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60話 青鷺村の記憶

現代


神崎かんざき れい

現代の探偵。冷静沈着で状況判断に優れる。昭和の事件記録や現場を調査し、過去と現代を繋ぐ手がかりを発見する。


佐々ささき 朱音あかね

玲と共に現場調査を行う少女。独特の直感力を持ち、スケッチブックに描く絵が事件解明の重要な鍵となる。


水尾 カナエ(みお かなえ)

昭和の水尾家事件を生き延びた高齢の女性。現代では事件の真相を語り、失われた記録や少女・柚葉の存在を証言する。


柚木ゆずき 成海なるみ

昭和当時の看護師。現代では玲と朱音の調査を補佐する形で登場。事件の目撃者としての知識を提供する。


K部門/警視庁文化財保全班・調査班

廃屋・火葬塚・隠し空間などの現場調査を担当。現代の科学的証拠や映像解析で事件の痕跡を追う。


水尾みお 柚葉ゆずは

昭和十二年に奥座敷で行方不明になった少女。現代では生存しており、カナエとの再会を通じて過去の記憶と向き合う。



昭和(1937年・青鷺村)


水尾 カナエ(若き日)

事件当時の少女。水尾家の奥座敷で起きた惨劇を目撃し、長く隠された真実を抱える。


水尾みお 柚葉ゆずは

奥座敷で行方不明になった少女。隠し扉に身を隠して生き延びるが、外部には「消えた」と記録される。


水尾 義高

水尾家当主。家族や家系を守ろうとするあまり、事件の中心に巻き込まれ、記録を残したために殺害される。


水尾家長男

義高の息子。父の命令や家の名誉を守る立場で、事件に直接関与。


奉公人たち/使用人

奥座敷の管理や、事件発生時に少女を隠す役割を担う。


カナエ視点の少女(若き日)

奥座敷で事件を目撃する、重要な視点人物。

【場所:ロッジ内・玲探偵事務所】

【時間:午後11時58分】


古い山小屋を改装したロッジ内探偵事務所は、雨の匂いを含んだ冷たい空気で満ちていた。

外階段を叩く小雨の音が、深夜の静寂と混ざり合っている。


端末の通知音が短く鋭く鳴り、暗がりの部屋に青白い光が広がった。


玲は横目でモニターを確認しつつ、手に持っていた写真を机に置いた。

その視線は沈着で、揺れはない。ただ、わずかな苛立ちと焦りが潜んでいた。


画面に表示された送信者――橘奈々。


「……奈々か。この時間にとは珍しい」


玲が呟くと、受信画面が自動で通話モードに切り替わる。

ノイズ混じりの映像の向こうで、奈々が眉を寄せていた。


「玲……今、神崎さんの書斎にいるってログが出たけど、無事?K部門のセキュリティが異常を検知したの」


玲は一度だけ深く息を吐き、カーペットに残された血痕へ視線を落とす。


「無事だ。……ただし、ここはもう安全じゃない」


「血痕、見つけたのね」


奈々の声がかすかに震える。


玲は、机の上のメモ――神崎が残した“13人目の鍵”の文章に指先を触れた。

その一瞬だけ、彼の目の奥に鋭い光が宿る。


「奈々。神崎は意図的に“痕跡を残した”。消される前に、俺たちへ向けて」


奈々は目を丸くし、画面の向こうで体を乗り出す。


「つまり……追われてた?」


「追われていた、というより……“誘導された”のかもしれない」


玲は静かに立ち上がり、引っかき傷の残る壁を懐中電灯で照らす。

そこには、人の爪でつけるには不自然な――何か硬質なものによる痕が残っていた。


「……神崎は、何かに気づいた。

 俺たちがまだ見落としている“青鷺村の断層”にな」


奈々は息を呑んだ。


「玲、依頼内容……まだ開いてないんだよね?

 さっき届いたあれ、K部門の正式依頼じゃないの。

 “内部からの不正アクセス”で送られた形跡がある」


玲の手が一瞬止まる。


「……誰だ。誰がそんな真似を」


「発信元は……神城彰馬の個人コード。

 けど、神城さんは一週間前に行方不明のまま」


玲の沈黙が、部屋の温度をさらに下げた。


雨音だけが、記憶の底を叩くように響く。


「奈々。ロッジ内の監視ログ、すべて過去72時間分をこっちに送れ。あと――神崎の最終通信記録もだ」


奈々は必死にキーボードを叩く音を背後で鳴らしながら、深く頷いた。


「了解。……玲、気をつけて。

 “青鷺村事件”をもう一度開こうとするなら、必ず誰かが動く」


玲は目の前の暗い窓に映る自分の姿を見つめ、低く呟いた。


「もう動いてる。神崎を消した連中は――次に、俺を狙う」


その瞬間、突風がロッジを揺らし、風鈴がかすかに白く鳴った。


玲は写真をひとつ掴み、コートの内側にしまう。


「奈々。本格的に“始まる”ぞ」


画面の向こうで、奈々が小さく息を呑んだ。


「……はい。青鷺村事件――再調査、開始します」


モニターが暗転する。


玲は最後に、書斎に残された血痕に目を落とし、静かに呟いた。


「神崎。……確かに受け取った」


そして彼は、闇と雨の落ちるロッジの廊下へと踏み出した。


探偵事務所の扉が閉まる音だけが、深夜の静寂に響いた。


【場所:ロッジ内・玲探偵事務所】

【時間:午前0時07分】


モニターに表示された東条千紘からの“異常に短く、そして焦燥の滲む第一報”。

玲は読み進めるにつれ、まぶたの奥の温度がわずかに変わるのを感じた。


遺体はある。

血痕はない。

穿孔痕。

水門下。


そして――午前3時12分。


「……千紘、随分急いで送ってきたな」


玲は報告文から視線を外し、添付された写真を開く。


一枚目。

湿ったコンクリート。うつ伏せの男性。

首筋に、細い何かで貫かれたような孔。

そのまわりの皮膚が、不自然に白い。


二枚目。

遺体を囲む水際。

血の影は一滴もない。

雨が消した形跡もない――本当に“最初からない”。


三枚目。

水門のシャッター裏に、爪の跡のような浅い引っかき傷。


玲の喉がかすかに動く。


「……これもか」


青鷺村の封印線で見た“あの痕”と、あまりにも形状が近い。


画面の右下に緊急回線の通知が点滅した。

玲はワンクリックで開く。


東条千紘の音声が、かすれたまま流れた。


『玲さん……確認できました? これ、普通じゃありません。

 遺体の体表温度も、死亡推定時刻も……どれも“合わない”。』


「詳しく言え」


玲の声は冷静だが、端から見ると明らかに緊張が走っている。


千紘は小さく呼吸を置いてから続けた。


『遺体、発見時点で……体温が“まだ残っていたんです”。

 心停止は2~3時間前のはずなのに。

 血液の流出痕が一切ないのに。』


玲は深く目を閉じた。

背後の窓を雨が叩いている――その音が、不自然なほど鋭い。


「千紘。

 ……深川第三水門の周辺、半径三百メートルの監視網を全部提出しろ。

 K部門のログじゃ追い切れない“空白”があるはずだ」


『既に抽出中です。……玲さん。

 穿孔痕の軌道、青鷺村事件の第七報と一致します。』


玲の指が止まった。

報告書のタイトル――

「青鷺村関連事件:都市部封印との相関性(第7報)」

まさに机の上にあったものだ。


「……千紘、誰がこれを発見した?」


『巡回の署員。

 でも――“見つけたはずの署員の記録が5分間途切れている”んです。

 本人は覚えていないと』


玲は息を吸い、静かに吐き出した。


記憶欠損。

血痕なし。

穿孔痕。

封印線の痕跡。


青鷺村の“黒い水脈”が、都市に滲み始めている。


玲は机の上に置いたフィルム写真を見た。

廃駅の前に立つ神崎と、“消えたはずの少女”。


「……神崎。

 お前はこれを知っていて、ロッジに痕跡を残したのか」


玲はコートを羽織り直し、通信に向かって短く言った。


「千紘。

 現場へ向かう。奈々と連絡は?」


『すでに起きてます。すぐ接続できます』


「よし。……三人で動く」


直後、玲は写真とメモをポケットに滑り込ませ、薄暗い事務所の灯りを落とした。


ドアを開けた瞬間、夜風が吹き込み、風鈴が短く鳴った。


玲は足を止めず、階段を下りながら呟いた。


「深川と青鷺村が繋がる理由――

 ……神崎、お前だけが知っていたわけじゃないようだな」


雨の匂いが濃くなる。


ロッジの外灯が淡く照らす中、玲は深夜の闇へと姿を消した。


【場所:ロッジ内・玲探偵事務所】

【時間:午前0時14分】


玲は無言のまま立ち上がり、椅子が静かに後ろへ滑った。

壁際に掛けていた黒いジャケットへ手を伸ばす。


袖を通すと、秋の湿った冷気が肌に触れた。

微かに震えるようなその温度が、脳裏の記憶を刺激する。


――失血死に見せかけた猟奇的犯行。


青鷺村の封印線で見つかった、あの“血のない遺体”。

皮膚だけが白く、体内が空洞のように感じられた検視記録。

死後数時間が経っているのに、体温だけがありえないほど残っていた異常。


始まりは、あの事件だった。


玲の指先がジャケットのボタンを留める途中で止まる。


「……また、かよ」


低く、誰に向けたものでもない独白。

諦めではなく、決意の色を帯びた声だった。


そのとき、事務所の奥で端末が短くピッと鳴る。

奈々からの即応回線だ。


玲は端末を耳に当てる。


『玲さん? 報告、今見ました。……深川の件、やっぱりおかしいですね』


「“血がない遺体”なんて、偶然で片づけるには無理がある」


玲は手早く室内を見渡し、必要な機材だけをバッグに詰める。


懐中電灯、録音端末、簡易分析キット。

そして、神崎が残したフィルム写真。


『……玲さん。

 例の“封印線の形状”、青鷺村のものと一致したって千紘さんが』


「知ってる。ログも全部確認した」


玲はジャケットの襟を立て、部屋の灯りを落とした。

暗闇の中で、モニターの通知アイコンだけがぼんやりと光っている。


「奈々。現場集合だ。

 深川第三水門。……これは、ただの変死じゃ済まない」


『了解。すぐ向かいます』


通信が切れ、静寂が戻る。


玲は部屋の出口に向かいながら、ふと立ち止まった。


机の上に残された報告書「第7報」。

そのタイトルが、薄暗い光の中で浮かび上がる。


──“都市部封印との相関性”。


「……神崎。“鍵”が向く先、ようやく見えてきた」


玲は目を細めた。

全てが、また同じ“空白”へ吸い込まれていく――そんな予感がする。


静かなロッジの廊下に出ると、夜風が足もとを撫でた。


風鈴が、誰も触れていないのに揺れた。

微かな――だが確かに耳に残る、高い音。


玲は振り返らず、闇の中へ歩き出す。


「……終わってない。

 青鷺村も、神崎も。

 何一つ、終わっちゃいなかったんだ。」


【場所:江東区・深川第三水門下/立入禁止区域】

【時間:午前4時32分】


霧がまだ低く漂い、街灯の光をぼんやりと拡散させていた。

立入禁止の黄色テープが風に揺れ、護岸沿いには警察とK部門の調査班が散開している。


その中央――

コンクリートの上、仰向けで倒れた男性の遺体。


40代後半、スーツ姿。

革靴は泥で汚れ、ネクタイは苦しむように片側へ引き攣れていた。


だが、何より異様なのは――

首筋の左右対称の穿孔痕と、

その周囲に血痕が一滴もないことだった。


玲は屈み込み、ライトを近づけながら小声でつぶやく。


「……完全に“抜かれてる”。

 表面だけじゃない。組織の深部まで、流出がゼロ……?」


奈々が後ろから駆け寄り、寒さに肩をすくめながら問いかける。


「玲、どう? 普通の刺創じゃないよね。

 血も流れてないし……これ、まるで――」


「青鷺村の“第三事案”と同じだ」


玲の声は低く、確信めいた重さを帯びていた。


奈々が息を呑む。


「……やっぱりか。じゃあ、この人も“内側の血”だけ失われて……?」


玲は頷き、遺体の手首を確認する。

脈は当然ない。温度も、冷えきっている――はずだった。


だが。


「……あったかい。死後、そんなに時間が経ってないはずなのに……」


玲は眉をひそめる。


そのとき、後方から声が飛んだ。


「玲さん、これ見てください!」


駆け寄ってきたのは、記録係の東条千紘。

彼女はタブレットを操作しながら、護岸の柵に指を向ける。


「監視カメラの解析、今さっき上がりました。

 この区域、立入禁止なのに……午前3時10分、柵の外側に“誰か”が立ってたんです」


玲が視線だけで促すと、東条は続ける。


「でも、映像には……顔が映ってない。

 ポストプロセスの反射じゃ説明できない“欠落”があって……」


奈々が震えた声で言う。


「もしかして、その“誰か”が……?」


「少なくとも、この遺体をここに置いたのは間違いない」


玲は立ち上がり、護岸の先――薄明かりが滲む川面を見る。


水門のゲートが低い音を立て、遠くで船の影がわずかに揺れた。


その瞬間。


川の奥から、**チリ……**と“風鈴のような音”が、一度だけ鳴った。


風は吹いていない。

吊るされたものは何もない。


奈々が息を止める。


「……玲。今の、聞こえた?」


玲は川面を睨みながら、静かに答えた。


「――呼んでるな。

 “また始まるぞ”って、あのときと同じ音だ」


朝日はまだ昇らない。

湿った空気が、再び何かを告げようとしていた。


10月10日 午前5時01分

江東区・深川第三水門下 立入禁止区域/簡易照明下の現場


奈々はタブレットを胸の前で軽く抱え、画面を玲へ向けた。

薄暗い照明の中、表示された映像は“奇妙な異常”をはっきりと捉えていた。


「第一発見者は午前3時12分。通報から警察を経由して、私たちに回ってきたのは午前4時。

既に遺体は法医解剖の手配が進んでいます。けど……それより気になるのがこれ」


奈々の指先が画面の一点を示す。


タブレットに映るのは、護岸に倒れた男性の首筋のアップ写真。

左右対称の穿孔痕──だがその周囲に、

本来ついているはずの“血の滲み”が一切ない。


玲は前屈みになり、画面を覗き込む。

静かな声だが、明確な警戒が滲んだ。


「傷は深い。動脈に触れていておかしくない。

……なのに血痕ゼロか」


「はい。さらに、これを見て」


奈々は再び画面をスワイプした。

別角度から撮影された写真が表示される。


男性の胸元、スーツの繊維がわずかに歪んでいる。

裂けた跡……ではない。

しかし、何か“外力”の痕跡がある。


「胸部に軽度の圧痕。手で押したような形状にも見えますけど……」

奈々は眉を寄せた。

「その“力”が方向的に不自然なんです。上からじゃなく、横から。

まるで数秒だけ、強い力で固定されたみたいな」


玲は思案するように息を吐いた。


「固定……。

……血痕を消すための処理をした可能性は?」


「それも考えたんですが……血痕除去剤の反応が一切ないんです。

薬剤を使ったなら痕跡が必ず出ます。

でも地面も衣服も反応ゼロ」


玲は短く低く呟く。


「“流れた血が存在しなかった”……そう考えるしかないのか」


奈々が頷いた直後、

護岸の向こうから冷たい川風が吹きつけ、照明がかすかに揺れた。


奈々は少し声を落とす。


「玲さん……

この傷、十年前の“倉庫事件”の遺体と……一致しています」


玲の視線が鋭く細められる。


「──同じ“手口”か」


「ええ。

『血を残さない穿孔痕』……また始まったんです。

十年前と同じ、名前のない犯行が」


玲はしばし黙し、被害者の元へと歩を進めた。

簡易シートの影がわずかに揺れ、秋の冷たい空気が皮膚に刺さる。


「……確認する必要があるな。

“あれ”が、本当に再び動き出したのか」


奈々はタブレットを抱え直し、

背筋を伸ばして玲の背中を追った。


夜明け前の水門区画に、

ふたりの足音が淡く響いて消えていった――。


了解。それでは関係性を踏まえ、呼び捨て・タメ口での続きに調整して書き直します。



10月10日 午前5時09分

江東区・深川第三水門下 現場検証エリア脇


川面を渡る冷気が、照明の白布をかすかに揺らした。

奈々は肩をすくめ、タブレットを胸に抱えたまま言った。


「……誰かが、“吸血鬼”の演出してるよ。

しかも、見た瞬間に“そう思っちゃうように”あえて作ってる」


玲は白布越しの遺体を一瞥し、片膝をついて穿孔痕の位置を空中になぞる。

低く、沈んだ声で返した。


「人為的な怪物像か……。

目的は恐怖じゃない。

“本来の手口”をごまかすためだ」


奈々は眉を寄せる。


「つまりカモフラージュってわけね。都市伝説の」


「そうだ。」

玲は立ち上がり、冷気で揺れるコートの襟を直した。

「普通の殺人を隠し、代わりに非現実的な要素を置く。

精度は高い。……丁寧すぎるくらいだ」


奈々は唇を噛む。


「十年前と同じだよ、これ。

あの時も血痕ゼロだった。

今回も首の穿孔痕が左右対称……偶然じゃない」


玲は視線を遠くの老夫婦に向けた。

立入禁止前に散歩していたという第一発見者だ。


「“演出の方向性”が一致している。

犯人が同一なら──

あるいは模倣なら──」


「どっちでも厄介だってことでしょ」


玲は、答えずにわずかに息を吐いた。


「吸血鬼なんていない。

いないからこそ“存在する証拠”を残すのは不自然だ。

……犯人は人間だよ。

人間なら、痕跡を隠しきれない」


奈々は顔を上げ、玲を見た。


「じゃあ、どうするの?」


玲は手袋をつけながら、淡々と言った。


「まず遺体搬送先へ連絡。

解剖前に“首以外”の傷を確認してもらえ。

それから──」


視線が護岸の鉄柵に向く。


「ここで殺されてない可能性が高い。

血が出てないんだから搬入だ。

搬入経路を洗うぞ」


「了解。カメラログは今すぐ取る」

奈々は端末を操作しつつ、ちらりと玲を見た。

「……玲。さっきから黙ってるけどさ。

あんた、もう気づいてるよね?

これ、十年前の“続き”だって」


玲は答えなかった。

だが、その沈黙は否定ではなかった。


夜の名残を引きずる空に、うっすらと朝の朱が滲む。


──再び幕を開けた、“血の消える事件”。

続きは、まだ誰にも読めない。


【プロローグ】

10月9日 午後11時46分

東京都・青鷺原あおさぎはら旧道沿い 無人バス停


月が異様なまでに赤かった。

まるで、夜空そのものがひっそりと何かを喪って、

それでも平静を装っているような、そんな赤さだった。


風はほとんど吹かず、枯れ葉の落ちる音すらしない。

時刻表の捲れた紙だけが、時折かすかに鳴る。


そのバス停に、一人の少女が立っていた。

年の頃は十五、六。白いセーラーの襟が赤い月光に染まり、

髪は肩で揺れるほどの短い黒。

足元には、薄い影が細く伸びている。


少女は、誰かを待つようにじっと道路の先を見つめていた。


「……来ない、のね」


その声は、かすかに震えていた。

寒さのせいではない。

背後に広がる森の奥から、何かが“見ている”気配が、

肌の上を這うようにまとわりついていた。


少女は肩を抱き、目を閉じる。


「でも……来なきゃいけない。

だって、あの人は言ったもの。

“次は十三年後、赤い月の夜に”って……」


カサ……

森の中で枝の折れる音がした。


少女は瞬時に振り返る。

そこには、誰もいない。

しかし赤い月に照らされた木々の影は、

まるで人の形に見えるほど歪んでいる。


「お願い……もう、出てこないで……」


そう呟いた時だった。


──キィ……ン。


耳の奥をかすめるような、高い金属音。

少女は頭を押さえ、よろめいた。


「やだ……また、これ……」


視界が揺れ、地面と空の境界が曖昧になる。


そして。


道路の先、誰もいなかったはずの闇の奥に、

ゆっくりと“影”が現れた。


人影。

しかし、その歩みは異様なほど静かで、足音がまるでない。


少女は息を呑む。


「……来た。

ほんとうに……来ちゃった……」


赤い月が、さらに赤くなる。

影は少女の前で立ち止まり、低い声で囁いた。


「──時間だ。行こう」


少女の顔から、血の気が引いた。


「いや……いや……まだ……私、行きたく……ない……」


影は一歩、近づく。

その存在だけで、空気が凍りついた。


「約束だろう。

“十三年後に迎えに来る”……

そう言ったのは、君だ」


少女の瞳に涙が滲む。


「ちがう……!

あれは、そんな意味じゃ……!」


影の右手が、月光を遮るように伸びた。


赤い月が、悲鳴のようにひしゃげた瞬間——


少女の姿は、夜気の中へすっと溶けるように消えた。


バス停には、もう誰もいない。


ただ、赤い月だけが。

その異様な光を、静かに降らせ続けていた。


11月22日 午前6時45分

東京都・江東区深川・古民家屋敷内


玲は玄関の引き戸を押し開け、静かに屋敷の中に足を踏み入れた。朝靄の残る庭から差し込む光が、畳の上に淡い模様を描く。湿った木の香りと、わずかに腐葉土の匂いが混じった空気が鼻をかすめた。


床の間の前、古い掛け軸の下に膝をつくようにして、一人の男の死体があった。衣服は整っており、抵抗の跡はない。所持品も財布と手帳、スマートフォンと最低限で、奇妙なほど乱れがなかった。


奈々がすぐ横に立ち、低く呟く。

「玲……血が、全くない。乾いてもいないし、流れた形跡もない……」


玲は指先で男の首筋を軽く確認し、穿孔痕を見つめる。

「見えるか、奈々……左右対称に小さな穴がある。吸血を思わせる。でも、血は一滴もない」


奈々は俯き、床や畳の隅を指で確認した。

「入り口の引き戸も割れてないし、鍵も壊されてない。外部から無理やり入った形跡はない……内部からか、巧妙な侵入者か」


玲は掛け軸の横に立ち、周囲の障子や欄間を観察する。

「屋敷の構造を利用している……ただの犯行じゃない。演出だ、完全に」


奈々はカメラを取り出し、死体の角度を撮影しながら小さくため息をついた。

「玲……これ、また例の“失血死に見せかける猟奇”の可能性があるね」


玲は頷き、周囲を見渡す。朝の光が障子を通して淡く差し込み、畳の目を照らす。

「可能性は高い。ただ今回は、より巧妙だ。血を完全に消している点で、現場操作の精度が桁違いだ」


二人は互いに目を合わせ、静かに機材を広げた。

庭の木々が風に揺れる音だけが、屋敷内の静寂を切り裂く。

玲は息を整え、決意を固めた。

「まずは全体を解析だ。血痕がない以上、他の手掛かりを絶対に見逃せない」


奈々は頷き、カメラとセンサーの準備を始めた。

「了解、玲。全域を記録していこう」


古民家の畳の上、二人だけが知る“完璧に仕組まれた死”が静かに待っていた。


東京都・江東区深川・古民家屋敷内 早朝


玲は男の首筋を慎重に観察した。喉元には2カ所の穿孔。まるで鋭い犬歯で刺されたかのように小さな穴が並んでいる。その周囲には、わずかに赤い内出血の痕が浮かんでいた。


奈々が低く呟く。

「玲……これ、人為的だよ……自然にはならない」


玲は静かに頷き、穿孔の角度と深さを指先で確認するように見つめた。

「左右対称で、血が出ない。どうやってこんな痕だけ残したんだ……」


奈々は視線を周囲に移しながら、そっと言った。

「完全に“吸血を思わせる演出”だね。でも血は一滴もない……」


玲は障子の桟や梁の隙間に目を走らせる。

「犯人は屋敷の構造を熟知している。侵入も、痕跡の操作も、計算済みだ」


奈々はカメラを構え、男の首筋を撮影しながら続ける。

「この痕、解析すれば手掛かりになるかも……玲、レーザーで断面も調べよう」


玲は頷き、機材を取り出す。

「血痕がなくても、穿孔の角度や深さから、使われた道具や力加減はわかる」


二人の息遣いだけが、静まり返った古民家屋敷に響いた。

窓の外、遠くの木立を揺らす風が、微かに緊張感を増幅させる。


東京都・江東区深川・古民家屋敷内 早朝


やがて、現場に踏み込んだK部門の記録係・東条千紘は、懐中ライトを落とした。光が床に揺れる。


「……なるほど、血痕は本当にない。いや、これは……相当な手口だな」

彼は低く呟き、慎重に男の遺体の周囲を観察する。手袋越しに触れず、記録用のタブレットに詳細を打ち込んでいく。


奈々が玲の肩越しに声をかける。

「玲、千紘も来た。これで現場解析は本格化するね」


玲は僅かに頷き、遺体を一瞥する。

「穿孔の角度と距離を正確に記録しろ。血が出ないからって、手を抜くわけにはいかない」


千紘はタブレットを操作しながら、メモをつぶやくように読み上げた。

「穿孔部は左右対称。深さはおよそ5ミリ。痕の周囲には微細な内出血……外力による刺創だと判断」


奈々は懐中ライトを持ち替え、障子の隙間や梁の影を照らす。

「侵入経路も重要だよね。窓も鍵も壊れてないし、誰かがわざと開けたんだろうか……」


玲はじっと天井や壁の構造を見上げる。

「屋敷の構造を熟知していないと、こういう“演出”はできない。犯人は計算済みだ」


千紘はタブレットに追記しながら言った。

「現場の記録をすべて残す。血痕がないからこそ、あらゆる痕跡が重要になる」


三人の視線が、静まり返った古民家屋敷の空間を巡った。

外の木立を揺らす風は、わずかに冷たく、緊張感を際立たせるだけだった。


東京都・江東区深川・古民家屋敷内 早朝


玲は男の遺体を見下ろしながら、低く問いかける。

「“招かれた”んですか、被害者は……?」


千紘はライトを動かし、床や障子の隙間を丹念に確認しながら答えた。

「可能性は高いです。鍵も壊れていないし、窓も開かれていない。強制侵入の痕跡は見当たりません」


奈々が横から口を挟む。

「じゃあ、知らずに入ったんじゃなくて、誰かに入るよう仕向けられたってこと?」


玲は短く頷き、穿孔の痕を指で示す。

「血が一滴もない。これは演出だ。犯人は被害者に“見せたいもの”があった。そして、その場に誘導した」


千紘はタブレットに入力しながら、眉をひそめる。

「通常の殺人とは全く違う心理戦ですね……相手に気づかれず、印象だけを残す。完全に計算されている」


奈々は壁の陰をライトで照らしながら、低く呟いた。

「怖いのは、犯人がまだこの屋敷のどこかに潜んでる可能性もあるってことだよね……」


玲は深く息を吐き、現場の空気を肌で感じ取る。

「静かだが、情報はあふれている。血がないからこそ、痕跡の一つ一つが真実への手がかりになる」


三人は黙ったまま、古民家の空間を見渡した。

障子越しに朝の光がわずかに差し込み、埃を浮かび上がらせる。

冷たく、湿った空気の中に、事件の匂いが色濃く残っていた。


東京都内・建築資料館裏手の職員通用口付近 午前


薄曇りの空の下、関係者立会いのもと身元確認が行われた。

携帯端末に照合結果が表示された瞬間、奈々が目を細めて呟く。


「……石倉圭吾。青鷺村、元役場職員……また“青鷺”かよ」


千紘は端末を玲に渡しながら、声を潜めた。

「旧村関連の資料が最近都市部に移管されていて、石倉さんはその管理担当だったみたいです。

今はこの資料館の建築史部門に配属されていたとか」


玲は端末の画面を一瞥し、遠くを見るような目をした。

「青鷺村総務課……十数年前の“封鎖資料”に最も近い部署だな」


奈々が腕を組み、軽く舌打ちした。

「……狙われる理由、あるじゃん。

役場時代の石倉さん、封印系の文書に触ってた可能性あるでしょ。

本人が覚えてなくても、“何を見たか”は犯人の方が覚えてるかもしれない」


千紘は資料館の建物を振り返りながら、額に手を当てる。

「でも、どうして“青鷺村の人間”が都会の古民家で殺されるんです?

勤務先から離れすぎてます」


玲は静かに答える。

「逆だ。

“離れている場所だからこそ”犯人は選んだ。

青鷺と直接つながらない土地なら、“偶然の不審死”に見せやすい」


奈々が深く息を吐いた。

「……で、あの喉の刺し跡。“吸われたみたいに血がない遺体”。

こんな露骨なやり方、絶対に誰かに“伝えたいメッセージ”でしょ」


玲は端末を閉じ、目線を鋭くした。

「石倉圭吾の職歴、交友関係、青鷺村での担当業務。

それから、資料館に移ってから接触した人物。

すべて洗うぞ。

……この事件は、まだ“入口”に過ぎない」


奈々が苦笑しながらも肩をすくめる。

「はいはい、了解。

どうせまた面倒な迷路に入るんでしょ、玲」


玲は返事をしなかった。

ただ、ほんの少しだけ眉が動いた。

その表情が、この事件の深さを物語っていた。


東京都・古民家跡地/中庭


かすかな朝霧が、古びた中庭に停滞していた。

夜と朝の境目に浮かぶ靄は、月の赤さをわずかに薄めながら、

冷たい石畳と苔の上に、息を凝らすように降りていた。


その白い靄を踏み分けるようにして、玲がゆっくりと歩みを進める。

足音はほとんど響かない。

この場所に、まだ“死の気配”が残っていることを、彼自身が理解していた。


少し遅れて、奈々が敷居をまたぐ。

彼女は視線を中庭の隅々まで走らせ、すぐに眉をひそめた。


「……妙だね。

誰かが通った形跡はあるのに、足跡の“深さ”がバラバラ。

重さじゃなくて……歩幅のリズムが不自然」


玲は霧の向こう、石畳に残るわずかな擦過痕を覗き込む。

指先で形を辿り、静かに答える。


「複数人の可能性もあるが……これは“ひとり”だ。

歩き方を変えたんだ。途中で。」


奈々が小さく息を呑む。

「歩き方を変える? なんのために?」


「足跡を読ませないため……というより、

“本来の動作を隠すため”だな。

――この犯人、身体の使い方が普通じゃない」


そのとき、霧の層を切るようにして、

中庭奥の座敷から千紘が小走りに現れた。

手には分厚い調査ファイル。


「玲さん、奈々さん……あの、ひとつだけ確認を。

仏壇の引き出しから、被害者のものじゃないメモが出てきました。

内容が……」


奈々が片眉を上げる。

「また“青鷺村ネタ”?」


千紘は一瞬ためらい、紙を差し出した。

そこに書かれていたのは、震えるような小さな字。


『赤月の夜、迎え入れてはならない

 ──封印家系・石倉一族』


玲が長く息を吐いた。

夜明け前の霧が、その吐息に揺れる。


「……やはり“招かれた”のは偶然じゃないらしい」


奈々が息を詰めた。

霧は少しずつ薄れていくのに、空気だけはどんどん重くなっていく。


玲は目を細め、中庭の中心――

苔の上に落ちた、たったひとつの黒い点に視線を向けた。


乾いた“血の粒”だった。


「ここで何が行われたのか……

 まだ、誰も説明できていない。」


その言葉だけが、朝霧の中で重く響いた。


東京都・古民家跡地/座敷


簡易ライトの照明の下。

K部門の現場検証チームが、静かに“異常の兆候”を分析していた。


薄い青白い光が畳の目を浮かび上がらせ、

その上に置かれたルミノール反応用のシートが、かすかに揺れる。


千紘がライトを傾け、記録端末を操作しながら低くつぶやいた。


「……反応は無し。

 血液の飛散も、流出も、付着もゼロ。

 なのに死因は“急性循環不全の疑い”。

 こんなの、医学的に説明がつかないですよ……」


奈々は仏壇横の小さな木箱を検めていたが、

その言葉に手を止め、玲の方へ視線を投げた。


「血を抜いた形跡が無いのに死んでる。

 遺体の皮膚も綺麗すぎる。

 ……玲、これ普通の犯行じゃないよ」


玲は仰向けに倒れていた跡の残る畳を、

手袋越しに軽く触れた。

沈黙が落ちる。


そして、淡々とした口調で言う。


「“吸血”を模した偽装の可能性は高い。

 だが……ここまで痕跡を消せる犯人は限られる」


奈々が椅子に腰を引き、少し身を乗り出す。


「ってことは?

 また“例の連中”が絡んでるって?」


「断言はできない。だが――」


玲はライトを受けながら、仏壇の前に落ちていた紙片を拾い上げた。


その紙には、殴り書きのような線が二本。

まるで誰かが“喉元の穿孔”を記したかのような形。


千紘は息をのむ。


「被害者が残した……メッセージ、ですか?」


玲は短く首を振った。


「違う。

 これは“見せたかったもの”だ。

 ――犯人が、だ。」


奈々は眉をしかめ、天井の梁を見上げた。


「じゃあ何、

 この屋敷は“舞台”みたいに使われたってこと?」


玲は答えず、ただ静かに紙片を畳の上に戻した。


そのとき――


座敷の外の縁側で、

カタン、と木が鳴る音。


風ではない。

誰かが、ほんの一瞬だけ体重をかけたような……生々しい音。


検証チームの一人が息を呑む。


「……今の、誰か――」


玲は立ち上がると同時に、低く囁いた。


「奈々。外を確認する。

 千紘は記録を続けろ。

 ――犯人は、まだ遠くへは行っていない。」


縁側の外、朝霧の中。

その気配は確かに、まだ“いた”。


東京都・古民家跡地/座敷


玲は、畳の上に置かれた一枚のラミネート資料に目を落とした。

簡易ライトの光が反射し、そこに記された“過去の類似変死体”の文字列が浮かび上がる。


・板橋区/ワンルーム/40代男性死亡(血液消失)

・墨田区/簡易宿泊施設/20代女性変死(穿孔跡)

・深川旧邸/元青鷺村職員・石倉圭吾(本件)


奈々が横からのぞき込み、眉を寄せる。


「……三件とも“血がない”、か。

 で、そのくせ外傷は最小限。ほんと気味悪いよ」


千紘はタブレットを操作しながら、ぽつりとつぶやいた。


「板橋の件、検視官が“急性循環不全”で処理しようとしたんです。

 墨田の女性も“薬物反応なし”。

 ……共通点が多すぎます」


玲は資料の隅に記された小さなメモ欄に指先を置いた。

“内部失血の可能性 → 否定(根拠不足)”

“死斑形成の遅延あり”

“遺体移動の痕跡なし”


「……どれも、死体が“完成された状態で置かれていた”。

 そう見るべきだな」


奈々が息をのむ。


「完成された……?」


玲は静かにうなずいた。


「犯人は“奪う”のではない。

 “抜き取った後の死”を、完璧に作り上げている。

 血を失わせた痕跡を消し、争いの跡も残さない。

 まるで――」


「まるで?」と奈々。


玲は資料を閉じ、仏壇の方をじっと見つめた。


「“儀式”のように、整えている」


千紘は無意識に喉を鳴らした。


「……儀式。

 じゃあ、この場所が“選ばれた理由”もあるってことですか?」


「あるだろう。」

玲の声は低く、確信に近かった。


「三件目の被害者は、元・青鷺村の職員だ。

 偶然ではない。

 ――誰かが、“青鷺村”に関連する人間を狙っている。」


奈々は震える呼吸を整えた。


「じゃあ……次は、誰?」


その問いには、玲も答えられずにいた。

だが、彼の視線は明確に一点を捉えていた。


仏壇の奥――

そこに置かれた古い位牌の裏。


かすかに覗く“青鷺村・家系図帳”の文字。


玲は小さくつぶやいた。


「……鍵は、村の“記録”そのものだ。」


東京都・深川旧邸/座敷


千紘の手が震えたのは、寒さのせいではなかった。

古い紙の匂いがまだ残るファイルを開くと、そこに挟まれていた一枚の走り書き――

薄く擦れた鉛筆の文字がライトに照らされ、浮かび上がる。


「……“佐原ミヅキ”。

 記録上、10歳で“転居”扱い……でも、転居先の記録は一切なし。

 生存記録も、死亡記録も……どっちも存在しません」


奈々が顔を上げる。


「つまり……完全に“消されてる”ってこと?」


「正確には――」

玲は少女の名を見つめながら、静かに言葉を置く。


「“誰かに隠された”。

 あの時代、あの村で、名簿を操作できる立場の人間は限られていた。

 ……石倉圭吾も、その一人だった」


千紘は小さく息を呑む。


「じゃあ、石倉さんは……

 その少女の“本当の行き先”を知っていた可能性が?」


玲の視線が鋭く細まる。

仏壇の奥――古びた家系図帳。

そして、三件の血液消失事件。


「石倉は“知っていた”だけじゃない。

 “関与していた”側かもしれない。

 だから狙われた」


奈々が思わず問い返した。


「……玲、それってつまり――」


玲はひと呼吸置き、はっきりと告げた。


「“佐原ミヅキの失踪”は、ただの事件じゃない。

 繰り返し発生している“血を持っていかれる事件”の、最初の鍵だ」


座敷の外から、かすかに風が通り抜ける音がした。

まるで、名前を呼ぶように。


千紘は震える声で言う。


「……じゃあ、その少女は……今も、どこかで……?」


玲は首を振らなかった。

否定も、肯定もしなかった。


ただ、淡々と告げる。


「“13人目”は死んでいない。

 ……まだ、この物語の中にいる。」


その言葉に、灯りの光が一瞬だけ揺れた。


青森県・旧羽黒村外れ/廃倉庫内

午後4時12分


午後の日差しは傾き、窓のない倉庫の内部はすでに夜の気配を孕んでいた。

鉄と土埃の匂いが濃く、ひんやりとした空気が足元から這い上がる。


鉄扉が重く軋み――

黒のロングコートを翻し、神崎玲が静かに足を踏み入れた。


「……残ってるな。

 “人が隠し事をしたあとの匂い”が」


玲は足音を殺しながら進む。

床には誰かが意図的に均した跡。

だが、その均し方が“素人ではない”ことを、彼は一瞥で見抜いた。


倉庫の奥で、懐中ライトの小さな光が揺れた。

先に到着していた千紘が、膝をついて何かを調べている。


「遅かったですね、玲さん」

千紘は振り向かずに声だけ返す。


「途中で“見られてる気配”があった。

 ……わざと距離を取った」


「監視、ですか?」


玲は短くうなずき、千紘の横にしゃがみ込んだ。


「何を見つけた」


千紘は小さく息を整えると、指先で床を示した。


「……ここ、血痕です。消そうとして擦ってありますけど、完全じゃない」


玲は手袋越しに床に触れ、薄く残った色の粒を採取した。

光にかざし、低く呟く。


「この“消し方”……専門家の手だな。

 事故の痕跡を作るために使われる技術だ」


「じゃあ、被害者はここで――」


「“運ばれた”んだ」

玲は言い切った。


沈黙。

倉庫の奥の影が、不自然に黒く見える。


千紘が恐る恐る尋ねる。


「玲さん……これ、本当にただの殺人事件なんですか?」


玲は懐中ライトを影へ向け、低く答えた。


「――違う。

 これは“証拠を持っていく事件”だ。

 血も、記録も、証言も、全部“消すことが目的”の……」


その瞬間、倉庫の天井で何かが微かに軋んだ。

二人とも反射的に顔を上げる。


玲の声は静かなまま、しかし確実に緊張を帯びていた。


「……隠れてるぞ。

 まだ、この倉庫に“誰か”いる」


青森県・旧羽黒村外れ/廃倉庫内

午後4時18分


倉庫の内部は、照明機材の白い光で不自然に切り裂かれていた。

暗闇と人工光の境界がゆらぎ、そこだけ別の時刻が流れているようだった。


すでに鑑識班が到着しており、

中心には一枚の白いシート――その下に若い女性の遺体が横たわっている。


玲が歩み寄ると、班長の香住が振り返った。


「玲さん、来ましたか」


「状況を」


香住はわずかに眉を寄せ、報告用の端末を閉じた。


「まずは……見たほうが早いと思います」


千紘が息をひそめる中、香住がシートの端を慎重にめくる。


露わになった顔は、穏やかな眠りにも似て――

だが、喉元にはくっきりと、二つの穿孔。


玲は、すぐに膝をついた。

目の奥がわずかに鋭くなる。


「……刺し跡か。前の二件と同じ位置だ」


香住が静かに頷く。


「はい。ただし、今回のは“吸われた”量が多い。

 血液、ほぼゼロです。輸血パックを逆流させたみたいに」


千紘がたまらず口を押さえた。


「そんな……じゃあ、やっぱり“つながってる”んですか?」


玲は遺体の喉元を、ライトで照らしながら言った。


「犬歯の痕に似てるが、間隔が微妙に違う。

 獣じゃない、人の口でもない。

 ……工具を使って再現した可能性が高い」


香住が深く息をつく。


「つまり、犯人は“意図的に”この形を残してるってことですか」


玲は頷きかけ――ふと、遺体の指先に気づいた。


「……香住、この指。何か握ってる」


鑑識員がピンセットを差し入れ、細い紙片を取り出す。

折り畳まれた小さなメモ。

血で少し滲んでいる。


香住が読み上げた。


「“見つけて。わたしだけじゃない”……?」


千紘の顔が強張る。


「玲さん、これ……遺書じゃないですよね?」


玲は即答した。


「違う。遺書は書く余裕がある。

 これは“誰かに渡すために、急いで書かれた文字”だ」


そして、紙片を見つめながら小さく呟く。


「……“わたしだけじゃない”か。

 なら、ここはただの遺体遺棄現場じゃない。

 この女性、自分以外の“対象者”を知っていた」


倉庫の奥で、照明が一つだけぱち、と瞬いた。

誰も触れていないはずのスイッチが、わずかに揺れている。


千紘は震える声で問う。


「玲さん……まさか、他の“失踪者”が、まだ――?」


玲はゆっくりと立ち上がり、倉庫の闇を睨んだ。


「いる。

 “生きている”とは限らないが……

 この村から消えた者たちは、

 まだこのどこかで“処理”され続けてる」


青森県・旧羽黒村外れ/廃倉庫内

午後4時26分


白いシートの脇、携帯型の医療ライトが小さく唸り、

現場医療監察官・**三枝さいぐさ**がカルテ端末を見ながら静かに口を開いた。


「死亡推定時刻は未明。午前2時から3時の間です」


淡々とした口調だが、目の奥だけが重く沈んでいる。


「死因は失血死。ただし、出血箇所が小さすぎる。

 頸部に深さ1.6センチの穿刺痕が2つ。動脈を狙ったとは思えない」


玲が喉元に視線を落とす。


「……静脈、か」


三枝は短く息をつき、淡々と続けた。


「ええ。どうやら静脈から、少量ずつ、長時間かけて抜かれたようです。

 一気に吸い上げた形跡はない。

 まるで、点滴スタンドに逆さに吊られた血液バッグみたいに、

 “落とし続けた”痕があります」


千紘がぞくりと肩を震わせた。


「長時間……って、被害者は、その間……?」


三枝は首を横に振る。


「それが問題で、苦痛反応の痕跡がほぼありません。

 縛られた跡も、暴れた痕もない。

 生理反応から推測すると――」


玲が代わりに言葉を継ぐ。


「“眠らされていた”か、“意識を奪われていた”」


三枝は静かにうなずいた。


「ええ。外傷も、薬剤投与の痕も見当たらない。

 つまり……方法が不自然なんです。

 痛みを伴わず、意識を落とし、

 なおかつ長時間拘束して血液だけを抜き続ける手段なんて、

 普通の犯人にはまず無理だ」


玲は少しだけ目を細めた。


「……つまり、“手慣れている”。

 しかも、医療でも猟奇でもない、もっと別の意図だ」


三枝は頷き、被害者の手をそっと布で覆いながら言った。


「この犯人、目的はあくまで“血液の回収”。

 死は副産物にすぎない。

 そういう仕事の仕方です」


千紘がはっとして玲を見る。


「玲さん……これって、例の“吸血鬼演出”事件と――」


玲は短く答えた。


「つながってる。

 ただし――今回のは“より本気”だ」


倉庫の天井から、冷たい雫がひとつ落ちた。

その音が、誰の胸にも重く残った。


青森県・旧羽黒村外れ/廃倉庫内

午後4時31分


玲は倉庫奥の柱に目を向けた。

そこに――微かに乾いた泥が、細いスニーカーの輪郭を浮かび上がらせていた。


「……小さいな」


玲が低く呟く。

千紘が横に立ち、靴跡の長さを計測する。


「全長、22センチ前後。女性、もしくは小柄な男性……?」


玲は首を横に振った。


「蹴り跡の深さが浅い。

 体重も軽い……“子どもの可能性”もある」


その言葉に、倉庫の空気が一瞬だけ固まった。


――ピピッ


突然、K部門の通信端末が短く震える。

藍田あいだが端末を開き、眉をひそめた。


「……最悪なタイミングで別件です」


周囲の鑑識員が顔を上げる。


「今朝未明、文京区の路地裏で同様の“血抜き状態”の遺体が一体発見。

 女性、二十代後半。状態は――」


藍田は画面をスクロールし、表情をさらに曇らせた。


「穿孔痕は頸部に二つ。深さもほぼ一致。血液の外部流出なし。

 倉庫の被害者と、ほぼ同じ手口です。

 現場、すでに警察が封鎖済み。向こうもK部門の応援を求めています」


千紘が息を呑む。


「また……同じ“時間帯”?」


「はい。深川旧邸の事件、倉庫、そして文京区……全部、未明の2時〜3時の間に集中しています」


玲はゆっくりと息を吸い、靴跡から目を離した。


「犯人は――ひとつの“行動範囲”を持って移動してる。

 そして、“毎回必ず同じ時間に奪う”」


藍田が尋ねる。


「……行動範囲? 目的地があると?」


玲は答えない。

代わりに、暗がりにかかった靴跡へ視線を戻し、静かに言った。


「次も未明だ。

 そして……“まだ終わっていない”」


倉庫の冷たい空気が、背骨を這うように重く沈んだ。


青森県・旧羽黒村外れ/廃倉庫内

午後4時34分


玲は白布のかかった遺体から視線を外し、

コンクリートの床に広がる“あまりに整った痕跡”をゆっくり辿った。


そして、ぽつりと言った。


「……“感情”がなさすぎる」


近くでメモを取っていた千紘が顔を上げる。


「感情……?」


玲は、倉庫の隅に置かれた器具――

ビニールチューブの切れ端や、金属片の組み合わせを無表情に指差した。


「これは誰かを憎んで殺した犯行じゃない。

 怒りも、怨恨も、衝動も感じられない」


足音を忍ばせるように歩きながら、

玲は淡々と、しかし確信のこもった声で続けた。


「“他人を壊す手順”だけに耽溺している――

 そんな奴の手口だ」


静かな倉庫の空気が、肌に張り付くように冷たく沈んだ。


藍田が思わず息を飲む。


「……快楽殺人、とは少し違う?」


「違う。快楽があるなら、もっと痕跡が濃い。

 これは“必要だから壊した”だけの行動だ。

 それ以上も、それ以下もない」


玲はしゃがみ込み、床についた極細の“引きずり痕”を指でなぞる。


「目的は殺害そのものじゃない。

 “血を集める作業”が本体だ」


千紘の手が震え、持っていたタブレットに影が揺れた。


「じゃあ……この犯人は、何のために?」


玲は静かに立ち上がり、倉庫の奥に続く闇へと目を向けた。


「わからない。

 だが――ひとつだけ確かに言える」


そして、低く言い切った。


「“次の手順”も、もう決まってる。

 止まらないタイプだ。こういう奴は」


青森県・旧羽黒村外れ/廃倉庫内

午後4時36分


玲はゆっくりと視線を天井へ向け、

そこに残された“人工的な引っかき傷”を見上げた。


風もない倉庫の中、わずかに舞う埃が懐中電灯の光を横切る。

沈黙が、全員の肺を押し潰すように重かった。


そして──玲は静かに言った。


「──“吸血鬼殺人”を演じている人間がいる」


その瞬間、場の温度が一段下がったように誰もが息を止めた。


千紘が眉を寄せ、声を潜める。


「演じて……? 本当に“吸血鬼みたいに”血を抜いてる犯人が……?」


玲は首を横に振る。


「本気で吸血鬼を信じてるわけじゃない。

 ただ、“そう見えるように”加工しているだけだ」


彼は、遺体の頸部の写真を指で軽く叩いた。


「穿孔の角度、深さ、間隔。

 全部、“吸血”を連想させるための演出。

 実際は――極めて効率の悪い血液採取方法だ」


藍田が腕を組み、低くつぶやく。


「じゃあ……誰に向けた“見せ方”なんだ?」


玲はその問いに答えず、倉庫奥の暗がりへと歩き出した。


足音が鉄板に反響し、広い空間に寂しく跳ね返る。


「犯人は、自分の行動を“理解されること”を望んでいる。

 恐怖でも、謎でも、興味本位でもいい……人が“注目すること”が目的だ」


千紘がはっと目を見開く。


「じゃあ、これは……挑発……?」


「挑発というより“招待”だ」


玲の声は低く、研ぎ澄まされていた。


「俺たちに……何かを見に来い、と言っている」


その時、倉庫の入り口から駆け寄る足音。


鑑識員が息を切らして叫ぶ。


「玲さん! 外の排水溝から……“血液パック”が大量に見つかりました!」


倉庫の空気が一気に張りつめる。


玲は表情を変えずに、ただ一言だけ呟いた。


「……始まったな」


長野県・霧ヶ谷集落/旧家・北側座敷

午後5時02分


雨が落ちそうで落ちない雲の気配を受けながら、

古い木造家屋は静かに乾いた軋みを上げていた。


座敷の中央、畳の上には湯呑が二つ。

ぬるくなったほうじ茶の香りが、わずかに漂っている。


その前で――

一人の老女が、震える手で布をめくっていた。


布の下には、白木の箱。

その表面にはまだ新しい指紋が残されている。


老女は声を殺して呟いた。


「……どうして、こんなところに運び込まれたんでしょうねぇ……」


部屋の隅では、村の駐在が懐中電灯を構えつつ古い柱を調べていた。

そこには――鋭く、抉るように走った二本の傷跡。


「人為的……ですか?」

老女が恐る恐る尋ねる。


駐在は即答せず、傷跡を指でなぞった。


「獣の痕じゃない。刃物でもない。

 ……指の先、か……何かをつかんで“引き裂いた”ような形状ですね」


外で風が鳴いた。

竹が擦れる音が、不安を煽るようにやけに大きく響く。


老女は袂を握りしめ、かすれ声で言った。


「午前中に来た、あの人……見ましたか?」


「ええ。

 黒いコートの男ですね。

 名簿には載っていない……“探偵”とだけ名乗っていたと聞いています」


老女の目が揺れた。


「その人……この箱を見た途端、こう言ったんですよ」


駐在が顔を向ける。


老女は唇を震わせながら続けた。


「“──誰かが、まだこの家を使っている”って……」


その言葉を飲み込むようにして、座敷の奥――

障子の向こうで、かすかな音がした。


“カタン”


風ではない。

老女も、駐在も、その場で硬直する。


駐在は息を潜めながら懐中電灯を向け、障子に手をかけた。


老女が震える声を漏らす。


「ま、まさか……まだ家の中に……?」


障子がゆっくり、わずかに揺れる。


駐在は小さく息を吐いた。


「……誰かが確かに出入りしてる。

 痕跡が新しすぎる」


そして、障子を静かに開けた。


その奥――

冷え切った板の間に、ぽつりと黒い“滴”が落ちていた。


一滴。

だが、その色は異様なまでに濃かった。


駐在はつぶやいた。


「……雨、じゃない」


老女は、蒼い顔で胸に手を当てた。


家の外の空は、まだ雨を降らせてはいなかった。

にもかかわらず――


その“黒い滴”は、ついさっき落とされたものだった。


長野県・霧ヶ谷集落外れ/K部門臨時検証テント

午後4時46分


秋の陽が落ちかけ、山を縁取る影がじわりと長く伸びていく。

夕風がテントの薄布を揺らし、ペンライトの光が紙面にわずかな震えを生んでいた。


玲は封筒から取り出した和綴じ手帳を掌にのせ、ページをそっとめくった。

紙は乾いて脆く、触れただけで砂のように崩れそうだ。


検証官の若い男――高松が緊張にのどを鳴らしながら続ける。


「……それ、本当に“裏側”の資料ですよ。

 公文書庫の閲覧記録にも残ってなかったんで……誰かが意図的に外してた可能性が高いです」


玲は手帳の一角に目を留めた。

鉛筆の薄い筆跡で、震えるようにこう記されている。


《十三番目ノ子、ユエニ封ズ。

 村外ヘ出スベカラズ。

 影、追跡中。》


風がひゅうと吹き抜け、ランタンの火袋がゆらりと揺れる。


玲は低く言った。


「……昭和十二年。

 “水尾邸事件”の年だ。

 だが、俺たちが知っている記録とは……随分食い違っているな」


高松が眉を寄せ、報告書の写しに視線を走らせる。


「食い違いって……どういう意味です?」


玲は、手帳と封筒を見比べながら答えた。


「公的な史料じゃ、“水尾邸事件の死者は二名”とされている。

 けど、こっちの報告書には――三名目がいる」


高松が息を飲む。


「三人目……? その、十三番目の子って……」


玲は黙って手帳のページを裏返した。

そして、そこに貼られた写真を見た瞬間、目を細める。


古い白黒写真。

屋敷の縁側に座る少女。

視線はカメラのほうを向いていない。

ただ遠く――何かを見ているような顔だった。


その下に記された文字。


《名簿ニ載セズ。封印対象。

 記録番号:13-σ》


高松が震え声で言う。


「……これ、本当に……“青鷺村封印”の原初資料なんですか?」


玲は手帳を閉じ、深く息を吐いた。


「まだ断定はできない。

 だが――少なくとも誰かが、この資料を“七十年以上隠し続けた”という事実は動かない」


風が一段冷たくなる。


その時、テント外で足音が走った。

検証官のひとりがバサリと幕を押し開け、息を切らして報告する。


「玲さん! 霧ヶ谷の旧墓地で……新しい掘り返し跡です!

 深さは……人ひとり分、あります!」


玲はわずかに眉を上げ、白手袋を締め直した。


「……動き出したな。

 “当時の誰か”が、いまだに続いている」


秋風が山を渡り、遠くで竹がざわりと鳴った。


【時間:17時42分/場所:山間の特設検証テント】


玲は、報告書の続きに目を滑らせながら、ゆっくりと息を吸った。

墨のにじんだ文字、整然とした筆跡――しかし行間には、どうしようもなく“現代と地続きの気配”があった。


ページをめくる音が、冷えた空気にやけに大きく響く。


「……“座主隔離”って、祭祀系の閉じ込め儀式じゃなかったんですか?」

背後で検証官が震えた声を落とした。


玲は手を止めず、静かに言った。


「違う。これは――“隔離”じゃない。“管理”だ。」


検証官が息をのむ。


玲はさらに続きを読む。


《座敷隔離後、京四郎は外部と遮断され、翌十五日の未明に“転居扱い”として記録上抹消された。

村役人の八坂は、以後の行方について「お鎮めが済めば戻る」と証言したが、

京四郎が戻った記録はどこにも残っていない。》


玲は眉を寄せ、ページの端をそっと押さえた。


「……消されたのか、最初から“いないもの”として扱われたのか。」


検証官「水尾家だけじゃないんですよね? 三世帯が同時に……」


玲「ええ。昭和十二年十月、本当に“消えていた”のは――村そのものだった可能性が高い。」


テントの外で風が鳴り、古紙がかすかに揺れた。


玲は封筒から次の資料――破れた新聞記事の断片を取り出した。

黄ばんだ紙には、半分だけ読める見出しがあった。


『……鷺村 十余名の──』

『……村役場より届出なし 内部調査……』


玲は指で紙片の裂け目をなぞり、言った。


「この記事、発行元が消されてる。日付も半分無い。

でも“十余名”って書かれてる……座敷隔離の三世帯と、辻褄が合う。」


検証官「じゃあ……あの“血抜き状態”の遺体と、関係が?」


玲は記事を伏せ、低く応えた。


「現場の特徴も、遺体の扱われ方も、“自然発生の犯罪”じゃない。

これは――昭和十二年から断続的に続いている“手順”の模倣。」


検証官「模倣……犯人が、昔の事件を知っているということですか?」


玲は和綴じの手帳を開き、最初のページに書かれた名前を見た。


『八坂清一 記録帳』


その瞬間、玲の表情がわずかに変わった。


「……これを知っている『誰か』が、意図的に“再現”している。

吸血鬼殺人でも怪異でもない――“歴史の手続きをなぞっている”。」


風がまたテントを揺らした。

秋の光はすでに薄れ、冷気が縁を染めていく。


玲は静かに言った。


「青鷺村の“消失”は、事件の古い出発点。

……そして現代の殺人は、その“続き”だ。」


手帳の次のページへ、玲の指が進んだ――。


【時間:17時55分/場所:山間の特設検証テント】


玲は、封筒の底で指先に触れた“紙の厚み”に気づき、そっとつまみ上げた。

折り目に沿ってくっきり割れた、古い写真の感触。

広げた瞬間、セピアの空気がテントの中へ流れ込んできたようだった。


写っているのは、昭和初期の和装の家族たち。

母親に手を添えられた赤ん坊、煤けた表情の青年、年配の男女。

そして、その中央近くに──


玲の瞳が微かに震えた。


検証官「……どうしました?」


玲は写真を傾け、光の具合を変えながら、少女の輪郭を指先で押さえた。


「この子……」


古写真の少女は、肩口まで伸びる黒髪。

大きすぎる着物に包まれながらも、姿勢だけは妙に整っている。

目は少し伏せ、感情を読ませない。

しかし、鼻梁の形、眉の角度、髪の分け目──どれもが“見覚えのある”配置だった。


検証官が不安げに言う。


「……今年の、文京区の現場で見つかった古写真。

あの血抜き被害者のバッグに入っていた少女ですよね? 同じ顔……じゃないですか?」


玲「同じ“人物”と言っていいレベルだ。」


検証官「じゃあ……血抜き犯は、昔の水尾家の人間を模してる? もしくは──」


玲は写真を持ったまま、静かに首を振った。


「違う。これは“模倣”じゃない。」


検証官「じゃあ何なんです……?」


玲は写真に映る少女の視線の方向を追い、ため息のような声で答えた。


「この写真が撮られたのは昭和十二年頃。

文京区で見つかった写真は、被害者が持っていた“現代の遺留品”。

だが──二つの写真に写る少女は、年齢も、顔も、髪型も、全て同じ。」


検証官「……時間が、ずれてない?」


玲「ずれてるのは“記録”のほうだ。

少女自身が、時代に束縛されていなかった可能性がある。」


検証官が絶句する。

外では風が強まり、テントの布がぱさりと揺れた。


玲は写真を封筒の上に置き、深く目を伏せた。


「昭和十二年、青鷺村の三世帯失踪。

そして現代の血抜き遺体。

間に八十年以上の時間があるのに……この少女だけは、写真の中で年を取らない。」


検証官「まさか……そんな──」


玲「もちろん、怪異や不老の話じゃない。

“記録上の時間”が操作されているだけ。

水尾家の座敷隔離、青鷺村の封印、八坂家の記録帳……

全部、“誰か”が過去から現在まで一貫して“形”を整えてきた跡。」


静寂が落ちる。


玲は写真の少女を見つめながら、低く呟いた。


「この子は──消された三世帯の“生き残り”。

記録を消され、時代ごと移し替えられた“鍵そのもの”だ。」


そして、わずかに唇を結んだ。


「……そして現代の被害者たちは、彼女を“探していた側”の人間だ。」


写真は、古びた紙の上でじっと沈黙していた。

その少女が何者なのか、まだ誰も知らないまま──物語はさらに深部へ進んでいった。


【時間:昭和十二年秋/場所:青鷺村・水尾邸前】


秋の柔らかな日差しが、水尾邸の土蔵や塀に影を落としていた。

庭先の石畳の上、家族たちは整列し、記録写真のために静かに立っている。


長男・京四郎は家長の隣に立ち、背筋を伸ばす。

妻や子どもたちは控えめに微笑みを浮かべるが、幼い少女だけは硬い表情で、カメラのレンズをじっと見つめていた。


記録官・野々宮孝一が木製の三脚に据えた大判カメラのシャッターを操作する。

一瞬の静寂の後、シャッター音が響き、光が露光板に落ちる。


「動かないでください」

野々宮の低く穏やかな声に、家族たちはわずかに息を飲む。

その瞬間が、青鷺村における“座敷隔離”の記録として、後の世に残されることになる。


撮影が終わると、少女はまだレンズを見つめたまま、誰とも言葉を交わさず、家族の影に静かに収まった。

その姿は、封印される記録の中で、後に消息不明となる存在を象徴するものとなる。


【時間:現代・夕方/場所:山間の廃屋】


廃屋の窓はほとんど割れ、屋根瓦もいくつか崩れている。

木製の引き戸は半ば開き、内部の暗がりをわずかに見せていた。


誰もいないはずの建物の中で、風の通り道がわずかに軋む。

床には落ち葉や土埃が積もり、かつての生活の名残をかすかに残す。


玲は黒いロングコートの襟を立て、静かに廃屋へ一歩踏み入れた。

手には小型の懐中電灯。光の先に、かつての居間と思しき空間が薄暗く広がる。


埃に覆われた家具、割れたガラスの欠片、そして――ひとつの白い封筒が、床板の隙間から半分顔を出していた。

玲は息を殺してしゃがみ込み、封筒をそっと手に取った。


「……誰が、ここに置いた」

低くつぶやく声だけが、静まり返った廃屋に溶けていった。


【時間:現代・夕暮れ/場所:山間の廃屋内部・簡易検証テント】


玲は光をゆっくりと横に滑らせ、床に散らばる紙片や破れた新聞を確認した。

テント内では、K部門の鑑識班が膝をつき、懐中ライトの下で細かい痕跡を記録している。


「玲……見つけたか?」

隣に立つ藍田が小声で問いかける。


玲は無言で封筒を持ち上げ、中身を確かめる。

古びた手帳と破れかけの書類、そして一枚のセピア色写真。


「……ここにいたのは、間違いなく被害者か。しかも、この写真が示すのは……」

玲の声はかすかに震えた。

封筒の中の古写真は、数十年前に青鷺村で消えた少女を写しており、まるで時間を超えて現場に呼び寄せられたかのように廃屋に置かれていた。


藍田は慎重に光を被写体に当て、写真の隅に書かれた日付と文字を確認する。

「昭和十二年……だと?」


玲は黙って頷き、周囲の証拠に目を配った。

廃屋の静寂が、時間の隔たりを一瞬で消し去るように感じられた。


【時間:現代・夕暮れ/場所:山間の廃屋・奥の部屋】


奥の部屋に入った玲は、懐中電灯の光をゆっくりと左右に振る。

壁際には古い家具の影が落ち、埃をかぶった畳に微かに足跡が残っていた。


「……誰か、ここにいた形跡がある」

玲は低く呟き、指先で畳の上の微細な痕をなぞる。


藍田がそっと近づき、声を落として訊く。

「靴跡、ほかの部屋にも続いてるか?」


玲は首を横に振った。

「ここだけ。踏み荒らされた形跡もない……誰かが、わざとこの一室だけに残した痕跡だ」


天井板の軋む音が、二人の間に静かに響く。

玲は光を天井へと向け、軋む原因を探りながらも、目は奥に置かれた古い桐箱に吸い寄せられた。


「藍田……あの桐箱、開けるか?」


藍田は一瞬躊躇したが、小さく頷く。

「慎重にな……中身が何かわからない」


二人の呼吸だけが室内に残り、外の風の音と軋む天井が、廃屋全体を包む静寂をさらに深めていた。


【時間:昭和十二年・夕暮れ/場所:水尾邸・奥座敷】


奥座敷の薄暗い灯りの中、天井の板はわずかに軋む。

幼い京四郎が座敷の隅に立つ中、使用人が持ってきた古い桐箱が畳の上に置かれた。


「これは……中身を見てはいけない、殿様の遺志です」

従者の低い声が、静まり返った室内に響いた。


京四郎は小さく頷き、光を受ける箱の角を指先で触れる。

箱の木目は年季が入り、わずかにひび割れが見える。

しかし、封印された紐はまだ解かれず、何が中にあるのかは誰も知らなかった。


障子越しの夕陽が差し込み、桐箱の上に柔らかな光の帯を描く。

その光の中で、京四郎は何も言わず、ただ箱を見つめていた。


「……この中に、真実が眠っている」

使用人の囁きは、未来の誰かに伝えるような意味を帯びていた。


座敷内の空気は重く、軋む天井と畳の匂いが、時間の深さと秘密の重さを同時に告げていた。


【時間:現代・夕方/場所:廃屋内部・奥の部屋】


玲は懐中電灯の光を細く振り、暗がりに沈む部屋の隅々を見渡す。

埃の匂いと、かすかな木の軋む音。冷たい空気が壁や床を伝わり、肌に触れる。


「……何か、残ってる」

玲の低い声は、暗がりの中で静かに反響した。


床には古い畳の縁がほつれ、ところどころに水跡が残る。

天井の板はわずかに沈み、風が入るたびかすかに揺れる。

その音に、玲は耳を澄ませ、過去の記憶と現在の痕跡を頭の中で重ねた。


テント越しに運ばれた検証機材のケーブルが、影の中で細く横切る。

玲は一歩ずつ、音と光に合わせて足を進める。

床に落ちた小さな紙片や、壁に残るかすかな引っかき傷を確認しながら、

室内の“気配”を一点ずつ拾い上げていく。


「……ここで何が起きたのか、答えを聞かせてもらおうか」

玲は拳を軽く握り、暗闇の中で微かに光る埃を見つめた。


【時間:昭和十二年・夕方/場所:水尾邸・奥座敷】


部屋は薄暗く、障子越しの光がわずかに畳を照らしていた。


桐箱は座敷の中央に置かれ、開かれたまま中身を秘めている。

書類や封印された手紙、手の込んだ帳簿――それらは、外部に伝えられることなく、ただ静かに並んでいた。


長男・京四郎は、家長の遺志を受け継ぐ責任を胸に抱え、奥座敷での隔離と儀礼をじっと見守る。

同時に、他の家族も家の静けさに従い、外界と遮断された時間を過ごしていた。


紙に記された記録と、未確認の封書――

それらがすべて、後世の人間には理解できぬ“青鷺村の秘密”の証拠である。


部屋に漂う沈黙は重く澄み、後の世に届くことのない声のように、静かに座敷を満たしていた。


【時間:午後5時30分/場所:ロッジ内探偵事務所・簡易検証テント】

玲は封筒の中のメモをそっと取り出し、声に出して読んだ。

「“13人目”はここにはいない。でも、“あの部屋”はまだ開いていない。開けたら、記憶が崩れる。— S.K.」


隣で奈々が肩越しに覗き込み、小さく息を吐く。

「……マジで、開けたらダメってこと?」


玲は無言で頷き、懐中電灯の光を床に落とし、封筒を慎重に元に戻した。

「まだ、準備が整ってないってことだ」


二人の背後で、テントの簡易照明が揺れ、廃屋の暗がりがさらに深まった。


【時間:午後5時35分/場所:ロッジ内探偵事務所・簡易検証テント】

玲は封筒を握りしめ、低くつぶやいた。

「……また神崎彰馬か」


奈々が眉をひそめて覗き込む。

「なんで、いつもこう……状況を複雑にするのよ」


玲は手元の資料に視線を戻す。

「俺たちに伝えたいのは“順序”だろう。今は、焦る時じゃない」


外の風がテントを揺らし、薄暗い空間に紙の擦れる音がかすかに響いた。


【時間:午後5時42分/場所:ロッジ内探偵事務所・簡易検証テント】

玲は手袋越しに壁板を押さえ、力を込める。

「ここを、剥がせ」


奈々が応じ、慎重にドライバーを取り出して釘を緩める。

「こういう作業、あんまり得意じゃないけど……やってみる」


壁板が少しずつ外れ、奥に隠されていた小さな隙間が現れる。

「……ん、ここだ」玲は光を差し込み、中を覗き込む。


奥には、古びた木箱。表面には埃が積もり、封蝋の跡がかすかに残っていた。

奈々が息を飲む。

「……また何か出てくるのね、絶対に厄介なものが」


玲は木箱に手をかけ、ゆっくりと蓋を開ける。


【時間:午後5時55分/場所:ロッジ内探偵事務所・簡易検証テント】

玲は写真を手に取り、目を細めた。

「……この子だ。間違いない、あの子だ」


奈々が肩越しに覗き込み、息を詰める。

「……玲、本当にあの子なの? 13年前に消えた、青鷺村の子……」


玲は写真をそっとテーブルに置き、拳を握ったまま沈黙する。

「うん……あの子だ。神崎が最後まで追っていた、あの子だ」


奈々は視線を逸らし、声を落とす。

「……また、こんな形で出てくるなんて……」


玲は深く息を吸い込み、冷静さを取り戻すようにゆっくりと視線を上げた。

「ここから、全てを解明する。誰が何のために、あの子を……そして13人目を追い込んだのかを」


静かな室内に、二人の決意だけが重く響いた。


【時間:午後9時30分/場所:山間の廃道沿い】

玲は息を潜め、足音の方向を探る。

「……誰だ?」


静寂の中、もう一度、軽い靴音が響く。落ち葉を踏む乾いた音。


奈々が小声で肩越しに囁く。

「……人影、見える?」


玲は懐中電灯を低く掲げ、闇の中を照らす。

「まだ……わからない。だが、奴がここにいるのは確かだ」


影が木々の間を滑るように移動する。玲の目は、それを追い続けた。

「……動くな、声を出すな」


夜風がざわめき、葉を揺らす音が、二人の緊張をさらに増幅させる。

「奴を、このまま逃すわけにはいかない……」


玲はゆっくりと前に踏み出した。その背後で、奈々も息を整え、彼の動きに呼応する。


2025年10月13日(火) 午後6時30分


【時間:午後6時58分/場所:青鷺村外れ・構造物D-2号(旧水尾家別棟跡)】


陽が沈みきった直後、空は一気に深い紺色へと変わり、林の奥には夜の帳が落ちていた。

竹林を抜ける風が、乾いた葉をこすり合わせるたび、しゃらり……と音を立てる。


その音を背に、神崎玲は懐中電灯の光を構造物D-2号へ向けた。

骨組みの露出した古い木造の空き家──

軒は落ちかけ、壁板は剥がれ、黒ずんだ梁がむき出しになっている。

まるで、長い間この場所に触れた者を拒み続けてきたかのように。


奈々が横に立ち、息をひそめて呟いた。

「……本当に、ここだけ“時間”が止まってますね。ほかの廃屋より、空気が違う」


玲は返事をせず、ただ入口を見つめながら言った。

「この棟だけ封印されていた理由……神崎彰馬は、ここの情報に触れていたはずだ」


奈々が眉を寄せる。

「遺したメモ……“あの部屋はまだ開いていない”ってやつですね」


玲は懐中電灯を少し上げ、暗闇に沈む開口部を照らし込む。

風がひゅう、と通り抜け、腐った板を揺らした。


「入るぞ。中に、“13人目”の痕跡が残っている」


玲はゆっくりと足を踏み入れた。

背後で竹林の影が揺れ、まるで誰かがその背中を見送っているかのようだった。


【昭和/水尾家別棟】


夕刻。

木立の向こうで鳥が一声鳴き、すぐに静寂が戻った。


水尾家の別棟──母屋から少し離れた、屋根の低い離れ家。

軒先には干し草が置かれ、古びた簾は風にほつれながら揺れている。


中には、畳三枚ほどの広さの座敷。

薄暗い紙灯籠が、揺らぐ橙の光を壁に映している。


その奥で、村役人の八坂が静かに息を呑んだ。


「……本当に、ここで“隔離”を?」


隣にいた若い記録官は、緊張で震える指先を衣の袖に隠しながら、小さく頷いた。


「命令です。水尾家当主の遺志……

そして、村の“お鎮め”に逆らうことは許されません」


八坂は目を伏せる。

座敷の中央には、桐箱が一つ。

その前に座らされているのは──まだ十歳ほどの少女。


襟元をきゅっと掴んだまま、声を出すこともせず、ただじっと視線を落としている。

床に落ちた灯の影が、少女の小さな頬を震わせた。


「京四郎様……本当に、この子を……?」


八坂の声はかすれていた。


離れの戸口から現れた長男・水尾京四郎は、冷ややかな目を少女に向ける。


「父の命だ。それに──この子は“見た”。

ならば、ここに居てもらうしかない」


少女の肩がふるりと震える。


京四郎は畳に膝をつき、桐箱をそっと撫でた。

まるでそれが生き物であるかのように。


「……封は絶対に開けるな。

開けば、誰の記憶も保たれなくなる」


八坂は思わず顔を上げた。


「記憶が……?」


京四郎は答えない。

ただ、少女の前に置かれた桐箱へと目を向けた。


隔離の座敷には、外の風すら届かない。


薄い灯の中で、少女はまるで時から取り残されたように座り続けていた。


【時間:20:41/場所:青鷺村旧集落・構造物D-2号(現代)】


陽は完全に落ち、廃屋の内部は懐中電灯の光だけが形を与えていた。

梁は痩せ、壁は黒ずみ、外気の冷たさが隙間からゆっくりと染み込んでくる。


玲は足を止めた。


──見えては、いけないものがそこにいた。


廃屋の中央。

崩れた畳の上に、

赤い絹の着物を着た少女が、静かに立っていた。


髪は肩に沿ってまっすぐ落ち、膝のあたりで揺れている。

顔はうつむき、影になって表情は見えない。


玲は、瞬間的に呼吸を止めた。


「……昭和、か?」


声は自分のものとは思えないほど低く、かすれていた。


少女は動かない。

しかし、確かに“そこにいる”。

現代の埃っぽい空気の中、異質なほど鮮やかな赤。


背後で、木材がぱき…と乾いた音を立てた。

玲は振り返らない。視線を外したら、輪郭が崩れてしまう気がした。


「……君は、誰だ」


答えはない。

ただ、少女の袖が、風のない部屋の中でゆっくりと揺れた。


その瞬間、玲の右頬を冷たい気配がかすめた。


──違う。“ここに”立っているんじゃない。


まるで、昭和の水尾家別棟に存在した“その瞬間”が、

時間の裂け目のようにこの廃屋へ投影されているかのようだった。


少女の唇が、かすかに動いた。


「……あけちゃ……だめ」


声になっていない、空気の震えのような囁き。


「何を……?」


玲が一歩前に出ようとした、その時。


少女の姿が、

きらりと光の粒のように揺らぎ──


す、と消えた。


まるで最初から誰もいなかったかのように。


廃屋の中央には、

古びた畳と、埃にまみれた梁の影だけが取り残されていた。


玲は喉の奥で息を吐いた。


「……“13人目”じゃない。

違う……これは、もっと前の……」


懐中電灯の光を、消えた少女が立っていた場所へ向ける。


そこだけ、

ぽつんと畳が一枚、新しい。


玲の眉がわずかに動いた。


「ここ……“通ってる”」


遠い昭和の出来事が、現代へ滲み出している。


その意味に、玲はまだ完全には辿り着いていなかった。


【時間:現代・18時47分/場所:青鷺村・構造物D-2号前・検証テント】


薄暮が過ぎ、山の輪郭が夜に沈みはじめた頃。

仮設テントの中では、簡易ライトの灯りが紙束に淡い影を落としていた。

秋の風が布の壁を揺らすたび、書類がわずかに震える。


玲はその震えが止むのを待ち、昭和十二年の古い台帳を再び開いた。


「……“座敷隔離”の翌日、記録が途切れている。

 まるで“誰か”が抜き取ったように」


そのとき、検証官の一人が息を呑んだ。


「神崎さん、これ……裏紙に走り書きが……」


玲は素早く紙を裏返す。

そこには鉛筆で荒く書かれた文字。


――“13人目は、別棟に移された”

――“畳の下、木枠の内側。京四郎の指示”


玲の瞳がかすかに揺れた。


「……別棟、畳の下だと?」


【時間:昭和十二年・夜/場所:青鷺村・水尾家別棟】


雨こそ降っていないが、空は重たく沈み、風が障子を震わせていた。

灯明の揺れる光の中、若い村役人・八坂は緊張した面持ちで別棟の襖を開ける。


畳は踏まれず、部屋には人の気配がない。

だが――中央の畳だけが、かすかに浮いていた。


八坂は声を潜める。


「……京四郎さま、ここで本当に……?」


背後で、水尾京四郎は白い息を吐いた。

暗い眼差しで畳を見つめながら、静かに言う。


「“お鎮め”が効かなくなった。

 村がまた、ひとり失った。あの子を……

 ここに、隠すしかなかった」


八坂は震える声で問い返す。


「“13人目”……ですか?」


京四郎は答えず、ただ畳に手をかけた。

そこには木枠で囲われた狭い空洞。

その奥に、紙人形のように折りたたされた赤い着物が沈んでいた。


八坂は喉を鳴らす。


「……本物の身体では……ない?」


京四郎は静かに首を振った。


「本物は“外”へ出した。

 見つからぬように。……“声”がうるさかった」


揺れる灯明の光が、畳の下に刻まれた黒い手形を照らした。


【時間:現代・19時02分/場所:青鷺村・水尾家別棟・内部】


K部門が到着し、照明が一斉に点けられた。

埃だらけの床をライトが横切り、天井の梁の影が長く伸びる。


玲は畳の前に膝をつく。


「……昭和と同じ位置。隠すなら、ここしかない」


藍田が緊張した声で訊く。


「本当に“13人目”が……?」


玲は答えず、畳の縁に慎重に指を入れた。

乾いた音とともに、畳がわずかに浮く。


その瞬間、冷気が足元から吹き上がる。


「……っ」


内部をライトが照らすと、

昭和の記録で見た木枠が、まったく同じ形で残されていた。

空洞の奥に――

赤い布の切れ端と、黒く擦れた手形。


玲は小さく息を呑む。


「……やっぱり。

 昭和十二年、ここで“13人目”が――」


そのとき、背後で検証官のひとりが声を上げた。


「神崎さん! これ……!」


畳の下の木枠の端に、

現代のペンで書かれた新しい一文があった。


――“開けたら、記憶が崩れる”

―― “S.K.”


玲は低く呟いた。


「……彰馬。

 あんた、ここまで来てたのね」


そして視線を暗い空洞の奥へ落とした。


「――“13人目”は、まだ終わっていない」


薄暮が過ぎ、山の輪郭が夜へと溶けていく。

テントの布地を揺らす風が、広げられた資料の角をかすかに震わせた。


千紘は手袋越しに一枚の写真付き報告書を持ち上げる。

「……これが“水尾邸関係者名簿”の原本写し。1937年10月13日付……」


写真は古い白黒で、昭和初期の質感がそのまま残っていた。

家族が並ぶ中、ひっそりと端に立つ――髪の短い少女。

年齢は七歳前後。だが、その視線だけが異様に冷たかった。


千紘「玲さん……ここに写ってる“少女”、13年前の失踪事件の写真と一致します」

玲「……やはり、繋がってる」


玲は報告書を机に戻すと、迷いなく廃屋の奥へ歩き出した。


座敷には薄暗い夕日の残光が差し込んでいた。

畳の香りの奥に、湿った土と古い木材の匂い。


【時間:現代/19:12】

【場所:構造物D-2号・主室】


玲は部屋に入ると、畳の中央にしゃがみ込んだ。

指先で軽く押すと、他の畳よりわずかに沈む。

ほんの数ミリの差――だが、長年、現場で積み上げてきた“違和感”の感覚が確かに告げていた。


「……ここだけ、沈み方が不自然だ」


彼女は懐中電灯を床へ向け、畳の縁をそっと持ち上げる。

乾いた木と埃の匂いが、かすかに立ちのぼった。


その瞬間――


【時間:昭和十二年/17:03】

【場所:青鷺村・水尾家別棟・座敷】


畳の香りが、秋の夜気の冷たさと混ざっていた。

薄暗い夕日の残光が座敷の端に細く伸び、障子の向こうには、赤く沈む空。


座敷の中央に立つ赤い着物の少女は、まるで光と影の境目に縫いとめられたように動かない。

年齢は七、八歳ほど。首をかしげ、じっと畳の一点を見つめている。


その視線の先――畳が不自然に浮いたように、かすかに歪んでいた。


「ここ……まだ、開けちゃいけないって……おとうさんが言ったの」


少女のかすれた声。

その声が響いた刹那、外で誰かが叫ぶ。


「京四郎様!あの子を座敷から出しては――!」


少女は一度だけまばたきをし、そのまま影のように掻き消えた。


【時間:現代/19:13】

【場所:構造物D-2号・主室】


玲は息を止めた。

畳を持ち上げた直下に、黒ずんだ木枠に囲まれた“古い箱跡”――

桐箱が置かれていたはずの“空白だけが残された空間”が現れた。


「ここ……誰かが、昭和の時代に“隠して”、現代に“抜き取った”」


千紘が後ろから駆け寄り、低く言う。


「玲さん、K部門の後続が外に到着しました。テントの周囲で、一人分の足跡が……ついさっきまで誰かがいたようです」


玲は静かに立ち上がり、畳の下の“空白”を見つめながら呟いた。


「“13人目”はここにはいなかった理由……ようやくわかった」


千紘「どういう意味ですか?」


玲「13人目は、“記録から消えた”んじゃない……

――“時代ごと持ち去られた”」


外で、枯れ葉を踏む足音がする。

現代の闇の中、誰かが廃屋に近づいてくる。


その足音は、昭和で少女が消えた時の、あの“気配”と同じだった。


【時間:昭和十二年十月十四日/場所:青鷺村・水尾家別棟 奥座敷】


畳の上には夕日の残光が細長く落ち、座敷の端に置かれた桐箱が赤く染まっていた。

村役人たちは無言で儀式の準備を進めている。白装束をまとい、古びた巻物を床の間に並べ、油皿に火を灯した。


少女──赤い着物の“座主候補”は、畳の中央にぽつりと立っていた。

その顔に、表情はない。風もないのに、袖がかすかに揺れた。


「……始めるぞ」


その声を合図に、役人たちが四方向に散った。

空気が、ひどく重くなる。


その瞬間――


少女の輪郭が、揺らいだ。


人影のようにぼやけ、畳の模様と溶け合うように歪み、

まるでこの場から“剝がれ落ちる”かのように、一瞬だけ姿が消えた。


「……今の、見たか……?」


誰も答えられない。

ただ、誰もが悟っていた。


この儀式は、取り返しのつかない段階へ入った。

そして、この“消失”こそが、後に“13人目”と呼ばれる存在の始まりだった。


【時間:現代・午後6時42分/場所:深山林道・構造物D-2号(旧水尾家別棟)】


玲は部屋に入ると、懐中電灯の光を畳の中央へ向けた。

光が落ちた一点だけ、微かに沈んでいる。


「……ここだけ、沈み方が不自然だ」


白手袋越しに触れると、畳は古いのに、下が空洞のように軽い。


千紘が後方から声をかける。


「玲さん、こちらも準備できました。K部門、本隊がもうすぐ合流します」


玲は無言で頷き、ナイフで畳の縁を少し持ち上げる。

すると、古い畳の裏から、乾いた木の軋む音が返ってきた。


「……やっぱり。下に“何か”ある」


彼女が畳をめくると、埃がふわりと舞った。

その下には小さな木枠の板が嵌め込まれており、中央に鉛筆書きの文字が残っていた。


―― S.K.


―― ここを開けるな。記憶が崩れる。


玲の眉がわずかに動いた。


「……また神崎彰馬か」


【時間:現代・午後6時58分/場所:D-2号 外周の廃道】


闇が濃く落ちた廃道に、乾いた靴音がひとつ。


コツ……コツ……


林の奥から、誰かがこちらへゆっくり近づいてくる。


K部門の巡回員が耳打ちする。


「誰か、来ます……! この時間に?」


玲は振り返り、廃屋の入口へ視線を向けた。


「……違う。あの“歩き方”は、一般人じゃない」


懐中電灯をじっと向ける。


木々の影の間に、一人分の黒い輪郭が立っていた。


【“13人目”とのつながり】


昭和──儀式の最中に“消えた”少女。

現代──彰馬が掘り当て、玲が見つけた“S.K.”の警告。


そして今、廃屋へ近づく“誰か”。


すべての線が、一本の答えへ向かって収束し始めていた。


「……来たな」


玲は、畳下の隠し板と、闇に立つ影を交互に見つめながら、小さく呟いた。


【時間:夕暮れ/場所:林道沿い・廃屋付近】


「……ライトを分散。全方位を抑えろ」

藍田の声は無線越しに冷静だが、緊張感が滲んでいた。

車両のヘッドライトが揺れ、木々の影が黒く伸びる。風が止まり、虫の音も途絶えている。


玲は懐中電灯を手に、廃屋の方へゆっくりと歩を進めた。

足元の落ち葉がかすかに擦れる音だけが、静寂を切り裂く。


「影班、周囲の監視を優先。内部は俺が確認する」

藍田の声が再び無線から響く。

玲は頷き、扉の前で一呼吸置いた。

廃屋の中には、昭和の光景とはまったく異なる“現代の証拠”が静かに横たわっている。


外ではK部門の隊員たちが、ライトを回しながら建物周囲を慎重に包囲した。

その中、誰かが林道を近づいてくる気配がする。微かな足音が、落ち葉の上を小さく刻む。

玲は光を林の奥に向け、呼吸を整える。

「……誰だ?」


「玲さん、このフィルム……昭和十二年の撮影記録が、なぜ今……?」


【時間:夕暮れ/場所:廃屋内部・検証テント内】


「誰かが残したのか、それとも隠されていたのか……」

玲はフィルムを慎重に手に取り、光に透かして覗き込む。

「写っているのは、水尾邸の家族。そして――この子だけが、昭和の時代から現代まで“つながっている”」


千紘が息を飲む。

「まさか……“13人目”の少女……?」


玲は言葉を返さず、フィルムの人物と目を合わせるように凝視した。

その視線の先で、廃屋の隅に置かれた古い家具が、微かに影を揺らす。

「……動きがある。誰かが近づいている」

玲の声は低く、周囲の静寂に吸い込まれるようだった。


【時間:夕暮れ/場所:廃屋内部・検証テント内】


玲は手元の資料を見つめたまま、わずかに息を吐いた。外の風がテントの布を揺らし、紙がかすかに擦れる音が耳に届く。千紘は手袋越しに慎重に古びた書類をめくり、そこに記された文字を指でなぞりながら口を開いた。


「名前は……水尾 柚葉、享年十一歳。昭和十二年の秋、行方不明扱いになっている」


玲の視線は写真に貼りつけられたセピア色の少女の顔に集中する。小さな肩にかかる長い髪、少し引きつった口元、そして何より、じっとこちらを見つめる眼差しに、どこか異質な静けさが宿っていた。


千紘は続ける。「この子が最後に目撃されたのは、旧・水尾邸の奥座敷。表向きには事件性は確認されていないが、仮記録として残されている。正式な捜査記録は存在しない。つまり……誰も追わなかった、あるいは追えなかった、ということだ」


玲はゆっくりと顔を上げ、テント越しに薄暗い廃屋の外を見た。遠くでK部門の車両が林道に差し込み、ライトが揺れる。葉がざわめく音が、かすかに夜の空気を震わせる。


「昭和の記録に残る、この子の存在が……今の事件に繋がっている可能性があるということか」玲の声は低く、しかし確信に満ちていた。「ここで何かを見落とせば、次の犠牲者が出る……いや、もう出ているのかもしれない」


千紘はうなずき、紙ファイルを丁寧に閉じる。「都市部で起きた連続変死……血が消えたあの手口……柚葉の失踪と符号する部分が多い。しかも今回の現場も、封鎖されていたはずの空間で発見されている」


玲は立ち上がり、懐中電灯の光をゆっくりと廃屋の奥に向けた。竹の葉がざわりと揺れる。風に乗って、遠くで車両のライトが光を点滅させる。玲は低くつぶやいた。「……奴が、近づいてくる」


目の前の少女の写真と、昭和の失踪記録。現代の変死体。玲の頭の中で、過去と現在の時間軸がひとつに重なり始めていた。


【時間:昭和十二年秋・夕刻/場所:青鷺村・水尾家別棟・奥座敷】


奥座敷の障子を通して、傾きかけた秋の陽が薄紅色に差し込んでいた。畳の上にはほこりが舞い、長押に掛けられた掛け軸は時代の色を深く吸い込んでいた。古い木材の匂いと湿った土の香りが混ざり、静寂の中にわずかに風の音が差し込む。


赤い着物を着た少女、水尾柚葉が座敷の奥に立っていた。肩にかかる髪はまだ濡れた朝露のような冷たさを帯び、長い袖がかすかに揺れる。目の奥に、何かを理解しようとするような、しかし何も語らない瞳が宿っていた。


当時の村役人たちが、儀式の準備を進める。三世帯の家族が集められ、座敷の中央で整列している。八坂という村役人は、メモ帳に鉛筆で記録を走らせる。「対象は水尾家長男・京四郎。座主隔離の手順を実施」


しかし、柚葉の存在はその記録には曖昧にしか残されていない。昭和十二年の秋、その日の午後五時を過ぎた頃、奥座敷で“座主隔離”が行われた間に、柚葉はひっそりと姿を消した。誰も気づかない。座敷に立つ役人たちも、背後で控える親族も、微かなざわめきに気づいたとしても、表立っては口にできない空気がそこにあった。


畳の縁に沿って、少女の足跡がかすかに残る。足元に積もる埃がわずかに乱れ、壁際に置かれた桐箱の角に袖が触れる。誰もその動きを阻止できず、柚葉は静かに、しかし確実に、現実から“抹消”された。


記録官・野々宮孝一が奥座敷に立ち、報告書に書き込みをする。「未確認のまま封印された書状、桐箱の中身も当局保管。村民は消失を“お鎮めの徴候”として黙認」


柚葉の小さな体は、光と影の狭間で揺らめく。まるで時間の裂け目の中に取り残されるように、誰の目にも触れぬまま消えた。座敷の空気はその瞬間、重く閉ざされ、静かに吸い込まれる。


外の風が障子を揺らし、夕日の残光が床に差す。だが、奥座敷の空気は、誰も触れることのできない秘密を抱えたまま、凍りついていた。


ここで――昭和の青鷺村では、十一歳の少女が忽然と姿を消し、“13人目”の存在として、時代の闇に静かに刻まれたのだった。


【時間:現代・午後5時過ぎ/場所:ロッジ内探偵事務所】


玲は窓の外、傾きかけた秋の陽をぼんやりと見つめたまま、ゆっくりと手元の古写真をめくった。紙の質感と色褪せた白黒の影が、時代の重みをそのまま伝えてくる。


千紘は手袋越しに指を滑らせ、資料の余白に書かれた鉛筆の文字を追う。「この子、水尾柚葉……昭和十二年の奥座敷で目撃された少女。記録では行方不明になっているけど、正式な捜査記録は残っていない……」


玲は机に肘をつき、天井を見上げる。「あの少女が“13人目”……それは過去の話じゃない。今も、誰かの中にその影は生きている」


千紘が息を呑む。「でも、これだけの時間が経って……どうして、現代にまた繋がってくるんです?」


玲は手元のフィルムケースをそっと握り、冷たい瞳で応える。「88年前、昭和十二年の今日――何かが青鷺村で始まった。そして今、その痕跡が廃屋の中でまた動き出している。俺たちは、その連鎖の只中にいる」


外の林道では、かすかに人の足音。誰もいないはずの廃屋へと、静かに近づいてくる。風に揺れる竹の葉がざわりと音を立て、夜の闇が少しずつ濃くなる。


玲は封筒と写真を胸に抱き、視線を窓外に移した。「逃げることはできない……今夜、過去と現代が交錯する」


机の上の書類の束が微かに震え、探偵事務所内の空気が、次の事件の予兆をひそかに告げていた。


【時間:現代・午後6時過ぎ/場所:廃屋現場・簡易検証テント内】


坂口は懐中電灯を手に、慎重に足元を確かめながらテントの中へ入ってきた。「すみません、遅くなりました……現場の追加監視データを持ってきました」


千紘が手を止め、顔を上げる。「坂口班長、ありがとうございます。どれ、確認させてもらえますか?」


坂口は差し出されたUSBドライブを机の上に置き、端末に接続する。「先ほどの歩行履歴と熱源検知のログです。廃屋周辺で異常な人影の動きが、過去24時間以内に二回確認されています」


玲は光の反射で浮かぶ画面を睨みつけたまま、低くつぶやく。「……やはり、“誰か”が近づいている。青鷺村の記録と何らかの接点を持つ者だ」


千紘が驚きの声を漏らす。「まさか、現代でも……同じパターンが繰り返されているっていうのか?」


坂口は無言で頷き、モニターに映る廃屋周囲の映像を指さした。「影の動き、これです。微妙に人影が途切れたり、消えたり……でも確かに、足跡や熱源が検知されている」


玲は机の上の資料に視線を戻し、古写真と現場の図面を交互に見比べた。「この少女……水尾柚葉の痕跡が、また現代に現れるとはな。昭和十二年の出来事と、今夜の廃屋は、確実に繋がっている」


外の林道で、竹葉がざわりと揺れ、冷たい風がテント内の書類をかすかに震わせる。玲は肩をすくめ、深く息をついた。「よし……次の動きは俺たちが掴む。過去と現代の交点を、ここで止める」


【時間:現代・午後6時55分頃/場所:廃屋現場・簡易検証テント内】


坂口が指を画面に置き、低く説明する。「この白い影、熱源検知でも微弱ながら反応があります。歩行速度や動きの不規則さから、人間の可能性が高いです」


千紘が画面を凝視し、眉を寄せた。「……でも、一瞬で消えてる。普通の人間なら、絶対にこの動きはできない」


玲は無言で画面を見つめ、指で写真の少女の位置と照らし合わせた。「……あの少女の影かもしれない。昭和十二年の青鷺村で目撃された時と、動きが似通っている」


坂口は再生速度を落とし、フレームごとに確認する。「ズームしても、姿形ははっきりしません。ただ、動きの残像が人間の体型に近い」


千紘が低い声でつぶやく。「……やはり、“13人目”の存在と、現代で何かがリンクしている。時間軸を超えた接触かもしれない」


玲は腕を組み、額に手を添えて考える。「ならば……あの廃屋、座敷の奥。昭和と現代が交差するポイントだ。俺たちはここで、過去の記憶と現実の動きを結びつけなければならない」


外の林道で、再び竹葉がざわりと揺れる。テント内の懐中電灯の光が揺れ、映像の白い影がふっと目の端にちらついたような錯覚を生む。玲は身を乗り出し、低く呟いた。「……間違いない。誰かが近づいている」


【時間:昭和十二年・午後5時30分頃/場所:青鷺村・水尾家別棟座敷の奥】


薄暗い座敷の奥、畳の上には埃がうっすらと積もり、壁の板には時折小さな隙間から光が差し込んでいた。少女・柚葉は、静かに立ちすくんでいる。


木の戸を軋ませながら、村役人の一人が小声で囁く。「……ここで待てと、惣右衛門様がおっしゃった通りに……」


もう一人の役人が慎重に近づきながら呟いた。「この扉の向こうに何があるのか、誰も知らない……開けてはいけないと言われている」


柚葉は薄く震え、肩越しに奥を見つめた。「……でも、聞こえる……声が……」


役人たちは互いに視線を交わす。廊下の向こう、座敷の奥の闇から、かすかな足音と共に、時折風のような気配が流れた。


「……あの部屋、開けたら……記憶が崩れる……」


誰もその意味を完全には理解していない。ただ、座敷に立ち込める静けさは、時を超えた緊張感で満ちていた。


柚葉は小さな手を握りしめ、目を閉じる。「……13人目……」


風が窓の隙間から差し込み、薄暗い座敷をさらに冷たく震わせた。


【時間:現代・午後7時10分頃/場所:ロッジ内・簡易検証テント】


玲は画面に映る白い影を凝視したまま、低くつぶやいた。「……あの子だ。間違いない……」


千紘が横から資料を差し出し、声を震わせる。「フィルムの記録と、朱音の絵……完璧に一致してます。昭和十二年に消えたはずの少女が、今、ここに──」


坂口が無線で指示を受けながら、慎重に画面を拡大する。「角度補正も済ませました。動きはほとんどありません。ただ、光の反射で瞬間的にフレームに残っただけです」


玲は息を詰め、指先で画面をなぞる。「この時代差……どうして、同じ姿が、同じ場所に……?」


千紘は答えを探すように資料をめくる。「昭和十二年、青鷺村、水尾邸……あの奥座敷で消えた記録と完全に重なってます。記録には残っていないけど、確かに存在していた。88年後の今、この映像に残る形で……」


玲は頭を振り、唇をかすかに噛んだ。「……これは、ただの偶然じゃない。何かが、時を超えて、同じ線上に重なったんだ」


テント内の空気は緊張で張り詰め、夜の冷気が肩越しに忍び込む。三人の視線は、白く浮かぶ少女の後ろ姿に釘付けだった。


【時間:現代・午後7時15分頃/場所:ロッジ内・簡易検証テント】


玲は無言で立ち上がり、携帯端末を手に林道沿いのモニターを確認する。「朱音、こっちに来い」


朱音は慌てた様子でテント内に駆け込む。「はい……どうしたの?」


玲は画面に映る温度変化のグラフを指差した。「見ろ。少女が通った直後、センサーが急激な低下を記録している。21.4℃から12.1℃に──わずか数秒でだ」


朱音の目が丸くなる。「そんな……冷気が、急に? まるで……何かが通ったみたい……」


千紘も端末を手に、眉を寄せる。「単なる風じゃない。風速も変化していない。これは確実に物体、あるいは“存在”の通過が原因だ」


玲は画面を凝視しながら、低くつぶやいた。「昭和のあの子……いや、あの現象と完全に重なっている。今、再び、同じ軌跡を辿っている」


朱音は小さく息を呑み、そっと玲の手元をのぞき込む。「……これ、本当に私が描いたあの絵と同じ子なの……?」


玲は目を細め、静かに頷いた。「ああ……間違いない。だが、ここから先は慎重に進まなければならない」


テント内に張り詰める空気に、冷たい風の痕跡が混ざり、夜の森の深さを思わせた。


【時間:現代・午後7時30分頃/場所:山間林道沿い】


玲はゆっくりと林道を進みながら、落ち葉の上に残る微かな足跡を確認した。「坂口、あの白い影の通過位置を再現できるか?」


坂口はライトを手に応じる。「はい。現在の風向きと地形データで、ほぼ正確な経路をマッピングできます」


千紘が資料を片手に声を上げた。「温度センサーの異常変化と、先ほどの映像、両方の位置を重ねると──ほぼ一致します」


朱音は少し震えながら問いかける。「玲さん……あの子、今もここにいるってことですか?」


玲は暗い森を見つめ、静かに答えた。「ああ……だが、姿は見えても、触れられるかは別だ。現象が人間とは限らない」


藍田が無線で連絡を入れる。「現場のライトが少し揺れています。風は弱いですが、温度も再び低下しています」


玲は懐中電灯をゆっくり振り、影を追いかけるように前進した。「この軌跡を追う。無理に近づくな。観察を最優先だ」


森の中に、落ち葉を踏む小さな音だけが響き、夜はさらに深さを増していた。


【時間:現代・午後7時35分頃/場所:山間林道沿い、植林斜面】


朱音が小さく声をあげる。「あ……あそこ……」


玲が振り向き、懐中電灯を朱音の指差す方へ向ける。光が斜面を照らすと、落ち葉の間に不自然な陰が揺れた。


「……止まったか?」千紘がモニターで赤外線映像を確認しながら問う。


坂口は無線機を握りしめ、「あの位置の温度は再び低下。周囲よりも約6度ほど低いです」


玲は息を整え、低く呟いた。「あの影……間違いなく、人の形じゃない。朱音、後ろに下がって」


朱音が小さく頷き、玲の後ろへ身を引く。夜風が斜面の針葉樹を揺らし、冷たい空気が二人の間を通り抜けた。


「観察しろ。焦るな。姿が見えたからといって、追いかけるな」


森の闇の中、微かな葉擦れの音だけが、静かな緊張の中で響き続けていた。


【時間:昭和十二年・午後5時55分頃/場所:青鷺村・山間林道沿いの植林斜面】


赤い着物の裾が薄暗い林の床に触れ、落ち葉と苔の間に吸い込まれるようにして静かに止まった。


柚葉は意識を奪われたかのように、微かに揺れるだけで動かない。手足は自然に折れ、表情も見えない。風が吹き抜け、竹の葉がさざめく音だけが、沈黙を切り裂いた。


村役人の影がそっと覆いかぶさる。誰も声を発さず、ただ布や紙で覆い、少女を林床に置いた。落ち葉の下に埋めることも、血や痕跡を残すこともなく、完全に“消える”ように。


その瞬間、林は何事もなかったかのように静まり返り、赤い裾の色だけが薄暗い影の中で、かすかに光を反射した。


柚葉は、ここで――文字通り、人の手から切り離され、捨てられた。時間が経つにつれ、存在は林の闇に溶け込み、記録されるのはわずかな紙片と、後世に残るかすかな噂だけとなった。


【時間:現代・午後6時50分頃/場所:青鷺村・林間林道沿いの調査現場】


朱音の声が小さく震え、落ち葉の積もる斜面に反響した。風は弱く、木々の間を通るたびにざわりと葉を揺らす。


玲は懐中電灯を片手に、息を詰めるように前に進む。

「大丈夫、朱音。しっかりして…声を聞かせてくれ」


朱音は震える手を握りしめ、目を伏せたまま繰り返す。

「う…ば…み…られた…、かえして…かえして…」


K部門の藍田がデータ端末を操作し、温度センサーと赤外線モニターの異常を確認する。センサーは先ほどの急降下から戻らず、林道の一帯に不自然な冷気が漂っていた。


玲は落ち着いた低い声で呟く。

「柚葉…ここにいたのか。88年前と同じ場所に、同じ影が…」


足元の落ち葉を照らす光に、薄く赤みを帯びた影が揺れる。現代の夜に、昭和の記憶が、確かに重なっていた。


【時間:昭和十二年・夕方/場所:青鷺村・林間林道沿い】


柚葉は、薄暮に沈みゆく林道沿いを慎重に歩いていた。小さな足元は落ち葉と苔に覆われ、踏みしめるたびにかすかな音が響く。風はほとんどなく、木々の間を通る光もわずかで、少女の影を淡く揺らした。


両手で抱えるように古い手帳を握り、彼女は何かを探している様子だった。顔には決意の色が浮かび、時折立ち止まっては、視線を林の奥や石垣の隙間に走らせる。


「…ここ…あの場所…」


小さな声が、薄暗い林間にかすかにこだました。柚葉は、村の誰にも見られないように、そっと古びた標識や木の根元を確かめながら歩き続けた。何か――大切なもの、あるいは逃げ場を――探すように。


その瞬間、落ち葉の下から冷たい感触が指先に触れた。彼女はそっとしゃがみ込み、手で覆われた小さな箱状のものを見つめる。心臓が高鳴る。小さな手帳と、手元の感触が重なるように、昭和十二年の林間は静寂のまま、少女の小さな決意を見守っていた。


【時間:現代・夕暮れ/場所:青鷺村・林間林道沿い】


玲はしゃがみ込み、朱音の指差す先の小さな箱状のものを慎重に手に取った。金属の錆びた匂いと、湿った土の匂いが混ざり合う。蓋は微かに開き、内部には古い文書や木製の小物が収められていた。


「……ここに、ずっと置かれてたんだな」


朱音はそっと息を飲み、指先で箱の縁に触れる。


「この子……あのときも、ここを見てた。森の奥。……なにかを探してるみたいだった」


玲は視線を上げ、林の奥を見やった。薄暗い林道の先に、風に揺れる木の影が長く伸びていた。

手元の箱は、昭和の時代からそこに埋もれていたもの。少女が何かを求め、必死で探していた痕跡を、今、現代に伝えるかのようだった。


「これ……ただの偶然じゃない。13人目に関係してる、間違いない」


朱音は小さく頷き、箱の中身をそっと確認しながら、あの昭和の夕暮れの記憶と現代がつながる感触に身を震わせた。


【時間:現代・夕暮れ/場所:青鷺村・林間林道沿い】


藍田が懐中電灯の光を手元で揺らしながら、慎重に声を落とした。

「ここから先は、かつての“火葬塚”。昭和初期に廃止された村の共同火葬場跡だ」


玲は光を林道の先へ伸ばす。古びた石垣や土の盛り上がりが、かすかに道端に浮かんでいた。落ち葉が厚く積もり、足音を吸い込むように沈めている。


「……柚葉は、ここに近づこうとしてたのかもしれないな」


朱音が低くつぶやく。目の前に広がる影は、夜と森と歴史の記憶が重なる場所そのものだった。


玲はそっと呼吸を整え、足を一歩、また一歩と慎重に火葬塚跡へ向けた。


【時間:昭和十二年・夕暮れ/場所:青鷺村・林間林道沿い、火葬塚手前】


柚葉は小さな手を地面に差し伸べながら、落ち葉を踏みしめて火葬塚の方へ歩を進めていた。

目の前の森は薄暗く、古い樹木の影が長く伸びる。風はほとんどなく、静寂だけが森を支配している。


「……ここに、なにか……あるの?」

柚葉は小さな声でつぶやく。誰にも聞かれない、森と自分だけの秘密の問いかけのようだった。


足元の土や落ち葉の匂いに包まれながら、彼女は慎重に、しかし確実に火葬塚の方へと進んでいく。その背後には、まだ気づかれていない誰かの視線が、ゆっくりと追っていた。


【時間:昭和十二年・夕暮れ/場所:青鷺村・林間林道斜面上】


柚葉は足を止め、濃く影の落ちた斜面を見上げる。

「……ここ、風が……変だ」

小さな声が震える。空気はひんやりと重く、胸の奥まで冷たさが染み込むようだった。


周囲の木々は互いに絡まり合い、葉の間から差すわずかな光も届かない。

地面に散らばる落ち葉は音もなく踏みしだかれ、風に揺れる枝先がかすかにきしむだけ。


柚葉は手元の小石を拾い、指先でそっと握りしめた。

「……行かなきゃ……でも、ここ、怖い……」

その声は森に吸い込まれ、誰も答えない。

彼女の背後で、影が微かに揺れ、気配だけが冷たい静寂を裂いていた。


【時間:現代・夕暮れ/場所:青鷺村・林間林道斜面上】


玲は懐中電灯を手に、落ち葉に足を取られぬよう慎重に進む。

「……ここか」

小さくつぶやきながら、彼は密生した木々の影を見上げた。


空気はひんやりと重く、吹き抜ける風もなく、静寂だけが支配している。

地面に積もる落ち葉が足音を吸い込み、唯一聞こえるのは自分の呼吸だけ。


朱音は隣で立ち止まり、震える手でスケッチブックを抱えた。

「……あの子が、ここに……いたの?」

玲は応じず、斜面の奥に微かに見える木々の隙間をじっと見つめる。

そこに、過去と現代が重なる痕跡が、確かに残っていた。


【時間:現代・夕暮れ/場所:青鷺村・林間林道斜面上】


玲はしゃがみ込み、慎重に落ち葉をかき分ける。

「……傘の骨だけか……」

朱音が小さく息をのむ。


焦げた木材の匂いが、わずかに鼻を突く。

「……ここで、何があったの……?」

玲は返答せず、指先で傘の骨を拾い上げ、土の中に埋まった痕跡を丹念に確認する。


その瞬間、斜面の上からかすかなざわめき。風でもない、誰かの気配。

玲は立ち上がり、懐中電灯の光をゆっくりと左右に揺らした。

夜の林は、微かな光を受けて、まるで過去の悲鳴を隠すかのように、深い影を落としていた。


【時間:昭和十二年・夕刻/場所:青鷺村・火葬塚跡】


柚葉は、村の奥にひっそりと残る廃止された火葬塚の方へ歩みを進めていた。

落ち葉を踏むたび、乾いた音が周囲の静寂に吸い込まれる。


奥座敷で待つ者たちの視線を避けるように、柚葉は傘を手に持っていた。薄暗い空の下、赤い着物がわずかに目立つ。


その直後、数人の影が背後から迫る。

「……ここに行っちゃいけない!」

誰の声かもわからないまま、柚葉は振り返り、逃げ場のない斜面に追い詰められる。


火葬塚の古びた石の周囲で、柚葉の傘が焦げる。

燃え残った傘の骨は、昭和の空に小さく黒い影を残し、彼女の悲鳴とともに闇に溶けていった。


その瞬間、廃屋や林道の影に、村の秘密を覆い隠すかのような沈黙が落ちる。

柚葉は消え、赤い着物の残像だけが、後世に謎として残された。


【時間:現代・午後/場所:青鷺村・火葬塚跡林道脇】


玲はしゃがみ込み、焼け焦げた傘の骨を慎重に手に取る。

煤で黒ずんだ表面に、かろうじて残る刺繍の輪郭が光に反射した。


「……間違いない。青鷺の意匠……白い着物を着た少女の、あの子の傘だ」

千紘も身を乗り出し、光を当てながら観察する。

「昭和十二年の柚葉……ここで最後に持っていたものが、まさか今になってこんな形で残っているとは……」


傘の骨の向こう側、薄暗い林道に差し込む懐中電灯の光が、赤い落ち葉に微かに反射する。

玲の瞳は、昭和の惨劇と現代の手がかりが繋がったことを確信しながら、そっと呟いた。


「ここから、全ての糸が繋がる……“13人目”の手がかりが、ようやく見え始めた」


【時間:現代・午後/場所:青鷺村・火葬塚跡林道脇】


玲は焼け焦げた傘の骨を握りしめ、静かに空を見上げる。

「この場所で……彼女は“焼かれた”。記録に残らず、名前も与えられず、ただ“白い少女”として――」


千紘は息を飲み、落ち葉に散らばる煤の痕跡を指さす。

「本当に……こんなことが、昭和の青鷺村で起きていたなんて……」


風がわずかに吹き、林間の枝を揺らす。その音さえ、悲劇の記憶を隠すように静かだ。

玲の手元の資料と傘の骨が、時代を越えた証言となって、目の前の現実に結びついていた。


「……誰かが、この悲劇を知っていた。だけど、それを伝えられないまま、時が流れたんだ」

玲は低く呟き、林道の闇へ視線を投げた。


【時間:昭和十二年・夕刻/場所:青鷺村・火葬塚】


火葬塚の小高い斜面に、薄暮の光がかすかに差し込む。

柚葉は紅い着物を纏い、怯えた瞳を虚空に向けていた。

村役人たちは無言で準備を進め、煙草の煙と土の匂いが混ざった冷たい空気が立ち込める。


「こ、この子を……ここで……」

一人の役人が低く呟く声も、周囲の風音に飲み込まれる。


柚葉は小さく震えながら、必死に手を伸ばす。

「いや……いやぁ……いやぁ……」


しかし、誰も振り返らず、誰も手を差し伸べることはない。

火が熾され、煙がゆっくりと立ち上る。

小さな白い身体が煙とともに影を薄め、やがて村の闇に溶けていった。


――その瞬間、林間の風が一瞬止み、木々の葉が微かにざわめいた。

残されたのは、焼け焦げた和傘と、消えぬ悲鳴の記憶だけだった。


【時間:現代・夕暮れ/場所:青鷺村・火葬塚付近の林道奥】


玲はゆっくりと石の扉の前に立ち、手のひらを触れた。苔むした表面はひんやりとしていて、長い年月の重みを感じさせる。落ち葉の積もる地面を踏むたび、かすかな軋みが響くが、風にかき消されるほどの静けさだった。


朱音は手にした絵を差し出す。そこには、古い写真の少女と同じ、白い着物に青鷺の刺繍が描かれていた。少女は扉の向こうを指さすように唇をかすかに開き、何かを伝えようとしているように見えた。


玲はゆっくりと膝をつき、扉の隙間から光を落とした。影の奥に、わずかに隆起した石の床があり、苔や土で覆われたその場所は、長い間誰の目にも触れず、記憶の中だけに息づいていた。


「……ここが、柚葉の居た場所か」

低くつぶやく玲の声は、林の静寂に吸い込まれる。


朱音は声を震わせながら言った。

「……あの子……ここにいたのね……」


玲は頷き、光を少し前方に滑らせる。石の扉の奥に、長年封じられた“13人目の痕跡”が、今まさに現代の光に照らされようとしていた。そこには、記録にも残らず、誰にも知られずにいた少女の、忘れられた時間と空間が静かに横たわっているのだった。


【時間:現代・夕暮れ/場所:青鷺村・火葬塚付近の林道奥】


玲は息を飲み、手元の光を石の扉に沿わせた。扉の表面に刻まれた家紋──水尾家の紋章──が、長い年月を経てもなお鮮やかに浮かび上がっている。苔の陰影に映るその模様は、まるで過去と現在を繋ぐ符号のようだった。


朱音が震える声で呟く。

「……この家紋……ここにあったの……」


玲は無言で頷き、手を扉に置く。指先に伝わるひんやりとした石の感触が、1912年の秋、奥座敷で少女が消えた瞬間の記憶を、かすかに甦らせるようだった。


「……水尾家は、あの時から、この場所を――いや、柚葉を、ずっと隠していたのかもしれない」


静寂の林道に、二人の低い息遣いだけが響く。落ち葉の積もる道の先、木々の影が揺れる中で、封じられた記憶の扉が、今まさに光の中に姿を現そうとしていた。


【時間:昭和十二年・夕暮れ/場所:青鷺村・水尾家別棟・奥座敷】


柚葉の命が消えた後、奥座敷は異様な静寂に包まれた。役人たちは顔色を変えず、儀式を淡々と続ける。畳の上に残る赤い着物の一部を、そっと桐箱に押し込む者もいる。


古びた障子から差し込む薄光は、何事もなかったかのように部屋の隅々を照らす。だが、空気は冷たく重く、少女の息づかいの痕跡だけが残っているかのようだった。


役人たちは書類に、少女の消失を淡々と記録し、名前は“水尾家の子”として簡素に記される。後世に伝えられる正式な捜査記録は存在せず、外部の誰もこの出来事を知ることはなかった。


部屋の隅に置かれた桐箱の蓋は、しばらく閉じられたまま、誰も触れず、少女の存在そのものが静かに封じ込められる。時折、障子の向こうから風が吹き込み、畳の匂いをかすかに揺らす。


夜が訪れるころ、奥座敷は完全な沈黙に包まれ、柚葉の姿は目に見えない形で、村の記憶の奥に深く沈んでいった。家族の声も、村人の声も、もう二度と届かない。残されたのは、冷たい畳と、封印された小さな存在だけだった。


【時間:現代・午後/場所:ロッジ内探偵事務所】


朱音の手は震えながらも、ペン先を紙に押し付け続ける。少女の背後に現れたのは、焼け落ちた供養塔の形状──荒れた土の色、苔むした石の輪郭、そしてその奥に潜む石の扉の影までが、自然と描かれていた。


「……ここ……あの子が見ていた場所……」


朱音は小さな声でつぶやく。スケッチブックの上には、少女の白い着物、青鷺の刺繍、そして奥の闇までが、まるで生きているかのように描かれていた。


玲はスケッチを覗き込み、眉をひそめる。

「……やはり、あの子は、火葬塚の奥、石の扉を見ていた……」


千紘も資料を広げ、スケッチと過去の記録を照合する。

「まさか……昭和十二年の少女の視界が、朱音の手によってこうして現代に描かれるなんて……」


静かな事務所に、鉛筆が紙を擦るかすかな音だけが残る。風の揺れるカーテン越し、夕陽の橙色が朱音の描く影に絡みつき、過去と現在が不思議に重なり合っていた。


【時間:現代・夕刻/場所:火葬塚跡・石扉内部】


石扉を押し開けると、ひんやりと湿った空気が一気に流れ込んだ。懐中電灯の光が梁に反射し、半崩れの天井と床を照らす。古い木材の匂いと、土の匂いが混ざり合った独特の臭気が立ち込める。


「……まるで、時が止まっているみたいだ」


玲が低くつぶやく。梁や柱の配置は、日本家屋の典型的な間取りそのままだが、壁の一部には、朽ちた紙と煤の跡が残り、かつて誰かが生活していた痕跡を感じさせた。


千紘が慎重に足を進めながら報告する。

「石扉の奥に、ここまで保存状態が良い空間があるとは……まるで、誰かに“残すよう”に意図されたかのようです」


朱音が視線を落とすと、古びた畳の上に、わずかに人型の沈みがあることに気づく。

「……ここ、誰かが座っていたみたい……」


玲は懐中電灯を揺らしながら、梁の影をじっと見つめる。

「昭和十二年のあの子……柚葉の痕跡が、まだここにある。空気が、記憶を留めているみたいだ」


空間の奥、半崩落した壁の向こうから、微かに風のようなざわめきが漏れ、過去と現代の境界が揺らぐ。


【時間:現代・夕刻/場所:火葬塚跡・石扉内部】


朱音が小さく息を呑む。壁に残された墨痕は、長い年月の間にかすれながらも、確かに文字として読み取れた。


「カナエへ……」千紘が低くつぶやく。「誰かに宛てられた、メッセージのようです」


玲は懐中電灯の光を壁に沿わせながら、文字の下にある微細な傷跡に気づく。

「これは……ただの落書きじゃない。刃物か、針のようなもので刻まれている」


朱音が指で文字の横のかすかな煤の跡をなぞる。

「水鳥ノ家ハ……戻ラヌ……」声にすると、どこか冷たく、悲しみを孕んだ響きがあった。


玲は視線を天井の梁に移す。

「昭和十二年のあの日、ここで何かが“終わった”。この文字は、その時の叫び……あるいは最後の記録かもしれない」


千紘が息を詰めて問いかける。

「……カナエって、誰ですか?」


玲は石扉の奥、半崩落した空間を見つめたまま、ゆっくりと答える。

「……この“13人目”の存在を、唯一知っていた人物だ」


空間の静寂に、わずかな風が入り込み、煤の匂いと木の匂いが混ざり合う。石扉の奥で、時代の境界がひそやかに揺れているようだった。


【時間:昭和十二年・夕刻/場所:青鷺村・水尾邸奥座敷】


柚葉の死から数時間後、奥座敷の障子の向こうには、ひっそりと一人の少女が立っていた。


名前はカナエ。水尾家の遠縁にあたる存在で、まだ十二歳。村の事情に詳しい大人たちに混ざることなく、奥座敷の片隅で誰にも気づかれず、柚葉の様子を見守っていた。


「……柚葉……」カナエは小声でつぶやく。

彼女の視線は恐怖と悲しみで揺れていたが、身体は微動だにしない。


奥座敷の空気は重く、遠くから雷鳴が響き、窓の外では木々がざわめく。

カナエは、障子越しに差し込む光の陰で、柚葉が導かれた廊下の方向を見据えていた。

その視線は、後に“13人目”の記録を知る者としての運命を暗示していた。


「水鳥ノ家は……戻らない……」

壁に残された墨のような文字を、カナエは心の中で繰り返す。

それは、彼女が見た真実の一部であり、時代を越えて現代に伝わるべき“証言”の始まりでもあった。


【時間:現代・夕刻/場所:ロッジ内・朱音の部屋】


朱音の手がスケッチブックのページを押さえたまま止まった。

「……カナエ……?」


ページには、先ほど見た昭和の水尾邸奥座敷での光景が、線と色彩で正確に再現されていた。

柚葉の死後、壁際でじっと立っていた少女の姿。障子の光に浮かぶ輪郭、恐怖に震える小さな手、そして壁に書かれた文字「カナエへ 水鳥ノ家ハ 戻ラヌ」。


朱音は息を呑む。描きながら、無意識のうちに昭和の光景と自分の目に映った現代の廃屋の印象が重なったのだ。


「……私、見ちゃった……?」

小さな声が部屋にこだまする。

その瞬間、スケッチブックの中のカナエと、過去で生きたカナエの感情が、時代を越えて朱音の意識に流れ込むようにリンクした。


朱音の目の前で、昭和と現代が一枚の紙の上で溶け合ったかのようだった。


【時間:現代・夕刻/場所:ロッジ内・朱音の部屋】


朱音はスケッチブックを抱え、窓の外に広がる林道を見つめていた。

「……あの場所、ただの塚じゃない……」


ページには、石扉の奥で朽ちかけた梁や半崩落した床、そして壁に残された文字の断片まで、細密に描かれていた。

「ここで、何が起きたのか……」


小さく息をつき、朱音は指先で鉛筆の跡をなぞる。その線は、昭和十二年、柚葉が消えた夜と奇妙に重なっていた。

「火葬塚……ただの記憶の残滓じゃない。誰かの意思が、ここに、残っている……」


その言葉を口にした瞬間、廊下の向こうからかすかな風の音が聞こえた。

木々の間から差し込む夕陽の斜光が、スケッチブックのページを照らし、白鉛の線が一層鮮明に浮かび上がる。


朱音は息を呑み、心の奥底で、過去と今が静かに繋がったことを感じていた。


【時間:現代・夕刻/場所:火葬塚石扉内部】


玲は足元の瓦礫をかき分け、慎重に古びた床板に手をかけた。

「……ここに、何かが隠されている」


手袋越しに触れる床板は、想像以上に頑丈で、長年の土圧と煤の汚れに覆われていた。

「朽ちてはいない。誰かが意図的に残した痕跡だ……」


その瞬間、微かな軋みとともに、瓦礫の隙間から光が差し込む。

朱音は息を詰め、スケッチブックのページをぎゅっと握りしめる。

「……あの子が、ここに……」


玲は無言のまま床板を少しずつ押し上げ、煤に覆われた下の空間を覗き込んだ。

そこには、昭和の夜に消えた柚葉の痕跡を思わせる、細かな残骸と、かすかに白い布片が散らばっていた。

「……やはり、記録されなかった“何か”が、この中に……」


薄暗い空間の奥で、時間の重みと過去の記憶が、静かに現代と交差しているようだった。


【時間:昭和・晩秋/場所:青鷺村・火葬塚石扉内部】


火葬塚の石扉を押し開けると、そこには想像を絶する光景が広がっていた。

煤と土埃にまみれた空間の奥、半崩落した梁の下に、誰かが身を潜めている気配があった。


小さな体が、古びた木箱や瓦礫の隙間に縮こまっている。

赤い着物の袖端だけが、かすかに光を反射した。


「……ここ……」

小さな声が、かすれた風に混じって漏れる。


柚葉だった。火葬塚で“焼かれた”と思われていた少女は、実際にはこの隠し扉に身を隠していたのだ。

表向きには“白い少女”として記録され、名前も歴史から抹消された存在。だが今、息を潜めながら確かに生きていた。


彼女は恐怖と混乱に震え、目をぎゅっと閉じている。

外界の物音や人影が、少しでも彼女の居場所を察知することがあれば危険だという本能が、体全体を硬直させていた。


梁に残る煤や土の匂いと、狭く閉ざされた空間の冷気。

すべてが、少女の身を隠すために計算され尽くした“安全な囮”だったことを、静かな闇が物語っていた。


彼女の存在は、昭和十二年の青鷺村で誰にも知られず、過去の記録から完全に隠されていた。

そしてこの瞬間、柚葉はひっそりと、未来へ生き延びるための時間を刻み始めていた。


【時間:現代・夕暮れ/場所:廃火葬塚跡・石扉内部】


奈々が瓦礫を丁寧にどけると、床板の一部だけが明らかに他とずれているのがわかった。

指先で軽く押すと、かすかに軋む音とともに板が持ち上がる。


「これ、開きます。――隠し床?」


玲が慎重に近づき、懐中電灯の光を差し込む。

光の先には、埃にまみれた小さな空間が広がり、奥に小さな人影が見えた。


「……生きている……」


その瞬間、現代の調査班の息が止まる。

そこにいるのは、昭和の青鷺村で“焼かれた”と記録されていた赤い着物の少女──柚葉だった。


スケッチブックに描かれていた姿と、石扉の奥で息を潜める少女の姿が、静かにリンクする。

88年の時を越えて、過去と現代がこの瞬間、不可視の糸で結ばれたのだった。


瓦礫に囲まれた小さな隠し床の奥、少女の瞳は震えながらも、初めて外界を見渡していた。

そして、その目は、今まさに目の前にいる調査班の誰かに、自分が生きていた証を訴えようとしていた。


【時間:現代・夕暮れ/場所:廃火葬塚跡・石扉内部】


玲が古い記録を指差す。

『昭和十二年十月十三日 女児。火傷、意識混濁。緊急搬出。処置完了』


千紘が小声でつぶやく。

「……この子、今で言えば97歳になるはずです」


瓦礫の隙間から顔をのぞかせる柚葉。薄暗い光の中で、赤い髪をわずかに揺らす。

過去の火葬塚で“死んだはず”の少女は、奇跡的に生き延び、長い年月を経て現代に姿を現していた。


玲は息を整え、ゆっくりと近づく。

「君は……ずっとここにいたのか?」


柚葉はかすかに頷き、震える声で答える。

「……うん……ずっと……」


現代と昭和の記録が交差し、88年の時を超えて、ついに“13人目”の存在が現実のものとして確認された瞬間だった。


【時間:現代・夜/場所:廃火葬塚跡・隠し床内部】


玲はそっと布団に手を伸ばす。

「大丈夫……怖くない。もう安全だ」


柚葉はかすかに目を開け、薄く笑う。

「……ずっと……待ってた……」


奈々が息を飲み、そっと横に座る。

「ここで、ずっと……一人で……」


千紘は資料を脇に置き、目を伏せながらつぶやいた。

「記録からは消され、名前も与えられず……でも、ちゃんと生きていたんだ」


玲は隣で、彼女の小さな手を握り、沈黙の中で時間の流れを感じる。

過去と現代の隔たりが、ここで静かに交わった瞬間だった。


【時間:現代・夜/場所:廃火葬塚跡・隠し床内部】


少女の目に涙が滲む。

「……ずっと、ここに……?」


カナエは頷き、静かに微笑む。

「怖かったね。でも、もう終わり。もう誰にも奪われない」


奈々がそっと傍に寄り、優しく肩を抱く。

「もう安心していいの。ここは安全だから」


千紘は古い資料を胸に抱え、静かに息をつく。

「歴史が、ここで一つ繋がった……長い年月を越えて」


少女は小さく頷き、ゆっくりと呼吸を整える。

薄暗い隠し床の中、時空を越えた再会の温もりが、夜の冷気を溶かしていった。


【時間:昭和十二年十月十三日・夕方/場所:青鷺村・火葬塚内部】


柚葉は、薄暗く煙の匂いが漂う塚の中央で、足を止めた。

炭の熱が肌をかすかに焦がすが、恐怖で動けないわけではない。目の端に、ひび割れた石の壁面に不自然な影を見つけたのだ。


小さな手で触れると、そこにはわずかな隙間──人ひとりが潜り込める程度の扉のような凹みがあった。

本能が告げる。ここに隠れれば、炎から逃れられるかもしれない。


柚葉は息を潜め、少しずつその扉へ体を寄せる。

耳を澄ませば、外の人影が近づく音。焦る鼓動を抑えつつ、扉の奥に小さな隙間を見つけた瞬間、勇気を振り絞って身を押し込んだ。

その瞬間、周囲の炎の光が一瞬だけ消えたように感じ、柚葉は暗闇に包まれた。


小さな体が石と木の冷たい壁に触れながら、息をひそめる。

ここに潜めば、誰にも見つからない──生き延びられる。

そして、彼女の目には、ほんのわずかに希望の光が反射していた。


【時間:現代・午後/場所:木造建築を模した療養施設・個室】


部屋の奥には、薄い布団の中に小さな体が横たわっていた。白髪混じりの手がわずかに布団を握りしめ、ゆっくりと呼吸を繰り返している。


97歳になったカナエがそっと布団の脇に座り、弱々しい声で名前を呼ぶ。


「……カナ……え……?」


声はかすれ、震えているが、瞳には確かな生気が宿っていた。


「ええ、大丈夫。あなたは……あなたは、ちゃんと生きているのよ」


カナエは少女の手を握り、冷たくなった指先に自分の温もりを伝える。

小さな体は震えているが、かすかな安堵が、室内の静寂に染み渡った。


窓の外には、金木犀の香りと共に、柔らかな午後の光が部屋の中に注ぎ込み、長い時を経て再び巡り合った命の温度を、静かに照らしていた。


【時間:現代・午後/場所:木造建築を模した療養施設・個室】


「お客様かね……おや、あんた……目が、澄んでおるな……」


朱音はぎこちなく小さく頭を下げる。カナエの視線は、年齢を感じさせない鋭さを帯びており、まるで遠い昔の出来事を見透かすかのようだった。


玲は軽く会釈をして一歩前に出る。


「こちらは……」


言葉を切り、周囲を見回した。資料やスケッチブックの束を抱えた朱音、そしてK部門の数名が部屋の隅で静かに待っている。


カナエはゆっくりと口を開いた。


「……あの子は……あんたの絵と、よく似ておる……」


朱音の手元のスケッチブックに目をやり、指先で淡く描かれた線をなぞるように視線を止める。


「……生き延びたのかね、あの子……」


玲は静かに頷き、朱音に目配せをする。スケッチブックに描かれた少女の姿が、現代と昭和をつなぐ鍵であることを改めて確信した。


外の金木犀の香りが、かすかに部屋の空気を揺らす。長い時を越えて、やっと繋がった記憶の断片が、ここに静かに息づいていた。


【時間:現代・午後/場所:木造建築を模した療養施設・個室】


玲の声は静かに、しかし確かに届くように響いた。


カナエはしばし目を閉じ、古い記憶の糸を手繰るように呼吸を整える。


「……ああ……覚えておる。あの子の名前は……柚葉……小さくて、白い着物を着て……恐ろしいことが起こるその前に、私は……あの子を守った」


朱音は手元のスケッチブックを押さえ、震える指で最後に描いた少女の姿をそっとなぞった。


「……その子は生き延びたのですか?」


カナエは薄く微笑むように唇を動かしたが、その目には深い哀しみと、同時に救済の温もりが宿っていた。


「生き延びた……だが、それは誰にも知られぬ秘密。私たちだけの記憶として、封じられたまま……」


玲は静かに頷き、朱音と互いの視線を交わした。現代と昭和、二つの時代をつなぐ記憶の断片が、ここでひっそりと重なり合っていた。


【時間:昭和十二年十月/場所:青鷺村・水尾邸奥座敷】


柚葉は小さな手を畳の上に広げ、障子越しの淡い光に顔を向けていた。


「……こわくないよ、カナエ……」


その声はかすかで、震えを含みつつも、妙に落ち着いていた。


カナエはそっと背後の押入れの隅に目をやる。そこには、かすかに開いた隠し扉の影があった。心の中で、決心が揺れる。


「……あそこに入れば……安全になる……でも、誰も知らない場所……」


柚葉は無意識に扉の方向へ一歩踏み出し、視線を上げたまま小さく笑う。


「カナエ……一緒に……」


カナエはその手を取ろうと伸ばし、そしてそっと押入れの隅に身を寄せながら、少女を隠す準備を始めた。


外の空はさらに暗く、雨粒が障子にあたり、かすかな音を立てる。だが、二人の間には静かな時間が流れ、恐怖よりも守ろうとする意志が強く占めていた。


【時間:昭和十二年十月/場所:青鷺村・水尾邸奥座敷】


カナエの手は宙に残ったまま、畳の上に落ちた小さな布を見つめていた。


「……どうして……消えたの……?」


声にならない問いを口元で繰り返しながら、隠し扉の方向に目をやる。


押入れの隅は静まり返り、冷たい風が障子の隙間から吹き込むだけ。


畳の上には少女の痕跡として残された布片だけが、かすかな匂いを放っていた。


カナエは息をのみ、手でその布をそっと拾い上げる。そこには、青鷺村の空気と、少女の存在の痕が混ざって、まるで時間が止まったかのように感じられた。


「……あの子は……ここにいた……でも、もういない……」


振り返ると、奥座敷の障子越しの淡い光は、何事もなかったかのように静かに揺れていた。


【時間:昭和十二年十月/場所:青鷺村・水尾邸奥座敷】


その日、家の者たちは奥座敷からかすかなすすり泣きのような音を聞いたという。


「……また、あの子の声かしら」


年の近い奉公人の少女が、いつものように茶を運ぶこともなく、夕餉の時間になっても姿を現さなかった。


家中を探したが、物陰にも隠し場所にも、彼女の姿は見つからない。


障子の向こうでは、微かに畳が軋む音が、空気を震わせるだけだった。


「……どこへ行ったの……?」


主人たちの問いかけにも、返事はなく、奥座敷は再び静寂に包まれたままだった。


それ以来、誰もあの部屋に近づこうとはせず、障子の隙間から忍び込む冷たい風だけが、少女の消えた痕跡を運んでいた。


【時間:現代/場所:都内・木造建築を模した療養施設の個室】


「……あの子のこと、覚えておるかね……水尾の……あの子」


その声はかすれ、震えていたが、確かな意思を伴っていた。


朱音はスケッチブックを差し出し、ページをめくる手を止めない。


「……そうじゃ、柚葉じゃ……お前の描いた絵の子と同じじゃな」


老女の指先が、胸元で抱えたスケッチブックにそっと触れる。


「あの子は、あの日、消えたと思われておった……されど、隠し扉の奥で、私が守ったのじゃ」


部屋の空気が、一瞬、張り詰める。窓の外、街路樹の影が揺れる。


「長い年月を経て、やっと……誰かが気づいてくれたのか……」


カナエの唇が、かすかに微笑む。だがその目は、今も当時の恐怖と重みを湛えていた。


「……柚葉は、もう安全じゃ。お前も、安心せい」


朱音はその言葉を胸に刻み、静かにスケッチブックを閉じた。


外の冷たい風が窓から入り込み、古びた木の香りと混ざり合い、過去と現在がこの小さな部屋の中で、静かに交錯していた。


【時間:現代/場所:都内・木造建築を模した療養施設・カナエの個室】


朱音は鉛筆を止め、しばしその余白を見つめた。


「……ここに、何かがいる……気がする」


玲がそっと覗き込み、低く呟いた。


「描きかけの景色――あの奥座敷の空気、仏壇の崩れた様子……過去と繋がってる」


千紘も資料を広げ、古い報告書の記録と絵を照合した。


「確かに、ここ。昭和十二年の水尾邸、奥座敷の構造と完全に一致してます。ほぼ当時のまま……」


朱音は息を呑み、黒鉛の鉛筆を握り直す。


「この余白には……あの子の姿を、描きたい」


カナエは枕元で、静かに微笑む。


「うむ……描くのじゃ、柚葉の記憶を……そして、お前の目で見た現実を、このページに留めるのじゃ」


静かな部屋に、鉛筆の軋む音だけが響き、過去と現在の境界が、少しずつ薄れていくようだった。


【時間:現代/場所:都内・木造建築を模した療養施設・カナエの個室】


朱音の手は止まらず、鉛筆が紙の上を滑る。描かれるのは、かすかに揺れる奥座敷の光景、崩れかけた仏壇、そして影のように佇む少女の姿。


「……こう……こうかな」


小さな声で呟きながら、朱音は筆圧を変え、影の輪郭を丁寧に描き込む。


玲が静かに隣に立ち、ページを覗き込む。


「その影……見えてるのか?」


朱音は鉛筆を止めず、震える手で首を軽く横に振る。


「見える……でも、描くと少しずつ、何かが形になるみたい……」


千紘も資料を胸に抱え、古い記録とスケッチを照合する。


「過去の水尾邸……この構造、柚葉の最後の居場所……完全に一致しています。これは……現実と記憶の交差点ですね」


鉛筆の音だけが、深まる夜の静寂にかすかに重なり、過去の影が現代に静かに息を吹き返していく。


【時間:現代/場所:都内・木造建築を模した療養施設・カナエの個室】


玲の声は低く、震えることもなく静かに響いた。朱音の鉛筆は紙の上で止まり、描かれていた奥座敷の影をじっと見つめる。


「……この仏壇の奥、隠し間取りがある。

誰かが、そこに閉じ込められてたの。ずっと、誰にも見つけられないまま……。」


千紘が息を飲む。手に持った古い報告書とスケッチを見比べ、指先でページをなぞる。


「昭和十二年の記録にも……仮記録だけで、正式には残されていない。まさか……」


朱音はふっと息をつき、鉛筆を軽く握り直す。ページの余白に、隠し間取りの輪郭を、そっと描き加えていく。


「ここにいたんだ……ずっと、誰も知らずに」


夜の静寂に、鉛筆の擦れる音だけが残り、過去と現代の空気が、わずかに混ざり合う。


【時間:昭和十二年秋・夕刻/場所:青鷺村・水尾邸奥座敷・仏壇の隠し部屋】


隠し扉の奥は、昼間の光も届かぬ暗闇だった。埃に覆われた畳の上に、小柄な影が一つ、静かに身を潜めている。息遣いだけがわずかに聞こえ、外の物音には耳を澄ませた。


「……ここにいれば、誰にも気づかれない……」

声は囁きと呼ぶには低く、かすかに震えていた。少年か少女か、年齢は定かではない。だが、冷たい闇の中で目だけは鋭く光っている。


廊下の軋む音、障子の擦れる音、床を踏む足音──すべてが危険の合図だった。隠し部屋の壁板の隙間から、家人の動きを窺いながら、影は一瞬たりとも身を動かさない。


「……まだ……誰も……」

誰も訪れない静寂の中、影は孤独を抱え、ただ時の流れに身を任せていた。外で起きる騒動も、火葬塚の出来事も、すべてはこの影には届かない。生き延びるために、影は暗闇の中で耐え続けるしかなかった。


【時間:現代・夕刻/場所:高齢者療養施設・一室前廊下】


玲は視線を上げ、杖をつく女性の姿をじっと見つめる。


「1912年……ですか?」

玲の声は、驚きと確認の入り混じったものだった。


成海は小さく頷き、杖を軽く床に押し付けながら、静かに歩を進める。

「ええ。私はあの夜、水尾邸の奥座敷におりました。柚葉の側に……いや、彼女だけでなく、あの家で起きたことのすべてを、かろうじて見届けた者です」


朱音の手がスケッチブックを握り直す。ページに描かれた少女の姿が、今、目の前の話と呼応していることを直感で感じた。


「……成海さん。あの夜、何があったのですか? 柚葉は……」

朱音の問いに、成海の瞳がわずかに揺れる。


「……柚葉は……隠され、生かされました。けれど、外には出られなかった。あの家の奥座敷で、ひっそりと日々を重ねるしかなかったのです」


玲が息を飲む。

「つまり……あの少女は、生き延びた、と……」


成海はゆっくりと頷き、杖を床に固定したまま、二人を見つめる。

「はい。けれど、その事実は長らく誰にも知られず、記録からも消されてしまった。だから今、あなたたちがここに来た意味があるのです……カナエの描いた絵も、その記憶の糸をたぐるためのものにすぎません」


廊下に静寂が戻る。外の風が窓越しに吹き込み、金木犀の香りがかすかに漂った。

朱音の目には、絵と現実、過去と現在が交差する瞬間が、鮮明に刻まれていた。


【時間:現代・夕刻/場所:高齢者療養施設・一室】


成海は慎重に指先で手帳の表紙を押さえ、静かにページを開く。

「この手帳……ずっと持っていました。あの夜からずっと」


朱音と玲は自然と顔を寄せる。黄ばんだ紙の間に、封筒に収められた一枚の写真が挟まれていた。


成海の手が震える。

「この写真……この子が……柚葉です。まだ幼い頃、あの奥座敷で撮られたものです」


朱音が息を呑む。写真の中の少女は、スケッチブックに描かれた姿と同じ。白い着物を身にまとい、目はどこか遠くを見つめている。


玲は静かに訊く。

「この写真……なぜ、今まで残されていたのでしょうか?」


成海は小さく息を吐き、視線を手帳に落とす。

「生き延びたという証拠を、誰にも渡してはいけないと、あの家の者に言われていました。外の世界には……出せなかったのです」


朱音がそっと手帳を覗き込む。封筒に書かれた文字が目に入った。

『水尾家・奥座敷 保管記録』


玲は視線を上げ、窓の外を見つめる。

「つまり、柚葉はあのまま、奥座敷で……生かされていた……」


成海は頷く。

「はい。でも、誰も知りませんでした。長い年月、黙って守り続けてきた者だけが……その存在を知っているのです」


外の風がかすかにカーテンを揺らし、三人は静かに過去と現在の重なりを感じていた。


成海の手が、微かに震える。


「……彼女は、あの夜、“家の秘密”を見てしまったんです。

座敷で起きた事故──いえ、事件。

水尾家の本家筋の男が殺された。それを目撃してしまった彼女を、“証人”として抹消した。」


【時間:現代・夕刻/場所:高齢者療養施設・一室】


朱音の鉛筆が止まった。部屋の空気が一瞬、重く凍りつく。


玲は低い声で問いかける。

「……抹消、というのは……どういうことですか?」


成海は視線を落とし、ゆっくりと続ける。

「本来なら、あの子は外に出るはずでした。けれど、家の者はそれを許さなかった。誰にも知られぬよう、奥座敷の隠し間取りに閉じ込め、生かしながら――外界から隔絶したのです」


朱音の目が大きく開く。

「……つまり、柚葉は……ずっと隠されていた……?」


成海は頷き、手帳のページを指で撫でる。

「はい。表には存在しない者として記録され、誰も見つけられないまま年月が流れました。私は……ただ見守ることしかできなかった」


玲はゆっくり息を吐き、手元のスケッチブックを抱き寄せる。

「……あの子の“証言”は、長い時間、封印されていた……」


窓の外で、夕闇が山の端を覆い、施設の室内は静寂に包まれる。

小さな光の中で、過去と現在の真実が、ようやく繋がろうとしていた。


【時間:現代・夕刻/場所:高齢者療養施設・一室】


朱音の鉛筆が止まった。部屋の空気が一瞬、重く凍りつく。


玲は低い声で問いかける。

「……抹消、というのは……どういうことですか?」


成海は視線を落とし、ゆっくりと続ける。

「本来なら、あの子は外に出るはずでした。けれど、家の者はそれを許さなかった。誰にも知られぬよう、奥座敷の隠し間取りに閉じ込め、生かしながら――外界から隔絶したのです」


朱音の目が大きく開く。

「……つまり、柚葉は……ずっと隠されていた……?」


成海は頷き、手帳のページを指で撫でる。

「はい。表には存在しない者として記録され、誰も見つけられないまま年月が流れました。私は……ただ見守ることしかできなかった」


玲はゆっくり息を吐き、手元のスケッチブックを抱き寄せる。

「……あの子の“証言”は、長い時間、封印されていた……」


窓の外で、夕闇が山の端を覆い、施設の室内は静寂に包まれる。

小さな光の中で、過去と現在の真実が、ようやく繋がろうとしていた。


【時間:昭和十二年十月十三日 午後五時過ぎ/場所:青鷺村・水尾邸奥座敷】


少女の視界は障子の隙間から庭の石灯籠をかすかに捉えていた。

奥座敷からは、大人たちの怒号と緊張に満ちた声が漏れ聞こえる。


「それ以上は言うなッ!」

男の声。怒りと恐怖が混ざり合った音が、畳や襖に響いた。


続けざまに、何かが打ちつけられる鈍い音──人の身体が畳に倒れる音が重なる。


少女はおそるおそる障子に近づき、その視線が奥座敷の光景に捕らえられる。

畳の上に崩れた男。血に濡れた短刀が、その隣に静かに置かれていた。


そこにいたのは三人。白髪交じりの当主・水尾義高、長男、そして口元を歪めた見知らぬ男。


「この家の名に泥を塗るような真似を……始末は、こちらでつける」

長男が冷たく言い放つ。


血を流す男は微かに動くが、誰も助ける者はいない。


──その瞬間。

少女は背後から強く襟首を掴まれた。

無言の使用人の女が口を塞ぎ、少女を力づくで奥の間へ連れ去る。


暗い奥の間に押し込まれ、少女は膝を抱えて小さく震える。

外の声と音は遠く、しかし鮮明に心に刻まれる。

「……私は……ここにいる……誰にも見つからない……」

小さな囁きが、冷え切った室内に吸い込まれて消えていった。


【時間:現代・午後7時半頃/場所:廃屋・奥座敷跡】


玲は手持ちのLEDランプの光を床に落とし、微かに沈む畳の感触を確かめる。

朱音も隣で端末を操作しながら、瓦礫の位置や床板の隙間を慎重に確認していた。


「ここだけ、沈み方が不自然ね……」

朱音が小さな声でつぶやく。手が止まり、端末を通じて床の構造を記録する。


玲は膝をつき、指先で畳の縁を押さえ、微かな隙間を探る。

「……隠し床かもしれない。昔の奥座敷のどこかに、まだ誰かが閉じ込められていた形跡があるはずだ」


朱音の目が光る。

「私の絵に描いた場所……あの空間と一致してる……」


玲は息をひそめ、LEDランプの光をゆっくり動かして床下の影を探る。

「開けるぞ……誰も入れなかった空間に、何が残されているのか、確かめる」


朱音が頷き、二人は瓦礫を少しずつどけ、床板の隙間を広げていった。

床下からは、かすかに湿った木の匂いが漂う。

長い時を経た空間の息遣いが、二人の胸に静かに響いた。


【時間:現代・午後7時35分頃/場所:廃屋・奥座敷跡・隠し床】


玲は慎重に指先で床下の瓦礫をかき分ける。

「……これは……」


朱音の声が震えた。手元のLEDランプで照らすと、湿気に包まれた木箱の中、黒ずんだ炭化物や白骨のかけらが見えた。

「小さな骨……焼け焦げた布……そして短刀の柄の一部……」


玲は無言で唇を噛む。床下に残された痕跡は、かつてここで起きた出来事の残虐さを物語っていた。

「昭和十二年、この家の奥座敷で……何があったのか、間違いなくここにある」


朱音が鉛筆を持ち、そっとスケッチブックに観察したままの痕跡を写し取る。

「……この形、火葬塚の記録と一致してる……あの少女は、ここに……」


玲は深く息をつき、床下に指をかけながら言った。

「証拠は残っていた。誰も見つけられなかった場所に、真実はずっと眠っていたんだ……」


【時間:昭和十二年十月十三日・午後6時頃/場所:青鷺村・水尾邸奥座敷】


奥座敷の障子越しに、外の光はほとんど届かず、畳の上には緊張の空気だけが漂っていた。

少女の姿はすでに消え、押し込まれるようにして小さな影が隠されていた。それは、当時家に仕えていた奉公人の末端の子──名前は伏せられていた、まだ幼い少女だった。


「……ここなら……誰にも見つからない……」


床下の薄暗い空間に身を縮め、息をひそめる幼い体。外では水尾家の長男と義高、そして見知らぬ男が押し合い、倒れた男の呻き声が奥座敷に響いている。

その小さな存在に、誰も気づかない。畳の下の隠し床は、ほとんど忘れられた空間だった。


――この痕跡は昭和から現代に至るまで誰にも触れられず、廃屋となった水尾邸の奥座敷跡で、玲と朱音によって発見されることになる。


【時間:現代・午後7時35分頃/場所:廃屋・奥座敷跡・隠し床】


玲は瓦礫をどけ、炭化した床板の一部を慎重に持ち上げる。

そこに残るのは、焼け焦げた布や短刀の柄の破片、微かに残る白骨のかけら。


「……この床下に、誰かが隠れていた……」


朱音は鉛筆を握り、床下の痕跡をスケッチブックに写す。

「……あの夜、ここに誰かがいた……」


昭和の隠し床と現代に残された炭化痕跡が、時代を超えて静かに呼応した瞬間だった。


【時間:現代・午後8時頃/場所:廃屋・奥座敷跡/朱音のスケッチブック上】


朱音の筆は止まらず、鉛筆の芯が紙を擦る音だけが、暗く静かな室内に響いていた。


「……ここに……いたんだ……」


描かれたのは、炎に包まれた奥座敷の中、逃げ惑う影の中で、少女が最後に目にした父と思しき人物の背中だった。体を硬直させ、何かを守ろうと必死に立つその姿は、時を超えて朱音の手を震わせる。


玲は静かに朱音の肩に手を置き、低い声で囁いた。

「……その光景を、忘れないで……でも、描き切らなければいけない」


朱音は小さく頷き、息を整えることも忘れて、紙の上に記憶を重ねた。燃え盛る奥座敷、煙と光の中に消えていった少女の視線、そして父の背中──そのすべてを、現代の眼差しで紙に刻み込もうとしていた。


夜の風が、窓の隙間から冷たく吹き込む。だがスケッチブックの上には、昭和十二年の奥座敷の熱が、まるで現実のように滲んでいるかのようだった。


【時間:現代・午後9時10分頃/場所:廃屋・地下室】


玲はゆっくりと封印された箱を開け、中身を一つずつ確認した。湿った空気が鼻腔をくすぐる。


「……これは……まさか、未提出の死亡届まで残っているとは……」藍田が息を詰める。


朱音が日記帳を手に取り、ページをめくる。文字はかすれ、インクも薄れていたが、確かに水尾義高の筆跡だった。


「“この一件、決して外に出してはならぬ。娘と証人の命、家の名誉を守るため……”」朱音が小声で読み上げる。


「つまり……昭和十二年のあの日、少女は本当に消されるはずだった。でも、生き延びて隠された……」玲の声は低く、しかし確信に満ちていた。


階段の隅で奈々が指差す。封印された家系図の一部には、長男の血痕のついた印章が押されていた。


「……これが、全ての鍵ですね。長男は、この家の“秘密”を封じるために動いた。そして、義高も、それを承知していた」


朱音はふと手を止め、封じられた地下室の壁を見つめる。

「……この空間、昭和の奥座敷と完全にリンクしている……火災の跡も、床下の焦げも、全部、同じ時間に起きたことなんだ……」


玲は静かに頷く。

「ここで全てが繋がった……昭和の事件と、今の私たちの調査は、まさに一続きの歴史だった。」


【時間:昭和十二年十月十三日・夜/場所:水尾邸・奥座敷跡】


奥座敷の床下に、微かに焦げた日記帳が埋もれているのを義高は知っていた。自分の手で記録を残さねば、あの夜に起きた出来事が永遠に闇に葬られる──そう考えたのだ。


「……これで、すべての証が残る」義高は低く呟き、震える手で日記にペンを走らせる。文字は細かく、しかし力強く、未来に託す意思が滲んでいた。


しかし、記録を残したことで、彼は命を狙われることになる。長男の指示、そして家の名誉を重んじる者たちの影が、義高の背後に迫った。


「父上……これは……」使用人の娘が小声で呼びかけたが、義高は微笑むしかなかった。


襖が激しく開かれ、男たちの足音が畳を叩く。義高は日記を胸に抱えたまま、短い叫びを上げ、背後から押し倒される。


血が畳に滴り落ち、インクの匂いと混ざり合う。彼の目は、わずかに見開かれたまま虚空を見つめる。日記は、どうにか床下の隙間に残され、後世へと繋がる記録となった。


【時間:現代・廃屋地下室/場所:廃屋・地下室】


玲が手にした日記帳は、まさに義高が書き残したものだった。焦げ跡、血痕、そして文字の力強さ──すべてが昭和の夜と、現代の調査を結びつける証拠となる。


「……義高は、記録を残したがために命を落とした。でも、この記録がなければ、私たちは何も知ることができなかった」


朱音が日記のページを指でなぞる。

「昭和と現代……二つの時間が、ここでつながったんだ……」


玲は地下室の壁を見つめ、低く呟く。

「これで全てが……繋がった。」


【時間:現代・夜/場所:高齢者療養施設・一室】


朱音がそっとスケッチブックを抱え、ベッド脇に腰を下ろした。


「……カナエさん、あの子、やっと……見つかったんだよ」


ベッドの上でカナエはゆっくりと頭を上げ、かすかに笑みを浮かべる。

「……あの子……本当に……生きていたのね……」


玲が静かに言葉を添える。

「昭和の夜、あの奥座敷で何が起きたか……今、全てが繋がった。あなたの記憶、日記、そしてスケッチブック……すべてが証言している」


朱音はページをめくり、震える手で描かれた線をそっとなぞる。

「……描いてよかった。描かなきゃ、わからなかった……」


カナエの目が、じんわりと潤む。

「ありがとう……あなたたち……生き証人として……未来に繋いでくれた……」


玲はベッドの傍らで軽く頷き、静かに視線を落とす。

「もう、二度と誰も――あの奥座敷に閉じ込められることはない。真実は、ここに残された」


夜の静寂に、三人の存在だけが柔らかく響き、長い時間を越えた空気がゆっくりと落ち着きを取り戻していく。


「…私が、あの夜、もっと勇気を出していたら……この子は……」


朱音は首を振った。


【時間:現代・夜/場所:高齢者療養施設・一室】


朱音は首を振り、静かにカナエの手を握る。

「違うよ、カナエさん。あの夜、勇気を出していたとか、出さなかったとか……関係ない。あの子が生き延びられたのは、運命がそう動いたから。あなたのせいじゃない」


カナエは薄く目を閉じ、深く息を吐いた。

「……でも、あの子を助けられなかったのは、私の過ち……」


玲がそっと言葉を添える。

「過ちじゃない。あなたがあの夜、命の危険に晒されながらも、見守り、記録を残してくれたから、今こうして真実が繋がったんです。あの子の存在は、あなたの勇気と知恵によって守られたんだ」


カナエの手が、朱音の手に軽く触れ、しばし静かな時間が流れる。

窓の外では、夜の風がやわらかく揺れ、遠くの街灯が揺らめく光を室内に運んでいた。


玲が穏やかに続ける。


「私たちが見つけた遺留品の中には、少女が身に着けていた焼け焦げた簪と、未提出の戸籍異動届がありました。

名前も年齢も、家族との関係も……全て、記録の闇に落ちていましたが、これで回復できます。」


【時間:現代・夜/場所:高齢者療養施設・一室】


カナエの目に、わずかに光が戻る。

「……戸籍の闇から……戻せる……本当に、あの子の名前が……」


朱音が小さく息を吐き、手を握り返す。

「そうだよ、カナエさん。もう“白い少女”じゃなくなる。ちゃんと名前を取り戻せるんだ」


玲は落ち着いた声で続ける。

「そして、この証拠がある限り、あの夜の真実も、歴史に刻まれる。消されていた事実も、今ここで取り戻せる」


カナエは肩を震わせ、ゆっくりと頷いた。

「……ありがとう……生き延びた証を、残してくれて……」


朱音はそっと笑みを返す。

「だから、あの子はもう一人じゃない。私たちと一緒に、記憶の中でも生き続けられる」


夜の静寂の中、三人の間に温かい空気が漂い、長い時間を経て封じられていた歴史の扉が、ゆっくりと開かれたようだった。


【時間:現代・夕方/場所:廃屋跡・座敷縁側】


朱音はページの上で指を止め、静かに息を吐いた。

「……ここまで来るのに、長かったな……」


玲が隣に立ち、瓦礫の上に膝をつきながら言う。

「でも、これでやっと……あの子の物語を、ちゃんと描き残せる」


風が一枚のページを揺らすと、少女の瞳が微かに光るように見えた。

朱音は微笑みながら、そっと鉛筆を握り直す。

「もう、迷わなくていいんだね。あの子も、私たちも……」


玲はうなずき、辺りを見渡した。

「ここはもう、ただの廃屋じゃない。歴史の断片が、この場所で繋がったんだ」


朱音は最後の一線を描き終えると、スケッチブックを抱きしめた。

風が止み、静寂が戻る。夕日が傾き、瓦礫の間に長い影を落とした。

「……さようなら、そして、ようこそ」


廃屋の縁側に残るのは、時間を越えて救われた少女の記憶と、それを見守る二人の静かな影だけだった。


【時間:現代・夜/場所:都内・警視庁文化財保全班】


玲は資料の入ったファイルを抱えながら歩き、朱音に囁いた。

「これで、あの村の記録も、失われた戸籍も、公式に残せる」


朱音はスケッチブックを胸に抱え、少し緊張した面持ちで答える。

「うん……あの子のこと、やっと名前で呼んであげられる」


エレベーターの扉が開き、文化財保全班の室内に入ると、担当者が迎えた。

「お待ちしていました。報告書と資料はすでに目を通しています。再調査対象として、正式に記録されます」


玲は軽く頭を下げ、資料を差し出した。

「ありがとうございます。昭和十二年の失踪事件と火葬塚の構造、そして未提出だった戸籍異動……全てを精査してください」


朱音は静かにスケッチブックを机に置き、ページをめくる。

描かれた少女の瞳が、紙の上でまるで生きているかのように光っていた。


担当者は頷き、書類を受け取りながら言った。

「これで歴史の断片が正式に残ります。少女の名前も、証言も……未来へつながりますね」


玲は窓の外、夜空に浮かぶ街灯の光を見やり、静かに息をついた。

「やっと……終わったんだな」


朱音も微笑む。

「うん……でも、忘れない。あの子のことも、昭和の夜のことも」


二人の背後で、資料とスケッチブックは、新しい時代の記録として静かに息づいていた。


【時間:現代・午後/場所:高齢者療養施設・カナエの居室】


朱音は鉛筆を握ったまま、一枚のスケッチブックに向き合っている。

「……あの夜の奥座敷、そして少女の姿……」


カナエが静かに声をかける。

「朱音……描き続けるのね」


朱音は小さく頷き、筆を止めずに紙を滑らせる。

「はい、カナエさん。あなたとあの子のこと、全部描き残したいんです」


玲がそっと机の横に立ち、朱音を見守る。

「焦らなくていい。ゆっくりでいいんだ」


朱音の指先は震えているが、目は決して揺らがない。

紙の上には、火葬塚跡や隠し部屋、そして生き延びた少女の姿が、鉛筆の線となって静かに現れていった。


カナエは微笑み、窓の外を見つめながら言った。

「……あの子も、きっと安心して見ているわね」


朱音は軽く息をつき、目を細めて描き続ける。

「うん……ちゃんと、みんなに伝えたいから」


午後の日差しが、部屋の中の静寂を優しく包み込み、紙の上の少女の瞳が、まるで生きているかのように光を帯びた。


【時間:現代・夜/場所:火葬塚跡・供養堂前】


夜風がひんやりと頬を撫でる。木々の影が、かすかな月光に揺れていた。


朱音は小さなレプリカ絵を慎重に置き、そっと花束を添える。

「……これで、やっと、伝わるかな」


柚木成海が静かに息をつき、二人を見守る。

「長い間、誰にも知られずにいたけれど……これで、少しは報われる」


その瞬間、療養施設の一室。カナエの目がゆっくりと開き、薄く微笑む。

「……柚葉……?」


柚葉がそっと手を差し伸べる。

「……カナエ……」


二人の手が、ゆっくりと重なる。長い時間を隔てた再会。

朱音はそっと筆を止め、微かに目を潤ませながらその光景を見つめる。


玲が静かに言う。

「これで……過去のすべてが、やっと繋がった」


柚木成海も頷き、供養堂前に立つ三人を柔らかく包む夜風を感じていた。

そして、火葬塚の闇の中に消えたはずの少女の記憶が、今、静かに光を取り戻したのだった。

雪音のあとがき


あの日、私は名前を持たなかった。

奥座敷の陰で、火の気もない冷たい畳の上で、ただ息を潜め、世界が私を忘れるのを待っていた。

人の声も、怒号も、血の匂いも、すべて遠くで起きている出来事のようにしか感じられなかった。


それでも、私は確かに見ていた。

あの部屋で、父と思しき背中、家の人々の声、そして炎に包まれた奥座敷の景色を、必死に目に焼き付けていた。

名前を与えられず、戸籍も、記録も、何も残らなかったけれど、私の記憶は、確かにここにあった。


時を超えて、あなたたちがその記録を見つけてくれた。

私の存在を、忘れ去られた過去を、紙の上に、映像の中に、そしてスケッチの線の中に留めてくれた。


名前は雪音――。

ほんの一瞬でも、誰かが私を呼び、誰かが私を覚えていてくれる。

それだけで、私はもうひとりぼっちじゃない。


昭和十二年の夜に隠れ、消えた少女は、現代の光の中で、ようやく自分の存在を確かめることができた。

そして、私の物語は、あなたたちの記憶の中で、生き続ける。

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