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59話 風鈴屋敷の残響

【登場人物紹介】


■神崎家


神崎かんざき れい


物語の主人公。

祖父・辰一郎の死をきっかけに、風鈴屋敷事件の“消された記録”へと向き合う。

冷静な直感と観察力に優れるが、家族に関することだけは感情を抑えきれない。

祖父のことは「じいちゃん」と呼ぶ。



神崎かんざき 辰一郎たついちろう


玲の祖父。故人。

古い記録媒体や音響の専門家で、「音に宿る記憶」を研究していた。

死の直前、玲宛の封書を残したが——その内容は空白。

しかしその封書は「開けてはならない」ものとして封印されていた。



■調査班・スペシャリスト


御子柴みこしば 理央りお


記憶解析スペシャリスト。

冷静な論理派で、蝋管の波形解析を担当する。

“第二段階解析”により事件の核心に迫りつつある。



水無瀬みなせ とおる


深層データ探査官。

観測システムの異常検出を担当。

風鈴屋敷の地下で起きた“音響共振”を最初に察知。



東条とうじょう 千紘ちひろ


現場分析担当。

玲のサポート役であり、最も彼に寄り添う理解者のひとり。

玲の無謀さをよく知っているためいつも気を配るが、内心では深く信頼している。



■その他


御厨みくりや 尚太郎なおたろう


事件後から口を閉ざし続けている人物。

辰一郎と深い関わりがあり、真実の一端を握る。

しかし“ある夜の出来事”以来、心を閉ざしてしまった。



■過去


◇“女性の声”


辰一郎が蝋管で何度も再生していた謎の女性の声。

今もなお、その正体と意図は不明。

しかし、その声は“誰かを呼んでいる”。

昭和三十九年・三月二日

午後七時四十二分

東京都青梅市・御厨家本邸 奥座敷


蝋燭の火が、ようやく落ち着いたようにわずかに揺れ、息を吐ききるように細くなった。

その刹那、空気がぴたりと止まった。

庭から吹き込んでいたはずの風が、まるで誰かが手で押さえたように途絶えた。


チリン……


風は吹いていない。にもかかわらず、奥座敷の天井梁に吊された風鈴だけが、ひとつだけ澄んだ音を返した。

しかも、自然に揺れたものではなかった。

金属の舌が、外側へ──“逆”へ弾かれていた。


御厨久乃は、座っていた座布団から背筋を伸ばし、息をのみかけた。

そのときだ。


コト……


茶器が卓上から落ちる小さな音。

だが、それを確かめる暇はなかった。


久乃の身体は、まるで糸を切られたように横へ倒れた。

襖の外で控えていた使用人は、かすかに聞こえた落下音に眉を上げたものの、続いて訪れたあまりの静寂に、足をすくませた。


奥座敷の扉には内側から鍵。

障子も閉じられ、逃げ場はどこにもない。

争った形跡も、物音さえもなかった。


だが──女主人は、死んでいた。


うつ伏せの口元に、ほんの針先ほどの血の滲み。

その赤は、灯りに照らされて、濡れたように鈍く光った。


昭和の空気に似つかわしくない“静けさが殺した死”。

御厨家の奇怪な事件は、この風鈴の音から始まった。


青梅市・第四交番

午後七時四十九分


書生・尚太郎は、ほとんど転がり込むように交番へ入り、カウンターに手をついて肩で息をしていた。制服警官が驚いて立ち上がるより早く、彼の口から震える声が漏れた。


「奥様が……奥様が、倒れました……!

息をしておりません……どうか、すぐ……!」


警官が落ち着かせようと声をかけても、尚太郎は首を横に振り、言葉を繰り返すしかできなかった。


「誰も入っていないんです……鍵が……中から……!

なのに、奥様が……!」


その必死の訴えが、御厨家の不可解な“密室の死”の幕を、静かに引き上げた。


御厨家・玄関土間

午後八時二十二分


捜査員が到着した頃、屋敷にはすでに数人の使用人が集まっていた。

しかしその誰もが、同じ“音”について、まるで別々の出来事を語るように証言を残した。


「高い澄んだ音でございました。まるで氷を弾いたような……」

「いや、低く濁っていた。あれは風鈴じゃない……もっと、重たい音だ」

「確かに鳴りました。二度……いえ、一度だったかもしれません」

「私は聞こえませんでした。みんなが騒ぐまで……何も」


同じ屋敷、同じ時間、同じ空間。

それなのに──誰一人として“同じ音”を聞いていない。


それは、まるで音そのものが人を選び、

ある者には真実を、ある者には嘘を、

ある者には何も与えなかったかのようだった。


だが確かなのは、ただ一つ。


──女主人が倒れた瞬間、風のない部屋で、風鈴だけが鳴った。


その“ゆがんだ音”こそが、この奇妙な密室事件の最初の鍵となるのだった。


御厨家・奥座敷

午後八時五十二分


薄暗い奥座敷には線香の匂いがほんのりと漂い、障子の外は虫の声がかすかに響いていた。

畳の中央、白い襦袢のまま横たわる御厨久乃。

その頸には、今にも消えそうな細い圧痕──けれど、それは確かに“締められた”痕跡だった。


村医者の井上一郎が静かに息をつく。


「抵抗が……ないんじゃ。

普通なら指でも縄でも、もっと皮膚が荒れる。

これは……寝ておるところを、ほんの一瞬だけ……誰かが……」


言葉を濁したその瞬間、室内の風鈴が——

チリ……

と、ひとりでに鳴った。


家人の一人、御厨家の下働きである古谷こやが怯えた声を上げた。


「せ、先生……風なんか……吹いとりません。

戸も、窓も……全部閉めてあります。奥様は……まさか……」


井上は震える風鈴を睨みつけるように見た。


「迷信を言うな。だが……妙じゃのう。

この部屋だけ、空気が……重たい」


古谷が唇を噛みしめる。


「奥様は……昨晩から誰にも会っておりません。

旦那様は東京へ。

娘さんは親戚の家へ行かれて……

奥座敷の鍵は、内側から……」


「つまり、誰も入れん。密室じゃな」


井上がそう言った瞬間だった。


畳の上に置かれた風鈴が──

もう一度、小さく**チリ……**と鳴った。


古谷は青ざめ、手を合わせる。


「奥様……何か言いたいことが……」


井上は慌てて制した。


「怖気づくな。

だが……この死に方は、儂には説明がつかん。

首は締まっとるのに力が弱すぎる。

息が止まった理由も……通常の窒息とは違う。

まるで──」


風鈴が三度目の音を響かせた。

静寂が張り詰める。


井上は、久乃の白い襦袢に指を伸ばし、そっと胸元を確認した。


「……心臓も、脈も、整っとった痕跡がある。

急激な……なんというか……“衝撃”で落ちたような……」


古谷が恐る恐る問う。


「衝撃、ですか……?

殴られてもいませんし、倒れた形跡も……」


井上は答えず、室内を見渡した。


「この部屋で起きた“何か”が……御厨久乃を殺したんじゃ」


その“何か”を知る者は、

昭和三十九年のこの夜には——

まだ誰もいなかった。


その青年は、屋敷の門をくぐった瞬間から、どこか時代の空気に馴染んでいた。


 ベージュのトレンチコートは、長旅の埃を軽くまといながらも形を崩さず、肩章とベルトがきちんと締められている。深くかぶった濃紺の中折れ帽が、若い額に影を作り、整った目元をひっそりと隠していた。


 神崎辰一郎──二十四歳。

 警察の紹介で呼ばれた“民間の若い調査屋”にすぎないはずだが、どこか場数を踏んだ者の落ち着きがあった。


 彼は奥座敷に案内される途中、コートのポケットから黒革の小さな手帳を取り出し、古びた万年筆で淡々とメモを取っていた。懐中時計の鎖がスーツのベストからわずかに覗き、歩くたびに微かな金属音を立てる。


 障子越しに差し込む薄明かりが、彼のグレーのスリーピーススーツを静かに照らした。


 そして、死体の横に膝をついたとき──

 その表情は、若者のものではなく、後年“神崎探偵事務所”を興す男のものだった。


「……密室、か」


 呟きながら、辰一郎は白い襦袢の女の顔と、その頸に残る薄い圧痕に目を止めた。


 風は止んでいる。

 なのに、風鈴だけが、逆さに鳴った。


 彼の指が、懐中時計の冷たい鎖を無意識に辿る。


「これは──偶然じゃないな」


 この事件が、彼の“最初の依頼”になる。

 そう悟ったかのように、辰一郎は静かに目を伏せた。


午前七時一五分

東京都杉並区 御厨家・客間


 神崎辰一郎は、整えられた客間の畳に正座し、膝の上でそっと革張りの手帳を開いた。

 墨色の万年筆の先が紙をなぞるたび、静けさの底に小さな筆音が吸い込まれていく。


 彼の視線は、襖の向こう──昨晩、女主人が命を落とした東側離れの六畳間に向けられていた。

 朝の光が障子に淡く滲み、屋敷全体がまだ夜の名残を引きずっている。


 一方その背後では、当主代理の老女・御厨ウメが仏間で線香をたむけていた。

 白髪をひとつに結い上げ、喪服の黒が薄明かりの中で沈んだ影となる。

 線香の細い煙が真っ直ぐ立ちのぼり、ふと揺れて天井に消えていった。


「……何と申せばよいものかのう」


 老女の声は、静まり返った室内に溶けるように低く響いた。


 辰一郎はゆっくり顔を上げ、穏やかな目で仏間を振り返る。


「御厨様。昨夜、お屋敷の皆さまは──どちらに?」


 ウメは線香を香炉に静かに置き、手を合わせてから、やや背を丸めた姿勢でこちらに向き直った。


「わしと書生の尚太郎以外は、皆それぞれ離れにおりました。奥の間は……久乃さまが、昔からお一人でお過ごしになることが多うての」


午前七時二五分

東京都杉並区 御厨家・東側離れ六畳間


 辰一郎は障子の前に立ち、手でそっと木枠を触れる。厚みのある二重構造の障子は、内側からしっかりと閂が掛けられており、微かな揺れも許さぬ硬さだ。


「ふむ……外からの侵入は、まず不可能じゃな」


 窓の雨戸を確認すると、格子の向こうに釘が打たれ、鍵も確実に閉まっている。庭の砂利に目をやれば、踏み込めば確実に音がする。だが昨夜、その砂利を踏む音は誰も聞いていない。


 辰一郎は床下にかがむ。古いながらも頑丈な造りで、隙間は猫一匹すら通れない狭さ。梁の剥き出しの天井裏も、人が通るには到底無理な空間だ。


「障子、窓、床下、天井……庭まで……すべて封じられておる。昨夜、この部屋は完全な密室だったと断言できる」


 背後から老女の声が、かすかに震えて響く。


「……では、誰が……」


 辰一郎は静かに首を振り、障子の隙間から差し込む朝日を見つめた。


「……誰も外から入れぬ以上、この密室を作った“力”は、中にあった者の手によるものじゃ……」


午前七時三八分

東京都杉並区 御厨家・東側離れ六畳間


 辰一郎は畳の上に膝をつき、久乃の顔を見下ろす。白い襦袢に包まれた身体は、まるで眠っているかのように安らかで、冷たく硬い。頸部のわずかな圧痕が、死の痕跡を物語るのみだ。


「窒息死……外傷は一切ない。抵抗も、逃げた形跡もない……まるで眠るように、この世を去ったようだ」


 辰一郎は唇の乱れを確認する。微かな血の滲みすらなく、目は閉じられ、安堵さえ感じさせる静けさ。


「偽装された安らぎ……誰がこの死を“自然”に見せかけたのか。あるいは、本人の意志も関与しているかもしれない」


 障子越しの光が久乃の顔をかすかに照らし、微妙な影を作る。辰一郎はそっと手を伸ばし、頸の圧痕を指先で確認した。


「この死体の安らかさは、あまりにも人工的だ……犯行は巧妙だが、何かが証拠として残されているはずだ」


 背後で老女・ウメが小さく息を詰め、線香の煙がゆらりと揺れる。辰一郎の目は、静かな畳の上に広がる死体と、その安らぎの裏に潜む異様さを逃さず捉えていた。


午前七時五十分

東京都杉並区 御厨家・奥座敷前


 辰一郎は畳に正座したまま、屋敷内の人々の顔を順に見渡した。老女・ウメの表情は硬く、線香の煙に紛れてわずかに眉をひそめる。女中のサトは手を組み、口元をきゅっと結んで俯いていた。居候の青年は壁にもたれ、落ち着かない様子で視線を泳がせている。


「この屋敷には、見えている以上のねじれた関係がある……久乃が実母でありながら、息子に母と名乗れないこと。養子縁組によって複雑になった家族関係……それが、この屋敷の空気を支配している」


 辰一郎は手帳を開き、簡単に筆を走らせる。各人の立場、行動、屋敷内での位置関係、そして可能性のある動機を書き留めていく。


「全員が、それぞれ何かを隠している……もしかすると、この中の誰かが、久乃の死の真相に直接関わっているかもしれない」


 視線をウメに戻すと、老女は静かに膝を正し、まるで辰一郎の考えを読むかのように、こちらをじっと見据えていた。

 屋敷内の緊張感は増す一方で、辰一郎の思考は静かに、しかし確実に死の謎へと向かっていった。


午前八時一〇分

東京都杉並区 御厨家・東側離れ六畳間前


 辰一郎が静かに尚太郎に視線を送る。少年は畳に跪いたまま、言葉を発しない。手元には、まだ鍵の束が握られていた。


「……何か、思い出せることはないか?」


 辰一郎の声は柔らかく、しかし確固とした響きを持つ。尚太郎は一度、瞳を閉じ、そしてゆっくりと開けた。


「……いや……何も……見ていません。部屋に入ったときには、母は……もう」


 言葉を切り、視線を床に落とす尚太郎。畳に落ちた影が小さく揺れる。辰一郎は手帳に目を落とし、黙した少年の沈黙が持つ意味を慎重に探る。


「わかった……無理に思い出さなくていい。ただ、事実を教えてくれ。母上を最後に見た時の状況……どんな様子だったか」


 尚太郎は再び黙ったまま、微かに肩を震わせる。沈黙の中、屋敷に漂う香と線香の煙だけが、静かに二人を包んでいた。


 午前八時一二分

東京都杉並区 御厨家・東側離れ六畳間前


 辰一郎は手帳を閉じ、尚太郎の瞳をじっと見据えた。少年の唇は震えていないが、肩のわずかな揺れから緊張が伝わる。


「……君、さっき言っていた声のことだ。部屋に入る前、何か聞こえたと?」


 尚太郎は小さく頷く。


「はい……母上の部屋の方から、かすかに……誰かが呼ぶような声が……“助けて”ではなく、“来ないで”というような……でも、はっきりは分かりません」


 辰一郎はゆっくりと息をつき、静かに書き留める。


「なるほど……つまり、誰も部屋には入っていないはずなのに、母上の部屋から人の気配、声が聞こえたと」


 少年はうつむき、ただその場の空気に沈黙する。辰一郎はその沈黙を重く受け止め、手帳に次の文字を書き加える。部屋に残る“不在の声”──密室の謎を解く鍵となる、最初の証言だった。


午前八時二十分

東京都杉並区 御厨家・本館前


 辰一郎はゆっくりと屋敷を見渡す。本館と離れを結ぶ渡り廊下、その下を流れる中庭の池の水面に、朝の光が反射して揺れている。


 書院へ向かう石畳の脇には古びた灯籠が並び、足音を吸い込むかのように静まり返っていた。辰一郎はその光景を一瞥し、心の中で屋敷の構造を整理する。


 離れの六畳間に閉ざされた久乃の私室──応接間や仏間、客間とは建付けも材質も異なり、古い木材の香りが強く漂う。床下の頑丈な構造、障子や雨戸の二重構造、そして庭に面した砂利の敷き方──すべてが、誰かの侵入を防ぐために計算され尽くした配置だ。


 辰一郎は息を整えながら手帳を取り出す。ここから、密室の謎をひも解くための調査が始まる。


午前八時三十五分

東京都杉並区 御厨家・離れ六畳間前


 辰一郎は障子越しに差し込む朝の光を見つめ、ゆっくりと息を吐いた。

 手帳のページをめくる指先が震える。昨晩の現場──密室に横たわる久乃の姿と、部屋の構造、そして屋敷に漂う微かな沈黙。すべてが頭の中で重なり合う。


「これは、音でも幻でもない──

ただ、誰かが仕掛け、誰かが沈黙を守り、誰かが“死を選ばされた”事件だ。

密室とは、人の心に作られるものかもしれない」


 辰一郎は静かに手帳を閉じ、離れの扉に手をかけた。その瞳は、誰も知らぬ真実を探し求める決意に満ちていた。


午前八時三十六分

東京都杉並区 御厨家・離れ六畳間前


 ――ちりん。

 ひとつ、風鈴の音が鳴った。


 辰一郎は思わず息を呑む。

 そして次に聞こえたのは、音の“引き戻されるような”反響だった。

 だがそれは、風ではない。誰かの足音が、廊下の板を軋ませた音だった。


 彼は障子に手をかけ、音のする方向を見据えた。

 影のように揺れる廊下の先、誰もいないはずの空間に、確かに「存在」があった。


「……誰だ?」


 声にならない呟きが口をついて出る。足音はさらに近づき、辰一郎の背筋をひやりと走らせた。


午前8時38分

東京都杉並区 御厨家・離れ六畳間


「おかしいですね……先日来た時より、床の沈みが重い。雨のせいでしょうか」


 辰一郎は静かに畳の縁に手を置き、押すように力をかける。

 わずかにたわむ床の感触に、眉をひそめた。

 「いや……雨のせいだけではない」


 彼の視線は、畳の下、床下から伝わる微かな凹凸に止まる。

 かすかな気配。――誰か、長くここに居た痕跡が残っているようだった。

 遠く、廊下の板を軋ませる音が、静まり返った離れの空気に響く。


午前8時40分

東京都杉並区 御厨家・離れ六畳間


 ――そこには、空洞があった。


 辰一郎は畳の縁に膝をつき、耳を床に近づける。

 かすかな空気の流れと、湿った木の匂いが鼻をくすぐる。

 「誰かが……ここに隠れていた、もしくは封じられていた」


 手を伸ばし、畳の縁を少し持ち上げる。

 指先に触れたのは、予想以上に冷たい空間。

 そこには、長く人が潜んでいた形跡が、沈黙のまま残されていた。


午前8時45分

東京都杉並区 御厨家・離れ六畳間


 辰一郎は畳に手をつき、床板の隙間を指で辿る。

 「密室は“成立条件”が揃ったときに初めて密室になる。だが、成立条件を巧みに操作すれば、誰でも“偽装密室”を作れる」


 窓の格子や釘を確認し、目線を障子の閂に移す。

 「この閂も、外部からの操作で掛けられた可能性がある……その道具と方法さえあれば、内部施錠は幻想に過ぎない」


 手元の畳縁を少し押し上げ、床下の空間を覗き込む。

 かすかに湿った匂いと埃。ここを通って何者かが侵入したのか。

 辰一郎は唇を引き結び、考えを巡らせる。

 「外から見れば完全な密室……だが、真実は隠されている」


午前9時12分

東京都杉並区 御厨家・離れ六畳間


 辰一郎は畳に膝をつき、畳縁に手を置いたまま視線を久乃の遺体に注ぐ。

 「絞殺……だが、顔は安らかだ。苦悶の表情も、爪痕もない。薬物反応もない」


 静かに息を吐き、額に皺を寄せる。

 「……つまり、彼女は抵抗しなかった。最初から、相手を受け入れた可能性がある」


 床板に指を這わせながら、小声で呟く。

 「相手を知っていた……あるいは、抵抗する意思を持たなかった。だからこそ、死は安らかに見える。しかし、そこに計算された“偽装”の気配も感じる」


 障子の閂や窓の格子を改めて見やり、背筋を伸ばす。

 「密室は成立している。だが、心理的な密室──心の受け入れが、この“安らかな死”を生んだのかもしれない」


午前9時30分

東京都杉並区 御厨家・離れ六畳間


 辰一郎は畳に座ったまま、深く息をつく。

 「御厨家……外から見れば由緒ある家。しかし中は複雑だ」


 畳の縁に指を沿わせ、目を細める。

 「当主であった久乃の夫は十年前に早世。息子の尚太郎は、久乃の母方の祖母・佳乃のもとで養子として育てられた。家系、家政、親族間の確執……どれも、今回の事件に何らかの影響を与えているはずだ」


 離れの窓の外、中庭を見やり、視線を細める。

 「本館と離れは中庭を隔てている……見えているのに届かない距離。心理的な隔たりをそのまま象徴しているかのようだ」


 手帳を取り出し、事件関係者の家系図と照らし合わせながら、静かにメモを取る。

 「家族の複雑な関係が、密室の成立や死の偽装にも絡んでいる可能性がある……」


午前9時45分

東京都杉並区 御厨家・離れ六畳間


 辰一郎は、畳に座る尚太郎の肩越しに視線を送った。

 「尚太郎君、母上の言葉は事件解明の鍵になるはずだ。なぜ話さない?」


 尚太郎は小さく首を振り、拳を固く握ったまま、沈黙を貫く。

 「その言葉を話せば、僕は……母を殺した犯人にされるでしょう」


 辰一郎は息をつき、視線を落としたまま手帳に目を落とす。

 「……なるほど。君の心が母上を守ろうとしているのだな」


 尚太郎はただ俯き、震える指先だけが微かに動いていた。

 離れの六畳間は、静寂と緊張で重く満たされている。


午前10時15分

東京都杉並区 御厨家・離れ六畳間


 辰一郎は、床下に落ちた懐紙包みを手に取り、茶葉の香りを確かめる。

 「これは……尚太郎君が毎晩、母上に届けていたお茶の包みですね」


 包みの位置を指で示しながら、辰一郎は続けた。

 「だが、事件当夜、この包みは部屋ではなく床下に落ちていた。誰かが手を加えた可能性が高い」


 尚太郎は俯いたまま、手を震わせながらも、何も言わない。


 辰一郎は深く息をつき、静かに声を落とす。

 「尚太郎君、君は母上を傷つけるつもりはなかった。ただ……止めることができなかったのだ」


 離れの六畳間に、言葉の重みだけが静かに残った。


午後2時47分

東京都杉並区 御厨家・応接室


 尚太郎は、額の汗を手の甲でぬぐいながら、机の上の茶碗に目を落とす。

 紙の束と万年筆が無造作に置かれ、その静けさが逆に彼の緊張を際立たせていた。


 辰一郎は椅子に腰掛け、穏やかに声をかける。

 「尚太郎君、焦らなくていい。今ここで書くのは、事実だけでいいんだ」


 尚太郎は小さくうなずき、手を震わせながら万年筆を取り上げる。

 紙の上に、静かに文字が滑り出した。


 応接室の空気は、蒸し暑さの中にも、緊張の重みでひんやりとしたものに変わっていた。


午後2時53分

東京都杉並区 御厨家・応接室


 尚太郎は紙の上に万年筆を押し当てる指先を、ほんの少し強く握りしめた。

 母・久乃が倒れたあの夜、屋敷に残された“異様な静寂”と、風鈴の逆鳴りの音。

 その光景が、脳裏でまざまざと蘇る。


 辰一郎は彼の肩越しに、柔らかい声で問いかける。

 「尚太郎君、あの夜、誰かが来た形跡を見たか?」


 尚太郎は目を伏せたまま、かすかに首を横に振る。

 だが、紙の上の文字は、彼の内面の動揺を隠せず、墨の濃淡に微かな乱れを残していた。


 ――母が守ろうとしたもの、そして自ら閉ざされた密室の真実。

 その全てを、尚太郎は心の奥で感じていた。


 辰一郎は静かに息を吐き、机の向こうで腕を組む。

 「尚太郎君、その言葉を隠す理由は分かるつもりだ。だが、真実は君一人のものではない」


 尚太郎は目を伏せ、かすかに肩を揺らす。

 指先で万年筆を回しながら、声にならない声でつぶやく。

 「……母を……守るためです」


 部屋の空気が一瞬、凍った。

 辰一郎は沈黙を尊重しつつも、目の端で、少年の手元の紙に残された微かな文字の乱れを見逃さなかった。

 そこには、聞かれたくない真実の影が滲んでいた。


 午後3時15分

東京都杉並区 御厨家・応接室


 尚太郎は手紙に目を落としたまま、ゆっくりと息を吐く。

 「……辰一郎さんは、僕にすべてを知れと言っているのか……」


 机の上の封筒を指で撫で、紙の手触りを確かめる。

 「でも……もし、あの言葉を口にすれば、母を疑う目が僕に向く」


 沈黙の中、微かに風鈴の音が遠くで揺れるように聞こえた。

 尚太郎はそっと目を閉じ、拳を握りしめる。

 「母の真実……僕が守らなければ」


 辰一郎は少年の肩に軽く手を置き、低い声で言った。

 「尚太郎君、守ることは罪ではない。しかし、知ることでしか終わらないこともある」


 その言葉に、応接室の空気は少しずつ落ち着きを取り戻した。

 外の蝉の声が、夏の残り香を運ぶ。


午後3時30分

東京都杉並区 御厨家・応接室


 尚太郎は目を伏せたまま、指先で茶碗の縁をなぞる。

 「母は……誰をかばおうとしていたんだろう……」


 机の上の手紙をそっと握り直す。

 「そして僕は……何を守ろうとしているんだろう……」


 応接室の静寂が、言葉にならない思考を包み込む。

 窓の外、夏の残光が庭の砂利を照らし、微かに踏まれた足跡のように光と影を揺らしていた。


 辰一郎はそっと尚太郎の背後で立ち、低く語りかける。

 「その答えを知ることができるのは、君自身だ。逃げることはできない」


 尚太郎の肩がかすかに震えた。

 胸の奥で、母の最後の言葉の影が、まだ消えずに残っていることを、彼は感じていた。


午後3時45分

東京都杉並区 御厨家・応接室


 尚太郎は机に突っ伏したまま、呼吸を整えようとするが、胸の奥がまるで重い鉛の塊のように圧し掛かり、息をつくのも難しかった。彼の視界には、淡く日差しに照らされた畳の縁と、辰一郎の背中がぼんやりと映っている。


 「……これを話せば、すべてが終わる……」

 小さな声で呟いたその言葉には、恐怖と覚悟、そして深い哀しみが混ざり合っていた。母の最後の言葉を知ることは、単なる記憶ではない。

 それは、母が守ろうとした何か──家族の秘密、家の秩序、そして尚太郎自身の安全をも脅かすものだった。


 辰一郎は静かに椅子に腰を下ろし、冷静に尚太郎の表情を見つめる。

 「恐れる必要はない。ただ、事実を語るだけだ。君が見たもの、聞いたもの、感じたこと。それだけを正直に」


 だが尚太郎の胸の中には、言葉を紡ぐたびに母を裏切るような罪悪感と、同時に真実を伝えなければならないという責任感がせめぎ合っていた。

 彼は震える手で、机の上の万年筆を握り締め、そして再び放す。


 「……母さんは、あの夜……何を考えていたんだろう……」

 吐息と共に漏れたその声は、応接室の静寂の中でひびき、床や柱に反響する。まるで屋敷自身がその秘密を聞きとめ、揺れる風鈴の音とともに保持しているかのようだった。


 そして、尚太郎は薄く目を開ける。まっすぐに辰一郎を見据え、胸の奥で固く握りしめていた決意を吐き出す準備をしていた。

 母の最期の言葉を明かすことが、逃げられない“最期の供述”となることを、彼自身が一番よく分かっていた。

 その覚悟は、まだ見ぬ真実に向き合う前の、静かな嵐のようだった。


 午後4時10分

東京都杉並区 御厨家・東座敷


 尚太郎は畳に膝をつき、視線を床に落としたまま、ゆっくりと口を開いた。

 「……母さんの、最後の言葉は……僕に向けられたものだった。だけど、言えなかった。誰かに知られたら、母さんを守れなくなると思ったから」


 その声には、少年の奥深い葛藤と、胸を締めつけるような恐怖が滲んでいた。辰一郎は静かにうなずき、筆を取りながら状況を整理する。


 「聞かせてくれ。母さんが言ったこと、すべてを」

 静かな声だが、言葉の重みには揺るぎがない。


 尚太郎は息を整え、母の寝顔を思い出すように視線を上げる。

 「母さんは……僕に、家族の秘密を守れと言った。でも、その秘密には、母さん自身の命も絡んでいた。母さんは……自ら犠牲になったんです」


 畳の上に座る辰一郎は、障子越しに射す午後の光を受け、沈黙の間を置いた。

 「……なるほど。君の母さんは、真実を守るために死を偽装したのか。いや、正確には“安らかに見せるために死を演出した”んだな」


 尚太郎はうつむいたまま、肩を小さく震わせる。

 「はい……でも、それを知った僕は……母さんのために黙るしかなかった。だけど……やっぱり、誰かに話さなければ、このままでは……」


 辰一郎はそっと息をつき、障子の隙間から差し込む光に目を細める。

 「その通りだ、尚太郎君。語ることで、君自身も救われる。そして、母さんの犠牲が無駄にならない」


 少年は少しずつ顔を上げ、辰一郎の瞳をまっすぐに見据えた。

 語られるのは、ただの事件の真相ではない。家族の愛情、守るべき秘密、そして“沈黙の中に潜む真実”だ。


 その声は、まるで屋敷の壁や欄間、床下の暗がりにこだまするかのように、静かに、しかし確かに響いた。


午後3時半

東京都杉並区 旧御厨家屋敷跡・中庭


 風に揺れる草の間を、古い瓦や苔むした石灯籠が照らしている。屋敷の本館や離れの跡は既に崩れ、柱や梁が無造作に残るのみだ。


 神崎玲は、慎重に足を進めながら手紙を握り締めた。その文字は、昭和の匂いとともに、時を超えて彼に呼びかけるようだった。


 《おまえに、託す。わしには届かんかった“ある声”を、聞いてくれ。……おまえの頭の良さなら、辿り着ける。IQ三百の、わしの自慢の孫よ。――神崎辰一郎》


 玲の目は、瓦礫の間に残る小道、床下跡、欄間の残骸まで細かく走る。風が吹き、かすかに葉や砂利を鳴らす音が、まるで昭和の密室に吹き抜けた風鈴の音を思い起こさせる。


 「じいちゃん……俺、見つけるよ」


 声は低く、しかし決意に満ちていた。「守られた真実」の先にある、誰も知らなかった優しさ、その構造を解き明かすために。


 玲はゆっくりと中庭を渡り、瓦礫に残る微細な痕跡を目で追った。彼の頭脳は既に、祖父が最後に辿り着けなかった論理の連鎖を再構築し始めている。


 風が、また一度、静かに屋敷跡を吹き抜ける。その音は、かつての風鈴の逆鳴りを思わせる――幻か現実か、確かに耳に届くかすかな反響。


 玲の手が、瓦礫の一角に落ちた古い鋼糸の切れ端を拾い上げる。これはただの廃材ではない。過去の事件を繋ぐ“痕跡”であり、守られた秘密への鍵である。


 彼の瞳は決意に光り、深く息を吸い込んだ。

 そして玲は、祖父が残した論理の地図を頼りに、“仕組まれた優しさ”の謎に挑む――誰も知らない真実を、現代に取り戻すために。


午前七時四十五分

東京都杉並区 御厨邸玄関間


 辰一郎は膝をつき、玄関の土間に残る草履跡を見つめた。湿った跡が、昨夜の来訪者の足取りを物語る。


 北原鶴枝は肩を震わせながら、声をかすかに震わせつつ言った。

 「……昨夜のことです。家の裏手を通ったら、御厨さんのお屋敷の方から……変な音が聞こえまして……風鈴の音……のような……でも、逆から鳴っているような、不思議な……」


 辰一郎は静かに頷き、メモ帳に文字を走らせる。

 「逆に鳴った風鈴……ですか」


 鶴枝は小さく息をつき、視線を宙に漂わせたまま続ける。

 「ええ、初めは気のせいかと思ったんですが……そのあと、玄関の扉が勝手に軋む音がして……誰も来ていないはずなのに……」


 辰一郎は床の軋みや雨戸の釘、障子の桟の位置を再確認しながら、そっと呟いた。

 「なるほど……この屋敷には“密室を作るための仕掛け”があるかもしれない。音の正体だけでなく、出入りの偽装も……」


 鶴枝は小さく頷き、声をさらに震わせた。

 「私……もう、夜はあの屋敷の近くを通れません。まるで……誰かに見られているようで……」


 辰一郎は静かに立ち上がり、玄関の障子に手を触れた。

 「心配は無用です。音も影も、原因を突き止めれば、すべて理屈で解明できます」


 鶴枝はかすかに微笑もうとしたが、その表情はなおも緊張を隠せず、腕を組んだまま立っていた。

 玄関の斜めの光が二人の影を長く伸ばし、屋敷の奥へと続く廊下を淡く照らしている。


午前八時五分

御厨邸 奥座敷


 辰一郎は畳の上に膝をつき、香の煙の残り香をかすかに吸い込んだ。微かに甘く、しかしどこか刺激的な匂い。


 「……これは線香だな。だが、ただの線香ではない。香りが均一で濃すぎる……何かを隠すため、あるいは場の印象を操作するための意図がある」


 彼は小型のルーペを取り出し、畳や床の隙間、障子の桟の周囲を丹念に観察した。線香の灰が落ちた形跡や、わずかなすすの沈着が、過去に誰かが何度も同じ行動を繰り返したことを示していた。


 「犯人は、視覚だけでなく嗅覚まで計算している……この香りで、屋敷の住人や訪問者の注意をそらし、異変を気づかせないようにした可能性が高い」


 奥座敷の窓際には、女中のサトが控えていた。腕組みのまま、辰一郎を静かに見つめている。

 「……何か、隠されているのですか?」


 辰一郎は煙を追うように頭を傾け、窓の外の庭、床下、欄間の奥へ視線を巡らせた。

 「まだ断定はできない。しかし、この屋敷には“見せかけの静けさ”が用意されている。つまり、死の演出は計画的だった」


 サトの唇がわずかに震え、息を呑む。

 辰一郎は手帳に線香の匂いと痕跡の詳細を書き込みながら、次に動くべき方向を考えていた。


 午前九時三十分

御厨邸 納戸


 辰一郎は蝋管の一本を手に取り、慎重に回して回転部の摩耗具合を確認する。指先に伝わるざらつきや微かなひび割れが、長年の使用と保管状況を物語っていた。


 「……ほとんど整理されていない。だが、これは偶然ではない。誰かが意図的に“過去の記録”を散らして放置した可能性がある」


 彼は蓋を開けたまま、蝋管の一つを耳元に近づける。微かにカチカチと、内部の溝が擦れる音が聞こえた。長い時間を経て、蝋の内部構造も硬化しており、かつての録音は再生不能に近い。


 「記録は残されている。しかし、それを聞く術は限られている……。誰かが、この家の秘密を封じるために、記録の管理も操作したのだろう」


 棚の奥で埃に埋もれた一段の蝋管が、かすかに異なる形状をしていることに辰一郎は気づく。ラベルの跡を拭い、慎重に取り出すと、他のものより保存状態が良い。


 「……これは特別な記録かもしれない。誰かが大事にしていた、あるいは、誰かに知られたくなかった記録だ」


 彼は蝋管をそっと胸元の手帳の横に置き、納戸の薄暗い空気を吸い込みながら、これから辿るべき手順を頭の中で整理した。外からは夏の光が差し込み、埃の粒が微かに舞っている。過去と現在が交差する静かな空間で、辰一郎の探求心は静かに燃え上がっていた。


午後二時半

都内某病院 個室病室


 玲は窓の外に目をやり、夏の日差しが照らす病院の屋上庭園をぼんやりと眺めた。蝉の声も届かず、ただ遠くの工事音だけが微かに響く。


 「じいちゃん……あの屋敷で起きたこと、全部知ってるんだろうな」


 自分に呟くように言いながら、玲は再び蝋管の破片に視線を落とす。埃と微かな傷の中に、かすかな螺旋状の模様が見えた。それは、かつて音が刻まれていた痕跡を示している。


 「これを再生できれば……あの“逆鳴り風鈴”の真実も、母さんの言葉の意味も、全部わかるはずだ」


 玲はカバンから小型のデジタル顕微鏡とスキャナーを取り出し、蝋管の表面に慎重にセットする。破片を傷めずに読み取るため、指先の力加減に細心の注意を払った。


 部屋の静寂は重く、冷房の微かな低音と自分の呼吸だけが響く。祖父の寝息に耳を澄ませながら、玲は心の中で決意を固めた。


 「過去の声、届いてくれ……じいちゃんが残した全てを、俺が拾い上げる」


 その瞬間、蝋管の表面にわずかな反射光が差し込み、玲の瞳に鋭く映った。断片の中に、長年封じられてきた“音の痕跡”が確かに存在することを、彼は直感したのだった。


午前七時半

御厨邸中庭


 辰一郎は立ち上がり、風鈴台の周囲をぐるりと回った。風の通り道を想像しながら、風鈴が抜け落ちた位置と、周囲の植え込み、築山の起伏を目で追う。砂利の上には足跡もなく、雨露による水溜まりも見当たらない。


 「ここから持ち去ったとすれば……誰かが台の下をくぐるか、屋敷の奥から細工をしたかしかない」


 辰一郎は指先で紐の千切れた部分に触れ、微かに残る繊維の質感を確かめる。錆びた金具と繊維の摩耗具合は、数日前に力を加えた形跡を示していた。だがそれだけでは、犯人の手口までは見えない。


 風鈴の音色の記憶を頭の中で辿る。青磁の澄んだ高音、琉球ガラスの柔らかい低音、南部鉄器の鈍い響き――しかし、一つの音だけが欠けている。欠けた音の“空白”は、まるで誰かの意図的な沈黙のように、耳に残った。


 辰一郎は小さく息をつき、手帳を取り出して庭の図を描き始める。風鈴の位置、台の構造、風の向き、そして砂利の状態。すべてを記録することで、ただの不在が、いずれ必ず答えを導く証拠となる。


 「……誰かがこの風鈴を“消した”。だが、残された痕跡が、必ずその人物を教えてくれる」


 庭を吹き抜ける朝の風は、抜け落ちた風鈴の音を、まだ取り戻せぬまま、静かに運んでいた。


 午前七時半

御厨邸中庭


 辰一郎は立ち上がり、風鈴台の周囲をぐるりと回った。風の通り道を想像しながら、風鈴が抜け落ちた位置と、周囲の植え込み、築山の起伏を目で追う。砂利の上には足跡もなく、雨露による水溜まりも見当たらない。


 「ここから持ち去ったとすれば……誰かが台の下をくぐるか、屋敷の奥から細工をしたかしかない」


 辰一郎は指先で紐の千切れた部分に触れ、微かに残る繊維の質感を確かめる。錆びた金具と繊維の摩耗具合は、数日前に力を加えた形跡を示していた。だがそれだけでは、犯人の手口までは見えない。


 風鈴の音色の記憶を頭の中で辿る。青磁の澄んだ高音、琉球ガラスの柔らかい低音、南部鉄器の鈍い響き――しかし、一つの音だけが欠けている。欠けた音の“空白”は、まるで誰かの意図的な沈黙のように、耳に残った。


 辰一郎は小さく息をつき、手帳を取り出して庭の図を描き始める。風鈴の位置、台の構造、風の向き、そして砂利の状態。すべてを記録することで、ただの不在が、いずれ必ず答えを導く証拠となる。


 「……誰かがこの風鈴を“消した”。だが、残された痕跡が、必ずその人物を教えてくれる」


 庭を吹き抜ける朝の風は、抜け落ちた風鈴の音を、まだ取り戻せぬまま、静かに運んでいた。


 午後五時三十分

都内病院・個室


 静かな病室に、僅かに冷房の音だけが響いていた。窓の外では秋の風が木の葉を揺らし、かすかに葉擦れの音が差し込む。玲はその音を意識しながらも、目の前の祖父から目を逸らさなかった。


 辰一郎の手はゆっくりと動き、玲の指先を包む。長年の経験が培った感覚なのか、手のひらの力は弱く、しかし確かに存在感を持っていた。玲はその温かさを感じ取り、胸の奥で静かに安心を覚える。


 「玲……よく来たな」


 かすれた声が、眠りの間を縫うように響く。短い声はそれだけで、全てを伝える力を持っていた。言葉は少ないが、想いは濃密だった。辰一郎の目は閉じられたままだが、その瞬間、彼の意識が玲とつながったのを玲は感じ取る。


 玲は静かに頷き、さらに手を握る力を少しだけ強めた。祖父の指先から伝わる微かな震えは、過去の厳しさと優しさの残滓であり、同時に最後の導きでもあった。


 「……大丈夫、じいちゃん」


 言葉は小さく、独り言のように零れた。辰一郎はかすかに息を吐き、唇の端を微かに動かす。それが笑みなのか、安心なのか、誰にもわからない。ただ、玲はその瞬間、全てを理解したような気がした。


 窓の外の陽が沈み、室内の光は淡く赤みを帯びる。二人の間に、言葉のいらない静かな時間が流れていた。


午後四時

郊外・御厨邸跡


 霧のように湿った空気が、屋敷跡の石垣や瓦礫の隙間を満たしている。玲は革ケースを握りしめ、視線を屋敷跡の庭の跡地に落とした。雨に濡れた地面はまだ柔らかく、わずかに足跡を残す。


「ここ、全部が残ってるのか……」玲は小声で呟き、肩を少し落とした。


 背後で奈々が軽く息をつく。

「ねぇ、玲。辰一郎さんの残したもの、絶対真実への手掛かりになると思うよ。信じなきゃ」


 玲は振り返り、薄く笑った。

「奈々、ありがと。まだ確かじゃないけど、あの風鈴の謎を解ければ、じいちゃんの苦しみも少しはわかるかもしれない」


 奈々はポケットから小型の防水ノートを取り出し、雨上がりの庭跡を見渡す。

「うん。雨上がりのこの空気、昔の風鈴の音思い出させるね。ここでまだ見落としてるもの、絶対あると思う」


 玲は手袋の指先で瓦礫や湿った土を軽く押す。

「確かに……この場所には、まだ語られていない記憶が眠ってる」


 二人は見つめ合い、互いにうなずく。決意が空気の中に溶け込み、遠くの蝉時雨とともに午後の静寂を支配していた。


午後七時二十二分

玲探偵事務所・屋上書庫スペース(改装中)


 薄い工事灯の明かりだけが、まだ完成していない書庫の空間を照らしていた。壁はところどころ下地がむき出しになり、ペンキ職人の手跡がそのまま残っている。床には電動ドライバー、ケーブル束、古い書類の箱が無造作に置かれ、まるで「作業途中の思考」が散らばっているようだった。


 だが、その雑然とした空間の中央──一つの長机だけが異様に整っていた。

 パソコン、デジタル音声解析機器、そして祖父の遺した蝋管の欠片を収めたケース。


 奈々は椅子を引き、パソコンの前に座ると、手際よく機器を接続し始めた。


「玲、蝋管の破片、これで全部だよね?」


「うん。現場から持ち帰ったのと、じいちゃんの納戸で見つけたやつ。欠けてるけど……何か、データの“影”だけでも残ってるかもしれない」


 玲はケースを開け、割れた蝋管の欠片を一つずつ丁寧に並べる。

 光が当たると、削れた表面に細かな溝が浮かび上がった。それはまるで、過去の声の残滓が“ここにいる”と言わんばかりだった。


 奈々はモニターを見つめながら眉を寄せた。


「蝋管って、本来は再生できる状態じゃないと無理だけどさ……表面の溝のパターンだけで“揺れ”を読み取る解析、できるところまで試すね。多少ノイズでも、何か単語の形が見えれば」


 玲は背後で腕を組み、静かにうなずいた。


「頼む。……じいちゃんが最後まで追ってた“誰かの声”。あれが、事件の最初の鍵だ」


 奈々はキーを叩きながら、小さく息をついた。


「玲、さ……これ、ほんとに怖くない?

 昔の録音に何が入ってるかなんて、誰にもわかんないよ?」


 玲は机の端に置かれた風鈴の写真に視線を落とした。

 その写真の隅には、失われた“七つ目”の影がうっすらと映り込んでいる。


「怖いよ。でも……じいちゃん一人に背負わせるには、重すぎたんだろうな。

 なら、俺がやるしかないだろ」


 解析機器が低い電子音を立て始めた。

 古い蝋管から抽出されたノイズが、波形となって画面に現れる。


 奈々は息を呑み、画面に顔を寄せた。


「玲……聞こえるかもしれない。誰かの……“声”が」


 その瞬間、屋上で吹く夜風が、未完成の壁を鳴らした。


 まるで、“続けろ”と告げるように。


午前六時四十八分

旧・御厨邸――風鈴屋敷跡


 朝靄がふわりと地面を漂い、まだ太陽の光が届ききらない庭に、白い気配だけが静かに満ちていた。風鈴の台座があった場所は、仮設フェンスで囲まれ、地面には区画線が細かく引かれている。機材ケース、三脚、地中レーダー、微細音反応センサー……まるで発掘と犯罪現場が混ざり合ったような光景だった。


 玲が足を踏み入れた瞬間、湿った土の匂いがわずかに鼻をかすめた。


「……これはまた、ずいぶん集まったな」


 その声に反応するように、区画の中央付近から一人が顔を上げる。

 黒いタブレットを持った橘奈々だ。


「玲、おはよう。今日から本調査だよ。風が止んでる今のうちに、微細音の残響データを取りたいって」


 奈々の背後には、すでに準備を始めている三人のスペシャリストが立っていた。


 *音響反射解析官・御子柴理央

 *地中構造スキャナー担当・水無瀬透

 *心理干渉痕跡分析官・九条凛


 玲は軽く顎を上げ、順に視線を送った。


「朝早くから悪いな。……手を貸してくれて助かる」


 御子柴理央は無表情のまま風鈴台の跡を見下ろし、冷静な声で応えた。


「現存する六つの風鈴と“失われた七つ目”。

 音の配置と周波数のズレが、事件当時の“歪み”を示す可能性がある。

 解析する価値は十分にあります」


 水無瀬透は地中レーダーをセットしながら、目だけを玲に向けた。


「地下に空洞があるかもしれない。以前の調査より範囲を広げるよ。

 ……この屋敷は、何かを“隠すため”に造られてる気がしてならない」


 九条凛はフェンス越しに一歩踏み出し、落ち着いた声で言った。


「心理的誘導があった形跡……“逆鳴り風鈴”が自然音ではなく人為的なら、

 それを聞いた者の行動や証言にも揺らぎが生じているはずよ」


 玲は息を吸い、肩の力を少し抜いた。


「じいちゃんが追い詰められた理由……その一端がここにあるはずだ。

 七つ目の風鈴の“消えた意味”。

 そして……蝋管に残ってた“誰かの声”の正体も」


 奈々が玲の隣に立ち、小声で囁く。


「玲。今日、絶対何か掘り当てるよ。

 だって……この場所、朝なのに空気がざわついてる」


「……ああ。俺も感じる。

 ここにはまだ“語ってない記憶”が残ってる」


 その瞬間、靄の向こうで──

 風鈴が“ひとつだけ”鳴ったような気がした。


 誰も触れていないはずの、存在しないはずの、

 七つ目の風鈴の音が。


午後三時二十分

御厨邸・奥座敷


 午後の柔らかな光が障子越しに差し込み、奥座敷を淡い金色に染めていた。遠くで誰かが庭を掃く気配がするが、この部屋だけはまるで別世界のように静まり返っている。

 神崎辰一郎は、正座を少し崩しながら畳の中央に座し、目の前に置かれた一枚の和紙をじっと見つめていた。


 和紙には、たった一行。

 御厨久乃の震える筆跡で、こう記されていた。


 《あの子を、許してやってください》


 辰一郎は眉根を寄せ、細く息を吐いた。


「“あの子”とは……誰だ? 尚太郎か、それとも……」


 呟いた声は畳に吸い込まれ、揺れるだけで消えていった。


 そのとき──障子の向こうで、きしり、と板の軋む音がした。

 辰一郎はそっと目を細め、声をかける。


「そこにいるのは……尚太郎君か?」


 返事はない。しかし、かすかな息遣いが障子の向こうから伝わってくる。


「君のお母さんは、最後に何と言った?

 なぜ、君はそれを誰にも言わない?」


 障子越しに、少年の小さな影が震えた。

 やがて──掠れた声が漏れた。


「……ぼくが、言ったら……お母さんが……守ろうとしたものが……全部、壊れてしまうから」


 辰一郎の表情がわずかに動く。


「守ろうとした“もの”か……それは、罪か? それとも……人か?」


「……わからない。でも……言えないんです。

 お母さんは、嘘をついてでも……ぼくを、守ろうとしたんです」


 障子の向こうの影が、一歩だけ後ずさった。

 辰一郎はその小さな気配を逃すまいと、静かに、しかし真っ直ぐに言葉を放つ。


「尚太郎君。

 本当に守りたいものがあるなら……沈黙は、いつか君を苦しめる。

 真実は、誰かが背負わねばならんのだ」


 すると──少年は、震える声で言った。


「……お母さんの最後の言葉は……“風鈴を、消して”でした」


 辰一郎の手が止まる。

 障子を染める夕光が揺れ、風のないはずの座敷で、わずかな鈴の音が──したように思えた。


 少年の影は、そのまま逃げるように廊下の奥へ消えていく。


 辰一郎は立ち上がり、障子に手を触れた。


「……風鈴を、消して……か。

 久乃さん……あなたはいったい、何を恐れ、何を隠した?」


 奥座敷の静寂は、答えの代わりにただ深く沈み、

 やがて障子越しの光がゆっくりと橙へと変わっていった。


了解。その設定を反映して改稿した続きの流れを提示します。

以下は 玲が辰一郎を「じいちゃん」と呼ぶ 形に修正した自然な語りの続きです。



【地下資料室 午後3時12分】


薄暗い資料室の空気はひんやりとして、古い紙と油の匂いが漂っていた。

作業台の上には復元された蝋管と破片、そして辰一郎――玲にとっての“じいちゃん”が残した手記が静かに並んでいる。


玲は手記のページを指でなぞり、小さく笑みを漏らす。


「……じいちゃん、相変わらず回りくどいこと書くんだよな」


懐かしさと軽い呆れが混ざった声だった。


ページの隅に走り書きされた文を見つけ、玲の表情がわずかに変わる。


――「聞こえなかった声ほど、後に重く残る」


「……じいちゃん、これ……」


その時、背後から奈々がタブレットを片手に近づいてくる。


「玲、蝋管の前半はなんとか再生できたよ。でも後半……ひどすぎる。

自然な劣化じゃない、“切られてる”波形してる」


玲は奈々を見る。


「切られてるって……誰かの手ってこと?」


「そう。誰かが意図的にデータを壊したってパターン。

やり方が荒いのに……逆に変。慌てて消した感じがする」


玲は蝋管の破片を手に取る。


「……やっぱりか。じいちゃん、なんでこれを隠さなかった?

気づいてたよな、絶対」


奈々は肩をすくめる。


「玲のじいちゃん、たぶん本気で“誰かに追われてた”よ。これ、そういう跡」


「……じいちゃんらしいな。逃げずに真正面から対抗したってことか」


玲は手記を軽く叩き、目を細めた。


「じいちゃんが触るなって言う相手ほどさ、俺……触りたくなるんだよ」


奈々は即答した。


「それ、玲の悪いクセ」


「知ってる」


その時、階段から小さな足音がトントンと響いてきた。


「れーい?」


朱音が顔を覗かせ、薄暗い部屋に慎重に踏み入る。


玲は表情を柔らかくした。


「お、朱音。暗いとこ平気だったか?」


「うん。でも、さむい。れーい、なに見てるの?」


「じいちゃんの残した……ちょっとした謎だよ」


「ふーん。ひみつ?」


奈々が苦笑する。


「玲、絶対隠せてないし」


朱音は作業台のそばに立ち、蝋管の近くにふわりと手をかざした。

その仕草は、触れるのではなく“感じる”ようだった。


そして小さく、息を吸った。


「……こえ、する。

すごくちっちゃいこえ……“ないことにされたこえ”」


奈々が固まる。


「朱音……いま、なんて?」


玲は朱音の目と同じ高さまでしゃがみ込み、落ち着いた声で聞いた。


「どんな声なんだ?」


朱音はゆっくり首を傾け、玲を真っすぐ見つめた。


「ひとりじゃない。

かくれてるこえ。……“みつけて”っていってる」


資料室の空気がわずかに震えたような気がした。


玲は深く息を吐き、小さく呟く。


「……じいちゃん、やっぱり全部わかってて残したんだな」


手記の次のページをめくると、震える筆跡が現れた。


「もしこの蝋管を開く者がいるなら。

――“影”より先に真実へ辿り着け。」


玲は苦く笑った。


「……じいちゃん、言い方がいちいち挑発的なんだよ」


奈々も腰に手を当てて息をつく。


「でも……ほんとに“急がなきゃいけない”ってことだよね」


玲は頷き、蝋管の破片を手の中で確かめる。


「じいちゃんの聞き残した声……全部拾う。

たとえ、“影”が先を走っててもな」


奈々が口角を上げ、朱音は玲の袖をつまんで笑った。


静かな地下室で、三人は同じ方向を見つめていた。

その先には、辰一郎が命懸けで残した真実が待っていた。


【昭和・御厨邸 奥座敷 午前9時17分】


辰一郎は、静かに呼吸を整えた。

襖の向こうにいるのは、かつて豪放磊落と呼ばれた御厨尚太郎――

だが今は、事件の夜から魂の抜け殻のように沈黙し続けている男だ。


襖をそっと開けると、畳に差す光が細く揺れた。

尚太郎は座卓の前にじっと座り、背筋だけが不自然なほど伸びている。

その視線は、目の前の一点――いや、何も見ていない空虚へ向けられていた。


辰一郎は膝をつき、静かに声をかけた。


「尚太郎さん……今日は、少しだけ話を聞かせてもらえませんか」


返事はない。

息遣いすら、部屋の空気に溶けてしまったようだった。


辰一郎は襖の縁をそっと閉じ、自分と尚太郎だけの静寂を作る。


「……あの夜、何があったんです」


少し身を乗り出す。

尚太郎の瞳が、わずかに揺れたように見えた。


辰一郎はその変化を見逃さない。


「見たんでしょう。聞いたんでしょう。

“あの音”の正体を。

風鈴じゃない……別の、何かを」


尚太郎の唇が、かすかに震えた。


沈黙が数秒、いや永遠のように続いた後。


わずかに漏れるほどの声で、尚太郎が口を開いた。

本当にかすかな、小さな声だった。


「……鳴って……いない」


辰一郎は眉をひそめる。


「……鳴っていない?」


尚太郎の肩が細かく震え、握られた拳には爪が食い込み白くなっていた。


「風鈴は……鳴らなかった。

なのに……音がした。

“あの音”だけが……」


言葉はそこで途切れた。


その瞬間、辰一郎の背筋に冷たいものが走る。


風鈴が鳴っていないのに、音だけがした──

それは、蝋管の不自然な消失と紐づく“もう一つの真実”を示していた。


辰一郎は落ち着いた声で続ける。


「尚太郎さん……聞こえた“音”は、誰の声でしたか」


尚太郎の瞳が大きく揺れた。

一瞬、理性の光が戻ったかのように。


だが次の瞬間──


「言えん……言えん……!

あれは……あれだけは……!」


尚太郎は両手で耳を塞ぎ、体を縮め、まるで見えない何かから逃れるように震えた。


辰一郎は即座にそばに寄り、静かに肩へ手を置く。


「大丈夫です。誰もいません。

ここには……私しかいませんよ」


尚太郎の震えはしばらく続いたが、やがて少しずつ落ち着きを取り戻していく。


辰一郎はゆっくりと問いかける。


「どうか……教えてください。

“あの音”が、あなたをここまで怯えさせている理由を」


尚太郎は、畳の模様を見つめながら、唇を噛みしめ、

絞り出すように呟いた。


「……あれは……

“思い出してはいけない声”なんだ……」


辰一郎は目を細めた。


まさにそれは、後に玲が聞くことになる“消された声”と一致する言葉だった。


部屋の静寂が、再び二人を包んだ。


【現代・旧風鈴屋敷跡 公園内調査区画 午後3時42分】


公園の木立を抜ける風が、センサーに取り付けられた薄い集音フィルムをわずかに震わせた。

陽はやや傾き始め、木漏れ日が地面に散らばる配線や機材の上で淡く揺れている。


玲はポータブル端末のスタビライザーを押さえながら、耳元の通信キーを軽くタップした。


「──奈々、聞こえる?」


数秒の静寂。そして、


『聞こえてるよ、玲。そっちはどう? センサーの初期化、全部通った?』


玲は肩越しに振り返り、三脚に固定された振動解析器のランプが緑色に変わるのを確認した。


「今ちょうど全部立ち上がった。……すごいな、これ。昔の屋敷の“響き方”まで再現できるなんて。」


『でしょ。音響の子たち、張り切ってるからね。

 “風鈴屋敷の残響パターンを再構築したい”とかなんとか、テンション上がってたし。』


玲は苦笑しながら、足元の草をひとつ踏んだ。わずかに地面が沈み、その反響がセンサーに吸い込まれていく。


「……本当に、風が鳴らした音じゃなかったのかな、あの“逆鳴り”。

 じいちゃんが掴めなかった部分……同じ場所に立ってみないとわからないこと、多いな。」


通信越しに奈々の声が少しだけ柔らかくなる。


『玲、あんたさ……じいちゃんのこと、追いすぎてない?

 無理しないでよ。』


玲は端末を胸の高さまで上げ、屋敷跡の方角を見据えた。

草に埋もれた礎石、かつての縁側の段差、そして空白になった“中庭”。


「……大丈夫。

 ただ……じいちゃんが見た“風鈴の音”を、俺も聞きたいだけだ。」


『聞くために、センサー全部張ったんでしょ?

 なら、あたしも全力でデータ解析するからさ。

 ほら、早く送って。』


玲はふっと笑い、端末の送信モードを起動した。


「わかった。今、リアルタイムでリンクする。──奈々、頼む。」


『任せなって。玲からの無茶ぶりには慣れてるから。』


モニターには、かすかな振動波形が浮かび上がる。

風の揺れ、木々のざわめき、そして──その奥に、何か微細な“リズム”のような影。


玲の声が低くなる。


「……奈々。今、聞こえた?」


『……うん。今の、風の動きじゃない。

 “何かが触れた”時に出る揺れ方……でも、位置が特定できない。』


玲は周囲を見渡し、一歩前へ踏み込んだ。


「この屋敷……まだ、何かを“鳴らしてる”。

 ——誰かに、届くのを待ってるみたいに。」


風が通り抜け、解析器が微かに反応した。


『玲、気をつけて。

 今の……鳴り方、ただの残響じゃない。』


玲は端末を握りしめ、まっすぐ屋敷跡の中心へ向かった。


「──だからこそ、聞くんだよ。

 じいちゃんが届かなかった“音”を。」


【昭和 御厨邸・西棟廊下/午前10時14分】


 辰一郎は、西棟の細く長い廊下をゆっくりと歩いていた。

 障子越しに差し込む光はどこか曇り、外気の湿り気がそのまま屋内に滲み込んでくるようだった。畳はわずかに波打ち、歩くたびに「ぎ……」と低い軋みを返す。


 廊下には、長く手入れされていない屋敷特有の匂いが漂っていた。畳の青さが抜け、柱の木目に沿って微かな黴の線が走っている。


 辰一郎は足を止め、指先で柱を軽く叩いた。

 乾いた音ではない。どこか“詰まった”ような、鈍い響き。


 「……やはり、この廊下の下には“空間”があるな。」


 呟きは小さく、まるで屋敷そのものに話しかけているかのようだった。

 廊下脇の障子に手を添え、ゆっくりと開くと、その向こうには薄暗い納戸が広がっていた。埃が光を受け、細かな粒となって舞い上がる。


 辰一郎は懐中時計をちらりと見てから、納戸の奥へ歩みを進める。


 「久乃さん……あなた、本当に“ここ”を使ったのか。」


 声は静かだが、その奥底には焦燥と確信が入り混じっていた。


 棚の前にしゃがみ込み、床板へ掌を添える。

 ひんやりとした木肌の下には、確かに空気の流れがある。


 辰一郎は低く息を吐いた。


 「密室が……自然にできたはずがない。

  誰かが“ここを通った”。

  そして──“見てはいけないもの”を見た。」


 床下のわずかな隙間から、冷たく湿った風が指先に触れた。


 辰一郎は立ち上がり、まっすぐ廊下の奥を見据えた。


 「尚太郎君……君は、この廊下の音を聞いたはずだ。

  あの夜、誰が、どこを歩いたのか。」


 廊下の奥で、風もないのに障子がかすかに震えた。


 まるで、誰かが──

 まだそこで、立ち止まっているかのように。


時間:夕方

場所:風鈴屋敷跡地・簡易検証テント内


 陽は沈みかけ、空に夕焼けの赤がにじみ、跡地全体を柔らかな橙色で包み込んでいた。湿った土と雑草の匂い、遠くに響く蝉の残り声。かつての屋敷の気配が、微かに風に乗って漂う中、簡易検証テントは人工的な明かりと機材の静かな振動に満たされていた。調査班のざわめきが交錯するなかで、ひときわ沈黙を守る席があった。


 そこに座るのは玲。手元には、古びた蝋管の破片や復元した風鈴の模型、手書きの図面や写真が整然と並んでいる。彼の視線は一点に集中し、微細な音の波形、蝋管の傷、風鈴の揺れ──すべてを頭の中で再構築しているようだった。周囲の雑音は、まるで別世界のことのように遠く、心の中の解析だけが優先される。


 奈々が静かに近づき、肩越しに覗き込む。


「玲、やっぱりこれ、ただの風鈴の音じゃないよね……」


 玲は手元の蝋管をそっと指さし、淡々と答えた。


「うん。祖父が残した記録と照らし合わせれば、音そのものではなく、“音を作る仕掛け”が核心だって分かる。」


 奈々は小さく息をつき、机に肘をついて考え込む。


「でも……この仕掛け、どうやってあの部屋にだけ仕込んだのかね。床下?欄間?それとも……」


 玲は頷き、手元の資料を広げる。光にかざすと、蝋管の表面に刻まれた細かな傷が浮かび上がる。


「祖父の記録によれば、蝋管は単なる音の記録装置じゃない。音を伝えるための中継装置のひとつで、風鈴の舌を微細に引くための操作が組み込まれていた。つまり、風鈴自体は動かされていたのではなく、“遠隔で”鳴らされていたんだ。」


 奈々の瞳が少し大きく見開かれる。


「遠隔……ってことは、あの逆鳴りも、意図的に仕組まれたものってこと?」


「そう。」玲は軽く頷く。夕陽に照らされた彼の横顔には、静かだが揺るがぬ決意が見て取れた。

「祖父は、この仕組みをすべて文章と図で残していた。だけど、実際に動作させるための物理的証拠は、ほとんど残っていない。残っているのは蝋管の破片と写真、そして記録だけだ。」


 奈々は手元のノートを開き、過去の現場図と照らし合わせる。風鈴の配置、障子の桟、欄間、床下の通気孔……微細な要素がすべて、音を作るためのパズルの一部となっていることが、改めて見えてきた。


「玲……この謎、解き明かすの、絶対に無理じゃない?」


「いや……祖父は最後に言葉を残してくれたんだ。僕たちはそのヒントを持っている。解ける。」


 玲は蝋管の破片を指先で撫で、深く息をついた。夕暮れの赤がテントの中に柔らかく差し込み、埃まじりの空気が温かく感じられる。その瞬間、まるで祖父・辰一郎の声が小さく聞こえたような気がした。


「おまえなら、辿り着ける……」


 玲は目を細め、指先で資料を押さえ、蝋管を慎重に持ち上げた。


「よし……やるしかないな、奈々。」


 奈々も頷き、肩にかけたバッグから追加の測定器を取り出した。風鈴跡地の湿った土や、微かな振動、残留する空気の動きを、すべて拾い上げるために。


 二人の視線が交わり、夕暮れの空に沈む光の中で、小さな決意が重なった。蝉時雨の残響と、かすかな風の匂いが、静かに、しかし確かに、未来への道標を示しているかのようだった。


時間:夜

場所:風鈴屋敷跡地・特設コンテナ内


 日が完全に落ち、現場は仄暗い照明と携帯端末のディスプレイだけが光源となっていた。空気は湿り、雨上がりの土の匂いが淡く漂う。遠くで虫の声がかすかに響き、過去の屋敷の残響が、まるで幽かに屋敷跡を見守っているかのように感じられる。


 特設コンテナ内では、御子柴理央と水無瀬透が並んでモニタを睨み、静かに解析を進めている。


「理央、この波形、やっぱりただの環境音じゃないね」水無瀬が低く呟く。スクリーンに映るグラフの小さな波形を指でなぞりながら、彼の目は微細な変化を捉えていた。


「そうだな、透。音の立ち上がり方と減衰の仕方が不自然だ。自然の風鈴なら、もっと揺れに応じてランダムに広がるはずだ」理央が頷き、画面上のタイムラインをズームインする。


 二人はほとんど口を開かず、互いの視線だけで意思を確認するかのように解析を続ける。静寂の中、クリック音と軽いタップ音が、仄暗いコンテナ内に響いた。


「ここ、注目して。ほら、この部分、微かに連続しているでしょ」水無瀬が指さす。そこには、わずかに連動して揺れるような振動が見て取れた。


「うん……これ、欄間を通して伝わったものだろうか。それとも床下からの微動か……いや、風鈴自体が引かれたタイミングと一致してる」理央が眉を寄せる。


 ディスプレイの光に浮かぶ二人の顔は真剣そのものだった。解析機器が拾ったデータは小さな揺れや音を増幅して映し出すため、誰の耳にも聞こえない“過去の動き”を視覚化しているに等しかった。


「透、この記録と祖父が残した図面を照合すれば、風鈴の動かし方も再現できるはずだ」理央は静かに言った。


「やってみるか……でも、現場はもう暗くなってる。安全確保しながら、か」水無瀬は端末を握り直し、外の闇を意識するように視線を投げた。


 二人の間には言葉少なでも強い信頼感が流れていた。夜の静けさの中で、風鈴屋敷の過去の謎を解き明かすための、最初の確かな一歩が踏み出されていた。


時間:夜

場所:風鈴屋敷跡地・観測テント前


 風が止んだ。雨上がりの湿った空気が、夜の静寂の中で重く漂う。


 その瞬間、地中に設置された観測センサーが異常な“音響共振”を捉えた。微細な振動が波紋のように広がり、モニタのグラフ上に鋭いピークとして現れる。


 玲は手元のタブレットを凝視し、眉をひそめた。「……これは、ただの風の通りじゃないな」


 隣に立つ奈々も画面を覗き込み、手元のノートに素早くメモを走らせる。「玲、この振動……昨日の解析でも似たパターンが出てたよね。あの欄間からの“逆鳴り風鈴”の時の波形に酷似してる」


 玲は地面に目を落とし、センサーの設置箇所を指でなぞる。「まさか……地下経由で、風鈴を操作した時の振動まで残ってるのか」


 奈々は軽く息を吐き、指示を出す。「確認するなら、僕らもあそこに近づいて、共振がどう伝わってるか測ろう。端末、準備して」


 玲は頷き、タブレットの操作を続ける。「うん……じいちゃんが残した設計図と照らせば、欄間と床下の連動が完全に再現できるかもしれない」


 夜の静寂の中、二人の会話は低く響く。足元の湿った砂利を踏むたび、微かに振動が伝わる。その感触が、過去に行われた細工の痕跡を追体験させるようだった。


 玲はそっと立ち上がり、センサーの近くまで歩を進める。「奈々、ここから計測開始……」


 奈々も後に続き、二人の影が淡く照明に伸びる。夜風に混ざる虫の声すら、二人の集中を妨げることはなかった。


 この瞬間、過去の“逆鳴り風鈴事件”の痕跡が、ようやく現実世界のデータとして浮かび上がろうとしていた。


時間:深夜

場所:風鈴屋敷跡地・観測テント前


 月は高く昇り、空は静まり返っていた。風は止み、夜の空気はまるで時間の流れを凍らせたかのように、澄んでいる。


 玲は静かに立ち尽くし、懐中のタブレットを指で軽くなぞる。地中のセンサーが捉えた音響共振のグラフが、暗闇の中で淡く光っている。


「……ここに残っていたのは、ただの振動じゃない。情報の痕跡だ」


 隣で奈々が手元のノートに書き込みながら、低く言った。「玲、これ……じいちゃんが予測してたことと完全に一致してる。欄間の細工、床下の連動、風鈴の動き……全部、波形として残ってる」


 玲は深く息を吸い、月明かりに照らされる荒れた屋敷跡を見渡す。「じいちゃん……こんなに正確に計算してたのか。音も振動も、全部設計の一部だったんだ」


 奈々は少し肩をすくめて笑う。「あんたのじいちゃん、やっぱりすごいね。こんな小さな音まで、未来に届けようとしてたなんて」


 玲は微かに笑みを返すが、目は真剣そのものだった。「奈々、これを解析すれば、風鈴の逆鳴りの仕組みと、母屋での密室の秘密、全部辿れるかもしれない」


 奈々は頷き、タブレットの設定を操作しながら声を落とす。「じゃあ、準備万端だね。玲、ここから本番だよ」


 二人の静かな呼吸と指先の動きだけが、夜の屋敷跡に響く。月光に照らされる廃屋の影が長く伸び、過去の事件の残響と、これから解き明かされる真実の重みを、ひっそりと包み込んでいた。


 玲は小さく息を吐き、夜の空気に言葉を紛れ込ませるように呟いた。「じいちゃん……俺、ちゃんと辿り着くから」


 奈々はそっとタブレットを握り、玲の隣で同じ夜空を見上げた。「うん、玲。二人で最後まで、やろう」


 深夜の屋敷跡は、まるで二人だけの静寂な舞台となった。月光と残響だけが、これから始まる解析の証人であるかのように、静かに見守っていた。


 時間:夜

場所:風鈴屋敷跡地・仮設調査テント前


 仮設照明がぽつんと灯る。かつて「風鈴屋敷」と呼ばれたその場所は、今や廃墟のような静けさに包まれていた。瓦礫や割れた木材の隙間から、風がひそやかに吹き抜け、かすかに湿った土の匂いを運ぶ。


 玲は手袋を嵌め、ライトの光で地面を照らしながら慎重に歩を進める。奈々も隣で同じように目を光らせ、端末のスクリーンに映るセンサーの振動を確認していた。


「玲、こっちの角度から見ると、欄間の微妙な削れ具合がよくわかるね。じいちゃん、ここに何か仕掛けてたんだろうな」


 玲は黙って頷き、破れかけた障子の隙間から覗く月光を見上げた。「うん……全部計算されてた。風鈴の位置、音の反響、床下の隙間……犯人じゃなく、じいちゃん自身が作った“記録”なんだ」


 奈々は小さく笑いながら、ライトで床を照らす。「それにしても、夜の屋敷っていうだけで、なんか緊張するね。玲、やっぱり探偵っぽい顔してるよ」


 玲は少し肩をすくめて笑い、ライトを床下の微細な凹凸に向けた。「ああ……でも、ここで見落としたら全部台無しだ。奈々、集中してくれ」


 奈々は頷き、指先で端末を操作しながら応えた。「任せとけ。玲、ここから全部、明らかにするんだ」


 屋敷跡は静かだ。仄暗い光の下、二人だけの調査が始まろうとしていた。風鈴の残響も、瓦礫の影も、すべてが過去の事件の証人であるかのように、二人の動きをじっと見守っていた。


「尚太郎へ。

──記録は鳴り続ける。だが、聞く者がいなければ、音はただの空白だ。

                 辰一郎より」


時間:午前

場所:御厨邸・東離れの書斎


 尚太郎は手紙を握りしめ、指先に力を込めたまま畳に座していた。封筒の中に残る微かな墨の匂いが、静寂をわずかに震わせる。


 「……じいちゃん……俺、やっとわかった気がする」


 声はかすかに震えていたが、言葉には迷いがなかった。机の上に置かれた古い蝋管や、欄間の微細な削れ、床下に残された痕跡……すべてがつながり、過去の断片が鮮明に浮かび上がる。


 尚太郎はそっと手紙を胸に当て、畳に頭を伏せた。「……母さんの、あの夜の言葉も……全部……」


 窓の外、庭の樹々が風にそよぐ音だけが、静かに彼の耳に届く。風鈴はもう鳴っていない。それでも、尚太郎の胸の中で、鳴り続けるべき記録は確かに息づいていた。


 「これで……守れる……母さんも、じいちゃんも……」


 静寂の中で、彼の小さな声だけが、過去と未来をつなぐ架け橋となった。


時間:午前

場所:風鈴屋敷跡・仮設調査テント内


 玲は手紙を両手でそっと持ち上げ、折れ曲がった紙の感触を確かめるように指先でなぞった。視線はかすかに揺れる墨字に留まり、静かな呼吸を繰り返す。


 「『尚太郎へ。──記録は鳴り続ける。だが、聞く者がいなければ、音はただの空白だ。辰一郎より』……」


 低く、抑えた声で読み上げる。その響きは、風鈴屋敷跡の廃墟の静寂に吸い込まれるように消えていった。


 玲は視線を遠くの廃屋にやり、手紙を胸に押し当てる。


 「……じいちゃんの思い……確かに、伝わった。記録は、俺たちが聞くためにあるんだ」


 奈々が少し間を置いて、そっと口を開いた。


 「玲、わかったの? じいちゃんの言う“空白の音”って……」


 玲は頷き、静かに笑った。


 「そうだ、奈々。空白は、誰かが耳を傾けることで初めて意味を持つ。俺たちが、この記録を“聞く者”になるんだ」


 微かな風がテントを揺らし、夕闇に染まった跡地の空気を震わせる。手紙の文字が、静かに、しかし確かに玲の心に響き続けていた。


時間:夜

場所:風鈴屋敷跡・仮設コンテナ内


 玲は仮設コンテナの暗い照明の下でモニタを凝視し、イヤホンを耳に嵌めた。わずかに光るディスプレイには、蝋管の波形が複雑に折れ重なるグラフとして映し出されている。


 「了解、御子柴。第二段階の解析結果か……」

 玲は低く呟き、手元のタブレットで波形を拡大する。微細な変化点がいくつも現れ、過去に記録された声の断片や環境音の痕跡が次々と浮かび上がっていた。


 御子柴理央は画面を操作しながら続ける。

 「玲、ここ……このノイズの中に明確な“人為的操作”の痕跡があります。微弱な指の動きを感知した形跡です」


 玲は息を呑む。画面に映る波形の凹凸が、ただの偶然のノイズではなく、意図された振動であることを示していた。


 「なるほど……じいちゃんの風鈴の逆鳴りも、この指の操作の痕か」

 玲の指先がディスプレイの上をなぞる。波形の微細な変化が、まるで過去の“音の動き”をそのまま再現しているかのようだった。


 「御子柴、この部分の再生、すぐに確認してくれ。僕の耳で確かめたい」


 御子柴は頷き、操作卓のスライダーを慎重に動かす。空間に微かだが確かな音が響き、廃屋跡の夜に、かつての風鈴の“逆鳴り”が淡く蘇った。


 玲は目を閉じ、音の軌跡を頭の中で追う。過去と現在が一瞬交差するような、静かな緊張感が二人の間を包んだ。


時間:夜

場所:風鈴屋敷跡・仮設検証テント内


 玲はそっと封書を手に取り、指先で薄紙の端をなぞった。紙は極めて薄く、触れるだけで微かにシワが寄る。光に透かすと、そこにはかすかな文字が浮かび上がっていた。


 「……これは……手書きか」

 玲は息を潜め、顎に手を当てて文字をじっと見つめる。墨の色は薄く、長い年月にかすれているが、それでも確かに意味のある文章であることが伝わった。


 橘奈々が肩越しに覗き込み、低く呟く。

 「玲、何か書いてある?見せてよ」


 玲は慎重に薄紙を持ち上げ、文字を読み上げるように声に出した。

 「『音の背後に真実は隠されている。風鈴の響きだけでなく、振動の痕跡を辿れ』……じいちゃんの筆跡だ、間違いない」


 奈々は目を輝かせ、息を詰める。

 「そっか……やっぱり、じいちゃん、最後まで音と記録で謎を残してたんだね」


 玲は小さく頷き、薄紙をそっと封書に戻す。

 「この指示があったから、僕たちはここまで来られた。次は、振動の痕跡……解析をさらに進めるしかない」


 テントの外では、夜の静寂が風に混ざって微かに揺れる。蝉も虫も、すべてが一瞬だけ息を潜めたような夜の空気の中、玲の視線は決意に満ちていた。


時間:夜

場所:風鈴屋敷跡・仮設検証テント内


 玲は薄紙の文字を見つめたまま、肩の力を抜き、ゆっくりと息を吐いた。目の奥には迷いと覚悟が交錯している。


 隣に立つ奈々が、静かに口を開く。

 「玲……あんた、無理しなくていいんだよ。じいちゃんのことも、この屋敷のことも、全部一気に抱え込まなくて」


 玲は視線を少し上げ、奈々の顔を見やる。微かに微笑み、短く答えた。

 「わかってる、奈々。でも……ここで止まったら、じいちゃんの思いも、消えちゃう気がするんだ」


 奈々は頷き、そっと玲の肩に手を置く。

 「なら、一緒にやろう。無理に一人で抱え込まなくていい。あんたがやるなら、私も力貸すよ」


 玲は深く息を吸い、薄紙を慎重に手に取ったまま視線を前に戻す。

 「ありがとう、奈々……よし、次に進もう。この屋敷に残されたすべての“音”を、最後まで辿るんだ」


 夜風がテントの隙間を通り抜け、二人の決意を静かに包み込んだ。


 時間:夜

場所:風鈴屋敷跡・仮設検証テント内


 封書を収めた小筐体を慎重に袋へと移し終えた直後、玲は手を止め、周囲の音に耳を澄ませた。風の通る音、遠くの木立のざわめき、テント内の機材の微かな振動──すべてが、何かを告げているように感じられた。


 奈々が小さく息を吐き、囁くように言った。

 「玲……今の、ただの風じゃないよね。何か、反応してる」


 玲は頷き、薄く笑みを浮かべる。

 「そうだな……この小筐体、じいちゃんが残した最後の証拠だ。音も、波形も、全部ここに刻まれてる」


 奈々は目を細め、端末に視線を移す。

 「じゃあ、これで解析すれば、あの逆鳴り風鈴の謎も……」


 玲は小さく手を振り、言葉を遮った。

 「急ぎすぎるな。波形の細部まで確認して、仕組みを完全に理解してからだ。焦れば、見落とすものが必ずある」


 二人の間に沈黙が流れる。夜の静寂に包まれながら、玲は袋の中の小筐体に手を添え、慎重に呼吸を整えた。

 「……よし、始めよう。じっくりと、最後まで」


 テントの薄明かりが、小筐体を包む影を長く伸ばしたまま、二人は作業に取り掛かるのだった。


 時間:夜

場所:風鈴屋敷跡・仮設検証テント横の庭


 そのとき、風鈴台座の真下から、カラン、と小さな破片が崩れ落ちる音がした。


 玲と奈々は無言で顔を見合わせ、手にしたライトを同時に向ける。砂利の上に、青磁の欠片がひとつ、静かに横たわっていた。


 奈々が小声で囁く。

 「玲……これ、風鈴の欠片だよね? でも、どうして今?」


 玲はゆっくり膝をつき、欠片を手のひらに乗せて眺めた。

 「たぶん……あの逆鳴り風鈴の残骸だ。こんなに小さくても、仕組みの一部がまだ残ってる」


 奈々は思わず息をのむ。

 「つまり……風鈴が動く仕掛けの一部が、今もここにあるってこと?」


 玲は頷き、破片を慎重に袋に収める。

 「うん。じいちゃんはすべてを設計して、証拠も残していた。でも時間と湿気で、こうして少しずつ崩れていく」


 二人は互いに視線を交わし、再び庭の風鈴台に目を戻した。破片の落ちた位置、微かに削れた台座の跡……それらすべてが、祖父の残した謎への手掛かりだった。


 奈々は静かに言った。

 「玲、これ……やっぱり、ちゃんと調べるしかないね」


 玲は深く息を吸い、夜の空気を胸いっぱいに取り込む。

 「そうだな。じいちゃんの残した真実に、やっと手が届くかもしれない」


 風鈴台の向こう、闇の中で微かに揺れる影が、二人の決意を静かに見守っているかのようだった。


「こちら御子柴。状況報告を。今、検出システムが全域警告モードに切り替わった。」


時間:夜

場所:風鈴屋敷跡・特設コンテナ内


「了解、御子柴。状況を教えてくれ」


 玲は端末を手に握りしめ、画面に映る解析結果を凝視する。


「警告は全域。微細振動の連鎖反応が起きています。先ほどの破片落下と連動している可能性があります」


 奈々が玲の肩越しに画面を覗き込み、小さく呟いた。

 「玲……これ、ただの偶然じゃないね。何かが作動してる」


 玲はゆっくり頷き、声を低くして答えた。

 「わかってる……じいちゃんの仕掛けかもしれない。あの風鈴の仕組み、まだ完全には崩れてない」


 御子柴がさらに続ける。

 「しかも、振動データを見る限り、これまでに記録されていなかった周波数帯の信号も検出されました。音響共鳴が複雑に絡んでいます」


 奈々は眉をひそめ、玲を見上げる。

 「玲……これって、もしかして“風鈴の逆鳴り”の再現かもしれないね」


 玲は黙って頷き、ゆっくりと画面に手を伸ばす。

 「間違いない。じいちゃんは最後まで、誰かに“聞かせる”ための仕組みを残したんだ……俺たちに、真実を導かせるためにな」


 夜の風がテントを揺らし、遠くの草木のざわめきが微かに混じる中、解析機器のモニタは赤く点滅し続けていた。


時間:夜

場所:風鈴屋敷跡・特設コンテナ内


 突如、コンテナ全体が振動し、埃が舞い上がった。解析端末の画面が一瞬揺れ、警告音が連続で鳴り響く。


「なっ……何だ、これ!?」奈々が声をあげ、手元のライトを握りしめた。


「落ち着け、奈々!」玲は両手で端末を抱え込みながら、地下方向を睨む。「これは……じいちゃんの仕掛けだ。音響共鳴の頂点が、いま来たんだ!」


御子柴が冷静に解析データを示す。

「音圧が急上昇しています。地下構造に沿った反響で、局所的に衝撃波のような挙動が出ています。非常に危険です」


奈々が目を見開き、玲の肩に手を置く。

「玲、これ……本当に大丈夫?さっきの破片落下と連動してるの?」


玲はわずかに息を整え、低く呟いた。

「大丈夫……でも気を抜くな。じいちゃんの意図は、単なる音の演出じゃない。この衝撃も、真実を導く一部だ」


 再び地下から微かな振動が伝わる。夜風に混じって、かすかな“逆鳴り風鈴”の余韻が響いた。


時間:夜

場所:風鈴屋敷跡・地下振動発生点付近(地表)


 闇がゆっくりと膨らむように、湿った空気の奥で“音”が生まれ始めた。

 風のない夜だというのに──かすかな鈴の反響が、まるで誰かの名を呼ぶように震えている。


 玲は息を止め、耳を澄ませた。


「……呼んでる。これは、完全に意識を持った“記録”だ」


 奈々が眉を寄せる。

「記録って……音が勝手に呼びかけるなんて、あり得ないでしょ。ねぇ玲、これって“誰を”呼んでるの?」


 玲は答えず、ライトをゆっくりと足元へ向けた。

地中から伝わる振動が、まるで心臓の鼓動のように一定のリズムを刻んでいる。


「……じいちゃんじゃない。

 もっと……深いところに残ってる“誰かの声”だ。」


 奈々が息を呑む。

「“誰か”って……尚太郎さんのこと?」


 玲は目を細め、闇の向こうを見据えた。

「わからない。でも──呼ばれてるのは、俺たちじゃない。」


 耳鳴りのような低い唸りが地面を這い、風鈴の残響がそれに重なる。


 御子柴の無線がノイズ混じりに割り込む。

「こちら御子柴……!地下の音響波、観測値が再上昇している。特に共鳴周波数──まるで“応答”を待つような挙動です!」


 奈々が玲を振り返り、不安と決意の入り混じった声で言う。

「玲……放っておける状況じゃないよね?」


 玲は静かに頷き、闇に向かって一歩踏み出した。


「……呼ばれてる相手が誰であっても。

 このまま応じないわけにはいかない。

 ──行くぞ、奈々。」


 闇の奥から、風鈴ではない、かすかな“声”が確かに響いた。


時間:深夜

場所:風鈴屋敷跡・仮設地下解析室


 モニタには、地下に仕込まれた音響センサーが捉えた波形が刻まれている。

 微細な振動、風鈴の残響、そしてそれとは異なる低周波の周期──まるで人の呼吸に近いリズムで揺れていた。


 玲は眉間に皺を寄せ、指先で波形をなぞる。

「……千紘、この反応……普通じゃない。明らかに誰かの“意図”を感じる」


 千紘は画面を覗き込み、低く息をついた。

「……呼んでるな、誰かを。波形がまるで問いかけているみたいだ」


 玲は画面の横に置かれた小型スピーカーに耳を近づける。

 微かに、しかし確かに音が返ってくる。

 反響は不規則で、通常の物理現象では説明できない。

「……応答を待っている。これは“記録”じゃなくて、相互作用だ」


 千紘の声が震える。

「つまり……この音、俺たちに“反応”を求めてるってことか……?」


 玲は頷き、拳を軽く握る。

「放置はできない。じいちゃんが残したこの屋敷の秘密、誰かの声が待っている……俺たちが応じなければ、永遠に封印される」


 深い沈黙が二人を包み、モニタの波形だけが暗闇に光を落として揺れていた。

 蝉の声も届かない密閉空間で、呼びかける“声”は確かに存在していた。


時間:深夜

場所:風鈴屋敷跡・仮設地下解析室


 ──わずか1秒後、モニタの波形が急激に振れ、画面全体が青白く光った。

 スピーカーから、かすかな、しかし明確な人の声が漏れた。


「……来て……」


 玲は息を詰め、千紘に目を向ける。

「聞こえたか……? 確かに、呼んでいる……誰かが……」


 千紘は震える声で答える。

「……間違いない……でも、この声……死者のような、過去の誰かのような……」


 玲はそっと手を伸ばし、スピーカーの音量を上げる。

「落ち着け。解析装置はまだ完全じゃない……だが、これは確実に応答だ。誰かが、この場所で、何かを伝えたがっている」


 画面の波形は不規則に揺れ、反響のタイミングと周波数が、人の呼吸や心拍のように微かに変動していた。

「じいちゃん……これが、あなたの残した声……?」


 千紘は静かに頷き、二人は波形を見つめたまま、暗闇の中で次の動きを考える。

 密閉された地下空間に、呼びかける“声”はまだ終わらず、二人をじっと試すかのように響き続けていた。


 時間:深夜0時14分

場所:風鈴屋敷跡・仮設地下解析室


 玲の喉がかすかに鳴った。

 モニタから漏れ続ける、あの掠れた声。

 それは、ただの残響でも、機械ノイズでもなかった。


「……じいちゃん……?」

 玲は、思わず呟いていた。自分でも気づかぬほど小さく。


 千紘が横目で玲を見る。

「玲……今の、本当に……祖父さんの声に聞こえたの?」


 玲は答えようとして、言葉を失った。

 画面の波形は――辰一郎が生前、口述記録を残したときの声紋と、ほぼ一致していた。


 ただし、ひとつだけ違う点がある。

 今の声は、“生きている人間”の呼吸リズムを持っていた。


「……でも、ありえないよな。じいちゃんの蝋管は全部……」

 玲は唇を噛んだ。

「復元した記録は、どれも『過去の音』。

 今みたいに……応答するはずがない……」


 千紘が震える息を吐き、モニタに目を戻す。

「じゃあ、これは何なの……? これは“現象”なの? それとも……」


 そのとき。


 スピーカーが、ひどくゆっくりとした息継ぎ音を拾った。

 数秒の沈黙を挟み――


『……玲……』


 玲の背がびくりと跳ねた。

 顔色がみるみる変わり、千紘が慌てて肩に手を置く。


「玲、落ち着いて! これは……声帯の再現とか、音響の錯覚とか、そういう類の……」


「違う……違うんだ、千紘」

 玲は震える声で首を振った。

「じいちゃんが俺を呼ぶとき……“玲”って、こうやって……少しだけ語尾が下がるんだよ……

 こんなの、記録に残るわけない……!」


 その瞬間、波形が一気に落ち、地下室の空気がぞわりと冷えた。


 スピーカーが最後に、かすれ切った声を吐き出した。


『……聞いて……くれ……』


 その声が完全に途切れたあとも、玲は動けずにいた。

 深夜の解析室は静まり返り、二人の呼吸音だけが、やけに大きく響いていた。


時間:午後1時26分

場所:御厨邸・西棟書斎


 辰一郎は背筋を伸ばし、蝋管式蓄音機の回転音に耳を澄ませた。

 機械の軋む呼吸のようなノイズの中に、細い糸のような声が混じる。


 ──シ……シ……ッ……カラ……ン……


 最初は雑音かと思われた。

 だが、雑音の“向こう側”に、確かに誰かの息がある。


 突然、掠れるような女の声が鮮明になった。


『……た……すけて……』


 辰一郎は眉をひそめた。

 記録されているはずの時間帯とは合わない。

 この蝋管は「風鈴の調律記録」として保管されていたもので、人の声が入るはずではない。


「……誰だ?」

 彼は低く呟き、蓄音機に身を寄せた。


 再びノイズ。その中に、苦しげな呼吸音。


『……ふ……り……ん……や……し……き……の……した……』


 声はそこでぷつりと途切れ、針がストンと空回りし始めた。


 辰一郎は即座に針を上げ、蝋管を凝視した。

 わずかに削れた溝の間。

 そこには本来“風の音”しか記録されていないはずだった。


「……屋敷の下……? まさか……」


 彼の視線が机の隅の古地図に向く。

 御厨邸敷地の中央――風鈴台の真下には、古くから“存在しないはず”の空洞が描かれている。


 辰一郎は静かに立ち上がり、蝋管を保護袋へ滑り込ませた。


「……隠していたのは、誰だ……御厨家か……それとも……」


 書斎の障子を開けたとき、庭の風鈴がひとつ、かすかに揺れた。

 だが――揺れているはずのその風鈴は、すでに“無くなっている”はずのものだった。


日時:1936年(昭和十一年)9月5日(土) 午前10時30分

場所:神崎辰一郎の書斎


辰一郎は、古びた蝋管式蓄音機の針が静かに盤面を滑るのを見つめていた。

再生されたかすかな女性の声は、薄暗い室内に儚く響く。


「……しのちゃん…ごめん…でも…忘れないで…」


声の主は、御厨家の令嬢・詩乃しのだった。


その時、書斎の戸がゆっくりと開き、御厨尚太郎が顔を覗かせた。

疲れた表情で、しかしどこか緊張を隠せずにいた。


辰一郎は蓄音機を止めて、静かに言った。

「尚太郎さん、この声を聞いたか?」


尚太郎は無言で頷き、少しだけ震える声で答えた。

「…間違いありません。姉さんの声です」


辰一郎は言葉を選びながら続ける。

「彼女は何かを伝えようとしている。謝罪の言葉もある。だが内容は断片的で、まだ隠された真実があると感じる」


尚太郎は俯きながら、苦しげに話した。

「姉は事件の夜、屋敷で何かを見てしまったのかもしれない。それ以来、口を閉ざして…何も話さなくなった」


辰一郎は深く頷いた。

「これがきっかけなら、君も話してくれ。隠さずに」


尚太郎は覚悟を決めたように目を上げた。

「…あの夜、姉が最後に見たものは…あの風鈴の音と、そして…」


言葉はそこで途切れた。

室内に、重く静かな沈黙が落ちる。


その時、遠くから微かに風鈴の音が聞こえ、二人の心に深い影を落とした。


日時:2025年8月25日(月) 午後7時10分

場所:旧・風鈴屋敷跡/夜


月明かりが廊下の瓦礫に冷たく差し込み、古びた木材が軋む音が静寂を裂く。

玲は東条千紘とともに、祖父・辰一郎の蝋管式蓄音機を慎重に運び入れた。


「ここなら音の反響も残るはずだ」玲は低くつぶやき、機械をセットした。

東条が蝋管を差し込むと、蓄音機の針がゆっくりと回り始めた。


かすれた女性の声が、闇の中に浮かび上がる。

「…しの…ごめん…でも…忘れないで…」


声の主は、1936年当時の御厨久乃。彼女の声は時を超えて廊下に響き渡った。


しかし、すぐに背後から現代の風鈴の“逆鳴り”の不気味なリズムが重なる。

東条がモニターを見つめながら呟く。

「聞いてはいけない音──抑制文が埋め込まれている。『忘れろ』『戻れない』の繰り返しだ…」


玲は静かに拳を握りしめた。

「時代を超えて、封じられた記憶を抑え込もうとする力が働いている。これが“記録風鈴”の本当の呪縛かもしれない」


夜風が廊下を通り抜け、風鈴の音と声が一体となって、彼らの耳に不気味な旋律を奏で続けた。


月明かりに照らされた旧・風鈴屋敷の廊下で、蝋管の針が静かに回り始めた。

かすれた女性の声がかすかに響き、その一言一言がまるで遠い時代からの囁きのように揺らいだ。


「……しのちゃん……ごめん……でも……忘れないで……」


その声は、1936年に封じられた記憶の欠片だった。


しかし、その静寂を破るように、風鈴台の奥から逆鳴りが始まった。

風鈴が奏でる不自然な音は、まるで呪文のように繰り返されていた。


「忘れろ……戻れない……」


蝋管の声と風鈴の逆鳴りが、互いに波紋のように響き合う。

過去に消された声と、現代に封じられた言葉が、重なり、交差する。


玲は息を呑んだ。

二つの時代の記憶が、この夜、屋敷跡の静寂の中で、ようやく解放されたのだ。


その音は、まるで眠りから覚めるかのように、長い封印の扉をゆっくりと開けていくかのようだった。


時間:令和七年・午後3時42分

場所:市立南病院・東棟302号室


 玲はじいちゃんの手を包み込むように握りながら、静かに呼吸を整えた。


 辰一郎の胸が上下するたび、タオルケットがわずかに動く。

 その規則的な動きが、なぜか玲には“いつか終わるもの”のように見えてしまった。


「……じいちゃん、聞こえる?」

 玲は低く、そっと問いかけた。


 返事はない。

 けれど、辰一郎の指がほんの僅かに震えた。

 意志の最後の名残のように。


 玲はもう片手で、胸元の小さな革ケースを取り出す。

 そこには復元した蝋管の断片が収められていた。

 そしてもう一つ──祖父から託された、あの風鈴屋敷の地図。


「じいちゃん……俺、進んでるよ。」

「風鈴が鳴らなかった理由も、蝋管に“声”が入った理由も……

 全部、つながり始めてる。」


 窓辺の白い風鈴がふわりと揺れる。

 風はある。

 なのに音は出ない。


 辰一郎は、ゆっくりと眉をひそめた。

 眠っているはずの顔に、微かな緊張が浮かぶ。


「……じいちゃん?」

 玲は身を乗り出した。


 そのときだった。


 ――ちり……ん。


 ありえないはずの、微かな風鈴の音がした。

 だが揺れていた白い風鈴は“沈黙したまま”。

 音は、窓辺ではなく──


 辰一郎の口元から、漏れた。


「……し……た……」


 かすれた、限界ぎりぎりの声。

 玲の全身が強張る。


「じいちゃん……? 今、何て……」


 辰一郎の唇が再び震えた。


「……ふ……りん……の……した……」


 玲は息を呑んだ。

 昭和の蝋管に記録されていた“女性の声”と同じ言葉。


 ──風鈴屋敷の……下。


 辰一郎はまるで、最後の力を絞り出すように目を細め、玲の手を強く握った。


「……れ……い……」

「……た……の……む……」


 その瞬間、風鈴が完全に止まり、光だけが静かに部屋を満たした。


 玲は震える声で答えた。


「……わかったよ、じいちゃん。

 俺が、行く。

 必ず……見つける。」


 白い風鈴は、もう二度と揺れなかった。


【時間:四十九日前の午後四時過ぎ/場所:神崎家・仏間】


 線香の白い煙がまっすぐに昇っていく。

 静まり返った仏間の空気は、まだ読経の余韻を微かに含んでいた。


 親戚たちが帰ったあと、

 神崎玲は、ひとり仏壇の前に膝を折ったまま動かない。

 遺影の辰一郎は、少し照れくさそうな柔らかな笑みを浮かべている。


 玲は目を伏せ、低い声でつぶやいた。


「……じいちゃん。

 あの日、俺を現場に呼んだ理由……まだ聞けてないよ。

 本当は何を伝えようとしてたんだ?」


 返る声はなく、ただ線香の香りが静かに漂うだけだった。


 その背後から、控えめに畳を踏む足音。


「玲さん……」


 東条千紘が礼服の裾を整えながら仏間に入ってきた。

 彼は玲の横に膝をつき、少し表情を曇らせる。


「皆さん帰られました。……まだ、ここにいると思って」


 玲は遺影から目を離さずに答えた。


「……“祖父の声じゃない”って言ってたな。

 あのアーカイブに残ってた声。

 でも……似てた。悪意のある“真似”にも聞こえた。」


 千紘の表情がわずかに強張る。


「それで……確かめに?」


「ああ。

 じいちゃんは直前まで何を知ってて、誰を警戒してたんだ……?

 “風鈴の下を見ろ”なんて、まるで……誰かに先んじて伝えようとしていたみたいだ」


 千紘は玲の視線の高さまで身を落とし、慎重に言葉を繋ぐ。


「玲さん。……あなたが見つけたあの破片ですが、

 分析が終わりました。」


 玲が息を呑む。


「風鈴の台座じゃ……なかったのか?」


 千紘は深くうなずいた。


「“誰かが後から埋め込んだ痕跡”でした。

 辰一郎さんが残したものではなく……

 亡くなる直前、他者が仕込んだ可能性が高い。」


 仏間の空気が、ひりつくほど冷たくなる。


「……つまり、じいちゃんは——」


 玲が言い終える前に、


ぽたり。


 仏間の奥の棚から、何かが落ちる微かな音。


 ふたりは、同時にそちらを向いた。


 古びた棚の上。

 煤けた木箱の蓋が、ほんの少し──今、開いた。


「誰も……触ってませんよね?」

「もちろんだ。」


 玲は静かに立ち上がる。

 千紘が緊張を隠しきれないまま、その背を見つめる。


 棚の木箱には、薄暗がりの中でひとつだけ“新しい白”があった。


 蓋の隙間から覗く、一通の封書。


 玲は手を伸ばす。

 胸の奥で、嫌な予感が確かな形を取り始めていた。


 封書の表には、黒い墨文字でこう書かれていた。


『玲へ ——開けるな』


【時間:午後十一時二十二分/場所:神崎家・縁側】


 風のない静かな夜だった。

 虫の声さえ遠慮しているかのように控えめな、晩夏と初秋のはざま。

 神崎家の古い縁側には、ひとつの風鈴が吊るされていた。


 音は鳴らない。

 だが、そこに確かに“気配”があった。


 縁側に腰を下ろした神崎玲は、湯呑みを片手に、じっと風鈴を見上げていた。

 暗闇に淡く光る月が、古い硝子の曲面を薄く照らしている。


「……鳴らない夜もある、ってわけか」


 独り言のようにつぶやく声は、縁側の木材に吸い込まれていく。

 ふと足元を見ると、昼間乾かしたはずの封書が、まだ机の上に置いたときのまま想像の中に蘇る。


 ——『玲へ 開けるな』


 あの文字。あの筆跡。

 祖父・辰一郎のものではなかった。


 玲は湯呑みを縁側に置く。


「結局……誰が、何のために俺宛に書いたんだ?」


 縁側の奥の廊下から、気配を察したかのように東条千紘が顔を出す。

 彼は軽く息を整え、玲の隣に腰を下ろした。


「眠れませんか、玲さん」


「……まあな。こう静かだと、かえって落ち着かない」


 千紘は夜気を一度吸ってから、ゆっくり吐き出した。


「御子柴さんから連絡がありました。

 例の“封書の繊維鑑定”ですが……年代が一致しないそうです。」


「一致しない?」


「はい。辰一郎さんが亡くなる少し前に使っていた紙よりも……ずっと新しい。

 封印に使われていた糊も、近年のものでした。」


 玲の眼差しが、わずかに揺れる。


「じゃあ……“四十九日前に突然置かれていた”って線は残るわけか」


「ええ。誰かが仏間に入り込んでいた可能性が高いです。

 ……もしくは、辰一郎さんが“誰かに渡されたものをそのまま隠した”か。」


 玲は少し俯き、膝に肘を置いた。


「じいちゃんが……何から俺を守ろうとしてたのか。

 封書を開けることじゃなくて……“封書を開けさせないこと”が目的だったんじゃないか?」


 千紘は頷こうとして——ふと、風鈴に目を向けた。


 風は吹いていない。

 なのに——


 ちり……

 ち……りん……


不意に、風鈴がひとりで鳴った。


 玲と千紘は同時に顔を上げる。


「無風……ですよね?」

「ああ、間違いなく」


 玲は立ち上がり、風鈴の前まで歩いた。

 音は止まらない。むしろ、さっきよりも微かに響いている。


 千紘も縁側に立ち、玲の後ろから声をかけた。


「共振……? いや、さっきまで鳴らなかったのに……」


 玲は風鈴の真下を見た。

 祖父が台座に刻んだ、古い家紋。

 その中心に、ごくわずか——“新しい傷”が刻まれていた。


「千紘。ライトを」


「はい!」


 ライトの白光が台座を照らす。

 傷は細い線で、まるでメモのように刻まれている。


 玲は目を細め、指先でなぞる。


「……これ、文字だ」


 千紘が息を呑む。


「読めますか?」


 玲は、傷の走りを丁寧に追うように読み上げた。


「“——きこえている”」


 読み終えた瞬間、風鈴はぴたりと鳴り止んだ。

 まるで“役目を終えた”とでも言うように。


 玲は息を詰まらせたまま、千紘に振り返る。


「……千紘。

 まだ、終わってない」


 千紘は強く頷き、縁側の向こうに広がる闇を見据える。


「はい。

 辰一郎さんが残した“音”は……まだ続いています」


 玲は夜空を見上げる。

 星ひとつない闇。

 だが確かに、どこかで誰かが“呼んでいる”。


「だったら……聞きに行くさ」


 その声は夜の縁側に静かに沈み、

 鳴り止んだ風鈴が微かに揺れた。


 記録は、まだ終わらない。

【神崎辰一郎のあとがき】


 これを読んでいるのが、玲、おまえであればいいと願う。

 いや——おまえ以外の誰にも、読まれてはならない。


 長い年月、私は“音”の中に真実が宿ると信じて生きてきた。

 音は姿形を持たず、すぐに消える。

 だが、人の心に残った音だけは、消えない。

 時に記録より正確に、時に言葉より雄弁に、過去を語ってくれる。


 私はその音の残響を追い続け、気づけば人生の半分以上を費やしていた。


 しかし、その過程で——

 私はある“声”に出会ってしまった。


 あの夜のことは、今もはっきりと覚えている。

 蝋管を回した瞬間、微かなノイズの奥から、女の声が確かに私を呼んだ。

 名を呼ばれたわけではない。

 ただ、耳の奥で「気づいてはいけないもの」が、こちら側へ届こうとしていた。


 私は恐ろしくなった。

 同時に、その声をひとりにしてはならないとも思った。


 ……愚かだった。


 私は声の意味も、その存在の重さも理解しないまま研究を続け、

 守るべき者を危険に晒すところだった。

 御厨はその犠牲者だ。

 彼に負わせたものの深さは、私の人生でも償いきれない。


 玲。

 おまえがこの封書を開いたということは、私が最も恐れていた瞬間が訪れたのだろう。

 だが、同時に——

 私が信じて託したかったのも、おまえだけだ。


 私は、心残りばかりの祖父だった。

 家族に向き合えた時間より、机と記録の前で過ごした時間の方が長い。

 それでも、おまえが来てくれるたび、私は救われていた。

 おまえは覚えていないかもしれないが、子どもの頃の玲は、風鈴の音を聞くと必ずこう言っていた。


 「じいちゃん、これ、なんの声?」


 あの問いが、私の最後の救いだった。

 音の奥に“誰かの気配”を感じた最初の人間は、おそらく私でも御厨でもなく——

 おまえだったのだと思う。


 だから私は、最期の研究をおまえに託すことにした。


 祖父としては間違っているかもしれない。

 本来なら、こんなものは燃やしてしまうべきだ。

 だが、どうしてもできなかった。

 音は消えても、記憶は残る。

 残るものは、おまえに渡すしかなかった。


 玲。

 おまえには、私のような道を歩んでほしくない。

 だが——もし、おまえが真実の音に触れてしまったなら。

 どうか、逃げずに向き合ってくれ。


 記録は鳴り続ける。

 それを“聞く者”が現れなければ、すべては空白のままだ。

 その空白を埋められるのは、おまえしかいない。


 どうか、迷わず進んでくれ。

 私は、いつでもおまえの背中を押している。


              神崎辰一郎

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