70 記憶継承ー沈黙の倉庫事件ー
■ 神崎玲
冷静沈着な探偵。
十年前の倉庫事件で“判断の遅れ”が命を奪った過去を抱え、
いまも罪悪感に取り憑かれている。
孤独に慣れすぎたせいで危険に身を置く癖がある。
事件の深層に迫る中で、「記憶が人を動かす」という現実に向き合う。
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■ 佐々木朱音
圭介の娘。
触れた記録物や場所から“記憶の追体験”を受け取る特異体質を持つ。
純粋さと直感が事件の核心に迫る鍵。
玲を「お兄ちゃん」と呼ぶが、それは家族としての信頼の象徴。
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■ 佐々木圭介
十年前の倉庫事件の生存者であり、被害者のひとり。
真実を隠し続けてきた負い目と、守りたかった家族への愛を抱く。
神原とは親友でもあり、同僚でもあった。
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■ 神原
“封鎖区域K-27”の元技術者。
事件の真相を知るがゆえに狙われ、精神に異常をきたす。
暴走の裏側には、命令者による“記録操作”があった。
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■ 紫
記録解析スペシャリスト。
朱音の能力を理解し、記憶の継承現象を科学的に整理できる唯一の人物。
玲にとっては「理性の拠り所」。
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■ 奈々(なな)
情報分析官。
玲の右腕として、消された記録・偽装データを復元していく。
冷静だが情に厚く、朱音の保護にも積極的に関わる。
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■ 服部一族
影の鎮圧と異常行動者の捕縛を専門とする家系。
● 服部刹那
無音の暗殺術を体得。
玲とは互いに信頼しつつも、職務が衝突する「危険な均衡関係」にある。
● 服部響
俊敏な双剣士。刹那の弟。
熱血だが観察力は鋭く、朱音の危険をいち早く察知する。
● 服部詠
呪式・封印術の担い手。
精神異常や記憶汚染の対処を冷静にこなす。
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■ 成瀬由宇
影班。対象封鎖・監視のスペシャリスト。
情報を“冷静に切り捨てる”癖があるが、朱音には妙に甘い。
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■ 命令者(※三文字の仮名)
正体不明の男。
「記録を操作し、人を行動させる」ことを得意とする存在。
玲と霧島玲於奈(証言者)だけがその“声”を聞いた。
倉庫事件の黒幕。
日時・場所:11月28日 午後10時45分、都心近郊・古い石畳の坂道
十一月の終わり、夜の風はまるで誰かの囁きのように冷たく頬を撫でた。
都心の喧騒から離れた坂の上――古びた石畳を照らすのは、街灯ではなく、雲間からのぞく冴えた月光だけだった。
玲はゆっくりと歩を止め、吐息で曇る白い息を見つめた。
「……十年前、俺は何を見落としていたんだろうな」
独り言のように呟く声は、夜気に溶けて消えていく。
胸の奥に沈むのは、後悔とも罪悪感ともつかない、重く冷たい沈殿物。
あの夜。判断を誤った一瞬。その“誤り”が、誰かの未来を奪った可能性。
玲は足元の石畳を見つめた。月光に照らされたその表面には、過去の影がこびりついているように思えた。
「もし、あの時――俺が迷わなければ」
風が強く吹き抜け、マフラーの端を揺らす。
誰もいないはずの坂道で、背後から足音がしたような錯覚に、玲はわずかに振り返った。
もちろん、そこには誰もいない。
「……自分の幻だよ、こんな夜は特に」
彼はわずかに目を細め、夜の沈黙を真正面から受け止めた。
孤独と向き合うこの時間こそ、十年前の影がもっとも濃く現れる。
「必ず、終わらせる。もう二度と同じ後悔はしない」
そう小さく呟くと、玲は坂を下り始めた。
月光は彼の背を照らし、その影は細く長く、まるで過去に引きずられているかのように伸びていった。
【プロローグ】
日時・場所:11月27日 深夜0時12分、第四監察課・資料保存室
冷え切った空気が室内に淀んでいた。
薄暗い蛍光灯の下、壁に掛かった古びた時計が、重く鈍い音で秒を刻んでいる。
篠田は机に積まれた分厚いファイルを前に、震える指先で一枚の報告書をなぞった。
「……やっぱり、これは事故じゃない」
その声は、誰に届くわけでもなく、ただ闇へと溶けていく。
ページの端には、かすかに黒く焦げた痕が残っていた。
消されたはずの記録。
本来なら存在しないはずの“証拠”。
「気づいてしまったな、篠田さん」
背後から聞こえたその声に、篠田の肩が大きく震えた。
振り向かなくてもわかる。
その声は——命令者に繋がる“影”だ。
「……まだ全部は消えていない。誰かが、わざと残した」
篠田は乾いた唇を噛みしめながら、書類を封筒にしまう。
怯えよりも、悔しさが勝っていた。
「玲くんがこれを見つければ……必ず辿り着く」
震える手で宛名を書く。
“玲へ——これが最後の手紙になる”
その瞬間、蛍光灯が一度だけ明滅した。
影が揺れ、足音が近づく。
篠田は封筒にそっと手を添え、静かに目を閉じた。
「もう……遅いか」
冷たい気配が背後に立つ。
無音のまま、部屋の温度がさらに下がっていった。
そして——重い時計の音だけが、淡々と深夜の空気を刻み続けていた。
プロローグ
日時・場所:11月27日 午前1時12分 K部門・旧資料室
薄い蛍光灯の光が、夜の静けさをさらに冷たく感じさせていた。
室内の空気は長時間換気されていない図書室のように重く、ページの間に積もった埃の匂いがわずかに漂っている。
机の上には、篠田敬が残した封筒と、奈々が広げた解析データが並んでいた。
「……これ、本当に篠田さんが最後に触れたデータなの?」
奈々の声は小さいが、震えが混じっていた。
玲は黙って頷き、封筒の端を指でなぞる。紙は思った以上に固く、湿気すら感じない。
封筒ひとつから伝わるはずもないはずの“緊張”が、まるで生き物のように指先にまとわりついた。
「篠田がこれを残した理由は、ただの報告じゃない」
玲は低く言った。「誰かに“見つけてもらうつもり”で、置いた痕跡だ」
奈々は画面を操作し、解析データの一部を拡大する。
数字とメモの羅列の中に、一行だけ浮き上がるように赤字で書かれた文章。
——『事故じゃない。命令だ。消される前に、誰かに託す。』
奈々が息を呑む。
「消される……って、どういうこと?」
玲は封筒を開けずに、掌で静かに押さえた。
その動きには、痛みと覚悟が混ざっていた。
「篠田は“命令者”を知っていた。いや……気づいてしまったんだろう。だから逃げ場がなかった」
蛍光灯が一度だけ明滅した。
その瞬間、旧資料室の空気さえひび割れたように感じた。
奈々は恐る恐る封筒を見つめる。
「玲さん……中を開けますか?」
玲は答えず、ただ視線を封筒に落とす。
その目には、十年前の事件の影がわずかに揺れていた。
「ああ。だが……覚悟しておけ」
玲は静かに言った。「ここから先は、“戻れない”」
奈々は小さく頷く。
震えてはいたが、逃げなかった。
玲が封を切ろうと指をかけた瞬間――
冷たい風が、どこからともなく吹き抜け、机上の紙が一枚だけめくれ上がった。
その紙には、篠田の字でこう書かれていた。
——『真実は、お前の足元から始まる』
玲の表情が一瞬だけ動いた。
それは驚きではない。
“覚えのある言葉”を見た者の反応だった。
奈々が囁く。
「……玲さん? この言葉、何か……」
玲は答えなかった。
だが、唇の奥で静かに呟いた。
「篠田……お前、やっぱり気づいてたんだな」
封筒の重みが、まるで“遺言”そのもののように玲の手の中で静かに沈んだ。
プロローグはここで終わり、物語は本編へと流れ込んでいく。
【事件の兆し】
日時・場所:十一月二十八日 午前九時十二分 玲探偵事務所・第二解析室
薄い蛍光灯の光が、夜の余韻を引きずる室内をさらに冷たく感じさせていた。
机の上には、篠田敬が残した封筒と、奈々が広げた解析データが並んでいる。
玲は封筒を開き、中の紙片を一枚取り出した。
その端には、小さな鉛筆の走り書きが残されている。
「……“次は――坂下の旧倉庫”。」
低い声で読み上げた玲の指先が、かすかに震えた。
奈々が、その変化を見逃さない。
「玲さん、これ……やっぱり篠田さん、追われてたんじゃ?」
「わかっている。だが、問題は――なぜ“倉庫”なんだ。」
奈々が端末を操作すると、ホログラム状の地図が机上に浮かび上がった。
その隅にひっそりと、赤い点滅マーカーが灯る。
「十年前、あの倉庫で“何か”があった。記録上は事故。でも……」
奈々の言葉は途中で途切れる。説明できない違和感のせいだ。
その時、扉が静かにノックされた。
「入る。」
玲の声に応じて、白衣姿の御子柴理央が入室した。
無駄のない動作、冷静な瞳――“記憶分析のスペシャリスト”と呼ばれる理由が、その佇まいだけで伝わる。
「玲さん。篠田氏の手紙、追加解析が終わりました。」
御子柴は封筒の裏側を指でなぞった。
そこには人間の目では気づかないほど薄い、圧痕が残っていた。
「これは……文字?」奈々が身を乗り出した。
「ええ。篠田氏はおそらく“時間がなかった”。見える形では残せない、しかし痕跡だけは残せる方法を選んだんです。」
御子柴が解析タブレットを開き、圧痕の浮かび上がりデータを映し出した。
玲は身じろぎもせず画面を見つめる。
映し出された文字は、たった三文字。
“命 令 者”
部屋の空気が一瞬で変わった。張り詰める緊張。
奈々が息を呑む。
「……命令者。やっぱり存在してたんだ。」
「篠田は気づいた。だから消された。」
玲の声は、静かに落ちていく。しかし、その奥に確かな怒りがあった。
御子柴が続ける。
「そして、圧痕の下にさらに薄い“方向指示”がありました。
“旧倉庫地下・第2アクセス路”……そこが篠田氏の最後の調査地点です。」
玲は立ち上がり、コートを羽織る。
「影班に連絡を。現地の監視カメラはすべて確認、ログの改ざんがないか洗え。」
「了解です。」奈々が即座に端末へ手を伸ばす。
御子柴が玲を呼び止めた。
「玲さん。気をつけてください。ここまで周到に“記録を消してきた相手”です。
倉庫にあなたを誘っている可能性も、否定できません。」
玲は一瞬だけ目を伏せる。
十年前の痛みが、再び胸の奥で疼いた。
「……わかっている。それでも、行くしかない。
篠田が命を懸けて残した“次”なんだ。」
静寂が落ち、蛍光灯が微かに唸りを上げる。
三人の視線は、机の上の封筒に集まった。
その白い紙片は、まるで“呼んでいる”ようだった。
――坂下の旧倉庫へと。
――十年前に封じられた真実へと。
玲は無言で背を向け、ドアを開いた。
「行く。篠田の示した“次”へ。」
その瞬間、物語はゆっくりと、しかし確実に動き始めた。
【日時】十一月二十八日 午後三時十六分
【場所】第3地下層・旧排水路前
冷え切った空気が、地下へ降りた途端にさらに重くなる。
湿った石壁の匂いと、どこからか聞こえる水滴の落ちる音が、不気味な静寂を際立たせていた。
玲は足を止め、周囲に視線を巡らせた。
前を歩く朱音は、不安げに玲の袖を軽くつまむ。その隣で、沙耶が彼女の肩にそっと手を置いた。
「……ここ、前に来たことがある気がする」
朱音の声は震えていたが、確かな“感覚”を帯びていた。
玲はわずかに眉を上げる。
「記憶の反応か?」
朱音はこくりと頷いたが、その表情には言葉にできない戸惑いが漂う。
そのとき――
背後で静かな足音が近づいた。
「やはり、ここでしたか。封鎖記録に“揺らぎ”があったので」
低く落ち着いた声。
振り返ると、白い手袋をはめた女性が一歩、暗がりから姿を現した。
御子柴理央――
記憶構造解析のスペシャリストであり、“記録の歪み”を感知する異能の専門家だ。
玲が短く挨拶する。
「来てくれたか、理央。ここの異常は、お前でも読めたか?」
理央は頷き、壁に手を触れた。
「はい。最近改ざんされた痕跡があります。しかも……かなり雑に。隠そうとしたのではなく、封じようとした形ですね」
朱音が小さく息を呑む。
「封じた……?」
「ええ。誰かが“見せたくなかった”。あなたたちにではなく……“ここに触れるすべての人間”に」
玲は短く息を吐き、朱音の背を押した。
「進むぞ。道は一つだけじゃない。朱音、お前が感じた方向に賭ける」
朱音は一瞬迷ったが、再び玲の袖をそっと握り、暗闇の奥へ視線を向けた。
「……こっち。もっと奥に……誰かの“声”がある」
理央が驚きの色を浮かべた。
「声……ですか。記憶の残響かもしれません。朱音さん、あなたはそれを“受け取る”ことができる」
玲は歩き出し、三人を導くように手で前方を示した。
「行くぞ。命令者――いや、“三文字のあいつ”が隠した物なら、なおさら急ぐべきだ」
地下の闇は深く、湿った冷気が肌にまとわりつく。
その奥で、まだ誰も触れたことのない“真実”が眠っているかのようだった。
朱音の足取りは震えながらも、確かに真っ直ぐ進んでいた。
日時・場所:11月28日 午後2時46分 旧研究棟・地下第二通路
冷え切った空気が、地下へ降りた途端にさらに重くなる。
湿った石壁の匂いと、一定の間隔で落ちる水滴の音。
それらは、長年閉ざされてきた通路の呼吸のようで、玲の背筋にじわりと冷たいものを這わせた。
耳元で通信機が微かに震えた。
『玲、聞こえるか。……こちら、影班の成瀬だ』
玲は立ち止まり、低く応じた。
「聞こえている。そっちはどうだ?」
『索敵は継続中。——ただ、一点だけ気になる反応がある。通路の先、電磁ロックの“異常な空白”だ。誰かが意図的に消している』
「……やはり、ここか」
後ろで足音が止まり、小さな吐息が漏れる。
朱音だ。沙耶がその肩に手を置き、落ち着かせている。
「玲さん……なんか、この先……“変だよ”」
朱音は目を伏せ、指先を胸元に寄せるようにして囁いた。
それは怯えではなく、何かを“感じ取る”時の朱音特有の反応だった。
玲はわずかに眉を動かした。
「どんなふうに、変だ?」
「……ううん、わかんない。でも……“閉じ込められてる音”がするの。
声じゃないけど……“ここじゃない”って、言ってるみたいな……」
沙耶が息を呑む。
「朱音、何か見えた?」
「まだ……でも、扉の向こう。すごく冷たくて、悲しい……」
その瞬間、通路の奥で“ガン”と金属の共鳴が響いた。
腐食した壁を震わせるその音に、玲は身構え、薄暗い先を睨む。
月明かりも届かない地下の闇に、ひっそりと浮かびあがる鉄製の扉。
配線が断たれ、警告灯は消え、錆びた表面にはかすかに重ねられた手形が残っていた。
玲が息を押し殺すように言う。
「……封印扉か。記録では“存在しない”はずの」
通信が再び鳴り、成瀬の声が低く落ちた。
『位置を確認した。そこは——十年前の事件で封鎖された“観察区画”の真下だ。
普通なら立ち入り不能……だが、扉のロックは“内側から”解除されている可能性がある』
「内側……?」
その言葉に朱音がハッと顔を上げた。
瞳に淡い震えが走り、すぐに扉へ一歩近づく。
「……待ちなさい、朱音!」
沙耶が慌てて腕を伸ばすが、朱音の足が止まらない。
扉の前に立つと、彼女はそっと冷たい表面に手を当てた。
次の瞬間——
朱音の身体がびくりと震えた。
「っ……!」
「朱音!」
玲が駆け寄ろうとしたが、朱音が小さく首を振る。
「……違う。大丈夫。
これ……“呼んでる”。
でも、開けちゃダメ……今は、まだ……」
玲は朱音を見つめる。
彼女の直感は、記録よりも、専門家の分析よりも正確だった。
成瀬から通信が入る。
『玲、判断を。だが注意しろ。
その扉……“誰か”が先に開けた可能性が高い。
内部にまだ残っているかもしれない』
玲は短く息を吸い、朱音の肩に手を置いた。
「……朱音、もう少しだけ聞かせてくれ。
中に“誰が”いるんだ?」
朱音は目を閉じ、扉に当てた手をわずかに押し込むようにして――
震える声で答えた。
「……“ひとりじゃない”。
……でも、その人……すごく、苦しんでる……
助けてほしいのか、出たくないのか……わかんない……」
静寂が落ちる。
玲はゆっくりと顔を上げ、通信機に向かって低く告げた。
「成瀬、桐野、安斎——影班を全員回せ。
扉の解析と、内部の危険判定を急ぐ。
“誰か”がいる。……中に、まだ」
その声は冷静で、だが確実に緊張を帯びていた。
その地下の空気が、さらに重く、さらに深く沈んでいく。
朱音が感じた“封印の奥の気配”は、
これから迫る事件の核心へと、静かに繋がっていくのだった。
日時:十一月二十八日 午後三時五十九分
場所:第3地下区画・封鎖通路前
冷たい空気が、地下へ降りた途端にさらに重さを増した。
湿った石壁の匂いと、奥でぽたりと落ちる水滴の音が、広い空間の静寂をいっそう際立たせる。
玲は手元のライトをわずかに傾け、闇に沈む通路の奥を見据えた。
朱音は玲の隣で小さく息を呑んでいる。
その肩越しに見守る沙耶の目は優しく、しかし緊張を隠してはいなかった。
――そのとき、イヤーピースが低く震えた。
『玲、聞こえるか。……こちら、影班の成瀬だ』
玲は足を止め、静かに応じる。
「入ってる。状況は?」
『扉の向こうに何者かがいる確率……七十八パーセント。
警戒レベルを引き上げる』
成瀬独特の、温度を感じさせない声だった。
玲は小さく息を吐く。
「了解。こちらも準備を整える」
朱音は壁に視線を向けたまま、そっと玲の袖を引いた。
「……れいさん。ここ、何か……変な感じがするの」
玲はしゃがみ込み、朱音の目線に合わせた。
「どんな感じだ?」
「わかんない。でも……この先、閉じてるみたいなのに……
“誰かが呼んでる”気がする」
その言葉に、沙耶の表情が一瞬だけ強張った。
「朱音の直感……こういう時は外れないわね」
玲は朱音の頭に手を置き、立ち上がる。
「成瀬、聞いたな。封印扉の存在は確実だ」
『ああ。詩乃が痕跡を探っている。……二十秒以内に扉の内部構造を解析できる』
「頼む」
通路の奥。
古い鉄製の扉が月影のように黒く沈んでいた。
わずかなエアの流れもない静寂の中で、朱音がまたつぶやく。
「……ねぇ、あけちゃだめな扉ってあるよね。
でも、これは……“あけなきゃいけない”ほう、だと思う」
玲は短く目を閉じた。
「わかった。なら、開ける」
ちょうどその時、成瀬の声が重なる。
『扉のロックを解除した。……開けるなら、今だ』
玲は扉の取っ手に手を掛ける。
冷たさが皮膚を刺した。
「朱音、後ろに下がっていろ。沙耶、朱音を頼む」
「ええ。任せて」
玲は深く息を吸い――押し開けた。
重い金属音が地下に響き、暗闇がゆらりと揺らいだ。
ライトの光が内部を照らした瞬間、三人は息を呑む。
そこは、埃ひとつない異様な空間だった。
壁に並ぶ記録棚、中央には誰かの影。
人影はゆっくり、こちらへ顔を向けた。
沙耶が低くつぶやく。
「……この人、誰?」
だが玲だけは、声を失っていた。
――見覚えがあった。
数年前、消息を絶ったはずの“スペシャリスト”
K部門の異常心理追跡官――深雪ヒロ。
闇の中で、彼は微笑んだ。
「やぁ、玲。…ずっと、待っていたんだ」
【11月27日 23時12分 旧地下連絡通路・第3ブロック】
薄暗い空気を裂くように、錆びた鍵の匂いが漂っていた。
懐中電灯の白い光が廊下の奥を照らすと、積年の埃がゆっくりと舞い上がる。
玲は一歩踏み出した。足音が、細く長い反響となって消えていく。
「……ここだけ、空気が違う」
後ろで朱音が小さく呟いた。彼女の指先は、まるで何かに導かれるように前方の闇を指している。
玲はその仕草に目を細めた。
「朱音、何か見えるのか」
「ううん……“感じる”だけ。でも、ここ……誰かが閉じ込められてるみたい」
その言葉に続くように、イヤーピースが震えた。
『――玲、聞こえるか。こちら、スペシャリスト“霧科”。アドバンス痕跡分析担当だ』
低く落ち着いた男の声だった。
影班内部でも一部の局員しか知らない、“残留思念のノイズ”を解析する異端のスペシャリスト。
『廊下奥のエリアから、強い残留反応が出ている。人の気配だけではない……“記録されなかった動き”が複数だ』
玲は息を呑む。
「記録されなかった……?」
『監視に残らない動作や軌跡のことだ。通常の歩行では残らないレベルの揺れが感知されている。おそらく……封印されていた“誰か”が、最近になって動いた』
朱音が袖を握った。
「やっぱり……誰か、ここにいる」
玲は懐中電灯の光を前に向けた。
重厚な鉄の扉が、廊下の突き当たりに黙り込むように立ちはだかっている。
『扉の向こうに何者かがいる確率……78%。警戒レベルを引き上げる』
成瀬の冷静な声が通信に重なる。
「開けるぞ」
玲が手をかけた瞬間、朱音が強く首を振った。
「待って! 扉……怒ってるみたい。すごく、苦しそう」
「……苦しそう?」
朱音の目が僅かに潤む。
「閉じ込められてる誰かが、助けを求めてるの。でも同時に……出ちゃいけないものも混ざってる……そんな感じ」
玲の背筋に冷たいものが走った。
霧科が重い息を落とす。
『朱音の感覚は、今回に限っては正しい可能性が高い。扉の向こう、反応が二重に重なっている。“生体”と……“データに残らない何か”だ』
玲は手を離さず、息を整えた。
「成瀬、桐野、安斎。三名とも、扉開放に備えて後方支援を」
『了解。戦闘モードへ移行する』
深い静寂が、通路全体を包み込む。
玲がゆっくりと、扉を押し開けた。
ぎ……ぎぃ…………
錆びた蝶番が悲鳴を上げ、暗闇の匂いが一気に押し寄せた。
内部に走る冷気が、三人の肌に刺さる。
懐中電灯の光が、部屋の中央で動く影を捉えた。
「……誰だ?」
影はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、深い闇の奥でまだ人であることを辛うじて保っているように見えた。
薄い光が照らしたその顔に、朱音が息を呑む。
「この人……記録室にあった名前……」
玲の喉がひきつった。
「……神原 紫」
失われた十年前の“倉庫事件”と、篠田敬が最後まで守ろうとした“証人”の名だった。
十一月二十八日 午後二時三十二分
旧研究棟・地下封印区画
薄暗い空気を裂くように、錆びた金属の匂いが一気に広がった。
玲がハンドルをゆっくりと押し下げると、封印扉が重たい悲鳴をあげて開いた。
中は想像以上に荒れていた。
床には破れた書類が散乱し、古い端末が壊れたまま放置され、壁には焦げ跡のような黒い痕が点々と残っている。
懐中電灯の光が奥をなぞった瞬間――朱音が小さく息を呑んだ。
「……ここ、知ってる。知らないのに……知ってる……みたい……」
声は震えていたが、確かな“感覚”の重みを含んでいた。
玲はそれを聞き逃さなかった。
「朱音、無理はするな。何を感じた?」
「だれか……泣いてた。ずっと、“閉じ込められてた”って……」
そのときだった。
暗闇の奥から、乾いた息が漏れるような音が聞こえた。
「……ひ……か……」
朱音が目を見開いた。
「……ひか……してくれ……」
成瀬の低い声がイヤーピース越しに響く。
『玲、反応あり。生命反応は弱いが、敵意は不明だ。慎重に行け』
玲は頷き、懐中電灯をゆっくりと動かしながら一歩踏み込む。
光が、部屋の隅にうずくまる影を照らし出した。
痩せ細り、白衣は破れ、髪は乱れ、肌は青白い。
しかし、その顔を見た瞬間――玲の目が僅かに揺れた。
「……神原……?」
影は肩を震わせながら、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、悲しみと恐怖と、そして何かを訴えようとする必死さで満ちていた。
「……やっと……来た……のか……玲……」
朱音が小さく叫ぶように呟く。
「この人……ずっと泣いてた……助けてほしいって……」
玲は息を飲みながら、心に蓄積していた迷いを押し込めた。
「神原、聞こえるか。お前はなぜここに……誰に閉じ込められた?」
神原は震える唇を動かした。
「……“アレ”を……守れと……言われた……でも……違った……
守らされてたんじゃない……“利用”されて……」
そこまで言った瞬間、耳の無線がざらついた。
『玲、ここから先は危険だ。命令者の気配が動いている』
成瀬の警告に、玲は神原から視線を離さずに応えた。
「分かっている。だが――今は彼を守る」
その声には、わずかの迷いもなかった。
朱音は玲の背に隠れながら、小さく手を伸ばすように呟いた。
「……この部屋……もっと“奥”がある。まだ、見つけちゃいけないものが……隠れてる……」
玲は朱音の直感に即座に反応した。
「成瀬、桐野。探索班を二班に分ける。
一班は神原の保護。もう一班は、朱音が示した“奥”の調査に向かわせる」
イヤーピースの向こうで、安斎の冷静な声が返る。
『了解。精神評価と痕跡回収を同時に行う。
……この異様な反応、通常の密閉環境では起きない。何かが“残っている”』
朱音の指先が小さく震えた。
「……“声”が、まだ消えてない……」
玲は懐中電灯を構え直し、封印扉の奥へと歩を進めた。
「――行くぞ。
ここからが、本当の“始まり”だ」
物語は、地下で再び動き始める。
日時・場所:11月28日 午後2時34分、封印記録室内部
神原が低く呻くように口を開いた。「……ここは、……何だ……?」
朱音の目が見開かれ、身体が小さく震える。「あ……あの記憶……!」
玲は息を呑む。直感で感じる危険の波が朱音から放たれる――冷たく鋭く、制御しきれない力が空気を揺らしていた。
「落ち着け、朱音。今はまだ触れすぎるな」玲は自分に言い聞かせるように呟き、手を前に伸ばして朱音の肩に置いた。
その瞬間、廊下の奥から低い金属音が響き、刹那が影のように現れた。「神原を封じる、行動準備完了」
影班の刹那の冷静な声が、朱音の暴走する直感の中心に冷たい指示を差し込む。神原の異常な意識変動と、朱音の“記憶の継承”が交錯する緊張の一幕が始まった。
日時・場所:11月28日 午後3時12分、地下第7観察室前
冷え込んだ地下通路の空気に、荒い息が混ざる。男がひとり、金属扉の前でこちらを見据えていた。
「……玲、貴様、ここまで来るとはな」
玲は額の汗をぬぐいながら慎重に前へ進む。「誰だ……あんたが、命令者か?」
男の口元がわずかに歪む。「私の名は三文字で十分だ。用件はひとつ――貴様を止めること」
無線がわずかに震え、雨宮楓の声が届く。「玲、狙撃位置は確保済み……でもどうする?」
玲は深呼吸し、声を落として答える。「楓、引き金は引くな……まず俺が状況を見極める」
緊張が、静かな地下室にじわりと広がる。物理的な危険だけでなく、心理的な圧力が玲を試していた。
日時・場所:11月28日 午後3時45分、地下第7観察室・非常通路
刹那の視線が神原に突き刺さる。響が軽やかに双剣を構え、詠は低い声で呪式の符を唱え始める。緊張の糸が張り詰めたその空間で、朱音の小さな体が微かに震えた。
「……あそこ……あの扉の向こう……」
朱音の声は小さく、しかし響き渡るように地下室に届く。玲が振り返る。「朱音?」
朱音の目が光る。直感が暴走し、心の奥底から押し上げられる感覚――過去の記憶、誰かの悲鳴、封じられた証拠の残像が、一気に脳裏を駆け巡る。
「行かないと……あの人が……」
玲は一瞬、判断に迷う。彼女の直感が示す方向は、危険そのものだ。だが、目の前の三文字の命令者を止めるには、この直感も無視できない。
「朱音、落ち着け……俺たちが守る。扉を開けるのは俺が合図してからだ」
朱音は息を整え、しかしその眼差しは揺れずに光を宿していた。成瀬の無線が静かに響く。「玲、警戒レベルを最大に。異常確率は上昇中」
地下室の空気がさらに重くなる中、精鋭たちの足音と朱音の直感が交錯し、決戦の幕が静かに上がろうとしていた。
日時・場所:11月28日 午後3時52分、地下第7観察室・非常通路
神原は地面を蹴り、刹那へ突進した。その動きは人間離れしており、筋肉が異様に隆起し、まるで増強剤を投与されたかのような速度で迫る。刹那は瞬時に身をひねり、反撃の準備を整えた。
響が横から飛び込み、刹那の肩を引き寄せた。
「危なっ……!姉さん、後ろへ!」
刹那は瞬間的に体勢を立て直すと、琥珀色の瞳で二人を見据え、低く短く命じた。
「響、詠――“静謐の縄”を」
詠は呪式の符を握りしめ、静かに空気を震わせながら縄を展開する。
「了解」
刹那は息を整え、響と詠の動きを確認しながら神原との対峙に集中する。
詠は呪式の符を握りしめ、静かに空気を震わせながら縄を展開する。縄が闇の中で光を帯び、神原の動きを封じようとする。
刹那は息を整え、響と詠の動きを確認しながら神原との対峙に集中した。
「――鎮魂、拘束、連環……」
日時・場所:11月28日 午後3時53分、地下第7観察室・非常通路
しかし、神原の動きは止まらなかった。縄が光を帯びて絡もうとする瞬間、彼の体がわずかに歪み、空間のわずかな隙間を利用してすり抜ける。石壁にぶつかるたび、冷たい音が地下室に響き渡った。
「くっ……!」刹那は歯を食いしばり、拳を握り直す。額に汗が滲み、冷たい空気の中で呼吸が荒くなる。
「姉さん、やつ……普通じゃない!」響の声に、刹那はうなずく。
「神原……冷静に、心を読むんだ」刹那の声には緊迫が漂いながらも、冷静さを保とうとする意志が混じっていた。
詠は符を何度も唱え、縄の力を強める。光の縄が神原を捕えようと伸びるが、神原の狂気と異常な反射速度に押され、逃げる隙間を探す。
朱音の直感が突然、強烈に暴走する。胸の奥で脈打つ何かが彼女を突き動かす。「危ない……行けない!」その声は自分のものではなく、過去の記憶や誰かの感情が重なったように響いた。
「――まだ、終わらせない!」神原が低く唸る声が、地下室の壁に反響し、重い静寂と恐怖をさらに濃くする。
刹那は冷たい視線を神原に合わせながら、深呼吸をして次の手を探った。「響、詠、次は……一気に決めるわよ」
日時・場所:11月28日 午後3時54分、地下第7観察室・非常通路
次の瞬間――神原の身体から、爆ぜるような衝撃波が広がった。床の石板がひび割れ、埃と瓦礫が舞い上がる。刹那は刃を構えたまま一瞬空中に跳ね、響は咄嗟に神原の衝撃から身をかわした。
「くっ……!全力か!」刹那が短く息を吐く。光の縄は振動で揺れ、神原の異常な力に押される。
詠が手を掲げ、符を連続で唱える。「静謐、連鎖――!」その声に応えるように、光の縄が再び神原を包もうとし、空間にきらめく結界の線が走る。
朱音は目を見開き、身体が自然に前に出る。直感が暴走し、頭の中に“逃げろ、捕えろ、ここを――”という複数の声が混ざり合った。
「危ない、朱音!」玲の声が地下室の闇から響く。しかし、朱音の手は止まらない。光の縄と衝撃波の間で、何か“見えざる糸”を辿るかのように指先が動く。
神原の唸りが低く、地下の壁を震わせる。「まだ……終わらせん……」
刹那は呼吸を整え、冷たい瞳を神原に据えた。「今度こそ……止める」
日時・場所:11月28日 午後3時55分、地下第7観察室・非常通路
響が息を吐く。額の汗が光り、荒い呼吸を整えながらも瞳は神原から離れない。刹那が小さくうなずき、背後の詠に目配せをする。
「詠、結界を維持しろ。今度は一瞬の隙も逃さない」
詠は黙ってうなずき、手をさらに高く掲げる。掌から紺碧の符が空気を切るように浮かび、光の縄と絡み合う。
朱音は地面に膝をつき、額に手をあてる。直感が渦巻き、頭の中に映像と声が押し寄せる。小さな声が零れた。
「ここ……神原さんが、叫んでる……でも、止めなきゃ……」
玲がすぐに横から手を伸ばす。「朱音、離れろ!判断が揺れると危険だ!」
だが朱音の目には迷いがない。小さな手が光の縄に触れると、神原の体の動きが微かに止まり、反応が一瞬遅れた。その瞬間、刹那が一歩前に出て刃を突き出す。
「今だ、響!」
日時・場所:11月28日 午後4時12分、地下第7観察室・封印区域通路
薄暗い構内に、乾いた足音がふたり分だけ響いていた。先に口を開いたのは、隠れるように立っていた霧島玲於奈だった。
「玲……いるのか?」
玲はわずかに息を整えながら返す。「ここだ。朱音、後ろに下がって」
朱音は小さくうなずき、玲の後ろへと移動する。通路の先には、微かに赤い光が揺れていた。
「誰か……いる……」朱音の声が震え、直感が警鐘を鳴らす。
「成瀬、状況は?」玲が無線を握りしめる。
「扉の奥に動きがあります。警戒レベルを最大に引き上げました」成瀬の声は冷静だが、微かな緊張が滲む。
玲は息を飲み、暗がりに目を凝らす。「行くぞ。ゆっくり、無駄な動きはしない」
朱音は小さく息を整え、手のひらに光を集める。直感の波が再び強まり、彼女の視界に揺れる影が浮かぶ。
日時・場所:11月28日 午後4時15分、地下第7観察室・封印区域通路
「……来ないで、玲さん。あなたまで“記録”にされる」
玲は足を止め、影の奥に潜む人物を見据えた。
「あなたが霧島玲於奈か。命令者に会った唯一の人間だと聞いた」
通路の反対側から、軽やかな足音が割り込む。
「兄さん、離れろ!」
黒い衣の青年、服部響が刹那と共に現れた。双剣を背に、警戒を解かない目で神原の異常な動きを見つめる。
「ここは俺たちに任せろ」響の声は低く、しかし揺るぎない決意を帯びていた。
玲は微かに頷き、朱音を後ろに下げる。直感が告げる――ここでの判断ひとつで全てが変わる。
「響、状況を確認してくれ」
響は刹那と共に前に出て、神原の動きを封じる準備を整える。空気が一瞬で張りつめ、地下の静寂が重く圧し掛かる。
日時・場所:11月28日 午後4時16分、地下第7観察室・封印区域通路
薄い金属臭が漂っていた。
換気が止まった地下の空気は湿り気を帯び、わずかに振動する非常灯の灯りが壁を脈打つように照らす。
響が低く呟く。「奴の動き、ただ事じゃない……兄さん、準備はいいか?」
玲は息を整えながら応える。「ああ。朱音は後ろに。万が一に備えて」
刹那が静かに刃を構える。「連携を乱さないで。動きは三人で封鎖する」
神原が荒い息を漏らし、地下通路の奥で身体を揺らす。光の反射で瞳が異様に光り、理性の欠片もない狂気がそこにあった。
「……来い」響の声が通路に響き、刹那と詠が互いに視線を交わす。三人の影が地下の薄明かりの中で揺れ、緊張が空気を裂くようだった。
日時・場所:11月28日 午後4時18分、地下第7観察室・封印区域通路
薄暗い地下通路に、乾いた足音と微かな機械音が交錯していた。玲は周囲の影を警戒しながら、響の視線を受け止める。
「二年前。民間警備会社にいた頃、密室で起きた『自殺』の調査依頼を受けたとき……」響の声は低く、重みを帯びていた。「あの男――命令者が現場にいて、依頼者の“代理”として指示を出してきたんだ。そのときから、すべてが計画されていた」
刹那が冷ややかな目で神原を見据え、肩越しに言葉を重ねる。「影の糸はあまりにも深く、我々の知る現実を超えて絡んでいる。兄さんたちが今、ここで直面しているのは、その一端に過ぎない」
詠は静かに呪式の結界を整えながら、ささやく。「油断すれば、全員……“記録”にされる。あの男の命令は容赦がない」
玲はその場に立ち尽くし、息を整える。指先で壁を軽く叩きながら、低くつぶやいた。「つまり、神原も、あの場にいた犠牲者も、そして俺たち自身も……最初から計算されていたってことか」
響が拳を握り締め、わずかに歯を食いしばる。「兄さん、今度こそ逃がさない。あの男の手の内に乗せるわけにはいかない」
刹那がうなずき、短く鋭く言い放つ。「動くなら、今しかない。ここで全てを断ち切る」
詠が結界の最後の符を結び、低い声で警告する。「準備は整った……後戻りは許されない」
地下の空気が一瞬張り詰め、非常灯の光が微かに壁を揺らす。その瞬間、玲たちの視線は一斉に封印扉の奥へと向かっていた。
日時・場所:11月28日 午後4時21分、地下第7観察室・封印区域通路
命令者の口角がわずかに、まるで人の形を模倣しただけの“笑い”を作った。冷たい光が瞳に反射し、その奥底には計り知れない冷徹さが潜んでいる。
「ふふ……なるほど、ここまで追ってくるとは思わなかった」その声は低く、静かに通路の壁を伝うだけで、圧迫感を生む。
玲は息を整え、静かに答える。「命令者……あなたが全てを仕組んだんだな」
「そうだ。計画は完璧だった。だが……君たちは面白い」命令者の声に、僅かな嘲笑が混ざる。「人間というのは、どれだけ不利な状況でも、抗おうとするものらしい」
刹那が鋭い視線を命令者に向け、短く命じる。「兄さん、前に出ろ。影班の指示に従う」
響が刹那の隣で拳を握り、低くうなずく。「この瞬間まで、全力で守る」
詠は静かに結界を整えながら囁く。「兄さん、警戒を緩めるな……あの男は人間の形をしているだけの異常者だ」
地下の冷気が張り詰め、照明の赤い光が反射するたびに、通路の奥に潜む影が揺らめいた。玲の心臓が早鐘のように打つ中、命令者の“人形のような笑み”は、その場の緊張をさらに増幅させていた。
日時・場所:11月28日 午後4時01分、第7観察室裏・非常通路前
楓は呼吸を整えながら、狙撃銃のスコープ越しに命令者を捉えていた。非常灯に反射した金属の光が、彼の輪郭を冷たく浮かび上がらせる。
「……撃ちますか? 今なら」
玲は微かに眉を寄せ、視線を銃口の先ではなく、命令者の目に向ける。敵意だけでなく、計算された冷徹さを読み取り、彼の次の一手を予測する。
「まだだ……」玲の声は低く、しかし揺るぎない。
「楓、標的は確かに捕らえている。でも、ここで撃てば……奴の目的が変わる可能性がある。状況を把握し、全てのリスクを考慮してからだ」
楓は一瞬ためらい、スコープ越しに命令者を凝視する。彼の瞳には、既に何層もの思惑が潜んでおり、単純に射殺して終わる相手ではないことを感じ取る。
「……わかりました。兄さんの判断に従います」
玲は息をひとつ吐き、足元の地面に微かに力を入れる。背後では刹那と響が、警戒態勢を崩さず、命令者の動きを封じるために微動だにせず待機している。
「命令者、聞こえているか……。ここで終わらせることもできる。しかし、すべてを知った上で、お前自身の言葉で終止符を打たせる」
楓は再びスコープを覗き込み、指先で微調整を続ける。狙撃はただの力ではなく、状況を掌握した上での慎重な決断だと理解していた。緊張が体を締め付ける中、玲の決断と命令者の挑発が交錯する地下空間は、まるで時間そのものが止まったかのような静寂に包まれていた。
日時・場所:11月28日 午後4時07分、記録保管室前
朱音は扉の前で息を整え、手を伸ばす前に深く一度吸い込んだ。胸の奥で、かすかなざわめきが記憶の奥底を刺激する。まるで、この扉の向こうに眠るものが、自分の心に直接語りかけてくるかのようだった。
「ここ……本当に、あの人の記録があるんだ……」
朱音の指先が扉に触れた瞬間、微かな衝撃が体を駆け抜ける。映像でも文字でもない、感覚だけの“追体験”。過去の記録が、まるで彼女の意識に流れ込むように、記憶の断片を次々と見せる。
「――お父さん……」
朱音の声は小さく、しかし確かに震えていた。胸の奥で、父・圭介が見てきた真実と、そこに刻まれた苦悩が、彼女自身の心に重く落ちてくる。
玲は朱音の背後で静かに見守り、必要以上の干渉はしなかった。だが、その目は鋭く、朱音が感じ取ったものを理解し、今後の行動をどう導くかを即座に計算している。
「……朱音、感じたことを言葉にしてみろ。どんなに小さなことでもいい」
朱音はゆっくりと頷き、記録保管室の扉を開ける決意を固めた。扉の向こうには、父の真実と、自分が引き継ぐべき“記憶”が待っている。
日時・場所:11月28日 午後4時07分、記録保管室前
朱音は目を閉じ、息を整える。胸の奥でざわめく感覚は、まるで遠い過去の声が直接心に語りかけてくるかのようだった。映像でも文字でもない、感情と出来事だけが、瞬間的に押し寄せる。
「……これは……お父さん……?」
声はかすかに震え、しかし確かに自分の言葉として口を突いて出た。扉の向こうで眠る記録の重みと、父が背負った苦悩が、朱音の体にそのまま伝わる。
玲は一歩下がり、静かに彼女の様子を見守る。口は出さず、朱音が全てを感じ取り、自分で判断するのを待っていた。
「感じたことを逃さず、整理して……そうすれば、次に進める」
朱音は深呼吸を一度し、手をさらに扉の奥へと滑らせる。そこには、父の真実、そして自分が受け継ぐべき“記憶の意志”が待っている。
日時・場所:11月28日 午後4時08分、記録保管室内部
朱音は金属箱の前で立ち止まり、ゆっくりと蓋に手をかけた。箱は長年の埃と錆に覆われており、微かに冷たい鉄の匂いが漂う。
「……これが……お父さんの……」
指先で蓋を開けると、中から紙束と数枚の写真、そして小さな録音機が姿を現した。その瞬間、胸の奥にざわめく感覚が再び走る。視界の端で揺れる光景が、まるで自分の目の前で起こったかのように、時間を越えて押し寄せた。
朱音は息を飲み、手を止めたまま箱の中身を一つひとつ確かめる。写真のひとつを手に取ると、父・圭介の声が頭の中で響くような錯覚がした。
「……全部……ここにあったの……」
玲は静かに後ろから見守る。朱音の直感と感覚が、この先の真実への道筋を示そうとしているのを、彼は知っていた。
日時・場所:11月28日 午後4時09分、記録保管室前
記録保管室の前は、沈黙だけが張り付いていた。冷えた空気の中で、朱音はゆっくりと箱に手を伸ばした。紫はすぐ横で、息をひそめて見守っている。
「……これが……お父さんの……?」
手のひらに伝わる金属のひんやりとした感触と、古い箱から立ち上る微かな埃の匂いが、朱音の胸をざわつかせた。その瞬間、箱の表面から光が揺らぐように見え、胸の奥に鋭い感覚が走る。まるで、箱の中の“記録”が彼女の記憶と重なり、時空を越えて情報を伝えようとしているかのようだった。
「朱音、落ち着いて……」紫が囁く。しかし、その声も届かないほど、朱音の感覚は研ぎ澄まされ、世界の音が遠くなる。
その時、控えめながら確実に存在感を示したのは、玲の指示で連絡を受けたスペシャリスト、御子柴理央だった。深い分析眼で箱と朱音の反応を観察しながら、低くつぶやいた。
「彼女の感覚は単なる直感じゃない。記憶の痕跡が、箱の中に保存されているデータと共鳴している……触れるたびに追体験が生まれる可能性がある」
その言葉を聞いて、朱音は一瞬手を止める。しかし、直感が彼女を突き動かす。金属箱の蓋をさらに押し上げると、埃と共に長年閉ざされていた情報が、静かに、しかし確実に姿を現した。
「……見て、紫……全部、ここに……」
御子柴は慎重に箱の隣に立ち、解析用の小型機器を取り出す。彼女の目は冷静だが、確実にその場の空気と朱音の感覚の異常を把握していた。彼女の存在が、朱音の直感と箱の中身を橋渡しし、事件の核心へと導く重要な役割を果たす。
日時・場所:11月28日 午後4時15分、地下駐車場
暗い車庫のような場所に、冷えた空気と鉄の匂いが漂っていた。濡れたコンクリートの床に映るわずかな光が、湿った空間を鈍く反射する。足音ひとつでさえ、壁に跳ね返り、深い静寂の中で不自然に響いた。
朱音の視線は、目の前に立つ誰かの背中に固定される。影のように黒く、静かに息をするその存在は、何かを待っているようでもあり、こちらを警戒しているようでもあった。
「……誰だ……」朱音の声は震えた。息が白く、冷たい空気に混ざって漂う。
背後から、玲の低い声が届いた。
「落ち着け、朱音。まず相手の動きを読むんだ」
「……でも、すごく……違和感が……」朱音は直感の異常な高まりを感じ、手を握りしめる。
その時、スペシャリストの成瀬由宇が静かに影から現れ、銃口を構えずとも存在だけで威圧する。
「玲、注意だ。この男……普通じゃない」
成瀬の観察眼は、背中の人物の僅かな筋肉の緊張、呼吸の微かな乱れまで捕らえていた。隣に立つ桐野詩乃は、静かに手袋を整えながら、周囲の微かな痕跡を見逃さず記録している。
「朱音、君の直感は正しい。あの人間は……何かを隠している」玲が告げる。
背中の人物はゆっくり振り返る。そこには、冷ややかで計算された視線があり、命令者の三文字の名が自然と脳裏に浮かぶ。光がその瞳に僅かに反射すると、空気が一層重くなるのを朱音は感じた。
「……命令者……」朱音の声は、恐怖と畏怖が混じったささやきになった。その瞬間、地下駐車場全体に静かな緊張が張り詰め、誰もが次の動きを待っていた。
成瀬は無言で距離を詰め、玲の隣に立つ。
「このまま動けば、相手は逃げるか、襲うか……判断は君次第だ」
朱音は拳を握り、胸の奥の直感に耳を澄ませる。湿ったコンクリートの匂い、鉄の冷たさ、静かに漂う緊張感――それらすべてが、今、目の前の人物がただの人間ではないことを告げていた。
日時・場所:11月28日 午後3時52分、地下通路・防火扉前
薄暗い廊下にひんやりとした空気が漂っていた。防火扉の向こうから、無音の重さがこちらに伝わる。過去の事件で封じられた記憶、隠された真実の重さが、この空間に静かに堆積しているかのようだった。
「玲、こちらの通路……異常な気配があります」
成瀬由宇の低く静かな声が響く。黒い戦闘服に身を包んだ彼の目は、暗がりの微かな陰影すら見逃さない。
桐野詩乃は手袋をはめ直しながら、壁のひび割れや床のわずかな凹凸を指先で確かめる。彼女の嗅覚と触覚は、単なる物理的変化だけでなく、過去の痕跡を読み取るように研ぎ澄まされていた。
「封鎖扉の向こうに、何か隠されている……気配だけでも分かる」
「朱音、君の直感を頼る時だ」玲の声は穏やかだが、決意が込められている。
朱音は扉に近づき、手をかざす。ひんやりとした金属の感触が、胸の奥の何かを震わせた。瞬間、頭の中に映像のような感覚が走る――見たこともない光景、聞いたことのない声、封じられた真実の断片が、直感として朱音の意識に流れ込む。
「……見えた……ここに、答えがある」
「成瀬、慎重にいこう。何が出てくるかわからない」玲は静かに指示を出す。
成瀬は頷き、影のように扉の前に身を低く構える。桐野は朱音の横で微かな動きを読み取りながら、封鎖扉を慎重に確認する。
この廊下に集う者たちは、それぞれの専門性を武器に、封じられた真実に触れようとしていた。湿った空気、冷たい鉄、そしてひんやりとした闇――すべてが、これから起こる事件の前触れを告げていた。
日時・場所:11月28日 午後3時57分、記録保管室内
カチリ。わずかな音とともに、古い金属箱は静かに開いた。
朱音の手がそっと中に伸びる。指先が触れたのは、色褪せたUSBメモリだった。長い年月を経て微かに埃をまとったその表面に、彼女の呼吸が反射する。
「これ……何か、入ってるの?」朱音が呟く。
横で紫が覗き込みながら、小さな声で答える。「形状からして、データの保管用……でも、誰が入れたのかまでは分からない」
朱音の視線は次に、圭介の筆跡で書かれたメモに移った。丁寧だが、どこか焦燥を帯びた文字列が、紙の上で揺れている。
そして最後に、朱音の手がそっと取り上げたのは、小さな紙片だった。血のように赤く染まったその断片は、触れただけで冷たく、胸の奥に鋭い痛みを残す。
「……これは……」朱音の声は震えていた。記憶の奥底から、見たことのない光景が脳裏に走る。声、匂い、足音、そして――人の絶望。
「……朱音、気をつけて。何が起こるか、分からない」紫の声が静かに響く。
朱音は深く息を吸い込み、紙片とUSBメモリ、メモを胸の前で抱えた。胸の中で感じるのは、圭介の記憶の痕跡と、事件の残酷さの予兆だった。
「……玲さん、これが……真実の断片……」
玲の声は、地下の冷たい空気の中でも確かに届く。朱音の胸の奥で、直感がさらに強く震えた。
日時・場所:11月28日 午後3時58分、記録保管室内
朱音の視界に、見たことのない景色が流れ込む。暗く湿った地下室。薄暗い電灯の光に照らされ、圭介の荒い呼吸が浮かび上がる。
「――逃げろ……!」誰かの声が叫び、朱音の胸を締めつける。
鉄と血の匂いが鼻を突き、心拍が早まる。視界の片隅で、圭介は小さな箱を必死に抱えている。その手の震え、瞳の焦燥。
「……封鎖しろ!ここはもう持たない!」圭介の声が地下室の壁に反響する。
朱音の指先が紙片に触れると、視覚と感覚が一気に押し寄せる。過去の恐怖、絶望、そして守ろうとする意思の全てが、彼女の胸を貫いた。
「――大丈夫……お父さん、落ち着いて……」朱音は小さく呟く。だが、声は現実には届かない。ただ、直感が導く未来への道筋だけが、ぼんやりと浮かんでいる。
視界の最後に、圭介が低く呟いた言葉が残った。
「……守れ、朱音……未来を……」
その瞬間、朱音は自分の役割を、そして“継承される記憶”の重さを、胸の奥深くで実感した。
日時・場所:11月28日 午後3時59分、記録保管室内
朱音は震える手で紙片と箱を握りしめる。胸の奥に流れ込む圭介の記憶は、まるで自分のもののように鮮明だ。
「パパは……この箱を“本当の場所”に隠したかった……。でも、途中で……途中で止められて……」朱音の声はかすかに震え、言葉は詰まる。
視界の中で、圭介の必死の表情が浮かぶ。誰かに阻まれ、立ち止まらざるを得なかった瞬間。胸を締めつけるような恐怖と無力感が、朱音の心に重くのしかかる。
「でも……わたしが……わたしが見つける……パパの想いを、ちゃんと守る……」朱音は拳を強く握り、決意を固める。
冷たい空気の中、記録保管室の金属の扉は静かに光を反射し、過去と未来を繋ぐ彼女の使命を静かに見守っている。
日時・場所:11月28日 午後4時00分、記録保管室前
朱音の声は震えていたが、その目には揺るがぬ決意が宿っていた。
「玲お兄ちゃん……わたし、見たの……パパの記憶……本当の隠し場所は……もっと深いところ……外の、あの――旧搬入口の下……!」
玲は一歩、朱音に近づき、額に薄く汗を浮かべた彼女の瞳をじっと見つめる。
「……わかった、朱音。君の直感を信じる。行こう、旧搬入口まで」
部屋の静寂が二人の決意で満たされる中、冷たい蛍光灯の光が金属の箱や床を淡く照らし、過去と現在を結ぶ緊張感をさらに深めていた。
成瀬の通信が小さく響く。
『玲、朱音を守れ。影班が補助に入る』
朱音は深く息を吸い込み、握った拳をしっかりと解き、二人は地下通路へと足を踏み出した。
日時・場所:11月28日 午後4時05分、旧搬入口地下通路
旧搬入口は湿った空気が漂い、鉄の匂いが濃く沈んでいた。滴る水音だけが、長く伸びた通路の奥へと反響する。
朱音は手すりを伝いながら慎重に足を運ぶ。玲も後ろから彼女の動きを確認しつつ、通路の暗がりに目を凝らす。
「……この先、何があるか分からない。慎重に行こう」
その声に応えるように、無線から成瀬の冷静な声が届いた。
『了解、玲。通路の安全確認中。朱音には触れさせるな。何があってもこちらで対応する』
湿ったコンクリートの床に反射する微かな光を頼りに進む二人の背後、影班の刹那が静かに姿を現した。
「玲、朱音。こちらで援護する。異常があればすぐに知らせろ」
刹那の声は低く、無駄のない緊張感を孕んでいた。
響と詠も後方からゆっくりと歩みを合わせ、通路の壁沿いに目を光らせる。
朱音の手が再び小さく震える。
「……パパの場所は、絶対ここ……」
玲はその小さな手を握り、優しくも力強く答える。
「君の直感を信じる。必ず見つける、朱音」
水滴が落ちる音、足音、呼吸――全てが、旧搬入口の奥に眠る“真実”への導入を告げるようだった。
日時・場所:11月28日 午後4時10分、旧搬入口地下通路の奥
薄暗い通路の先、壁に反射した光が人影を浮かび上がらせた。金属の匂いが濃く漂う中、冷たい声が響く。
「ようやく来たか、玲探偵」
その声の主は、黒いスーツに身を包み、顔の表情を読み取りにくい男だった。冷徹な視線が、通路を進む玲たちをじっと見据えている。
朱音が小さく息を飲む。
「……あの人が……」
成瀬の声が無線越しに届く。
『影班、位置確認。命令者のようだ。無理に接触するな、玲』
玲は静かに頷き、朱音の手を軽く握り直す。
「大丈夫だ、俺たちがいる」
響と詠も緊張を高めながら前方を警戒する。
影班の刹那が低く声をかける。
「玲、朱音。背後は任せろ。君たちは前進しろ」
命令者の気配と、朱音の直感が交錯する空間。地下通路の空気は、今まさに緊張の極限に達しようとしていた。
日時・場所:11月28日 午後4時12分、旧搬入口地下通路の奥
命令者は肩の力を抜くように微かに口角を上げたが、その笑みは決して安らぎをもたらすものではなかった。どこか機械的で、感情を模倣しただけの不気味な形だった。
「……やっと来たな、玲探偵。だが、遅すぎたかもしれない」
朱音は息をのむ。背後で刹那が低く警告する。
「油断するな、朱音。あの笑みは罠だ」
玲は少し前に出て、落ち着いた声で応える。
「焦っても仕方ない。まずは話を聞かせてもらう」
命令者の目が鋭く光る。
「話? ふふ……話す価値があると思うのか?」
響が刹那の横で剣を握りしめる。
「兄さん、無理は禁物だ。奴の手口は一筋縄じゃない」
詠が静かに呪式を整え、背後の安全を確保する。
朱音は小さく頷きながらも、心の中でパパの記憶を辿る――本当の場所を示したあの瞬間の感覚を、忘れずに。
日時・場所:11月28日 午後4時15分、旧搬入口地下通路
通路奥、湿った空気の中で微かに足音が響く。靴底がコンクリートを蹴る音、それに伴う微かな金属の擦れる音。
朱音は息を潜め、耳を澄ませる。
「誰……?」
玲が低く答える。
「影班か、奈々か、服部一族か……判断はまだつかない。だが、今は関係ない」
刹那が剣の先を少し持ち上げ、警戒を強める。
「ここで油断したら終わりです。誰であれ、全員警戒対象」
響が壁に身を寄せ、慎重に前方を見据える。
「兄さん、距離を詰められる前に位置を確認したほうがいい」
詠は静かに呪式の印を結び、背後の安全と通路の封鎖を整える。
朱音は小さく手を握りしめ、胸の奥でパパの記憶をたどる。
「本当の場所……もうすぐ、絶対に見つける」
日時・場所:11月28日 午後4時18分、旧搬入口地下通路
パン、と乾いた音が地下に反響した。
命令者の身体が硬直し、膝がゆっくりと崩れ落ちる。胸元の黒い染みがじわりと広がった。
玲は銃口を下げ、低く呟いた。
「終わった……やっと、終わったんだな」
楓が肩越しに視線を送る。
「……本当に止めてよかったのか、兄さん?」
玲は一瞬、遠くを見つめる。
「これ以上、誰かを犠牲にするわけにはいかない。命令者に従う必要はもうない」
朱音は震える手で拳を握りしめ、でも目には光が宿っていた。
「玲お兄ちゃん……パパのために、私たちのために……ありがとう」
背後で刹那が剣を納め、響と詠も警戒を解く。
「残るは、記録の整理と安全確保。これで一段落だ」
玲は深く息をつき、暗く湿った通路を見渡す。
「……さて、真実の場所に向かうか」
日時・場所:11月28日 午後5時12分、医療棟回復室
医療棟の照明は、外の冷たい闇とは対照的に柔らかく暖かかった。機械のわずかな駆動音が、静けさの中に一定のリズムを刻んでいる。
朱音はベッドに横たわる神原の手をそっと握り、目を閉じたまま囁いた。
「神原さん……もう大丈夫。怖いことは終わったんだよ」
神原の瞳がゆっくりと開き、混乱と安堵が入り混じった視線を朱音に向ける。
「……朱音……君の……記憶が……」
玲はそっと椅子に座り、神原を見守りながら言った。
「全部覚えている。君の過去も、君の痛みも。これからは守る側だ」
朱音は小さく頷き、ベッドの傍に立つ玲の肩に手を置いた。
「玲お兄ちゃん、私……全部つなげるよ。パパの思いも、みんなの想いも……」
透き通るような静寂の中で、医療棟の暖かい光が三人を包み込んだ。
刹那が入り口で警戒を解きながら、響と詠に向けて低く言った。
「これで全ての異常は収束……後は、未来のために歩き出すだけだ」
玲は深く息を吸い込み、神原の回復を見届けるように静かに微笑んだ。
「さあ、みんな……未来へ進もう」
と、その時。
医療棟の静寂を破るかのように、遠くの廊下から微かな電子音が響いた。
玲が立ち上がり、足音を抑えながら音の発生源を探る。
「誰だ……?」
朱音は神原の手を握りながら耳を澄ます。
「……新しい誰かじゃない、玲お兄ちゃん。昔の……声がするの」
刹那が入口に近づき、影のように動きながら低く告げた。
「警戒を解くな。まだ完全には終わっていない……」
医療棟の柔らかい光の中で、三人の緊張が一気に張り詰めた。
その音の正体が、誰なのか――未来の影か、過去の残滓か――まだ誰も知る由はなかった。
日時・場所:11月29日 午後2時15分、郊外の静かな墓地
冷たい風が樹々の葉を揺らし、かすかなざわめきが墓地に響く。
朱音は小さな手を握りしめ、父・圭介の横に立っていた。
「パパ……神原さん、もう怖くないよね。みんな、きっと幸せになれるよね」
圭介は深く息を吐き、墓石に手を置く。
「うん……神原も、そして僕たちも、やっと前に進める。朱音……君の目に、希望がある限り、過去はただの記録じゃなくなる」
朱音はスケッチブックを開き、真新しい線で未来の風景を描き始める。
「これは、みんなの記憶。悲しみも、痛みも、全部ここに残すの。だけど、もう怖くない」
圭介はそっと朱音の肩に手を置き、微笑む。
「君の意思が、みんなの記録を超えていくんだね」
風が墓地を抜け、朱音の髪を揺らす。光の粒が舞う中、二人は静かに空を見上げた。
過去は確かに存在した。けれど、それを受け継ぐ者の意志が、未来を形作るのだと――二人は心で確かめ合った。
朱音は小さく、しかし確かな声で呟く。
「これからも、みんなの記憶と一緒に生きる……」
墓地に沈む光の中、二人の影がゆっくりと長く伸び、物語は静かに幕を閉じた。
朝日時・場所:11月29日 午後3時05分、佐々木家の居間
窓の光が、室内の静けさを柔らかく照らしていた。
事件の余韻をまだ引きずった空気の中、朱音はスケッチブックを膝に乗せ、じっと白紙を見つめる。
「パパ……何から描けばいいのかな……」
圭介はソファに腰掛け、静かに背を伸ばす。
「朱音……まずは、君の思うままに描けばいい。悲しみも、怖さも、全部紙に出してしまえ」
朱音は小さく頷き、鉛筆を握る。
過去の記憶、揺れた感情、失われた時間……すべてを線に託すように描き始める。
圭介はその横で、静かに息を整える。
「事件は終わった。だけど、記憶と意思は、君の中で生き続けるんだ」
朱音の瞳に光が戻る。紙の上に描かれるのは、過去の痛みだけでなく、これから紡ぐ未来の希望だった。
「うん……みんなの記憶、忘れない。これからもずっと……」
室内に差し込む光の中、父と娘は静かに向き合い、物語は余韻を残したまま静かに幕を閉じる。
日時・場所:11月29日 午後3時10分、佐々木家 居間隣の作業スペース
反対側では奈々がデバイスを操作しながら、服部刹那・響・詠と淡々と作業内容を確認している。
「刹那、センサーは全て正常稼働か?」
刹那は頷き、暗色の瞳を光らせる。
「はい。異常はありません。響、詠、連携の準備を」
響が短く答える。
「了解。各モジュールの動作も問題なし」
詠は小さなスクリーンを指で滑らせ、符号を確認する。
「データのバックアップ完了。万が一の時も安全です」
奈々は頷き、静かに息をつく。
「これで、朱音たちの記憶を安全に守れる。全員、気を抜かず最後まで」
刹那は冷静に指示を出す。
「了解。任務完了まで、各自の位置を死守する」
作業スペースに漂う緊張感は静かだが確実で、全員がそれぞれの役割に集中していた。
日時・場所:11月29日 午後3時15分、佐々木家 居間隣の作業スペース
そのとき、扉の方から足音が響いた。
「……玲お兄ちゃん?」
朱音が声を上げる。足元のスケッチブックから目を離し、立ち上がろうとする。
玲は静かに扉を押し開け、薄暗い室内に足を踏み入れる。
「みんな、状況は把握した。俺も手伝う」
奈々が頷き、デバイスから視線を外す。
「了解です。玲さん、協力をお願いします」
刹那が立ち上がり、冷静な声で指示を出す。
「全員、自分の位置を維持。玲、朱音を守りながら動いて」
響が短く答える。
「了解。安全確認を優先」
詠はスクリーンの前で符号を確認しながら静かに頷く。
「バックアップは安定しています。任務を妨げるものはありません」
玲は朱音の隣に立ち、手を軽く添える。
「朱音、大丈夫だ。俺たちがついてる」
部屋の空気が少し和らぎ、しかし依然として緊張感の中で、全員が慎重に次の行動を待っていた。
【篠田のあとがき】
この文章が、誰の手に渡り、誰の目に触れるのか。
それを考える余裕も、いまの僕にはもうない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
――あの日、僕は生き延びられなかった。
いや、正確には、
「生き延びてはいけなかった」のだと思う。
神崎玲がこの事件を追い始めるより前、
僕はすでに“命令者”の影に触れてしまっていた。
初めて気づいたのは、ごく小さな違和感だった。
事故として処理された連続死。
どれも、説明のつかない点が一つだけある。
“本来なら、そんな行動を取るはずのない人間が動いている”――それだ。
調べていくうちに気づいた。
これはただの偶然ではない。
誰かが、記録を消し、証言を塗り替え、人を動かしている。
僕は震えた。
それは怒りではなく、恐怖だった。
けれど、調べるのをやめられなかった。
理由は、誰に聞かれても言えない。
おそらく僕は――自分自身を“正したかった”のだ。
そして、
すべてを悟ったあの夜、
僕は玲へ手紙を出した。
あの一通が、彼をここまで追い込むきっかけになると分かっていた。
それでも託すしかなかった。
なぜなら、
僕は真実に辿り着いた瞬間、もう“証人”ではいられなくなったからだ。
命令者は笑っていた。
声はあったのか、なかったのか。
気配だけで背骨が凍るような存在だった。
言葉を交わした記憶も曖昧だ。
ただ、最後に聞こえた言葉だけははっきりしている。
「記録は消えるが、意思は残る。お前はどちら側だ?」
僕は答えなかった。
答えられなかった。
だから――ここに記す。
これは僕が最後に残す“意思”だ。
玲へ。
そして、朱音ちゃんへ。
僕が拾いきれなかった真実を、
あなたたちは確かに掴んでくれた。
もし、僕の存在が誰かの心に影を落としたのなら、許してほしい。
けれど、もしほんのわずかでも、
あなたたちの行動の助けになれたのなら――それで十分だ。
最後に。
記録は欠ける。
記憶は揺らぐ。
だが、意思だけは、決して消えない。
それを信じてくれて、ありがとう。
──篠田 敬




