64話 舞踏の仮面ール・ミラージュの残影ー
登場人物紹介
•神崎 玲
探偵。冷静沈着で観察力に優れる。廃劇場にまつわる事件の真相を追う。
•朱音
10歳の少女。スケッチブックを持ち、観察眼が鋭い。玲と共に廃劇場を調査する。
•藤堂 華
劇場に深く関わる女性。かつての舞台装置や仮面の管理者。玲たちの協力者として登場。
•藤堂 瑛司
伝説の舞台監督。「仮面の舞姫」の演出を手掛けた人物。舞台上で起きた悲劇と関わる。
•東雲 遥
1987年に失踪したバレリーナ。舞台事故の噂の発端となる。
•柚月 真帆
悲劇のバレエ《白い鏡》の主役。舞台上で命を落としたとされる。
•相良 恭介/元・白鳥 薫
画家。かつて舞台関係者として事件に関わっていた人物。静かな海辺の街で生活している。
•橘 奈々(たちばな なな)
情報分析担当。玲を呼び捨てで呼び、事件の調査や報告をサポートする。
•佐々木 圭介
朱音の近しい大人。調査のサポートや車の運転などで同行。
•昌代
朱音の祖母。過去の舞台や事件に関する知識を持つ。
•舞踏の怪人
劇場にまつわる都市伝説的存在。舞台上の事故や仮面の出現と結びつく謎の人物。
•その他関係者・資料館職員・過去の舞台キャスト
過去の舞台に関わった人物たち。事件や舞台の真相を形作る背景として登場。
冒頭
日時:午後3時半頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」前の路上
霧雨がしとしとと降り続き、舗道は薄く濡れていた。古びた劇場のファサードは、かつての華やかさを失い、時の重みに押しつぶされたようにうつむいている。瓦屋根は苔で緑がかった光沢を帯び、看板の文字はかすれて判読しづらい。
神崎玲は傘を差さずに立ち尽くし、重い鉄製の扉を見上げていた。肩に落ちる雨粒を気にも留めず、眉間にわずかに寄せた皺が、思考の深さを物語っている。
朱音は玲の後ろに立ち、膝まで届くスケッチブックを胸に抱えていた。雨粒が彼女の髪の先に落ちるたび、手でそっと払う。小さな声で、ぽつりと尋ねる。
「……ここ、本当に入っていいの?」
玲は一瞬考え、低く落ち着いた声で答えた。
「正式な依頼だ。劇場のオーナー、藤堂瑛司の名義でね」
朱音の瞳が少し大きくなる。
「えいじさん……って、舞台を作ってた人?」
「そう。かつて“仮面の舞姫”を演出した伝説の舞台監督。今は、この劇場で姿を消したまま」
朱音はスケッチブックの表紙をぎゅっと握る。何日も描き続けた仮面のラフスケッチは、どこか正体がつかめず、迷いの影が色濃く残っていた。
「この劇場、舞踏の怪人が出るって噂……ほんと?」
玲は少し微笑み、雨粒で濡れた外壁を指さした。
「噂には根っこがある。でも、舞台と同じで、真実を知っても観客は納得できるとは限らない」
玲はポケットから小さな鍵を取り出し、扉の錆びた鍵穴に差し込む。カチリ――という音が雨音に混ざり、静かに響いた。
扉が開き、薄暗い舞台裏への通路が姿を現す。奥から、かすかに足音が響いた。それはまるで、幕が上がる直前の舞台袖にいる演者が立ち位置を確かめるような静かな音だった。
朱音は足元を見つめたまま、低くつぶやいた。
「……舞台が、始まる気がする」
玲は深呼吸を一つして、静かに踏み出す。
「これは演劇だ。でも、誰が台本を書いたのか――その謎を解かなくてはならない」
二人の影は、古びた劇場の闇へと溶け込んでいった。かつて幾千もの喝采を浴びた舞台は、今、新たな物語を待ち受けていた。
日時:午後3時40分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」ロビー
玲は鉄扉を押し戻し、静かに鍵をかけると、重々しい音が廊下に反響した。背筋にかすかな緊張を覚えながらも、視線は自然と奥のロビーへと向かう。かつて金箔で縁取られていた天井の装飾は剥がれ、漆喰のひび割れから薄い光が差し込む。壁紙の破れた隙間には、過去の公演ポスターや誰も触れていない演劇用の小道具が埃をかぶったまま残されていた。
朱音は玲の後ろをついて歩きながら、小さな手でスケッチブックを抱きしめる。床に落ちた小石のような埃を踏むたびに、微かな音が響き渡る。
「……静かすぎる……」朱音が小声で呟く。
玲は立ち止まり、壁にかけられた古いシャンデリアを見上げながら答えた。
「ここに残るのは音だけじゃない。過去の舞台、演者たち、そして――誰も語らなかった秘密の気配もな」
朱音は少しだけ身をすくめ、目を丸くする。
「……秘密って……本当に、ここで起きたことなの?」
玲は肩越しに微かに視線を向け、冷静に頷いた。
「過去の記録は残っている。しかし、その真実に触れられるのは、ほんの一握りの人間だけだ。今日、それを確かめることになる」
二人の足音が、廃れたロビーの奥深くまで静かに響く。壁の隙間から差し込む光と、長年溜まった埃が織りなす空間は、過去と現在がひそやかに重なり合った場所のようだった。
朱音はスケッチブックの表紙をぎゅっと握りしめ、そっと玲の袖に手をかける。
「……舞台、まだ始まってもないのに、怖いよ」
玲は低く息を吐き、背筋を伸ばした。
「恐れる必要はない。観客はまだ来ていない――舞台は、今ここから始まるのだから」
そして二人は、ひび割れた床を踏みしめながら、奥の舞台へと歩みを進めていった。
日時:午後3時50分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台袖
薄暗い舞台袖には、長年使われずに埃をかぶった小道具や衣装が並んでいた。かすかに揺れる電球の明かりが、床に映る影を不規則に揺らしている。
玲は袖に立ち、肩越しに朱音の様子を確認した。
「ここが……舞台の裏側か」朱音が小さな声でつぶやく。
「舞台は表情だけじゃなく、裏側にも物語を秘めている」玲はゆっくりと歩きながら答える。「光の当たらない場所にも、秘密は隠れている」
朱音はスケッチブックを膝に置き、ペン先を握ったまま辺りを見渡す。「……あの仮面、描いても描いても変なんだ。なんでだろう……」
「恐らく、それは真実を反映しているからだ」玲は舞台袖の奥に目をやる。「表の顔と裏の顔、現実と虚構……混ざり合って、ひとつの姿になる」
朱音は目を大きく開き、息を呑む。「……仮面は、笑ってるの?それとも……」
玲は微かに微笑み、袖の隙間から舞台を見つめた。「それは、観る者の心次第だ。夜の舞踏に、仮面は微笑む――それだけ」
舞台の暗闇の奥で、埃を踏む音が小さく響く。長い年月に閉ざされていた劇場の空気が、二人の足音で揺れ、わずかな風が巻き起こる。
「舞台は……生きてるんだね」朱音がつぶやく。
「生きている。記憶も秘密も、感情も……すべてが、この空間に宿っている」玲は視線を真っ直ぐ舞台に向けた。「そして今夜、もう一度、その幕を開けるのだ」
埃まみれの舞台袖に、二人の影が長く伸び、静かに、しかし確実に物語の夜が始まろうとしていた。
日時:午後3時55分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台裏通路
玲は足を止め、暗がりの奥を見つめた。
「……誰かいるのか?」彼の声は低く、通路の冷気に溶けるように消えた。
朱音も息をひそめ、肩越しに扉の先を見やった。「……でも、誰もいないみたい……」
きぃ……きぃ……
音は微かに近づき、床の木材が軋むたびに、古い劇場の空気が震えた。朱音の手がスケッチブックを握りしめる。
「……もしかして、幽霊……?」小さな声で呟く朱音。
「違う。幽霊ではない……」玲は通路に一歩踏み出した。「これは、人間の痕跡だ。誰かが、今もこの劇場を歩いている」
音は階段の方へと続き、微かに響き渡る。湿った木の匂いと、埃の匂いが混ざり合い、二人の感覚を研ぎ澄ませる。
「……近づいてくる」朱音の声に、ほんのわずかな恐怖が混じる。
「落ち着け。姿が見えれば、正体は分かる」玲は息を整え、通路の暗がりに視線を集中させた。
きぃ……きぃ……
足音は止まった。通路の先は、漆黒の闇に包まれている。
「……やっぱり、誰もいない……」朱音が小さくつぶやく。
「いや……いる」玲の声は低く、確信に満ちていた。「ただ見えていないだけだ……誰かが、今夜の舞台を見守っている」
通路の闇は静かに息を潜め、二人の足音と呼吸だけが、深い劇場の中に響き渡った。
日時:午後4時10分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台袖
舞台袖の暗闇の中、静かに影が動いた。
「……ここに来るのも、久しぶりね」藤堂華の声は低く、湿った空気に溶けるようだった。
玲は振り向かず、ただ静かに頷いた。「……華さん、依頼主の意向を確認したい。今回の舞台には、どんな意図が?」
「意図……ね」華は袖の影からゆっくりと現れ、手にした小さな設計図を広げた。「私がやるのは、“真実の再演”。でも、それは単なる演劇じゃない――見せる相手を選ばなきゃならないの」
朱音は思わず息を飲んだ。小さな手でスケッチブックを握りしめる。「……真実の再演……って、どういうこと?」
華は視線を上げ、静かに答えた。「この舞台は、人の心を試す場になる。観客が誰かによって操作されることもある。けれど、それを恐れてはいけない――それが演者としての私の役目だから」
玲は軽く息をつき、舞台の奥を見やった。「……この劇場で、何を目撃することになるのか。全て、あなたに委ねる」
華の手が設計図の端を指でなぞる。薄暗い袖の中で、紙の反射が彼女の顔を一瞬だけ照らした。
「準備は整っている……後は幕が上がるのを待つだけ」
通路の奥、舞台の中央からかすかに床がきしむ音が響き、劇場全体に緊張が張り詰める。
朱音の小さな声が漏れる。「……なんだか、舞台が呼吸してるみたい……」
華は静かに頷き、暗がりに溶け込むように立ったまま、舞台の幕の向こうを見つめていた。
「……観客席に座る者たちは、今日、何を知るのかしら……」
日時:午後3時45分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」ロビー奥
玲はゆっくりと足を進め、埃を巻き上げる床を踏みしめた。木製の階段の手すりはかすかにぐらつき、触れるたびに低く軋む。
「……ここまで荒れているとは思わなかった」玲の低い声が、広い空間に吸い込まれる。
朱音は小さな足で玲の後ろをついていきながら、スケッチブックを胸に抱えたまま呟いた。「……でも、なんだか、昔のままの匂いがする……」
「そうかもしれないな」玲は壁に残るポスターや、天井から垂れ下がるほこりの帯を見上げながら応えた。「人の手が離れても、時間の痕跡は残るものだ」
奥の扉の向こうから、かすかに風が通る音がした。紙の端がひらりと舞い、長い間閉ざされていた空間に微かな緊張を生む。
朱音が指でスケッチブックの表紙を撫でながら言った。「……ここで、また舞台をするの……?」
玲は黙って頷き、先に進む足を止めずに歩き続けた。「そうだ。この劇場は、過去の悲劇と秘密を抱えたまま、次の物語を待っている」
階段の影、壊れかけの椅子、壁に残る古いペンキの跡――全てが、これから始まる“再演”の舞台装置の一部のように、静かに存在感を主張していた。
朱音は小さく息をつき、口を開く。「……私、見届けたい……真実を」
玲はスケッチブックを抱えた彼女の肩に視線を落とし、静かに言った。「なら、しっかり目を開けていろ。これから見るものは、ただの舞台じゃない」
廊下の奥、薄暗い影の中にかすかな光が差し込み、二人の影を長く引き延ばしていた。
日時:午後3時45分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」ロビー奥
玲はゆっくりと足を進め、埃を巻き上げる床を踏みしめた。木製の階段の手すりはかすかにぐらつき、触れるたびに低く軋む。
「……ここまで荒れているとは思わなかった」玲の低い声が、広い空間に吸い込まれる。
朱音は小さな足で玲の後ろをついていきながら、スケッチブックを胸に抱えたまま呟いた。「……でも、なんだか、昔のままの匂いがする……」
「そうかもしれないな」玲は壁に残るポスターや、天井から垂れ下がるほこりの帯を見上げながら応えた。「人の手が離れても、時間の痕跡は残るものだ」
奥の扉の向こうから、かすかに風が通る音がした。紙の端がひらりと舞い、長い間閉ざされていた空間に微かな緊張を生む。
朱音が指でスケッチブックの表紙を撫でながら言った。「……ここで、また舞台をするの……?」
玲は黙って頷き、先に進む足を止めずに歩き続けた。「そうだ。この劇場は、過去の悲劇と秘密を抱えたまま、次の物語を待っている」
階段の影、壊れかけの椅子、壁に残る古いペンキの跡――全てが、これから始まる“再演”の舞台装置の一部のように、静かに存在感を主張していた。
朱音は小さく息をつき、口を開く。「……私、見届けたい……真実を」
玲はスケッチブックを抱えた彼女の肩に視線を落とし、静かに言った。「なら、しっかり目を開けていろ。これから見るものは、ただの舞台じゃない」
廊下の奥、薄暗い影の中にかすかな光が差し込み、二人の影を長く引き延ばしていた。
日時:午後3時50分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」主舞台裏
玲と朱音は、錆びついた鉄製の扉の前に立ち止まった。扉には黒い文字で「主舞台裏・関係者以外立入禁止」と書かれた札が掛かっている。文字は薄れ、ところどころ剥がれかけていたが、威圧感だけは当時のままだ。
「……これが、舞台裏の入り口か」玲が低く呟く。
朱音は扉に手をかけ、少し迷いながらも鍵穴を覗き込んだ。「……中、真っ暗だね」
「電気は通っていないだろう。でも安心しろ、今日は灯りを持っている」玲はポケットから小型の懐中電灯を取り出し、スイッチを入れる。柔らかな光が扉の周囲のほこりを照らした。
朱音は息を飲む。「……この匂い……昔の舞台の匂い……」
「埃と木の匂い、それに少しのカビ臭さ……でも、それがこの劇場の記憶だ」玲は扉を押し開けながら言った。軋む金属音が空間に反響する。
扉が開いた瞬間、ひんやりとした空気が二人の肌を撫でた。舞台裏は複雑な迷路のように広がり、破れた幕、散乱した小道具、ひび割れた床が、時間の経過と忘れ去られた記憶を物語っている。
朱音は懐中電灯の光を手元に向け、床の上に落ちている古いスケッチや台本の断片を見つめた。「……あれ、沙理さんの字……?」
玲は静かに頷く。「そうだ。ここには、過去の全ての舞台の痕跡が残されている。だが、その痕跡は……単なる記録ではない。何かを隠すための仕掛けかもしれない」
朱音は少し身をすくめながらも、足を進める。「……怖くないの?」
「怖いのは当然だ。だが、真実を知るためには、恐れを乗り越えなければならない」玲の声は冷静だが、奥底には覚悟が宿っていた。
舞台裏の暗闇に、二人の影が揺れる。古い木材のきしみや、遠くから微かに聞こえる雨の音が、これから始まる劇の前奏のように響いた。
日時:午後4時05分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台裏、主舞台前
舞台の暗がりに、二人の影が揺れていた。玲は懐中電灯の光を床に落としながら、慎重に足を進める。朱音はその後ろで、小さな手でスケッチブックを抱きしめている。
「……ここが、舞台の中心?」朱音が小さな声で尋ねる。
「そうだ。この先に、かつて観客を魅了した舞台がある」玲は低く答え、舞台袖の破れた幕に手をかける。手を引くと、古い布が軋む音を立て、微かな埃が舞った。
舞台の中央に立つと、暗闇の奥に何かが眠っているような気配があった。古いスポットライトの台座、倒れた小道具、そして色褪せた舞台装置。まるで時間が止まったままの空間だ。
朱音は小さく息をつき、スケッチブックのページを開く。「……ここに描きたい……この舞台を、もう一度」
玲は振り返らずに、舞台の奥を見つめる。「あの夜、誰も知らないまま終わった物語がある。だが今夜――彼が目を覚ますとき、幕は再び上がる」
床に響く木のきしみと、窓外から差し込む薄曇りの光が、劇場全体を静かに染める。
朱音は小さく頷く。「……私、描く。全部描いて、終わらせるために」
玲はわずかに微笑み、肩越しに静かに言った。「うん。始まりは、ここからだ」
古びた舞台の闇の中で、二人の影が重なり合い、静かに幕が上がる準備を整えていた。
日時:午後4時12分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台袖奥、メイクルーム前
二人は慎重に足音を忍ばせながら進む。朱音はスケッチブックを抱え、目を輝かせつつも、暗闇に身をすくめるような動作を繰り返す。
「……ここ、本当に誰もいないの?」朱音が小声で確認する。
「少なくとも、生きた人影はいない」玲は答え、指先で閉ざされたメイクルームの扉を軽く触れる。冷たくて古びた木の感触が指に伝わる。「だが、ここには、あの劇場の“記憶”が残っている」
朱音はラックの前で足を止める。埃をかぶった衣装が、無造作に掛けられている。赤いベルベットのドレス、羽根飾りの付いた仮面、色褪せたステージ用のジャケット――まるで過去の舞台の幽霊たちが静かに佇んでいるかのようだ。
「……すごい。全部、昔のままなんだね」朱音が息を漏らす。
「舞台は、人の記憶と同じで、触れられずに残るものほど強く響く」玲は低く呟き、扉の鍵穴を覗き込む。「ここには、最後の“秘密”があるかもしれない」
扉の向こうに、かすかに埃の匂いと湿った空気が混ざった空間が広がる。その静けさは、不意に立ち上がる何者かの気配を待っているかのようだった。
朱音はスケッチブックを開き、鉛筆を手に取る。「……描いてもいい?」
玲は少し微笑み、頷く。「もちろんだ。ここで見たもの、感じたものを、すべて描くんだ」
暗闇に浮かぶ衣装と古びた扉の前で、二人の影がしずかに揺れる。舞台袖の奥で、時間はゆっくりと、しかし確実に動き出していた。
日時:午後4時15分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」メイクルーム
鏡台の前に立ち、朱音は手をそっと仮面に触れる。冷たく、かすかに湿った陶器の感触が指先に伝わる。埃を払うと、ほのかに金粉が残る縁取りが現れ、光を受けて淡く輝いた。
「……この仮面、誰がつけてたんだろう?」朱音が小さくつぶやく。
玲は後ろからその姿を見守りながら、低い声で答える。「ここに残されたものは、すべて過去の証だ。誰が着けたかよりも、なぜ残されているのか――そこに意味がある」
朱音は鏡の前に座り、仮面を額に当ててじっと見つめる。その瞳には、恐怖と好奇心、そして過去の舞台に立った者たちへの敬意が入り混じっていた。
「なんだか……舞台の声が聞こえそうな気がする」朱音がつぶやくと、微かに風が通り抜けたように、紙の音や古い衣装の擦れる音が室内に重なる。
玲はそっと近づき、仮面のそばに置かれた小さな紙片を拾い上げた。埃まみれの文字には、かすかにこう書かれていた。
『──舞台は、誰かのためではなく、私自身のために終わる』
玲は目を細め、紙片を胸に抱く。「この劇場は、まだ終わっていない。仮面の声が、次の幕を告げるだろう」
仮面は鏡の前で静かに佇み、二人の影を映し出していた。静寂の中、過去と現在がゆっくりと交錯し、舞台はまだ眠ってはいなかった。
日時:午後4時30分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台袖通路
玲の足音は床に届かず、周囲の静寂に溶け込む。薄暗い通路の奥には、かつて使われていた舞台小道具や折れたセットの残骸が積み重なっていた。埃が舞い、光を受けて細かい粒子が空中に漂う。
「……ここに、何が隠されているんだろう」玲は小さくつぶやき、ポケットから懐中電灯を取り出す。光は床に落ち、散乱した破片や古びた脚立を浮かび上がらせた。
朱音は玲の後ろから少し距離を置き、スケッチブックを抱えたまま静かに歩く。通路の壁に掛けられた古い舞台写真やポスターの黄ばんだ色が、過去の栄華を物語る。
「この通路、昔の舞台裏のままなんだね……」朱音が息をひそめる。
玲は立ち止まり、通路の先を見つめる。そこには、閉ざされた重い扉が一つ――舞台の最奥に続く秘密の部屋の入り口。鍵穴には錆が浮き、長年触れられていないことを告げていた。
「ここから先が、本当の舞台だ」玲は低く言う。紙片や破片を避けながら、慎重に扉の前に立った。指先で扉を軽く叩くと、かすかな振動が体に伝わる。
朱音が小声で尋ねた。「……怖くない?」
玲は微かに笑みを浮かべて答える。「恐れるものは、真実を前にしてのみ意味を持つ」
二人は互いにうなずき、沈黙の中、重い扉を開くべく手をかけた。外界の光はすでに届かず、通路の先は深い闇に包まれていた。
日時:午後4時45分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台裏廊下
ポスターの文字はかすれ、端は湿気で波打っていた。中央には、白い仮面をつけた少女の写真がうっすらと残っている。手書きのサインが影のように重なり、誰かの筆跡がかすかに覗いていた。
「……東雲遥、か」玲は小声でつぶやき、指先でそっとポスターの縁を撫でた。古い紙の感触が、過去の舞台の熱気をわずかに伝える。
朱音がスケッチブックを抱えたまま、壁際を歩きながら尋ねる。「この子……本当に、ここで踊ったんだね」
「そうだ。ここは、彼女たちの情熱が積み重なった場所だ」玲は通路の奥を見据え、足元に散らばる古い舞台用の布や紙片を注意深く踏まないよう進む。
廊下の奥、楽屋へと続くドアの下から、微かに埃の匂いと木材の古い香りが漂ってくる。朱音はその空気に身をすくめながらも、息を詰めてその先を見つめた。
「この劇場……時間が止まったままみたい」
「止まっているように見えるだけだ。実際には、残されたものすべてが“語り続けている”」玲は言い、薄暗い通路の先にわずかな光を見つけた。
その光は、舞台の奥にある秘密の部屋から漏れているようで、古い扉の隙間に揺らめいていた。二人は互いに目配せし、息を整えてその光の方向へ歩みを進めた。
古い廊下の空気は静まり返っていたが、わずかな足音が過去と現在をつなぐように、二人の心に確かな緊張を刻んでいった。
日時:午後4時50分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台裏廊下
朱音の指が、色あせたポスターの写真にそっと触れた。
「この人……知ってる。前に、おばあちゃんが新聞の切り抜きを見せてくれた」
玲は一瞬目を閉じ、静かに頷く。
「昌代さんが? それなら……呼ぼう」
朱音は小さく頷き、スケッチブックを抱えたまま廊下の端に立ち止まる。玲は壁沿いに歩きながら携帯電話を取り出し、外部との連絡を試みる。
「……昌代さん、廃劇場に来られる? 急ぎで案内したい場所がある」
電話の向こうで少し間があり、女性の落ち着いた声が返ってくる。
「ええ、今すぐ向かうわ」
玲は朱音に微かに頷き、二人でポスターに最後の目線を投げかける。
「この人のことを、知っておく必要がある。過去の舞台、そしてここに残された“痕跡”を理解するために」
朱音は小さく息を吐き、背筋を伸ばした。廊下の先に続く扉から微かな光が揺れ、古い舞台の香りとともに二人を誘っている。
「……行こう」
玲の声に、朱音は力強く頷き、二人は慎重に足音を忍ばせながら廊下の奥へと進んだ。
古いポスターは、静かに二人の背中を見守るかのように揺れていた。
日時:午後5時05分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台裏廊下
昌代が廊下の奥から現れ、ゆっくりと息を吐いた。
「……東雲遥。あの頃、この劇場のすべてを背負っていたバレリーナよ。舞台のために命を削って踊った人……そして、ここで失踪した」
朱音はスケッチブックを抱えたまま、ぽつりと呟く。
「失踪……って、どういうこと?」
昌代は肩を少しすくめ、目を閉じて記憶をたどるように言った。
「誰も彼女の行方を知らなかった。舞台が終わった夜、楽屋の扉を開けたら……空っぽだったの。衣装も、私物も、何もかも、忽然と消えていた」
玲は静かに頷き、廊下の隅に置かれたポスターに目を戻す。
「ここに残された痕跡は、過去の事件の手がかりになる。東雲遥の失踪と、現代の舞台に何か繋がりがある可能性が高い」
朱音が指をそっとポスターに触れる。
「……おばあちゃんは、何か知ってるの?」
昌代は小さく目を伏せ、低く声を絞り出すように答えた。
「知っているけれど……話せることには限りがある。真実は、舞台の幕が上がるその時まで、誰にも明かされなかった」
朱音の瞳が少し光を帯びる。
「……私、知りたい。全部」
玲は肩越しに朱音を見つめ、微かに微笑む。
「そうだな……知ることから、すべては始まる」
廃劇場の静寂に、三人の呼吸だけが淡く響いた。
日時:午後5時15分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台裏廊下
天井近くに打ち込まれた鉄製の梁に、かすれたペンキでひとつの言葉が浮かんでいた。
朱音が首を傾げ、声を落として読んだ。
「『再演』……?」
昌代は眉をひそめ、慎重に視線を上げる。
「……この劇場では、過去の舞台が、何度も繰り返されると言われていた。でも、まさか……文字として残っているとは」
玲は梁を見上げ、手元の懐中ライトでかすれた文字を照らした。
「意図的だ。誰かが、この言葉を残した。過去の舞台を“追体験させる”──そんな意味かもしれない」
朱音の手がスケッチブックを握りしめる。
「追体験……舞台の記憶を、また誰かに見せるってこと?」
昌代は小さく頷き、薄く笑むように言った。
「過去の栄光も、悲劇も、この劇場に生き続けている。だが、その記憶を現実にする者が、今もここにいるということね」
玲は梁に向かってゆっくり手を伸ばす。
「見逃せない。過去の悲劇を知る者として、私たちはその舞台の全貌を確かめる必要がある」
舞台裏の冷たい空気の中で、三人は梁に刻まれた“再演”の文字を胸に、次の一歩を踏み出した。
日時:午後5時30分頃
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」舞台裏、古い楽屋前
梁に刻まれた文字の余韻がまだ残る廊下で、玲は足を止め、低い声で呟いた。
「《夜が来る前に、仮面を外してはいけない》……」
朱音が目を見開く。
「仮面を外さないって……どういう意味?」
昌代は壁にもたれながら、視線を天井の梁に向けた。
「昔の演者たちの戒めかもしれないわ。舞台の夜、観客の目の前で仮面を外すことは許されない──舞台の真実を守るための掟」
玲は暗がりの中で手元のライトを揺らし、壁に貼られた古いスケッチやメモを照らした。
「でも今は、誰かがその掟を壊そうとしている可能性がある。文字として残すくらいだから、警告というより──挑戦状かもしれない」
朱音はスケッチブックを抱きしめ、低く言った。
「挑戦……って、舞台に立つ人に対して?」
昌代は短く息をつき、慎重に周囲を見渡した。
「舞台に立つ者だけじゃない。観る者も含めて、すべての人に対してよ。仮面を外した瞬間、過去の悲劇が現実になる──そういう意味かもしれない」
玲は通路をさらに進みながら、静かに言った。
「なら、私たちはその“現実”を見極めなければならない。舞台が本当に動き出す前に、真実を見つけるために」
廃劇場の闇に、三人の影が長く伸びた。
遠くから、かすかな軋む音が再び響き、夜の帳が迫ることを告げていた。
【場面転換】
1987年・旧「ル・ミラージュ」劇場内
舞台は薄暗く、まだ観客が入り始める前の静けさに包まれていた。
照明器具が淡く光を放ち、舞台上には幾重にも積まれた大道具と、衣装ラックが影を落としている。
楽屋では東雲遥が鏡の前に立ち、白いバレリーナの衣装に身を包んでいた。
手元の仮面をそっと持ち上げ、息を整える。
「……大丈夫、遥。今日も舞台は成功させる」
共演者の声が控え室の奥からかすかに聞こえる。
だがその視線の端に、舞台袖の暗がりで揺れる黒い影が一瞬映った。
誰もそこにいるはずはない。
それでも、照明の微かな反射で仮面の輪郭が動くように見え、遥の胸に小さなざわめきが走った。
「――舞踏の怪人……?」
彼女の口元が微かに震える。
舞台監督は舞台袖から指示を出しながらも、遥の背後をちらりと確認する。
観客が入る前の静寂の中で、仮面の影は確かにそこにあった。
そして、この日から、劇場に“怪人の伝説”が刻まれることとなる。
午後3時15分/ル・ミラージュ劇場・舞台袖
扉の隙間から差し込む光に、埃が舞い上がる。
玲は息を潜め、足音を最小限に抑えながら一歩を踏み出した。
「……誰もいないはずだ」
小さくつぶやき、視線を左右に巡らせる。
朱音が肩越しに尋ねた。
「……この先、何があるの?」
玲はゆっくりと振り返り、静かに答えた。
「過去の痕跡と、まだ語られていない物語だ」
薄暗い通路の奥、古い衣装ラックの陰に、ひとつの白い仮面が置かれている。
玲の視線がその仮面に止まった瞬間、舞台裏の空気が微かに震えた。
「……始まったな」
彼の声は、通路に反響して、静寂の中でかすかに響いた。
午後3時18分/ル・ミラージュ劇場・舞台裏通路
玲は懐中電灯を足元に向け、影をじっと見つめた。
「……これは、人間のサイズじゃない……」
小声でつぶやき、指先で足跡の形を辿る。
朱音が肩越しに身を乗り出す。
「誰か……ここに来たの?」
玲は首を振り、眉をひそめた。
「人間なら、もっと幅の広い靴跡になるはずだ。しかも、この方向──舞台の奥へ向かっている」
足跡を追うたびに、埃が微かに舞い上がる。
玲は息を整えながら、さらに奥へ進む。
「何かが……ここに残した痕だ。現実と幻想の境界が、薄くなっている」
朱音は小さく息を飲み、スケッチブックを抱きしめた。
「……また、“仮面の怪人”が?」
玲は答えず、懐中電灯の光を足跡に沿わせながら、通路の闇の奥へと進んだ。
午後3時22分/ル・ミラージュ劇場・舞台
玲は立ち止まり、天井を見上げた。
「……誰かが触ったのか、それとも自然の揺れか……」
朱音が小さく息をのむ。
「光が……揺れてる……」
照明の明かりは一瞬、舞台中央の古い仮面に反射し、薄い影を床に落とした。
玲はゆっくり歩を進めながら、声を潜めて言った。
「影の方向に注意だ。足跡も、この光の揺れも、何かの合図かもしれない」
舞台の奥に立つ仮面は、微かに光を受けて笑うような形に見えた。
朱音が指を差す。
「……あの仮面、動いた……?」
玲は首を傾げ、慎重に前へ進む。
「動いたのではない。だが、見る者の心に“動いた”と錯覚させる。舞台の魔力だ……」
カタン――と、再び小さな音が床を震わせ、二人は思わず息を止めた。
「……来るかもしれない、もうすぐ」
玲の声は低く、しかし確信を帯びていた。
午後3時45分/ル・ミラージュ劇場・舞台
照明がゆっくりと暗くなる。舞台の隅で埃が舞い、長い影が壁に落ちる。
玲は舞台中央に立ち、静かに息を整えた。
「幕が降りるとき、すべての隠された真実が姿を現す……」
朱音は小さくうなずき、スケッチブックを胸に抱えたまま背筋を伸ばす。
「わたしたち、見届けるんだね……」
舞台奥の仮面が、かすかに光を反射して微笑むように見えた。
玲は声を落として囁く。
「うん。この劇場で起きたこと、すべて……そして、あの“舞踏の怪人”の正体も、今夜、明かされる」
静寂が二人を包む。息遣いだけが、空気の中で淡く震えていた。
カタリ、と舞台袖で何かが落ちる音。
玲は瞬時に反応し、朱音の手をそっと握った。
「準備はできている。始めよう……」
暗闇の中、静かに幕が上がる。
午後3時52分/ル・ミラージュ劇場・舞台
「……これは……『死の舞踏』。遥が最後に踊った演目の……」朱音の声は震えていた。
玲は舞台奥の暗がりをじっと見つめ、低く言葉を落とす。
「……ああ。東雲遥の舞。ここで途絶えたものが、いま再び現れようとしている」
舞台の床にはかすかに、舞踏の軌跡を示す粉の跡。ヒールの音が、遠くで再生されるかのように響いた。
「でも……幽霊じゃない……よね?」朱音が小さな声で尋ねる。
玲は頷き、懐中電灯の光を足元に落とす。
「現実だ。ただし、誰も見たことのない“現実”。そして、これが全ての謎を解く鍵になる」
その瞬間、舞台中央で白い仮面がひとりでゆっくりと回転した。
「……始まったんだね、死の舞踏が……」朱音が息を飲む。
静寂の中、長い影が舞台を這うように揺れ、真実の幕が少しずつ開き始めた。
午後4時07分/ル・ミラージュ劇場・舞台裏控室
玲は机の前にしゃがみ込み、慎重に日記帳を手に取った。表紙は擦り切れ、指先にかすかな粉がつく。
「……これは、遥のものかもしれない」玲がつぶやくと、朱音はそっと覗き込む。
「どうして残ってたの……?」
玲はページをめくりながら、低い声で答えた。
「誰かが封じたかった記録。消えてはいけない真実だけが、ここに残されている」
朱音の目が、文字の間に浮かぶ淡い感情の跡を追った。
「……悲しい……だけじゃない。怒りも……希望も、全部残ってる」
玲は日記帳を抱きしめるように胸に近づけ、眉をひそめた。
「この記録が、今回の舞台の仕掛けを理解する鍵になる。全ての事故、全ての謎……解き明かさなければ」
控室の窓から差し込む午後の光が、埃とともに静かに舞い、二人の影を長く伸ばしていた。
午後4時15分/ル・ミラージュ劇場・舞台裏控室
朱音が小さな声でつぶやく。
「……永遠の舞台……死で始まる一幕……?」
玲は眉をひそめ、日記帳の文字を追った。
「彼女は、自分の消失を演出の一部として計画していた……かもしれない。事故に見せかけた舞台装置のように」
朱音はスケッチブックに向かって、無意識に手を動かす。
「でも、こんなこと……どうして誰も止められなかったの……?」
玲は静かに頭を振った。
「それが、人の心理というものだ。舞台の光に目を奪われ、仮面に惑わされ、誰も背後の真実を見ようとしなかった……」
控室に差し込む光が日記帳の紙面を黄金色に照らし、文字の影を床に落としている。
「この一節だけで、彼女の覚悟と孤独が手に取るようにわかる」
朱音は息をのんで、しばらくその文字を見つめていた。
「……私、描きたい。遥さんの舞台の最後を、ちゃんと」
玲はゆっくりと頷いた。
「描くことは、理解すること。そして伝えること。君ならできる」
午後4時30分/ル・ミラージュ劇場・舞台裏控室
玲は写真を手でなぞるように見つめ、低く呟いた。
「この劇場の中には、真実を覆い隠す影がまだ残っている……誰も知らぬまま、繰り返される悲劇のために」
朱音は小さく息を吸い込み、スケッチブックを抱きしめる。
「……でも、誰かが描けば、変えられるんじゃないの?」
玲は静かに頷き、壁の写真から目を離さずに言った。
「そうだ。記録し、描き、理解することでしか、過去は整理されない。そして、それが真の終幕への第一歩になる」
控室の埃が光の中で舞い、古い舞台衣装の影が長く伸びる。
「誰も見ていない場所で、歴史は息を潜めている……だが、今、私たちはそれを目撃している」
朱音はスケッチブックを開き、震える手で鉛筆を走らせた。
「……怪人の影も、描けば消えるかな……?」
玲は少し微笑み、そっと答える。
「消えるわけじゃない。けれど、形を変えることはできる。君の線で、真実を映すんだ」
午後4時45分/ル・ミラージュ劇場・舞台
玲は足音の方向へ、慎重に歩を進めた。
「……誰かが、まだここにいる」
朱音は肩越しに耳を澄ます。
「……バレエシューズ?本当に、人の足音だよね……?」
舞台の中央に差し込む光の中、薄い影が揺れる。
玲は息を潜め、低い声で囁いた。
「静かに……音を立てずに、観察するんだ。何が起こるか、確認する」
足音はゆっくりと舞台の奥から手前へ移動し、板の隙間に小さな振動を残す。
朱音は鉛筆を握りしめ、スケッチブックに影を写し取ろうとする。
「……まるで、幽霊みたい……」
玲は目を細め、影を追う。
「幽霊じゃない。舞台に刻まれた記憶が、形を借りて現れているだけだ……そして、私たちはそれを見届ける立場にいる」
その瞬間、舞台奥の古いカーテンが、風でもないのにわずかに揺れた。
朱音の肩が震える。
「……動いた……誰か、いる……?」
玲は静かに前屈みになり、手元の懐中電灯で影を照らした。
「確かめる時だ……」
玲は幕の下へと手をかけ、ゆっくりと押し開いた。
誰もいないはずの舞台の中央に、白いチュチュを思わせる布の欠片が、ふわりと落ちていた。
午後4時50分/ル・ミラージュ劇場・舞台
玲は布片にそっと手を伸ばし、指先で触れた。
「……人の体温は感じない。だが、この軽さ……舞踏の痕跡がまだ残っている」
朱音は息を詰め、スケッチブックを抱きしめたまま小声で呟く。
「……まるで誰かが、ここで踊っていたみたい……」
玲は布片を手に取り、舞台の床に広がる埃と擦れた跡を見つめる。
「この痕跡は、古いものではない。最近の足跡と同じ方向に残っている……誰かが、ここで踊った」
朱音の目が大きく開かれる。
「え、でも……誰もいないのに……」
玲は布片を握りしめながら低くつぶやいた。
「舞台はまだ、生きている……この館の記憶と共に。幽霊ではない。記憶の残響が、形を借りて現れているんだ」
そのとき、舞台奥の暗がりから、かすかに呼吸音のような微かな音が聞こえた。
朱音の肩が小さく震える。
「……誰かいる……」
玲は静かに息を整え、布片を胸に抱き、声を落として言った。
「見極めよう……この館の過去と、今、そして未来を」
午後4時55分/ル・ミラージュ劇場・舞台
朱音は息を呑み、目を大きく見開く。
「……幕が……動いた……」
玲は一歩踏み出し、舞台中央の布片をそっと床に置く。
「静かに……音を聞け。劇場は、まだ覚えている」
舞台の奥から、微かに床板を踏むリズムが響く。
まるで軽やかに回るバレリーナのステップ。
朱音は小さな声で囁いた。
「誰か……踊っているの……?」
玲は肩をすくめ、暗がりを見据える。
「姿は見えない……だが、足音が証明している。過去と今が、この舞台で交差している」
その瞬間、舞台袖の扉がかすかに揺れる。
「……誰もいないはずなのに」朱音の声は震えていた。
玲はゆっくりと頷き、低い声で告げる。
「これは始まりだ。廃墟ではなく、舞台として生きている証拠……目撃者は、俺たちだけではない」
舞台の隅から、白いチュチュの布片が風に揺れる。
まるで幽霊ではなく、記憶そのものが形を借りて現れたかのように――
劇場は、静かに、だが確かに息を吹き返した。
午後5時45分/ル・ミラージュ劇場・舞台
玲は思わず息をのんだ。舞台は埃にまみれたままだったが、セットはまるで時間を巻き戻したかのように鮮やかで、生きているかのように存在していた。大理石の模様を描いた床板、鏡を重ねた奥行き、そして天井から吊るされた白いカーテン……すべてが、《白い鏡》の幻想を再現していた。
朱音は小さく息を漏らした。
「……これ……誰が……?」
玲は手を伸ばし、セットの一部に触れた。冷たく、しかし異様なほどしっかりとした手触り。
「東雲遥の舞台……いや、誰かが再現したのかもしれない。でも、これだけ精巧に残っているのは異常だ」
舞台の中央には、白いチュチュの欠片がふわりと浮かぶように置かれていた。その周囲には、足跡や布の微かな跡も残され、まるで少女がついさっきまで踊っていたかのようだった。
背後から微かな声が響く。
「……見えるか?あの夜の影が、今もここにいる」
玲は振り返り、舞台袖の暗がりを見つめる。影は確かに、動いていた。光と影の間で、少女の姿が一瞬、浮かび上がる。
「……まさか、これは“演出”じゃない……」朱音が小声で呟く。
玲はその言葉に頷きながら、拳をぎゅっと握った。
「いや、これは始まりだ。《白い鏡》の真実を、今、解き明かす時が来たのだ」
午後5時47分/ル・ミラージュ劇場・舞台中央
舞台中央、先ほどまで無人だった場所に、白い仮面をつけた人物が立っていた。背筋を伸ばし、両腕をゆるやかに広げる。その姿は、まるで過去の悲劇を再現するかのようだった。
朱音が小さな声で呟く。
「……あの人、踊るの?」
玲は首を振る。
「踊るというより、記録されていた動きを再現している。38年前の“影”だ……東雲遥、そして彼女に関わった者たちの痕跡」
仮面の舞踏者は、音もなく床の上を踏みしめる。まるで舞台板そのものが彼女を導くかのように、静かに、しかし確かな存在感を放っていた。
朱音はスケッチブックを取り出し、手が震えながらページを開く。
「描かないと……忘れちゃう……」
玲はその背中を見つめ、静かに言う。
「記録すること。それが、真実を解き明かす鍵になる」
そして仮面の舞踏者は、静かに舞台を歩き始めた。過去と現在の境界が揺らぎ、劇場の空気が変わる――まさに“忘れられない夜”の幕開けだった。
午後6時03分/ル・ミラージュ劇場・舞台上
玲は沈黙のまま、ステージ上の割れた鏡のセットへと近づいた。そこには小さな文字で、何かが彫り込まれている。――“鏡の向こうに残された者は、もう一度、踊らねばならぬ。”
朱音が息をのむ。
「鏡……向こうに?どういう意味……?」
玲は指先で文字をなぞりながら、低く答える。
「過去と現在が交錯している。これは単なる舞台のセットではない……38年前の悲劇が、この劇場に記録され、再現されているんだ」
その瞬間、仮面舞踏者が動いた。足音はほとんどなく、床を滑るように進む。白いチュチュの裾が光を受けて揺れ、鏡に映る影が二重、三重に重なる。
朱音が小声で呟く。
「まるで……踊ってる……」
玲は眉をひそめ、ステージの端に置かれた古い脚立に目をやった。
「あの位置……38年前、遥が立っていた場所と同じだ。つまりこれは……“過去の再現”だ」
仮面舞踏者は鏡の前で一瞬止まり、腕を広げる。その動きは、38年前の舞踏の記録と完全に一致していた。床板のきしむ音、チュチュの擦れる音、そして鏡に映る自分自身の影が、過去と現在を同時に映し出している。
玲は朱音の手をそっと握った。
「見ろ、朱音。これが“舞台の記憶”だ。ここに残された者たち――私たちに何を伝えようとしているのか、最後まで目を離すな」
舞台の空気が一瞬凍るように静まり返り、そして、仮面舞踏者はゆっくりと踊りを再開した。過去の悲劇と現在の観測者が、ひとつの瞬間に重なり合う――“鏡の向こう”の記憶が、今、目の前で甦る。
朱音のスケッチブックが震え、鉛筆が紙の上で走り出す。
「描かないと……忘れちゃう……」
玲は頷きながら、自らの目で確かめ続けた。
「過去の再現、仮面舞踏者の謎、そして過去と現在の交錯……すべてが、この劇場に封じられていた。私たちはその証人だ」
舞台上に響く足音は、まるで時間の壁を打ち破るように、過去と現在の境界を曖昧にしていく。
午後6時15分/ル・ミラージュ劇場・舞台上
舞台の中央、仮面舞踏者の背後に立つ影が、ゆっくりと仮面を外した。その顔は、想像以上に静かで、しかし圧倒的な存在感を放っていた。
「……私の名は――藤堂 瑛司。」
朱音の瞳が大きく見開かれる。
「……えいじさん……生きていたの……?」
玲は低く、しかし確かな声で告げた。
「予想はしていた。しかし、ここで目の前に立つとは……。彼は38年前の事件の真実を知る唯一の存在だ」
藤堂はゆっくりと舞台を一周する。足取りは軽く、まるで過去と現在の時間を自在に行き来しているかのようだった。
「私は、あの夜のことを――ずっと、記録し、守り続けてきた。誰にも理解されず、誰にも信じられず……それでも舞台を閉じることはできなかった」
朱音が小さく息を呑む。
「ずっと……ずっと、ここに……?」
藤堂は頷き、視線を鏡の割れた部分に落とした。
「この劇場は、舞台の記憶を封じる場所だ。過去の悲劇、仮面舞踏者の苦悩、そして失われた命……すべてを、ここに留めたままにすることしかできなかった」
玲はステージの端に立ち、冷静に状況を整理する。
「だから、仮面舞踏者の踊りも、過去の再現も――あなた自身が仕組んだものなのか」
藤堂は微かに笑みを浮かべる。
「仕組んだ……とは言えない。私はただ、真実を映す舞台を守ってきただけだ。だが、これで終幕とする。過去の記憶は、もう観客を求めない」
朱音がそっとスケッチブックを開く。鉛筆の先が震えながら、舞台上の藤堂の姿を描き始めた。
「……描かないと、忘れちゃう……」
玲はその手元を見つめながら、静かに頷いた。
「これで、舞台は終わる。しかし記憶は、私たちの中に生き続ける……そして、この劇場も――」
藤堂は深く頭を下げ、舞台の中央で静かに立ち尽くす。
「さあ……幕を降ろそう。すべての真実とともに――」
午後6時22分/ル・ミラージュ劇場・舞台中央
藤堂の目は揺るがず、過去の闇を映すように静かに光っていた。
「二十年前、《仮面の舞姫》という台本を書き、舞台を演出した……」
その声は低く、しかし劇場の隅々まで響き渡った。
朱音が小さく息を飲む。
「……逃げたって……どういうこと?」
玲は舞台袖から一歩踏み出し、慎重に言葉を選んだ。
「“逃亡者”とは、あの夜、真実に向き合わず、目を背けた者のことだ。君の描く舞台の悲劇は――過去の誰かの決断と関係している」
藤堂はゆっくりと振り返り、舞台の隅に置かれた割れた鏡を見つめる。
「私は……舞台を守ろうとした。しかし、目を瞑った者たちのためではなかった。全ては、舞台そのもののため――そして、真実を知る者のためだ」
朱音が小さな声でつぶやく。
「でも……誰も救えなかったの?」
藤堂は首を振り、舞台の奥へゆっくりと歩みを進める。
「救う……とは何か。あの夜、私はすべてを見た。だが、行動を選べば、さらに多くの命を危険に晒すことになる。選べなかったのではない――選んだのだ。舞台と記憶を守る道を」
玲は拳を軽く握り、低い声で言った。
「それが“逃亡者”の定義かもしれない。だが、今、ここで真実が照らされる」
藤堂は静かにうなずき、舞台中央で仮面を手に取った。
「ならば、舞台は終幕へ……だが、真実の光は、ここで始まる――」
午後6時35分/ル・ミラージュ劇場・舞台中央
玲はゆっくりと舞台に足を踏み入れ、仮面舞踏者と向き合った。
「“彼女”とは……舞台上で命を落とした踊り子、《白い鏡》の主役・柚月真帆……ですね?」
玲の声は冷静だが、背後に控える朱音には緊張が伝わる。
藤堂は肩をすくめ、目の奥に一瞬、過去の影を宿した。
「……そうだ。あの夜、真帆は舞台で命を散らした。だが、それは単なる事故ではない。舞台の“真実”を守るため、彼女は最後まで踊り続けたのだ」
朱音の小さな手がスケッチブックを握りしめる。
「踊り続けた……って、どういうこと?」
藤堂は静かに語り始める。
「舞台上で、彼女は全てを知っていた。裏切り、陰謀、そして舞台を守るべき者たちの迷い。真帆は、それでも舞台を終わらせるため、自らの身を賭けた――それが《白い鏡》の“真の結末”だった」
玲は少し身を乗り出し、低く問いかける。
「そして、その結末は――今もこの劇場に“影”として残っていると?」
藤堂はゆっくり頷き、白い仮面を指先で軽く撫でる。
「そうだ。彼女の魂は、舞台と共に“生き続けている”。そして、今、再びその幕が上がろうとしている――」
朱音が小さく息を吐き、スケッチブックのページをめくる。
そこには、舞台の仮面と舞踏姿を描いた真帆のスケッチが、まるで動き出すかのように生き生きと描かれていた。
午後6時42分/ル・ミラージュ劇場・舞台中央
藤堂はポケットからそっと白と金の仮面を取り出した。光を受けて、優雅な装飾が微かに輝く。
「これは……かつて真帆が舞台で纏った仮面だ」
玲は一歩近づき、仮面に指先をかざす。冷たさと共に、何か凛とした気配が手のひらに伝わる。
朱音の目が大きく開かれた。
「……まほさんが、これを?」
藤堂は仮面を軽く掲げ、舞台上に影を落とす。
「そうだ。この仮面は、単なる装飾ではない。真帆の意志――舞台を守る決意そのものが宿っている」
玲は眉をひそめ、問いかける。
「それで、今ここに残る“影”と、仮面の関係は……?」
藤堂はゆっくりと頷く。
「仮面を纏った者の魂は、舞台の記憶と融合する。真帆の影は、過去と現在の境界で踊り続けている――その証として、仮面がここにあるのだ」
朱音はスケッチブックを抱きしめ、震える声でつぶやく。
「……私、描きたい。まほさんの踊りを、もう一度、ここで」
玲は静かに微笑む。
「なら、描きながら真実を見届けよう。舞台は、今――“再演”の準備が整った」
午後7時15分/ル・ミラージュ劇場・ロビー
幕が閉じた後の沈黙は、まるで劇場そのものが深呼吸をしているかのようだった。数十年もの時を経てなお、ル・ミラージュは“劇場”としての魂をどこかに宿している。
その沈黙を破ったのは、控えめな足音。長身で黒縁眼鏡をかけた男が、舞台袖からゆっくりと姿を現した。
「……やはり、ここは生きている」
玲はその声に振り返る。男は資料ケースを抱え、劇場の隅々を見渡すように歩く。
「私は舞台装置と音響の専門家、橘智也です。長年、この手の古い劇場の“記憶”を調べてきました」
橘は静かに口を開き、控えめだが確かな存在感を放つ。
朱音が小さく首を傾げる。
「“記憶”……って、どういうこと?」
橘は笑みを浮かべずに、舞台上を指差した。
「この劇場の木材、金属、照明器具……すべてが、過去の舞台の情報を保持しているんです。脚本や役者の動き、舞台の空気感さえも、微細な振動や埃に刻まれている。私はそれを読み解き、“過去の再現”を可能にする技術を扱っている」
玲は深く頷き、朱音の肩に手を置いた。
「つまり、私たちが今見るものは、単なる舞台セットではない。過去の“真帆の踊り”や、“事件の真相”が、この空間に残されているということか」
橘は慎重に仮面を手に取り、光にかざした。
「ええ。この仮面もまた、舞台の記憶を保持する“触媒”です。正しく扱えば、真帆の意志と動きを読み取ることができます」
朱音はスケッチブックを開き、静かに筆を握った。
「……描きたい。まほさんの踊りを、もう一度、この目で確かめながら」
玲は静かにうなずく。
「なら、今夜、劇場の記憶に耳を傾けよう。舞台は再び、命を吹き込まれる――私たちがその立会人だ」
午後7時22分/ル・ミラージュ劇場・舞台
朱音は立ち上がり、舞台を見つめた。
「じゃあ……“舞踏の怪人”って、本当は――」
玲は静かに首を振り、舞台の奥を指差した。
「伝説や噂の怪人は、現実に存在したわけではない。けれど、舞台に刻まれた記憶が、観る者に“存在感”として現れることがある」
橘が補足する。
「正確には、舞台の振動や照明、衣装の配置といった物理的情報が、人間の心理に映像として現れるのです。過去の出来事が、感覚として“蘇る”」
朱音は小さく息をつき、スケッチブックを抱きしめた。
「……つまり、怪人は誰かじゃなくて、舞台そのものが作り出していた幻影ってこと?」
玲は頷いた。
「そうだ。人の心に残った恐怖や憧れ、悲しみ……すべてが形を変え、舞台上に“怪人”を生み出す。それを見間違えた者たちが、噂として広めたんだ」
朱音は舞台に近づき、指先で落ちた仮面に触れた。
「でも……それなら、真帆さんの踊りや想いも、今ならわかるの?」
橘は微かに笑みを浮かべた。
「正しく記録を読み取り、舞台と向き合えば、彼女の残した意志や感情は、確かに感じられる。さあ、君たちも立会人として、もう一度幕を開ける準備を」
玲は深く息を吸い込み、朱音の手を取った。
「舞台は再び動き出す。過去と現在、そして私たちの目の前で――」
朱音の瞳が光を帯びた。
「……真帆さんの、踊りを見せて」
午後8時05分/ル・ミラージュ劇場・玄関前
廃劇場「ル・ミラージュ」の扉が静かに閉まる。
それは一つの物語の幕引きであり、
そして、別の物語が始まる静かな合図でもあった。
朱音は扉に手を触れ、低く囁く。
「……さよなら、ル・ミラージュ」
玲は背後からそっと頷き、深呼吸を一つ。
「さあ、次の幕を待つのは私たち自身だ。舞台は、ここで終わったわけじゃない」
遠くで蝉の声が、夏の夜空に淡く響いた。
街灯の明かりが濡れた舗道を照らし、ふたりの影がゆっくりと伸びていく。
朱音はスケッチブックを抱きしめ、微かに笑みを浮かべた。
「……次は、どんな物語が生まれるんだろうね」
玲は静かに笑みを返した。
「過去と現在、そして未来――すべては、舞台の一部だ」
夜風が通り抜け、廃劇場の壁に残る埃をふわりと揺らす。
消えた光と影の余韻は、静かに、しかし確かに――次の物語を待っていた。
午前8時20分/山間のロッジ・リビング
神崎玲はカップを置き、窓越しに朱音を見つめた。
「絵は進んでるか?」
朱音は振り返り、少し照れたように笑った。
「うん……でも、まだうまく描けない。森の光と影が、どんどん変わっちゃうの」
玲は頷き、静かに言った。
「光と影の関係を描くことは、過去と未来を描くことに似ている。焦らなくていい」
朱音は再びスケッチブックに向かい、慎重に線を重ねていく。
外の蝉の声と木漏れ日が、二人を包むように穏やかに揺れていた。
玲はふと、窓の外の木立に目をやる。
「自然の中で描くことは、人の心の奥にあるものを映す鏡だ。君の描く線は、過去の影を照らす灯火にもなる」
朱音は筆を止め、小さな声で呟く。
「……過去の影……?」
玲は微笑みを浮かべ、静かに応えた。
「そう。誰もが忘れたいもの、見たくないもの。でも、それを認めて初めて、未来に進める」
ロッジの静かな朝は、時間の流れを忘れさせるほどに穏やかで、
しかし、朱音の線には確かに――昨日までの事件の余韻が、そっと染み込んでいた。
午前10時/山間のロッジ・書斎
朱音の手元には、薄く折りたたまれた便箋があった。封を切ると、整った文字でこう綴られている。
「玲さんへ
あの劇場の日から、まだ数日ですが、不思議と何年も経ったような気がしています。
舞台の光、影、そしてあの静寂……すべてが心の奥底に残っています。
人は『舞台』を降りたあと、本当に自分の人生を演じ始めるのかもしれません。
過去の出来事を背負いながらも、私たちは一歩ずつ、誰も知らない新しい物語を紡いでいくのだと思います。
玲さん、あなたが見せてくれた冷静な判断と温かい眼差しに、深く感謝しています。
これからもどうか、あなた自身の舞台を、恐れずに歩んでください。華」
朱音は便箋を胸に抱き、窓の外の木立を見つめた。
蝉の声が小さく響く朝、光はゆっくりと部屋の隅まで差し込み、手紙の文字を淡く照らしていた。
午後4時12分/山間のロッジ・テラス
午後の陽が傾き、木々の影がゆっくりと伸びていく。
玲はテラスの椅子に腰掛け、手にしたカップから立ちのぼる紅茶の香りを静かに吸い込んだ。
風が通り抜け、カーテンの端をそっと揺らす。遠くでは朱音の笑い声が聞こえ、ロッジには穏やかな時間が流れていた。
「……終わった、はずなんだけどね」
玲は独りごとのように呟く。
事件は幕を閉じた。
仮面の舞踏者の影も、廃劇場の秘密も、ひとまず過去へと沈んだ。
だが――。
ポケットの中に入れたままの、小さな“あの仮面”の欠片が、指先に触れるたびに玲の胸に微かな重みを残していた。
背後から、軽い足音が近づく。
「れいさーん! 夕ごはん、できたって!」
朱音が元気な声で呼びかける。
陽を浴びた髪が金色に揺れ、その姿はあの廃劇場の静寂とはまるで別の世界のようだった。
「……うん、行こう」
玲は立ち上がり、朱音に歩み寄る。
だが一歩踏み出したところで、ふと視線を遠い山並みへ戻した。
――その瞬間。
山の影の向こう、沈みかけた陽光の中に
“白い布のようなものがひらりと揺れる”のが見えた。
まるで、誰かが踊るように。
玲は目を細める。
(……気のせい、か)
朱音が小首をかしげて見上げた。
「玲さん?」
「……ううん。なんでもないよ」
二人はロッジの中へ戻っていく。
テラスには、紅茶の残り香と、夏の風だけが残された。
そして遠く――
木々の間に紛れるように、白い仮面がほんの一瞬、わずかに揺れて消えた。
まるで、
“幕の降りた舞台の向こう側で、次の演目が静かに準備されている”かのように。
後日談/午後4時12分・市立文化会館・旧楽屋前
藤堂華は、深く息を吸い込んだ。
鏡前に立つ自分の姿は、どこかまだ震えている。
けれど、その震えは恐怖ではなかった。
――覚悟に似たものだった。
割れた仮面の片割れが、小道具用ワゴンの上にひっそりと置かれている。
白い曲線はまだ美しく、割れ目だけが静かに、長い時間を語っていた。
華は指先でそっと触れ、すぐに手を引いた。
冷たい。
だが、もう“怯える冷たさ”ではなかった。
「……お母さんも、こうして鏡の前に立っていたのかな」
呟きは小さく、鏡の内側に吸い込まれていく。
反射した自分の瞳は、どこか以前より強かった。
背後から、古い扉の軋む音。
「決心、ついたようだな」
静かな声。
振り返ると、藤堂瑛司――華の父であり、かつて《仮面の舞姫》を演出した男が立っていた。
「……まだ怖いよ。でも逃げない。舞台は、“真実から逃げた人”を許してくれないから」
瑛司はゆっくり歩み寄り、割れた仮面を見つめた。
その横顔には、やり直しの余地を探すような痛みが宿っている。
「華。お前が背負う必要のない罪もある。だが――」
「ううん、これは“私が選んだ役”なんだと思う。
あの夜、玲さんたちが見せてくれたの……
舞台は終わっても、人は続けられるって」
その言葉に、瑛司は静かに目を細めた。
「……強くなったな」
華は照れたように微笑む。
その笑みは、失われた母の面影と重なるようでもあった。
ふと、華は割れた仮面を両手で包み込む。
「これは……ここに置いていく。
これ以上、舞台に“過去の影”を連れていかないために」
「そうか」
二人の間を、夕陽が黄金色に照らした。
楽屋の埃を舞い上げる光は、まるで新しい幕を開ける合図のようだった。
華は鏡に向き直る。
舞台に立つ者の目になっていた。
「じゃあ……行ってくるね」
「……ああ。見届けさせてもらう」
鏡の前の少女は、もう迷っていなかった。
割れた仮面は静かにそこに残り、
まるで“役目を終えた小道具”のように――ただ静かに、時の流れへと溶けていく。
その瞬間、華の物語はようやく幕を上げた。
【後日談】
〈場所:海辺の街・相良恭介のアトリエ/時間:午後3時12分〉
静かな海辺の街。
白い砂浜をなでる潮風が、開け放たれた窓からアトリエへ流れ込む。
相良恭介――かつて白鳥薫と名乗った男――は、陽光に照らされた画布の前で筆を握っていた。
絵の中には、薄闇に浮かび上がる舞台。
ひらりと揺れる白いチュチュ。
そして、光を反射する割れた鏡。
まるで“あの劇場”の残響を、絵の中に封じ込めようとしているかのようだった。
筆先を止めた恭介は、静かに息を吐いた。
「……遥、真帆。
お前たちの物語は、もう誰にも歪めさせない。
俺もようやく……描けるよ。自分の人生を」
机の隅には一通の手紙が置かれている。
《神崎玲 様》――丁寧な字でそう書かれた封筒。
恭介はそれに一瞥を送り、微かに微笑んだ。
「玲さん。あんたが“幕”を上げてくれた。
だから俺は、もう逃げない」
波の音が遠くで砕ける。
そのリズムに合わせるように、恭介は再び筆を動かし始めた。
彼の描く《白い鏡》は、過去を映すためではなく――
未来のために存在する絵へと変わっていく。
かすかに、割れた仮面の残片が光を返した。
それはもう、怨念でも呪いでもなく。
“ひとつの舞台が終わり、新しい人生が始まった”
――そんな静かな祝福の色に見えた。
日時:現在/場所:玲探偵事務所・応接スペース
電話のベルが短く二度鳴った。
玲は書類から顔を上げ、受話器を取った。
「――玲?」
奈々の声は、普段の落ち着きとは違い、どこか急いていた。
玲は眉を寄せる。
「奈々か。どうした?」
《外、出られる? 至急なんだけど……》
少し息を整えるような気配がしたあと、奈々が続ける。
《……“あれ”の続きが、動き始めたかもしれない》
玲は一瞬だけ沈黙し、机上の古い舞台写真に視線を落とした。
ル・ミラージュ廃劇場――あの夜の残響が、胸の奥で再び軋む。
「場所は?」
《旧市街の方。……あなたにだけ、先に伝えておきたかった》
奈々の声がわずかに揺れた。
それを感じ取った玲は、静かに立ち上がる。
「すぐ行く」
《……ありがとう、玲》
受話器を置いた瞬間、事務所の空気がわずかに変わった。
静寂の奥に、再び幕が上がる音が、確かに聞こえた気がした。
玲はコートを掴み、扉へ向かいながら思う。
――まだ終わっていない。
あの劇場で取り逃した“真実”は、今もどこかで踊り続けている。
そして、次の幕が始まる。
【後日談】
《場所:山道を走る車内/時間:夕暮れ》
オレンジ色の陽光がフロントガラスを斜めに照らし、長い影を車内へと落としていた。
ハンドルを握る玲の横で、朱音は膝の上にスケッチブックを置き、ゆっくりとページをめくっていた。
「……玲さん」
朱音が小さく呼びかける。
夕暮れの光が、彼女の横顔を柔らかく縁取った。
「ん?」
玲は視線を前に向けたまま答える。
「劇場のこと……全部終わったはずなのに、なんだかまだ“続き”があるみたいな感じがするの」
朱音の声は不安というより、どこか期待に似た揺らぎを含んでいた。
「続きは、きっとあるさ」
玲は静かに言った。
「人が生きてる限り、どんな事件も“終わり”じゃなくて“区切り”だ。幕が降りても、次の幕が上がる。そういうものだ」
朱音は少し笑って、その言葉を胸の中で転がすようにして呟いた。
「……第二幕だね」
「そういうことだ」
車は緩やかなカーブを抜け、濃い木立の影から抜け出す。
眼下には街の灯りが少しずつ点り始め、まるで遠くの舞台に並ぶ小さなスポットライトのように見えた。
「玲さん、次は……どんな“舞台”になるのかな」
「さあな」
玲は微笑を含んだ声で返す。
「ただ――俺たちが歩く場所が舞台になるなら、どんな幕でも悪くない」
朱音はその言葉に安心したように頷き、スケッチブックを閉じた。
車は静かに山道を下りていく。
どこかで、ひとつの幕が確かに降りた。
だが同時に――別の舞台では、新しい幕が、静かに、確かに上がろうとしていた。
その物語の始まりを、二人はまだ知らない。
場所:玲探偵事務所・応接室
時間:午後4時12分
玲は、薄い雲越しの光が差し込む応接室で、静かに資料を閉じた。
机の上には整然と並んだファイルの束――
《ル・ミラージュ廃劇場調査・最終記録》
その一番上に、藤堂華の手紙がそっと置かれている。
紙の端には、折りたたまれた跡が残っていた。
彼女がどれだけ迷い、どれほど言葉を選んだかが伝わってくる。
玲が深く息を吸い、椅子にもたれた瞬間――
――プルルル……プルルル……
電話が鳴り、静寂を破った。
玲は受話器を取り、耳に当てる。
「……はい、玲探偵事務所」
すぐに、軽やかだがどこか緊張を孕んだ声が返った。
「玲、ちょっといい?
今、例の“破れた台本”の調査……一つ、進展があった」
奈々の声だった。
呼び捨ての呼び方で、彼女が本題に入る構えをしているのがすぐにわかる。
玲は姿勢を正し、静かに応じる。
「……聞こう。何がわかった?」
電話の向こうで、書類のめくれる音が小さく響く。
「藤堂瑛司が使ってたタイプライター……覚えてる?
あれ、彼のものじゃない」
「……どういう意味だ?」
奈々の声が、わずかに低くなった。
「型番は1987年製だけど、打刻のクセが違うの。
“瑛司が書いたはずの台本”には、彼の打刻特徴がまったく出ていない。
つまり――」
玲は息を呑んだ。
奈々がはっきりと言った。
「《仮面の舞姫》を書いたのは、藤堂瑛司じゃない。
――別の誰か」
応接室の空気が、音もなく沈んだ。
玲はゆっくりと受話器を握り直す。
「奈々……その“別の誰か”。
心当たりは?」
奈々は一拍だけ沈黙し、その後静かに名を告げた。
「――東雲遥。
もしくは……彼女の“影”よ」
玲の瞳がわずかに揺れる。
事件は終わったはずだった。
しかし、廃劇場が孕んでいた“もうひとつの真実”が――
今になって、再び首をもたげようとしている。
「奈々。すぐに詳しい報告を聞かせてもらう。
事務所に来られるか?」
「もちろん。玲の顔も見たいしね」
「……それは報告のついでじゃないのか?」
電話の向こうで、奈々が少し笑った。
「どっちでもいいでしょ。
すぐ行くから、ちゃんと紅茶入れて待っててよ、玲」
通話が切れた。
玲は受話器をそっと置くと、机の上の手紙へ目を落とす。
藤堂華の最後の一文――
《真実を照らすのは、いつだって舞台の外にいる“観客”です》
その意味が、今ようやくわかり始めていた。
玲は静かに立ち上がり、紅茶の準備を始めた。
新しい幕が、確かに上がろうとしていた。
朱音と玲の後日談
時間:午後3時すぎ
場所:玲の事務所・応接室
朱音は静かに息をつき、スケッチブックを閉じる。
「……玲、見て。あの蝶、まるで舞台の仮面みたいだね」
玲は書類の束から顔を上げ、窓の外の庭を見やる。
「……ああ、確かに似ているな」
彼の声は低く、しかしどこか柔らかさを帯びていた。
朱音は窓辺の椅子から立ち上がり、そっと庭に目をやる。
「舞台も蝶も、もう逃げないのかな」
玲は静かにうなずく。
「そうだな。もう、終わったんだ」
沈黙の中、二人の間には劇場での記憶と、白い仮面の影がふわりと残っていた。
午後の光がゆっくりと室内を満たし、静かに一日を閉じていく。
時間:午前10時
場所:廃劇場「ル・ミラージュ」前
玲は工事用フェンスの外から、静かに建物を見上げていた。
「……もう、この場所も、記憶の中だけだな」
朱音は手にスケッチブックを抱え、少し離れたところで足を止める。
「でも、舞台幕や装飾は資料館に行くんだよね。そうすれば、誰かが覚えていてくれる」
玲は頷き、遠くで重機が壁を崩す音を聞いた。
「そうだ。人の記憶だけじゃなく、形としても残る。これが、彼女たちの舞台の最後の証だ」
朱音は目を細め、遠くの資料館の方向を見つめる。
「……うん。私も、描き続けよう」
二人の間に静かな決意が流れ、夏の空気が廃劇場の瓦礫に反射して、やわらかく光った。
この物語を書き終えて、私は改めて「舞台」と「人生」の共通点について考えました。舞台は限られた時間と空間の中で、全ての登場人物の思惑と行動が交錯する。人生もまた、誰も台本を持たずに演じる“舞台”なのかもしれません。
ル・ミラージュの廃劇場は、物理的には朽ち果てましたが、その内部に残る光と影、仮面の微笑みは、きっと記憶の中で永遠に生き続けるでしょう。藤堂華、神崎玲、朱音、そして“舞踏の怪人”――彼らが交わした時間の痕跡は、読者の心にも静かに残ることを願っています。
物語の終わりは、新たな始まりの始まりでもあります。誰も知らない舞台が、これからもどこかで上演され続ける。仮面をつけた踊り子が再び現れるかもしれません。それは、過去を清算するための舞踏であり、未来への希望でもあるのです。
読んでくださった皆さまに、心からの感謝を。
――藤堂 華




