表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
71/121

71話 占術師の館 ― 記憶に還る扉

■登場人物一覧(都内・古書店の場面および関連)



【青年(新しい来訪者)】

•名前:未定(仮)

•設定案(例):

•かつて「占術師の館」を訪れた記憶を封じられた一人。

•一見無関係に見えるが、朱音たちと同じく“館に触れた記憶の残響”を抱えている。

•過去に占術師・響野裕司と短い会話を交わしていた可能性がある。

•書店で手に取った古書をきっかけに、忘れていた出来事が断片的に蘇る。



響野ひびきの 裕司ゆうじ

•占術師の館の元主。

•今は消息不明とされているが、彼の残した書や手記が街のどこかに散在している。

•青年が手に取った古書の奥付に、その名が記されていた。

•“視点の記録”や“訪問者の選定”に関わっていた人物で、記憶や来訪の巡りに深く関係している。



【古書店の店主(背景人物)】

•名前や詳細な描写は現時点では未定。

•ただし、青年が何気なく立ち寄れるような、落ち着いた空気のある古書店の主。

•店に並ぶ本の中には、かつて館を訪れた人物が手放したものが紛れている可能性も。



■関係者(名前のみ登場または記憶の中で)

•沙耶:記憶を巡る中で、青年の過去の中にも“似たような人物”として一瞬浮かぶ存在。

•水原 奈緒:かつて館を出入りしていたことがあるため、その痕跡を青年が知らずに追っている可能性がある。

•朱音:同じ「館に導かれた記憶の継承者」として、いつか交わる可能性が示唆される。

ー冒頭ー


十一月二十六日、日曜日の午後。

玲探偵事務所の窓からは、翳りかけた午後の光が斜めに差し込んでいた。向かいのビルの壁面には、薄い金色の陽が淡く滲み、季節の境界線がそこに刻まれているかのようだった。


窓の外では、白くぼやけた空が街を覆っていた。冬の気配がじわりと近づいてきている。風がひとつ通り過ぎるたびに、街路樹から枯葉が二、三枚、音もなく舞い落ちてゆく。


部屋の中は静かだった。

ストーブの上ではやかんが小さく湯気を立てている。時計の針が「午後一時二十分」を指して止まることなく進み、壁際の書棚の影がゆっくりと伸びていった。


誰も言葉を発さないまま、時間だけが確かに流れていく。

その静けさは、何かが始まる前の“間”のようでもあり、誰かが口を開くのをじっと待っているようでもあった。


そして——。


【11月27日(月)/午前10時45分 山梨県北部・山間部 林道沿い】


 山を一つ越え、さらに奥へと分け入った林道を、一台の車がゆっくりと進んでいた。

 舗装が途切れ、砂利道に入ってからしばらく。タイヤが小石を巻き上げ、低く唸る音だけが静かな山中に響いていた。


 車内には、冷えた空気が残っている。エアコンの風量は抑えられたままで、助手席には一枚の地図のコピーと、一枚の古びた写真が置かれていた。

 どちらにも正確な地名や番地は記されていない。ただ、玲にはそれらの“意図”が、静かに、だがはっきりと読み取れていた。


 紙の端に、うっすらと鉛筆で引かれた印。周囲の地形から逆算すれば、この林道が写真の背景に映る稜線と一致する可能性は高い。

 それを裏付けるように、進行方向右手の尾根筋には、写真に写っていた倒木が、今も朽ちかけたまま姿を残していた。


 玲はハンドルを握り直し、小さく息を吐いた。

 この先に何があるのかは分からない。だが、少なくとも誰かがこの道へ導こうとしていたことは確かだった。


 車のスピードがさらに落ちる。前方、木々の切れ目に、わずかに開けた空間が見え始めていた。


林道の終点に近い場所で、玲は車をゆっくりと停めた。


 目の前には、小さな空き地のような開けた場所。周囲を囲む木々の密度が急に緩み、足元には車の轍が、古いものと新しいものとで交錯していた。しばらく人の出入りはなかったはずの山中にしては、妙に“最近”の痕跡が多すぎる。


 玲は車を降りた。

 冷えた空気が頬を刺す。小鳥の声もせず、風が梢をわずかに揺らす音だけが耳に残った。


 そして、まず目に留まったのは——一本の電柱だった。


 杉林の中に唐突に立つそれは、塗装がまだ新しく、コンクリートの表面に苔も汚れもない。取り付けられた変圧器や支線も、最近になって整備されたばかりのようだった。にもかかわらず、周囲にそれらしい民家や作業施設は一切見当たらない。


 「……おかしい」


 玲は視線をずらし、空き地の端へと歩を進めた。

 そこには、傾いた廃屋があった。平屋建てで、かつては山小屋か資材置き場のように使われていたものか。屋根の一部は落ちかけ、壁板の隙間から内部が覗けるほど傷んでいる。


 しかし、入口付近の土には、わずかに靴の跡が残っていた。雨は降っていない。最近誰かが入った形跡──それも、二人分以上。


 さらに周囲を見回した玲の視線が、地面の一角で止まる。


 焚き火の跡だ。石を組んだ簡易の囲い。その中央には、まだ黒く燻った炭と、半分だけ燃えた新聞紙の断片があった。日付は三日前のもの。東京の朝刊。


 人のいないはずの林道の奥で、わざわざ火を起こし、新聞を燃やしている──まるで、何かの証拠を処分するかのように。


 玲は膝を折り、指先で炭をつまんで確かめた。まだほんのわずかに湿気を含んでいた。


 「……これは偶然じゃない」


 ひとりごとのように呟いた声が、山に吸い込まれていく。


 その背後で、風が再び木々を揺らした。だが、それは“風の音”にしては重たすぎる。

 まるで、誰かが林の中を踏み歩いているような──。


 「……パキッ」


 枝を踏む音がしたのは、廃屋の裏手から約七メートル先。

 即座に気配を探る玲の視線が、その一点に鋭く突き刺さる。


 ──だが、玲は即座に構えを解いた。


 「いい加減、出てこい。お前の足音は、十年前から変わらない」


 そう告げると、低木の奥から黒い影が静かに現れた。

 漆黒の戦闘服に身を包み、無表情のまま現れた男――成瀬由宇なるせ・ゆう。影班の中でも最も早く動き、最も静かに仕留める実行担当だった。


 「……さすがですね、玲さん。踏み音まで覚えてるとは」


 「そもそも俺の指揮下で何年動いてると思ってる」


 玲はわずかに口の端を上げると、背後の森をちらりと確認した。

 次の瞬間、別方向の枝葉が揺れ、二人の人影が姿を現す。ひとりは桐野詩乃きりの・しの。もうひとりは、影班の精神制圧担当である**安斎柾貴あんざい・まさき**だった。


 「遅くなりました、指揮官。目標周辺、三百メートル以内に不審者の反応なし。ただし、先ほど上空をドローンが一度通過。応答信号が市販モデルと異なります」


 詩乃がすぐに報告する。玲は頷いた。


 「妨害用の安価な電波攪乱装置を使ってるな。あの混信は、俺たちを追ってる者じゃない。おそらく“逆”だ。……ここを監視している連中が、何かを隠そうとしてる」


 玲は懐の中から小型ケースを取り出すと、影班の三人に見せた。


 「床下に隠されていた。外装は一見ただの金属ケースだが、中に精密な遮断素材が使われてる。これを運ばせた連中は、ここを一時的な中継地点と見て間違いない」


 「……確認しますか?」と成瀬が問う。


 玲は静かに首を横に振った。


 「まだだ。現時点では触れない。罠の可能性もあるし、逆探知用の遅延信号を仕込まれてるかもしれない。……詩乃、ケースの外部解析。安斎、周囲に“記憶操作”の痕跡があるか確認しろ」


 「了解」


 「了解」


 二人が即座に動き出す。玲はわずかに空を見上げた。白く濁った冬空の下、風がまた枝葉を揺らしている。静寂の中に、何かが動いている気配は、確かにある。


 だが、玲の表情は崩れない。


 彼には“最前線の部下たち”がいる。そして、彼はその誰よりも冷静に、命を賭ける覚悟を背負っていた。


 「朱音の絵が示していたのは……やはり、ここだ。だとすれば、次に動くのは“あの男”のほうだろうな」


 玲の目が細く鋭くなる。

 その名をまだ口には出さない。だが、これが「封じられた真実」に繋がるルートの一本であることを、彼は確信していた。


  廃屋と呼ぶには、いささか整いすぎていた。

 屋根は苔に覆われているが、崩落はなく、玄関戸も無理なく開いた。土埃はあるものの、靴跡の一つや二つは見つかりそうな気配すら漂っている。


 玲は立ち止まり、古びた竹垣の外に目をやった。

 敷地の脇に、不自然なほど新しい電柱が一本──周囲のインフラとは明らかに不釣り合いな、それだけが整備されたような存在感を放っていた。


 「通信用か……監視か……」


 玲が小さく呟くと、後ろから成瀬が一歩前に出て無言で頷いた。

 地面には、昨夜あたりに使われたばかりの焚き火の痕跡。炭は乾ききっておらず、風の通りに合わせて微かに灰が舞う。


 「誰かが、ここにしばらく留まっていた形跡があります」


 桐野が背後の小屋を確認し、報告する。

 「保存食の包装、折りたたまれた毛布、そして……足跡は三人分。ただし、一人は荷を運んだ形跡があります」


 玲は黙って扉を押した。

 ――古びた木戸は、わずかな抵抗のあと、音もなく開いた。


 玄関先の靴脱ぎ場には、何もない。

 だが、土間の隅には、誰かが落としたと思しき銀色のペン型機器が転がっていた。ペンではなかった。録音用レコーダーだ。


 「……これは警察の備品じゃない。企業系の調査屋か、あるいは──」


 玲がそれを拾い上げたときだった。

 ──ザッ……という微かな混信音がイヤホンに走った。

 「こちら第一区──応答を。……周波数……」

 無線の周波数がぶれ、何者かの通信が一瞬だけ混信する。


 成瀬が背後で警戒態勢に入った。


 「視線を感じる。尾行か……あるいは潜伏者」


 玲はわずかに頷いた。

 この場所が、単なる廃屋ではないことは初めからわかっていた。

 かつてここは、“表沙汰にできない事情を抱えた者たち”が相談を持ち込む非公式の拠点だった。


 いわば、口外できない秘密を持つ者同士が“中立地帯”として用いた場所。

 不倫、遺産争い、内部告発、家族の失踪、あるいは……警察では捌ききれない灰色の領域の数々。

 「占術師」という看板はあくまで名目──実態は、他人の秘密を握っていた女が住んでいた。


 「この家の記録が残っていないのも、持ち込まれた相談が公にできないものだったからだ」


 玲は奥の和室に足を踏み入れた。


 畳はやや浮いているが、中央には不自然に空白になった床の一角がある。

 上にあったはずの座卓が持ち去られている。そして、障子の裏に張られていた一枚の新聞紙が剥がれかけていた。


 玲が手袋をしたまま、それを丁寧に外す。

 裏から現れたのは、壁に鉛筆で書かれた名前の羅列──ほとんどは判読不能なまでに擦れているが、ひとつだけ比較的はっきりと残っていた。


 《三宅章吾みやけしょうご


 玲の目が細くなった。

 その名は、十年前に山梨県南部で失踪した元市議の名前だった。


【11月27日(月)/午前11時15分 “占術師の館” 屋内】


 扉は閉じられていた。だが、鍵の部分は斜めにひしゃげ、内側から強引に押し開けられた痕跡がある。

 玲が無言で手袋をはめ直し、そっと扉を押すと、湿った音と共に古びた蝶番がわずかに軋んだ。


 中に足を踏み入れた瞬間、埃と乾いた木の匂いが鼻を突いた。

 長らく風が通っていなかったにしては、妙に「人の気配」が残っている。窓際のカーテンは一枚、半ば引きちぎられたように外れ、床に垂れている。


 玄関脇の小さな靴箱には、古びたスリッパが三足。どれも黄ばみ、すでに使われなくなって久しいように見えたが、一足だけ、比較的最近履かれた形跡がある。

 ソールの汚れが床に残り、土の乾いた跡が、廊下の奥へと続いている。


 廊下の先、左手には居間──和と洋が中途半端に混ざった部屋。

 小ぶりな食器棚、古いソファ、テーブルの上には埃をかぶった灰皿。


 だが、棚の奥に仕舞われていたはずのコーヒーカップが二つ、食器棚の前に並べられていた。

 片方のカップには、乾ききった茶渋のような跡がうっすらと残っている。もう一方はきれいだ。まるで、誰かが一人だけ使い、もう一人の分を出したままにしていたかのように。


 「……つい最近まで、誰かがここで話をしていた可能性がある」


 玲の低い声に、背後の桐野が頷く。


 「棚の上、埃が指の幅で拭われています。誰かが手をついて立ち上がった跡……」


 成瀬が視線を巡らせたあと、床に目を留めた。


 「……こっち、濡れた靴の痕がある。昨夜、雨が降ってた。まだ乾ききってない」


 玲は窓際に寄り、カーテンの奥を押し広げる。

 窓の桟に小さな紙片──破れたメモの一部が貼りついていた。

 指でそっとつまみ上げると、そこには手書きの数字があった。


 「1027 1535」


 日付か、時刻か。それとも暗号か。

 玲は黙ってそれをポケットに収めた。


 居間の奥、和室との仕切りとなっている障子には、ところどころ破れた箇所があり、その先に光が差していた。

 玲が障子をゆっくりと開けると、畳の上に広げられた古新聞が目に入った。


 その新聞紙の上には、まるで何かを包んでいたかのような折り跡があり、中央には焦げ跡のような黒ずみがある。


 「焚き火……いや、これは――室内で火を使った痕か」


 「処分された証拠かもしれません。焼かれたのは紙だけじゃない可能性も」


 玲は黙ってうなずいた。

 ──誰かがここで何かを隠し、あるいは始末しようとしていた。


 その「誰か」は、きっと今もこの場所の周辺にいる。

 自分たちがここへ足を踏み入れたことを、既に知っているかもしれない。


玲の視線が畳の端に留まった。

 一見、日焼けした古畳だが──部屋の隅、床の縁に沿って、微かに不自然な“切れ目”が見える。通常の継ぎ目よりも、やけに真新しい。


 「成瀬、ここを。慎重に」


 成瀬が無言でうなずき、静かに畳を持ち上げる。

 下から現れたのは、年季の入った板張り……ではなかった。


 そこだけ、明らかに材質が異なる“新しい木材”で補修されていた。

 まるで何かを封じるように、意図的に打ち付けられた跡。釘は古いが、留め方には手慣れた細工の形跡が残る。


 成瀬が工具で釘を外すと、板の裏には細い導線が走っていた。


 「……これは、センサーか?」


 「警報ではない。恐らく録音。タイマーか、動作検知式だ」


 玲がすぐさま懐から小型の検査機を取り出し、通電反応を調べる。

 ピッ、とわずかな電子音──まだ生きていた。


 慎重に板を外すと、床下には金属製の小箱が隠されていた。

 型は古いが、業務用のICレコーダーに似た仕様。外装には目立たぬようカビが付着していたが、通気口が丁寧に加工されているあたり、専門の手が入っていたことは明らかだった。


 「録音デバイス……旧式だが、ノイズを逆利用してる。屋内の生活音にまぎれて会話だけ拾うタイプだ」


 玲が手早く外部電源に切り替え、再生モードに切り替える。

 ノイズ混じりの音声が流れた。


 > 『──彼は来ない。連絡は途絶えたままよ。……いいえ、私の判断でここを引き払う。』

 > 『残された情報は……燃やす。あのメモも──証言も、全部』

 > 『……“あの人”がこれを聞くころには、私もここにはいない』


 「女性の声……これは、“占術師”本人の可能性が高いな」


 背後から桐野が別の異変に気づく。


 「玲さん……この床、板の継ぎ目が妙に浅い。元々通路があったかもしれません」


 玲が目線を落とし、空気の流れを読むように屈み込む。

 板のわずかな隙間から、乾いた風が上がってきていた。


 「……あるな。恐らく、屋敷の地下か背後の斜面と繋がっている抜け道だ」


 成瀬が素早くライトを構え、開いた通路口を照らす。

 下には人ひとりがようやく通れるほどの細い抜け道があり、土と木材が入り混じるような古びた構造だった。人の出入りを隠すため、意図的に築かれた密かな通路。


 そして──その通路の奥から、かすかな“音”が聞こえた。


 金属が擦れるような、しかし一定のリズムではない。

 玲は手で制し、全員を静止させる。


 「誰か、いるかもしれん。慎重に行くぞ」


 録音デバイス、焦げた新聞、隠された通路。

 この屋敷で、誰かが確かに「情報を処分しようとし」、そして「誰かの来訪を恐れていた」。


玲は書斎とおぼしき部屋の本棚に目を留めた。

 天井まで届く古い木製の棚。文庫や専門書が無秩序に並び、埃をかぶった背表紙の多くは色あせて判読できない。


 だが、その中に一本──明らかに紙質が異なる背表紙があった。

 他の書籍が黄ばんだ布や紙で装丁されているのに対し、それだけはわずかに艶の残る質感。背には金色の細い文字で、


 『月と分水嶺』


 と記されていた。


 玲が静かにそれを取り出し、頁をめくると、あるページで手が止まった。


 ──封筒。

 古びたクリーム色の角形。糊の部分は剥がされておらず、指で挟んでみると、中に紙が数枚と、何か薄い金属片のようなものが入っている。


 その封筒は、あるページの中に自然に挟まれていたように見せかけていたが、実際には背表紙と接着されており、ページを無理に開かなければ露見しない構造になっていた。


 「……仕込み方が手慣れてる。一般の人間じゃない」


 封を切ると、中から出てきたのは──

•手書きの地図。既存の地図を切り貼りして線を引いたもの。裏面には小さく「S-5 / 廃道経由」と赤字。

•小型の金属製ICチップ。市販の録音媒体とは異なり、特殊な端子と耐熱コーティングが施されている。

•そして、一枚のメモ。硬質な万年筆の字で書かれていた。


 > 「もしこれを読んでいるなら、私はもう“向こう側”にいる」

 > 「あの夜の約束は、まだ終わっていない。S地点に残された“証人”が鍵を握る」

 > 「真実は分水嶺に沈む──だが、沈んだものは流されず、そこに留まる」


 玲は黙読の途中で、ふと目を細めた。


 「“分水嶺に沈む”……これは、場所そのものを示している。隠語だ」


 「地形名?」


 「いや、隠された区域。地元の人間でも正確な位置は口にしない。廃道からしか入れない“谷の境”があったはずだ。地図で確認する」


 成瀬が地図のコピーを広げ、書き込みを照らし合わせた。


 「……ありました。北側の旧採石場裏、管理が打ち切られた谷。封鎖された林道を使えば、30分以内に接近できます。ただし……」


 「足跡が残る」


 「はい。向こうも監視している可能性があります」


 玲は封筒の中身をもう一度確認し、ICチップを丁寧に布で包むと、内ポケットに収めた。


 「……急ぐ。ここに長く留まるべきじゃない」


 背後の通路では、わずかに空気の動く音がした。まるで、誰かが遠くでこちらを“見ている”かのような──沈黙の気配が。


【11月27日(月)/午前11時40分 “占術師の館” 地下室】


 重い金属扉がきしんだ音を立てて開くと、内部から冷たい空気がふわりと流れ出した。

 まるで長い間、人の気配を拒み続けていた空間が、ようやくその口を開いたようだった。


 コンクリート打ちの階段は、湿り気を帯び、ところどころに黒カビが浮いている。幅は狭く、手すりもない。

 玲は無言で懐中電灯の角度を調整しながら、足元に注意を払い一段ずつ降りていった。


 地下室に入った瞬間、息をひそめた。

 広さは六畳ほど。壁は無塗装のコンクリートで、天井は低く、ランプひとつない。

 それでも床の中央には、かつて長机が据えられていた痕跡──金属製の足跡と、接触跡がうっすらと残っている。


 懐中電灯の光が、室内の隅で反射した。

 棚だ。古い木製のキャビネットがひとつ。中には分厚いノートが数冊、整然と積まれていた。


 玲は一冊を手に取り、表紙をめくった。


 中は、びっしりと手書きの文字列と図形で埋まっていた。が──


 「……これは、“文字”ではないな」


 書かれているのは、通常の言語体系ではなく、意味不明の配列。

 だが、玲はページを三秒見ただけで、そこにパターンを見つけた。


 「法則性がある。いや、視点の転換が鍵だ」


 彼は無言でノートを数ページめくり、ふと立ち止まる。

 そこには円形に文字が配された“輪”があり、中心に「R.N.」のイニシャル。そして、ページ端には小さな印──「③」と記されている。


 「……ページ番号ではない。“第3式”だ。順列か、記号的な変換式が別に存在する」


 玲は懐中電灯の光を棚の下へ向け、埃にまみれた鉄製の小箱を見つけた。

 取り出すと、上部にダイヤル式の鍵──三桁の数字を合わせるタイプ。


 彼は即座にノートの冒頭数ページに戻り、繰り返し現れる数列に注目した。


 「6・1・4。これは“変換後のキー”。ノートは変換表だ」


 数十秒の沈黙。玲の目が、ノートと箱を交互に見比べる。


 「……仕掛けたやつは、誰かに解かれることを前提にしている。しかも、一定以上の“思考パターン”を持つ相手に。これは単なる記録じゃない、“テスト”だ」


 ダイヤルを合わせ──「6」「1」「4」──ゆっくりと回す。

 カチ、と乾いた音がして、蓋が持ち上がった。


 中には、黒い封筒。そしてもう一枚──写真。


 封筒を開けると、出てきたのは簡易な名刺サイズのカード。


 > 【M会合記録/第二報:11月20日付】

 > ※報告者 R.N.

 > ・件の来訪者、再接触。過去情報の一部と符合。

 > ・“稜線”経由の経路、再度確認。接触者名:影-α1

 > ・今後の対応は「分岐地点」まで保留。引き継ぎ手配済。


 玲の目が鋭く細くなる。


 「“影-α1”……由宇のコードネームか。つまりこれは……影班の一部にも伝達されていた情報?」


 背後で微かな音がした──空気が、ささやかに動いた。

 玲は反射的に身体を半回転させ、懐中電灯を背後へ──何もない。だが、違和感は消えなかった。


 この部屋の空気は、「監視されていたことがある空間」の匂いがする。

 そして、玲は確信していた。この地下室は単なる保管庫ではない。


 ──これは、誰かが“思考の形跡”を残し、試された場所。

 そして、その知能が届いたときのみ「次の扉」が開く構造だった。


【11月27日(月)/午後1時00分 “占術師の館” 前・林道】


 林道にこだましたのは、やや控えめなエンジン音と、短く合図のように鳴らされたクラクションだった。

 霧がいっそう濃くなり始めた午後の空気に、その音が不自然なくらいはっきりと響いた。


 玲は、館の地下から引き上げたばかりだった。

 手には、まだ封筒とノートを収めた資料袋を握っている。

 そのまま玄関口へと向かい、ドアを開ける。冷気とともに、白い霧が一筋入り込んできた。


 「玲お兄ちゃんっ!」


 霧の向こうから、小さな足音がリズミカルに近づいてくる。

 その声には、どこか安心しきった響きと、場所の空気を一瞬で変えるような明るさがあった。


 朱音だ。


 ランドセルを背負い、頬を紅潮させて全力で駆けてくるその姿を、玲は思わず立ち止まって見つめた。

 彼女は館の空気に怯える様子も見せず、一直線に玲のもとに駆け寄ってくる。


 「どうしてここがわかった?」


 玲が小さく訊くと、朱音はにっと笑い、背後を親指で示した。


 「ママがね、“匂い”で分かったんだって」


 「……匂い?」


 玲が目を細めると、遅れて現れた沙耶が、少し苦笑いを浮かべながら歩いてくる。

 スカーフの端を手で押さえ、霧の中でもぶれないその目で玲を見据える。


 「“あなたがここにいる気がした”って言えば納得するでしょ?」


 玲は小さくため息をついたが、それは呆れではなく、どこか心がほぐれるような呼気だった。


 「……助かる。少し、長居しすぎた」


 沙耶は朱音の肩にそっと手を置きながら、館の玄関先に目を向けた。

 古びた木の扉、崩れかけたポーチ、雨で削れた階段。霧の中に沈みかけたようなその構造に、彼女は目を細める。


 「ここ……ただの占いの館じゃないね」


 玲は黙って頷くと、手に持っていた封筒とノートの束を見せる。


 「中に記録があった。“誰かに読まれる前提で書かれたもの”だ。

 しかも、記録者の名は……“R.N.”」


 沙耶の表情が一瞬だけ動いた。


 「……あの“R.N.”? 本当に?」


 「ああ。封筒にあった伝達記録には、影班への言及もある。由宇のコードネームも」


 朱音は二人の会話の内容を完全に理解はしていなかったが、真剣な空気には敏感だった。

 彼女はそっと玲の手を握ると、小さく訊いた。


 「怖いとこだった……?」


 玲は、その問いに少し考えてから、穏やかな声で答えた。


 「……怖いというより、“何かが終わってない場所”だ」


 そのとき、沙耶がわずかに顔を上げ、林道の向こうに視線を向けた。


 「……誰か、来てない?」


 玲も振り返る。霧の向こう、林の木立の間に、一瞬──人影のようなものが揺れた。

 それは幻か、それとも……。


 玲はすぐにポーチの脇に置いていた小型無線機に手を伸ばし、影班の通信回線を呼び出した。


 「こちら玲。警戒レベル、1段階上げろ。監視者の可能性がある」


 無線の向こうから、静かな声が返る。


 『了解。“桐野”が周辺の残留痕を調査中。由宇も展開可能です』


 玲は小さく頷いた。


 ──この場所に残っていたのは、単なる記憶ではない。

 それは今なお“誰か”の行動と繋がっており、静かに動き続けている。


【11月28日(火)/午後4時20分 占術師の館・地下室】


 階段を一段ずつ踏み下ろすたび、木材の軋む音が小さく反響する。

 古い梁の隙間から、微かに埃が舞い、懐中電灯の光に細かな粒子として浮かび上がった。


 玲は無言で足元を確かめながら降りていく。

 背後には沙耶の足音。控えめだが、迷いのない歩幅だった。


 地下に足を踏み入れると、空気は地表よりひんやりとして、どこか“閉じられた匂い”が鼻を突いた。

 湿気が混じり、微かに木と土のにおいが溶け合っている。呼吸するたびに、忘れられた時間の層が肺の奥に沈み込んでくるようだった。


 「……生活の痕跡じゃないわね。これは、意図的に“封じていた”場所」


 沙耶が、薄闇の中でそう呟いた。


 懐中電灯の光が照らす先には、壁際に積まれた木箱がいくつも並んでいた。

 いずれも埃を被り、鍵のかかっていた痕跡もあるが、金具は腐食し、封印は意味をなしていない。

 棚には古びたファイルや手帳の類、そして蓋の割れたガラス瓶、名前のない薬瓶が不規則に並べられていた。


 玲は慎重に一本の手帳を取り上げ、表紙を指先で払った。

 書かれているのは万年筆の筆跡。日付と簡素な記録が数ページ、しかし途中からは文字が掠れ、何度も上書きされた跡がある。


 「……ここ、“占い師の地下”なんかじゃない。

 むしろ、“占い”の名を借りて、誰かが他者の意識や行動を管理していた痕跡だ」


 沙耶の眉が僅かに動いた。


 「……朱音を、連れて来るべきじゃなかったかもしれないわね」


 玲はその言葉に少しだけ表情を変えた。

 朱音の母であり、家族を守るために常に直感と観察力を働かせる沙耶。その判断力を彼は信頼していた。


 「でも、あの子の感性は……時に真実より深く届く。

 ここに“何かがいた”と感じる力は、俺たちには計れない」


 玲はさらに奥の棚に視線をやった。そこだけ、埃が不自然に薄い。

 近づくと、棚の裏側──ちょうど梁と柱の継ぎ目に、小さな隙間があることに気づく。


 「……ここ、開くな」


 指先で押し込むと、“カコン”という乾いた音がして、木材がわずかに軋み、壁の一部が内側に傾いた。

 隠し扉だ。


 中は狭い空間だった。だが、明らかに「最近、誰かが触れた」痕跡が残っている。

 靴跡、壁に擦れた痕、そして──小さな録音デバイスが床に落ちていた。


 玲は膝をつき、それを拾い上げた。

 旧型のICレコーダー。再生ボタンに触れると、かすかな雑音のあと、低い女の声が流れる。


 ≪……“彼”が来るとしたら、もう一度、あの本を読みに来るはず。

  でも、それが何を意味するかは、本人すら気づいていないかもしれない。≫


 玲と沙耶は、顔を見合わせた。

 声に聞き覚えはなかったが、そこには確かに“玲”の動きを予測した意図が刻まれていた。


 沙耶がぽつりと呟く。


 「……これ、“罠”の匂いがする」


 玲は再び録音デバイスを見つめる。

 そこにはまだ続きがあるようだった。


【11月28日(火)/午後4時32分 占術師の館・地下室・隠し通路】


 玲はICレコーダーの再生ボタンを、そっともう一度押し込んだ。

 雑音が走り、続いて──不明瞭な気配を孕んだ女の声が、再び闇の中に流れ出す。


 ≪……彼がこの部屋に入ったとき、それは“始まり”ではなく“再訪”になる。

  彼が知らないだけで、ここに来たことはある──そう、ずっと前に。≫


 玲の目が鋭く細められた。


 ≪この場所の記録は、表には出ていない。

  でも、過去の来訪者が残した“選択の痕”は、隠しきれるものじゃない。≫


 そこまで再生されたとき、録音はぷつりと途切れた。


 玲は静かにICレコーダーをポケットに滑り込ませると、目の前の“隠し扉”を開けたまま、内部を懐中電灯で照らした。

 内側には、薄暗く細長い通路が続いている。まるで、地中に向かって何かを埋めるように掘られた抜け道のようだった。


 「沙耶、もし途中で何かあったら、朱音を守ってくれ」


 「……あなたも、無理はしないで」


 玲はうなずくと、通路へ足を踏み入れた。



【11月28日(火)/午後4時37分 占術師の館・隠し通路・終端部】


 通路は約十メートルほど。空気はさらに重く、酸素が薄いような閉塞感がある。

 やがて、行き止まりのような壁に突き当たった──だが、そこにはまた別の“木板”が打ち付けられており、釘は錆び、板自体は湿気で歪んでいた。


 玲は工具を使って慎重に板を外すと、中から浅い収納スペースが現れた。

 そこには金属製のトランクがひとつ。暗号錠がついた古びたケースだった。


 「……やっぱりな」


 玲は指先で錠を撫で、数字の配置と回転抵抗を確かめる。

 いくつかの試行錯誤ののち、静かに「カチ」と音を立てて錠が外れた。


 中には、封筒に入った書類が三通。いずれも古いタイプライター文字で打たれた報告書のようだった。

 一通目の封筒には、こう記されている:


 「来訪者記録/1968年─1981年」


 玲は最上の書類を取り出し、めくった。

 それは、占術師が記録していた“相談者”ではない。

 ──定期的にこの館に訪れていた「複数の人物」について、日付と名前、職業、訪問目的、そして“最後の様子”が淡々と記されていた。


 > 【1974年10月12日】

 > 名前:大垣 誠二おおがき・せいじ/公務員

 > 内容:家族に関する不安。妻の変調。

 > 備考:“視線”を訴え、翌週以降連絡途絶。最終確認済。


 > 【1980年7月3日】

 > 名前:桂木 陽子かつらぎ・ようこ/中学校教諭

 > 内容:生徒の“重複した記憶”についての相談

 > 備考:帰路で事故死。処理済と記録。


 > 【1981年6月28日】

 > 名前:柚木 貴文ゆずき・たかふみ/司法関係者

 > 内容:……(閲覧不可)

 > 備考:封印指定。記録移送済。


 玲は無言で書類を見つめる。

 ──違和感。記録の文体、言い回し、そして「処理済」「封印指定」など、行政文書にも宗教記録にも見られない曖昧な言葉遣い。


 「これは、“占いの相談”なんかじゃない。

  何らかの意図で選ばれた人間が、ここで“篩にかけられていた”……」


 彼は奥の封筒をもう一つ開きかけたとき──背後で物音がした。


 足音。誰かが──この通路を辿ってこちらへ近づいている。


 玲は書類をすばやく再収納し、手元の小型ライトを消した。


 暗闇の中、息を殺しながら、彼は足音の正体に耳を澄ませた。


【11月28日(火)/午後4時38分 占術師の館・2階・元・占術師の部屋】


 階段を軋ませながら上がった先、館の2階にある最奥の部屋──かつて“占術師”と呼ばれた人物が使っていたという私室の前で、玲は足を止めた。


 重く閉ざされた扉には、無数の擦れた手垢の跡が残っている。鍵はなかった。

 扉を押すと、重い空気がゆっくりと漏れ出すように、ひと筋の冷気が指先をなぞった。


 「玲お兄ちゃん……この部屋、なんか、寒い」


 背後から声がした。朱音が少し肩をすくめながら、廊下に立ち止まっていた。

 沙耶がその肩に手を置き、何も言わずに部屋の中を見つめている。


 玲はひとつ頷いて中へ入る。懐中電灯の光が、やや広めの室内を静かになぞった。


 カーテンは閉じられたまま、うっすらと埃をかぶっていた。

 中央には深い色の木製のテーブル。上には、紙が何枚か無造作に積まれている。傍らには小さな置き時計──止まったままだ。


 部屋の一隅、壁際にあるベッドの上には、古びた毛布が折りたたまれていた。だが不自然に整っていて、まるで数日前に誰かが畳んだようにも見える。


 「……人の気配があったな、最近まで」


 玲が呟いた。

 それは埃の薄さ、足跡のように床の一部だけがわずかに光を反射すること、そして──


 「朱音、ちょっと下がってて」


 玲は、部屋の北側の壁に目を向けた。

 そこだけ、壁紙が一枚分だけ新しく、周囲と色合いが微妙に違っている。


 彼は工具を取り出し、静かに壁紙を剥がす。


 現れたのは、木板に打ち込まれた釘の列。そして、その中央に固定された小さな金属製のケース。

 錆びてはいるが、強く閉じられたそれは明らかに“隠された”存在だった。


 玲は釘を丁寧に外し、箱を手に取った。

 軽い。だが、何かが中で動く感触がある。


 沙耶がそっと近づいてきた。


 「玲、それ……開けるの?」


 「ああ。ここが、“最初”じゃないにしても──何かが始まった部屋なら、これが鍵になる」


 カチリ、と音を立てて蓋を開ける。


 中には、封筒が一通と、小さな鍵、そして──数枚のポラロイド写真が入っていた。


 写真には、見覚えのない複数の人間が写っていた。

 どの顔も無表情で、背景にはこの館の応接間、そして地下室へ通じる扉がはっきり写り込んでいる。


 だが、最も古いと思われる一枚の裏には、薄い筆跡でこう記されていた。


 >「あの人は言った。“この館は鏡。来た者の影を映すだけ”だと。」


 玲は写真を静かに伏せた。


 ──この館が見せるものは、「占い」でも「未来」でもない。

 ただ、人が“持ち込んだもの”を、淡々と記録し、残すだけの場所なのかもしれない。


 「……朱音。もう少しだけ、ここにいてくれるか?」


 玲の言葉に、朱音は小さく頷いた。彼女の眼差しには、何かを“感じている”ような、微かな不安と確信が揺れていた。


【11月28日(火)/午後10時00分 占術師の館・地下室】


 風の音が徐々に強くなり、木造の館はかすかに軋んでいた。

 夜の冷気が、床板の隙間から忍び込む。外はすでに真っ暗で、朱音は沙耶と共に1階の暖炉のそばで休んでいた。玲は一人、再び地下室に降りていた。


 懐中電灯の光が、昼間には見落としていた木箱の端を照らす。

 その箱には金属製の錠前が取り付けられており、手では簡単にこじ開けられない。


 玲は、2階の隠し箱から見つけた小さな古鍵を手にしたまま、しばらく錠前の構造を見つめた。


 「……形状、合うな」


 鍵をゆっくりと差し込み、回す。軽く、しかし確かな手応えのあと、錠前は音を立てて外れた。


 蓋を開けると、中には紙の束が一式、丁寧に包まれて入っていた。布に包まれた書類は湿気で多少変色していたが、丁寧に扱われていた様子がうかがえる。


 玲はそれをそっと机の上に広げ、一枚一枚確認する。


 一枚目は、手書きの来訪者名簿だった。筆記体のような癖のある文字で、日付、氏名、そして「相談内容」と見られる短いメモが記されている。

 そこには、断片的ながらも共通点が浮かび上がっていた。


 > 「身内の失踪について」

 > 「父親の二重生活」

 > 「姉の行動が不審」

 > 「雇い主の素行を調べてほしい」


 どれも、警察や役所では扱いづらい“個人の違和感”にまつわる相談ばかりだ。


 「……なるほど」


 玲は地図の一枚を手に取った。


 それは、標高の低い周辺地域を示した古い地図だった。だが、赤ペンで手書きされた複数の印が目を引く。

 印は点ではなく、小さな“円”で描かれていた。どれも、ある一定の範囲内に密集している。


 その中心には──まさに、この“占術師の館”があった。


 「全部、この場所に集まってる……いや、導かれてきたのか」


 もう一枚の紙には、“館を訪れた者たちの行動パターン”が走り書きされていた。

 誰が、どの季節に、どんな手段で訪れ、どれだけ滞在し、そして“帰ったのか/帰らなかったのか”。


 何人かの名前の横には赤い斜線が引かれていた。


 玲の手が止まった。


 その中のひとつ──**「佐々木 圭介」**と書かれた名前の横にも、うっすらと赤線が引かれていた。


 「……圭介さん? なぜここに」


 その瞬間、背後で木が軋む音がした。誰かが階段を降りてきたのだ。


 「玲、ここにいたのね」


 沙耶だった。手には毛布と懐中電灯。彼女は玲の表情に気づき、机の上に広げられた書類へ目を落とした。


 「それ……私の旦那?」


 玲は頷いた。


 「少なくとも一度、この館を訪れていた記録がある。理由までは書かれていないが、赤い線が引かれている」


 沙耶の手がわずかに震えた。


 「……圭介がこの場所を知っていたなら……なぜ私に何も言わなかったの……?」


 玲は言葉を探すように黙った後、ふっと吐息をついた。


 「彼が見たもの、あるいは相談したこと。それが彼自身を変えたのかもしれない」


 机の上には、まだ全てを語らぬ紙束と、行き先を示さない地図が広がっている。

 夜は深まりつつあったが、“館の過去”は今まさに、その沈黙を破ろうとしていた。


【11月28日(火)/午後10時12分 占術師の館・地下室】


 湿った空気の中、紙の束を見下ろしていた玲と沙耶の背後から、かすかな足音が近づいてきた。


 「……お母さん……玲お兄ちゃん……」


 灯りが動き、朱音の小さな顔が階段の陰から現れた。手には彼女のスケッチブック。眠れずに起きてきたのだろう。


 「寒くなかった? 暖炉のそばにいたほうがいい」


 沙耶がそう声をかけたが、朱音は首を振った。そして、机の上に広げられた紙束にふと目を留めた。


 「……あかね、知ってる名前……」


 玲と沙耶が視線を向ける前に、朱音の指が一枚の紙を指していた。


 “佐々木 圭介”


 その名の横に、赤い斜線。紙の端には、小さく「2009年冬」とだけ書かれていた。


 朱音の目が揺れた。感情の波が、胸元から頬へとじわじわと昇ってくる。


 「……パパ……ここに来たの? どうして……ここに、パパの名前があるの……?」


 玲も沙耶も、すぐには答えられなかった。地下の空気がひときわ冷たく感じられる。


 「朱音……これはね、たぶん、昔ここに来た人たちの記録なの」

 沙耶が静かに説明する。


 「お父さんがこの場所に来たのは……きっと、何か悩みを抱えていたから。でもそれが、あなたを悲しませたわけじゃない。きっと守りたかったのよ」


 朱音はその言葉を受け取るように、静かに目を閉じた。


 「……パパ、笑ってた。あかねの絵、すごくほめてくれた」

 小さな声だった。だが、その言葉には涙が含まれていなかった。


 玲が視線を戻す。


 「この記録には、ほかにも名前がある。……共通点が見えてきた」


 彼はすでに複数の記録に目を通していた。日付、来訪者の職業、家族構成、相談内容――そして、その後の所在が不明となっている者たち。


 「全員、この館から半径10キロ以内にある点に関係している」


 沙耶が、机の上の古地図に視線を落とす。赤く囲まれた円が、まるで“渦”のように館を中心に描かれていた。


 「この円の中のどこかに、他にも記録が残っているかもしれないのね」


 玲は頷く。


 「その中の一つに、圭介さんが関わった“何か”があるはずだ。まずは近い地点を調べよう。……明朝、移動する」



【11月29日(水)/午前7時30分 館・玄関前】


 朝霧がまだ林道を覆っている。冬の手前の冷え込みに、朱音はマフラーを巻きながら車に乗り込んだ。沙耶が助手席に、玲は運転席に座っていた。


 車内には、地図のコピーと名簿のスキャンデータ、録音機器、そして防寒用のブランケットが積まれている。


 目的地は、館から南西に5.6km地点にある“無人の古民家”。記録上、2010年に訪れた女性相談者が、その後も何度か“往復していた”という記述が残されていた。


 エンジンが静かに唸りを上げる。

 車はゆっくりと林道を進み、朝の霧を切り裂いていった。


 その先に待っているのは、“失われた記憶”ではなく、今なお続く謎と行動の軌跡だった。


【11月29日(水)/午前8時05分 南西の古民家・山中】


 林道を外れ、さらに細い脇道を進んだ先に、ぽつんと一軒の古民家が現れた。


 斜面に寄りかかるように建つ木造の家は、屋根の一部が朽ちかけていたが、それでも不思議と「人の気配」が抜けきっていない。


 「……まだ誰かが、最近まで来てたのかも」

 沙耶が呟いた通り、玄関の鍵は壊されておらず、周囲には新しめの足跡が残っていた。


 玲は懐中電灯を手に、ゆっくりと戸を押し開ける。


 埃と湿気の混じる空気。畳の上には、わずかに落ち葉が舞い込んでいた。


 朱音は後ろからそっと覗き込むと、玄関横にある壁に目を留めた。


 「……ここ、見たことある……」


 彼女が開いたスケッチブックの一枚。そこに描かれていたのは、まさにこの玄関と、傾いた屋根の角度だった。

 何も見ずに描いた、夢の中のような絵のはずだった。


 「朱音、その絵……」

 玲は目を細めて確認する。


 柱のひび割れの位置、木目の流れ、そして、玄関横の板壁に刻まれた――


 《目を閉じて入るな》

 という、ナイフのような跡の“警告文”まで一致していた。


 「この構図を知っていたのは……」


 「……あたしじゃ、ないよ」

 朱音が首を振る。



【午前8時22分 古民家・奥の部屋】


 玲がふすまを開けると、六畳ほどの部屋に日差しが斜めに差し込んだ。


 中央のちゃぶ台の上に、小さなノートが一冊、埃をかぶったまま置かれていた。


 そっとページをめくると、細く整った文字が並ぶ。日記のようでもあり、記録のようでもある。



《来訪者:佐々木圭介》

「再来。彼は答えを求めている。だがその答えは、どこにも存在しない。

彼が見たのは、過去ではなく“別の問い”。」



《来訪者:水原奈緒》

「彼女は“夢”に導かれてここに来たという。

すべてが偶然とは思えない。記録の共有は避けるべきだろう」



 沙耶が眉をひそめた。「水原……この名前、どこかで」


 その時、朱音が部屋の隅にあった古い木箱を指差した。


 「写真が……入ってる」


 玲が慎重に蓋を開けると、中には数枚の白黒写真が収められていた。


 埃を払いながら取り出した一枚に、玲の手が止まる。


 そこには、二十代半ばの佐々木圭介が写っていた。隣に立つのは、見知らぬ中年の女性――そして背景は、この古民家の縁側だった。


 「……これは、十数年前……ここで撮られた」


 「この人、だれ……?」朱音が圭介の隣の人物を見つめる。


 沙耶は眉間に皺を寄せて写真を覗き込んだ。


 「……もしかして、占術師本人じゃない……?」



【午前8時40分】


 玲はノートの最後のページに目を通していた。



「“戻るべき人間”と“留まるべき場所”は、本来混ざってはいけない。

境界が曖昧になると、誰かが“道を間違える”。

そしてその先には、必ず代償がある」



 朱音のスケッチブック、圭介の記録、ノートの警告文。

 それらはすべて「ここ」を起点に繋がっていた。


 玲は静かに立ち上がった。


 「ここから先の“点”も回る必要がある。まだ、繋がるはずだ」


 「……パパが、何を探してたのか……あたしも知りたい」

 朱音がそっと言った。


 玲は頷くと、次の地点を示す地図の赤丸に視線を向けた。


【11月29日(水)/午前8時45分 古民家・裏手の林道沿い】


 冷たい朝霧が、山肌を這うように漂っていた。


 玲は裏手の細道を歩きながら、地図の印を再確認していた。

 赤く丸がつけられた地点──それは、古民家の裏に隠れるように記された、小さな井戸のマークだった。


 やがて枯れた竹林の先に、それはあった。

 苔むした丸石の縁に囲まれた、深い闇を湛える「廃井戸」。


 「……使われなくなって、何年になるんだろうな」


 足元には落ち葉と泥が溜まり、井戸の縁には風化した木製の蓋が歪んで被さっていた。


 玲が慎重にそれを持ち上げると、黒い穴の奥から、何かが反射した。


 「……紙?」


 差し込んだ懐中電灯の光の先に、濡れたビニール袋に包まれた封筒が引っかかっていた。

 竹の枝を使い、慎重にそれを引き寄せる。


 袋を破り、封筒の中を取り出すと、そこには見慣れた筆跡──佐々木圭介の名前があった。



「見落とすな。あの女は“記録していない来訪者”だ。ノートに名はあるが、彼女だけ記録が曖昧だ。

水原奈緒。彼女は“鍵”ではなく、“門”そのものかもしれない」


「玲へ。もしこれを読んでいるなら、おそらくもう気づいているはずだ。

すべての円は“記憶”ではなく“足跡”を描いている。

お前の足で、それを確かめろ」



 「玲お兄ちゃんっ!」


 後ろから声が響いた。朱音が、坂道を駆け下りてくる。後ろには沙耶の姿もある。


 「見つかった?」と朱音が問う。


 玲は無言で封筒を差し出した。


 沙耶が手に取り、封を開けて中のメモに目を通した瞬間、はっと目を見開いた。


 「……この名前……やっぱり……」


 「水原奈緒、に見覚えが?」玲が問いかける。


 「うん……たぶん、私がまだ朱音を産む前……一度だけ、病院で同じ待合室にいた女性の名前と……たぶん同じ。

 ……でも、変なの。私、その時“名前なんて見てない”のに。どうして覚えてるのか、わからない」


 沙耶の声には、かすかな混乱と焦りが混じっていた。



【午前9時00分 古民家・再びノートの部屋】


 玲は再びノートの最終ページに目を通す。


 そして、そこに新たに気づく――最後の行。薄く鉛筆で書き加えられていた一文。



「次に来る者:レイ」



 玲の手が止まった。


 「……俺の名前だ。間違いなく」


 「誰が……書いたの?」朱音が声を落とす。


 沙耶は顔を曇らせながら、ぽつりとつぶやいた。


 「このノート……きっと、“今も誰かが書き続けてる”……」


 外では、冷たい風が再び山を越え、竹林をざわつかせた。


【場所】玲の調査事務所・解析ルーム(沙耶専用エリア)


【時間】11月29日(水)/午前10時10分


 窓のブラインドは半分閉じられ、控えめな光がグレーの壁に淡く差し込んでいる。

 沙耶はPC前のデスクに腰を下ろし、細い指でタッチパッドを操作していた。


 玲は後ろで腕を組んだまま、ディスプレイに表示された波形グラフとログを見つめていた。


 「“あの人の部屋”って、例の占術師の部屋よね。朱音ちゃんの証言と一致してる」


 沙耶の声は、確信とわずかな不安を孕んでいた。


 「録音、聴き直したの。前半は自然な環境音と会話の記録。でも……」


 彼女はウィンドウを切り替え、波形データの後半部を拡大表示する。


 「ここ。31分過ぎから。ごく微細なノイズが混ざってるの。通常の環境では起きない帯域……ノイズキャンセリングじゃ消えない周波数なのよ」


 玲が身を乗り出した。


 「つまり、何らかの“処理”が後から施されたと?」


 「ええ。タイムスタンプはそのままだから、一見改ざんには見えない。でも、音の粒子──解析すると、上書き処理の痕跡が出てくるの。

 いわゆる“追録”。一部だけ、記録を重ねて隠してる」


 玲は無言で顎に手を当てた。

 沙耶はキーボードを軽快に叩き、音声ログから“上書きのあった時間帯”を切り出した。


 「……再生するわ。音量注意して」


 沙耶が指を動かし、再生ボタンをクリック。


 スピーカーからは、沈黙に近い音の中で──ふっと、何かが擦れるような、微かな声が混じった。


 > 「……次に来るのは……あの男……。」


 玲と沙耶は同時に画面を見つめたまま、動きを止めた。


 「この“あの男”って、やっぱり……」


 「おそらく、玲……あなたのことを指してる」


 沙耶はそう言いながらも、何か釈然としない表情をしていた。


 「ただ──おかしいの。私、声の波形を識別ソフトにかけたの。これ……男性の声に“似せて加工されてる”。

 本来の発声者は、女性の可能性がある」


 玲の目が細められる。


 「誰かが、女の声を隠すために男の声に変換した──そう考えていいか?」


 沙耶は静かに頷いた。


 「ええ。そして“その女性”こそ……『水原奈緒』なんじゃないかって、思ってる」


 部屋の空気が一瞬、冷たく沈黙に包まれた。


 玲はゆっくりと視線を上げ、沙耶に言った。


 「なら、この録音の改ざん元──オリジナルを探し出す必要があるな。

 廃屋じゃなく、“発信元”がどこかにあるはずだ」


 沙耶もまた、視線を玲に向けて答えた。


 「……もう一度、地下室の“奥”を探すべきかもしれない。あの通路の先、何かがある」


【場所】占術師の館・地下室奥


【時間】11月29日(水)/午前11時15分


 金属製の扉が、軋んだ音を立てて開いた。

 薄暗い地下通路の奥へ、玲と沙耶は再び足を踏み入れる。懐中電灯の光が壁に映り、埃の舞う空気に輪郭がにじむ。


 「……前に来たとき、この先には何もなかったように見えた。でも、録音データは明らかに“ここ”からだった」


 沙耶が呟きながら、手にしたタブレット端末の波形グラフを確認する。前夜に解析した“加工音声”の波長と一致する周波数が、この空間に重なるように記録されていた。


 玲は壁に手を添えながら歩みを進めた。湿った石材の感触が、指先に冷たく伝わる。


 「この壁、部分的に素材が違う」


 かすかに沈んだ音──叩いた指先に返ってきたのは、他の場所とは明らかに異なる“空洞”の響きだった。

 玲はすぐにツールポーチから折りたたみの金属棒を取り出し、接合部をなぞる。


 「継ぎ目、ここだ。隠し扉だな。仕掛けは──これか」


 指で押し込んだ瞬間、小さな“カチリ”という音とともに、壁がわずかに動いた。左右に隠し戸がスライドし、奥へと続く細い空間が姿を現した。



【場所】占術師の館・地下・隠し部屋


【時間】同日/午前11時30分


 中は想像以上に整然としていた。

 古びた録音機器、棚には古い巻物やノート。電気は通っていないが、誰かがしばらく前までここを使っていた痕跡が残っている。


 沙耶はそっと手袋をはめ、録音装置の一つを確認した。

 「玲、これ……磁気テープ式の多重録音デッキ。いまどきこんなの、普通は使わないわ」


 玲が無言でうなずき、棚に並ぶファイル群を確認していく。すると、ひとつのファイルの背表紙に目が留まった。


 『N.MIWARA_003-V』


 「“水原”……?」


 その名前を目にした瞬間、沙耶の動きが止まった。


 脳裏に、遠い記憶がよみがえる──



【フラッシュバック/沙耶の記憶】


【時間】およそ15年前(沙耶:学生時代)/場所:旧市街の小さな講演会場


 会場の片隅に立っていた、ひとりの若い女性。

 淡いグレーのワンピースに、黒髪を後ろで束ねた姿。年齢は二十代後半ほど、整った横顔に、どこか「異質な静けさ」をまとっていた。


 彼女は確か、控えめな声で名前を名乗っていた。


 「……水原奈緒です。情報処理の専門家ではありませんが、“音の持つ記憶”に、ずっと興味があって……」


 発言の内容は、沙耶にとって断片的にしか記憶に残っていない。ただ、その声。その目。その空気感だけが、鮮烈に焼きついていた。



【現在/隠し部屋】


【時間】11月29日(水)/午前11時40分


 「……私、会ったことある」


 沙耶がつぶやいた。目はファイルに釘付けのまま。


 「15年前。まだ学生だった頃──旧市街で開かれた音声認識の小規模な講演会。彼女、そこにいた」


 玲が静かに振り返る。


 「“水原奈緒”は音声技術に関わっていたのか?」


 「ううん、直接の技術者じゃない。でも……声の持つ“重なり”とか“残響の記録”に興味があるって。

 あのとき、彼女が口にしてた言葉──『声には思念が残る』って」


 玲が頷く。


 「加工音声、そして追録。それを仕掛けたのが水原奈緒である可能性は高い」


 沙耶が機器のテープをそっと取り出し、携帯用の再生装置に差し込む。


 「玲。再生するね」


 静寂の中、機器が回り始めた──


 > 「……次に来るのは、玲。彼が全てを知る鍵になる。……でも、思い出すだけじゃ、足りない。彼に“選ばせる”ことが必要なの……」


 玲は眉をひそめた。


 「これが……オリジナルの“未加工音声”だな」


 沙耶は深く頷いた。


 「私たちが調べていたのは、“加工された記録”。本当の記録は、ずっとここに隠されていた」


【場所】占術師の館・地下室・隠し部屋


【時間】11月29日(水)/午前11時50分


 静かに機器の音が止まった。

 再生が終わったテープの回転が止まると同時に、玲は棚の奥に並ぶ資料の背表紙を再び確かめはじめた。

 その中に、“N.MIWARA_003-V”と同じ系列と思われるファイルがいくつかあった。


 **『N.MIWARA_002-L』『N.MIWARA_001-K』『N.MIWARA_004-A』**──。


 「順番からすれば、こっちが初期の記録……」


 玲は『001-K』を手に取り、ページをめくる。そこには、ある講演イベントの記録が記されていた。



【ファイル記録抜粋】


開催日:平成20年6月9日

会場:旧・旭町会館地下ホール

登壇者:水原奈緒(自主研究・音声思念論)

主催:響野裕司ひびきの ゆうじ/音声記録アーカイブ管理団体「SEAL」代表

テーマ:「残響と記憶の交差点」

備考:非公開セミナー/一部録音あり



 「響野裕司──」

 沙耶の声が低くなる。

 「……覚えてる。たしかに彼、あのとき会場で司会してたわ。話すとき、ずっと声が響かないようにマイクなしで話してて、変わった人だった」


 玲はすぐにスマートデバイスを取り出し、響野の名前で検索を開始。

 「……あった。今は“音響民俗資料研究所”って名称に変わって、郊外の古い民家を拠点に活動してるらしい。去年まで論文も出してるが、最近は動きが止まってるな」


 沙耶が顔を上げる。

 「それ、地図で見て」


 玲が調べた住所を示すと、沙耶の目がわずかに見開かれた。


 「そこ──朱音ちゃんのスケッチに出てきた構図と一致する場所だわ」



【場所】玲のタブレット端末・画像閲覧画面


 そこに表示されているのは、朱音が数日前に描いた絵。

 古びた木造建築の外観と、左手奥にぽつんと立つ灯籠のような石造物、そして“地面に向かって開いた格子戸のような描写”。


 「朱音ちゃん、この絵……何か見て描いたの?」


 沙耶の問いに、朱音(少し前の回想で)が言っていた言葉が脳裏によみがえる。


 >「夢の中で……でも、それ、パパが昔どこかで座ってた場所だった気がする」


 玲は確信を持って言った。


 「朱音が“記憶”ではなく、“映像”として持っていたこの構図。おそらく圭介もそこを訪れたことがある。

 そして──水原奈緒とも、何らかの接点がある」



【時間】11月29日(水)/午後0時10分


 玲は小型プリンターで朱音のスケッチを拡大出力し、それを地図上の該当地点と照合する。

 「この構図、“響野裕司”の研究所として登録されていた古民家の外観とほぼ一致する」


 沙耶が息を呑む。


 「じゃあ、あそこにもう一つの隠し部屋が……?」


 「あるとすれば、“本当の録音主”が残した音、そして――圭介がそこに残した、別の真実」


【場所】玲の調査事務所


【時間】11月29日(水)/午後2時45分


 冬の日差しが斜めに差し込む中、玲はデスクに広げた地図と朱音のスケッチをじっと見つめていた。

 地図上、赤く丸をつけた地点。それが、かつて「響野裕司」が拠点としていた古民家。現在は登録抹消された空き家となっている。


 「決まりだな。俺たちで行くしかない」


 沙耶は、ひとつうなずいてバッグを手に取る。

 「……これ以上、誰かに後を追わせるわけにはいかないものね」


 ふたりは準備を整え、車で現地へ向かうことを決める。



【場所】佐々木家(朱音の部屋)


【時間】同日/午後3時00分


 朱音はうたた寝をしていた。

 その表情は穏やかだったが──まぶたの裏に映るのは、どこか懐かしく、しかし切迫した光景だった。



【朱音の夢・イメージ描写】


 ──夢の中、古びた部屋。

 煤けた壁。窓の向こうに薄く光る木漏れ日。机の上には、分厚いノートと封筒。


 そこにいたのは、白いセーターを着た若い女性。長い黒髪を後ろに束ねている。

 彼女は、向かいに座る誰かにノートを手渡していた。


 「……次は、あなた。これを、“あの人”に……」


 声ははっきりとは聞こえない。けれど、朱音にはその人の口元が「レイ」と呼んでいるように見えた。


 朱音は目を覚まし、何かを思い出すようにスケッチブックを手に取る。

 ページの一枚をめくると、先ほど夢に出てきた“封筒とノートが置かれた机”がすでに描かれていた。



【場所】郊外の古民家(旧・響野裕司の拠点)


【時間】同日/午後4時30分


 陽が傾きかける中、玲と沙耶の車は山間の細道に入る。

 周囲に人影はなく、わずかに風の音が木々を揺らしているだけだ。


 古民家の玄関は朽ちかけていたが、無理に閉ざされているわけではなかった。


 沙耶が懐中電灯を手に中に入ると、すぐに壁際の棚に目を留めた。

 「……これ、録音機材の一部。占術師の館にあったものと型番が同じ」


 玲が奥の座敷を照らすと、そこにぽつんと置かれた木箱が目に入る。


 その中には──古いリール型の音声装置。再生機と、一本のテープ。



【場所】古民家・奥の座敷


【時間】同日/午後4時55分


 機器を慎重に接続し、再生スイッチを押すと、最初はノイズだけが流れた。

 やがて、くぐもった男性の声が聞こえてくる。



【音声ログ】


「……玲。これを聞いているということは、お前が“例の記録”にたどり着いた証拠だな」

「俺は……もう戻れないところにいるかもしれない。だが、あの家で起きたこと、占術師とのやりとり、水原奈緒の件──すべてが無関係ではない」

「朱音を……頼む。お前だけが、今のあの子に“違う未来”を示せるはずだ」



 音声はそこで途切れた。


 沙耶が小さく息を飲み、玲は目を伏せたまましばらく沈黙した。

 「……圭介さん、やっぱりここまで来てたんだ」


 玲は立ち上がり、機材の裏側を調べた。

 そして、ひとつの引き出しの中から、未開封の封筒を発見する。


 封筒の宛名には、筆記体で小さく──**「To A」**と記されていた。


 玲は、それを朱音に届けるべきか、しばし考えた。


【場所】郊外の古民家・奥の座敷


【時間】11月29日(水)/午後5時10分


 日が沈みかけ、室内には懐中電灯の明かりだけが頼りだった。玲は膝をつき、木箱の引き出しから取り出した封筒を見つめていた。


 封筒には、小さく「To A」──朱音宛であることを示すイニシャル。


 慎重に開封すると、中には丁寧に折りたたまれた便箋と、小さな銀色の鍵が一つ。

 鍵は手のひらに収まるほどのサイズで、柄の部分に「4-東」と刻まれていた。


 沙耶が横から覗き込む。「……それって、占術師の館の東側の部屋?」


 玲は軽くうなずき、便箋の文字に目を落とした。



【便箋・圭介から朱音へ】


朱音へ


もしこの手紙を君が読んでいるのなら、きっと僕はもうそばにはいない。

だけど、心配しないで。これは別れの手紙じゃない。


君はいつも、まっすぐに世界を見ている。

正しいものと、間違ったもの。

でも世界には、そのどちらでもないものがある──「わからないまま、向き合うしかないこと」があるんだ。


怖くなってもいい。疑ってもいい。

それでも、君が誰かのために「知ろうとする」勇気を持てたとき、きっと道は見えてくる。


これは、その入口にすぎない。


どうか、自分の目で確かめて。



 読み終えた玲は、そっと便箋を折りたたむ。沙耶は黙ってその様子を見守っていた。


 「……視点の転換、か」と玲がぽつりとつぶやく。


 その言葉をきっかけに、沙耶の意識がふと、過去の光景を引き寄せた。



【沙耶のフラッシュバック・約7年前】


 場所はとある講演会の控室。

 沙耶は、白いブラウスを着た一人の女性に向き合っていた。細身で知的な印象──水原奈緒だった。


 水原はテーブルに置かれた紙を沙耶に渡しながら、こう言った。


 「真実っていうのは、時に“立場の数”だけ存在するの。あなたは、どの視点に立つ?」


 ──沙耶は返答できなかった。ただ、静かにその問いが胸に残っていた。



【場所】古民家・玄関口


【時間】午後5時30分


 外はすでに薄暗くなっていた。


 玲は小さな鍵をポケットに収めながら、車へ戻る準備を始める。


 「占術師の館、東側の部屋……あのときは塞がれていたな」


 沙耶が頷く。「翌朝、戻るしかないね。朱音にも……これは、渡してあげないと」


 玲は車のドアを開けた。

 風が木々を揺らし、誰かが囁くような音が、夜の静寂に紛れて聞こえた。


【場所】占術師の館・正面玄関前


【時間】11月30日(木)/13:45


 ──カラン、と乾いた鈴の音が鳴った。


 風に乗って届いたその音に、館の奥で作業をしていた玲は顔を上げた。

 正面門の向こう、砂利を踏む足音が一つ。誰かが来た。


 玄関の引き戸を開け、玲が外へ出ると、門の前に年配の男性が静かに立っていた。

 ロングコートの襟を立て、白髪まじりの髪はきれいに整えられている。

 その顔には、どこか“この場所”に見覚えのある者にしか持ち得ない、複雑な表情が浮かんでいた。


 「……ここは、もう……閉じてしまったんですか?」


 低く、穏やかな声だった。玲が軽く頷くと、男はふと目を伏せ、玄関の上の庇を見上げた。


 「……ずいぶん昔の話になりますが、私は、あの方──先生に“助言”をいただいた者です。

 このあたりに寄ることがあって、どうしても……一度、挨拶をと思いましてね」


 沙耶が背後から出てきて、玲と目を交わす。玲は静かに頷いた。


 「失礼ですが、お名前を伺っても?」


 男は一拍置き、どこか懐かしむような声音で名乗った。


 「響野裕司と申します」


 その名前に、玲と沙耶はわずかに反応する。

 ──名簿に記されていた、あの来訪者のひとり。


 「あなたのことは、調べさせていただいていました」と玲が率直に言うと、響野は一瞬だけ驚いたように眉を上げたが、すぐに苦笑を浮かべた。


 「……やはり、あの方の関係者の方ですね。思っていた通りです」


 沈黙の中、吹き抜ける風がわずかに館の木戸を鳴らした。

 玲は一歩下がって扉を開き、無言のまま来訪者を迎え入れる。


【場所】占術師の館・応接間


【時間】11月30日(木)/13:50〜14:40


 応接間の古い椅子に腰を下ろした響野裕司は、しばし沈黙のあと、小さな声で語り始めた。


 「……あれは、二十年ほど前のことになります。私がまだ仕事をしていた頃、ある事件で精神的に追い詰められていて……。

 紹介されたのが、ここだった。“水原奈緒”という女性も……たしか、同じ時期にこの館を訪れていました」


 玲と沙耶が目を合わせる。水原奈緒──今、謎の中心にいる名のひとつ。


 響野は、懐から丁寧に包んだ布を取り出した。中には、革張りの古びた手帳と、一枚の色褪せた葉書。


 「……これは、その占術師の方から受け取ったものです。正直、意味はよくわかりませんでしたが、なぜか捨てられずにいました」


 玲が手帳を開く。中には短い言葉と記号のような線が書かれている。


 > 『境界を越える者は、視点を捨てよ』

 > 『黄昏の四角を三つ重ねよ』

 > 『NA-W3:冷静に、ただし遅れるな』


 まるで詩文のようでありながら、どこか暗号にも思える記述だった。


 「この『NA-W3』……“奈緒・水原・第三訪問者”を意味している可能性があります」玲が低く呟く。


 「その葉書も見て」沙耶が促す。


 葉書には、季節外れの“桜”の絵と共に、手書きでこう記されていた。


 > 『4月4日 午後4時、西の窓を見て』


 不思議な符号、そして“時間”と“方向”を示す指示。玲はすぐに地図と照合を始める。


 その最中──


 「……“越境の視点は、最も曖昧な場所に宿る”。あの方は、そんなこともおっしゃっていました」

 響野がふと口にした言葉に、沙耶が突然動きを止めた。


 「……その言葉……」

 沙耶の瞳がわずかに揺れる。視界の奥で、記憶の断片が淡く色づいていく。



【沙耶のフラッシュバック】


 ──静かな図書室のような部屋。

 ──窓の外は夕焼け、誰かが白い手帳を閉じて言う。


 > 「越境の視点は、最も曖昧な場所に宿る。

  曖昧であることが、“守られている”ということなのよ」


 ──その人物は、誰だった? 沙耶の視線の先に、長い髪の女性──水原奈緒のような面影が重なる。



「……思い出した。私……あの人と、会ってる」

沙耶はゆっくりと語り出す。「占術師ではなく、水原さんと──ここで話をしたことがある」


玲が穏やかに頷き、響野も静かに目を閉じる。


「私が覚えているのは、ただ一つ。“この場所では、残すことと、持ち帰ることを選べ”──そう言われたんです」


「……“持ち帰る”?」と玲。


「来訪者は、何かを持ち帰っていた。意識か、記録か、形のない何かを。それが……後に繋がっているのかもしれません」


玲は手帳と葉書を再び見つめる。そこに書かれた言葉や記号は、個々に異なるはずの記憶が、“共通する視点”に導かれていたことを示しているようだった。


【場所】占術師の館・地下通路奥


【時間】12月1日(金)/14:50


 冷たい石の壁に手を這わせた玲の指が、わずかな“違和感”を捉えた。

 他の壁面とは異なる、ほんのわずかに滑らかな感触──塗装の違いか、あるいは補修の跡。


 「……ここだな」


 玲は腰のポーチから折りたたみ式のツールを取り出し、慎重に壁の縁を押し広げる。

 押し返すような微かな抵抗ののち、内部から「カリ……」と鈍い音が鳴り、壁の一部がゆっくりと内側へと傾いた。


 現れたのは、奥へと続く狭い石造りの階段。冷気がふっと顔を撫でる。


 「この奥に……“視点の保管庫”があるのかもしれない」


 沙耶が小さく呟く。その声は、重ねられた記録たちの気配に反応しているようだった。



【地下通路・隠された部屋】


 足元に注意しながら、二人はゆっくりと階段を下りていく。

 最下段に着いたとき、懐中電灯の光が古びた扉を照らし出した。


 扉は鉄製だった。鍵はすでに壊されているようで、軽く押すと軋んだ音を立てて開く。


 その部屋は、驚くほど整然としていた。


 本棚のようなラックが並び、壁際には記録媒体の保管棚。中央のガラスケースの中には、封筒とファイル、そして──見覚えのある“来訪者名簿”の旧版があった。


 「……これ……」沙耶がファイルを開く。


 中には、かつての来訪者たちのメモ、日記、そして“視点の転写記録”と題された不思議な文書が保存されていた。


 > 【転写記録・第3対象】

 > 被来訪者:水原奈緒

 > 転写対象:A室・西壁面・対面位置

 > 経過観察:4日

 > 保持意識の変容兆候あり。終了後、転写の一部が残留した可能性


 「……“転写”って……記憶か意識か、あるいはその“視点”そのものをどこかに預けていたってこと?」


 玲は壁際のパネルに目を留める。そこには古い音声再生装置があった。

 再生ボタンを押すと、かすれた女性の声が室内に広がった。



【音声記録】


 > 『……視点は記憶よりも繊細で、言葉よりも深く残る。

 >  私たちはそれを、誰かに“委ねる”ことで、かろうじて生きていた。

 >  どうか、この場所を“見たまま”にしないで──』


 沈黙。


 「……水原……」沙耶が小さく口にした。


【場所】占術師の館・地下通路奥の部屋


【時間】12月1日 14:55


ガラスケースの中から取り出した「To A.」の封筒を、玲がそっと開封した。


中に入っていたのは、朱音宛ての手紙。そして、もうひとつ──朱音がまだ見せたことのない“幼少期の写真”が一枚、挟まれていた。



■「To A.」──圭介の手紙(抜粋)


朱音へ


お前がもしこの封筒を開いたなら、それはきっと、視点がひとつでは足りなくなった時だと思う。


世界は一面ではない。けれど、真実は時として“見てしまった者”にしか残らない。

だから、お前の見たものを、信じていい。


……お前の母さんが、かつて誰かの“視点”を受け止めたように。


そしてもうひとつ。

最初の“視点の来訪者”は、私たちの記憶のもっと奥にいる。

彼の名は《安達晴臣》。

彼の残したものを見つけたとき、お前はようやく“記録の外”に出られる。



朱音は黙って写真を見つめていた。

それはまだ幼かった自分と、知らない中年男性──安達晴臣──が映っている一枚だった。


「これ……本当に私?」


沙耶が息をのむ。


「……安達……この名前、講演会の主催者……水原が言ってた……“彼が最初に視点を保管した”って」


玲が壁の保管棚を調べていくと、「01-A_H.ADATSU」というラベルのついた古いファイルが見つかった。

ファイルには、複数の地図、手記、そして次の言葉が添えられていた。



■ファイル:01-A_H.ADATSU(要約)


【対象】安達晴臣

【転写記録】最初の視点保管記録。

・記録場所:旧・伊郷診療所(現在は廃墟)

・転写日:2005年12月

・視点の変容確認:あり

・副次的影響:被影響者(不明)による記憶混濁

・推奨:隔離および封印



沙耶:「伊郷診療所……このマーク、朱音ちゃんのスケッチにあった。あの“白い階段と赤い扉”……まさか……」


玲:「次はそこか。最初の視点の“原点”──行くしかないな」



【次の目的地:旧・伊郷診療所】

•地図に記された場所は、占術師の館から北西へ車で1時間半ほど。

•廃墟となって久しいが、過去に複数の来訪者が記録された“視点残響地点”。

•建物内には保管庫、処置室、そしてかつて視点が“写された”とされる部屋が残っている可能性。



【予告的描写】


そのとき、朱音のスケッチブックの最終ページがひとりでにめくれた。

そこに描かれていたのは、夕暮れの廃診療所と、奥へと続く“赤い階段”。

階段の下には、何かを待つように立つ“影のような人物”──その顔は、まだ描かれていなかった。


沙耶の胸がざわめく。

それは、自分がかつて“水原奈緒に託された何か”と、深くつながっている気がしてならなかった。


【場所】旧・伊郷診療所

【時間】12月1日 15:00〜15:45


冷たい霧が立ち込める山間の道を、車のエンジン音が切り裂いた。朱音がスケッチに描いた赤い階段──その現物が、朽ちかけた建物の裏手に確かに存在していた。


玲は車を降り、手にしたスケッチと現実の風景を重ねるように見つめた。


「……一致してる。朱音の記憶は、やっぱり“ここ”を見てた」


「でも、こんな場所……どうやって記憶したの?」朱音は不思議そうに首をかしげる。「私は来た覚えないよ?」


沙耶が黙っていた。診療所の外観を目にした瞬間から、彼女の指先は震えていた。何かが、奥底で軋んでいる。忘れたはずの何かが、扉を叩いていた。



建物は半ば崩壊していたが、内部の処置室の裏手──ロッカーをずらすと、その奥に隠された階段が現れた。湿った地下へと続く、かつて医療とは異なる何かが行われていた空間。


地下の一角で、玲が壁の奥を調べていた。黒ずんだタイルの裏に、鉄の扉が隠れていたのだ。工具でこじ開けると、そこは密閉された部屋だった。


「……視点転写室。沙耶、見てくれ。記録装置の残骸がある」


玲が示した装置には、かすれたラベルが貼られていた。


【H.ADATSU:Log_01】


沙耶の身体が、一瞬強張る。


「これ……知ってる。ここに、私……」


言葉にならない。だが、断片が戻ってきていた。



〈沙耶:記憶解放〉


部屋の空気が変わった。

不意に──視界が暗転する。


過去の記憶が、音もなく広がった。


……


薄明かりの密室。

椅子に座る男。安達晴臣──少しやつれた目元に、迷いはなかった。


「この視点は、君に渡してはならない。だが──誰かが持たなければならないんだ」


彼の正面には、水原奈緒が立っている。若く、そして決意に満ちた瞳。

そのすぐ傍らには、もう一人の少女。


それが──幼い沙耶だった。


「こわい……でも、奈緒さんが受け取るなら……」

「平気。あなたには、まだ早い。私は……この人の痛みを、全部受け止めるから」


水原は微笑みながら、安達の“視点”を受け取る装置に手を伸ばした。


沙耶は、その光景を見ていた。見届けていた。

そして、その後──水原によって、“すべて”を封じられた。


……


戻ってきた。



沙耶は、震える手で額を押さえていた。


「思い出した……私、彼らの“視点の受け渡し”を見てた。記録なんかじゃない、これは……魂に残る“視点”だった」


朱音が、玲の後ろから沙耶を見上げた。


「じゃあ、おばちゃんも……その“視点”をもらってたの?」


沙耶は黙って首を振った。


「私は、奈緒に“忘れさせてもらった”。……でも、忘れたままじゃ意味がなかった。だから、こうして……思い出すことになったんだと思う」



玲は記録装置を見つめた。

その横に落ちていた紙片には、震えるような筆跡でこう記されていた。


【最終視点転写対象:K.Sasaki】


「圭介さん……?」


その名前に、全員の視線が集中する。


沙耶が、ぽつりと呟いた。


「……この“視点”。最初の受け渡しは終わった。あとは──最後の継承が、どこで、誰に行われたか」


玲は、静かに頷いた。


「終わりが近い。だがそれは、すべてを知った“誰か”が、その視点を受け入れる覚悟を持たなければならないということだ」


診療所の奥に灯りはない。

だが、誰かの記憶と、誰かの視点が、確かにそこに残されていた。


──次に進むべきは、“視点の残響”が今もどこかで響く、最後の記録点。


物語は、終盤へと向かっていた。


【場所】玲探偵事務所・解析室

【時間】12月2日 09:15


 午前の陽光が、半ば曇った窓を通して、うっすらと室内に差し込んでいた。

 玲探偵事務所の奥にある解析室。PCモニターの青白い光と、小型スピーカーから断続的に流れる音声ファイルの波形が、静かに重なる。


 沙耶はヘッドホンを片耳に掛け、もう片方の手で朱音のスケッチブックをめくっていた。

 机の上には、何枚もの絵が広げられている。夜明け前の山道。無人の古民家。誰かの背中。──その一枚一枚が、記憶でも幻でもなく、「何者かの視点」を描き出していた。


 「……やっぱり、ここ」


 沙耶は音声波形の一部を拡大し、マウスを止めた。

 画面の中央、ほんの一瞬だけ波形が不自然に膨らんでいた。人間の耳にはほとんど判別できない“揺らぎ”。


 「ここだけ、ノイズが変質してる。通常の上書きじゃなくて、“挿入”されてる形跡がある……誰かが、あとから“言葉を変えた”のかも」


 同時に目を向けた朱音のスケッチには、古民家の窓辺で何かを囁きかける影のような人物が描かれていた。

 表情は描かれていない。ただ、背中だけが“語っている”ようだった。


 沙耶はつぶやく。


 「この構図……この“静けさ”……まるで、音が途切れる直前の瞬間みたい」


 机の隅に置かれたICレコーダーが、一瞬だけ光を放った。再生中の音声ファイルが、朱音のスケッチに描かれた風景と、偶然にも一致する“言葉”を吐いたのだ。


 >「……この視点は、誰かに受け継がれる」


 思わず、沙耶の手が止まった。

 ──その台詞、音声の元データには入っていなかったはずだ。


 沙耶は再生ログを巻き戻し、波形の挙動を確認する。

 すると、ある一瞬を境に、波形が「二重構造」になっていることに気づいた。


 「……誰かが“視点”を音声に埋め込んだ……?」

 「それとも、“視点そのもの”が、音として記録されるようになったのか」


 朱音の描いた“影”の人物。

 スケッチの端に、鉛筆でうっすらと書かれていた言葉がある。


 >「見ているのは、わたしじゃない。わたしの“中にいる誰か”」


 沙耶は静かに目を伏せた。


 音と絵──

 それらが一致するという現象は、単なる偶然ではない。

 むしろ、朱音が無意識のうちに“音から視点を拾い”、それを絵に変換していた可能性すらあった。


 「……視点の媒体が、文字でも記憶でもなく、“感覚”に宿るとしたら……」


 沙耶はスピーカーの音量を絞り、椅子にもたれた。


 「朱音。あなた、すでに“継承者”なのかもしれないわね……気づかないうちに、ね」


【場所】玲探偵事務所・応接室

【時間】12月2日 午前10:30


窓の外は、冬の光が滲んでいた。


沙耶は静かに封筒を開いた。

それは圭介──朱音の父が、過去に託した最後の手紙だった。


中には、一枚の便箋と、小さな金属片。

便箋には、整った筆致でこう書かれていた。



朱音へ


もしこの手紙を読む日が来たなら、それはおそらく──

すべての視点が揃いはじめた証だろう。


おまえが覚えていない“あの日のこと”。

実は、パパも同じように“視点”を渡された人間だった。

ただ、私はそれを封じることを選んだ。


おまえに継がせたいわけじゃない。

けれど、“見る力”を持つ人間が、何も知らずに巻き込まれていくことのほうが、もっと怖かった。


だから最後にひとつだけ。


視点というのは、記憶じゃない。

それは、「誰かが何を信じたか」を、別の誰かが“理解しようとする意思”なんだ。


視点の継承は、血ではなく、共鳴で起こる。


朱音。

もしおまえが誰かの“心の奥”を描くことができたなら、

きっと、それが“継承”だ。


パパより



朱音は、手紙を握りしめたまま、しばらく声を発しなかった。


「……描いてたの、わたし」


彼女のスケッチブックには、まだ未完成の絵があった。

それは、朱音自身も意識せず描いた、水原奈緒が安達晴臣の肩に手を置く瞬間。


誰も教えていない構図。

けれど、それは確かに“誰かの記憶”だった。


玲が呟くように言った。


「つまり──朱音の描写は、“視点の残響”だったってことだ」



【場面転換】同日 11:20


【場所】占術師の館・正面玄関


チャイムが鳴った。

沙耶が応対に出ると、そこには予期せぬ人物が立っていた。


男は深いグレーのコートを着込み、手に革張りの手帳を持っていた。


「初めまして……いえ、正確には、久しぶりです。柊 啓一と申します」


玲が一歩前へ出た。


「……コウキの父親、ですね」


啓一はゆっくり頷いた。


「水原奈緒──彼女は、私の研究に関わっていたことがあります。……そして、“視点継承”に関する、とある“実験記録”を残しています」


彼が差し出した手帳には、見慣れた文字が記されていた。


【視点実験報告・V/Phase4/対象:S.Saya → A.Saki(失敗)→ A.Akane?】


朱音の名が、そこに記されていた。


玲は唇を引き結んだ。


「まさか……朱音は、当初から“視点保持者候補”としてリストに入っていた?」


啓一は沈痛な面持ちで答えた。


「当時、私は“視点は遺伝する”と考えていた。でも──違った。“視点は、選ばれる側の“共鳴力”で決まる”。……水原は、それを証明しようとしていた」


沙耶がふとつぶやく。


「……だから朱音は、“視点を描く子”になったんだ」


【場面転換】同日 13:45


【場所】朱音の部屋


朱音は、静かにキャンバスに筆を置いた。

そこに描かれていたのは──父・圭介が見ていた最後の風景。


誰にも見せていないはずの視点。

でも、彼女には“それ”が見えていた。


「……朱音」


沙耶の声がした。


「あなたは選ばれたんじゃない。選んだのよ、描くことを」


朱音は、うっすらと微笑みながら頷いた。



【最終章へと続く】


その夜。

玲の元に、一通のメールが届いた。


差出人:Y.Naruse


件名:「もうひとつの視点記録点、発見」


本文:


“K部門の古い保管庫の裏手に、視点データの原点があった。

次に向かうべきは、**「光の射さない保管区画」**──

あの場所で、すべての視点が一点に交わる。”


玲はモニターを見つめながら、小さく呟いた。


「……すべての始まりは、そこにある」


【場所】占術師の館・前庭


【時間】12月2日 15:20


午後の柔らかな陽射しが、落ち葉を踏みしめる足音とともに揺れていた。

枯れ枝が風に揺れ、影は長く伸びている。静けさの中に、わずかに鳥のさえずりが混ざっていた。


玲は背筋を伸ばし、ゆっくりと占術師の館の重厚な扉を閉めた。

調査の疲れはあったが、その目には確かな手がかりを掴んだ自信が宿っている。


ふと、背後から小さな駆け足の音。

振り返ると、朱音が息を切らせて走ってきていた。


「玲お兄ちゃん!」


朱音の声は、冬の冷たさを少しも感じさせない温かさで満ちていた。

彼女の瞳には、不安と期待が入り混じった光が宿っている。


玲はほほえみながら立ち止まり、朱音を迎え入れた。


「どうした、朱音? そんなに慌てて」


朱音は肩で息をしながらも、手に握りしめていたスケッチブックを差し出した。


「これ……見て。さっき、調査の途中で気づいたの。館の地下で見つけたあの古いメモと、ここに描いた絵が繋がってる気がするの」


玲はスケッチブックのページをめくり、朱音の描いた風景や、細かな線の意味をじっと見つめた。


「お前の直感は、いつも鋭い。俺も見落としていた部分があるかもしれないな」


朱音は少し安心したように微笑み、玲の腕を軽く掴んだ。


「お兄ちゃん、一緒にもう一度調べに行こう。今度はもっと遠くまで。まだ、誰も知らない秘密がきっとあるんだよ」


玲は朱音の言葉を胸に深く刻み込み、静かにうなずいた。


「ああ、朱音。俺たちの旅は、まだ終わっていない。」


午後の風が二人の周囲を撫で、落ち葉がひらりと舞い落ちた。


【場所】東京郊外・ロッジ兼探偵事務所/朱音の部屋


【時間】12月4日 16:45


夕陽が障子の細い隙間から静かに差し込み、部屋の空気を金色に染めていた。

朱音は窓辺の机にじっと座り、分厚い日記帳のページをゆっくりとめくっている。


その日記帳は、彼女が最近手に入れた古い記録。

頁の文字はかすれていたが、一字一句に意味が宿っているようだった。


朱音の瞳は深く集中し、時折指先で文章をなぞりながら、何かを探し続けている。

部屋の静けさは、彼女の思考の波紋だけが静かに広がっていた。


ふと、朱音は日記の一節で手を止めた。

そこには、見覚えのある名前——「圭介」が書かれていた。


その瞬間、朱音の胸に込み上げるものがあった。

父の名前に、過去と今が繋がる感触。


「お父さん……」

声は小さく、けれど確かな響きで、部屋の片隅へと消えた。


彼女は日記をそっと閉じ、窓の外へ視線を移した。

夕陽は沈みかけていて、空は橙色から紺色へとゆっくりと変わり始めていた。


朱音は決意を胸に、そっと拳を握った。


「真実に、もっと近づきたい——」


その部屋の中で、小さな決意の灯が静かに燃え始めていた。


【場所】不明(記録されていない滞在先/圭介視点)


【時間】12月4日 17:00


 窓の外には、沈みかけた陽が細い橙の帯となって空を染めていた。

 古びた木造の一室。ほこりをかぶった時計の針が、小さく音を立てる。


 圭介は、机の前で手紙を広げていた。

 その筆跡は彼のものではない。けれど、自分に向けられたものだと、すぐにわかった。


 ──あの子は、もう気づいたか。


 朱音。

 あの小さかった手。真っ直ぐにこちらを見つめてくる瞳。

 “あの館”で初めて声を上げたときの、温かくて、どこか痛い記憶。


 「受け継ぐ者」として名が挙がっていたのは、偶然ではない。

 彼女は、知らずのうちにもう扉を開いてしまった。


 圭介は、机の引き出しから一枚の写真を取り出す。

 朱音が幼いころに描いたスケッチの写しだ。

 その構図は、占術師の部屋の風景と奇妙なほど一致していた。


 「視点は、時に無意識の記録になる……か」


 誰かの言葉が、頭の片隅でこだました。

 水原奈緒、安達晴臣、そして──あの診療所。

 過去を辿るたびに、自身の中の“記憶の断片”が形を持ち始めているのを感じていた。


 彼の過去は、朱音にとっての現在であり、沙耶にとっての未解決の痛みでもある。

 それを、彼は知っている。知ったうえで、背負っている。


 そしてもう一枚の封筒。

 表に書かれた文字は、たったひとこと。


 「To A.」


 朱音に託すべきもの。

 それは真実でも、秘密でもない。


 ──視点の継承。世界の見方の変化。それを導くための“最後の手紙”。


 圭介は立ち上がり、ゆっくりと写真を封筒にしまった。

 これから朱音が向き合うことになる真実を、彼は止めることも否定することもしない。


 ただ、彼女の歩みが“彼女自身の選択”であるようにと願っている。

 それだけを、静かに。


【場所】不明(圭介の滞在先)


【時間】12月4日 17:00〜17:20


 圭介はゆっくりと椅子を引き、机の上に一冊の革張りのノートを置いた。

 表紙には何も書かれていない。ただ、重みだけが存在を主張している。


 ──これは、他の誰にも渡らない。けれど、いずれ読まれるときが来る。


 彼はペンを取り、ページを開く。

 インクの匂いが、古い木の香りと混じり、記憶の底を掘り返す。


 一行目に書いたのは、日付だった。

 2025年12月4日 朱音へ


 その下に、静かに綴り始める。



「君が“扉の先”に踏み出した時、僕の時間はもう終わっていたのかもしれない。

だがそれでいい。僕が歩いた過去は、君に渡すための記録だった。

朱音、君はまだ知らない。

“視点を継ぐ”ということは、“記憶を背負う”ということと同義ではない。

むしろ、真逆に近い。

……君がこれから見つける『何か』は、きっと君自身のかたちを変えるだろう。

それを恐れずにいてくれ。

君の絵が、まだ僕に問いかけてくるように感じている。」



 そこまで書き終えると、圭介はしばらく手を止めた。

 窓の外では、陽がほとんど沈みかけていた。薄紅色の残光が、部屋の壁をわずかに照らしている。


 時計の針が17:15を指していた。


 彼は立ち上がり、ノートを厚手の封筒に収めた。封筒には、またしてもあの文字。


 「To A.」


 今度の封筒には、もうひとつ――小さな銀色の鍵も入っていた。

 それは、朱音がまだ訪れていない“第三の場所”へと繋がる鍵。

 場所の名前は、「小沢坂の分館」。過去の来訪者のひとり、水原奈緒が最後に記録を残したとされる、古い私設資料館跡。



 封筒を封じると、圭介はゆっくりと電話機の番号を押した。

 長く使われていなかった回線が、微かにノイズを含みながら繋がる。


 呼び出し音が三度鳴ったあと、落ち着いた声が応じた。


「……成瀬か。圭介だ。例の受け渡し、予定通り頼む。ロッジには今夜は戻らない。

 例の鍵は“彼女”に託してくれ。宛名は、“沙耶へ”だ。」


 相手は短く了承の意を告げ、電話は切れた。


 圭介はしばらく受話器を見つめたあと、静かに椅子へ腰を下ろした。

 外はすっかり夜の帳が降り、次の足音を待っている。


【場所】ロッジ兼探偵事務所・玄関ホール


【時間】12月4日 17:35


 階段を降りてくる足音に、沙耶はそっと目を閉じた。

 封筒を握る手が微かに震えているのを、自分でも感じていた。


「……朱音」


 その声に、朱音が顔を上げた。

 どこか不安げに、それでいてまっすぐに母を見つめてくる瞳。沙耶は胸が痛むのを抑え、微笑みを浮かべた。


「あなたに、渡すものがあるの」


 封筒には、夫・圭介の筆跡で記された一言があった。


 「To A.」


 沙耶は一瞬、娘の顔を見た。

 幼い頃、まだ「ママ、見て」と絵を抱えて走ってきた朱音の姿が、ふと重なる。


「お父さんが……これを、あなたに託したの。

 ……きっと、今のあなたなら、読めると思うわ」


 朱音は、ゆっくりとうなずいて封を開けた。

 中には、短い手紙と――冷たい金属の感触。小さな銀色の鍵。



小沢坂の分館


見たものを、信じていい。

それが“受け継ぐ”ということだ。


──圭介より



 朱音の手がわずかに震えたのを、沙耶は見逃さなかった。

 娘の肩にそっと手を置き、囁くように言った。


「行きましょう。……あなたの歩むべき場所へ、私が一緒に行く」


「……ママも?」


「もちろんよ。朱音は、私の大事な子なんだから」


 朱音の目に、一瞬涙がにじんだ。


「ありがとう、ママ……」



【時間】同日18:00


 ロッジの扉が開き、冬の夕暮れの風が二人を包む。

 沙耶は静かに車のドアを開け、朱音の手を握ったまま言った。


「あなたのお父さんが残したもの。今度は、私たちが向き合う番ね」


 ──そして、向かう先は「小沢坂の分館」。

 そこには、視点の記録者が遺した真実と、継承されるべき未来が待っていた。


【場所】小沢坂の分館・門前〜内部


【時間】12月4日 18:10〜


 山裾にぽつんと建つその屋敷は、夕闇の中に沈みかけていた。

 「小沢坂の分館」と呼ばれていた建物。かつては誰かの別宅として使われていたようだが、今では訪れる人もない。

 玄関には少し苔の生えた石段。蔦が絡まる格子の窓。外観だけでも、長い時間が止まっていたことを物語っていた。


 朱音は鍵を取り出した。

 圭介から、母・沙耶を通して託された小さな銀の鍵。それを玄関の古びた錠に差し込む。


 カチリと、小さくも確かな音がした。


「……開いた」


 朱音が扉を押し開けると、乾いた空気が外に流れ出た。

 沙耶はそっと後ろから娘の背に手を添える。


「何か感じる?」

 朱音は、少しだけ目を細めた。


「……うん。あの夢で見た部屋……似てる気がする」


 室内は静まり返っていた。廊下には埃が積もっていたが、奥の部屋のひとつ――ふすまだけが、やけに綺麗だった。

 朱音がそっと近づくと、その奥に、小さな座卓と畳の間。まるで時間が最近まで流れていたような感覚すらあった。



【場所】分館・奥の和室


【時間】18:18


 朱音が部屋に足を踏み入れた瞬間、視界に一枚の紙が飛び込んできた。

 それは、畳の上に広げられた 見覚えのあるスケッチだった。


 朱音が目を見開く。


「……これ、わたしの……!」


 確かに、彼女がまだ幼いころに描いた記憶がある。色鉛筆で描かれた「どこか知らないはずの部屋」。

 その構図と、目の前に広がるこの部屋は、寸分違わず一致していた。


 朱音の手が震え、沙耶がそっと肩に触れた。


「夢の中で……見たのね? あなたには、前から」


「うん。……でも、なんで? なんでここに、私のスケッチが……」



【場所】分館・押入れ奥


【時間】18:23


 沙耶がそっと襖を開けると、その奥に木箱があった。

 鍵のかかった箱。朱音がもう一度、圭介から託された鍵を差し込む。開いた中から現れたのは――


 一冊のノート。そして、録音テープの入った小さなカセットレコーダー。


「これ……お父さんの文字だ」


 朱音がページをめくると、そこにはこう書かれていた。



「朱音へ。


 君の“見る力”は、何かを予言するものではない。

 それは“重ねられた視点”をなぞる力だ。

 この場所を、君が知っていたことに――意味がある。


 私の視点は、ここに残しておく。

 けれど君の視点は、未来を選べる。


 沙耶と共に歩め。

 そして、もし次に来る誰かがいたら……

 どうか、受け入れてあげてほしい。


 君が、“記憶の証人”であるように。」



 朱音の目に、涙が浮かぶ。

 沙耶はその背を優しく抱きしめた。


「あなたは、選ばれたからじゃない。……見てきたから、今ここにいるのよ」


 朱音は小さくうなずいた。


「……私、怖くない。今なら、この場所にある何かを――受け止められる気がする」



【時間】18:40


 そのとき、遠くで誰かの足音がした。

 静まり返ったはずの分館の外。ふたりが扉の方へ向き直る。


 その足音は、どこかためらいながらも――確かに、近づいてきていた。


次なる来訪者の影が、静かに現れようとしていた。


【場所】小沢坂の分館・玄関前


【時間】12月4日 18:43


 静寂を引き裂くように、玄関の引き戸が小さく軋んだ。


 朱音と沙耶は、息を飲んで音の方へと向き直る。

 朱音が一歩前に出ようとしたとき、沙耶がそっとその手を取った。


「慌てないで。これは……予兆として感じていた“視線”かもしれない」


 朱音が頷き、二人はゆっくりと玄関へ向かう。


 戸の向こうに立っていたのは――年配の女性だった。白髪を後ろでひとつに束ね、濃紺のケープコートをまとっている。手には古びたトランクケースを抱えていた。


 彼女は驚くふうもなく、朱音の顔を見つめると、穏やかに口を開いた。


「……あなたが、朱音さんね」


 その声に、沙耶の目がわずかに揺れる。


「……その声……まさか……」


 女性は一歩、屋内に踏み出した。

 光の下、その顔がはっきりと見えた。


「私の名前は、日比野千草ひびの ちぐさ

 ……そして、水原奈緒の実姉よ」



【場所】小沢坂の分館・和室


【時間】12月4日 18:55


 日比野千草は、持参したトランクの中から、布で丁寧に包まれた封筒と写真立てを取り出した。

 その写真には、若き日の水原奈緒と並んで微笑む女性の姿――間違いなく彼女だった。


「……私たち姉妹は、昔から“視る”という力を、それぞれ違う形で受け継いでいたわ」


 朱音は、沙耶と目を合わせる。


「私が水原に最後に会ったのは、ちょうど10年前。

 彼女は“ある記憶の痕跡”を、小沢坂のこの分館に残していったの。……その痕跡を、今日まで誰が引き継ぐのか、それを見届けに来たのよ」


 彼女は、封筒の中から小さなメモリーデバイスを取り出した。

 そこには、圭介が録音した最後のメッセージが入っていた。



【録音内容(圭介の声)】


「……朱音、これを聞いているということは、君は“鍵”を受け取ったんだね。

 この分館には、いくつかの“残響”がある。

 誰かが見た風景、誰かが語った言葉、それを“視る”力のある者だけが引き継げる。


 奈緒さんは、その記憶を誰かに委ねる決断をした。

 彼女の意思は、決してひとりではなかった――日比野千草さん、姉である彼女と共にあった。


 朱音。

 君がこの記憶を“見た”のは偶然ではない。

 君の感覚と記録は、この場所を介して、また別の“誰か”と繋がる。


 未来に遺すのは、真実だけじゃない。

 “視点そのもの”なんだ。


 ……そして、母さんと一緒に進んでほしい。

 これは、家族の記憶だから。」



 録音が終わると、朱音の目にまた涙が浮かんでいた。

 沙耶がその肩に手を置く。


 日比野千草は、そっと呟いた。


「視ることは、背負うことじゃないの。

 ただ、“見届ける”こと。奈緒がそれを最後に望んでいた」


 朱音はうなずく。


「――わたし、受け取ります。

 この分館の中に残されたもの、全部、ちゃんと見て、未来に繋ぎます」



【時間】19:10


 分館の奥の襖の先、かつて誰かが“視点の転写”を行った痕跡がある部屋へ、三人は足を踏み入れる。

 そこには、うっすらと朱音が夢で見た映像と一致する装置が残されていた。


 そして机の上に置かれていたのは――

 **「To N」**と記された、もう一つの封筒だった。


【場所】小沢坂の分館・視点転写室


【時間】12月4日 19:15


 重ねられた埃の下から、朱音はそっと一通の封筒を拾い上げた。

 古びたクリーム色の封筒の表には、繊細な手書きでこう記されている。


「To N.」


 ――To N。

 水原奈緒に宛てたまま、出されることのなかった手紙。

 朱音は沙耶に視線を向ける。沙耶は頷いた。


「……開けていいわ」


 封を切ると、中には便箋が一枚だけ入っていた。朱音が読み上げた。



圭介の未送信メッセージ(「To N.」)


「奈緒さんへ


 あの日、あなたが“朱音は特別な子です”と言ってくれた意味を、

 今、ようやく少しずつ理解し始めています。


 あなたが視たもの。

 あなたが感じた痛み。

 それを、私たちは正しく引き継げたでしょうか。


 あなたが姿を消してから、私は幾度もこの手紙を書き直しました。

 伝えたいことが多すぎて、言葉にできなかった。


 けれど今なら、ひとつだけ、ちゃんと言えそうです。


 ……ありがとう。

 あなたがいてくれたから、朱音も、沙耶も、

 そして私も――“視ること”を恐れずにいられた。


 いつかまた、どこかで。

 圭介」



 便箋を読み終えたとき、沙耶は小さく震える息を吐き、静かに床へ膝をついた。


「ママ……?」


 朱音の問いかけに、沙耶は微笑みながら首を振る。


「思い出したの。……奈緒さんと、最初に会ったときのことを」



沙耶の記憶:奈緒との“本当の最初の出会い”


 それは朱音がまだ生まれる前、沙耶がひとりで迷いに迷っていた頃だった。

 心に蓋をして、誰にも見せられない記憶を抱えて、夜の河川敷を彷徨っていた。


 そのとき、奈緒が現れた。

 黒いコートを羽織り、月明かりの下で沙耶の前に静かに立っていた。


 「……あなた、“見える”のね」

 「なに……?」


 「自分では気づいていないけれど、あなたは“見ようとしない努力”をしてる」

 「……放っておいて」


 「でも、それでは“あなたの中のもう一人”が泣いてしまうわ」

 「もう一人……?」


 沙耶は、あの夜の言葉を今も覚えている。

 そしてその後、奈緒が不思議な形で彼女に関わり、朱音の誕生と共に再びその“視点”を委ねたのだと――今なら理解できる。



【現在】小沢坂の分館・視点転写室


「奈緒さんは……わたしの“最初の導き手”だったのかもしれない」

 沙耶はそう呟いた。

 「母になる」以前の、自分の奥にいた“もう一人”――恐れを抱えていた自分を、

 奈緒は静かに見守ってくれていたのだ。


 朱音は沙耶のそばに座り、手を重ねた。


「ママ……」


「……ありがとう、朱音」


 ふたりの手の上に、冬の微かな光が差し込んでいた。


 そのとき、視点転写室の壁面に設置された旧式の装置が――

 突然、低い駆動音を立てて回り始めた。


【場所】小沢坂の分館・視点転写室


【時間】12月4日 20:02


 錆びついた回転軸が、きしみ音を立てながらゆっくりと動き出した。

 旧式の視点転写装置。その正面にある半球型のレンズが、うっすらと青白い光を帯び始める。


「……作動してる……?」

 沙耶が息を呑んだ。朱音の目も、装置に釘付けになっていた。


 やがて、レンズの奥に**“像”**が浮かび上がる。

 それは映像というより、記憶の断片そのものが霧のように漂っているようだった。



■視点ログ:水原奈緒(記録コード “N.10_Archive:047”)


(※記憶ログの形式で再生)


 ――石造りの小径。白い朝靄の中にある、古い講堂のような建物。


 その前に立つのは、20代後半の水原奈緒。

 黒髪を一つに結い、濃紺のロングコートを着ている。表情は険しいが、どこか静かな決意を湛えている。


「……あなたがこの子に関わるというのなら、私も黙ってはいられません」

「“視る者”は孤独です。でも……その孤独を背負い合う方法があるとしたら」


 対面する相手は記録上不明。だが、少なくとも水原が敵意を向けていた人物ではない。


 記憶の視点が揺れる――

 次の瞬間、場面が切り替わる。



■視点ログ:続き(記憶の揺らぎによるシーケンス遷移)


 地下室。蝋燭のような灯りが壁際を照らす。


 奈緒の視線は、椅子に座る一人の少年に向けられている。

 少年は顔を伏せていて表情は見えない。だが、その手は微かに震えていた。


「名前を……忘れないで」

「あなたの記憶に、私の声が残っていれば、それで……」


 奈緒の声が、深く、柔らかく響いた。


 そして――

 彼女は何かを少年の手にそっと握らせた。

 それが何であったかは、映像には明確に映らない。ただ、薄く金属光沢のあるペンダントのような輪郭。



【現在】小沢坂の分館・視点転写室


 装置が、ふいに停止した。

 レンズの光もふっと消え、空気だけがわずかに温もりを帯びていた。


 沈黙の中、朱音がぽつりとつぶやいた。


「……今の子……どこかで……」


「朱音……?」


 沙耶が覗き込むと、朱音の目は深く揺れていた。

 彼女の記憶の奥底と、今の映像が静かに重なろうとしている。


「……夢の中に、あの場所……あった。……“暗い部屋と、誰かの声”」


 その瞬間――

 朱音の持つ日記帳が、自動で一枚のページを開いた。


 そこに描かれていたのは、さきほど映像にあった講堂の建物。

 そして、窓辺に立つ奈緒と、その手を握る少年の後ろ姿だった。


【場所】玲探偵事務所・本部執務室


【時間】12月5日 10:30


 冬の空は高く、白く伸びた雲が音もなく流れていた。

 東京郊外のロッジ兼探偵事務所。室内は暖房の熱でほんのりと温かく、窓際の机には、昨日から積み上げられたファイルと、数枚の手書きメモが散らばっている。


 玲はその中心で、淡々と書類に目を通していた。

 ペンを持つ手は無駄なく動き、重要な語句には赤い印をつけていく。


 デスクの片隅では、朱音が描いたスケッチの一枚――「講堂」と思しき建物の外観が、ホルダーに挟まれて立て掛けられていた。

 その下には、“N.10_Archive:047”と記されたログ記録のプリントアウト。水原奈緒が残した映像記憶の一部。


 玲は目を伏せる。

 口元にうっすらと苦味が滲むような沈黙。


(……水原奈緒が託したのは、あの少年だけじゃない。視点そのもの……“記録する意思”もまた、彼女の遺したものだ)


 ふと、玲は右手の指で、朱音のスケッチの角を撫でた。

 画用紙の質感が伝わる。


 その線の描き方には、何かを「思い出す」ことと、「残す」ことの間にある、微細な意志が感じられた。

 それは、ただの子供の絵ではない。


「朱音……君は、もうそこに“いた”のかもしれないな」


 独り言のように呟いたあと、玲はもう一度書類へと視線を戻す。

 今回は、“水原奈緒が講演会で接触した人物リスト”を洗い直していた。


 その中の一つ――「藤崎衛」という名前に、赤線を引いた。



【回想断片】


(玲の脳裏に浮かぶ、かつての会話)


「記録ってのはな、玲くん。“過去”じゃない。いつも誰かに“届けられる未来”だ」

(—水原奈緒、十年前)



 その瞬間、机の端に置いていた端末が軽く震えた。

 画面には、**〈小沢坂分館:外部からの接続要求〉**の表示。


 玲は立ち上がる。

 椅子の背に掛けていたコートを手に取り、淡く光る窓の外へ目を向けた。


 空はまだ冬の朝。けれど、もうすぐ何かが大きく変わる、そんな気配がある。


「……準備を進めよう。次は“鍵の記録”だ」


──後日談──


■【玲】──静かな整理


場所:玲探偵事務所・資料室

時間:12月5日 午後15:10頃


 ファイルの束を、最後の一つまで閉じ終えたとき──

 玲は深く息をつき、背もたれに体を預けた。背筋を伸ばすと、静かな疲労感が骨の内側までじんわりと染みていく。


 棚に収まったファイルには、もう埃一つなく、ラベルには整った文字で日付と内容が記されていた。

 「N.MIWARA関連/視点転写記録」「To A」「小沢坂分館/再接触記録」「朱音描写」──それら全てが、まるで並び替えられた記憶の断章のように、静かに佇んでいる。


 玲は無言のまま立ち上がり、資料室の小窓を開けた。


 午後の陽が斜めに差し込んできた。

 冷たい風が書類の端をわずかに揺らす。高く澄んだ空に、遠くを飛ぶ鳥の影が小さく動いていた。


(……もう、十二月か)


 年の瀬の静けさは、何かを見送ったあとの静寂に似ている。

 事件としては終わった。だが、“終わり”とは本当に形あるものなのだろうか──ふと、玲はそんなことを考える。


 机の上に、朱音のスケッチが一枚だけ残されていた。

 「鍵」と「扉」。それを開けようとする子どもの後ろ姿。背景には、小沢坂分館の一部と思しき建物の輪郭。


 玲はその絵を、何も言わずファイルには挟まず、壁に立てかけたままにした。

 “整理”という名の行為には、時に「残す」ことも含まれる。



 時計の針が音もなく進む。事務所の外では、近所の子どもたちの笑い声と、自転車のベルの音が重なった。


 玲は静かにコーヒーを淹れ、湯気立つカップを両手で包んだ。

 誰にも邪魔されない時間。誰にも気づかれない時間。


 それでも──誰かが残していった“視点”の余韻は、確かにこの部屋の空気の中にある。


「……朱音、君の目が見たものは、記録じゃない。

  “選択”だよ。誰に継がせるか、誰を残すか。

  ……そして、どう終わらせるかを決める力だ」


 玲は独りごとのように呟き、目を閉じた。



 小さな風が再び窓から吹き込む。

 それは、物語の続きがどこかで静かに始まっていることを、彼にだけそっと知らせる合図のようだった。


 師走の空の下。

 玲探偵事務所には、今日も穏やかな沈黙が降りていた。


■【朱音】──夢と記憶のはざまで


場所:玲探偵事務所の庭

時間:12月5日 朝 8:15


 朝露を吸った土の匂いが、冷たい風に混ざっていた。

 朱音は小さな鉢植え──夏の終わりに蒔いたビオラの苗に、そっと水を与えていた。


 静かな朝。誰もまだ起きていない。

 けれど彼女の胸の中には、うっすらとしたざわめきが残っている。


 それは夢の断片か、それとも記憶か。

 あるいは、もっと別の“だれかの想い”だったのかもしれない。



 「……ママが、そこにいた気がした」


 朱音はぽつりと呟いた。誰に向けた言葉でもなかった。


 今朝見た夢は、不思議なものだった。

 霧の中の分館。長い廊下を、幼い自分がひとり歩いている。

 扉の向こうには、あの“鍵”があった──けれど、手を伸ばす直前で目が覚めた。


 そして夢の中で、どこか懐かしい声が聞こえた気がする。


「朱音。見えるものだけが答えじゃない。

  目を閉じて感じてごらん……“まだ残ってる”から」


 それが誰の声だったのか、思い出せない。

 けれど不思議と怖くはなかった。むしろ、その声のほうが自分を“思い出してくれた”気がした。



 鉢に水をやり終えると、朱音は空を見上げた。

 冷えた大気の向こう、高く澄んだ空に、薄い雲が一筋漂っていた。


 事件はひとつの区切りを迎えた。

 けれど、それは「終わり」ではなく「始まり」なのだ──と、朱音は子どもながらにうっすらと感じていた。


 お父さんが残してくれたもの。

 玲お兄ちゃんの静かな眼差し。

 ママが見せた、あの夜の涙。


 それらすべてが、自分のなかで「何か」になろうとしている。



 朱音はポケットの中の“鍵”を取り出した。

 小沢坂の分館で手に入れた、もう一つの扉を開くもの。


 「まだ……あるよね。知らなきゃいけないこと」


 小さな声で、しかしはっきりとそう言った。


 そしてそれは、“次”に進む決意だった。



 ふと、庭の端に一羽の白い鳥が降りてきた。

 羽根を震わせて、数歩だけ歩き、朱音と目が合う。


 まるで何かを運んできたように、静かに、そこにいた。


 朱音は微笑む。そして──


「……うん、行ってくるね」


 誰にともなく告げて、彼女はゆっくりと立ち上がった。


■【沙耶】──記憶分析者としての余韻


場所:玲探偵事務所・分析室

時間:12月5日 昼 12:40


 静かだった。

 パソコンのファンが低く唸り、記録媒体のLEDが規則的に点滅している。


 沙耶は肘掛けの深い椅子に腰を預け、膝に乗せた手帳へ静かにペンを走らせていた。

 その表情には疲れの色がありながらも、どこか、安堵のようなものが浮かんでいた。


 ──解析室に残された“視点ログ”。

 古びた録音装置から出力された水原奈緒の記憶は、音声、時間帯、位置情報、すべてが断片的で、明確な因果を語るものではなかった。

 けれどそれらは、確かに“そこにいた人の視点”だった。


「この世界のすべては“記録”されるとは限らない。

 でも、“残る”ことはある。想いという形で」


 彼女がかつて教えられた言葉──それを今になってようやく理解できた気がする。



 沙耶は記録画面に表示された《To N》という未送信メッセージの断章に視線を移した。

 圭介が、生前、奈緒に宛てて綴っていたもの。


  ──〈君の視点は、君だけのものじゃない〉

  ──〈僕はそれを、未来に託すことにした〉


 冷静な言葉の裏に、どれだけの葛藤があったのか。

 記録分析者としての沙耶は、それを想像することをためらわなかった。


 なぜなら──彼女自身も、“あの日”から同じ重さを背負ってきたから。



 「……会えて、よかったよ。奈緒」


 小さな声が、無人の部屋に零れた。

 解析者としてではない、ただの“沙耶”としての想い。


 あの分館で思い出した、“最初の出会い”。

 水原奈緒が初めて名前を呼んでくれた時のあたたかさ。

 彼女の手のひらは、どこか母親にも似ていた。



 目を閉じると、朱音の顔が浮かんだ。

 あの子はもう、“守られる存在”ではない。

 きっといつか、自分の手で新しい視点を選び取っていく。

 ──そう思わせる強さが、あの瞳の奥にはあった。


 沙耶は、ゆっくりと立ち上がった。

 背後のモニターでは、ログナンバー「D-0311」の再生が止まっている。


 今の自分にできるのは、断片を正確に並べ、未来に渡すこと。

 それが、記憶を“生きているもの”として残す唯一の手段だと知っているから。



 ふと、窓の外で朱音の笑い声が聞こえた。

 庭で水をやる音、小さな鉢植えを抱える姿。

 その光景が、すべてを肯定するかのように沙耶の胸を満たす。


 ──「残す」ことの意味。

 それは、“誰かが次に受け取ってくれる”という、未来への信頼なのだ。



 沙耶は静かに手帳を閉じ、机の上の封筒に目をやった。

 圭介が遺した“視点の鍵”のひとつ。


 まだ終わってはいない。

 けれど、“始めるための終わり”は、きっと今、ここにある。


■【弟子の家族(母)】──静かな灯


場所:山間の古い町/時間:12月6日 夕方


 西陽が山の端にかかるころ、古い町のひとつの家で、年老いた母は椅子に座っていた。


 テーブルの上には、小さなポータブルレコーダー。

 蓋の擦れた古いカセットテープが、かすかな機械音を立てながら回っていた。


 録音されていたのは、彼女の息子──“あの子”が、失われる前に残していた最後の声。


 音は不鮮明だった。

 風の音、どこかで軋む床の音、そして――言葉。


「……お母さん、ごめん。

 でも、ぼくは、ちゃんと、選んだよ」

「誰かの記憶を受け継ぐってことが、

 ただ過去を知ることじゃないって、わかったんだ」


「ぼくがこの先に行くのは、

 きっと、次の誰かに“灯”を手渡すため。

 それがわかったから、こわくなかった」


「ありがとう。産んでくれて、ありがとう。

 大丈夫だよ。全部、大丈夫。だから、泣かないで」



 ……泣かないで。

 そう言われて、彼女は泣いた。


 でもそれは、後悔の涙ではなかった。


 あの子が、逃げたのではなく、歩いていったこと。

 何かを残すために、自分の終わりを受け入れたこと。

 誰かにその「視点」を託したこと。


 それを、言葉ではなく“声”で伝えてくれたことが、

 何よりの救いだった。



 母は、震える手でテープを止めた。

 しんと静まった部屋に、ストーブの灯油の匂いと、夕餉の味噌汁の湯気が滲んでいた。


 あの子の部屋には、まだ、少年の頃の絵や、本や、未完成の模型が残っている。

 そこにあるものは、過去ではなく、“灯”だったのだと、ようやく思えた。



 ふと、玄関先の風鈴が鳴った。

 訪ねてくる人などいないはずの時間。

 彼女は立ち上がり、ゆっくりと玄関へ向かった。


 扉を開けると、若い女性がひとり立っていた。

 どこか、あの子に似た瞳をしていた。


「……澪真(れいま)の記憶を、受け取った者です」


 その声を聞いた瞬間、母はすべてを理解した。

 あの子が託した“灯”が、こうして生きて、今ここに届いている。



 冬の山間に、夕陽が最後の光を落としていった。


 母はもう、泣いていなかった。

 胸の奥に静かに灯る、温かな記憶とともに、穏やかに頷いた。


■【かつて館を訪れた来訪者】──ページの外で


場所:都内の静かな古書店

時間:12月7日 午後


木製の棚が並ぶ店内は、静寂に包まれていた。窓から差し込む冬の柔らかな陽射しが埃を浮かび上がらせる。青年は棚から一冊の古びた本をそっと手に取った。装丁は擦り切れ、頁は黄色く変色している。


彼はゆっくりとページをめくりながら、ふと奥付に目を留めた。そこには、かつてこの館を統べていた“占術師”の名が記されている。


「響野裕司…か。」


青年の眉がわずかに動く。どこかで聞き覚えのある名前だった。彼の手の中で本が軽く震えるように感じられた。


その瞬間、外の風が店のドアを揺らし、遠い記憶の扉を開くかのように、館にまつわる断片的な記憶が青年の中に蘇り始めた。


静かに、しかし確かに――物語の新たな頁が動き出す予感が漂っていた。


「……まだ何か残ってる気がするな」

【場所】玲探偵事務所・応接テーブル

【時間】12月7日 午後


 灰色の封筒と、少し古びた茶封筒。

 どちらも控えめな筆致で「玲様」と書かれていた。


玲は応接テーブルに並べられた二通の手紙を見つめ、まず一つ目の封を開けた。



◆封筒①:「響野 裕司」より(筆跡:端正、やや古風)


玲君へ


この手紙が君の元に届く頃、私はもう“あの館”から完全に手を引いているはずだ。

私が背負った“視点”の重みは、誰かに継がせるものではなかったと気づくのに、少しばかり時間がかかった。


だが君は、冷静でいながらも他者を見捨てない。

真実を追う姿勢の中に、“記憶を受け止める器”としての資質が見える。


君にはまだ、残された断片を“記録”として留める役目があるかもしれない。

だが、それが“終わり”なのか“始まり”なのかを決めるのは、君自身だ。


「過去」は“閉じた世界”ではない。

それに触れた者は、常に現在という窓から、それを見つめ直す機会を持つ。


最後に一つ、私が“ある青年”に託した鍵のことを伝えておく。

それは過去に繋がるが、未来にも作用するものだ。

君がその人物と出会ったとき、どうかその視点を奪わないでほしい。


 響野裕司

(記録保管者)


玲はその手紙を丁寧にたたみ、胸ポケットにしまった。

もう一通、茶封筒の封を静かに切る。



◆封筒②:「佐々木 圭介」より(筆跡:力強く、少し揺れている)


玲へ


あの夜、朱音が見た夢の話を覚えているか?

水原奈緒が何かを託していた――それは彼女だけの想いじゃない。


私たちは、記録し、忘れ、そしてまた思い出す。

忘れさせられた記憶よりも、忘れようとした記憶の方が、ずっと厄介だ。


君が私の代わりに多くを背負っていること、感謝している。

沙耶も、朱音も、それぞれに“継承すべき視点”を持ち始めているようだ。

君には、彼女たちの“支点”でいてほしい。


この手紙と一緒に入れた図面――小沢坂の分館のもう一つの出入口だ。

私が一度だけ使った非常扉で、普通の地図には載っていない。

何かがあったとき、そちらを使え。


…これは、遺言じゃない。

私はまだやることがある。

だが、君には“選べる余地”を残しておきたかった。


朱音の未来を、どうか頼む。


佐々木圭介



玲は静かに、目を閉じた。


「選べる余地、か…」


その呟きに、外の風が応えるように、事務所の暖簾がふわりと揺れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ