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66話 消された少年と五つの殺意

登場人物紹介


主要人物

•佐々木朱音あかね

玲の助手的存在であり、直感力に優れる少女。事件の重要な手がかりをスケッチや観察で見つける。精神的にも成長する姿が描かれる。

れい

冷静沈着な探偵。事件の分析・心理戦・現場検証を担当し、論理的に犯人を追い詰める。

沙耶さや

チームの感情的支柱。人間観察力が鋭く、直感で事実を見抜くことも多い。



スペシャリストたち

•氷見野湊・ひみの みなと・れん

威圧感のある兄弟捜査官。尋問や現場統制で活躍。

御子柴理央みこしば りお

記録分析士。冷静な判断力で書類やデータを解析し、隠された事実を浮かび上がらせる。

九条凛くじょう りん

心理干渉分析官。被疑者や関係者の心理を読み解き、事件の核心に迫る。

藤堂ふじどう

報道のスペシャリスト。事件の全貌を一般に報道し、社会への説明を担う。



ゲスト・被害者・関係者

•少年K(被告人)

20年前の非人道的研究の被験者。人格分裂の兆候を持ち、今回の連続殺人事件の真犯人。

•谷村佳奈

少年Kの養育者。Kを守ろうとしたが、事件には直接手を下さない。

設楽健司したら けんじ

事件の関係者の一人。過去の研究やトンネル事故に関わる人物。

•小田嶋隆一、青沼恭一、神原美月

事件に関係したゲスト。20年前の研究や事故に絡む過去を持つ。

•日向晴翔、鳴瀬友梨、仁科邦彦、相羽凛

事件当夜の宿泊客、各自専門能力や背景を持ち、事件解明に絡む証言者として描かれる。

•青沼辰生

元建築家で館の構造に詳しい。事件解明における建築的知識の提供者。

•岩崎

執事兼支配人。館の運営とゲストの管理を担当。

冒頭


場所:ホテル302号室、時間:深夜


朱音はドアを押し開けた瞬間、体が硬直した。

梁から吊るされた男――小田嶋誠の姿が目に入ったのだ。白い麻のロープが天井からまっすぐ垂れ、足元には椅子も踏み台もない。高く吊られた身体は微動だにせず、その蒼白な顔が虚空を見つめていた。


「……うそ……」朱音の声は震え、息も止まりそうだった。


彼女は後ずさりしながらスマートフォンを取り出す。冷たい指先で通話履歴をスクロールし、玲の番号をタップした。


「……玲さん、来てください。302号室……小田嶋さんが……首を……!」

言葉は途切れ途切れだったが、現実を必死に伝えようとする声だった。


部屋の奥、レースのカーテンが風もないのにひらりと揺れ、月明かりが吊るされた男の顔にかすかな影を落とす。朱音の視線は、その光景から離れられず、胸が押し潰されるようだった。


数十秒後、玲が玄関から駆け上がってきた。懐中電灯を手に、目には冷静さと緊張が入り混じる。


「朱音、大丈夫か……」

「玲さん……!」朱音は答え、震える手でスマートフォンを握りしめたまま立ち尽くす。


玲は短く頷き、懐中電灯の光を吊るされた男に向けた。

「……間違いない、首吊り自殺。だが……何かが違う」


床には椅子も踏み台もなく、ロープの結び方は熟練者の手によるものだ。

「自殺にしては、高すぎる……この高さまで人の手を借りずに吊るすのは物理的に不可能だ」玲は低くつぶやいた。


朱音は息を整えながら、さらに奥を見つめる。

「でも……誰が?」


玲は冷静に周囲を確認しながらスマートフォンで通報を済ませる。

「落ち着け、朱音。警察の到着まで触らず、状況を把握する。これは“事故装置”かもしれない……いや、計画的な何者かの仕業だ」


部屋の奥、レースのカーテンは再びひらりと揺れ、朱音の目には、あの夜の光景がまるで凍りついた時間のように刻まれた。


玲は懐中電灯を周囲に照らしながら、静かに告げる。

「朱音、この現場……ただの自殺じゃない。誰かがここに“演出”を残していったんだ」


朱音は小さく頷き、震える手を握りしめる。

二人の視線は、吊るされた小田嶋の身体に向けられたまま、深い夜の闇に包まれていった。


場所:ホテル302号室前の廊下、時間:深夜


朱音は一瞬身を硬直させた。足音は、ただの風や建物の軋みではない――明らかに人のものだった。


「……誰……?」

小さく呟き、彼女はドアの影に隠れるように身をひそめた。


廊下の足音は、静まり返った夜に低く反響する。重く、確かな体重を感じさせる一歩一歩。


「……玲さん、誰かいる……」朱音の声はささやくように震えた。


そのとき、ドアの外で足が止まる。微かな呼吸音。

朱音は息を呑み、手に握ったスマートフォンの画面をちらりと見る。


「……落ち着け、朱音。誰かが侵入したなら、俺が抑える」

玲の低い声が通話越しに返ってきた。


足音は再び動き始め、廊下の端へと遠ざかる。その後、階段を降りるような、慎重で静かな動きが聞こえた。


朱音は息を殺しながら、暗闇の中で動きを見極めようとする。

「……誰……何のために……」


背後の302号室のドアに、わずかな隙間風が差し込み、カーテンがふわりと揺れる。

その瞬間、朱音は、足音の持ち主がただ通り過ぎただけではない――何かを“確かめるように”この廊下を歩いていたのだと直感した。

場所:ホテル302号室前廊下、時間:深夜


玲はスマートフォンを耳に当て、低く静かな声で話しかける。


「霧山さん、今すぐロビーと廊下の監視カメラを確認してくれ。302号室付近に不審者がいる可能性がある」


受話器の向こうで、館主・霧山忠秀の落ち着いた声が返る。

「……承知しました。すぐに確認します」


玲は朱音の肩に手を置き、ささやくように言った。

「怖がるな、朱音。俺がいる。外から誰かが侵入しているとしても、まず状況を把握する」


通話越しに、霧山が廊下やロビーの映像を確認する様子が微かに聞こえる。

「……302号室付近、今のところ動きは確認できませんが……ん、あ、何か影が……」


玲は即座に状況を整理する。

「朱音、壁際から離れるな。動く必要があるときだけ俺の指示に従え」


足音は廊下の奥で止まり、次の瞬間、微かな物音――鍵のかかった別の部屋のドアに触れるような音が響く。


玲はスマートフォンを握りしめ、冷静に呼吸を整えた。

「朱音、見える範囲から絶対に離れるな。すぐに状況を報告する」


朱音は小さく頷き、緊張で震える手をしっかりと胸の前で組みながら、玲の指示に従った。


場所:ホテル302号室前廊下、時間:深夜


玲はポケットからスマートフォンを取り出し、すぐに支配人・霧山忠秀へダイヤルを回した。


「霧山、聞こえるか。302号室前で異常がある。カメラ映像をすぐ確認してくれ」


受話器の向こうで、支配人の落ち着いた声が返る。

「……承知しました。すぐに監視カメラを切り替えます」


玲は朱音の肩にそっと手を置き、低い声でささやく。

「怖がるな、朱音。まずは状況を把握する。君は動かず、俺の指示だけに従え」


朱音は息を飲み、小さく頷く。

「うん……わかった」


通話の向こうで、霧山がモニターを切り替える音がかすかに聞こえる。

「……302号室前、今のところ動きはなし……あ、いや、何か影が……」


玲は冷静に壁際へと朱音を誘導し、指示を続ける。

「朱音、目を離すな。影が確認できたらすぐに報告してくれ」


廊下に響く足音は依然として微かだが、確実に近づいている。

玲は心の中で分析しながら、次の行動の準備を整えた。


場所:ホテル302号室前廊下、時間:深夜


廊下の奥から、足音が次々と増えてくる。声も混ざり、低くざわめき始めた。


「何の騒ぎだ?」

「悲鳴が聞こえたけど……大丈夫か?」


朱音は玲の後ろに身を潜め、息をひそめる。

玲は低い声で囁いた。

「落ち着け。ここは絶対に走るな。俺が指示するまで動かない」


次々に現れるのは、深夜に目覚めた宿泊客たちだった。

彼らの表情には恐怖と好奇心が入り混じり、廊下に緊張の波を生む。


玲は素早く状況を把握し、声をかける。

「皆さん、落ち着いて。今はただ確認中です。部屋に戻るか、奥に進まないで待機してください」


一瞬、ざわめきが止まる。だが廊下には、依然として人の気配が密集していた。

朱音は玲の手を握り、震える声で尋ねる。

「玲さん……どうしよう……?」


玲は目を細め、冷静に周囲を見渡す。

「大丈夫だ、朱音。まずは安全を確保する。誰が動くかで事態は変わる」


廊下に漂う夜の緊張は、少しずつ玲の掌握下に置かれ始めていた。


場所:ホテルロビー、時間:深夜


朱音の視線は、重厚なシャンデリアの下で静かに立つ人影に吸い寄せられた。

ロビーの奥から、ゆっくりと足音が近づく。床に響く重みある音が、静寂を切り裂く。


「……来たか」

玲は低く呟き、朱音の肩に手を置いて落ち着かせる。

「ここからは、俺の指示に従え。決して声を上げるな」


ゲストたちは沈黙を守り、期待と恐怖が混じった目で、男の到着を見つめていた。

朱音も息を詰め、スケッチブックを抱きしめる。


男の姿が、シャンデリアの光に照らされて浮かび上がる。

肩幅の広い黒いコート。冷たい視線。重厚な空気が、自然と周囲を押しつぶす。


「皆さん、動かないでください」

玲が静かに注意を促す。

「これは通常の到着ではありません。状況を見守るだけで十分です」


深夜のロビーに、静かな緊張が張りつめる。

男はゆっくりと歩みを進め、朱音や宿泊客たちの視線を一身に受けながら、ロビーの中心へと足を止めた。


場所:ホテルロビー、時間:深夜1時半過ぎ


玲はロビー中央に立ち、集まった宿泊客たちに向かって静かに話し始めた。

「皆さん、まず事実関係から説明させていただきます」


彼の声は落ち着いているが、空気を引き締めるような重みがあった。

「本日午前1時過ぎ、東棟302号室において小田嶋 了介さんが死亡しているのが確認されました。現場は首吊りによる窒息状態で、椅子や踏み台などは使用されていません」


玲はゆっくりと手元のメモを見ながら続ける。

「現場の状況から、死因は明らかに窒息死です。ただし、自殺か他殺かは現時点で判定できません。警察の現場検証が完了するまでは、関係者以外の立ち入りは禁止されています」


集まった宿泊客たちはざわめき、誰もが顔を見合わせた。

朱音は玲の隣で肩を震わせ、低く息をつく。

「玲さん……本当に……?」

玲は穏やかにうなずき、朱音の肩に手を置いて落ち着かせる。


「また、何か異変や不審な動きに気づいた方は、必ず私か支配人まで報告してください」

重厚なシャンデリアの光に照らされ、ロビーは深夜にもかかわらず静寂と緊張に包まれた。

この時点で、事件はすでに宿泊客全員の現実となり、誰もがその事実から目をそらせない状況だった。


場所:ホテルロビー、時間:深夜1時40分


玲は立ち上がり、深く息をついた後、集まった宿泊客たちを見渡す。

「私の相棒、朱音が第一発見者となりました」


朱音は顔を赤らめながらも、うつむかずに玲の横に立つ。

「部屋は密室状態です。ドアには内側から鍵がかかっていた痕跡があります」


玲は手元の資料を示しながら、声の調子を少し強める。

「しかし、いくつかの点でそれは“仕組まれた密室”である可能性が高い。誰かが時間と状況を計算し、ロジックを組み立てて――この状況を演出したのです」


その言葉に、廊下の奥でざわめいていた宿泊客たちは息をのんだ。

「今回の案件には、特殊な知識を持つスペシャリストの協力が必要です」


玲の隣に立つ人物が静かに頷く。

「私が今回、封鎖理論と現場検証を担当します。密室の成立条件、鍵の操作方法、死角の有無を精査します」


彼の紹介を受け、宿泊客たちは理解した。単なる警察の調査だけでは解明できない、高度な論理と経験を必要とする案件だということを。

部屋の中に残された不可解な状況と、時間差で組み込まれたトリック――それを解き明かすため、玲とスペシャリストたちは、静かにだが確実に調査を始める覚悟を固めた。


場所:ホテルロビー、時間:深夜1時50分


玲はノートを開き、ペンを手に取りながら静かに宿泊客たちを見渡した。

「今夜はそれぞれの証言をいただきます」


声は落ち着いていたが、その瞳は鋭く、誰も目をそらせない。

「今後の安全確保のためにも、正確な足取りと情報を明らかにする必要があります」


ノートを開いた手元を示し、ひとつずつ質問を重ねる。

「小田嶋さんと最後に話したのは誰ですか。夕食後、彼の姿を最後に見たのは誰ですか。どんな些細なことでも結構です」


宿泊客たちは互いに顔を見合わせ、重い沈黙が流れる。

朱音は玲の隣で小さく息を呑む。緊張が伝わる空気の中、玲はペン先を紙に走らせる。

「証言は事実のみ。感情や推測ではなく、目で見たこと、聞いたことを正確にお願いします」


その言葉が空間に落ちると、宿泊客たちは徐々に口を開き始める。

玲は一人ひとりの声を丁寧に聞き、細かくメモを取りながら、事件の時間軸を組み立てていった。


場所:ホテルロビー、時間:深夜1時55分


中里美沙はソファから体を起こし、かすかに手を挙げた。

「えっと……私、302号室の前を通ったんです。午後11時過ぎくらいだったと思います」


玲はペンを止め、彼女の顔を見つめる。

「そのとき、部屋の中や廊下に誰かの気配はありましたか?」


中里は小さく首を振る。

「ええ……でも、ドアの向こうで微かに物音がしました。何かが揺れるような……カーテンか何かの音だったと思います」


朱音が隣でメモ帳に小さく書き込む。

「揺れる……ですか」


玲は静かに頷き、声のトーンを落として確認する。

「音の方向は302号室の扉側ですか?」


中里は少し眉を寄せ、考える。

「はい……廊下の奥から聞こえた気がします。でも、はっきりとは……」


玲はペンを走らせながら、頭の中で時間軸を整理する。

「なるほど、午後11時過ぎ。ドアの向こうで何かが揺れた音……重要です。ありがとうございます、中里さん」


彼女は小さく頷き、再びソファに身を沈めた。

ロビーには、再び重い沈黙が流れ、次の証言を待つ空気が満ちていった。


場所:ホテルロビー、時間:深夜2時05分


冷房の風が窓辺のブラインドをわずかに揺らす。夜の闇がロビーのガラスを通して薄く反射し、シャンデリアの光と影が床に揺れている。


朱音がメモ帳を手元に置き、低く呟いた。

「夜だから、音がやけに響く……」


玲はロビーの静寂を見渡しながら、ゆっくりと声を落とす。

「夜中の廊下は、音が増幅される。ささいな物音も重要な手がかりになる」


ソファに座る中里美沙が再び手を挙げた。

「さっき言いそびれたんですけど……その揺れる音、確かに夜だからか、普段より大きく聞こえた気がします」


玲は頷き、手元のノートに記録する。

「午後11時過ぎ……いや、夜の静まり返った時間帯に限ると、より正確に記憶されるかもしれませんね」


朱音はページをめくり、揺れるカーテンの音や、夜中特有の空気の流れをスケッチに添えるように書き込んだ。

「……ここまでの証言で、夜間の音の経路が少し見えてきたかも」


ロビーに、再び低い沈黙が広がる。夜の冷気と静寂が、証言の重みをさらに際立たせていた。


場所:某ホテル・ロビー

時間:深夜0時50分


玲はロビーの隅でスマートフォンの画面を見つめていた。暗い蛍光灯の光に反射して、画面上の文字が浮かび上がる。


「あのときのことを知っている人間が、また集められようとしている……」


指先が自然とスクロールしていく。次々に届くメッセージは、過去の事件を知る者だけに送られた警告のようだった。


「舞台は、某ホテル……三年前の“あれ”が、忘れられるわけがない……」


深夜のロビーは静かだ。フロントのカウンター越しに、深夜勤のスタッフが淡々と書類整理をしている。だが玲の感覚は、すでにそこに潜む異様な気配を探していた。


「今度は、もっと冷たいやり方で始まる。このままでは、また人が死ぬ」


添付された航空写真とホテル正面の画像を確認する。建物の構造、出入り口、ロビーの配置……頭の中で全てを瞬時に整理する。


「――わたしは行けない。あなたになら、止められるかもしれない」


玲は深く息を吐き、周囲を見渡す。夜中に潜む影、階段の奥、ロビーのソファの下――全てが監視対象だった。


「9月13日、第一の幕が上がる……」


スマートフォンを握る手に力が入る。過去の事件の残響と、これから起こる“何か”が交錯する空気を、玲は肌で感じていた。


その瞬間、ロビーの奥の自動ドアが静かに開き、夜の風が吹き込む。玲の目が鋭く光る。誰かが、確実にこの空間に足を踏み入れたのだ。


場所:某ホテル・ロビー

時間:深夜1時


玲はスマートフォンの画面を指で拡大し、航空写真の細部をじっと見つめた。建物の配置、メインエントランスの位置、非常階段、屋上の構造――全てが、まるで事前に知っているかのように目に入ってくる。


「離島……か。陸路では来られない場所だな」


声にならない呟きを漏らす。波の音、風の流れ、孤立した地形――あらゆる条件が、計画者に有利に働く可能性を示していた。


朱音が玲の隣で息を潜める。

「お兄ちゃん……ここで何が起きるの……?」


玲は視線を下ろし、手元のスマートフォンを握りしめたまま答える。

「過去に起きたことを思い出せ。パターンは同じだ。誰かが、確実に“舞台を作っている”」


深夜のロビーは静まり返り、時計の秒針の音だけが響く。外の暗闇では、波の音が低く、孤独に打ち寄せる。玲はゆっくりと立ち上がり、ロビーの窓越しに夜景を見つめた。


「準備は早いに越したことはない。……朱音、君の直感を頼む」


朱音はうなずき、スケッチブックを胸に抱えたまま、玲とともにホテルの夜を見つめた。

「きっと、誰かがここで、また“仕掛け”を始めている」


その瞬間、微かに照明の奥で人影が揺れた。玲は素早く息をひそめ、目を細めてそれを追った。誰かが、もうすでに動き始めている。


場所:某ホテル・ロビー

時間:深夜1時40分


玲は野添慶介に視線を送った。青年の落ち着きのなさは、ただの緊張ではない。彼は観察眼と洞察力に長け、微細な音や気配の変化を即座に察知する――まさに行動分析スペシャリストとしての素質を持つ人物だった。


「君がここにいるということは……状況を読む訓練は十分だな」


玲の言葉に、野添は小さくうなずく。

「ええ、音や動きのパターンから、誰がどこにいるかは大体予測できます」


朱音は横でその様子を見つめ、少し驚いた表情を浮かべた。

「お兄ちゃん……この人も、ただの宿泊客じゃないの?」


玲は静かに説明する。

「違う。野添慶介は、過去の類似事件でも活躍した“行動解析の専門家”。僕たちがここで安全を確保し、異変を察知するには、彼の能力が必要だ」


窓の外で、波が静かに砕ける音。ロビーの重い空気の中で、野添の鋭い視線はすでに複雑な状況を読み取り始めていた。


場所:某ホテル・ロビー奥の小机前

時間:深夜1時45分


玲は朱音の隣で小さく息をつき、千草絵里に目を向けた。眼鏡越しの視線は厳しく、書類の文字を追う指先は迷いなく動く。


「千草先生、この資料は封印文書と今回の事件の関連性を確認するためですか」


絵里は軽く頷き、落ち着いた声で答えた。

「ええ。このホテルで起きた三年前の事件と、今回の予兆には類似点が多い。建築構造、来訪者の動線、残された記録――すべてがヒントになる」


玲はメモを取りながら、朱音に説明する。

「千草絵里は文化財解析の専門家だ。単なる学者ではなく、封印や古文書の形式を現場で即座に判断できる能力を持つ。ここでは彼女が“現場監修”として動く」


朱音が小声で呟く。

「……やっぱり、ただの文化交流会じゃないんだ」


玲は窓の外を見やり、低くつぶやいた。

「こうして複数の専門家が揃うことで、事件の兆候を見逃さず、安全を確保できる。今回の“舞台”はそれほど複雑で危険だということだ」


ロビーの重い空気の中で、行動解析の野添と文化財解析の千草が、それぞれの視点から夜の異変を捉え始めていた。


場所:某ホテル・ロビー

時間:深夜2時


赤松が静かに頭を下げ、微笑みを浮かべながら告げる。

「皆さま、夜食の準備が整いました。ダイニングにお通しいたします」


玲は朱音と視線を交わし、低く囁く。

「夜食? この時間に全員をまとめて動かす意図は何だろう……」


朱音は小さく肩をすくめ、手元のスケッチブックをぎゅっと握った。

「ただの夜食じゃない気がする……」


野添慶介も眉をひそめる。

「赤松の動き、タイミングが妙に計算されている。何かを誘導しているようだ」


玲は立ち上がり、深呼吸をひとつ。

「では、全員でダイニングに向かう。だが、警戒は怠らない。今回の“舞台”では、何が起きてもおかしくない」


千草絵里が資料を机に置き、眼鏡を整える。

「封印や過去の事件の動線を考えれば、この夜食への誘導は重要な手掛かりになるでしょう。すべての動きが記録の鍵です」


こうして、ホテルの深夜のロビーは、静かな緊張感の中で次の局面へと移っていった。


場所:某ホテル・ロビー

時間:深夜2時10分


玲は手元のスマートフォンを見つめ、画面に表示された警告文を反芻した。

『今夜、誰かが死ぬ。あなたはまだ間に合うかもしれない』


朱音が肩越しに覗き込み、小さく声を漏らす。

「……玲さん、本当に、また同じことが起きるの?」


玲は短く息をつき、窓の外の暗闇を睨む。

「可能性はゼロではない。だが、だからこそ注意深く動く必要がある」


野添慶介が腕を組み、低くつぶやく。

「警告をくれたのは誰だ……? ホテルの内部に関係者以外の何者かがいるのか」


千草絵里も資料を閉じ、玲の視線を受け止めた。

「三年前の事件と同じパターンなら、行動は計算されている可能性があります。誰が、どこで、何を仕掛けるか……考えられる全ての状況を想定して動くべきです」


玲はゆっくりとスマートフォンをポケットにしまい、声を低く落とした。

「今夜、誰かが死ぬかもしれない――その“誰か”を守るのは俺たちだ。準備はいいか?」


朱音は小さくうなずき、スケッチブックを抱きしめる。

「うん……私も、見逃さない」


静かなロビーに、緊張がさらに張り詰めた。外の風が窓を揺らし、薄暗い光が影を踊らせる。


場所:某ホテル・東棟廊下

時間:深夜2時25分


朱音は足元に目を落としながら、そっと歩を進める。手に握ったスケッチブックがわずかに揺れるたび、心臓の鼓動が耳に届きそうだった。


突然、廊下の奥からかすかな金属音が響いた。

「……誰か、いる?」


声は震えていなかったが、背筋を凍らせるような緊張が走った。朱音は立ち止まり、息を潜める。


影が廊下の先端を横切る。

小さく息を呑み、朱音は手に持つスケッチブックをぎゅっと抱きしめた。

「……玲さん……」


その瞬間、背後から廊下の扉がきしむ音がした。朱音は振り返ることができず、足を止めたまま静かに呼吸を整える。


暗闇の中、かすかな金属音と足音だけが、館内の沈黙を切り裂いていた。


場所:某ホテル・東棟廊下

時間:深夜2時32分


朱音は足を止め、耳を澄ます。声は廊下の奥、階段に近い方から聞こえてきた。低く、かすれ、しかし確かに人の声だ。


「……誰か……助けて……」


声は短く途切れ、再び沈黙が訪れる。朱音の手が震え、スケッチブックを抱きしめる指先に力が入る。


振り返る余裕もなく、朱音は音の方向へゆっくりと歩を進める。階段の踊り場で、薄暗い灯りに照らされた先には――人影が床に倒れていた。


倒れているのは、昨夜まで笑顔を見せていた若い宿泊客。胸に広がる血の赤が、薄暗い廊下に不自然に光る。呼吸もなく、手足は微かに震えているだけだった。


朱音は後ずさり、声を震わせる。

「……玲さん! また……誰かが……!」


闇の廊下に、再び沈黙が落ちる。その中で、冷たい空気だけが、二度目の殺人の痕跡を静かに告げていた。


場所:某ホテル・東棟廊下

時間:深夜2時33分


朱音はかろうじてスマートフォンを取り出すと、震える指で玲の番号をタップした。

「……玲さん……また、誰かが……倒れて……」


声はかすれ、震え、言葉を途中で切らざるを得なかった。背後の廊下には、まだかすかに風のような呻き声が残っている。


しばらく沈黙の後、朱音の視線は倒れている人物の隣に落ちた。誰かが無造作に置いた紙片、血で汚れた手帳、そして奇妙な印――薄暗い光の中で、何かが彼女に語りかけるように見えた。


「……どうして……また……」


呟く言葉は廊下に吸い込まれ、朱音の震えた呼吸だけが響いた。


その瞬間、背後の廊下から、別の足音が微かに近づいてくる。誰か――ではなく、何かが、この静寂を破ろうとしていた。


場所:某ホテル・東棟廊下

時間:深夜2時34分


朱音の身体が固まったまま、薄暗い廊下に小さな悲鳴がこだました。

「きゃ……!」


声は一瞬で消え、重苦しい沈黙が戻る。だが、心臓を締めつけるような恐怖は消えない。

足元に倒れている人物の形が、暗闇の中で微かに揺れ、朱音の視線を引きつけた。


「だ……誰……?」


声にならない言葉を吐きながら、朱音は後ずさる。背後の闇からは、低く、重い呼吸音が近づく。

「……玲さん……、助けて……!」


廊下の影がゆらりと揺れ、まるで誰かが朱音を見つめるかのように、薄暗い空間にその存在を示した。


場所:某ホテル・東棟廊下

時間:深夜2時36分


朱音は廊下の影に足を止め、体を震わせながら倒れた青年を見つめていた。その瞬間、遠くから駆ける足音が聞こえる。


「朱音! 朱音!!」


必死の声。振り返ると、懐中電灯の光が揺れながら近づいてくる。玲だ。顔には焦燥が走り、呼吸も荒い。


「どこにいるんだ……朱音!!」


玲は手早く廊下を駆け抜け、朱音の肩に触れるとほっと息をついた。朱音はまだ震えていたが、玲の声で少しだけ落ち着く。


「……こっちにいる……」


玲は倒れた青年を見下ろし、短く分析する。胸に深く刺さったナイフ、確実に命を奪う一撃。密室殺人と同様、犯行は熟練者による計算された行為だった。


「ナイフの刺し方……迷いがない。経験者だ……」


朱音は泣きそうな声で玲を見上げる。玲は彼女の手を握り、声を落ち着かせる。


「僕が状況を抑える。君は動かずに、しっかり見ていて」


場所:某ホテル・東棟廊下

時間:深夜2時42分


「朱音、そっちか!?」


玲の声が廊下に響く。息を切らし、階段を駆け上がる音と重なり、静寂は一瞬で張り詰めた。


朱音は震える手で壁際に身を寄せ、薄暗い光の中で玲の姿を確認する。


「こっち……!」


玲は廊下を飛ぶように走り、朱音の肩に手を置く。


「大丈夫、僕がいる。怖がらなくていい」


朱音はうなずき、少しずつ呼吸を整える。だが視線は、倒れた青年から離れない。


玲は瞬時に状況を把握し、声を落として指示する。


「手早く現場を確認しよう。外はまだ安全じゃない。動かすな、触るな」


朱音の瞳に映る玲の冷静さと緊張感。二人の心は同時に戦い、犯人の意図を推測するためのスペシャリスト的視線が光る。


遠くの階段から、もう一人の足音が迫る。詩乃だ。


「玲、現場は!?」


玲は頷き、朱音を守りながら、次の行動を決める。


この瞬間、三人の連携が、夜のホテルを緊迫の舞台へと変えていく。


場所:某ホテル・東棟廊下

時間:深夜2時44分


玲は片膝をつき、倒れた青年の肩に触れないよう慎重に距離を保ちながら、わずかに開いた口元と胸のナイフの角度を観察した。


「……死後硬直はまだだ。体温の低下もほとんどない」


彼の声は低く、しかし確実に状況を切り裂く。


「発見から――いや、この状態だと刺されたのは10分以内。犯人はまだこのフロアにいる可能性が高い」


朱音の息が止まる。

隣で詩乃が眉をひそめ、廊下の端へ鋭い視線を走らせた。


「つまり、逃げてないってことね」


玲は静かに頷き、しかし視線は青年の手元に吸い寄せられた。指先が微かに曲がったまま固まっている。


「何かを掴もうとして……届かなかった。断末魔の動きだ」


朱音の肩が震える。

玲は朱音の方へ目を向け、声を少しだけ柔らかくした。


「朱音、見なくていい。今は僕の後ろに」


朱音はぎゅっと唇を噛んだまま、玲の背に隠れる。


そのとき――


廊下の奥で、

コトッ……


何かが落ちる、小さな音がした。


詩乃が素早く短剣を抜き、玲が朱音を背に庇う。


「……まだ、誰かいる」


玲の声が、張りつめた廊下の空気を鋭く切り裂いた。


場所:某ホテル・東棟廊下

時間:深夜2時45分


ざわ…ざわ…。


廊下の端に、パジャマ姿や羽織ものを急いで引っかけた宿泊者たちが次々と顔をのぞかせ始めた。

足取りは慎重だが、視線は一様にこちらへ吸い寄せられる。


「え…? 何かあったんですか…?」

「悲鳴が聞こえたぞ。事故じゃないのか?」

「やめてよ…夜中に…」


ひそひそ声とざわめきが混ざり合い、空気が重たく揺れる。

中には、スマホを構えようとする者もいた。


その瞬間――

玲が鋭い声で制した。


「撮影禁止だ。すぐに端へ下がってください。ここは現場です」


声は決して怒鳴りではない。だが、冷えた刃のような一言に、何人かが肩を震わせてスマホをしまい込む。


詩乃も一歩前へ出て、落ち着いた声で続けた。


「ここから先の立入は禁止。スタッフを呼びますので、それまで動かないでください」


柔らかい言葉に包み込むような口調だが、その瞳には冷たい警戒が宿っている。

宿泊者の一人が不安そうに聞く。


「そ…その、誰か…亡くなってるんですか?」


玲は一瞬だけ視線をそらし、朱音の前に立つように位置を変える。

彼のコートが、朱音を外の視線からそっと隠した。


「詳細は言えません。ですが安全は確保します。落ち着いて行動してください」


低く静かな声に、ざわめきは少しずつ引いていった。


だが――不安と緊張は、廊下の壁にへばりつくように残り続ける。

“犯人はどこにいるのか”という恐怖が、宿泊者たちの影を長くした。


一方、玲は視線を再び遺体へ戻し、静かに息を詰めた。


――10分以内。

犯人は、まだこの館のどこかにいる。


その事実を胸に、玲の目がさらに鋭さを増す。


【時間:23時42分/場所:2階・中央廊下】


玲の声が冷たく響き渡った瞬間、ざわついていた空気が一気に張り詰めた。

それでも数名の宿泊者は不安と好奇心を押し殺せず、その場を動こうとしなかった。


そのとき――


足音は音にならず、影だけが静かに差し込むようにして、ひとりの男が人垣の向こうから現れた。


黒いウインドブレーカー。

無駄のない体躯。

目元にかかる鋭い影。


危機管理スペシャリスト――氷見野ひみの れん


ホテル側が「安全管理顧問」として招いた人物――だが、その実態は警察OBの危機制御のプロだった。


「……散開を。ここは既に“事件現場”です。好奇心で踏み荒らす場所ではありません」


低く、よく通る声。

玲の指示よりもさらに一段階、“強制力”のある音色だった。


ざわめいた宿泊者たちは、氷見野の目をひと目見るだけで息を呑む。

その視線は冷徹でも怒りでもなく――

「この状況を正しく仕切れる者の視線」

だった。


「き、危険ってことですか……?」

恰幅のいい中年男性が恐る恐る声を上げる。


氷見野は一歩前に出て、落ち着いた口調で言った。


「危険を未然に隔離するのが私の役目です。みなさんには、安全な空間へ戻っていただきます」


玲が静かに頷き、氷見野の横に立つ。


「このまま現場にいると、あなた方自身が“容疑者”として扱われる可能性がある――そういうことです」


その一言が決定打となった。

宿泊者たちは互いに顔を見合わせ、次々と自室へ引き返し始める。


だが、その流れの中、ひとりの若い女性が震えながら声を絞り出した。


「で、でも……あの悲鳴、本当に……殺されて……?」


氷見野はその問いを遮らず、しっかりと視線を合わせた。


「恐怖を抱くのは当然です。ただ――恐怖は判断を鈍らせる。今は“私たちの指示”に従うのが生き残る最善策です」


女性は唇を噛み、黙って頷いた。


玲は横目で氷見野を見た。

その冷静さと、危険の空気を一瞬で制御する手際――

この状況にはあまりに適した助っ人だ。


「……相変わらず、現場の扱いが上手いな」


玲の皮肉交じりの言葉に、氷見野はわずかに肩をすくめた。


「あなたが“事故ではない”と言った時点で、全て理解しましたよ。

 これから、忙しくなりそうですね――玲さん」


【24:21/離島ホテル・2階東廊下】


支配人である老執事・岩崎が、顔面を蒼白にして駆け寄った。


「こ、これは……まさか……」


玲は頷きもせず、ただ短く告げる。


「岩崎さん。ここから先は、立入禁止です。部屋の鍵、そしてこの階に入る全員の名簿を至急用意してください」


岩崎の喉が、乾いた音を立てて動く。


「は、はい……すぐに……!」


岩崎が足早に去っていくと同時に、玲は背後に気配を感じた。


「来たか、氷見野」


振り返ると、細身の男――**氷見野湊ひみの みなと**が立っていた。

白手袋をはめ、肩から小型の検視キットを提げた“遺体痕跡特化スペシャリスト”。

元・公安科学捜査支援班。玲の数少ない信頼できる協力者だ。


「……まったく。離島の文化交流会に呼ばれたと思ったら、死体かよ」


氷見野は淡々と呟き、遺体のそばに屈む。

朱音を後ろにかばい、玲も膝を折った。


「氷見野、まず外傷の確認を」


「もう見てる」


氷見野は細いライトを左手で照らしながら、ナイフの刺さった胸元へ視線を落とした。

そして、ごく小さく息を呑む。


「……玲。これ、変だ」


玲が目を細めた。


「どこがだ?」


「刺し方が“浅い”。心臓に届いてない。致命傷じゃない」


朱音が小さく震えながら声をもらす。


「え……じゃあ……どうして……?」


氷見野は静かに続けた。


「死因は、おそらく――窒息。外傷も毒物反応もない。けど、口腔内に“強い圧迫痕”がある。手で押さえつけられた痕だ」


「……二段構えの偽装か」


玲の声は低く落ちる。


氷見野は更に遺体の襟元をめくる。


「もう一つ。

死ぬ直前に“誰かの布”が口を塞いだ可能性が高い。繊維片が残ってる。ウール……多分“衣類”。犯人は素手じゃない」


玲は立ち上がり、廊下を見渡した。

見張るように並ぶ宿泊者たちの影。

誰もが疑わしげで、誰もが恐怖に満ちている。


「氷見野。俺は周囲の足跡と、扉の開閉痕を見てくる。

“遺体の異常点”の詳細はまかせる」


「了解」


氷見野は振り返り、わずかに笑みを浮かべた。


「なぁ玲。

これ、普通の殺人じゃない。今夜は“まだ続く”ぞ」


玲の表情は動かない。


ただ、朱音の肩にそっと手を置き、静かに言った。


「朱音。絶対に、俺から離れるな」


その言葉が落ちた瞬間、廊下の奥の電灯が――

一瞬、チリ、と小さく揺れた。


殺人は、まだ序章に過ぎなかった。


【場所:2階・事件現場前廊下/時刻:深夜0時47分】


廊下には、緊張が張りつめていた。

その中央に立つ玲の両側へ、ゆっくりと、まるで空気を押し分けるように二つの影が歩み出てきた。


氷見野湊ひみの・みなとと、弟の氷見野蓮れん――

通称「氷見野兄弟」。

二人が姿を現すと、さざ波のようにざわめきが広がった。


湊は無言で手袋をはめ、蓮はポケットから細い懐中ライトを取り出す。

二人とも黒に近い濃紺のコートを着ており、その存在感は場を支配するほどの圧だ。


雪のように冷たい眼差しで現場を見下ろし、湊が低く言った。


「……騒ぐな。時間を無駄にする」


その声は静かだが、威圧そのものだった。

深水レンが思わず肩をすくめ、美月は口元を押さえる。


蓮が遺体のそばにしゃがみこみ、玲へ目を向ける。


「兄さん、見て。胸の刺し位置……普通じゃない。角度が妙に浅い」


「刺したというより、“押し込んだ”跡だな」


湊が淡々と続ける。


「素人にはまず無理な角度だ。相当訓練された人間……あるいは、被害者の体勢が特殊だった」


その言葉に、宿泊者たちがざわめいた。


千草絵里が小声でつぶやく。

「押し込んだ……? そんな……」


野添慶介は蒼白のまま壁にもたれ、震える声でつぶやく。


「ま、待ってくれ……。やっぱり……」


「殺人だ」


玲が静かに断言した。


蓮がさらにライトを動かし、被害者の右手を照らした。

玲がその異常に気づき、眉を寄せる。


「……手のひら。妙だな。指が……」


蓮が続けた。


「力が入った痕じゃない。逆だ……“力を抜けない状態で固められた”みたいだ」


「痙攣の跡とも違う。……氷見野、何か心当たりは?」


玲が問うと、湊は一瞬だけ沈黙し、低く答えた。


「……こうなるのはな。“死の直前に強烈な恐怖を与えられた時”だけだ」


廊下が凍りついたように静まり返る。


美月が震える声で、ぽそりと漏らした。


「お……脅された……? 死ぬ前に……誰かに……?」


湊は視線を上げ、廊下に集まった宿泊者たちを一人ひとり、刺すように睨む。


「――尋問を始める。

 今から一人ずつ、聞かせてもらおう。

 最後に被害者と接触したのは誰だ?」


蓮が淡々と告げる。


「嘘をついたら、すぐに分かる。

 俺たちはそのために呼ばれたんだろ?」


その圧に、宿泊者たちは言葉を失う。

深水レンが思わず小さくつぶやいた。


「……逃げられない……」


玲は全員を見渡し、冷静な声で告げた。


「この島には外へ通じる船も、通信もない。

 ここにいる者たちの中に……犯人がいる」


沈黙が、重く、深く落ちた。


【2025年11月26日 午前0時41分/ホテル・群青の岬 ロビー前広間】


薄暗い照明の下、仄かな潮の香りが漂うロビー前広間には、宿泊者たちが集められていた。

椅子に腰掛ける者、立ったまま落ち着きなく指を組む者――誰もが緊張を隠せない。


氷見野湊ひみの・みなとが一歩前に出る。

筋肉質の体躯に黒のジャケット。冷ややかな視線だけで、場の空気を瞬時に締め上げた。


湊「――これより、お一人ずつお話を伺います。

 ご安心を。協力的な方には、何も危害はありませんので」


穏やかな言葉とは裏腹に、その声音は刃物のように冷たい。


すぐ隣に立つのは弟の氷見野蓮れん

兄と違って細身だが、外套の裾から覗く鋭い眼差しには“人を射抜く”何かがあった。


蓮「兄さん、順番は俺が決めるよ。

 一番動揺が少ないのからいこう。嘘も混ぜづらい」


湊は無言で頷く。


蓮の目が、まず一人の女性で止まった。


時間: 午前2時40分

場所: ホテル東棟ロビー横の応接室


蓮が相羽凛を指で静かに示し、湊は廊下側のドアを軽く押さえた。部屋の空気は緊張に満ちている。


蓮の低い声が響く。

「相羽先生、夜間に廊下を歩く姿を見た、という証言があります。何か理由はありますか?」


相羽凛は冷静に顔を上げ、指先でメモ帳のページをなぞりながら答える。

「はい。私は心理学的な観察のために、館内の様子を確認していました。特に異常行動があるかどうかを……」


湊が続ける。

「その時間帯、廊下に人の気配はあったか?」


凛はしばらく沈黙した後、静かに口を開く。

「ほとんどの宿泊者は自室に戻っていました。ただ、私が確認した限り、廊下の奥で誰かが物音を立てた痕跡はあります」


玲がノートを開き、質問を加える。

「第2の殺人現場について、何か異常な心理状況や宿泊者の様子に気づきましたか?」


凛は眉をひそめて、落ち着いた声で答える。

「ナイフによる刺殺の場面は極めて計算されており、犯人は冷静かつ計画的です。恐怖や混乱を誘発する心理的効果も意図している可能性があります」


蓮が静かに頷き、湊に目配せする。

「よろしい。これで動線と心理的背景が整理できました」


玲はメモを閉じ、次の尋問者に移るために席を立つ。

「ありがとうございました。相羽先生の観察は、捜査において非常に重要です」


部屋には再び静寂が訪れ、外の風でブラインドがわずかに揺れた。


時間: 午前2時55分

場所: ホテル東棟ロビー横の応接室


蓮が静かに声をかける。

「次は鳴瀬友梨さん。夜中に廊下を歩いていたそうだが、理由を聞かせてください」


友梨はペンを握ったまま、低く落ち着いた声で答える。

「ええ……ライターとして、事件性のある異常を記録しようと思っただけです。宿泊者の動きや、不審な音の発生時間などを、後で記事にするつもりで」


湊が軽く息をつき、鋭い視線で続ける。

「その夜、302号室の死体を見たか?」


友梨は首を横に振り、ペン先をノートに滑らせながら答えた。

「いいえ。私はその場にはいません。ただ、騒ぎが広まる前に、廊下の異常を確認しただけです」


玲がノートを開き、確認する。

「廊下で誰かと接触したか、または不自然な動きを見たか?」


友梨は目を伏せ、言葉を選ぶようにして答える。

「……誰かが通った気配はありました。靴音が一定のリズムで、冷たく硬い印象でした。近づくと一瞬止まる、そんな不自然な間合いがありました」


蓮が静かに頷く。

「了解です。動線と不審な行動が確認できました。ありがとうございます」


湊もメモを取り終え、玲が次の質問に移る準備をする間、応接室には再び重い沈黙が戻った。


時間: 午前3時10分

場所: ホテル東棟ロビー横の応接室


湊が低い声で問いかける。

「仁科さん、302号室周辺での動きについて教えてください。夕食後から午前2時まで、どこにいた?」


仁科は微かに眉を上げ、冷静に答える。

「私はラウンジで書類整理をしていました。誰とも接触していません。廊下も見回りましたが、特に異常はなし」


蓮が前に出て、じっと仁科の目を見据える。

「異常はなかった、と。しかしこの館内で二件の殺人が起きています。あなたの行動と矛盾しませんか?」


仁科は肩をすくめ、淡々と答える。

「矛盾はありません。犯人は私ではない。それだけです」


玲がノートに目を落とし、追及を続ける。

「302号室の扉には、内側から鍵がかかっていた痕跡があります。密室の可能性が高いですが、廊下の警備や監視はどう見ましたか?」


仁科は目を細め、低く唸るように答える。

「監視? 不自然な足音や気配は感じませんでした。もし誰かが巧妙に仕組んだのなら、私の目の前でも気づかないほど徹底していたのでしょう」


湊はゆっくりと頷き、ノートにメモを取りながら次の言葉を加える。

「なるほど……監視網や犯行の手口、時間の使い方。全て精査する必要があります。協力に感謝します」


仁科は軽く頭を下げ、再び背広のポケットに手を戻した。その落ち着きと余裕は、周囲に微かな緊張を生む。


場所:ホテル・ロビー

時間:深夜0時30分


「待ってくれ、閉じ込めるってことか?」

それは作曲家の日向晴翔ひゅうが・はるとだった。明らかに苛立ちを隠せない様子で、額に汗を浮かべている。


「閉じ込めるわけではありません。ただ、今夜、二件の不可解な死が立て続けに起きました。安全を確保するため、状況を整理する必要があるだけです」


日向は肩を落とし、額の汗を拭った。

「……わかった。でも、正直まだ信じられない。こんなことが、本当に起きるなんて」


玲は冷静に、しかし一切の揺らぎのない声で応じる。

「信じるかどうかは問題ではありません。事実として起きたことを整理する。あなたの足取りも含めて、必要な情報をすべて確認します」


湊が日向に向けて視線を鋭く送る。

「些細なことでも重要です。誰と会い、どの部屋にいたか、全てを正確に」


日向は一度深く息をつき、震える手で頷いた。

「……わかった。話せる限り、全て話す」


廊下の奥では、他の宿泊者たちが互いの顔を見合わせながら、静かにその様子を見守っていた。


場所:ホテル・西棟応接室

時間:深夜2時00分


朱音は薄暗い応接室のソファに座り、震える手でスケッチブックを握っていた。月明かりが窓から差し込み、床に細長い影を落とす。


玲は革張りの椅子に腰掛け、手元の資料を広げながら静かに言った。

「今回の事件、ただの偶然ではありません。第一、第二の殺人には共通の手口が見えます。時間、場所、遺体の状況、どれを取っても“演出”の痕跡がある」


岩崎は額に深い皺を寄せ、低く息をついた。

「……この館で、そんなことが起こるなんて。考えられません」


玲は軽く首を振る。

「可能性として排除できない以上、現実として受け止めるしかありません。朱音、あの夜の廊下で聞いた声、覚えているか?」


朱音はうなずき、かすかな声で答える。

「……あの声……苦しむような、誰かの……」


玲は資料を閉じ、岩崎を見た。

「まずは館内の状況を把握し、客の足取りと接触履歴を整理します。外部への連絡も必要です。君は、朱音を守るために行動してください」


岩崎は短く頷き、朱音に近づき手を握る。

「安心してください、玲さんの言う通りに動きます」


外では風が窓を揺らし、深夜の館に不穏な気配が静かに漂っていた。


場所:ホテル・西棟応接室

時間:深夜2時15分


玲は間取り図に視線を落としたまま、静かに指先でドアの位置をなぞる。

「朱音、君が気づいたという隙間だが……これを利用すれば、外から鍵を操作せずに、密室を“演出”することも理論上は可能だ」


朱音は眉を寄せ、息をひそめる。

「でも……どうやって誰かが、あの短時間で……?」


玲は短く息をつき、専門家の助言を思い出したように話す。

「ここで言う“密室演出”の可能性については、特殊構造や既存の器具を使うことで、外部からの介入を疑わせる方法がある。建築の古さやドアの隙間、空調ダクト、天井裏――こうした点を利用すれば、短時間でも死角を作り出せる」


岩崎が顔を曇らせて質問する。

「そんな……それでは、誰がそんなことを……」


玲は資料を閉じ、冷静に言った。

「現時点で犯人を特定するのはまだ早い。だが、密室現象の背後にある物理的可能性は、この建物の構造を知る専門家なら理解できる。すぐに建築構造の検証と、過去の改修記録を照合する必要がある」


朱音は小さくうなずき、手元のスケッチブックを抱え直した。

「……わかりました。私にできることは、見たことを全部覚えておくことです」


玲は静かに視線を朱音に移し、鋭く頷いた。

「その通りだ。記憶の正確さが、今回の謎を解く鍵になる」


外の風が窓を揺らし、応接室には再び静寂が訪れた。しかしその沈黙の中には、確実な緊張感が張りつめていた。


場所:ホテル・西棟応接室

時間:深夜2時17分


玲は椅子にもたれず、前のめりの姿勢で淡々と続けた。

「……たとえば、糸や針金を使って外側から鍵を回すトリックは、理論的には可能です。少なくとも一部の古い洋館では、それを再現した事件もありました」


朱音が目を丸くする。

「……そんな、映画みたいなこと、本当にできるの?」


「条件が揃えば、ですがね」


低く落ち着いた声が背後から重なった。

扉の方を見ると、いつのまにか“建築痕跡調査”のスペシャリスト──

建築法科学鑑定士・真壁悠人まかべ・ゆうと

が立っていた。


黒いレインコートを脱ぎ、眼鏡を指で押し上げながら部屋へ入る。

玲が頷いた。

「真壁さん、急な呼び出しにもかかわらずすまない」


真壁は淡々と、しかしどこか鋭い熱を秘めた目で間取り図を見る。

「この館、築九十年以上。古い内鍵は〝隙間〟がすべてです。鍵そのものに触れずとも、遠隔で操作される事例は実際に存在します。糸、針金、時には……細いピアノ線すら使われます」


「ピアノ線……?」

朱音が息を呑むと、真壁は彼女にやわらかく言った。

「安心して。あなたが見つけた“隙間”の位置が正確なら、むしろ犯人の痕跡を追える可能性が高い」


玲はすぐに本題へ入る。

「つまり、今回の“密室”は 自然発生ではなく、人為的に作られた可能性が高いと?」


真壁は間取り図を二度見て、即答した。

「高いどころか──ほぼ確定です。

 ただし、それを実行できるのは『この建物の構造を理解している者』だけ。

 宿泊者の中に、その条件に合う人物がいるのか……そこが問題です」


室内の空気が強く張りつめる。

朱音はスケッチブックを抱え、ぽつりとつぶやいた。

「じゃあ……“誰でもできた”わけじゃないんだ」


玲は静かに、しかし確実な響きで告げる。

「そうだ。

 ──犯人は、この館に詳しい“誰か”。

 もう絞り込みは始まっている」


窓越しの風が、古い応接室のカーテンを揺らした。

嵐の前の静けさのように。


場所:ホテル・西棟応接室

時間:深夜2時20分


玲は朱音の隣に座り、指でメモをなぞりながら続けた。

「直前の口論については、心理学的な分析も可能だ。怒りや焦燥のピークは、犯行に影響を与えることがある」


その言葉に、応接室に座る相羽凛(心理学者)が静かに頷いた。

「確かに。声のトーンや間合い、発せられた言葉の選択によって、心理的圧力や意図が推測できる場合があります。目撃証言と組み合わせることで、犯人の心理状態を逆算することも可能です」


玲はメモを手に取り、眉をひそめる。

「つまり、ただの偶然ではなく、犯行の意図やタイミングを読む手がかりになるということだな」


凛はペンを指で軽く回しながら続ける。

「はい。口論の相手、発言内容、時間帯の一致など、複数の要素を分析することで、誰が犯行に関与したか、また犯行時刻の精度を心理学的に補強できる」


岩崎は息をのんで質問する。

「心理学で、密室殺人の可能性まで見抜けるものなのですか?」


凛は冷静に答えた。

「直接的に“どうやって鍵を操作したか”は物理的な問題ですが、犯人の行動パターンや精神状態を解析することで、現場に至るまでの心理的動線はかなり特定できます。建物構造の専門家と合わせれば、より精度の高い推定が可能です」


朱音はスケッチブックを抱え、手元で鉛筆を転がす。

「……やっぱり、現場の小さな違和感を全部覚えておくことが大事なんですね」


玲は頷き、静かに付け加えた。

「その通りだ。証言、心理、建築構造――三つの視点が揃えば、この密室の謎は解けるはずだ」


場所:ホテル・ロビー

時間:深夜2時45分


玲は静かに歩みを進め、ソファに腰を下ろす。朱音は隣に座り、視線を巡らせながら囁いた。

「……みんな、すごく疲れてるね。でも、誰か一人でも嘘をついたら、わかるかも」


玲は小さく頷き、手元のノートに指を滑らせる。

「ここで重要なのは、身体的・心理的サインを見逃さないことだ。声の震え、手の動き、呼吸の速さ――小さな変化が、心の揺らぎを示す」


相羽凛(心理学者)が静かに立ち上がり、低い声で補足した。

「深夜の疲労状態は、判断力と自己抑制に影響します。長時間の監視や緊張の中での発言は、無意識の心理サインを露わにすることがあります。特に密室事件のような場合、心理学的観察は重要です」


玲はロビーのゲストたちを見渡す。

「つまり、今ここにいる全員の微細な動作が、事件解明の手がかりになる」


朱音はスケッチブックを開き、小さな図を描き始めた。

「……体の向きや視線の先も全部記録しておかないと」


凛は柔らかく頷きながらも、厳しい視線を巡らせる。

「その通り。誰が本当のことを話しているか、誰が隠しているか、心理的証拠を集めるためには、こうした観察が欠かせません」


玲は静かに呼吸を整え、低く呟いた。

「ここからが、真実を紐解く“夜の尋問”の始まりだ」


場所:ホテル・ロビー

時間:深夜3時10分


玲はロビーの長テーブルに資料を広げ、朱音と相羽凛、さらに氷見野湊・蓮の兄弟を交えて整理を始めた。


玲は眉間に皺を寄せ、手元のメモを指で押さえながら言った。

「水原さん、青沼さんの証言が交錯する部分を整理する必要がある。両者とも、過去に朽ヶ島で起きた事件に独自に関わっていたようだ」


朱音がスケッチブックに線を引きながら、静かに訊ねる。

「玲さん、それって今の事件と関係あるの?」


相羽凛が答える。

「心理的観点から言えば、両者が過去の事件に関与していたという事実は、今回の事件に対する予期的知識や行動パターンに影響を与えている可能性がある。つまり、無意識にでも証言や行動に微妙な傾向が表れるはずです」


氷見野湊が低く声を落として続けた。

「過去の事件の知識がある人物は、現場での動きや言動が自然と特異になる。警戒心や隠蔽行動も増えるだろう」


玲は指を資料上に走らせ、青沼辰生の証言メモを手に取り、朱音に向けて示す。

「ここに注目だ。青沼さんは建築的な視点から、302号室の構造や古い鍵の特性についても触れている。これが密室トリックの理解につながるかもしれない」


朱音は頷き、スケッチブックに細かく図示する。

「なるほど……こういう“隠し方”を、知ってる人なら実行できるってことか」


凛が静かに目を細めて付け加える。

「心理的観察と物理的証拠の両面を組み合わせるのが重要です。過去事件の記憶や知識は、犯行の選択肢や心理の傾向に直結するから」


玲は深く息をつき、資料の山を見渡しながら低く言った。

「では、過去の痕跡と現在の証言を照合し、この事件の全貌を紐解こう。ここからが、我々の本格的な捜査だ」


場所:ホテル・ロビー

時間:深夜3時30分


玲は静かに頷き、資料をテーブルに広げ直した。


「なるほど……つまり、構造上の“異常”は犯行に利用された可能性があるが、現状では人の侵入痕跡はない、と」


朱音がスケッチブックを手元に引き寄せ、302号室の天井構造を描きながら言った。

「梁の隙間とか、隠し階段の跡……ここを使えば、部屋に出入りできたかもしれないってこと?」


青沼辰生は頷き、指で空中に示すように動かした。

「ええ。特に梁の高さや床下の隙間は、古い建物特有の遊びがあります。そこを巧妙に使えば、密室状態を作ることも可能です。ただし、精密な知識と計算が必要です」


玲は低く声を落とした。

「……つまり、この手の構造を知る専門家や、建築に精通した者でなければ再現できないトリックだ」


相羽凛が冷静に付け加える。

「心理学的にも、過去の建物改修の知識を持つ人物は、犯行の計画や心理的プレッシャーにおいて優位に立てます。現場での動きや時間操作の精度にも関わる」


氷見野湊が眉をひそめ、朱音を見ながら言った。

「つまり、この事件は単なる偶発的殺人ではない。建物の構造を熟知した者による、計画的な密室殺人の可能性が高い」


玲は資料の隅に小さく書かれた古い図面を指差し、重みを込めて言った。

「青沼さんの証言を基に、我々は“物理的トリックの可能性”を組み込みながら、犯行手口の再現を進める必要がある。ここからが本番だ」


場所:ホテル・ロビー

時間:深夜3時45分


玲は朱音の肩越しに覗き込み、眉をひそめる。

「……これは何を描いている?」


朱音は小さく肩をすくめ、指で図形を指した。

「月と鍵穴……なんとなく、部屋の仕組みと関係がある気がして」


相羽凛が朱音のスケッチに近づき、冷静に分析する。

「心理学的に言えば、直感やイメージを視覚化することで、複雑な状況を整理しようとしている。彼女は無意識に、事件の“空間的情報”を描き出しているのね」


青沼辰生も目を細めて図形を覗き込む。

「月の形は光源の位置を示している可能性があります。鍵穴は、隠し仕掛けや構造的トリックの暗示でしょう」


氷見野蓮が低く呟く。

「なるほど……これなら、誰がどのタイミングで動いたかを、視覚的に整理できる。専門家でも、意外と見落とすポイントだ」


玲は朱音の手帳に指を置き、力を込めて言った。

「よし、この図形を元に、302号室の“密室トリック”を再現する。君の直感が、今夜の鍵になる」


外はまだ暗く、風の音が時折窓を揺らした。

玲はついに告げた。

「今夜はこれで終了しよう。これ以上の詮索は逆に危険だ。各自、自室に戻ってくれ。鍵は施錠して、誰が来ても開けないこと」


 ゲストたちが重たい足取りで部屋に戻る中、朱音は最後にロビーのソファに身を横たえた。


 「おやすみ、玲お兄ちゃん……」


彼女の声は、灯りの消えたロビーに静かに溶けていった。


場所:本館ダイニングホール

時間:朝7時12分


朝の光が差し込むはずの大きな窓は、どこか薄曇りのように感じられた。

それでも夜とは違い、照明は暖色で、テーブルクロスは柔らかなアイボリー。

だが、その明るい空間に似つかわしくないほど、空気は沈みきっていた。


カチャ、という食器の触れ合う音が、やけに大きく響く。


朱音は席に着いたまま、大きめのマグカップを両手で包み込むように持っていた。

ココアの香りがふわりと立つが、それでも緊張は解けない。


すると――。


「おはようございますっ!! みんな、生きてますね!? よかったー!」


場の空気をぶち破る明るい声が、ダイニング全体を跳ね上がらせた。


全員がそちらを見る。


白いエプロンに明るい水色のシャツ、軽やかなステップ。

髪を後ろでまとめ、元気そのものの笑顔。


ホテル専属管理栄養士(兼・健康管理スペシャリスト)――

朝比奈あさひなゆら。

通称:“朝の魔法使い”


彼女がワゴンを押しながら、にこにこと言い放つ。


「はいっ、まずは温かいスープどうぞ! 寝不足だと免疫も下がりますからね!

ほらほら、飲まなきゃダメですよー?」


玲が眉をひそめた。

「……朝比奈さん、少し声を落としてくれ。状況は昨夜説明したはずだが」


「わかってますよぉ? でも、だからこそ“明るさ”って必要なんです。

暗い顔してると、犯人の思うツボですから!」


その言葉に、ダイニングの何人かが微かに肩を緩めた。


氷見野蓮が苦笑する。

「……こういうタイプ、嫌いじゃないけど驚異だな」


氷見野湊がコーヒーを啜りながら小声で兄に言う。

「兄さん、敵に回したら絶対疲れるタイプだ」


朱音は、ゆらが差し出したカップを受け取りながら、小さく言った。

「……ありがとう」


ゆらはぱっと笑顔を広げる。

「うん、朱音ちゃん、顔色悪いよ? ちゃんと食べなきゃだめ!」


すると、別の席で怯えたように座る深水レンに目を向け、

「レンさんは……寝てない顔ですね? はい! しょうがスープ追加~!」


レン「え、あ……すみません……」


その明るさは不自然ではなく、不思議と場を少しずつ温めていった。


玲はそんな彼女を横目に、朱音へ低く囁く。


「……本物のスペシャリストだな。

“空気”を読むという点では、俺たちの誰よりも鋭い」


朱音も小さく頷いた。


確かに——

朝比奈ゆらの“明るさ”はただの無邪気ではない。


人の表情、声色、そして精神のバランスまで読み取る。

そのうえで“最良の空気”を作り出すプロ。


事件の朝に彼女が現れたのは、

このホテルに漂う恐怖と緊張を、ほんの少しでも溶かすためだった。


しかし。


そんな柔らかな空気を、


――次の“死”が、またすぐに切り裂くことになる。


【朝 7時12分/食堂】


しんと静まり返った食堂に、食器の触れ合う微かな音だけが響いた。

それぞれが俯き、冷めたパンとスープを前にしていても、誰一人として食欲があるようには見えない。


その沈黙を割ったのは、窓際に座っていた人物だった。


「……で、どうするつもりなんですよ、玲さん?」


声は明るさを装っていたが、瞳の奥は鋭く状況を見据えている。

丸眼鏡の奥で光る視線は、混乱の中でも冷静さを失わない“現場分析のスペシャリスト”だった。


「こんな状況でまともに朝食なんて無理でしょう? でも、ここに集めた以上、なにか進展があるんですよね?」


玲は湯気の立たなくなったカップを指先で押しやり、静かに答えた。


「まだ“安全”とは言えない。犯人は、この館にいる確率が高い。

 そして……昨夜の二件が“無関係”とは考えづらい」


食堂の空気が微かに震えた。


「やはり連続殺人……?」


誰かの小さな呟きに、全員の背筋がぴんと張りつめる。


だが明るい声が、それを中和するように響いた。


「連続でも単発でも、やることはひとつでしょう? “同じ手口”か、あるいは“同じ意図”があったかを見極めること。

 それと……犯人は必ず“部屋を出入りしている”。嵐で外は閉ざされてるんですから」


玲が目を細めた。


「君は……何か気づいているのか?」


「気づくというより、確信ですね。

 ――犯人は、深夜に“もう一度この食堂を通っている”。」


その言葉に、全員が一斉に顔を上げた。


「どういう意味だ?」


「食器の配置が違っていたんです。昨夜はもっと中央寄りに置かれていた。

 深夜、この場を通り、何かを隠したか、回収した人間がいる」


ざわり、と空気が揺れた。


「つまり……“行動した痕跡”が残っているということだ」


玲の声が低く落ちる。


「全員、朝食が終わったら再び聞き取りを行う。

 ――犯人は確実に、ここにいる」


食堂の空気が一気に張りつめた。


夜明けから二時間が過ぎ、午前8時14分/東棟1階・食堂。


まだ薄曇りの朝を告げる光が、長いテーブルをかろうじて照らしていた。誰もが眠れぬ夜を過ごしたせいか、食器を持つ手は重く、椅子の軋む音すら神経を逆撫でする。


そのとき。


テーブルの下で俯きながらスプーンを握っていた朱音が、小さく、しかし食堂全体の空気を変えるほどはっきりした声で言った。


「……鍵のかかった部屋なのに、窓も開いてなかった。どうして首を吊れたの?」


全員の手が止まった。椅子も、食器の触れ合う音も消えた。


玲は一瞬だけ眉を動かし、朱音の方へ静かに視線を向ける。


「その疑問は、正しい」


すると――


コトン……


食堂の隅で何かが倒れる微かな音。


全員が振り向いた。


音の出どころ、東棟へ続く廊下。

そこから現れたのは、夜明けと同時に単独で館内を歩き回っていた調査員・氷見野湊だった。


手には黒い手袋、そして細長いビニール袋。


湊は無言でテーブルの端にそれを置く。


袋の中には――

古い革靴の底に張り付いた、細く黒い“糸”の束。


湿気でわずかに縮れながら、かすかに光っている。


「東棟302号室の窓枠の外側に引っかかっていた。普通の糸じゃない。耐荷重の高い“凧糸”の一種だ」


玲の瞳が鋭くなる。


「……つまり、“首吊り”は自力で行われたものではない。外側からロープを引き上げる仕組みが使われた可能性がある」


ざわり、と空気が揺れる。


ある者は息を呑み、ある者は顔色を失い、また別の者は露骨に目を逸らした。


湊は続けた。


「それともうひとつ。302号室のベッド下から、こんなものが出た」


彼がもう一つの袋を置く。


そこに入っていたのは――

折れた木製のスプール(糸巻き)。

古い時代の手芸用のもので、片側が焦げたように黒ずんでいる。


朱音が思わず声を漏らした。


「……糸を巻く道具……?」


玲は頷く。


「犯人が糸の長さを調整し、ロープを“吊り上げる仕組み”を作った……その痕跡だ。密室を成立させるための“鍵”でもある」


すると、食堂の奥から誰かの椅子がギィと鳴る。

壁際にいた鳴瀬が、震える声で呟いた。


「そんな……じゃあやっぱり……誰かが……」


玲は静かに言った。


「――犯人は、糸を使った。そしてその糸は外から引かれた。小田嶋了介は“吊られた”のではない。“吊り上げられた”んだ」


食堂が凍りつく。


嵐はまだ止まない。

警察は来られない。

犯人は、ここにいる。


そして玲は改めて全員を見渡した。


「東棟を再調査する。糸を外に通した場所――“手が届く高さ”の窓がどこかに必ずあるはずだ。湊、蓮、朱音。行くぞ」


食堂の空気が張り詰める中、朱音は立ち上がる。

その手には、昨夜描いたままの“鍵穴のついた月”のスケッチ。


それが、奇妙に重く思えた。


――この館には、まだ誰も気づいていない“もう一つの手”がある。


そう告げるように。


【午前7時12分/東棟・食堂→東棟2階廊下】


そのときだった。


食堂に広がるざわめきの最中、

上の階――東棟2階のどこかから、


ぎ……、ぎ……、ぎ……


と、古い床板がゆっくり押し沈むような音がした。


誰かが歩いている。

しかしそのリズムは異様に遅く、

まるで足を引きずるように重い。


朱音がスプーンを落とした。

金属音が食堂に鋭く響く。


「……誰か、いる」


岩崎が凍りついた顔で天井を見上げる。

普段冷静な彼の声が、かすかに震えた。


「東棟の二階は……昨夜の封鎖区域のはず。

誰も上がっていない……はずですが……」


玲は椅子を押しのけ、

一瞬だけ朱音の肩に手を置き、低く言った。


「ここにいろ。絶対にだ」


朱音は小さく頷く。

だがその瞳は不安に揺れながらも、

音の方向を追っていた。


氷見野湊が立ち上がり、

静かにコーヒーカップをテーブルに戻す。


「行くぞ、蓮」


氷見野蓮は無言で頷く。

軽く指を鳴らした――

それは「間隔を空けてついて来い」の合図だった。


玲は二人の後ろに続きながら、

食堂に残るゲストたちへ振り返った。


「全員ここから動かないでください。

鍵は内側から。誰が来ても開けない」


ざわり、と不安の波が広がる。

しかし誰も逆らわなかった。



【午前7時15分/東棟2階廊下】


階段を上りきった瞬間、

空気がひどく冷たく、重たく感じられた。


廊下の端に、朝の光がかすかに差している。

だがその光に照らされる影は――ひどく歪んでいた。


ぎ……、ぎ……、ぎ……


足音が止まった。


玲は顎で湊に合図を送る。

湊が先頭に立ち、無音で歩を進める。


そして――

彼が角を曲がった瞬間、

低く、鋭い声が廊下に響いた。


「止まれ」


蓮が玲の肩を引いた。

次の瞬間、床に何か黒い布のようなものが落ちた。


湊がしゃがみこみ、それを手に取る。


「……これ、昨夜の第1被害者が着ていた部屋着と同じ生地だな」


蓮が眉一つ動かさず言う。


「切り裂かれてる。何のために?」


玲は、落ちていた布の裂け目に触れながら言った。


「……誰かが“運んだ”。

遺体の一部か、服か、あるいは証拠の一部を。

東棟の2階へ、今朝になってから」


湊が周囲を見回す。


「じゃあ、今歩いてたのはその“誰か”か?」


玲は首を横に振った。


「いや。足音の方向――逆だ」


そしてゆっくりと廊下の一番奥、

昨夜、誰も立ち入らなかった盲点――

使用されていない備品収納室の扉を指差した。


「……あそこに“いる”。

生きているのか、死んでいるのかはまだわからない」


蓮が静かに息を吸い、

背中から短い金属製の棒を取り出す。


緊張が走る。


玲はドアノブに手をかけ、

小さく朱音の名を心の中で呼んだ。


そして――

ゆっくりと扉を開いた。


【午前7時42分 西棟・備品収納室前】


廊下の空気が、ひどく冷たかった。

誰も使っていないはずの備品収納室――その扉だけが、かすかに“呼吸”しているように見えた。


玲は足を止め、隣にいた湊と蓮に視線を送る。

扉の下の隙間から、薄く埃が舞い上がっている。直前まで誰かが中にいた証拠だ。


「誰かが隠れていたか、あるいは……何かを置いていったかだな」

湊が低く呟く。


蓮は膝を折り、扉の鍵穴を覗いた。

「鍵は外から閉まってる。つまり、中から出た誰かが閉めたんじゃない。出たあとで、別の人間が“わざわざ”閉めていった可能性が高い」


玲は静かにドアノブへ手を伸ばす。

古びた真鍮の取っ手は、今触れれば鳴き声を上げそうなほど冷えている。


「開けるぞ」


湊と蓮が左右に位置取り、一瞬で踏み込める体勢を整えた。


玲がノブを捻り、扉を押し開けた。


ギィ…………


中は薄暗く、窓もない。

棚には埃をかぶったリネンや、古いランタン、修繕用の工具箱が山積みになっていた。


だが――すぐに、三人は異変に気づいた。


「……これは」

湊が言葉を失う。


床の中央だけ、埃が不自然に“円形”に消えていた。


蓮がライトで照らす。

「誰かがここで、何かを置き……それを持ち去った跡ですね。重さのある物。倒れたら一発で分かるような、大きさのもの」


玲は跪き、指先で床をなぞった。

「埃が動いた痕が外へ向かって続いている。何かを引きずった……いや、運んだ跡か」


蓮が棚の上部を見上げた。

「玲さん、ここ……ひっかかりがあります」


棚の端に、銀色の細い繊維が絡んでいた。


玲が慎重に摘み取る。

光にかざすと、きめ細かい“ワイヤー”のようだった。


「……ピアノ線?」


湊の目が細くなる。

「この館でそんなもん使う理由はねぇ。使うとすりゃ——“吊るす”か、“引っ張る”かだ」


玲は深く息を吸った。

第1の殺人――小田嶋の首吊り。

あの不自然な天井の梁。

窓もドアも動かず、踏み台もない密室。


そしていま、備品室で見つかった細いワイヤー。


すべてが一本の糸でつながっていく感覚があった。


「……朱音が言った通りだ。“あんな状況で”首を吊れるはずがない。誰かが外から“引き上げた”としたら……説明がつく」


蓮が短く頷く。

「ただし、その仕掛けを使った痕跡は、どこかにまだ残ってるはずです。ワイヤーの固定点、滑車、もしくは……」


湊が突然、顔を上げた。

「……天井裏、か」


静寂が落ちた。


玲は再び床の円形の跡を見下ろし、呟いた。


「犯人は……仕掛けを“回収した”。それも、昨夜のうちに」


つまり――

犯行の“第2段階”がすでに進んでいる。


蓮が背後の暗い廊下を見た。

「今この瞬間も、犯人は次を準備しているかもしれません」


玲は表情を引き締め、廊下へ踏み出した。


「朱音を一人にしておくのは危険だ。湊、蓮、すぐに食堂へ向かうぞ」


その声は、廊下の静寂を切り裂くように鋭く響いた。


7:42 AM 食堂


朝食の席を離れた客たちは、それぞれに沈黙の逃げ場所を求め、館の中に散っていった。

大広間から足音が溶け、食堂には朱音ひとりだけが残された。


冷めかけたスクランブルエッグ。

揺れる湯気の消えたマグカップ。

テーブルクロスに落ちた、わずかな影。


朱音はひとり、椅子に座ったまま指先をぎゅっと握りしめていた。


そこへ――


「こんなところに残っているとは思わなかったよ」


不意に声がして、朱音はびくりと肩を揺らした。

立っていたのは、元刑事の仁科邦彦だった。


だが、いつもの重たい無表情ではない。

何かを言い出そうとして迷っているような、妙に柔らかい眼差しだった。


「……仁科さん?」


「君に、少し気になる話をしておこうと思ってね」


仁科は周囲を一度見回し、ゆっくりと向かいの席に腰を下ろした。

その仕草は、尋問でも脅しでもなかった。

むしろ“後悔のある人間”のそれに見えた。


朱音は小さく息をのむ。


「気になる、って……昨日のこと、ですか」


「ああ。《302号室》の件だ」


仁科はポケットから、小さく折り畳まれた紙片を取り出した。


朱音の心臓がどくりと跳ねた。


「これを見せるべきか迷ったんだが……君には、伝えておいた方がいい気がしてね」


仁科は紙片をテーブルに置いた。


そこには、

“梁に通されたロープの摩擦痕”のスケッチ

が描かれていた。


朱音はそれを見て眉を寄せる。


「これ……梁の上で、何かが引きずられたみたいな……」


「そう。“人が上に乗った形跡ではない”という点だ」


仁科の声は低い。


「ロープが自重だけで締まった痕じゃない。明らかに“引っ張って締めた”痕だ。しかも……」


朱音の息が止まる。


「……部屋の内部じゃ、それは不可能だよね」


仁科はゆっくりと言った。


「つまり――

小田嶋は、外から吊り上げられた

可能性がある」


朱音の喉がかすかに震えた。


「外から……!? でも窓は――」


「そこだ」


仁科の表情が一瞬だけ険しくなる。


「“窓が開いてなかったこと”こそが、このトリックの核心だ」


朱音は理解が追いつかず、紙を見つめた。

窓は確かに施錠されていた。

外には足場もない。

ならばどうやって――?


仁科は朱音の反応を見ながら、小声で続けた。


「昨夜……俺は見たんだ。

302号室の窓のすぐ外、闇の中の“影”を」


朱音の瞳が揺れる。


「……“影”? 誰かが外に?」


「断言はできない。ただ、腕のように見えた」


その言葉に朱音の背筋が冷たくなる。


仁科は立ち上がり、紙片を押し戻すように朱音へ滑らせた。


「玲にはまだ言っていない。だが――君なら、見つけられるだろう」


「え……?」


仁科は、ふっと目を細めた。


「君の見方は、俺たちよりずっと“月に近い”」


朱音は言葉を失った。


仁科は続ける。


「梁の上を使ったトリックじゃない。

上じゃない。“横”だ。

外壁に残された痕跡を探すといい。

――ロープを横方向に引いた者がいるはずだ」


そう言い残し、仁科は静かに食堂を去っていった。


朱音はしばらく言葉も動きも失ったまま、紙片と向き合っていた。


そして――


「……横? 引いた……?」


その瞬間、朱音の表情に稲光のような閃きが走った。


目を見開いた朱音は、急いで立ち上がった。


「玲さんに……伝えなきゃ……!」


紙片を握りしめ、食堂を飛び出す。


こうして、

第1の殺人の“密室トリック”を解く鍵

が、朱音の手に渡った。


そして同時に――


仁科の背後を、

静かに横切る“別の影”には、

朱音も気づいていなかった。


午前7時45分、迎賓館・ロビー


朱音は食堂を飛び出すと、廊下を駆け抜けて玲の元へ駆け寄った。息を整えながら必死に告げる。

「玲さん……外壁の角を見てください! ここ、何かが引っかかった痕があります!」


玲は双眼鏡を取り出し、朱音が指さす箇所を凝視する。微細な傷と土埃が、外側から仕掛けられた細工の痕跡であることを示していた。


「なるほど……この痕跡と302号室の内鍵の隙間を合わせれば、密室は“外からの操作”で成立していた可能性が高い」


理央が記録ノートを取り出し、傷の形状や角度を詳細にメモする。安斎も指示を出し、痕跡の採取と写真撮影を行う。


「これで第1の殺人のトリックがほぼ確定だ。誰かが道具や手段を使い、密室を演出した――そう考えるのが自然だ」


こうして、朱音の直感と現場の微細な証拠が結び付き、第1の殺人の不可解さを解明する糸口が浮かび上がった。


午前8時05分、迎賓館・ロビー


玲は朱音の手から紙切れを受け取る。そこには、鉛筆で乱雑に書かれた文字が並んでいた。


「――これは……仁科さんから?」


朱音が小さく頷く。紙には、302号室の内鍵や窓の隙間、さらに外壁の微細な傷に関する情報が簡潔にまとめられていた。どうやら、仁科が目撃したわけではないが、現場に残された痕跡から導き出した“密室を作り出す手順”の概要だった。


玲は紙をじっと見つめ、眉間にわずかな皺を寄せる。文字そのものよりも、その背後にある論理――誰が、どのタイミングで、どんな道具を使ったのか――を読み解こうとしていた。


「これで、密室トリックの構造はほぼ理解できそうだ……朱音、よく気づいたな」


朱音はうなずき、少し肩の力を抜いた。小さな紙切れが、第一の殺人の謎を解く大きな手がかりになることを、二人はまだ実感しきれていなかった。


そのとき、二階の廊下で何かが「コトン」と落ちる音がした。


 午前8時12分、迎賓館・二階廊下


玲は瞬時に顔を上げ、朱音の肩に手を置いた。


「足音じゃない……何かが落ちた音だ」


廊下の奥には、重厚な木製の扉が連なっている。扉の一枚がわずかに開いており、床には小さな金属片が転がっていた。どうやら、誰かが密かに道具を操作した痕跡のようだった。


「この館の構造に詳しい者なら、この音が意味することがすぐに分かるはずだ」


玲の視線は、隠された物理的手掛かり――二階の補助扉、換気口、そしてドアの隙間――に鋭く向けられた。そこには、密室殺人のトリックを解く決定的な糸口が潜んでいる。


朱音も息を飲む。小さな金属片と廊下の音、それらすべてが第一の事件の謎を解く鍵となりうることを、二人は直感していた。


その直後、水原真理がホールの脇の戸棚に手を伸ばす――まるで何かを隠そうとしているように。

朱音がちらりと見ていたが、何も言わずに、玲の横へ戻った。


午前8時15分、迎賓館・ホール脇


玲は静かに眉を寄せ、戸棚に目を向けた。


「水原さん……その動き、偶然ではない。物の移動や隠匿を見抜くのは、こういう現場の経験者にしかできない」


横に立つ朱音は、息をひそめてその様子を観察する。


「この館の構造や備品の配置、そして人間の微細な動作を読み解く――現場の痕跡から心理までを統合して推理する能力があれば、密室の仕掛けや犯行の手順が見えてくる」


玲の指先が、微かに戸棚の扉と床の隙間をなぞる。そこには、第一の殺人トリックを解くための重要な物理的証拠が隠されている可能性があった。


午前8時30分、迎賓館・西棟廊下


玲はゆっくりと廊下を歩きながら、周囲の壁や床に目を配る。


「表面上の静寂に騙されてはいけない。微細な足跡の凹み、扉のわずかな擦れ……こうした痕跡は、犯人の行動や移動経路を示す手がかりになる」


朱音は玲の後ろを歩き、耳を澄ます。廊下の木の軋みや、かすかな風の動きさえも、二人の注意を逃さなかった。


「現場の物理的証拠と心理的観察を組み合わせることで、誰がいつどこにいたのかが、ようやく線として見えてくる」


玲は端の壁に手を触れ、そこに残るわずかな埃の乱れを指で確認した。まさに、この館を動き回った“存在の痕跡”が、次の推理の鍵となる場所だった。


午前8時45分、迎賓館・ホール


ホールの空気は重かった。昨夜の恐怖と緊張がまだ漂い、誰もが互いに視線を合わせることを避けている。


「まったく……こんな重苦しい空気、何とかならないのかしら」


朝比奈ゆらは軽やかな声で笑いながら手を叩き、周囲の空気を少しずつ和らげようとした。


「ほら、皆さん! 朝食の時間ですし、少し元気を出していきましょうよ。昨日のことは置いておいて、まずはちゃんと腹ごしらえしないと」


ゆらの明るさに、数名のゲストが思わず肩の力を抜き、ホッと小さく息をついた。


玲はその様子を静かに見守りながらも、頭の中ではまだ昨夜の事件の解析を止めていなかった。


「こうした心理的な緩みもまた、犯人の行動パターンを見極める手がかりになる……」


午前8時50分、迎賓館・ホール


玲は静かに立ち上がり、ゲストたちを見渡す。


「皆さん、まず現状を整理しておきます」


低く落ち着いた声がホールに響く。誰もがその口調に耳を傾けた。


「昨日の夜、小田嶋さんが302号室で死亡しているのが発見されました。密室状態に見えますが、これは単なる偶然や事故ではなく、仕組まれた状況である可能性が高いと判断しています」


玲はノートに目を落としながら、さらに続ける。


「現段階で確認されている事実は以下の通りです。部屋の扉には内鍵がかかっており、窓は閉じられていました。死後硬直はまだ始まっておらず、発見から10分以内の状況です。つまり、犯行はごく最近行われた可能性があります」


「加えて、昨日の午後10時前後に、302号室付近で口論の声が聞かれたとの証言もあります。誰が何をしていたか、些細なことでも構いません。正確な情報が、犯人特定の大きな手がかりとなります」


玲の言葉に、ホールの空気はさらに引き締まった。


神原澪子は、玲の言葉にぴくりと反応した。


眉間に皺を寄せ、まるで思い出したかのように目を細める。


「……そう。やはり、あの人を殺す“何か”が館内に紛れ込んでいたのね」


手元のスマートフォンを握りしめ、通信の途絶えた画面を睨む。


「道具か、手段か、それとも……動機か。いずれにせよ、外部からではなく、この中に犯人がいるということね」


彼女の言葉は低く、だが確信に満ちていた。


玲は静かに頷き、朱音に目配せをする。小さな手が、走る準備を整えていた。


玲は紙片を指で押さえながら、声を低く抑えて続けた。


「停電中に館内の一部設備が操作され、夜間の監視が一時的に無効化された。

そして朝、密室状態で発見された部屋の状況とを照合すると、不自然な点が浮かび上がる。

つまり、犯人は時間と空間を巧みに利用して、証拠を操作した可能性が高い」


彼女の視線は、ホールの一角に散らばるゲストたちを一瞬で捉え、微細な動きも見逃さない。


「このままでは、次の犠牲者が出る。すでに犯行の準備は進んでいるかもしれない」


朱音は手元のメモを握りしめ、緊張で小さく肩を震わせながらも、玲の言葉にしっかりと耳を傾けていた。


青沼辰生は肩をすくめ、口元に薄く笑みを浮かべながら言った。


「ふう……まあ、こうなるのも時間の問題だったのかもしれませんね。

停電に密室、誰もが疑心暗鬼になる状況。まるで推理小説のようです」


その声にはどこか余裕が感じられたが、玲の鋭い視線が彼の目を捉える。

「あなた、本当に偶然だと思っているのですか?」


青沼は目をそらさず、ゆっくりと頷いた。

「偶然……いや、何か計算されているのかもしれませんね。ただ、私には証拠がありません」


朱音はそのやり取りを小さく息を呑みながら見つめ、手元のスケッチブックを握りしめた。


午前1時20分、ホール。ゲストたちが再び集められ、重苦しい沈黙の中で玲が口を開いた。


「皆さん、報告があります。第2の殺人が発生しました。第一の被害者は首吊りでしたが、第二の被害者は刺殺です。第一の事件から約20分後の出来事です」


朱音が隣でメモをめくり、状況を補足する。

「第二の被害者は、胸部に鋭利な刃物が刺さっていました。発見時点で死後数分以内と推定されます。足跡や指紋も鮮明で、犯人は館内に残っている可能性が高いです」


玲は間取り図をホール中央のテーブルに広げ、二つの現場を指でなぞった。

「第一の首吊りと第二の刺殺、手口は違います。しかしどちらも計画的かつ巧妙に仕組まれており、犯人は館内の構造を熟知している可能性があります」


老執事の岩崎が顔を蒼白にして言葉を漏らす。

「このままでは……皆が危険ではありませんか……」


玲は冷静に、しかし鋭く返す。

「外に出るのは最も危険です。全員、各自の部屋に戻り、鍵を施錠してください。異変があれば、すぐに報告すること」


朱音は深く息をつき、ホールの片隅で再び紙に状況を書き留めた。

「……これ以上、犠牲者を出さない」


ゲストたちは黙々と指示に従い、ホールの空気は緊張で張り詰めたまま、次の動きを待っていた。


午前1時35分、ホール。


玲の目が玄関のほうに向く。

「……今の音、誰かが玄関に触れた音だ。だが、外には誰もいないはずだ」


岩崎が慌てて立ち上がり、手を震わせながら言った。

「鍵はすべて施錠済みです……誰も出入りできるはずが……」


朱音は小さく身をすくめ、耳を澄ます。

「……あの音、ドアだけじゃない。何かが床に擦れたような……」


玲は冷静に手元の懐中電灯を握り、ホールの奥から玄関へ視線を滑らせた。

「全員、動かないで。犯人がまだ館内にいる可能性がある。これ以上刺激しないこと」


深い沈黙の中、軋む音は再び小さく響く。

ホールの空気は一層張り詰め、誰もがその場で息を殺した。


午前1時37分、ホール奥の階段前。


朱音が顔をこわばらせ、耳を澄ませる。

「……誰か、走ってる……!」


玲は懐中電灯を手に、階段の方向をじっと見つめた。

「止まれ、誰だ!」


岩崎は後ずさりながらも声を張る。

「どういうことです……この館には、出入りできる者はいないはず……」


足音は確実に近づき、階段を駆け下りるリズムがホールの床に反響する。

「静かに……冷静に、朱音。下手に動くと……」玲の声は低く、鋭く、緊張が走る。


そして、階段の影から、影のように素早く動く人物が姿を現した。


午前1時42分、ホール中央。


朱音の声に、ホールの空気が一瞬凍る。

「西棟の浴室……だと……?」玲は眉をひそめ、懐中電灯をしっかり握り直す。

「浴室は閉鎖されていたはずだ……誰が入った?」


氷見野湊がすぐさま足を踏み出す。

「犯人が移動した可能性がある。だが、浴室には通常の出入り口しかない。窓からも侵入は不可能だ」


朱音は顔を青ざめさせながらも、紙とペンを取り出す。

「……ここから手がかりが見えるかもしれない」


玲は短く頷くと、全員に指示を出す。

「朱音、証拠の確認。氷見野、僕と一緒に浴室を確認する。岩崎は他のゲストの安全確保を頼む」


館内の暗闇に、緊張と静寂が張り詰める。


不安に満ちた空気を残し、玲と数名のゲストがホールを飛び出した。

それは、第三の殺人の幕開けだった。


午前1時45分、西棟浴室前。


玲は扉の前で立ち止まり、耳を澄ます。

「水音は止まっている……つまり、すでに行為は終わっている」


氷見野蓮が眉をひそめ、扉の隙間を覗き込む。

「だが、室内にはまだ気配が残っている。微かな湿気、石鹸の匂い……最近まで誰かがここにいたのは確かだ」


朱音が紙とペンを握り、メモを取る。

「……浴室内の配置、扉の閉まり方、排水の状態……全部、手掛かりになる」


玲は短く息を吐き、決意を固めるように言った。

「確認する。誰が、どうやってここに入り、何をしたのか、必ず突き止める」


館内の暗がりに、足音一つさえも慎重に響く。


午前1時50分、西棟浴室内。


玲は浴室の扉を押し開け、静かに息を飲む。

「……湊、蓮、確認してくれ。電気系統の痕跡、浴槽の状況、周囲の湿度――何も見逃すな」


氷見野湊は浴槽の縁を慎重に調べ、手袋越しにドライヤーを持ち上げた。

「これは……使用済みだな。水没させられた形跡がある。感電の可能性も否定できない」


朱音はノートに浴室の配置と沈んだ物の位置を描きながら、低く呟く。

「……浴槽の水、ドライヤーの位置……これは事故に見せかけた殺人……」


玲は深く息を吸い、視線を浴槽に戻す。

「神原澪子の死因を確定させる。ここは完全に現場だ。感電か溺死か、もしくはその両方か――すべてを精査する」


氷見野蓮が肩越しに朱音のスケッチに目を落とし、淡々と付け加える。

「手口の痕跡、残留物の確認……ここで全ての矛盾が解けるかもしれない」


浴室内には、静寂の中で湿った木の匂いと、わずかな金属臭だけが漂っていた。


午前1時52分、西棟浴室内。


玲は慎重に首筋を確認し、目を細める。

「……首筋に鈍器痕。溺死ではなく、気絶させられたあと、意図的に浴槽に沈められた……。つまり、事故に見せかけた計画的殺人だ」


氷見野湊が手袋越しに首筋の痕を指でなぞりながら付け加える。

「鈍器の形状は丸みがある……椅子か何かの角か。直接の致死ではなく、意識を失わせるための攻撃だな」


朱音はメモを取りつつ、浴槽内の水の深さやドライヤーの位置を描き込む。

「……現場の痕跡、ドライヤー、水の深さ……全てが“見せかけの事故”として計算されてる」


玲は静かに頷き、周囲を見渡した。

「ここで確定する。第三の被害者の死は、意図的に演出されたものであり、犯人はまだ館内にいる可能性が高い。全員、警戒を解くな」


氷見野蓮が淡々と指示を出す。

「現場保全と物的証拠の回収。時間との勝負だ。わずかなミスも、犯人の狙いを見逃すことになる」


浴室内には静寂が戻ったが、空気は依然として張り詰めていた。


午前1時40分、ホール。


玲は静かに声を落とす。

「第二の被害者は廊下で刺殺された。場所は西棟二階の端、発見時刻は第一の事件から約20分後だ」


朱音が小さく手を挙げる。

「廊下の血痕と足跡から見ると、被害者は突然襲われたようです。逃げる余地はほとんどなく、刺された瞬間にほぼ動けなかった」


氷見野湊が補足する。

「ナイフの角度と刺し位置、血の飛び方から判断すると、犯行は短時間で、確実に致命傷を与える狙いがあった。計画的だ」


玲は深く息をつき、全員を見渡す。

「つまり第一の首吊りとは異なり、こちらは直接的な攻撃。犯人は手口を変えている可能性が高い。警戒を怠るな」


氷見野蓮が低い声で加える。

「全員、自室や移動経路に注意せよ。犯人は館内を熟知している。次は誰が標的になるか分からない」


ゲストたちは互いに視線を交わし、沈黙のまま頷く。廊下の静寂と、先ほどの血の記憶が、館全体に重くのしかかっていた。


午前2時、ホール。


玲はホール中央で手元のノートを開き、ゲストたちを見渡す。

「ここまでの状況を整理する。第一の事件は密室首吊り、第二の事件は廊下での刺殺。そして、第三の事件は……今回の浴室での事故死に見せかけた溺死」


朱音が小さく息をのむ。

「浴槽の中で……首だけ出ていた。ドライヤーもあった……でも、首筋の痕を見ると、最初に気絶させられてから沈められたみたい」


氷見野湊が資料を示す。

「現場の状況を総合すると、犯人は段階的に手口を変えている。密室、直接攻撃、そして偽装溺死。狙いは恐怖と混乱を最大化することだろう」


氷見野蓮が重い口調で言う。

「しかも、すべて館内で犯行可能なルートがある。構造や隙間、隠し通路、移動経路の熟知が前提だ」


玲は指を組み、静かに続ける。

「つまり、今回の犯行は、単なる衝動ではない。計画的で、館内の状況を知り尽くした人物による犯行。そして、第三の被害者の浴室は、犯行手段の多様化と心理的プレッシャーを同時に演出している」


朱音は手帳を取り出し、浴室の図とナイフ、首吊りの位置、血痕の動線を描き始める。

「これを整理すれば……犯人の行動パターンが見えてくるかも」


玲はうなずく。

「全員、この館にいる間は、どのルートも安全ではない。各自、自分の位置と移動経路を頭に入れ、少しでも不審な音や動きを見たら報告せよ」


沈黙が再び広がり、ホールに残る全員が次の一手を警戒しながら静かに座った。


午前2時30分、ロビー。


朱音はソファの背もたれに軽く寄りかかり、手帳を膝に置いたまま、唇を噛みしめる。

「……玲さん……どうしてこんなことが……」


玲は彼女の肩に軽く手を置き、落ち着いた声で答える。

「朱音、君の直感と観察力が、いま何よりも重要になる。怖がる必要はない。私たちは冷静に状況を分析するだけだ」


その背後で、氷見野湊と蓮が資料と現場写真を広げ、互いに細かい動線や時間差を確認している。

「浴室の水音と廊下の刺殺、密室の首吊り……犯人は時間を意識して動いている。すべてを同時進行で観察する必要がある」湊が低くつぶやく。


蓮は資料を指し示す。

「それに、犯人は館内の構造に精通している。隠し通路や見えない足場、どの部屋からもアクセス可能なルートをすべて把握している可能性が高い」


朱音は手帳にペンを走らせながら、玲の横顔を見つめる。

「……でも、私……少しでも見落としたら……」


玲は静かにうなずく。

「だから、君の感覚を信じるんだ。私は君を見守る。そして、君が描くものが、私たちの唯一の手がかりになる」


ロビーの隅、ソファに腰かける朱音は、震える手で手帳を握り締めながらも、その目に決意の光を宿していた。


午前2時45分、ロビー。


玲は顎に指をあて、資料の上に視線を落としたまま静かに呟く。

「……犯行順序、時間差、犯人の動線……すべてが、計算されている」


隣で氷見野湊が折れたペンを手で回しながら、低く答える。

「まさか、館内の構造を知り尽くした者による計画的犯行……という線か」


朱音は手帳に走らせる鉛筆を止め、玲の言葉を聞き取ろうと顔を上げる。

「計算されて……どういうことですか?」


玲はゆっくりと手元の資料を指し示す。

「首吊り、刺殺、溺死……三つの異なる手段で、同じ時間枠内に人を殺害している。物理的には不可能に見えるが、犯人は建物の構造や隠しルート、さらには停電や音のタイミングまで計算して動いている」


氷見野蓮が資料に手を伸ばし、指で複雑な図をなぞる。

「現場の痕跡と時間差を組み合わせれば、犯人のルートと行動パターンがほぼ特定できる。だが、これはただの推測ではない。専門的に分析すれば、確定に近づける」


朱音は手帳を胸に引き寄せ、震える声で呟く。

「……私、何か気づけるかもしれません……」


玲は静かに頷く。

「その感覚が、今回の捜査で最大の武器になる。君の目、君の直感を信じるんだ」


ロビーの隅で座る朱音と、その横で分析に没頭する氷見野兄弟。冷静な空気の中に、緊張感と期待が混ざり合っていた。


午前3時15分、ロビー。


誰もが第三の殺人の余韻に呑まれ、ホールでの事情聴取が一段落したころだった。


玲は立ち上がり、低く静かな声で告げる。

「今夜はこれで終了する。各自、自室に戻り、外出は控えること。安全を確保するため、廊下や階段にも警戒を置く」


氷見野湊が廊下の見回りの準備を始め、蓮が資料をまとめながら付け加える。

「犯行パターンが複雑だ。休息は取れるうちに取っておくべきだ」


朱音はソファに座ったまま、震える手で手帳を握る。

「……でも、どうして……同じ館で、こんなことが……」


玲は静かに答えた。

「犯人は私たちの行動も計算に入れている。次の動きを読まれる前に、こちらも動かねばならない」


ロビーの空気は依然として張り詰めていたが、少しずつ人々は自室へと散っていく。

その背後で、朱音はまだ手帳に小さくメモを書き続けていた。

窓の外、夜の海風が微かに廊下を吹き抜け、静かなざわめきを運んでくる。


午前4時、裏手管理室脇。


中庭を回って西棟へ向かおうとしていた使用人・安東が、裏手の管理室脇で、何かにつまずいた。

振り返り、絶句する。


「し……死んでる……!」


玲と朱音が駆けつけたとき、そこに倒れていたのは―

青沼賢司。

薄汚れた外靴のまま、喉元を押さえ、目を見開いて倒れていた。


玲は駆け寄ると、倒れている青沼賢司の脈を確認し、短く息を吐いた。

「死亡。首の圧迫痕がある。刺傷や出血は見当たらない……意図的に絞殺された可能性が高い」


朱音は震える声で呟く。

「また……同じ館の中で……どうして……」


玲は周囲を見渡し、落ち着いた声で指示を出す。

「安東、ここは触らずに封鎖。誰も入れない。すぐに氷見野兄弟と合流して、現場の確保を頼む」


その言葉と同時に、玲の頭の中で状況が整理される。

第三の殺人、密室や通行経路の不自然さ……犯人は館の構造や人々の動きを熟知しており、専門家である可能性がある。


朱音は手帳を取り出し、短くメモを走らせる。

「……また、“閉ざされた場所”での殺人……犯人の手口は巧妙すぎる……」


玲は目を細め、次の行動を考えながら立ち上がる。

「まずは現場の検証。青沼さんの動線と最後の足取りを確認し、密室の成り立ちを分析する」


中庭に夜の風が吹き抜け、遠く波の音が静かに響く。

館の奥深く、静かに、しかし確実に殺人の連鎖が進んでいる。


午前5時、東棟・裏手中庭脇の倉庫前。


玲は青沼賢司の身体を軽く揺すり、再び確認する。

「死亡は間違いない……窒息、あるいは薬物の可能性もある。口元の泡、顔色、瞳孔……急性の窒息死に見えるが、何か混入されている可能性も否定できない」


朱音がそっと横に寄り、声を震わせる。

「……また……こんなに短時間で……どうして同じ館の中で……」


玲は深く息をつき、周囲を見渡す。

「誰かが、館内の構造と人間の心理を完全に掌握している。しかも前回と違い、今回は“時間差”を計算して行動している」


その瞬間、遠くで軋む床の音が聞こえた。玲はすぐに立ち上がる。

「安東、封鎖は維持する。氷見野兄弟、現場の記録と異常点の撮影を優先。朱音、僕と一緒に倉庫内の異常点を調べる」


朱音は手帳を取り出し、鉛筆で簡単な図を描きながら呟く。

「……密室の条件、犯行手段、時間……この連鎖は……普通の人間じゃ考えられない……」


玲は静かに、しかし鋭い目で倉庫の隅々を見渡す。

「この館の“知識者”、もしくは構造に精通した専門家――犯人は確実に館の内部を熟知している」


冷たい朝の風が中庭を通り抜け、砂利を微かに揺らす。

館内の静寂が、第四の殺人の影とともに重くのしかかっていた。


午前7時15分、西棟・裏手管理室脇の倉庫内。


玲は青沼の右腕に目を留め、そっと袖をめくる。穿刺痕はごく小さく、しかし明らかに人工的なものだった。紫色に変色した周囲の皮膚は、外力や打撲ではなく、注入された何かによる反応を示している。


「……これは、注射か。薬剤か毒物か……局所的な血管障害が出ている。即死性ではないだろうが、行動不能にさせる何かが使われた可能性が高い」


朱音が手帳に走り書きをしながら小声でつぶやく。

「……誰かが、この館に小型の道具を持ち込んで……この人を狙った……」


玲はゆっくりと倉庫内を見渡し、足元や棚の隅々を確認する。

「安東、倉庫の出入り口や備品類に不審物がないか再チェックしろ。氷見野兄弟、痕跡や残留物の分析を急ぐ。朱音、僕の横で記録を取り続けろ」


空気は冷たく、朝の光はまだ差し込まない。倉庫の奥で微かに埃が舞う。玲の目は、第四の殺人の全容を解き明かす鍵がこの小さな穿刺痕にあることを確信していた。


午前7時20分、西棟・裏手管理室前の廊下。


ゲストたちは騒然となり、声があちこちで飛び交う。


「また……誰かが……!」

「こんな短時間で、どうしてこんなことが……?」


玲は手を上げ、静かに制する。

「落ち着け。誰もここから出られない。外部との接触は断たれている。今は推測より、事実の確認が優先だ」


氷見野湊が背を伸ばし、低い声で言った。

「痕跡や異物の確認はすぐに終わらせる。動揺している時間はない」


氷見野蓮も冷徹な視線でゲストたちを見渡し、腕組みしたまま続ける。

「誰かが動けば、記録に残る。証拠は見逃さない」


朱音は玲の横で、震える手でメモを取りながらも、目は倉庫内の穿刺痕を追っていた。


現場には、まだ微かに薬剤の匂いが漂っているようで、誰もが息を呑む。専門家たちの冷静な判断が、この混乱を抑えようとしていた。


午前7時35分、西棟・裏手管理室前の廊下。


玲は管理室前に倒れる青沼賢司の身体を見下ろし、間取り図を再確認した。

「おかしい……この裏手から中庭を経由して西棟までの時間では、犯行者がここに到達するのは物理的に無理だ」


朱音が震える声で指摘する。

「でも、穿刺痕は確かにこの場所で……誰かが近くにいたのは間違いない」


現場検証のスペシャリスト、氷見野蓮が手元のタブレットで館の構造を拡大し、静かに分析する。

「館内には設計図に記されていない小さな通路や段差が存在する。犯人がそれを把握していれば、第4の被害者の元へ短時間で到達することも可能です」


氷見野湊も腕を組み、低く続けた。

「計画的な犯行であることは明らかだ。既存の間取りだけでなく、館内の隠された構造を利用している」


朱音は間取り図に鉛筆で印をつけ、玲に差し出した。

「ここ……矛盾が全て繋がる気がします」


玲はうなずき、低く言った。

「これで、第4の殺人の動線が見えてきた。次は痕跡の詳細確認だ」


午前7時40分、西棟・管理室前の廊下。


玲は青沼賢司の横に立ち、沈黙の中で言葉を続けた。

「つまり――“死んだふり”をして時間を稼ぎ、あとで“発見される”ように仕向けた。あるいは……もっと別の目的で」


氷見野蓮がタブレットを手に、静かに分析を加える。

「可能性としては、犯人は被害者の死を演出することで、他者の注意をそらしつつ、次の行動へ移る時間を確保した……ということです」


朱音は額に手を当て、困惑した声でつぶやく。

「そんな、計画的すぎる……」


氷見野湊は両手を組み、低い声で付け加える。

「ここまでの手際と館内の構造を利用する技術を見る限り、単独犯ではなく、ある程度の経験や知識を持った人物が関与している可能性が高い」


玲は間取り図を指でなぞりながら、目を細めた。

「ならば、次に確認すべきは……犯人が移動した経路と、残された痕跡だ」


朱音は小さくうなずき、再び間取り図に目を落とした。


午前7時45分、西棟・管理室前の廊下。


朱音はぽつりと呟いた。

「……どうして、こんなに手際よく、次々と……」


玲がそっと横に寄り、静かに問いかける。

「感じたことを、すべて言葉にしてみろ。小さなことでも見逃すな」


朱音は間取り図を見下ろしながら、指で床の動線をなぞる。

「被害者は、みんな決まった場所で見つかる……でも、廊下や階段は誰も通った形跡がない……」


氷見野蓮がタブレットのデータを確認し、淡々と付け加える。

「監視カメラや足跡から推測すると、犯人は館内の“盲点”を熟知している。しかも短時間で移動している」


朱音の目が大きく見開かれ、手帳に何かを書き始める。

「……もしかして、犯人は“死んだふり”だけじゃなく、時間を操作しているのかもしれない……」


玲は静かに頷き、声を落として言った。

「その可能性も含め、次の行動計画を組み立てる必要がある。まずは西棟の裏手、そして使用されていない通路の確認だ」


午前8時10分、館・ホール。

ゲスト全員が再び集められ、空気は完全に張りつめていた。

朱音は沙耶のそばに座り、両手をぎゅっと握りしめている。

玲は間取り図と被害者一覧を前に、ゆっくりと口を開いた。


「……ここまでの四件の殺人。」

玲の声は低く、しかし一語一語が鋭かった。


「状況はそれぞれ違う。首吊り、刺殺、溺死、そして急性毒物。

 一見すると関連性がないように見えるが――」


玲は指先で被害者の名前を順に示す。


「全員、過去に“ある一つの出来事”に関与していた可能性が出てきた。」


ざわり、とホールが揺れた。


「な、なんの話だ……?」

「まさか、偶然じゃなく……?」


玲は続ける。

「四人は、五年前――“旧銀条トンネル崩落事故”の現場に居合わせていた可能性が高い。

 あのとき、救助活動に協力した者、逃げ遅れた者、そして……隠蔽に関わった者がいた、と記録に残っている。」


その瞬間。


「その記録、補足します。」


ホールの後方から、ノートPCを抱えた男――

**情報追跡スペシャリスト・三田村隼人みたむら はやと**が歩み出た。

無表情で、眼鏡の奥の瞳だけが異様に鋭い。


午前8時11分、ホール中央。


三田村は玲に一礼し、淡々と報告を始めた。

「五年前の銀条トンネル事故の調査資料を、いま裏ルートから再取得しました。

 一部、消去され改ざんされていましたが……復元に成功しました。」


玲が頷く。

「で、被害者たちは?」


三田村はモニターを客席側に向ける。

「第一の被害者、第二の被害者、第三の被害者、そして第四の被害者。」


淡々と名前を読み上げ、


「四人とも――あの事故の“当事者”です。」


ホールが一斉に騒然となる。

怒号、ささやき、恐怖。


朱音が震えながら玲の袖をつまんだ。

「玲さん……じゃあ、この館にいる誰かが、その事故と……?」


玲は朱音の手にそっと触れ、静かに答えた。

「――ああ。『復讐』か、それとも『口封じ』か。

 いずれにせよ、犯人は最初から“この四人”を狙っていた。」


そして玲は、まっすぐ館の奥――暗がりの方を見つめながら付け加える。


「そして、まだ終わらない。」


次の犠牲者が、すでに“選ばれている”ような口調だった。


午前8時02分、西棟・管理室前の廊下。

湿気を帯びた廊下の奥で、乾いた音が響いた。

――コトン。

ひとつ、ふたつ。

そして、何かが崩れ落ちるような、鈍く重い音。


玲は即座に身構え、手のひらを低く掲げて全員に合図した。

「音は……西棟奥、備品倉庫のほうだ。走るな、歩幅を一定に。足跡を乱すな」


氷見野蓮がタブレットを閉じ、低い声で言う。

「温度センサーに異常。さっきまで誰もいなかったはずの部屋に急激な温度変化が出ている。何かが動いた証拠です」


玲は短く頷き、朱音を自分の後ろへ下がらせた。

「朱音、後ろに。目を閉じるな。聞こえるもの全部を覚えておけ」


廊下の空気が張り詰める。

そのとき――影からひょっこり現れた人物がいた。


《音響痕跡分析スペシャリスト・真壁まかべ理人》

物の落下方向、質量、ぶつかった面まで“音だけで”割り出す人物。

現場では裏方に徹していたが、この異音を聞きつけて姿を現した。


真壁は眼鏡を押し上げ、廊下の奥を指差す。

「……あれは、金属の細い脚の備品ラックが倒れた音だ。角度はおそらく左側へ。問題は――倒された、ということですね」


玲が険しい目を向ける。

「自発的に倒れる構造ではないはずだ」


「ええ。さらに……さっきの“ひとつ、ふたつ”という小さな音。あれは、瓶か筒状の容器が床を転がる音です。誰かが動いた痕跡がある」


朱音が不安げに声を震わせた。

「じゃあ……また、誰か……?」


真壁は静かに首を振る。

「いえ。あの崩れる音の直後に歩行音や衣擦れがない。犯人はその場に留まっていない。倒したのは“わざと”、おそらく僕たちを誘導する意図です」


玲は唇を引き結び、決断した。

「……行くぞ。だが絶対に油断するな。これは“第5の現場”かもしれない」


そして一行は、音のした備品倉庫へと静かに歩を進めていく。

廊下の奥――涼しい空気が流れ、ただならぬ気配が満ちていた。


【時間:午後6時12分 場所:書庫前 廊下(北棟)】


湿気のこもった廊下の奥で響いた乾いた音を頼りに駆けつけた玲が、倒れた影に膝をついた。


神原美月が書庫の扉の前でうつ伏せになり、額から細い血の筋を床へ垂らしていた。

指先は扉の下部――微かに空いた“隙間”へと伸びたまま、動かない。


玲はすぐに彼女の肩へそっと触れ、意識の有無を確認する。


「美月さん、聞こえますか。意識は――」


ぴくりとも反応がない。

朱音が廊下の入口で凍りついたように立ち止まり、声にならない息を漏らす。


「……また……?」


そのときだった。


書庫の奥から、低く落ち着いた声が響いた。


「下がれ、玲。頭部外傷がある。下手に動かすと危険だ」


薄暗い書庫の影から現れたのは――

“現場介入スペシャリスト” 氷室ひむろ千景ちかげ


黒の作業用ジャケットを羽織り、手には小型のライトと医学的処置キット。

元救急救命士で、今は玲が必要なときだけ呼ぶ非常勤アナリストだ。

走ってきたにも関わらず息ひとつ乱れていない。


氷室は美月にすばやく膝をつき、手袋をつけてライトで瞳孔を確認した。


「脈はある。意識が飛んだのは転倒の衝撃だろう。だが――」


光を床に向けると、美月のすぐ脇に重い木製のブックエンドが落ちていた。


氷室「これは……上から落ちた痕だ。故意に落とされた可能性が高い」


玲は眉を寄せ、書庫の扉の上端を見上げた。

棚から無理に物を落とせば、ちょうど扉前に立った者を狙える位置だ。


朱音が小声で震えながら言う。


「み、みづきさん……書庫に、何を……?」


氷室は扉下の“数ミリの隙間”に目を止めた。


「この扉……内側から鍵をかけても、わずかに隙間が残るんだな。古い館に多い構造だ」


玲「つまり――外から紐や器具を使えば、鍵を“逆操作”できる」


氷室「そうだ。美月さんは、その痕跡を見つけてしまったのかもしれない」


玲は息を呑む。


「第5の事件……いや、犯人は“未遂”で止めるつもりすらないらしい」


廊下の空気が一気に冷え込んだ。


湿気すら震えるように沈黙するなか、

玲の視線は書庫の奥――誰かが“残した秘密”へと向けられていた。


【館内・医務スペース/22:41】


薄い灯りのもと、神原美月は額に巻かれたガーゼの感触を確かめるように瞬きをした。

喉がかすれ、息を吸い込むと、冷たい薬品の匂いが鼻に刺さる。


その横で、玲が静かに声をかけた。


「……起きたか。無理に喋らなくていい。状況だけ、少し聞かせてほしい」


沙耶がそっとベッド脇に膝をつき、柔らかい声で言う。


「美月さん、安心して。ここはもう安全だから……」


そして彼女の視線の先に立っていたのが、白手袋を外しながらファイルを抱えた 御子柴理央 だった。

冷ややかながら理知的な眼差しで、ベッドの上の美月を見つめる。


「記録分析士の御子柴です。書庫であなたが見たもの――“どの棚の、どのファイルだったか” を正確に知りたい」


美月は、荒い呼吸を押しとどめながら、かすれた声で答えた。


「……あの書庫、もう何度も整理したはずなのに……見たことのない“茶色のファイル”が、床に落ちていたの……

 拾ったら……背後に……誰かが……」


言葉は途切れ途切れだが、震えた瞳にははっきり恐怖が残っていた。


玲がやさしく問いかける。


「誰の気配だった? 姿は?」


美月は首をわずかに振る。


「……見えなかった。でも……ファイルを開いた瞬間……“名前が並んでいた”……

 “この館に、今いる人の名前”……

 それと……赤い線が――誰かの名前に……」


御子柴の表情がわずかに動いた。


「その“赤い線”は、死亡者リストを意味する暗号表記だ。

 つまり……犯人は“共犯者の把握”と“消すべき順番”を記したリストを、どこかに隠していたということになる」


沙耶が息を呑み、美月の手を握った。


「だから狙われたんですね……それを見つけたから……」


美月は震えるまつ毛を伏せ、小さく頷いた。


「……ごめんなさい……開かなきゃよかった……

 でも……“最後のページ”だけ……見えたの……

 赤線じゃなくて……黒い丸がついてた……

 名前は……」


そこまで言うと、美月は喉を押さえて苦しそうに息を吸った。


玲が急いで水を手渡しながら促す。


「落ち着いてからでいい。だが、その名前は――事件を動かす鍵になる」


御子柴は書き留めたメモを閉じ、確信に満ちた声で言った。


「書庫に残された“共犯者リスト”――

 犯人は、まだ“次の消去”を実行しようとしている。

 急がなければ、五人目が出る」


医務スペースの空気が、さらに冷たく張り詰めた。


「……黒丸の名前。次に狙われるのは――誰なの……?」

美月の震える声だけが、静かな部屋に響いた。


【2025年11月26日/館・西棟 書庫】


書庫はしんと静まり返り、古い紙の匂いが湿気に溶けて重く漂っていた。

御子柴理央は懐中電灯をわずかに傾け、棚と壁の隙間を丹念に照らす。照らされた光の輪の中で、埃が舞い、その奥に紙片の影がのぞいた。


「……あった。隠したというより、“押し込んだ”形だな」


低い声が静寂に吸い込まれる。


玲が身を乗り出す。「何が見える?」


御子柴は長い指で紙束を慎重につまみ、ゆっくりと引きずり出した。薄い紙の端は湿り、かすかに変色している。

彼は床の上で膝をつき、紙束を広げた。


「“西棟関係者・補助業務名簿”……いや、違う。これは……」


沙耶が息を呑んだ。「名前が……二重線で消されてる?」


御子柴は懐中電灯を近づけ、淡々と読み上げた。


「複数の名前が黒く塗りつぶされている。だが――この筆圧、そして塗りつぶしの癖は“同一人物”。さらに……」


彼は一枚を指先で持ち上げる。


「裏に走り書きがある。“当日・役割分担/成功後は処理”」


玲の目が鋭く光った。「処理……つまり共犯者を切り捨てる計画が最初から?」


御子柴は頷き、淡々と続けた。


「このリスト、事件に関与した“少なくとも四名”の存在を示す。

いま名前が見えているのは――すべて今回の被害者たちだ。」


沙耶は唇を押さえた。「じゃあ……犯人はまだ名前が消されていない“最後の一人”?」


御子柴は書類の角を指で弾き、静かに言った。


「正確には、“消されていない者”と“最初に消した者”の二択になる。

だが――この書き手の特徴、筆跡の傾き、線の癖……」


懐中電灯の光が強くなる。


「書いたのは“内部にいた者”。しかも、リスト管理の役割を担える立場の人間だ。」


玲は一瞬だけ息を呑み、そのまま低く呟いた。


「……つまり、犯人はまだ館のどこかに潜んでいる。そして――このリストを失うわけにはいかなかった。美月さんは“偶然”じゃなく、“確実に口封じされた”。」


書庫の空気がさらに重く沈む。


御子柴は紙束を閉じ、玲に手渡した。


「このリスト、次の殺しを示す“順番表”にもなり得る。

玲、急いだ方がいい。犯人は次の標的に――すでに動いている。」


その言葉が落ちた瞬間、廊下の向こうからまた微かな足音が響いた。


乾いた音。

短い呼吸。

そして――逃げるような気配。


玲が即座に振り返り、懐中電灯を掴む。


「――行く。沙耶、御子柴、続いて!」


書庫の扉が勢いよく押し開かれ、三人は暗い廊下へ駆け出した。


【2025年11月26日 22:41/館・西棟 書庫】


薄暗い書庫の空気は重く、紙の湿った匂いが漂っていた。

御子柴理央は封筒から取り出した薄い紙束を、懐中電灯の光の中で静かに広げた。


ぱらり、と紙がめくれる。


「……これは、完全に“内部者”の文書だな」


彼の低い声に、隣で見守っていた玲が一歩近寄る。


「何が書いてある?」


御子柴は数秒の沈黙の後、息をひそめるように言葉を落とした。


「“協力者一覧”。

 ――そう書かれている」


沙耶が息を呑む。


「協力者……って、ここにいる誰か?」


御子柴は紙束を慎重にめくり、ふたたび目を細める。


「名前はコードネームで記されている。“灰鼠はいねず”、“篝火かがりび”、“白鷺しらさぎ”……、そして――」


彼の指が最後の行で止まる。


「“鍵持ち(かぎもち)”。

 日付は十年前。例の倉庫事件と同じ時期だ」


玲の眉が険しくなる。


「……つまり、この館にいる者の中に、当時の協力者が紛れている可能性があるということか」


「しかも」御子柴は指先で紙を軽く叩いた。「このリストは“第三の書庫”の存在を示唆している。ここじゃない、別の隠し書庫だ」


沙耶が震えた声で続けた。


「じゃあ、美月さんは……その場所を探ろうとして襲われた?」


玲はすぐに頷く。


「彼女は気づいてしまったんだ。

 “共犯者”がまだこの館にいて、そして――

 次の殺人を準備していることに」


御子柴は紙束を封筒に戻し、静かに告げた。


「このリストを持ち出された時点で、犯人は焦っているはずだ。

 追い詰められた者ほど、動きは早くなる」


書庫の奥で、古い木材がきしむ音がした。


まるで、何者かがその会話を聞いていたかのように。


午前3時半、ホール


九条凛は静かにホールの中央に立ち、全員の顔を順に見渡した。沈黙を破るように低い声で言う。「皆さん、少し考えてみてください。被害者たちはいずれも、ある共通の心理的圧力に晒されていました。それを無視すると、次の行動が読めません」


ゲストの一人が小さく息をつき、肩を震わせた。「え……どういうことですか……?」


凛は冷静に答える。「この館の中で起きたこと、そしてあなた方の反応――わずかな動揺や視線の逸らし方、手の動き、声のトーン。すべてが次の行動を示す手掛かりです」


玲が横で頷き、朱音はメモを握りしめながらじっと凛の言葉を聞く。凛はさらに続けた。「誰が最初に何を見て、何を感じたのか。それによって犯人がどう心理戦を仕掛けているかが、少しずつ明らかになります」


ホールの空気は再び張り詰め、誰もが息を潜める中、凛の鋭い視線が一人一人の動きを捉えていた。


午前3時45分、ホール


「現時点での状況を整理する」玲は低く落ち着いた声で言った。「第1の被害者は首吊り、第2は廊下で刺殺、第3は浴室で撲殺を装った溺死、第4は毒による死亡。手段はそれぞれ異なる」


朱音は手帳に目を落とし、鉛筆を走らせながら訊ねた。「でも……どうして、こんなに手口が違うの?」


玲は指で間取り図を指し示し、「手口は違っても、共通しているのは犯行のタイミングと場所の制御だ。犯人は時間と空間を最大限利用して、混乱を生み出している」


凛が横から補足する。「心理的圧力を操作することで、被害者の行動パターンや反応を読み取ろうとしている。つまり、手口のバラつきも、犯人の“実験”かもしれません」


ゲストたちは互いに視線を交わし、緊張と恐怖が入り混じる静寂の中、玲の言葉に耳を傾けた。


午前3時50分、ホール


「犯人は、この館の空間を完全に掌握している。私たちが動く前に、すでに次の一手を読んでいる」玲の声は冷静だが、鋭い響きを帯びていた。


朱音が小さく息を吐きながら尋ねる。「じゃあ、どうすれば……」


「焦れば焦るほど、罠に嵌る」玲は間取り図に指を滑らせ、沈黙の中で視線を巡らせた。「心理戦に巻き込まれないこと。犯人は恐怖と混乱を道具として使っている。私たちは一歩先を読むしかない」


凛が静かに付け加える。「そして、被害者の行動や心理を逆手に取る。犯人はそれを観察し、最適なタイミングで手を打つ。まるで……チェスの駒のように」


朱音は手帳に小さくメモを取りながら、「……チェス……」とつぶやく。


玲は視線を朱音に戻す。「正確には、駒ではなく、状況そのものを動かす指揮者だ。私たちは、彼の読みを逆手に取らなければならない」


ホールの空気が一層張り詰め、誰もが自分の呼吸すら意識せずに、玲の言葉を胸に刻んだ。


午前4時15分、ホール


玲の視線がふと書庫の方向に向いた。「あの書庫で、神原さんが探していた書類……それが今回の心理戦の鍵になる可能性がある」


朱音が小さく身を乗り出す。「書類……? 何が書かれているの?」


御子柴理央が静かに答える。「資料の配置や封筒の種類から推測するに、これは単なる書類ではなく、共犯者や事件の計画に関するリスト、あるいは隠された証拠です。目にしただけで、犯人の意図や行動パターンが分かる可能性がある」


凛が眉をひそめる。「つまり、この書類を巡って、犯人は次の手を打っているかもしれないわけね」


玲は間取り図を広げ、ホールと書庫の位置関係を指し示す。「我々は、この書類の動きを読み、犯人が次に狙うタイミングを先読みする。心理戦はここから本格化する」


朱音は手帳を開き、御子柴の言葉をメモしながら小声で呟く。「……やっぱり、誰も信用できない……」


午前4時20分、ホール


玲はゆっくり頷き、低い声で答えた。「そうだ。四つの事件すべてに共通するのは、被害者たちが過去の“朽ヶ島事件”に関わっていたという点だ」


朱音は手帳を握りしめ、震える声で続ける。「でも、どうして今……? もう十年も前のことなのに……」


九条凛が静かに前に進み、鋭い視線をゲストたちに向けた。「過去の事件は、人の記憶だけでなく、心理にも深く刻まれるものです。今回の犯行は、その“心理的痕跡”を逆手に取って計画されている可能性が高い」


御子柴理央が補足する。「書庫で見つかった書類も、この事件の関係者や隠された証拠を示しています。つまり、犯人は被害者の“過去”を把握したうえで動いている」


玲は間取り図を見つめ、指で書庫からホールまでの経路をなぞった。「我々はまず、書庫の情報を基に次の動きを予測する。犯人が次にどこに現れるかを、心理戦として先読みする」


朱音は小声で呟く。「……また、誰かが死ぬの……?」


午前4時30分、ホール


雨音が大きく窓を叩きつけ、室内に静かだが重いリズムを刻んでいる。ゲストたちは沈黙したまま、互いの顔色を伺うように視線を交わしていた。


玲は椅子に腰を下ろし、指先で間取り図をなぞりながら低く言った。「雨の音は、心理的なプレッシャーとしても作用する。犯人はその効果も計算している可能性がある」


九条凛が立ち上がり、冷静な声で付け加える。「環境要因も重要です。雨音が警戒心を鈍らせるか、逆に音で足音を隠すか――どちらも犯人に有利に働く」


御子柴理央は封筒を開き、中の書類を広げながら言った。「書庫の資料と合わせると、犯行はすでに綿密に計画されていたことがわかる。次のターゲットも予測可能だ」


朱音は手帳を握り締め、震える声で問いかける。「玲……また誰かが……?」


午前4時45分、ホール


玲は間取り図を前に立ち、ゲストたちを見渡しながら口を開いた。「“相羽凛”という人物を、皆さんは知っているか?」


雨音が窓を叩く中、ホールは静まり返る。ゲストたちの目が互いに泳ぎ、誰も即答しない。


九条凛が視線を下ろし、冷静に分析する。「心理学者です。今回の集まりには学術的関わりで呼ばれているはずですが、自己紹介は控えていますね」


御子柴理央は封筒の資料をめくり、メモを指差した。「ここに彼女の過去の調査記録があります。被害者との接点が複数確認されている。動機や関与の可能性を見極めるには重要な人物です」


朱音は小さく息をつき、玲の肩越しにささやく。「また……誰かが狙われるの……?」


午前4時50分、ホール


玲は低い声で続ける。「20数年前、この島には《旧銀条トンネル崩落事故》があった。正式な記録は削除されているが、裏では“極秘の労働管理と隠蔽工作”が行われていた」


九条凛が机に肘をつき、鋭い眼差しで皆を見回す。「犠牲者や関係者の記録が抹消され、真実は闇に葬られた。しかし心理的な痕跡や当事者の記憶には、今も影響が残っている。今回の事件に深く関わる可能性が高い」


御子柴理央は資料を手元に並べ、淡々と説明する。「この書類群から、当時の関与者リストや労働管理報告の断片が確認できます。被害者たちの共通項として、この事故との接点が見えてくる」


朱音は小さな声でつぶやく。「……やっぱり、あの事件が……」


午前4時55分、ホール


玲の声が静かに、しかし確固たる響きでホールに広がる。「その事件の責任者が、“相羽凛”だ」


相羽凛は一瞬、微かに眉をひそめたが、表情は崩れず、静かに頷くように目を伏せる。


九条凛が言葉を継ぐ。「心理学者として表に立つ彼女は、当時の決定権や管理の多くを握っていた。表向きの記録には残らない“判断”や“操作”の責任は、確実に彼女にあった」


御子柴理央は手元の資料を指し示す。「被害者たちの行動履歴と、旧銀条トンネル事故時の記録を照合すると、偶然では説明できない一致が複数あります。彼女の決定や指示が、事件の連鎖に深く関わっていたことを示唆しています」


朱音は震える声でつぶやく。「……だから、こんなことが……」


午前5時10分、ホール


玲は間を置かず、声を低く鋭く響かせる。「ここにいるゲストの中に、その“被験者”あるいは“関係者”がいる。小田嶋隆一、青沼恭一、神原美月――全員が、事件の鍵を握っていた」


空気が一瞬で張りつめる。ゲストたちは互いの顔を見渡し、言葉を失った。


相羽凛は静かに立ち上がり、冷たい視線を巡らせる。「だから今夜、こうして再び集められたのね……全員を“洗い出す”ために」


九条凛が手帳にペンを走らせ、分析の声を上げる。「行動パターンと心理的反応を逐一観察すれば、誰が最も深く事件に関わっているか、絞り込むことができます」


御子柴理央も資料をめくりながら言う。「記録と証言の矛盾点を検証すれば、意図的に記録や時間を操作した人物の特定も可能です」


朱音は小さく肩を震わせ、「……また、誰かが……」とつぶやいた。


午前5時12分、ホール


朱音は手帳を握りしめ、顔を上げて静かに言った。「……でも、どうしてまた、同じ島で、同じようなことが起きるの? あのときと同じ顔ぶれなのに……」


相羽凛は冷ややかに視線を向け、低く答える。「偶然ではありません。すべて計画された“再現実験”です。過去の行動、心理、反応――それを知る者だけが標的になる」


御子柴理央が分析メモを指でなぞりながら付け加える。「しかも、今回の手口はより巧妙化しています。密室、毒、撲打……複数の手段を組み合わせ、被害者の発見時刻や状況まで操作されている」


九条凛は眉を寄せ、声を落とす。「精神的圧力も計算に入れています。恐怖と混乱で、ゲストたちの心理反応を最大化しようとしている」


朱音は震える声で、「……つまり、私たちはただの“証人”じゃなくて、実験の一部……?」とつぶやいた。


午前5時47分、西棟・旧研究室


御子柴理央が懐中電灯を手に棚の前で立ち止まり、慎重に黒いファイルを手に取る。「これは……未整理の記録群ですね。過去の実験データや被験者リストの可能性があります」


朱音は震える手で棚の奥を覗き込み、「……こんなもの、どうしてここに……」と小さくつぶやく。


九条凛は冷静に辺りを観察し、「安全確認は済んでいます。だが、心理的なショックを受ける可能性が高い。慎重に扱うべきです」と指示する。


御子柴は封筒のひとつを開き、紙の端に目を走らせながら、「ここに書かれた名前と日付……事件との関連が濃厚です。今夜の連続殺人と完全にリンクしている」と分析を口にする。


午前5時52分、西棟・旧研究室


御子柴理央はページをめくりながら、声をひそめて言った。「――被験者K、9歳。人格第2層への干渉試験。観察官:相羽凛」


朱音は目を見開き、思わず手を震わせる。「……この子、……私と同じくらいの年齢……名前も書かれてない」


九条凛は冷静に肩越しにファイルを覗き込み、「これはただの事故報告ではない。意図的な介入と観察の記録が明確に残されている。過去のトンネル事故で犠牲になった子どもたちと直接関連している」と分析を口にする。


御子柴は封筒を閉じ、慎重に棚に戻しながら、「この島で起きた《旧銀条トンネル崩落事故》の裏側には、単なる土砂崩れではなく、計画的な“人体実験”の痕跡が残されていたことが判明します」と告げた。


午前6時15分、ホール


玲は落ち着いた声で告げる。「皆さん、先ほどの書庫で見つかった資料から、この島で過去に起きた《旧銀条トンネル崩落事故》と今の事件には、直接的な関連があることが分かりました」


朱音は震える声で補足する。「その事故で関わった“被験者”や関係者が、ここにいる……ということです」


相羽凛は静かに立ち上がり、周囲を見渡す。「事故の真相を知る者たちが、時間を経てまた集められた。偶然ではありません。今回の殺人事件は、その過去と何らかの形で結びついている」


水原真理はペンを握り、紙にメモを取りながら小声で呟いた。「つまり、被害者たちは単なる犠牲者ではなく、“過去の関係者”として狙われている……」


仁科邦彦は眉をひそめ、声を低くして言った。「この館の中で、誰が加害者で、誰が標的なのか。全員が疑わしい状況だ」


玲は深く息をつき、全員を見渡した。「まずは冷静に、過去と現在の接点を整理し、手がかりを一つずつ検証していくしかない」


午前6時45分、ホール


九条凛がゆっくりと口を開いた。「事故当時の心理干渉実験の記録と、現在の事件の手口には驚くべき共通点があります。対象者の精神状態を操作するような痕跡――犯人は、被験者の行動パターンを模倣している可能性が高い」


玲は視線を設楽健司に固定し、声を低く絞り出す。「設楽さん……あなたは、“少年K”そのものなのか? 事故の当事者として生き延び、今ここにいるのか?」


朱音は小さく肩を震わせ、手帳に書かれた図形を握りしめた。「もしそうなら……だから、あの時の事件と今の殺人は繋がっているのね……」


氷見野湊が冷静に立ち上がり、低く威圧感を帯びた声で言った。「設楽、否定するなら今だ。ここにいる全員が、次の一手を見ているぞ」


御子柴理央が静かに資料を整理しながら付け加えた。「心理的痕跡と物理的痕跡、双方を照合すれば、少年Kの存在と、今回の事件の関連性はより明確になります」


九条凛が一歩前に出て、全員を見渡す。「今夜、この館での出来事は偶然ではない。過去の事故が残した影響を、私たちは解き明かさねばならない」


設楽の顔が引きつる。汗が額を伝い、指先が微かに震えている。声を絞り出すように、かすれた声で言った。「……そ、そんな……俺が、あの……少年Kだっていうのか……?」


玲の視線は冷たく鋭い。「否定できるのか? 過去の記録、君の行動パターン、そして今回の事件の手口――すべてが一致している」


朱音は震える声で付け加える。「どうして、こんなことになったの……? あの時のこと、全部……」


氷見野湊が低く警告する。「逃げられると思うな。ここで全てを話すんだ、設楽」


御子柴理央は冷静に資料を差し出しながら言った。「設楽さん、心理的・行動的な痕跡は消せません。ここに残された証拠を見れば、誰も欺けません」


九条凛は静かに首を傾げ、館内に響く声で告げる。「少年Kの存在が、この館で起きる連続殺人の鍵――その事実を、今、全員が知る必要がある」


午前3時半、ロビー。


朱音は玲の隣で静かに口を開いた。

「もう、黙って見ているわけにはいかない……。私が、あの時の真実を、そして今、この館で起きていることの全てを明らかにする」


玲は彼女をじっと見つめ、軽く頷く。

「その意志が、今必要だ。君の直感と観察眼が、手がかりになる」


氷見野蓮は低い声で言った。

「あの少女がそう言うなら、俺たちも全力でサポートする」


御子柴理央は手元の資料を整理しながら冷静に分析する。

「朱音さんの感覚は、過去の記録と現状の矛盾を解く鍵になる。冷静に、しかし迅速に行動する必要があります」


九条凛も静かに朱音を見つめて口を開いた。

「君の決意は、この館に潜む真実に対する光になる。恐怖に屈せず、全てを見極める覚悟を持ってほしい」


午前4時、西棟の廊下。


玲は床の濡れた跡を見下ろし、朱音の肩越しに低く呟いた。

「嵐の爪痕だけじゃない。この足跡、誰かが走った形跡もある……」


設楽健司が眉をひそめ、廊下の奥を見やった。

「誰だ……こんな時間に……」


その場に静かに現れたのは、九条凛だった。薄暗い廊下の端で、懐中電灯の光を片手に、ゲストたちの緊張を一瞬で読み取る。

「動揺している者がいる。この廊下の状況から、犯人は心理的に揺さぶろうとしている可能性が高い」


御子柴理央も資料とメモを手に現れ、床の濡れ跡を照らす。

「足跡の方向と濡れの具合を分析すれば、犯行タイミングと経路が特定できる。物理的証拠が、心理的手掛かりと結びつく瞬間だ」


氷見野蓮がゆっくりと腕を組み、背後から周囲の影を監視する。

「慎重にな。犯人がまだこの建物内にいる可能性もある。焦れば罠にはまる」


朱音は震える手でノートを握り締め、玲を見上げた。

「……わかった。私も、見逃さない」


こうして、嵐の爪痕の残る廊下で、物理的証拠と心理的分析を組み合わせるスペシャリストたちが、次の手掛かりを追う構図が整った。


午前5時、ホール。


設楽健司はゆっくりと立ち上がり、声を震わせながらも、すべてを告げる覚悟を決めたように口を開いた。

「……俺がやったんだ。第1の殺人から、すべて――」


朱音の目が大きく見開かれる。

「な、なぜ……?」


玲は眉をひそめ、冷静に問いかける。

「動機を説明しろ。なぜ、ここまで計画的に――」


設楽は深く息をつき、視線を落としたまま呟いた。

「全部、あの事故のことだ。《旧銀条トンネル崩落事故》。あのとき……あの中で起きたことを、誰も覚えていない。いや、覚えていられなかった。俺だけが、真実を知っていた」


神原美月が息を呑み、御子柴は封筒を手に震える手で資料を広げた。

「過去の“被験者”たちが、今ここに揃っていたということか……」


設楽は顔を上げ、目に狂気とも覚悟とも取れる光を宿して言った。

「だから……忘れさせるために、俺は動いたんだ。犠牲は避けられなかった……でも、もう逃げられない。真実を知った君たちには、全部話す」


九条凛は静かに観察する。

「心理的圧力、動機、計画性……すべてが一致する。これ以上の隠蔽は不可能だ」


氷見野蓮は背後で腕を組み、低い声で呟いた。

「今夜、すべての線がつながる……間違いない」


ホールの空気は張り詰め、誰もが息を潜めて設楽の告白に耳を傾けていた。


午前5時15分、ホール。


玲はテーブルの上に広げられた古いトンネル記録を指差し、静かに告げた。

「設楽健司、君が語ったことと、この記録が完全に一致する。君はあの事故で何が起きたのかを知っている――そして、それを隠すために動いた」


朱音は手を握りしめ、目を潤ませながらも必死に聞き入る。

「……全部、書かれてるの?」


玲は頷き、さらに声を低める。

「この文書には、当時の被験者の状況、人格干渉の試験記録、観察者の報告まで細かく残っている。逃げ道はない」


その横で新たに立つのは、記憶分析官・水無瀬透。

「被験者の深層心理と行動パターンが、現場の状況と完全に符合します。過去の記憶の痕跡が、あなたの行動を証明している」


玲の視線は設楽に絡みつく。

「これ以上の隠蔽は無意味だ。君が何をしたのか、すべて説明する義務がある」


設楽の肩が小さく震える。

「……わかった。全部、話す……」


ホールに沈黙が戻り、雨の音だけが窓を叩いていた。


午前5時45分、ホール。


設楽健司の声は震えていたが、どこか凛とした強さもあった。

「私は、この館で生まれて、この館で育った子どもを、守ろうとしただけなの……でも、あの事故以来、過去の“死”が常に影のようについて回った」


朱音はその言葉に耳を傾け、眉をひそめる。

「……でも、だからって人を殺すことは……」


玲は静かに間を取り、補足するように言った。

「守ろうとした行為の裏で、動機が歪んでいった。恐怖、罪悪感、そして“再び同じ悲劇を起こしたくない”という執念が、今回の一連の犯行を生んだ」


横に立つのは心理干渉分析官・九条凛。

「設楽さんの心理状態は、過去のトラウマと現実の恐怖が複雑に絡み合い、正常な判断を阻害していました。犯罪の意図は明確ですが、行動の背景には強い保護衝動が潜んでいたことも見て取れます」


朱音は息を呑みながら、玲の横で小さくうなずいた。

「……だから、あのときの事故も、今の犯行も……全部、繋がっているんだ……」


雨音が静かにホールを満たし、過去と現在の影を照らしていた。


午前6時10分、ホール。


朱音の声は小さく震えていたが、真剣さが滲んでいた。

「それで、終わらせたの? その子は……本当に、救われたの?」


設楽健司は俯き、しばらく沈黙したあと、低く絞り出すように答えた。

「……ああ。やっと、あの子を救うことができた。長い間、守りたかったものは、この館にいる子どもたちだったんだ」


玲は冷静に視線を巡らせながら付け加えた。

「この事件は終わりを迎えました。しかし、心理的な傷や過去の記憶の影響は、すぐには消えません。今後の回復には専門家のサポートが必要です」


心理干渉分析官・九条凛が、静かに頷く。

「被害者も加害者も、共通して抱えたトラウマの整理が不可欠です。今後は心理的支援と安全確保の両立が鍵となるでしょう」


朱音は深く息をつき、ホールに漂う緊張の空気が少しずつ和らぐのを感じた。

「……これで、本当に、終わったんだね」


午前7時45分、朽ヶ島上空。


K部門のヘリは低く旋回し、海風に揺れる翼を光らせていた。

設楽健司は手錠をかけられたまま、座席にうつむき、長い沈黙を守っていた。


玲はヘリの後方で静かに言った。

「すべての証拠を押さえ、関係者の安全を確保した。これで幕を引く準備は整った」


記録分析士・御子柴理央が資料を整理しながら補足する。

「現場の全証拠、関係者リスト、心理状況の記録――すべて保存されました。今後の調査・法的手続きにも問題はありません」


心理干渉分析官・九条凛は、設楽を一瞥して冷静に言う。

「逮捕は終わりましたが、被害者・生存者の心の整理はまだ始まったばかりです。今後は心理的ケアが重要になります」


朱音はヘリの窓越しに海と空を見つめ、静かに小さく息をついた。

「……これで、全部終わったんだね」


玲は頷き、島の上空に広がる朝焼けを見上げた。

「終わりだ。ただし、ここからが本当の意味での再生の始まりだ」


午前8時15分、南棟地下書庫。


玲は封筒の束を丁寧に並べ、回収された記録を一枚一枚確認していく。

「ここにあるのは、公式記録から抹消された実験ログだ。被験者の人格変化、行動履歴、観察者のメモ――全て残されている」


記録分析士・御子柴理央が薄暗い地下で慎重に目を走らせる。

「表面上は消去済みでも、ここにデータのバックアップが存在した。これで事故の全貌が科学的に追える状態です」


心理干渉分析官・九条凛が、ログの一部を指で示しながら解説する。

「被験者K――谷村が守ろうとした少年の人格層ごとの記録。干渉実験の影響が時間軸で整理されています。精神的負荷の変化も明確です」


朱音はそっとファイルを手に取り、文字や図表に目を落とす。

「……こんなにたくさん、残っていたんだ……。みんなのこと、ちゃんと分かるんだね」


玲は静かに頷き、回収された記録の山を見渡した。

「これが全てだ。過去の隠蔽も、嘘も、これで白日の下に晒される」


午前10時、朽ヶ島迎賓館前の臨時報道テント。


報道スペシャリスト・藤堂がカメラの前に立ち、手元の資料を整理しながら話し始める。

「本日、朽ヶ島迎賓館で発生した一連の事件について、全貌が明らかになりました。昨夜の複数殺人事件、そして過去に抹消された研究記録の存在が確認されています」


藤堂は画面に映し出された館の航空写真を指さす。

「被害者は計4名、殺害方法は首吊り、刺殺、溺死、毒殺と多岐に渡ります。捜査は緻密に行われ、関係者や目撃者の証言も確認済みです」


手元の資料をめくりながら、冷静な口調で続ける。

「さらに、南棟地下書庫から回収された研究記録には、かつて島で行われた臨床試験の詳細が残されていました。被験者は“少年K”と呼ばれ、人格干渉実験の対象であったことが確認されました」


藤堂はカメラに向かって視線を送る。

「今回の報告により、過去の隠蔽、未解決事件の真相、そして事件に関与した人物の全容が、初めて公に示されます。視聴者の皆様には、冷静な判断をお願い申し上げます」


彼の声は風に乗り、島全体に響くようだった。

報道によって、長年閉ざされていた真実が、今、光を浴びることになった。


午後3時、都内の玲探偵事務所。


玲は椅子に深く腰かけ、机の上に広げられた事件資料に目を落とす。

「すべて終わった……とはいえ、まだ整理すべき記録は山ほどあるな」


朱音は窓際に立ち、外の街路を見つめていた。柔らかい光が髪を照らし、穏やかな表情を浮かべる。

「でも……誰かが守ってくれたから、みんな無事だったんだよね」


玲は微かに頷く。

「そうだな。記録や証拠は残るが、命は取り戻せない。だからこそ、次の行動が大事になる」


デスクの端には、御子柴理央が整理したファイルの束。

冷静な分析の末に明らかになった事実は、過去の隠蔽と犯罪の痕跡を白日の下に晒した。

「全ての真実を知った今、私たちは次の世代に、何を残すかを考えなければならない」


静寂の中、窓の外では小鳥の声が響き、風がカーテンを揺らした。

朱音は玲の隣に歩み寄り、小さな声で言った。

「……私も、頑張るよ。次は、守る番だから」


玲は穏やかに微笑む。

「ああ、君ならできる」


午後3時半、玲と朱音は、数日間の事件の重みを胸に、静かに日常の光へと歩みを進めた。

外の世界はまだ不確かで、嵐の影を残しているかもしれない。

だが、確かなのは、ここに生きる人々の意思と、真実を見届けた者たちの決意だった。


午後4時、玲探偵事務所。


玲は提出用の報告書を前に椅子に深く腰かけ、ペン先で最後の確認をしていた。

「……この件、外部にはまだ完全に公開できない部分がある。だが、まとめるべきは事実だけだ」


朱音が横から覗き込み、ページに目を走らせる。

「事件の全貌って……こんなに複雑だったんだね。私、ちゃんと理解できてるかな」


玲は静かにページをめくり、箇条書きされた事実を指さす。

「20年前に行われた“記憶操作実験”。その被験者である少年Kが、過去の封印と監視の記録に基づき、自分を追い詰めた者たちに復讐を目的として一連の事件を引き起こした。抹消された医療・心理記録や監視映像も、全て島内に残されていた」


朱音は小さく息を吐き、窓の外を見つめる。

「少年K自身が……こんなことをするなんて、誰も思わなかったんだね」


玲は窓の光を受けながら、穏やかだが厳しい口調で答える。

「研究の秘密は長年封印され、真実は隠蔽されたままだった。今回、再調査によってその痕跡を洗い出せたことが、唯一の救いだ」


机の脇では御子柴理央が回収資料を整理し、細かい確認を行っていた。

「残された映像や記録は全てデジタル化して保管しました。再調査の際には、さらに詳細な解析も可能です」


朱音は拳を握り、決意を滲ませるように言った。

「これで、誰もまた同じ目に遭わなくて済む……」


玲は短く頷き、報告書に署名する。

「事実は消せない。だが、次の世代のために記録し、伝えることができる。それが僕たちの仕事だ」


午後4時半、玲と朱音、そして御子柴は、事件の全貌を整理し終え、静かに事務所の窓から差し込む光に目をやった。

再調査で明らかになった真実は、重くもあり、希望の光でもあった。


午後4時45分、玲探偵事務所。


「ねえ、玲さん」

朱音はソファに深く腰かけ、手元のスケッチブックをじっと見つめながら静かに言った。

「……私、あの事件のこと、前より少しだけ分かる気がする。怖かったけど、逃げなかった。……自分で考えて、行動できた」


玲はソファの隣に座り、柔らかく微笑む。

「そうか……朱音。君はちゃんと、自分の目で見て、耳で聞いて、考えて動いたんだね。怖くても、現実と向き合った」


朱音は小さく頷き、スケッチブックに残った線を指でなぞる。

「怖くても、ちゃんと前に進めるんだって、少しだけ自信がついた。玲さんがいたから……だけじゃなくて、自分でも」


玲は目を細め、優しく言った。

「それが成長だよ、朱音。事件を通して学んだこと、感じたことは、これからの君の力になる」


朱音はふと顔を上げ、外の光を見つめる。

「これからも、逃げずに向き合える気がする。怖くても、守りたいものがある限り」


玲は静かに頷き、コーヒーを一口飲む。

「その通りだ。君はもう、以前の朱音じゃない。自分の足で立ち、自分の頭で考えられる」


午後5時、事務所の静けさの中で、朱音の視線は少しだけ遠くを見据えていた。

事件を経て、彼女は確かに、ひと回り大きくなったのだ。


午後2時、東京地方裁判所。


Kは黒い拘置服に身を包み、法廷の中央に座っていた。目は伏せられ、静かに手を組む。


裁判官が書面を手に読み上げる。

「被告人Kについては、20年前に行われた非人道的な研究と、その影響を受けた人格の変化が考慮される。ただし、今回の一連の殺人行為は重大であり、社会的責任を問う必要がある」


検察官は冷静な口調で言葉を続ける。

「被告人の動機は理解できる部分もあります。しかし、結果として複数の命が失われたことを鑑み、刑罰の重さを考慮すべきです」


弁護人は静かに立ち、Kに向き直る。

「Kさん。あなたが守ろうとしたのは、20年前の研究に巻き込まれた子どもたちです。その心情を裁判所に理解してもらうために、全て正直に話してください」


Kは小さく頷き、低い声で言った。

「……あの時、僕は守るしかなかった。誰も、助けてくれなかった。間違いもたくさんしました。でも、命を奪うつもりは……」


裁判官は書面を閉じ、静かに言う。

「情状酌量の余地は考慮する。ただし、法の下で責任は問われる」


午後の光が法廷の窓から差し込み、Kの影を長く伸ばす。

20年前の過去と、現在の罪――その裁きは、静かに、しかし確実に進められていた。

ホテルのあとがき


午後の光が、窓辺のブラインドをやわらかく照らしていた。

事件がすべて収束したあと、館はいつもの静けさを取り戻しているように見えた。だが、壁に残る小さな傷跡や、濡れた床板に残る足跡の記憶は、決して消えることはない。


人の心と記憶の奥底には、誰にも理解できない影が潜んでいる。守ろうとする者、隠そうとする者、そして真実を追い求める者――それぞれの想いが、この館に刻まれた。


事件の全貌が明らかになった今も、誰かの心に残る問いがある。

「本当に、すべて終わったのだろうか――」


窓の外では、再び雨が静かに降り始める。

嵐の爪痕は消えたようで、まだ確かに、この場所の記憶の片隅に息づいている。


そして、小さな事務所では、静かなコーヒーの香りが漂い、玲と朱音の新たな日常が、ゆっくりと始まっていた。

事件は終わった。しかし、誰もが抱える記憶と真実の影は、これからも静かに心の奥に残り続ける――。

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