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68話 霧久村の沈黙(きりくむらのちんもく)

登場人物紹介


れい

•本作の探偵。冷静沈着で観察力に優れる。判断力と洞察力を活かし、村の不可解な事件や失踪事件に挑む。

•性格は沈着だが、朱音には兄のように優しい面を見せる。


佐々木朱音あかね

•小学生の少女。好奇心旺盛で観察力が鋭い。火の夢や事件の影響で心に傷を持つが、玲を頼りに事件に向き合う。

•沙耶のことは「ママ」と呼ぶ。


沙耶さや

•朱音の母親。心優しく、娘を守るため冷静に行動する。事件後も朱音の精神的支えとなる。


一之瀬あかり(いちのせ あかり)

•玲の調査チームの分析担当。電子機器や現場解析に長ける男性スペシャリスト。

•三年前の事件や今回の失踪事件におけるデータ分析を担当。


成瀬由宇なるせ ゆう

•かつて「天狗」に扮して村人の間引きに関与していた男。現在は素性を偽らず、事件の調査協力者となる。


桐野詩乃きりの しの

•パソコン操作や情報監視を担当する女性スペシャリスト。怪しい組織や不正の動きを追跡。


安斎柾貴あんざい まさき

•チーム影に所属。ロッジ周辺や村の警戒・監視を行う。静かで冷静な行動者。


圭介けいすけ

•朱音の父。事件後も家族と共に日常を取り戻す。


奈々(なな)

•情報解析のスペシャリスト。記憶やデータの不正を追跡し、調査の先導を担う。


水科瑞穂みずしな みずほ

•K部門・外部評価官。事件の監査・調査を行う。


村上克也むらかみ かつや

•奥霧村駐在。事件現場の情報提供や捜索協力を行う。


高槻仁たかつき じん

•本作の失踪被害者。三年前の事件や今回の謎に深く関わる青年。


大久保良太おおくぼ りょうた

•奥霧村現役区長。古い記録で天狗面の人物として写っていた。


村長(名前不詳)

•村の統率者。朱音たちの調査で事件の背後に存在していたことが明らかになる。

冒頭


空はどこまでも鈍く重く、太陽の輪郭はすでに山影に呑まれかけていた。

長野の奥地にひっそりと存在する村──奥霧村おくぎりむらでは、夕暮れがほかの土地よりも早い。山を這うように沈む陽光は容赦なく色を奪い、その代わりに霧が、白く、静かに村全体を覆っていく。


村人たちは誰もが口を閉ざし、そして時計を見る。

“霧が動き始める時間”。

彼らはそれを 「沈黙のとき」 と呼んでいた。


山道の石段──。

上段に近づくにつれ、足場の悪い苔むした岩肌を踏むたび、靴音がひどく遠くに感じられた。まるで音そのものが霧に飲まれていくように。


「玲さん! もう一人、また──消えたって!」


荒い息を切らせ、石段を駆け上がってきたのは地元駐在の 村上克也 だった。

泥まみれのズボン。震えを止めない声。

それだけで、この異変がどれほど緊急かが伝わった。


玲は落ち着いた目で村上を見据える。

鋭い声で、しかし冷静に問いかけた。


「誰が。どこでだ?」


村上は息を整え、短く答えた。


「観測小屋の裏手の沢で…… 高槻仁たかつき じん って青年が。

足跡が途中まで残ってたんです。でも、そこから先が……完全に消えてました」


玲の目がわずかに細められる。


「足跡が途切れた、だと?」


背後から女性の声がした。

玲のチームの分析担当、一之瀬あかり だ。

すでに背負ったケースからタブレットを取り出している。


「あの沢、地形が複雑よ。現地の状況は?」


村上は首を振った。


「観測助手が応急調査をしてますが、霧がひどくて……まともに動ける状態じゃないそうです。だから応援を、と」


玲は短く頷き、ICレコーダーをジャケットの内ポケットへ戻す。


「朱音。一之瀬。装備を確認しろ。今から現場に向かう」


傍らにいた少女──朱音が小さく頷いた。

その手にはいつものスケッチブック。

不安を漂わせつつも、彼女は玲の言葉に黙って従う。


「観測小屋……三年前の事件でも、あそこ絡んでたわよね」

一之瀬が呟く。


村上はその言葉に顔を曇らせた。


「ええ……。あのときも“神隠し”って呼ばれた失踪があって……。

村じゃ今でもこう言われてるんです。

“あそこは戻ってくる場所じゃない。帰ってこれなくなる場所だ” って」


玲は短く沈黙し、その迷信を切り落とすように言い放つ。


「噂に付き合っている時間はない。──高槻仁を救えるなら、今しかない」


視線は霧の奥へ向けられる。

白い帳の向こうで、確かに “何か” が動いたように見えた。


プロローグ


【場所:郊外のロッジ兼探偵事務所/時間:午後4時12分】


玲が黒い湯呑を机に置いた瞬間、

扉が「コン、コン」と二度、控えめにノックされた。


「どうぞ」


短い言葉だが、張り詰めた糸のような鋭さが混じっていた。


静かに扉が開き、一人の男が姿を見せた。

薄いグレーのコート、山道を急いで来たのだろう、肩にはわずかに土がついている。


村の駐在──村上克也だった。


玲は椅子から軽く体を起こし、視線だけで彼を迎えた。


「珍しいな。村上さんが、ここまで直接来るなんて」

 


村上は深く息を吸い、言葉を選ぶように口を開いた。


「……三年前の“あの事件”を覚えてますか、玲さん」


玲の指先が、湯呑の縁でぴたりと止まる。


「忘れるはずがない。奥霧村の、あの不可解な失踪だな」


村上は無言で頷き、コートの内ポケットから一枚の紙を取り出した。

テーブルに広げられたそれは、手描きと印刷が混在した 奥霧村の簡易地図 だった。


山の稜線、谷筋、霧の流れる方向。

そして、赤い印で囲われた場所が三つ。


ひとつは観測小屋。

もうひとつは白鹿沢。

そして最後は、三年前の失踪現場──旧炭焼き小屋跡。


玲は地図に目を落としながら、ゆっくりと言った。


「……三年前の行方不明者も、この三点を通過していたな」


「ええ。そして──今日、また一人消えました」


短い沈黙が落ちる。


村上は拳を握りしめ、喉の奥でかすかに震えた声を押し出した。


「霧が動き始める“沈黙の刻”に、足跡が沢の途中で途切れていました。まるで……空へ吸い込まれたみたいに」


玲の瞳に、冷たい光が宿った。


「……村の迷信ではなく、誰かの“手”が働いているということか」


「その可能性が高い、と私は思っています」


村上は深く頭を下げた。


「玲さん。お願いです。奥霧村を、もう一度……調べてほしい」


玲は立ち上がり、窓の外に沈みゆく薄暗い山影を見た。


「分かった。──道案内を頼む」


村上の肩の力が、わずかに抜けた。


そのとき、奥のソファから朱音が顔を上げた。

スケッチブックを胸に抱え、玲に向けて声をかける。


「また……霧の村に行くの?」


玲は振り返り、静かに答えた。


「三年前の真実を追うために。

今回の失踪は、あの事件と“線でつながっている”可能性がある」


朱音はスケッチブックを開き、前に描いた「観測小屋」のスケッチを見つめた。


「……じゃあ、あの絵、本当に関係あったんだ」


玲はわずかに頷いた。


その瞬間、外から吹き込んだ風が、霧の匂いを含んでいた。

山の奥で、何かが静かに動き始めたかのようだった。


【奥霧村・山道/午後5時42分】


車のライトが、白い霧の壁へと沈んでいく。

標高が上がるたび、空気は冷え、呼吸に小さな痛みが混じった。

エンジン音は霧に吸い込まれたようにくぐもり、道そのものが消えてしまいそうな錯覚に襲われる。


助手席で朱音が、膝に抱えたスケッチブックをぎゅっと抱きしめた。

「……霧、すごい。夜みたいだね、まだ夕方なのに」


玲はハンドルを握りながら、前方のかすかな反射だけを頼りに進む。

「この村は、日の入りより“霧の入り”のほうが早い。だから村人は時間じゃなく、霧の濃さで行動を決める」


後部座席の一之瀬は、タブレットで奥霧村の地図データを確認していた。

「地図、見れば見るほど変。林道の名前が途中で消えてたり、古い道標が現地に無かったり……更新が止まってるというより、“意図的に消された跡”がある」


玲は視線を前に向けたまま、短く頷く。

「三年前も同じだった。地図には載っているのに、現地では道が封鎖され、観測小屋まで行った者が行方不明になった」


朱音は不安そうに囁いた。

「……そのとき、戻ってこなかったのが、高槻さんのお兄さん、なんだよね?」


「そうだ」

玲の声は低い。

「足跡は観測小屋の裏で途切れていた。今回と……まったく同じだ」


車がゆっくりとカーブを曲がったとき、霧の切れ間に古い木製の看板が浮かび上がった。


《奥霧村 白霧郷しらぎりごう


その下には、奥霧村の区域図が釘で打ちつけられている。

ところどころ水に滲み、修正跡だらけで読みにくい。


一之瀬が目を細めてつぶやいた。

「観測小屋だけ……なぜか三回も位置が書き換えられてる。手書きで。“移動する建物”なんて、ありえる?」


朱音は息をのむ。

「……霧の中で、場所が変わっちゃうってこと?」


玲は車を停め、外灯の消えた村道を見つめた。

「いや。変わってるのは建物じゃない。“地図を描いた人間の記憶”のほうだ」


その瞬間、霧の向こうから足音が近づいた。


姿を見せたのは、黒いフィールドジャケットに無線機と測量装備を携えた男。

奥霧村担当の地形分析スペシャリスト──


地図改竄追跡官・神楽坂圭かぐらざか けい


彼は玲を見るなり、静かに言った。


「来てくれて助かる。……また“地形が書き換わった”。

村の地図も、道の勾配も、方位も。これは自然じゃない。何かが意図して、村を迷わせている」


朱音は思わず一歩後ろへ下がった。

「……三年前と同じ?」


神楽坂は短く息を吐く。

「いいや。今回はもっと深刻だ。足跡が途中で消えるどころじゃない。

“村そのものが、別の場所へ繋がりかけている”」


玲の瞳が鋭く光る。


「わかった。案内してくれ。高槻仁が戻れなくなる前に……霧が村を飲み込む前に、探し出す」


霧はさらに濃くなり、村の入口が白い闇に溶けていった。


【午後10時42分 奥霧村・山中ロッジ廊下】


廊下を這うように、風が吹き抜けた。

宿の外は、相変わらず真っ白な霧。

山の夜は早く、もう人の気配はない。


ただ――

柱が時折きしむような、木が呻くような音だけが、

遠くから低く、じわりと響いてくる。


朱音は身をすくめ、スケッチブックを胸に抱いた。


「……音、したよね。風じゃないと思う」


玲は足を止め、静かに答えた。


「風だけなら、あれほど濁った音にはならない。

 ……来たな。案内役だ」


ロッジの玄関から、黒いレインジャケットを羽織った男が姿を現した。

肩から伸びる小型ライトが霧を刺し、その輪郭が近づくたびに、白い靄が撥ねる。


男は軽く頭を下げた。


「夜分すみません。観測隊のさかい将斗です。

 玲さん、そして支援チームの皆さん……観測小屋まで案内します」


境――

気象動線追跡と地形解析のスペシャリスト。

特に霧の流れ、湿度、温度差から“人が通った痕跡”を掘り起こす技術に長けている。


玲は境のライトを見て、短く頷いた。


「霧が濃い。普通の道案内じゃ無理だろう?」


境は苦く笑った。


「ええ。三年前の事件の時と同じです。

 霧が……“ひっくり返ってる”。

 上から降りてるのか、地面から噴き上がってるのか、判別できない」


朱音は不安げに玲を見上げる。


「三年前の事件って……」


境が言葉を継いだ。


「――ええ。ちょうど、今日と同じ夜でした」


【奥霧村・旧林道/午後6時42分】


霧の密度は、歩くたびに増していった。

車では入れない細い旧林道は、まるで山そのものが口を閉ざし、外界を拒んでいるかのようだった。


木々は黒い影となり、どこまでも高くそびえる。

見えるのは、手元のライトが作る淡い光の輪だけ。

その“外側”は、深い霧と闇に完全に飲まれていた。


朱音が玲の袖をそっとつまむ。


「……なんか、音が遠い。いつもの山と違うよね」


玲は前を向いたまま答える。


「霧が音を吸う。こういう状況では、五感のうち三つが当てにならなくなる。足元だけは絶対に見るな」


朱音は息をのむ。


「見るなって……どうして?」


「錯覚を起こす。地形が捻じれるように見えることがある」


背後で、一之瀬がタブレットを霧から庇うように持ちながら言った。


「GPS、もう死んだ。標高マーカーも更新されない。完全に“霧の壁”の中ね」


そのとき、木の根元近くで乾いた枝の折れる音がした。

三人が同時に振り向く。


そこに、細身の男が立っていた。

グレーの防寒ジャケット、黒縁の眼鏡──そして、足元には計測用のトラッキングデバイス。


“移動解析スペシャリスト”

──水無瀬 透だった。


彼は霧を確かめるように一度手を伸ばし、玲の方へ静かに歩いてくる。


「……ここから先、空気の流れが急に変わっている。霧は自然のものじゃない可能性がある」


玲が眉を寄せる。


「人工的ということか?」


水無瀬は首を横に振った。


「いや、そういう意味じゃない。三年前の失踪事件で観測された“異常気流パターン”と一致してる。

本来、山では起こりえない“閉鎖空間”が形成されている」


朱音の喉がひくりと動いた。


「……あの日と同じ、ってこと?」


水無瀬は静かに頷く。


「観測小屋の内部で、何か“形のない現象”が起こっている。

気流も磁場も、全部そこに吸い寄せられてる」


玲はライトを握り直した。


「行くぞ。高槻仁がまだ生きているなら──その中だ」


三人と一人のスペシャリストは、深い霧の中を進み、朽ちた木製の階段を登る。

その先に、山の呼吸すら止めたような古い建物が現れた。


【観測小屋・入口付近/午後6時55分】


戸は半開きだった。

風はないのに、内部の暗闇が“吸い込むように”外へ流れている。


朱音が小さく言う。


「ここ……前に、誰かが消えた場所なんだよね」


玲が視線だけで答えた。


「三年前の事件の、本当の核心部だ。──行くぞ」


彼らはゆっくりと、観測小屋の暗い内部へ足を踏み入れた。


午後5時47分、奥霧村・観測小屋内部


霧に覆われた山道を抜け、玲、朱音、一之瀬の三人は観測小屋の扉を押し開けた。内部は湿気を帯び、冷たい空気が肌を刺す。


床には、かすかに濡れた足跡が数歩分だけ残っていた。だが、その先は完全に途切れている。


中央には古びた測定機器が置かれ、壁には山の風向図や、過去に記録された磁場の異常を示す古いプロットが貼られていた。


机の上に落ちた紙片に朱音が目を留める。そこには、手書きでこう記されていた。


「……観測小屋の奥、霧の中に、何かがいる」


その瞬間、一之瀬は懐中電灯を握り直し、慎重に棚の隙間や奥の暗がりを覗き込む。


「……何か、観測データでは説明できない異常が、ここにある」


その声に、玲は目を細めた。


「……これは、三年前の事件と関係がある可能性が高い。奥まで調べる必要がある」


午後6時12分、奥霧村・山懐庵裏手


山懐庵の裏手には、苔むした石段がひっそりと伸びている。湿った空気が肌にひんやりと触れ、静かな夜の気配を運んでくる。


朱音は手にした小さな懐中電灯で足元を照らしながら、わくわくと怖さが入り混じった声でつぶやいた。

「うーん……なんか……ちょっとこわいけど……でも……見たい……」


彼女の小さな手は、苔に覆われた木製の戸にそっと触れる。

「ひゃっ……冷たい……。でも、ここ、ぜったい何かあるよね……」


一ノ瀬はタブレットを操作しながら落ち着いた声で言った。

「電子センサーには反応が出ませんが、手で触れた摩耗の跡や微かな隙間から、最近も開閉されている形跡があります」


朱音は目を丸くして、ささやいた。

「えっ……ほんとに? 誰か、ここ開けてるの……?」


玲は肩にかけたICレコーダーを押さえ、低く落ち着いた声で指示を出す。

「朱音、戸の向こうをまず確認して。無理に開けず、慎重にな」


御子柴理央(記録分析士)は、紙資料や電子データだけでなく、現場の痕跡や微細な変化から“隠された事実”を導き出すスペシャリスト。彼の冷静な視線が、朱音の好奇心に安全の糸を添える。


朱音は小さく息を吸い込み、心臓がドキドキするのを感じながら、そっと戸を押した。

「えっと……あけ……あけちゃう……」


戸の向こうに何があるのか――霧の向こうにひそむ謎が、今、ほんのわずか姿を現そうとしていた。


午後6時18分、奥霧村・山懐庵裏手・木製戸の奥


朱音は戸をわずかに開け、目を凝らした。


「……わっ……なにこれ……?」


薄暗い空間の奥で、微かに光る粒子が、空気中をふわふわと漂っている。手を伸ばすと、指先で触れられそうで、でも触れられないような、不思議な浮遊感。


一ノ瀬がタブレットを覗き込み、落ち着いた声で報告する。

「電磁センサーには微弱な異常反応があります。熱や湿度では説明できない現象です」


朱音は息を飲み、目を丸くして囁く。

「……キラキラしてる……でも……なんか……ちょっと怖い……」


御子柴が戸口に寄り、紙の束とタブレットを手に確認する。

「この小屋の古い資料によれば、ここは過去に“間引き対象者名簿”が保管されていた場所です。特定条件に該当する者、密告があった者、あるいは“村の均衡を乱す恐れのある者”……と記されていました」


玲は静かに朱音の肩に手を置き、低く言った。

「朱音、焦るな。まずは観察だ。触れる前に、現象の全体像を確認する」


朱音は小さな手で懐中電灯を持ち直し、粒子の漂う空間を見つめる。霧のような光が、戸の奥で静かに揺れながら、村に隠された過去の影をほんのわずかに映し出していた。


午後6時22分、奥霧村・山懐庵裏手・木製戸内部


朱音は小さく息を吐き、石の壁に視線を這わせた。


「……なんで、ここだけ……光ってるの……?」


一ノ瀬がタブレットを覗き込み、冷静に報告する。

「粒子の漂い方、周囲の電磁反応……過去の記録と一致します。ここは“間引き対象者”の動向を監視するための場所だったようです」


御子柴が壁際に並ぶ古い書類に目を走らせながら言った。

「この小屋の設計図も残ってます。石の壁で囲むことで、磁場や振動の影響を最小限に抑えた……つまり“隔離の空間”として機能していたようです」


朱音は恐る恐る手を伸ばし、漂う光の粒子を指先で追う。

「……ふわふわ……でも、なんか……おかしいよ……」


玲は肩越しに見守り、低い声で指示を出す。

「朱音、手を伸ばすな。まずは全体を把握する。現象の形を理解してから動くんだ」


霧と光が混ざる石壁の空間に、朱音の小さな影が揺れる。彼女の目には、村が隠してきた恐ろしい過去と、今ここで目撃される異常現象の両方が映し出されていた。


午後7時05分、奥霧村・山懐庵調査室


御子柴はフィルムをデジタイズしたパソコン画面をじっと見つめ、静かに指先で拡大した。

「この映像……わずかに動きがある。人物の背後にいる“天狗面”も、瞬間的に表情が見えています」


一ノ瀬がタブレットで分析データを確認しながら報告する。

「8ミリフィルムは低解像度ですが、動きの軌跡から歩行パターンと身長、体格が推測可能です。村の祭りでしかありえない動線と一致しています」


朱音が目を大きくして訊いた。

「……天狗さん……、顔が……見えちゃったの?」


玲は落ち着いた声で答える。

「うむ。面を外した瞬間に写っている。ここで重要なのは、天狗の正体と、その背後で誰が導いているかだ」


凛が横でメモを取りながら付け加える。

「心理的圧力、恐怖感の演出……祭りの夜に人々を誘導するための計算された行動が、ここで既に確認できます。これを解析すれば、過去の失踪事件と今回の現象の関連性も見えてくるはずです」


霧に包まれた山懐庵の裏手で、古い映像が、過去と現在を結ぶ重要な手がかりとして静かに甦った。


午後7時12分、奥霧村・山懐庵調査室


御子柴は画面を指でなぞり、さらに静かに確認した。

「……間違いない。この天狗面の下の顔、村の現役区長、大久保良太です。映像の角度と身長、動作まで一致します」


一ノ瀬がタブレットで歩行軌跡と時間軸を重ね合わせながら報告する。

「彼の移動パターンは過去の失踪事件とほぼ同一です。祭りの日だけでなく、夜間の山道も同様の行動を取っています」


朱音が小さな声で呟いた。

「ええっ……区長さんが……こんなこと……?」


玲は顔をしかめつつも、冷静に分析を続ける。

「これで、村の“沈黙の刻”と呼ばれる夜の行動の正体が少し見えてきた。表向きの祭りや行事の影に、計画的な操作があった可能性が高い」


凛がメモを取りながら補足する。

「心理的操作の痕跡も確認できます。恐怖や幻覚を利用し、特定の人物を村の奥深くへ誘導していた。これは計画的で、村全体の統制手法として機能していたと考えられます」


霧に覆われた山の夜。スクリーンに映る区長の顔は、村の歴史と現在の“異常現象”をつなぐ鍵として、静かにその存在を示していた。


午後7時18分、奥霧村・山懐庵調査室


玲は静かに目を伏せた。

「……ここまで来ると、迷信や噂では片づけられないな」


朱音が小さな手でスケッチブックを抱えながら訊いた。

「玲さん……天狗面って、やっぱり誰かが……わざと?」


一ノ瀬がタブレットの画面を指で押さえ、数字と軌跡を示す。

「その通りです。映像と移動パターンから判断すると、村の上層部が計画的に演出していた可能性が高い。偶然の一致ではありません」


御子柴がデータをまとめながら付け加える。

「それに、この古い映像だけでなく、今回の消失事件も同じ手口で操作されている痕跡があります。やはり“沈黙の刻”は、単なる迷信ではなく、心理的支配の一環だった」


朱音は眉をひそめ、さらに問いかける。

「じゃあ……あの青年たちが消えちゃったのも、区長さんたちのせい……?」


玲はゆっくりと頷き、声を落として答えた。

「……可能性は非常に高い。これから、何が真実かを確かめに行く」


霧が山を包む中、調査チームは観測小屋の奥へと足を進め、村の深い闇に触れようとしていた。


午後7時45分、奥霧村・山懐庵調査室


玲はまとめた紙束を鞄に収めると、沙耶と朱音に向かって言った。

「準備はいいか。これから現場の最奥部へ入る。油断は禁物だ」


沙耶は肩に掛けたライトを握り直し、冷静な声で答える。

「了解。足元にも注意して進むわ」


朱音は小さな手でスケッチブックを抱え、少し緊張した声で言った。

「……うん、気をつける……でも、早く仁くんを見つけたい……」


そのとき、一ノ瀬がタブレットを掲げ、微弱な電磁異常と熱の変化を示す。

「奥の区画には、通常では考えられない空間的歪みと温度差が記録されています。侵入者や第三者の存在も感知可能です」


御子柴が横で資料を整理しながら付け加える。

「足跡、物証、霧の動き……全てを追跡すれば、消えた人物の経路も浮かび上がるはずです。今回の任務は情報戦でもあります」


朱音は不安げに顔を上げ、玲に問いかけた。

「……でも、どうしてこんなところに、あんな異常が……?」


玲は沈着に答えた。

「昔の事件の伏線が、まだここに残っているんだ。俺たちはそれを辿るだけだ」


こうして調査チームは、奥霧村の観測小屋最奥部へ向かう準備を整えた。霧の中で、過去の事件と現実の異常が交錯し、物語の核心へと近づいていく。


午後8時30分、奥霧村・秋火祭会場


火は揺れていた。燃え盛る松明の炎が、円陣を描くように地面に立てられ、夜の闇を焦がしている。

“秋火祭”――それは村に伝わる“浄めの儀式”として、代々続いてきた。


玲は静かに松明の列に目を向け、状況を観察する。

「人の動きに注意。ここでは迷信も絡むが、現象の裏には必ず理由がある」


朱音はスケッチブックを膝に置き、目を輝かせながらつぶやく。

「わあ……火がいっぱい……でも、なんか変……」


一ノ瀬は持参したタブレットを手に、熱源と人影の動線をリアルタイムで解析する。

「炎と人の動きに規則性があります。ただし、異常な熱の反応が一部、松明の外周で確認されます。追跡対象はそちらです」


御子柴はメモを取りつつ、村の古文書や祭りの記録と照合して言った。

「秋火祭は単なる儀式ではありません。過去の事件の再現性を示す伏線が、この儀式の中に組み込まれています。警戒が必要です」


朱音は小声で玲に訊ねる。

「……この火の中に、仁くんが……?」


玲は短く頷き、指示を出した。

「スケッチも観察も怠るな。祭りの動きの中に、消えた人物の痕跡が必ずある」


こうして調査チームは、秋火祭の炎に囲まれた現場で、過去と現在が交錯する異常現象を解析しつつ、消えた高槻仁の探索を開始した。


午後8時45分、奥霧村・秋火祭会場


朱音は列の端、沙耶の隣で手を強く握られていた。

目の前で囃子はやしの笛が鳴り止み、太鼓の音が変わる。重く、間を空けて、一定のリズムで。……それは、古い記録にあった「審判の合図」だった。


玲はタブレットを手に、人々の動きと音のタイミングを即座に分析する。

「祭りのリズムに異常がある。これは単なる伝統行事ではなく、過去の事件と連動している可能性が高い」


御子柴はノートに走り書きをしながら、祭りの古文書と照合する。

「審判の合図……三年前の失踪事件の夜も、まさにこのタイミングで足跡が途切れていた記録があります。再現性がある」


一ノ瀬は周囲の霧と観測小屋の位置関係、火の位置を解析端末で確認する。

「音の間隔と人影の流れから、標的が通過した可能性のあるルートを特定できます。追跡対象はすぐに確認可能です」


朱音は小声で玲に訊ねる。

「……仁くん、あの音でわかるの?」


玲は静かに頷き、冷静な声で答えた。

「動きを見極めろ。このリズムの裏に、消えた人物の痕跡が必ずある」


祭りの闇と炎の間で、チームは過去の事件と結びついた現象の解析を開始し、消えた高槻仁の行方を追った。


午後8時52分、奥霧村・秋火祭会場


「沙耶、動くな」


玲の声が鋭く響く。数メートル先、炎の輪の向こう側で、祭装束に身を包んだ男が立っていた。顔には古びた“天狗の面”。


火の粉が散る中、男の手元に光るものがあった。玲の目は確実に捉えていた。男の懐から取り出されたのは、注射器。


御子柴はすぐに記録端末を操作し、男の動線をデジタル上でトレースする。

「移動速度、手の角度、炎の位置――これだけで予測進路が導けます。狙いは間違いなくターゲットに向かっている」


一ノ瀬は観測端末と赤外線センサーで現場周囲の空気流動を解析。

「火の揺れと影の動きから、影の遮蔽物の位置まで読み取れる。遮蔽を使っての接近経路も特定可能です」


朱音はスケッチブックに小さな図を描きながら、震える声で訊く。

「……あの人、ほんとに刺そうとしてるの?」


玲は低く、しかし確信を込めて答える。

「間違いない。あの注射器は毒か、催眠か……いずれにせよ狙いは仁だ。止めるなら、今しかない」


その場には、現場動線解析と心理読みのスペシャリストたちの目が光り、炎と霧の中で事件の核心へと迫っていた。


午後8時53分、奥霧村・秋火祭会場


「動くな!」


叫びと同時に、火の輪の外側から数人の影が飛び込んできた。黒装束、無言――影班だ。玲の指示を受け、事前に待機していた彼らが、一瞬で男を包囲し、押さえ込む。


水無瀬はすぐに現場の床と周囲の障害物を確認しながら、逃走経路と接触点を瞬時に把握する。

「接触痕と炎の位置、すべて把握済みです。この範囲内で動ける余地はゼロ」


御子柴は手元の端末で男の身体動作を解析。

「腕の動き、注射器の角度、心理的緊張反応――逃走を試みる前に行動パターンを完全特定しました」


九条凛は男の呼吸や瞳孔の動きを観察し、心理的揺さぶりをかける。

「抵抗の意思は見えている。だがこちらの圧力で冷静さを失わせることが可能です」


朱音はスケッチブックを握りしめ、恐る恐る問いかけた。

「……あの人、捕まえられたんだね?」


玲は頷き、低く落ち着いた声で答える。

「動線と心理を読めば、捕縛は時間の問題だった。これで第三の事件は終わる」


霧の中、炎の揺らめきが静まる。影班、心理分析官、動線追跡のスペシャリストたち――全員の視線が、確実に事件解決の瞬間を捉えていた。


5年前、午後5時27分、古祠裏の山道


少女だった朱音の手を引いて走った“天狗”。

彼の足音は湿った落ち葉を踏みしめ、夜の山道に規則正しく響いた。


「しっかりつかまって、朱音!」

天狗の声は低く、必死だった。


何度も後ろを振り返り、息を荒げながらも誰かの目を気にしている。

朱音の小さな胸は、不安でいっぱいだった。


「……あの人に見つかったら、どうなるの?」

朱音は息を切らしながら訊ねた。


「弓彦に見つかったら……絶対に、俺たちは逃げられない」

天狗は真剣な目で朱音を見つめ、足をさらに速めた。


霧が濃く立ち込める山道、苔むした石段。

朱音の手はしっかりと天狗の手に握られ、二人は沈黙の刻の中を必死で駆け抜けた。


午後6時42分、奥霧村・山懐庵内部


朱音はスケッチブックを膝に置き、震える手で鉛筆を握りながら呟いた。


「……お面の下で、泣いていたあの人は……村野さんだったんだね。でも、“命令してた”のは、村長……」


玲は静かに頷き、窓の外に広がる霧を見つめる。


「三年前の事件、そして今回の一連の騒動……すべては、あの夜から続く“因果”だった」


一之瀬がタブレットを操作しながら付け加える。


「古い記録、映像、祭の警告……細かい伏線のひとつひとつが、今、線として結ばれました」


朱音は小さく息を吐く。


「……やっと、わかったんだね」


玲は彼女の肩に手を置き、落ち着いた声で告げた。


「真実がわかれば、次にすべきことも見えてくる。今度は守る番だ」


霧の向こう、村の静寂がほんの少しだけ、安堵の気配を帯びた。


午後7時15分、奥霧村・郊外旅館 書斎兼応接間


玲は、旅館の一角にある木製デスクの上に黒いUSBと一冊の手帳を並べた。


「これが、三年前の事件と今回の消失に関わる全記録だ」


一之瀬が近づき、タブレットを取り出して言う。


「USBには観測小屋の監視データ、手帳には村の古い慣習や祭の記録……解析すれば、異常現象の因果関係も見えてくるはずです」


朱音はスケッチブックを胸に抱き、ぽつりとつぶやいた。


「……全部つながっちゃいそうで、ちょっと怖い……」


玲は手帳を開き、淡々と告げる。


「恐怖は理解の前兆に過ぎない。解析すれば、解決の手がかりになる」


午後7時40分、奥霧村・郊外旅館 書斎兼応接間


薪ストーブの炎がゆらめき、木の香りと暖かさが部屋を満たす。


朱音は小さなノートを膝に置き、色鉛筆で描かれた村人たちの姿をじっと見つめた。


「……なんでみんな、同じ方向見てるんだろう……?」


玲は椅子に座り、静かに答える。


「注意の向きや行動パターンも記録すれば、異常の原因が見えてくる」


一之瀬がタブレットを手に近づき、補足する。


「朱音ちゃんの描いた観察記録も、データ解析の一部として使えます。色分けや動線まで読み取れるから、異常現象の傾向と照合できる」


午後4時10分 奥霧村・郊外旅館「山懐庵」 玄関前


晩秋の空気はひんやりと乾いていて、木々の赤と金が、夕陽に照らされゆっくりと揺れていた。

砂利を踏む音とともに、調査に出ていた一行が戻ってくる。


沙耶が肩の荷物を下ろし、ほっと息をついた。

「……思ったより冷えるね。山の上だからかな」


朱音が小走りに沙耶のそばへ戻り、白い吐息を弾ませながら言う。

「ママ、さっきの道、葉っぱがいっぱいでふわふわだったよ!」


玲は玄関脇の木柱に手を置き、ゆっくり周囲を見回した。

「ここまで来る間、車の跡はなかった。村の外から人が来た形跡もない……となると、例の“痕跡”は内部の者の仕業と考えるべきだろう」


その言葉に、一歩遅れて玄関へ上がった一之瀬がぽつりと続けた。

「……気になるのは、あの祠周辺の磁場の乱れです。三年前の記録と、今日の数値が一致している」


玲が視線だけで促すと、一之瀬は懐から小さな携帯端末を取り出し説明した。

「特定の時間帯でだけ起きる局所的な歪み。自然現象じゃありません。おそらく誰かが“意図的に”何かを隠している」


朱音が顔を上げる。

「また……見えない“なにか”が、あるの?」


沙耶がそっと朱音の肩に手を置き、優しく微笑む。

「大丈夫よ。調べれば、ちゃんとわかるから」


玲は旅館の引き戸を開け、橙色の暖かい灯りが外へ漏れ出す。

「――まずは中で整理しよう。今夜中に、三年前の“本当の兆し”をつなぎ直す」


その瞬間、木々の間を抜ける風が、どこか遠くで鈴のように鳴った。

まるで、誰かが帰還を見届けているかのように。


午後9時15分

奥霧村・旅館「山懐庵」 応接室


玲は、応接室の棚に資料を戻しながら、静かに思案していた。

木製の棚は古いが丁寧に磨かれており、背表紙の揃ったファイルが並ぶたびに、かすかな紙の匂いが立ち上る。


霧久村の古文書、火災事件の調書、祭具の写真、審判リスト――

彼らが過ごした数週間は、いま一つの事件ファイルとして結ばれ、棚の隅に収められた。


「……ここまでの形になるとはな。最初は“ただの事故”として渡された案件だったのに」


玲はひとりごとのように呟き、ファイルの背を軽く指でなぞった。


背後から、沙耶がそっと声をかけた。


「終わった、と思う? 玲くん」


玲は振り返らず答える。


「区長の供述も揃った。三年前の封印記録も復元できた。事件としては“終わり”だ。しかし──」


一拍置き、彼は棚を閉めた。


「村の人間関係は、これからだ。信頼が壊れたところもある。均衡を保つには、しばらくこっちで見守る必要がある」


沙耶は小さく頷き、朱音が描いた“みんなが笑っている絵”が貼られた壁を見やった。


「でも、あの絵みたいになればいいね。朱音が願ったみたいに」


玲はわずかに目元を和らげた。


「……ああ。あの子の“視点”がなければ、俺たちは真相に辿り着けなかった」


窓の外では、晩秋の風が木々を揺らし、葉がサラリと音を立てて落ちていく。

静けさと、ゆるやかな夜の空気が旅館を包んでいた。


玲は最後のファイルを棚に押し込み、扉を閉じながら呟いた。


「次に来るのは、たぶん“後始末”だ。奥霧村のしがらみを解く仕事は、まだ残っている」


沙耶が笑う。


「じゃあ……帰る前に、もう少し付き合ってもらうよ、玲くん」


玲は肩をすくめ、疲れたようにしかし穏やかに息を吐いた。


「了解だ。片づけが終わったら、温泉でも行くか。朱音も待ってるだろうしな」


旅館の廊下をゆく二人の足音が、静かに消えていく。

応接室には、炎の柔らかな明かりと、ひとつの事件が確かに終わったという、淡い余韻だけが残された。


【時間:午前10時12分 場所:ロッジ裏の家庭菜園】


――翌週。


「……おい朱音、トマトはまだ青いから、今は取らなくていいってば」


圭介はしゃがみ込んだまま、伸ばした朱音の手をそっと押し戻した。

秋の終わりの冷たい風が、畑の支柱に結んだ赤いビニール紐を揺らしている。


朱音はぷくっと頬をふくらませた。


「えー、でもね、お父さん。

 さっき、ここのトマトが“食べごろだよ〜”って言ってたよ?」


「言ってない。朱音の気のせい。」


「言ったもん! だって、ほら、赤くなる“途中の色”ってかわいいんだよ」


圭介は思わず笑った。

事件の余韻がまだわずかに残る日々の中でも、朱音だけは変わらず、真っ直ぐで、暖かかった。


「……そうか。かわいいか。

 でもな、かわいくても食べごろはまだ先。だから今は観察だけ」


朱音はぐっと唇を結び、頷いた。


「じゃあ、絵に描く。たべちゃダメなら、絵にすればいいんでしょ?」


「それはいいな。朱音の絵なら、青くても赤くても価値あるよ」


「えへへ」


朱音はポシェットから色鉛筆を取り出し、土の匂いのする地面にちょこんと座り込んだ。

圭介はその横で支柱の結び目を直しながら、ふと空を見上げた。


――霧久村での出来事。

あの夜の炎、古い祠、そして、朱音が見つけた“真実”の破片。


まだ胸の奥がひりつく記憶だが、それ以上に強く刻まれたのは、朱音が見せた、小さな勇気だった。


「……朱音」


「んー?(ぬりぬりぬり……)」


「ありがとうな。あの時、よく頑張った」


朱音は顔を上げ、小首をかしげる。


「うん。でもね? わたし、一人で頑張ったんじゃないよ。

 お父さんも、沙耶お母さんも、玲さんも、影のお兄さんたちも――

 みんなが一緒だったから、怖くなかったの」


圭介の胸の奥が、じんわりと温かくなった。


「……そうだな。みんなのおかげだ」


朱音は満足そうに頷き、再びスケッチに集中した。


柔らかな日差しの下で、朱音の色鉛筆が畑の緑の中に小さな赤を描き込む。


その光景は、圭介にとって――

霧と炎の夜を越えた先にようやく見つけた、確かな“日常”そのものだった。


奈々の後日談

場所:玲探偵事務所・第二資料室

日時:事件解決から二週間後・午後4時12分


奈々は薄いブルーの手袋をはめたまま、机いっぱいに広げた資料を一枚ずつスキャナに通していた。

静かな部屋に、機械の低い読み取り音が規則正しく響く。


「……この形式、また同じだ」

小さく漏れた独り言は、冬を前にした冷気のように淡々としている。


彼女が見つめているのは、霧久村事件で押収した“改ざんログ”。

住民台帳、監視システム、医療記録――どれも改変された痕跡があり、そのパターンが他事件のものと酷似していた。


奈々はペンを取り、メモに書き込む。


「三年前、都内のデータ消去事件……

 あれと手口が同じ。ということは――まだ“誰か”が動いてる」


椅子の背にもたれ、天井を見上げた。

彼女の視線の先には、玲が整理して残した“空白の事件ファイル”がひとつだけ置かれている。


奈々は静かに立ち上がり、そのファイルに触れた。


「記憶を消す人間がいるなら……記憶を守る人間だって必要になる。

 ……玲さん、次はもっと大きい案件になりますね」


そう呟くと、奈々はノートPCを閉じ、コートを羽織った。

外は、夜の気配がじわりと近づいている。


玄関に向かいながら、奈々は薄く微笑んだ。


「さあ、追うよ。“記憶の不正”はまだ終わってない」


静寂の資料室に、スキャナの電源ランプだけがぽつりと灯り続けていた。


沙耶の後日談

(場所:市街地の小さな公園/時間:午後3時24分)


沙耶は、街路樹の葉が舞う公園のベンチに腰を下ろしていた。

事件の最中ずっと心の奥で燻っていた罪悪感――

“守れなかった命”と“守りきった小さな手”。

その二つが、まだ胸の奥でうまく折り合いをつけられずにいる。


足元では、朱音がどんぐりを拾っては並べていた。

色鉛筆を握るときよりも真剣な顔つきで、丸い実を数えている。


「……ママ、見て。ハートの形になったよ」


朱音が弾む声で振り返る。

その無邪気な笑顔は、沙耶の胸の古い棘をそっと押し流すようだった。


沙耶は静かに微笑み、朱音の頭を優しく撫でた。

「うん。すごいじゃない。……朱音が作ると、本当に可愛く見えるわね」


朱音は照れたように肩をすくめながら、ベンチに腰を上げた。

「ねぇママ。もう、こわいのない?」


沙耶は一瞬だけ目を伏せ、ゆっくりと息を吸った。

そして、嘘ではない答えだけを選ぶ。


「もう大丈夫。ママが、ずっと守ってるから」


朱音は満足したように頷き、再びどんぐりのハートに夢中になる。

その横顔を見守りながら、沙耶はようやく気づいていた。


――守れなかった命の“重さ”は消えない。

でも、守れた命の“温度”も消えないのだ、と。


温かな風が吹いた。

沙耶はそっと朱音の肩に手を添え、言葉にできない決意を胸に刻んだ。


「……生きて、前へ進もう。朱音と一緒に」


成瀬由宇の後日談

(翌朝 郊外ロッジ近くの林道 午前8時12分)


 朝霧がまだ薄く残る林道を、成瀬由宇はゆっくりと歩いていた。

 以前のような黒装束でも、影に溶ける気配でもない。カーキ色のジャケットに、胸ポケットにはペンが一本差してあるだけ。それは“影”ではなく、“ただの男”として生きると決めた証だった。


 ポケットの中で、小さく折りたたんだ天狗面の欠片が触れる。

 かつて村の“審判役”として動かされ、間引きの象徴として身につけさせられた、あの面。


「……もう終わりだ」


 誰にも聞こえない声で呟く。


 立ち止まると、背後から枯葉を踏む小さな音がした。

 振り返ると、ロッジから走ってきた朱音が、息を弾ませながら手を振っていた。


「ゆーくん! あのね!」


「……成瀬でいい。そんな子どもみたいな呼び方するな」


「えぇ〜? でも、ママが“優しいお兄さんでしょ”って言ってたよ」


 由宇はわずかに顔をしかめたが、否定はしなかった。むしろ、その言葉に救われている自分を自覚していた。


「で、その……話って?」


「うん!」

 朱音は真っ赤な頬で笑い、小さなノートを差し出した。


「これ見て。ゆーくんの“新しい顔”。もう、怖いお面じゃないやつ」


 色鉛筆で描かれた絵――

 優しい目で微笑む、普通の青年の姿だった。


「……こんな顔じゃねえよ」


「ううん。きっと、ほんとはこうなんだよ」


 朱音の声は揺るがなかった。

 由宇はしばらく絵を見つめ、ふっと口の端を上げる。


「……好きに描けよ。あんたの絵は、嘘つかねぇからな」


「でしょ!」


 笑顔の少女は、走ってロッジへ戻っていった。

 残された由宇はノートを胸に当て、静かに目を閉じる。


 “自らの素性を偽ることをやめた”というのは、決意ではなく、

 自分がようやく一人の人間として見られたことへの、

 小さな、しかし確かな誓いだった。


 薄明るい空を見上げ、成瀬由宇は歩き出す。


「……もう、誰も間引かせない。あの日の俺とは、違う」


 その声は、霧に飲まれず、まっすぐ前へ伸びていった。


桐野詩乃の後日談

【場所:ロッジ別棟・分析室 時間:事件翌日の夜 21:14】


壁にかかる小さな時計が、静かに秒針を刻んでいた。

パソコンの画面には、“復興支援会議”の名を掲げながら、裏で資金を不自然に移動させている組織のログがずらりと並んでいる。


桐野詩乃は、薄い色のディスプレイの光だけを顔に受けながら、椅子に浅く腰掛けた。

マスクは外しているが、表情は相変わらず読めない。指だけが、規則正しいリズムでキーボードを叩いている。


「……やっぱり。あなたたち、まだ“動いてる”じゃない」


声は低く、少しだけ楽しげですらあった。


画面には、霧久村で逮捕者が出た直後にも関わらず、

“別の村”で同じような慣習を利用した不審な集会が確認されたという報告が表示されていた。


詩乃は軽く息をつき、右手の白い手袋を引き寄せる。

それを見つめながら、ぽつりと呟いた。


「毒も、痕跡も、隠せば終わり……なんて。まだそんな時代じゃないのよ」


指先が一つのファイルにカーソルを合わせる。

そこには、事件の裏で暗躍していた“指示役”の仮名が記されていた。


詩乃の紫の瞳が、冷たい光を帯びる。


「玲さん。……しばらく休めそうにないですね。この“復興支援会議”、完全には潰れてません。次の動きが来ます」


彼女は小さなUSBを抜き取り、ポケットに収めた。

そして立ち上がり、暗い分析室の扉に向かいながら呟いた。


「あの子――朱音ちゃんだけは、絶対に巻き込ませない。もし誰かがまた“村を使おう”とするなら……

その前に、わたしが痕跡ごと消しに行くから」


扉が、静かに閉まる。

夜のロッジには、再びパソコンのファンの音だけが残された。


【後日談:安斎柾貴】


〈時間:事件から一週間後/場所:ロッジ外周の林道〉


夕暮れの冷たい空気が静かに満ちていた。

ロッジの灯りが遠くでぼんやりと揺れ、鳥の声すら届かない林道を、安斎柾貴は一人歩いていた。


足元の落ち葉が、かすかに音を立てる。

彼は手袋を外し、耳元のイヤーピースに指先を触れた。


「……異常なし。こっちは静かだ」


その声は低く、しかしいつものように冷静だった。


風が木々を撫で、安斎の黒いコートが揺れる。

背後で小枝が折れる音がし、安斎は振り返った。


そこに立っていたのは――玲。


「安斎」


「玲か。巡回の時間じゃなかったか?」


玲はわずかに肩をすくめ、いつもと変わらぬ落ち着いた声で言った。


「お前がずっと外を回ってるから、様子を見にきただけだ」


安斎は短く息を吐き、視線を森へ戻した。


「まだ、あの村の連中が動く可能性はゼロじゃない。念のためだ」


「……無茶はするなよ」


安斎は返事のかわりに、わずかに笑った。

その表情は、事件前よりも少しだけ柔らかかった。


「心配か?」


「まあな」


沈黙が落ちる。しかしそれは重苦しいものではなく、互いが確かめ合うような静かな間だった。


やがて安斎が言った。


「……朱音はどうしてる?」


「沙耶とノートを整理してる。落ち着いてきたよ」


安斎はほんの少しだけ目を細めた。


「あの子の笑い声が聞こえると……守る意味があったと思えるな」


玲は横目で安斎を見る。


「お前がそう言うとは思わなかった」


「俺だって、変わる」


安斎は淡々と言い、林道の奥へ視線を向けた。


「……ここは、もうしばらく俺が見ておく。

玲、お前は戻れ。中の方が“敵”が多い」


玲はふっと短く笑う。


「了解。無茶はするな、安斎」


安斎も、ほんのわずかに頷いた。


玲の足音が遠ざかると、安斎は再びイヤーピースに触れた。


「――柾貴より報告。ロッジ周辺、異常なし。巡回を続ける」


夜の気配が濃くなる森の中で、彼の声だけが静かに響いた。


“誰よりも陰で守る者”――安斎柾貴は、今も変わらずその任務を果たし続けている。


午後4時半、霧久村のロッジ応接室


「玲お兄ちゃーん……あたし、また夢見た。あのときの、火の中」

朱音はソファに座ったまま、小さな手でスケッチブックを握りしめ、声を震わせた。


「大丈夫だ、朱音。もう過去のことだ。俺たちが無事に戻ってきた以上、怖がる必要はない」

玲はコーヒーカップを机に置き、静かに朱音を見下ろす。


「でも……炎の匂いも、声も、全部覚えてるの……」

朱音は瞳を潤ませながら、スケッチブックを膝に押し当てる。


「そうか……じゃあ、今度は一緒に描いてみるか。あのとき見たものを、全部紙に出してしまえ」

玲は微かに笑い、そっと朱音の肩に手を置いた。


「うん……うん!」

朱音の目に光が戻る。火の夢は消せない記憶でも、描くことで整理できることを、二人は静かに理解していた。

高槻仁のあとがき


奥霧村の山懐での体験は、今でも夢のように鮮明に思い出される。あの濃い霧、燃え盛る秋火祭、そしてあの天狗の面――すべてが、私の心に深い痕跡を残した。


事件が解決した今も、心の奥底では小さな恐怖と安堵が交錯している。あの夜、助けてくれた玲さん、朱音、沙耶さんたちには、言葉にできないほどの感謝を抱いている。


失われたもの、見えなかったもの――村に残された謎は、私たちの手で少しずつ解き明かされていった。けれど、あの霧が完全に消えることはない。記憶の奥に、あの瞬間の感触や匂い、音が今も静かに息づいている。


そして、私はもう一度、あの山を歩く勇気を持てるようになった。恐怖を抱えながらも、未来に向かって歩み出せる力を、あの経験がくれたのだと思う。


高槻仁

――事件から数か月後、穏やかな朝の光の中で。

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