62話 七夕幻想 ―終演のない夜の証言―
登場人物紹介
神崎 玲
民間探偵。冷静沈着で観察眼に優れる。沙理の残した事件の記録と記憶の断片を解き明かす役割を担う。旧講堂や演劇部の事件に最も近い位置で真実に迫る。
佐々木 朱音
中学生の少女。無邪気さと直感力を併せ持ち、スケッチブックに描く絵が事件の手がかりとなる。玲と協力し、事件の“目撃者”として行動する。
沙耶
朱音の保護者的存在。娘を守ると同時に玲たちのサポートを行う。鋭い直感で事件の重要ポイントを見抜く。
霧島 沙理
13年前の演劇部員。脚本『七夕幻想』を遺し、舞台事故により姿を消す。台本や稽古記録を通して、事件の真相とメッセージを後世に残す。
霧島 あゆみ
演劇部の部員。沙理の計画を知る数少ない人物。過去の事件に関わる証言者として、現在に現れる。
時任 昴
当時演劇部三年生で演出責任者。沙理の才能を信じながらも、事故や事件の一部を隠蔽した過去を持つ。現在は独房にて自身の選択を回想する。
香山 圭三
学園外から遠隔監視を行う人物。旧講堂の映像や舞台装置の動きを監視し、事件の全体像を把握している。
白石 拓也
かつて劇団スタッフを務めた男性。舞台裏で殺害され、火災による死が偽装された被害者。
風間 達也
かつての演劇部員で“副部長”役。過去の事件で犠牲となった人物の一人。
三上 悠真
舞台の照明担当。事件の記録から消された理由が後に明かされる。
奈々(なな)
玲の助手。情報解析や端末操作で現場をサポート。危険な局面での判断力に優れる。
【2025年7月7日(月) 午後7時07分】
暁明学園・旧校舎 正門前
星は、まだ雲の向こうに隠れていた。
七夕の夜。だが、天の川を仰げる空ではなかった。
夏の湿った空気に混じる微かな草の香りが、古びた木製の正門にまとわりついている。
門の向こう、錆びたフェンスの隙間からは、使われなくなった校舎の影がぼんやりと浮かび上がっていた。
静寂が重く、時折、遠くから蝉の声が途切れ途切れに聞こえてくるだけだ。
風がわずかに揺らしたのは、祭壇に置かれた小さな笹飾りの短冊。
願いはまだ、誰の目にも届かない。
人影はない。
ただ、夜の闇がじわりと深まっていく中で、何かが動き出そうとしている気配だけが、ここにあった。
【2025年7月7日(月) 午後7時35分】
暁明学園・旧講堂
講堂の扉は、わずかに開いていた。
玲が手をかけると、長年使われていなかった蝶番がきしみ、鈍く音を立てて開いた。
埃っぽい空気が一気に流れ込む。壁のペンキは剥がれ落ち、床には薄く埃が積もっている。
ステージ上には色あせた幕が垂れ下がり、かつての賑わいを今に伝えていた。
中央の座席は朽ち果て、数脚が倒れている。だが、正面の壁際に何か不自然な影があった。
玲は懐中電灯の光をゆっくりと向けた。そこには、ひとつの「吊るされた短冊」が揺れていた。
“願い”は、あの日の悲劇と深く結びついている。
これから始まる、終わらない夜の物語の序章が、静かに幕を開けた。
ライトの光が天井を照らす。そこに、吊られていた。
首を吊った女子生徒の死体が静かに揺れている。制服のままだが、両手は前でしっかりと結ばれていた。
縄の先は巧みに舞台装置の滑車に通され、講堂の天井に設置された照明の足場まで引き上げられている。
まるで人形のように、無機質に吊られたその姿は、ただの事故とは到底思えなかった。
鈍い風が開いた扉の隙間から入り込み、死体の周囲の埃をわずかに舞い上げた。
静寂の中に漂う異様な緊張感。
その死体の下には、くしゃりと丸められた紙片が一枚落ちているのが見えた。
血の気の引いた玲は慎重にそれを拾い上げた。
そこには、朱色のインクでこう書かれていた——
「吊るされた願い、解かれぬ過去の呪縛」
【同日 午後7時50分】
講堂裏・舞台袖控室
部屋には長年の埃が厚く積もっていた。十年以上も使われていないため、空気は重く淀んでいる。
しかし、机の引き出しだけは不自然にきれいだった。
そこには、古びたスクラップブックが無造作に置かれている。
ページをめくると、そこには過去の学校行事の写真や、切り抜かれた新聞記事、そして何より、何枚もの手書きのメモが貼られていた。
その中の一枚に、はっきりと「吊るされた願い」と記された文字があった。
スクラップブックには、この講堂でかつて起きた“ある事件”の詳細が綴られているようだった。
玲は深く息をつき、ゆっくりとスクラップブックを抱え上げた。
この場所に眠る過去の記憶が、今、確かに動き始めている。
玲の手元に残された封筒の中から、一枚の写真が顔を出した。
それは薄暗い音楽室の一角を捉えたものだった。
埃をかぶったピアノの上に、一本のキャンドルが灯っている。
壁には古びた五線譜が貼られ、薄く消えかけた文字で「終わらない合唱」と書かれていた。
窓の外からは夕暮れの赤い光が差し込み、まるで誰かがそこにいるかのように不気味な気配を漂わせている。
写真の隅には小さく「第二景―音楽室の亡霊」と記されていた。
玲は視線を写真から外し、深く息をついた。
次に起きる“景”が、ただの迷信や伝説ではないことを示す証拠が、確かにここにある。
【同日 午後8時10分】
旧校舎・音楽室前
扉はひんやりと冷たく、錆びついた取っ手を押し開けると、音楽室の空気が静かに流れ込んできた。
部屋の中央には古びたアップライトピアノが据えられている。
玲が一歩踏み入れたその瞬間、誰も触れていないはずの鍵盤から、低く震えるような一音が響き渡った。
薄暗い部屋の隅には、埃に埋もれた五線譜が散らばっていた。
そこに記されていたのは、途中で途切れた未完成の合唱曲――まるで「終わらない合唱」を象徴するかのように。
玲はそっと譜面を拾い上げ、指先でなぞる。
この曲には、この音楽室にまつわるもう一つの“景”が隠されている。
外からは旧校舎の廊下に響く足音が近づき、何かが動き出す予感が部屋を包んだ。
玲は目を細め、薄暗い音楽室の中で譜面を見つめた。
「これは、次の“誘い”か……」
静かに呟く声には、重みと覚悟が宿っていた。
未完成の合唱曲は、ただの曲ではない。
過去の痛みや秘密を呼び覚まし、一人ひとりを呪縛へと誘う道標だと玲は直感した。
「……一人ずつ、過去の呪いをなぞらせるつもりか」
背後から遠く、旧校舎の冷たい風が吹き込んだ。
それはまるで、この場所に残された忘れられた悲劇が再び動き出す合図のようだった。
【2025年7月7日(月) 午後8時18分】
暁明学園・旧校舎 音楽室
天井の照明がちらつき、不安定な光が揺れる中、音楽室の中央に横たわっていたのは、生徒会副会長・日下部葵の遺体だった。
制服は乱れ、表情は硬直し、目は虚ろに空を見つめている。まるで、助けを求めることすら叶わなかったかのように。
葵の両手は背中で縛られており、その姿はまるで“沈黙の抵抗”を象徴しているかのようだった。
部屋の隅には、古びた五線譜が無造作に置かれていた。ページは一部破れており、そこには未完成の合唱曲の断片が記されていた。
その五線譜は、まるで葵の死と深く結びついているかのように、冷たい空気の中で静かに語りかけてきた。
玲は息を呑み、手袋越しに遺体のそばに落ちていた小さな紙切れを拾い上げた。そこには、次なる“景”の名がひっそりと記されていた。
「鏡の階段──か」
音楽室の扉の外、夜の旧校舎は、すでに深い闇に包まれていた。
【2025年7月7日(月) 午後8時45分】
暁明学園・旧校舎 旧職員室・壁のアルバム棚前
室内には、過去の時間だけが沈殿していた。
古びたロッカー、引き出しの壊れた教師机、そして壁一面を覆うように並ぶアルバム棚。生徒たちの笑顔が並ぶその重みに、かつてこの部屋が担っていた日常の残滓が滲んでいる。
しかし──
玲は、立ち止まった。指先が一冊のアルバムの背表紙をそっと撫でる。
「……この年だけ、ない」
2013年。旧校舎が最後に使われた年の記録が、棚から抜け落ちていた。前後の年度のアルバムはある。だが、その年だけごっそりと、痕跡すらなく消えている。
そして、棚の隅。そこにだけ、埃が不自然に払われた跡があった。誰かが最近、そこを探った形跡──いや、「何か」を持ち去った痕だ。
玲は眉をひそめる。
「“第三景”──『鏡の階段』。……これは、“過去を封じた階段”のことか」
窓の外には、月の光も届かない。
校舎を包む静寂が、次の“記憶の扉”が開かれる時を待っているようだった。
【2025年7月7日(月) 午後9時10分】
暁明学園・旧校舎 正面玄関
開かない。
古びた扉に手をかけ、力を込めても、わずかに軋むだけでビクともしない。錆びた蝶番の問題ではない。内側から何かで固定されているような、そんな感触だった。
「閉じ込められた……?」
玲の言葉に、同行していた沙耶が青ざめる。
「でも、さっきまでは……開いてたはずだよね?」
確かに、夕方入った時には扉は開いていた。鍵もなかった。だが今は、まるで校舎そのものが“外へ出ること”を拒んでいるようだ。
風が一陣、外から吹いた。だがその風の音も、重苦しい校舎内ではまるで届かない。
玲はポケットから古い写真──“第二景”の写真の裏に書かれた手書きの走り書きを取り出した。
> 「夜の帳が下りし時、出口は閉ざされ、記憶は再演される」
ただの演出、そう思いたかった。だが、講堂、音楽室、そして次に示された「鏡の階段」──すべてが“再現”されている。まるで何者かの手によって。
「これは、“夜の封鎖”……七不思議の一つ、“誰も出られない夜”か」
沙耶が怯えたように背後を振り返った。
「玲……、もしこのまま朝まで閉じ込められたら……次は、誰が……」
玲は無言で、校舎の奥を見つめた。
そこにはまだ、“再演されていない過去”が、ひっそりと潜んでいる気配があった。
──夜はまだ、終わらない。
そして、過去の記憶もまた。
◆背景設定:13年前──2012年7月7日(七夕)
舞台:暁明学園 旧校舎(当時は現役の校舎)
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2012年──日本社会が変わりゆく大きな節目の年だった。
スマートフォンが若者たちの間に一気に普及し、LINEやTwitterといったSNSが日常的なコミュニケーションツールとして定着し始めた時代。それは同時に、教室という空間に留まらず、“目に見えない場所”でのいじめが日常化していくことを意味していた。
直接的な暴力や言葉による攻撃だけでなく、既読無視、スクリーンショットによる晒し、秘密のグループチャットでの陰口や排除。教室では笑顔を向けながら、スマホの向こうで人格を否定する──そんな二重構造が、「いじめ」の概念をより複雑で陰湿なものへと変えていった。
暁明学園も例外ではなかった。
旧校舎には当時、**演劇部の中心メンバーだった少女・星野沙理**がいた。沙理は繊細で、表現に対して強いこだわりを持つ一方で、人間関係には不器用だった。彼女の脚本は独特で美しく、時に教師すら唸らせるものだったが、同年代の一部の生徒たちには「気取り屋」と受け取られ、距離を置かれていった。
部内での対立、部活外での陰口、匿名のアカウントによる彼女への中傷──沙理は、それらに対して声を上げなかった。ただ、彼女の脚本と“未完成の歌”の中に、痛ましいまでの感情を込めて残していた。
やがて、**七夕の夜に起きた“ある出来事”**がきっかけで、沙理は突如として消息を絶った。校内では“転校した”とだけ語られたが、彼女の記録はいつの間にか削除され、クラスの集合写真からも消されていた。
それは、忘却という名の暴力だった。
以来、暁明学園の旧校舎には「七不思議」が囁かれるようになった。
・講堂に吊るされた“願い”が叶う代わりに、何かが失われる。
・音楽室では、誰もいないはずのピアノが深夜に鳴る。
・図書室の一番奥の棚の“消えたページ”に触れると……。
・演劇部の“最後の脚本”は誰も読んではならない……。
──それらの根には、ただの怪談ではない、“誰かが忘れてはいけない過去”があった。
2012年の七夕に閉じられた「ある事件」は、13年の時を経て再び開かれようとしている。
そして、再演される“七つの景”が、一人、また一人と、過去の亡霊を現実へと引きずり出す。
【2012年7月7日(土) 午後9時20分】
暁明学園・講堂 裏舞台
蝉の鳴き声が途切れ、風が止んだ。
講堂裏の舞台袖には、まだ照明の余熱がこもっている。文化祭直前の準備で、いくつかの班は遅くまで残っていた。演劇部もその一つだ。
午後9時を回り、人影は次第に減っていたが、裏舞台の奥では一人の生徒が戻ってこなかった。
──星野 沙理。演劇部所属、二年生。
美術セットの確認と照明の打ち合わせのため、一人で裏手の照明操作室に行ったまま、戻らなかった。
彼女を探して舞台裏へ足を踏み入れた後輩の女子が、最初に見たのは“影”だった。
天井の梁から吊るされたその影は、ロープを伝ってゆらゆらと揺れ、照明の支柱に通された滑車の先で、静止していた。
制服のまま、両手は胸の前で結ばれ、口元にはうっすらと微笑みのような痕跡があった。
絶叫。後ずさり。飛び出す足音。
それが、事件の始まりだった。
警察による初動では「自殺」とされた。沙理は“孤立していた”とされ、部活動でも思いつめた様子があったという証言が残されている。
しかし──
・ロープは講堂舞台の舞台装置用滑車に通され、引き上げられていた
・彼女の手は、後ろ手ではなく前で結ばれていた
・舞台裏の扉には鍵がかかっておらず、外部侵入の痕跡もなかった
“あまりにも整いすぎた死”だった。
事件はすぐに学校と教育委員会により封鎖され、生徒には「不慮の事故」として処理された。
その後、文化祭は中止。暁明学園の講堂は立入禁止区域となり、数か月後、旧校舎ごと閉鎖された。
沙理の死には、“何かが隠されている”。
それは誰もが感じていたはずだった。
しかし、七夕の夜、あの時、誰が裏舞台にいたのか──それを証言した者は、一人もいなかった。
こうして、「七不思議」最初の原型となる──**第一景『吊るされた願い』**が、語られ始める。
①【新聞記事風】(地域新聞「北辰日報」夕刊)
2012年7月8日発行
《女子生徒、校内で自殺か 暁明学園で七夕の夜に》
【暁町】7日午後9時過ぎ、私立暁明学園の講堂内で、演劇部に所属する2年生の女子生徒(17)が首を吊った状態で発見された。
発見したのは演劇部の同級生らで、七夕公演の準備中だったという。
近くに遺書のようなメモは見つかっていないが、警察は状況から自殺とみて調べている。
学校関係者によると、生徒は温厚で成績も優秀だったが、ここ数日様子がふさぎ込んでいたとの証言もある。
同校では、事件を受けて全校生徒へのカウンセリング対応を行う方針を発表。保護者向けに説明会が開かれる予定。
②【学校新聞風】(暁明学園新聞部 発行・2012年9月号)
《演劇部・星野さんの死去について》
本校演劇部の2年生、星野沙理さんが7月に学内で亡くなった件について、多くの声を受け、新聞部としても特集を組みました。
星野さんは、今年の七夕特別公演『星降る夜の約束』の舞台監督補佐を担当しており、遺作となった脚本の一部が演劇部保管庫に残されています。
演劇部顧問・三宅先生は、「沙理さんは本当に真面目で責任感が強い子だった」と語っておられました。
生徒会では、7月20日の全校集会で黙祷が捧げられましたが、新聞部としては「なぜ星野さんはあの場所で命を絶ったのか」を考え続けたいと思います。
③【談話形式】──教師・保護者・生徒の声(新聞非掲載の“オフレコ証言”)
・教師の談話(当時の教頭・非公開録音より)
「沙理さんは、ええ……何というか、“居すぎた”のかもしれませんね。部の中で、やけに一人で抱え込むようになっていた。誰かが止めてあげれば……けど……まあ、家庭の事情もあったのかもしれませんし」
・保護者会の声(事件後の臨時会にて)
「まさかうちの学校でこんなことが起きるなんて……。でも、うちの子は“あの子ちょっと変わってた”って言ってたし。きっと何か、本人にも原因があったんじゃ……」
・同級生(匿名・SNSログより)
「沙理のことは嫌いじゃなかったけど、空気読めないっていうか……LINEとかグループで浮いてたし、最後のあの脚本も、ちょっと重かったんだよね」
✦ 補足:報道の「空白」と記録の抹消
•校内ではこの事件以降、「七夕に関する行事」は禁止となり、演劇部も一時的に活動休止に。
•当時の新聞報道も続報はなく、“静かに忘れられる”ように処理された。
•一部の教師・生徒は異を唱えたが、匿名掲示板などで中傷が始まり、声は封じられていった。
【2025年7月7日(月) 午後9時15分】
暁明学園・旧講堂 舞台裏控室
封印された記憶が、風に揺れて剥がれ落ちるようだった。
玲は古びた控室の壁に立てかけられたスクラップブックを見つめていた。埃をかぶった表紙に、「2012年 演劇部 七夕公演」とかすれた文字。
「──13年目か」
そう呟いたのは、同行していた沙耶だった。彼女は室内の隅で、落ちていた短冊を拾い上げていた。そこには、震えるような筆跡でこう書かれていた。
> 「叶えられなかった願いが、もう一度、この夜に還るように」
「これは偶然じゃない」
玲は言った。
「“再現”は意図的だ。──13年という時を待って、この日に合わせた」
沙耶が短く息をのむ。「七夕。沙理が死んだ、あの日……」
玲は頷いた。
「七不思議の景──“吊るされた願い”から始まり、“音楽室の亡霊”、“鏡の階段”へ。順番すらも、2012年に生徒の間でささやかれていた順に一致している」
そこにあったのは、「単なる模倣」ではない。
13年前のあの日に止まった“何か”が、再び動き出すことを計画していた者がいる。
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◆ 仕組まれたタイミングの背景
•2012年7月7日──沙理の死
→ 真相は「演劇部内部での集団的ないじめ」や「密かに隠蔽された責任の所在」が関係していたとされるが、正式な記録としては“自殺”で処理された。
•その事件から13年目=2025年7月7日
→ 暁明学園では、かつての事件を知る者も退職・卒業し、「過去が忘れ去られようとしている」タイミング。
•その時期を選び、“再現事件”を開始した者の意図は──
「沙理の死を“演出”した者たちに、自らの罪を自覚させる」
「忘却された記憶に対し、儀式としての“見せしめ”を行う」
という、復讐と告発の演出であった。
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◆ 玲たちの視点での推察(小説的描写)
玲は、控室の古いロッカーの中から、当時の舞台セット表を見つけていた。
その中には「第七景 星のない夜」という演目案が残されていた。
「……あの時、沙理はこれを“演出”しようとしていたんだ」
沙耶が呟く。
「だとすれば、今私たちが体験しているこれは──“もう一つの演劇”」
玲は封筒の中に残された最後の写真に視線を落とした。
> “七景がそろう夜、天の川は血に染まる”
13年の歳月を超えて、**沙理が本当に願った“最後の演出”**が、今夜、完成に向かっている。
それを止めるのか、あるいは、見届けるのか──
選ぶのは、記憶を持つ者たちだった。
【2025年7月7日(月) 午後9時30分】
暁明学園・旧校舎 資料室
パチ……。
懐中電灯の光が、一冊のノートの表紙を照らした。
「演劇部脚本メモ帳……?」
玲が手袋越しにページをめくる。湿気で波打った紙面に、線のような筆跡。だが、そこには確かにこう記されていた。
> 「七景構成案」
> 一景:吊るされた願い(講堂)
> 二景:終わらない合唱(音楽室)
> 三景:鏡の階段(旧階段)
> 四景:閉ざされた書架(図書室)
> 五景:燃える密室(旧講堂裏)
> 六景:声なき教室(旧教室)
> 七景:星のない夜(舞台未定)
沙耶が小さく息をのんだ。
「これって……“演劇部が作った七不思議”じゃなくて、沙理が書いた脚本だったの……?」
玲は、項垂れるようにして書き込まれたページをそっとなぞる。
「そうだ。この順番も、場所も……“怪談”じゃなく、“演出”として作られた順だった」
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◆ 七不思議の起源
資料室の壁に貼られていた、色あせた掲示ポスター。
「2012年 七夕特別演劇公演《暁の階段》」のチラシ。その演出メモの隅に、小さくこう書かれていた。
> 「――“この学園に満ちる未完の物語を、演劇に変える”。それが、私の願い」
「つまりこれは……」沙耶の声が震える。
「沙理自身が考案した“七不思議”だった。彼女は本当は、いじめや噂を“演劇”に昇華しようとしたんだ……。“怖い話”じゃなく、“解放”としての劇を……」
玲が頷く。
「でも、上演されなかった。未発表の脚本として闇に埋もれ、演劇部内で“沙理の呪い”と歪められた」
やがて、「七不思議」は怪談化し、彼女の死の“根拠”として利用された。
演劇部の誰かが──あるいは複数人が、彼女を“主役にした死”へと追い込んだのだ。
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◆ 再現の順番とその意味
玲は再び脚本メモに目を落とす。
> 一景:吊るされた願い(講堂)──沙理自身の終わらない願い
> 二景:終わらない合唱(音楽室)──無視され続けた声
> 三景:鏡の階段(旧階段)──過去と向き合う場所
> 四景:閉ざされた書架(図書室)──消された記録
> 五景:燃える密室(舞台裏)──焼却された台本
> 六景:声なき教室(旧教室)──沙理を見て見ぬふりをした場所
> 七景:星のない夜(舞台未定)──本当の終幕
「再現犯は、沙理の脚本通りに“事件”を再構成している。彼女の未完の演目を、現実の復讐劇として完成させようとしている」
沙耶の声がかすれる。
「……“舞台”の幕が下りるのは、全部の“景”がそろったとき……?」
玲は黙って頷く。
「沙理の“最後の願い”が、現実となって顕れる。そのとき、七年前の真相も、演出者の正体も、すべて暴かれるはずだ」
【2025年7月8日(火) 午前2:12】
暁明学園・旧校舎 北棟階段(通称:鏡の階段)
廊下の明かりは、まるで呼吸をするかのように1分ごとに微かに点滅を繰り返していた。
旧校舎北棟の三階。そこへと続く階段は、生徒たちの間で「鏡の階段」と呼ばれている。
手すりの塗装はところどころ剥げ、足元の木板には歩くたび小さな軋みが走る。壁の一部には、割れたガラスが埋め込まれたような、異様な反射面が続いていた。
玲は足を止め、階段の中ほどに立ち尽くした。
彼女の背後に、何重にも重なる「自分自身の姿」が、闇に浮かぶように反射している。……鏡ではない。だが、**反射しているように“見える”**構造。設計者の意図を超えて、夜の光が作り出す“偽の自己像”。
「“ここを通ると、本当の自分が見えてしまう”……か」
それはかつて沙理が演劇部で語った、七不思議《第三景・鏡の階段》の導入台詞だった。
その台詞を思い出したのは、玲だけではなかった。後ろで足音を止めたのは、沙耶と朱音。
「ねぇ……あれ……!」
沙耶の震える声に、玲も視線を上げる。
階段の上部、踊り場の壁に――何かが貼られていた。
濡れたように艶のある紙。……写真だった。しかも――三枚。
一枚目は、13年前の演劇部の集合写真。演出係として後列中央に立つ沙理の姿。
二枚目は、数時間前、音楽室で遺体となって発見された日下部葵の姿。ピアノを弾いている最中に誰かに撮られた、隠し撮りのような一枚。
三枚目には――まだ死んでいない人物が写っていた。
「これ……この子……」朱音が名をつぶやいた。「演劇部の……OBの先輩……?」
玲は眉を寄せる。「……この人物、今日の夜、“来校していた”って記録が残っている。七不思議を再現する“第三の犠牲者”――次は、この階段で、と暗に示されている」
そのとき――カチリ、と音がした。
階段の天井から、かすかにロープが垂れてきた。……輪になった縄が、空中にぶら下がっている。
「“鏡”の中の自分が、手を伸ばすと、そのまま“現実”が死を迎える。偽りの自己像が、本当の死を招く」
玲は台本の一節を思い出していた。
《“鏡の階段”は、罪を抱えた者に、かつての選択を突きつける》
《誰が、沙理に何を言い、何を見て、黙っていたのか。あの階段で──》
【2025年7月8日(火) 午前2:30】
暁明学園・旧校舎 北棟階段(鏡の階段)
玲たちは、踊り場に貼られた三枚の写真をじっと見つめていた。
その時、不意に階段の奥から物音が響いた。
「誰かいるのか?」玲が声を潜めて問いかけると、暗がりの先からかすかな人影が現れた。
影は細く、ゆっくりと階段を昇ってくる。やがて、演劇部のOB、**佐伯 真司**の姿が浮かび上がった。
「……何をしている?」玲は静かに問いかける。
佐伯は怯えたように周囲を見回し、口ごもった。
「俺は、ただ……昔のことを確かめに来ただけだ」
その言葉の直後、階段の照明が一瞬強く点滅し、次の瞬間、佐伯の姿がふらりと揺らいだ。
そして――突然、佐伯の体が宙に浮き上がり、踊り場の梁に吊るされた縄に巻き付けられた。
周囲の影が歪み、彼の表情は恐怖に引きつったまま動かなくなった。
「また、再現だ……」玲は低く呟いた。
“鏡の階段”の呪いは、過去の死を模倣し、同じ結末を辿らせる。
だが、佐伯の死の直後、現場の隅で動揺した様子の女子生徒が発見された。
**生徒会役員の一人、矢野 美咲**だ。
「私……何も見ていません。何もしていません!」彼女は必死に否定したが、玲は彼女の目に嘘を見抜いていた。
「証言が曖昧だ。目撃者はあなた一人だけだったはずなのに……」玲が問い詰めると、美咲は震える声で答えた。
「……怖くて……正直に言えませんでした。誰かが来て、私に“口を閉じろ”と言ったんです」
その言葉に、玲は深刻な表情を見せる。
「つまり、事件はまだ終わっていない。誰かが計画的に証言を操作し、真実を隠そうとしている」
影のように忍び寄る恐怖と圧力が、学園全体を包み込んでいた。
玲は心の中で誓った。
「この連続殺人の全貌を、必ず暴き出す――」
【2025年7月8日(火) 午前2:50】
暁明学園・旧校舎 職員室横 警備モニター室(仮設)
モニター室に、低い電子音が鳴り響いた。
玲は、仮設の警備システムの前に立ち、過去数時間の監視映像を一つずつ検証していた。
「ここだ。2時26分から30分までの間──“鏡の階段”のカメラが、完全に暗転している」
玲が指差したモニターには、映像が砂嵐のように乱れた後、静止画のような一瞬を経て、突然のブラックアウト。
「電力の問題か?」と奈々が言う。
「いや、これは……手動で映像を“差し替えた”跡がある。ご丁寧に、監視映像そのものが編集されてる」玲の声は冷ややかだった。
「でも、そんなことができるのは……内部の人間よね」沙耶がぽつりと呟く。
玲は頷いた。
「そして“その時間帯だけ”証言しているのが、矢野美咲。彼女の“見たこと”は操作されていた可能性がある」
【同時刻 旧校舎 地下書庫】
奈々が掘り出した2012年当時の職員用資料箱には、沙理が死亡した当時の防犯記録が含まれていた。
「おかしい……これ、当日の映像ログが一部欠落してる。しかも“階段周辺”だけ」
奈々が眉をしかめると、玲もその紙に目を落とし、静かに言った。
「つまり13年前も、同じ手口で“監視の目”が消されていた……」
沙耶が、古びたファイルをめくりながら、ため息を漏らした。
「それだけじゃない。“鏡の階段”の逸話──もともとは存在してなかった。“七不思議”のうち、この階段の話だけ、沙理の死後に追加されてる」
奈々が瞬きを止め、言葉を繋ぐ。
「……演劇部の後輩が、“沙理のために七不思議を再構築した”ってこと?」
玲の目が、机の上の古い台本へと向けられた。
それは、沙理が遺した“未発表の演劇脚本”の草稿。タイトルは、消えかけたインクでこう記されていた。
『星の夜に、声が落ちる(仮題)』
【2025年7月8日(火) 午前2:50】
暁明学園・旧校舎 地下書庫
地下書庫の空気はひどく重かった。
冷気と湿気が混ざり合い、埃の匂いが年代物の紙資料からじんわりと立ちのぼっている。
奈々はゴム手袋をつけながら、棚の奥の鉄製キャビネットを慎重に開いた。中から取り出されたのは、2012年度・学校運営記録資料箱。
「……あった、事件当時の管理記録。セキュリティ担当の報告と、警備記録……」
彼女は古びた紙の束を素早くスキャンしながら、1枚の監視ログファイルに目を留めた。
「玲さん、これ見て。7月7日、当日の防犯カメラ記録──21時以降、数カ所の映像が途切れてる」
玲が目を細めて近づいた。
「切れているのはどこだ?」
奈々は指をすべらせて読み上げた。
「ええと……講堂裏の舞台袖、旧北棟三階階段前、そして音楽室──沙理が見つかった場所すべてです」
沙耶が、思わず息を呑んだ。
「じゃあ、13年前も……“見られちゃまずい”瞬間が、消されてた……」
玲は紙の隅に書かれた、わずかな“メンテナンス記録”に目を止めた。
「ここ。“21時15分、映像ノイズのため一時復旧作業。担当:Y.K.”」
「Y.K……」奈々が呟いた。「当時の情報科の職員に、柚木謙吾って名前があったはず……“Y.K”に一致する」
玲の表情が変わる。
「つまり、あの時点で“内部の人間”が、何かを隠した。沙理の死は──偶然じゃなく、仕組まれていた可能性がある」
⸻
そのとき、奈々がもう一つ、別の封筒を見つけた。
「これ……校内の“七不思議”に関する書類? でも、作成日付が──2012年7月9日」
沙耶が驚いたように言った。
「沙理が死んだ“2日後”……?」
玲は即座に反応した。
「……“沙理の死”のあとに、誰かが“七不思議”を再編成した。
そして今、犯人はそれを“再現”し、私たちを誘導している……」
⸻
奈々の手が震えるように、もう一枚の紙を抜き取った。
そこには、短くこう書かれていた。
「七つ目の“景”は、夜空に浮かぶ“星なき舞台”──
ただし、演出者は最後の一人が揃うまで、開幕しない」
玲は、その一文に答えるように呟いた。
「“演出者”がいる……やはり、これは未完の脚本なんだ。
沙理が遺した“声”を、誰かが勝手に“演じ直している”」
⸻
深夜の地下書庫。
闇の中で、事件の“演出者”の正体と、沙理の残した“舞台”の輪郭が、少しずつ浮かび上がり始めていた──。
【2025年7月8日(火) 午前3:45】
暁明学園・旧校舎 旧保健室(臨時指揮本部)
保健室としての機能を失って久しいその部屋には、仄暗い照明と、仮設の作戦用ホワイトボード、そして幾枚もの事件現場写真が貼られていた。
玲は、かつてベッドが並んでいた奥の棚に寄りかかるように立ち、“鏡の階段”の現場写真を睨んでいた。
その階段の踊り場には、古びた全身鏡がひとつ、斜めに取り付けられている。
割れてはいない。だが、鏡面は曇っており、光の加減で時に奥行きが歪んで見える。
「この鏡、もともとは避難誘導用の死角対策だったそうです」
と、奈々が補足する。「でもいつの頃からか、“違う時間が映る”って噂があったみたい」
玲はその言葉に、わずかに目を細めた。
「時間が……か」
廃墟マニアや都市伝説愛好家の間で、この旧校舎には“異常現象”が頻発するという話が広まっていた。その中でもとくに有名なのが、“鏡の階段”。
鏡の中には、**人の気配が映る──だが、それは“今そこにいない誰か”**だという。
⸻
玲は、写真の一枚に指を置いた。
**第三の被害者・和泉遥**が、発見された直前に最後に撮影された監視カメラの静止画だ。
「ここ」
玲は指し示す。「彼女の背後……鏡には、もう一人の影が映ってる。だが、周囲の映像には、誰もいない」
「それって……」沙耶が身を乗り出す。「誰かが隠れてたってこと?」
玲は静かに首を振った。
「いや──これは、“過去の誰か”が映り込んだ可能性がある。つまり、鏡が記録していたのは“13年前の夜”。
沙理が、ここを最後に通ったとされる時間帯と重なる」
⸻
奈々が声を落とした。
「じゃあ、この鏡は──“彼女の最期”を、ずっと映し続けてた……?」
玲は、あくまで冷静だった。
「あるいは、犯人がそれを知っていて、あえて“鏡の記録”に姿を残した可能性もある。
今夜の事件はすべて、“誰か”の脚本に沿って進行している──。この階段も、その“舞台装置”の一つだ」
⸻
そのとき、沙耶がふと声を上げた。
「これ……鏡の端、何か書かれてる」
写真を拡大すると、曇りかけた鏡面の左下に、手で書かれたような文字があった。
> 「星が落ちたら、幕が上がる」
玲の眉が、僅かに動いた。
「……“星”。これは、**沙理**の名前にかけた暗号かもしれない」
奈々が静かに言った。
「その言葉、沙理の未発表の脚本のラスト台詞に……よく似てます」
⸻
すべては、「十三年前に演じられなかった舞台」の続きを、今、誰かが“演出”しようとしている。
その“幕”は、まだ完全には上がっていない──。
玲は、次に進むべき場所を見据えるように、写真をそっと伏せた。
【2025年7月8日(火) 午前4:20】
暁明学園・旧校舎 音楽室 奥の保管棚
音楽室の空気は冷たく、夜の湿気と埃のにおいが混ざり合っていた。
古びた譜面棚に手を伸ばした玲は、最下段の奥に指先で引っかかるような感触を覚え、ゆっくりと引き抜いた。
埃を被ったクリアファイル。中には、黄ばんだ五線譜と、書きかけのメモが綴じられていた。
──誰の目にも明らかに、それは“未完成”だった。
旋律は途切れ途切れに記され、いくつかの音符は途中で書きかけたまま終わっている。
だが、玲の目は一つの音符列で止まった。
「……これは、“あの夜”に聞こえた……」
彼女の記憶に重なったのは、**最初の現場──講堂で、照明が消える直前に響いたあの“旋律”**だった。
⸻
奈々がファイルを覗き込み、顔をしかめる。
「曲名も、作曲者名も書かれていない。でも、この筆跡……」
玲が頷いた。
「沙理のものだ。演劇部で使っていた台本や脚本の余白に書かれていた文字と一致する。
つまりこれは──彼女自身が書いた“劇中音楽”。だけど、完成することなく、封印された」
その言葉に、沙耶がぽつりと呟いた。
「これ、……“彼女の声”かもしれないね。言葉じゃなく、音で残された遺言」
⸻
玲はふと、譜面の裏に何かが挟まっているのに気づき、指先でそっと引き抜いた。
一枚のコピー用紙。そこには、劇中で使用されるはずだった「第六景」の舞台指示が走り書きされていた。
> 【第六景:声なき教室】
> 舞台奥、壁一面の黒板に“消えかけた言葉”が浮かび上がる。
> 光のタイミングは、“旋律が三度、繰り返された後”。
> 教室には誰もいないが、椅子のひとつが、音にあわせて倒れる──。
奈々が目を見開く。
「これ、次の“再現”……“第六の殺人”の舞台指示になってる……?」
玲は冷たく言った。
「そうだ。これは“脚本”じゃない。犯行の計画書だ。
……沙理が残した未完成の旋律。犯人はそれを“鍵”として、次の幕を開けようとしている」
⸻
部屋の隅に置かれた古いアップライトピアノが、微かにきしんだ。
誰も触れていないはずの鍵盤が、一音だけ、静かに鳴った。
玲の目が細くなった。
「……時間がない。次は、“教室”だ。副会長が最後にいた、“あの場所”」
【2025年7月8日(火) 午前4:30】
暁明学園・旧校舎 西棟3階・旧3年B組教室
夜が明け始める気配を、誰も感じる余裕はなかった。
旧校舎の西棟──教室棟の最上階。かつて3年B組だった教室の扉が、静かに開いた。
かつん。玲のブーツが床を鳴らすたび、埃が微かに舞い上がった。
「“第六景”。……ここが舞台だ」
奈々がそっと後ろを振り返る。
「葵……日下部副会長が、最初にいなくなった場所。誰も目撃していないのに、音楽室で遺体が見つかった。
彼女が本当に“移動した”なら──この教室に、何か手がかりがあるはず」
玲は静かに教壇に近づくと、後ろの黒板に目をやった。
古びた板面には、すでにチョークの粉すら残っていない……はずだった。
だが、ある“角度”で光が差した瞬間──その黒板の一部が、鈍く、異様に反射した。
奈々が声を上げる。
「これ……ただの板じゃない。鏡になってる──!」
黒板の一部が、反射板にすり替えられていた。
しかもその鏡面は、まるで“過去の一瞬”を切り取ったかのように、誰もいない教室を静かに映している。
玲が目を細めた。
「ここは、“視られる教室”。監視カメラも記録も存在しない、なのに“目撃証言”だけがあった。
……だとしたら、それ自体が罠だったのかもしれない」
奈々が副会長・日下部葵の記録を確認する。
「彼女は確か、事件の前日に“ある告発メール”を送ろうとしていた。七不思議の再現劇が、誰かによって歪められていると……。
でも、その送信履歴はなぜか途中で途切れてた」
沙耶が教室の隅を見つめてつぶやいた。
「この鏡、ただの反射じゃない……。“逆さにされた教室”の中に、彼女は閉じ込められていたのかもね」
玲は教卓の中から、一冊のノートを取り出した。
──日下部葵の手記。そこには、こう記されていた。
> 「沙理先輩は、自分の脚本を“誰にも見せずに”死んだわけじゃない。
> 一人、ずっと読んでた人がいた。……昴くんよ。
> 彼は“演出”に関わってた。けど、それは“再現”じゃなく、“支配”だった」
ページの最後に、震えた文字がこう残っていた。
> 「彼は、わたしたち全員を“舞台装置”にしようとしてる……。
> わたしも、もうすぐ──」
奈々が言った。
「つまり……葵さんは“沙理の未発表脚本”を盗み見た昴が、
事件を再現しようとしているのを知ってしまった。それで“消された”?」
玲の声は冷たく、鋭く落ちた。
「違う。“消えた”んじゃない。最初から、“彼女の死”も台本に書かれていたのよ」
奈々が、教室の隅の椅子を見やった。
その瞬間──
ぱたん。
椅子が、一つだけ、音もなく倒れた。
まるで、誰かがそこに座り、静かに立ち上がったかのように。
玲は呟いた。
「“第六景”、完了……。次は、“終幕”ね」
【2025年7月8日(火) 午前5:10】
暁明学園・旧校舎 北棟 階段踊り場《第三景:鏡の階段》前
薄明の光が、割れた窓の隙間から射し込んでいた。
旧校舎北棟、三階へと続く螺旋階段の踊り場。
「鏡の階段」と呼ばれるこの場所は、かつて生徒の間で噂されていた七不思議の一つ──“鏡に映るのは、現在ではない過去の光景”──の舞台だった。
踊り場の壁には、今も古びた姿見が掛けられている。縁に埃が溜まり、鏡面にはわずかに亀裂が走っていた。
玲は階段下から静かに歩を進め、数段を上がったところで足を止めた。
彼の手には、つい先ほど現像が終わったばかりの一枚の写真がある。旧音楽室で発見されたそれは、事件現場と思しき階段の様子を撮ったものだった。
彼は慎重にその写真を取り出し、鏡に向けて構える。
差し込む光に透かされた写真の中──
……そこには、**“ありえない景色”**が映っていた。
鏡の向こうに写っているのは現在の階段ではなかった。
埃ひとつない清掃済みの床、夜にもかかわらず明るい照明。そして──
女子生徒の後ろ姿。
髪を肩で結び、制服の裾が揺れている。鏡の中で、彼女は踊り場に立ち、誰かをじっと見つめていた。
「……これは、“あの時”か」
玲は低く呟いた。
記録によれば、2012年7月7日──13年前の七夕の夜、この階段付近で“最後に沙理を見た”と証言した生徒がいた。だがその証言は曖昧で、具体的な姿は語られていなかった。
この写真が示しているのは、まさにその時刻の断片。
写っているのは星野沙理か?
もしそうならば──何を、誰を、見ていたのか?
玲は目を細め、鏡の中の“過去”に焼き付けられたその姿を見つめた。
口を結び、静かに鼻で息を吐く。
「記憶と記録……どちらも、完全ではない。だが、そこに差があるなら、その狭間に“真実”がある」
彼は写真を封筒に戻し、踊り場をゆっくりと見渡した。
壁の鏡は何も語らない。ただ静かに、時間の向こうを映し続けていた。
【2025年7月8日(火) 午前5時30分】
暁明学園・旧校舎 講堂裏 舞台控室
早朝の光が、割れた窓の隙間から細く差し込んでいた。
舞台袖の控室。埃が積もった机の上に、手書きの原稿用紙が数枚、乱雑に広げられている。
玲は懐中電灯を手に、書きかけの紙束を一枚ずつめくっていた。
──それは、「第八景」と題された未発表の台本。
13年前、星野沙理が最後に書いていたとされる**“脚本の断片”**だった。
ページの余白には、こんな一文が残されていた。
『ここで終わらせなければ、もう一人が“消える”。
誰が見ていたかは、私が知ってる。だから、止めなければ』
玲の目が細くなった。
「……もう一人が“消える”。“見ていた”……?」
そのとき、奈々が駆け込んでくる。
「玲、来て!これ、旧校舎の見取り図……“階段”の防犯カメラ、記録が抜けてるのは意図的よ!」
玲は顔を上げ、低く言った。
「第三の事件の“目撃証言”──あれは虚偽だった。鏡の階段にいたという生徒……“あの時間、そこには誰もいなかった”」
奈々が息を呑む。
「じゃあ、あの証言は……」
「……偽装だ。あるいは、“真実を隠すための演出”だ」
玲は、原稿の最後のページをそっと広げた。
そこに書かれていたのは、こうだった。
『最後の舞台は、わたしの“いない場所”で上演される。
けれど、わたしはそれを見ている。記憶のなかで、何度でも──』
沈黙が落ちた。
玲はゆっくりと立ち上がり、口を結んだ。
「沙理は知っていた。この脚本に書かれているのは、“事件そのもの”だ。
再現された“七不思議”の順番……あれは、ただの怪談じゃない。彼女が“目撃した順番”だ」
奈々の手が震えた。
「じゃあ……誰かが、その“順番通りに事件を再演”してるってこと……?」
玲はうなずく。
「……犯人は、沙理の“遺した記録”を読んでいた。
未発表の脚本を、血でなぞるように再現している。
──いや、“演出している”と言うべきか」
静かに、時計の針が5時30分を回った。
朝の光が控室を淡く照らすなかで、玲は胸の奥に小さな確信を抱き始めていた。
13年前、真実を語れなかったもう一人の“観客”がいた。
その者の嘘が、今、あらたな死を生んでいる。
【2025年7月8日(火) 午前6時00分】
暁明学園・旧校舎 中庭
空はようやく青みを帯びはじめていたが、旧校舎の中庭には、まだ夜の気配が残っていた。
風が止まり、蝉の声もまだない。
玲は一人、崩れかけた円形のベンチ跡に腰を下ろしていた。
膝上には、一枚のノートパッド。
その上に、**「七景」**の順番を記した手書きのメモがある。
⸻
《再構成された七景(13年前の順)》
1.第一景「講堂の吊死体」
→ 沙理が見つけられた場所。脚本の最初に記された“死”──だが、当時は“事故”として片づけられた。
2.第二景「音楽室の亡霊」
→ ピアノが夜ごとに鳴るという噂。沙理の死後、鍵盤を弾いたのは誰だったのか?
3.第三景「鏡の階段」
→ 時間を映すという噂。“目撃者”が語った矛盾だらけの証言。防犯記録も不自然な欠損。
4.第四景「放送室の自動アナウンス」
→ 夜間、自動的に流れる「沙理の声」とされる録音。機器は故障していたはず。
5.第五景「旧職員室の写真」
→ ある一枚の集合写真に、沙理が写っていない。それでも、確かに“そこにいた”記録。
6.第六景「声なき教室」
→ 沙理が所属していた教室。副部長の“失踪”と、彼女の最後の会話の痕跡。
7.第七景「中庭の沈黙」
→ すべてが終わったあと、演劇部員が集まった中庭。“あの夜、誰が欠席していたか”だけが、語られなかった。
⸻
玲は静かに呟いた。
「──この順番、沙理の“脚本”の構成と一致している。だがこれは“創作”じゃない。証言の整理だったんだ」
そのとき、奈々がやってくる。
「玲、分かった。“七景”の順番……事件当夜、沙理が目撃した“異常”の順そのもの。つまり──」
「“誰が、どこで、何をしていたか”が、この順に並んでる」
玲はうなずいた。
「そして──第七景“中庭の沈黙”が示すのは、沈黙を選んだ者がいるということだ。
その“沈黙”が、13年間、事件を封じてきた」
中庭の中央、石造りの噴水跡に、陽の光が差し込む。
玲はその光の先を見る。
「“あの夜、沙理を見殺しにしたのは──”
今、誰よりも“真実に近い場所”に立っている」
【2025年7月8日(火) 午前7時00分】
暁明学園・旧校舎 2階 見晴らし廊下
朝日が差し込みはじめた廊下。
ひび割れたガラス窓越しに、中庭を見下ろすことができる場所だった。
玲はそこに立ち、下を見ていた。
朝の光に照らされた中庭に、人影はまだなかった。
だが、異変はすでに始まっていた。
⸻
奈々が、少し離れた扉を開けて廊下に現れる。
「……玲。確認した。職員記録、やっぱり**“副部長”は届け出上“転校”って扱いになってた。だけど──」
「そんな記録は“その日以降”に書かれてる。事件の“後”だ」
玲の声には、確信めいた静けさがあった。
⸻
二人の間に、沈黙が落ちる。
そのとき、携帯端末が震えた。
奈々が確認する。
「……映像監視ログに動きがあった。さっきまで誰もいなかった中庭、今、誰かが入った」
玲は、視線を中庭に落とす。
そこに、制服姿の生徒らしき人物が立っていた。
背中しか見えない。だが、**“あのときの制服”**──2012年当時のものだ。
⸻
奈々が口を開く。
「まさか……**“再現の最後”が、今、始まろうとしてる──?”」
玲は短く答えた。
「“最後の犠牲者”はまだ決まっていない。……だが、“あの沈黙”が破られるとしたら──
今、この朝が、その時だ。」
彼は手元のスクラップ帳を閉じ、背を向けて言った。
「行こう。中庭へ。……全てが、終わる前に」
【2025年7月8日(火) 午前7時30分】
暁明学園・旧校舎 図書室前 廊下
図書室の前で、朱音は立ち止まっていた。
足元には冷たい空気が流れていて、スニーカーのつま先が廊下の埃を軽く巻き上げる。
その隣で、玲が静かに立ち止まり、耳を澄ませた。
⸻
「……ここが、最後の“場所”か」
低く呟いた玲の声に、朱音はぎゅっと彼の袖をつかんだ。
「ねえ、玲お兄ちゃん……こわいとこ、行かないで」
玲は驚いたように目を瞬き、朱音の手元に目をやった。
小さな指。必死で、彼を離さないように握っていた。
⸻
「朱音、ここから先は危ないかもしれない」
「……でも、ずっと一緒にいたもん。ここで帰ったら、あとで玲お兄ちゃんがいなくなっちゃう気がする」
その声は震えていたけれど、はっきりしていた。
⸻
玲は、わずかに眉を寄せる。
ふと、図書室の扉の横──色あせたポスターが目に入った。
《第七景:星のない夜》。
13年前の演劇部が上演を目指していた、最後の“脚本”。
その隅に、小さな字で何かが書き込まれていた。
「……図書室で、すべてが終わる」
⸻
「……沙理の最後の“舞台”だ。未完成の脚本、最後のページが……この中にあるのかもしれない」
朱音が玲の袖を引いたまま、小さくつぶやいた。
「わたし、玲お兄ちゃんがいるなら、こわくないよ」
玲は一瞬黙って──それから、目を細めて笑った。
「……わかった。一緒に、行こう。離れるなよ」
朱音はこくりとうなずき、玲の隣に並ぶ。
午前7時30分。
図書室の扉が、ゆっくりと開く。
13年前の“七不思議”最後の幕が、静かに上がろうとしていた。
【2025年7月8日(火) 午前7:45】
暁明学園・旧校舎 図書室(通称:静謐の書架)
カーテン越しに差し込む朝の光が、細かな埃を銀の粒子のように照らしていた。
高い天井と、背の高い木製の書棚。今は使われていないその空間に、静けさだけが支配していた。
朱音は、玲の手を離さないようにして、その背中にぴたりとついて歩いていた。
⸻
「ここ、本当に……使われてないの?」
朱音の問いに、玲は小さくうなずいた。
「“表向き”にはな。数年前に本棚が倒れて生徒が怪我をした。その時点で閉鎖されたことになってる」
「でも……」
「それはただの“口実”かもしれない。事故より前に、何かが起きていた可能性がある」
⸻
玲がライトを向けた先、書棚の奥に異変があった。
ひとつだけ、妙に新しい棚──いや、“再建された跡”のような補強材が見える。
その手前、床に散らばる書類の山。破られたページ。
そしてその中に、横たわる人影があった。
⸻
「……朱音、目をつむってろ」
だが朱音は、玲の言葉よりも先に見てしまった。
⸻
倒れた本棚の影で発見された遺体──
それは、**演劇部の現部長・三輪 遼**だった。
制服のまま、後頭部には鈍器による打撲痕。
手には、ボールペンで走り書きされたページが握られていた。
「“七景”は、あと一つで終わる──だが、脚本は完成していなかった。
星野沙理は、最初から“幕を下ろす方法”を書いていない……」
⸻
玲が目を細める。
「……やはり、この再現は“模倣”じゃない。脚本に基づいて誰かが演じてる。
でもその脚本自体、完全じゃなかったとしたら……?」
朱音は、震えながらつぶやいた。
「じゃあ、止められないの……? この先も……?」
⸻
遺体の近くには、もう一枚、ページの切れ端が落ちていた。
血のついた端をめくると、そこには――
《第七景:星のない夜》
……その舞台は、幕が上がらないことで完成する。
最後の登場人物は、“観客”でなければならない。
⸻
玲の表情が、かすかに曇る。
「……星野沙理の脚本、最後の“仕掛け”がここか。
“演じる”者ではなく、“見る者”が最期に選ばれる──」
⸻
そのとき、図書室の窓の外でカラスが一斉に飛び立った。
まるで何かを知らせるように、黒い影が舞い上がる。
【午前7時45分】──“第七景”が、静かに幕を開けようとしていた。
【2025年7月8日(火) 午前8:00頃】
はじめの贈り物
金田一耕助の孫であるはじめは、古書店から香山圭三の元へ一冊の本を送った。
その文庫本は祖父が残した名探偵譚であり、事件の真相解明に役立ててほしいとの願いが込められていた。
⸻
同封された手紙にはこう記されていた。
「祖父の遺した事件の数々と、暁明学園で起きた七不思議の再現事件には不気味な共通点があります。模倣犯の可能性が高いので、くれぐれもご注意ください。」
はじめは遠く離れた場所で、静かに事件の行方を見守っていた。
金田一家の血を受け継ぐ者として、この新たな謎に挑む覚悟を胸に秘めて。
【2025年7月8日(火) 午前8:30】
東京・郊外 某私設記録室
老人は、湯呑に口をつけたまま動かなかった。
ラジオから流れるニュースの声が、埃の積もる記録室に静かに響いていた。
「──昨夜から今朝にかけ、長野県内の旧校舎で連続死が発生。七不思議になぞらえたような状況が確認され──」
その声を遮ることなく、老人は小さく頷いた。
顔に刻まれた深い皺、白くなった眉毛の下に光る鋭い目。
彼は、香山圭三──警察記録や未解決事件のアーカイブを個人で管理している、元警視庁の情報技官だった。
彼の机の上には、朝方届いたばかりの文庫本があった。
表紙には「金田一耕助」と印刷されている。
ページの間に挟まれたメモには、達筆な字でこう記されていた。
「七つの“景”は再び並べられた。
観客も、演者も、すでに舞台に立っている。」
香山は湯呑を置くと、静かに立ち上がった。
書棚の一番奥、鍵のかかった引き出しを開け、古い封筒を取り出す。
そこには「2012年 暁明学園関連資料」と朱書きされていた。
彼はつぶやくように言った。
「……また、この名前を聞くことになるとはな。
“沙理”……おまえの脚本は、まだ終わっていなかったというのか。」
窓の外には、雨雲をかき分けて一筋の陽が差し始めていた。
【2025年7月8日(火) 午前9:00】
東京・郊外 某私設記録室
香山圭三は、木製の引き出しから一枚の白黒写真を取り出していた。
画面には、2012年当時の暁明学園講堂の裏舞台──天井の梁から吊られたロープの先、制服姿の少女の足元だけが写っている。
その少女こそ、星野沙理。
13年前の七夕の日、校内で命を落としたとされる、演劇部所属の女子生徒。
当時、事件は「自殺」と処理されたが、香山の元に匿名の封書が届いたのは、彼女の死から半年後だった。
「これは、演劇ではない。仕組まれた“脚本”だった。
舞台はまだ終わっていない。」
香山は、その封書とともに送られてきた未発表脚本の断片を記憶していた。
──「七つの景による、復讐劇」
その内容は、まるで星野沙理自身が、自分の死をも含めて予告していたかのようだった。
そして今朝届いた本──「金田一耕助」の文庫の中に挟まれていたメモ。
そこに書かれていた文体と、13年前の手紙の筆跡が一致していた。
「同一人物……か。いや、“誰かが引き継いでいる”可能性もある。」
香山は机の上の固定電話に手を伸ばす。
警察時代の知人──K県警・特例捜査班の窓口へ、直通番号を記憶していた。
だが、通話は繋がらなかった。
「すでに動いている、か……“玲”という若者の名が出ていたな。確か……」
引き出しのさらに奥から、別の資料ファイルを取り出す。
その表紙にはこう記されていた。
【2018年 特別記録:玲(REI)──協力証言者/元分析官】
香山は、その名を目で追った後、低くつぶやいた。
「“玲”……お前もこの“舞台”に戻ってきたのか。」
ふと、古い無線機が小さくノイズを発した。
香山は顔を上げる。
その瞬間、確信に近いものが胸を貫いた。
──これは「模倣犯」などではない。
星野沙理が残した“復讐劇”の演目が、ようやく最終幕に入ったのだ。
彼は、コートを羽織り、記録室の鍵をかけると、静かに玄関を出た。
目指す先は、暁明学園の旧校舎──13年前、彼が踏み込むことを許されなかった“あの現場”だった。
【2025年7月8日(火) 午前9:10】
暁明学園・旧校舎 図書室裏 手稿保管室
図書室の裏手にある小部屋──教職員以外、存在すら知らないはずのその部屋は「手稿保管室」と呼ばれていた。
かつて教師たちが使用した黒板計画、進路資料、観察記録、そして廃部になった文芸・演劇部の草稿などが保管されていた場所だ。
玲は、古びた書棚の背板をゆっくりと押し開けた。
その向こうにあった“抜け落ちた棚の跡”──そこだけ、木の床が不自然に白く、紙の色が抜けたような跡が残っていた。
「……焼却でも、湿気でもない。これは“意図的に消された”跡だ。」
かがみ込んだ玲の指が、木目の隙間に小さなタグを見つける。
そこには鉛筆で、うっすらとこう記されていた。
「第四景:閉ざされた書架」
それは、七不思議の一つにして、これまで未確認とされていた“欠番”のような扱いの景だった。
⸻
◇「第四景:閉ざされた書架」とは
玲は、先に見つけていた沙理の未発表脚本の断片を確認する。
その脚本の一節に、まるで“図書室の隠し部屋”を連想させるような描写があった。
「そこにはすべての“記録”があった。だが彼らはそれを閉ざした。
消してしまえば、なかったことになると信じて──」
つまり、この第四景は単なる怪異ではなく、**“記録の改ざん”や“歴史の隠蔽”**を物語の形式で包み込んだものだった。
⸻
◇物理的な証拠の“消去装置”
玲が棚の奥を探ると、木枠の背後に異質な素材が見つかる。
古い断熱材に混じって、焼却炉の灰のような、灰白色の粒子がこびりついていた。
「……ここで、何かが“処理”された。」
文献や日誌、あるいは──沙理自身が書いた本当の脚本の原本かもしれない。
この“書架”は、事件の核心そのものだったのだ。
彼女の死と、それを取り巻く周囲の責任を、葬り去るために設けられた装置。
⸻
◇朱音の疑問、玲の答え
「玲お兄ちゃん……ここ、怖い。何かが……なくなったって、感じがするの」
背後で不安げな声を漏らす朱音。
玲は少し黙ったあと、優しく頭を撫でた。
「“なくなった”というより、“なくされた”んだ。
ここにあったはずの記憶が、誰かの手で消された。……でも、朱音。記憶って、本当に全部消せると思うか?」
「……ううん、思わない。ちゃんと、誰かが覚えてる。絵にも、夢にも残るよ」
玲は微笑む。
その言葉こそ、**記憶の証人**としての朱音の役割だった。
【2025年7月8日(火) 午前9:30】
暁明学園・旧校舎 地下通路 第三資材庫前
静まり返った地下の通路。
灯りは時折、ノイズのようにちらつき、古びた配電盤がうなりを上げていた。
その奥にある「第三資材庫」──廃部になった演劇部の備品や大道具が積まれた空間の手前で、玲と奈々が立ち止まる。
奈々が低く呟く。
「このカメラのログ、2012年の7月7日夜だけ、部分的に“手動で上書き”されてます。
自動記録の範囲を外れる時間帯──23時17分から、23時53分まで。……その時間、職員権限でアクセスしたIDが一つある。」
「ID名は?」と玲が問う。
奈々はタブレットを傾けて見せた。
表示されたのは、2012年当時の**副教頭・秋月弘明**の職員IDだった。
⸻
◇秋月弘明──「第四景」の“最初の使用者”
秋月は、事件当時、演劇部の顧問を兼任していた中年教師だった。
生徒の活動には寛容な反面、学校側の「不祥事の抑圧」に敏感で、波風を立てる事態を最も恐れる性格だったと記録に残っている。
玲は呟く。
「沙理の死の“第一発見者”が彼だった。
しかも当時の公式報告では、**『ロープを外し、遺体を講堂裏の準備室に移した』**とされている……変だとは思わなかったか?」
「変……どころじゃない」と奈々は答える。「誰も見てない時間帯に遺体を“動かした”教師が、
その後の記録を一部改ざんしてたってことになる」
⸻
◇「封じる」ことで“物語”を守った大人たち
玲は薄く笑う。
「彼にとって、沙理の死は“事件”じゃなく“事故”でなければならなかったんだ。
……演劇部が遺した“脚本”が、七不思議のベースになっていると知っていたからこそ、
“未発表の台本”を保管庫ごと、第四景の“封印装置”に仕立てた」
つまり、秋月は事故を装い、脚本と記録を処理し、
その一部をわざと残すことで“言い訳の余地”を残していた。
⸻
◇誰かが再び「第四景」を利用した
だが──奈々が再び警告する。
「問題は“いま”この第四景が、再び誰かに使われているってこと」
奈々は、24時間以内に起きた図書室事件の現場写真と手稿室の記録棚を重ねる。
その一致率は、沙理がかつて使った構図とまったく同じだった。
「今朝の犠牲者が倒れていた場所。あれ、沙理が書いた“閉ざされた書架”の冒頭の舞台設計に──そっくり」
玲は目を細める。
「つまり、模倣犯は“未発表の脚本”を知っている。
あるいは、“脚本に沿って事件を再現している”」
【2025年7月8日(火) 午前9:45】
暁明学園・旧校舎 西棟 事務資料室(封鎖区域)
玲は古い金属棚を一つずつ引き出し、粉塵にまみれた2012年当時の教職員記録簿をめくっていた。
奈々が横でタブレットを操作しながら呟く。
「秋月弘明──定年退職は2015年。引っ越し先、二転三転してる。自宅も電話も、全滅。
……あ、この住所。**“東京郊外の私設記録室”**──」
玲が目を上げる。「その名、さっき聞いた」
──そう、今朝午前8:30。
金田一一の祖父の大ファンにあたる老人が、ラジオを聞きながら静かに本を読んでいたあの私設記録室である。
【2025年7月8日(火) 午前10:00】
東京・杉並区 某マンション 香山圭三の自室
カーテンは薄く開けられていた。
静まり返る室内に、古びたラジオの音だけが微かに響いている。
香山圭三──引退した元警視庁の捜査官にして、事件記録の“語り部”。
卓上には分厚い新聞の切り抜きと、幾重にも赤線を引かれたコピー用紙。
その中央に挟まれていたのは、今朝届いた一冊の文庫本だった。
『金田一耕助全集〈第七巻〉 学園七不思議殺人事件』
圭三は湯呑に手を伸ばしながら、ページをゆっくりとめくり、
そして手元のメモ帳にこう書いた。
⸻
香山のメモより(抜粋)
――再演される“景”
犠牲者の死に様が“脚本”じみているのは偶然ではない。
・第一景:視えない窓(窓から落ちた少女)
・第二景:夜の天井(天井裏の首吊り)
・第三景:鏡の階段(異なる時間の残像)
・第四景:閉ざされた書架(書かれた記憶の消失)
→すでに四つ再現。
第五・六・七は未明。
だが**“順番”が再現されている**。
沙理の脚本と同じなら……第七景が“告白”だ。
→一に伝えるべきか?
→**「副部長」霧島あゆみ**──消息不明。
→**舞台を見ていた“もう一人の生徒”**を調べよ。
⸻
圭三は、最後に赤ペンでこう書き加えた。
「次の事件は“第五景”。仕掛けは、観客席から見えない位置にある」
顔を上げる。
遠くで鳴る教会の鐘の音が、10時の時報を告げていた。
【2025年7月8日(火) 午前10:30】
暁明学園 管理棟・会議室
木製の重たい扉が、わずかな軋みを立てて閉じる。
会議室の窓にはすでにブラインドが下ろされ、蛍光灯だけが淡々と空間を照らしていた。壁にかけられた時計の針が、10時半を指して止まっているかのように静かだった。
男──玲は、無言で資料の一枚をテーブルの上に滑らせた。
手元のペンを指で弄びながら、じっと向かいの老人を見据える。
「……このリストにある生徒の共通点に、あなたは気づいているはずです」
玲の声は低く、だが明確に響いた。
向かいに座るのは、秋庭克人。
この学園の管理責任者であり、十三年前──沙理が命を落とした当時からこの校舎に関わってきた男だ。
秋庭は眼鏡を軽く持ち上げ、資料に目を通す。
「……演劇部員と、その関係者ばかりだな」
「ええ。そして、全員が“七不思議”に言及した記録がある。沙理の死と、その脚本。いずれも校内の闇に沈んだはずの記憶です」
玲は椅子に背を預け、腕を組んだ。
「つまり、この“再現劇”は、あの脚本の通りに進行している」
秋庭の表情が、かすかに動く。
わずかに瞼を閉じ、言葉を選ぶように静かに答えた。
「……君は、その脚本を読んだのか?」
「いいえ。私は存在すら、正式には認められていないと聞いていた。ですが、その脚本を預かっていた人物──霧島あゆみがいた。事件の直後に転校し、記録も消えている」
「それは……」
秋庭が言葉を濁す。玲は容赦なく言葉を続けた。
「彼女の消息は、事件直後から不自然に“追えない”。まるで最初から“いなかった”ように。そして、それを仕組める立場にいたのが、あなたです」
室内に冷たい空気が流れた。
秋庭はペンを置き、正面から玲を見た。
「……君は、私を犯人だと言いたいのか?」
「いいえ」
玲は即答した。
「あなたは“何かを恐れている”。だからこそ、十三年間黙っていた。その沈黙が、次の“景”を呼び寄せる」
玲は立ち上がり、テーブルの上のファイルを閉じた。
「“第五景”──その鍵は、“誰にも見られていない場所での殺人”です。
再現者は、観客に気づかれずに幕を引く。演出家の正体に、あなたはもう心当たりがあるはずです」
扉に向かって歩き出す玲に、秋庭がぽつりと声をかけた。
「……沙理は、書いていた。“最期の劇は、誰も拍手しない”と」
玲は立ち止まり、振り返ることなく答えた。
「だから私は止めに来た。幕が下りる前に、観客を席から立たせる」
そして、扉が閉じられる。
秋庭は独り、会議室の静寂に包まれながら、**十三年前の“あの夜”**を思い出していた。
【2025年7月8日(火) 午前10:45〜11:00】
《密室に眠る鍵と、動き始める影》
⸻
【旧音楽室・北西の壁際】
埃の匂いが立ちこめる旧音楽室。
朱音は玲の背を追って部屋に入ったが、すぐに何かに引き寄せられるように楽譜棚の方へと足を向けていた。
棚の下部。小さな手が何かに触れた。
「……あれ? なにか、固い……」
床の板が一部だけ浮き上がっている。
朱音がそっと持ち上げると、中には黒ずんだ金属製の小箱が隠されていた。
開けると中には、封蝋された茶封筒と、古びた真鍮製の小さな鍵が一つ。
玲が振り向く。「朱音、それは……?」
封筒には細い字でこう書かれていた:
『第五景:わたしの心に鍵をかけた場所。開くとき、音楽は終わる。――沙理』
玲の表情がわずかに変わる。
「……これが“第五景”の鍵か。だとすれば、密室の“入口”はまだ見つかっていないはずだ」
朱音が玲の袖を引いた。「お兄ちゃん、さっきの人──ピアノのとこにいたよ?」
玲は眉をしかめた。「人……?」
朱音は頷く。「あのね、髪が長くて、制服じゃなかった……目が、ちょっとこわかった」
⸻
【旧音楽室・ピアノ脇の記録板】
玲がピアノ横の掲示板に貼られた古い演奏会リストに目を留める。
一番下、半ば破られた紙片に、小さな筆記体の名前が残っていた:
霧島 あゆみ(伴奏担当)
「……この名前、沙理の事件当時、突如として姿を消した女子生徒だ」
玲は胸ポケットから手帳を取り出し、数年前の聞き込み記録を確認する。
【2012年9月21日】
霧島あゆみ、音楽室で最後に目撃されたのち所在不明。
特別進学コース在籍、生徒会文化部統括の候補だった。
「彼女は沙理と同時期に“何か”を知って、消されたのか……?」
朱音が不安げに見上げる。「あの人も、いなくなっちゃったの?」
玲は朱音の頭を軽く撫でた。「──いいか、朱音。何があっても、お前の目が見たことが“証拠”になる。信じていい」
朱音はこくんとうなずいたが、小箱の中の鍵を見つめたまま、どこか怖がっているようだった。
⸻
【旧音楽室を出て、玲が向かう先】
「第五景」が存在するなら、それは“密室”の中に眠っている。
そしてそれを開くのは、この鍵──。
玲は思い出していた。
2012年、事件後に一度だけ開かれ、そして封鎖された校舎地下の旧音楽準備保管室。
霧島あゆみが“最後にいた”とされる場所。
「朱音、奈々に連絡を。あの部屋のセキュリティ記録を調べてもらう」
「うん!」
密室への扉は、再び開かれようとしていた。
そして、その先で“過去に消された真実”が、朱音の記憶と結びついていくのだった。
【2025年7月8日(火) 午前11:05〜11:30】
《第五景:静寂に棲むもの》
⸻
【11:05 旧音楽室・南壁 隠し扉】
玲は、朱音の見つけた真鍮の鍵を手に、旧音楽室の南壁──
埃に隠れた壁の装飾パネルの前で立ち止まった。
「ここだ。音響設計図にだけ記されていた“防音機構付き裏部屋”……普通の校舎図面には存在しない」
パネルの右下に、僅かな隙間がある。
鍵穴。長年、誰にも使われていないかのように固く、冷たい。
カチリ。
小さな音とともに、壁の一部が押し込まれた。空気が動く。
重い音を立てて、隠された扉が開かれていく。
「……第五景の入口だ」
玲と朱音は、ゆっくりとその中へ踏み入れた。
⸻
【11:10 密室内部・“第五景”】
中は異様なまでに静かだった。
まるで外界の音すら遮断されているかのような、圧倒的な沈黙。
「……音が、しない……」朱音が囁くように言った。
部屋の中心には、壊れた譜面台と、二脚の椅子。
壁際には、分解されたグランドピアノの残骸──
蓋だけが奇妙に丁寧に拭かれ、保存されている。
玲は部屋の一角、封じられた引き出しの中に見覚えのある名札を見つけた。
【霧島 あゆみ】
【2012年度 伴奏者・演出助手】
「ここで、沙理とあゆみが“脚本”を書いていたのか……」
朱音が古びたファイルを拾い上げた。
赤茶けたページに、整った文字でこう記されていた:
『第五景:静寂の教室』
音を失った空間で、人は過去に耳をすます
語られなかった秘密は、音の消えた場所にのみ現れる
「これ、沙理さんの字かな……?」朱音が尋ねる。
玲はページをめくる。そこには、名前のない“登場人物の会話”が、
まるで日記のように綴られていた。
「あなたは見てしまったの?」
「……言わないと、私、もう歌えない」
「でもそれは、舞台の外のこと」
「ここで起きたことを、誰にも伝えちゃいけないの」
「……これは、“隠された事件”の再現だ」
⸻
【11:25 録音室奥の密閉収納庫】
玲は部屋の奥、録音ブース跡のパネル裏に古い録音媒体を見つけた。
「ミニディスク……2012年製のプレーヤーじゃないと再生できないか」
ラベルには殴り書きのような文字があった:
『7月6日 午後6:40 沙理・あゆみ・第三者(男)』
朱音の背中が震えた。「お兄ちゃん……だれかいる」
「え?」
玲が反射的に振り返ったが、そこには誰もいない。
だが、次の瞬間──
部屋の天井のスピーカーが、一度だけカチッと音を立てた。
“音のない部屋”に、記憶の囁きが戻ろうとしていた。
⸻
【11:30 玲の独白】
「第五景。それは、“封印された会話”の劇場だった」
玲は呟く。
沙理が生前、唯一あゆみにだけ見せていた《未発表の脚本》──
それが、いまこの密室で再構成されようとしていた。
「犯人は、これを“舞台”として再演している。七不思議じゃない、“七景”だ。これは、殺人の台本なんだ」
朱音がそっと玲の手を握った。
「ねぇ、お兄ちゃん……ここで、ほんとうに、誰か死んだの?」
玲はその問いに答えなかった。
答えを、これから聞き出す必要があるとわかっていたから。
【2025年7月8日(火) 午前11:30〜12:00】
《第五景・回帰の対話》と“沈黙の告白”
⸻
【11:30 密室内・録音再生機起動】
玲は旧型の再生機を接続し、例のミニディスクを挿入した。
一瞬の無音の後、機械的なノイズとともに──音声が流れ始める。
〔録音:7月6日 午後6:40〕
沙理「ここでいい。……誰にも聞かれない」
あゆみ「本当に、今日言うの……?」
沙理「“あの人”がやったの、見たの。音楽室じゃない、こっちの部屋で」
???「……俺は、ただ……」
沙理「もうやめて。舞台を壊さないで……あゆみ、覚えてて」
あゆみ「うん……でも、言えないよ、私も……」
そして、急に音声が乱れる。
ブツッ──という音とともに、録音は唐突に終了。
玲はミニディスクを取り出し、手のひらに載せたまま考え込んだ。
「この音源……明らかに“事件直前の記録”だ。そして“第三者の声”……あれは、秋月だ」
⸻
【11:40 朱音の直感と手記の発見】
朱音は室内に残された紙束の中から、一冊だけ異質なノートを取り出した。
表紙には「K.A. / 霧島あゆみ」とだけ記されていた。
中には、断片的な舞台メモと共に──日付と共に書かれた“証言”があった。
7月7日
あの人(沙理)が私に託したのは、「記録」じゃなく「記憶」だった。
私は舞台の照明裏から、全てを見ていた。
秋月先輩が彼女を突き飛ばしたのも、壁に頭を打ちつけたのも……偶然じゃなかった。
……なのに、私は何も言えなかった。
言ったら、すべてが崩れる。演劇部も、“あの脚本”も──。
だから、彼女の“第五景”は、未完のまま終わった。
でも……誰かが、続きを書こうとしてる。
玲はページを閉じた。
「霧島あゆみは、事件の“目撃者”であり、“共犯者”にもなっていたんだな……」
⸻
【11:50 部屋奥の古い掲示板】
玲は密室の奥の壁に、無造作に打ち込まれた画鋲に気づいた。
そこに掲示されていたのは、色褪せた写真──
2012年当時の演劇部員たちの集合写真だった。
その裏に、小さなメモ用紙が貼られていた。
『第六景:声なき教室』
照明が落ちたとき、真実は沈黙の中に現れる
“副部長”は消え、誰もが知らないふりをした
その記述に、朱音が顔を上げる。
「……副部長って、あの“高梨さん”?」
「そうだ。沙理が亡くなる前日まで副部長として記録されていたのに、事件後、名前が一切出なくなった人物……」
玲の中で、点と点が繋がり始める。
七景、それぞれに対応する“過去の事件の再演”──
そして、次の“再現”が目前に迫っていた。
⸻
【11:55 玲の判断】
「急ごう。次の“景”は、図書室……いや、その裏手、閉架書庫だ。あそこに“教室”なんてなかった。なのに“声なき教室”とは……どういうことだ?」
「お兄ちゃん、次は──また誰かが……?」
「未然に止める。もう、誰も死なせない」
玲の声には、いつになく強い決意がこもっていた。
⸻
【12:00 場面転換の兆し】
廊下の非常灯が、一瞬だけ揺れた。
そして校内放送が、不自然にノイズ混じりの音を漏らす。
ピ──……
【警告】……校内にて“点検のため一時封鎖区域あり”……繰り返します……
玲は肩越しに朱音を振り返った。
「誰かが、また“仕掛けてる”。これは、ただの再現じゃない──」
「犯人は、“物語”そのものを書き換えようとしてるんだ」
【2025年7月8日(火)12:00〜13:30】
《第六景・声なき教室》──再演の幕が上がる
⸻
【12:00 旧校舎・図書室裏 通路】
玲は朱音とともに、図書室裏の封鎖区域へと足を踏み入れていた。
そこには、本来存在しないはずの「小教室」があった。
壁を仮設棚で塞ぎ、正面には擦りガラスと黒板が残されている。
「ここが“声なき教室”……? 誰が、いつ、こんなものを……」
朱音は、埃まみれの机に手を置くと、ふと何かを感じたように口を開いた。
「ねえ、お兄ちゃん……ここ、誰かの“夢の中”みたい。静かで、でも、ざわざわしてて……」
玲は彼女の言葉を受け止めつつ、教室の隅で奇妙な配置の“照明機器”を見つける。
それは、本来舞台演出で用いられるタイプであり、何者かがここを“舞台”として構成し直した証拠だった。
⸻
【12:15 舞台仕掛けの痕跡】
・小教室内の黒板裏に、「副部長 高梨」と走り書きされたチョーク跡。
・教室の床下収納から、壊れたスマートフォンと、2012年当時の演劇部名簿の断片。
・そして、教壇脇に設置された“録画装置”のような筐体(ただし中身は空)。
玲は推測する。
「この“教室”で、事件の“再演”が行われた。あるいは──“これから行われる”……」
⸻
【12:30 霧島あゆみ、姿を現す】
そのとき、後方の扉が静かに開き、霧島あゆみが現れた。
制服ではなく、演劇部当時と同じ「黒い練習着」に身を包んでいた。
朱音が反射的に声をあげる。
「あ……あゆみさん……!」
彼女は少し痩せたように見えたが、瞳の奥には強い覚悟が宿っていた。
霧島「あの日、沙理が遺した“第五景”の続きを……私が、演じなきゃならないと思ったの」
玲は警戒しながらも、あゆみの瞳を見て問いかける。
「君は、“再演”に協力してるのか? それとも……止めたいのか」
あゆみは、言葉を探すように息を吐いた。
「……止めたい。だけど、私の“沈黙”が、誰かを死なせた。だったら、もう一度“語らなきゃ”」
⸻
【12:45 新たな台本】
霧島あゆみが差し出したのは、一冊のファイル。
表紙には、《第六景・声なき教室》と印字されていた。
中には、沙理が書き残した構成メモと、
事件後、あゆみ自身が書き加えた“未完の台本”が綴じられていた。
台本の終盤には──「副部長が立ち去り、舞台から消える」と記されている。
玲「副部長・高梨。彼女の存在こそが“空白”の鍵だ……事件後、彼女だけが“記録から消えた”理由を調べる必要がある」
⸻
【13:00 再演の準備】
朱音が、教室の照明に不意に手を伸ばした。
スイッチが入り、白熱灯が一斉に点灯する。
すると──小教室の奥の壁が“スクリーン”となり、投影が始まった。
映し出されたのは、2012年・事件当日の演劇部練習風景。
記録用に撮影された映像のはずが──途中、画面が乱れ、
“副部長”の姿だけが徐々にノイズで消えていく。
朱音「これ……本当に撮った映像? 誰かが“副部長を消すように”加工したみたい……」
玲は画面を指差した。
「いや──これは“記録が消された”んじゃない。“存在そのもの”が、誰かによって書き換えられたんだ」
⸻
【13:15 焦りと異変】
突如として、非常ベルが一瞬だけ鳴った。すぐに止まったが、校舎内に緊張が走る。
校内放送:「校舎西棟・倉庫付近で一部の煙探知機が作動。現在、確認中……」
玲は顔を上げる。
「始まる。次の“再演”が──“火”を伴って、ね」
⸻
【13:30 火種の気配】
霧島あゆみが、玲に最後の言葉を残す。
あゆみ「……次の“舞台”は“照明の落ちる部屋”。気をつけて。誰かが、また“役を演じようとしてる”から」
玲は頷く。
第六景は、かつて語られなかった“副部長失踪”という真相と、
その沈黙の代償を巡る物語だった。
そして、再び“照明”が落ちた瞬間──
次なる惨劇が、舞台の幕を上げようとしていた。
【2025年7月8日(火) 午後2:15】
暁明学園・旧講堂 舞台裏 焼け跡
焦げた木材の匂いが、鼻の奥に鈍く絡みついた。
玲は手にした懐中電灯の光で、崩れかけた舞台裏の壁を照らした。
錆びた釘が飛び出し、裂けた幕がぶら下がる。
焼け跡の中に立ち尽くす朱音が、小さく咳き込んだ。
「……ここ、ほんとに“演劇の場所”だったの……?」
玲は答えず、床に落ちていた欠けたネームプレートを拾い上げる。
《舞台監督:霧島あゆみ》──掠れた文字だけがかろうじて読めた。
「2012年、七夕の夜──沙理たちはこの場所で『終演のない夜』って劇をやるはずだった。けど、火災が起きて……中止になった」
その言葉の裏には、“何かが仕組まれていた”という確信があった。
玲はかつて、あの夜の事故報告書を読んだ。
「照明トラブルにより小規模な火災」──そう書かれていたはずの記録が、
今は閲覧制限で封印されている。
そのこと自体が、“記憶を隠す装置”の存在を物語っていた。
朱音が足元の廃材をよけながら、小さな声で言った。
「……ここ、なんか……声がした気がする。さっきの音楽室と同じ、でも、もっと重たい……」
玲は彼女を制止し、壊れた装置の下から何かを引きずり出す。
それは、煤で黒く汚れた舞台進行ノートだった。
表紙に書かれた文字──《終演のない夜(改稿)》。
そして中に挟まれていた、一枚の付箋が玲の目を奪う。
「第七景:閉じ込められた真実」
──“事故に見せかけて、彼女を舞台から降ろす”
玲は眉をしかめ、ページをめくる。
そこには、“副部長ルート”と呼ばれる分岐案が記されていた。
演劇内で誰かが事故に遭い、“出番を奪われる”という展開。
だがそれは単なる脚本ではなかった。
現実の舞台事故とあまりにも一致していた。
「……やっぱり、“誰かが排除された”んだ。この舞台は……ただの演出じゃなかった」
朱音が震えた声で問う。
「排除って……沙理ちゃん? それとも、“霧島あゆみ”って人……?」
その瞬間、かすかな異臭が漂った。
古びた焦げの匂いではない。“最近の煙”──そして、焼けた紙のような香り。
玲が目を凝らすと、背景幕の裏側に、小さな焚き火の痕があった。
中には、今朝の新聞紙が焼け残っていた。
「……誰かが、つい最近ここにいた」
玲が息を呑んだと同時に、足元の床板がきしみ、突然崩れた。
「っ、朱音、下がれ!」
かばうように朱音を押しのけ、玲の身体は舞台裏の床下へと沈んだ。
鈍い着地音とともに、ほこりと暗闇が視界を覆う。
目を凝らすと、そこは旧講堂の地下にあたる空間──
舞台控室と呼ばれていた場所だった。
崩れた機材、割れた鏡、そして壁際に並ぶ奇妙なモニター。
まるで、この空間だけが“演劇”の最中で時間を止めているかのようだった。
そのうちの一台に、焦げ跡を残したままの写真が挟まっていた。
写真には、舞台衣装を着た少女──沙理の姿。
彼女の背後には、“舞台に立つはずのなかった誰か”がぼんやりと写っていた。
その姿を見た瞬間、玲の胸に奇妙な引っかかりが生まれた。
「……これは、“写ってはいけない人間”だ」
火災の夜、舞台にいたのは沙理と霧島だけではなかったのか。
それとも──“舞台そのもの”が、誰かにとっての密室だったのか。
闇の奥で、忘れられた脚本が今──再び幕を上げようとしていた。
【2025年7月8日(火) 午後2:20】
暁明学園・旧講堂 舞台裏 焼け跡 ――そして地下控室
玲が地下空間に降り立ってから数分後。
朱音が応援を呼びに走り、現場には沙耶と数名の教職員が駆けつけていた。
旧講堂の裏手は立入禁止区域。だが封鎖の意義は、もはや消え去った。
地下へと続く開口部を灯りで照らすと、埃と焦げの匂いがさらに濃くなる。
玲の手が、崩れた舞台裏の奥に置かれた“何か”に触れた。
それは、厚手のビニールに包まれた、大きな――人影。
「……これは……」
数分後、沙耶が応急処置キットを持って駆け下り、玲と共に包まれた物体を慎重に広げた。
現れたのは、明らかに“今、ここにいるべきではない者”だった。
⸻
第五の遺体
遺体は女性。高校生ほどの年齢で、制服はかすかに現在の暁明学園のものと似ていたが、
胸元の校章が“旧デザイン”だった。すなわち――10年以上前の生徒。
右手には、舞台用の台本がしっかりと握られていた。
その表紙にはこうあった:
《第七景:閉じ込められた真実》
演:霧島あゆみ
沙耶が顔を覆い、吐き出すように言った。
「……これ……この子……あのとき行方不明になってた、“霧島あゆみ”……?」
だが、それだけではない。
遺体は“埋められていた”のではない。
舞台装置の残骸に、意図的に隠されていた。
まるで、この地下空間そのものが“彼女を隠すための棺”だったかのように。
玲は周囲を見回し、壁の一角に黒く煤けた手書きの文字を見つけた。
「演目を止めないで。私は“この夜”に立ちたかっただけ」
朱音が震える声で言った。
「この人……きっと、沙理ちゃんの舞台に出るはずだったんだよね……。でも、何かが起きて、それを止められて……」
玲の脳裏に、いくつもの断片が繋がり始める。
•“事故”の夜に消えた霧島あゆみ
•上演されなかった《第七景》
•そして、現場から消えていた13年前の火災報告書
玲が低く呟く。
「……これが、“第五の遺体”か……。だとすれば──模倣犯じゃない。最初の犠牲者だ」
⸻
全体の構造の揺らぎ
玲の手には、先ほど拾った《改稿版の台本》。
そこには、驚くべき事実が書かれていた。
《第七景》に出るのは、霧島ではなく“沙理”であること。
そして、“霧島の降板”は、事故によって処理する──
誰が、この構成を“書き換えた”のか?
誰が、事故を利用し、少女を“現実からも排除した”のか?
その答えを知る者は、いまだ沈黙を保ったまま。
だが、事件は再び演じられようとしていた。
今度の舞台は──《第六景:声なき教室》。
その幕が、もうすぐ上がる。
【2025年7月8日(火) 午後2:45】
東京都下・香山圭三の自室
古びた木造家屋の一室。静かな部屋に、薄くノイズの混じったテレビの音声が響いていた。
民放のニュース速報が画面下部に赤帯で表示される。
「速報です。本日午後二時二十分ごろ、暁明学園旧講堂裏にて、身元不明の遺体が発見されました――」
香山圭三は、緑茶の湯呑にそっと口をつけた。
その動作に慌てはなく、むしろ待っていた知らせに対する落ち着きがあった。
「ほう……やはり、来たか」
ゆっくりと手元のノートをめくる。そこには、丁寧な筆致で記された事件の年表と、
過去の“暁明学園 七不思議”の裏記録。そして、2012年の火災記事の切り抜きが綴じられていた。
香山の目が止まったのは、一枚の写真。
舞台衣装を着た二人の少女が写っている。ひとりは“沙理”、もうひとりは――今朝のニュースで名前が再び浮上した“霧島あゆみ”。
「第七景を封じてまで、誰かが“公演”を終わらせたかった……。だが、終わってなどいなかった。この十三年間、一度もな……」
彼は棚の引き出しを開けると、奥から茶色く変色した台本を取り出す。
表紙にはこう記されていた。
《終演のない夜》──初演台本(香山指導用)
そして、その裏表紙には、手書きでこう添えられていた。
【注】“第七景”は存在しない。演出上、触れてはならない。
香山は、かつてこの公演の「構成監修」に名を連ねていた元演劇顧問だ。
だが事件の直後、すべての職を辞し、消息を絶った。
彼の口から語られることはなかった“封印された演目”──それが、いま蘇りつつある。
「さて……そろそろ、出るとしようか。残された者の義務としてな」
香山圭三は立ち上がった。
窓の外、蝉の声が鳴いている。夏の午後の静寂に、十三年前の叫びが重なった。
【2025年7月8日(火) 午後2:50】
東京都下・香山圭三の自室
携帯電話の電源を入れるのは、実に五日ぶりのことだった。
灰色のディスプレイがゆっくりと起動し、どこか旧式めいた操作音が鳴る。
香山圭三は迷いなく、連絡先一覧の中からひとつの名前を選んだ。
【神崎玲】
着信音が二度鳴ったあと、電話がつながる。
受話口の向こうから聞こえたのは、低く、冷静な男の声だった。
「……香山先生、ですか?」
「久しいな。玲。こうして声を聞くのは……何年ぶりだ?」
「12年と半年です。あなたが突然、教職を辞めたその日以来だ」
玲の声の奥には、わずかな警戒と、抑えきれない緊張があった。
香山は息をひとつ吐き、遠くを見つめながら静かに語り出した。
「やはり、始まったな。“第七景”を封じただけでは終わらなかった。舞台は、まだ閉じていない」
「……あなたは当時、何を知っていた? いや、“なぜ黙っていた”?」
「証人だったからだよ。あの夜、講堂の裏で、**本当に“何が燃えたか”**を知っている者として……」
一瞬、通話の向こうに沈黙が走った。玲の呼吸音だけがわずかに聞こえる。
「玲。お前が探している“草稿”は、私が持っている。沙理の未発表脚本──本当の《終演のない夜》の“完全版”だ」
「第七景……そこには何が書かれている?」
「“記録されてはならなかった罪”。演劇という形式に偽装されて、密かに遺されたある《再現》の設計図だ」
香山は机の引き出しを開け、一冊の古びたノートを取り出す。
中には鉛筆で手書きされた脚本用の台詞と、舞台転換の指示、そして──
【第七景:鏡越しの死者たち】
玲の声がわずかに震えた。
「沙理は……それを書いた上で、あの夜“消された”のか?」
「彼女は“未来に警鐘を鳴らす”つもりだったのかもしれん。あるいは、“その夜、誰かの犯行を暴く”つもりだったのか……それは私にも、今はまだわからん」
「……だが、もう止めることはできない。誰かが十三年前の舞台を“なぞろう”としている」
「そうだ。そして、あの夜、舞台に立てなかった“もう一人”の存在を忘れるな。彼もまた……観客ではなく、俳優だったのだから」
香山は電話を切ると、すぐにひとつの封筒を準備し始めた。
中に草稿の写しと、当時の写真、沙理から渡された“ある遺品”が収められる。
それは、これから起きる第七景への――最初で最後の脚注だった。
【2025年7月8日(火) 午後3:00】
暁明学園・図書室書庫 奥の旧文芸部ロッカー
鍵の壊れたロッカーの扉が、金属の軋む音を立ててゆっくり開いた。
空気はひどく乾いているのに、どこか湿った匂いが鼻を刺した。
埃をかぶった文集の束、使われていない原稿用紙、万年筆のインク瓶──その奥に、まるで長い眠りから目を覚ましたように一冊の茶色いノートが姿を現した。
「……あったか」
玲は静かに手を伸ばすと、そのノートを丁寧に取り上げた。
古びた革の表紙には、黒インクでこう記されていた。
『七夕幻想』
作・霧島沙理
沙理の筆跡は確かにそこにあった。
彼女が十三年前に遺したまま、誰にも読まれることのなかった、最後の脚本。
奈々が小声で呟いた。
「これが……“第七景”……?」
玲は頷く。
その顔には珍しく、深い疲労と微かな緊張が滲んでいた。
「香山さんが言っていた。七不思議は“現象”じゃない。“物語”として構成された演出……だとしたら、これが、その終幕の鍵になる」
パラリ──とページをめくると、最初の数行が目に入った。
『舞台は、星の降る夜──
その記憶の断片を拾い集めた、最後の観客のために。』
「……これ、ただの脚本じゃない。遺書に近いかもしれない」
玲の言葉に、朱音がぎゅっと彼の腕を掴む。
「玲おにいちゃん……読まない方がいい?」
「いや、読むべきだ」
玲は静かに言った。「この脚本の中に、きっと“真実”がある。事件の本当の姿が──」
ロッカーの奥から、もう一つ、紙の束が見つかった。
それは日付のあるメモ帳で、ところどころ赤いインクで書かれていた。
「“稽古記録”だ。……沙理が、自分で残した?」
玲は脚本とメモ帳をまとめて抱え、立ち上がる。
旧校舎の天井から差し込む陽光が、まるで劇場のスポットライトのように彼を照らしていた。
「……この学園は、“終演”を迎えていない。だからこそ、幕を閉じる準備をしよう」
午後の静かな図書室に、再び緊張が走る。
“第七景”の開幕は、すぐそこに迫っていた。
【2025年7月8日(火) 午後3:10~15:20】
暁明学園・図書室書庫内
玲は見つけた稽古記録の紙束を慎重に広げた。そこには、沙理が『七夕幻想』の上演に向けて書き残した稽古メモや演出指示が細かく記されている。
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『七夕幻想』稽古記録(抜粋)
日付:2012年6月20日
参加者:霧島沙理、演劇部メンバー数名
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【冒頭シーン】
•星の光を象徴するため、舞台上に小さなLEDライトを配置。
•幻想的な空気を演出するため、舞台に軽い霧の演出を取り入れること。
•沙理は主人公「綾乃」の役を自ら演じ、細かな感情の揺れを丁寧に表現するよう指示。
演出メモ:
「綾乃は七夕の夜に、大切な人との約束を果たすために奔走する。だが、その“約束”には大きな秘密が隠されている。観客には謎めいた不安感を最後まで抱かせたい。」
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【中盤シーン】
•登場人物「翔太」が鏡の階段のシーンで現れる。
•重要な台詞は「時は鏡のように真実を映すが、歪みもまた生み出す」。
•鏡を使った舞台装置は、事件の真相を暗示するための鍵。
演出メモ:
「この鏡は単なる舞台装置ではなく、過去と現在を繋ぐ象徴であることを強調。鏡の反射によって、観客の視点を揺さぶりたい。」
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【終盤シーン】
•綾乃と翔太が最後に交わす約束は、“封印された記憶”の解放。
•セリフは一言一句大切に。特に「記憶は嘘も真実も織り交ぜて、私たちを縛りつける」という台詞が核心。
•役者には感情の爆発を演じるよう指示。涙を流すことが望ましい。
演出メモ:
「このシーンは事件の真相告白の象徴的瞬間。演劇と現実の境界が曖昧になる瞬間を創りたい。」
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玲は書き込みの多さと沙理の執念に胸を打たれながらも、そこに込められた“謎”の深さを再認識する。
「この脚本はただの物語じゃない……これは、過去の事件を映し出す鏡だ。僕らはこの稽古記録に沿って、事件の“再演”を辿らなければならない──」
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朱音が静かに玲に声をかける。
「お兄ちゃん……これ、読むだけで怖いよ。でも……真実を知りたいんだよね?」
玲は強く頷き、そっと稽古記録を抱きしめた。
「ああ、必ず。沙理の声を、僕たちの手で最後まで届けるんだ。」
【2025年7月8日(火) 午後3:30】
暁明学園・旧講堂 舞台裏 焼け跡
鑑識チームは舞台裏の遺体を慎重に調査した。被害者は白石拓也、かつて劇団のスタッフを務めていた男性だ。遺体の状態は凄惨で、顔や体の一部は焼け焦げているが、調査によって次のことが明らかになった。
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遺体調査結果
•後頭部に明確な鈍器による強打痕が確認された。
この打撃は致命的で、白石は即座に意識を失ったものと推測される。
•意識を失った後に舞台裏へ運ばれ、火災に巻き込まれた。
死因は焼死であるが、致命傷は後頭部の打撃と見られ、火災は殺人を隠蔽するための二次的行為と考えられる。
•火災の発火元は人為的に設置された装置の可能性が高い。
現場からは、古い油と旧式の照明灯具が組み合わされており、引火剤として使用された形跡があった。
•燃焼の速度と火の回り方から、発火装置は即時点火式であった可能性がある。
故意に人目につかぬタイミングで起動させられた模様。
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この鑑識結果は、白石の死が単なる不慮の事故ではなく、周到に計画された殺人であることを裏付けた。過去のボヤ騒ぎを装ったものとは異なり、今回の火災は意図的な殺害行為だったのだ。
玲は報告書を読み終えると、険しい表情を浮かべた。
「やはり、事件はここから本格化する……何者かが、過去の“隠された真実”を燃やし尽くそうとしているんだ。」
朱音も隣で手を握りしめ、静かに頷いた。
「お兄ちゃん、私たち、絶対に諦めちゃだめだよね。」
玲は力強く頷き返し、決意を新たにした。
「ああ、最後まで真実を追い続ける。白石の死も、この事件の全貌も。」
舞台裏の焼け跡に、まだ消えぬ火の痕跡が静かに息づいていた。
【2025年7月8日(火)午後3:30~4:45】
「第六の殺人」までの連鎖する物語
──舞台は静かに、だが確実に次の惨劇へと進んでいた。
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【15:30~16:00】
旧講堂・舞台裏の調査報告と「第七景」の断片
舞台裏の遺体調査が終わり、玲は沙耶・奈々・圭介と共に控室に戻っていた。香山圭三から送られた“第七景”の草稿には、不可解な一文があった。
「第六景に至った者は、声なき教室を超え、“誰にも見えない犯人”と出会う。」
玲はその言葉に強くひっかかっていた。
「“声なき教室”……それは第五景の終端じゃない。第六景は──“再演される失われた記憶”なんだ。」
同時刻、朱音は旧図書室奥にいた。彼女は『七夕幻想』の脚本に付された細い栞を指でなぞりながら、ふと、ページの隙間に古びたチケットの半券を見つける。
「七夕演劇祭:特別公演《フィナーレはまだ来ない》」
日付は2012年、沙理が在学していた最後の年。
「このチケット……“公演は終わっていない”ってこと……?」
朱音の小さな疑念が、次の“殺意の舞台”を指し示していた。
⸻
【16:00〜16:20】
霧島あゆみの“再出現”と、失われた部活動記録
旧校舎一階の掲示板裏──奈々が古い管理記録を引き出した瞬間、玲のスマホに1件の通知が届く。
【送信者:不明】
【本文:霧島あゆみ、旧被服室にて目撃】
玲は即座に圭介に伝え、現場へ向かうよう指示する。その途中、旧演劇部の保管棚から、“失われた部活動記録”が見つかった。
それは沙理が最期に演出した『七夕幻想』の稽古記録──そして第六景を示す唯一の実行記録だった。
奈々がつぶやく。
「これ……“実際の舞台進行に合わせて、生徒たちが動かされてた”ってこと……?」
玲は頷き、記録の末尾に書かれた一文を読み上げた。
「第六景──“誰かが消え、誰かが“再演される”。」
⸻
【16:20〜16:40】
「役割」が再起動する──白紙の名札と“次の役者”
旧講堂近くの控室で、圭介が見つけたのは一枚の“白紙の名札”。
だがそれは、特殊なインクで書かれており、照明を当てると浮かび上がる名前があった。
《次の役者:風間達也》
風間はかつての演劇部員。13年前、沙理の脚本で“副部長”として舞台に立った男だ。
そして今──
彼の姿が、学園内から忽然と消えていた。
⸻
【16:40〜16:45】
控え室前 廊下・沈黙の予兆
玲が呼吸を止めたように、ある方向を見つめていた。
「風間……彼もまた、“消えた役”にされたのか……?」
その時、緊急通報が入った。
「講堂2階 控室内にて、倒れている人物を発見!」
玲と圭介が駆けつけた時には、すでに遅かった。
第六の犠牲者──風間達也が、血を流していた。
窓は内側から施錠。凶器は現場に残されていない。
まるで舞台装置の一部のように整えられた密室の殺人。
朱音がそっと囁いた。
「……誰が、この台本を書いてるの……?」
そして、脚本の余白には新たな文字が書き加えられていた。
「第六景:静謐の消失」
“消えた声は、再演を拒む者のもの──”
事件は最終幕へと静かに進みつつあった。
そして次は──**“第七景”**。
幕が上がるのは、終わりの始まり。
【2025年7月8日(火) 午後4:45】
暁明学園・旧校舎三階 西端の教室(使用停止区域)
きい、と乾いた金属音が空気を裂いた。
玲が押し開けた古びたドアの向こう──それは、時が止まったままのような教室だった。
窓は全て新聞紙と黒い布で覆われ、薄暗闇に支配されたその空間には、埃と長年閉ざされた空気の臭いが満ちていた。
壁際には生徒用の机がいくつも積み上げられており、中央だけが不自然に“空白”だった。
まるで即席の劇場のように、椅子が七脚、半円状に並べられていた──すべて、黒板の方を向いて。
その中央。
一脚だけ、わずかに他とずれた角度で置かれた椅子に──風間達也が座っていた。
目を閉じ、うつむき加減のまま、静かに。
最初、それはただ“休んでいるように”見えた。
だが、玲がゆっくりと近づくにつれ、その異常さが明らかになっていく。
風間の体は、胸元に仕込まれたナイフによって貫かれていた。
柄はすでに抜き取られており、代わりに胸に貼られていたのは──
《役を拒んだ者、ここに沈黙す》
という紙片。
血はすでに乾きかけていた。犯行時刻はおそらく数十分前。
即死ではなかった可能性もある。
朱音が震える声で言った。
「……これ、舞台の“観客”ってこと? 七脚の椅子……“七人の役者”? でも、なんで風間さんが……?」
玲は黒板に残されたチョークの筆跡に目を向けた。そこにはこう書かれていた。
【第七景:終わりのない観劇】
「すべての記憶は、誰かの手によって再演される──観客席にいた者たちの、沈黙によって。」
圭介が息を呑む。
「……“観客が黙っていたから”、演劇は終わらなかった、ってことか……?」
玲は小さく頷き、椅子の一脚に触れた。そこには何かが刻まれていた。
《霧島あゆみ》
その名の下に、うっすらと“✔”が付けられている。
玲は振り返り、言った。
「これは“照合リスト”……つまり、ここに座るべきだった者たちの名簿。
そして、“✔”がついた人物が次の対象になる。」
その場にいた全員が凍りついた。
椅子の背もたれには、他にも名前があった。
──《白石康平》《風間達也》《霧島あゆみ》……そして、
《沙理》
《沙耶》
《玲》
朱音の唇がかすかに動いた。
「……ママ……?」
その瞬間、誰かが遠くの廊下を駆け抜ける音がした。
脚本はまだ終わっていない。
“最後の幕”が、今まさに上がろうとしていた──
【沙理の記憶の断片】
――13年前、七夕前日。
蒸し暑い夏の夜。窓の外では雨がぱらつき、古びた講堂の照明がかすかに揺れていた。
旧校舎・演劇部部室。
集まった数名の部員たちが脚本のコピーを手に、それぞれの意見を戦わせていた。
その中央で、佐々木沙理はただ一人、強く言い切った。
「“終演のない夜”には、明確な終わりが必要よ。
観客に委ねるだけの“空白の幕”なんて、ただの放棄だわ。」
彼女の言葉に、副部長・水原剛が苛立ちを隠さず反論する。
「それは“観客参加型”っていう仕掛けだろ? 曖昧さを恐れてたら、演劇なんてできないさ。」
「曖昧じゃない、“逃げ”よ」
沙理の声は硬く、どこか震えていた。
その脚本は、かつて沙理が書いた草稿を元に、水原と数人の上級生が“改変”を加えたものだった。
タイトルも『七夕幻想』から『終演のない夜』へと変更されていた。
沙理はずっと疑念を抱いていた。
なぜ彼らは結末を書き換えたのか。なぜ“消えた第七景”は誰にも話題にされないのか。
彼女だけが、その景が何かを“封じる”ものであったことを知っていた。
水原は、沙理の問いに答えず、ただ冷たく言った。
「舞台装置の件は俺に任せろ。余計なことはするな、沙理。
……お前は、ただ“役”を演じればいい。」
その夜、沙理は部室に一人残り、照明図と脚本を睨みつけていた。
彼女の頭にはひとつの疑念が膨らみ始めていた。
――これは演劇じゃない。何か別の“目的”がある。
そして、夜が更けた頃。
旧講堂の舞台裏で、誰かの話し声を聞いた。
ドアの隙間から漏れる声。男の声と、もう一人──水原のものではない、知らない声。
「“鍵”は封印した。第七景に通じる道は、閉ざされた。」
「……だが、“証人”が残っている。まだ消えていない。」
沙理は息を殺し、聞き耳を立てた。
だが次の瞬間、舞台裏の照明が突然落ち、真っ暗な闇が彼女を包んだ。
その直後、背後で誰かが囁いた。
「あなたも……その“舞台”に立ったんだよ、沙理」
あの日以来、沙理の記憶には空白がある。
翌日の“終演のない夜”は公演直前に中止となり、原因不明のボヤ騒ぎによって舞台は焼け落ちた。
何が仕組まれていたのか。
なぜ、自分は“あの舞台”の記憶を鮮明に語れないのか。
だが今──13年後の現在。
再び“演劇”が始まり、脚本が“発見”された今、
沙理の奥底に眠る記憶の扉が、ゆっくりと開き始めていた。
【沙理の記憶の断片──そして、封じられた結末】
その夜、沙理は確かに、舞台裏の暗闇に誰かの気配を感じていた。
何者かの囁き。
「あなたも……その“舞台”に立ったんだよ、沙理」
冷たい声。
だが振り向いた瞬間には、すでに誰もいなかった。
彼女は“第七景”の草稿を手にしていた。
それは、自身がまだ1年生だった頃に書き始め、封印されるように部の棚に仕舞われた“未完の台本”。
中には《観客が誰かを選ぶ》という異様な構成が記されていた。
「七人の観客、六つの舞台、ひとつの証人」──
その意味を、彼女は恐ろしくなって理解しはじめていた。
⸻
午前0時を過ぎた頃。
沙理はひとり、講堂裏の非常階段に立っていた。
草稿を手に、何かに導かれるように。
その姿を、誰もが「最後に見た」と証言している。
だが──誰も、その後の足取りを語らなかった。
翌朝。
講堂裏の敷地で、一体の転落遺体が発見された。
地面には照明器具の破片、そして黒く焦げた舞台衣装の断片。
身元確認には時間を要したが、それが佐々木沙理であると判明するのに、長くはかからなかった。
しかし、事故報告にはいくつもの“矛盾”が残っていた。
⸻
◆第一の矛盾:階段からの転落というには傷の角度が不自然
◆第二の矛盾:彼女が抱えていたはずの草稿が消えていた
◆第三の矛盾:遺体発見時、近くの舞台装置倉庫が“外から鍵を掛けられていた”
火災も、この直後に発生している。
まるで“証拠”ごと、記憶を燃やすように。
事故とされた。
だが、本当にそうだったのか?
その事件以降、“第七景”は完全に封印され、部内でも「存在しなかったこと」として処理された。
“未発表脚本”は行方不明。証言者たちも、口を閉ざした。
⸻
13年後──
あの舞台の“続き”が、再び始まろうとしている。
沙理が遺したとされる最後の台本『七夕幻想』が、旧文芸部のロッカーから発見され、
そして同じように、“七人目の席”が空席となる演出が繰り返されている。
玲は思った。
これはただの連続殺人ではない。演劇だ。
演者を装い、記憶をなぞり、観客を巻き込むための──極めて悪質な「再演」だ。
だが、今度は違う。
この“舞台”には、真実の証人たちがいる。
封じられた第七景が、明かされる時が迫っていた。
【2025年7月8日(火) 午後6:30】
暁明学園・旧講堂 舞台中央
陽はすでに傾き、舞台の赤黒いカーテンが夕陽に照らされて、血のように染まっていた。
玲はその中央に立ち、静かにまぶたを閉じる。床に刻まれた焼け焦げの跡。折れた舞台装置の支柱。
そして何より、「あの夜」の痕跡──十三年前、沙理が消えた舞台。
「……すべての“景”が再現されている」
玲の声が、静かな講堂に落ちた。
沙耶、奈々、朱音、そして香山圭三までもが集い、薄暗い照明の中で記憶と証拠をつなぎ直していた。
⸻
「第一景:密やかな誓い」──学園の噂の出発点。被害者は“目撃者”を装った。
「第二景:夜を裂く影」──密室構造の屋上事件。犯人の“視点操作”があった。
「第三景:囁く鏡」──鏡の破片に映る過去の偽装。朱音のスケッチが鍵だった。
「第四景:閉ざされた書架」──記録の改ざん。玲が見つけた“書き換えられた記憶”。
「第五景:眠らぬ舞台」──霧島あゆみと沙理の記憶が交錯。旧音楽室に眠る遺構。
「第六景:声なき教室」──観客席の配置、“選ばれた”犠牲者。模倣犯の明確なメッセージ。
すべてが、未発表だった沙理の脚本──『七夕幻想』に則った再演だった。
脚本を読んだ香山が、震える声で言った言葉が今も頭から離れない。
「これは“告白”ではない。――“召喚”なんだ」
⸻
朱音は、舞台袖でスケッチブックを抱えていた。
白いページに、また一枚、夕暮れの舞台を描いていた。
中央に立つ玲。その背後に、光と影の中から、ひとりの少女の面影が浮かび上がっていた。
「……沙理、なの?」
誰かがそう呟いた瞬間、舞台上の照明が一つだけ、パチ、と点灯した。
それは十三年前と同じ構図。
「第七景」が、幕を開けようとしていた。
⸻
奈々が玲に小声で言った。
「今夜、もう一つの“舞台”が動く可能性があります。犯人は、第七景を“最後の殺人”として用意している」
「いや……」
玲は首を横に振った。
「最後じゃない。第七景は“始まり”だ。これまでの六つの死を、すべて“序章”に変えるための──」
その瞬間、沙耶の端末に通知が入る。
【新たな目撃情報:校内の録音室に人影】
玲の目が鋭く光る。
「……始まったな」
すべての真相は、“第七景”の中にある。
それは十三年前の演劇が叶えられなかった“終演”であり、沙理が遺した“裁き”だった。
誰が演者で、誰が観客か──
そして、誰が“記憶の証人”として、その幕を閉じるのか。
終わりではなく、“始まり”の鐘が鳴ろうとしていた。
【2025年7月8日(火) 午後6:30】
暁明学園・旧講堂 舞台中央
夕陽が西の窓から斜めに差し込み、埃の舞う講堂の空気を黄金色に染めていた。
舞台の中央──そこに立つ玲の影が、長く床を這っている。
旧講堂は、いまだに十三年前の“あの夜”の記憶を留めているようだった。
焼け焦げた木の匂い、使われなくなった照明機器の軋む音、そして……再現されてきた「七つの景」の終着点として、何かを待ち続けているかのような静けさ。
玲、奈々、沙耶、朱音、そして霧島あゆみ。
皆が舞台上に立ち、かつてこの場所にいた“もう一人”の少女──沙理の痕跡を探していた。
「すべての“景”は再現された。順番も、構成も──まるで、十三年前の記憶が舞い戻ってきたかのように」
奈々の声に、玲が頷いた。彼の手には、沙理の最後の脚本『七夕幻想』があった。
その紙面はところどころに煤けた跡があり、筆跡も掠れていたが──明らかに、“第七景”の存在を示していた。
「これが……沙理の最後の“演目”なんですね」
霧島が震える声で言う。彼女の頬にはまだ、先ほどの告白の名残が涙として残っていた。
「沙理は、何を望んでこれを書いたのか」
沙耶が静かに口を開いた。
「怒りか、悲しみか、それとも……赦しだったのか」
朱音は、何も言わずに手帳をめくっていた。幼い手が描いた一枚のスケッチには、舞台の中央でこちらに手を伸ばすような白い服の少女の姿があった。
沙理だった。朱音は知っている。
誰よりも先に、あの人が“ここにいた”と。
「このまま終わらせるわけにはいかない」
玲が脚本を閉じ、全員に視線を向けた。
「“第七景”を、上演する。沙理が十三年前に完成させられなかった、あの夜の続きを。
それが、真実をここに刻むことになる」
講堂の天井では、朽ちかけた照明が小さく揺れていた。
まるで、拍手のように──沈黙の観客たちが、舞台の再開を待っているかのように。
【2025年7月8日(火) 午後7:00】
暁明学園・旧講堂 舞台上
講堂の重いカーテンは、未だ閉じたまま。
しかし舞台の上では、静かなる準備が始まっていた。
壊れた舞台装置。焦げた幕。埃まみれの大道具。
だが、霧島あゆみの手がそれらをひとつひとつ確かめ、直し、整えていく。
「やるのね、本当に」
沙耶が呟いた声に、霧島はふっと微笑んで見せた。
「ええ。逃げたくて、忘れたくて、ずっと舞台に背を向けてきた。でも……私が語らなきゃ。あの夜の“証言”を、誰もしていないのなら」
彼女の視線は天井を見上げていた。
そこに、十三年前の照明がまだ残っている。焦げ跡の残る鉄のアーム。落下寸前の幕。そして、落ちた“少女”の記憶。
「第七景──“空に還る少女”」
玲が読み上げた脚本のページには、こう記されていた。
⸻
【第七景:空に還る少女】
“夜の講堂に、一人の少女が立つ。
その手には灯火。
彼女は真実を語り、
嘘にまみれた過去を暴く。
そして、静かに舞台を去る。”
⸻
「この“去る”って、死を意味していたのかもしれない」
玲の声に、奈々が眉をひそめる。
「でも、沙理はこの脚本を“残した”。それはきっと、結末を私たちに託したってこと」
霧島は古い衣装棚から、十三年前の舞台衣装を取り出した。
白いワンピース。裾に焦げ跡がある──沙理が最後に着た衣装と、同じもの。
「この役を演じるのは、私しかいない」
その言葉に、誰も異論を唱えなかった。
霧島あゆみこそが、“最後の目撃者”であり、“もう一人の沙理”だった。
⸻
準備は静かに、しかし着実に進んでいく。
奈々は古い録音機器を修復し、照明の配線を確認。朱音はスケッチブックを舞台袖に置いた。沙耶は深く目を閉じ、十三年前の記憶に心を向けていた。
そして玲は、舞台中央に立つ。
「沙理……君が残したもの、受け取ったよ」
彼は静かに脚本を掲げた。
まもなく夜が来る。
“証言の幕”が開く──十三年を超えて、今。
【午後8:00】
暁明学園・旧講堂 舞台中央
その瞬間、旧講堂の静寂が張り詰めたように変わった。
蝋燭の炎がいくつか灯され、壊れた照明のうちひとつが、奇跡的に柔らかな光を舞台に落とした。
――開演の合図だった。
幕はない。観客も、いない。
だが確かに、これは“舞台”だった。
中央に立つのは、霧島あゆみ。
十三年前と同じ白いワンピースをまとい、彼女はかすかに震える声で語り始めた。
⸻
◇霧島あゆみの“独白”
「……十三年前、私はここに立っていた。
でも、それは演者としてじゃない。傍観者として。
何も知らず、何も止められなかった、ただの臆病者として」
彼女の目が、講堂の奥を見つめる。
そこにはもう、誰もいない。
それでも“誰か”が見ている気がして、彼女は言葉を続けた。
「沙理は、あの夜──副部長の水原と、演出のことで揉めていた。
でも、あれはただの言い争いじゃなかった。
部の方針、人間関係、顧問教師の偏った評価……
彼女は全部を、脚本に書いていた。
書いて、暴こうとしていたのよ。名前も、やりとりも、実名で」
息を飲むような静けさが、講堂全体を包んだ。
「“第七景”のラスト──彼女が舞台袖から落ちたのは、事故じゃない。
“誰か”が彼女を突き落としたの。
そして私は……それを見ていた。
見て……逃げた。怖かった。声も出せなかった」
あゆみの頬を涙が伝う。
けれど、その姿は崩れるどころか、むしろ舞台にふさわしく強く、美しかった。
「だから、私はもう逃げない。
沙理……あなたの“最後の景”を、今ここで終わらせる」
⸻
◇それを見守る者たち
― 舞台袖:玲
玲はポケットの中の録音機器に手を添えながら、そっと頷いた。
(霧島……君がここまで語れるとは、思わなかったよ)
過去の記憶の真ん中にいた者が、自ら立ち上がり、語ること。
それは“捜査”や“推理”では到達できない、魂の証言だった。
― 旧講堂入口:沙耶と朱音
沙耶は娘・朱音の肩をそっと抱いていた。
朱音のスケッチブックには、奇妙な絵があった。
そこには、**“白いワンピースの少女が空に昇る”**姿が描かれていた。
「……見えていたのね、あの夜の続きを」
沙耶の声は、穏やかで、深く。
朱音は頷きながら、小さな声で言った。
「おばちゃん、きっと今、言ってる。“ありがとう”って」
― 学園外・香山圭三の自室(TVと無線を前に)
香山は、旧講堂に仕掛けた遠隔カメラからの映像をじっと見ていた。
「……“第七景”が終わる」
そう呟いた彼の目に、涙が浮かんでいた。
「すまなかったな、沙理……そして、よく語ってくれた、霧島あゆみ」
⸻
講堂の時間が、ゆっくりと進んでいく。
霧島の独白が終わり、彼女が深く一礼したとき──
まるでそれを見届けたかのように、講堂の天井の古びたライトがひとつ、静かに消えた。
“証言の幕”は、確かに閉じられた。
【午後10:00】
暁明学園・旧講堂 舞台中央
あまりにも静かな時だった。
講堂の時計が、ちょうど十時を告げる。
その針が重なる瞬間──音もなく、天井のガラス窓が風に揺れた。
……そして、次の瞬間だった。
白い光が差し込んだ。
夜の空に月は出ていない。それなのに、講堂の天井から降り注いだ光は、
まるで夜空の一点から注がれる天の川のしずくのようだった。
その光が舞台を、ゆっくりと照らしていく。
だれかが仕掛けた照明でも、人工灯でもない。
それはどこか、人ならざる意思によってもたらされたような輝きだった。
⸻
◇“空に還る少女”
霧島あゆみは舞台の中央に立ち、目を伏せていた。
彼女の背後、誰もいないはずの空間に──
一人の少女の姿が現れた。
ふわりと浮かぶようなシルエット。
十三年前と同じ、白いブラウスとスカート。
髪は短く、目元は穏やかで、どこか照れくさそうに笑っていた。
佐倉沙理──その姿だった。
けれど、それは実体ではない。
まるで光と空気で編まれた幻影。
けれど確かに、あの夜、舞台に立つはずだった少女は今ここに“立って”いた。
霧島は、はっとして振り返り……口元を押さえ、涙をこぼした。
「……沙理……?」
幻影は、ただ静かに頷いた。
そして歩き出した。
講堂の空気が揺れ、光が彼女を導くように舞い上がる。
椅子の背もたれにふれ、壊れかけた舞台の端に立ち、
……やがて彼女は、光とともに天井へと“昇っていった”。
⸻
◇見守る者たち
玲は言葉を失って立ち尽くしていた。
横にいた朱音が、そっと彼の袖をつかむ。
「今……空に、帰ったんだね」
「……ああ。十三年の幕が……ようやく閉じた」
沙耶は何も言わず、ただ手を合わせていた。
誰よりも長く、この“舞台の外側”から見守っていた母として。
⸻
◇そして──静寂へ
光が消え、幻影も見えなくなったとき、講堂には静けさが戻った。
だがその静寂は、決して虚ろなものではない。
語られ、暴かれ、癒された魂たちが残した、確かな余韻だった。
舞台の中央には、何も残されていなかった。
だが──観た者すべての胸に、“空に還る少女”の姿は焼きついていた。
【2025年7月10日(木) 午前10:30】
暁明市警・第一留置所 面会室
──時任 昴
鉄の扉が静かに閉まり、面会室の空気がわずかに震えた。
分厚いガラス越し、白いパーテーションの向こうに腰かけた男──時任 昴は、手元に組んだ指先をじっと見つめていた。
陽射しが差し込む面会室は、意外にも静かで穏やかだった。
窓際に落ちる影は淡く、まるであの“舞台の光”を遠く思い出させるかのように、
彼の輪郭を柔らかく包んでいた。
昴の白いワイシャツの袖口には、まだ黒い“墨”がうっすらと残っていた。
それは、十三年前の「演出家」ではなく、先日までの「証言の舞台監督」としての記憶だった。
舞台裏で使われた旧道具──木の札、焦げ跡のある台本、装置の設計図……。
彼はそれらすべてを“再演”するために手を動かしていた。
筆はもう持たされていないはずなのに、彼の指は今も“なぞっていた”。
空中に、何かを描くように──記憶の中の台詞や、誰かの顔、そして失われた少女の背中を。
やがて、ドアの向こうに足音が近づいた。
面会に来たのは、玲だった。
⸻
◇対峙
「……久しぶりだな、時任先生」
玲の口調は静かだったが、かすかに怒りと哀しみが滲んでいた。
昴は、少しだけ顔を上げる。
その瞳には、どこか子供のような遠さと、すべてを諦めた静けさが混ざっていた。
「十三年……長いようで、短かった」
「君が再現しようとした“七夕の夜”……すべてが終わった。沙理は、もう空へ帰った」
その言葉に、昴は目を閉じた。
しばらく沈黙が落ちたのち、彼はぽつりとつぶやいた。
「……あの夜、僕は……救えたかもしれなかったんだ」
「でも君は、選んだ。台本に“現実”を合わせようとした」
「……あれは“演出”じゃなかった。ただの罪だった。もう、わかっている」
⸻
◇封じられた真実と“第八景”の名
玲が封筒を机に置いた。
中には、“第七景”の続きと思われる草稿──“第八景:閉幕”と書かれた一枚の紙が。
「これは……?」
「君のロッカーから出てきた。最後の景、君が書いたものじゃない。沙理の手で綴られていた」
昴の目がかすかに見開かれた。
その唇が、震えるように呟いた。
「……彼女は……最後まで……演じていたんだな……“私たち”の物語を」
⸻
◇終幕の向こうに
玲は席を立ち、最後に言った。
「証言と記録はすべて提出された。君の関与も、すでに公表される」
「けれど──沙理はもう、君を責めたりはしない」
それは、赦しではない。
けれど、**赦されたいと願う人間にだけ与えられる“静かな終わり”**だった。
扉が閉まったあとも、昴はしばらく席を動かさず、ただ遠くの光を見つめていた。
その指先は、なおも何かを描くように震えていた。
けれど、そこにもう台本はない。
以下に、【2025年7月10日(木) 午前11:00】
第一留置所にて、“時任昴”が自らの過去──沙理との関係と、彼女の死の夜の記憶──を回想する場面を小説形式でお届けします。
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【2025年7月10日(木) 午前11:00】
第一留置所 内部・面会後の独房にて
──時任 昴の回想
独房の壁は、淡い灰色をしていた。
冷たく、静かで、記憶の底に沈む“ある一夜”をそのまま封じ込めているかのようだった。
時任昴は、ベッドに背を預け、天井を見つめていた。
まぶたを閉じると、あの夜の音──遠くで揺れる風の音、講堂の軋む扉、誰かの泣き声──が、いまだ耳の奥で反響していた。
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◇十三年前──2012年・七夕の前夜
彼女の名前は、沙理。
いつも舞台に立つのではなく、裏側にいた少女。
台本を書くのが好きで、物語の中にだけ“生き場所”を見出していた。
だが──それは他の誰かにとっては、ただの「演出」や「遊び」でしかなかった。
副部長・水原と対立したのもその夜だった。
「終演のない夜」──沙理が書いた最後の台本。
舞台に登場する“少女の死”を巡って、彼らは激しく言い争った。
水原は言った。「そんな陰気な話、誰も見たくない」
沙理は答えた。「……でも、これは“私たちの現実”なのよ」
⸻
◇時任の選択
時任昴は、当時三年生。
演出責任者として沙理の才能を誰よりも信じていた。
だが、舞台に立つ“現実”の生徒たちは、彼女の書く“物語”を拒んだ。
彼は、沙理にこう言った。
「ラスト、変えよう。観客は“死”なんて求めていない。君の物語が届くには、まだ……早い」
沙理は、寂しげに笑って、こう言った。
「じゃあ、終わりにする。……このままじゃ“誰も舞台に立てない”から」
⸻
◇講堂裏の“事実”
その夜遅く、時任は一人で講堂裏の舞台装置室に向かった。
そこには、誰もいないはずの場所に“灯り”があった。
誰かが、上から落ちた音がした。
彼は、叫ぶこともできず、ただ“そこにあった身体”を見下ろした。
沙理は──そこに、いた。
泣いているような顔で。
でも、誰も彼女の手を取らなかった。
⸻
◇沈黙という“演出”
時任はすべてを隠した。
沙理が誰かに押されたのか、自ら飛び降りたのか、それとも……。
その夜、講堂は「ボヤ騒ぎ」で封鎖され、事件は事故として処理された。
彼は、“沙理の台本”を焼却処分とされた箱の中から救い出した。
それが、“第七景”の草稿──そして、“終幕の書かれていない物語”だった。
彼は信じた。
沙理の物語を、彼女の代わりに舞台に立てる者が現れるなら──この事件に終わりが来るのだと。
⸻
◇今、思うこと
独房の小窓から差し込む光は、あの夜の月よりもまぶしかった。
昴は、静かに呟いた。
「沙理……お前は、ずっと……“演じていた”んだな。
本当は……ずっと、終わらせたかったんだな」
あの夜、彼女が書いた“第八景”のページ──
それは「誰も裁かれずに終わる、赦しの舞台」だった。
【2025年7月10日(木) 正午 12:00】
暁明市警 第一留置所 内部/時任昴・独房にて
昼の鐘が遠くで鳴っていた。
細長い鉄格子越しに差し込む光が、床にまっすぐな影を落としている。
時任昴は、左手に紙片を握っていた。それは、十三年前のある日──
誰にも渡さず、誰にも見せず、自分だけが守り抜いた**「最後の台詞」**だった。
⸻
■沙理が遺した「第八景:閉幕」より抜粋
舞台が終わるとき、誰かが拍手をしてくれると思ってた。
でもね、ほんとうは、それだけじゃなかったの。
わたしがずっと欲しかったのは、「やり直せる未来」だった。
罪のない観客を裁かないで。
声を上げられなかった演者を、責めないで。
もしこの劇が、最後にひとつだけ光をくれるなら──
それは、“許すこと”。
だれも正しくなかった。だれも間違ってなかった。
だから、
この舞台は、わたし一人で終わらせる。
⸻
その筆跡は揺れていた。
まるで、書いた本人の手が震えていたかのように。
時任はその頁を、誰にも渡さなかった。
「復讐劇」として沙理の物語を演出しようとした者に渡せば、それは**“本来の意図”を壊すこと**になるとわかっていたからだ。
⸻
■時任が封じた過去①:霧島あゆみとの関係
霧島は沙理の一年後輩で、演劇部では“代役”だった。
沙理が書いた『七夕幻想』で、主役を一度任されたことがある。
沙理にとって、霧島は「未来の自分」だった。
自分の台詞を、そのまま受け継いでくれる誰か。
時任も、それに気づいていた。
だが沙理の死のあと、霧島は突然部を辞め、転校に近い形で姿を消した。
──彼女だけが、事故の夜、“何かを見ていた”。
そして時任は、それを黙認した。
「語らせないことが、あの子の救いだ」と信じて。
⸻
■時任が封じた過去②:副部長・水原との対立
水原は現実的な演出を求めていた。明るく、拍手で終わる劇。
だが沙理の作品は、内面を暴き出す“痛み”が多く、部内では常に意見が割れていた。
あの夜、水原は沙理と激しく言い争った。
机を叩き、草稿を破り、「こんなもの舞台に出せるか!」と怒鳴った。
──翌朝、水原は何も語らなかった。
沙理の死について、何も証言せず、ただ「事故だった」と繰り返した。
時任は、その沈黙を受け入れた。
「真実より、“幕が降りること”の方が大事だった」。
彼はそう自分に言い聞かせていた。
⸻
■時任が封じた過去③:封鎖後の学園との関わり
事件のあと、講堂は封鎖され、演劇部は解散。
時任は教員志望を断念し、舞台とは距離を置いた。
だが彼は、**香山圭三(当時・教務補佐)を通じて、極秘裏に「学園脚本アーカイブ」の管理に関わることになった。
表向きは文化財保護の調査協力──
実際には、“沙理の台本が再現されないように”**監視する役目だった。
「彼女の物語は、“あの夜”だけで終わっていた。……誰にも続きを書かせるな」
それが、彼が自分に課した戒めだった。
⸻
そして今、舞台は“再演”されてしまった。
玲たちがたどり着いた「第七景」、
霧島あゆみが語った“独白”、
そして講堂に降り注いだ白い光。
時任はそれを見届け、こう呟いた。
「……これは、彼女が望んだ“終幕”じゃない。
でも──あの子は、ちゃんと“拍手”を受け取った。それなら、もう……いいんだ」
【2025年7月10日(木) 昼12:30】
暁明学園・旧講堂 舞台中央(記録映像回想)
舞台は沈黙の中にあった。
観客席には玲、朱音、香山圭三、そして捜査関係者たち──
それぞれが「事件の目撃者」であり、「終幕の立会人」だった。
霧島あゆみは、ゆっくりと舞台中央に立つ。
衣装は当時の沙理が描いた『七夕幻想』のもの──
だがそこには、**十三年前にはなかった“表情”**があった。
静かに、語りはじめる。
⸻
■霧島あゆみの独白(『第八景:閉幕』より再構成)
「あのとき──舞台の上で、私はただ『台詞』をなぞっていた。
沙理が書いた言葉を、沙理が描いた感情を、そのままなぞることしかできなかった。
だから……沙理の本当の“声”が、聞こえなかった。」
「でも、今ならわかる。
この物語は、“誰かを裁くため”の劇じゃなかった。
“誰もが加害者になり得る”この世界で、
沙理は、最後の最後に──それでも“誰かを許す”ことを選ぼうとしてた。」
言葉の途中で、霧島は客席を見つめる。
玲、朱音、香山、そして……
拘置所にいる時任へ届くように。
⸻
「第八景──閉幕。
それは、誰かに“終わらせてもらう”のではなく、
**自分の手で“幕を引く”**という決意。」
「この劇は、復讐の物語ではない。
沈黙し、逃げ、すれ違い、それでも残ったものを、
“受け止める”ための物語だった。」
「そして今日、この場にいる皆さんが──
その証人です。」
⸻
霧島の声は震えていた。
だがその震えは、恐怖でも悲しみでもなかった。
“赦し”の言葉を語る重みと、確信の震えだった。
⸻
■観客たちの反応
•玲は、目を細めたまま黙って聞いていた。彼女の右手には、事件の全記録が記されたファイル。だが、そのファイルには書けない「何か」が、今この舞台にはあった。
•朱音は小さく手を合わせていた。まるで祈るように。彼女だけが“舞台の光”を見たという。そしてこう言っていた。
「沙理さんは……笑ってた」
•香山圭三は俯き、目を閉じていた。
13年前に守れなかった「一つの命」と、
それを語る術を奪ってしまった教師としての罪が、今、浄化されていくのを感じていた。
⸻
■霧島の最後の台詞(『第八景』最終行)
「では──これより、
“幕を降ろします”。
皆さま、ご来場、誠にありがとうございました。」
⸻
天井の窓から、光が差し込む。
誰かが拍手した。
ひとつ、ふたつ……それはやがて会場全体へと広がっていく。
霧島あゆみは、静かに一礼した。
**この劇の真の終幕**が、ようやく訪れたのだった。
【2025年7月15日(火) 午後3:10】
東京・玲探偵事務所/夏空の下
窓の外には蝉の声が鳴り響き、夏の陽光が部屋の隅々まで差し込んでいた。
玲はデスクに向かい、静かに資料の束を見つめていた。
重ねられた事件ファイルの上に、一冊の古びた劇のパンフレットが置かれている。
それは、羽生沙理が遺した最後の作品――
『七夕幻想』
表紙には淡い鉛筆の文字で、「第八景:閉幕」と記されていた。
玲はゆっくりと指先で表紙を撫でながら、心の奥で彼女の声を聞いているような気がした。
あの夜、講堂の天井から差し込んだ白い光と共に消えた少女の叫び。
それは決して忘れてはならない“真実”の証だった。
朱音が言っていた――「沙理さんは笑ってた」と。
玲はその言葉の意味をかみしめながら、ゆっくりと目を閉じた。
「やっと、終わったのか……」
彼は静かに呟き、深く息を吐いた。
事件は幕を閉じたが、これからが始まりなのだ。
玲はパンフレットをファイルにしまい、立ち上がる。
外の夏空のように、彼の心にも少しずつ光が差し込んでいた。
【2025年7月18日(金) 午前11:00】
暁明学園近郊・沙理の実家跡
──沙理の墓前/元演劇部顧問・吉住
風鈴がひとつ、寂しげに鳴った。
夏の陽差しが墓石の輪郭を浮かび上がらせ、淡く白い花が供えられている。
吉住はスラックスの裾を手で払い、墓の前でゆっくりと頭を下げた。
その手には、一枚の古びた紙が握られていた。
かつて、彼女が提出した「幻の脚本案」──演劇部の会議で却下され、顧問として吉住自身が受け取り、封印したままになっていた原稿。
表紙には、今では誰の目にも触れることのない、手書きの題名がある。
『第八景:閉幕』
「……今さらになって、あのときの意味がようやくわかったよ」
吉住は苦笑した。
13年前、彼は顧問として守るべき“安全”や“体面”を優先し、彼女の情熱と真実の言葉に蓋をした。
それが、沙理の最期の夜につながったのかもしれない──そう思うたびに、喉が渇くような後悔がこみ上げてくる。
「お前の“舞台”……きっと、ちゃんと届いたよ。今の子たちにはな」
墓前にそっと脚本のコピーを置く。
風がひとつ吹き、ページがめくれた。そこには、沙理の小さな文字でこう書かれていた。
「すべての景が終わったとき、わたしは、ようやく“観客”になれる」
その言葉を見つめながら、吉住はゆっくりと目を閉じた。
かつて“演出されなかった物語”は、時を越えてようやく──誰かの心の中で、幕を開けたのかもしれない。
【2025年7月20日(日) 午後5:00】
京都・とあるアトリエ跡
──沙理の遺品展/主催:元演劇部の有志と地元市民会館
築七十年を超える古びた洋館の一室に、午後の陽がやさしく差し込んでいた。
そのアトリエはかつて、舞台美術を手掛けていた老画家の工房だったという。今では使われなくなった空間に、再び“表現”が息を吹き返していた。
部屋の奥では、薄布に覆われた展示台に、一冊の台本、黒いリボンのついた筆記具、小さな音楽プレーヤー──沙理の遺品が静かに並べられていた。
色褪せたノートのページには、繰り返し修正されたセリフや、演出の指示が書き込まれている。ところどころ、赤いペンで引かれた言葉に、来場者は足を止めていた。
「この役には、“消えない声”が必要です。台詞ではなく、祈りのような声を──」
壁には、在りし日の沙理のスナップ写真が数枚。白黒で焼かれた彼女の横顔は、どこか舞台袖から客席を見守っているようにも見えた。
展示の最後、部屋の一角に、小さな仮設舞台が用意されていた。
高さは膝ほど、布製の幕と照明が簡素に組まれている。正面には、木製の立て看板が一枚。
「七景再演──ご自由にどうぞ。語り手は、あなたです」
椅子に腰掛けた初老の女性が、一歩舞台に上がり、台本を手に取った。
声は震えていたが、その響きには確かな輪郭があった。
「……第六景、“声なき教室”。
あなたがいない教室で、私はまだ、答えを探している──」
数人の来場者が静かに耳を傾けていた。子どもを連れた母親が、幼い娘に説明している。
「この台本を書いた女の子はね、昔、ここで演劇をしてたの。とてもすごいお話を考えていたんだって」
舞台の片隅では、元演劇部のOBたちが黙ってその光景を見守っていた。
かつての部長。道具係だった男子。照明を担当していた少女。
それぞれの胸に、あの“公演が中止になった夏”の記憶が重なっていた。
ひとり、またひとり。
舞台に立ち、言葉を紡ぎ、手渡された物語を読み上げる。
そこに“正解”はなかった。ただ、声に出すことで、沙理の残した「未完の劇」が、少しずつ完成に近づいていくようだった。
午後五時、アトリエの外では蝉が鳴き始め、窓辺に干された風鈴が小さく揺れた。
舞台に立った少女が、最後のセリフを読んだ。
「……カーテンが降りるとき、きっとあなたは、わたしの“観客”になってくれる」
その言葉に、ひときわ静かな拍手が起きた。
カーテンは降りない。
だが、物語はまだ終わっていない──そんな確かな余韻が、空間に漂っていた。
【2025年7月20日(日) 午後5:30】
京都・とあるアトリエ跡/沙理の遺品展 会場内
舞台の朗読がひと段落し、室内には静かな気配が戻っていた。蝉の鳴き声が遠くで響き、窓からは西日が柔らかく差し込んでいた。
そのとき、展示室の入口に数人の影が現れた。
長身で端整なスーツ姿の男──玲。
その後ろに、明るいブラウス姿で目を輝かせる朱音。
そして少し遅れて、杖をついた白髪混じりの男──香山圭三が、ゆっくりと足を踏み入れる。
「あれが……沙理さんの台本……?」
朱音は、展示台の前でそっと手を重ねた。
玲は黙って沙理の手書きノートに目を通していた。ページの端には、以前学園で見つけたものと同じ癖のある文字──“風景の中に溶ける台詞”と書かれた断章。
「……やはり彼女は、最初から“第八景”まで書いていた。途中で封じられたんじゃない。誰にも渡せなかったんだ」
玲の低い声に、香山が頷いた。
「彼女が死ぬ前日、私は原稿の一部を預かった……だが、あれが最後の草稿だったとは思っていなかった。もっと、彼女は続きを……」
香山の手が震えていた。杖を強く握る。
かつて顧問として過ごした学園の日々、台本の検閲に関わった自分の判断──それが、沙理の運命を変えてしまったのではないか。その思いが胸を刺していた。
「先生……」
朱音がそっと香山の手を握った。
「沙理さんの言葉は、まだ届いてる。ちゃんと、みんなに」
玲が、静かに一冊のパンフレットを取り出して香山に渡した。
それは、「七夕幻想」再演記録集。先日の講堂での“最後の舞台”の記録が収められた非公式の冊子だった。
「彼女の舞台は、終わっていません。
……“観客”がいる限り、物語は生き続ける」
玲の声には、淡い熱が宿っていた。
そのとき、別の来場者が小さな仮設舞台に上がった。
年配の男性。彼の手には、台本のコピーがあった。
「……第七景、“白い天井”。
消えたあの日の空は、どこまでも青くて、哀しかった」
その声に、朱音が小さく息をのんだ。
「……あのセリフ、わたし……夢で、何度も聞いた気がする」
玲がふと、朱音に目を向けた。
「それは、きっと“残響”だ。
言葉は、誰かに聞かれることで、生まれ直す」
静かに頷いた香山の目には、光がにじんでいた。
失ったものは取り戻せない。だが、受け取ることはできる。
それを、彼はようやく理解しはじめていた。
そして──
朱音は、一歩、舞台に近づいた。
少女の手が台本に触れ、ページがめくられる。
夕陽に染まる仮設舞台で、新たな“声”が生まれようとしていた。
【2025年7月20日(日) 午後6:00】
京都・とあるアトリエ跡/沙理の遺品展 最終演目「第八景:閉幕」
夕陽が、アトリエの窓から差し込んでいた。
仮設舞台の照明は落とされ、わずかな自然光が舞台中央を照らしていた。
朱音が立っていた。
小さな体でマイクを握り、緊張に唇を震わせながらも、目はまっすぐに観客席──玲、香山、霧島、そして幾人かの来場者たちを見据えていた。
やがて、彼女が口を開く。
⸻
「第八景:閉幕」
(脚本形式・抜粋)
観客席、暗転のまま。
舞台中央に“彼女”が現れる。ひとり、空を見上げて。
彼女(沙理):
「私は待っていたの。舞台の上で、誰かが“私の言葉”を話してくれるのを。
だれかが、“まだ終わっていない”って、言ってくれるのを……」
舞台上に、白い羽根がひとひら、落ちる。
彼女:
「私の結末は、ここではなかった。
闇の奥で声を失ったけど……記憶の中で、私はまだ生きてる。
だれかが覚えてくれる限り──私は、もう一度、幕を上げられる」
背景が夜空に変わり、ひとつの星が流れる。
彼女:
「ありがとう。あなたに、届いたのなら……それで、いいの」
⸻
静けさが舞台を包む。
朗読を終えた朱音は、しばらくその場から動けなかった。何かが胸の奥で締めつけられ、何かが温かく広がっていた。
観客の中から、最初の拍手が鳴った。
霧島あゆみだった。
彼女の目には涙がにじみ、それでも笑っていた。
「……やっと、言えたんだね。沙理」
次第に拍手は広がり、会場全体を包み込んだ。
香山は立ち上がれずにいた。
その掌の中には、かつて彼が黙殺した原稿のコピーが握られていた。
「……こんなにも、届くものだったのか……」
彼の声は震え、目には悔しさと安堵が滲んでいた。
玲は、静かに彼の肩に手を置いた。
「あなたが“証人”になったんです。
沙理の言葉は、過去じゃなく、今になった」
やがて、会場の片隅でひとりの年配女性が泣いていた。
沙理の中学時代の恩師だった。彼女は、何年も沙理の死に触れることを避けてきたが──この日だけは、最後まで聞くと決めていたのだ。
「……生徒が、最後まで、教師だった。
“何を残すか”を、ちゃんと考えていたんだね」
朗読の台本が、ゆっくりと閉じられた。
だれかがそっと窓を開ける。夏の風が舞い込むと、机の上の白い羽根がふわりと宙を舞い、舞台の上に舞い降りた。
それは、まるで沙理が微笑みながら“ありがとう”と言っているかのようだった。
⸻
傍注
この「第八景」の朗読は、その後、地元メディアやSNSで静かに話題となり、「未完成の舞台が、最も美しいラストを迎えた」と語られた。
玲たちはその夜、誰とも言葉を交わさず、それぞれの想いを抱えたまま京都をあとにした。
物語は幕を下ろした。
けれど、沙理の声は──
まだ、観客の中で、生きている。
【2025年7月20日(日) 午後7:00】
京都市内・小さな町家の一室(元演劇部員の貸別荘)
薄暮の町並みに風鈴が揺れる。
夕飯の席には、玲、朱音、香山、霧島あゆみの姿があった。湯気の立つ炊き込みご飯、味噌汁、そして簡素な煮物──どれも地元の惣菜屋で買い集めたものだったが、不思議と満ち足りた空気があった。
朱音は箸を止め、ぽつりと呟いた。
「沙理さんの声……ずっと、誰かに聞いてほしかったんだと思う」
玲が黙って頷いた。香山も何か言いかけたが、その言葉は茶碗の湯気に溶けた。
「ねえ、玲さん」
朱音は玲の顔を見上げる。「あの“第八景”って、沙理さんが本当に最後に言いたかったことだったの?」
玲は、箸を置いた。ゆっくりと、答える。
「……たぶん、“誰かに届いてほしい”って気持ちは、彼女が生きていたときより、死んだあとに強くなった。台詞の一つひとつが、まるで過去に戻って叫んでるみたいだった」
霧島あゆみが静かに言った。「彼女の“時間”は止まってた。でも、あの舞台で……ようやく、時計の針が動いた気がしたよ」
⸻
食後、縁側にて──
香山が立ち上がり、縁側に出た。
玲も後を追った。外には灯籠の明かりがちらほら灯り、遠くで鴨川の水音が聞こえていた。
香山は、目を伏せていた。
「……あの時、俺は見て見ぬふりをした。沙理の才能にも、訴えにも。
“部を守る”なんて、建前だった。……全部、自分の保身だった」
玲は静かに言った。
「あなたがあの時、逃げたのは事実です。でも──今日、あなたは見届けた。“逃げなかった”。その一点で、沙理は報われたはずです」
香山は苦笑する。「……それで、赦されると思うか?」
玲の声は穏やかだった。
「赦されるかどうかは、沙理が決めることじゃない。あなたが、これからどう生きるかだけです」
沈黙。
やがて、香山は微かに頷き、縁側に腰を下ろした。
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同時刻・SNSとメディアの反応
夜7時を過ぎ、SNSでは「#第八景」「#沙理の朗読劇」が緩やかにトレンド入りしていた。
地元の大学演劇サークルが投稿した動画付き感想には、数百件の反応がついていた。
「未完の台本なのに、完成されてた」
「“言葉が残る”って、こういうことかも」
「この人の生きた時間を、もっと早く知りたかった」
一部地方紙は翌朝の記事見出しを決めていた。
「封鎖された学園の13年、少女が遺した“最後の舞台”が開幕」
「花澤沙理──消えた声は、確かに届いた」
高校の演劇部フォーラムにも匿名投稿が続き、「私たちの演劇にも、こういう“記憶”があってほしい」といった声が寄せられていた。
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その夜、朱音の独白(心の声)
皆が眠りについた頃。朱音は一人、小さな和室の天井を見つめていた。
(……沙理さん、あたし、ちゃんと届いたかな)
(あなたが、誰かに“助けて”って言った声、あたし、聞こえたよ)
涙は流れなかった。けれど心の奥で、深く、何かが確かに結ばれていた。
その夜、朱音の夢には、あの舞台の光景がもう一度現れた。
“空に還る少女”が、最後にひとことだけ、笑って言った。
「ありがとう。あなたが照らしてくれた舞台──やっと、終わらせられた」
承知しました。
以下に【2025年7月21日(月) 午前9:00】──東京郊外のロッジに戻った玲たちの朝を描きます。
・事件後の“静かな帰路”
・朱音が夜に綴っていた「手紙」や「日記」
・沙理の“最後の目線”──回収される記憶の残像
すべてが、舞台の“閉幕”を静かに告げるような、余韻ある描写となるよう整えました。
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【2025年7月21日(月) 午前9:00】
東京郊外/玲探偵事務所ロッジ
夏の朝、森の奥には鳥の声が満ちていた。
ロッジの窓辺からは、昨日までの旅が嘘のような静けさが広がっていた。
玲は、まだコーヒーも淹れていないまま、木の机に向かって座っていた。
窓際には朱音のノートが一冊、置かれていた。ページの端に、昨日の日付が書かれている。
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【朱音の日記より】(2025年7月20日深夜)
「……今日、“第八景”を読んだとき、沙理さんの声が胸の中に響いた。
『私の声を覚えていて』『私の台詞を捨てないで』──そんな風に、聞こえた気がした。」
「玲さんは言った。“届いたかどうかは彼女が決めることじゃない”って。
でも私は信じたい。私たちが聞いた声が、沙理さんの願いの最後だったって。」
「明日、また東京に戻るけど……私、これからも書き続ける。
“終わった物語”を、“次に進めるため”に。」
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玲はノートを閉じた。そして机の奥から、一枚の古びた封筒を取り出す。
それは、**沙理の回想シーンの記録映像から復元された“最終稿のラストカット”**だった。
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沙理の回想(“最後の目線”の断片)
──それは講堂の天井に横たわった少女の、最後のまなざしだった。
照明は落ち、誰もいない客席。音も、声も、何もない。
それでも、沙理は笑っていた。
静かに目を閉じる前──彼女の目に映った最後の光景は、空席の舞台だった。
けれど、その空席の一番奥。
「誰かが立ち上がる気配」が、確かにあった。
──もしかして、私の台詞を、まだ誰かが、覚えてくれているのかもしれない。
そして沙理は、そっと息を吐いた。
「……なら、それでいい。
そのひとつが、生きていく誰かの景になるなら──
わたしの幕は、そこで降りていい」
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玲は、封筒を火にかけようとして、ふとやめた。
朱音のノートの隣に、そっと置く。
「……もう、捨てる必要はない」
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ロッジの外──
荷造りを終えた朱音と奈々が、車のエンジンをかける。沙耶は空を見上げ、何かを想っていた。
朱音がロッジの入口で立ち止まり、振り返った。
「玲さん。また、“誰かの声”を聞きに行くんでしょ?」
玲は肩をすくめて笑った。
「まあな。だが──君の耳も、もうそれが聞こえるだろう」
朱音はうなずき、助手席に乗り込んだ。
車が森を出ていく頃、朝の風に乗って、遠くから蝉の声が響いていた。
まるで、それが新しい景の“オープニングナンバー”のように。
【2025年7月21日(月) 午前10:12~】
東京郊外・玲探偵事務所車内/次の調査への旅路
夏の陽光が車内を優しく満たしていた。
朱音はスケッチブックを膝に乗せたまま、しばらく窓の外の景色を見つめていた。
新聞の見出しは、彼女の心に重くのしかかっている。
「暁明学園 七不思議再現連続殺人──犯人は“10年前の死”の弟だった」
見出しがひたすら単純化された事件の姿を映し出し、複雑な想いを飲み込んでしまった。
助手席の沙耶は、静かに口を開いた。
「本当のことは、あの紙面には載らない。だからこそ、私たちは違う形で“真実”を繋げていくしかない」
香山が後部座席から頷く。
「記録として残るものと、心に残るものは違う。俺たちの次の仕事は、その違いを埋める旅だ」
玲は運転しながらミラー越しに朱音を見た。
「沙理の物語は終わったわけじゃない。これからだ。次の調査先で、もっと知らなければならないことがある」
朱音はそっとスケッチブックを開き、そこに描かれた過去の断片を指でなぞる。
「この先の景色は、どんな舞台になるんだろう……」
玲はハンドルを握る手を強く締めた。
「どんな道でも進むしかない。あとは、私たちが灯りを灯していく」
車は緩やかなカーブを描きながら、次の目的地へと走り出した。
車内に、これからの物語の期待と覚悟が静かに満ちていた。
エピローグ
【2025年7月21日(月) 午前10:42】
関東近郊・高速道路を走るワゴン車内/玲探偵事務所一行
エンジン音とタイヤがアスファルトを撫でる音だけが、車内を満たしていた。
助手席では奈々が次の依頼地の地図を確認し、後部座席では朱音が窓の外に流れる風景をじっと見つめている。
窓ガラスに額を寄せながら、朱音はふと呟いた。
「……もし、あの“舞台”がなかったら……沙理さんは、ずっとひとりで忘れられてたのかな」
玲がバックミラー越しに答える。
「だろうな。だが、忘れられなかったからこそ……彼女は戻ってきた」
「“語られる記憶”ってやつは、誰かが口にする限り、消えはしない」
香山が、笑うように肩を竦める。
「記憶も、脚本も、人の心も──引き継ぐ人がいなけりゃ終わりってことか」
後部座席で、朱音がそっとスケッチブックを開く。
そこには、舞台の情景が一つひとつ、丁寧に描かれていた。
“第八景”のページには、小さくこう書かれていた。
>「沙理さんは、空に還ったけど、物語はここで終わらない」
沙耶が隣で、静かに朱音の肩に手を置いた。
「……行こう。次の物語へ」
車はまっすぐ、夏の陽光の中を走っていく。
道の先に何があるのかは、まだ誰にもわからない。
だがそれでも。
“幕は上がる”のだ。
後日談
■玲/東京・探偵事務所
7月末。蝉の声がけたたましく鳴く東京。
玲は事務所のデスクで、最新の依頼書を読んでいた。だが、その手元にはまだ一冊のファイル──「暁明学園 七不思議事件」の資料が置かれたままだ。
ふと、引き出しから古い切り抜きを取り出す。
『高校演劇賞 落選台本「七夕幻想」』──沙理の名前はどこにも載っていなかった。
「報われない才能、か……でも、伝えたよ。少なくとも、彼女の“最後の景”は」
玲は眼鏡を外し、静かに目を閉じた。
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■朱音/母・沙耶と暮らす山間のロッジ
朱音は朝の光の中、ロッジのウッドデッキに座って日記を書いていた。
ページの隅には、小さく舞台のスケッチ。そして、こう書かれていた。
> 「ほんとうのことは、こわい。でも、知ってよかった」
> 「沙理さんの声、わたし、ちゃんと聴けたよ」
沙耶が紅茶を差し出しながら、微笑む。
「その声を大切にしなさい。あの舞台を見たあなたは、もう“観客”じゃないんだから」
朱音はうなずいた。
彼女はまだ幼いが、確かに“目撃者”になっていた。
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■香山圭三/都内の小さな書斎
古びた一軒家の書斎。かつて教師だった香山は、ついに重い腰を上げていた。
彼は古い段ボール箱から、一冊の未発表小説原稿を取り出す。
「“第七景”──沙理が見せたかった景色。なら、俺は“第九景”を書こう。
彼女がその後を見たかったのなら、その続きを描いてやるさ」
万年筆のインクが滑る音が、静かな室内に響いた。
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■霧島あゆみ/京都・市民ホール演劇ワークショップ
霧島あゆみは、子どもたちと即興劇をしていた。
その姿はあの講堂の舞台とは違うが、どこか誇らしげだった。
子どもの一人が、演技の途中でセリフを忘れ、照れて笑った。
「忘れてもいいの。大事なのは“その時、自分が何を感じたか”よ」
ふと、空を見上げる。
「あなたの最後の舞台、観たわよ。沙理。──本当に、ありがとう」
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■時任 昴/拘置所から出た後、地方の図書館にて
釈放された時任は、世間から半ば忘れ去られた町の図書館にいた。
彼は蔵書整理の手伝いをしながら、時折、机に向かって文章を書いていた。
「語るのが罪になることもある。
でも──語らなければ“彼女”の死は、ただの悲劇で終わってしまう」
彼は自分の言葉で、“沙理が見た最後の夜”を書き続けていた。
それは赦しではなく、償いであり、証明でもあった。
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■元演劇部顧問・吉住/地方の高校演劇指導員として
吉住は新しい赴任校で、演劇部の顧問をしていた。
若い生徒たちに囲まれ、台本の読み合わせが始まる。
その中には、沙理の“破棄された脚本”を基にした短編劇が含まれていた。
「これは、昔、僕が見逃した“可能性”なんだ。お前たちには、それを超えてほしい」
生徒たちは真剣な顔でうなずき、ページをめくった。
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■九条凛・御子柴理央・水無瀬透(玲探偵事務所・記憶分析チーム)
事務所の別室で、記憶記録データの整理が行われていた。
沙理の事件で用いた全データと証言、視覚資料をデジタル化し、アーカイブ化していた。
「忘れないために、記録する。忘れてもいいように、残す。
……その違いを知ったのが、今回の事件だったな」
水無瀬が呟き、九条がそのデータにパスワードを打ち込む。
“Tanabata_Story_LastCurtain”
御子柴は静かに言った。
「これで終わりじゃない。これは“伝えるための記録”だ」
霧島あゆみのあとがき
──私は、ずっと傍観者でした。
舞台の上に立つこともなく、ただ影の中から見つめるだけの臆病な自分。
でも、あの夜の出来事は、誰のせいでもない――誰も正しく、誰も間違っていなかった。
私が伝えたかったのは、「やり直せる未来」の存在です。
失われた時間も、消えてしまった記録も、封じられた記憶も、すべては繋がり、見守る者の胸に残る。
だから、私はこの舞台を、一人で終わらせることにしました。
けれど、それは“孤独な終幕”ではありません。
この物語を見届けたすべての人の存在が、光となり、救いとなりました。
そして、過去の罪も恐怖も、少しずつ、許されていくのだと信じています。
どうか、この記憶の断片を、未来の舞台に生かしてください。
誰かを責めず、誰かを裁かず、ただ見守ることの大切さを。
私はもう、舞台袖で震えるだけの少女ではありません。
舞台の中央に立ち、静かに、すべてを見届けました。
――霧島あゆみ




