72話 「久岬村・氷鏡湖編」
主要人物
佐々木朱音
物語の中心となる少女。
他人の想いや記憶を直感的に絵に描き出す才能を持つ。湖の花嫁たちの存在を感じ取り、彼女たちの未練や願いを汲み取る「見送り手」として物語を導く。壁画制作を託され、久岬村の語り部のような存在へと成長する。
神崎玲
都市部の探偵。冷静沈着な論理派で、数々の記録や証言から事実を紐解いていく。朱音を守りながら事件の真相に迫り、未解決の過去と向き合う。
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協力者たち(玲のチーム)
橘奈々(たちばな なな)
玲の助手。記録や映像、現場分析を得意とする。
感覚が鋭く、小さな違和感や場の異変を早期に察知する。
沙耶
玲のもう一人の仲間。朱音の感情に寄り添い、精神的な支えとなる直感型の観察者。
過去の記憶や心の痛みに敏感で、人の内面を読み取る力がある。
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久岬村の関係者
服部たまき(はっとり たまき)
服部家の当主。氷鏡湖にまつわる古い言い伝えや封印の歴史を知る人物。玲たちに伝承の核心部分を語り、民俗資料の開示にも協力する。
悠生
過去の少女水死事件に関わった、当時の生き残りの青年。
長年口を閉ざしていたが、朱音たちの調査を通じて心を開き、償いと別れを語る。
八代雪也
氷月と想いを通わせていた青年。
失われた記憶をたどる中で再び彼女と向き合い、涙ながらに過去を受け入れる。
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氷鏡湖の“花嫁たち”
かつて命を落とし、湖に囚われた少女たち。それぞれが未練や後悔を残し、朱音や玲たちとの関わりの中で自らの想いを伝え、成仏していく。
ハル
指輪の破片と共に存在を辿られた少女。雪也との再会と別れを経て成仏。
氷月
かつて八代との婚約を夢見ていた花嫁。指輪を返され、想いを伝えたのち、弦之介と共に姿を消す。
その他の花嫁たちも、それぞれの家族のもとに現れて「幸せになって」と伝え、湖から旅立っていく。
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調査関係者・外部支援
片瀬洸二
K部門の検視官。冷静かつ実務的に現場を分析し、事故の背後にある違和感に気づく。玲たちの捜査を補佐する立場にある。
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チーム影(監視・支援部隊)
桐野詩乃
村の外れで監視任務に就いていた、影班の一人。
情報の隠蔽や監視が本職だが、朱音たちの誠実な姿に心を動かされる。
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佐々木家
佐々木圭介
朱音の義理の父。明るく優しい人物で、朱音にとって信頼できる保護者。
佐々木昌代
朱音の祖母。霊的な感受性を持ち、祠で手を合わせる場面が多い。朱音の“視える力”を信じ、導くように支える存在。
【場所】長野県・久岬村 氷鏡湖
【時間】12月25日 06:10
夜明け直前の空は、まだ深い群青色を湛えていた。
寒気は容赦なく地表を叩き、吐息はすぐに白く凍りつきそうなほどだった。
氷鏡湖。
その名のとおり、湖は一面の氷に覆われていた。
前夜に降ったばかりの新雪が、湖面を白く染め、どこまでも滑らかに広がっている。
まるで、まだ誰の記憶にも触れられていない白紙の世界。
音はなく、風さえも止まったようだった。
その静寂を破ったのは、一発の乾いた足音だった。
「ん……寒ぃな……」
猟銃を肩にかけた年配の男、地元の猟師・**吉岡茂**だった。
この時期は獣もあまり姿を見せないが、湖沿いに獣道の確認をするのが日課だった。
ふと、彼の足が止まる。
「……ありゃ、なんだ……?」
凍てつく湖の中央。
新雪の下、氷の向こうに、何かが“ある”。
目を凝らす。
それは──人だった。
湖面の中心、透明な氷の底に沈むようにして、白い着物を着た女の姿があった。
長い黒髪が、氷の中に広がっている。
まるで水草のように、静かに漂い、女の顔を縁取っていた。
表情は穏やかだった。
まぶたはうっすらと閉じられ、白い肌は氷と見紛うほど透き通っていた。
いや──いや、違う。
まぶたは閉じていない。
彼女は、こちらを──氷を隔ててなお、じっと見つめていた。
「な……んてこった……!」
茂の喉が震えた。
すぐさま腰の無線機に手を伸ばす。
「応答願います……こちら吉岡。氷鏡湖の湖面に……ひ、人が沈んでる。着物の女だ。こりゃ……事件だ、すぐに来てくれ……!」
呼吸が浅くなる。
凍った湖面に浮かぶ女の姿は、まるでこの世のものとは思えない美しさと不気味さを宿していた。
まるで、
数百年前からそこで眠っていたかのような、静けさだった。
そして、気づかぬうちに、湖面の雪がひと筋だけ乱れていた。
その軌跡は、まるで“誰かが”氷の下へ導かれた跡のように、女の遺体へとまっすぐ伸びていた。
それは──
**久岬村で語り継がれる「花嫁伝説」**が、今も続いていることを告げる、最初の兆しだった。
【場所】東京郊外・玲探偵事務所兼ロッジ
【時間】12月25日 午後5時30分
冬の夕暮れは早い。
街灯が灯りはじめる頃、東京郊外に建つロッジ兼探偵事務所にも、静かに夜が近づいていた。
神崎玲は、乱れた髪を指でかきあげながら書類の山を睨んでいた。
ここ数日で立て続けに舞い込んだ調査依頼――そのどれもが、ただの浮気調査や所在確認とは違う、どこか“異質な気配”を纏っていた。
とくに今朝、長野の久岬村から届いた一本の電話は、彼の勘を鋭く刺激した。
そのときだった。
事務所の玄関で、小さなベルが鳴った。
**カラン……**という控えめな音が、静寂を破った。
玲は立ち上がり、玄関へと向かう。
硝子越しに、冬のコートに身を包んだ人物の影が揺れていた。帽子を深くかぶっていて、顔は見えない。
ドアを開けた瞬間、冷たい風が室内を撫でた。
そして、訪問者は帽子を取ると、ふっと口元を歪めた。
「お久しぶりです、玲さん。……いや、“神崎玲”と呼んだ方が、いいのかな」
玲の表情が一瞬だけ強張る。
「……その呼び方をするってことは、あんた……」
「察しが早いのは相変わらずですね。僕ですよ。服部清志の……元部下です」
玲の視線が鋭くなる。
服部清志。かつて“記録管理課”に所属していた男。
そして、“封印”と“歴代の花嫁”に深く関わっていたはずの人物。
「久岬村……氷鏡湖で、遺体が見つかった。白無垢を着た女の遺体が、氷の下で静かに沈んでたそうです」
玲は黙ったまま、背後のデスクへ戻ると、一枚の封筒を取り出し、中から報告書を取り出して机に広げた。
表紙にはこうあった。
【久岬村・氷鏡湖 異常死亡調査依頼】
男は、玲の動きを見ながら微笑んだ。
「やっぱり、動いてたんですね。“氷鏡の封印”が揺らぎはじめたら、きっとあなたが来るだろうと、清志さんも言ってましたよ」
「……清志はまだ、生きてるのか?」
「ええ。村にいます。名を変えて、立場を変えて──けれど、“あの計画”を捨ててはいません」
玲の眼差しに、鋭い光が走る。
「そうか。じゃあ、こっちも準備を始めないとな。過去の“約束”を、今度こそ終わらせるために」
男は軽く頷いた。
「封印域の座標、渡しておきます。……ただし、辿り着けるかどうかは、あなたと、“あの少女”次第ですけどね」
玲の背に置かれたコートが、彼の決意を象徴するように揺れた。
遠く久岬村では、氷の湖が静かに眠っている。だがその下では、過去の“罪”が、目を覚まそうとしていた。
【場所】玲探偵事務所兼ロッジ
【時間】12月25日 午後5時35分
ロッジの中には、ストーブのぽつぽつという音だけが静かに響いていた。
外の雪はゆっくりと降り続けていて、窓ガラスの向こうで街灯の明かりに照らされていた。
朱音は机の上に置かれた大人用のコートの袖を、ちょこんと指先でつまんでいた。
その顔には、少しだけ、不安と――それでも行かなきゃ、という気持ちが入り混じっていた。
「ねえ、玲さん……わたし、ほんとうに行くの?」
その問いに、神崎玲は机の向こうから静かに頷いた。
「君が見た夢……あれは偶然じゃない。あの湖に、何かがある。そして君は、それを感じ取ってる」
朱音は、眉をひそめて俯いた。
スケッチブックを抱きしめるように持ち直し、小さな声でぽつりと言う。
「……夢でね、あの人、また呼んでた。白い服きた女の人。――あの人、さびしそうだった」
玲は黙って頷いた。
しばらく沈黙が流れたあと、朱音は机の上の湯気がたったマグカップに目をやり、それを両手で包んだ。大人が飲む苦いコーヒーではなく、砂糖のたくさん入ったあたたかいココアだった。
「こわいよ。でも……行かなきゃって、思うの。わたしが行かなかったら、あの人、ずっと……あのままかも」
玲は机の上の資料を鞄にしまいながら、静かに口を開いた。
「君は優しいな。……だからこそ、真実に近づけるのかもしれない」
その時、廊下の奥からぱたぱたと足音が近づいてきた。
現れたのは、奈々と沙耶。ふたりとも厚手の上着に着替え、荷物も整っていた。
「準備できたよ」奈々が軽く手を挙げる。
「朱音、寒くないようにしてね。あの村、空気がピリッとしてるから」沙耶は朱音の肩にそっと手を置いた。
朱音は頷き、小さな声でつぶやく。
「うん……行こう。ちゃんと……話を、聞かなきゃって思うから」
玲はコートを手に取り、部屋の明かりを落とした。
ロッジの扉がゆっくりと開かれ、冷たい夜風が一行の足元を吹き抜けていく。
朱音はスケッチブックを胸にぎゅっと抱えて、雪の降る外へと一歩踏み出した。
【場所】朱音の小学校・図書室
【時間】12月26日 午前9時15分
図書室は、しんと静かだった。
窓から射しこむ冬の光が、本棚の影を長く伸ばしている。朝の冷たい空気がまだ少し残っていて、朱音はセーターの袖の中に指先を隠しながら、そっと歩いた。
彼女の腕には、民俗学の本が三冊ほどぎゅうぎゅうに抱えられている。ページの端がすこし折れていたり、分厚くてかたい背表紙に手が当たってちょっと痛かったりもするけれど、朱音はそれを気にするそぶりもなく、静かに机へと向かった。
――湖の話。花嫁の話。
夢の中で聞いた名前や言葉が、どこかに書いてあるような気がしていた。
「あ……これ、『久岬』って書いてある」
ぽつりと、朱音は口にした。
開いたページには、白黒のぼやけた写真とともに、村の古い儀式についての説明が載っていた。
“――年に一度、冬至の夜、湖に捧げられる白無垢の花嫁。村の守り人は、その記憶を代々継ぐ”
朱音はその一文を何度も読み返した。胸の奥が、少しだけ重くなる。
夢の中で出会った、白い着物のあの人の顔が、ふっと浮かんだ。
「……どうして、あんなふうに泣いてたのかな」
誰に聞かせるでもなく、そうつぶやいた。
朱音の指がページをめくるたび、紙がかさりと鳴った。
分厚い本の中から、ぽつりぽつりと、何かがこぼれてくる気がした。
昔の人の名前、儀式の道具、湖の水が青く光る夜のこと――。
朱音は、スケッチブックをそっと開いた。
夢で見た光景を描きとめたページに、そっと指をのせる。
「……やっぱり、夢じゃないんだよね」
窓の外では、校庭の木々が風に揺れていた。
図書室の片隅、分厚い本に囲まれた少女の瞳は、遠い昔をじっと見つめていた。
【場所】朱音の小学校・教室
【時間】12月26日 午前9時20分
図書室から戻ると、教室の中はすっかり“いつもの”感じに戻っていた。
友達の声、先生の話す声、鉛筆のカリカリという音。みんなが授業に集中してるその中で、朱音は自分の席にそっと腰を下ろした。
机の引き出しからノートを出すふりをしながら、さっき読んだ本の言葉が頭から離れなかった。
“白無垢の花嫁”って、どうして湖に行かなきゃいけなかったんだろう。
“守り人”って、だれのことなんだろう。
「朱音ちゃん、先生が黒板に書いたやつ、見えてる?」
隣の席の子がこっそり教えてくれた。
「あっ……う、うん。ありがとう」
朱音はちょっとだけ笑って、慌ててノートを開いた。
でも、ページの罫線が、夢の中の湖の水面みたいにゆらゆらして見えた。
頭の中では、白い花びらが風にまう夢の映像が、ずっと流れ続けていた。
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【場所】都立小学校・学校前の坂道
【時間】12月26日 午前11時50分
午前の授業が終わり、朱音はランドセルを背負って坂道を降りていた。
雲の切れ間から出てきた冬の太陽が、校門の先の雪をきらきら光らせている。
足元の雪は少しだけ溶けていて、ザクザクと小さな音を立てる。
その音が、なんだか心臓の音みたいに感じられて、朱音は少し早足になった。
今日、また夢を見た。
そして今朝、図書室で見つけた言葉。全部が、なにかに繋がっている気がしてた。
「朱音!」
ふいに呼ばれて、顔を上げる。
バス停のそばに、見慣れたロングコート姿の玲が立っていた。後ろには、沙耶と奈々の姿もある。
「やっぱり……来てくれたんだ」
朱音は小さく笑って、駆け寄った。
玲は無言で頷くと、朱音の目をじっと見て言った。
「朱音の見た夢のこと、もう少し詳しく教えて」
「……うん。わたし、たぶん……行かなきゃいけないとこがあるんだと思う」
そう言った朱音の目は、不思議と迷いがなかった。
夢の中の白い道を、今も胸の奥で歩いているような、そんな顔だった。
【場所】中央自動車道・東京→長野 高速道路上
【時間】12月26日 午後1時25分ごろ
高速道路を走る車の車内。
玲の運転するSUVは、冬の午後の日差しの下、東京を抜けて山梨方面へと向かっていた。
助手席には沙耶が乗り、後部座席には朱音と奈々が並んでいた。
「朱音、寒くない?」
沙耶が振り返って、後ろの娘に声をかける。
「だいじょうぶ。この毛布、あったかいよ」
朱音はそう言って、ひざに掛けたチェック柄のブランケットをぎゅっと抱きしめた。
けれど、その口元は少し引き結ばれ、目線もどこか遠くを見ていた。
「朱音ちゃん、顔がちょっとこわばってるよ。酔った?」
奈々が心配そうに訊くと、朱音は小さく首を横に振った。
「ううん……さっき、また見たの。夢」
その一言に、車内の空気が少し静まる。
「また“花嫁”の夢?」
沙耶の声が少しだけ低くなる。
「ちょっと違ったかも。白い着物の人じゃなくて……もっと昔の人みたい。顔はよく見えなかったけど……手に、石のかけらみたいなの持ってて、なにか言ってた」
玲はバックミラー越しにそれを聞きながら、運転席で静かにハンドルを握り直した。
「朱音」
沙耶が優しく声をかける。「無理しないで。ちゃんと、お母さんたちがいるから」
「うん……でも、ほっとけないんだ」
朱音はちょっとだけ唇をかんだあと、前を見てぽつりと続けた。
「……あの人、ひとりで泣いてた。たすけてって言ってるように、聞こえた」
奈々がやわらかく笑う。「朱音ちゃんは、ほんとにやさしいね」
朱音は、ちょっと照れくさそうに笑った。
「玲お兄ちゃん」
「ん?」
玲は視線を少しだけバックミラーに向けた。
「もうすぐ、つく?」
「あと一時間半くらいだ。久岬村に入ったら、そこから先は雪道になる」
「そっか……。こわいけど、がんばる。みんな、いっしょだから」
玲は、わずかに笑んだ。「ああ、そうだな」
その瞬間、ラジオから流れていた音楽が途切れ、天気予報が始まった。
「長野県北部は、午後から降雪。峠では積雪に注意が必要です──」
玲は道路標識を確認しながら、小さくつぶやく。
「……時間との勝負か。封印が目を覚ます前に、たどり着けるかだな」
車は雪の舞うトンネルへと入っていく。
その先に待つものが、彼らの想像以上のものになることを、まだ誰も知らなかった。
【場所】村入口・古い街道沿い
【時間】12月26日 午後1時30分
車のドアが重たく閉まる音とともに、冬の冷たい空気が頬を刺した。
久岬村──その古びた木製の案内板は、雪に半ば埋もれながらも、かすれた墨文字で訪問者を迎えていた。
「……ここが、村の入り口か」
玲がマフラーを巻き直しながら、目の前の街道を見渡す。雪がちらちらと舞い、道の端には黒ずんだ雪の山が押し寄せていた。
朱音はブーツのつま先で、固まった雪をこつんと蹴った。
「……思ってたより、さむい……」
そうつぶやいて、彼女は母・沙耶の手をそっと握る。
沙耶はその小さな手を包み込みながら、玲と奈々の方に目を向けた。
「この先に、村の本通りがあるはず。服部たまきさんの家も、そっちよね?」
奈々は手袋をした指でタブレットを操作しながらうなずいた。
「ええ、衛星地図だと右手に折れて……この古い石段をのぼると、村の中心に抜けるみたい」
朱音はふと顔を上げた。
雪の中に沈み込むような、白い静けさがあたりを包んでいる。
聞こえるのは、自分たちの吐く息と、遠くで鳴くカラスの声だけ。
「なんか……ここ、空気がちがうね」
ぽつりと朱音が言った。
「どう、ちがう?」玲が立ち止まり、朱音に視線を向ける。
朱音はちょっと考えてから答えた。
「さびしい……っていうか、ずっと“待ってる”感じがする。だれかを」
その言葉に、沙耶と玲がちらりと目を交わす。
「鋭いな、朱音は」
玲がそう言って、朱音の頭にそっと手を置いた。
「……うん。でも、こわくはないよ。玲お兄ちゃんも、おかあさんも、奈々さんも、いるから」
奈々は微笑みながら朱音のそばにしゃがみこみ、彼女の帽子の位置を直した。
「頼もしいね、小さな守り手さん」
そのとき、山の斜面に沿ってのびる小道の奥から、かすかに雪を踏む足音が聞こえた。
玲が素早く視線を向け、コートのポケットに手を入れる。
しかし、現れたのは村の老人と思しき男性だった。
白髪交じりの頭に、厚手のコートを羽織っている。
「……おまえさんら、外の人か?」
男の目は鋭い。だが敵意はなく、ただ何かを見定めるようなまなざしを向けてきた。
玲が一歩前に出る。「東京から来ました。服部たまきさんに案内されて……」
「ふむ……たまきの知り合い、か」
男はうなずくと、彼らをじっと見たあと、朱音に視線を落とした。
その目が、一瞬だけ何かに気づいたようにわずかに揺れる。
「……その子、名は?」
朱音は少しだけ戸惑いながらも、小さく名乗った。
「……朱音。佐々木朱音、です」
「……そうか」
男はそれ以上は何も言わず、帽子を軽く深くかぶり直すと、雪の中へと歩き去っていった。
玲たちはしばしその背を見送っていた。
「……ここ、やっぱり何かある」
沙耶がぽつりとつぶやく。
玲は静かにうなずき、足元の雪を踏みしめて言った。
「急ごう。……時間が惜しい」
朱音の瞳は、村の奥に向けられていた。
その先には、あの“夢”で見たような、白い霧と、祈りのような何かが待っている気がしていた。
【場所】服部たまき宅(久岬村・山間部)
【時間】12月26日 午後1時40分
古びた石段を登り切った先、小さな切り株の向こうに、ひっそりとした一軒家があった。
雪に埋もれかけた屋根、囲炉裏の煙突からはうっすらと煙が立ちのぼり、どこか懐かしい匂いを風が運んでくる。
玲が前に立ち、木製の門を軽く押し開けた。
「ここだ。服部たまきさんの家……」
「……なんか、おばあちゃんちって感じだね」
朱音がぽつりとつぶやいた。
玲のすぐ隣にぴたりと寄り添いながら、朱音は手袋をした手をギュッと握りしめていた。
沙耶が周囲を見渡しながら、注意深く頷いた。
「周囲に人気はないけど、家の中の気配はあるわ。……あたたかいのも感じる」
玲が軽くうなずいて玄関の戸を叩いた。
すると──わずかに間を置いて、年季の入った木戸が内側から軋んだ音を立てて開いた。
現れたのは、灰色の髪を後ろで束ねた高齢の女性だった。
その目元には深い皺が刻まれているが、不思議な威厳と優しさが同居していた。
「……よう来てくれたね。あんたが、神崎玲さんかい?」
「はい。玲です。そして──」玲が後ろを向く。「こちらが、沙耶さんと奈々さん。それと、朱音です」
朱音は少しだけ緊張しながらも、お辞儀をした。
「こんにちは……あの、おじゃまします」
たまきの目が朱音に向けられると、一瞬その瞳が深く動いた。
まるで、何かを確かめるように。
「……ああ、なるほど。そういうことかね……」
たまきはぽつりと呟いたあと、彼らを中へと招き入れた。
⸻
古民家の室内には、火鉢の赤い炭がじんわりと部屋を暖めていた。
畳の縁は擦り切れていたが、清潔に保たれており、室内には民芸品や古い巻物のようなものが飾られていた。
「どうぞ、そこにおかけ」
たまきが座布団を勧めると、玲と沙耶、奈々は整然と腰を下ろす。
朱音は玲の隣にちょこんと座った。
「たまきさん。服部清志氏について、少しお話を伺いたいのですが」
玲が切り出すと、たまきは黙って火鉢に灰を足しながら、静かにうなずいた。
「……やっぱり来たね、清志のこと。あれは……“あっち側”に足を踏み入れてしもうた者だよ」
たまきの声は、炉の火のように低く、ゆるやかだった。
「封印……あるいは儀式について、もうご存知だろう?」
「はい、ある程度は。けれど、情報が不完全です」玲が答える。
たまきは目を細め、部屋の奥にある木箱を引き寄せた。
中から取り出されたのは、厚手の布に包まれた古文書だった。
「……これは、“最初の花嫁”が記したとされる手記の写しじゃよ」
たまきは丁寧に布をほどきながら続ける。
「湖に捧げられた女たち。その系譜と、そこに紛れた“選ばれざる者”の話もな……」
奈々が身を乗り出した。「“選ばれざる者”?」
「そう。まことの封印を解くには、“四つの鍵”が必要じゃが……第四の鍵は、“血の記憶”を受け継ぐ者の持ち物に宿るという。……あの子が持っている物の中に、な」
視線は朱音のリュックへ向けられていた。
「えっ……? わたしの……?」
朱音は自分の持ってきたカバンをそっと抱き寄せた。
玲が朱音の背中に手を当て、優しく問う。
「朱音、夢の中で──何か“手渡された”ような感覚、覚えてるか?」
朱音はしばらく黙っていたが、小さくうなずいた。
「……うん。……白い花のかんむり。湖の中の、女の人が、わたしに“あげる”って……」
「それだ」たまきが頷いた。「第四の封印具、“水辺の花冠”。それが朱音の夢と繋がったということは……」
──封印が、目を覚ましつつある。
その空気が、部屋の隅々に広がっていくのがわかった。
玲が立ち上がる。「たまきさん、あなたは協力者なんですね」
たまきは、ただ静かにうなずいた。
「清志は、おそらく“封印の逆解”を狙っている。……湖の底にいるものを、起こすつもりじゃ」
沙耶が立ち上がる。「なら、こちらも動くしかないわね」
たまきは立ち上がり、ふすまの奥に向かって歩いた。
「準備はもう整っている。封印域の入口──案内してやろう」
【場所】長野県・久岬村 氷鏡湖
【時間】12月26日 14:00
冬の陽が斜めに差し始めた午後、久岬村の山あいにひっそりと広がる氷鏡湖は、言葉を呑むような静寂に包まれていた。
湖面は完全に凍りつき、その上には新雪が薄く積もっている。風も音もなく、時間が止まったような世界――。
玲は、たまきに案内されるかたちで湖畔へと足を踏み入れていた。
そのすぐ後ろに、朱音、沙耶、奈々の姿が続く。朱音の肩には、たまきから手渡された「水辺の花冠」が、薄手の布に包まれて収められていた。
「これが……封印域の入り口、か」
玲がそう呟くように言ったとき、たまきが湖の中央、わずかに歪んだ氷の模様を指さした。
そこだけ、氷が幾重にも重なったように濃く、まるで“何か”を閉じ込めているかのように見える。
「封印は、湖底の“旧神社”に向けて張られている。……この地に眠る“最初の花嫁”の記憶と共に、な」
朱音が玲の袖をそっと引っ張る。
「玲お兄ちゃん……ここ、なんか、冷たいだけじゃないよ。……胸が、ドクンドクンってするの」
玲はその言葉に眉をひそめ、沙耶と目を合わせた。
沙耶は静かに頷く。「朱音は、もう“呼ばれてる”。この湖に眠る記憶が、彼女を必要としてる」
奈々がデバイスを覗き込みながらつぶやく。
「電波、完全に途切れてる……。GPSも利かない。ここから先は、通信不能ね」
たまきは雪の中に半ば埋もれた石碑を示した。
そこには、古い文字でこう刻まれていた。
──是ヨリ先、記録ハ残ラズ──
「封印域へ入れば、“今”という時間も、“外”の常識も通じなくなる。……だが、朱音にはきっと、見えるはずじゃ。封印の核心が」
玲は小さく息を吐き、足元を固めるように雪の上を踏みしめた。
「行こう。ここから先は、もう戻れないかもしれない。それでも──俺たちは、行くしかない」
朱音はこくんと頷き、花冠の包みを両手で強く抱きしめた。
「うん……だって、あの女の人、夢の中で言ってたもん。“待ってる”って……」
沙耶が朱音の手をそっと握った。「母さんも、一緒にいるからね。絶対、守る」
「ありがとう、お母さん……」
たまきは最後に一歩下がり、深く頭を下げた。
「……封印を越えて、“過去”と“今”を繋ぐ時が来た。あんたたちの力で、どうか……」
その言葉と共に、玲たちは氷の上を一歩、また一歩と進み出した。
──雪が、音もなく舞い落ちる。
──空気の密度が変わり始める。
そして、湖の中央──幾重にも重なる氷の層が、ほんのわずかに軋んだ音を立てた。
それが、「封印域」への扉が開く合図だった。
【場所】氷鏡湖 封印域 内部
【時間】12月26日 14:10頃(表層時間)
雪を踏みしめた足音が、やがて音を失う。
玲たちが湖の中央に踏み入った瞬間、空気が不自然に揺らいだ。まるで厚い水の膜に包まれたような圧力。次の瞬間、世界が――切り替わった。
──風が止んでいた。雪も、音も、色さえも、どこか遠くに置いてきたような感覚。
目の前に広がっていたのは、時間から断絶された空間だった。
氷鏡湖の湖面はそのままに、けれど空は異様なほど深く、鈍く輝く灰色に染まっている。まるで空が水面に沈み、地上が天となったかのような錯覚。
朱音はそっと玲の腕を掴んだ。
「……ここ、どこ? お兄ちゃん……」
玲は朱音の手を強く握り返した。「大丈夫、離れるな」
足元にはうっすらと雪が残っていたが、それは現実のものとは違う。まるで夢の中の残像のような、触れれば消えてしまいそうな質感だった。
その中央に――それは、いた。
白い衣に身を包み、長い黒髪を地に引くように垂らしながら、ひとり静かに立つ女。
表情は読めなかった。けれど、彼女の眼差しは、まっすぐに朱音だけを見ていた。
「……あなたが、来てくれたのね」
声が、雪の粒のように静かに降ってきた。
朱音は思わず一歩前に出た。玲が声をかけようとしたが、それよりも先に朱音は口を開いた。
「あなた……夢で、何回も会ったよね。泣いてた。……寂しそうに、湖の底で」
女はうなずいた。そして、静かに言葉を続ける。
「わたしは、“最初の花嫁”。名を……ユラと言います。
封印を生んだ、この村の最初の犠牲者」
「犠牲者……?」
ユラは朱音を見つめたまま、過去のように語りはじめる。
「……何百年も昔。久岬の地には、“水の災い”があった。人が住むこともできないほど、湖は暴れ、命を飲み込んだ。
そのとき、わたしは……“人柱”として、この湖に捧げられたのです」
その言葉に、沙耶が息を呑む。
「じゃあ……封印って、本当に“生贄”だったの……?」
ユラはうなずく。その瞳に、怒りも憎しみもなかった。ただ、深い哀しみが宿っている。
「それから、時が流れても、“封印”は繰り返された。
“最初の一人”が捧げられた時から、それは“しきたり”に変わり、いつしか“伝承”になった」
朱音は、懐から例の花冠をそっと取り出した。
「これ……あの、おばあちゃんがくれたの。『水辺の花冠』って。……もしかして、ユラさんの?」
ユラは微笑んだ。その微笑みは、悲しみと優しさが混ざり合ったものだった。
「ええ。これは、封印を繋ぐ“第四の封印具”。
わたしの記憶……そして、全ての花嫁たちの想いが、そこに眠っています」
玲が静かに尋ねた。「それを使って……封印を終わらせることはできるのか」
ユラは朱音の肩に手を置いた。
「封印を断ち切るには、“最も無垢な心”が必要。
わたしたちの記憶と痛みを受け入れた上で、“哀しみを繰り返さない”と願う者の意志が」
朱音はこくんと頷いた。
「わたし、聞いたよ。夢で。みんな泣いてた。でも、ひとりひとり、すっごく優しかったの。
このまま、誰かがまた泣くの、やだ。だから……絶対、止めたいの!」
その瞬間、朱音の胸元にある花冠が淡い光を帯びはじめた。
白い光が円を描きながら広がり、封印域の空が軋むように震え出す。
ユラは、そっと朱音の耳元で囁いた。
「ありがとう、朱音。あなたの願いが、わたしたちを……解き放ってくれる」
そして、ユラの身体が、雪の光と共にゆっくりと溶けていく。
その瞬間、空に閉ざされていた何かが崩れ落ちるように──光の柱が湖の中央から天に向かって立ち上がった。
玲が呟く。
「封印が……動き出した」
【場所】久岬村・氷鏡湖 封印域外縁
【時間】12月26日 14:20
空が――軋んだ。
それは誰かの呻き声のようで、また怒声のようにも聞こえた。封印の儀が終わった直後、玲は首筋に走る鋭い違和感に気づいた。
「……待て、何かがおかしい」
朱音の肩を軽くかばいながら玲は周囲を見渡した。さっきまで静まり返っていた湖面。その氷が、かすかに震えている。風も雪も止んでいたはずだったのに――地の底から、唸るような低い振動がじわじわと広がってきていた。
「今の……さっきの封印とは別物じゃない?」奈々が眉をひそめて声を落とす。
玲は頷いた。「これは“もう一つの目覚め”だ。まるで封印の解除を待っていたかのように――同時に動き出した何かがある」
その時、沙耶が小さく息を呑み、湖の北岸を指差した。「玲……あそこ」
視線の先、山道の先にある古い神社跡。そこに、ひとりの人影が立っていた。ロングコートに深くフードをかぶった男。その足取りは遅くも早くもなく、まるで決められた儀式の手順をなぞるようだった。
「……あれは清志じゃない。だが、どこかで見た記憶がある」玲が低くつぶやいた。男は立ち止まり、こちらを振り返る。深く影を落としたフードの奥で、瞳が光った。
左右で色の異なる瞳――一方は淡い灰色、もう一方は深紅。玲の顔から血の気が引いた。「“双眼の預言者”……?」
ふっと、男の姿が雪の中から消えた。そこにいた気配は完璧に消えたのに、雪の上にははっきりと足跡だけが残っている。しかも、それは北の神社跡――立ち入り禁止の廃域へと向かっていた。
沙耶は朱音の手を取り、ぎゅっと握る。「朱音、大丈夫。怖くないよ。でも……なんか、すごくイヤな風が来てる」
玲は顔をしかめた。「……封印は終わった。でも、これは“始まり”だ。誰かが、封印の解除を合図に動き出した。それも――かなり前から準備されていた計画だ」
奈々が口を挟む。「じゃあ、花嫁伝承はただの導火線で、本当の火薬は……これ?」
「その可能性がある」と玲。「今の奴、間違いなく俺たちの過去に関係してる。十年前、“あの倉庫”の夜から続いている因縁かもしれない」
遠くの山の稜線に、不穏な雲がゆっくりと立ち上っていく。朱音は空を見上げ、小さくつぶやいた。「……また、何かが来るの?」
玲はゆっくりと頷いた。そして、氷鏡湖の南、古い街道の先へと視線を向けた。次に向かうべき場所はもう決まっている。
【場所】氷鏡湖・北岸 神社跡の裏手
【時間】12月26日 午後2時30分
湖畔の北岸、朽ちた鳥居の奥に、ひとりの男が立っていた。
古い石段を踏みしめる足音が、凍てついた空気の中に鋭く響く。玲と沙耶、奈々、朱音の四人は、静かに神社跡地へと近づいていた。
玲は手を挙げて制止の合図を出す。「……見えるか、あの男。まだ立ってる」
その男は、まるで待っていたかのように動かず、ただこちらを見ていた。風も音もない、空間そのものが凍りついたような感覚が広がっていた。
「フード、取った……」奈々の声がわずかに震える。
その顔――左右の瞳の色が違っていた。右は灰色、左は深紅。どこか人間離れした静けさを宿す目。そして、その顔の輪郭、頬のほくろ、声に滲む抑えた低音に、沙耶が一歩前に出た。
「……あなた……伏見清志さん……じゃないの……?」
男は小さく笑った。「よく気づきましたね、沙耶さん。けれど、それは“昔の名”です。今の私は“名乗る者”ではない。あえて呼ぶなら――《預言の双眼》とでも」
玲が目を細めた。「伏見……朱音の父、清志……だと?」
朱音が思わず沙耶の手をぎゅっと握る。「ママ……?」
沙耶は唇を噛みながら、わずかに頷いた。「朱音……この人……たぶん、あなたのお父さんよ。でも、あの頃とは――違う」
清志――いや、“双眼の預言者”は、一歩前に出た。その動きに、雪が静かにきしむ。
「十年前、私は村を出た。だが、その時すでに《目》は開いていた。双眼が見るものは、“今”ではない。“まだ来ていないはずの過去”や、“記されることのない未来”だ。……あなたたちの儀式、見届けさせてもらったよ」
玲が低く問う。「封印が終わるのを、待っていたのか?」
「封印の完了が、すべての“鍵”になるからです」清志は淡々と答える。「かつて、花嫁たちが沈められたのは“儀式”としてではなく、“祈り”だった。だが、途中からそれは“罰”へと変質した。私はそれを知ってしまった。……夢の中で。何度も、何度も」
沙耶の目が揺れる。「……あの夜、あなたが消えた理由……それも?」
「沙耶……私には、未来が“音”で聞こえるようになったんだ。氷が割れる音、湖が叫ぶ音、少女が泣く声。……そして、朱音が私の前で、“何か”に手を伸ばす未来」
朱音が小さな声でつぶやいた。「……わたし?」
清志はその言葉に優しく微笑んだ。「そう、朱音。君の中には、“花嫁の記憶”が宿っている。だが、それだけじゃない。“花嫁に選ばれなかった者たち”の残響も、全部、君の夢に集まっていた。それを解き放つ鍵が、君の中にある」
玲が一歩踏み出す。「だったら、お前が言っている“もう一つの目覚め”とは?」
「《封印》は確かに閉じられた。しかし、花嫁の怨念を歪め、“祀り上げた者たち”の記憶は消えていない。封印が解けることで、今度は“彼ら”が蘇る……」
奈々が青ざめた。「つまり、封印は一度きりじゃ止まらないってこと?」
「“封印の儀”は表の鍵。だが、裏の鍵を持つ者がいる。……その者が、朱音に触れる時――《選ばれなかった花嫁たち》が、現世に姿を現す」
玲の表情が険しくなった。「つまり、これが終わりじゃないということだな」
清志は頷く。そして、最後にこう言った。
「朱音……君の見る夢は、未来への警告だ。そしてその夢を、正しく読み解けるのは――“母と子”の記憶だけだ。……どうか、君が選ぶ道を、間違えないでくれ」
その言葉を最後に、清志の姿はふっと風に溶けるように掻き消えた。残ったのは足元に残された、封印具の破片と、朱音の手のひらに温かく残された、かすかな“記憶の余熱”だけだった。
【場所】氷鏡湖・臨時調査テント
【時間】12月26日 14:40
薄曇りの空の下、玲たちは調査用に設営された仮設テントへと戻ってきた。風除けの布地がぱたぱたと音を立て、外気の寒さがじわりと内部へ染み込んでくる。
テントの中では、既に一人の男が待っていた。
K部門の検視官、片瀬洸二――無骨な印象の男で、目元には疲労と緊張の痕跡が刻まれている。
「玲さん。現場からの第一報、まとまりました」
低く、淡々とした声だった。片瀬は防寒仕様の黒いジャケットの前を閉じたまま、手にしたタブレット端末をスライド操作し、画面を玲たちに見せた。
「こちらが今朝、湖岸の祠付近で発見された《封具の破片》の解析映像。加熱痕あり。破壊は自然劣化ではなく、明らかに意図的な加圧──つまり、誰かが外から壊した痕跡です」
玲の目が鋭くなる。「“偶然解けた”じゃない、ってことか」
「はい。加えて……」片瀬は別の画面へと切り替える。「同時刻、村内の通信網に一時的な“偽装遮断”が確認されました。誰かが、目撃者の動きを封じていた可能性が高い」
その場が一瞬、静かになった。
奈々が小声でつぶやく。「……つまり、内部協力者がいる……」
「K部門でも、現地での対応を増強中です。現状、封印を直接破った人物は不明。ただ──」片瀬の声が少しだけ落ちた。「……湖岸で発見された足跡のひとつ、被検体番号“K-00231”のものと一致しました」
沙耶がはっと息をのむ。「……それ、圭介の登録番号じゃ……?」
一同の視線が一斉に、少し離れた位置で黙っていた圭介に向けられた。
圭介は、顔を伏せたまま、言葉を発しない。ただ、拳を握りしめている。
すると──朱音が、すっと圭介の隣に立った。
「圭介……パパ……?」
彼女の声は細く、震えていた。
朱音の手が、圭介のコートの裾をきゅっと掴む。
「さっき……あの人……伏見清志って言った。わたしの“本当の”お父さん……」
朱音の目が潤んでいく。「でも、違う……わたし……」
圭介が顔を上げると、そこには、子どもが精一杯に心を押し出す姿があった。
「わたし、知ってる。朝、熱が出たときも、雪の中で倒れたときも……いっつも、一番に手を握ってくれたの、パパだもん……!
誰がなんて言っても、朱音は……圭介パパが、本当のパパだと思ってる……っ!」
その言葉に、沙耶がそっと朱音の肩を抱く。彼女の手もまた、小さく震えていた。
圭介は、ゆっくりと片膝をつき、朱音の目線に合わせた。
「朱音……ありがとう。でもな、俺は、君の本当の父親じゃない。血も、記録も、何一つ繋がっていない」
「ううんっ……そんなの、関係ないっ!」
朱音は涙をこらえきれずに叫ぶ。「血がつながってなくたって、わたしにとっては……パパは、圭介しかいないんだよっ……!」
その瞬間、テント内の空気がわずかに変わった。
誰もが、その子どもの真っ直ぐな想いに、言葉を失っていた。
玲は小さく息をつき、黙って片瀬の報告へと目を戻した。
「片瀬。続きはあとで構わない。一つ、確かなことがある」
玲はそう言って、朱音の肩をそっと支えた。
「この子を守れるのは、今、俺たちしかいないってことだ」
【場所】氷鏡湖・東岸・樹林帯の裏手
【時間】12月26日 15:10
白銀の湖面が静かに光を返す午後、朱音の足取りは、誰にも気づかれぬまま氷鏡湖の東側、古い樹林の奥へと伸びていた。
風はほとんどなかったが、枝に積もった雪が時折はらはらと落ちて、足元に小さな音を立てる。誰かがついてくる気配もなく、聞こえるのは自分の吐息と、ぎゅっ、ぎゅっと雪を踏みしめる足音だけだった。
朱音は両手でマフラーの端をぎゅっと握りしめながら、進んだ。
(……呼ばれてる気がしたんだ)
心の中で誰にともなくつぶやきながら、彼女は足元に気をつけて林の中へ入っていく。雪に覆われた地面はまだらに凍っており、足を取られそうになるたび、彼女は枝につかまりながら体を支えた。
すると、ふと、風の中に何かがまじる。
微かに漂う──線香のような、けれど土と水に混じった古びた香り。
朱音は立ち止まった。目の前の木立がぽっかりと開けており、その先に、小さな石の祠のようなものが見えた。
雪に埋もれかけた祠の前には、誰かが最近踏みしめたような足跡があった。祠の脇には、折れたままの木札と、湿った紙垂が風に揺れていた。
「ここ……なにかあったのかな……」
小さな声でそうつぶやいた瞬間だった。
朱音の背後に──ふっ、と空気が引かれるような感覚が走った。
振り返る。
誰もいない。けれど、たしかに“何か”がいた気配。温度も、空気の密度も変わったような──まるで、見えない誰かが、こちらを見ているような。
「……また、夢の中みたい」
朱音はぽつりと言い、ゆっくりと祠の前に膝をついた。手袋を外し、そっと祠の前に手を合わせる。
その瞬間、風がぴたりと止まった。
そして、耳の奥で、誰かの声がふわりと響いた。
──あなたの声、聞こえています。
「……だれ?」
朱音は問いかけるが、返事はない。ただ、空気がやわらかく震え、足元の雪がかすかに溶け始めたように見えた。
朱音は立ち上がり、祠の中を覗く。すると、そこには──
ひとつの「髪飾り」が置かれていた。
古いものだが、雪に濡れていない。不思議なことに、その髪飾りはどこか、最初の花嫁の夢で見た“彼女”が身に着けていたものと似ていた。
朱音はそっとそれを手に取る。
その瞬間、視界が白く染まり──
ざあっと、遠くで水の流れる音が聞こえた。
それは、冬の湖にはあり得ない、まるで春の雪解けのような、あたたかい水音だった。
【場所】氷鏡湖・東岸・樹林帯の裏手
【時間】12月26日 15:11
朱音の指先が髪飾りに触れた瞬間、空気がふるりと震えた。
それは音のない“ゆらぎ”だった。
氷のような静寂の中に、何かが目覚めたような、見えない水面が波紋を描いたような──
次の瞬間、朱音の視界が、すうっと淡く白んでいった。
「夢だ……」
自分の口がつぶやいたことすら遠くに感じながら、彼女の意識は、祠を中心に広がる“記憶の層”へと引き込まれていく。
──最初に見えたのは、薄紅の振袖を着た、幼い少女のような花嫁だった。
表情は幼く、唇をぎゅっと結んでいた。
彼女の背後には、村の古い社が見え、その手には、刺繍の施された布が握られていた。
「わたしが最初……水の中に降りて……村を護ったの……でも、寒かった……とっても、寒かったの」
声は朱音に直接届くように響いた。
──次に現れたのは、年若い女性。
眼差しは穏やかで、けれどどこか諦めを宿している。彼女の名は「澪」と囁かれた。
「湖の底で、声を失った花嫁は、夢の中でしか語れなくなったの。記憶が、水の底に落ちていくたびに、自分の名前さえ思い出せなくなる」
朱音の足元に、澪の影が滲むように消える。
──続いて現れたのは、深紅の髪飾りを身に着けた女。
その名は「志乃」。雪の中、無言で立ち尽くしていたが、手には古びた扇子を握っていた。
(……みんな、湖に……)
──「晶」
──「綾音」
──「文」
──「真弓」
次々と現れる面影は、それぞれに異なる時代の衣装と表情をまとっていた。
ある者は恋人の名を呼びながら、ある者は何かを隠すように唇を噛み、ある者は祈るように両手を胸に重ねていた。
彼女たちは、みな“花嫁”として封印の儀に臨み、そして氷鏡湖の底へと還された者たちだった。
自ら望んだ者もいれば、望まずして選ばれた者もいた。
けれどその想いは、時を越えて、今もこの場所に残っていた。
──わたしたちの声を、届けて。
──まだ、終わっていないの。
──今度こそ、だれかに聞いてほしい。
朱音の瞳に、涙がにじんだ。
「……わたし、ちゃんと、聞いてるよ。だから、もう、ひとりじゃないよ」
そう口にしたとき、彼女のまわりを淡い光が包んだ。
光の中で、歴代の花嫁たちはひとりずつ微笑み、ゆっくりと朱音の周囲を歩き、円を描くように姿を溶かしていった。
まるで、「ありがとう」と告げるように。
最後に残ったのは、最初の花嫁──白無垢の少女。
彼女は朱音の前に立つと、小さな声で囁いた。
「……あなたが最後の花嫁じゃない。あなたは、“終わらせる者”」
朱音はゆっくりと頷いた。
「わたし、ちゃんと届ける。ここにいたこと、忘れないでって──伝えるから」
その言葉とともに、祠の中の髪飾りが淡い光を放ち、雪の中で静かに消えた。
周囲は元の樹林へと戻り、冷たい空気が再び頬を打つ。
でも──そこには、もう確かに、ひとつの“痕跡”が刻まれていた。
【場所】氷鏡湖・東岸・樹林帯の裏手
【時間】12月26日 15:15
朱音は、小さな手のひらに残るそれを、じっと見つめていた。
雪の上に落ちていた銀色のかけら。
それは、指輪の破片だった。
まるで長い間、土の中に埋まっていたかのように曇り、微かに錆びついた縁。
けれど、表面の一部には、うっすらと文字が刻まれていた。
読めたのは、二文字だけ。
──「ゆ」 と 「き」
「……ユキ?」
朱音は声に出してみた。けれど、それが人の名前なのか、誰かへの言葉なのかはわからなかった。
ただ、その指輪からは、はっきりと“温度”が伝わってくるような気がした。
冷たいはずの金属が、指先にやさしく触れていた。
まるで、それを持っていた誰かが、今も近くにいるかのように。
彼女は破片を包み込むようにして両手で握った。
「だいじにするね……誰のものか、ちゃんと調べて、返すから」
ひとり言のように呟いた声は、林の奥に吸い込まれるように静かに消えた。
──その瞬間。
風がふわりと、樹々の隙間をすり抜けた。
白い雪が舞い上がり、木々の間に、小さな光の粒が漂った。
それは、朱音のまわりをくるりと回るようにして、やがてどこかへ消えていった。
「……いまの……だれか、いた?」
朱音がそう呟いたとき、遠くから「朱音ーっ!」という沙耶の声が聞こえてきた。
はっとして振り返ると、林の奥に、玲お兄ちゃんと沙耶、奈々の三人の姿が見えた。
朱音は慌てて雪の中を駆け出す。
「あっ、まってー! いま行くー!」
手のひらの中には、あたたかい破片。
朱音の小さな胸の中には、名前のわからない“誰かの想い”が、確かに宿っていた。
【場所】氷鏡湖・東岸・樹林帯の裏手・小道沿い
【時間】12月26日 15:20
「……で、それを見つけたんだね?」
玲の低く澄んだ声が、落ち着いた空気を引き締める。
朱音はこくんと頷いて、両手をそっと開いた。
その掌の上には、先ほど拾った銀の指輪の破片が載っていた。
「氷の下に、なんか光ってるの見えたの……雪、どけたら……これが」
玲はしゃがみこみ、朱音の手元に目を落とす。
指先で破片を持ち上げると、その表面を慎重に拭いながら、じっと目を凝らした。
「“ゆ”と“き”…。二文字しか読めないが、これは決定的だ」
玲は短く言い切ると、立ち上がり、湖の方へと目を向けた。
「これは“雪野ハル”のものだ。いや、正確には、彼女に贈られた“婚約指輪”だろうな」
「……ゆきの、はる……?」
朱音が首をかしげると、奈々が小さく息を呑んだ。
「まさか……二代目の花嫁……?」
玲はうなずきながら、破片の縁に残る模様を示した。
「これを見て。リングの内側、地金の凹みに、半分だけ残った刻印──”Har”の三文字。これは“Haruka”の略式として使われることがある。そして、“ゆ”と“き”は、贈り主の名前。“雪也”──彼女の許婚の名前だ」
玲の瞳は、まるで記憶そのものを凝視しているかのように深く、遠くを見つめていた。
「つまり、この指輪は、雪野ハルが儀式の直前まで身に着けていたもの。封印前に彼女自身が……何かを“拒んだ”印だ。だが彼女は、最期まで心の奥に“想い人”を残していた。だからこそ、この指輪は今も“ここにある”」
沙耶が小さく呟いた。
「成仏、できなかった……のね」
玲は無言でうなずいた。
朱音は胸元に破片を抱き寄せ、小さく囁いた。
「……雪野さん、きっと、だいじな人に会いたかったんだね」
玲は振り返り、朱音の目をまっすぐに見つめた。
「朱音。君の手にそれが渡ったのは、偶然じゃない。彼女が“伝えたいこと”が、まだあるという証だ」
朱音は真剣な表情で玲を見返した。
「うん。……わたし、聞いてみる。夢のなかでもいいから。教えてもらうね、“ゆきや”さんと、雪野さんのこと」
玲は静かに微笑み、その頭に手を置いた。
「頼んだよ、朱音。……君は、ここに選ばれて来たんだ」
【場所】氷鏡湖近郊・山裾の旧屋敷跡
【時間】12月26日 15:30
雪のちらつく小道を進み、玲たちは古びた石段の前で足を止めた。
かつて村の名士が住んでいたという屋敷は、今は屋根も落ち、石垣に蔦が絡んでいる。だがその縁側には、ぽつりと一人の老人が座っていた。
杖を傍らに置き、白い息を吐きながら、湖の方角をじっと見つめている。
玲が歩み寄り、深く一礼した。
「……雪也さんですね」
老人の瞳がゆっくりと動く。だが何も言わず、ただ玲を見返した。
沙耶がそっと朱音の背中を押す。
朱音は小さな手で懐を探り、ひとつのものを握りしめながら、老人の前に進み出た。
「これ……湖のそばで見つけたの。あの……たぶん、雪野さんの……指輪……だと思うの」
彼女の手のひらに、銀の破片が光を受けて淡く反射した。
その瞬間だった。
──カラリ、と。老人の手から杖が落ちた。
「……っ!」
彼はゆっくりと朱音に近づき、震える手でその指輪の破片を受け取った。
そして、まるで忘れていた呼吸を取り戻すかのように、深く息を吸い──
「……ハル…………!」
それは、氷を砕くような声だった。
「ハル……ハルッ……ハルうううううううううううううッ!!」
崩れるように地に膝をつき、老人は嗚咽した。
顔をくしゃくしゃにし、雪の上に手をついて、胸元に破片を抱きしめた。
「ずっと……待ってた……わしは……ハル……ッ……あの日……あの日、あの場所に行けていたら……ッ……!!」
朱音は驚きと戸惑いの中で彼を見つめ、玲に目を向けた。
玲は静かに頷いた。
「雪也さんは、式の直前に家を追放された。花嫁に選ばれた女との関わりを、家が忌避したから。……以来、彼は一度も湖には近づいていない」
奈々が小さく呟く。
「彼女が、指輪を残した理由……それが、今伝わったんだね」
雪也の肩はまだ震えていた。
だが、数十年分の涙が雪の中に吸い込まれたあと──彼の顔はどこか、晴れやかだった。
「ありがとう……ありがとう……こんな、じいさんに……ハルの想いを、届けてくれて……」
朱音は、小さく微笑んで頷いた。
「ううん。わたしがもらったから……わたしが、届けたかったの」
玲は空を見上げ、冷たい風の中でそっと呟いた。
「想いは、時間を超える。封じられても、消されても。──人がそれを、忘れない限りは」
【場所】長野県・久岬村 氷鏡湖近郊・旧屋敷跡
【時間】12月26日 15:35
凍てついた風が一瞬だけ、静かに止んだ。
雪也の手の中にある指輪の破片が、ふわりと淡い光を帯び始めた。
その光が地面に広がり、まるで湖面に映るように揺れたかと思うと──
そこに、彼女が立っていた。
白い振袖を身にまとい、長い黒髪を風に揺らしながら。
微笑をたたえた、あの日のままの姿で。
「……ハル……?」
雪也の声は震えていた。
その目には、確かに、彼の初恋の人──いや、人生でたった一度の恋人が映っていた。
ハルはゆっくりと歩み寄ると、まるで時を巻き戻すように、昔と変わらぬ声で言った。
「やっちゃん……来てくれて、ありがとう」
雪也の喉が詰まり、声が出せなかった。
だがハルは、すべてを知っているというように、優しく続けた。
「あのとき、手紙……読んでくれたんだね」
「……ずっと……心残りだったの。あなたが、あの場所に来なかった理由がわからなくて」
雪也は、今にも泣き崩れそうな顔で首を振った。
「違う……行ったんだ……! けど……屋敷を出たところで、兄に止められて……っ。逃げようとしたけど、……間に合わなかった……!」
彼の声は、幼さを残す青年のようだった。
後悔と悲しみに満ちた、長年胸に押し込めてきた本音。
ハルはそっと彼の頬に手を伸ばした。
彼女の指はふわりと雪也の肌に触れ、温かさはなかったけれど──それは確かに、ぬくもりのようだった。
「うん。もう、知ってるよ。……だから、こうして来られたの」
「やっちゃんは、ずっと、私を思ってくれてた。あの指輪が、それを教えてくれたの」
雪也の瞳に涙が溢れ、落ちては雪に吸い込まれていく。
「ハル……ずっと……お前を……」
ハルは、少しだけ瞳を潤ませ、でもそれを押し隠すように笑った。
「もう、大丈夫。私は……あなたに、逢えたから」
「そして、伝えられたから──」
──「もう、いいんだよ。幸せになって」
その言葉は、深い雪の森を、やわらかく包み込むように響いた。
玲も、沙耶も、奈々も──誰もがその瞬間、言葉を失って立ち尽くしていた。
ハルは雪也の手を取ると、そっと彼の胸に指輪の破片を戻した。
「これは、あなたの未来を閉じるものじゃない。……あなたの、“想いの証”なの」
そして、少しだけ顔を近づけて、彼の額にそっと唇を重ねた。
白い風がふわりと舞い──その中で、ハルの姿は光に包まれ、静かに消えていった。
ただ、彼女の笑顔だけが、最後までそこに残っていた。
雪也は、顔を両手で覆いながら、膝をついたまま静かに泣いた。
だが、どこかその背には、長年の重荷から解き放たれたような、静かな安堵が宿っていた。
玲がそっと目を伏せて呟いた。
「……やっと、終わったんだな」
その声に、朱音はうんとうなずいた。
「うん……やっと、だね」
【時間】12月26日 15:36
【場所】久岬村各所(氷鏡湖周辺/旧屋敷跡/村の街道沿い)
冷たい風が止み、村の空気が一瞬静まり返ったかのようだった。
すると――湖を中心に、まるで“誰かの思い”がほどけるように、優しい光がぽつり、ぽつりと立ち昇っていく。
それはかつてこの地で「花嫁」として封じられた少女たちの、最後の旅立ちの瞬間だった。
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◆【結】──朱音の前に現れる
氷鏡湖の東岸。朱音の手のひらには、未だに指輪の破片が温もりを保っていた。
その前にふわりと現れたのは、最初の花嫁・結だった。
「ねえ、朱音ちゃん。あなたが来てくれたおかげで、私たち──やっと帰れるよ」
朱音は驚いたように瞬きをして、それから微かに首を傾げた。
「……帰るとこ、あったの?」
結は小さく笑った。
「あったの。ちゃんと、ずっと。だけど……思い出すまで、ここで待ってただけ。ありがとう。ほんとうに」
朱音の頬をそっと撫でて、結は静かに、空へと昇っていった。
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◆【沙月】──老いた兄のもとへ
村の外れの古い納屋。そこには白髪の老人が独り、椅子に腰かけていた。
その目が見開かれる。目の前に立っていたのは、子供の頃に別れたはずの妹、沙月。
「兄さん……まだ、生きてたんだね」
老人の目から涙が溢れる。
「沙月……沙月か……すまん、わしが何もできんかったせいで……」
彼女は首を横に振り、微笑んだ。
「違うよ。兄さんがいたから、私、生きたこと忘れずに済んだの。ありがとう。おかげで、もう怖くない」
ふっと風が吹いて、沙月の姿は光の粒になった。
老人はしばらくその場から動けず、ただ嗚咽を漏らしていた。
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◆【綾乃】──旧家の玄関先で、ひ孫に微笑む
かつて名家と呼ばれた旧家の玄関前、雪の中をひとり掃き掃除していた少女・**沙良**の前に現れたのは、知らないはずの少女だった。
「……お掃除、がんばってるんだね。えらいね」
綾乃はその子の頭を撫でた。
「……あなた、誰?」
「昔、この家にいた“綾乃おばあちゃん”って、呼ばれてたこともあるの。ちょっとだけ、見に来たの」
綾乃はそっと微笑み、懐から家紋の刻まれたかんざしを取り出して少女の手に握らせた。
「おうち、守ってあげてね」
光がきらきらと舞い上がり、少女は驚きながらもその場に跪いて見送った。
⸻
◆【美雪】──かつての許婚の子孫の夢の中に
村の外れにある、小さな医院の仮眠室。
白衣を脱いで眠っていた青年・医師の悠馬の夢の中に、白い羽織を纏った女性が現れた。
「……美雪?」
「あなたの顔、彼にそっくり。あの人の目をしてる……だから、わかったの」
悠馬は夢の中だと気づきながらも、涙を流していた。
「君は、ずっとあの場所に……?」
美雪は首を振った。
「もう大丈夫。あなたが生まれてきてくれて、ここで生きてくれて……それだけで、私は“報われた”の」
やがて美雪は、夢の中で光に包まれて消えた。
悠馬は目を覚まし、ただ静かに涙を拭った。
⸻
◆【遥】──村の集会所で、かつての幼馴染に
村の集会所。
一人で古い書類の整理をしていた村役場職員・**一馬**は、背後から声をかけられて振り返る。
「一馬くん、変わらないね」
そこに立っていたのは、かつて一緒に遊んだ少女・遥だった。
「……遥、なのか?」
「うん、少しだけ。ありがとうって言いたくて来たの。私が消えた後も、ずっと私のことを……忘れないでいてくれたから」
一馬は泣きながら、かぶりを振った。
「俺は……君を助けられなかった」
「でも、私を忘れなかった。それで十分」
遥は笑顔で一礼し、光となって天へと昇っていった。
⸻
【そして、空へ──】
空には六つの光が舞い上がり、それぞれ異なる色で煌めきながら、静かに融合していく。
玲が、空を見上げて言った。
「これで、彼女たちはようやく──“娘に戻れた”んだな」
沙耶が朱音の肩を抱き寄せる。
朱音は静かに頷いた。
「……うん。ちゃんと、“ただの女の子”として、帰れたんだよね」
そして冬の風がそっと吹き、何かが確かに終わり、同時に何かが始まる気配が、村を包んでいた。
【場所】長野県・久岬村・服部家・奥座敷
【時間】12月26日 15:40
重くきしむ襖を開けると、しんと静まり返った奥座敷の空気が、まるで時が止まっていたかのように漂っていた。
玲たちは再び、服部家の屋敷に足を踏み入れていた。
畳の上には緋色の座布団が整然と並べられ、奥には背筋を伸ばして正座する“たまき”の姿があった。
彼女の背後には、古い掛け軸と小さな仏壇──その前に線香の煙が細く、静かに立ち上っている。
朱音は玲の隣にちょこんと座り、沙耶と奈々がそれを挟むように位置した。
室内は暖房がほとんど効いておらず、どこか肌寒かったが、それ以上に背筋が伸びるような緊張感が漂っていた。
たまきの目が、朱音にゆっくりと向けられる。
「……来ると思っていたよ。氷鏡湖に入ったのでしょう?」
玲が頷いた。
「ええ。あなたの予想通り、朱音が“結界”を越えました。そして……歴代の“花嫁たち”は、すべて消えました」
たまきの唇が、ほんのわずかに震える。
だが、声には動揺を見せず、静かに答えた。
「ようやく、解かれたのですね。長すぎた……呪いが」
「呪いじゃなくて、誰かの“忘れられた願い”だったのかもしれません」
玲が言葉を継ぐと、朱音が小さく手を上げて前に出た。
「たまきさん。わたし、あなたの話……ちゃんと、聞きたい」
小さな声だったが、その瞳は真っすぐだった。
たまきは一度まぶたを閉じ、まるで誰かの声に耳を澄ますように、ほんの少し顔を上げた。
「では……語りましょう。わたしの知る“最後のこと”を」
彼女の語り口は穏やかで、それでいてどこか祈るようでもあった。
「“最初の花嫁”は、わたしの祖母のまた祖母にあたります。彼女は……愛する人と離れ離れになった末、湖の神に願いをかけて、己の命と引き換えに封印を施しました。けれど……その封印は、やがて“形式”と“犠牲”にすり替えられたのです」
沙耶が眉をひそめる。
「形式……?」
「村の平穏を守る名目で、少女たちが“花嫁”として捧げられ続けたのです。選ばれた娘には、何の説明もなく。ただ“封じる器”であれと……」
朱音が唇を噛む。
「……それって、ひどい」
たまきの視線が、朱音にそっと重なる。
「だからこそ、あなたにしかできなかった。あなたの“迷いのない目”が……彼女たちを、解放したのです」
玲はふと、座敷の端に置かれた、埃をかぶった簞笥の引き出しに目を留めた。
「それでも、あなたは今まで黙っていた。なぜです? 最初から全てを語っていれば、犠牲は──」
「語れば、誰かが罰を受けるだけだった。わたしの父も、兄も、村の長老も……皆“知らぬふり”を選び、真実は埋められたのです。だから……」
たまきは朱音に向かって、深々と頭を下げた。
「ありがとう。あなたが“光”を持ってきてくれたから……わたしも、ここで生きてきた意味があったと思える」
朱音は少し目を潤ませながら、小さく頷いた。
玲はゆっくり立ち上がる。
「これで、すべてが終わったとは限りません。けれど──ようやく始められる。“誰も犠牲にしない未来”を」
奥座敷の空気が、少しだけ和らいだ気がした。
そして、室内に差し込む夕陽の光が、まるで祝福のように朱音の肩を照らしていた。
【封印の歴史と湖の花嫁伝説】
――たまきの証言/服部家・奥座敷にて
たまきは、静かに口を開いた。
その声音にはどこか、儀式のような重みと、長い年月を抱え込んだ者だけが持つ諦念が滲んでいた。
「……久岬村には、古くから“言い伝え”があります」
彼女はゆっくりと座り直し、仏壇のろうそくの炎を見つめながら続けた。
「遥か昔、この村は度々、“不明の水死”に見舞われていたのです。幼子や若者が、ある日突然、湖に引き寄せられるように消え、やがて水底から還ってくる。傷も外傷もないのに……皆、穏やかな顔で息を引き取っていた」
朱音が息を呑み、沙耶がそっと彼女の肩に手を置く。
「村人たちは最初、病や祟りを疑いました。でも……誰もその原因を説明できなかった。ある日、山の祠に古くから仕える巫女がこう言ったのです──“湖には意志がある。選ばれた命を求めている”と」
玲は黙って聞きながら、たまきの視線を受け止めていた。
「村を襲うその不明の死──それは“偶然”ではなく、“選別”だったのです。ある条件のもとに、湖が命を求める周期があった。そして、それを止めるために“生贄”を捧げるという、苦しい決断がなされました」
「それが……“湖の花嫁”?」朱音が小さく尋ねる。
たまきは頷いた。
「ええ。湖に命を吸われる前に、“自ら選んだ者”を、湖の“嫁”として差し出す。それは、命を捧げるのではなく、“境界に留める存在”としての役割だったのです。
つまり、“封印”でした。湖の底に沈む“何か”を、閉じ込める器……」
奈々が眉を寄せる。
「じゃあ、花嫁って……人柱みたいなもの?」
「それに近いものです。ただ、表向きは“守り神への奉納”として語られました。村の安全を願う“神事”の一環だと」
沙耶が唇を結びながら尋ねた。
「……その“封じられたもの”って、いったい何?」
たまきは少し視線を落とし、微かに震える声で答えた。
「それは……記録にも残っていません。巫女たちが交わす“口伝”のみが伝承されていた。曰く、“湖の底に、最初に死を受け入れた女の願い”があり、それが今も“生きた呪い”となって、村を飲み込もうとしている、と」
玲が低く呟く。
「つまり、“最初の花嫁”こそが、封印の始まり──その思念が、世代を超えて続いていた」
「はい。封印は代々の“花嫁”たちに継承されました。彼女たちは皆、選ばれた娘。儀式の後、家族からも記録からも姿を消し、“この世に存在しない者”として扱われるようになったのです。けれど……彼女たちは死んだのではありません。氷鏡湖の結界内で、永遠に時間を繰り返し、湖を封じ続けていた」
朱音が目を潤ませながら、そっと呟いた。
「……一人じゃ、さみしかったよね……ずっとずっと、暗い水の中で……」
たまきは小さく頷いた。
「ええ。だからこそ、あなたの存在が必要だったのです。封印を“終わらせる”ために。あなたの中にある“まっすぐな願い”が……ようやく、彼女たちを解放した」
玲は目を伏せ、深く息を吐いた。
「歴代の花嫁たちは、“誰かのために消された存在”じゃなかった。“誰かを守るために自ら選んだ存在”だったんですね」
「でも……その選択肢さえ、やがて“制度”にされた。それが最大の罪だった」
たまきの言葉に、誰もが黙った。
沈黙の中、朱音がそっと前に出て、たまきに向かって頭を下げた。
「わたし……たまきさんたちが守ってきたもの、ちゃんと見たよ。だから……この先、わたしも守る。今度は、誰も泣かせないで済むように」
たまきの目が揺れた。
その目は、悲しみではなく、どこか救われたような安堵の色を宿していた。
「……ありがとう。あなたが“最後の花嫁”じゃなく、“最初の証人”であることが……どれほど、救いになるか」
その瞬間、外の風がふっと障子を揺らした。
氷鏡湖に吹く風が、かつての封印の時代に終止符を打ったことを、どこかで誰かが祝福しているようだった。
【場所】服部家・納戸の奥(古文書保管棚)
【時間】12月26日 15:50
たまきに案内され、玲たちは服部家の奥座敷のさらに奥──古びた襖の向こうにある納戸へと足を踏み入れていた。
空気は冷たく、わずかに墨と古紙の香りが漂っている。朱音は沙耶の手をぎゅっと握ったまま、目をきょろきょろと動かしながら辺りを見渡していた。
「ここが……久岬村に残された“記録”の最後の保管場所です」
たまきが木製の引き出しを一つひらき、奥から風化した布に包まれた束を慎重に取り出した。表紙は麻紙に手書きの文字が薄く残っており、《氷鏡湖縁起・巫女筆録》と記されている。
玲は目を細め、たまきの手元に視線を注いだ。
「……伝承の手記、ですか?」
「ええ。これは、代々の巫女だけが記すことを許された“内伝”です。外部には一切出されず、家族でさえ読んではいけないとされてきました。ですが、いま……この封印の時代が終わりを迎えたなら、あなたたちに託すべきだと思うのです」
ページをめくると、褪せた墨字が現れた。ところどころかすれて読み取りにくいが、それでも筆跡には強い意志と焦燥が刻まれているようだった。
「ここには、初代の花嫁──“ユリノ”と呼ばれた巫女の記録があります。
彼女は“湖の声”を聞いた最初の人間だった」
玲は表情を変えずに頷きながら、傍に置かれていたもう一冊、背表紙の外れた分厚い民俗学の文献を手に取った。帳面のような形状で、紙もバラバラに束ねられている。
奈々が身を乗り出し、小声で呟いた。
「これは……記録の断片?……索引もない、分類もされてない……」
玲はその中から一枚をそっと抜き取り、目を走らせる。
「“第三代封印時、湖の鏡面に“影”が現る。これを見た巫女は、数日後に命を絶つ”……これは、幻視かそれとも呪いか……」
朱音が、玲の隣から覗き込みながら言った。
「鏡に……“影”?」
「たぶん……封印の揺らぎです。鏡面に現れるものは、向こう側からこちらを覗いていた」
玲はもう一度、巫女の手記の見開きに戻る。そして、そこに残された一文を静かに読み上げた。
『──封印、裂けし時。花嫁はひとり、呼び声を越えて、闇の底より“返る”べし。だが、その者が“真の記憶”を継がぬとき、湖は再び“飢え”を知らしめる』
沙耶が息を呑んだ。
「……あれは、ほんとに一歩間違えば、全部がまた……」
「ええ。でも今回は、朱音がその“記憶”を継いだ。封印は破れたのではなく、“終わった”。正しい意味で」
たまきは小さく頷きながら、もう一つ小箱を取り出す。中には、細い糸で束ねられた木札が数枚入っていた。そこには、歴代花嫁の名と、捧げられた日付が墨書されている。
「これが……忘れられた花嫁たちの“名”。誰にも知られず、記録からも消された少女たち」
朱音がそっと一枚の札を手に取り、読み上げた。
「“ハル・永禄八年三月二日”……」
その声は、どこか湖の底に届いているかのようだった。
玲は静かに言った。
「……この記録を、僕らが預かります。今度は、失われた名前が“歴史”になる番だ」
【場所】氷鏡湖・西岸・祠裏手の岩場
【時間】12月26日 18:10
夜の帳がゆっくりと降り、氷鏡湖はその名の通り、氷と鏡を溶かし合わせたような深い闇に沈んでいた。風はなく、湖面は不気味なほどに静まり返っている。
その西岸にある旧祠の裏手、岩が剥き出しになった斜面の上に、玲と如月、そして村の青年団数名が立っていた。
「……これは、今朝までなかったはずだ」
村の一人が、かすれた声で言う。手にした懐中電灯が岩場をなぞるように照らし、その先に奇妙な“痕”が浮かび上がる。まるで、焦げたような黒ずみ。しかも、それは自然な風化や風雨によるものではない。
玲はしゃがみ込み、その痕跡を指でなぞった。感触は、岩の上に焼きついたようなざらつき。それなのに、触れた指先には微かな“冷たさ”が残った。
「焼けた痕なのに……冷たい?」
如月がその隣で、手帳にスケッチを取っている。
「熱源ではなく、逆に“急激な冷却”によって起きた表面変質だとしたら……」
「霜焼けじゃ済まないレベルね、これ。下手すると……」
「空間が一瞬、“割れた”可能性もある」
玲の声に、青年団の一人が身じろぎする。
「まさか……また、封印が……」
「いいえ。封印は終わった。ただ、終わりは始まりでもある」
玲は立ち上がり、岩の先、湖に面した一角を見つめる。その視線の先には、岩の亀裂に挟まれるようにしてぽっかりと開いた“窪み”があった。まるで、誰かが手で削ったような形。それは、今朝方調査した“巫女の供犠台”と酷似している。
「見て。如月、この形……」
「……一致してる。過去の記録にあった“第二封印期”の裂け目と同じ輪郭」
如月がパラパラと手帳をめくり、旧記録のページを指さす。
「ここにある図、氷鏡湖西岸の“斜めに裂けた祠裏の穴”……これ、封印が一時的に不安定になった時の痕跡として残ってる。400年ほど前のこと」
玲は唇を引き結んだ。
「つまりこれは──」
「“もうひとつの封印”が、完全には終わっていなかった可能性がある」
その瞬間、ピシリ──と岩のどこかで音がした。誰かが落とした石が跳ねた音かと思ったが、全員が立ち止まり、次の瞬間にもう一度──今度は確実に、「空気が割れるような乾いた音」が、岩肌の中から響いた。
「中……何か動いてる?」
如月が思わず後ずさると同時に、岩の割れ目から、一筋の“黒い霧”が、ふっと漏れた。霧というよりも、夜の色そのものがにじみ出ているかのような──生き物のように、静かに、じわじわと空気を染めていく。
玲は即座に手を上げて村人たちを下がらせた。
「下がって。これは“残響”だ。何かの……記憶、あるいは怨念がここに残っている」
その霧は、ゆっくりと空へ昇り、やがて音もなく消えた。だが、そこには確かな“痕”が残された。
裂け目の中心に──ひとつの、赤黒い“指輪”が落ちていた。
玲がしゃがんで拾い上げる。凍りつくような冷たさと、かすかに指先に刺さるような“痛み”。
「これは……誰の?」
玲はつぶやき、懐に収めた。
如月が、震える声で続けた。
「まだ終わってない。……あの湖が抱えていたのは、“花嫁たち”だけじゃない。もっと深くて、もっと古い……“何か”が目を覚ましかけている」
【時間】12月26日 18:20
【場所】氷鏡湖・西岸・祠裏手の岩場──調査テント内にて
「湖の底に眠るもの」の正体と、赤い指輪の持ち主が判明する重要なシーンを小説形式で描写いたします。
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テントの外では風が唸り、湖の水面をかすかに揺らしていた。夜の静寂があたりを支配し始める中、仮設テントの中では、沈黙がひときわ濃かった。
朱音はまだ服部家で休ませられており、この場にいるのは玲、如月、沙耶、そしてK部門の検視官・片瀬洸二だけだった。
テーブルの上に置かれた赤黒い指輪。
それは、氷鏡湖の西岸の岩の裂け目から現れた“残響”の中にぽつりと残されていたもの。
玲は手袋をしたまま、指輪をライトの下にかざしていた。
「どうやらこれは……鉄と銅の合金。かなり古い時代のものだ」
如月が、横で古文書のページをめくりながら小さくうなずいた。
「“巫女の環”──だと思う。記録では、湖の底に封じられていた“最初の贄”が身に着けていたとされる装飾品」
「贄?」沙耶が眉を寄せた。「それって……人のこと?」
「そうよ」如月は言葉を選びながら続けた。「“湖の意思”が目覚めかけたとき、封じるために選ばれたのは……まだ“花嫁伝説”ができる前。湖に生け贄として捧げられた、最初の一人の少女。その子が身につけていたのが、この“赤い指輪”だったらしいの」
玲は静かに息をついた。
「つまり──この指輪の持ち主こそ、“湖の底に眠るもの”の原初。封印の最奥にいる、“始まりの花嫁”だ」
テントの奥、片瀬が電子デバイスを操作していた端末をこちらに向ける。
「今、解析に回していた過去の水死記録のうち、400年前に記録が中断されていた一件がヒットした。記録の端には──こう書かれていた」
彼は表示された文章を読み上げた。
『水神を鎮めるべく、家ごと滅びし少女・氷月、指環と共に鏡の底へ沈められる』
「ヒヅキ……」沙耶が小さくつぶやいた。
如月が頷いた。「この名前、たまきさんの家系図のもっとも古い部分にあった。たぶん、記録からは意図的に外されたんだと思う。“最初の犠牲者”であることを、隠すために」
玲の表情が険しくなる。
「彼女──氷月は、“封印”という言葉がまだなかった時代に、村の恐怖の象徴とされた。そして、湖に沈められたあと、彼女の“意志”だけが残った。怨みではない……ただ、忘れられたことへの叫び。ずっと、誰かに気づいてもらえるのを待っていた」
沙耶の瞳に、微かに涙がにじむ。
「朱音が……もしこの指輪に触れたら、何が起きるの?」
玲は答えなかった。代わりに、赤い指輪をそっと掌で包む。
「たぶん、彼女にしか届かない声がある。“忘れられた始まり”に、触れられるのは、今や彼女しかいない。あの子の“記憶の響き”は、ここに眠るものの声を拾う力を持ってる」
そのとき、テントの幕がふわりと揺れた。風か、何かの気配か──
誰もが黙り込んだ空間に、遠くから微かな音が響いた。
──キィィィン……という、まるで氷をこすり合わせたような、細く冷たい音。
それは、湖の底から、何かが目を覚まそうとしていることを告げていた。
【時間】12月26日 18:25
【場所】氷鏡湖・西岸・祠裏手の岩場、調査テント内
氷鏡湖の闇が深まる中、仮設のテント内には、沈黙の重さがあった。
玲が机に置いた赤い指輪──氷のように冷たく、どこか歪なその輪は、確かに長い時間をここで過ごしてきた証を宿していた。
「……思い出した」
ぽつりと、老いた男の声がした。
振り返った全員の視線の先には、村の年長者──元村議の**八代道信**が立っていた。
白髪を後ろに撫でつけ、杖を握る手がわずかに震えていた。
「わしが、まだ若かったころ……祖母から聞かされた話がある。村の伝承ではなく、“内々で口外を禁じられていた話”じゃ。……その子の名前は、氷月。そして──彼女を愛していた男がいたと」
玲が静かに尋ねた。「その男の名前は?」
八代は、唇を結んだまま震える声で言った。
「名は……弦之介。氷月とは互いに身分を超えて想い合っていた。だが、氷月が“湖の怒り”を鎮める贄に選ばれたとき、弦之介は反対し……村を出ようとまでした」
彼はゆっくりと、玲の前へ進み出て、机上の指輪を見下ろした。
「これは……あのとき、弦之介が氷月に贈った婚約の証じゃ。……それが、湖から戻ってきたということは……」
玲が指輪を持ち上げ、八代の手にそっと渡した。
「今こそ、彼女に返してあげてください。“始まり”を終わらせるために」
八代の手が震える。赤い指輪を掌に包み込んだとき、彼の目から涙が零れ落ちた。
「……氷月……! わしは……守れなかった……何も……!」
涙が止まらなかった。八代は膝をつき、深く深く頭を垂れた。
「すまぬ……すまなんだ……! お前がどれほど怖かったか……どれほど寂しかったか……わかっておったのに、わしは……!」
その瞬間だった。
テント内の温度がふわりと変わった。まるで、柔らかな雪が空気そのものに溶け込むように──
八代の前に、ふんわりと白い影が現れた。
透き通るような肌、膝まで届く銀の髪。緋色の小袖に身を包み、瞳に静けさと慈しみを宿した少女が、そこに立っていた。
「……氷月……!」
八代が声を上げた瞬間、少女は静かに微笑んだ。
「ありがとう……私を、思い出してくれて」
その声は、風の中に溶けるような優しさに満ちていた。
「私は、恨んでなどいないわ。誰のことも──弦之介様のことも、村の人たちのことも」
彼女はそっと手を差し出し、八代の掌から赤い指輪を受け取る。
「……でも、悲しかったの。何百年も、ずっと湖の中で、思い出してもらえるのを待っていた。誰かが、あの日のことを……」
彼女の瞳が、八代をまっすぐに見つめた。
「弦之介様は、私を連れて逃げようとしたの。けれど、村人たちに捕まって──私は、彼の目の前で……」
語尾は震えていたが、彼女の表情に怒りはなかった。
「でも、もう……いいの。あなたたちが、今、こうして向き合ってくれた。それだけで、私の魂は報われます」
彼女は微笑みながら、赤い指輪を両手で包み込むと、すっとその姿が淡く揺らいだ。
「朱音ちゃん……あなたには、聞こえるでしょう。私の“最後の願い”──この指輪を、もう湖に返して……私たちの時間は、もう……終わったから」
──そして、彼女の姿は雪の結晶のように、ふわりと消えた。
静寂の中、八代は泣き崩れたまま、肩を震わせていた。
玲はそっと彼に手を添えた。
「……あなたの記憶が、彼女を解放したんです。ありがとうございました」
外では、雪がまた一段と深く降り始めていた。
それはまるで、氷月という名の少女が、ようやく安らかな眠りについた証のようだった。
【場所】氷鏡湖・西岸・祠裏手の岩場
【時間】12月26日 18:27
雪が深まり、空はすでに墨色に染まっていた。
湖面は風ひとつない静けさで、まるで時が止まったかのように光を反射している。
テントの灯がわずかに揺れる中、赤い指輪を受け取った氷月の姿がなおも残っていた。
その時。
「……氷月……!」
誰かの声がした。低く、苦しげで、それでも懐かしさに満ちた声。
振り返ると、朽ちかけた祠の背後に、朧げな人影が立っていた。
長身で、若々しい姿。
古びた羽織に身を包み、風になびく髪を無造作に束ねた青年──弦之介だった。
氷月が、息を呑むようにその名を呼ぶ。
「……弦之介様……」
二人の目が合った瞬間、空気がふっと変わった。
まるで何百年もの年月を、たった一秒で超えたような──そんな静謐な時間だった。
弦之介が、一歩、また一歩と氷月へと歩み寄る。
「……来るのが、遅くなって……すまなかった」
その目には、溢れそうな涙が宿っていた。
そして彼は、氷月の前で膝をつき、そっと掌を差し出す。
「これを……返しにきた」
彼の手には、氷月の指から引き抜かれ、ずっと持ち続けていたもうひとつの指輪があった。
──それは対となる銀の指輪。あの約束の夜に交わされた、互いの永遠の証。
玲が、すっと目配せする。八代道信が震える手で、赤い指輪をそっと差し出した。
「氷月……今度こそ、お前の……本当の婚約指輪を、ちゃんとはめてやれる……」
老いた八代の目からは、もう涙しか流れていなかった。
氷月は、わずかに微笑むと、白い手を差し出した。
八代がゆっくりとその指に、赤い指輪をはめる。
そして、弦之介がその手を取り、自分の銀の指輪を、氷月のもう一方の指に重ねた。
「やっと……君の隣に、戻ってこられた」
「……待ってたわ。ずっと、あなたのことだけを……」
二人の指に輝く対の指輪は、瞬間、淡い光を放ち始めた。
それはまるで、数百年の哀しみと約束が浄化されるような、神聖な光だった。
氷月が弦之介の胸に顔を埋める。
彼の腕が、優しく彼女を抱きしめる。
「もう大丈夫。誰も、君を湖に沈めたりしない……」
「もう、悲しくないわ……あなたが、迎えに来てくれたから……」
玲は目を伏せ、朱音は沙耶の腕の中でそっと涙を拭っていた。
そして次の瞬間──
光がふわりと弧を描き、二人の身体を包み込んでいく。
氷月が、こちらを振り返った。
その瞳には、微笑みと安堵が宿っていた。
「……ありがとう。朱音ちゃん、玲様、皆さん──」
「私たち、やっと約束を果たせました」
光が空へ昇っていく。
やがてその姿は、静かに雪の夜空へと消えていった。
残された指輪はなかった。
ただ、雪の上に、二つの足跡が寄り添うように残っていた。
それは、氷月と弦之介が、ようやく結ばれ、旅立った証だった。
【場所】服部家・東側の客間
【時間】12月26日 18:30
朱音は、薄い毛布に包まれて横たわっていた。
薪ストーブの優しい熱は届かず、部屋の隅にある古びた香炉からは、静かに線香の香りが漂っていた。
外では風が、軋む障子の隙間からかすかに笛のような音を奏でていた。
──その音に誘われるように、朱音のまぶたがゆっくりと閉じていく。
夢と現のあわい。
その境界は、雪が積もる湖のほとりのように白く、静かだった。
気がつくと、朱音は知らない場所に立っていた。
一面の霧。けれど怖さはなかった。
周囲には誰もいないのに、どこかぬくもりのような気配があった。
「……ここ、どこだろ……?」
朱音は首をかしげながら歩き出す。
草のない大地。だが足音がしない。まるで音のない世界。
そのとき──
「朱音ちゃん……」
風の中から、優しい女の声が聞こえた。
振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。
白い着物に、長い黒髪。
けれどその目は悲しみではなく、穏やかに笑んでいた。
「あなた……花嫁さまだ……」
それは、先ほどまで湖にいた“氷月”ではなかった。
けれど、似たような気配を持った、別の“誰か”。
──きっと、かつて湖に眠った花嫁のひとり。
「ありがとう。あなたが見つけてくれたから……私たちはようやく、帰ることができました」
朱音はゆっくりと頷いた。声を出そうとして、けれど喉が震えて言葉にならない。
女性は静かに近づいてきて、朱音の頭をそっと撫でた。
その手は、ひどく温かかった。
「けして、忘れないでね。あなたの心の中にあるまっすぐな光が……たくさんの人を、救うわ」
──その瞬間。
女性の身体が、すう……っと風に溶けるように消えていく。
霧が晴れて、金色の空が広がった。
そこで──
「朱音……おい、朱音……!」
玲の声が、遠くから聞こえた。
はっとして目を開けると、視界が現実に戻った。
天井。火鉢の光。障子越しの淡い夕暮れの明かり。
「……玲お兄ちゃん……」
朱音が目をこすると、すぐそばに、玲がしゃがんでこちらを見つめていた。
「よかった……目、覚めたな」
「……夢……見てた……変な……でも、きれいだった……」
朱音の声はまだ少し眠たげだったが、その瞳には何か静かな確信のようなものが宿っていた。
玲は微笑んで、彼女の髪をそっと撫でた。
「おまえ、また大事なことを感じ取った顔してるな」
朱音はうなずき、小さく答えた。
「うん……なんかね、ありがとうって……言ってくれた」
玲は頷くと、立ち上がって障子をそっと閉め直す。
「じゃあ、今夜はゆっくり休め。お前の働きっぷり、もう立派な探偵助手だ」
「えへへ……うん」
そう言って朱音は、もう一度毛布の中に身体を沈めた。
雪の降る夜。
外では風が木々を揺らしていたが、朱音の顔には穏やかな夢の名残が微かに残っていた──。
【場所】長野県・久岬村・氷鏡湖 西岸・祠裏手
【時間】12月26日 18:35
すべてが終わった──はずだった。
玲は、雪を踏みしめながら岩場に立っていた。
氷月、弦之介、そして歴代の花嫁たち。
彼女たちはそれぞれ、家族や想い人の元に現れ、別れの言葉とともにこの世を後にした。
朱音は服部家の東の客間で、安らかな眠りについている。
村を包んでいた重苦しい空気は、今ではまるで何もなかったかのように消え、冷たく澄んだ冬の夜気だけがあたりを漂っていた。
──だが。
「静かすぎる」
玲は、ポケットの中で冷え切ったスマートデバイスを握り直した。
何も表示されていないはずの画面に、一瞬だけノイズのようなものが走る。
“13番目の記録”──彼がずっと追っていた、抹消された記録群のうち、唯一まだ鍵が開いていなかったファイル。
その断片が、ここで“目覚めかけている”。
「やはり……まだ、いるんだな」
彼は囁くように呟いた。
“存在の証明を許されなかった何か”。
すべての記録から消され、名も姿も語られず、封印すらその名を呼べなかった“元凶”。
「封印の名前が語られなかったのは、単なる恐れじゃない。
存在自体を“書き留めてはいけなかった”からだ……」
背後で、如月が息を呑む気配がした。
「玲、それって……“記録を拒む存在”……?」
玲は頷く。
「記録に残れば、存在が確定する。だから記録を拒む。
言い換えれば、“忘れられれば消えるが、思い出せば蘇る”」
その時。
氷鏡湖の中心から、風とは違う微かな振動が地面を伝ってきた。
雪面が、ほんのわずかにざわついた。
まるで、何かが──“名を呼ばれる”のを待っているかのように。
【場所:服部家・東側の客間】
朱音が目を覚ました時、薄明かりの中に沙耶の顔がぼんやりと浮かんでいた。線香の香りがまだ空気に漂っている。
「……夢、見てた。湖じゃない、川のそば……誰かいたの。濡れた着物の女の子」
沙耶は優しく朱音の髪を撫でる。
「その子、名前言ってた?」
朱音は首を振る。
「……でも、知ってる気がした。“わたしを見たでしょ”って言われたの。夢の中で……すごく……悲しそうだった」
沙耶が眉を寄せたその時、客間のふすまをノックする音がした。
「奈々さん、ちょっと来てくれ」
玲の声だった。
⸻
【場所:服部家・蔵】
古文書の束を前に、玲は手袋をつけた指先で一枚の紙を差し出した。それは村の年報のようなものだったが、手書きの余白に、赤インクで追記された小さな文字があった。
「昭和四十二年。川で女児が水死。名前は……“遠野はるか”。事件性なしと判断されたが、証言に曖昧な点が多い。通報者も匿名。遺体は発見されたが、死亡時刻に不自然な空白がある」
奈々が記録をめくり、ページを止めた。
「この子……家族構成、父と母。兄がいたみたい。でも、兄は記録に載ってない」
玲は頷く。
「戸籍上“独りっ子”になってるな。これ、家族側が何かを隠したとしか思えない」
「でも、どうして……」
奈々がそう呟いた時、背後から声がした。
「その子……“私の友達”だったかもしれません」
振り返ると、たまきが立っていた。
⸻
【場所:服部家・仏間】
たまきの話によると、はるかは当時、久岬村の外れにある分家の一人娘だった。川辺の家で、毎日のように独りで遊んでいたという。
「誰とでもすぐ仲良くなる子だった。でもある日、村祭りの日の夕方、いなくなって……」
捜索の末、川の下流で発見されたが、その時の“発見者”が、たまきの祖父である服部弦之助だった。
「祖父は“はるかは一人じゃなかった”と、うわ言のように言ってたそうです。“もう一人いたが、助けられなかった”と」
玲は静かに、蔵の片隅に置かれたもう一つの資料箱を指した。
「この中に、“助けられなかった子”の情報があるかもしれない」
⸻
【場所:祠裏手の岩場】
夜気の中、如月が村人と共に地面を掘り返していた。かつて“川沿いの小道”だった場所が今は塞がれ、小さな祠だけが残っている。
「この祠……村の中でも記録が曖昧なんです。建てられた年がわからない」
地中から現れたのは、苔むした木箱だった。中には、焼け焦げた小さなノート。ページの端に、薄れてはいたが、こう記されていた。
「とおの はるか 昭和四十二年冬 かみさまに つれていかれた」
そして、次のページ。
「わたしは みてた でも いえなかった」
その筆跡は、子供のもの。まるで“もう一人の目撃者”が存在していたような──そんな震えるような痕跡だった。
玲はページを閉じ、呟いた。
「この事件、氷鏡湖の“最初の花嫁”とは無関係だと思っていたが……違う。繋がってる。朱音の夢が、それを示してる」
奈々が問いかける。
「つまり、少女──遠野はるかは、“ただの事故”ではなかった?」
玲は頷いた。
「……“彼女を見た子”が、生き残っていた。そしてその記憶が、今、朱音に重なってる」
外では雪が降り始めていた。遠野はるか──少女の名が、凍った空気の中で静かに呼ばれた。
【場所】久岬村・服部家・蔵/旧祠裏手
【時間】12月26日 19:00
古びた木箱から出てきた、子どもの字で書かれた短い手記──
それは、遠野はるかの水死を「目撃していた誰か」がいた可能性を示していた。
朱音の夢と一致する少女の姿、記録から抜け落ちた“もう一人”。
玲は、その手記を光にかざしながら呟いた。
「……“私は見てた、でも言えなかった”……誰かが、沈むところを見ていた。けれど口を閉ざした」
沙耶が顔を上げる。
「たとえばその子が、“家族”だったとしたら?」
奈々が記録を見返す。
「遠野はるかには、戸籍上兄弟なし。でも……」
その時、玲の脳裏に、ある人物の名前がよぎった。
──服部弦之介。
⸻
【場所】服部家・仏間
朱音はうたた寝のような夢の中で、ふと“子ども部屋の床”の目線に戻っていた。
障子越しに、父親らしき男性の怒声。何かを隠すような母の泣き声。
そして、自分の小さな声。
「……ごめんね。言わないって、約束した……」
夢が消える直前、朱音はハッキリと、**「ゆうくん」**という名前を呟いた。
⸻
【場所】服部家・奥座敷
玲は、たまきを正面に据えて尋ねた。
「遠野はるかの件──あなたの祖父、弦之介さんは“見た”と言っていた。“もう一人いたが助けられなかった”とも」
たまきは静かに頷いた。
「……幼い頃、祖父が夜中に呼びかける声を聞いたことがある。“ゆう、ゆう。あれはお前のせいじゃない”って。夢うつつで……でもそれがずっと耳に残ってて」
玲は奈々と視線を交わす。
「“ゆう”。……この村に、“ゆう”という名の人間はいないか?」
沙耶が蔵の戸籍記録から一冊を取り出した。
「いました……遠野悠生。昭和三十八年生まれ。だとすると事件当時、九歳。はるかの兄です」
奈々が震えた声で言う。
「でも……その名前、戸籍から“抹消”されてる」
玲は静かに続けた。
「つまり、“事件の後に消された”。家族にとって……あまりにも重い記憶だったから」
沈黙のあと、沙耶が呟いた。
「じゃあ……遠野悠生さんが、“生き残った目撃者”……」
「──そして、おそらく今もどこかで生きてる」
玲の声は低く、確信に満ちていた。
⸻
【場所】氷鏡湖・旧祠前
翌朝、雪の中でひとり祠を見つめていた中年の男性がいた。
古びたコート、手には何か小さな布を握っている。
如月がそっと声をかける。
「……お名前を、うかがっても?」
男は長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「……遠野、悠生です。妹が……この湖で……死にました」
玲がそっと一歩前に出る。
「悠生さん、あなたは……あの日、見ていたんですね」
彼の手から、かすかに紅を残した布が風に舞った。
それは、昭和四十二年の事件当日、岸辺に残されていた“赤い布”──
彼が、今までずっと持ち続けていたものだった。
「……助けられなかった。言えなかった。怖くて……ずっと逃げてました」
玲は静かに頷いた。
「あなたが目撃者であることを、誰も責めません。……でも、あなたの妹さんは、今でも、あなたのことを待っていると思います」
雪が舞い落ちる中、湖の向こうに、一瞬、女の子の姿が揺らめいた。
白いワンピース、濡れた髪。微笑みながら、彼の方を見つめている。
「……はるか」
彼の頬を、熱い涙が伝った。
【場所】氷鏡湖・西岸・旧祠裏手の岩場
【時間】12月26日 19:10
雪が止んだ。
湖面の黒い水は、風のない静寂の中で鏡のようにたたずんでいる。
遠野悠生は、ひとり岩場に立ち、凍える手で胸元から古びた布を取り出していた。
それは妹・はるかのものだった。赤い小さなリボン。
事件のあと、ただ一つ残されていた「遺品」。
彼はそれを五十年近くも手放せずにいた。
「……あの時、助けられなくて……本当にごめん……」
声は、凍てついた空気の中へ吸い込まれていく。
そのとき。
湖面に、波紋が静かに広がった。
風もない。雨もない。
だが確かに、その場に“何か”が現れた気配があった。
そして──。
「お兄ちゃん」
その声は、確かに聞こえた。
懐かしく、幼く、そして優しい。
悠生が顔を上げた先に、そこに少女がいた。
白いワンピース。濡れた黒髪。
しかし表情は、当時の恐怖に染まってはいなかった。
まるで、年月を越えて「赦し」に来たように、穏やかな微笑を浮かべている。
「はるか……」
悠生は膝をついた。
男が子どものように泣く──その姿はあまりに脆く、切実だった。
「ごめん、ごめん……あの時、手を……手を伸ばせば……! でも、怖くて……動けなかった……!」
言葉にならない嗚咽が雪に落ちた。
彼は、五十年という時を経てようやく言えたのだ。
後悔と恐怖と、そして愛情の全てを込めた言葉を。
はるかの魂は静かに歩み寄り、兄の前にしゃがみ込んだ。
手のひらをそっと伸ばし、彼の涙をなぞるように空気に触れた。
「お兄ちゃん、私は怒ってないよ。あの時、私が足を滑らせたの。悪いのは誰でもない。……怖かったのは、私も同じだったよ」
悠生の肩が震えた。
「でも……お前は、ずっと冷たい水の底に……ひとりで……!」
「ひとりじゃなかったよ。お兄ちゃんがずっと想ってくれてたから、私の時間は止まらなかった。今もこうして、会えたじゃない」
はるかの笑顔が、朱音の見た“夢の少女”と完全に重なった。
「……もう、大丈夫。お兄ちゃんは、お兄ちゃんの人生を生きて」
そして──。
「ありがとう。ずっと、覚えていてくれて」
その言葉とともに、はるかの姿は徐々に光に包まれていく。
まるで春の霞のように、雪の中で溶けていく光の粒。
悠生は手を伸ばしかけて、そっと拳を握った。
もう触れることはできない。だが、もう充分だった。
「……ありがとう、はるか。ありがとう……」
兄と妹の間に、確かな別れが訪れた。
悲しみではなく、感謝と再生の別れ。
玲たちは少し離れた場所で、それを見守っていた。
湖が静かに、“返答”するように凪ぎ、はるかの魂を送り出す。
──氷鏡湖に、ようやく本当の夜が訪れた。
【場所】久岬村・旧郷土資料館 地下保管室
【時間】12月26日 19:15
きぃ、と小さく軋む音が、冷えきった地下空間に響いた。
年季の入った錆びた鉄扉が、ようやく重たい口を開いたのだ。
その向こうに広がっていたのは、薄暗く、ひんやりとした“忘れられた部屋”。
「ここが……“封印の部屋”……?」
如月がつぶやき、懐中電灯の光を左右に振る。
棚には黄ばんだ巻物、簀巻きにされた資料、そして手をつけられなかった箱たちが静かに眠っていた。
この地下保管室は、昭和中期に一度火災の危険があって封鎖され、以降誰も立ち入らなかったとされる。
玲は、鍵を提供してくれた服部たまきの言葉を思い返していた。
「昔の村は、語りたがらない風土があったのです。災いも、犠牲も、悲しみも、見えないまま終わらせようとしていた。だけどそれでは、何も救われないままです」
資料棚の一番奥──ようやく見つけた、小さな箱。
その表面に墨で書かれていたのは、「証言録:昭和三十年・氷鏡湖水難」とあった。
「……これだ」
玲がゆっくりと蓋を開けると、手書きの紙が何十枚も折り重なっていた。
その中に、まだ誰にも知られていなかった“ある一枚”があった。
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◆記録者:遠野悠生(当時十三歳)
◆聞き書き・聞き取り日:昭和三十年八月十九日
「妹を見た。岸辺で笑っていた。次の瞬間、いなくなった。自分は動けなかった。あのとき声をかければ──今も、あの笑顔が脳裏に焼きついている」
「誰も信じてくれなかった。誰にも言えなかった。でも、あれは“何か”が連れていったんだ」
「あの湖は、人の声に耳を澄ませている気がする。怒りとか悲しみじゃなくて、残された人の思いを……ずっと」
玲は、そっと紙を手帳に挟んだ。
「この証言があるなら、はるかちゃんの存在も……ずっと、この村の中で生き続ける」
如月がうなずいた。
「語られることで、ようやく時は流れ出すんだな」
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【同時刻】久岬村・服部家・東側の客間
朱音はまだ、うたた寝の最中にいた。
だがその夢は、明確な“意志”を持った世界だった。
湖畔。薄明かり。
霧の中に、幼い少女が立っていた。
黒髪を風に揺らし、白いワンピースが淡く発光している。
「──お姉ちゃん、ありがとう」
その声に、朱音は静かにうなずいた。
もう名乗らなくても分かっていた。
この少女が、悠生の妹・はるかであり、湖に囚われていた“花嫁のひとり”だったことを。
「もう、寂しくない?」
朱音が問いかけると、はるかは小さく笑って──そして、背後に現れた“たくさんの光”へと戻っていった。
花嫁たちが、もうひとりぼっちではないと示すように。
静かに目を覚ました朱音は、線香の香りの中で、ひとしずく涙をこぼした。
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【同時刻】氷鏡湖・湖畔
調査隊のテントでは、K部門の沙耶がある報告を終えていた。
「過去の水死事件……全件見直しました。が、“目撃者なし”として処理された件の中に、一つだけ矛盾がある」
「どれ?」
「昭和三十年の一件。報告書には『目撃者なし』とあるのに、当時の記録用紙に“子どもによる証言あり”のメモが……」
玲は黙って頷いた。
「抹消されたんじゃない。……誰にも“見ようとされなかった”だけだ」
⸻
湖の空気が、ほんの少し緩んだ気がした。
それは“封印”という言葉の意味が、やっと過去ではなく“語り継がれる現在”に変わった証だった。
【場所】久岬村・氷鏡湖沿いの林道
【時間】12月26日 20:05
静かな夜。風の音さえ止まったように、林が沈黙していた。
雪に閉ざされかけた小道を抜けると、湖の縁にぽつりと佇む「記憶の碑」がある。
この石碑は、村の古老たちが静かに建てたもので、そこには過去の犠牲者の名が淡く刻まれていた。だが、その下にある余白には、かつて誰の名も記されることがなかった。
今日、そこに新たな文字が刻まれる。
如月が静かに読み上げた。
「ここに、忘れられた者たちの記憶を記す。
彼らは消えたのではなく、語られずにいた。
名も声も残されぬ者に、いま光を──」
その文は、玲と服部たまきが相談し、村の有志によって認められたものだった。
下段には、はるかを含む水死者たちの名が記される。実名を避ける者には、手書きの花が添えられていた。朱音の描いた、白い菊と雪の花。
⸻
【場所】服部家・東側の客間/朱音のスケッチブックの前
ストーブのぬくもりの中で、朱音はそっと絵筆を握っていた。
窓の外には、淡い月光を湛えた湖が、ただ静かに広がっている。
彼女のスケッチブックには、少女たちの姿が描かれていた。
振り向いて微笑むはるか。白無垢を脱ぎ捨てて走る花嫁たち。
その背後には──光の粒が浮かんでいた。
「……見送った、光……」
その言葉を口にしたとき、朱音の目に涙が溢れた。
これは、過去を責めるための絵じゃない。
ただ、“彼女たちが生きた”ということを、未来に繋げるための一枚。
スケッチの隅には、小さくサインが記されていた。
「あかね」
⸻
【場所】氷鏡湖沿いの林道・碑の傍
【時間】20:15
玲は手袋を外し、冷えた石碑にそっと触れた。
隣に立つ服部たまきが、静かに言葉を探すようにしてつぶやいた。
「……これで、終わったのでしょうか」
玲は首を横に振った。
「“始まった”のだと思います。ようやく、語られる物語として」
「語る者がいれば、忘れられない……ということですか?」
「語る者がいなければ、どんな真実も“無かったこと”になってしまうから」
しばし沈黙が続く。
やがて玲は、空を仰いで言った。
「たまきさん……次に語らなければならない人が、もうひとりいます」
「……誰のことでしょう」
「朱音です。彼女の描く絵は、まだ言葉を持たない物語の“声”になります。
彼女が、次の語り部になる……そんな気がするんです」
風が、木々をゆるやかに揺らした。
まるで、何かが解けてゆくような、やさしい音だった。
【場所】久岬村・旧郷土資料館内・記録室
【時間】12月26日 20:20
暖房の効かない古い記録室。
木の床は冷たく、書棚の隙間から微かに冷気が忍び込んでいた。
それでも灯りの下には静かな熱があった。玲と朱音は、村の記録係・白井老人が帳面を閉じる前に、もう一度だけ確認したいことがあったのだ。
「この“空白の壁”……ずっとそのままだったんですね?」
朱音が指さしたのは、資料館の奥、白い漆喰の壁。古文書の展示とは少し離れたその一角は、なぜか何も飾られず、まるで“待っている”ような佇まいだった。
「戦後の改修で白く塗られたまま、誰も手を加えなかったようじゃのう」
記録係の白井は苦笑した。「あそこは“語られなかったものたち”のために残してある、そう聞いての」
玲が静かに振り返り、朱音を見る。
「……朱音。この壁に、あなたの絵を描かないか?」
「……え?」
「村に残った記録の“声”を、あなたが“色”にしてくれたら……。
それはこの場所に生きる人たちの、そして去った者たちの物語になると思う」
朱音は驚いたまま言葉を失ったが、数秒後、そっと頷いた。
視線の先には、朱音がスケッチブックに描いた絵──微笑む花嫁たち、白い湖畔、そして見送られた光──が重なっていた。
⸻
【場所】旧資料館前・石段
【時間】12月26日 20:35
冷たい風が吹く中、玲はコートの襟を立てながら、たまきと話していた。
朱音はその少し先で、雪に足跡を刻みながら一人スケッチの続きを描いている。
「明日の朝、村を発つんですね」
たまきの問いに、玲は静かに頷いた。
「ええ。K部門に戻って報告があります。それに……やるべきことがまだ山ほど」
「……少し、さみしいですね」
たまきは微笑みながら、懐から一枚の古い写真を取り出した。
写っているのは、子どもの頃の自分と、若き日の母の姿だった。
背景には、今では失われた旧家の土間と、冬枯れの庭。
「私の母も、昔は語部のひとりでした。けれど、何かを守る代わりに、自分の物語はずっと語らなかった。だから、娘の私は──どこかで“記憶”の外に生きていた気がしていたんです」
玲は目を細めて、たまきの言葉を聞いていた。
たまきは続ける。
「でも……今回、朱音さんが絵を描くと決めてくれて、ようやくわかった気がしました。
“誰かの物語”の中に、自分の記憶が織り込まれるって、こういうことなんですね」
「その想いを、次の誰かに渡していってください。語る声が続く限り、記憶は消えません」
「ええ、玲さん。……あなたも、どうか」
玲はわずかに頷いた。
⸻
【場所】旧資料館裏・坂の上
【時間】20:50
朱音は、吹き始めた粉雪の中で最後の線を引いていた。
雪に消えゆく足跡の先に、絵の中の“花嫁たち”が微笑んでいる。
彼女たちはもう、怯えていなかった。
朱音は小さく息を吐くと、スケッチブックを胸に抱きしめた。
──ここに描かれた物語は、やがて壁に刻まれる。
忘れられた人たちの声が、形を持ち、色を持ち、語られ続けていく。
玲はその様子を見守りながら、ふと空を見上げた。
風は静かで、星が滲むように瞬いている。
そして、誰もいないはずの背後から、ふと聞こえた気がした。
──ありがとう。
それはきっと、描かれた者たちの、最初で最後の「声」だった。
【エピローグ】
【場所】久岬村・旧郷土資料館・壁画の間
【時間】4月中旬・春霞の日
窓の外には、山の稜線を霞ませる春の靄が流れていた。
かすかに香る沈丁花の匂いが、記録室の奥にも届くようだった。
朱音は白い作業エプロンをまとい、大きなキャンバスのように広がる漆喰の壁の前に立っていた。
そこには、かつて“語られなかったもの”として空白だった壁に、
今は――朱音の描いた**「光の列」**が連なっている。
白無垢の少女たちが並ぶ姿。
湖に差し込む淡い陽。
水面に映る笑顔と、手を伸ばす別れの瞬間。
そして、その後ろを歩く現在の人々の影。
壁画は物語そのものだった。
そこに描かれたのは、「花嫁伝説」ではなく、「別れを乗り越えた人々の歩み」だった。
⸻
【場所】資料館前の石畳
【時間】同日 午後
「……本当に、来てくれたんですね」
朱音は振り向いた。
石畳の坂を登ってきたのは、都市から戻った玲だった。
季節外れのコートを羽織り、表情はどこか穏やかだった。
「久岬村のこと、ようやく一段落ついたので。
それに……この目で、あなたの“語り”を見届けたくて」
「うまく描けてるか、自信はないけど……でも、
みんなを“忘れない絵”には、なってる気がします」
朱音は照れくさそうに笑った。
玲は少し黙ったあと、ふっと息を吐いて言った。
「絵の中に、“消された声”は一つもなかった。
誰の記憶も、悲しみも、祈りも、ちゃんとそこにいたよ」
⸻
【場所】資料館裏手・沈丁花の咲く庭
【時間】夕方
朱音、玲、そしてたまきが並んで腰を下ろしていた。
沈丁花の香りが風に乗って漂ってくる。
「朱音さんの絵が完成したの、村中で話題ですよ。
観光客まで来るようになって、少し戸惑ってますけどね」
たまきは冗談めかして笑った。
「でも……あの壁が、今じゃ“語り部の壁”と呼ばれてるって、嬉しいです」
朱音はうなずいた。
湖の冷たい記憶が、春の日差しでほんの少し、やわらかく溶けたような気がしていた。
ー後日談ー
【場所】久岬村・旧神社跡
【時間】春の夕暮れ/4月中旬
神崎玲は、苔むした石段をゆっくりと登った。
人の気配がほとんど消えた山の尾根、その先にひっそりと建つ旧神社跡──。
鳥居はすでに朽ちかけ、片柱は半ば崩れていた。
けれど、春の陽はやさしくそれを照らし、どこか神聖な余韻だけは残っていた。
玲は、しばらくその前に立ち尽くしていた。
上空をゆっくりと、風が吹き抜けていく。
「……誰もが“祀られたい”わけじゃない。
けれど、“忘れられる”のは……きっと、もっと怖い」
玲はふと、そうつぶやいた。
氷鏡湖の“伝承”を紐解いたとき、そこにいたのは呪いでも怨霊でもなく、
忘れられかけた普通の人たちの声だった。
恋をして、裏切られて、待ち続けて、沈んでいった人たち。
誰かに何かを残したくて、それでも言葉にできなかった人たち。
だから朱音の壁画は、単なる絵ではなく、
彼らの“語り直し”だったのだと、玲は知っていた。
⸻
足元の石に腰を下ろし、玲は封筒を一通、懐から取り出す。
それは、村の記録係・たまきから渡された手紙だった。
中には一枚の写真と、手書きの言葉。
《語りの火は、またいつか別の誰かが引き継ぐでしょう。
玲さん、あなたが灯してくれた灯火は、確かに届きました。》
写真には、壁画の前で笑う朱音と村の子どもたちの姿。
玲はそれをそっと読み終えると、鳥居に軽く頭を下げた。
⸻
帰り道、玲は立ち止まり、最後にもう一度だけ湖を見下ろした。
夕暮れの光の中、湖面は静かに揺れていた。
語られなかった声たち。
失われた指輪。
雪に消えた恋。
そして、語られたすべてが、今ではもう――風景の一部だ。
玲はコートのポケットに手を入れると、ひとつ深呼吸をした。
「また、誰かがここを訪れる時まで」
その言葉を背に、神崎玲は、石段を下りはじめた。
探偵としての使命を果たしたその背中に、夕陽が淡く射していた。
【場所】久岬村・村外れの監視小屋
【時間】12月26日 20:35
木立に囲まれた村の境界。
林道の終わるその先、小高い斜面に建つ小さな監視小屋の中に、桐野詩乃はひとり佇んでいた。
机の上のトランシーバーが、最後の電波を終えて沈黙する。
「……通信終了。玲班、撤収確認」
詩乃は低く、しかしどこか安堵した声でそう告げると、静かにスイッチを切った。
⸻
室内には、他に二人。
黒のロングコートを羽織った安斎柾貴は、外の様子を双眼鏡で確認していた。
彼の目に映るのは、遠く氷鏡湖へと向かう道をゆく玲の背中──それを見届けるように、一度だけ頷いた。
その後ろで、成瀬由宇は壁にもたれたまま、淡々と報告書の端末をスクロールしている。
表情は無機質だが、朱音が村の子どもたちと壁画の前で笑っている写真には、指が一瞬だけ止まった。
⸻
「……任務、完了だね」
詩乃の声に、柾貴は静かに答える。
「干渉対象なし。潜伏経路からの不審情報も検出されていない」
「朱音、よかったな」
由宇がぽつりと口にする。
それは彼らにとって、単なる“護衛対象”ではなかった。
氷鏡湖の寒空の下、彼女の涙や、微笑みや、震える声に触れた彼らもまた――何かを変えられていた。
⸻
詩乃は、監視小屋の壁にかけられた地図を眺めた。
「次はどこに向かうのかな……また誰かを守りに行くんだろうけど」
「それが、俺たちの仕事だろ」
柾貴が静かに答えた。
けれど、どこかいつもよりその声音は優しかった。
⸻
外はもう、雪の予報が近い風を運んでいた。
詩乃はジャケットのファスナーを引き上げると、小屋の扉を開ける。
冷たい空気が一気に流れ込んだが、不思議と寒くはなかった。
「……じゃあ、行こっか。朱音ちゃんに言ったもんね、見守ってるって」
成瀬が無言で頷く。
安斎も端末をしまい、黙って詩乃の背に続いた。
そして、チーム影は誰にも気づかれることなく、また“影”へと戻っていった。
今度は、静かに“未来”を見守る者として――。
【場所】久岬村・氷鏡湖畔の祠
【時間】12月26日 20:45
湖の夜気は澄んでいて、月の光が水面にひっそりと揺れていた。
その静けさの中、小さな祠の前に一人の女性が立つ。佐々木昌代――朱音の祖母であり、佐々木家の芯をなす存在。
白い息を吐きながら、彼女は手を合わせ、そっと目を閉じた。
⸻
祠の中には、数枚の花びらが供えられていた。
それは朱音が描いた“見送る光”の絵を模した、淡く染められた和紙で折られた花。
昌代は静かにその花を見つめると、ゆっくりと語りかけるように、口を開いた。
「……昔、あの子がまだ赤ん坊だった頃ね。夜泣きしてばかりで、抱いても泣き止まなくて」
語りながら、昌代の目には淡く光るものが浮かんでいた。
「そのとき、ふと思ったのよ。――この子には、きっと“向こう”の気配が見えているって」
⸻
昌代はもともと、“視る”力を持っていた。
それは祝福ではなく、時に重荷であり、沈黙を強いられる宿命だった。
だが、朱音がそれを無垢なままに受け取り、光に変えようとしていることを、今回の出来事で昌代は確かに感じ取った。
「もう、大丈夫なのね……あの子は、自分の足でちゃんと歩ける」
誰にともなくそう呟くと、昌代は懐から小さな布袋を取り出した。中には、一粒の勾玉。
それは、昌代の母が形見として残してくれたもの。
霊を鎮める力があるとされ、長く家に伝わっていた。
「……次は、朱音に預けましょうか。もう、背負わせたくはないけれど」
けれども、この村で“何かを見送る”力が、誰かの未来を救うこともあると、今なら信じられた。
⸻
手を合わせる昌代の背に、風がそっと吹いた。
湖面がふわりと揺れ、どこか遠くから、鈴の音のような水音が届く。
それは、成仏した花嫁たちの最後の“感謝”のようにも感じられた。
⸻
昌代は深く頭を下げた後、ふっと微笑んだ。
「ありがとう。どうか、穏やかに……」
その声は、もう怨念や恐れではなく、温かな祈りとして、湖に染み込んでいった。
そして、佐々木昌代は静かに祠を後にし、朱音が待つ家へと帰っていった。
未来へと続く道に、もう迷いはなかった。
【場所】久岬村・ロッジの自室
【時間】12月26日 21:10
ロッジの窓の外には、黒く沈んだ森と、月明かりを受けて微かに輝く氷鏡湖が見える。
ストーブの小さな炎が、部屋の隅でパチパチと音を立てていた。
朱音は、毛布に包まるようにして机に向かい、静かにスケッチブックを開いた。
そのページには、未完成の光景がある。
成仏した花嫁たちの影と、見送る人々の後ろ姿。
描きかけのまま、筆が止まっていた“あの瞬間”の記憶。
⸻
朱音はゆっくりと、鉛筆を手に取った。
深呼吸を一つして、線を走らせる。
カリカリという音が、夜の静寂に溶けていく。
ひとり、またひとり。
描くたびに、思い出す。
ハルが微笑んだ瞬間。
氷月が八代に指輪を受け取ったあの涙。
名前も顔も知らなかった花嫁たちが、ようやく“還っていった”姿。
⸻
目元に溜まった涙を、朱音は指で拭った。
悲しみではない。
それは、見送れたことへの安堵。
そして、自分にもできることがあったという実感。
「……ここに、ちゃんと残すから」
朱音の声は、ごく小さな囁きだったが、まるで湖に向けた誓いのように空間に染み込んでいった。
⸻
完成に近づく絵には、朱音らしいやわらかな色が重ねられていた。
黒く描かれた湖の中に浮かぶ、小さな灯。
それは“別れの光”ではなく、“生きてゆく側の光”だった。
⸻
ページを閉じる頃、朱音の顔にはやわらかな笑みが戻っていた。
きっとこの絵は、いつか誰かが見たときに、同じように「見送る勇気」を与える――そんな気がした。
彼女はそっと灯りを落とし、眠りにつく。
夢の中でも、光が描かれているだろう。
あの湖と、あの冬と、そして大切な誰かたちのことを。
【場所】東京郊外・玲のロッジ兼探偵事務所
【時間】春の昼下がり/穏やかな風が吹く午後
ロッジの玄関チャイムが鳴った。
奈々が受け取った郵便の束の中に、ひときわ丁寧な封筒が一通、混ざっていた。
手ざわりのある和紙封筒。差出人には──「服部たまき」
「玲さん、お手紙。久岬村から」
静かなリビング。玲は紅茶のカップを置き、手紙を受け取ると、黙って封を開いた。
中には、たまきの筆致で綴られた便箋が二枚、丁寧に折り重なっていた。
⸻
手紙の内容
神崎玲様
春の久岬は、静かな息づかいを取り戻しつつあります。
湖の氷もすっかり溶け、風の中に土の匂いが混じるようになりました。
あの冬の夜から、村は少しずつ変わってきました。
昔の話を避けてきた人々が、今では集まって語り合うこともあります。
「あの夜を越えた」という共有が、何かを和らげてくれているのかもしれません。
朱音さんの壁画の下描き、村の子どもたちも見せてもらったそうです。
あの子が描こうとしている“光”は、きっと彼女だけに見えたものですね。
時折、湖畔の祠の前で立ち止まる人を見かけます。
あの場所も、ようやく“ただの祠”に戻りつつあるのかもしれません。
玲さん。あなたが記録し、朱音さんが見送り、
皆さんが寄り添ってくれたことで、
久岬村の「封じてきた何か」は、ようやく呼吸を取り戻しました。
またいつか──春の湖が穏やかな風を運ぶころに、
皆さまそろって、遊びにいらしてください。
お身体を大切に。
服部たまき
⸻
玲は読み終えると、そっと便箋を重ね、紅茶に口をつけた。
少し離れたダイニングでは、朱音と沙耶が笑いながらスケッチブックを広げている。
窓の外には、春の柔らかい風──そして、かすかな光の筋が差し込んでいた。




