73話 影法師――舞台裏の殺意
登場人物
主役・調査側
•玲:都市部での事件経験豊富な探偵。今回の舞台事件の現場と資料解析を担当。冷静沈着で観察力に優れる。
•朱音:10歳の少女。スケッチを通して舞台装置や現場の痕跡を視覚的に記録する。洞察力は大人顔負け。
•御子柴理央:資料整理と過去の台本・記録解析を担当。冷静で論理的。
過去・背景関係
•服部たまき:服部家の長老。事件や舞台の背景に関する記録・知識を提供。
•新田翔吾:当時の舞台裏方スタッフ。仮面を着けて事件を実行。現在は別名で活動。
被害者・関係者
•桐谷純一:舞台監督助手。舞台装置や未発表台本を発見したことにより殺害される。
•佐久間凛音:当時の演者。事件後に劇団を退団、消息不明。
•寺崎那央:美術担当。未発表の台本の一部を発見しており、“鍵”を握る人物として重要。
•西野陸人:控室で緊張する演者。事件当時の舞台状況を目撃していた可能性あり。
•岩井貴志:演出補佐。事件現場や舞台構造に詳しい。
⸻
場所
•志賀高原の地域ホール:舞台、控室、舞台裏緞帳操作室、大道具・衣装保管庫などが事件現場
•ロッジ:調査・作戦会議の拠点
冒頭
【場所】劇場・舞台裏廊下
【時間】深夜1時12分
廊下の古い蛍光灯が、時折、チリ、と音を立てて瞬く。
舞台裏は本来、上演前の熱気や緊張が満ちているはずだが、今はただ冷たい空気だけが漂っていた。
そんな中、足音が二つ。
「……遅いな、桐谷くん。控室で合流って言ってたはずだけど」
衣装部の結城玲子が腕を組みながら呟く。
隣では、舞台記録係の相川たまきが、手に持つ台本を抱きしめるようにして言った。
「純一さん、今日ずっと緊張してたんです。“あれ、見つけちゃった”って……」
玲子が眉をひそめる。
「“あれ”って……結局、言ってくれなかったのよね」
空気が揺れた。
その瞬間、舞台裏の奥――緞帳操作室の方から、微かに金属音が響いた。
カチ…ン。
たまきはびくりと肩を跳ねさせた。
「今の、聞こえましたよね……?」
「聞こえた。誰か、いる」
玲子は迷わず、懐中電灯を手に取った。
照らされた光が、薄暗い廊下を切り裂き、遠くへ続く影を浮かび上がらせる。
「純一くーん? いるなら返事して!」
返事はない。
だが、緞帳操作室の扉は……
半開きになっていた。
玲子は息をのみ、たまきを後ろにかばいながら歩み寄る。
「……開いてる。おかしいわ」
「れ、玲子さん、入るんですか……?」
「入らなきゃ分からないでしょう。来て」
ドアを押し開けた瞬間――
冷たい空気が、ふたりの頬をなでた。
そして強烈な鉄錆の匂いが、押し寄せる。
「……っ……なに、この……」
たまきの声が震えた。
玲子は懐中電灯を操作室の床に向ける。
光が何かを照らす。
赤色。
飛び散り、まだ乾ききらない斑点。
床に伸びた、異様な“引きずられたような跡”。
「血……?」
たまきの声は細く途切れた。
玲子は静かに息をつくと、言った。
「たまき。絶対に、私のそばを離れないで」
懐中電灯はさらに奥を照らす。
そして――
緞帳昇降用スペースの足場が、不自然に“開いたまま”になっていることに、ふたりは気づいた。
「……誰かが、ここで落ちた……?」
たまきの喉がひゅっと鳴った。
玲子は唇を震わせながら、ゆっくりと呟く。
「違う。落ちたんじゃない……“落とされた”んだわ」
沈黙が、ふたりを飲み込む。
そのとき――
背後で、カチリ、と何かのスイッチが入る音がした。
ふたりが振り返ったその瞬間、廊下の奥から、暗闇の中に“白いもの”が浮かび上がる。
半面の白い仮面。
感情の欠片もない眼孔。
ゆっくりと、こちらへ歩いてくる。
たまき「……来てる……来てる……!」
玲子「走るわよ、たまき!!」
ふたりの悲鳴と足音が、深夜の劇場の縦横を駆け抜ける。
そしてその影は、音も立てず、ふたりを追った――。
プロローグ
【場所】玲探偵事務所・玄関
【時間】午後三時十五分
蝉の声が薄れゆく午後、ロッジの玄関に満ちる光はまだ柔らかかった。
だが、その空気の中で青年が発したひとことが、場の温度を確かに変えた。
朱音はスケッチブックを胸に抱えたまま立ち尽くす。
玲は封筒を静かに閉じ、わずかに息を吐いた。
「……もっと話を聞こう。場所を移す」
奈々が青年をリビングへ案内し、朱音もそっと後ろをついていく。
【場所】玲探偵事務所・リビング
【時間】午後三時二十五分
湯気の立つマグカップがテーブルに置かれる。
青年は両手でそれを包み込んだが、震えは止まらなかった。
「名前を、聞いておこう」
玲が静かに問う。
「……桐谷です。桐谷純一。霧ヶ峰アートホールで、舞台監督助手をしています」
言葉と同時に、青年の視線が無意識に床へ落ちた。
「事件が起きたのは……公演準備の最中だったんです。
緞帳――幕を上げ下げするロープがあるでしょう? あれを点検していたスタッフが……その下敷きに」
朱音は唇を噛んだ。
三日前、彼女が無意識に描いたひとりきりの舞台。
客席のない空間に、宙吊りになった白い幕。
あれはただの夢の景色ではなかったのだ。
「事故、じゃないのね?」
奈々が穏やかに問いかける。
桐谷は、小さく首を振る。
「……首が“折れていた”んです。落下の衝撃じゃなく……誰かに、締め上げられたみたいに。
それに、あの日……ぼく、舞台裏で“誰か”を見た」
玲が顔を上げる。
「どんな人物だ」
「半分だけの……白い仮面を付けていました。
客席の方を向いて、ずっと動かないで……誰にも気づかれないように、そこに立っていたんです」
薄い空気の膜が部屋じゅうを覆ったような静寂が落ちる。
「……仮面、ね」
玲は低くつぶやく。「それで警察は?」
「事故扱いのままです。道具の点検ミスだって……。
でも、本番前にもう一度あの劇場へ行くのが怖くて……。
あなたしか頼れないと思って来ました」
青年の声が揺れた。
朱音は思わず、その震えた手に視線を落とす。
玲はゆっくりと立ち上がり、玄関に向かって歩き出した。
その後ろ姿には、久しく見なかった“探偵としての影”が戻っている。
「朱音。奈々。準備を」
振り向きもせずに言い切る声は、迷いを許さない。
「霧ヶ峰アートホールへ行く。
そこで起きているのは、ただの事故じゃない」
玄関から外へ吹き込む風は、すでに秋の匂いを含んでいた。
遠くで雷鳴のような気配――これから開く“幕”の予兆が、静かな山の中に広がっていった。
【場所】霧ヶ峰アートホールへ向かう山道
【時間】午後四時すぎ・日没前
標高の高い空気は澄んでいて、肌を刺すような冷たさが残っていた。
都会の残暑とは違う、季節そのものがここで“切り替わっている”ような静けさだ。
車の窓越しに広がる針葉樹林を見ながら、助手席の朱音がぽつりと言った。
「……なんか、息が白いよ」
玲が運転席で視線を前方に向けたまま返す。
「山の上はもう秋だ。夜になれば、もっと冷える」
後部座席では、依頼人の桐谷純一が小さく肩を縮めていた。
さっきからほとんど喋らず、膝の上で手を組んだまま指先だけが落ち着きなく震えている。
奈々が穏やかな声で問いかけた。
「桐谷さん……本当に、“誰かを見た”んですよね?」
桐谷は、一度だけ深く息を吸い、うつむき気味に答えた。
「……はい。緞帳の装置の方……あの部屋に、誰かがいました。
でも、舞台スタッフじゃありません……あんなマスク、見たことなくて……」
朱音が不安そうに目をぱちりと瞬かせる。
「マスク……おばけ、なの?」
桐谷は慌てて首を横に振った。
「ち、違うよ! おばけじゃない、人……だけど……変な、仮面で……」
玲がそこで静かに口を開く。
「“半面の仮面”――だったな?」
「……はい。右側だけ、白く覆う……」
車内に、わずかな沈黙が落ちた。
その言葉の重さが、全員をひっそりと緊張させた。
朱音が小さな声でつぶやいた。
「ねぇ……その人が、お兄さんを……?」
桐谷は答えられず、視線を落とすだけだった。
その沈黙を破ったのは、奈々の言葉だった。
「玲さん……舞台装置の事故に見せかけた、殺害。
しかも“目撃者を消す意図”がある。そんな匂いがします」
玲はハンドルを切りながら低く言う。
「現場を見なければ断定はしない。だが……この山の静けさは、いい前兆じゃない」
朱音が窓に手をつけながら、ぽつり。
「なんか……ここ、こわいね。音、ぜんぜんしない」
その言葉の直後、霧の向こうに劇場の影が現れた。
灰色の外壁。
湖のほとりにぽつりと建つ、古いアートホール。
桐谷がかすれ声でつぶやく。
「……あそこです。霧ヶ峰アートホール」
玲は車を停め、エンジンを切った。
「桐谷、案内を。朱音は奈々と一緒に行動しろ。
……この劇場は、何か“隠している”」
その瞬間、冷えた山風が劇場のガラス窓をかすかに震わせた。
まるで――
舞台に立つ者の足音だけを、そっと呼び込むように。
【場所】霧ヶ峰アートホール・照明室前の通路
【時間】夕方 17:42
朱音は、小さな手で重たい扉をそっと押した。
ギィ……と古い蝶番が、控えめに悲鳴をあげる。
薄暗い照明室の中は、ほこりをかぶった機材と、微かに焦げた電球の匂いが漂っていた。
昼間のスタッフたちの気配はもうなく、まるで誰かが“息を潜めている”かのような静けさが広がっている。
朱音は、胸の前でスケッチブックをぎゅっと抱え直した。
「……ここ、あの時の……」
小さくつぶやく声は震えている。
10歳の少女が無理に平気を装っているのが、音だけではっきり分かる。
背後からゆっくり近づく足音。
玲が入室の許可を示すように軽く肩へ触れた。
「朱音、無理はするな。匂いと音だけでいい。見たものは、全部言わなくていい」
「……でも、わたし、見えるから。たぶん……ここで、誰かが――」
朱音の声が途切れた。
照明室の奥――緞帳の滑車ワイヤが垂れ下がる暗がりを、じっと見つめている。
桐谷が慌てて続く。
緊張と罪悪感が混ざった声だった。
「す、すみません……その、無理に思い出させるつもりじゃ……」
玲は手で制し、照明卓のスイッチをそっと押す。
黄白色のランプが少しだけ部屋を照らした。
その瞬間――
朱音は、ふっと息をのみ、指先を震わせながらスケッチブックを開いた。
「……ここに……いたの。
あの白い……かめんの人が」
紙には、幼い線で描かれた“半分だけ仮面をつけた影”。
その影は、照明室の奥――まさに朱音が見つめている場所に重なっていた。
桐谷の顔色が変わる。
「やっぱり……君も、あれを……」
朱音は震えながらも、はっきりと言った。
「……ここで苦しかった。たすけてって、すごく……すごく言ってる……」
玲が静かに目を閉じる。
彼にとって“朱音の言葉”は、想像でも妄想でもない。
“現場の真実を拾い上げる”ための、大切な手がかりだ。
「朱音。ここはもう大丈夫だ。
この先の確認は――俺がやる」
朱音はこくりとうなずき、玲のコートの裾をそっと握った。
「……れいさん、気をつけて。
あの人、まだ……ここにいる気がするから」
冷たい照明室の空気が、沈黙の中でわずかに揺れた。
その揺らぎはまるで、劇場に潜む“第2の影”が息を潜めて見ているかのようだった。
【場所】霧ヶ峰アートホール・照明室前
【時間】夕刻直前、客電が落ち始める頃
朱音は、胸の前でスケッチブックをぎゅっと抱えたまま、細い指で照明室の扉を押した。
ドアはわずかに軋み、暗い部屋の中から、ほのかな埃の匂いが漂ってくる。
薄闇の中に積まれた機材の影が、まるで誰かの“気配”のようにゆらりと揺れて見えた。
「……ここ、ちょっと……怖いね……」
小さな声。
10歳の子どもが無理に明るく振る舞おうとして出る、微かな震えが混じっていた。
後ろから玲がゆっくり入ってくる。
足音を立てないように歩くのが癖になっているせいで、朱音はその存在に気づくと、少し安心したように振り返った。
「離れるな、朱音。照明室は死角が多い」
「……うん」
照明卓のモニタは落ちており、黒い鏡のように二人を映すだけだった。
奈々が壁の配電盤を確認しながら言った。
「ここが……桐谷さんが“何かを見た”って言っていた場所ですね」
玲は懐中電灯をつけ、光を床に沿わせた。
照明室は狭いが、机の下、ケーブルラックの裏、ステージ側への小さな窓……
すべてが“隠れる”には十分すぎる構造をしている。
「……ここに誰か立ってたのかな」
朱音は、ステージを見下ろす小窓の前に立ち、ぽつりとつぶやいた。
その瞬間――
ぱちん、と部屋の奥で小さな音がした。
電源の切り替え音でも、機材の膨張音でもない。
明らかに“何かが触れた”物音。
朱音は肩をびくっと震わせた。
「れ、玲……なんか、いる……」
玲は手を上げて静止を指示。
奈々も呼吸を止める。
次の瞬間、暗がりの隅で――
細い金属チェーンが、ひとりでにわずかに揺れた。
まるで、
“そこに立っていた誰かが、今、姿を消した”
そんな風に。
玲は低く呟いた。
「……第二幕が始まったな。“闇の観客”だ」
朱音は息を呑んだ。
「……闇の、かんきゃく……?」
「舞台には、観客席にいない観客がいることがある。
光を操る者――照明師なら、なおさらな」
奈々が身を寄せ、囁くように言う。
「桐谷さんの証言……“誰かが暗闇から舞台を見ていた”って」
照明室に、冷たい風もないのに、チェーンの揺れだけが続いていた。
玲は、わずかに目を細める。
「――光を操る者が、舞台を血で染める。
まさに、犯人自身のエチュードだ」
朱音は知らぬ間に、スケッチブックの端を強く握りしめていた。
そしてそのページには――
彼女が無意識に描いた“仮面の人物”が、薄闇の中で浮かび上がっていた。
【場所】霧ヶ峰アートホール・控室奥
【時間】午後 5 時 58 分
陸人は、台本を握る手をいったん膝に落とした。
呼吸は浅く、胸を上下させるたび、肺の奥が軋むように痛む。
「……なんで、これを復活させるんだよ……」
独り言のような声が、鏡にぶつかって跳ね返る。
控室の照明はいつもより暗かった。
舞台スタッフが節電のために照度を落としただけのはずなのに、今はその薄闇が“意図的なもの”のように思えて仕方がなかった。
彼は机の上の演出案に手を伸ばした。
紙の端はわずかに焼けたように波打っている。古い保管庫から引っ張り出され、急いでコピーされたものだという。
指先でなぞる。
その手の震えは止まらない。
“仮面の演者”
“誰が本物で、誰が幻か”
それらの文字が、まるで自身の過去をあざ笑うかのように浮かび上がって見えた。
「本物も幻も……分かるもんかよ……」
彼は苦く呟き、顔を覆った。
耳の奥で、ひとつの音が蘇る。
あの日、照明が落ちる寸前に聞こえた――少女の泣き声。
もしくは、泣き声のように聞こえた何か。
その瞬間、控室の扉がきぃ、と小さく開いた。
朱音が、小さく顔をのぞかせる。
「……にしのさん?」
幼い声は、ひどく静かだった。
陸人はビクリと肩を震わせ、慌てて台本を裏返す。
しかし朱音は、机の上の演出案を一目見て、細い声で言った。
「……このお話、知ってる……。きれいじゃ、ないね……」
彼の表情が一瞬で固まった。
子どもが言う“きれいじゃない”は、おとぎ話の話ではない。
もっと別の、深いところの“汚れ”に触れたときの言い方だ。
「どこで……これを……」
陸人は喉をつまらせながら尋ねた。
朱音は答えなかった。
ただスケッチブックを広げ、見せた。
そこには、舞台の中央に立つ“背の低い演者”の絵。
顔は描かれていない。
代わりに、仮面がぽとりと床に落ちている。
「この子……だれなの?」
朱音の問いは素朴だったが、刃のように鋭かった。
陸人の顔から血の気が引く。
「……い、言わないでくれ……。その子の名前は……」
口が乾き、言葉が出ない。
だが、言わないと逃げられない気もしていた。
その時、控室の入口に玲が現れた。
冷たい目で部屋を見渡し、静かに言う。
「西野さん。話を聞かせてください。“第二幕”に何があった?」
陸人は、両手で顔を押さえたまま、かすかに震える声を絞り出した。
「――あれは、幻の演目なんかじゃない。“犯人の告白”だったんだ……」
控室の空気が、たしかに凍りついた。
【場所】霧ヶ峰アートホール・舞台袖
【時間】午後七時十二分
カツン、と金属を叩くような硬い靴音が響いた。
西野陸人は反射的に肩を震わせ、舞台奥の暗がりへ目を向けた。
そこにあるはずのない“影”が、舞台装置の陰をすべるように横切った気がした。
次の瞬間──
ガタン、と乾いた音が頭上から落ちた。
「……え?」
照明バトンに取り付けられたスライダーが、わずかだが完全に“予定外の角度”で動いた。
リハーサルで見た安全位置とは明らかに違う。
そもそも今は誰もその系統に触れていないはずだ。
「……照明卓、動かしてないよな……?」
震える声でつぶやくと、舞台袖の暗い通路を、ひゅう…と冷たい風が通り抜けた。
まるで何かが、すぐそばを通ったような錯覚。
陸人は台本を胸に抱え、舞台袖の奥へ数歩近づく。
人の気配はない。だが、暗がりは“いる”と告げていた。
そのとき──
「陸人さん、今の音、聞こえました?」
振り向くと、薄いブルゾンを羽織った桐谷純一が立っていた。
依頼人の顔は強張り、手に持ったチェックリストが小刻みに揺れている。
「スライダー、勝手に動いたんだ。誰も触ってないよな」
「――ええ。照明卓はロックしてあります。動くはずが……ない」
二人が同時に天井を見上げた。
電球の光がわずかに瞬いて消え、またゆっくり点いた。
陸人はごくりと唾を飲む。
「なぁ、桐谷さん……
“影法師”って、ただの演目の復元なんだよな……?
誰かの噂じゃなくて、ほんとに……?」
桐谷は言葉を失い、視線だけがわずかに揺れた。
やがて、弱々しい声がこぼれる。
「――玲さんが言ってました。
『この劇場には、まだ“観客”が一人、座り続けている』って……」
陸人の背筋に、氷のような寒気が走る。
暗がりの奥。
誰もいないはずの空間で、わずかに布が擦れる音がした。
小さな“気配”が動く。
照明の光がほんの一瞬だけ遮られ、舞台の中央に長い影が落ちた。
「……そこ、誰かいるのか……?」
沈黙。
ただ、深く沈んだ闇だけが、彼らをじっと見ていた。
【場所】霧ヶ峰アートホール 仮設事務室
【時間】第2事件発生直後・夜
薄暗いホールの一角に設けられた簡易事務室は、緞帳の布越しにまだ微かに“事故現場の緊張”を引きずっていた。
警察は怒号を抑えた低い声で指示を飛ばし続け、担架が運ばれていく音が遠く響く。
その中央で、玲は資料机に両手を置き、静かに深く息を吐いた。
「……第二の犠牲者、榊。舞台装置担当。首の損傷は純一と同じパターンだ。」
淡々と告げる声に、朱音は不安げに唇を噛んだ。
10歳の少女の指は、握っていたスケッチブックをしっかり押さえて震えを誤魔化すようにしている。
「……ねえ、玲さん。さかきさんも……“落とされた”の?」
その問いに、玲は目だけを動かして朱音を見る。
「落下ではない。あれは“狙って吊られた”。手順も残された痕跡も……犯人は舞台装置を熟知している。」
御子柴理央は、持ち込んだタブレットに映るデータを指で弾きながら言った。
彼の冷静な声は、妙にこの空気に馴染んでいた。
「装置の作動ログを解析したが……おかしい。
榊がいた時間帯、舞台奥の昇降装置には“外部操作の痕跡”がある。
しかも、操作履歴を上書きした形跡まで見える。」
玲が顔を上げる。
「外部……? スタッフ以外には触れられないはずだ。」
「だからこそ、内部犯の可能性は濃厚です。ただ、それだけじゃ説明できない点もある。」
御子柴は、新しいウィンドウを開く。
「見てください。純一の死亡時刻の前後に、照明用のキャットウォークのモーションセンサーが“無人のまま反応”している。」
朱音が小さく震えた。
「……ひとりでに、ってこと?」
「可能性としてはね。ただ、センサーの誤作動とは言い切れない。」
理央は画面を玲へ向けた。
「もし“仮面の男”が純一を襲った犯人なら……
犯行後すぐにキャットウォークへ移動している。
メインフロアを避けて。“見られずに動けるルート”を使って。」
玲が低くつぶやく。
「……闇の観客、か。」
朱音が顔を上げ、スケッチブックを開いた。
「ねえ……これ、見てほしいの。」
そこに描かれていたのは、昨日から無意識に描いていたという“舞台の上の影”。
その影は、仮面をつけた男、照明塔の上の人影、そして――
「……この子だけ、なんか……変なんだ。」
朱音が指さしたのは、舞台奥に立つ“誰とも違う、光を持たない影”。
玲は目を細めた。
「朱音。それを描いたのは……何かを見たからか?」
少女は首を小さく横に振り、しかし次の一瞬、息を呑むように言った。
「……見えてた、気がしたの。
榊さんがいなくなる前……
舞台の上に、ひとり……“立ってた”。
だけど……そこに、誰もいなかったの。」
沈黙。
薄く震える灯りの下で、御子柴が囁く。
「……視覚の残像……いや、潜在記憶の活性化か?
朱音ちゃん、君の“無意識の証言”は……実はとても価値がある。」
玲が短く言う。
「理央。朱音を利用するな。
彼女は証人だが、まだ子どもだ。」
朱音は俯いたが、その瞳は揺らいでいなかった。
「でも……わたし、手伝えるよ。
だって……舞台にいる“だれか”が、ずっとわたしを見てるの。
榊さんが落ちる前も……ずっと、いた。」
玲の背筋がわずかに伸びた。
「……朱音。その“誰か”は――仮面をつけていたか?」
朱音はそっと首を横に振った。
「……仮面、じゃない。
もっと……顔がないみたいな……
ひとの形の“影”みたいな。」
御子柴が息を飲む。
「それ……“第二幕の影法師”そのものじゃないか。」
玲は静かに視線を伏せると、短く決断するように言った。
「理央。榊の死角と純一の動線を重ねて、
“人が姿を隠せるルート”を全て割り出せ。」
「了解。」
「朱音。……もう少しだけ付き合ってくれ。
きみの見た影は、犯人の“痕跡”だ。」
朱音は小さくうなずいた。
「……うん。
あの影……わたし、見逃しちゃいけなかった気がするから。」
その瞬間、舞台の奥から——
――カタン……。
照明の落ちる微かな音が、またひとつ室内に響いた。
3人が同時に顔を上げる。
その音は、誰も触っていないはずの“照明塔の上”から聞こえていた。
緞帳の裏で、闇の観客はまだ——動いている。
【場所】霧ヶ峰アートホール・旧演出室
【時間】午後5時12分
薄暗い演出室は、まるで時間そのものが止まっていたかのように静かだった。
窓は埃で曇り、外の夕日がほとんど届いていない。
天井の古い照明がわずかに揺れ、カチリ……と、電源が入っていないのに音を立てた。
朱音のスケッチに導かれた二人は、慎重に部屋へ進んだ。
「……ここだ」
玲は低くつぶやき、棚の奥に目を凝らした。
朱音が描いた“黒い部屋の棚と台本の束”。
そのままの位置、そのままの形で、埃をかぶった台本が積まれている。
御子柴は手袋をはめ直し、上から二番目の束をそっと引き抜いた。
「……《影法師(未完成)第一稿》……」
彼は声に出して読んだ。
「演出・牧原伊吹。……この名前、榊さんのメモにあった“最後に会う予定だった人物”と一致します」
玲が顎を僅かに上げる。
「そして、桐谷が見た“白い仮面”……。演目の仮面と同じか」
朱音はきょとんとしながらも、棚の奥をじっと見つめていた。
手にしたスケッチブックのページを合わせるように開き、ぽつりと呟く。
「……ここ、まだあるよ。絵に描いた“へんなひっかき”」
照明の届かない棚の裏側、朱音が指差したその部分に——
薄く、鉛筆の先で強く押しつけたような跡があった。
御子柴がライトを当て、顔を寄せる。
「……文字だ。誰かが急いで書いた……」
そこには震える線で、こう読めた。
《二幕の“本当の結末”を知った者は、必ず消される》
御子柴は息を呑んだ。
玲は台本を開きながら、静かに言葉を落とす。
「被害者は、“二幕”の真相に触れた……。つまり——動機は劇の内部にある」
朱音は玲の袖を引いた。
「れい……このかみ、まだつづきがある」
朱音が示したのは、台本の最後のページ。
折り込まれていた薄い紙には、さらなる一文が書かれていた。
《影法師の正体は……“舞台の外にいる者”》
御子柴の目が鋭くなる。
「舞台の外……観客? 演出家? それとも——」
玲は台本の紙の匂いを確かめるように指で撫で、短く言った。
「——“関係者全員”。誰もが舞台に立っているという意味だ」
その瞬間、演出室の奥から――
カサ……と何かが動く微かな音がした。
朱音が肩を震わせる。
御子柴が振り返り、玲も身構える。
棚の影から、埃を舞い上げて一枚の紙が落ちた。
それは古びた舞台図面で、赤インクで大きく書かれていた。
《第二幕 犠牲者:二人目——予定通り》
御子柴が紙を拾い上げた瞬間、玲は低い声で言った。
「……犯人は、まだ中にいる。
そして“三人目”をもう決めている」
演出室の窓を、突如、冷たい突風が叩いた。
朱音はスケッチブックを抱きしめ、震える声でつぶやく。
「……つぎの“かげぼうし”、だれ……?」
暗闇の奥で、旧式の照明が——
ちかり、と光った。
まるで、舞台の幕が上がる合図のように。
【場所】霧ヶ峰アートホール・仮設事務室
【時間】午後7時32分――第二事件発生から40分後
榊の遺体が舞台袖から運び出され、ホール全体がざわめきと寒気に包まれていた。
警察の現場検証が照明を落とした客席の中で続き、その光が時折、壁に揺れていた。
仮設事務室として使われている控室の一角。
玲は無言で、見取り図を机に広げたまま腕を組んだ。
朱音は隣で椅子に座り、膝の上にスケッチブックを抱えたまま、ただ静かに玲の横顔を見ている。
御子柴理央は、持参した分析端末を立ち上げてホール全体の設備データを呼び出していた。
沈黙を破ったのは、玲の低い声だった。
「……事故には見えない。舞台構造を熟知した者の手口だ」
彼は、先ほど警察から提供された事故現場の写真を一枚抜き取り、それを舞台装置の見取り図に重ねるように置く。
「ここ。榊が倒れた位置と、装置の可動軌道の“わずかなずれ”が一致していない」
玲の指先は、見取り図の右下――昇降装置の補助梁の部分をなぞった。
御子柴は端末を確認すると、眼鏡を押し上げながらすぐに応えた。
「……その隙間、通常は存在しないはずです。
誰かが意図的に“ストッパー”を外してますね。それも、外部からじゃなく――内部操作」
「内部……?」朱音が小さくつぶやく。
うつむいたままの朱音に、御子柴は優しい声音で続ける。
「うん、朱音。つまりね、これは“仕掛けられた罠”なんだ。本来は絶対に起きない事故。誰かが、本気で榊さんを狙った」
玲は写真を軽く指先で押さえた。
「細工は素人の仕事じゃない。舞台装置のクセを知り、稼働音のタイミングを読み、俳優が立つ位置まで予測した上で、事故に見せかけている」
彼の目がわずかに細くなる。
「……つまり、犯人は“舞台の内側にいる人間”。
光、音、幕、装置――いずれかの専門を持つ者だ」
朱音はスケッチブックをぎゅっと抱えた。
「ねぇ……玲。あのね……わたし、さっき絵を描いてたら……」
玲と御子柴が振り向く。
「……舞台の上に、知らない人の“影”が立っているのが見えたの……すごく細くて……手だけが、こう――」
朱音は震える指で、昇降装置のレバーを引く仕草を描いてみせた。
御子柴が息をのむ。
「まさか……影を操る立場の……」
玲は低い声でその言葉を継いだ。
「――“照明スペシャリスト”か」
御子柴静かに補足する。
「舞台で影を作るのは照明。光の角度ひとつで、人の位置も、見えるものも変えられる……つまり“舞台の真実”を最も簡単に捻じ曲げられる専門職です」
朱音の指がきゅっと強くスケッチブックを握る。
玲は静かに立ち上がった。
「……影を操る者が、舞台を血で染める。
――第二幕が始まったということだ」
御子柴が端末を閉じ、朱音の肩にそっと手を置いた。
「行こう。犯人はまだ舞台のどこかにいる」
その瞬間、遠くの舞台で――
消えていたはずの“照明の一灯”が、ふいにぱちりと点滅した。
まるで誰かがそこに立って、
静かに幕を開けようとしているかのように。
【場所】霧ヶ峰アートホール・仮設事務室
【時間】午後 4 時 12 分
資料の束が置かれた長机の上に、奈々が持ち込んだ調査ファイルが静かな音を立てて重なった。
外では、まだ警察が榊の遺体を搬出した余韻が残り、ホール全体がざわついたままだった。
御子柴がタブレットを指先で滑らせながら、淡々と報告を続ける。
ディスプレイに浮かぶのは、劇団の過去の名簿とSNSの痕跡だった。
「それと、演者の一人だった佐久間凛音は、事件後に劇団を退団。現在、消息不明です」
玲の視線がぴたりと止まる。
朱音は凛音の名前を聞いた瞬間、スケッチブックを胸に抱え、まるでそこに描いた“見えない何か”を確かめるようにぎゅっと指を握った。
「……りおん、さんって……どうしていなくなっちゃったの?」
幼い問いは、しかし核心を刺していた。
御子柴は息を一度ゆっくりと吐き、説明を続けた。
「退団理由は“家庭の事情”とされていますが、連絡が途絶えたのは事件の翌日です。
さらに彼女は舞台『影法師』の第二幕で――“仮面の告白者”を演じる予定だった」
玲の眉がかすかに動いた。
その役どころは、劇中で唯一、真相を語る者。
「……彼女は何かを知っていた可能性が高い」
玲は低く言った。
御子柴が画面を切り替える。
そこには新たなファイルが開かれていた。
──《舞台装置事故調査・外部専門家》
【記録工学スペシャリスト:鏡原慎】
「鏡原慎。舞台構造の事故解析を専門にしている人物です。
劇場側の依頼で“非公式に”調査していた形跡があります」
玲の瞳がわずかに鋭くなる。
「……その男は、今どこに?」
「連絡がつきません。最後に残されたログは“三日前の深夜、緞帳裏の制御室付近”でした」
御子柴の声に、静かな緊張が走った。
朱音は、不安な気配を感じたように玲の袖をそっと引いた。
「れいさん……あのね、さっきの部屋でね……“見たことある顔”の人が、泣いてたの」
玲はその言葉に一瞬だけ考え、朱音の頭に手を置いた。
「朱音。あとで詳しく聞かせてくれ」
御子柴が小さく頷く。
「凛音の失踪、榊の死、そして鏡原慎の影。
全部、“影法師”の第二幕と一致します。
――『真実を告げる者が消える』という筋書きと」
仮設事務室の空気は、春の終わりの寒気のようにひやりと沈んだ。
玲は静かに立ち上がり、ホールの奥――薄暗い舞台方向へと歩き出した。
「……次に消えるのは、誰だ」
朱音もスケッチブックを抱えてその後を追った。
舞台はすでに、第三の幕を開こうとしていた。
【場所】旧・霧ヶ峰アートホール劇団寮跡
【時間】翌日・午後二時過ぎ
風が抜けた。
朽ちた木造建物の廊下が、ギシリ、と応えるように軋む。
正面の階段下で立ち止まった玲は、足元の埃の層を見て短く言った。
「……人が出入りした痕跡は、最近でもあるな。」
御子柴が懐中ライトを点け、壁の配電盤へ向ける。
「電源は死んでいます。ここ数日は間違いなく無人……ですが」
ライトが照らした床に、ひときわ鮮明な“靴跡”が並んでいた。
「昨日の雪が付着した形。劇団の誰かが最近入っている可能性が高いです。」
朱音は大きめのマフラーに顔を埋めながら、玲の後ろでそっと囁いた。
「……さっきから、音がする……上の部屋のほう……」
玲が目線だけで御子柴へ合図を送る。
三人は、薄暗い階段をひと段ずつ静かに上がっていった。
二階の奥――
木製の扉に貼られた紙が、わずかに風で揺れている。
《岩井 貴志 個室》
御子柴が息を整えながら、低い声で報告する。
「岩井貴志……“影法師”の演出補佐。
当時の記録では、幻の第二幕を“まっさきに問題視していた人物”です。
凛音との衝突も数回あったと聞いています。」
玲はドアノブに手を伸ばす。
冷たさが指先に染みる。
――カチリ。
鍵は、かかっていなかった。
扉をゆっくりと押し開ける。
埃の匂い。
古い木材の香り。
そして、室内には――
誰かが“つい最近まで”いた痕跡が、生々しく残っていた。
机の上には、折れた鉛筆。
開きっぱなしのノートには、乱れた走り書きが残されている。
《影法師 第二幕 本来の意図
――演者の影が消えるとき、真実が露わになる
凛音……なぜ、あの日……》
朱音がノートの端を指先で触れ、かすれた声で言った。
「……りおん、って……あの人の名前?」
御子柴が静かに頷く。
「ええ。消息不明になった演者――佐久間凛音。
“彼女だけが本当の結末を知っていた”という噂もあります。」
玲は室内を見渡し、窓の下に積まれた段ボールへ歩み寄った。
中には、もう使われない舞台装置の模型。
だが、その上に――
ひときわ新しい紙片が置かれていた。
玲が拾い上げる。
印刷された一枚のフライヤー。
《影法師 再演企画案
特別出演:佐久間凛音(予定)》
御子柴が息をのむ。
「……再演? 予定……?
凛音は行方不明のはずなのに……誰が、こんなものを?」
玲は紙を軽く折り、沈んだ声で言った。
「少なくとも――
“彼女はまだ舞台に立つつもり”で消えたわけじゃない。」
朱音が、小さく手を上げた。
「……ねえ、玲さん。
ここ、さっきの足音……まだいる気がする。」
その瞬間。
廊下の奥で、
コトン――と、確かに何かが落ちる音がした。
御子柴が緊張に目を細める。
「誰か、まだ寮内に……!?」
玲は即座に階段側へ向き直り、短く囁いた。
「朱音、後ろに。」
二階の薄闇が、静かに息を潜める。
“岩井貴志の部屋”が開かれたことで、
またひとつ――舞台の裏側が動き始めた。
次に姿を現すのは、
失われた演者か。
それとも、
“影法師”を操る黒幕か。
【場所】霧ヶ峰アートホール・裏口搬入口
【時間】翌日・午後四時過ぎ
白い霧は、地面から立ち上るように濃かった。
玲が歩を進めるたび、靴が湿ったコンクリートを静かに叩く。
横で御子柴がライトを少し傾け、足元のレール状の跡を照らした。
「……見てください。舞台装置で使う移動車輪の“逆向き”の痕。荷物の搬入じゃありません。誰かが夜間にここを通って、装置の一部を持ち出しています」
玲は膝を折り、霧の中に浮かび上がった痕跡に指先を当てた。
「重さは……相当だな。普通のスタッフじゃ扱えない」
霧の奥、搬入シャッター脇の影から声がした。
「――その通りだ。装置の一部を外して運ぶには、専門の訓練が必要になる」
振り向くと、細身のスーツ姿の男が立っていた。
白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、胸元には“安全工学研究所”の識別証。
舞台技術の事故鑑定を専門とする、
**舞台災害アナリスト・城戸**だった。
城戸はシャッターのレールを手袋越しに触れ、静かに言う。
「榊さんの死亡現場。あれは落下事故に見せかけた“吊り装置の偏荷重操作”だ。
素人にはできない。演者よりも、装置の癖を知り尽くした者の仕業だよ」
御子柴が小さく息を飲む。
朱音は少し後ろで、手にしたスケッチブックを胸に抱きしめた。
「……その、偏荷重って……」
朱音の小さな声に、城戸が目線を落として優しく説明する。
「本来、左右の力が均等にかかっていないと、吊り物は安全に動かないんだ。
でも、どちらか片方に“わざと重さを仕込む”と、ある瞬間で――」
「――制御を失う」
玲が言葉をつなぐ。
城戸が頷いた。
「そう。榊さんが通ったタイミングを、犯人は狙った。
舞台裏の構造を知る者が、綿密に計算して仕掛けた“殺害”だ」
霧が、三人の周囲をゆっくりと流れた。
その白い揺らぎの奥で、搬入口につながる古いスロープがかすかに浮かぶ。
朱音がその方向を見つめて、ぽつりと言った。
「……ここ、絵で見た場所と、同じ」
玲は目を細めた。
「朱音。何が見えた?」
少女はそっとスケッチブックを開く。
そこには――
霧の中を歩く“仮面の影”が描かれていた。
舞台の役者ではない、もっと硬質で、冷たい気配をまとった影。
御子柴が息を呑む。
城戸は眉をひそめ、霧の奥を見つめた。
「……まるで、“見られたくなかった者”がいるようだな」
玲は立ち上がり、搬入口の闇に視線を向けた。
「二件目が終わった――
だが、これはまだ“舞台の途中”だ。
犯人は終幕を自分で決めようとしている」
霧の向こうで、何かが微かに動いた気がした。
誰も声を上げなかったが、全員が確信する。
――まだ、このホールには“観客”がいる。
誰よりも舞台を憎み、
そして誰よりも舞台に執着している者が。
【場所】霧ヶ峰アートホール・大道具室
【時間】午後3時42分
鉄の扉が閉じ、外の霧がすっと引いていく。
玲は懐中電灯を掲げ、埃の匂いの濃い空間を静かに見渡した。
「……ここだけ、妙に空気が重いな」
御子柴がぼそりとつぶやく。
彼は記憶分析のスペシャリストだが、舞台建築に関しても一定以上の知識を持つ。その視線は、ただの物置では終わらない“違和感”を敏感に拾っていた。
朱音は玲のコートの裾をそっと握り、目を細める。
「……なんか、ここ、息してないみたい」
「朱音、俺から離れるな」
玲が低く言って前を歩く。
裸電球が揺れるたび、壁にかけられた背景板が黒い影を落とし、まるで誰かが潜んでいるように錯覚させる。
その奥――
きしむような金属音が、ひとつ。
御子柴が立ち止まり、眉を潜めた。
「玲さん。……ここ、床が“改修されてる”。数年前の工事だが、理由がない」
「理由?」玲は振り返らず聞く。
「このホールは老朽化しているのに、なぜかこの部屋だけ補強が入っているんですよ。しかも……」
彼は指で床をトントンと叩き、位置をずらしてもう一度叩いた。
「……中が空洞です。地下収納か、隠しピットの可能性が高い」
「隠しピット……?」朱音が不安げに顔を上げる。
「舞台装置管理の旧式ホールでは稀にある。“危険物の収納”“秘密の修練場”“不正な仕掛けの隠蔽”……理由はいろいろだ」
御子柴の声は淡々としていたが、内容は十分に不穏だった。
玲は懐中電灯の光を狭い通路の奥に滑らせた。
「――御子柴、もうひとつ気づいてるな?」
「ええ。劇団員やスタッフでは扱えない“専門の仕掛け人”がここを使っていた形跡があります」
御子柴は一枚の古い装置図面を手に取る。埃を払うと、端に細い黒インクのサインが浮かび上がった。
《舞台機構補佐:影山》
「……“影山”?」玲が名を繰り返す。
御子柴は冷静に続ける。
「舞台裏の事故操作……照明転倒……緞帳落下……
全部、“影の機構師”と呼ばれる専門家の仕事と一致する。
一般スタッフではまず不可能です」
朱音が小さく息を飲んだ。
「じゃあ……榊さんを殺したのも……?」
「舞台の構造と癖を知り尽くした人物の線が濃い」
玲の声は氷のように鋭い。
「その人物が、まだこのホールのどこかに潜んでいる可能性がある」
裸電球が急に揺れた。
風ではない。誰かが通路の奥で動いた気配――。
朱音が玲の腕をぎゅっと握る。
その瞬間、奥の暗がりで“何か”がすっと隠れた。
御子柴が息を呑む。
「……玲さん。誰かいます」
玲は懐中電灯を構え、ほとんど無音で言った。
「――逃げ跡だ。追うぞ」
そして三人は、影が消えた通路の奥へと踏み込んだ。
舞台裏の闇は、まるで観客のように息を潜め、彼らを見つめていた。
【場所】大道具室・奥の資材置き場
【時間】午後四時過ぎ・外は濃霧
御子柴の声が、薄暗い鉄骨の影に吸い込まれた。
「……つまり、“鍵を持っていた者”が、最初に狙われた可能性が高い」
紙面に書かれた《第三幕:仮面が仮面を殺す》という文字が、裸電球の揺れでかすかに震えた。
朱音は玲の背に隠れるようにしながら、黙って足元を見つめている。
散乱した木枠、欠けた背景板、ロープの切れ端……
その中に、朱音の視線がある一点で止まった。
「……あれ、なんか……赤い、よ」
玲が朱音の指差す先へ目を向ける。
古い背景幕の裏側、誰も触れた様子のない埃の層を破るようにして、小さな赤い布切れが引っかかっていた。
御子柴が手袋をはめ直し、それを慎重に摘み上げる。
「……衣装の破片だ。『影法師』の仮面役が着ていた赤い外套の……」
言いかけた瞬間、彼の表情が一段階深く沈んだ。
「待て。寺崎は“その衣装を修復していた”と証言していたはずだ。つまりこれ……寺崎が接触した人物のものではなく、“寺崎に近づいた方”が落とした可能性が高い」
玲が低い声で言った。
「犯人は、衣装を持っていた。いや、むしろ——“犯人自身が仮面役だった”と考えた方がいい」
裸電球が揺れる。影が、三人の足元で奇妙に伸びる。
その時、資材棚の裏で——コトッ、と小さな音がした。
朱音が肩を跳ねさせる。
「……いま、なんか、動いた……」
玲は一歩前に出て、棚の隙間に懐中電灯を差し込む。
光が照らし出したのは、古びた舞台照明の調整レバー……ではなく、
ひっそりと置かれた一本の台本だった。
御子柴が息を呑む。
「これは……未公開の“第三区分”台本……! 本当に存在したのか……」
表紙には、確かに書かれていた。
《影法師 第三幕(演出メモ・極秘扱い)
——牧原伊吹 私的注記》
玲は台本を開くと、最後のページへ滑らせるように指を動かした。
そして、声を低く落とした。
「……ここに書いてある。“第三幕で仮面を殺すのは——仮面本人ではない”。
“真実を隠すため、二番目の仮面が現れる”……」
御子柴の目が見開かれる。
「つまり……犯人は“入れ替わり”を利用していた……?」
玲は奥の闇へ視線を向けた。
「二つの仮面。一つは舞台のため。
もう一つは——人を殺すため。」
朱音が小さく、震えた声で尋ねた。
「……じゃあ……“まねっこさん”が、二人、いたってこと……?」
玲は、ゆっくりとうなずいた。
「犯人は一人ではない。最低でも——二名。
“仮面をかぶった影法師”を演じられる者が、劇団の中に。」
その瞬間、大道具室の奥の鉄骨が、ギィ……と音を立てて揺れた。
まるで——“第三の影”が、すでにこちらを見ているように。
【場所】旧衣装保管庫
【時間】午後三時三二分
旧衣装保管庫の鉄製扉が、静かに軋む音を立てて開いた。
湿った空気が漂い、古い布の匂いと染みついた汗の匂いが混じる狭い空間に、玲が一人で立っていた。
視界に薄暗い棚が並ぶ。色褪せたドレス、仮面、役者名の消えかけたタグ──どれも長く忘れられていた物たちだった。
ひとつだけ、棚の中央に不自然なスペースが空いている。
「……ここだけ、最近“誰かが触った”跡がある」
玲はしゃがみ込み、床に残った繊細な擦過痕を指先でたどった。
その爪跡のような微細な線は、素人では絶対に残せない角度でついている。
「確認しようか」
低い声が背後から返ってきた。
入ってきたのは、舞台装置痕跡の解析を専門とするスペシャリスト──
舞台機構工学鑑定士・嶺木蒼真。
黒い作業手袋をはめ、銀色の小型ライトを取り出すと、棚の隙間に光を滑らせた。
「……やはり。ここの“重心”が変わっている。衣装の位置ずれじゃ説明できない。……なにか“細長いもの”を抜き取った形跡がありますね」
玲は目を細める。
「細長いもの……仮面か、あるいは……」
嶺木は、床の埃を小型ブラシで払いながら言った。
「仮面にしては軽すぎる。もっと重量があったはずです。たとえば──舞台用の刺突小道具。刃のように見えて実は内部が“空洞”で、細工を仕込めるタイプの……」
玲の表情がわずかに動いた。
「……つまり、凛音が消えた理由とも繋がるかもしれない。
『影法師』第三幕──“仮面が仮面を殺す”。劇中小道具が、本物にすり替えられていた可能性もある」
嶺木は棚の裏に手を伸ばし、ほとんど見えないほど薄い“金属片”を摘まみ上げた。
「……取手の破片ですね。最近折れた。誰かが急いで持ち出したんだ」
玲はその光を見つめ、静かに呟いた。
「ここにも、まだ“観客がいる”らしいな。
──幕が閉じていない」
薄暗い旧衣装保管庫の奥で、吊られた仮面が微かに揺れた。
まるで、これから始まる惨劇を知っているかのように。
【場所】霧ヶ峰アートホール舞台裏舞台装置室
【時間】深夜
金属のパイプが組まれた複雑な装置群の奥で、懐中電灯の明かりが机上の書類を照らす。
玲は慎重に指先で台本の破れたページをめくる。文字は鉛筆で追記され、かつての演出の意図や小道具の使い方が細かく記されていた。
「ここに、未発表の演出変更の痕跡があります。舞台装置の動かし方から、事故が意図的だったことも読み取れます」
御子柴が立ったまま、装置の構造図を広げて説明する。手元のペンライトが指し示す先には、隠しレバーやワイヤーの仕掛けが微かに光を反射していた。
「台本と装置、両方に仕掛けの痕跡がある。つまり、この装置を操作できる人間だけが事故を起こせる」
玲は低くうなずき、書類の端に書かれた小さな文字を指でなぞる。そこには「第三幕、仮面が仮面を殺す」の手書きの追記があった。
「未発表台本のこの部分……持っていたのは、やはり寺崎那央だけだった可能性が高い」
御子柴の声には、確信と警戒が混じる。彼らは、舞台装置と演出台本が、次の犠牲を呼ぶ鍵であることを直感していた。
背後で、懐中電灯の光が揺れるたび、装置の金属がかすかに軋む音を立てる。その音は、まるで舞台が彼らに何かを囁いているかのようだった。
【場所】霧ヶ峰アートホール旧衣装保管庫
【時間】深夜
埃を被った衣装棚の隙間から、冷たい空気が床に沿って流れる。古いドレスやケープがわずかに揺れるたび、金属の擦れる低い響きが混ざった。
「この音……ただの風じゃない。舞台装置に連動している何かが動いている」
御子柴が懐中電灯で棚の奥を照らす。光に反射して、小さな金具やフックが微かに光を返す。
「装置の仕組みを知っている者だけが、この奥まで侵入できる。誰かが意図的に動かしている可能性が高い」
玲は低くつぶやき、棚の端に手を置く。古い衣装の下に隠されていた小さなレバーが、ほこりをかぶりながらも静かに露出していた。
「ここに、事故の仕掛けが残されていたんだ……」
御子柴が装置図と照合しながら指でなぞる。舞台の安全確認用に残された記録には存在しない、隠された操作の痕跡が明らかになる。
その瞬間、奥から微かな金属音が再び響き、二人は息をひそめた。衣装棚の影に潜む“次の動き”を警戒しながら、慎重に進むしかなかった。
【場所】霧ヶ峰アートホール舞台装置室
【時間】深夜
錆びた鉄扉が開くと、冷たい空気が体を刺した。薄暗い室内には、散乱した機材や破れた緞帳が転がっている。床に落ちた埃が、懐中電灯の光に微かに反射する。
制御卓の前に立つ人物が、白い能面のような仮面をつけていた。全身を黒い装束で包み、動きは慎重すぎるほど静かだ。息づかいは微かに聞こえ、緊張が姿勢から滲んでいる。
「……この動き方、舞台装置を熟知していないとできない」
御子柴が低くつぶやく。手元の図面と現場を照合すると、装置の可動部には既に仕掛けが施されていたことがわかる。
「狙いは事故に見せかけること……だが、意図が透けて見える部分がある」
玲は冷静に観察を続け、仮面の人物の位置と動線を頭の中で再構築する。
「ここまで精密に仕組むには、舞台監督か大道具班の知識が必要だ。外部の者では不可能……」
御子柴が手元のノートにメモを取りながら言った。仮面の人物が操作卓に手を伸ばす瞬間、床の振動や金属の軋みで、痕跡が残されていることを二人は見逃さなかった。
冷気に包まれた空間の中、暗闇の奥に潜む次の動きを見極めるべく、二人は息をひそめて観察を続けた。
【場所】霧ヶ峰アートホール舞台装置室
【時間】深夜
「10年前、主演候補の沢田鞠絵が消えた。それでも演目を上演しようとした演出家は、事故に見せかけて“幕”を降ろさせた。俺たちはその時……何もできなかった」
御子柴の声は低く、冷たい空気に溶け込むように響いた。手元の資料を指先で押さえ、視線は制御卓の影に潜む仮面の人物に向けられている。
「誰も……止められなかったんだ……」
玲はその言葉を反芻しながら、床に散らばる装置の残骸と、過去の図面を重ね合わせて観察していた。
仮面の人物は微動だにせず、操作卓の前で手を止め、黒装束の影の中で微かに揺れている。
「これも、同じ手口か……」
二人は顔を見合わせ、長年の舞台事故と事件の繋がりを静かに理解した。
深夜の舞台装置室には、過去の悲劇と現在の危険が重なり合う緊張が、冷たい空気と共に漂っていた。
【場所】霧ヶ峰アートホール舞台装置室
【時間】深夜
男はゆっくりと仮面を外した。その顔は長年の緊張と恐怖に彩られ、そしてどこか冷静さを失っていた。現れたのは、過去の裏方として記録に残っていた名――新田翔吾。現在は別の名でホールのスタッフとして関わっていた人物だった。
「……誰にも、分からないと思った」
翔吾の声は震えていたが、どこか開き直った響きも混じっていた。
朱音は手をスケッチブックから離し、静かに視線を向ける。「でも……あなたのやったことは“演出”じゃない。“殺人”です」
玲は翔吾の動きを見据え、低くつぶやいた。「舞台の構造を知り尽くしていた者だからこそ、事故に見せかけられた……だが、痕跡は必ず残る」
御子柴は資料を押さえ、冷静に分析を続ける。「記録と現場の矛盾点、すべてこの男に繋がる。ここまで来るのに、随分と時間がかかったな……」
舞台装置室の冷気は、過去の罪と現在の決着が交錯する重みでさらに凍りついたようだった。
【場所】霧ヶ峰アートホール上手空中通路
【時間】公演前夜
舞台上空、観客席からは見えない“黒の領域”――上手側の空中通路に、三人が潜んでいた。高さはおよそ七メートル。手すりの鉄枠は古く、汗ばんだ手に冷たく感じられる。
「ここからじゃ、舞台装置の全体が見渡せる」
玲の声は低く、確信に満ちていた。狭い通路の端で身をかがめ、視線を装置に向ける。
朱音は小さなスケッチブックを膝に抱え、鉛筆で影の形を描き込む。「この角度からなら、どの隙間に仕掛けがあるか、全部見えるはず……」
御子柴は双眼鏡を取り出し、装置の可動部を細かく観察する。「第一幕の設計図と比べると、微妙に改変されている部分がある。つまり、誰かが操作のタイミングをずらして……」
空中通路の鉄板は古く、わずかに軋む。三人は互いの存在を意識しつつも、呼吸を抑え、翔吾の動きが露見する瞬間を待っていた。
「さすがに、元裏方の技術だ……普通じゃここまで精密な操作は無理だな」
御子柴の声に、玲は短くうなずいた。
静寂の中、舞台装置の影に潜む危険と、それを見抜こうとする三人の知恵が、夜の黒に溶けていった。
【場所】霧ヶ峰アートホール上手空中通路
【時間】公演前夜
通路の向こう、ひとつの影が動いた。
ギィ――という金属の軋み。空中ワイヤーを手繰りながら、ゆっくりと舞台上へ接近してくる人影。
「……あれは翔吾だ」
御子柴の声は低く、通路に響かないように抑えられていた。手元の双眼鏡で、仮面の下に隠された顔を確認する。
「演出補佐としての動きと違う……これは明らかに舞台装置を“使った仕掛け”だ」
玲は目を細め、影の動きを追う。経験則で、この人物が狙っているのは舞台上のどこかの可動部であると判断できた。
朱音はスケッチブックを膝に抱え、影の軌跡を素早く線でなぞる。「ここから見ると、ワイヤーのテンションが微妙に変わってる……誰かが意図的に調整している」
「間違いない、熟練の技術者だ」
御子柴は低くうなずく。空中通路に設置された古い金属製手すりやワイヤーの揺れから、相手の体重移動や操作手順まで読み取っていた。
三人は息を潜め、影が仕掛けを完成させる瞬間を見守る。冷たい空気の中、舞台と通路を結ぶ“技術の暗闇”に、観察者としての知識と経験が研ぎ澄まされていった。
【場所】霧ヶ峰アートホール旧衣装保管庫
【時間】公演前夜
玲が駆け込んだ旧衣装保管庫は、すでに劇場の設計図には記されていない“死角”だった。埃にまみれたトルソーたちが、不気味に沈黙する空間に立ち尽くしている。
御子柴が懐中電灯で棚の隙間を照らしながら言った。
「ここは……誰も使わないはずの場所だ。装置やワイヤーの配置も、この空間を利用することで舞台上では想定外の動きを生むことができる」
朱音はスケッチブックを膝に置き、影とトルソーの配置を見比べながらつぶやいた。
「なるほど……影法師の“幻の動き”の一部は、この死角から操作されていた可能性があるのね」
御子柴は古い設計図を覗き込み、低く言った。
「ワイヤーや滑車の仕組みを熟知していないと、この空間をこんな風に使いこなすことはできない」
玲は壁に沿って進み、棚の奥にある小型制御盤に手をかけた。
「もしここからワイヤーを操作したとしたら……舞台上での“事故”は完全に計算されたものだ」
三人は息を潜め、旧衣装保管庫という“死角”の中で、影法師の正体と仕掛けの全貌を見極めるべく慎重に確認を進めていた。
【場所】霧ヶ峰アートホール舞台制御室
【時間】深夜、公演前日
制御室の扉がゆっくりと軋みを立てて開いた。中には、埃の積もった制御盤と古い配線、そして薄暗く沈む部屋の空気が広がっていた。
御子柴が懐中電灯を手に、扉の影から静かに声をかけた。
「ここは舞台装置全体の操作が可能な場所だ。誰でも扱えるわけではない。熟練の技術が必要になる」
朱音は棚の奥に視線を向けながら、スケッチブックに手を伸ばした。
「こんなところ、普段は誰も入れないんだ……だから“影法師”はここを利用していたのね」
玲は制御盤に近づき、指先でスイッチやレバーを確認する。
「ワイヤーの張力、滑車の動き……ここから舞台全体を微調整できる。もし誰かが計画的に操作していたなら、事故は完全に仕組まれたものだ」
御子柴は古い図面を広げ、部屋全体の構造を朱音と玲に説明した。
「ここを理解していれば、舞台の死角を利用して観客や他のスタッフには気づかれずに装置を動かせる。しかも微細な操作で人の動きを誘導することも可能だ」
三人は息を潜め、制御室という“舞台裏の核”で、事件の仕組みと影法師の手口を慎重に検証していた。
【場所】霧ヶ峰アートホール裏口搬入口
【時間】早朝、夜明け前
夜の帳が完全に明けきらない薄明かりの中、搬入口前の冷たい空気が肌を刺す。湿った土と鉄製の扉の匂いが混じり、遠くからは霧に覆われた山影がぼんやりと浮かんでいた。
御子柴が図面を広げながら声を潜める。
「ここが、事件当日、物資搬入用に使われていた裏口だ。通常はスタッフしか立ち入らない場所だが、死角が多く、ここから舞台裏全体にアクセスできる」
朱音は懐中電灯の光で地面を照らし、足元の小さな凹凸を確認する。
「足跡や荷物の運搬痕が、わずかに残ってる……誰かが意図的に通ったのが分かる」
玲は扉の金属枠に手をかけ、低く呟く。
「ここを知っていれば、舞台装置の死角を使って誰にも気づかれずに操作することができる。しかも、現場検証だけではその痕跡を簡単には見つけられない」
御子柴が視線を上げ、朱音と玲を交互に見る。
「この搬入口の位置、通路の長さ、照明の死角……ここを熟知した人物でなければ、影法師のような精密な仕掛けは作れない。私の専門分野で言えば、完全に“計画された現場”だ」
三人は早朝の冷気に包まれながら、舞台裏の搬入口が持つ意味と、影法師が利用した可能性を慎重に分析していた。
【場所】東京郊外ロッジ・リビング
【時間】午後遅く、秋
暖炉の前、朱音はスケッチブックに向かい、舞台の緻密な構造を描いていた。
木製の床、金属のワイヤー、古びた緞帳の滑車――事件で歪んだ箇所や、仮面の人物が操作した痕跡を指先でなぞるように描き込む。
朱音の小さな指先がペンを止め、息をついた。
「……ここ、こんな風に動いたんだよね」
玲はソファに腰かけ、事件現場の写真と舞台図を照らし合わせる。
「よく見ていたな……細かいところまで」
たまきは湯気の立つ茶碗を手に取り、朱音の描いた線を静かに覗き込む。
「舞台の隅々まで、あなたの目で確認したのね」
朱音はスケッチブックを抱き寄せ、少し誇らしげに微笑む。
「怖かったけど……全部描かないと、分からなくなっちゃう気がしたの」
玲は静かに窓の外を見つめ、落ち着いた声で言った。
「……これで、誰がどこで、何をしたか、すべて整理できた」
たまきも窓の外の揺れる木々を見つめ、柔らかく頷いた。
「知ることで、心は少しだけ軽くなる。それが大事なのよ」
朱音はスケッチを一度見返し、舞台上で起きた事件の緊張を思い返す。
緞帳が降り、ワイヤーが引かれ、仮面の人物が一瞬だけ姿を現した──あの瞬間の感覚が、手のひらに残っているようだった。
リビングに漂う静かな時間の中で、三人は事件の余韻をそっと受け止めた。
外の風も、ただ穏やかに秋の空気を運び、舞台の緊張は朱音の描く線の中に、静かに閉じ込められていた。
【場所】東京郊外ロッジ・リビング
【時間】午後遅く、秋
朱音はスケッチブックを膝に置き、鉛筆を握ったまま静かに息をつく。
ページには舞台装置の精密な構造が描き込まれている。金属ワイヤーの交差、緞帳滑車の配置、舞台奥の死角――事件で動いた箇所や、不可解な力が加わった痕跡も忠実に線として残されていた。
「……ここが、あのときの隙間……」
朱音は低く呟きながら、ペン先でワイヤーと滑車の連動部分をなぞる。指先にわずかな震えが残る。
隣に座る玲が、静かにスケッチを覗き込み、眉をひそめた。
「よく観察していたな。危険だったろう」
朱音は肩をすくめて微笑む。
「でも……全部描かないと、どう動いたのか、分からなくなっちゃう気がしたの」
たまきがそっと手を置き、朱音のスケッチを覗き込む。
「この線の一つ一つが、舞台上で起きた出来事の証拠になっているのね」
朱音はページをめくり、舞台中央の可動装置に目を留める。
「ここ……仮面の人が操作したんだよね。ほんの一瞬、ここがずれたの……」
彼女の指先は、装置がわずかに傾いた痕跡を描き出す。緊張の瞬間が紙の上に甦る。
玲は視線を窓の外に移す。落ち葉が静かに舞う庭を眺めながら、低い声で言った。
「……これで、誰が何をしたか、すべて整理できた」
たまきも頷き、揺れる薪ストーブの炎を見つめる。
「知ることで、心は少し軽くなる。それが大事なのよ」
朱音はもう一度スケッチを見返し、舞台上での緊張を思い出す。
緞帳が降り、ワイヤーがきしみ、仮面の人物が姿を現した瞬間の感覚が、手のひらに残っているようだった。
再び、ロッジには静寂が戻る。
窓の外の風も止み、木々は揺れを静める。
だが、事件の痕跡は朱音の描いた線の中に、そっと閉じ込められたままだった。
【場所】久岬村・古い資料館・壁画の間
【時間】午後、日差しが高窓から差し込む頃
壁画の前に立つ朱音は、手元のスケッチブックに目を落としながら、慎重に鉛筆を走らせていた。色褪せた人物や建物の輪郭をなぞり、記憶の断片を線に重ねる。
「……ここも、あの時のままなのね」
小さな声でつぶやく。
隣には、静かに彼女を見守る玲とたまきがいた。
「朱音、無理はするなよ」
玲が言うと、朱音はふっと肩をすくめ、にっこりと微笑む。
「大丈夫。描いておきたいだけ……」
たまきは、古い壁画の色彩を指でなぞるように見つめながら、静かに補足する。
「記録として残すのは大切だけれど、朱音には自分の目で見て、感じたままを描いてほしい」
窓から差し込む光に、壁画の埃と朱音の鉛筆の粉が揺らめき、静かな時間がゆっくりと流れる。
「……描き終わったら、またみんなに見せてあげよう」
朱音の小さな声が、午後の穏やかな資料館の空気に溶けていった。
【場所】志賀高原・地域ホール舞台袖
【時間】開演まであと一時間、夕方の柔らかい光
灯りの届かぬ暗がりに、舞台監督の補佐を務める岩井貴志はひとり立っていた。手には再確認用の台本と舞台図面。
「……もう、あんな悲劇は繰り返させない」
肩越しに舞台を見下ろすと、役者やスタッフが慌ただしく動いている。岩井の胸には緊張が残るが、目は確かな決意に満ちていた。
「舞台を守るのは、俺の役目だ」
深呼吸をひとつ。過去の事件を思い返すが、今はその経験を生かす時。舞台袖に立つ彼の影が、夕陽に長く伸び、静かに刻まれる。
やがてホール正面から観客のざわめきが聞こえ始める。岩井は台本を胸に押し当て、短く頷いた。
「準備は整った……後は、幕が開くのを待つだけだ」
冷たい空気の中、舞台袖で彼は静かに息を整える。緊張と決意が入り混じる中、ホール全体に漂う期待の空気を感じながら。
【場所】研究棟・窓辺
【時間】冬の手前の午後
窓際の机に腰を下ろし、朱音はスケッチブックを開いた。鉛筆の先をそっと紙に触れさせると、静かに線が走る。外の冷たい風が吹き込むたび、窓に積もった葉がかさりと音を立てた。
「……もう、あの頃みたいに、怖い夢は見ないかな」
隣には、資料を整理する玲の姿がある。指先で古い書類をめくるたび、過去の事件の痕跡がわずかに匂い立つように感じられる。
「朱音、焦らなくていい。線を引くたびに、真実は近づくから」
机の向こうでは、服部たまきが静かに書架を整理している。長い年月を経て残った記録を、一冊ずつ丁寧に確認しているその手には、落ち着いた確信が宿っていた。
朱音は小さく息を吐き、鉛筆を握り直す。目の前のスケッチには、今回の事件で動かされた舞台装置や、微かな痕跡が丁寧に描かれていた。緊張感は消えず、線の一本一本に過去の影が残っている。
「……でも、これで終わりじゃない。まだ、描き残したものがある」
外の風が、銀杏の葉をひらりと舞わせ、窓辺の静けさに小さな音を添える。陽射しは変わらず穏やかで、朱音の手元のスケッチブックを柔らかく照らしていた。
【場所】国立近代美術館・廊下
【時間】午後
廊下の奥で、御子柴は手に持ったファイルを軽く揺らしながら歩いていた。展示室の扉の向こうからは、微かな絵筆の動く音や、来館者のささやきがかすかに漏れ聞こえる。
「ここで……あの資料を確認すれば、事件の記録も整理できるはずだ」
静かな空間に、自分の足音だけが返ってくる。光沢のある床面に反射する自分の姿を横目に、御子柴は慎重に歩を進める。
廊下の角を曲がると、展示室の片隅に朱音が立っていた。手にはスケッチブックを抱え、展示されている古典作品をじっと見つめている。
「御子柴さん……あのときのこと、まだ思い出すの……?」
「朱音、大丈夫だ。記録として整理するだけだ。過去を呼び戻すわけじゃない」
朱音は小さく頷き、スケッチブックに新しい線を引いた。その手元には、かつての舞台装置の細部や、微かな痕跡の描写が丁寧に残されている。緊張感はまだ消えていない。
廊下を吹き抜ける冷たい風が、展示室の扉の隙間からわずかに入る。御子柴は深く息を吐き、朱音の横で静かに作業を見守った。
「……でも、これで少しずつ、あの夜の真実に近づけるね」
朱音の声は小さく、しかし確かな意志を帯びていた。陽射しが差し込む美術館の廊下に、二人の影が長く伸びていた。
【場所】氷鏡湖畔・祠前
【時間】午前
薄氷が湖面に張り、風はほとんどない。水面には冬の光が淡く反射し、周囲の木々や石段の影が静かに揺れている。
服部たまきは、祠の前に置かれた小さな石灯籠を見下ろしたまま、ゆっくりと手を合わせた。手のひらに温かさはないが、その姿勢には、長年抱えた記憶の重みと、静かな決意がにじんでいる。
「……あの日から、ずいぶん時間が経ったな」
声は低く、風に吸い込まれるように消える。目の前の祠には、かつて封印された出来事の痕跡が、まだ薄く残っていた。小さな苔の隙間や、石段の微かな削れ、木の根が持ち上げた土の塊。たまきはそれらを、一つひとつ確かめるように指先で触れた。
「村は……何も忘れてはいない。ただ、知らないふりをしているだけだ」
辺りは静かで、湖面の揺らぎだけが、その言葉を受け止める。
たまきは小さく息を吐き、石灯籠の前に腰を下ろした。手元には、朱音の描いた湖畔のスケッチが置かれている。紙の上には、事件当時の舞台装置や人影の痕跡が、丁寧に線で記されていた。
「……これで、少しは整理できるかもしれないな」
湖面の光が、たまきの影を長く引き伸ばす。冬の湖畔に、静かな時間だけがゆっくりと流れていた。
物語の舞台は、華やかな光と影が入り混じる劇場でした。しかし、その舞台裏には、誰も想像しなかった緊張と恐怖が隠されていました。舞台装置の隙間、控室の暗がり、埃をかぶった衣装の陰――そこに潜む痕跡を、私たちは目を凝らして追いかけました。
事件は解決しましたが、真実のすべてを明かすことは容易ではありません。舞台は再び開き、日常は戻ってきます。しかし、忘れられた記録や目に見えない証拠は、静かに誰かを見守り続けているのです。
この物語を通して、読者の皆さんには「見えないものに目を向けることの大切さ」を少しでも感じていただけたら幸いです。事件の影は消えたかもしれませんが、探究心と観察の力は、いつの時代も人を導く灯となります。
そして何より、舞台の光が誰かを照らすように――小さな勇気や決意も、未来を変える力を持っているのです。
ありがとうございました。




