに微笑む。
「演劇部は“ただの舞台”ではなかった。彼らは“記憶を刻む劇団”だったんだよ……。その演出家は、もうこの場所にはいないがね」
朱音が顔を上げる。
「“夏目薫”……ですか?」
久保谷は頷く。
「彼が最後に書いた『第二の台本』が、学園の外にある。君たちがそこにたどり着けるかどうか――それも彼が仕込んだ“最後の幕”なのかもしれないな」
⸻
【時間】19:30/【場所】学園近郊・廃園となった旧記念講堂跡地
玲と朱音は、久保谷の持っていたデバイスのGPSログを解析し、学園から車で15分ほどの廃墟跡へと辿り着いた。
そこに残されていたのは――
・未使用の仮面3枚
・「演劇部第十四回特別公演」の草稿
・そして、一冊のノート
ノートには、夏目薫の手によると思しきメモが走り書きされていた。
>「“仮面”は役割であり、逃避であり、告発だ。
>真に“仮面を拒否する者”こそが、本当の役者。
>この劇の目的は、“真実を語る声”を残すこと。
>最後の演目は、“私ではなく、次の演出者”によって開かれる」
⸻
【時間】20:00/【場所】聖桜学園・図書室地下・未登録エリア
朱音の記憶と夏目薫の手記を照合した玲は、校内図面に存在しない「図書室下層の隠し部屋」に行き着いた。
そこは、かつて演劇部が“リハーサル倉庫”として使っていた非公式の地下空間。
そこには舞台装置の断片、マイク、スピーカー、編集機器が残されていた。
玲は音響機材のログを確認し、衝撃を受ける。
>・“第三の事件”の悲鳴音声――事前にこの装置で“録音・加工”された痕跡
>・“放送室の音声操作ログ”との一致
>・“朱音の声”を模倣した合成音声の痕跡
玲の手が止まる。
「これは……犯人は“生きた人間”だけじゃない。“記録された演技”そのものが仕掛けだったんだ」
⸻
【時間】深夜00:30/【場所】図書室個室
静まり返った校舎の中――玲と朱音は、夏目薫の最後の台本を広げていた。
そこには、こう書かれていた。
>【第零幕:仮面を拒む演者たちへ】
>君が見てきたものは、本当に“他人の劇”だったか?
>君の目、君の声、君の決断が、“役”を変えたのではないか?
>――さあ、この演目の“観客”は、誰なのか
朱音が涙ぐんだ目で、玲を見つめた。
「……ねえ、玲お兄ちゃん。この“演目”……もしかして、私たちが“演じさせられてた”んじゃなくて……**“自分で選ばされてた”**のかな……?」
玲は静かにうなずき、ひとことだけ呟いた。
「――薫は、それを俺たちに問いかけていたんだ。
“記憶を消すな、仮面を外せ、そして選べ”って」
【場所】聖桜学園・第二音楽室/【時間】11月19日(水)深夜0:35
防音扉の奥――静まり返った第二音楽室には、わずかな灯りだけが差し込んでいた。
床には割れた仮面の破片と、緩く落ちた赤いリボンが転がっている。
少女は、椅子に座らされていた。全身を緊張で固め、震えたまま朱音の手を握っている。
「大丈夫……怖くないから。もう、誰もあなたに仮面なんてつけさせない」
朱音の声は、どこまでも優しかった。
少女は、しばらく黙っていたが、ぽつりとつぶやいた。
「……あの台本を……“読め”って言われたの……。
読まないと、“演目に立てない”って……。
でも、あの声が……。あの仮面が……私じゃない“誰か”になっていくのが、怖くて……」
その手のひらには、微かに人工皮革の糊跡が残っていた。
仮面は強制的に接着されようとしていたが、未遂に終わった。
⸻
教職員が少女を保護し、音楽室から出ていったあと。
そこに残ったのは、玲と朱音だけだった。
朱音が問いかける。
「ねえ玲お兄ちゃん……これで、全部終わったのかな」
玲は、仮面の破片をひとつ拾い上げる。
その裏には、微細な文字でこう刻まれていた。
>【演目No.05:“境界”】
>【演者:指定なし】
>【開始トリガー:接触+覚醒】
>【備考:未発動のまま破棄】
そして、壁に残された舞台構成メモ。
>「この仮面が使われなかった場合、演目は“本筋”から外れる。
>だが、それこそが“もう一人の演出者”の望んだ結末だ」
玲はゆっくりと口を開いた。
「……未遂に終わったように見える。だが、これは“想定された未遂”だった可能性がある」
朱音が息を呑んだ。
「それって……“演じさせない”ことまで計算されてたってこと?」
玲は頷く。
「夏目薫は、“演目を消す”こともまた演出のひとつだと考えていた。
演じる自由、拒む自由、そして壊す自由――それらすべてを、仮面に託していたんだ」
⸻
玲の確信
玲の中には、ひとつの確信が芽生えていた。
>「この事件は、“終わり”ではない。
>これは、夏目薫が託した“選択の自由”という問いの始まりにすぎない」
玲は振り返らず、静かに言った。
「……朱音、覚えていてくれ。君が今日選んだ“拒絶”は、
本当の意味で――誰かの“記憶”を救ったんだ」
朱音の目に、涙が溜まりながらも、まっすぐ前を見つめていた。
「うん。……きっと、薫先輩も……それを見てたと思うよ」
【場所】聖桜学園・警備室前の通路
【時間】11月20日(木)午前0:45
鈍く光る白色灯の下、警備室前の通路はしんと静まり返っていた。
張り詰めた空気の中、警備主任の**梶原**が、小型タブレットを手に立ち止まる。
その脇に、玲と朱音が立っていた。朱音の手は、無意識に制服の裾を握っている。
梶原が苦い表情で口を開いた。
「……“第二音楽室”と“演劇倉庫”の防犯映像記録。
今朝――正確には午前4時20分、リモートアクセスにより削除されていたことが判明しました」
玲の瞳が一瞬、細く鋭くなる。
「バックアップは?」
梶原は首を振った。
「録画サーバ自体にオーバーライト処理がかかっていて、
ごく一部を除き、ログも上書き済みです。
ただ……アクセス元のIPアドレスには不審な傾向があります」
朱音が、静かに問いかける。
「……それって、外部の人?」
梶原は一瞬ためらってから、言葉を続けた。
「学園内ネットワークの端末からのアクセスでした。
ただし、“登録されていないデバイス”です。仮想MACアドレスの使用痕跡があり……」
玲が即座に補足する。
「外部から学園ネットに一時的に潜り込み、内部端末を偽装した……か」
梶原は頷いた。
「削除処理の直後、システムログに一つだけ“残された痕跡”がありました」
彼はタブレット画面を向ける。
そこには、白地に黒文字でこう表示されていた。
>【削除ログ】SYSTEM_USER:
>【メッセージ】:“劇は、観客に見られる前に幕を下ろすべきだった”
朱音の顔が、微かに青ざめる。
「……これって、夏目薫さんが言ってた“最終幕”の言葉に、似てる……」
玲は低く、思考を巡らせるように言った。
「……誰かが“演目の記録”を消した。
だがそれは、“真相そのもの”を消したい動きじゃない。
“劇場の外”にいるもう一人の演出者が、観客に何も見せず終わらせるための行動だ」
【場所】久岬村・旧郷土資料館分館
【時間】11月17日(月)午前2時15分
霧がかった山間の村に、ひっそりと建つ廃屋――旧郷土資料館分館。
昭和期に建てられた木造二階建てのその建物は、すでに行政登録からも外され、住民の記憶からも消えかけていた。
軋む床板を踏みしめながら、玲たちは館内の奥へと進む。
足元に広がるのは、埃をかぶった資料棚、虫食いの展示パネル、そして無数の紙片が散らばる閲覧テーブル。
その最奥――**
封鎖されたアーカイブ室
の前で、村の元職員だった片瀬史郎**が立ち止まった。
「……これです」
彼が指さしたのは、観音開きの重厚な扉。
扉の上には色褪せたプレートが掲げられていた。
>【演劇記録/民俗劇台本アーカイブ】
>関係者以外立入禁止(1979年6月施行)
「閉鎖されたのは、37年前。以来、村の誰もここに入っていません。
ですが、先週、“何者かが無理に扉を開けた痕跡”があったと……巡回中の警備員が気づきまして」
朱音が、小さな声で呟いた。
「……開けて。玲お兄ちゃん」
玲は一瞬頷くと、持参していた簡易電動工具を取り出し、施錠部分を外す。
錆びた金具が軋んだ音を立て――扉が、ゆっくりと開いた。
⸻
アーカイブ室内部
中は思った以上に広く、空気は驚くほど乾燥していた。
高い棚に収められていたのは、古い舞台脚本、配役表、衣装の設計図、照明計画書――すべて“久岬村郷土演劇”に関する記録だった。
朱音が、ある棚の引き出しに手を伸ばす。
――カタン。
引き出しの中には、一冊の台本が眠っていた。
表紙には、黒インクでこう記されている。
>『仮面祭──第零幕』
玲が手袋越しにその台本を取り上げ、ページをめくる。
「これは……以前、聖桜学園で見た“第一幕”以前の、草案……?
いや、“原典”だな。舞台演目として成立する前の、“演出者の素案”だ」
そして、最終ページには――誰かの手による朱筆の書き込みがあった。
>「もし私が不在となった時、これを“次の演者”に託してください。
彼/彼女が“仮面の奥”を読み解けると信じています──N.K.」
朱音が、そっと息をのむ。
「……夏目薫さん」
【場所】久岬村・氷鏡湖畔の小祠前
【時間】11月17日(月)午前4時40分
夜の帳が明けきらぬ湖畔。
冷気をたたえた空気の中、**氷鏡湖**の水面が、淡く青白い月光を映していた。
その静寂のほとりに、**苔むした小祠**がぽつんと佇んでいる。
古い木の鳥居と、石の祠。名前も記録も風化し、今や地元でも訪れる者は少ないという。
朱音が静かに手を合わせ、祠の前に膝をついた。
玲は少し離れた位置で、黙って彼女の背を見守っていた。
朱音の小さな声が、風に紛れるように漏れる。
「……ここが、夏目薫さんが“最後に願った場所”なんだって。
あの台本の最後のページ、ほら――“この地に立ち、仮面を脱ぎなさい”って」
玲がポケットから、一枚の写真を取り出した。
それは、20年前の学園演劇部が撮影した集合写真。
そこに写っていた――まだ若い頃の夏目薫と、彼女の傍に立つ数人の演者たち。
「この祠は、もともと“役目を終えた仮面を祀る場所”だったらしい。
郷土演劇の“終幕”を迎えた者が、仮面を脱ぎ、祠に奉納して――
“演者としての魂”を湖に還す、そういう風習があったと聞いた」
朱音は、ポケットから小さな紙包みを取り出す。
その中に収められていたのは――ひびの入った仮面の破片。
かつての事件で砕かれ、回収されたそれは、まだ朱音の手の中にあった。
彼女は破片を静かに祠の前に置き、深く頭を垂れる。
「私は……まだ、“演者”でいなくちゃいけないけど……。
それでも、薫さんの願いを叶えたくて、ここに来たの。
“仮面を、終わらせたい”って――あの人は、そう思ってたはずだから」
玲はその姿に、一瞬だけ言葉を失ったあと、小さく頷いた。
「……仮面劇はまだ終わらない。だが、“本当の演出”が始まるなら、
それはこの地から始めるべきだ。演者と演出家、二つの魂がここに揃ったからな」
そして、湖面の向こう――霧の奥に、誰かの気配があった。
それが“かつての演者”なのか、それとも“これからの観客”なのか、玲にも判断はつかなかった。
だが確かに、舞台の幕は再び上がろうとしていた。
【場所】久岬村・氷鏡湖畔
【時間】11月17日(月)午前5時00分
夜が明けきらぬ湖畔には、まだ深い朝霧が残っていた。
遠くから、かすかに小鳥のさえずりが聞こえる。けれど、それすらも空気に吸い込まれていくようだった。
朱音が小祠の前で静かに祈りを終えると、玲は一歩、湖の方へ近づいた。
「……来ているな」
その声に、朱音も振り向いた。
視線の先、湖の対岸。
濃密な霧の奥に、人影のようなものが浮かんでいた。
人影は、はっきりと姿を現すことなく、輪郭すら定かではない。
だが確かに、そこに“視線”があった。こちらを見ている。
それも、玲でも朱音でもなく――祠そのものを、じっと見つめていた。
朱音が、声にならない問いを口にする。
「……誰、なの……?」
玲は答えず、静かに懐から一枚の写真を取り出す。
それは、**“夏目薫の演劇ノート”**から抜き出された、未整理のページの一部。
そこには、こう記されていた。
> 「仮面を脱ぎし時、湖は記憶を返す。
> だが、演者が全てを忘れたとき――“傍観者”が動き出す」
玲がつぶやく。
「“傍観者”……。第三幕の登場人物。
劇には関与しない。ただ、すべてを見届け、裁く者」
霧の中の影が、わずかに動いた――そう見えた。
だが次の瞬間、霧が濃くなり、影は跡形もなく消えていた。
静けさが戻る。
しかし朱音は、背中に残る気配を忘れられなかった。
「……まだ、終わってない。
仮面は“演じる者”の手を離れても、
今度は“見る者”の手に渡る……」
玲もまた、何かを確信するように目を細めた。
「“次の仮面”は、渡される。
これはもう“犯人探し”ではない――“役割の継承”だ」
湖畔の空が、ゆっくりと明るみ始める。
けれど、霧は晴れなかった。
まるで何かを隠すように――
あるいは、まだ見せるべきではない“幕の裏側”を守っているように。
【場所】地方都市へ向かう列車内
【時間】11月17日(月)午前6時30分
車窓を流れる風景は、徐々に山間の影に沈みはじめていた。
夜明けを過ぎたはずの空が、不自然なまでに暗い。
まるで、夜がもう一度戻ってきたかのような錯覚すら与える。
朱音はシートにもたれ、眠るように目を閉じていた。
その膝には、一冊のノートが置かれている。――夏目薫の未完の演出ノート。
そこに挟まれた紙片に、朱音は何度も目を通していた。
一方、玲は窓辺に座ったまま、窓の外を見つめていた。
山肌に沿って走るトンネルが近づいてくる。
トンネルに入れば、列車は一時的に“完全な闇”の中を通過する。
その直前、朱音がぽつりと呟いた。
「……ねぇ、玲お兄ちゃん。
あの“傍観者”、私たちのこと見てるのかな……?」
玲は返事をせず、静かに目を細めた。
視線は窓の向こう。だが、朱音の問いに対する返答は、既に彼の胸の中にあった。
「……“見ている”というより――待っている、のかもしれないな」
車内にトンネル突入のアナウンスが流れる。
直後、車窓が一気に暗転。列車は無音の黒の中を走り始めた。
朱音はノートを握りしめる。
その表紙の裏に、筆跡の異なる短い一文があった。
「この劇に、観客席は存在しない。
見ている者すべてが、舞台に引きずり出される」
“観客ではいられない”という強制的な参加の意志。
それこそが、この事件群――“仮面劇”の最終構造だと玲は感じていた。
「もうすぐだ……最後の“仕掛け”が始まる。
――そして、誰かが仮面を拒絶するだろう」
トンネルを抜ける。
再び朝の光が差し込んだはずの車窓。
だがその光はどこか鈍く、淡く濁った灰色だった。
晴れ間ではなく、霧の名残とも言える光が、列車の外を包んでいた。
遠く、駅のホームが見えてくる。
そして、そこで彼らを待つ、ある人物の姿が――
【場所】神奈川県・真白町
【旧劇場「白ノ座」跡地】
【時間】11月18日 午前10時15分
静まり返った山あいの温泉町。
平日午前の冷たい風が、古びた木造看板を軋ませていた。
その看板には、かすれた筆文字でこう記されている。
「白ノ座劇場――昭和42年開館/平成26年閉館」
老朽化と地元財政難のため、数年前に正式閉館。
現在は「文化財再整備中」という名目で関係者以外立入禁止となっているが、ゲートには古びた南京錠がかけられているだけだった。
錆びた柵の前に立っていたのは、初老の男性。
白髪混じりの髪に、しわの深い目元。コートの下から覗く胸ポケットには、今や使い古された万年筆が差されている。
「……来たか。玲くん、朱音ちゃん――いや、“彼女の遺志を継いだ者たち”か」
その男は、かつて「白ノ座」の芸術監督を務め、そして夏目薫の学生時代の演劇仲間だった――
石庭慎一。
舞台演出家として名を馳せ、現在はひっそりとこの町に隠遁していた。
玲が歩み寄り、短く名乗る。
「……久しぶりです。彼女の“未完の演目”を終わらせるため、来ました」
朱音は黙ったまま劇場のファサードを見上げていた。
風に揺れる庇。割れかけたアーチ窓。
そして入口脇のポスター掲示板に、一枚だけ風化しきっていない台本チラシが残っている。
朱音がそれを指先でなぞる。
タイトルは――
『仮面劇・終幕 ― 最後の観客へ』
「これ……夏目さんの、最後の台本……?」
石庭が頷く。
「正確には“共作”だ。俺と薫と、もう一人の演出助手――久保谷だ。
だが、途中で台本は封印された。理由は……今君たちが追っている“事件の始まり”と、同じだ」
朱音は顔を上げた。
その目には、かつての“観客”の純粋さはなく、ひとつの“演者”としての覚悟が浮かび始めていた。
⸻
◆ 劇場内部への導入(描写)
南京錠を外し、軋む扉を押し開けると、埃と木材の匂いが鼻をついた。
朽ちたロビーの向こうに、薄暗い劇場ホールが広がる。
客席の椅子は半数以上が破損しているが、舞台装置の一部だけが異常に整備されている。
照明架台や仮面棚、背景布などが明らかに最近手を加えられた痕跡を残していた。
玲は舞台へと足を踏み入れる。
「……“誰か”がここで、もう一度“演じよう”としていた。未完の劇を――それも、“観客なし”で」
【場所】白ノ座・地下収蔵庫
【時間】11月18日 午前11時50分
舞台裏から続く狭い通路の先――
かつて小道具や古い装置を保管していた地下収蔵庫の扉は、錆びて軋んだ音を立てながら開いた。
中には照明はなく、玲が懐中ライトで足元を照らす。
石造りの床に転がる木片や段ボール、埃まみれの布地。
朱音は鼻をすすりながら、小さくつぶやく。
「……ここ、本当に時間が止まってるみたい……」
懐中電灯が棚の奥を照らすと、舞台用の仮面を収めた木箱が目に入った。
そしてその隣には、封が破れかけた金具付きの木箱。
朱音がしゃがみ込み、そっと蓋を開ける。
――中には、黄ばみかけたパンフレットの山。
その合間から滑り落ちた一枚の紙を、朱音が拾い上げる。
⸻
◆ 描写:散乱した記録と台本の断片
そこに書かれていたのは、ある演目の準備稿。
タイトルは見えないが、行間には鉛筆で書かれた夏目薫の走り書きが残っていた。
「……『拒絶された仮面』は、ただの演出ではない。
それは、“演者が観客の視線を拒否する”という行為そのもの。
――舞台は鏡であってはならない。
役に、逃げるな。」
朱音はその言葉を、何度も何度もなぞるように読んだ。
指先が震えているのは、埃のせいではない。
「……これ、きっと……あの子のこと、書いてる」
その声に、玲が振り返る。
「“あの子”……?」
朱音は、小さく頷いた。
「演じることに迷ってた子がいたんだって。薫さんが、書き残してる。
“仮面をつけたまま舞台を降りた”……そのまま、いなくなっちゃったって」
⸻
◆ 二人の距離感の変化(対話描写)
朱音はしばらく黙っていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「玲お兄ちゃん……わたし、怖いよ。
これから何を見せられるのか、どんな風に“演じなきゃ”いけないのかも……」
玲はその言葉を受け止め、少しだけ顔を緩めた。
それは、探偵としてではなく、兄のような眼差しだった。
「怖くていい。正体の見えない舞台ほど、観る価値がある。
でも、一人で立たせるつもりはないよ。
……“相棒”なんだろ?」
朱音は目を丸くして、そして――ほんの少し、笑った。
「うん。“相棒”だから、ちゃんと舞台に立つ。
あの人の“終幕”に、わたしの台詞を足すために」
⸻
◆ 発見された“もう一つの台本”の手がかり
その後、木箱の底に近い層から、異なる紙質の台本が数枚だけ混じっていた。
表紙は失われていたが、そこには手書きの見出し。
『終幕前日譚』
朱音は指先で埃を払いながら、目を細めた。
「……これ、あの時の“第二の台本”と同じ紙。
封筒に入ってた未使用の……」
玲がうなずく。
「誰かが、再構成しようとしていたんだ。“仮面劇”を、別の形で」
⸻
◆ 今後への展開を示す小演出(霧と外気)
その時、収蔵庫の換気口の隙間から、外気が一瞬吹き込んだ。
地下にまで届いたその冷気に、朱音は思わず背筋を伸ばす。
玲もふと、視線を持ち上げた。
「……誰かが、来るぞ。劇が、まだ終わってないと言ってるようだ」
舞台は再び幕を上げようとしていた――。
【場所】真白町・共同アトリエ「カノン」
【時間】11月18日 午後1時25分
真白町の外れにある古びた洋館――もとは彫刻家のアトリエだった建物の一室が、今は演劇サークルや地元の表現者たちの共同スペースとして細々と残っていた。
アトリエの奥、煉瓦の壁に囲まれた静かな部屋。
長机の上には、折り重なるように並べられた紙片――“第二の台本”の断章が広げられていた。
開け放たれた窓から吹き込む冷たい風が、壁にかけられた舞台用の仮面を微かに揺らす。
朱音はその揺らぎを見つめながら、口元を引き結んでいた。
⸻
◆ 第二の台本の解読
「……ここの台詞、第一稿とは違う」
朱音が指差したのは、一幕の終盤――
“仮面をかぶった演者”が、舞台から去ろうとする場面だった。
仮面を捨てた者に、観客は拍手を送った。
だが、演者はその音が「本当に自分に向けられたものか」分からなかった。
「これ、夏目薫さんが……“仮面を外すことが終わりじゃない”って言ってる」
玲は朱音の言葉に応じ、手元の資料を広げた。
そこには、十数年前に舞台関係者から聞き取られた証言記録がまとめられている。
――証言者:石庭誠司(当時、照明演出補佐)
『彼女は、最後の公演で「演者が舞台を拒絶する瞬間」をやろうとしていた。
だけど、主役の子が逃げてしまって……。薫先生、悔しそうだったな。』
⸻
◆ 照合された“再演の意図”
朱音は、台本の一節にマーカーを引きながら言った。
「……“再演”じゃなくて、“やり直し”。
本当は終わっていなかった演目を、別の形で終わらせようとしてたんだ」
玲が応じる。
「つまり、“第二の台本”は失敗した過去への応答……
主役を失ったまま、放置された“物語の抜け殻”を完成させるための、最後の演出だ」
⸻
◆ 廃劇場での“再現”を視野に入れる提案
そのとき朱音は、机の脇に置かれていた木箱に目を留めた。
それは、白ノ座の地下から持ち帰った“使用未定の小道具群”だった。
その中に、一つだけ極端に軽量化された仮面が混じっていた。
「これ……重さが違う。もしかして――“外すことを前提に作られた”?」
玲は頷いた。
「“外すための仮面”――つまり、本来の幕を閉じるための小道具だ」
そしてふたりは、無言のまま顔を見合わせた。
言葉にせずとも、次に進む場所が分かっていた。
⸻
◆ アトリエ内のミニリハーサル(記憶の再現)
朱音が台本の一節を、実際に口にしてみる。
>「観客が望むのは、真実の姿じゃない。
“物語に適した役割”を果たす人間を――ただ、それだけ」
その瞬間、部屋の空気がわずかに揺れる。
まるで、そこに“かつての舞台の空気”が蘇ったかのように。
玲が囁く。
「朱音。……君が立つべき舞台は、まだ残ってる。
この台本がそう言ってる」
朱音は頷いた。
演者としての目をして。
「うん。……じゃあ、“舞台に戻ろう”。
薫さんの最後の演出に、わたしの“台詞”を加えるために」
⸻
◆ 次なるシーンの前触れ(時間経過)
その時、玲のスマートフォンに通知が届いた。
『白ノ座、舞台照明の起動を検知』
旧設備のひとつが、無人のはずの劇場で作動している。
朱音が言う。
「“誰かが、先に舞台に立った”……?」
玲は立ち上がる。
「行こう。
――幕が上がった」
【場所】真白町・古書店「ルフラン」奥の書庫
【時間】11月18日 午後3時45分
白ノ座から少し離れた裏通り、古びたレンガ造りの建物。
看板の色も掠れたままの古書店「ルフラン」は、ほとんど地元の人間しか知らない。
――そして、誰も知らない“もう一つの部屋”が存在していた。
玲が管理者とされる老人の鍵束を受け取ると、階段下の鉄扉が開いた。
書庫。
冷気が立ちこめる、地下の石造りの空間。
そこには、演劇関係の書類や草稿、写真、録音テープの類が、埃をかぶって眠っていた。
⸻
◆ 「これが……?」
朱音が見つけたのは、一冊の厚いノートだった。
黄ばんだ表紙に、手書きでこう記されている。
『記録:白ノ座・演目「アントゥル・マスク」原案草稿』
※筆跡一致:夏目薫
中には、今まで見たどの台本とも異なる構成が記されていた。
“観客が演者に変わる構造”、“台詞を持たぬ主役”、“二重幕構成”――
そして、最後のページには赤字でこう書かれていた。
《本番の舞台では、“想定外の演者”が現れることを前提に構成すること》
玲が低く呟いた。
「……最初から、“乱入”が演出に組み込まれていたのか」
⸻
◆ 仮面をかぶった“誰か”が今、白ノ座に立つ
そのとき、朱音のスマートフォンにアラートが届いた。
旧劇場・白ノ座の防犯カメラが、異常動作を検知している。
玲が表示された画像を見て目を細める。
「照明が入ってる。……舞台の中央、立っている影がある」
朱音は震えるように言葉を落とした。
「“誰かが”、もう始めてる――」
⸻
【場所】白ノ座 劇場内・メインステージ
【時間】11月18日 午後4時30分
再び戻った劇場。
舞台は既に光に照らされ、無観客の客席に、空虚な静けさが満ちていた。
だが――舞台の中央に、一人の人物が立っていた。
仮面をつけた細身の演者。
性別も年齢も分からない。ただ、静かに構えていた。
⸻
◆ クライマックス:謎の演者と“本当の再演”
玲が囁く。
「……“想定外の演者”が、夏目薫の想定した“最終演目”に立った」
朱音が舞台へと歩を進める。
足音が響くたびに、舞台は現実から切り離されていくかのようだった。
⸻
[仮面の演者の台詞]
「ここは、誰の物語でもない。
誰もが“演者”であり、“観客”でもある舞台。
お前は、最後の幕を閉じに来たのか?」
朱音は仮面に向かって叫ぶ。
「違う……! 幕を閉じるんじゃない、**“続きを演じる”**ために来た!」
その声は、劇場の天井まで届き、かすかに反響した。
――まるで、この劇場そのものが、観客席で沈黙していた“誰か”の記憶を呼び覚ますように。
⸻
◆ 演劇の「最終章」が開始される
舞台の左右から、照明が再点灯する。
照明機器は老朽化しているはずだった――なのに、完璧な演出で二人を照らす。
謎の演者が、ゆっくりと仮面に手をかける。
そして、口元だけが露になる。
「……次は、お前の台詞だ」
朱音の手には、第二の台本のラストページが握られていた。
その未記入の余白に、彼女はペンを走らせる。
『本当の結末は、誰かが語るのではなく――演じられるものだから』
【場所】町の駅前・夜のバス停
【時間】11月18日 午後6時20分
夕闇が濃くなる頃。
真白町の駅前、ひっそりとしたバス停に、朱音と玲の姿があった。
観光客の姿はない。街灯の下、ベンチに座る朱音の影が、静かにアスファルトに滲んでいる。
⸻
朱音は膝の上に台本を抱えたまま、視線を空に向けていた。
バスの発着音もない、静かな空間。
その静けさに紛れるように、ぽつりとつぶやく。
「……夏目先生が本当に望んでた“演劇”って、なんだったんだろう」
玲は、答えなかった。
ただ、隣に立ったまま、ポケットの中で小さな録音機を握りしめていた。
⸻
朱音の目が伏せられる。
「“仮面を拒む”って、簡単に言えるけど――
本当は、自分を守るためにかぶってたのかもしれない、って……今日、思った」
バスのヘッドライトが遠くに見え始める。
朱音の頬に風が触れた。
⸻
玲が、ぽつりと応じる。
「でも、その仮面を外したあと、お前は“自分の言葉”で話した」
「それが、演劇だったと――俺は思う」
朱音は、わずかに息を吸い、台本を強く抱きしめた。
「……だったら、私、まだ“舞台”に立てるかな」
その呟きは誰に向けられたものか分からなかった。
けれど――玲は小さく頷いた。
⸻
◆ 終わりかけの一日/次への余白
バスが到着する。
扉が開く直前、朱音が最後に言った。
「次の場所、どんな“台詞”が待ってるんだろうね。
――ちゃんと、演じられるようにしなきゃ」
玲は一歩引いて彼女を見送りながら、低く呟く。
「舞台は、まだ終わってない」
【場所】夕映町・旧市民劇場「ルミエール座」
【時間】11月20日 午前9時40分
白い朝靄が町を包み込む。
列車を降りた朱音と玲が向かったのは、夕映町の外れ――忘れられたように立つ**旧市民劇場「ルミエール座」**だった。
かつては小規模ながら地域演劇の聖地と称されたこの劇場も、
いまやシャッターは錆び、張り紙も剥がれかけている。
⸻
◇ 到着した新たな町
町全体がどこか「時間に取り残されたような」空気に満ちていた。
道行く人の姿はまばらで、商店街には空き店舗が目立つ。
朱音は劇場前で立ち止まり、ポケットから折れかけの紙片を取り出した。
それは、第二の台本の“末尾”に挟まれていた一文――
「そして、最後の舞台は“光の残る劇場”で上演される」
朱音が呟く。「……ここが、“光の劇場”?」
玲は答えない。彼の視線は、劇場裏手にある細い坂道へと向けられていた。
⸻
◇ 次の“台詞”が刻まれた痕跡
劇場脇の錆びた鉄扉。そのわずかな隙間に、朱音が指を滑り込ませると――
かすかに何かが落ちた。
それは、古びたパンフレットの切れ端と、誰かの手書きのメモだった。
朱音が拾い上げる。
「“記憶は演じられ、再演される”……? 何これ……脚本の抜粋……?」
それは、未発表の台本の一節と見られるものだった。
書かれた筆跡には見覚えがある。
――夏目薫のものに、酷似していた。
⸻
◇ 夏目薫の旧友と名乗る人物の再登場
劇場の裏手、坂を上った先にある旧校舎――そこに、**“元演劇部顧問・桐谷進”**と名乗る初老の男が待っていた。
痩せた身体、灰色のコート。
彼は「あなたが朱音さんですね」と、目を細める。
桐谷は、かつて夏目薫と共に地方演劇の台頭を支えた人物の一人であり、
彼女の失踪後も“彼女の書いた台本”を保管していたと語る。
「――そして、あの子は最後に言ったんだ。
“あの舞台を、真に演じきれる子が現れた時だけ渡して”ってね」
彼は一冊のファイルを差し出す。
中には、「未完の第三台本」と題された草稿が綴られていた。
⸻
◇ 閉鎖された校舎での異変
桐谷の案内で訪れた、夕映町旧南中学校の演劇準備室。
既に廃校になって久しいはずのその部屋には、誰かが**“最近まで使っていた痕跡”**があった。
■ 舞台セットの断片
■ 使用されたばかりの仮面(新たな意匠)
■ 謎のリハーサル記録メモ
■ 「第三台本」中に記されたセリフの一部が壁に貼られている
朱音が手に取った仮面には、裏にこう書かれていた。
「次の“配役”を待て」
それはまるで、舞台の続きが朱音たちの訪問を予期していたかのような演出だった。
【場所】舞台裏・“記憶の残響空間”
【時間】不明(玲のサイコメトリー発動)
――沈む。
思考の輪郭が薄れ、視界が塗り替えられる。
感情ではなく、感触でもない。
それは、“演じられた記憶”が残す空間の残響だった。
玲の手が触れたのは、旧校舎の演劇準備室で見つかった古い台本。
その表紙に記された「第三の台本」の題字に触れた瞬間、空気が反転するような衝撃が走った。
⸻
【記憶の断片1】——“隠し舞台”の発見
それは、埃に埋もれた記憶の一頁だった。
旧南中学校──すでに廃校となり、誰も足を踏み入れなくなったその校舎の二階。
奥まった通路の突き当たりにあった「第二視聴覚室」は、長らく立入禁止の札が掲げられたまま、半ば忘れ去られていた。
玲がその扉に手をかけたのは、朱音の描いたスケッチの中に“存在しない舞台”の絵があったからだった。
開かれた扉の向こうに広がっていたのは、確かに“舞台”だった。だが、それは体育館でも、講堂でもない。
木の床には、手作りの小さなプロセニアム(舞台枠)が立てられ、壁には黒い布が張られ、照明器具らしきものがいくつか設置されていた。
ただし、電源は通っておらず、照明は全て手動のもので、コードは天井裏に這って途中で切れていた。
ホコリを払った舞台の中央には、白いテープで印された“立ち位置”が、いくつも重ねるように残されていた。
「……ここで、誰かが“別の劇”をやっていた……」
玲が呟いた時、サイコメトリーの感覚が脳裏を撫でた。
指先を床のマークにあてると、微かに“声”が響いた。
──仮面の順番は、変えないで……
──あの子には、まだ言わないって……約束だろ?
薄く、途切れがちな記憶の波。
だが、それでも確かに、この場所には「誰にも見せられない舞台」が存在していた痕跡が刻まれていた。
朱音がその後、残された台本の一部を照合したことで、この“隠し舞台”は、正式な上演とは別の、**「非公開のリハーサル」**に使われていたことが判明する。
台本には「黒幕用・第二稿」と鉛筆で書かれた文字。
そして、何よりも不気味だったのは、その裏面に走り書きされた言葉だった。
『仮面Ⅳの者、退場せず。終演後、姿消失。』
“隠し舞台”で何が行われていたのか。
本番では使われなかったこの場所で、“誰か”が、仮面をつけたまま、記憶の舞台から戻ってこなかった。
それは、全ての始まりだったのかもしれない。
【記憶の断片2】——“台詞の暗号”
第二視聴覚室──“隠し舞台”と呼ばれたその小空間の奥。
舞台背景に使われていた黒布の裏側で、朱音が何かに気づいた。
「……これ、吊るされてる……?」
黒布の縁からそっと覗くと、そこには細い針金に留められた紙片がいくつも揺れていた。
どれも小さな便箋の切れ端ほどの大きさで、古びたインクで文字が書かれている。
それらは風もないはずの室内で、どこか不規則に揺れていた。
玲が一枚をそっと手に取る。書かれていたのは、こうだった。
『仮面を外すのは、役を終えた者だけ。』
別の紙片には──
『第四の演者はまだ舞台上にいる。だが、誰にも“姿”を見せてはならない。』
そして、その下部には不思議な配列が添えられていた。
> 【Ⅰ-D】【Ⅳ-A】【Ⅱ-B】/【Ⅲ-C】→【?】
「……暗号、なのか……?」
朱音が呟くと、玲はすぐにその記号に目を凝らす。
これは、劇の脚本中に割り振られた台詞番号と仮面の組み合わせではないか。
「Ⅰ〜Ⅳ」は演者の仮面番号。A〜Dは、台詞の断片。
つまり、それぞれの仮面が特定の台詞の部分を担当していたことを意味している。
しかし──「?」の部分だけは空白だった。
「この、“第五の台詞”が……存在しない?」
朱音が言うと、玲は視線を紙片から舞台へ移す。
「……いいや、隠されているだけだ。“誰も演じなかった台詞”が、ここに残ってる」
玲のサイコメトリーが再び発動する。舞台の中央、立ち位置の印をそっとなぞると、微かな音が脳裏に響いた。
──『君は、仮面をつけたまま、誰になりたかった?』
それは、既存の台本には存在しなかった“第五の台詞”。
未完の台詞。けれど、この舞台にとって“終幕”への鍵となるひとこと。
そして紙片の最後の一枚には、朱音の目を奪う印があった。
『第五の演者は、“仮面のない者”。ゆえに、誰にも知られてはならない。』
言葉の意味は、まだ不明だった。
だが、この“台詞の暗号”が、失踪した演者と記憶の歪みに繋がっていることは間違いなかった。
【記憶の断片3】——“演者の失踪”
薄暗い空間に、ふいに“それ”は現れた。
玲が視線を落としたのは、旧校舎の舞台裏に遺されていた、埃をかぶった古いノートPC。
電源はすでに入らなかったが、奈々が慎重に取り出したドライブの中に、わずかに残された断片的な映像ファイルがあった。
「映像記録……? でも、学園側の公式記録には何もないはず……」
玲が再生したその映像には、明らかに**“記録から消された”夜の出来事**が映っていた。
——カメラの視界は揺れている。
校舎の照明は落ち、撮影者もまた、生徒の一人であるかのように小走りで舞台裏を進んでいる。
そして──
白い仮面をつけた少女が、ひとり、照明の消えた舞台袖に佇んでいた。
ロングヘア、黒の制服、そして、演劇部の衣装を上に羽織っている。
間違いない。これは、**学園演劇祭の主役を務めるはずだった女子生徒・水嶋 天音**だった。
「……やっぱり、“あの子”だったんだ……」
朱音が小さく呟いた。
かつて配役表には確かに“主役:水嶋天音”の名があった。しかし当日の舞台には、急遽代役が立ったはずだった。
代役の名前は記録にない。仮面の下の顔も、観客の誰にも知られていなかった。
——映像の中で、天音はしばらくのあいだ、仮面のまま立ち尽くしていた。
その姿は、どこか不安げで、それでいて覚悟を決めたようでもあった。
そして数分後、彼女は何者かの気配に気づいたように、音もなく歩き出す。
その背中が、暗闇へと消える瞬間、仮面がふとこちらを向いた。
「わたしは、“自分”を降りられなかった」
——声が、映像の外から響いたような錯覚が、玲の中に残った。
再生はそこで終わった。音声ファイルも、ログも、残されていなかった。
玲はゆっくりとノートを閉じ、朱音に言った。
「この記録……本当なら、“水嶋天音”は演じる前に、“消えた”ことになる。
役に入ったまま、自分に戻る前に、舞台を降りられなかった……」
「だから、誰も彼女の“最後”を知らないまま、幕だけが降りたんだ……」朱音が答える。
天音の失踪は、単なる行方不明ではなかった。
“仮面をつけたまま、記憶の奥に取り残された”、未完の演者だったのだ。
舞台は終わっていない。
彼女の「役」はまだ、“終幕”にたどり着いていなかった――。
【記憶の断片4】——“朱音の選択”
深く沈んだサイコメトリーの世界で、玲の視界にふと“未来”の映像が差し込んだ。
過去の記憶とは違う、けれど確かにこれから起こりうる“可能性”の光景。
薄暗い劇場の舞台。
観客席には誰もいない。
静寂だけが、幕の降りたステージを包んでいた。
中央に、一つの“仮面”が置かれていた。
白く、無機質で、どこか哀しみを帯びた表情を湛えている。
そこへ、一歩ずつ近づく足音。
少女――朱音だった。
彼女の表情は、かつてのような迷いに満ちたものではなかった。
心の奥底に潜んでいた不安や混乱、それらはまだ消えてはいない。
けれど、それ以上に強い意志が、彼女の足を前へと進ませていた。
朱音は、そっとその“仮面”に手を伸ばす。
掌の中に収まるそれは、どこか懐かしく、そして重たい。
(……誰かの、続きを演じるためじゃない)
(これは、“私の物語”として引き受けるため)
彼女はゆっくりと仮面を顔にあてがい、ひとつ、深く息を吸った。
そして、誰もいない舞台の中央へと歩き出す。
スポットライトはまだ点かない。
幕も上がらない。
それでも朱音は、自らの足で“始まりの位置”に立った。
「わたしは、見る側でいるだけじゃ、もういられない」
舞台という“記憶の装置”に向かって、朱音は静かに語りかけた。
「誰かの役」を演じることが、傷になることもある。
けれど、誰かの記憶に寄り添うことが、“救い”になるかもしれない。
玲はその光景を見届けながら、小さく目を伏せた。
この未来はまだ確定ではない。だが、それは“選ばれた可能性”として――確かにここに刻まれた。
朱音は、「目撃者」から「演者」へと、確かに変わろうとしていた。
記憶という劇場で、新たな幕が、静かに上がろうとしている。
サイコメトリーの終了と玲の覚醒
意識が戻る直前、玲は最後に“もう一人の影”を見る。
それは、これまでの舞台に一切登場していなかった謎の演出家らしき人物。
仮面をつけていない。だが、その目は玲を見ていた。
「彼女は、君の“相棒”だ。だが、君もまた一人の“演者”だと忘れるな」
その言葉が、玲の中でざわりと響く。
【場所】ルミエール座・舞台上
【時間】11月20日 午前10時02分
薄明かりの射し込むルミエール座。
閉鎖されて久しいその舞台は、埃と沈黙の中でなお、“記憶”を抱えていた。
朱音は中央に立っていた。
観客席は空。
しかしその沈黙の奥に、かつての演者たちの残響が確かに息づいていた。
背後から、玲が静かに上がってくる。
「……ここが、薫さんが“最後の稽古”をした場所だって」
朱音は頷き、小さく息を吸った。
右手には一枚の仮面――白地に青の線が入った、未使用の“二番目の仮面”。
「玲くん。……わたし、見たよ。サイコメトリーのとき」
その声は震えていない。
むしろ、今までになく静かで、確かな意志が宿っていた。
「ユウタくんは、この劇を“終わらせる”ために仮面をかぶったんだ」
玲は目を細める。その言葉に、胸の奥がざわめいた。
「“演じる”ことでしか、本当の記憶に触れられない……」
「それがこの“仮面劇”のルールだって、彼は気づいてたの」
朱音は仮面を見つめる。
その手が、わずかに震えながらも、仮面を顔へと近づけていく。
⸻
◇【過去と重なる舞台】
一瞬、音も光も凍りつく。
舞台装置が動いていないはずのルミエール座で、誰かの声が響いた。
「“主役不在のまま幕は上がらない”……それが、薫の最後の台詞だったはずだよ」
それは記憶か、幻か。
あるいはこの劇場に染み込んだ、**演者の残響**か。
玲が振り返ると、舞台袖の暗がりに――かつて消えた“演者”の影がかすかに浮かんだ。
長い髪をまとめ、首にはかつての演劇部のバッジ。
だが、顔は見えない。仮面をつけている。
⸻
◇【演者の覚悟と受け継ぎ】
朱音の瞳が、ゆっくりと玲を見つめる。
「わたし、演じるよ。この物語を。……ユウタくんや、薫さんが残した“幕”を」
玲は黙って頷いた。
彼の目にも、ただの“観測者”ではなく、何かを選び、支える者としての光が宿る。
「君が主役なら、俺は……その隣にいるよ。照明係でも、黒子でも、なんでも」
朱音が微かに笑った。その笑みはまだ幼さを残していたが、**“演者の表情”**だった。
【場所】ルミエール座・二階客席
【時間】11月20日 午前10時05分
――音もなく、二階の客席にその姿が現れた。
黒い帽子、黒いマント。
その男は舞台を見下ろす位置に立ち、
まるで開幕の合図を待っていたかのように、両手を組んでいる。
「ようやく……幕が上がる」
低く抑えた声は、劇場全体に反響した。
誰もいないはずの座席、鳴らないはずの残響。それでも確かに、**“彼の声”**はそこにあった。
朱音が、仮面を手にしたまま、ゆっくりと視線を上げる。
「あなた……誰?」
「名乗るほどの者ではない。ただの“演出家”さ」
「この劇を閉じるために、すべての幕を指揮してきた――黒衣の演出家とでも、呼ぶといい」
玲が舞台袖から一歩前に出る。
「……久保谷や薫さんを導いたのも、あなたか」
「導いた? 違うな。“選んだ”のだよ。演じる意思がある者を」
「仮面をかぶり、舞台に立つ覚悟を持った者だけが、“真実”に触れられる。それがこの劇の……ただ一つの条件だ」
⸻
◇【語られる“未完の台本”】
男は手に一冊の本を持っていた。
装丁は古び、表紙には金文字で《Finale(終幕)》と刻まれている。
それは、ユウタが最後まで見せなかった“未完の台本”――第三の台本だった。
「ユウタという少年は、ここまで辿り着いた」
「彼は演じた。誰よりも正確に、そして誰よりも痛ましく」
「だが“終幕”を告げるには、まだ“主役”が足りなかった」
朱音が、言葉を詰まらせる。
「……わたし、が?」
男は笑うこともなく、静かに頷いた。
「君は“言葉を受け取った”者。“証人”ではなく、“演者”としての器を持った者だ」
「そして探偵――玲。君もまた、もはや観客ではいられまい」
⸻
◇【失われた演者/失踪の真相】
玲が声を荒げる。
「……失踪した演者は? 薫の代役として舞台に立ったあの人物は……どこに?」
「失踪……? 違うよ。“舞台に入り込んだ”だけだ。
まだ出てきていないだけさ。出番が来ない限り、演者はカーテンの裏にいるものだろう?」
朱音の手にある仮面が、微かに揺れた。
窓から差し込んだ朝の光が、仮面の中の影を深く映し出す。
【場所】ルミエール座前・晴れ間の下
【時間】11月20日 正午
風が、乾いた落ち葉を運んでいった。
曇天続きだった空に、久しぶりの陽射しが差している。
ルミエール座の古びた正面扉は、静かに閉じられていた。
観客はいない。
幕は降りた。
仮面はすべて集まり、“役者たち”はそれぞれの人生へと戻っていく。
けれど、朱音は立ち止まっていた。
劇場の前、かつてポスターが貼られていた掲示板の前で、
その手には、ひとつの仮面が握られている。淡く色あせた、無表情な“白の仮面”。
「……終わったはずなのに、心がまだどこか、舞台の中にいる」
ぽつりと、朱音はつぶやく。
隣にいた玲は、何も言わず、彼女の言葉を受け止めていた。
⸻
「この仮面……“あの人”が最後にかぶっていたものと、同じ……?」
朱音が見つめるその仮面には、薄く――だが確かに――演者番号“Ⅳ”の刻印がある。
劇中には存在しなかった配役番号。
薫の代役として現れ、そのまま“失踪した演者”だけが、かつて仮面の裏に刻んでいた印。
「“Ⅳ番目の演者”。彼の人は、この劇に自分を刻みながら、どこにも帰らなかった」
玲が静かに口を開いた。
「……地下ホール。あそこに、まだ残響がある。未完の台詞が、誰にも語られないまま残されている」
⸻
【場面転換】
【場所】ルミエール座・閉鎖地下ホール
扉は重く、冷たい鉄の軋む音を立てて開かれた。
地下へと続く階段の先には、封印された“第二の舞台”が広がっている。
照明はない。
埃の匂いと、かすかに残る香水の香り――誰かが最後までここにいた、という痕跡。
朱音はひとり、中央の円形舞台に立った。
仮面を胸に抱えながら、目を閉じる。
「ここで……“あの人”は、最後の台詞を残そうとしたんだね」
玲が階段を下りてきて、無言で手をかざす。
彼の指先から、微かに淡い青の光が揺れた。
サイコメトリー――過去の残滓を呼び起こす、彼の特異な能力が発動する。
⸻
【玲の視界/記憶の残響】
光の粒が、円形舞台を中心に広がる。
まるで時が逆巻くように、埃が舞い、椅子が音もなく立ち上がり、仮想の“観客席”が満たされていく。
舞台中央、白の仮面をかぶった**演者“Ⅳ”**が、ゆっくりと立つ。
「――これが、僕の……“終わり”であり、“始まり”でもある」
「仮面を捨てたら、僕はもう誰でもなくなる。でも……君が、続きを演じてくれるなら――」
声が、途切れる。
その姿は“朱音”に似ていた。
否、それは朱音に向けて語られた最後の台詞だったのかもしれない。
⸻
【現在に戻る】
玲が目を開けた。
「……朱音、君に残された言葉だ。たぶん、“君にしか”聞こえない台詞だった」
朱音は何も言わず、仮面をゆっくりと持ち上げる。
そして、ふっと息を吐き、
その仮面を――顔にかぶせた。
暗闇の中、たしかに何かが“始まった”音がした。
【場所】ルミエール座・閉鎖地下ホール
【時間】11月20日 正午過ぎ
音もなく閉まる重い扉の先――そこは、時間に見捨てられた舞台だった。
椅子は覆い布に隠れ、照明も割れたまま沈黙を守る。
誰もいない、観客もいない。けれど、物語だけが、この空間に残されている。
朱音は、舞台中央へと歩み出る。
その手には、無表情の白い仮面。
かつて“Ⅳ番目の演者”が消える直前までかぶっていたもの。
仮面の内側には、指先でなぞった跡がある。まるで、そこに言葉を刻んでいたかのような。
「……“終わらなかった劇”。あの人は、自分の“台詞”を言い終えられなかったんだね」
朱音は仮面を見つめながら、声に出す。
彼女の背後――玲が静かに手を掲げた。
サイコメトリーが、また発動する。
⸻
【視界の深層/記憶の残響】
玲の視界に、舞台の“最後の場面”が浮かび上がる。
暗闇の中、ひとつだけスポットライトが灯る。
そこに立つ白い仮面の演者。
けれど、演者の“顔”は映らない。声だけが残される。
「……僕が消えるとき、“君”が立ち会ってくれるなら、きっと劇は終われる」
「忘れないで。仮面は隠すためのものじゃない――真実を演じきるためのものだ」
台詞が空間に反響し、玲の意識が現実へと引き戻された。
⸻
【現実に戻る】
玲はそっと朱音に言う。
「……彼は、君に“舞台を引き継いでほしい”と思っていたんだ。
ただの目撃者ではなく、“次の演者”として」
朱音は一度だけ目を閉じ、ゆっくりと仮面を顔にあてがう。
そして、決して震えることなく――
仮面をかぶった。
その瞬間、舞台の空気がわずかに変わった。
風のない空間で、どこからともなくカーテンが揺れる。
微かな光の粒が、舞台の縁に浮かび上がる。
それはまるで、“未完の劇”が再び動き出す合図のようだった。
【場所】ルミエール座・地下ホール
【時間】11月22日 午後4時02分
舞台に立つ朱音の手には、あの仮面があった。
番号は、Ⅳ。
誰にも演じきれなかった台本の、最後のページを握りしめている。
照明の落ちた舞台裏、深く沈んだ記憶の奥にある空間。
そこはかつて、失踪した演者が立ったはずの場所だった。
だが、その姿を知る者は誰もいない。台詞すら、記録に残っていない。
朱音は深く息を吸い、仮面をかぶった。
「……私が、この役を引き受ける」
誰に聞かせるでもない、小さな声だった。
だがその瞬間、照明が灯る。
舞台は、始まった。
⸻
彼女は歩く。
記された足跡の上をなぞるように、かつての演者がそうしたように。
舞台袖に残された、薄れた白線。
台詞の順を示す赤いマーキング。
そして舞台中央、最後に立つ“終幕の印”。
朱音は、手にした台本の切れ端を開いた。
そこには、こう書かれていた。
「この物語が終われなかったのは、
誰も“終わりの台詞”を語らなかったからだ。
仮面の下で、私は待ち続けていた。
……君が来る、その時を。」
その声は、誰かの記憶だったのか。
それとも、朱音の中に残された想像だったのか。
しかし、観客席の奥――。
ただひとつ、白い影が立ち上がった。
仮面をかぶった演者。
それは――**消えた「仮面のⅣ」**だった。
顔は見えない。声も微かだ。
だが確かに、そこにいた。
「……君が来てくれたんだね」
「……うん」朱音は小さく返す。
「終わらせに来たんだ、あなたの物語を」
仮面の演者は頷き、舞台の中心から一歩、後ずさる。
まるで、ようやく役目を終えた者のように。
「じゃあ……お願い。最後の台詞を」
朱音はうなずいた。
「もし君が消えることで、この劇が終わるなら――
私は、君の続きを生きてみせる。
仮面の下で、私自身の台詞を探してみせる」
照明が落ちる。
静寂が舞台を包む。
観客席に立っていた白い影は、そこにはもういなかった。
⸻
【場所】ルミエール座前・夕暮れ
【時間】11月22日 午後4時50分
舞台の扉が開かれる。
朱音はゆっくりと外に出てきた。
その手には、もう仮面はない。
足元で砕けた破片が散らばっている。
あの白い仮面――番号Ⅳが刻まれていた仮面だった。
玲が隣に立っていた。
彼女は朱音を見つめ、静かに言った。
「……終わったんだね」
朱音は頷いた。夕焼けに照らされて、顔が少し赤く染まる。
「うん、やっと。
この劇の中で……ちゃんと生きた気がする」
玲は微笑む。そして、いつもの冷静な口調で呟いた。
「君は“目撃者”じゃなくなった。
もう、立派な“演者”だったよ」
朱音は言った。
「じゃあ……次は、自分の物語を探さなきゃね。
今度は、私自身の台詞で」
その背後で、劇場の扉がゆっくりと閉じられた。
もう、開くことはないだろう。
けれどその内部には、確かにひとつの“劇”が記憶として残っていた。
⸻
◆エピローグ
物語は終わった――だが、“記憶に残された劇”は、静かに生き続けている。
ー後日談ー
【場所】夕映町・旧市民劇場「ルミエール座」前
【時間】11月22日 午後5:00
秋風が頬をかすめた。
舞い上がる落葉の音が、静寂の中に淡く響く。
玲は、古びた劇場の正面玄関に立っていた。
朱音やユウタ、そして“演者たち”が去ったあとの静けさは、どこか舞台の終わりを告げる鐘のようだった。
――あのステージの上で、誰かが“語り終えることのできなかった物語”が、ようやく終幕を迎えた。
そう思いながら、玲はかすかに目を細める。
ルミエール座――その名の通り、かつて灯をともした場所。
だが今、その扉は静かに閉じられ、もう誰も舞台に上がることはない。
仮面。
台本。
失われた台詞。
そして、それを演じることを選んだ朱音。
「……君は、本当に強かった」
玲は小さく呟いた。
目の前には、冷たい石畳。誰もいない階段。
けれど、その記憶の奥に、朱音が立っているような気がした。
仮面をかぶることでしか辿りつけなかった“真実の舞台”。
ユウタが最初にそこに触れ、朱音が引き継いだ。
そして自分――玲は、それを“観測”していただけだったのか。
――いや。
「観測者であると同時に、私はきっと、演者でもあった」
あの瞬間、舞台の記憶が脳裏に蘇る。
サイコメトリーで見た“最後の台詞”。
仮面の裏に宿っていた“失われた願い”。
「君が来てくれて、よかった」
玲の中に残っていたのは、その言葉だった。
あれは、自分に向けられたものだったのかもしれない。
それとも、朱音に向けられたものだったのか。
あるいは、誰にも届かずに消えた“失踪者”自身の、祈りだったのか。
考えても、答えは出ない。
けれど、玲はそれでよかった。
物語に“完全な解”はなくても、“幕を閉じること”こそが意味を持つのだと、朱音が教えてくれたから。
ふと、携帯が震える。
画面には、朱音からの短いメッセージ。
『次は、きっと自分の舞台で会おうね』
玲は微笑んだ。
そして、背を向ける。劇場に、もう別れを告げるように。
風が吹く。
誰もいないその空間に、秋の音だけが残された。
幕は降りた。けれど、それぞれの物語は、まだ続いていく。
【場所】玲探偵事務所・朱音のデスク前
【時間】11月22日 午後5:10
カリ、カリ――
クレヨンが紙の上を滑る音だけが、静かな事務所に響いていた。
朱音は、窓際の自分の机に向かっていた。
その表情はいつも通りの素朴さを湛えていたが、筆先には、これまでとは少し違う「輪郭」があった。
描かれていくのは、あの舞台――
仮面がそっと置かれた、終幕の舞台。
中央には、微笑むユウタの姿。
仮面を外し、穏やかな顔で光を見上げている。
朱音は、描きながら口元をきゅっと結んだ。
それは笑顔でも、涙でもない。
ただ――“理解している”という表情。
「あのとき、ユウタはきっと……」
朱音は誰に話しかけるでもなく、小さく呟いた。
あの劇の終幕は、ただの謎解きじゃなかった。
そこにあったのは、“誰かが消えていった理由”と、“誰かが残された理由”。
「“最後の台詞”ってね……ちゃんと届いたんだと思う」
そう言って、彼女は絵の右上にそっと光を描き加える。
それは舞台照明のようでもあり、朝日にも似ていた。
朱音は気づいている。
自分はもう、ただ「記録する」だけの存在ではない。
物語の“傍にいた少女”ではなく、“中に入った演者”として――
「わたしも、舞台の上でちゃんと、言えたから」
思い出すのは、仮面をかぶった瞬間のこと。
他人の役を演じながら、自分自身を知っていく不思議な感覚。
それは、失われた記憶の中に潜っていくことと、よく似ていた。
そして、いま。
朱音は、最後に一つの空白を残して、クレヨンを置いた。
その白い空間だけが、描かれていない。
「ここは……これからの“舞台”」
小さく呟く。
まだ演じていない場面。まだ出会っていない登場人物。
そして――まだ話していない“自分の言葉”。
窓の外では、夕焼けが街を赤く染めていた。
朱音は、ゆっくりと立ち上がり、その絵をそっとファイルに挟んだ。
「玲兄、見てくれるかな……?」
独り言のように呟いて、彼女はカーテンを閉める。
次の舞台は、まだ決まっていない。
けれど――光はもう、向こうから差し始めていた。
【場所】久岬村・氷鏡湖畔の祠前
【時間】11月22日 午後17:15
冷たい風が湖面を渡り、薄暮に染まる祠のまわりを静かに撫でていく。
小さな石段を上った先、祠の前に白い花が供えられていた。昨日までにはなかったものだ。
服部たまきはその花に視線を落とすと、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
手にしていたのは、色褪せた一通の絵葉書。絵柄は、かつてこの村で開かれた演劇祭のポスターを模したものだった。
「……あのときのまま、変わらないね」
ぽつりとつぶやき、たまきは絵葉書を白い花のそばにそっと置いた。
そこには、誰にも宛てられていない短い言葉が綴られていた。
> 「あなたの舞台は、ちゃんと届いたよ」
祠の奥、ひっそりと置かれた仮面がひとつ――かすかな光を反射していた。
それが誰のものだったのか、たまきは語らない。ただ、少しだけ微笑み、立ち上がった。
空はすでに夕闇の気配を帯びている。
湖の水面が風に揺れて、仮面の映り込みを曖昧にしていた。
たまきは背を向け、静かにその場をあとにする。
足音だけが、祠の石段に淡く残った。
【場所】聖桜学園・図書室
【時間】11月22日 午後17時20分
放課後の気配もすっかり消えた学園の図書室。冬の夕暮れが、曇りがかった窓越しにやわらかく差し込んでいた。
本棚の影に隠れるような一角。そこに、椎名環の細い指が音もなく動いていた。
広げられているのは、誰の目にも触れぬまま忘れられていた数枚の原稿用紙――未発表の台本の断片。
鉛筆の走り書き。修正の跡。ところどころに滲んだインク。
それらは、誰かが苦しみながら、役割を生きようとした痕跡だった。
「……演じさせられるって、こういうことなんだね」
環は小さく息を吐くと、そっとその台本の紙端を指先でなぞった。
事件の中で明るみに出た“仮面劇”の記憶。誰かが“主役”に選ばれ、誰かが“舞台装置”にされた。
そこに自由はなかった。ただ、配られた役に従い、苦しみながら演じるだけだった。
「もう……誰にも、そんなこと、させない」
その声は、図書室の誰にも届かない静寂に沈んでいく。
環は丁寧に原稿をファイリングし、最後に表紙に一文字、赤いインクで記した。
『未完』
その言葉には、拒絶と祈り、そして新しい始まりの気配がこもっていた。
図書室の時計が静かに時を刻む。17時20分。
椎名環は原稿ファイルを抱き、そっと席を立った。
その背中には、もう誰かに配役を決められる少女ではない、強さが灯っていた。
【場所】劇場照明技術センター(市外)
【時間】11月22日 午後17時20分
金属の香りが漂う整備室。高天井の空間には、分解された照明灯体が無数に吊り下げられ、無言のまま点検を待っていた。
工具を片付け、ネジの感触を確かめながら蓋を締めた高梨ユウタは、黙って手帳を取り出した。表紙は擦れて角がめくれかけていたが、中にはびっしりと光の計算と舞台図が書き込まれている。
「白──、緞帳の上から二灯。開演五秒前、仮面の影がステージ中央に落ちる……」
彼は鉛筆を走らせながら、無意識のうちに“あの夜”を再現していた。
あの再演の舞台。
誰も客席にいないのに、幕は上がり、言葉は交わされ、仮面は剥がされていった。
――そして、最後に光が落ちた。
まるで、それが「終わり」ではなく「目覚め」であるかのように。
ユウタはふと手を止めた。自分が灯した照明の輪の中、朱音が立っていた姿が脳裏に蘇る。
迷いを振り切るように、ただ一点を見つめ、仮面をつける朱音。
そして彼女が、かつての“失われた演者”たちの記憶に光を当てていった瞬間。
あれは――演技なんかじゃなかった。
記憶の奥底で、彼自身がずっと見たがっていた“本当の舞台”だった。
「……あれで、よかったんだよな」
小さく独りごちて、ユウタは鉛筆を閉じた手帳の表紙にそっと当てた。
ページの隅に、こんな言葉が鉛筆で書かれていた。
『照明:本番終了後、しばらく点灯を維持。役者が仮面を外せるように』
彼は立ち上がると、整備台の照明を一つ、軽く点灯してみた。
暖かな橙色の光が、静かな空間をゆっくりと包み込んでいく。
仮面のない舞台。
それが、ユウタがずっと夢見ていた“照明”だったのかもしれない。
【場所】記憶分析センター(都市部)
【時間】11月22日 夜
水無瀬 透
白い蛍光灯が天井から静かに明滅し、分析室に微かな振動を落としていた。
水無瀬透は、解析端末に表示された深層記憶のラストフレームを見つめながら、静かに息を吐く。
ディスプレイには、仮面をかぶった一人の演者――
名前を記録に残されず、役割だけを託され、幕が上がる直前に消えた“誰か”の記憶。
恐怖。焦燥。
演じきれなかったことへの無念。
しかし、最後の断片には――震える手で差し出された、もう一つの仮面が映っていた。
そこには確かに、「終わらせてほしい」という、祈りにも似た意志が宿っていた。
仮面という媒体を通して、“記憶”は語りかけてくる。
ただの証拠ではない。
ただの過去でもない。
その奥には、確かに“繋ぎたい想い”が刻まれていた。
透はゆっくりと椅子にもたれかかり、天井を見上げた。
感情を分析の外に置くのが彼のやり方だったが、今日はそれが少しだけ揺らぐ。
――この仮面に込められていたのは、
“消えた演者”の痛みではなく、
“誰かを救ってほしい”という、最期の願いだった。
それを受け取った者が、今、舞台に立とうとしている。
演技でも記録でもない、「本当の物語」のために。
仮面は、ただの道具ではない。
それは、願いの器であり、記憶の鍵だった。
水無瀬透は端末の記憶再生を終了し、記録媒体を封印ケースに収める。
静かに立ち上がるその背に、蛍光灯の光が長く伸びた影を落としていた。
【場所】柊家・書斎
【時間】11月22日 午後9時
柊コウキ
柔らかな灯りのもと、小さな書斎にはページをめくる音だけが静かに響いていた。
柊コウキは、古びた布張りの椅子に腰かけ、手元に広げた一冊のノートに目を落としていた。
それは、自分が幼い頃に書いた日記帳――。
ページの端には、幼い字でこう書かれていた。
「きょう、ユウタとひみつきちをつくった」
「おとうさんはしごとで、でも、かえってきたらいっしょにカレーをたべたい」
――記憶の封印を解かれても、すぐに全てが“戻る”わけじゃない。
あの倉庫の出来事。
誰かが自分を「忘れさせようとした」日々。
そして、誰かがそれを「思い出させようとした」声。
けれどコウキは今、ようやく少しだけわかった気がしていた。
大事なのは、失われた記憶の断片を完全に取り戻すことじゃない。
たとえ記憶が欠けていても、“それでも自分は生きてきた”という実感。
その事実こそが、今の自分を形づくっているのだと。
ふと、コウキはペン立ての隣に置かれた一枚のスケッチに目を止めた。
それは朱音が描いてくれた、光の射す劇場の舞台。
中央には、仮面を外して笑うユウタと、もう一人――自分らしき少年が並んで立っている。
目の奥が、ほんの少し熱くなる。
けれど彼は涙を流さなかった。
ただゆっくりと日記の最後のページを閉じ、静かに息を吐いた。
「……もう少しだけ、読んでみようかな」
そう呟く声は小さかったが、確かな芯を持っていた。
過去はまだ重く、傷も癒えたわけではない。
それでも――
ここにいる“自分”の歩みを、もう一度読み直していく勇気は持てる。
机の上の時計が午後九時を指すころ、書斎の灯りはなお穏やかに、彼の手元を照らしていた。
【場所】玲探偵事務所・夜
【時間】11月22日 午後11時30分
玲
窓の外では、夜風が街路樹をそっと揺らしていた。
灯りを落とした玲探偵事務所の中、唯一残る明かりは、デスクランプの淡い光だけ。
朱音はソファの上で眠っている。肩には毛布がかけられ、時折寝息が静かに漏れた。
彼女は今日、“仮面の物語”をひとつ終えたばかりだ。
玲はその隣で静かに座り、机の上の封筒を手に取った。
白い紙に丁寧な字で書かれた新しい依頼書。
差出人の名は伏せられ、内容も簡潔だ。
「演者の記憶は終わらない。仮面はまだ、舞台裏にある」
ふ、と玲は微かに笑った。
疲れているはずなのに、心のどこかが、次の舞台の気配に静かにざわめいた。
仮面は取り払われたはずだった。
けれど――本当の終幕は、まだ訪れていない。
真に“演技を終えた者”がいるのなら、その者の記憶には必ず、余白がある。
彼女は視線を紙の余白に落とす。
そこには何も書かれていない。だが、それが意味するものを、玲は理解していた。
記憶という名の劇は、たとえ観客がいなくても、演者が立ち続ける限り、どこかで幕が上がっている。
朱音が無意識に寝返りを打ち、何か夢を見ているように口元を動かす。
玲はそっと彼女に視線を向け、椅子の背にもたれた。
「……さて。次の舞台も、少しばかり手のかかるものになりそうだ」
その声に、答える者はいない。
けれど夜の静寂は、彼女の言葉を吸い込み、深く、深く沈んでいった。
仮面が取り払われた今、
演者は、自分自身の物語を演じる時を迎えている。
玲様
この手紙が届くころには、仮面は誰かの手に渡っているのでしょう。
それが、あの子(朱音)なら――きっと、私はもう安心して歩き出せる気がします。
十年前の舞台は「終わったこと」になっていたけれど、
あの劇は、誰かの中でずっと“続いて”いました。
誰にも終幕を言ってもらえなかったまま、
私たちは舞台の上に取り残されたままだったのです。
私が消えた夜のこと、覚えている人はほとんどいないでしょう。
でも、あの時――
誰かが「あなたはこの役を演じきれなければならない」と囁いた。
それが、誰の声だったのか、もう思い出せません。
仮面の裏で、自分の顔を忘れてしまうのは怖かった。
けれど今になって思います。
あれは“私自身の声”だったのかもしれないと。
玲さん。あなたはきっと、
誰かの記憶と誰かの痛みの、境界を歩いている人なのでしょう。
だから――私のように、
自分の声を見失った誰かのことを、これからも見つけてあげてください。
仮面の劇に幕が下りたそのあとで、
やっと私は「観客席に座る」ことができたのです。
ありがとう。
名前は、書きません。
あなたがもう、それを知っていると信じて。
⸻
【補足描写】
玲は、手紙の文面を読んだあと、封筒の中にもう一枚――
舞台衣装の断片のような、銀色のリボンが添えられていることに気づく。
それは、十年前の記録映像に映っていた彼女が髪に結んでいたものと、同じ素材だった。
玲はそれを黙って握り、窓の外に目をやる。
「…これで、やっと“降りられた”のか。」
独り言のように、そう呟いて――机の抽斗にそっとリボンをしまった。




