71話 占術師の館 ― 記憶に還る扉
■登場人物一覧(都内・古書店の場面および関連)
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【青年(新しい来訪者)】
•名前:未定(仮)
•設定案(例):
•かつて「占術師の館」を訪れた記憶を封じられた一人。
•一見無関係に見えるが、朱音たちと同じく“館に触れた記憶の残響”を抱えている。
•過去に占術師・響野裕司と短い会話を交わしていた可能性がある。
•書店で手に取った古書をきっかけに、忘れていた出来事が断片的に蘇る。
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【響野 裕司】
•占術師の館の元主。
•今は消息不明とされているが、彼の残した書や手記が街のどこかに散在している。
•青年が手に取った古書の奥付に、その名が記されていた。
•“視点の記録”や“訪問者の選定”に関わっていた人物で、記憶や来訪の巡りに深く関係している。
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【古書店の店主(背景人物)】
•名前や詳細な描写は現時点では未定。
•ただし、青年が何気なく立ち寄れるような、落ち着いた空気のある古書店の主。
•店に並ぶ本の中には、かつて館を訪れた人物が手放したものが紛れている可能性も。
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■関係者(名前のみ登場または記憶の中で)
•沙耶:記憶を巡る中で、青年の過去の中にも“似たような人物”として一瞬浮かぶ存在。
•水原 奈緒:かつて館を出入りしていたことがあるため、その痕跡を青年が知らずに追っている可能性がある。
•朱音:同じ「館に導かれた記憶の継承者」として、いつか交わる可能性が示唆される。
ー冒頭ー
十一月二十六日、日曜日の午後。
玲探偵事務所の窓からは、翳りかけた午後の光が斜めに差し込んでいた。向かいのビルの壁面には、薄い金色の陽が淡く滲み、季節の境界線がそこに刻まれているかのようだった。
窓の外では、白くぼやけた空が街を覆っていた。冬の気配がじわりと近づいてきている。風がひとつ通り過ぎるたびに、街路樹から枯葉が二、三枚、音もなく舞い落ちてゆく。
部屋の中は静かだった。
ストーブの上ではやかんが小さく湯気を立てている。時計の針が「午後一時二十分」を指して止まることなく進み、壁際の書棚の影がゆっくりと伸びていった。
誰も言葉を発さないまま、時間だけが確かに流れていく。
その静けさは、何かが始まる前の“間”のようでもあり、誰かが口を開くのをじっと待っているようでもあった。
そして——。
【11月27日(月)/午前10時45分 山梨県北部・山間部 林道沿い】
山を一つ越え、さらに奥へと分け入った林道を、一台の車がゆっくりと進んでいた。
舗装が途切れ、砂利道に入ってからしばらく。タイヤが小石を巻き上げ、低く唸る音だけが静かな山中に響いていた。
車内には、冷えた空気が残っている。エアコンの風量は抑えられたままで、助手席には一枚の地図のコピーと、一枚の古びた写真が置かれていた。
どちらにも正確な地名や番地は記されていない。ただ、玲にはそれらの“意図”が、静かに、だがはっきりと読み取れていた。
紙の端に、うっすらと鉛筆で引かれた印。周囲の地形から逆算すれば、この林道が写真の背景に映る稜線と一致する可能性は高い。
それを裏付けるように、進行方向右手の尾根筋には、写真に写っていた倒木が、今も朽ちかけたまま姿を残していた。
玲はハンドルを握り直し、小さく息を吐いた。
この先に何があるのかは分からない。だが、少なくとも誰かがこの道へ導こうとしていたことは確かだった。
車のスピードがさらに落ちる。前方、木々の切れ目に、わずかに開けた空間が見え始めていた。
林道の終点に近い場所で、玲は車をゆっくりと停めた。
目の前には、小さな空き地のような開けた場所。周囲を囲む木々の密度が急に緩み、足元には車の轍が、古いものと新しいものとで交錯していた。しばらく人の出入りはなかったはずの山中にしては、妙に“最近”の痕跡が多すぎる。
玲は車を降りた。
冷えた空気が頬を刺す。小鳥の声もせず、風が梢をわずかに揺らす音だけが耳に残った。
そして、まず目に留まったのは——一本の電柱だった。
杉林の中に唐突に立つそれは、塗装がまだ新しく、コンクリートの表面に苔も汚れもない。取り付けられた変圧器や支線も、最近になって整備されたばかりのようだった。にもかかわらず、周囲にそれらしい民家や作業施設は一切見当たらない。
「……おかしい」
玲は視線をずらし、空き地の端へと歩を進めた。
そこには、傾いた廃屋があった。平屋建てで、かつては山小屋か資材置き場のように使われていたものか。屋根の一部は落ちかけ、壁板の隙間から内部が覗けるほど傷んでいる。
しかし、入口付近の土には、わずかに靴の跡が残っていた。雨は降っていない。最近誰かが入った形跡──それも、二人分以上。
さらに周囲を見回した玲の視線が、地面の一角で止まる。
焚き火の跡だ。石を組んだ簡易の囲い。その中央には、まだ黒く燻った炭と、半分だけ燃えた新聞紙の断片があった。日付は三日前のもの。東京の朝刊。
人のいないはずの林道の奥で、わざわざ火を起こし、新聞を燃やしている──まるで、何かの証拠を処分するかのように。
玲は膝を折り、指先で炭をつまんで確かめた。まだほんのわずかに湿気を含んでいた。
「……これは偶然じゃない」
ひとりごとのように呟いた声が、山に吸い込まれていく。
その背後で、風が再び木々を揺らした。だが、それは“風の音”にしては重たすぎる。
まるで、誰かが林の中を踏み歩いているような──。
「……パキッ」
枝を踏む音がしたのは、廃屋の裏手から約七メートル先。
即座に気配を探る玲の視線が、その一点に鋭く突き刺さる。
──だが、玲は即座に構えを解いた。
「いい加減、出てこい。お前の足音は、十年前から変わらない」
そう告げると、低木の奥から黒い影が静かに現れた。
漆黒の戦闘服に身を包み、無表情のまま現れた男――成瀬由宇。影班の中でも最も早く動き、最も静かに仕留める実行担当だった。
「……さすがですね、玲さん。踏み音まで覚えてるとは」
「そもそも俺の指揮下で何年動いてると思ってる」
玲はわずかに口の端を上げると、背後の森をちらりと確認した。
次の瞬間、別方向の枝葉が揺れ、二人の人影が姿を現す。ひとりは桐野詩乃。もうひとりは、影班の精神制圧担当である**安斎柾貴**だった。
「遅くなりました、指揮官。目標周辺、三百メートル以内に不審者の反応なし。ただし、先ほど上空をドローンが一度通過。応答信号が市販モデルと異なります」
詩乃がすぐに報告する。玲は頷いた。
「妨害用の安価な電波攪乱装置を使ってるな。あの混信は、俺たちを追ってる者じゃない。おそらく“逆”だ。……ここを監視している連中が、何かを隠そうとしてる」
玲は懐の中から小型ケースを取り出すと、影班の三人に見せた。
「床下に隠されていた。外装は一見ただの金属ケースだが、中に精密な遮断素材が使われてる。これを運ばせた連中は、ここを一時的な中継地点と見て間違いない」
「……確認しますか?」と成瀬が問う。
玲は静かに首を横に振った。
「まだだ。現時点では触れない。罠の可能性もあるし、逆探知用の遅延信号を仕込まれてるかもしれない。……詩乃、ケースの外部解析。安斎、周囲に“記憶操作”の痕跡があるか確認しろ」
「了解」
「了解」
二人が即座に動き出す。玲はわずかに空を見上げた。白く濁った冬空の下、風がまた枝葉を揺らしている。静寂の中に、何かが動いている気配は、確かにある。
だが、玲の表情は崩れない。
彼には“最前線の部下たち”がいる。そして、彼はその誰よりも冷静に、命を賭ける覚悟を背負っていた。
「朱音の絵が示していたのは……やはり、ここだ。だとすれば、次に動くのは“あの男”のほうだろうな」
玲の目が細く鋭くなる。
その名をまだ口には出さない。だが、これが「封じられた真実」に繋がるルートの一本であることを、彼は確信していた。
廃屋と呼ぶには、いささか整いすぎていた。
屋根は苔に覆われているが、崩落はなく、玄関戸も無理なく開いた。土埃はあるものの、靴跡の一つや二つは見つかりそうな気配すら漂っている。
玲は立ち止まり、古びた竹垣の外に目をやった。
敷地の脇に、不自然なほど新しい電柱が一本──周囲のインフラとは明らかに不釣り合いな、それだけが整備されたような存在感を放っていた。
「通信用か……監視か……」
玲が小さく呟くと、後ろから成瀬が一歩前に出て無言で頷いた。
地面には、昨夜あたりに使われたばかりの焚き火の痕跡。炭は乾ききっておらず、風の通りに合わせて微かに灰が舞う。
「誰かが、ここにしばらく留まっていた形跡があります」
桐野が背後の小屋を確認し、報告する。
「保存食の包装、折りたたまれた毛布、そして……足跡は三人分。ただし、一人は荷を運んだ形跡があります」
玲は黙って扉を押した。
――古びた木戸は、わずかな抵抗のあと、音もなく開いた。
玄関先の靴脱ぎ場には、何もない。
だが、土間の隅には、誰かが落としたと思しき銀色のペン型機器が転がっていた。ペンではなかった。録音用レコーダーだ。
「……これは警察の備品じゃない。企業系の調査屋か、あるいは──」
玲がそれを拾い上げたときだった。
──ザッ……という微かな混信音がイヤホンに走った。
「こちら第一区──応答を。……周波数……」
無線の周波数がぶれ、何者かの通信が一瞬だけ混信する。
成瀬が背後で警戒態勢に入った。
「視線を感じる。尾行か……あるいは潜伏者」
玲はわずかに頷いた。
この場所が、単なる廃屋ではないことは初めからわかっていた。
かつてここは、“表沙汰にできない事情を抱えた者たち”が相談を持ち込む非公式の拠点だった。
いわば、口外できない秘密を持つ者同士が“中立地帯”として用いた場所。
不倫、遺産争い、内部告発、家族の失踪、あるいは……警察では捌ききれない灰色の領域の数々。
「占術師」という看板はあくまで名目──実態は、他人の秘密を握っていた女が住んでいた。
「この家の記録が残っていないのも、持ち込まれた相談が公にできないものだったからだ」
玲は奥の和室に足を踏み入れた。
畳はやや浮いているが、中央には不自然に空白になった床の一角がある。
上にあったはずの座卓が持ち去られている。そして、障子の裏に張られていた一枚の新聞紙が剥がれかけていた。
玲が手袋をしたまま、それを丁寧に外す。
裏から現れたのは、壁に鉛筆で書かれた名前の羅列──ほとんどは判読不能なまでに擦れているが、ひとつだけ比較的はっきりと残っていた。
《三宅章吾》
玲の目が細くなった。
その名は、十年前に山梨県南部で失踪した元市議の名前だった。
【11月27日(月)/午前11時15分 “占術師の館” 屋内】
扉は閉じられていた。だが、鍵の部分は斜めにひしゃげ、内側から強引に押し開けられた痕跡がある。
玲が無言で手袋をはめ直し、そっと扉を押すと、湿った音と共に古びた蝶番がわずかに軋んだ。
中に足を踏み入れた瞬間、埃と乾いた木の匂いが鼻を突いた。
長らく風が通っていなかったにしては、妙に「人の気配」が残っている。窓際のカーテンは一枚、半ば引きちぎられたように外れ、床に垂れている。
玄関脇の小さな靴箱には、古びたスリッパが三足。どれも黄ばみ、すでに使われなくなって久しいように見えたが、一足だけ、比較的最近履かれた形跡がある。
ソールの汚れが床に残り、土の乾いた跡が、廊下の奥へと続いている。
廊下の先、左手には居間──和と洋が中途半端に混ざった部屋。
小ぶりな食器棚、古いソファ、テーブルの上には埃をかぶった灰皿。
だが、棚の奥に仕舞われていたはずのコーヒーカップが二つ、食器棚の前に並べられていた。
片方のカップには、乾ききった茶渋のような跡がうっすらと残っている。もう一方はきれいだ。まるで、誰かが一人だけ使い、もう一人の分を出したままにしていたかのように。
「……つい最近まで、誰かがここで話をしていた可能性がある」
玲の低い声に、背後の桐野が頷く。
「棚の上、埃が指の幅で拭われています。誰かが手をついて立ち上がった跡……」
成瀬が視線を巡らせたあと、床に目を留めた。
「……こっち、濡れた靴の痕がある。昨夜、雨が降ってた。まだ乾ききってない」
玲は窓際に寄り、カーテンの奥を押し広げる。
窓の桟に小さな紙片──破れたメモの一部が貼りついていた。
指でそっとつまみ上げると、そこには手書きの数字があった。
「1027 1535」
日付か、時刻か。それとも暗号か。
玲は黙ってそれをポケットに収めた。
居間の奥、和室との仕切りとなっている障子には、ところどころ破れた箇所があり、その先に光が差していた。
玲が障子をゆっくりと開けると、畳の上に広げられた古新聞が目に入った。
その新聞紙の上には、まるで何かを包んでいたかのような折り跡があり、中央には焦げ跡のような黒ずみがある。
「焚き火……いや、これは――室内で火を使った痕か」
「処分された証拠かもしれません。焼かれたのは紙だけじゃない可能性も」
玲は黙ってうなずいた。
──誰かがここで何かを隠し、あるいは始末しようとしていた。
その「誰か」は、きっと今もこの場所の周辺にいる。
自分たちがここへ足を踏み入れたことを、既に知っているかもしれない。
玲の視線が畳の端に留まった。
一見、日焼けした古畳だが──部屋の隅、床の縁に沿って、微かに不自然な“切れ目”が見える。通常の継ぎ目よりも、やけに真新しい。
「成瀬、ここを。慎重に」
成瀬が無言でうなずき、静かに畳を持ち上げる。
下から現れたのは、年季の入った板張り……ではなかった。
そこだけ、明らかに材質が異なる“新しい木材”で補修されていた。
まるで何かを封じるように、意図的に打ち付けられた跡。釘は古いが、留め方には手慣れた細工の形跡が残る。
成瀬が工具で釘を外すと、板の裏には細い導線が走っていた。
「……これは、センサーか?」
「警報ではない。恐らく録音。タイマーか、動作検知式だ」
玲がすぐさま懐から小型の検査機を取り出し、通電反応を調べる。
ピッ、とわずかな電子音──まだ生きていた。
慎重に板を外すと、床下には金属製の小箱が隠されていた。
型は古いが、業務用のICレコーダーに似た仕様。外装には目立たぬようカビが付着していたが、通気口が丁寧に加工されているあたり、専門の手が入っていたことは明らかだった。
「録音デバイス……旧式だが、ノイズを逆利用してる。屋内の生活音にまぎれて会話だけ拾うタイプだ」
玲が手早く外部電源に切り替え、再生モードに切り替える。
ノイズ混じりの音声が流れた。
> 『──彼は来ない。連絡は途絶えたままよ。……いいえ、私の判断でここを引き払う。』
> 『残された情報は……燃やす。あのメモも──証言も、全部』
> 『……“あの人”がこれを聞くころには、私もここにはいない』
「女性の声……これは、“占術師”本人の可能性が高いな」
背後から桐野が別の異変に気づく。
「玲さん……この床、板の継ぎ目が妙に浅い。元々通路があったかもしれません」
玲が目線を落とし、空気の流れを読むように屈み込む。
板のわずかな隙間から、乾いた風が上がってきていた。
「……あるな。恐らく、屋敷の地下か背後の斜面と繋がっている抜け道だ」
成瀬が素早くライトを構え、開いた通路口を照らす。
下には人ひとりがようやく通れるほどの細い抜け道があり、土と木材が入り混じるような古びた構造だった。人の出入りを隠すため、意図的に築かれた密かな通路。
そして──その通路の奥から、かすかな“音”が聞こえた。
金属が擦れるような、しかし一定のリズムではない。
玲は手で制し、全員を静止させる。
「誰か、いるかもしれん。慎重に行くぞ」
録音デバイス、焦げた新聞、隠された通路。
この屋敷で、誰かが確かに「情報を処分しようとし」、そして「誰かの来訪を恐れていた」。
玲は書斎とおぼしき部屋の本棚に目を留めた。
天井まで届く古い木製の棚。文庫や専門書が無秩序に並び、埃をかぶった背表紙の多くは色あせて判読できない。
だが、その中に一本──明らかに紙質が異なる背表紙があった。
他の書籍が黄ばんだ布や紙で装丁されているのに対し、それだけはわずかに艶の残る質感。背には金色の細い文字で、
『月と分水嶺』
と記されていた。
玲が静かにそれを取り出し、頁をめくると、あるページで手が止まった。
──封筒。
古びたクリーム色の角形。糊の部分は剥がされておらず、指で挟んでみると、中に紙が数枚と、何か薄い金属片のようなものが入っている。
その封筒は、あるページの中に自然に挟まれていたように見せかけていたが、実際には背表紙と接着されており、ページを無理に開かなければ露見しない構造になっていた。
「……仕込み方が手慣れてる。一般の人間じゃない」
封を切ると、中から出てきたのは──
•手書きの地図。既存の地図を切り貼りして線を引いたもの。裏面には小さく「S-5 / 廃道経由」と赤字。
•小型の金属製ICチップ。市販の録音媒体とは異なり、特殊な端子と耐熱コーティングが施されている。
•そして、一枚のメモ。硬質な万年筆の字で書かれていた。
> 「もしこれを読んでいるなら、私はもう“向こう側”にいる」
> 「あの夜の約束は、まだ終わっていない。S地点に残された“証人”が鍵を握る」
> 「真実は分水嶺に沈む──だが、沈んだものは流されず、そこに留まる」
玲は黙読の途中で、ふと目を細めた。
「“分水嶺に沈む”……これは、場所そのものを示している。隠語だ」
「地形名?」
「いや、隠された区域。地元の人間でも正確な位置は口にしない。廃道からしか入れない“谷の境”があったはずだ。地図で確認する」
成瀬が地図のコピーを広げ、書き込みを照らし合わせた。
「……ありました。北側の旧採石場裏、管理が打ち切られた谷。封鎖された林道を使えば、30分以内に接近できます。ただし……」
「足跡が残る」
「はい。向こうも監視している可能性があります」
玲は封筒の中身をもう一度確認し、ICチップを丁寧に布で包むと、内ポケットに収めた。
「……急ぐ。ここに長く留まるべきじゃない」
背後の通路では、わずかに空気の動く音がした。まるで、誰かが遠くでこちらを“見ている”かのような──沈黙の気配が。
【11月27日(月)/午前11時40分 “占術師の館” 地下室】
重い金属扉がきしんだ音を立てて開くと、内部から冷たい空気がふわりと流れ出した。
まるで長い間、人の気配を拒み続けていた空間が、ようやくその口を開いたようだった。
コンクリート打ちの階段は、湿り気を帯び、ところどころに黒カビが浮いている。幅は狭く、手すりもない。
玲は無言で懐中電灯の角度を調整しながら、足元に注意を払い一段ずつ降りていった。
地下室に入った瞬間、息をひそめた。
広さは六畳ほど。壁は無塗装のコンクリートで、天井は低く、ランプひとつない。
それでも床の中央には、かつて長机が据えられていた痕跡──金属製の足跡と、接触跡がうっすらと残っている。
懐中電灯の光が、室内の隅で反射した。
棚だ。古い木製のキャビネットがひとつ。中には分厚いノートが数冊、整然と積まれていた。
玲は一冊を手に取り、表紙をめくった。
中は、びっしりと手書きの文字列と図形で埋まっていた。が──
「……これは、“文字”ではないな」
書かれているのは、通常の言語体系ではなく、意味不明の配列。
だが、玲はページを三秒見ただけで、そこにパターンを見つけた。
「法則性がある。いや、視点の転換が鍵だ」
彼は無言でノートを数ページめくり、ふと立ち止まる。
そこには円形に文字が配された“輪”があり、中心に「R.N.」のイニシャル。そして、ページ端には小さな印──「③」と記されている。
「……ページ番号ではない。“第3式”だ。順列か、記号的な変換式が別に存在する」
玲は懐中電灯の光を棚の下へ向け、埃にまみれた鉄製の小箱を見つけた。
取り出すと、上部にダイヤル式の鍵──三桁の数字を合わせるタイプ。
彼は即座にノートの冒頭数ページに戻り、繰り返し現れる数列に注目した。
「6・1・4。これは“変換後のキー”。ノートは変換表だ」
数十秒の沈黙。玲の目が、ノートと箱を交互に見比べる。
「……仕掛けたやつは、誰かに解かれることを前提にしている。しかも、一定以上の“思考パターン”を持つ相手に。これは単なる記録じゃない、“テスト”だ」
ダイヤルを合わせ──「6」「1」「4」──ゆっくりと回す。
カチ、と乾いた音がして、蓋が持ち上がった。
中には、黒い封筒。そしてもう一枚──写真。
封筒を開けると、出てきたのは簡易な名刺サイズのカード。
> 【M会合記録/第二報:11月20日付】
> ※報告者 R.N.
> ・件の来訪者、再接触。過去情報の一部と符合。
> ・“稜線”経由の経路、再度確認。接触者名:影-α1
> ・今後の対応は「分岐地点」まで保留。引き継ぎ手配済。
玲の目が鋭く細くなる。
「“影-α1”……由宇のコードネームか。つまりこれは……影班の一部にも伝達されていた情報?」
背後で微かな音がした──空気が、ささやかに動いた。
玲は反射的に身体を半回転させ、懐中電灯を背後へ──何もない。だが、違和感は消えなかった。
この部屋の空気は、「監視されていたことがある空間」の匂いがする。
そして、玲は確信していた。この地下室は単なる保管庫ではない。
──これは、誰かが“思考の形跡”を残し、試された場所。
そして、その知能が届いたときのみ「次の扉」が開く構造だった。
【11月27日(月)/午後1時00分 “占術師の館” 前・林道】
林道にこだましたのは、やや控えめなエンジン音と、短く合図のように鳴らされたクラクションだった。
霧がいっそう濃くなり始めた午後の空気に、その音が不自然なくらいはっきりと響いた。
玲は、館の地下から引き上げたばかりだった。
手には、まだ封筒とノートを収めた資料袋を握っている。
そのまま玄関口へと向かい、ドアを開ける。冷気とともに、白い霧が一筋入り込んできた。
「玲お兄ちゃんっ!」
霧の向こうから、小さな足音がリズミカルに近づいてくる。
その声には、どこか安心しきった響きと、場所の空気を一瞬で変えるような明るさがあった。
朱音だ。
ランドセルを背負い、頬を紅潮させて全力で駆けてくるその姿を、玲は思わず立ち止まって見つめた。
彼女は館の空気に怯える様子も見せず、一直線に玲のもとに駆け寄ってくる。
「どうしてここがわかった?」
玲が小さく訊くと、朱音はにっと笑い、背後を親指で示した。
「ママがね、“匂い”で分かったんだって」
「……匂い?」
玲が目を細めると、遅れて現れた沙耶が、少し苦笑いを浮かべながら歩いてくる。
スカーフの端を手で押さえ、霧の中でもぶれないその目で玲を見据える。
「“あなたがここにいる気がした”って言えば納得するでしょ?」
玲は小さくため息をついたが、それは呆れではなく、どこか心がほぐれるような呼気だった。
「……助かる。少し、長居しすぎた」
沙耶は朱音の肩にそっと手を置きながら、館の玄関先に目を向けた。
古びた木の扉、崩れかけたポーチ、雨で削れた階段。霧の中に沈みかけたようなその構造に、彼女は目を細める。
「ここ……ただの占いの館じゃないね」
玲は黙って頷くと、手に持っていた封筒とノートの束を見せる。
「中に記録があった。“誰かに読まれる前提で書かれたもの”だ。
しかも、記録者の名は……“R.N.”」
沙耶の表情が一瞬だけ動いた。
「……あの“R.N.”? 本当に?」
「ああ。封筒にあった伝達記録には、影班への言及もある。由宇のコードネームも」
朱音は二人の会話の内容を完全に理解はしていなかったが、真剣な空気には敏感だった。
彼女はそっと玲の手を握ると、小さく訊いた。
「怖いとこだった……?」
玲は、その問いに少し考えてから、穏やかな声で答えた。
「……怖いというより、“何かが終わってない場所”だ」
そのとき、沙耶がわずかに顔を上げ、林道の向こうに視線を向けた。
「……誰か、来てない?」
玲も振り返る。霧の向こう、林の木立の間に、一瞬──人影のようなものが揺れた。
それは幻か、それとも……。
玲はすぐにポーチの脇に置いていた小型無線機に手を伸ばし、影班の通信回線を呼び出した。
「こちら玲。警戒レベル、1段階上げろ。監視者の可能性がある」
無線の向こうから、静かな声が返る。
『了解。“桐野”が周辺の残留痕を調査中。由宇も展開可能です』
玲は小さく頷いた。
──この場所に残っていたのは、単なる記憶ではない。
それは今なお“誰か”の行動と繋がっており、静かに動き続けている。
【11月28日(火)/午後4時20分 占術師の館・地下室】
階段を一段ずつ踏み下ろすたび、木材の軋む音が小さく反響する。
古い梁の隙間から、微かに埃が舞い、懐中電灯の光に細かな粒子として浮かび上がった。
玲は無言で足元を確かめながら降りていく。
背後には沙耶の足音。控えめだが、迷いのない歩幅だった。
地下に足を踏み入れると、空気は地表よりひんやりとして、どこか“閉じられた匂い”が鼻を突いた。
湿気が混じり、微かに木と土のにおいが溶け合っている。呼吸するたびに、忘れられた時間の層が肺の奥に沈み込んでくるようだった。
「……生活の痕跡じゃないわね。これは、意図的に“封じていた”場所」
沙耶が、薄闇の中でそう呟いた。
懐中電灯の光が照らす先には、壁際に積まれた木箱がいくつも並んでいた。
いずれも埃を被り、鍵のかかっていた痕跡もあるが、金具は腐食し、封印は意味をなしていない。
棚には古びたファイルや手帳の類、そして蓋の割れたガラス瓶、名前のない薬瓶が不規則に並べられていた。
玲は慎重に一本の手帳を取り上げ、表紙を指先で払った。
書かれているのは万年筆の筆跡。日付と簡素な記録が数ページ、しかし途中からは文字が掠れ、何度も上書きされた跡がある。
「……ここ、“占い師の地下”なんかじゃない。
むしろ、“占い”の名を借りて、誰かが他者の意識や行動を管理していた痕跡だ」
沙耶の眉が僅かに動いた。
「……朱音を、連れて来るべきじゃなかったかもしれないわね」
玲はその言葉に少しだけ表情を変えた。
朱音の母であり、家族を守るために常に直感と観察力を働かせる沙耶。その判断力を彼は信頼していた。
「でも、あの子の感性は……時に真実より深く届く。
ここに“何かがいた”と感じる力は、俺たちには計れない」
玲はさらに奥の棚に視線をやった。そこだけ、埃が不自然に薄い。
近づくと、棚の裏側──ちょうど梁と柱の継ぎ目に、小さな隙間があることに気づく。
「……ここ、開くな」
指先で押し込むと、“カコン”という乾いた音がして、木材がわずかに軋み、壁の一部が内側に傾いた。
隠し扉だ。
中は狭い空間だった。だが、明らかに「最近、誰かが触れた」痕跡が残っている。
靴跡、壁に擦れた痕、そして──小さな録音デバイスが床に落ちていた。
玲は膝をつき、それを拾い上げた。
旧型のICレコーダー。再生ボタンに触れると、かすかな雑音のあと、低い女の声が流れる。
≪……“彼”が来るとしたら、もう一度、あの本を読みに来るはず。
でも、それが何を意味するかは、本人すら気づいていないかもしれない。≫
玲と沙耶は、顔を見合わせた。
声に聞き覚えはなかったが、そこには確かに“玲”の動きを予測した意図が刻まれていた。
沙耶がぽつりと呟く。
「……これ、“罠”の匂いがする」
玲は再び録音デバイスを見つめる。
そこにはまだ続きがあるようだった。
【11月28日(火)/午後4時32分 占術師の館・地下室・隠し通路】
玲はICレコーダーの再生ボタンを、そっともう一度押し込んだ。
雑音が走り、続いて──不明瞭な気配を孕んだ女の声が、再び闇の中に流れ出す。
≪……彼がこの部屋に入ったとき、それは“始まり”ではなく“再訪”になる。
彼が知らないだけで、ここに来たことはある──そう、ずっと前に。≫
玲の目が鋭く細められた。
≪この場所の記録は、表には出ていない。
でも、過去の来訪者が残した“選択の痕”は、隠しきれるものじゃない。≫
そこまで再生されたとき、録音はぷつりと途切れた。
玲は静かにICレコーダーをポケットに滑り込ませると、目の前の“隠し扉”を開けたまま、内部を懐中電灯で照らした。
内側には、薄暗く細長い通路が続いている。まるで、地中に向かって何かを埋めるように掘られた抜け道のようだった。
「沙耶、もし途中で何かあったら、朱音を守ってくれ」
「……あなたも、無理はしないで」
玲はうなずくと、通路へ足を踏み入れた。
⸻
【11月28日(火)/午後4時37分 占術師の館・隠し通路・終端部】
通路は約十メートルほど。空気はさらに重く、酸素が薄いような閉塞感がある。
やがて、行き止まりのような壁に突き当たった──だが、そこにはまた別の“木板”が打ち付けられており、釘は錆び、板自体は湿気で歪んでいた。
玲は工具を使って慎重に板を外すと、中から浅い収納スペースが現れた。
そこには金属製のトランクがひとつ。暗号錠がついた古びたケースだった。
「……やっぱりな」
玲は指先で錠を撫で、数字の配置と回転抵抗を確かめる。
いくつかの試行錯誤ののち、静かに「カチ」と音を立てて錠が外れた。
中には、封筒に入った書類が三通。いずれも古いタイプライター文字で打たれた報告書のようだった。
一通目の封筒には、こう記されている:
「来訪者記録/1968年─1981年」
玲は最上の書類を取り出し、めくった。
それは、占術師が記録していた“相談者”ではない。
──定期的にこの館に訪れていた「複数の人物」について、日付と名前、職業、訪問目的、そして“最後の様子”が淡々と記されていた。
> 【1974年10月12日】
> 名前:大垣 誠二/公務員
> 内容:家族に関する不安。妻の変調。
> 備考:“視線”を訴え、翌週以降連絡途絶。最終確認済。
> 【1980年7月3日】
> 名前:桂木 陽子/中学校教諭
> 内容:生徒の“重複した記憶”についての相談
> 備考:帰路で事故死。処理済と記録。
> 【1981年6月28日】
> 名前:柚木 貴文/司法関係者
> 内容:……(閲覧不可)
> 備考:封印指定。記録移送済。
玲は無言で書類を見つめる。
──違和感。記録の文体、言い回し、そして「処理済」「封印指定」など、行政文書にも宗教記録にも見られない曖昧な言葉遣い。
「これは、“占いの相談”なんかじゃない。
何らかの意図で選ばれた人間が、ここで“篩にかけられていた”……」
彼は奥の封筒をもう一つ開きかけたとき──背後で物音がした。
足音。誰かが──この通路を辿ってこちらへ近づいている。
玲は書類をすばやく再収納し、手元の小型ライトを消した。
暗闇の中、息を殺しながら、彼は足音の正体に耳を澄ませた。
【11月28日(火)/午後4時38分 占術師の館・2階・元・占術師の部屋】
階段を軋ませながら上がった先、館の2階にある最奥の部屋──かつて“占術師”と呼ばれた人物が使っていたという私室の前で、玲は足を止めた。
重く閉ざされた扉には、無数の擦れた手垢の跡が残っている。鍵はなかった。
扉を押すと、重い空気がゆっくりと漏れ出すように、ひと筋の冷気が指先をなぞった。
「玲お兄ちゃん……この部屋、なんか、寒い」
背後から声がした。朱音が少し肩をすくめながら、廊下に立ち止まっていた。
沙耶がその肩に手を置き、何も言わずに部屋の中を見つめている。
玲はひとつ頷いて中へ入る。懐中電灯の光が、やや広めの室内を静かになぞった。
カーテンは閉じられたまま、うっすらと埃をかぶっていた。
中央には深い色の木製のテーブル。上には、紙が何枚か無造作に積まれている。傍らには小さな置き時計──止まったままだ。
部屋の一隅、壁際にあるベッドの上には、古びた毛布が折りたたまれていた。だが不自然に整っていて、まるで数日前に誰かが畳んだようにも見える。
「……人の気配があったな、最近まで」
玲が呟いた。
それは埃の薄さ、足跡のように床の一部だけがわずかに光を反射すること、そして──
「朱音、ちょっと下がってて」
玲は、部屋の北側の壁に目を向けた。
そこだけ、壁紙が一枚分だけ新しく、周囲と色合いが微妙に違っている。
彼は工具を取り出し、静かに壁紙を剥がす。
現れたのは、木板に打ち込まれた釘の列。そして、その中央に固定された小さな金属製のケース。
錆びてはいるが、強く閉じられたそれは明らかに“隠された”存在だった。
玲は釘を丁寧に外し、箱を手に取った。
軽い。だが、何かが中で動く感触がある。
沙耶がそっと近づいてきた。
「玲、それ……開けるの?」
「ああ。ここが、“最初”じゃないにしても──何かが始まった部屋なら、これが鍵になる」
カチリ、と音を立てて蓋を開ける。
中には、封筒が一通と、小さな鍵、そして──数枚のポラロイド写真が入っていた。
写真には、見覚えのない複数の人間が写っていた。
どの顔も無表情で、背景にはこの館の応接間、そして地下室へ通じる扉がはっきり写り込んでいる。
だが、最も古いと思われる一枚の裏には、薄い筆跡でこう記されていた。
>「あの人は言った。“この館は鏡。来た者の影を映すだけ”だと。」
玲は写真を静かに伏せた。
──この館が見せるものは、「占い」でも「未来」でもない。
ただ、人が“持ち込んだもの”を、淡々と記録し、残すだけの場所なのかもしれない。
「……朱音。もう少しだけ、ここにいてくれるか?」
玲の言葉に、朱音は小さく頷いた。彼女の眼差しには、何かを“感じている”ような、微かな不安と確信が揺れていた。
【11月28日(火)/午後10時00分 占術師の館・地下室】
風の音が徐々に強くなり、木造の館はかすかに軋んでいた。
夜の冷気が、床板の隙間から忍び込む。外はすでに真っ暗で、朱音は沙耶と共に1階の暖炉のそばで休んでいた。玲は一人、再び地下室に降りていた。
懐中電灯の光が、昼間には見落としていた木箱の端を照らす。
その箱には金属製の錠前が取り付けられており、手では簡単にこじ開けられない。
玲は、2階の隠し箱から見つけた小さな古鍵を手にしたまま、しばらく錠前の構造を見つめた。
「……形状、合うな」
鍵をゆっくりと差し込み、回す。軽く、しかし確かな手応えのあと、錠前は音を立てて外れた。
蓋を開けると、中には紙の束が一式、丁寧に包まれて入っていた。布に包まれた書類は湿気で多少変色していたが、丁寧に扱われていた様子がうかがえる。
玲はそれをそっと机の上に広げ、一枚一枚確認する。
一枚目は、手書きの来訪者名簿だった。筆記体のような癖のある文字で、日付、氏名、そして「相談内容」と見られる短いメモが記されている。
そこには、断片的ながらも共通点が浮かび上がっていた。
> 「身内の失踪について」
> 「父親の二重生活」
> 「姉の行動が不審」
> 「雇い主の素行を調べてほしい」
どれも、警察や役所では扱いづらい“個人の違和感”にまつわる相談ばかりだ。
「……なるほど」
玲は地図の一枚を手に取った。
それは、標高の低い周辺地域を示した古い地図だった。だが、赤ペンで手書きされた複数の印が目を引く。
印は点ではなく、小さな“円”で描かれていた。どれも、ある一定の範囲内に密集している。
その中心には──まさに、この“占術師の館”があった。
「全部、この場所に集まってる……いや、導かれてきたのか」
もう一枚の紙には、“館を訪れた者たちの行動パターン”が走り書きされていた。
誰が、どの季節に、どんな手段で訪れ、どれだけ滞在し、そして“帰ったのか/帰らなかったのか”。
何人かの名前の横には赤い斜線が引かれていた。
玲の手が止まった。
その中のひとつ──**「佐々木 圭介」**と書かれた名前の横にも、うっすらと赤線が引かれていた。
「……圭介さん? なぜここに」
その瞬間、背後で木が軋む音がした。誰かが階段を降りてきたのだ。
「玲、ここにいたのね」
沙耶だった。手には毛布と懐中電灯。彼女は玲の表情に気づき、机の上に広げられた書類へ目を落とした。
「それ……私の旦那?」
玲は頷いた。
「少なくとも一度、この館を訪れていた記録がある。理由までは書かれていないが、赤い線が引かれている」
沙耶の手がわずかに震えた。
「……圭介がこの場所を知っていたなら……なぜ私に何も言わなかったの……?」
玲は言葉を探すように黙った後、ふっと吐息をついた。
「彼が見たもの、あるいは相談したこと。それが彼自身を変えたのかもしれない」
机の上には、まだ全てを語らぬ紙束と、行き先を示さない地図が広がっている。
夜は深まりつつあったが、“館の過去”は今まさに、その沈黙を破ろうとしていた。
【11月28日(火)/午後10時12分 占術師の館・地下室】
湿った空気の中、紙の束を見下ろしていた玲と沙耶の背後から、かすかな足音が近づいてきた。
「……お母さん……玲お兄ちゃん……」
灯りが動き、朱音の小さな顔が階段の陰から現れた。手には彼女のスケッチブック。眠れずに起きてきたのだろう。
「寒くなかった? 暖炉のそばにいたほうがいい」
沙耶がそう声をかけたが、朱音は首を振った。そして、机の上に広げられた紙束にふと目を留めた。
「……あかね、知ってる名前……」
玲と沙耶が視線を向ける前に、朱音の指が一枚の紙を指していた。
“佐々木 圭介”
その名の横に、赤い斜線。紙の端には、小さく「2009年冬」とだけ書かれていた。
朱音の目が揺れた。感情の波が、胸元から頬へとじわじわと昇ってくる。
「……パパ……ここに来たの? どうして……ここに、パパの名前があるの……?」
玲も沙耶も、すぐには答えられなかった。地下の空気がひときわ冷たく感じられる。
「朱音……これはね、たぶん、昔ここに来た人たちの記録なの」
沙耶が静かに説明する。
「お父さんがこの場所に来たのは……きっと、何か悩みを抱えていたから。でもそれが、あなたを悲しませたわけじゃない。きっと守りたかったのよ」
朱音はその言葉を受け取るように、静かに目を閉じた。
「……パパ、笑ってた。あかねの絵、すごくほめてくれた」
小さな声だった。だが、その言葉には涙が含まれていなかった。
玲が視線を戻す。
「この記録には、ほかにも名前がある。……共通点が見えてきた」
彼はすでに複数の記録に目を通していた。日付、来訪者の職業、家族構成、相談内容――そして、その後の所在が不明となっている者たち。
「全員、この館から半径10キロ以内にある点に関係している」
沙耶が、机の上の古地図に視線を落とす。赤く囲まれた円が、まるで“渦”のように館を中心に描かれていた。
「この円の中のどこかに、他にも記録が残っているかもしれないのね」
玲は頷く。
「その中の一つに、圭介さんが関わった“何か”があるはずだ。まずは近い地点を調べよう。……明朝、移動する」
⸻
【11月29日(水)/午前7時30分 館・玄関前】
朝霧がまだ林道を覆っている。冬の手前の冷え込みに、朱音はマフラーを巻きながら車に乗り込んだ。沙耶が助手席に、玲は運転席に座っていた。
車内には、地図のコピーと名簿のスキャンデータ、録音機器、そして防寒用のブランケットが積まれている。
目的地は、館から南西に5.6km地点にある“無人の古民家”。記録上、2010年に訪れた女性相談者が、その後も何度か“往復していた”という記述が残されていた。
エンジンが静かに唸りを上げる。
車はゆっくりと林道を進み、朝の霧を切り裂いていった。
その先に待っているのは、“失われた記憶”ではなく、今なお続く謎と行動の軌跡だった。
【11月29日(水)/午前8時05分 南西の古民家・山中】
林道を外れ、さらに細い脇道を進んだ先に、ぽつんと一軒の古民家が現れた。
斜面に寄りかかるように建つ木造の家は、屋根の一部が朽ちかけていたが、それでも不思議と「人の気配」が抜けきっていない。
「……まだ誰かが、最近まで来てたのかも」
沙耶が呟いた通り、玄関の鍵は壊されておらず、周囲には新しめの足跡が残っていた。
玲は懐中電灯を手に、ゆっくりと戸を押し開ける。
埃と湿気の混じる空気。畳の上には、わずかに落ち葉が舞い込んでいた。
朱音は後ろからそっと覗き込むと、玄関横にある壁に目を留めた。
「……ここ、見たことある……」
彼女が開いたスケッチブックの一枚。そこに描かれていたのは、まさにこの玄関と、傾いた屋根の角度だった。
何も見ずに描いた、夢の中のような絵のはずだった。
「朱音、その絵……」
玲は目を細めて確認する。
柱のひび割れの位置、木目の流れ、そして、玄関横の板壁に刻まれた――
《目を閉じて入るな》
という、ナイフのような跡の“警告文”まで一致していた。
「この構図を知っていたのは……」
「……あたしじゃ、ないよ」
朱音が首を振る。
⸻
【午前8時22分 古民家・奥の部屋】
玲がふすまを開けると、六畳ほどの部屋に日差しが斜めに差し込んだ。
中央のちゃぶ台の上に、小さなノートが一冊、埃をかぶったまま置かれていた。
そっとページをめくると、細く整った文字が並ぶ。日記のようでもあり、記録のようでもある。
⸻
《来訪者:佐々木圭介》
「再来。彼は答えを求めている。だがその答えは、どこにも存在しない。
彼が見たのは、過去ではなく“別の問い”。」
⸻
《来訪者:水原奈緒》
「彼女は“夢”に導かれてここに来たという。
すべてが偶然とは思えない。記録の共有は避けるべきだろう」
⸻
沙耶が眉をひそめた。「水原……この名前、どこかで」
その時、朱音が部屋の隅にあった古い木箱を指差した。
「写真が……入ってる」
玲が慎重に蓋を開けると、中には数枚の白黒写真が収められていた。
埃を払いながら取り出した一枚に、玲の手が止まる。
そこには、二十代半ばの佐々木圭介が写っていた。隣に立つのは、見知らぬ中年の女性――そして背景は、この古民家の縁側だった。
「……これは、十数年前……ここで撮られた」
「この人、だれ……?」朱音が圭介の隣の人物を見つめる。
沙耶は眉間に皺を寄せて写真を覗き込んだ。
「……もしかして、占術師本人じゃない……?」
⸻
【午前8時40分】
玲はノートの最後のページに目を通していた。
⸻
「“戻るべき人間”と“留まるべき場所”は、本来混ざってはいけない。
境界が曖昧になると、誰かが“道を間違える”。
そしてその先には、必ず代償がある」
⸻
朱音のスケッチブック、圭介の記録、ノートの警告文。
それらはすべて「ここ」を起点に繋がっていた。
玲は静かに立ち上がった。
「ここから先の“点”も回る必要がある。まだ、繋がるはずだ」
「……パパが、何を探してたのか……あたしも知りたい」
朱音がそっと言った。
玲は頷くと、次の地点を示す地図の赤丸に視線を向けた。
【11月29日(水)/午前8時45分 古民家・裏手の林道沿い】
冷たい朝霧が、山肌を這うように漂っていた。
玲は裏手の細道を歩きながら、地図の印を再確認していた。
赤く丸がつけられた地点──それは、古民家の裏に隠れるように記された、小さな井戸のマークだった。
やがて枯れた竹林の先に、それはあった。
苔むした丸石の縁に囲まれた、深い闇を湛える「廃井戸」。
「……使われなくなって、何年になるんだろうな」
足元には落ち葉と泥が溜まり、井戸の縁には風化した木製の蓋が歪んで被さっていた。
玲が慎重にそれを持ち上げると、黒い穴の奥から、何かが反射した。
「……紙?」
差し込んだ懐中電灯の光の先に、濡れたビニール袋に包まれた封筒が引っかかっていた。
竹の枝を使い、慎重にそれを引き寄せる。
袋を破り、封筒の中を取り出すと、そこには見慣れた筆跡──佐々木圭介の名前があった。
⸻
「見落とすな。あの女は“記録していない来訪者”だ。ノートに名はあるが、彼女だけ記録が曖昧だ。
水原奈緒。彼女は“鍵”ではなく、“門”そのものかもしれない」
「玲へ。もしこれを読んでいるなら、おそらくもう気づいているはずだ。
すべての円は“記憶”ではなく“足跡”を描いている。
お前の足で、それを確かめろ」
⸻
「玲お兄ちゃんっ!」
後ろから声が響いた。朱音が、坂道を駆け下りてくる。後ろには沙耶の姿もある。
「見つかった?」と朱音が問う。
玲は無言で封筒を差し出した。
沙耶が手に取り、封を開けて中のメモに目を通した瞬間、はっと目を見開いた。
「……この名前……やっぱり……」
「水原奈緒、に見覚えが?」玲が問いかける。
「うん……たぶん、私がまだ朱音を産む前……一度だけ、病院で同じ待合室にいた女性の名前と……たぶん同じ。
……でも、変なの。私、その時“名前なんて見てない”のに。どうして覚えてるのか、わからない」
沙耶の声には、かすかな混乱と焦りが混じっていた。
⸻
【午前9時00分 古民家・再びノートの部屋】
玲は再びノートの最終ページに目を通す。
そして、そこに新たに気づく――最後の行。薄く鉛筆で書き加えられていた一文。
⸻
「次に来る者:レイ」
⸻
玲の手が止まった。
「……俺の名前だ。間違いなく」
「誰が……書いたの?」朱音が声を落とす。
沙耶は顔を曇らせながら、ぽつりとつぶやいた。
「このノート……きっと、“今も誰かが書き続けてる”……」
外では、冷たい風が再び山を越え、竹林をざわつかせた。
【場所】玲の調査事務所・解析ルーム(沙耶専用エリア)
【時間】11月29日(水)/午前10時10分
窓のブラインドは半分閉じられ、控えめな光がグレーの壁に淡く差し込んでいる。
沙耶はPC前のデスクに腰を下ろし、細い指でタッチパッドを操作していた。
玲は後ろで腕を組んだまま、ディスプレイに表示された波形グラフとログを見つめていた。
「“あの人の部屋”って、例の占術師の部屋よね。朱音ちゃんの証言と一致してる」
沙耶の声は、確信とわずかな不安を孕んでいた。
「録音、聴き直したの。前半は自然な環境音と会話の記録。でも……」
彼女はウィンドウを切り替え、波形データの後半部を拡大表示する。
「ここ。31分過ぎから。ごく微細なノイズが混ざってるの。通常の環境では起きない帯域……ノイズキャンセリングじゃ消えない周波数なのよ」
玲が身を乗り出した。
「つまり、何らかの“処理”が後から施されたと?」
「ええ。タイムスタンプはそのままだから、一見改ざんには見えない。でも、音の粒子──解析すると、上書き処理の痕跡が出てくるの。
いわゆる“追録”。一部だけ、記録を重ねて隠してる」
玲は無言で顎に手を当てた。
沙耶はキーボードを軽快に叩き、音声ログから“上書きのあった時間帯”を切り出した。
「……再生するわ。音量注意して」
沙耶が指を動かし、再生ボタンをクリック。
スピーカーからは、沈黙に近い音の中で──ふっと、何かが擦れるような、微かな声が混じった。
> 「……次に来るのは……あの男……。」
玲と沙耶は同時に画面を見つめたまま、動きを止めた。
「この“あの男”って、やっぱり……」
「おそらく、玲……あなたのことを指してる」
沙耶はそう言いながらも、何か釈然としない表情をしていた。
「ただ──おかしいの。私、声の波形を識別ソフトにかけたの。これ……男性の声に“似せて加工されてる”。
本来の発声者は、女性の可能性がある」
玲の目が細められる。
「誰かが、女の声を隠すために男の声に変換した──そう考えていいか?」
沙耶は静かに頷いた。
「ええ。そして“その女性”こそ……『水原奈緒』なんじゃないかって、思ってる」
部屋の空気が一瞬、冷たく沈黙に包まれた。
玲はゆっくりと視線を上げ、沙耶に言った。
「なら、この録音の改ざん元──オリジナルを探し出す必要があるな。
廃屋じゃなく、“発信元”がどこかにあるはずだ」
沙耶もまた、視線を玲に向けて答えた。
「……もう一度、地下室の“奥”を探すべきかもしれない。あの通路の先、何かがある」
【場所】占術師の館・地下室奥
【時間】11月29日(水)/午前11時15分
金属製の扉が、軋んだ音を立てて開いた。
薄暗い地下通路の奥へ、玲と沙耶は再び足を踏み入れる。懐中電灯の光が壁に映り、埃の舞う空気に輪郭がにじむ。
「……前に来たとき、この先には何もなかったように見えた。でも、録音データは明らかに“ここ”からだった」
沙耶が呟きながら、手にしたタブレット端末の波形グラフを確認する。前夜に解析した“加工音声”の波長と一致する周波数が、この空間に重なるように記録されていた。
玲は壁に手を添えながら歩みを進めた。湿った石材の感触が、指先に冷たく伝わる。
「この壁、部分的に素材が違う」
かすかに沈んだ音──叩いた指先に返ってきたのは、他の場所とは明らかに異なる“空洞”の響きだった。
玲はすぐにツールポーチから折りたたみの金属棒を取り出し、接合部をなぞる。
「継ぎ目、ここだ。隠し扉だな。仕掛けは──これか」
指で押し込んだ瞬間、小さな“カチリ”という音とともに、壁がわずかに動いた。左右に隠し戸がスライドし、奥へと続く細い空間が姿を現した。
⸻
【場所】占術師の館・地下・隠し部屋
【時間】同日/午前11時30分
中は想像以上に整然としていた。
古びた録音機器、棚には古い巻物やノート。電気は通っていないが、誰かがしばらく前までここを使っていた痕跡が残っている。
沙耶はそっと手袋をはめ、録音装置の一つを確認した。
「玲、これ……磁気テープ式の多重録音デッキ。いまどきこんなの、普通は使わないわ」
玲が無言でうなずき、棚に並ぶファイル群を確認していく。すると、ひとつのファイルの背表紙に目が留まった。
『N.MIWARA_003-V』
「“水原”……?」
その名前を目にした瞬間、沙耶の動きが止まった。
脳裏に、遠い記憶がよみがえる──
⸻
【フラッシュバック/沙耶の記憶】
【時間】およそ15年前(沙耶:学生時代)/場所:旧市街の小さな講演会場
会場の片隅に立っていた、ひとりの若い女性。
淡いグレーのワンピースに、黒髪を後ろで束ねた姿。年齢は二十代後半ほど、整った横顔に、どこか「異質な静けさ」をまとっていた。
彼女は確か、控えめな声で名前を名乗っていた。
「……水原奈緒です。情報処理の専門家ではありませんが、“音の持つ記憶”に、ずっと興味があって……」
発言の内容は、沙耶にとって断片的にしか記憶に残っていない。ただ、その声。その目。その空気感だけが、鮮烈に焼きついていた。
⸻
【現在/隠し部屋】
【時間】11月29日(水)/午前11時40分
「……私、会ったことある」
沙耶がつぶやいた。目はファイルに釘付けのまま。
「15年前。まだ学生だった頃──旧市街で開かれた音声認識の小規模な講演会。彼女、そこにいた」
玲が静かに振り返る。
「“水原奈緒”は音声技術に関わっていたのか?」
「ううん、直接の技術者じゃない。でも……声の持つ“重なり”とか“残響の記録”に興味があるって。
あのとき、彼女が口にしてた言葉──『声には思念が残る』って」
玲が頷く。
「加工音声、そして追録。それを仕掛けたのが水原奈緒である可能性は高い」
沙耶が機器のテープをそっと取り出し、携帯用の再生装置に差し込む。
「玲。再生するね」
静寂の中、機器が回り始めた──
> 「……次に来るのは、玲。彼が全てを知る鍵になる。……でも、思い出すだけじゃ、足りない。彼に“選ばせる”ことが必要なの……」
玲は眉をひそめた。
「これが……オリジナルの“未加工音声”だな」
沙耶は深く頷いた。
「私たちが調べていたのは、“加工された記録”。本当の記録は、ずっとここに隠されていた」
【場所】占術師の館・地下室・隠し部屋
【時間】11月29日(水)/午前11時50分
静かに機器の音が止まった。
再生が終わったテープの回転が止まると同時に、玲は棚の奥に並ぶ資料の背表紙を再び確かめはじめた。
その中に、“N.MIWARA_003-V”と同じ系列と思われるファイルがいくつかあった。
**『N.MIWARA_002-L』『N.MIWARA_001-K』『N.MIWARA_004-A』**──。
「順番からすれば、こっちが初期の記録……」
玲は『001-K』を手に取り、ページをめくる。そこには、ある講演イベントの記録が記されていた。
⸻
【ファイル記録抜粋】
開催日:平成20年6月9日
会場:旧・旭町会館地下ホール
登壇者:水原奈緒(自主研究・音声思念論)
主催:響野裕司/音声記録アーカイブ管理団体「SEAL」代表
テーマ:「残響と記憶の交差点」
備考:非公開セミナー/一部録音あり
⸻
「響野裕司──」
沙耶の声が低くなる。
「……覚えてる。たしかに彼、あのとき会場で司会してたわ。話すとき、ずっと声が響かないようにマイクなしで話してて、変わった人だった」
玲はすぐにスマートデバイスを取り出し、響野の名前で検索を開始。
「……あった。今は“音響民俗資料研究所”って名称に変わって、郊外の古い民家を拠点に活動してるらしい。去年まで論文も出してるが、最近は動きが止まってるな」
沙耶が顔を上げる。
「それ、地図で見て」
玲が調べた住所を示すと、沙耶の目がわずかに見開かれた。
「そこ──朱音ちゃんのスケッチに出てきた構図と一致する場所だわ」
⸻
【場所】玲のタブレット端末・画像閲覧画面
そこに表示されているのは、朱音が数日前に描いた絵。
古びた木造建築の外観と、左手奥にぽつんと立つ灯籠のような石造物、そして“地面に向かって開いた格子戸のような描写”。
「朱音ちゃん、この絵……何か見て描いたの?」
沙耶の問いに、朱音(少し前の回想で)が言っていた言葉が脳裏によみがえる。
>「夢の中で……でも、それ、パパが昔どこかで座ってた場所だった気がする」
玲は確信を持って言った。
「朱音が“記憶”ではなく、“映像”として持っていたこの構図。おそらく圭介もそこを訪れたことがある。
そして──水原奈緒とも、何らかの接点がある」
⸻
【時間】11月29日(水)/午後0時10分
玲は小型プリンターで朱音のスケッチを拡大出力し、それを地図上の該当地点と照合する。
「この構図、“響野裕司”の研究所として登録されていた古民家の外観とほぼ一致する」
沙耶が息を呑む。
「じゃあ、あそこにもう一つの隠し部屋が……?」
「あるとすれば、“本当の録音主”が残した音、そして――圭介がそこに残した、別の真実」
【場所】玲の調査事務所
【時間】11月29日(水)/午後2時45分
冬の日差しが斜めに差し込む中、玲はデスクに広げた地図と朱音のスケッチをじっと見つめていた。
地図上、赤く丸をつけた地点。それが、かつて「響野裕司」が拠点としていた古民家。現在は登録抹消された空き家となっている。
「決まりだな。俺たちで行くしかない」
沙耶は、ひとつうなずいてバッグを手に取る。
「……これ以上、誰かに後を追わせるわけにはいかないものね」
ふたりは準備を整え、車で現地へ向かうことを決める。
⸻
【場所】佐々木家(朱音の部屋)
【時間】同日/午後3時00分
朱音はうたた寝をしていた。
その表情は穏やかだったが──まぶたの裏に映るのは、どこか懐かしく、しかし切迫した光景だった。
⸻
【朱音の夢・イメージ描写】
──夢の中、古びた部屋。
煤けた壁。窓の向こうに薄く光る木漏れ日。机の上には、分厚いノートと封筒。
そこにいたのは、白いセーターを着た若い女性。長い黒髪を後ろに束ねている。
彼女は、向かいに座る誰かにノートを手渡していた。
「……次は、あなた。これを、“あの人”に……」
声ははっきりとは聞こえない。けれど、朱音にはその人の口元が「レイ」と呼んでいるように見えた。
朱音は目を覚まし、何かを思い出すようにスケッチブックを手に取る。
ページの一枚をめくると、先ほど夢に出てきた“封筒とノートが置かれた机”がすでに描かれていた。
⸻
【場所】郊外の古民家(旧・響野裕司の拠点)
【時間】同日/午後4時30分
陽が傾きかける中、玲と沙耶の車は山間の細道に入る。
周囲に人影はなく、わずかに風の音が木々を揺らしているだけだ。
古民家の玄関は朽ちかけていたが、無理に閉ざされているわけではなかった。
沙耶が懐中電灯を手に中に入ると、すぐに壁際の棚に目を留めた。
「……これ、録音機材の一部。占術師の館にあったものと型番が同じ」
玲が奥の座敷を照らすと、そこにぽつんと置かれた木箱が目に入る。
その中には──古いリール型の音声装置。再生機と、一本のテープ。
⸻
【場所】古民家・奥の座敷
【時間】同日/午後4時55分
機器を慎重に接続し、再生スイッチを押すと、最初はノイズだけが流れた。
やがて、くぐもった男性の声が聞こえてくる。
⸻
【音声ログ】
「……玲。これを聞いているということは、お前が“例の記録”にたどり着いた証拠だな」
「俺は……もう戻れないところにいるかもしれない。だが、あの家で起きたこと、占術師とのやりとり、水原奈緒の件──すべてが無関係ではない」
「朱音を……頼む。お前だけが、今のあの子に“違う未来”を示せるはずだ」
⸻
音声はそこで途切れた。
沙耶が小さく息を飲み、玲は目を伏せたまましばらく沈黙した。
「……圭介さん、やっぱりここまで来てたんだ」
玲は立ち上がり、機材の裏側を調べた。
そして、ひとつの引き出しの中から、未開封の封筒を発見する。
封筒の宛名には、筆記体で小さく──**「To A」**と記されていた。
玲は、それを朱音に届けるべきか、しばし考えた。
【場所】郊外の古民家・奥の座敷
【時間】11月29日(水)/午後5時10分
日が沈みかけ、室内には懐中電灯の明かりだけが頼りだった。玲は膝をつき、木箱の引き出しから取り出した封筒を見つめていた。
封筒には、小さく「To A」──朱音宛であることを示すイニシャル。
慎重に開封すると、中には丁寧に折りたたまれた便箋と、小さな銀色の鍵が一つ。
鍵は手のひらに収まるほどのサイズで、柄の部分に「4-東」と刻まれていた。
沙耶が横から覗き込む。「……それって、占術師の館の東側の部屋?」
玲は軽くうなずき、便箋の文字に目を落とした。
⸻
【便箋・圭介から朱音へ】
朱音へ
もしこの手紙を君が読んでいるのなら、きっと僕はもうそばにはいない。
だけど、心配しないで。これは別れの手紙じゃない。
君はいつも、まっすぐに世界を見ている。
正しいものと、間違ったもの。
でも世界には、そのどちらでもないものがある──「わからないまま、向き合うしかないこと」があるんだ。
怖くなってもいい。疑ってもいい。
それでも、君が誰かのために「知ろうとする」勇気を持てたとき、きっと道は見えてくる。
これは、その入口にすぎない。
どうか、自分の目で確かめて。
⸻
読み終えた玲は、そっと便箋を折りたたむ。沙耶は黙ってその様子を見守っていた。
「……視点の転換、か」と玲がぽつりとつぶやく。
その言葉をきっかけに、沙耶の意識がふと、過去の光景を引き寄せた。
⸻
【沙耶のフラッシュバック・約7年前】
場所はとある講演会の控室。
沙耶は、白いブラウスを着た一人の女性に向き合っていた。細身で知的な印象──水原奈緒だった。
水原はテーブルに置かれた紙を沙耶に渡しながら、こう言った。
「真実っていうのは、時に“立場の数”だけ存在するの。あなたは、どの視点に立つ?」
──沙耶は返答できなかった。ただ、静かにその問いが胸に残っていた。
⸻
【場所】古民家・玄関口
【時間】午後5時30分
外はすでに薄暗くなっていた。
玲は小さな鍵をポケットに収めながら、車へ戻る準備を始める。
「占術師の館、東側の部屋……あのときは塞がれていたな」
沙耶が頷く。「翌朝、戻るしかないね。朱音にも……これは、渡してあげないと」
玲は車のドアを開けた。
風が木々を揺らし、誰かが囁くような音が、夜の静寂に紛れて聞こえた。
【場所】占術師の館・正面玄関前
【時間】11月30日(木)/13:45
──カラン、と乾いた鈴の音が鳴った。
風に乗って届いたその音に、館の奥で作業をしていた玲は顔を上げた。
正面門の向こう、砂利を踏む足音が一つ。誰かが来た。
玄関の引き戸を開け、玲が外へ出ると、門の前に年配の男性が静かに立っていた。
ロングコートの襟を立て、白髪まじりの髪はきれいに整えられている。
その顔には、どこか“この場所”に見覚えのある者にしか持ち得ない、複雑な表情が浮かんでいた。
「……ここは、もう……閉じてしまったんですか?」
低く、穏やかな声だった。玲が軽く頷くと、男はふと目を伏せ、玄関の上の庇を見上げた。
「……ずいぶん昔の話になりますが、私は、あの方──先生に“助言”をいただいた者です。
このあたりに寄ることがあって、どうしても……一度、挨拶をと思いましてね」
沙耶が背後から出てきて、玲と目を交わす。玲は静かに頷いた。
「失礼ですが、お名前を伺っても?」
男は一拍置き、どこか懐かしむような声音で名乗った。
「響野裕司と申します」
その名前に、玲と沙耶はわずかに反応する。
──名簿に記されていた、あの来訪者のひとり。
「あなたのことは、調べさせていただいていました」と玲が率直に言うと、響野は一瞬だけ驚いたように眉を上げたが、すぐに苦笑を浮かべた。
「……やはり、あの方の関係者の方ですね。思っていた通りです」
沈黙の中、吹き抜ける風がわずかに館の木戸を鳴らした。
玲は一歩下がって扉を開き、無言のまま来訪者を迎え入れる。
【場所】占術師の館・応接間
【時間】11月30日(木)/13:50〜14:40
応接間の古い椅子に腰を下ろした響野裕司は、しばし沈黙のあと、小さな声で語り始めた。
「……あれは、二十年ほど前のことになります。私がまだ仕事をしていた頃、ある事件で精神的に追い詰められていて……。
紹介されたのが、ここだった。“水原奈緒”という女性も……たしか、同じ時期にこの館を訪れていました」
玲と沙耶が目を合わせる。水原奈緒──今、謎の中心にいる名のひとつ。
響野は、懐から丁寧に包んだ布を取り出した。中には、革張りの古びた手帳と、一枚の色褪せた葉書。
「……これは、その占術師の方から受け取ったものです。正直、意味はよくわかりませんでしたが、なぜか捨てられずにいました」
玲が手帳を開く。中には短い言葉と記号のような線が書かれている。
> 『境界を越える者は、視点を捨てよ』
> 『黄昏の四角を三つ重ねよ』
> 『NA-W3:冷静に、ただし遅れるな』
まるで詩文のようでありながら、どこか暗号にも思える記述だった。
「この『NA-W3』……“奈緒・水原・第三訪問者”を意味している可能性があります」玲が低く呟く。
「その葉書も見て」沙耶が促す。
葉書には、季節外れの“桜”の絵と共に、手書きでこう記されていた。
> 『4月4日 午後4時、西の窓を見て』
不思議な符号、そして“時間”と“方向”を示す指示。玲はすぐに地図と照合を始める。
その最中──
「……“越境の視点は、最も曖昧な場所に宿る”。あの方は、そんなこともおっしゃっていました」
響野がふと口にした言葉に、沙耶が突然動きを止めた。
「……その言葉……」
沙耶の瞳がわずかに揺れる。視界の奥で、記憶の断片が淡く色づいていく。
⸻
【沙耶のフラッシュバック】
──静かな図書室のような部屋。
──窓の外は夕焼け、誰かが白い手帳を閉じて言う。
> 「越境の視点は、最も曖昧な場所に宿る。
曖昧であることが、“守られている”ということなのよ」
──その人物は、誰だった? 沙耶の視線の先に、長い髪の女性──水原奈緒のような面影が重なる。
⸻
「……思い出した。私……あの人と、会ってる」
沙耶はゆっくりと語り出す。「占術師ではなく、水原さんと──ここで話をしたことがある」
玲が穏やかに頷き、響野も静かに目を閉じる。
「私が覚えているのは、ただ一つ。“この場所では、残すことと、持ち帰ることを選べ”──そう言われたんです」
「……“持ち帰る”?」と玲。
「来訪者は、何かを持ち帰っていた。意識か、記録か、形のない何かを。それが……後に繋がっているのかもしれません」
玲は手帳と葉書を再び見つめる。そこに書かれた言葉や記号は、個々に異なるはずの記憶が、“共通する視点”に導かれていたことを示しているようだった。
【場所】占術師の館・地下通路奥
【時間】12月1日(金)/14:50
冷たい石の壁に手を這わせた玲の指が、わずかな“違和感”を捉えた。
他の壁面とは異なる、ほんのわずかに滑らかな感触──塗装の違いか、あるいは補修の跡。
「……ここだな」
玲は腰のポーチから折りたたみ式のツールを取り出し、慎重に壁の縁を押し広げる。
押し返すような微かな抵抗ののち、内部から「カリ……」と鈍い音が鳴り、壁の一部がゆっくりと内側へと傾いた。
現れたのは、奥へと続く狭い石造りの階段。冷気がふっと顔を撫でる。
「この奥に……“視点の保管庫”があるのかもしれない」
沙耶が小さく呟く。その声は、重ねられた記録たちの気配に反応しているようだった。
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【地下通路・隠された部屋】
足元に注意しながら、二人はゆっくりと階段を下りていく。
最下段に着いたとき、懐中電灯の光が古びた扉を照らし出した。
扉は鉄製だった。鍵はすでに壊されているようで、軽く押すと軋んだ音を立てて開く。
その部屋は、驚くほど整然としていた。
本棚のようなラックが並び、壁際には記録媒体の保管棚。中央のガラスケースの中には、封筒とファイル、そして──見覚えのある“来訪者名簿”の旧版があった。
「……これ……」沙耶がファイルを開く。
中には、かつての来訪者たちのメモ、日記、そして“視点の転写記録”と題された不思議な文書が保存されていた。
> 【転写記録・第3対象】
> 被来訪者:水原奈緒
> 転写対象:A室・西壁面・対面位置
> 経過観察:4日
> 保持意識の変容兆候あり。終了後、転写の一部が残留した可能性
「……“転写”って……記憶か意識か、あるいはその“視点”そのものをどこかに預けていたってこと?」
玲は壁際のパネルに目を留める。そこには古い音声再生装置があった。
再生ボタンを押すと、かすれた女性の声が室内に広がった。
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【音声記録】
> 『……視点は記憶よりも繊細で、言葉よりも深く残る。
> 私たちはそれを、誰かに“委ねる”ことで、かろうじて生きていた。
> どうか、この場所を“見たまま”にしないで──』
沈黙。
「……水原……」沙耶が小さく口にした。
【場所】占術師の館・地下通路奥の部屋
【時間】12月1日 14:55
ガラスケースの中から取り出した「To A.」の封筒を、玲がそっと開封した。
中に入っていたのは、朱音宛ての手紙。そして、もうひとつ──朱音がまだ見せたことのない“幼少期の写真”が一枚、挟まれていた。
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■「To A.」──圭介の手紙(抜粋)
朱音へ
お前がもしこの封筒を開いたなら、それはきっと、視点がひとつでは足りなくなった時だと思う。
世界は一面ではない。けれど、真実は時として“見てしまった者”にしか残らない。
だから、お前の見たものを、信じていい。
……お前の母さんが、かつて誰かの“視点”を受け止めたように。
そしてもうひとつ。
最初の“視点の来訪者”は、私たちの記憶のもっと奥にいる。
彼の名は《安達晴臣》。
彼の残したものを見つけたとき、お前はようやく“記録の外”に出られる。
⸻
朱音は黙って写真を見つめていた。
それはまだ幼かった自分と、知らない中年男性──安達晴臣──が映っている一枚だった。
「これ……本当に私?」
沙耶が息をのむ。
「……安達……この名前、講演会の主催者……水原が言ってた……“彼が最初に視点を保管した”って」
玲が壁の保管棚を調べていくと、「01-A_H.ADATSU」というラベルのついた古いファイルが見つかった。
ファイルには、複数の地図、手記、そして次の言葉が添えられていた。
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■ファイル:01-A_H.ADATSU(要約)
【対象】安達晴臣
【転写記録】最初の視点保管記録。
・記録場所:旧・伊郷診療所(現在は廃墟)
・転写日:2005年12月
・視点の変容確認:あり
・副次的影響:被影響者(不明)による記憶混濁
・推奨:隔離および封印
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沙耶:「伊郷診療所……このマーク、朱音ちゃんのスケッチにあった。あの“白い階段と赤い扉”……まさか……」
玲:「次はそこか。最初の視点の“原点”──行くしかないな」
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【次の目的地:旧・伊郷診療所】
•地図に記された場所は、占術師の館から北西へ車で1時間半ほど。
•廃墟となって久しいが、過去に複数の来訪者が記録された“視点残響地点”。
•建物内には保管庫、処置室、そしてかつて視点が“写された”とされる部屋が残っている可能性。
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【予告的描写】
そのとき、朱音のスケッチブックの最終ページがひとりでにめくれた。
そこに描かれていたのは、夕暮れの廃診療所と、奥へと続く“赤い階段”。
階段の下には、何かを待つように立つ“影のような人物”──その顔は、まだ描かれていなかった。
沙耶の胸がざわめく。
それは、自分がかつて“水原奈緒に託された何か”と、深くつながっている気がしてならなかった。
【場所】旧・伊郷診療所
【時間】12月1日 15:00〜15:45
冷たい霧が立ち込める山間の道を、車のエンジン音が切り裂いた。朱音がスケッチに描いた赤い階段──その現物が、朽ちかけた建物の裏手に確かに存在していた。
玲は車を降り、手にしたスケッチと現実の風景を重ねるように見つめた。
「……一致してる。朱音の記憶は、やっぱり“ここ”を見てた」
「でも、こんな場所……どうやって記憶したの?」朱音は不思議そうに首をかしげる。「私は来た覚えないよ?」
沙耶が黙っていた。診療所の外観を目にした瞬間から、彼女の指先は震えていた。何かが、奥底で軋んでいる。忘れたはずの何かが、扉を叩いていた。
⸻
建物は半ば崩壊していたが、内部の処置室の裏手──ロッカーをずらすと、その奥に隠された階段が現れた。湿った地下へと続く、かつて医療とは異なる何かが行われていた空間。
地下の一角で、玲が壁の奥を調べていた。黒ずんだタイルの裏に、鉄の扉が隠れていたのだ。工具でこじ開けると、そこは密閉された部屋だった。
「……視点転写室。沙耶、見てくれ。記録装置の残骸がある」
玲が示した装置には、かすれたラベルが貼られていた。
【H.ADATSU:Log_01】
沙耶の身体が、一瞬強張る。
「これ……知ってる。ここに、私……」
言葉にならない。だが、断片が戻ってきていた。
⸻
〈沙耶:記憶解放〉
部屋の空気が変わった。
不意に──視界が暗転する。
過去の記憶が、音もなく広がった。
……
薄明かりの密室。
椅子に座る男。安達晴臣──少しやつれた目元に、迷いはなかった。
「この視点は、君に渡してはならない。だが──誰かが持たなければならないんだ」
彼の正面には、水原奈緒が立っている。若く、そして決意に満ちた瞳。
そのすぐ傍らには、もう一人の少女。
それが──幼い沙耶だった。
「こわい……でも、奈緒さんが受け取るなら……」
「平気。あなたには、まだ早い。私は……この人の痛みを、全部受け止めるから」
水原は微笑みながら、安達の“視点”を受け取る装置に手を伸ばした。
沙耶は、その光景を見ていた。見届けていた。
そして、その後──水原によって、“すべて”を封じられた。
……
戻ってきた。
⸻
沙耶は、震える手で額を押さえていた。
「思い出した……私、彼らの“視点の受け渡し”を見てた。記録なんかじゃない、これは……魂に残る“視点”だった」
朱音が、玲の後ろから沙耶を見上げた。
「じゃあ、おばちゃんも……その“視点”をもらってたの?」
沙耶は黙って首を振った。
「私は、奈緒に“忘れさせてもらった”。……でも、忘れたままじゃ意味がなかった。だから、こうして……思い出すことになったんだと思う」
⸻
玲は記録装置を見つめた。
その横に落ちていた紙片には、震えるような筆跡でこう記されていた。
【最終視点転写対象:K.Sasaki】
「圭介さん……?」
その名前に、全員の視線が集中する。
沙耶が、ぽつりと呟いた。
「……この“視点”。最初の受け渡しは終わった。あとは──最後の継承が、どこで、誰に行われたか」
玲は、静かに頷いた。
「終わりが近い。だがそれは、すべてを知った“誰か”が、その視点を受け入れる覚悟を持たなければならないということだ」
診療所の奥に灯りはない。
だが、誰かの記憶と、誰かの視点が、確かにそこに残されていた。
──次に進むべきは、“視点の残響”が今もどこかで響く、最後の記録点。
物語は、終盤へと向かっていた。
【場所】玲探偵事務所・解析室
【時間】12月2日 09:15
午前の陽光が、半ば曇った窓を通して、うっすらと室内に差し込んでいた。
玲探偵事務所の奥にある解析室。PCモニターの青白い光と、小型スピーカーから断続的に流れる音声ファイルの波形が、静かに重なる。
沙耶はヘッドホンを片耳に掛け、もう片方の手で朱音のスケッチブックをめくっていた。
机の上には、何枚もの絵が広げられている。夜明け前の山道。無人の古民家。誰かの背中。──その一枚一枚が、記憶でも幻でもなく、「何者かの視点」を描き出していた。
「……やっぱり、ここ」
沙耶は音声波形の一部を拡大し、マウスを止めた。
画面の中央、ほんの一瞬だけ波形が不自然に膨らんでいた。人間の耳にはほとんど判別できない“揺らぎ”。
「ここだけ、ノイズが変質してる。通常の上書きじゃなくて、“挿入”されてる形跡がある……誰かが、あとから“言葉を変えた”のかも」
同時に目を向けた朱音のスケッチには、古民家の窓辺で何かを囁きかける影のような人物が描かれていた。
表情は描かれていない。ただ、背中だけが“語っている”ようだった。
沙耶はつぶやく。
「この構図……この“静けさ”……まるで、音が途切れる直前の瞬間みたい」
机の隅に置かれたICレコーダーが、一瞬だけ光を放った。再生中の音声ファイルが、朱音のスケッチに描かれた風景と、偶然にも一致する“言葉”を吐いたのだ。
>「……この視点は、誰かに受け継がれる」
思わず、沙耶の手が止まった。
──その台詞、音声の元データには入っていなかったはずだ。
沙耶は再生ログを巻き戻し、波形の挙動を確認する。
すると、ある一瞬を境に、波形が「二重構造」になっていることに気づいた。
「……誰かが“視点”を音声に埋め込んだ……?」
「それとも、“視点そのもの”が、音として記録されるようになったのか」
朱音の描いた“影”の人物。
スケッチの端に、鉛筆でうっすらと書かれていた言葉がある。
>「見ているのは、わたしじゃない。わたしの“中にいる誰か”」
沙耶は静かに目を伏せた。
音と絵──
それらが一致するという現象は、単なる偶然ではない。
むしろ、朱音が無意識のうちに“音から視点を拾い”、それを絵に変換していた可能性すらあった。
「……視点の媒体が、文字でも記憶でもなく、“感覚”に宿るとしたら……」
沙耶はスピーカーの音量を絞り、椅子にもたれた。
「朱音。あなた、すでに“継承者”なのかもしれないわね……気づかないうちに、ね」
【場所】玲探偵事務所・応接室
【時間】12月2日 午前10:30
窓の外は、冬の光が滲んでいた。
沙耶は静かに封筒を開いた。
それは圭介──朱音の父が、過去に託した最後の手紙だった。
中には、一枚の便箋と、小さな金属片。
便箋には、整った筆致でこう書かれていた。
⸻
朱音へ
もしこの手紙を読む日が来たなら、それはおそらく──
すべての視点が揃いはじめた証だろう。
おまえが覚えていない“あの日のこと”。
実は、パパも同じように“視点”を渡された人間だった。
ただ、私はそれを封じることを選んだ。
おまえに継がせたいわけじゃない。
けれど、“見る力”を持つ人間が、何も知らずに巻き込まれていくことのほうが、もっと怖かった。
だから最後にひとつだけ。
視点というのは、記憶じゃない。
それは、「誰かが何を信じたか」を、別の誰かが“理解しようとする意思”なんだ。
視点の継承は、血ではなく、共鳴で起こる。
朱音。
もしおまえが誰かの“心の奥”を描くことができたなら、
きっと、それが“継承”だ。
パパより
⸻
朱音は、手紙を握りしめたまま、しばらく声を発しなかった。
「……描いてたの、わたし」
彼女のスケッチブックには、まだ未完成の絵があった。
それは、朱音自身も意識せず描いた、水原奈緒が安達晴臣の肩に手を置く瞬間。
誰も教えていない構図。
けれど、それは確かに“誰かの記憶”だった。
玲が呟くように言った。
「つまり──朱音の描写は、“視点の残響”だったってことだ」
⸻
【場面転換】同日 11:20
【場所】占術師の館・正面玄関
チャイムが鳴った。
沙耶が応対に出ると、そこには予期せぬ人物が立っていた。
男は深いグレーのコートを着込み、手に革張りの手帳を持っていた。
「初めまして……いえ、正確には、久しぶりです。柊 啓一と申します」
玲が一歩前へ出た。
「……コウキの父親、ですね」
啓一はゆっくり頷いた。
「水原奈緒──彼女は、私の研究に関わっていたことがあります。……そして、“視点継承”に関する、とある“実験記録”を残しています」
彼が差し出した手帳には、見慣れた文字が記されていた。
【視点実験報告・V/Phase4/対象:S.Saya → A.Saki(失敗)→ A.Akane?】
朱音の名が、そこに記されていた。
玲は唇を引き結んだ。
「まさか……朱音は、当初から“視点保持者候補”としてリストに入っていた?」
啓一は沈痛な面持ちで答えた。
「当時、私は“視点は遺伝する”と考えていた。でも──違った。“視点は、選ばれる側の“共鳴力”で決まる”。……水原は、それを証明しようとしていた」
沙耶がふとつぶやく。
「……だから朱音は、“視点を描く子”になったんだ」
【場面転換】同日 13:45
【場所】朱音の部屋
朱音は、静かにキャンバスに筆を置いた。
そこに描かれていたのは──父・圭介が見ていた最後の風景。
誰にも見せていないはずの視点。
でも、彼女には“それ”が見えていた。
「……朱音」
沙耶の声がした。
「あなたは選ばれたんじゃない。選んだのよ、描くことを」
朱音は、うっすらと微笑みながら頷いた。
⸻
【最終章へと続く】
その夜。
玲の元に、一通のメールが届いた。
差出人:Y.Naruse
件名:「もうひとつの視点記録点、発見」
本文:
“K部門の古い保管庫の裏手に、視点データの原点があった。
次に向かうべきは、**「光の射さない保管区画」**──
あの場所で、すべての視点が一点に交わる。”
玲はモニターを見つめながら、小さく呟いた。
「……すべての始まりは、そこにある」
【場所】占術師の館・前庭
【時間】12月2日 15:20
午後の柔らかな陽射しが、落ち葉を踏みしめる足音とともに揺れていた。
枯れ枝が風に揺れ、影は長く伸びている。静けさの中に、わずかに鳥のさえずりが混ざっていた。
玲は背筋を伸ばし、ゆっくりと占術師の館の重厚な扉を閉めた。
調査の疲れはあったが、その目には確かな手がかりを掴んだ自信が宿っている。
ふと、背後から小さな駆け足の音。
振り返ると、朱音が息を切らせて走ってきていた。
「玲お兄ちゃん!」
朱音の声は、冬の冷たさを少しも感じさせない温かさで満ちていた。
彼女の瞳には、不安と期待が入り混じった光が宿っている。
玲はほほえみながら立ち止まり、朱音を迎え入れた。
「どうした、朱音? そんなに慌てて」
朱音は肩で息をしながらも、手に握りしめていたスケッチブックを差し出した。
「これ……見て。さっき、調査の途中で気づいたの。館の地下で見つけたあの古いメモと、ここに描いた絵が繋がってる気がするの」
玲はスケッチブックのページをめくり、朱音の描いた風景や、細かな線の意味をじっと見つめた。
「お前の直感は、いつも鋭い。俺も見落としていた部分があるかもしれないな」
朱音は少し安心したように微笑み、玲の腕を軽く掴んだ。
「お兄ちゃん、一緒にもう一度調べに行こう。今度はもっと遠くまで。まだ、誰も知らない秘密がきっとあるんだよ」
玲は朱音の言葉を胸に深く刻み込み、静かにうなずいた。
「ああ、朱音。俺たちの旅は、まだ終わっていない。」
午後の風が二人の周囲を撫で、落ち葉がひらりと舞い落ちた。
【場所】東京郊外・ロッジ兼探偵事務所/朱音の部屋
【時間】12月4日 16:45
夕陽が障子の細い隙間から静かに差し込み、部屋の空気を金色に染めていた。
朱音は窓辺の机にじっと座り、分厚い日記帳のページをゆっくりとめくっている。
その日記帳は、彼女が最近手に入れた古い記録。
頁の文字はかすれていたが、一字一句に意味が宿っているようだった。
朱音の瞳は深く集中し、時折指先で文章をなぞりながら、何かを探し続けている。
部屋の静けさは、彼女の思考の波紋だけが静かに広がっていた。
ふと、朱音は日記の一節で手を止めた。
そこには、見覚えのある名前——「圭介」が書かれていた。
その瞬間、朱音の胸に込み上げるものがあった。
父の名前に、過去と今が繋がる感触。
「お父さん……」
声は小さく、けれど確かな響きで、部屋の片隅へと消えた。
彼女は日記をそっと閉じ、窓の外へ視線を移した。
夕陽は沈みかけていて、空は橙色から紺色へとゆっくりと変わり始めていた。
朱音は決意を胸に、そっと拳を握った。
「真実に、もっと近づきたい——」
その部屋の中で、小さな決意の灯が静かに燃え始めていた。
【場所】不明(記録されていない滞在先/圭介視点)
【時間】12月4日 17:00
窓の外には、沈みかけた陽が細い橙の帯となって空を染めていた。
古びた木造の一室。ほこりをかぶった時計の針が、小さく音を立てる。
圭介は、机の前で手紙を広げていた。
その筆跡は彼のものではない。けれど、自分に向けられたものだと、すぐにわかった。
──あの子は、もう気づいたか。
朱音。
あの小さかった手。真っ直ぐにこちらを見つめてくる瞳。
“あの館”で初めて声を上げたときの、温かくて、どこか痛い記憶。
「受け継ぐ者」として名が挙がっていたのは、偶然ではない。
彼女は、知らずのうちにもう扉を開いてしまった。
圭介は、机の引き出しから一枚の写真を取り出す。
朱音が幼いころに描いたスケッチの写しだ。
その構図は、占術師の部屋の風景と奇妙なほど一致していた。
「視点は、時に無意識の記録になる……か」
誰かの言葉が、頭の片隅でこだました。
水原奈緒、安達晴臣、そして──あの診療所。
過去を辿るたびに、自身の中の“記憶の断片”が形を持ち始めているのを感じていた。
彼の過去は、朱音にとっての現在であり、沙耶にとっての未解決の痛みでもある。
それを、彼は知っている。知ったうえで、背負っている。
そしてもう一枚の封筒。
表に書かれた文字は、たったひとこと。
「To A.」
朱音に託すべきもの。
それは真実でも、秘密でもない。
──視点の継承。世界の見方の変化。それを導くための“最後の手紙”。
圭介は立ち上がり、ゆっくりと写真を封筒にしまった。
これから朱音が向き合うことになる真実を、彼は止めることも否定することもしない。
ただ、彼女の歩みが“彼女自身の選択”であるようにと願っている。
それだけを、静かに。
【場所】不明(圭介の滞在先)
【時間】12月4日 17:00〜17:20
圭介はゆっくりと椅子を引き、机の上に一冊の革張りのノートを置いた。
表紙には何も書かれていない。ただ、重みだけが存在を主張している。
──これは、他の誰にも渡らない。けれど、いずれ読まれるときが来る。
彼はペンを取り、ページを開く。
インクの匂いが、古い木の香りと混じり、記憶の底を掘り返す。
一行目に書いたのは、日付だった。
2025年12月4日 朱音へ
その下に、静かに綴り始める。
⸻
「君が“扉の先”に踏み出した時、僕の時間はもう終わっていたのかもしれない。
だがそれでいい。僕が歩いた過去は、君に渡すための記録だった。
朱音、君はまだ知らない。
“視点を継ぐ”ということは、“記憶を背負う”ということと同義ではない。
むしろ、真逆に近い。
……君がこれから見つける『何か』は、きっと君自身のかたちを変えるだろう。
それを恐れずにいてくれ。
君の絵が、まだ僕に問いかけてくるように感じている。」
⸻
そこまで書き終えると、圭介はしばらく手を止めた。
窓の外では、陽がほとんど沈みかけていた。薄紅色の残光が、部屋の壁をわずかに照らしている。
時計の針が17:15を指していた。
彼は立ち上がり、ノートを厚手の封筒に収めた。封筒には、またしてもあの文字。
「To A.」
今度の封筒には、もうひとつ――小さな銀色の鍵も入っていた。
それは、朱音がまだ訪れていない“第三の場所”へと繋がる鍵。
場所の名前は、「小沢坂の分館」。過去の来訪者のひとり、水原奈緒が最後に記録を残したとされる、古い私設資料館跡。
⸻
封筒を封じると、圭介はゆっくりと電話機の番号を押した。
長く使われていなかった回線が、微かにノイズを含みながら繋がる。
呼び出し音が三度鳴ったあと、落ち着いた声が応じた。
「……成瀬か。圭介だ。例の受け渡し、予定通り頼む。ロッジには今夜は戻らない。
例の鍵は“彼女”に託してくれ。宛名は、“沙耶へ”だ。」
相手は短く了承の意を告げ、電話は切れた。
圭介はしばらく受話器を見つめたあと、静かに椅子へ腰を下ろした。
外はすっかり夜の帳が降り、次の足音を待っている。
【場所】ロッジ兼探偵事務所・玄関ホール
【時間】12月4日 17:35
階段を降りてくる足音に、沙耶はそっと目を閉じた。
封筒を握る手が微かに震えているのを、自分でも感じていた。
「……朱音」
その声に、朱音が顔を上げた。
どこか不安げに、それでいてまっすぐに母を見つめてくる瞳。沙耶は胸が痛むのを抑え、微笑みを浮かべた。
「あなたに、渡すものがあるの」
封筒には、夫・圭介の筆跡で記された一言があった。
「To A.」
沙耶は一瞬、娘の顔を見た。
幼い頃、まだ「ママ、見て」と絵を抱えて走ってきた朱音の姿が、ふと重なる。
「お父さんが……これを、あなたに託したの。
……きっと、今のあなたなら、読めると思うわ」
朱音は、ゆっくりとうなずいて封を開けた。
中には、短い手紙と――冷たい金属の感触。小さな銀色の鍵。
⸻
小沢坂の分館
見たものを、信じていい。
それが“受け継ぐ”ということだ。
──圭介より
⸻
朱音の手がわずかに震えたのを、沙耶は見逃さなかった。
娘の肩にそっと手を置き、囁くように言った。
「行きましょう。……あなたの歩むべき場所へ、私が一緒に行く」
「……ママも?」
「もちろんよ。朱音は、私の大事な子なんだから」
朱音の目に、一瞬涙がにじんだ。
「ありがとう、ママ……」
⸻
【時間】同日18:00
ロッジの扉が開き、冬の夕暮れの風が二人を包む。
沙耶は静かに車のドアを開け、朱音の手を握ったまま言った。
「あなたのお父さんが残したもの。今度は、私たちが向き合う番ね」
──そして、向かう先は「小沢坂の分館」。
そこには、視点の記録者が遺した真実と、継承されるべき未来が待っていた。
【場所】小沢坂の分館・門前〜内部
【時間】12月4日 18:10〜
山裾にぽつんと建つその屋敷は、夕闇の中に沈みかけていた。
「小沢坂の分館」と呼ばれていた建物。かつては誰かの別宅として使われていたようだが、今では訪れる人もない。
玄関には少し苔の生えた石段。蔦が絡まる格子の窓。外観だけでも、長い時間が止まっていたことを物語っていた。
朱音は鍵を取り出した。
圭介から、母・沙耶を通して託された小さな銀の鍵。それを玄関の古びた錠に差し込む。
カチリと、小さくも確かな音がした。
「……開いた」
朱音が扉を押し開けると、乾いた空気が外に流れ出た。
沙耶はそっと後ろから娘の背に手を添える。
「何か感じる?」
朱音は、少しだけ目を細めた。
「……うん。あの夢で見た部屋……似てる気がする」
室内は静まり返っていた。廊下には埃が積もっていたが、奥の部屋のひとつ――ふすまだけが、やけに綺麗だった。
朱音がそっと近づくと、その奥に、小さな座卓と畳の間。まるで時間が最近まで流れていたような感覚すらあった。
⸻
【場所】分館・奥の和室
【時間】18:18
朱音が部屋に足を踏み入れた瞬間、視界に一枚の紙が飛び込んできた。
それは、畳の上に広げられた 見覚えのあるスケッチだった。
朱音が目を見開く。
「……これ、わたしの……!」
確かに、彼女がまだ幼いころに描いた記憶がある。色鉛筆で描かれた「どこか知らないはずの部屋」。
その構図と、目の前に広がるこの部屋は、寸分違わず一致していた。
朱音の手が震え、沙耶がそっと肩に触れた。
「夢の中で……見たのね? あなたには、前から」
「うん。……でも、なんで? なんでここに、私のスケッチが……」
⸻
【場所】分館・押入れ奥
【時間】18:23
沙耶がそっと襖を開けると、その奥に木箱があった。
鍵のかかった箱。朱音がもう一度、圭介から託された鍵を差し込む。開いた中から現れたのは――
一冊のノート。そして、録音テープの入った小さなカセットレコーダー。
「これ……お父さんの文字だ」
朱音がページをめくると、そこにはこう書かれていた。
⸻
「朱音へ。
君の“見る力”は、何かを予言するものではない。
それは“重ねられた視点”をなぞる力だ。
この場所を、君が知っていたことに――意味がある。
私の視点は、ここに残しておく。
けれど君の視点は、未来を選べる。
沙耶と共に歩め。
そして、もし次に来る誰かがいたら……
どうか、受け入れてあげてほしい。
君が、“記憶の証人”であるように。」
⸻
朱音の目に、涙が浮かぶ。
沙耶はその背を優しく抱きしめた。
「あなたは、選ばれたからじゃない。……見てきたから、今ここにいるのよ」
朱音は小さくうなずいた。
「……私、怖くない。今なら、この場所にある何かを――受け止められる気がする」
⸻
【時間】18:40
そのとき、遠くで誰かの足音がした。
静まり返ったはずの分館の外。ふたりが扉の方へ向き直る。
その足音は、どこかためらいながらも――確かに、近づいてきていた。
次なる来訪者の影が、静かに現れようとしていた。
【場所】小沢坂の分館・玄関前
【時間】12月4日 18:43
静寂を引き裂くように、玄関の引き戸が小さく軋んだ。
朱音と沙耶は、息を飲んで音の方へと向き直る。
朱音が一歩前に出ようとしたとき、沙耶がそっとその手を取った。
「慌てないで。これは……予兆として感じていた“視線”かもしれない」
朱音が頷き、二人はゆっくりと玄関へ向かう。
戸の向こうに立っていたのは――年配の女性だった。白髪を後ろでひとつに束ね、濃紺のケープコートをまとっている。手には古びたトランクケースを抱えていた。
彼女は驚くふうもなく、朱音の顔を見つめると、穏やかに口を開いた。
「……あなたが、朱音さんね」
その声に、沙耶の目がわずかに揺れる。
「……その声……まさか……」
女性は一歩、屋内に踏み出した。
光の下、その顔がはっきりと見えた。
「私の名前は、日比野千草。
……そして、水原奈緒の実姉よ」
⸻
【場所】小沢坂の分館・和室
【時間】12月4日 18:55
日比野千草は、持参したトランクの中から、布で丁寧に包まれた封筒と写真立てを取り出した。
その写真には、若き日の水原奈緒と並んで微笑む女性の姿――間違いなく彼女だった。
「……私たち姉妹は、昔から“視る”という力を、それぞれ違う形で受け継いでいたわ」
朱音は、沙耶と目を合わせる。
「私が水原に最後に会ったのは、ちょうど10年前。
彼女は“ある記憶の痕跡”を、小沢坂のこの分館に残していったの。……その痕跡を、今日まで誰が引き継ぐのか、それを見届けに来たのよ」
彼女は、封筒の中から小さなメモリーデバイスを取り出した。
そこには、圭介が録音した最後のメッセージが入っていた。
⸻
【録音内容(圭介の声)】
「……朱音、これを聞いているということは、君は“鍵”を受け取ったんだね。
この分館には、いくつかの“残響”がある。
誰かが見た風景、誰かが語った言葉、それを“視る”力のある者だけが引き継げる。
奈緒さんは、その記憶を誰かに委ねる決断をした。
彼女の意思は、決してひとりではなかった――日比野千草さん、姉である彼女と共にあった。
朱音。
君がこの記憶を“見た”のは偶然ではない。
君の感覚と記録は、この場所を介して、また別の“誰か”と繋がる。
未来に遺すのは、真実だけじゃない。
“視点そのもの”なんだ。
……そして、母さんと一緒に進んでほしい。
これは、家族の記憶だから。」
⸻
録音が終わると、朱音の目にまた涙が浮かんでいた。
沙耶がその肩に手を置く。
日比野千草は、そっと呟いた。
「視ることは、背負うことじゃないの。
ただ、“見届ける”こと。奈緒がそれを最後に望んでいた」
朱音はうなずく。
「――わたし、受け取ります。
この分館の中に残されたもの、全部、ちゃんと見て、未来に繋ぎます」
⸻
【時間】19:10
分館の奥の襖の先、かつて誰かが“視点の転写”を行った痕跡がある部屋へ、三人は足を踏み入れる。
そこには、うっすらと朱音が夢で見た映像と一致する装置が残されていた。
そして机の上に置かれていたのは――
**「To N」**と記された、もう一つの封筒だった。
【場所】小沢坂の分館・視点転写室
【時間】12月4日 19:15
重ねられた埃の下から、朱音はそっと一通の封筒を拾い上げた。
古びたクリーム色の封筒の表には、繊細な手書きでこう記されている。
「To N.」
――To N。
水原奈緒に宛てたまま、出されることのなかった手紙。
朱音は沙耶に視線を向ける。沙耶は頷いた。
「……開けていいわ」
封を切ると、中には便箋が一枚だけ入っていた。朱音が読み上げた。
⸻
圭介の未送信メッセージ(「To N.」)
「奈緒さんへ
あの日、あなたが“朱音は特別な子です”と言ってくれた意味を、
今、ようやく少しずつ理解し始めています。
あなたが視たもの。
あなたが感じた痛み。
それを、私たちは正しく引き継げたでしょうか。
あなたが姿を消してから、私は幾度もこの手紙を書き直しました。
伝えたいことが多すぎて、言葉にできなかった。
けれど今なら、ひとつだけ、ちゃんと言えそうです。
……ありがとう。
あなたがいてくれたから、朱音も、沙耶も、
そして私も――“視ること”を恐れずにいられた。
いつかまた、どこかで。
圭介」
⸻
便箋を読み終えたとき、沙耶は小さく震える息を吐き、静かに床へ膝をついた。
「ママ……?」
朱音の問いかけに、沙耶は微笑みながら首を振る。
「思い出したの。……奈緒さんと、最初に会ったときのことを」
⸻
沙耶の記憶:奈緒との“本当の最初の出会い”
それは朱音がまだ生まれる前、沙耶がひとりで迷いに迷っていた頃だった。
心に蓋をして、誰にも見せられない記憶を抱えて、夜の河川敷を彷徨っていた。
そのとき、奈緒が現れた。
黒いコートを羽織り、月明かりの下で沙耶の前に静かに立っていた。
「……あなた、“見える”のね」
「なに……?」
「自分では気づいていないけれど、あなたは“見ようとしない努力”をしてる」
「……放っておいて」
「でも、それでは“あなたの中のもう一人”が泣いてしまうわ」
「もう一人……?」
沙耶は、あの夜の言葉を今も覚えている。
そしてその後、奈緒が不思議な形で彼女に関わり、朱音の誕生と共に再びその“視点”を委ねたのだと――今なら理解できる。
⸻
【現在】小沢坂の分館・視点転写室
「奈緒さんは……わたしの“最初の導き手”だったのかもしれない」
沙耶はそう呟いた。
「母になる」以前の、自分の奥にいた“もう一人”――恐れを抱えていた自分を、
奈緒は静かに見守ってくれていたのだ。
朱音は沙耶のそばに座り、手を重ねた。
「ママ……」
「……ありがとう、朱音」
ふたりの手の上に、冬の微かな光が差し込んでいた。
そのとき、視点転写室の壁面に設置された旧式の装置が――
突然、低い駆動音を立てて回り始めた。
【場所】小沢坂の分館・視点転写室
【時間】12月4日 20:02
錆びついた回転軸が、きしみ音を立てながらゆっくりと動き出した。
旧式の視点転写装置。その正面にある半球型のレンズが、うっすらと青白い光を帯び始める。
「……作動してる……?」
沙耶が息を呑んだ。朱音の目も、装置に釘付けになっていた。
やがて、レンズの奥に**“像”**が浮かび上がる。
それは映像というより、記憶の断片そのものが霧のように漂っているようだった。
⸻
■視点ログ:水原奈緒(記録コード “N.10_Archive:047”)
(※記憶ログの形式で再生)
――石造りの小径。白い朝靄の中にある、古い講堂のような建物。
その前に立つのは、20代後半の水原奈緒。
黒髪を一つに結い、濃紺のロングコートを着ている。表情は険しいが、どこか静かな決意を湛えている。
「……あなたがこの子に関わるというのなら、私も黙ってはいられません」
「“視る者”は孤独です。でも……その孤独を背負い合う方法があるとしたら」
対面する相手は記録上不明。だが、少なくとも水原が敵意を向けていた人物ではない。
記憶の視点が揺れる――
次の瞬間、場面が切り替わる。
⸻
■視点ログ:続き(記憶の揺らぎによるシーケンス遷移)
地下室。蝋燭のような灯りが壁際を照らす。
奈緒の視線は、椅子に座る一人の少年に向けられている。
少年は顔を伏せていて表情は見えない。だが、その手は微かに震えていた。
「名前を……忘れないで」
「あなたの記憶に、私の声が残っていれば、それで……」
奈緒の声が、深く、柔らかく響いた。
そして――
彼女は何かを少年の手にそっと握らせた。
それが何であったかは、映像には明確に映らない。ただ、薄く金属光沢のあるペンダントのような輪郭。
⸻
【現在】小沢坂の分館・視点転写室
装置が、ふいに停止した。
レンズの光もふっと消え、空気だけがわずかに温もりを帯びていた。
沈黙の中、朱音がぽつりとつぶやいた。
「……今の子……どこかで……」
「朱音……?」
沙耶が覗き込むと、朱音の目は深く揺れていた。
彼女の記憶の奥底と、今の映像が静かに重なろうとしている。
「……夢の中に、あの場所……あった。……“暗い部屋と、誰かの声”」
その瞬間――
朱音の持つ日記帳が、自動で一枚のページを開いた。
そこに描かれていたのは、さきほど映像にあった講堂の建物。
そして、窓辺に立つ奈緒と、その手を握る少年の後ろ姿だった。
【場所】玲探偵事務所・本部執務室
【時間】12月5日 10:30
冬の空は高く、白く伸びた雲が音もなく流れていた。
東京郊外のロッジ兼探偵事務所。室内は暖房の熱でほんのりと温かく、窓際の机には、昨日から積み上げられたファイルと、数枚の手書きメモが散らばっている。
玲はその中心で、淡々と書類に目を通していた。
ペンを持つ手は無駄なく動き、重要な語句には赤い印をつけていく。
デスクの片隅では、朱音が描いたスケッチの一枚――「講堂」と思しき建物の外観が、ホルダーに挟まれて立て掛けられていた。
その下には、“N.10_Archive:047”と記されたログ記録のプリントアウト。水原奈緒が残した映像記憶の一部。
玲は目を伏せる。
口元にうっすらと苦味が滲むような沈黙。
(……水原奈緒が託したのは、あの少年だけじゃない。視点そのもの……“記録する意思”もまた、彼女の遺したものだ)
ふと、玲は右手の指で、朱音のスケッチの角を撫でた。
画用紙の質感が伝わる。
その線の描き方には、何かを「思い出す」ことと、「残す」ことの間にある、微細な意志が感じられた。
それは、ただの子供の絵ではない。
「朱音……君は、もうそこに“いた”のかもしれないな」
独り言のように呟いたあと、玲はもう一度書類へと視線を戻す。
今回は、“水原奈緒が講演会で接触した人物リスト”を洗い直していた。
その中の一つ――「藤崎衛」という名前に、赤線を引いた。
⸻
【回想断片】
(玲の脳裏に浮かぶ、かつての会話)
「記録ってのはな、玲くん。“過去”じゃない。いつも誰かに“届けられる未来”だ」
(—水原奈緒、十年前)
⸻
その瞬間、机の端に置いていた端末が軽く震えた。
画面には、**〈小沢坂分館:外部からの接続要求〉**の表示。
玲は立ち上がる。
椅子の背に掛けていたコートを手に取り、淡く光る窓の外へ目を向けた。
空はまだ冬の朝。けれど、もうすぐ何かが大きく変わる、そんな気配がある。
「……準備を進めよう。次は“鍵の記録”だ」
──後日談──
■【玲】──静かな整理
場所:玲探偵事務所・資料室
時間:12月5日 午後15:10頃
ファイルの束を、最後の一つまで閉じ終えたとき──
玲は深く息をつき、背もたれに体を預けた。背筋を伸ばすと、静かな疲労感が骨の内側までじんわりと染みていく。
棚に収まったファイルには、もう埃一つなく、ラベルには整った文字で日付と内容が記されていた。
「N.MIWARA関連/視点転写記録」「To A」「小沢坂分館/再接触記録」「朱音描写」──それら全てが、まるで並び替えられた記憶の断章のように、静かに佇んでいる。
玲は無言のまま立ち上がり、資料室の小窓を開けた。
午後の陽が斜めに差し込んできた。
冷たい風が書類の端をわずかに揺らす。高く澄んだ空に、遠くを飛ぶ鳥の影が小さく動いていた。
(……もう、十二月か)
年の瀬の静けさは、何かを見送ったあとの静寂に似ている。
事件としては終わった。だが、“終わり”とは本当に形あるものなのだろうか──ふと、玲はそんなことを考える。
机の上に、朱音のスケッチが一枚だけ残されていた。
「鍵」と「扉」。それを開けようとする子どもの後ろ姿。背景には、小沢坂分館の一部と思しき建物の輪郭。
玲はその絵を、何も言わずファイルには挟まず、壁に立てかけたままにした。
“整理”という名の行為には、時に「残す」ことも含まれる。
⸻
時計の針が音もなく進む。事務所の外では、近所の子どもたちの笑い声と、自転車のベルの音が重なった。
玲は静かにコーヒーを淹れ、湯気立つカップを両手で包んだ。
誰にも邪魔されない時間。誰にも気づかれない時間。
それでも──誰かが残していった“視点”の余韻は、確かにこの部屋の空気の中にある。
「……朱音、君の目が見たものは、記録じゃない。
“選択”だよ。誰に継がせるか、誰を残すか。
……そして、どう終わらせるかを決める力だ」
玲は独りごとのように呟き、目を閉じた。
⸻
小さな風が再び窓から吹き込む。
それは、物語の続きがどこかで静かに始まっていることを、彼にだけそっと知らせる合図のようだった。
師走の空の下。
玲探偵事務所には、今日も穏やかな沈黙が降りていた。
■【朱音】──夢と記憶のはざまで
場所:玲探偵事務所の庭
時間:12月5日 朝 8:15
朝露を吸った土の匂いが、冷たい風に混ざっていた。
朱音は小さな鉢植え──夏の終わりに蒔いたビオラの苗に、そっと水を与えていた。
静かな朝。誰もまだ起きていない。
けれど彼女の胸の中には、うっすらとしたざわめきが残っている。
それは夢の断片か、それとも記憶か。
あるいは、もっと別の“だれかの想い”だったのかもしれない。
⸻
「……ママが、そこにいた気がした」
朱音はぽつりと呟いた。誰に向けた言葉でもなかった。
今朝見た夢は、不思議なものだった。
霧の中の分館。長い廊下を、幼い自分がひとり歩いている。
扉の向こうには、あの“鍵”があった──けれど、手を伸ばす直前で目が覚めた。
そして夢の中で、どこか懐かしい声が聞こえた気がする。
「朱音。見えるものだけが答えじゃない。
目を閉じて感じてごらん……“まだ残ってる”から」
それが誰の声だったのか、思い出せない。
けれど不思議と怖くはなかった。むしろ、その声のほうが自分を“思い出してくれた”気がした。
⸻
鉢に水をやり終えると、朱音は空を見上げた。
冷えた大気の向こう、高く澄んだ空に、薄い雲が一筋漂っていた。
事件はひとつの区切りを迎えた。
けれど、それは「終わり」ではなく「始まり」なのだ──と、朱音は子どもながらにうっすらと感じていた。
お父さんが残してくれたもの。
玲お兄ちゃんの静かな眼差し。
ママが見せた、あの夜の涙。
それらすべてが、自分のなかで「何か」になろうとしている。
⸻
朱音はポケットの中の“鍵”を取り出した。
小沢坂の分館で手に入れた、もう一つの扉を開くもの。
「まだ……あるよね。知らなきゃいけないこと」
小さな声で、しかしはっきりとそう言った。
そしてそれは、“次”に進む決意だった。
⸻
ふと、庭の端に一羽の白い鳥が降りてきた。
羽根を震わせて、数歩だけ歩き、朱音と目が合う。
まるで何かを運んできたように、静かに、そこにいた。
朱音は微笑む。そして──
「……うん、行ってくるね」
誰にともなく告げて、彼女はゆっくりと立ち上がった。
■【沙耶】──記憶分析者としての余韻
場所:玲探偵事務所・分析室
時間:12月5日 昼 12:40
静かだった。
パソコンのファンが低く唸り、記録媒体のLEDが規則的に点滅している。
沙耶は肘掛けの深い椅子に腰を預け、膝に乗せた手帳へ静かにペンを走らせていた。
その表情には疲れの色がありながらも、どこか、安堵のようなものが浮かんでいた。
──解析室に残された“視点ログ”。
古びた録音装置から出力された水原奈緒の記憶は、音声、時間帯、位置情報、すべてが断片的で、明確な因果を語るものではなかった。
けれどそれらは、確かに“そこにいた人の視点”だった。
「この世界のすべては“記録”されるとは限らない。
でも、“残る”ことはある。想いという形で」
彼女がかつて教えられた言葉──それを今になってようやく理解できた気がする。
⸻
沙耶は記録画面に表示された《To N》という未送信メッセージの断章に視線を移した。
圭介が、生前、奈緒に宛てて綴っていたもの。
──〈君の視点は、君だけのものじゃない〉
──〈僕はそれを、未来に託すことにした〉
冷静な言葉の裏に、どれだけの葛藤があったのか。
記録分析者としての沙耶は、それを想像することをためらわなかった。
なぜなら──彼女自身も、“あの日”から同じ重さを背負ってきたから。
⸻
「……会えて、よかったよ。奈緒」
小さな声が、無人の部屋に零れた。
解析者としてではない、ただの“沙耶”としての想い。
あの分館で思い出した、“最初の出会い”。
水原奈緒が初めて名前を呼んでくれた時のあたたかさ。
彼女の手のひらは、どこか母親にも似ていた。
⸻
目を閉じると、朱音の顔が浮かんだ。
あの子はもう、“守られる存在”ではない。
きっといつか、自分の手で新しい視点を選び取っていく。
──そう思わせる強さが、あの瞳の奥にはあった。
沙耶は、ゆっくりと立ち上がった。
背後のモニターでは、ログナンバー「D-0311」の再生が止まっている。
今の自分にできるのは、断片を正確に並べ、未来に渡すこと。
それが、記憶を“生きているもの”として残す唯一の手段だと知っているから。
⸻
ふと、窓の外で朱音の笑い声が聞こえた。
庭で水をやる音、小さな鉢植えを抱える姿。
その光景が、すべてを肯定するかのように沙耶の胸を満たす。
──「残す」ことの意味。
それは、“誰かが次に受け取ってくれる”という、未来への信頼なのだ。
⸻
沙耶は静かに手帳を閉じ、机の上の封筒に目をやった。
圭介が遺した“視点の鍵”のひとつ。
まだ終わってはいない。
けれど、“始めるための終わり”は、きっと今、ここにある。
■【弟子の家族(母)】──静かな灯
場所:山間の古い町/時間:12月6日 夕方
西陽が山の端にかかるころ、古い町のひとつの家で、年老いた母は椅子に座っていた。
テーブルの上には、小さなポータブルレコーダー。
蓋の擦れた古いカセットテープが、かすかな機械音を立てながら回っていた。
録音されていたのは、彼女の息子──“あの子”が、失われる前に残していた最後の声。
音は不鮮明だった。
風の音、どこかで軋む床の音、そして――言葉。
「……お母さん、ごめん。
でも、ぼくは、ちゃんと、選んだよ」
「誰かの記憶を受け継ぐってことが、
ただ過去を知ることじゃないって、わかったんだ」
「ぼくがこの先に行くのは、
きっと、次の誰かに“灯”を手渡すため。
それがわかったから、こわくなかった」
「ありがとう。産んでくれて、ありがとう。
大丈夫だよ。全部、大丈夫。だから、泣かないで」
⸻
……泣かないで。
そう言われて、彼女は泣いた。
でもそれは、後悔の涙ではなかった。
あの子が、逃げたのではなく、歩いていったこと。
何かを残すために、自分の終わりを受け入れたこと。
誰かにその「視点」を託したこと。
それを、言葉ではなく“声”で伝えてくれたことが、
何よりの救いだった。
⸻
母は、震える手でテープを止めた。
しんと静まった部屋に、ストーブの灯油の匂いと、夕餉の味噌汁の湯気が滲んでいた。
あの子の部屋には、まだ、少年の頃の絵や、本や、未完成の模型が残っている。
そこにあるものは、過去ではなく、“灯”だったのだと、ようやく思えた。
⸻
ふと、玄関先の風鈴が鳴った。
訪ねてくる人などいないはずの時間。
彼女は立ち上がり、ゆっくりと玄関へ向かった。
扉を開けると、若い女性がひとり立っていた。
どこか、あの子に似た瞳をしていた。
「……澪真の記憶を、受け取った者です」
その声を聞いた瞬間、母はすべてを理解した。
あの子が託した“灯”が、こうして生きて、今ここに届いている。
⸻
冬の山間に、夕陽が最後の光を落としていった。
母はもう、泣いていなかった。
胸の奥に静かに灯る、温かな記憶とともに、穏やかに頷いた。
■【かつて館を訪れた来訪者】──ページの外で
場所:都内の静かな古書店
時間:12月7日 午後
木製の棚が並ぶ店内は、静寂に包まれていた。窓から差し込む冬の柔らかな陽射しが埃を浮かび上がらせる。青年は棚から一冊の古びた本をそっと手に取った。装丁は擦り切れ、頁は黄色く変色している。
彼はゆっくりとページをめくりながら、ふと奥付に目を留めた。そこには、かつてこの館を統べていた“占術師”の名が記されている。
「響野裕司…か。」
青年の眉がわずかに動く。どこかで聞き覚えのある名前だった。彼の手の中で本が軽く震えるように感じられた。
その瞬間、外の風が店のドアを揺らし、遠い記憶の扉を開くかのように、館にまつわる断片的な記憶が青年の中に蘇り始めた。
静かに、しかし確かに――物語の新たな頁が動き出す予感が漂っていた。
「……まだ何か残ってる気がするな」
【場所】玲探偵事務所・応接テーブル
【時間】12月7日 午後
灰色の封筒と、少し古びた茶封筒。
どちらも控えめな筆致で「玲様」と書かれていた。
玲は応接テーブルに並べられた二通の手紙を見つめ、まず一つ目の封を開けた。
⸻
◆封筒①:「響野 裕司」より(筆跡:端正、やや古風)
玲君へ
この手紙が君の元に届く頃、私はもう“あの館”から完全に手を引いているはずだ。
私が背負った“視点”の重みは、誰かに継がせるものではなかったと気づくのに、少しばかり時間がかかった。
だが君は、冷静でいながらも他者を見捨てない。
真実を追う姿勢の中に、“記憶を受け止める器”としての資質が見える。
君にはまだ、残された断片を“記録”として留める役目があるかもしれない。
だが、それが“終わり”なのか“始まり”なのかを決めるのは、君自身だ。
「過去」は“閉じた世界”ではない。
それに触れた者は、常に現在という窓から、それを見つめ直す機会を持つ。
最後に一つ、私が“ある青年”に託した鍵のことを伝えておく。
それは過去に繋がるが、未来にも作用するものだ。
君がその人物と出会ったとき、どうかその視点を奪わないでほしい。
響野裕司
(記録保管者)
玲はその手紙を丁寧にたたみ、胸ポケットにしまった。
もう一通、茶封筒の封を静かに切る。
⸻
◆封筒②:「佐々木 圭介」より(筆跡:力強く、少し揺れている)
玲へ
あの夜、朱音が見た夢の話を覚えているか?
水原奈緒が何かを託していた――それは彼女だけの想いじゃない。
私たちは、記録し、忘れ、そしてまた思い出す。
忘れさせられた記憶よりも、忘れようとした記憶の方が、ずっと厄介だ。
君が私の代わりに多くを背負っていること、感謝している。
沙耶も、朱音も、それぞれに“継承すべき視点”を持ち始めているようだ。
君には、彼女たちの“支点”でいてほしい。
この手紙と一緒に入れた図面――小沢坂の分館のもう一つの出入口だ。
私が一度だけ使った非常扉で、普通の地図には載っていない。
何かがあったとき、そちらを使え。
…これは、遺言じゃない。
私はまだやることがある。
だが、君には“選べる余地”を残しておきたかった。
朱音の未来を、どうか頼む。
佐々木圭介
⸻
玲は静かに、目を閉じた。
「選べる余地、か…」
その呟きに、外の風が応えるように、事務所の暖簾がふわりと揺れた。




