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73話 霧ヶ峰アートホール事件

「霧ヶ峰アートホール事件」登場人物一覧


■ 玲探偵事務所と協力者たち


神崎かんざき れい

29歳/男性/私立探偵

冷静沈着で現場主義。事件の核心に迫る分析力と観察眼を持つ。御子柴とは大学時代からの信頼関係がある。


佐々ささき 朱音あかね

10歳/女性/スケッチによる記録者

絵で記憶の断片を再現する能力に優れ、事件の“見えなかった真相”を可視化する。玲の現場調査に同行。


御子柴みこしば 理央りお

30歳前後/女性/舞台空間・記録分析の専門家

舞台美術と構造に精通し、事件の背景にある空間的トリックを見抜く。玲の信頼厚い右腕。


橘 奈々(たちばな なな)

20代/女性/情報分析担当

現場には出向かないが、照明記録や監視データなどの復元を担う。玲のチームの技術支援要員。


椎名しいな たまき

40代/女性/美術大学講師

事件後半で朱音のスケッチを分析し、美術と記憶の関係を研究対象とする。舞台芸術の記録保存にも携わる。


服部 たまき

60代/女性/久岬村在住の元教員

地域の祠と古い演目に通じる人物。玲と私的な文通を交わしており、過去の事件と土地の記憶を知る。



■ 事件関係者(10年前と現在の関係者)


高梨 ユウタ(たかなし ゆうた)

19歳/男性/舞台照明スタッフ

10年前に事故死した姉・詩帆の真相を追っていた。玲たちと接触し、証拠の断片を提供。朱音と心を通わせる。


高梨たかなし 詩帆しほ

享年21歳/女性/10年前の舞台主演女優

「仮面の演目」の主演を務めていたが、照明事故により死亡。その死が事件の出発点。


天野あまの つかさ

40代後半/男性/当時の演出助手

事故後、精神的に追い詰められ自殺。残された音声データが真相の鍵となる。


城戸きど しのぶ

50代/男性/劇場元プロデューサー

証拠隠滅と記録改ざんに深く関与。演出意図を歪め、事故を演出した可能性が高い。


古賀こが 千尋ちひろ

30代/女性/舞台美術助手(当時)

事故後に失踪。舞台装置の改変と照明設計に関与していた。現在も行方不明。



■ 補助的な関係者・証人


柊 コウキ(ひいらぎ こうき)

17歳/男性/当時の目撃者

事故当時、劇場の舞台下にいた少年。断片的な記憶が朱音のスケッチで呼び戻される。


佐々ささき 圭介けいすけ

50代/男性/朱音の父・元舞台関係者

舞台や表現に理解が深く、家族として朱音を支える存在。調査には同行しないが、回想で登場。



補足:事件概要(簡略)

•発生地:長野県・霧ヶ峰アートホール

•発端:10年前の舞台中の「照明事故」による死亡

•現在:同じ演目が再演されることをきっかけに調査再開

•真相:舞台構造と照明演出を利用した事故偽装、関係者の記録改ざんと証言操作

•解決:朱音のスケッチ、ユウタの証言、御子柴の構造解析、奈々のデータ復元によって真実が明るみに出た

【場所】長野県・霧ヶ峰アートホール・舞台裏 緞帳操作室


【時間】8月23日(木) 午前2時12分


 ホールの灯りはすでに落とされ、客席も舞台も、まるで誰の存在も許さぬような静寂に包まれていた。

 だが、舞台裏――その最奥、舞台装置を管理する“緞帳操作室”には、ひそやかな気配があった。


 鉄製の床の上を、誰かのブーツが踏む。

 金属が擦れる音。チェーンのきしみ。

 旧式の緞帳滑車の影に潜む人影は、ふと立ち止まった。懐中電灯の灯りを落とすと、手元のレバーをそっと確認する。


 直後、控室からやってきた青年――舞台監督助手・桐谷純一が、資料を抱えてドアを開けた。


「……誰か、いるのか? 照明チェックの確認票、持ってきたんだが……」

 純一の声が、不自然に響く。だが返事はない。彼は奥へと数歩、足を踏み入れる。


 すると――。

 突如、後ろから冷たい布が首元に巻き付けられた。驚きの声を上げる暇もなく、純一は壁に押しつけられる。


「……な、なんで……ッ!?」

 金属ワイヤのように強く、緞帳操作用の補助ロープが、容赦なく喉を締め上げる。

 力で抵抗しようとしたその手を、背後の人物は簡単にねじ伏せた。


「君が見つけたもの、捨てておけばよかったのに」

 その声は、感情の温度を感じさせない。

 仮面――半分だけを覆う、白いマスクが、わずかに灯りに照らされる。


「消えてもらうよ、“幕が開く前に”」


 ガクン、とロープが引かれた。

 足元の床が突如外され、支えを失った純一の身体が、緞帳昇降スペースの穴へと滑落する。


 重い肉の音。

 何メートルか下の鋼材に打ちつけられ、声は消えた。

 ロープを巻き戻しながら仮面の人物は、振り返りもせずに、静かに操作室を後にした。


 背後には、まだ誰にも気づかれていない“最初の犠牲”が、血の気を失ったまま横たわっていた。


 その数時間後。

 午前7時10分。


 舞台袖に差し込む朝の光はまだ弱く、ホール内は薄暗い影を多く残していた。

 朝の清掃と点検に来た舞台装置係の学生――高梨ユウタは、チェックリストを片手に、眠たげな顔で舞台裏の廊下を歩いていた。


「……緞帳の巻き戻し確認、っと……昨日の夜、誰かいじったのか?」


 不自然に動いたままの昇降チェーンに眉をひそめ、ユウタは緞帳操作室の扉に手をかけた。

 重たい音とともに開いた扉の奥からは、冷気と、微かな鉄の臭いが漂ってくる。


 その瞬間、彼の全身が硬直した。


 足元に落ちた紙片。

 異常に長く垂れ下がった補助ロープ。

 そして、レールの隙間――昇降機構の底で、仰向けに倒れた人影。


「え……?」

 ユウタの喉が乾いた音を立てた。


 確認のため、照明を点けようとする。しかしスイッチに触れる指が震えて定まらない。

 しばらくして、舞台下の照明が鈍く灯った。


 見えた。血の痕。頭部を打ち砕かれたような深い傷。衣服には工具の跡。

 その顔を――昨日の夜、すれ違ったはずの桐谷純一だと認識したとき、ユウタの声が震えながら空気を切り裂いた。


「――人が……! 死んでる……!!」


 声が舞台袖に響き、準備室にいた学生たちの足音が慌ただしく近づいてくる。

 ユウタは、呆然としたまま操作室の扉の外に座り込み、虚ろな目で見つめていた。


 冷たい朝の空気の中、

 新たな幕が、血と恐怖の下に、静かに上がろうとしていた。


プロローグ


【場所】東京都下・郊外ロッジ兼探偵事務所

【時間】8月25日(土) 午後3時21分


 カラン、と控えめなベルの音がロッジの玄関で揺れた。

 蝉の声が遠くに残る午後、窓から差す日差しは柔らかく、山の空気はわずかに秋の気配を含んでいた。


「お客様ですか?」


 階段の下から朱音の声がした。

 スケッチブックを抱えたまま玄関へ向かうと、先に出ていた助手の奈々が、扉の向こうに立つ青年と話していた。


 やや肩をすぼめ、神妙な顔で立っていたのは、一見して芸術系の学生と分かる風貌の青年だった。長めの前髪の下、気弱そうな瞳がこちらを見ている。


「……あの、玲さんという方に……調査をお願いしたくて」


 青年――高梨ユウタは、細い声でそう名乗った。

 手にした茶封筒には、角が少し折れた劇場のフライヤーと、簡易的な図面。裏面には、震える字で「助けてください」と書かれている。


 リビングでは、ソファに背を預けて書類を読んでいた男が目を上げた。

 神崎玲――無口で寡黙、都市部の事件を多く手がけてきた探偵。だが今は、東京郊外に構えた静かな事務所で、わずかな依頼だけを受けている。


 玲は茶封筒を手に取ると、無言で中身を確認し、目を細めた。


「……霧ヶ峰アートホール?」


 その名を聞いた瞬間、朱音の表情がわずかに曇る。彼女の持つスケッチブックには、数日前から、舞台らしき構造物の絵が無意識に描かれていたからだ。


「……殺人事件なんです。公演準備中に、スタッフが……首を折られて、緞帳の昇降装置の下敷きに……」

 ユウタの声はかすれ、手はわずかに震えていた。


「……わたし、あの劇場で、何かを見たんです」


 彼の言葉に、玲の目が一瞬鋭く光る。


 静かな午後の空気が、わずかに揺れた。


「朱音。準備を」

 玲は短く言うと、立ち上がった。

 かすかに、事件の匂いが――彼の嗅覚を刺激していた。


【場所】長野県・霧ヶ峰アートホール・正面ロビー


【時間】8月27日(月) 午前10時02分


 標高の高い空気は澄んでいて、肌を刺すような冷たさが残っていた。

 それは都会の湿気を含んだ残暑とはまったく異なり、まるで季節の境界線がこの山の上に引かれているかのようだった。


 木造の自動扉がゆっくり開き、玲と朱音が中に入る。

 ロビーは天井が高く、無駄に広い空間に古びた木の柱と石材の壁が交錯する。その中央には、大理石の台座と、どこか不気味な仮面を模した彫刻が鎮座していた。


 朱音は一歩踏み入れるなり、思わずスケッチブックを開きかけたが、玲の目線に気づいて手を止める。


「ここが……事件の現場?」


「第一発見は、あの緞帳操作室。舞台袖の真上だ」


 声の主は、依頼人の高梨ユウタ。

 灰色のパーカーに細身のジーンズ姿で、以前よりもやや痩せた印象を与える。

 彼はすでに現地入りしており、朝から現場の整理と事情説明の準備をしていた。


「現場保存は……完璧とは言えませんが、舞台装置にはまだ血痕が残っているはずです」

「遺体は……ここから台車で搬出されました」


 ユウタの声は平静を装っていたが、語尾が微かに震えていた。


「……この劇場、妙に音が響くな」

 玲はロビーを見回しながら呟いた。


 そのとき――。


「来たわね、東京の探偵さんたち」


 ロビー奥の楽屋口から現れたのは、赤いショールを羽織った女性だった。

 肩までの黒髪ときりりとした顔立ち、舞台経験者であることを感じさせる立ち姿。


「倉本千景。この劇場の管理責任者よ。今は文化振興会の委託で全体を見てる」


 彼女は玲に軽く会釈すると、朱音の方をじっと見つめる。


「……この子、鋭い目をしてるわね。芸術家?」


 朱音は少しだけ頷いた。「絵を、少し描いてます」


「ふうん……あの緞帳のあたりに何かを感じるなら、遠慮なく言ってちょうだい」

 千景は意味ありげに微笑んだ。


 そのすぐ後ろから、足音が小走りで近づいてくる。


「すみません、遅れました!」


 白衣姿の男性がバインダーを手に現れた。その目はすぐに玲を見つけると、ふっと表情を緩める。


「……おや、まさか君が来るとは。随分と久しぶりだな」


 玲もまた、ほんのわずかに目元を緩めた。


「御子柴理央。昔、大学の研究会で少しだけ世話になった」

 玲が朱音に向けて紹介すると、御子柴は苦笑しながら頷いた。


「“少しだけ”ねぇ……君がレポート提出期限を毎回すり抜けてたこと、いまだに忘れてないんだけど」


「過去の話だ」


「まったく……探偵になっても相変わらずの論理至上主義だな。でも、今回の事件ではそれが必要かもしれない」


 御子柴は持っていたバインダーを開き、厚手の紙束を玲に見せる。


「今回の舞台に関する照明図面や舞台装置の設計資料だ。けど、不思議なことがひとつあってね」


 彼は一枚の紙を朱音の方に差し出した。


「この照明配置……ここに来る前に、君が描いたスケッチに似ていないか?」


 朱音は紙を受け取り、目を見開く。


「……やっぱり。私……これ、夢で見たの。見たこともない舞台なのに、細部まで……」


「その“夢”が、この劇場の“幻の演目”と重なるのなら――」

 御子柴の声が少し低くなった。


「この事件は、ただの事故じゃない。

 “再演されなかったもの”が、形を変えて蘇ろうとしているのかもしれない」


 玲は静かに言った。


「なら、我々がやるべきことは一つだ。

 《脚本の続きを暴くこと》――犯人が書き換えた、その終幕まで」


【場所】霧ヶ峰アートホール・舞台裏照明室


【時間】8月27日(月) 午後1時15分


 朱音は静かに照明室の扉を開けた。


 ひんやりとした空気が、指先と頬を撫でる。

 午前中の陽光がまだ差していたロビーとは違い、ここには一切の外光が届かない。細長い室内に、壁沿いの配線パネルと古い照明機材がずらりと並んでいる。

 ほこりの匂いと、わずかに焦げたケーブルの臭い。それらが沈黙と一緒に積もっていた。


「……ここに入るの、初めてじゃない気がする」


 朱音がぽつりとつぶやいた。

 玲は扉の外に立ち、彼女の様子を見守っている。


 朱音はゆっくりとスケッチブックを開いた。

 数日前、自分の部屋で無意識のうちに描いていた一枚。

 そこには、三方を壁に囲まれた部屋のような空間と、天井から伸びる幾筋もの光――。その光の配置は、まるで舞台全体を覆う“目”のように描かれていた。


 スケッチを持つ手が震える。

 その絵に描かれた照明機材の配置と、今彼女の目の前にある部屋が――一致していた。


「……あのとき、私はここを……見てた?」


 スケッチの中には、部屋の中央にひとつだけ不自然に歪んだ“影”が描かれていた。

 まるで、そこに誰かが立っていたかのような、人影の残像。

 朱音はおそるおそる、実際の床の同じ位置を見下ろした。


 ――そこには、微かな擦れ跡が残っていた。

 靴のような、いや、もっと細くて鋭い……ヒールのような痕跡。


 彼女は唇を噛み、絵と現実を何度も見比べた。


「……この配置、誰かが意図的に作ったの?」


「“照明で人を誘導する”という演出手法は、舞台ではよく使われる」

 背後から玲の声がした。

 「誘導と視線のコントロール……犯人がそれを知っているなら、光そのものが“罠”になることもある」


 朱音は言葉なく頷く。

 舞台全体を俯瞰できるこの部屋で、誰かが“観客”として、すべてを見ていたとしたら――。


 そのとき、部屋の奥でふっと照明パネルのひとつが“カチッ”と音を立てた。


 二人は即座に身構えたが、誰もいない。


 朱音が恐る恐るパネルに近づくと、そこに古びた紙片が挟まれているのに気づいた。

 黄ばんだ台本の一部。それは破られたページで、手書きの鉛筆文字が残っていた。


【第二幕:闇の観客】

……“光を操る者が、舞台を血で染める”……


 朱音は手を止めた。

 スケッチの中の光と、そこに立つ影――。

 それは、これから起こる何かを「記録」してしまったように思えた。


 玲は紙片を受け取り、低く言った。


「これは……未発表の演出案か。あるいは、“犯人の脚本”だ」


【場所】霧ヶ峰アートホール・演者控室


【時間】8月27日(月) 午後3時48分


 控室の奥、化粧鏡の前で、西野陸人にしの りくとは一人、じっと座っていた。

 額に浮かぶ汗は乾くことなく、指先は小刻みに震えている。手元の台本が細かく揺れていた。


 鏡に映る自分の顔を見て、彼は無意識に目をそらす。

 そこには“自分”であって“自分でない”ものが見える気がしてならなかった。


 机の上には、配られたばかりの改訂版の演出案。

 そこには、“復元された幻の演目『影法師』の第二幕”が記されていた。


【第二幕】

闇に沈む舞台。

光がひとつずつ灯るたび、仮面の演者が現れる。

誰が本物で、誰が幻か――。

最後のひとりが“真実”を告げるとき、幕は閉じる。


 ……この内容を、彼は“知っていた”。

 誰よりも先に、誰よりも深く――。


 半年前、部活の資料室で偶然手に取った古いノート。

 ページの隙間に挟まっていた手書きの原稿には、この「影法師」の台詞と舞台装置の走り書きが残されていたのだ。

 だが、それは正式に残されていない、存在しないはずの台本。


(あれは、廃棄されたはずの企画じゃなかったのか……)


 西野は震える手で、机の下のバッグから小さな紙片を取り出した。

 それは、彼がかつて手に入れ、捨てられなかった“ある仮面”のスケッチだった。


 白と黒で塗り分けられた二面性のある仮面。

 台本の中にも登場するその仮面の人物――“道化師”と呼ばれる役どころ――は、劇中で他者を翻弄し、真実を語るふりをして最も多くの嘘を撒き散らす。


 その仮面をかぶった何者かを、数日前のリハーサル中――本当に目撃したのだ。

 演出にも配役表にも載っていない、誰にも割り当てられていないその“仮面の人物”。


 西野は、誰にも言えなかった。

 舞台のどこかで、誰かが彼らを見ていたこと。

 決して使われることのない照明が一瞬だけ灯り、仮面の人物が立っていたこと。

 そして、自分の足音が――あのとき、まるで誘導されていたかのようだったこと。


 不意に、控室の照明が一瞬だけちらついた。

 西野はびくりと肩を震わせる。鏡に映った自分の背後が、わずかに揺らいだように見えた。


 が――そこには誰もいない。


 彼は立ち上がろうとし、再び座り込んだ。

 汗が滲む手を握り締め、震える声でつぶやく。


「……もう一度、あの仮面が現れたら……俺は、きっと……」


 その声は、照明に吸い込まれるように消えていった。


【場所】霧ヶ峰アートホール・舞台袖


【時間】8月28日(火) 午後8時02分


 カツン、と誰かの靴音が響いた直後。

 舞台奥の暗がりから、不自然な物音が落ちた。

 装置のスライダーが一瞬、予定されていない角度で動いたのが見えた。


 それに呼応するように、舞台袖の黒幕が揺れ――

 舞台監督・**さかき 真之介しんのすけ**の身体が、音もなく崩れ落ちた。


「……落ちてるッ!」

 悲鳴に近いスタッフの声に、ロビーにいた玲と朱音が駆けつける。


 照明が切り替わる。舞台裏に差す非常灯の赤い光の中、血の気を失った顔が浮かび上がる。

 榊の首元には何か細い糸のようなものが残されていたが、それは既に緩み、形を失っていた。


「……今度は、照明と装置の“誤作動”に見せかけた、吊り罠だ」

 玲がつぶやくように言った。


 そして――



【場所】霧ヶ峰アートホール・仮設事務室


【時間】同日 午後9時15分


 榊の遺体が運ばれ、警察の現場検証が始まる中、玲、朱音、御子柴理央はホール内に設けられた仮設事務室で情報の整理を始めていた。


「“幻の演目”に関して、やはり不自然な点がいくつかある」

 玲は手元のノートパソコンを開いたまま言う。


 朱音は、自身のスケッチを取り出した。

 照明の角度、舞台装置の配置、演者の立ち位置。それらが“誰にも共有されていないはずの演出プラン”と一致していた。


「この配置……数日前に描いたものです。けど、私は誰からも指示されていない。見たこともないはずの配置なのに……」

「記憶では見ていなくても、どこかで“刷り込まれて”いたのかもしれない」御子柴がつぶやく。


 御子柴理央――玲の旧知の仲であり、今回、美術史と舞台演出の専門的知識から“文化心理証言”のスペシャリストとして協力を仰がれていた。


「この『幻の演目』、正式には未発表だけど、そもそもは十五年前、このアートホールで“計画されていた”舞台だったらしい」


「十五年前……」朱音が顔を上げた。


「そのときの主な関係者は、事故で……一部が亡くなってる。演出家、舞台装置係、それと、仮面の“道化師”を演じる予定だった男が、行方不明」


 玲は言葉を挟む。


「その未発表の演目を、なぜ今、誰が復元しようとしているのか。鍵はそこだな」



【場所】旧演出室(現在は倉庫)


【時間】同日 午後10時32分


 古びた演出室――かつて使われていたが、現在は倉庫として閉鎖されている一室に、朱音のスケッチに導かれるように玲と御子柴は足を踏み入れた。


 埃をかぶった棚。その奥に、束ねられた台本の束があった。

 表紙には手書きでこう記されていた。


《影法師(未完成)第一稿》

演出・牧原伊吹まきはら いぶき


「……牧原、伊吹」玲が目を細めた。「十五年前、急逝したとされる若手演出家だ。死因は事故――だが記録は曖昧なままだ」


 朱音がそっとスケッチブックをめくった。

 その中の一枚、何気なく描かれた一幕――仮面の人物と、歪んだ照明の影。


「……この台本と、私の絵が……一致してる」

「“誰かが”、君に見せようとしたんだ」御子柴が呟く。


「これは記憶じゃない。意図された“投影”だ」


【場所】霧ヶ峰アートホール・劇場関係者用控室


【時間】8月28日(火) 午後8時45分


「事故には見えない。舞台構造を熟知した者の手口だ」

 玲は無言で広げられた舞台装置の見取り図と、今回の事故現場写真を並べて見つめていた。

 指先でなぞったのは、装置可動部のごくわずかな隙間。そこに設置された細工の痕跡。


「ここ。通常の照明転換では動かない補助スライダー。これを使えば、舞台袖に立っていた榊さんの頭上にピンポイントで重心が落ちる」


 朱音は固唾を呑みながらその説明を聞いていた。

 御子柴は黙って資料の束から一枚の紙を抜き取り、机の上に滑らせる。


「……十五年前、このアートホールで予定されていた“幻の演目”――《影法師》。当時の関係者の名簿です。そこに――」


「牧原伊吹、失踪」

「それと、演者の一人だった**佐久間さくま 凛音りおん**は、事件後に劇団を退団。現在、消息不明です」


 玲が目を細める。「その凛音と、今の演出スタッフの中に“似た声”の人物がいたな。西野が怯えていた理由も、それと関係している可能性がある」


 その瞬間だった。

 控室のドアの隙間から、誰かの気配がした。

 玲が振り返ると、廊下の奥に“仮面”をつけた人影が静かに立っていた。


 真っ白な衣装。長い外套。漆黒の仮面。


 照明がちらついた――次の瞬間、その姿は消えていた。


「……幻覚じゃないよな」

 御子柴が低く言った。

「今の衣装――十五年前の台本に記された**“影法師の仮面”そのもの**だ」朱音が震える声で言った。


 玲は即座に立ち上がる。「……この劇場に、当時の“記憶”を再現している者がいる。幻の舞台を、“再演”しようとしている者が」



【場所】長野県・上田市近郊 元劇団寮(空き家)


【時間】8月29日(水) 午前10時05分


 翌日、玲と朱音、御子柴は、当時の演出補佐だった人物――**岩井貴志いわい たかし**を訪ね、彼がかつて住んでいた劇団寮跡を訪れた。


 廃屋となった建物の中には、いくつかの残留物。

 その中に、色褪せたスケッチブックと、マスキングされた舞台写真があった。


「……この仮面。やっぱり、十五年前にも誰かが“演目を越えて”演じようとしていた」

 御子柴が指を止める。


「岩井氏は事故の直後に姿を消している。だが、彼の手記が残されている」

 玲が手帳を開く。そこには、こんな言葉が書かれていた。


『あの舞台は、ただの演劇じゃない。

  “表に出せなかった真実”を仮面に託した、最後の告発だった。』


 朱音の目が、スケッチに釘付けになる。

 それは彼女が描いたはずのない“未完の一幕”。

 しかしそこには、昨夜見た仮面の人物が、赤いカーテンの中で手を広げていた。


「……どうして……」朱音が呟く。


「これは君の絵じゃない。でも、君の記憶に“刻まれていた”ものだ」御子柴が言う。

「十五年前、君が偶然見てしまったあの舞台……本当は、一度、開演されていたのかもしれない」


【場所】霧ヶ峰アートホール・劇場裏口前 搬入口


【時間】8月28日(火) 午後9時15分


 裏口の搬入口は、昼間の喧騒とは打って変わって、冷たい静けさに包まれていた。

 霧が濃く、ライトに照らされた粒子が宙に漂う。まるで、過去からの“息”のように。


「それって……“視える”ってことですか?」

 朱音がぽつりと口にした。


 玲は無言で頷いた。

 彼の手の中には、1枚の古びたミニカセットテープが握られている。


 それは、旧劇団の元演出補助・岩井貴志の部屋跡から発見されたものだった。

 朱音がかつて描いたスケッチに酷似した仮面の人物が写る、あの写真の裏に貼り付けられていた。


「旧式のレコーダーを使わないと聞けないが……ほら」

 御子柴が、車から持ち出してきた小型プレイヤーにテープをセットする。


 機械が唸り、再生が始まった。


「……これを、誰かが聞いてくれると信じて録音してる。

  俺は逃げる。けど、何もしていないわけじゃない……あの日、牧原が“消された”のは事故じゃない。

  仮面を被っていたのは……」


 突然、テープの音が歪んだ。

 ガリッ……ガッ……ジッ……ジリリリ……。


「“影法師”の演出には、もう一つ、隠された台本があった。

  それを知った牧原は……止めようとした。

  仮面の“裏”に隠れていたのは、“憎しみ”だったんだ……」


 そこで、音声は途切れた。

 最後の数秒、何かを引きずるような音――そして、階段を駆け上がるような微かな足音。


「この声……岩井さん、ですよね?」朱音が言った。


「間違いないな」玲は頷き、テープを止める。「これが、“告発”だ」


「じゃあ、“仮面の人物”って……十五年前から……?」

 朱音の問いに、玲の声は低く答える。


「復讐は、一夜では完成しない。これは、完成されなかった舞台に乗せられた、遺された者たちの“執念”だ」


 御子柴は、再生機の横にあった封筒を開いた。

 中には、旧劇団員たちの手紙――その一通に、こう書かれていた。


『演劇とは、真実を照らす光であるべきだ。

 仮面は、隠すものではなく、暴くものだと――信じている』


 朱音は、小さく息を吸い込んだ。

 手にしたスケッチブックの1ページをめくると、そこには再び、あの“舞台装置”と“照明配置”が描かれていた。


「……この配置。あの“幻の演目”の、最終幕と……同じ」


 玲はその絵を見つめながら、静かに呟いた。


「――次の犠牲者が出る前に、仮面を剥がす。舞台が終わる前に」


【場所】長野県・霧ヶ峰アートホール・大道具室


【時間】8月28日(火) 午後10時05分


 大道具室の鉄製の扉が、鈍い軋みを立てて開いた。

 内部には使われなくなった舞台装置や背景板が、埃をかぶったまま積まれている。天井の裸電球が揺れ、金属の陰が不気味に壁を這った。


 朱音が一歩踏み出し、足元の何かを踏みかけて息を呑んだ。


「……っ!」


 それは、血に濡れた舞台衣装の一部だった。


 続く玲が、懐中電灯を左右に振る。

 光の先――大道具の奥、舞台車の裏側に、人影が横たわっていた。倒れたまま動かないその姿は、まるで劇中の“人形”のように無機質だった。


「……また、だな」玲が小さく呟いた。


 近づいて確認すると、被害者は舞台美術助手の寺崎那央。数日前、照明室の鍵の所在について問い詰められていた若い女性だ。

 顔には“仮面”が被せられていた――かつての公演で使われた、演目『影法師』の主役が用いる、あの無表情の白い仮面。


「これ……演出だ」御子柴理央が背後から現れ、仮面を見つめながら呟いた。「いや、演出“された”死だ」


 朱音はすでに、手にしたスケッチブックを開いていた。

 今日、搬入口の近くでふと描きたくなった“舞台裏の図”。

 その一枚には、まさに今、那央が倒れていた場所と一致する“人物の影”が、舞台車の裏に鉛筆で描かれていた。


「……描いてた、のに」朱音の声が震える。「気づいてたのに……どうして」


 玲が、彼女の肩にそっと手を置いた。

 「予感じゃない。“残像”だ。お前が描いたのは、あの台本に刻まれた“次の幕”だ」


「『影法師』の台本、まだ明かされてないラストシーン……第三幕、【仮面が仮面を殺す】」

 御子柴がメモを手に言った。「寺崎那央は、美術の整理中に未発表の台本の一部を見つけたと話していたそうだ。つまり……“鍵”を持っていた」


 彼は舞台車の位置を確認すると、すっと歩き出した。

 大道具の間を縫うように、役者のような動きで床を蹴り、仮面をかぶり、倒れる位置へと“再現”してみせた。


「演技じゃない。“記録”だ。舞台とは、本番だけがすべてではない。

 リハーサル、段取り、立ち位置、視線の向き――すべてが、蓄積された行動の履歴なんだ」

 御子柴はそう言って振り返り、倒れた那央と同じ視線の先を指差した。


 朱音の描いたスケッチと重なるその方向に、わずかに――仮面の“破片”が残されていた。


「これは……予告だ」玲が低く言う。「“終幕”は、まだ来ていない」


 その言葉とともに、天井の裸電球が一度、ぱちんと小さく瞬いた。

 まるで、次の“開幕”を知らせるかのように――。


【場所】長野県・霧ヶ峰アートホール・劇場裏・旧衣装保管庫


【時間】8月28日(火) 午後11時30分


 旧衣装保管庫の鉄製扉が、静かに軋む音を立てて開いた。

 湿った空気が漂い、古い布の匂いと染みついた汗の匂いが混じる狭い空間に、玲が一人で立っていた。


「時間通りか……」


 扉の向こうから、細い影が現れた。

 中背の男。やや年配だが、瞳の奥には鋭い光が宿っている。

 劇場のベテランスタッフと何度も顔を合わせたことがあるらしく、玲には旧知の協力者だった。


「田所さん、来てくれてありがとう」玲は丁寧に頭を下げた。


「玲君、あの演目のことを話してくれたのは君か?」

 田所は、重ねられた演劇台本の束を指差しながら言った。


「はい。あの“幻の演目”は、以前この劇場で執筆されたが、公演されることはなく、全てが封印されていたそうです」

 玲は一冊の台本を慎重に取り出し、田所に手渡した。


「これが、唯一残された原稿の断片です」


 田所は台本をめくりながら、細かいメモを取る。

 「ずいぶんと古いが、筆致は確かに劇場の古参作家、天沢春樹のものに似ている」

 「天沢……?」朱音が控え室の扉から顔を覗かせた。玲は彼女を中に招き入れる。


「彼はかつてここで多くの作品を手掛け、特に演出と脚本を兼ねていた。しかし、その“幻の演目”だけは謎に包まれ、完成前に突然失踪してしまった」

 田所の声には、長年の重みが滲む。


 玲は田所に目を向ける。

 「その演目の台本に書かれている内容と、今回の殺人事件には何か関連があると睨んでいます。特に仮面の存在、舞台の構造、照明の位置、そして犠牲者たちの動きが重なるのです」


「君たちが調べたことは、劇場内部でもほとんど知られていない情報だ。今回の事件は、表向きの事故やトラブル以上のものだろう」

 田所は冷静ながらも、言葉の端に警戒心を見せる。


「天沢春樹は、当時の劇場関係者とも確執があった。何か大きな秘密を握っていた可能性がある」


 朱音がそっとスケッチブックを広げ、舞台の照明配置図を示す。

 「この配置、未発表の台本の記述とピッタリ一致しているんです」


「君たちの推理は間違っていない」田所は小さく頷いた。


「今夜は、もう少し調べを進めよう。何か手掛かりが見つかるかもしれない」


 霧ヶ峰の夜風が、保管庫の隙間から冷たく吹き込んだ。

 その静寂の中、玲たちの調査は新たな局面を迎えようとしていた。


【場所】長野県・霧ヶ峰アートホール・舞台装置室


【時間】8月29日(水) 午後10時10分


 金属のパイプが組まれた複雑な装置群の奥。舞台装置室の片隅に、小さな机と椅子が三脚、控えめに灯った懐中電灯の明かりが、それぞれの表情を浮かび上がらせていた。


 静寂が支配する中、玲は黙って一枚の台本断片を指先でなぞる。それは、半ば焼け焦げ、欠損の多い古い台本の一節――かつて「幻の演目」として封印された台本の、失われていた場面だった。


「……やっぱり、ここに書かれていた“第四幕の舞台転換”と、実際に起きたあの落下事故、全く同じ構図になってる」

 御子柴理央が静かに言った。手元には朱音が描いたスケッチと、劇場の構造図が広げられている。


 朱音の瞳が細められ、そっと自分のスケッチブックを開く。

 彼女が舞台袖の記憶を頼りに描いた“照明の重なり”と“舞台装置の影”は、奇しくも幻の演目の台本に記されていた演出そのものと一致していた。


「つまり……犯人は、“幻の演目”そのものを再現しようとしてる?」

 朱音の声は震えていた。それは恐怖ではなく、直感が導いた確信に近いものだった。


「再現というより、“演じ直している”んだろうな。役者の代わりに、生身の人間を使って」

 玲の声は低く、鋭かった。

 「この演目には、本来使われるはずだった“仮面の役”がある。だが、この仮面役――“無名の導師”は本来、登場する直前で演目そのものが中止になった」


「もし、その“導師”が存在していたとしたら……」朱音が息を呑む。


「既に舞台に立っているか、あるいは――殺人を通して、未完の物語を“完成”させようとしているのかもな」

 玲の目が、懐中電灯の灯りを反射して静かに光る。


 御子柴が机の上の紙片を指差す。「この“第五幕”の記述を見て。劇場の構造図と照合すると、舞台装置室のすぐ下、使われていない旧制御室が“幕裏の迷宮”として記されてる。現実の構造と一致する」


 玲は立ち上がり、装置室の奥を見やる。「その空間が今も使われているなら……次の“演出”は、そこだ」


「……誰かが、あの仮面の役を生きようとしているの?」朱音が問う。


「いや、仮面を“継がされた”誰かがいるのかもしれない」

 玲はそう言って、ゆっくりとスケッチと台本の重なりを畳む。

 「台本を追えば、次に犯人が何を演出しようとしているかが読めるはずだ」


 舞台装置室の奥から、かすかに風が通り抜ける音がした。

 まるで、閉じられた劇の幕が、再び上がろうとしているかのように――。


【場所】長野県・霧ヶ峰アートホール・衣装準備室


【時間】8月29日(水) 午後10時35分


 埃を被った衣装棚の隙間から、かすかに冷気が漏れていた。古いドレスやケープが揺れる音の奥に、別の音――金属がこすれる低い響きが混じっている。


 朱音はスケッチブックを抱えながら、震える声で口を開いた。


「……10年前、主演候補だった沢田鞠絵さんが失踪したあの舞台と、今の再演……一致してる部分が多すぎるんです」


 玲は頷き、壁の裏に続く金属製の小扉を確認する。

 「この裏だ。旧制御室――あの“幕裏の迷宮”と呼ばれた場所。誰もが立ち入りを避けてきた」


 御子柴が手元の古地図を広げ、微かに目を細める。「この構造なら、衣装準備室の裏通路を抜ければ、直接制御室に出られるはず。ただし……行くなら今しかない」


 舞台の裏側、残響が残る闇の通路を抜け、三人は無言のまま奥へと進んだ。

 かつて沢田鞠絵がリハーサル中に姿を消した場所――その真実に触れるために。



【場所】旧制御室(舞台下・閉鎖区域)


【時間】午後10時52分


 錆びた鉄扉が開かれた瞬間、息を呑むほどの冷気が全身を包んだ。中は薄暗く、機材の残骸や破れた緞帳が転がっている。だが――そこに、いた。


 仮面の人物が、制御卓の前に立っていた。


 白い能面のような仮面。全身黒の装束。

 だが、姿勢には不自然なほどの緊張が漂っていた。


「……誰だ」玲が声をかける。


 仮面の人物はゆっくりと振り返った。

 手にしていたのは、かつて幻の演目で使用されるはずだった「導師の仮面」――失われたはずの小道具だった。


「この舞台は……終わらせなければいけないんです」

 低く、震える声。男の声だった。若く、しかし深い哀しみを孕んでいる。


 御子柴が小さく息を呑む。「……あなたは、“代役”だったんだな」


 仮面の男が頷いた。


「10年前、主演候補の沢田鞠絵が消えた。それでも演目を上演しようとした演出家は、事故に見せかけて“幕”を降ろさせた。俺たちはその時……何もできなかった」


「だから、“再演”を?」玲の声が鋭くなる。


「違う……“真実を舞台にかける”。それだけが、彼女を弔えると信じていた」

 男が仮面を外す。現れたのは、当時の裏方として記録にあった名――新田翔吾、現在は別の名でスタッフとして関わっていた人物だった。


 朱音が小さく呟く。「でも……あなたのやったことは“演出”じゃない。“殺人”です」


 沈黙の中、玲が一歩前に出る。「沢田鞠絵は、本当に“失踪”しただけだったのか? 本当は、あの時すでに……」


 新田の目がわずかに揺れる。


「……“事故”でした。仕組まれた練習。照明のミス。転落。そして、上から降ってきた装置……。だけど、記録はすべて消された。舞台の“幻”とされたまま、彼女はいなかったことになった」


 御子柴が呟くように言った。


「舞台は記録であり、記録は真実を留める。あなたがやろうとしたのは、嘘の歴史に一石を投じることだった」


 新田が苦笑する。「皮肉ですね。演目に真実を込めようとした結果、また誰かを舞台に殺すことになった」


 朱音のスケッチブックが、ふと音を立てて落ちる。描かれていたのは、仮面を外し泣く男の姿――すべてが終わった後の“最後の幕”だった。


【場所】長野県・霧ヶ峰アートホール・舞台上手・空中通路


【時間】8月29日(水) 午後11時20分


 舞台上空、観客席からは見えない“黒の領域”――上手側の空中通路に、玲・朱音・御子柴の三人が潜んでいた。高さはおよそ7メートル。手すりの鉄枠は古く、汗ばんだ手に冷たい。


 通路下は舞台袖と奈落を見下ろせる死角。舞台構造を熟知した者でなければ、存在すら気づかない位置。

 ここが――仮面の人物が「現れる」と予測された場所だった。


 玲は照明機材の影に身を潜めながら、無線の音量を絞る。劇場スタッフには待機を命じ、照明も音響も完全に“本番前”の設定で止めてある。

 観客のいない劇場に、張り詰めた沈黙だけが降りていた。


「……本当に、ここに現れるんですか」朱音がささやくように尋ねる。


 御子柴が頷いた。「この舞台には、空中機構を操作する“隠し装置”がある。再演台本の最後の幕、そのクライマックスで“導師”が現れる瞬間――原作では空中から降りてくる。仮面の人物は、それを模倣してる」


 玲は目を細め、舞台奥を見下ろす。「問題は、その降下ルートだ。以前の舞台では安全装置が作動しなかった。10年前、沢田鞠絵が消えた夜も……同じ構造だったはずだ」


 通路の向こう、ひとつの影が動いた。


 ギィ――という金属の軋み。空中ワイヤーを手繰りながら、ゆっくりと舞台上へ接近してくる人影。


 その顔には――白い仮面。

 上演前の誰もいないはずの空間に、確かに“あの人物”がいた。


 朱音がスケッチブックを開く。そこには、今まさに目の前で起きている光景と酷似した、仮面の人物の姿が描かれていた。


 「……やっぱり、“見えて”たんだ……」朱音が呟く。手が震えている。


 仮面の人物は、高所の装置へ何かを取り付けている様子だった。緊急降下用ワイヤー、改造されたスイッチ、そして舞台中央を狙う落下の仕掛け。


 玲は無言でポケットから信号灯を取り出す。

 その手が点灯のスイッチに触れた瞬間――


 「……誰だ?」


 仮面の人物がこちらに気づいた。


 一拍の沈黙――そして、男が逃走を始めた。

 空中通路を駆ける音、鳴り響く鉄骨の軋み。


 御子柴が叫ぶ。「朱音さん、下へ! 舞台中央を見張って!」


 玲は迷わず男の後を追った。細い通路を走り、階下への非常梯子を滑り降りる。

 その先にあるのは――旧制御室。最後の対峙の場だ。


【場所】霧ヶ峰アートホール・旧衣装保管庫


【時間】8月29日(水) 午後11時30分


 玲が駆け込んだ旧衣装保管庫は、すでに劇場の設計図には記されていない“死角”だった。

 埃にまみれたトルソーたちが、不気味に沈黙する空間に立ち尽くしている。


 かつての公演で使われた衣装が積み上げられ、その間をすり抜けて逃げた仮面の人物の足音が、奥の鉄扉へと消えていく。

 この先にあるのは――舞台裏でも、観客席でもない。“旧制御室”。


「止まれ!」玲が叫んだ。


 しかし仮面の人物は応じず、重い扉を押し開けて姿を消した。


 直後、朱音が駆けつける。肩で息をしながら、スケッチブックを握りしめていた。


「玲さん……間に合います、まだ」


 朱音が開いたスケッチには、制御室の内部と仮面の人物の姿が、まるで透視のように描かれていた。

 それは“未来”ではなく、“記録”――誰かの“かつて見た光景”を、彼女が無意識に写し取ったものだった。



【場所】霧ヶ峰アートホール・旧制御室


【時間】午後11時52分


 制御室の扉が開いた。


 その瞬間、冷たい風のような静寂が、二人を包んだ。


 制御盤には埃が降り積もり、操作パネルの一部は破損していた。しかし、その中心に――仮面の人物が背を向けて立っていた。

 仮面越しでもわかる緊張。玲が一歩、踏み込む。


「もう逃げられない。……沢田鞠絵の失踪と、今回の殺人。そのすべてが、“あなた”の台本通りに演じられてきた」


 仮面がゆっくりとこちらを向く。その声は――思いがけず、静かだった。


「彼女は……舞台を壊した。僕の“演目”を、最後の幕で拒絶した。

 だから、演者を変えた。ただ、それだけのことです。舞台の完成のために――“真実”を演じ直しただけ」


 その声は、劇団の元脚本家・岸本貴之。10年前の“幻の演目”の原作者。すでに消息を絶ったとされていた人物。


 御子柴が制御室の反対側から姿を現す。「君は……まだ“舞台”に囚われているんだな。舞台は記録であって、再現ではない。同じものは二度と存在しない。それが“真実”だ」


 仮面の男――岸本は、小さくかぶりを振った。


「でも、記録がある限り、舞台は“やり直せる”。僕にとって、“失敗した初演”こそが、永遠の幻影だったんだ」


 その手には、スイッチ――舞台機構を暴走させる改造された制御装置。

 玲が目で合図する。朱音が一歩踏み出す。


「あなたの舞台は、誰かの命を踏み台にしてまで成り立つものじゃない。

 私は……スケッチで“真実”を見てしまった。沢田さんが、あなたを拒んだ理由も」


 その言葉に、仮面が僅かに震えた。


 玲がすかさず踏み込む。男の手から装置を払い落とし、御子柴が背後から拘束する。

 抵抗はなかった。ただ、男の目にあったのは、完全に閉じた舞台の幕が下りる、その虚脱だった。


【場所】霧ヶ峰アートホール・旧衣装保管庫


【時間】8月29日(水) 午後11時30分


 玲が駆け込んだ旧衣装保管庫は、すでに劇場の設計図には記されていない“死角”だった。

 埃にまみれたトルソーたちが、不気味に沈黙する空間に立ち尽くしている。


 かつての公演で使われた衣装が積み上げられ、その間をすり抜けて逃げた仮面の人物の足音が、奥の鉄扉へと消えていく。

 この先にあるのは――舞台裏でも、観客席でもない。“旧制御室”。


「止まれ!」玲が叫んだ。


 しかし仮面の人物は応じず、重い扉を押し開けて姿を消した。


 直後、朱音が駆けつける。肩で息をしながら、スケッチブックを握りしめていた。


「玲さん……間に合います、まだ」


 朱音が開いたスケッチには、制御室の内部と仮面の人物の姿が、まるで透視のように描かれていた。

 それは“未来”ではなく、“記録”――誰かの“かつて見た光景”を、彼女が無意識に写し取ったものだった。



【場所】霧ヶ峰アートホール・旧制御室


【時間】午後11時52分


 制御室の扉が開いた。


 その瞬間、冷たい風のような静寂が、二人を包んだ。


 制御盤には埃が降り積もり、操作パネルの一部は破損していた。しかし、その中心に――仮面の人物が背を向けて立っていた。

 仮面越しでもわかる緊張。玲が一歩、踏み込む。


「もう逃げられない。……沢田鞠絵の失踪と、今回の殺人。そのすべてが、“あなた”の台本通りに演じられてきた」


 仮面がゆっくりとこちらを向く。その声は――思いがけず、静かだった。


「彼女は……舞台を壊した。僕の“演目”を、最後の幕で拒絶した。

 だから、演者を変えた。ただ、それだけのことです。舞台の完成のために――“真実”を演じ直しただけ」


 その声は、劇団の元脚本家・岸本貴之。10年前の“幻の演目”の原作者。すでに消息を絶ったとされていた人物。


 御子柴が制御室の反対側から姿を現す。「君は……まだ“舞台”に囚われているんだな。舞台は記録であって、再現ではない。同じものは二度と存在しない。それが“真実”だ」


 仮面の男――岸本は、小さくかぶりを振った。


「でも、記録がある限り、舞台は“やり直せる”。僕にとって、“失敗した初演”こそが、永遠の幻影だったんだ」


 その手には、スイッチ――舞台機構を暴走させる改造された制御装置。

 玲が目で合図する。朱音が一歩踏み出す。


「あなたの舞台は、誰かの命を踏み台にしてまで成り立つものじゃない。

 私は……スケッチで“真実”を見てしまった。沢田さんが、あなたを拒んだ理由も」


 その言葉に、仮面が僅かに震えた。


 玲がすかさず踏み込む。男の手から装置を払い落とし、御子柴が背後から拘束する。

 抵抗はなかった。ただ、男の目にあったのは、完全に閉じた舞台の幕が下りる、その虚脱だった。


この瞬間、10年前の「幻の演目」は、ようやく終幕を迎えた。


【場所】霧ヶ峰アートホール・搬入口前・夜明け前の空


【時間】8月30日(木) 午前4時02分


 劇場裏の搬入口前。冷え始めた高原の空気が、わずかに夏の名残を含んでいた。

 夜の帳はまだ完全には明けきらず、東の空がわずかに朱く滲んでいる。


 朱音は、古びた搬入口の段差に腰を下ろしていた。

 手元のスケッチブックには、たった今描き上げたばかりの“夜明けの舞台”が広がっている。


 照明も音響もない、無音の劇場。

 舞台中央に落ちる一条の光。その中に、ひとつだけ置かれた仮面。


「……やっと、終わったね」


 そう呟いたのは、背後からやってきた御子柴理央だった。

 彼は手にコーヒーの入った紙カップを二つ持っており、無言で朱音にひとつを差し出す。


 朱音は、少しだけ微笑んでそれを受け取る。


「“演目”は終わったけど、きっと……また誰かが、新しい幕を上げるんだと思う」


 御子柴は頷いた。


「そうだな。舞台は繰り返される。でも、“記録”された過去は変えられない。

 ……だからこそ、記録には真実が宿る。

 どんなに歪められ、隠されたとしても――君が描いたスケッチみたいに、ね」


 朱音は少しだけ、顔を伏せた。そして空を見上げる。


 高原の空に、一羽の鳥が横切った。

 その飛翔を、朱音はそっと線でなぞっていく。手の動きは迷いなく、穏やかだった。


 搬入口の扉が、ゆっくりと開いた。

 その向こうから、玲が姿を現す。黒のコートの裾を揺らしながら、朝焼けのなかに立つ。


「朝だ。……戻ろう」


 朱音は立ち上がり、スケッチブックを閉じた。

 御子柴と顔を見合わせ、短く頷く。


 事件は終わった。

 10年前に葬られた“幻の演目”と、それに連なる仮面の亡霊は、今度こそ幕を閉じたのだ。


 空が、ようやく白みはじめた。


エピローグ


【場所】東京郊外・ロッジ兼探偵事務所/初秋の夕刻

【時間】11月10日(木)16:40頃


 窓の外で、落ち葉を巻き上げる風が静かに通り過ぎた。

 カラマツの枝が揺れ、その影がリビングの壁に淡く映し出される。


 探偵事務所の一角──リビングの窓際にある古い木製の机の前で、朱音は一枚の手紙を広げていた。

 封筒の端には、整った文字でこう記されている。


 ──高梨ユウタ。


 封を切った朱音は、便箋をそっと引き出す。

 紙に触れる指先が、ほんのわずかに震えた。



朱音さんへ


こちらはもう、コートが必要なほど冷えてきました。

劇場の再建は中止となり、例の演目の記録も正式に“閉じられた”そうです。

でも、あの日々が終わったとは、僕にはまだ思えません。


今、小さな市民ホールで照明助手として働いています。

初めてスイッチを握ったとき、本番前の静けさが劇場全体に満ちていて──

ふと、あの舞台裏を思い出しました。

あの時、あなたが描いてくれた“光の配置図”が、今も僕の道しるべです。


たとえば照明の“わずかな角度”で、俳優の表情が変わり、

たとえば影の“深さ”で、観客の心が揺れる。

それを知ってから、舞台が少しだけ怖く、そして愛おしくなりました。


朱音さん。

あの夜のことを、忘れたくはないと思っています。

なぜなら、あの夜があったからこそ、今の僕がいるからです。


いつか、また。

次は、観客じゃなく、舞台の側から──

あなたと、再会できたらうれしいです。


高梨ユウタ



 読み終えた朱音は、しばらくのあいだ手紙を手にしたまま、夕焼けに染まる空を見つめていた。

 その横顔には、どこか懐かしさと誇らしさが混ざっている。


「……舞台の側から、か」


 朱音は呟くと、そっと机の引き出しからスケッチブックを取り出した。

 ページをめくると、劇場の通路や照明装置、仮面の人物の立ち位置──そして、“光の配置図”のページがあった。

 緻密に描かれた線と光源の記号。そのページの端には、朱音自身の手で書かれた小さな文字があった。


 《視界の死角を、光で塗り替える。》


 あの夜、暗がりに浮かぶ真実を探しながら、描いた図だった。


 「ユウタくん……あなたはもう、“光”の人なんだね」


 そう呟いた朱音の後ろから、コーヒーの香りがふわりと届いた。


 「読んだか?」

 玲が無言で二つのマグカップを持ってきて、一つを机に置く。


 「うん。……頑張ってるみたい」

 朱音は、手紙をそっと畳んで答えた。


 玲は静かにうなずき、カップを持って窓際に立つ。


 「なら、また再演できる。あいつにはその資格がある」

 「“幻の演目”じゃなく、“生きた舞台”としてね」

 朱音が言うと、玲はわずかに微笑んだ。


 外では、風が落ち葉を揺らし、木々の隙間から金色の光が差し込んでいた。

 それはまるで、新たな幕がゆっくりと上がる前の、舞台の明かりのようだった。


【場所】ロッジ2階・朱音の作業部屋


【時間】11月10日(木) 夕刻〜日没直前


 風が一度、大きく木々を揺らしたあと、ロッジの中は再び静けさに包まれた。

 階下からは、リビングの薪ストーブがくぐもった音を立てている。


 朱音は階段をゆっくりと上がり、自室──作業部屋のドアを開けた。

 外の夕陽は、窓ガラスを赤く染めながら部屋の奥まで届いている。

 その光の中で、机の上の白い便箋がわずかに光を反射していた。


 彼女はそれをそっと机の隅に置き、

 脇にあった厚手のスケッチブックを開く。


 ページを繰ったその先に、一枚の未完成の絵があった。


 暗い舞台の上、少年が一礼する姿。

 彼の足元には一つの仮面が、そっと置かれている。

 舞台袖の闇からは、やわらかなスポットライトが降り注ぎ、

 その光の中で、少年の背中だけが静かに照らされていた。


 背景の客席は黒く塗られ、観客の姿は描かれていない。

 だが、そこには確かに「誰かが見ている気配」が漂っていた。


 朱音はその絵を見つめながら、鉛筆を手に取った。

 ほんのわずか、仮面の影を濃くし、スポットライトの角度を微調整する。


 「……ここが、始まりだったのかもしれないね」


 そのつぶやきに、誰が応えたわけでもない。

 だが、彼女の瞳にはもう迷いはなかった。


 これは“終わりの絵”ではない。

 始まりの光を描こうとしているのだと、彼女はようやく気づいていた。


 ペン先を止めて、朱音は窓の外に目を向けた。

 雲の切れ間から、西の空に細長く金色の帯が伸びている。

 まるで、それが次の舞台の“開幕ベル”のように見えた。


【場所】ロッジ1階・応接室


【時間】11月10日(木) 夕刻〜日没直後


 陽が山の端に沈みかけたころ、ロッジの1階、応接室の暖炉の火が、ぱちりと音を立てて揺れた。

 長椅子には、並んで腰を下ろす玲と御子柴理央の姿がある。


 壁際のキャビネットには、先ほどまで開かれていた資料ファイルがまとめられていた。

 手書きの舞台構造図、照明配置の再現スケッチ、出演者名簿の赤ペン書き込み。

 事件の裏にあった“幻の演目”を巡る記録は、今や一つの厚い報告書として閉じられようとしていた。


 「……舞台とは、記録でもあり、記憶でもある」

 御子柴がそう呟きながら、湯気の立つマグカップを手に取った。

 「でも、あの劇場で交わされた“未完の台詞”は、もう二度と戻ってこない。記録しきれなかった感情は……どうすべきでしょうね?」


 玲は隣で静かに目を閉じていた。

 そして短く答える。


 「記録できなかったものが、本物かもしれない。再現できない“一度きり”の何か……演劇も、人の心も、そういうものだろう」


 御子柴は薄く笑い、膝の上に置かれた一冊のノートをそっと閉じた。

 その表紙には『霧ヶ峰劇場再演事件・調査覚書』と記されていた。


 「大学では、この一件を“映像再現と物語的記憶の齟齬”という観点で扱う予定です」

 「研究か」


 玲の口調に揶揄の色はなく、ただの確認だった。


 「ええ。でも、“記憶の証人”であるユウタ君や朱音さんの存在は、あくまで記述には載せません。

 ……彼らは、ただあの場で生きたんですから」


 暖炉の火が、また小さくはぜた。

 カーテンの隙間からは、深まる藍色の空が見えていた。


 「……玲さん、次の事件、決まったんでしょう?」


 玲は立ち上がり、背中越しに小さくうなずいた。

 「“消えたタイムコード”──地方テレビ局の編集データの不正操作と、ある証言者の失踪だ。出発は明朝」


 御子柴はわずかに目を細めた。

 「また記録にまつわる事件ですね」


 「記録は、時に真実よりも鋭い。だが、歪められた記録は……人を二度殺す」


 玲の背筋は変わらず真っ直ぐだった。

 御子柴もまた、同じ目線で彼女の姿を見つめる。


 「……僕は、しばらく東京で論文執筆に入ります」

 「じゃあ、再会はまた“記録のズレ”が生まれた時か」


 ふたりは、それ以上言葉を交わさず、黙って頷き合った。

 窓の外では木々が静かに揺れ、ロッジはまた、静かな時間の中へと戻っていった。


【場所】ロッジ外の庭先


【時間】11月10日(木) 17:10


 夕陽はすでに山の端へと隠れかけていた。

 朱音は、肩に薄手のカーディガンを羽織りながら、ひとり庭へと出た。

 冷えた空気のなか、地面に敷かれた落ち葉が、彼女の足元でかさりと鳴る。


 庭先の一角──

 ロッジの南側に立つシラカバの木の下に、小さな木製のベンチがあった。

 朱音はそこに腰を下ろすと、膝の上でそっとスケッチブックを開いた。


 未だ描きかけのそのページには、光の射す舞台と、

 中央で一礼する仮面を脱いだ少年の姿が淡く描かれている。


 あの日、誰もいない劇場に差し込んだ一筋の光。

 それはどこか、今日の空に浮かぶ雲間の光に似ていた。


 朱音は見上げる。

 濃い雲の切れ間から、斜めに差し込んだ陽光が、山の稜線を淡く照らしていた。


 「……光って、追いかけるものじゃなくて、気づくものなんだよね」


 誰に言うでもなく、そう呟いた声はすぐに風に溶けた。

 それでも彼女の表情には、不思議な確信のようなものが浮かんでいた。


 ふと、手紙をくれたユウタの姿が頭に浮かぶ。

 照明の“明と暗”に魅せられた少年。

 あの夜、互いに何かを分かち合い、そしてそれぞれの場所へ歩み出した。


 ──また、きっと会える。


 その確信を胸に、朱音は再びスケッチブックを見つめ、

 未完成の絵の中に最後の一筆を加えた。


 スポットライトの先に立つ少年の傍に、

 そっと“もう一人の足音”を添える。


 それは未来の“再会”を描いた、朱音なりの願いだった。


 ロッジの玄関から、玲の姿が見える。

 ふとこちらに目をやり、手にしたマグカップを軽く掲げた。

 朱音は軽く頷き、スケッチブックを閉じて立ち上がる。


 風がまたひとつ吹き抜け、

 庭の葉が、次の季節の訪れを告げるように音を立てて舞った。


【場所】東京郊外・ロッジ兼探偵事務所


【時間】11月20日(月) 午前9時00分


 外はうっすらと霜が降り、冬の気配をまとった朝だった。

 ロッジの窓際に差し込む冬の陽光が、書類の縁をまぶしく照らしている。


 神崎玲は、事務所の執務机の前に静かに座っていた。


 机の上には、一連の事件のファイルがきっちりと並べられ、その脇には封を切られていない新たな依頼状が置かれている。

 事件ごとに色分けされたラベル、時系列順に整理された証拠資料──

 玲の几帳面さがよく表れた机上だ。


 カップに残るコーヒーの湯気が、まだ冷えた室内で細く揺れている。


 玲は一度、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


 視線は机の端に置かれた、一冊の黒革の捜査ノートに向けられる。

 何冊目になるだろうか──

 表紙には小さな擦り傷が増えていた。


 「……次は、どんな真実が待っているのか」


 静かにそう呟くと、玲は躊躇なくペンを手に取り、ノートを開いた。


 新たなページに、今日の日付と、依頼人の名前、

 簡単な相談内容のメモを書きつける。


 彼にとって、“事件”とはただのトラブルではない。

 それは、誰かが言葉にできなかった真実が、どこかで息をひそめているということだ。


 その沈黙を、読み解くこと。

 見えない声に耳を傾け、形にすること。


 だからこそ、彼はまたページをめくる。


 書斎の奥では、朱音が台所で朝の支度をしている気配があった。

 御子柴のコートも、廊下のフックにかかっている。

 それぞれの日常が、再び静かに回り出している。


 だが、その静けさの裏に、すでに次の“影”が潜んでいるかもしれない。


 玲は、ペン先を止めないまま、ふと視線を上げた。


 窓の外、冬木立の合間に差し込む日差しが、

 静かに、新たな幕開けを予感させていた。


【場所】久岬村・旧郷土資料館・壁画の間


【時間】11月20日(月) 午後3時05分


 午後の光が高窓から差し込み、古い資料館の一角を優しく照らしていた。

 ここは、使われなくなって久しい「壁画の間」。

 かつて村の歴史を伝えるために描かれた壁画が、今もなお色褪せながら残っている。


 その一角に、新たな“命”を描き加えるべく、朱音は一人立っていた。


 足元には木製の台と、絵の具のパレット。

 刷毛は使い込まれており、絵具のにおいがかすかに漂っている。

 朱音はパレットから淡いグリーンをひとすくいすると、

 壁の中央に空けられた余白にそっと筆を入れた。


 ──それは、新しい壁画の“芽吹き”を意味する色。


 「……まだ、ここに残ってる。あの時の光」


 心の中でつぶやくように、朱音はそっと目を閉じた。

 浮かんできたのは、あの夏の劇場。

 照明が落ちた舞台に一瞬だけ差し込んだ、仮面の影の奥の、ほんの僅かな光。

 それは“恐怖”と“真実”の隙間に差した、小さな希望のようだった。


 朱音は目を開け、再び筆を走らせた。

 グリーンの輪郭はやがて、風に揺れる草木の姿になり、

 その中に人影がひとつ──仮面を外してこちらに背を向ける、少年の姿へとつながっていく。


 それは、終わった事件の“続き”を、彼女なりの形で描こうとする意志だった。


 資料館の空気は冷たく、足元からひんやりとした土の匂いが立ち上ってくる。

 だが朱音の手は止まらない。

 壁に新たな“記憶”を紡ぐことで、彼女は自分自身にも問いかけていた。


 ──過去は消えない。けれど、描き直すことはできるのかもしれない。


 ふと、扉の外で風が吹き、枯葉が音を立てて転がっていった。

 朱音はひと呼吸置くと、筆を止め、壁全体を見渡した。


 それはまだ途中の物語。

 けれどその途中にこそ、“今”が息づいている。


 朱音は微笑んで、小さく呟いた。


 「春までには、きっと完成させよう」


 誰に向けたわけでもないその言葉が、静かな壁画の間に、柔らかく響いた。


【場所】志賀高原・地域ホール 舞台袖


【時間】11月15日(水) 夕刻 17:40頃


 開演まで、あと一時間。

 志賀高原の地域ホールは、控えめな規模ながら、温かな木の香りがする場所だった。

 その舞台袖。灯りの届かぬ暗がりに、高梨ユウタはひとり立っていた。


 手には、調光卓の端末。

 前方の舞台では、地元の高校演劇部が最後の場当たりを終えたところだった。


 「……フォロースポット、0.3ルクス落とすか」


 ユウタは端末に指を走らせ、2番スポットの光量をほんのわずかに下げた。

 それは、台詞のない“間”で、俳優の肩にだけ落ちるような、絶妙な弱光だった。


 彼の中には、忘れ得ぬ一つの演目がある。

 姉が、まだ生きていた頃に描いていた、未完の舞台──。

 あの夜、崩れかけた劇場の中で、朱音が差し出した“光の配置図”と共に、ユウタは舞台照明の意味を知った。


 光は、目立つためのものではない。

 誰かの一歩を導くために、そっと“待っている”存在だ。


 舞台袖の机の上。

 紙片に走り書きされた一文が、ガムテープで貼られていた。


 「光は希望」


 それは、ユウタ自身が前日に残した言葉だった。


 舞台中央から、演出担当の若い女性がこちらに目配せをした。

 ユウタは黙ってうなずき、手元の端末にもう一度視線を戻す。


 ──大切なのは、自分が照らされることじゃない。


 ──誰かが、安心してそこに立てるように。


 調整を終えると、ユウタはそっと息を吐き、舞台の奥へと足を踏み出した。

 ホールの外は、もう薄暮に包まれている。

 だが、ここではこれから“物語”が始まるのだ。


 光の下で、誰かの声が響く。

 その瞬間が、今のユウタにとっての“再演”だった。


【場所】美術大学・研究棟3階・演劇美術ゼミ室


【時間】11月22日(火) 午後1時03分


 外では、冬の手前の風が冷たい銀杏の葉をさらっていた。

 研究棟の窓辺に差し込む陽射しは静かで、どこか図書館めいた空気が流れている。


 ゼミ室の一角、椎名環はPCモニターに向かっていた。

 開いているのは、**未発表台本『幕下の亡霊たち』**──かつて、霧ヶ峰アートホールの舞台裏で発見された台本の断片データだ。


 左側のモニターには、朱音が描いた仮面の人物のスケッチ。

 右側には、台本の一節。


〈黒衣の子供は、舞台に立たぬまま、光の死角で待ち続ける〉

〈声なき者の輪郭を、誰が描くのか〉


 「……これはもう、“消えた舞台”じゃない。新しい証言なのよ」


 環は独りごちると、プレゼン資料のタイトルを打ち込む。


【視覚による記録再生:舞台美術と“声なき演者”の再構築】


 彼女は、来週の公開講義でこの資料を使うつもりだった。

 講義のテーマは「舞台美術と記憶の証言性」。

 “絵”が“声”を保存し、“構図”が“封じられた演技”を蘇らせる──そんな仮説に基づいた内容だ。


 後ろの棚には、学生たちが模写したスケッチと、朱音が寄贈した複写画が並ぶ。

 “仮面の配置図”や“光の衝突点”──それらはすでに、一部の学生たちにとって、演劇考古学のような存在になり始めていた。


 やがて、彼女はスライドの冒頭に一行を記す。


「美術は、消えた声を可視化する」


 それは、彼女が朱音に初めて言った言葉でもあった。


 誰かが舞台に立たなかったとしても。

 語られなかった言葉や、照らされなかった存在は、決して“無”ではない。


 環はキーボードから手を離し、机の端に置いた便箋を見つめる。

 そこには、朱音から届いた短い手紙があった。


「“声なき舞台”が、本当にあったと、絵が言ってくれるなら。

 きっと、誰かがまた幕を開けると思うんです」


 環は静かに頷いた。

 それが、朱音の“証言”だった。


 そして今度は、自分がそれを“次の世代”に渡す番だ。

 小さなクリック音が室内に響く──講義用ファイルの保存完了を告げる音だった。


【場所】国立近代美術館・保存修復室前


【時間】11月18日(金) 午前11時02分


 国立近代美術館の廊下には、どこか音を吸い込むような静けさがあった。

 磨かれた床の上に、御子柴理央のブーツの音がリズムよく響く。


 白い手袋を外し、彼女は厚手の封筒を学芸員に手渡した。

 それは、旧霧ヶ峰アートホールの舞台美術資料──仮面の構造解析、照明配置の痕跡、火災前の断片的な図面──に関する調査報告書だった。


「……これが最終報告です。素材分析、年代特定、それから作成経路の推定も含めてあります」


 学芸員は封筒を受け取りながら、目を丸くする。


「ここまで精密に……まるで、“証拠物件”のようですね」


 御子柴は小さく頷いた。


「ええ。“事件の遺物”ですから。ですが今は、“展示資料”として扱われるべきだと私は思っています」


 廊下の壁には、来月から始まる企画展のポスターが貼られていた。

 タイトルはこう書かれている──


『沈黙の舞台 ── 失われた演目とその証言』


 御子柴が関わった調査報告は、この展覧会の裏付け資料として公開予定だった。

 「アート作品としての価値」と「記録資料としての信頼性」を両立させる必要がある──

 そのため、彼女は調査に科学的な手法を徹底的に用い、主観を排除した記録に徹してきた。


 だが今、その封筒を差し出す指先に、かすかな熱を感じている。


「“美術”は、時に歴史の証人になります。……私たちが語らなかったことまで、そこに残してしまうから」


 そう言って微笑んだ御子柴の横顔には、冷静さの奥に静かな意志があった。


 ──この資料は、真実を闇に還すためではない。

 むしろ、忘れられかけた“演目”を、再び人々の前に差し出すための記録だ。


「展示準備、引き続きお願いします。私は午後から別件で大学へ」


「ええ、理央さん。助かりました。……記録、ちゃんと残しましょう。消さないように」


「それが私の仕事ですから」


 御子柴は一礼し、静かに廊下を歩き去っていった。

 背後で保存修復室の扉が、そっと閉じられる音がした。


【場所】久岬村・氷鏡湖畔の小祠前


【時間】11月25日(金) 午後4時07分


 氷鏡湖の水面は、空の淡い光を映して、静かに揺れていた。

 湖畔の小道を抜けた先にある、小さな祠──

 古くから“村の記憶を見守る場所”とされるこの祠に、服部たまきの姿があった。


 厚手のカーディガンのポケットに、指先を軽くしまいながら、彼女は小さな供え物を並べてゆく。

 温かいあんこの団子、柚子の皮を添えた干菓子、そして地元で摘まれたばかりの山茶花の小枝。


 すべて整えると、たまきは静かに手を合わせた。

 風が吹き、祠の周囲に積もり始めた落葉がカサリと音を立てる。


 彼女の傍らには、一枚の絵葉書が置かれていた。

 差出人は──神崎玲。


 白い絵葉書には、東京郊外の探偵事務所から見える山の稜線が描かれている。

 裏には、簡潔で整った筆跡でこう綴られていた。


「“語られた記憶”は、誰かの“灯り”になる。

_あなたの言葉で救われた人たちが、今も少しずつ歩いている。

ありがとう、たまきさん」


 たまきは目を伏せながら、それを指先でなぞる。

 この秋の事件で、語ることを躊躇っていた“ある少女”が、ようやく自分の体験を人に話せたと知ったばかりだった。


「……記憶が語られることで、痛みも、やがて形を変えるのね」


 たまきはそう言って、祠に向かって深く一礼した。

 その表情には、母のような慈しみと、語り部としての静かな誇りが浮かんでいる。


 湖の向こうでは、陽がゆっくりと山陰へと沈みかけていた。

 冷たい空気の中にも、かすかな光と、誰かの想いが、そっと寄り添っているようだった。

【場所】東京郊外・ロッジ兼探偵事務所/初冬の午後


【時間】12月3日(月)15:20


ロッジの郵便受けに、一通の封筒が届いた。

差出人の名は「高梨ユウタ」。


玲は応接室の机に戻り、封を切る前に一瞬だけ深く息をついた。



【手紙の本文】


神崎さんへ


あの夜、舞台の上で“終わらせた”つもりでいたのに、

本当は、ようやく“始まった”だけだったのかもしれません。


姉が照明に手を伸ばした理由、

僕が真実から目を逸らしていた時間、

それら全てを整理できる日が来るなんて、正直、思っていませんでした。


朱音さんの描いた“仮面を置いた少年”のスケッチは、

姉を送り出すための最後の光だったと、今はそう思えます。


御子柴さんには、舞台裏の構造図を見せていただきました。

あの時僕が気づけなかったことを、今度は舞台の誰かが気づけるように。


次の小さな地方公演では、僕が“安全確認”を指示する役になります。

あの日、見失ったものの代わりに、

今度は誰かの未来を守れる光を作りたいと思っています。


神崎さんたちと出会えて、本当によかった。


また、どこかで。


――高梨ユウタ



玲は無言のまま便箋を折りたたむと、暖炉の上の棚に立てかけたスケッチを見上げた。

そこには、朱音が描いた「一礼する少年と、灯るスポットライト」が飾られている。


階段を降りてきた朱音が、そっと問いかけた。


「……ユウタくんから?」


玲はうなずき、便箋を手渡した。


朱音は静かに目を通し、読み終えると、何も言わずに作業机へ向かった。

スケッチブックを開き、何かを描き始める。


彼女の手が動くたび、そこに浮かぶのは――

舞台袖で光を調整するユウタの後ろ姿。

背中には、ほんの少しだけ、朝の光に似た温もりが差していた。



御子柴理央も、奥の書棚から調査報告書を一冊取り出し、ぽつりとつぶやいた。


「記録は終わっても、人は続くんだな」


玲は微かに笑い、机の上の新たな依頼書に目を落とした。


「……続くさ。真実の後にも、人生が」

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