58話 柊ヶ岡マンションの記憶ー消えた声と封じられた証言ー
登場人物紹介
探偵・捜査関係
•玲
冷静沈着な男性探偵。過去の事件や失踪者の記録を綿密に追い、現場での状況判断に優れる。影班への指示も行う。
•凛
心理干渉分析官。記憶探査や被害者・目撃者の心理状態分析を担当。情報端末操作にも精通。
•九条
記憶探査と精神的サポートのスペシャリスト。封印された記憶や記録の復元を得意とする。
•御子柴理央
記憶分析担当のスペシャリスト。ログ改変やデータ照会の解析を担当。
•橘奈々
玲の助手。高度な情報分析能力を持ち、過去のデータや監視痕跡を照合。
影班
•成瀬由宇
隠密行動・対象把握担当。暗闇での行動や追跡に優れる。
•桐野詩乃
毒物処理・痕跡消去担当。冷静かつ正確に証拠処理を行う。
•安斎柾貴
精神制圧・記録汚染担当。高身長で筋肉質、対象者の監視と制圧に長ける。
被害者・証言者
•愛梨
最後に救出された少女。3年間床下に拘束されていたが、辛うじて生存。朱音を通してその記憶を伝える。
•椎名結花
以前床下に拘束されていた少女の一人。封印された記憶が後に解放される。
•みのり
既に死亡していた被害者。床下で亡くなり、遺族との再会は叶わず。
遺族
•木内拓馬
みのりの父。現場到着時、娘の遺体に対面。
•杉原梓
少女たちを連れてくる前管理人の被害者。過去に拉致監禁されていた。
•愛梨の両親
愛梨の拘束場所を確認、救出後に再会。娘の無事を知り感謝する。
その他
•室井周平
柊ヶ岡マンションの元オーナー。過去に家庭内暴力の痕跡あり。
•管理会社担当者(中村など)
苦情対応や管理履歴の証言を提供。
•警察関係者(神谷、斎木)
現場対応・捜査にあたる。
•救急隊・メディア関係者(藤堂など)
現場を報道し、ライブ配信で社会に状況を知らせる。
2025年8月5日(火) 午前2時12分
長野県 柊ヶ丘第二マンション 202号室
リビングの壁掛け時計が、午前2時を静かに回っていた。
秒針は途切れることなく、部屋の沈黙をなぞるように刻みを続けている。
中村美和は、うすい寝巻きのままソファに腰をかけていた。
照明はつけていない。月明かりがレースのカーテンを透かして、部屋の一部を青白く照らしている。彼女の両手は膝の上で固く握られ、視線は隣の部屋──203号室の壁に向いていた。
「また……」
壁を挟んで、それが始まる。
──ピッ……ピ……
無機質な電子音。
ICレコーダーか、目覚まし時計か。だが、その音はどこか「人の気配」を纏っていた。
1秒、2秒の間隔で規則正しく鳴ったあと、続いて──
《ねえ、聞こえる? ここにいる──》
小さく、かすれた女の声が、壁の向こうから流れ込む。
それは“録音された音声”のように平坦だった。だが、美和はいつも、あの声の終わりにほんのわずかな「息遣い」を感じ取っていた。まるで、その声が壁越しに、彼女を確かに見つめているような──。
音は8秒間続いたあと、唐突に止んだ。
まるで、すべての気配が引き剥がされるように、空気が一段階、静かになる。
「どうして……今も鳴るの……?」
美和は立ち上がり、そっと壁に近づいた。耳をつけ、息を潜める。
何も聞こえない。ただ、隣の部屋の空気が、どこか空っぽであるような、奇妙な圧迫感だけが感じられる。
この現象が始まったのは、約1週間前。
毎晩、午前2時を過ぎた頃になると──決まって“それ”が鳴り始める。
管理人に相談したが、「その部屋には今、誰も住んでいないですよ」と笑って取り合ってくれなかった。
だが、美和は知っている。少なくとも“去年までは”男が住んでいたことを。
──宮田征司。
あの声の主が、かつて彼と何か関係していたのか、それとも……。
彼女の背筋に、うっすらと冷たいものが走る。
この“声”には、どこか自分の過去とつながる匂いがあった。
それが何なのか、まだ思い出せない。
だが、確かに感じる。
──この壁の向こうには、“何か”がある。
そしてその“何か”は、美和が忘れたままにしていた“ある夜”を、そっと叩いている気がしてならなかった。
プロローグ
2025年8月1日(金) 午後6時46分/長野県 柊ヶ丘第二マンション・203号室前
夕方の陽射しが、マンションの廊下を斜めに照らしていた。
熱を帯びたコンクリートの壁が、じんわりと余熱を返してくる。
蝉の声が、遠くの空にへばりついたまま、かすかに震えていた。
それでも、建物のこの一角だけは妙に静かで、まるで時の流れから取り残されたようだった。
中村美和は、203号室の前で足を止めた。
白いTシャツとデニムに、薄手のカーディガン。両手には買い物袋。
だが今、そのどれもが無意味に思えた。
彼女は目を伏せ、そっと息を吸い込んだ。
わずかに漂う金属の匂い、薄い洗剤の香り、そして──
それは、またしても静けさを破った。
──ピッ……ピ……
電子音。
短く、規則的に鳴る2つの信号。
数日前から毎日、決まってこの時間、決まってこの場所で、繰り返される“何か”。
そして、その直後に──
《ねえ、聞こえる? ここにいる──》
女の声。
録音されたもののような、けれど妙に湿り気を帯びたそれが、薄い鉄の扉の向こうから漏れてくる。
その8秒間の“呼びかけ”は、耳に触れるよりも先に、皮膚の下に染み込んでくるようだった。
美和は、買い物袋を持つ手に少し力を込めた。
声が終わったあとの静寂が、一番怖い。
……今、この部屋には誰も住んでいない。
半年以上も前に「退去済み」とされている部屋。
それでも“何か”が、毎日決まって、誰かを呼んでいる。
そして美和には──
その声に、聞き覚えがあるような気がしてならなかった。
だが、思い出そうとすればするほど、記憶の奥は濁ったまま、輪郭が滲んでいく。
彼女は一度だけ、203号室のドアに手を伸ばした。
ノブに触れる直前、その指先がほんのわずかに震える。
(……誰か、本当にいるのかもしれない)
心の奥に浮かんだその予感は、やがて彼女を、ある“封じられた夜”へと導いていく。
静かな8秒の呼びかけが、これから巻き起こる記録と記憶の事件の、幕開けだった。
2025年8月2日(土) 午前9時17分
長野県・柊ヶ丘第二マンション近郊/玲探偵事務所(ロッジ1階 ダイニングルーム)
木の香りがほのかに残るロッジのダイニングルームに、朝の光が差し込んでいた。
窓の外では蝉が勢いよく鳴いているが、部屋の中は妙に静かだった。
テーブルの上には数枚のメモとアンケート用紙、録音レコーダー。
白いマグカップからは、まだ湯気が上がっている。
中村美和は、資料の束を揃えながら言った。
「この5日間で、203号室の周辺に住む12人に聞きました。」
玲はソファの背にもたれたまま、目を細めてその言葉を聞いた。
彼の指先では、スマホの録音アプリがゆっくりと停止された。
美和は言葉を区切りながら、少し息を整えて続けた。
「そのうち、9人が“その音を聞いた”と答えています。」
彼女が手渡した書類には、住民の名前、年齢、部屋番号、回答の要約が記されていた。
“電子音のようなもの”
“女性の声が混じっていた気がする”
“夜中の2時近くだった”
そんな証言が、驚くほど一致していた。
「ただ、みんな“それ以上関わりたくない”って。『気のせい』で片付けてる人もいます。」
玲は資料をざっと目を通すと、ふっと笑った。
「9人。意外と多いな。無視できる数じゃない。」
テーブルの向かいには、凛が腰を下ろしていた。
彼女はノートPCを広げたまま、画面に映し出された203号室の間取り図に視線を落としている。
「レコーダーに入ってた“あの音声”……一致してる可能性、高いですね。」
玲は資料のひとつを指でトントンと叩いた。
「……しかも、最初の苦情は4ヶ月前。
なのに管理会社は、“問題なし”で処理して終わってる。」
「はい。全件、『原因不明』で未処理でした。」
と、美和。
玲は静かに立ち上がると、窓の外に目をやった。
遠くの山の稜線に朝の靄がかかっている。
「“気のせい”にしてるうちはいい。
でもその音が──もし“誰かの声”だったとしたら?」
凛が顔を上げた。
「それ、録音されたものじゃなかったら……?」
玲は肩越しに振り向くと、いつものように少し口元を歪めて笑った。
「だったらこの事件、普通じゃ済まないな。
……“聞こえるはずのない声”が、そこにいたってことになる。」
その瞬間、静かなロッジの空気に、ふと冷たいものが混じった。
この“音の正体”を追うことが、彼らにとってどんな領域に足を踏み込むか──
それを理解しているのは、今のところ玲だけだった。
2025年8月2日(土) 午前9時25分
長野県・玲探偵事務所 ロッジ内・調査室
静けさに包まれた調査室。
カーテン越しの柔らかな光が、木目のテーブルに広がったマンションの図面を淡く照らしている。
玲は背筋を伸ばしたまま、右手の指先で203号室をなぞった。
その動きは、まるで地図の上に何かを“探る”かのように慎重だった。
「……203号室。ここだけ、妙に気配が薄い。」
小さくつぶやいた言葉に、椅子に座る凛が目を上げた。
彼女の膝の上には、音解析中のノートパソコン。
ヘッドホンのコードが、首元から揺れている。
玲は図面から顔を上げ、続けた。
「廊下の照明の位置、天井の高さ……何度も見に行ってるけど、あの部屋の前だけ光がこぼれにくい。
人の気配があっても、すぐに“消える”。まるで……そこだけ、時間の流れが違うみたいなんだ。」
凛は軽く眉をひそめながら言った。
「照明が切れてるとかじゃなくて?」
「いや。LEDは生きてる。ルクスも図面通りのはずなのに、実際は薄暗い。」
玲の目が、図面上の203号室から少しだけずれた“壁の厚み”の表記に移った。
「なあ、ここ──壁の厚さ、内側から補強された跡がある。
普通の間取りじゃありえない構造だ。」
「隠し部屋……ですか?」
凛の問いに、玲は首を横に振った。
「それならもっと明確に“意図”があるはず。これは逆だ。“何かを封じた形跡”に見える。」
部屋の中で、かすかにロッジの床がきしむ音がした。
外では、風が木の枝を揺らしている。
玲は図面の上から手を離し、壁際のホワイトボードに近づいた。
マグネットで留められた住人リストの端に、赤ペンで「宮田征司」の名前が囲まれている。
「こいつが何をしてたかは、まだ掴めてない。だけど、“あの音”が出る構造を作ったのは間違いなく奴だ。」
「そして今、連絡先も、住民登録も、どこにも存在していない……」
凛がそう言うと、玲は一度だけ息を吸い込んで言った。
「この部屋は、“何かの記録装置”だった可能性がある。
それも、音を通じた……人格、記憶、あるいは……“存在そのもの”の再現。」
凛が無言のまま顔を上げる。
「何を再現したのか、誰を、何のために……それを掴まない限り、この事件は終わらない。」
玲の声は、静かだったが、その奥に潜む確信と焦燥が滲んでいた。
203号室は、ただの“部屋”ではない。
この事件の心臓部――“音が記録された場所”ではなく、“音に誰かが住んでいる場所”なのかもしれない。
部屋の時計が「9:26」を指していた。
2025年8月2日(土) 午後7時48分
長野県・柊ヶ丘マンション203号室前
マンションの廊下には、沈みかけた夕日の名残がわずかに残っていた。
空気は生温く、蝉の声もすでに遠のき、周囲の空気は静まり返っている。
その静寂を揺らすように、“それ”は今日もまた、始まっていた。
──ピッ……ピ……
《ねえ、聞こえる? ここにいる──》
──ピッ……ピ……
203号室の扉は、他のどの部屋の扉よりも静かに、そして不気味なほど“完璧”に閉ざされていた。
ドアノブは冷たく、覗き穴には曇りひとつない。だが、その内側では確実に“音”が生きている。
玲は、インターホンの上にそっと手をかざした。
その黒いスピーカーの格子から、わずかに“あの声”が滲み出している。
電子的なフィルターを通ったようなノイズ混じりの音。
だが、聞く者の耳に触れるその声には、なぜか“感情の尾”があった。
──まるで、誰かがそこに“居る”とでも言うように。
背後から、カツリ、と誰かの足音が聞こえた。
隣室の住人らしき男がエレベーターに向かう途中、ちらりと玲の姿を見て、足早に通り過ぎていく。
彼の顔に浮かんだのは、言葉にしづらい不安。恐れ。そして、干渉したくないという本能。
玲はその視線を感じながら、視線を扉に戻す。
インターホンから漏れる“それ”を、もう一度、深く聞いた。
──ピッ……ピ……
《ねえ、聞こえる? ここにいる──》
(この“声”……これは、ただの録音じゃない)
心の中で、確信にも似た直感が疼く。
言葉の間に漂う“空白”が、不自然すぎる。
普通の録音では拾えない“気配”が、その音の奥に残されている。
「この音が、誰のものなのか……まだ、誰も知らない。」
玲は小さく呟きながら、ポケットからレコーダーを取り出した。
再生中の音を、もう一度、精密に記録する。
それはただの作業ではない。
ここにいる“誰か”と、ようやく対話が始まるかもしれないから。
ふいに、廊下の蛍光灯がひとつだけ、かすかに瞬いた。
玲は気づかぬふりをしながら、耳を澄ませる。
音は、まだ続いている。
──ピッ……ピ……
《ねえ、聞こえる? ここにいる──》
2025年8月3日(日) 午前9時15分
長野県・柊ヶ丘マンション 管理事務所
曇り空の朝。湿気を含んだ風がマンションの周囲を吹き抜け、敷地内の低木を揺らしていた。
1階の一角にある管理事務所は、無機質な蛍光灯の明かりに照らされ、静まり返った空間の中で書類の紙音だけが小さく響いている。
玲はカウンターの前に立ち、住民苦情の記録簿を手に取っていた。
広げたファイルの中には、手書きと印刷が混ざった “異音報告書” の束が重なっている。
「佐藤さん、音の件で、最近住民から苦情が増えているそうですね。」
管理人の佐藤義信は、少し肩をすくめて眉をひそめた。
「ええ、まぁ……3月くらいまではせいぜい月に1件とかだったんですけど。5月に入ってから、急に増えましてね。」
彼は奥の棚から、やや古びた封筒型のファイルを取り出し、玲の前に差し出した。
「このファイルが、その記録です。“不定期な電子音”、とか、“壁越しに女性の声”って記述が目立ちます。」
玲はページをめくりながら、ふとペンを取り出し、ある欄に印をつけた。
「ここ、7月16日と20日で同じ表現があります。“8秒の繰り返し”。」
佐藤はやや驚いたようにうなずいた。
「……気づかれてましたか。そうなんです。音の長さまで同じってのは、ちょっと気味が悪くてね。」
佐藤は一瞬口を開きかけて、それを飲み込んだ。そして小声でこう言った。
「……正直なところ、203号室のこと、管理側でも話題に上ってるんです。前の入居者の退去が、少し……不自然だったんですよ。」
玲の目が鋭くなる。
「どう不自然に?」
佐藤は机の奥のファイルを引き出すと、一枚の退去届のコピーを見せた。
用紙は正式なフォーマットだが、「退去理由」の欄には二重線で消された文字の跡があった。
「“精神的圧迫”と最初に書かれてたんです。それを後から『転勤のため』に書き直して提出されました。」
玲は指先で用紙をなぞる。
「その前に“いた”のは、単身の若い女性ですね?」
「はい。名前は……たしか、東雲咲良さん。2024年の9月末に入居して、今年の4月に退去してます。」
玲はその名をメモ帳に記すと、カウンターの上の管理用電話に視線をやった。
「この記録、凛にも回しておきます。**音声ファイルの解析と、電波状況の再チェック。**それから……」
玲の声が低くなった。
「この“音”は、ただの迷惑行為じゃない。人の記憶や感情に入り込む“形のない侵入”。
……誰かが、再現してるんです。過去の“ある声”を。」
〈住民報告(抜粋)〉
2025年8月3日(日) 午前9時20分/長野県・柊ヶ丘マンション 管理事務所
玲はカウンター越しにファイルを広げ、静かにその記録に目を落とした。
その手元には、過去数ヶ月に渡る異音に関する苦情報告書が、時系列に並べられていた。
紙面の上で、乾いた声が響いた。
「……やっぱり、“4月末”からですね。最初の報告。」
佐藤管理人がうなずきながら指を差す。
⸻
・4月28日:202号室・中村美和様
「夜2時すぎに、“電子音”と“声のようなもの”が聞こえる。録音を試みたがノイズで不明瞭。」
玲は顎に手を添えてつぶやいた。
「最初に“声”を報告しているのが美和さんか……。しかも、録音を試みている。」
佐藤が少し身を乗り出す。
「中村さん、自分でも音を確かめようとしてたみたいで。
……部屋の壁にスマホを当てて、何度も録音してたそうですよ。住民の1人が見てます。」
⸻
・5月10日:204号室・黒川慶子様
「隣から壁越しに“機械音のようなもの”が断続的に聞こえる。不快。」
玲の指先が記録用紙をなぞった。
「“断続的”。つまり継続時間がある。音が長く続いていた証拠ですね。」
佐藤は少し顔をしかめて言った。
「黒川さんは神経質な方なんですが、それでもこの音には参ってるようで。
“睡眠導入剤を処方された”って、少し前におっしゃってました。」
⸻
・6月16日:201号室・内藤剛志様
「午前2時前後、“ピッ…ピ…”という高音が部屋中に響く。だが翌朝には消えている。」
玲の目が細くなった。
「ここで初めて、“部屋中に響く”という表現が出てくる。……つまり、スピーカー音ではない可能性がある。」
「……え? それって……」
「建物構造を通して、あるいは空間共振で“音が拡散してる”。
録音機や放送装置じゃなく、何かもっと……直接的な方法。」
玲は言いながら、手帳に図を描き始めた。
203号室を中心に、周囲の部屋を取り囲むように配置された「音の伝達経路」。
「この配置だと、“音源”は203号室の中央か、もしくは壁面裏に近い場所に限定される。」
彼女の視線が鋭くなった。
「そして時間。すべて“午前2時台”。……つまり、“誰かが意図的にその時間に流している”。
いや、あるいは、その時間だけ“再生される仕組み”が残っている……。」
佐藤の顔に、不安が浮かぶ。
「玲さん……それって、誰もいない部屋で“声”が流れ続けてるってことですか……?」
玲は無言でファイルを閉じると、短く返した。
「その“声”が、誰のものかを確かめる必要がある。
それと同時に、“あの部屋が何のために使われていたのか”も。」
2025年8月3日(日) 午前10時05分
長野県・柊ヶ丘マンション202号室前
玲は軽く息を整え、203号室のドアの隣、202号室のインターホンを押した。
ひと呼吸置かないうちに、カチッとロックの外れる音がして、扉が静かに開く。
中から現れたのは、淡いブルーのシャツを着た女性だった。
細い肩にかかった髪が、朝の光を受けてわずかに揺れている。
「こんにちは、玲さん。中村美和です。隣に住んでいます。」
彼女は少し緊張した様子で頭を下げた。
玲も軽く会釈を返す。
「お時間をいただいてすみません。少し、お話を伺えますか?」
「……はい。よろしければ中へどうぞ。」
⸻
2025年8月3日(日) 午前10時07分
長野県・柊ヶ丘マンション202号室・リビング
美和の案内で中に入った玲は、コンパクトに整えられたリビングを見渡した。
窓際には観葉植物がひとつ、静かに葉を広げている。
テーブルの上にはノートPCとICレコーダー、そしてメモ帳が置かれていた。
「録音してたんですね?」
玲が指したのは、小型のICレコーダーだった。
美和はうなずきながら、少し顔を曇らせた。
「ええ……最初に“あの音”を聞いたのは、4月の終わりごろ。
午前2時すぎ……ピッ、ピ……っていう音と一緒に、女の人の声みたいなのが聞こえて……。
録音してみたけど、変なノイズばかりで……聞き取れないんです。」
玲はICレコーダーをそっと手に取り、再生ボタンを押した。
スピーカーから、ノイズ混じりの電子音が微かに流れ始める。
──ピッ……ピ……ガ…リ…チチ……
《……こ……聞こ……──る?……》
玲は耳を澄ました。その音の背後に、何か“感情”のようなものが引っかかっている気がした。
「この声、感情が乗ってる。……人工音声には聞こえない。」
「わたしも、そう思ったんです。……ただの“機械音”なら、こんなに気持ち悪くない。」
美和の目が、一瞬揺れた。
「ごめんなさい。変な言い方かもしれませんけど……この“音”って、誰かがここにいて、何かを訴えてるような……そんな感じがして。」
玲は、その言葉にわずかに反応した。
「訴えてる……?」
「ええ。……“ここにいる”って言葉、最初は気のせいかと思ったけど、何度聞いても同じように聞こえるんです。」
玲はICレコーダーを止め、静かに立ち上がった。
「ありがとうございます、美和さん。……この“音”の正体、必ず突き止めます。」
そして、再び隣室──203号室の方へ目を向ける。
沈黙の中、扉の向こうから微かに――また、あの8秒間の“電子音”が始まった。
──ピッ……ピ……
《ねえ、聞こえる? ここにいる──》
2025年8月3日(日) 午前10時30分
長野県・柊ヶ丘マンション203号室
ドアの蝶番が軋むような音を立てて開いた。
玲と中村美和は、黙ってその中へ一歩ずつ踏み込んだ。
室内はわずかな外光がカーテンの隙間から射し込んでいるのみで、壁紙は少し色褪せ、床にはうっすらと埃が積もっていた。
家具らしい家具はなく、ただ、部屋の隅に置かれた古びたスタンドライトが一本、コードを垂らしたまま放置されている。
無人。
しかし、“気配”だけは、妙に生々しい。
玲は手にした小型の録音装置をしゃがんで設置し始めた。
その動作はまるで何かの儀式のように静かで丁寧だった。
「ここで流れているという音の、正確な波形を捉えれば――」
そう言いながら、録音装置の接続を終える。
「何か手掛かりがつかめるかもしれません。」
中村は部屋の中央に立ち尽くし、天井を見上げた。
「変なんです……この部屋に入ると、急に音が近くなる。昨日も、壁越しだったのに、ここでは“頭の中”に響くみたいで……」
玲がそれを聞きながら、床を指で軽く叩いた。
「音の響きが局所的すぎる。部屋全体に鳴っているわけじゃない。音源は……もっと限定的な場所にあるはずです。」
その時だった。
──ピッ……ピ……
《……聞こえる……聞こえる……ここにいる──》
録音装置のマイクが、小さく反応した。
波形がブレ、感知ランプが点滅する。
玲が即座に、波形モニターに目を走らせた。
「……今の波形、二重構造になってる。」
「二重構造?」
「表層の“電子音”の下に、別の……より人間的な音層がある。合成されているのか、それとも……“重なっている”だけなのかは、まだ分からない。」
中村の顔色が変わった。
「……まさか、それが“彼女”の声……?」
玲は小さくうなずいた。
「可能性はあります。ただし、“声”としての発音ではなく、“意識のパターン”が音に変換されたものかもしれない。」
美和は言葉を失い、部屋の中心に向かってもう一歩近づいた。
そのとき――
足元のフローリングの一枚が、かすかに沈んだ。
「……あれ?」
美和が足をどかすと、そこだけが微妙に軋む。明らかに周囲とは違う感触。
玲は床に膝をつき、指先でフローリングの隙間をなぞった。
「この板、外れるかもしれない。」
小さなツールでこじ開けると、板の下から黒く焼け焦げたような金属製の装置の残骸が現れた。
焼け跡には熱変形があり、コードは断ち切られたようにちぎれている。
「これが……第二の録音装置……?」
「たぶん……でもこれは、“壊された”痕跡がある。誰かが意図的に破壊しようとしたみたいです。」
玲はその焦げ跡を見つめたまま、眉をひそめた。
「ここにいた“彼女”は、音になって今も残っている。そして、誰かがそれを隠そうとした。」
床下から、静かに発せられるノイズの余韻が、部屋全体に滲むように広がっていた。
2025年8月3日(日) 午後2時15分
長野県・柊ヶ丘マンション管理事務所 応接室
室内には、冷房の微かな音だけが鳴っていた。
玲と中村美和は、整えられた応接セットのソファに腰を下ろし、軽く視線を交わす。
その間も、玲は手元の資料ファイルから203号室の履歴に目を通し続けていた。
そこに、コツコツという革靴の足音が廊下から近づく。
数秒後、扉がノックされ、丁寧に開かれた。
入ってきたのは、きっちりと仕立てられたグレーのスーツに身を包んだ中年男性だった。
短く刈られた髪は所々白く、額は広く、しかしその目は強く研ぎ澄まされていた。
「はじめまして。**柴崎洋一**と申します。事故物件調査士をしております。」
男は深く一礼した後、静かに椅子に腰を下ろす。
その所作には、一切の無駄がない。
「以前より、柊ヶ丘マンションには数回、特殊調査で入らせていただいております。ですが――」
柴崎は資料をテーブルに並べながら、言葉を切った。
「203号室に関しては、やや異常な記録が多く残っていましてね。」
玲が、すかさず言葉を継ぐ。
「“事故”とは分類されていない。ですが、住民の転居率が異常に高く、平均居住期間が2ヶ月を超えない。」
柴崎はうなずき、資料の一枚を抜き出す。
「はい。2009年以降、正確には14人が住み、14人が短期間で退去しています。
中には、心理的な異常を訴えて突然入院した方もいましたが、明確な事件や事故として記録されたものは、ひとつもありません。」
「それが“音”のせいだと考えていますか?」と中村。
柴崎は表情を変えず、言った。
「音――**“無形の侵入”**とも呼ばれる現象ですね。近年、都市部ではこの“音響的異常干渉”による心理的退去例が急増しています。
いわば、“音”が居住者の精神領域を侵す、目に見えない“出来事”です。」
玲の瞳が鋭くなる。
「この部屋の“音”は、偶然のノイズではない。人工的な意図を感じる。何かが埋め込まれていた……それも、かなり長い時間。」
柴崎は、手元の資料の中から2012年の修繕記録を示した。
「実は、10年以上前、この203号室で**“特殊な音響素材を用いた天井施工”**が行われています。施工業者は既に廃業し、詳細な目的は不明ですが……」
玲が眉をひそめる。
「音響素材……つまり、音を反響・保持・拡張するための施工。それが“音”を残し、今も誰かの記憶をなぞっている?」
柴崎は、小さくうなずいた。
「残響ではなく、“定着音”と呼ばれる現象です。条件が揃えば、音は空間に意識のような形で残る。
とくに、それが強い感情や出来事と結びついていれば、誰かの“痕跡”として、長くそこに留まる。」
そのとき、中村が震えた声で問いかけた。
「……それって……その“音”って、“誰かの魂”みたいなものなんですか……?」
柴崎は、言葉を選びながら答えた。
「科学的には説明が難しいですが……はい。“声”とは、記憶のかたちでもあるのです。」
玲が、椅子から静かに立ち上がった。
「――だったら、それを逆手に取って、“誰かの声”をもう一度再生してやる。」
その声は、203号室の暗闇に残された“誰か”へ向けた、明確な挑戦だった。
2025年8月4日(月) 午後4時00分
長野県・柊ヶ丘マンション203号室
部屋の中は、午後の光を遮る厚いカーテンのせいで、昼間とは思えないほど薄暗かった。
静けさが張り詰め、空気すら音を立てないように思えた。
柴崎洋一は、床の上に黒いケースを置くと、慎重な手つきで機材を取り出し始めた。
それは音響干渉計、周波数解析装置、電波スペクトラムスキャナ……まるで実験室のように複雑な機器が次々と並べられていく。
玲と中村美和は、入口近くからその様子を静かに見守っていた。
中村は一歩引いた位置で手帳を持ち、玲は壁にもたれかかりながら、じっと室内の空気に意識を集中させている。
柴崎は、壁際に設置した円盤型のセンサーの位置を確認しながら、静かに言った。
「……まずは、この部屋全体の音響特性を詳細に測定します。異常な反響や**局所的な音の“吸収”**があれば、通常の構造では説明がつきません。
加えて、微弱な電波の乱れも探る必要があります。こうした現象は、無意識に“何か”を記録してしまうケースがある。」
彼の声は、どこか学者のようでありながら、どこか告解のようでもあった。
機器の電源が入り、LEDの光が青から緑に切り替わる。
天井、壁、床からの反響を捉える高感度マイクが、無音の空間を“測る耳”として広がる。
「……この部屋、普通じゃありません。」
柴崎は、目を細めて室内を見渡した。
「音が歪んで戻ってくる。空間の一部に、反響しすぎている領域と、逆に音が消えるスポットが混在している。
それは設計上、あり得ないことです。誰かが意図して、音の“流れ”を操作していた可能性があります。」
玲が、床に広げた図面と照らし合わせながら訊いた。
「操作……つまり、音を“閉じ込める”目的で加工された?」
「ええ。“音の棺”と呼ばれる手法に近い。ある特定の周波数を、この部屋の構造に染み込ませ、維持させる。
その音が人間の知覚できる範囲であれば、“声”として浮かび上がることがある。」
中村美和が、恐る恐る問いかける。
「じゃあ……やっぱり、ここに残ってる“声”は……誰かの記憶なんですか……?」
柴崎はしばらく黙り、やがて静かにうなずいた。
「記憶か、あるいは――後悔の波長かもしれません。」
そのとき、設置したセンサーの一つが微かな異常波形を検出し、警告音を発した。
──ピ……ピ……
玲が即座に反応する。
「この音……!」
柴崎は機器の画面を確認し、低く呟いた。
「……“それ”だ。**この部屋に残された、唯一の“証言者”**だ。」
静寂の中、どこからともなく再びあの“声”が、空間のひだの奥から浮かび上がる。
──ピッ……ピ……
《ねえ、聞こえる? ここにいる──……》
だがその声は、前よりもほんの少しだけはっきりしていた。
まるで、誰かが聞き返してくれるのを、ずっと待っていたかのように。
玲は息を呑み、低く呟いた。
「……名乗れ。おまえは誰だ?」
その呼びかけが、沈黙を破る鍵となるかどうか――
その場の誰にも、まだわからなかった。
2025年8月4日(月) 午後5時18分
長野県・柊ヶ丘マンション203号室・床下収納
その瞬間、時間が止まったように感じられた。
床下収納の蓋がゆっくりと開かれると、隙間からこぼれ落ちるように湿気と埃のにおいが立ち昇った。
懐中電灯の白い光が差し込むと、そこに広がっていたのは――予想を超えた沈黙の証拠だった。
「……これは……」
柴崎洋一の声が、ほんのわずかに震える。
狭い床下スペースに、白骨化した人間の一部が静かに横たわっていた。
肩から上、そして肋骨の一部。右腕だけが不自然な方向にねじれて突き出し、骨と骨の間には、褪せた衣類の繊維片と、変色した金属片が引っかかっている。
中村美和は、思わず口元を押さえた。
それは明らかに、成人ではない――小柄な体格の骨だった。
玲は無言で膝をつき、手袋をはめながら周囲の土を慎重にかき分ける。
そして――その骨の下に、もうひとつの“存在”を見つけた。
「……何かある。」
土の中に埋もれていたのは、古びた黒いボイスレコーダーだった。
泥にまみれていたが、録音用のカセットは今なお挿入されたままになっていた。
その表面には、油性ペンで書かれた一言がかろうじて読み取れる。
《これをきいて ぼくをわすれないで》
柴崎が懐中電灯の光を下げ、静かに呟いた。
「……やはり、“音”はメッセージだったんだ。
この部屋で消された声が、まだ……生きていた。」
玲は黙ってボイスレコーダーを見つめる。
203号室に響いていた“8秒の音”――あれはきっと、この中にある“何か”と同じ波長だったのだ。
誰かが、ここに閉じ込められた声を残そうとした。
誰かが、それを消そうとした。
そして、声だけが消しきれずに、今日まで――。
「……この遺体、警察に通報を」中村が震える声で言いかけたとき、
玲は低く、しかしはっきりとした声で制した。
「……待って。今のままでは、“事故死”か“孤独死”として処理される可能性がある。」
「でも、遺体ですよ……?」
「そう。けどこれは、“痕跡を消された事件”の遺体だ。
だから私たちは、証拠を先に確保しておく必要がある。」
玲はボイスレコーダーを封入パックに収め、慎重に手に取った。
柴崎も頷く。「これが、あの異音の発信源か……。再生すれば、何か残っているはずです。」
部屋に、再び静寂が戻る。
けれどその静けさはもう“ただの静けさ”ではなかった。
誰かが残した声がそこにあり、誰かがそれを消そうとした形跡があり、
そして――それを、**今まさに“思い出そうとする者たち”**がいた。
203号室はもう、ただの部屋ではない。
2025年8月4日(月) 午後5時22分
長野県・柊ヶ岡マンション203号室・リビング
玲の声は驚くほど静かだった。だがその静けさの裏にあるものは、確信と覚悟だった。
「長野市、柊ヶ岡マンション203号室です。
床下収納から、白骨化した遺体と思われるものを発見しました。
現在、室内の安全は確保されていますが、早急な対応をお願いします。」
電話口のオペレーターは手際よく詳細を尋ね、玲も冷静に応じた。
「発見者は私たち三人。遺体には布の切れ端が一部付着しており、骨の状態から少なくとも数年以上が経過しているように見受けられます。現場には録音機器と古い布片が散在しており、他に危険な物は確認されていません。」
通報を終えると、玲はスマートフォンを伏せてテーブルに置いた。
沈黙が戻ってくる――しかしそれは先ほどまでの“空虚な沈黙”ではなく、事実の重みが沈み込んだ沈黙だった。
中村美和は、まるで自分の胸の中から何かが崩れ落ちていくような顔をしていた。
「玲さん……この部屋、もう誰もいないと思ってたのに……
ずっと、誰かが……ここにいたんですね……」
彼女の言葉は震えていた。玲はそっと視線を合わせると、やわらかく言った。
「ええ。でも、見つけることができた。まだ、ここで終わらせないために。」
柴崎洋一は窓辺から戻ってきた。
「警察が到着したら、まず全体の構造を説明しましょう。
床下収納の深さ、換気経路、断熱材の有無……
あと、録音機器が“なぜか作動状態だった”こと。これは重要です。」
玲も頷く。「あの機器、バッテリーはほぼ空だったのに、微かに音を拾っていた。
“ピッ……ピ……”という断続音。これは、ただのノイズじゃない。」
中村がハッと顔を上げる。「……それ、私が聞いた音と同じかも……
夜中の2時ごろ……何度も……」
そのとき、遠くからサイレンの音が小さく聞こえ始めた。
続けて、マンションの階下で複数の足音と、無線機の交信音が響き始める。
玲はリュックから手帳を取り出し、記録を開始する。
柴崎は録音機器の電源を切り、保護袋に封印した。
203号室の“静かな異音”の正体は、過去の声が、まだそこに在ったという証拠だった。
それは単なる騒音ではない。“助け”を求めて発され、やがて“封じられた声”になった――そう、誰かの最後の記憶。
玄関のドアをノックする音が響いた。
「警察です。通報を受けて来ました。」
玲は深く息を吸い、ドアに向かって歩き出した。
2025年8月4日(月) 午後5時41分
長野県・柊ヶ岡マンション203号室・リビング
チャイムの音が鳴った。
それは異常な静けさを切り裂くように、明確で鋭かった。
玲はすぐに立ち上がり、玄関へ向かった。
ドアスコープ越しに制服の警官が二人、そして少し離れた位置に私服の男がひとり、こちらを真っすぐ見つめていた。
玲がドアチェーンを外し、ドアを開ける。
「警察です」
「通報を受けて参りました、長野中央署・生活安全課の神谷です」
柔らかい口調の若い警官が敬礼しながら身分証を提示する。隣の警官も同様に続いた。
その後ろにいた私服の男は、無言で一歩前に出た。
無造作に開いたジャケットの内ポケットから、身分証をゆっくり取り出す。
「斎木と申します。捜査一課の刑事です」
玲は小さく頷いた。「どうぞ。こちらへ」
三人の警官がリビングへ入ると、そこには既に座っていた柴崎洋一と中村美和の姿があった。
白骨の発見現場である床下収納は、すでに周囲を簡易的に封鎖している。
斎木は一瞥で部屋の様子を把握し、低い声で訊ねた。
「発見状況を、時系列で教えてください。
あなたが通報者ですね?」
「はい」と玲は頷き、手帳を開いた。
「午後4時58分ごろ、床下収納の異常に気づき、
5時5分、扉を開けたところ、遺体の一部と思われる白骨を確認。
同16分、警察に通報。発見者は私、こちらの中村さん、そして……」
「柴崎洋一。事故物件調査の専門家です」
柴崎が補足し、斎木が眉をわずかに動かす。
「床下の骨は触っていません。位置も崩していない。発見時の状態を保っています」
神谷ともう一人の警官がうなずき、手早く現場周辺の撮影と記録を開始。
斎木は窓際に立ち、カーテンの隙間から外を確認した。
「……しかし、マンションの中で骨が見つかるとはな……。
この部屋、現在の契約者は?」
玲が応じた。「不在です。現在は管理会社が保持しており、空室の状態でした」
斎木が頷いたあと、真剣な表情で玲に向き直った。
「あなたは……探偵の玲さんですね。前に、別件でうちの所轄と協力してた記録がある。
今回も、“ただの異音調査”ではなかった、ということか」
「はい。異常音の発信源を調査しているうちに、床下収納の歪みに気づきました。
録音装置も設置済みで、そこから断続的な電子音を検出しています」
柴崎も続ける。「あの音……単なる家鳴りや電波ノイズではない。
周期が不自然で、どこか“意図”を感じさせる。録音データはSDカードに保存済みです」
斎木が小さく唸るように口を閉ざしたあと、端的に言った。
「よし。遺体が本物である以上、殺人、もしくは死体遺棄事件の可能性がある。
本日中に鑑識と監察医を入れる。まずは現場保存を最優先とする」
振り返って、部下に指示を出す。
「神谷、現場封鎖。203号室、出入り口とベランダまでを範囲に。
それと、202〜204号室の住人にも逐次聴取を始めてくれ」
「了解です」
玲は手帳を閉じ、斎木と目を合わせる。
「過去に、この部屋で失踪や異常死が記録されていた可能性は?」
斎木は眉をひそめ、腕を組んで短く答えた。
「……調べてみるが、“記録が消えていなければ”の話だな。
不自然に整理された物件台帳も多い。妙に空白の期間がある部屋もな」
玲の表情がわずかに強張る。
中村美和がそっと声を落とす。「あの……私、何年も前からこの部屋の音を聞いていて……
もしかして……ずっと、“ここ”にいたんでしょうか……この人……」
斎木はふと中村を見て、真剣な口調で言った。
「今はまだ、“誰”かは分からない。ただし、誰かがこの部屋に眠らせたのは確かだ。
我々が解明すべきなのは、なぜこの人は語ることなく、この床下に葬られたのか……」
部屋の空気が、再び静寂に満たされていく。
斎木は背広の内ポケットから小型の録音機を取り出し、スイッチを入れた。
「……斎木、捜査開始。長野市・柊ヶ岡マンション203号室にて、白骨遺体一体を発見。
現場の状況は——」
その声は、現実として、そして記録として、確かに残された。
2025年7月26日(土) 午後3時40分
長野県・柊ヶ岡マンション203号室
警察車両が二台、新たにマンション前へ滑り込むように停まった。
制服警官たちが小走りでエントランスに集まり、その後ろからスーツ姿の刑事たちが無言で続く。
炎天下に晒されたアスファルトの熱気を引き裂くように、彼らの靴音が冷たく響いた。
室内では、玲が玄関の内側で静かに待っていた。
ドアが開くと、すぐに白手袋をつけた鑑識員が入室。
一人は目で部屋全体を流し見ながら、床下収納の位置を確かめる。
「ご通報ありがとうございます。……こちら、発見者の方で?」
「はい。玲探偵事務所の玲です」
玲は淡々と答えながら、収納扉の前へ歩み寄る。
「この床下から、白骨と思われる遺体の一部が見えました。位置はそこ──開けた状態で維持しています。触れていません」
鑑識員が小さく頷き、腰を落として覗き込む。
ライトが差し込むと、湿気を帯びた空気の中に、確かに白く浮かび上がる骨の輪郭。
「確認。……これは、ほぼ間違いなく人骨です」
鑑識員が静かに言うと、部屋の空気が一段と冷え込んだ。
続いて入室した刑事の一人が玲の前に立ち、名刺を差し出す。
「長野中央署・捜査一課の藤島です。本件、私が指揮を執ります」
「玲です。どうぞ、必要な確認を」
藤島は無言で名刺を受け取り、部屋を見渡した。
髪は短く整えられ、眼光には警察官としての経験と慎重さが滲んでいる。
「この部屋は、現在誰も住んでいないと聞いています」
「はい。中村美和さんという女性の依頼で、異音調査を行っていた最中でした。
彼女は長年、203号室から“誰かが何かを訴えるような音”を聞き続けていたそうです」
玲はそう言って、横のソファに座る中村美和を視線で示した。
藤島は頷いた。「なるほど。“異音”からの発見か。……たしかに、少し珍しい切り口だな」
そして隣の柴崎洋一に目を向ける。
「こちらの方は?」
「事故物件調査の専門家、柴崎洋一さんです。音響と構造の分析のために同行していただいていました」
柴崎も軽く会釈をする。「骨があるとは、正直、想定していませんでしたが……異常な反響は確かにあった。壁や床が“誰か”の声を反射していたような、不自然な音です」
藤島は視線を戻し、静かに呟いた。
「……つまり、“誰かの声”が、まだこの部屋に残っていた可能性があるということだな」
一人の鑑識員が静かに言う。「記録用写真、撮影開始します」
部屋の空気は張り詰め、シャッター音だけが規則的に鳴る。
藤島は玲の横に立ち、床下を一瞥したあと、手帳を取り出す。
「玲さん。あなたがこの遺体を最初に発見した時刻と、そのときの状況をもう一度、時系列で聞かせてください。
そして、その“異音”が具体的にどのようなものだったかも──」
玲は一度だけ深く頷いた。
そして手帳を開き、はっきりとした口調で語り始める。
「午後3時15分ごろ、収納扉に微かな歪みを確認。……そして、開けたのが3時22分。
中には、遺体とみられる骨と、衣類の破片が──」
その記録は、この瞬間から警察の捜査記録として正式に開始された。
2025年7月26日(土) 午後3時57分
長野県・柊ヶ岡マンション203号室
ガラリ、と玄関の引き戸が開いた。
乾いたブーツの音が、静まり返った室内にゆっくりと近づいてくる。
「久しぶり。……相変わらず、変な現場にいるね、玲」
玲はまだ床下を覗き込んでいた姿勢のまま、わずかに肩を揺らし、しかし振り返らなかった。
「まさかお前が来るとはな、九条。……今回は警察からじゃなく、監察課直通か?」
背後で足音が止まり、かすかな笑い声が落ちる。
「鋭いね。そう、今回は“あちら”経由。身元不明の白骨化遺体、そして“前兆のある異音”。
……監察課が動くには、じゅうぶんな材料だったらしいよ」
玲がようやく身体を起こし、静かに立ち上がって振り返る。
そこにいたのは、黒のパンツスーツに身を包み、冷ややかな目をした女性──九条凛。
玲と同じく、“記憶の痕跡”を扱う異色のスペシャリスト。
警察内部の独立監察部門に属し、主に“記録に残らない異常”を追ってきた。
「今回の件、記憶にも記録にも残っていない可能性がある。
警察の捜査とは別に、私たちの手で“それ”がどうしてこの部屋に残ったかを確かめる必要があるの」
九条の声は淡々としていたが、その眼差しには緊張が宿っていた。
「“声がする部屋”。“助けて”と聞こえる床下。……そして発見された遺体。
これ、普通の殺人事件として片づけるには、素材が揃いすぎてるでしょ?」
玲は頷いた。「偶然としては、できすぎている。……誰かが、何かを“残そう”とした可能性がある」
九条は無言で足元の床下を一瞥し、ポケットから一枚のタブレット端末を取り出す。
画面には、十数年前に提出された失踪者リストが並んでいた。
「私たちが過去に見送った“記憶消去系”の対象、ひとり該当者がいる。
名前は、椎名結花。2009年に所在不明となり、2021年に“失踪の可能性あり”として記録再調査が打ち切られてる」
玲はその名前に一瞬だけ目を細めた。
「聞いたことがある。……あれは、たしか“誰にも記憶されなかった失踪”として、当時の報告書でも問題になっていた」
「そう。家族も、職場も、友人さえも“忘れてしまっていた”。
彼女の名前を覚えていたのは、偶然保管されていた旧区画の診療記録だけ。
そして──彼女の最後の居住先が、ここ。柊ヶ岡マンション203号室だった」
その瞬間、室内にいた柴崎洋一と中村美和も、静かに息を呑んだ。
「……つまり……」美和がぽつりとつぶやく。「この部屋で、結花さんは……」
玲が言葉を継ぐ。「……助けを呼んでいた。誰にも届かない声で。
そして、その声を“偶然”聞いたのがあなた、中村さんだった」
九条はわずかに顎を引き、玲に視線を戻す。
「私は、この床下の“記憶痕跡”を読み取るため、明日もう一度、正式な記憶探査処置を行うつもり。
御子柴か水無瀬の協力も要請中。……この声の正体を、きちんと掴むために」
玲は目を閉じて、静かに頷いた。
「分かった。……ここから先は、あんたの役目だな、九条」
室内は再び静寂に包まれた。
だが、そこにはもう、かつて漂っていた“ただの静けさ”はなかった。
声なき声が、ようやく誰かに届いたのだ。
2025年7月26日(土) 午後3時57分
長野県・柊ヶ岡マンション203号室
ガラリ──
開いた玄関扉の向こうから、コツ、コツと乾いたブーツの音が室内に響いた。
「久しぶり。……相変わらず、変な現場にいるね、玲」
低く抑えられた声は、かすかな笑みを含みながらもどこか冷たい。
玲は床下収納の開口部を覗き込んだまま、声の主に顔を向けず、淡々と返した。
「まさかお前が来るとはな、九条。……今回は警察経由じゃなく、監察課の直通か?」
「ええ」
そう答えながら、部屋に入ってきたのは九条凛。
黒いスーツにタブレット端末を抱え、肩までの髪をひとつに束ねた姿は、普段と変わらず隙のない印象だ。
「身元不明の白骨死体、しかも“音の記憶”が残っていたと聞けば……さすがにこちらの管轄よ。
記憶に痕跡が残っているなら、私たちの出番」
玲はゆっくりと立ち上がり、九条と向かい合った。
その視線の奥に、微かな警戒が浮かぶ。
「……何かを追ってきた顔だな。単なる連絡係ってわけじゃなさそうだ」
九条はわずかに口元を歪め、タブレットを玲に差し出す。
画面には、2011年に失踪届が出された人物の情報が表示されていた。
椎名結花/当時26歳/住所:長野市柊ヶ岡マンション203号室
届け出日:2011年9月/受理後1年で調査打ち切り/記録:行方不明扱い
「警察は“単なる失踪”として処理したけど、私たちは違うと見てた。
……そして、彼女の失踪直前に、この部屋に関する“記憶障害”が起きていた。周囲の証言、まるで夢でも見てたような内容ばかり。名前を忘れていた者も多かった」
玲は眉をわずかに動かし、視線を床下へ戻した。
「結花──その名、どこかで聞いた記憶がある。たしか“存在の痕跡が異様に薄れたケース”として、資料に上がってたな。……まさか、その彼女が」
九条は頷いた。
「DNA照合はこれからだけど、衣服の繊維、髪の色、骨格の特徴はすべて一致しそうよ。
問題は──なぜ、彼女の“助けて”という声が、今になって現れたのかってこと」
玲が口を開く前に、部屋の片隅にいた柴崎洋一が静かに口を挟んだ。
「……もしかすると、最近になって何か“封印されていた痕跡”が浮かび上がる条件が整ったのかもしれません。
音響の乱れ、異常な磁場反応、そしてこの部屋に住み始めた中村さんの感受性」
九条はその言葉を聞き、真剣な面持ちで頷く。
「彼女の“記憶の声”が誰かに届いたのは、十数年ぶり。
ならば……彼女の“存在”が、やっと再び世界に引き戻されようとしているのかもしれない」
玲は深く息を吸い、言った。
「……ならば、見届けるべきだろう。
忘れ去られ、記録からも消えかけていたひとりの女の、最後の叫びを──」
静かな室内に、三人の覚悟が滲んだ空気が流れた。
床下からの“助けて”という声は、もはやただの怪異ではない。
それは、忘却の底から這い上がろうとする真実の名残だった。
2025年7月26日(土) 午後4時19分
長野県・柊ヶ岡マンション203号室
「……あった」
九条凛の声が静かに室内に響いた。
彼女は床近くの壁に空いた小さな点検口に手を差し入れ、丁寧に配線の束をかき分けていた。
指先が何か硬いものに触れた瞬間、わずかに顔をしかめる。
引き抜いた手には、黒く焼け焦げたようなプラスチックの破片が握られていた。
玲が近づき、それに目を凝らす。
「これは……発火跡? 何か、機械の一部か?」
「ええ。記録装置、それも……監視カメラの小型モジュールと思われる。かなり旧式だけど、量産型の改造品。
おそらくこの壁内に“隠されて設置”されてたわ。正式な配線ルートを使っていないし、建設図にもない」
九条は破片の焼けた断面を観察しながら、冷静に続けた。
「焼損の形状と発火跡から見て……故意に破壊された可能性が高い。
中のデータチップは溶けてるけど……“記録されていた内容”を消したかった者がいるってこと」
玲は静かに頷いた。
「白骨遺体、記憶の声、そして監視装置の破壊。……誰かがこの部屋で起きたことを“意図的に隠そうとした”のは、ほぼ間違いない」
そのとき、後ろで作業していた鑑識員の一人が小さく声を上げた。
「……玲さん、九条さん。これ、見てもらえますか」
彼が示したのは、床下収納のすぐ脇、敷居の下から発見された細長い金属の片。
表面には、わずかに削れた文字のような刻印が残っていた。
玲が目を細めて読む。
「『P.M.-EX / Lot 42-B』……プロトタイプか、何かの管理番号?」
九条が息を呑むように低く言った。
「これ──見覚えがある。数年前に破棄された極秘記録補助ユニットのロットナンバーと一致してる。
本来なら、記録補助官の資格者だけが使用できる機器……。一体、なぜこんな場所に?」
玲の視線が鋭くなる。
「つまりこれは、“記憶そのもの”を抽出・保存していた痕跡ということか。
それも……非公式な手段で」
部屋に、冷たい空気が走った。
この203号室でかつて何が行われたのか。
そして、椎名結花という女性の存在が、なぜここまで抹消されていたのか──
玲が壁際に歩み寄り、ふと立ち止まった。
「……誰かが、ここを実験室として使っていた。
そして、彼女はその“記憶実験”の対象になった……違うか?」
九条は何も答えず、代わりにそっと目を閉じる。
その表情には、ある種の罪悪感すら漂っていた。
2025年7月26日(土) 午後6時03分
長野県・柊ヶ岡マンション203号室/玲の車内
車内にはエンジン音も、話し声もなかった。
ただ、ノートPCのスピーカーから流れる、かすかで不安定な音だけが静けさを破っていた。
黒いセダンの助手席で、九条凛は画面を睨むようにして、録音されたデータの再生に集中していた。
玲は運転席で無言のまま、肘掛けに腕を置いて目を閉じている。
再生された音声は、まるで“空気そのもの”がささやいているような、
どこか現実からズレたようなノイズに満ちていた。
そして──その中から、かすかな人の声が浮かび上がる。
「……あ……か、……こえ、てる……の……か」
女の声だった。弱々しく、でも必死に何かを訴えようとしている。
言葉は歪み、ノイズにかき消されているが、その“感情”だけは確かに届いてくる。
「これ、記録媒体の中に残されてた断片よ」
凛が低く言った。「音声ではなく、“記憶の残響”に近い。
あの黒焦げのユニットから、かろうじて拾えたデータのうちの一つ……」
玲は目を開け、ゆっくりと息を吐く。
「……椎名結花か」
凛は頷かず、だが否定もしなかった。
代わりに、もう一度再生ボタンを押した。
「……けさな、いで……ここに、いる……の……わたしは……」
そしてその声は、ふっと消えるように途切れた。
わずかに時間が流れたあと、玲が静かに呟いた。
「……これは、訴えだ。
記録された音声じゃない。彼女自身が“そこ”に残って、
今も誰かに届くのを待ってる」
凛の視線が画面から玲へと動いた。
「玲。……これ、記録破損じゃない可能性がある。
誰かが“記録そのものを上書きして、封じた”。それも専門的な手口で」
玲の表情が引き締まる。
「つまり、彼女の記憶は──意図的に、誰かの手で“封印された”。
それがただのデータ処理か、あるいは人為的な記憶干渉かは……まだ断定できないが」
そのとき、玲のスマートフォンが短く震えた。
画面には「御子柴理央」の名。
玲が応答すると、即座に理央の無機質な声が響いた。
「玲さん、急ぎ報告します。今朝までの柊ヶ岡203号室の所有記録が、“今この瞬間”に改ざんされました。
過去ログも完全に上書き。電子記録上、この部屋は“過去20年間、誰も住んでいなかった”ことになっています」
玲と凛が同時に顔を上げる。
「消されてる……いや、“再構成されてる”」
凛の声が低く鋭くなった。
玲はスマートフォンを持ち直し、言った。
「理央。K部門の情報解析にすぐ照会を。……“誰がログ改変を実行したか”を突き止めてくれ」
「了解。対象ログのリアルタイム監視を行います。
……そしてもうひとつ、気になる情報が。
この203号室、十年前にも一度だけ“似た記録抹消”が行われています。そのタイミング──」
理央の声が一瞬途切れた後、凛が先に呟いた。
「十年前……『倉庫事件』の直後か」
玲はその言葉に答えず、ただ前方の夕暮れに染まるマンションを見つめていた。
2025年7月26日(土) 午後6時22分
長野県・柊ヶ岡マンション・202号室(中村美和宅)
リビングの照明が低く灯る中、玲がテーブルの上にノートPCを置き、そのスピーカーから“例の音声”を再生した。
「……あ……か、……こえ、てる……の……か」
「……けさな、いで……ここに、いる……の……わたしは……」
歪んだノイズと、かすれるような声。
それは声というより、どこか“想いの残響”に近かった。
中村美和は、茶色のマグカップを手にしたまま動きを止め、唇をかすかに開いた。
ゆっくりと顔を上げ、玲のほうを見たが、その視線はどこか遠くをさまよっている。
「……ねえ、あの声って……」
彼女は声を絞り出すように言った。
指先がマグカップの縁をなぞるように動き、かすかに震えている。
「……この部屋にいた時、夜中……聞いたことがある気がするの。はっきりじゃない、でも……“呼ばれた”ような……そんな、変な感覚」
玲が視線を向けると、美和は自分でも信じられないように、小さく頭を振った。
「……あの夜、寝てたら……急に目が覚めたの。
寝室のドアが開いてて、リビングのほうから……声がした。“わたしを……忘れないで”って。女の人の声」
玲は何も言わず、ただ頷いた。
その背後で九条凛がメモを取りながら、美和の反応を静かに観察していた。
「その時は夢だと思った。疲れてたし……それに、他人に言ったらきっと変な人だと思われるから……」
美和の声が細くなる。
「でも、今の声を聞いて……思い出したの。あの時の感じと、全く同じ。
この部屋の……下の方から、聞こえてきたの。足元、床の奥の方から……」
沈黙が落ちた。
まるで、部屋そのものが記憶をたぐるように、空気が重くなる。
凛が静かに問う。
「中村さん。その“声”を聞いたのは、いつ頃の話ですか?」
美和は一瞬、思い出すように目を伏せた後──
「たぶん……去年の秋の終わり。
ちょうど、引っ越そうと思いはじめた頃……。あの夜が、きっかけだった」
玲が凛と目を合わせる。
凛が小さく頷きながら言った。
「なら、この“記憶の残響”は……事件の直後だけじゃなく、長期間にわたって、この部屋に残っていた可能性がある。
しかも、特定の条件で浮かび上がるように」
玲が低く呟く。
「……消されたはずの“声”が、まだここに残ってる。
思い出そうとする誰かの意志を、待ち続けているように」
そのとき、窓の外を──一台の黒い車が、ゆっくりと通り過ぎた。
凛がわずかに目を細める。
「……監視の線、あるわね。玲、次動くわよ。朱音の感覚を借りる」
玲が立ち上がった。
「中村さん、この部屋……数日間、我々が記憶解析と防犯管理のために一時使用してもいいですか?
もしよければ、しばらく別の場所でお休みください」
美和は戸惑いながらも頷いた。
「……ええ。もう……正直、ここにいるのが怖いから……。お願い、します」
玲は小さく礼をし、凛とともに立ち上がった。
次の一手が、封じられた記憶の扉を開く鍵になる──
二人の表情には、既に次の展開への覚悟が浮かんでいた。
2025年7月26日(土) 午後6時40分
長野県・柊ヶ岡マンション203号室
玄関のドアが、静かに開かれた。
夕方の光が傾きはじめ、部屋の奥へと淡く差し込んでいる。
柔らかな足音とともに、佐々木朱音がそっと中へ入ってきた。
玲と凛は言葉を発せず、朱音の後ろに控える。
朱音は手に何も持たず、目も伏せたまま。
そのままリビングの中央で立ち止まり、深く息を吸い込んだ。
静寂。
時計の針の音さえ止まったような、息を詰めた時間。
朱音のまつげが、わずかに揺れる。
「……ここ、じゃない。もう少し奥……」
彼女は靴を脱いで、素足のままリビングを横切る。
床下の開口部へは目もくれず、その手前でしゃがみ込み、床にそっと手のひらをあてる。
「……あったかい。空気じゃなくて……なにか、声がずっと残ってる」
朱音の手が震え、唇がかすかに開いた。
「……わたしは……ここにいた。わたしは、見てた。……ずっと、床の下から、上を……」
玲が一歩、近づく。
「朱音。何が見える?」
朱音は目を閉じた。
その瞬間、部屋の空気がひんやりと沈む。
「男の人が……大声を出してる。女の人に向かって……“黙れ”って……
女の人は泣いてる。……でも、声を出してなくて……声にならないまま……」
凛が低く息を呑んだ。
朱音の指先が、床をなぞるように動く。
「──最後に、その人……“あかりを、消された”って言った。
光じゃなくて……自分の、存在の“あかり”を……」
朱音がゆっくり目を開けた。
大きく瞳が揺れている。
「この部屋、いまも“その人”がここにいるの。
待ってる。たぶん、忘れられるのが怖くて。
でも……声に出せない。身体が、なくなっちゃってるから……」
玲が静かに頷く。
「ありがとう、朱音。十分だ」
朱音はふらりと立ち上がったが、軽くよろめいた。
玲が素早く支え、彼女を壁際の椅子に座らせる。
凛がノートを閉じ、低く呟く。
「残留意識の密度、思ったより濃い。
この部屋……事件の“核心”そのものかもしれない。
単なる遺棄じゃない。ここが“舞台”だった」
玲の表情が硬くなる。
「となれば、ここで何が起きたのか──記録と記憶を両方、照合する必要がある。
K部門の理央に回す。上書きされた履歴を掘り起こしてもらう」
凛が短く頷いた。
そして朱音は、小さく呟くように言った。
「“ここ”が見つけてほしかったのかも。……いままで、ずっと……誰にも気づかれなくて」
玲は言葉を返さず、ただ朱音の肩に手を添えた。
部屋が、何かを伝えようとしている。
それは、遠く切実な祈りのように、静かに響いていた。
2025年7月26日(土) 午後7時20分
長野県・柊ヶ岡マンション203号室/リビング
朱音は静かにスケッチブックを広げていた。
白紙の中央に鉛筆がすべり出す。
何度もなぞる輪郭線。かすれながら、やがて一人の女性の顔が浮かび上がる。
玲と凛はそれを横から見守っていた。
部屋には誰も声を出さない。音が消えたように、静まり返っている。
朱音の手が止まる。
「……この人。床の下にいた“人”じゃない。
でも、ずっとそばで泣いてた。……“ごめんね”って……何度も何度も……」
描かれたのは、若い女性。
肩までの髪、ふわりと広がったまつげ、やや伏し目がちの優しい目元。
凛が眉をひそめる。
「……どこかで見たような……」
玲が手元の端末でファイルを開いた。
凛と共有していた“過去の入居者記録”、失踪者リストの中から一枚の顔写真を取り出す。
──杉原 梓
6年前に「柊ヶ岡マンション203号室」に短期入居した後、行方不明となっていた女性。
当時28歳。最後の目撃情報は、近隣の小児科での勤務記録。
玲がその写真を朱音に見せる。
「この人……?」
朱音はゆっくり頷いた。
「……そう。この人。“もう見つけないで”って……言ってた。でも……
ほんとは見つけてほしいの。“声にしてくれてありがとう”って、聞こえたの」
凛が即座に端末を操作し、データベースの照合に入る。
「杉原梓……彼女の失踪、当時“自主的失踪”扱いにされてる。
ただ、その後家族が“遺留品”を処分してくれと頼まれたって記録もある。……怪しいな」
玲が絵と写真を見比べながら、低くつぶやく。
「杉原梓が泣いていたというなら──
床下にあった遺体は、彼女“ではない”ということだ」
凛も頷く。
「そして彼女は“見ていた”立場だった。あるいは……巻き込まれた“共犯”か、証人か。
“あかりを消された”という言葉と合わせると……これは心理的拘束による支配が関わってる」
朱音がぽつりと続ける。
「その人はね、叫んでた。“あの子だけは、助けて”って。
──たぶん、ずっと守ってきた人がいたんだと思う。
でも……守れなかった。だから、ここに残ってる」
玲が静かに立ち上がる。
「……杉原梓の家族、当時の職場、交友関係を洗う。
この部屋の“主”だった人間が、誰かを殺した。
そしてその“声”だけが、朱音に届いた──ならば、それはもう証言だ」
凛が端末をパタンと閉じ、短く応じた。
「K部門の御子柴に記録照合依頼を出す。映像、音声、当時の周囲の住民の証言ログも洗わせる。
“事件”としては未登録でも、証拠が揃えば立件は可能だ」
朱音は小さく、微笑んだ。
「声を残した人、よかった。ちゃんと、見つけてもらえるんだね」
玲は朱音の肩にそっと手を置いた。
「──ああ。君の声が、誰かの“沈黙”を救ったんだ」
2025年7月26日(土) 午後8時15分
長野県・柊ヶ岡マンション203号室/リビング
朱音は、また黙ってスケッチブックをめくっていた。
先ほど描いた「女性の顔」とは別に、数ページ先で手が止まる。
彼女の指が触れたのは──部屋の“内部”だった。
「ねえ、これ……この部屋だよね?」
と、朱音が玲に向かってページを広げた。
鉛筆で丁寧に描かれた、ひとつのリビングルーム。
朱音特有の淡いタッチで、奥の壁や天井の形状、窓の位置までが細かく描写されている。
だが──その絵の中に、現在この部屋には存在しないものが、いくつか含まれていた。
「……この棚……見たことないな」
玲が身を乗り出して絵をのぞき込み、ふと声を落とした。
凛も背後から目を細めて絵を眺め、端末の記録と照らし合わせる。
「この壁面、今は何もない。ただの白壁だ。だけど朱音の描いた絵には──」
「──大きな木製の食器棚が描かれてる。下段は扉付き、上は飾り棚。……それに、このソファも違う。今置かれているのは合皮のベージュだけど、絵では……」
「……赤い布張り、だね」
玲がつぶやく。
朱音は視線を下げたまま、ぽつりと言った。
「見えたの。……じゃなくて、見せられたのかもしれない。
あの女の人が、そこに座ってた。誰かをずっと見てたの。
たぶん……“あの子”のこと」
沈黙が落ちる。
玲は立ち上がり、もう一度部屋の隅を目で追った。
窓際、壁面、床のきしみ。どれも今は“空白”のような空間。
だが、朱音が描いた絵には──生活の“気配”があった。
「……この絵、間違いなく“この部屋”を描いている。構造は一致してる。
でも、家具が違う。つまりこれは──過去の室内の状態だ」
「誰かが住んでいた“頃”の記憶」
凛が応じるように言う。
玲は一歩、絵の中に近づくように立ち止まった。
「朱音。君が見たのは、事件の“前”か? “後”か?」
朱音は、ふと視線をあげ、玲の目を見つめる。
「──どっちも、だと思う。
最初は、泣いてた女の人。
でもそのあと、棚の上にあった写真立てを、誰かが……落として、割って、
……手が、震えてたの」
玲は視線を凛に投げた。凛はすでに動き出していた。
「壁に何か残ってる可能性がある。“照明焼け”や“ネジ穴”、あるいは床のくぼみ。
この部屋、再装飾されてる。表面だけ──都合よく、記憶を塗り替えるように」
朱音の絵は、過去の真実を写し取っていた。
今の空っぽの部屋ではわからない“かつてここにあった何か”が、
静かに絵の中で語り出している。
玲はそっとスケッチブックを閉じた。
「“見せられた記憶”だとしても、それは声と同じ。
証拠にはならなくても、導きにはなる。
……この部屋で、何かが起きた。確かに」
風が、窓の隙間を抜けて鳴った。
まるで、誰かの息づかいのように。
2025年7月26日(土)
午後8時45分/長野県・柊ヶ岡マンション203号室
鑑識の一人が、静かに手を止めた。
「……これ、見てください」
懐中ライトの光が、リビングの一角、白く塗り直された壁紙の隅を照らす。
その指先が示した箇所──わずかに“膨らんでいる”。
塗装の下に、何かを塗り重ねたような違和感。
「ここだけ二重塗装です。仕上げが雑ですね」
鑑識員が小型の剥離器具で壁紙の表面を少しずつ剥がす。
やがて、白い塗料の下から、赤黒い線がにじむように現れた。
「……文字か?」
「いえ、これは──“絵”ですね」
照明を強めると、そこには乱れたクレヨンのような線画が浮かび上がっていた。
小さな子どもの手によるものだろうか。人の顔のようなもの、そして“手を繋いだ誰か”。
「この左側……消されてる。上から何度も塗り潰されてるな」
玲が指を添え、凛がカメラで記録していく。
「ここ……右の人物、泣いてないか?」
凛の言葉に、朱音が小さく頷いた。
「さっき見えた女の人、こんな感じだった。……目が、黒くて……消えてるみたいだった」
玲が低くつぶやいた。
「……この絵、消された記憶の断片か」
そして、すぐさま凛が端末を操作し、物件の旧所有者記録を調べはじめた。
⸻
午後9時00分
「いた。……元オーナー、“室井周平”」
凛が端末の画面を玲に向ける。
「不動産登記では三年前までこの203号室を所有。
その後すぐに転売。売却理由は“金銭的事情”とされてるけど──」
凛がスライドさせた先には、警察の前歴記録が表示された。
「過去に複数の傷害事件。うち一件は“家庭内暴力”。
ただし被害届は取り下げ。相手の女性は、名前を伏せて地方に移住してる」
玲の目が細められた。
「その女性……もしかして──朱音が描いた、“あの人”?」
「調べてみる価値はある。……あと、見て」
凛が端末に表示した一枚の写真。
「これ、三年前のある事件──“行方不明女性”の自宅。
捜索当時の室内写真だけど……ここ、見て」
写真の片隅に映り込んだリビングのソファ。
赤い布張り。背もたれの左端に、小さな破れ目。
「朱音の絵に描かれてたのと──一致する」
玲は思わず、朱音のスケッチブックをもう一度開いた。
そこには、まったく同じ破れが再現されていた。
⸻
午後9時20分
静かな203号室の中、再び空気が凍ったようになった。
「この部屋、ただの転売物件じゃない。
かつて“何かを封じるため”に──表層だけ塗り直された空間だ」
玲の声に、誰も返事をしなかった。
朱音は黙って、もう一度ソファの絵を見つめる。
その瞳に、また遠くの“誰か”を追うような影が差していた。
「……まだ、ここにいるの」
朱音がぽつりと呟いた。
玲は静かに立ち上がり、凛に向かって言う。
「行こう。室井周平の足取りを追う。……“封じられた記憶”の先に、まだ何かある」
2025年7月27日(日) 午前11時25分/長野県・柊ヶ岡マンション202号室(中村美和宅)
リビングの柔らかな日差しが窓辺を照らす中、中村美和はソファの縁をぎゅっと握りしめていた。凛が静かに差し出した小型スピーカーから、繰り返される微かなカチカチ音が部屋に響く。
「聞き覚えがあるってだけで……正確な記憶じゃないと思います。でも、たしかに“この音”に心当たりがあります」
声には迷いとためらいが混ざり、彼女の瞳は遠くを見つめている。
「203号室から、よく音がしていました。ずっと、カチカチ……何かが回るような、まるでメトロノームのようなリズムで。何度も同じ音が繰り返されていて……うるさいというより、落ち着かない感じでした」
凛はうなずきながら、手元の録音機を軽く操作した。
「それは、室井周平の部屋で使われていた古い機械の音かもしれません。メトロノーム、あるいは時計のようなもの──過去の生活音が録音に混ざっている可能性があります」
美和は眉をひそめ、さらに言葉を探した。
「でも、その音は単なる生活音じゃない気がするんです。まるで、誰かの意志が込められているみたいで……私には、ずっとその音が“呼びかけ”のように聞こえていました」
凛は静かに美和の言葉を受け止めた。
「ありがとう。あなたの記憶はとても貴重です。これからも、何か思い出したら教えてください」
美和は小さくうなずき、録音機に耳を傾け続けた。
その瞳の奥には、失われた過去の扉を開こうとする決意が灯っていた。
2025年7月27日(日) 午後1時25分/長野県・柊ヶ岡マンション管理会社「桜野管理」応接室
応接室の薄暗い蛍光灯が紙の隙間をぼんやり照らす。
桜野管理の担当者である中年男性は、額に汗をにじませながら何度も書類のページをめくっていた。
「おかしいな……うちの記録では、確か一度だけ現地確認をしているはずなんですが……」
彼の声には焦りが滲んでいた。書類の束は管理会社の通常の運営記録や、入居者からの苦情対応履歴が混ざっている。玲は机の上に置かれたコピーを無言で見つめ、記録の矛盾を読み取ろうとしている。
「2023年の苦情対応履歴には確かに、騒音に関する連絡が一件だけある。しかし、その時の報告書には203号室の問題は特に記されていません。まるで記録が抜け落ちているか、意図的に消されたようにも見えます」
玲はじっとその紙面を凝視しながら、管理会社側の対応に不自然さを感じていた。
「現地確認が一度しかないのに、住民からは度重なる苦情が出ている。何か、隠されているのかもしれませんね」
担当者は唇を噛み、肩をすくめた。
「正直、うちも調査は不十分でした。最近の業務改善で記録管理を強化してはいるのですが……昔の記録は雑だった可能性があります」
玲は微かに口元を引き締め、言葉を続けた。
「この矛盾をもっと深く掘り下げましょう。何か手がかりが見つかるかもしれません」
応接室の静けさの中、二人の視線はまだ書類のページに吸い込まれていった。
この記録の闇が、事件の核心へと繋がることを誰もまだ知らなかった。
2025年7月27日(日) 午後1時30分/長野県・柊ヶ岡マンション管理会社「桜野管理」応接室
玲は、担当者から手渡された苦情対応記録のコピーを細かく読み込んだ。
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苦情対応履歴(一部抜粋)
•1月16日
203号室に関する「壁の振動音」の苦情が管理会社に寄せられる。
担当:加瀬。現地に赴くも住人不在のため確認できず、様子見と判断。
記録には「住人からの事情説明を待つ」とのコメントが添えられている。
•2月5日
「低音の機械音が深夜まで続く」という通報があったとされるが、対応記録は存在しない。
何らかの理由で処理がされなかった可能性が高い。
•3月19日
「人の声のような音が断続的に聞こえる」との通報が住民からあったという報告もあるが、対応記録は一切残っていない。
通報自体の事実確認もできない状態。
⸻
玲は顔をしかめ、重ねて担当者に問いかけた。
「これらの音に対して、管理会社はほとんど動いていない。特に2月と3月の件は、記録もなければ対応もなかったということか?」
担当者は苦しげに頷き、
「申し訳ありません。担当者間での引き継ぎミスか、意図的に隠蔽された可能性も否定できません」
玲は静かに答えた。
「それが事実ならば、このマンション内で起きていた異変はずっと放置されていたことになる。何かもっと重大なことが隠されている気がしますね」
管理会社側の曖昧な対応が、今後の調査をさらに難しくしていることを玲は痛感していた。
2025年7月27日(日) 午後3時40分/長野県・柊ヶ岡マンション203号室 内部
玲は壁の内側に回されたコードの痕跡を指で辿りながら、声を潜めて言った。
「……これ、確実に何かを外した痕だな。壁紙の継ぎ目が微妙に変色してる。釘跡の周辺だけ色が薄くなっている。」
凛は慎重に内視鏡のモニターを見つめ、静かに頷く。
「ただの配線じゃありません。配線が途中で切られているか、取り外されている可能性が高いです。何か機械を壁内に仕掛けていた形跡ですね。」
玲はゆっくりと壁から視線を離し、床に散らばる埃の中に目を落とした。
「誰かがここで何かを隠そうとしていた。だが、それが何なのか……。」
凛はモニターに映る配線の断片を指でなぞりながら呟いた。
「隠蔽工作か、それとも監視装置か。ここまでの痕跡は明らかに“誰かの意図”を示している。」
玲は硬く決意を秘めた声で言った。
「調べを進める必要がある。外された痕跡から目を逸らすことはできない。」
一拍置いて、彼は壁の内側をじっと見据えたまま続けた。
「いや――“呼び戻すための装置”だよ、凛。たぶん、“誰か”を」
凛の指が止まった。工具の動きも、呼吸も、次の瞬間には完全に静止する。
「……呼び戻す……?」
その言葉の重みが、空気を揺らす。
玲は静かに頷きながら言った。
「嫌がらせでも、ただの機械音でもない。これは“仕組まれた音”。誰かの記憶に、あるいは無意識に……何かを繰り返し刻みつけていたはずだ。」
凛はわずかに眉をひそめた。
「……誘導……音で、何かを誘発させる。感情、記憶、あるいは行動……それを意図的に“呼び戻す”。」
「その“音”を認識したのが中村美和だった。彼女が聞いたのは、ただのカチカチというリズムじゃない。“落ち着かない感じ”──つまり、無意識に作用していた可能性がある。」
凛は内視鏡の映像を静かに記録モードへと切り替えながら、低く呟いた。
「まるで、呼び鈴のように。繰り返し鳴らし続ければ、いずれ扉が開く……そんなふうに。」
玲は壁に手を当てながら、呟くように言った。
「……“扉”の先に、誰がいるか。それがわかるまで、ここはまだ終わらない。」
玲は無言のまま立ち上がり、203号室の窓越しに向かいの建物を見つめた。
そこには、ほんの数時間前まで彼らに“証言”していた――
中村美和(202号室)の部屋のカーテンが、風に揺れていた。
2025年7月27日(日) 午後4時12分/長野県・柊ヶ岡マンション 202号室
中村美和は、リビングのソファに座ったまま、両手のひらを重ねていた。
その指先はかすかに冷たく、無意識に組まれた手の力が、どこか頼りなく感じられた。
開け放した窓からは、午後の風が緩やかに入り込んでくる。
レースのカーテンがふわりと揺れ、ひとときの静けさが部屋の中を包んだ。
視線の先には、203号室。
つい先ほどまで、玲とその助手、九条凛が出入りしていた部屋だ。
警察車両はすでに引き上げたが、その室内では――まだ何かが、終わっていないような気配があった。
(……録音装置、だって)
美和は、心の奥でその言葉を反芻する。
玲たちの会話の一部が耳に残っていた。
壁の中、あるいは床の下、そんな場所に“何か”が埋められていたという話。
そして、それが“音を鳴らすためのもの”だったと聞いたとき──彼女の背筋には確かに、ひやりとしたものが走っていた。
(わたし……ほんとうは、知っていたのかな……)
胸の奥でざわめく不安。
それは「記憶」とは違う、「気づいていたかもしれない」という感覚。
ずっとあの部屋の方向から、誰かが「助けを求めていた」ような、そんな錯覚。
彼女は思わず、自分の両手を見下ろした。
見えない何かを掴もうとしていた手。
あるいは、掴まれていたのかもしれない。
「……赤い、ソファ……」
ぽつりと口にしたその言葉に、自分でハッとする。
ついさっき、朱音という少女が描いたという“203号室の絵”を見せられていた。
そこにあったのは、今の部屋のどこにも存在しないはずの、赤いソファ。
けれど──美和の脳裏には、確かにその“色”が残っていた。
まるで、遠い記憶の底から引き上げられたような、くすんだ、けれど鮮烈な赤。
(あの部屋で、あの色を──見たことがある……?)
小さな風鈴がカランと鳴った。
その音に、彼女は一瞬だけ目を閉じた。
だがその静けさの中に、確かにもうひとつの音が、微かに混じっていた。
──カチ、カチ、カチ……
再び、203号室の奥から。
それはまるで、誰かが時を刻むように。
あるいは──誰かを呼び戻すために。
2025年7月28日(月) 午後2時35分
場所:東京都・杉並区 廃アパート「鷺ノ台荘」105号室前
蝉の鳴き声が、重く空気を包む午後。
東京都杉並区の外れに佇む廃アパート「鷺ノ台荘」は、その場にそぐわないほど、時間の流れから取り残されていた。
陽に焼けたベージュの外壁は、ところどころ剥がれ、黒ずんだ木枠の窓にはガムテープが無造作に貼られている。通りに面したガラス戸はひびが入り、乾いた風がわずかに軋ませた。
その建物の一角、105号室の前に、玲は静かに立っていた。
「間違いない。宮田征司がこの部屋に短期間だけ住んでた。名義は“佐原隆司”──偽名だけどな。電気の使用履歴と、近隣の“苦情記録”が一致してる」
同行していた九条凛が、タブレットの画面を指でスクロールしながら言う。
玲は黙って頷くと、黒いジャケットのポケットに手を差し入れ、小さな鍵束のようなツールを取り出した。
「……どうする?鍵、無理にこじ開ける?」
「いや、開けるよ。音は立てたくない」
淡々と返した玲は、無駄のない動作で錠前に工具を当てる。
古びた鍵穴はほとんど抵抗なく、二度ほど金属音を響かせただけで外れた。
カチリ。音が止んだ瞬間、扉はわずかに軋んで開いた。
その向こうから流れ出したのは、乾いた木の匂いと、埃の混じった空気。
閉め切られていた室内には、陽の光がほとんど届かず、時間そのものが止まっていたようだった。
玲が先に足を踏み入れる。
薄暗い部屋の中、靴底が床板の埃を押しつぶす音だけが響く。
二間続きの和室。畳は変色し、壁紙はあちこちが剥がれかけていた。
「……住んでた、って感じじゃないな。荷物も生活感もない」
凛が静かに後ろから言った。
玲は無言で、窓際のカーテンをめくった。色褪せた布の向こう、格子窓の外には錆びた手すり。
そして、そこに──誰かがつけたような、丸く黒ずんだ染みがひとつ、残されていた。
「ここで何かが……“終わった”か、あるいは“始まった”」
玲はそう言いながら、部屋の中央、畳の一角にしゃがみ込む。畳の端が微かに浮いていることに気づいたのだ。
指先でそっと持ち上げると、その下には、断熱材の隙間に隠すようにして、ひとつの薄い封筒があった。
差出人も宛先もないまま、封は切られていない。
封筒を手に取った玲の表情が、わずかに動く。
彼の視線の先にあるのは、かつて“佐原隆司”を名乗った男が、この場所に残した「何か」の予感だった。
そしてその瞬間、部屋の隅に置かれていたコンセントから、カチ……という微かな音が鳴った。
まるで、誰かが録音装置の“スイッチ”を入れたかのように。
玲と凛は、同時に視線を交わす。
──これは、終わった部屋ではない。
いま、ここから“もう一度始まる”何かがある。
凛が驚いたように顔を上げた。
「……ループ音に“返答するような別の音”が重ねられてるって件……もしかして、この部屋に送られた音に、あっちで“返す”よう加工されたって可能性もあるってこと?」
玲は黙ったまま、再び畳の隙間を確認するように手を動かしながら、静かに頷いた。
「やっと、繋がってきたな」
立ち上がった玲の声は、低く、しかしどこか確信を帯びていた。
これまでバラバラだった音の断片――ノイズ、振動、断続的な声、録音装置の残響――それらがひとつの“仕組まれた応答の循環”として、輪を描き始めている。
「この“ループ”は片方向じゃない。こっちで発した信号に、別の場所から“返ってくる”ように設計されてた。音の交換。まるで……通信だな」
凛が息を飲む。「まさか、あれ全部“会話”だったってこと?」
玲はポケットからスマホを取り出し、画面を数回タップして通信アプリを立ち上げた。
通話先の名簿の中、一つの名前が強調表示された。
「副次音波解析スペシャリスト:鴻上」
玲の親指が迷いなくその名前を押す。
画面に接続マークが浮かび上がり、数秒後、コール音が始まった。
「……鴻上だ。何かあったか」
低く、少ししゃがれた声。音のプロフェッショナルに特有の、慎重な抑揚。
「お前にしか頼めない仕事だ、鴻上。副次音波の解析を急ぎたい。送るのは2件、1件目は長野で採取したループ音。2件目は、今さっきこの“部屋”で拾った反応音。……同期再生で“応答パターン”を検出できるか、見てほしい」
「……面白くなってきたな。いいだろう。即時着手する。サンプルはどこに?」
「クラウドに上げてある。権限は開放済み。凛が送信手続きを進める」
通話が終わると、玲は凛に目だけで合図を送った。
凛はすでに端末を操作しており、データ転送が始まっていた。
「……まさか、音を“返す”ために、わざわざ空き家を借りてまで装置を組んでたってわけ?」
「逆だよ、凛」
玲の視線が、薄暗い部屋の天井を見上げる。
「“誰かに返させる”ために、この部屋は使われてた。装置の目的は、音声の返答じゃない。“記憶”かもしれない、“感情”かもしれない……何かが、意図的に“応じる”よう、設定されていたんだ」
そして、玲は一歩部屋の中央へと進んだ。
そこにあるのは、ただの空き家ではなかった。
過去と現在を“音”でつなぎ、誰かの存在を呼び戻そうとする、“実験場”そのものだった。
2025年7月28日(月) 午後3時40分
場所:東京都杉並区・廃アパート「鷺ノ台荘」105号室
――古びた床板が、きしむ音を立てた。
午後の光が傾きはじめた頃、105号室の埃っぽい空気の中に、静かだが確かな緊張感が漂っていた。
「……この部屋、間違いなく“返事”をしてた側だな」
凛がそう呟いたのは、古い電源タップのコードを慎重に抜き取ったときだった。
タップ自体は安価な市販品だが、配線の接続部に異常な加工が施されている。絶縁用のチューブが二重に巻かれ、その内部からは極細の導線が“別回路”のように分岐していた。
「改造されてる……録音用でも、再生用でもない。これは……」
凛が言いかけた言葉を、玲が引き継いだ。
「“信号受信回路”だ。空間全体にわずかな音を拡散して、それに反応する何かを待っていた」
玲は壁際に立ち、古いクローゼットの内側に視線を移す。
そこには、かつて何かを強引に剥がしたような跡――石膏ボードの一部が不自然に削れていた。跡の中には、釘穴と粘着跡が残されており、そこに“薄型スピーカー”や“マイク”が取り付けられていた可能性が高い。
「こっち側の信号は、ループじゃない。単発の応答式……一種の“呼吸音”に似てる。入力があれば、それに反応して吐き出す」
「生きてるみたいだな」と、凛が小さく言う。
二人は無言のまま、室内に散乱していた断線したコード、折れたマイクロ端子、破れかけた遮音マットの切れ端などを集めていく。
いずれも旧式でありながら、極めて“特定の目的”をもって仕組まれていたことが分かる。
「玲……これ、ただの“音のやり取り”じゃない。周波数が奇妙に限定されてる。人間の耳には届かない帯域も含まれてるし、音圧のパターンが“ある種の感情刺激”に似てる。……共鳴させる気だったんじゃないか? 誰かの、記憶か、精神か、あるいは……人格そのものを」
玲は黙って、床の一点を見つめていた。
そこには、カーペットを剥がした下に刻まれた、“円形の焦げ跡”があった。直径およそ20センチ。中央が少し盛り上がり、黒ずんだ溶解痕がある。
「――この装置、音だけじゃないな。何か、もっと深いところに届くように、設計されていた」
風が窓の隙間から吹き抜け、部屋の埃をわずかに舞い上げた。
この部屋は“返事をしていた”。
だが、それは単なる会話ではない。
“向こう側”から届く微細な信号に対し、
“こちら側”が何を返していたのか――
その問いは、まだ解かれていないままだった。
玄関の引き戸が、きい、とわずかに音を立てて開いた。
その瞬間、廃アパートの湿った空気が微かに動いた。
「遅れてごめんなさい。ちょっとバスの時間、ずれちゃって……」
聞き覚えのある穏やかな声が、室内に差し込む午後の光のように柔らかく響いた。
淡い灰色のワンピースをまとい、白いハンドバッグを抱えた女性――佐々木昌代が、静かに部屋へと足を踏み入れた。
彼女の足元から、スリッパの控えめな音が床を伝って室内へと伸びていく。
どこか場違いなほど清潔で静かなその佇まいは、埃の積もる105号室の空気と不思議なコントラストを描いていた。
「久しぶりだな、昌代さん」
玲が手を止め、微かに頷く。
「こういう場所はあまり得意じゃないんだけど……あなたが呼んだってことは、何かあるんでしょう?」
昌代の声は相変わらず落ち着いていて、玲と凛の空気を和らげるような温度を持っていた。
だが彼女が一歩、ふた歩と室内へ踏み込むと、その空気が目に見えない形で“変わる”のがわかった。
まるで、部屋そのものが息を呑むように、音を失った。
昌代は何も言わず、ゆっくりと足を止めると、壁の一角――かつて録音装置が取り付けられていた場所に向かって、そっと指先を伸ばす。
目を閉じ、指先が空気をなぞるようにゆらりと動くと、わずかに眉が寄せられた。
「ここ、ずっと“誰か”が立っていた。……けれど、“人”じゃない。形はあって、でも空っぽ。まるで、抜け殻の影を繰り返し再生しているみたいな……そんな感じ」
凛が思わず息を呑む。
「空っぽの影……?」
昌代は目を開け、玲に静かに向き直った。
「この部屋、“記憶の残滓”を引き留めようとしてたわ。誰かの強烈な思念を、何度も何度も再生して……でも、肝心の“記憶の持ち主”はここにいなかった。いるのは、ただの『反響』だけ」
「つまり、信号の送信も、受信も、“本物”じゃない」
玲の言葉に、昌代は小さく頷いた。
「そう。ここはただの“中継点”。でも――」
彼女の視線が、床の中央にある黒い焦げ跡に向く。
「……一度だけ、“誰か”が来てる。強い怒りと、悲しみと……恐怖。たった一度、ものすごく短い時間だけど」
玲の目が鋭く光った。
「宮田征司……いや、“佐原隆司”が、この場所を“起点”にした理由がある」
昌代はそっと壁に手を添えた。古びた木の感触の向こうに、微かに響く鼓動のような気配。
部屋の空気は静かなまま、だが確かに、どこか別の“領域”と接している感覚があった。
「この部屋には、まだ……“呼びかけてるもの”が残ってる」
玲と凛は、無言で顔を見合わせた。
ここは、ただの廃アパートではない。
忘れられた部屋の中で、過去の“声”が、まだどこかに届こうとしている。
その手がかりが、今――昌代の指先に、ふたたび結ばれようとしていた。
——杉並区・メゾンひばり 202号室。
午後の光がレースのカーテン越しにさし込み、部屋の空気を淡く揺らしていた。
中村美和は、窓際に置かれた小さな棚の引き出しをぼんやりと開け、何かを探すように指を走らせていた。
探していた“理由”は、彼女自身にもはっきりとはわからない。ただ、ふと胸の奥で引っかかるものがあって──それが、手を動かすきっかけになっていた。
引き出しの奥から、指先が何か硬い感触に触れた。
「……これ……?」
埃をかぶったプラスチックのファイルケース。
半透明の表面に、小さく貼られたラベルシールが、年月にすり減って文字の一部がかすれていた。
ゆっくりと開けると、中には折れ曲がったA4の契約用紙と、簡易的な報酬明細、そして複数のプリントアウトされたメールのやりとりが入っていた。
数年前──大学時代の短期バイト。
中村美和の視線が、その社名に止まる。
「C-Log音声文字起こし事務所」
その文字を見た瞬間。
美和の体が、小さく震えた。
脳裏に、あの声がよみがえってくる。
録音された音声ではない。もっと直接的に、耳元に囁かれるような、生々しい質感を持った“男の声”。
「ねえ、“返事”って、音だけでできると思う?」
突然、その記憶が、“現在”に割り込んできた。
遠い過去に埋もれていたはずの、ある会話の断片。
美和は、思わず息を呑んだ。
(……これって、夢じゃなかったの?)
音声ファイルを聞き起こす業務──といっても、何を言っているのかすらわからない、奇妙な“ループ音”や“空白の音”を、延々と再生して、聞こえたままを書き出すだけの単純作業。
だが、その作業の最中、時折、ヘッドフォン越しに“誰かの声”が挟まることがあった。
他のスタッフは「気のせい」と一笑に付した。だが、美和だけは、はっきりと覚えていた。
まるで、こちらの作業に“応える”ように、ノイズの間から届いてくる“返事”のような囁き。
「……まさか……」
美和は震える手で、その契約書の裏をめくった。
そこに記された“音源提供者”の名──ふとした偶然のように記されていた仮名。
〈佐原 隆司〉
その名前を見た瞬間、心の奥が冷たく締めつけられた。
(聞いていた……わたし……ずっと、あの人の“返事”を……?)
崩れ落ちそうな現実の中で、美和の頭は静かに混乱していく。
彼女が知らずに携わっていた仕事は、ただの文字起こしではなかった。
あの音源──あの“返事”は、彼女の耳に届くように“仕組まれていた”のではないか。
部屋に、午後の陽射しがゆっくりと傾いていく。
その光のなかで、美和の手元の書類が、小さく震えていた。
彼女の記憶の奥底で、再び“声”が囁く。
「返事は、言葉じゃなくていいんだよ。音は、全部を繋げるからさ──」
——2025年7月28日(月) 午後4時10分
長野・柊ヶ岡マンション 202号室(中村美和宅)
中村美和は、ソファの前にしゃがみ込んだまま、古いファイルの間からこぼれ落ちたものを拾い上げた。
それは、小さなメモ帳だった。手のひらに収まるサイズで、表紙はすっかり色褪せ、角は丸く擦り切れていた。
彼女はそっと開いてみる。
中には、当時の自分が書いたと思しき、急いだような筆跡でぎっしりと文字が並んでいた。
【C-Log 案件記録】
彼女の心臓が、どくん、と一度大きく鳴る。
・2021/10/04案件No.74「反復音声」
・録音時間:8秒ループ×300ファイル
・備考:依頼者「M.S」音源提供形式=磁気テープ
「……これ……宮田……」
唇が震える。声が喉の奥から掠れたようにこぼれる。
「“M.S”って……宮田征司(Seiji)じゃない……?」
その瞬間、目の前の風景が揺らいだ気がした。
ただの記録、ただのバイトのメモ──そう思い込んでいたその内容が、突然、現在と直結する“証拠”のように重く圧し掛かってくる。
2021年。ちょうどあの年、美和は生活費の足しにと、週に数回、音声起こしの内職をしていた。
自宅で再生した“反復音声”の数々。
だが、そのとき既に、彼女は「おかしい」と感じていた。
ループされる音の隙間に、微かに混ざる“ノイズ”。そして、そのノイズが──時折、人の言葉のように聞こえたことを。
「返事って、音だけでできると思う?」
──あの声。耳元で囁かれるような男の声は、やはり幻聴ではなかった。
美和は震える指で、メモ帳のページを捲った。
だがそこから先は、白紙だった。
「なんで……あの時、もっとちゃんと残しておかなかったの……?」
呟いた声は、答えを求めることなく虚空に溶けた。
2021年10月。8秒ループの音声が、300本。
提供形式は“磁気テープ”。
今となっては時代遅れのその媒体が、逆に不気味なリアリティを添えていた。
依頼者の名は、「M.S」。
もしそれが、宮田征司だったとしたら──
彼は、四年前からすでに“返答の装置”を使った“何か”を始めていたことになる。
(あの時聞いた音……あれは、録音じゃない。“誰か”が応えてたんだ……)
美和の胸に、重く冷たい確信が広がっていく。
彼女は知らずに、その“やり取り”の片棒を担いでいた。
再生と記録。送信と受信。
それは単なる仕事ではなく、“意図された接続”だったのだ。
美和はそっと立ち上がった。
外の陽射しはもう傾きかけている。
窓辺に目をやると、遠くの203号室のドアが、風に揺れて小さく音を立てた。
まるで、誰かがそこに“返事”を求めているかのように──。
——2025年7月28日(月) 午後4時12分
東京都杉並区・廃アパート「鷺ノ台荘」105号室
埃っぽい静寂の中、かすかに風が入り込み、室内の古新聞がカサリと揺れた。
干からびたような空気は、まるで時間ごと封じ込められていたかのように、重く澱んでいる。
玄関をくぐった佐々木昌代は、そっと一歩、部屋の中央へ足を踏み入れた。
床板が軋み、木造の柱が静かに呻いた。
「……この部屋、まだ残ってるわね」
低く絞るような声だった。
誰にともなくそう呟くと、昌代は鞄から薄手の手袋を取り出し、淡い灰色のワンピースの袖をまくる。
彼女は“視る”者だ。
触れた空間に残る記憶、そこに刻まれた感情や痕跡を、肌で感じ取ることができる。
かつて、玲の依頼で幾度も事件に関わってきた。そのたびに、彼女の“感応”は確かな証となった。
「……誰かがここで、“呼んでた”。」
昌代は、壁際に設置されていた古びた電源タップへと近づき、そのコードの根元を指先でなぞった。
そこには、何度も抜き差しされた痕跡が残っていた。埃の積もり方が不自然に浅く、他の部分だけ色がわずかに違っている。
「送ってたのよ、音を。……ずっと繰り返し。“同じ音”を」
視線は空中の一点に定まっていた。
まるで、過去に鳴り響いたその音を、今まさに聴いているかのように。
「だけど──ある時期から、“返ってくるようになった”。この部屋は……“返事を受ける側”に変わったのよ」
沈黙が落ちた。
背後では、凛が固唾を飲みながらその言葉を聞いていた。
昌代の言うことは、一見すると非科学的だ。けれど、これまで彼女の感覚が“外れた”ことは一度もない。
「ただの音のやり取りじゃない……これは“記憶の共鳴”よ。誰かが、ここに“残ってる”。ちゃんと、意識が」
ゆっくりと壁に手を添えた昌代の表情が、一瞬だけ険しく歪む。
その瞳の奥に、何かを“視た”のだ。
「……この部屋は、呼んでいた。“あの子”を。……“戻ってこい”って。何度も、何度も」
「あの子?」と凛が訊き返した。
昌代は振り返らず、ただ静かに答えた。
「……“朱音”よ。あの子の記憶のどこかに、この音が刻まれてた。きっと……最初の接点は、もっと前にある」
風が窓の隙間から再び入り込み、レースのカーテンをふわりと揺らした。
部屋の空気が、少しだけ動いた気がした。
まるで──今もここで、誰かが“返事”を待っているかのように。
——2025年7月28日(月) 午後4時14分
東京都杉並区・廃アパート「鷺ノ台荘」105号室
「確認した」
そう言って、鴻上は手にした音響分析器のディスプレイを玲に向けた。
暗がりの中、機械の液晶が青白い光を放つ。そこには、いくつもの波形が細かく並んでいた。
「間違いない。203号室で記録された“ループ音”と、ここで検出された“副次音波”──重なってる」
玲は画面をじっと見つめ、顎に手を当てた。
波形は単純な繰り返しのようでいて、ある一点から微妙にズレが生じていた。
そのズレは規則的で、まるで“応答”のような構造を持っている。
「これは……単なるノイズじゃない。“加工された応答”か?」
鴻上は頷いた。
「もっと言えば、初期音に対して明確な“指向性”を持った音声応答。しかも、周波数帯を下げて、音として認識されにくいように処理されてる。普通の録音機器じゃ検出できないレベルだ」
その声を聞いて、壁際にしゃがみ込んでいた凛が小さくつぶやく。
「……送った音に、誰かが返してきた……いや、“返してくるように作られていた”……」
「その“誰か”が、宮田征司だとしたら?」玲が低く言った。
「あるいは、もっと別の存在かもしれない」と鴻上が続ける。「けど重要なのは、“この応答システム”は、意図的に設計されてるってことだ。……しかも、ここ105号室を“受信端末”にしてな」
その言葉に、部屋の空気が冷たく沈んだ。
音のやりとり。それは単なる録音と再生の関係ではない。
“意思”が介在し、“記憶”に触れる何かが、ここに仕組まれていた。
昌代が壁から手を離し、小さく首を振る。
「ここにはもう“人”の気配は残っていないわ。でも……音だけは、まだ“繋がってる”。……扉が開いたままなのよ」
玲は静かに頷いた。
「閉じなきゃな、その扉を」
そう言って、再びポケットからスマートデバイスを取り出し、K部門本部へと連絡を入れた。
「……解析レベルを引き上げる。音源の“起点”を特定しろ。この応答は、まだどこかと繋がってるはずだ」
かすかな残響が、床の隙間から微かに揺れた。
まるで、再び“呼びかけ”が始まるのを、どこかで待っているかのように──。
——2025年7月28日(月) 午後4時27分
東京都杉並区・廃アパート「鷺ノ台荘」105号室
昌代は、壁際に立ったままそっと目を閉じた。
その姿は、まるで空間そのものの“記憶”に耳を澄ませているかのようだった。
室内は、誰ひとり動かず、静まり返っていた。
鴻上が音響機器のスイッチを切ると、電子音も止まり、空気の張りつめた沈黙だけが広がる。
彼女の指先が、薄くひび割れた壁紙にそっと触れた。
その瞬間、ふっ、と部屋の空気が微かに変わった。
「……視えるわ……」
昌代の声は、細い糸のように宙に浮いた。
玲が静かに頷き、背後の凛も呼吸を止めるようにして見守る。
昌代のまぶたの裏に、色のない光景が浮かんでいた。
だだっ広い闇の中に、細いコードが何本も絡み合いながら、部屋の四隅に這っている。
その中心には、銀色のプレイヤーのような小さな機器。
だが、それは単なる再生装置ではない。記憶を、思考を、呼吸のリズムすら“音”として拾い、編み上げていくような“記録体”だ。
──誰かが、ここで“過ごしていた”。
足音。寝返り。独り言のような、意味のないつぶやき。
そのすべてが“音”として、この空間に染み付いていた。
そして……。
「……ねえ、“返事”って、音だけでできると思う?」
男の声が、ふいに部屋の中に満ちたように昌代の意識に流れ込んだ。
「“ことば”じゃない。鼓動とか、靴の音とか、咳払いみたいな“残響”だけで……人は“返せる”と思う?」
その声に、昌代は微かに顔をしかめた。
感情のない声。けれど、どこかで“応答を待っている”温度が、微かに伝わってくる。
「宮田……」
昌代は名を呼んだ。しかし、その声に応じる気配はない。
ただ、その記憶の残滓の中で、最後に響いたのは、録音された“無言”だった。
まるで、どこか別の場所にいる相手に、静かな“否”を伝えるように──。
昌代がそっと手を離した。
「……残ってるのは、“問い”だけ。彼は、答えを受け取ってない。……まだ待ってるのかもしれないわ、“音”の向こうで」
玲は黙っていた。
だがその瞳は、今やただの廃屋ではなく、“過去の回線”が眠る場所としてこの部屋を見ていた。
そして、その回線は、まだどこかに“繋がったまま”なのだ。
——2025年7月28日(月) 午後4時34分
東京都杉並区・廃アパート「鷺ノ台荘」105号室
静まり返った部屋の中、美和の声がゆっくりと空気を震わせた。
背後の薄明かりが、彼女の頬に影を落とし、口元の緊張を際立たせている。
「私、ひとつ……思い出したんです」
その声に、昌代が振り返り、玲がわずかに顎を上げた。
美和は両手を前で組んだまま、うつむくようにして言葉を続ける。
「大学生のとき、ある短期のバイトに入ったんです。“C-Log音声文字起こし事務所”ってとこで。案件の内容は、ループする短い音を文字起こしするだけの……単純な作業でした」
「それが、例の“反復音声”か」
玲の声は淡々としていたが、すでに思考は次の段階へ動いていた。
美和はこくりと頷く。
「録音時間は、確か……8秒くらいのループ。それが何百って。ひたすら再生して、“音の中に何かがあるか”ってチェックするように言われてました」
「何か、っていうのは?」と凛が尋ねる。
「最初は、“ノイズ”とか“音の欠け”って説明されてたんです。でも……何回か再生してるうちに、変なんです。……“音が変わる”気がした」
「変わる?」玲の眉がぴくりと動く。
美和は壁を見た。まるで、その奥にまだ“音”がいるかのように。
「再生の回数を重ねるごとに、同じ音なのに、すこしずつ“呼びかけに似てくる”っていうか……。で、ある日、依頼者が直接来たんです。メガネの細い男で、“M.S”ってイニシャルで登録されてました」
その名前に、玲がふと目を細めた。
「宮田征司……」
美和はゆっくりと頷く。
「彼……私にこう言ったんです。『音にはね、反応する“癖”がある人がいるんだよ』って。で……“君もそうかもしれない”って」
昌代の目が一瞬、静かに揺れた。
「それって……誘導」
「わかりません。でも……それからなんです。寝てても、どこかであの音がしてる気がして。気のせいって思ってたのに、今ここに来て……全部、繋がってしまった気がして」
玲は黙っていたが、目を伏せたまま思考を走らせていた。
“音を使った選別”
“音に反応する者を試す”
“返事を得られるかどうかを、試行していた”
「彼は……“相手”を探してたのかもしれないな」
美和が驚いたように顔を上げた。
「“返せる誰か”を」
玲の声は冷たく、だがどこか深いところに憐れみがあった。
「……それが、美和さん。君だった可能性もある」
部屋の奥、録音機器の残骸が、静かに沈黙を守っていた。
そして、その沈黙すら──誰かへの“問い”だったのかもしれない。
——2025年7月28日(月) 午後4時39分
東京都杉並区・廃アパート「鷺ノ台荘」105号室 収納裏
凛は狭い収納の奥にしゃがみ込み、壁の裏側を指差した。
「玲、これ見て」
玲が膝をつき、凛の指の先をじっと見つめる。
そこには、壁の内部に取り付けられた小型のデバイスが隠れていた。
黒いプラスチック製で、幾つもの細いコードが絡み合い、壁の隙間から伸びている。
「これ……録音装置の一部か?」玲が低く呟く。
凛は頷きながら内視鏡で撮影した映像をスマホに転送し、拡大表示した。
「コードの接続箇所も複雑に改変されている。誰かが意図的にここを隠そうとしていたのは間違いない」
玲は指先で装置の形状を確かめるように触れた。
「これが音の“返事”の仕掛けだとすれば……」
凛が言葉を継いだ。
「この部屋から送信されて、他の場所で“返答音”を作り出していた可能性がある。つまり双方向の通信装置だ」
玲は装置に視線を釘付けにし、覚悟を決めたように息を吐いた。
「ここから事件の真相に繋がる重要な手がかりが見つかるかもしれない」
「急いで解析班に連絡しよう」凛が言い、スマホを手に取った。
部屋の中に、微かな機械音がまだ残っているような気配が漂った。
その音は、どこか遠くの誰かからの“返答”を待っているかのように──静かに、しかし確かに。
——2025年7月28日(月) 午後4時45分
東京都杉並区・廃アパート「鷺ノ台荘」105号室
玲は収納裏の狭い空間で、壁に仕込まれた複雑な配線と装置の細部を見つめながら、眉をひそめた。
「……この構造、どう見ても単なる盗聴や遊びじゃない」
彼女はゆっくりと周囲を見渡し、声を潜める。
「音のループと“返答”機能、さらには複数の音響センサーと変調装置……」
「これだけの仕掛けを組むには専門的な知識が必要だ。しかも、ここにある装置は、情報の双方向通信を可能にしている」
凛が頷きながら言った。
「ただの音響妨害や嫌がらせの域を超えてる。誰かが遠隔で“呼び戻す”か、あるいは“誘発”するために設置したんだと思う」
玲は装置の一部に触れながら続けた。
「しかも、これだけ精密に隠されている。簡単には見つからないように細工しているし、定期的にメンテナンスもされていた可能性が高い」
「……誰か、ここで何かを隠し続けている」
その言葉に、部屋の静寂が一層重く感じられた。
遠くで小さな機械音がかすかに響き、まるでこれから起こる出来事の前触れのように思えた。
——2025年7月28日(月) 午後5時12分
東京都郊外・玲探偵事務所・地下資料室
薄暗い地下室に並べられたモニターと資料の山。その中心に立つ玲は、壁に貼られたマンションの配線図や音声解析のログを前にして、鋭い目つきで画面を見つめていた。
「……全部、つながり始めたな」
彼女の声は静かだが、その口調には確かな確信が込められている。
テーブルの上には、廃アパート「鷺ノ台荘」105号室の配線図、柊ヶ岡マンション203号室の壁裏に残されたコードの痕跡、そして中村美和が持っていた古いファイルのコピーが広がっている。
「宮田征司……偽名で使っていた佐原隆司という名前。彼がこの仕掛けの中心人物だ」
玲はログの一行一行を指でなぞるように読み上げる。
「C-Logの案件記録にも、2021年の時点で“反復音声”のループが多数記録されている。これが今回の“呼び戻し装置”の原型だ」
凛が隣で頷きながら答えた。
「でも、どうしてこんな装置を作ったのか? ただの盗聴目的じゃないよね」
玲はしばらく考え込み、やがて言葉を選ぶように口を開いた。
「音声を介して何かを呼び戻そうとしている。人の記憶か、もしくは“存在”そのものかもしれない……」
彼女は資料の中のメモを取り出し、改めて見つめる。
「これが鍵になる。ここまでの解析で、単なる物理的な音響トラップではなく、心理的な“誘引”装置として使われていることがほぼ確実だ」
玲は背筋を伸ばし、次の行動を決めたように言った。
「この謎を解明するためには、宮田征司と直接対峙しなければならない」
薄暗い地下室に、確かな決意の空気が満ちていった。
——2025年7月28日(月) 午後5時44分
都内某所・仮設検証室(玲探偵事務所隣接の防音スタジオ)
四角い部屋の中央には、大型スピーカーが二基設置され、壁面には反響を自在に調整できるパネルが並ぶ。モニターには波形が映し出され、鴻上直人が慎重に装置の調整を行っていた。
玲、凛、佐々木昌代、中村美和がそれぞれ席に着き、緊張した面持ちで音響環境を見守る。
「これが廃アパート105号室で検出されたループ音声と、その返答の音声の複合データです」
鴻上がリモコンを操作しながら説明した。
「5分間、この音声を再生します。壁の反射と周波数を現場に近い環境に合わせて調整しました。みなさん、何か変化や違和感を感じたら教えてください」
部屋が静まり返り、すぐに不気味な低音のループが流れ始めた。
——微かな機械音が繰り返され、次第に折り重なるように女性のささやく声が混ざっていく。
凛は目を細め、額に軽く手をあてて集中する。
昌代は呼吸を整え、わずかに眉をひそめた。
再生が続く中、玲は冷静にメモを取りながらも、音の層の複雑さに感嘆の色を隠せなかった。
「……音声は、単に繰り返されているだけではない。反響のタイミングと声の微妙な強弱で、受け手の脳波を誘導している可能性がある」
鴻上が頷く。
「ええ。特に特定の低周波が心理的な覚醒や潜在意識へのアクセスを促している。まるで“呼びかけ”のように設計されています」
美和が震える声で口を開く。
「これを聴いていると……なんだか昔の記憶や、遠い誰かの声が頭に浮かんでくるみたい……」
玲が優しく言葉をかける。
「大丈夫、みんなで解明しよう。ここでわかることは大きい」
音響が再び静まり、5分間の再生は終わった。部屋に張り詰めた緊張がゆっくりと緩んでいった。
日時:2025年7月28日(月) 午後6時10分
場所:玲探偵事務所・1階打ち合わせ室
室内は白い壁に囲まれ、中央には大きな白板が設置されている。玲がペンを握りながら、慎重にフローチャートを指し示した。
「まとめると──」
玲は声を落ち着けて話し始めた。
「1)宮田征司は、記憶の音響誘導実験を複数の物件で行っていた」
玲の指が白板の「宮田征司」と書かれた文字をなぞる。
「2)それは“特定の過去”を再現するものではなく、“架空の記憶”を他者に植え付ける試みだった」
「3)対象者には、既に似た経験や感情の下地があり、それに“音”が擬似記憶を上乗せする形で作用した」
「4)これにより“あったはずのない出来事”を、“忘れていた大切な記憶”として刷り込ませていた」
静かな部屋に、言葉の重みがゆっくりと染み渡る。
そのとき、佐々木昌代が肩越しにゆっくりと口を開いた。
「玲さん……この仕組みを利用すれば、意図的に“誰か”の記憶を操作し、人格や感情の根底まで変えることも可能よ」
言葉は軽いが、その含意は重かった。
「つまり……被害者だけでなく、加害者の側も“作られた記憶”に翻弄されているかもしれない」
玲は深く頷き、拳を軽く握り締めた。
「この事件は単なる殺人ではない。記憶の境界を揺るがす、極めて巧妙な心理戦だ」
昌代は目を伏せ、続けた。
「このまま放置すれば、真実は永遠に曖昧になり、誰もが“自分の記憶さえ疑う”世界になる……」
玲は静かに息を吸い込み、言葉に力を込めた。
「だからこそ、俺たちは“記憶の声”を聴き続けなければならない。真実の光を、必ずここに取り戻すために」
部屋の空気が締まり、彼らの決意が静かに刻まれた。
日時:2025年7月28日(月) 午後6時42分
場所:東京都杉並区・玲探偵事務所・地下検証室
地下検証室の薄暗い照明の中、壁一面のモニターが鮮明な波形を映し出していた。デジタル音響解析ツールがリアルタイムで変化する波形を描き出し、その複雑な模様が室内の静寂を際立たせている。
鴻上直人はモニターの前に立ち、眉間に深い皺を寄せながら、指先で波形の一部を指し示した。
「このノイズ……ただの“ループ”じゃない。返答になってる。明らかに。」
彼の声には、確信と驚きが混じっていた。
モニター上の波形は、単純な繰り返し音ではなく、微妙に変化する「呼応」のようなパターンを示している。いくつかの音の区切りに合わせて、別の音波が反応し、あたかも会話のキャッチボールをしているかのように波形が波打っていた。
玲と凛が鴻上の隣に立ち、画面を凝視する。
玲は言葉を慎重に選びながら言った。
「つまり……あの廃アパートの105号室に送られた音声が、何らかの方法で加工され、返答音声として“別の場所”で再生されている可能性があるということか」
凛も頷き、「しかも、この返答音は単なるエコーや偶然の反響じゃなく、意味を持っている可能性が高い」と続けた。
鴻上は解析ツールの設定を微調整しながら、「この波形から、返答音声に使われたのは録音の“複数層合成”技術だ。遠隔地で別々に録音された音を時間差で合成し、あたかも対話しているかのように聞かせることができる」
「では、この返答の声は誰が、どこで作り出しているのか……」玲が疑問を投げかけた。
「それが分かれば、この謎の音響ループの真相に近づける」鴻上は静かに答え、モニターの波形をじっと見つめ続けた。
部屋の空気がさらに引き締まり、誰もが緊張感に包まれたまま、解析が続いていくのだった。
日時:2025年7月28日(月) 午後7時15分
場所:東京都練馬区・旧・鷺ノ台荘跡地前
夕暮れの空が薄紫に染まる中、取り壊し目前の廃アパート跡地に立つ玲、鴻上、凛、そして佐々木昌代。風がわずかに吹き、雑草が揺れる。周囲には静寂が広がり、時折遠くの車の音がかすかに響くのみだった。
昌代はゆっくりと目を閉じ、深く呼吸を整える。静かにその場の空気を感じ取りながら、やがて口を開いた。
「……ここ、強い“気配”が残ってる。音じゃない、でも……音と連動して、誰かの“意識”が、しつこく漂ってる感じ」
その言葉は、風に乗って周囲の静けさに溶け込むように響いた。
玲はその言葉を聞き、跡地の地面を見つめながら呟く。
「この場所に刻まれた“記憶”が、ただの音響ループ以上の何かを伝えている……」
鴻上は手元の携帯端末で、先ほどまで解析していた音声データを再生しながら頷いた。
「昌代さんの言う通りだ。音声の中に含まれる微細な信号が、単なる音波ではなく、感情や意図を含んでいる可能性が高い」
凛は周囲を警戒しつつ、廃墟の壁の断片を指でなぞる。
「この“気配”は、誰かがこの場所に意図的に残したものかもしれない……何かを伝えたくて、消えきれないままここにある」
夕陽が最後の光を落とし、四人の影を長く伸ばした。
廃墟の闇の中に、誰かの“声なき声”がまだ漂い続けているかのようだった。
日時:2025年7月28日(月) 午後8時40分
場所:東京都練馬区・旧鷺ノ台荘・203号室跡地下空間
壁の一角が無理やり崩され、隠されていた地下の小さな保管スペースが露わになった。中に足を踏み入れると、湿気と埃の匂いが鼻をついた。薄暗い照明がかろうじて、朽ちた棚や古びた機器類の輪郭を浮かび上がらせている。
埃をまとった古い録音機器が、乱雑に積み重なっていた。年代物のテープデッキ、再生用アンプ、スピーカー……そして、薄暗い空間に響くかすかな電気音。
「これは……第二の装置、間違いないな」
鴻上直人が静かに言った。彼は手袋をはめ、慎重に機器を一つずつ取り外し、コードをポータブル端末に接続した。
「ここで間違いなく、あのループ音声の再生と操作が行われていた」
端末が起動し、高周波ノイズの中から微かな音声が浮かび上がる。
「……信号が強い……これ、録音だけじゃなくリアルタイムの操作も可能だったんだ」
玲が機器に近づき、薄暗い光の下で装置のスイッチ類を見つめる。
「ここであの“返答”音声が作られ、送り返されていたのか……」
空間に響く不気味なノイズが、まるで過去の“記憶”そのものを揺り起こすように、薄暗い地下室を満たしていった。
それは単なる廃墟の一室ではなく、巧妙に隠された“音の実験場”の核心だった。
終章:2025年7月28日(月) 午後10時23分
場所:杉並区・玲探偵事務所・屋上
夜風が涼しく頬を撫で、都会のざわめきが遠くに溶けていく。星空が静かに広がる屋上で、数人が肩を寄せ合い、長い一日の終わりを感じていた。
中村美和が小さく息を吐きながら、視線を夜空に向けてぽつりと言った。
「……あの時、聞こえた声……ただのノイズじゃなかったんだね……」
玲は柔らかく微笑んで、彼女の隣に立った。
「そうだ。あれは記憶の断片であり、意思の残響だった。単なる音の繰り返しじゃない。誰かの“返答”が確かにそこにあったんだ」
美和は少し驚いたように玲の顔を見つめる。
「でも、どうしてそんなことが……?」
玲は星を見上げ、遠くを見つめるように答えた。
「人の記憶と意識は、思っている以上に繊細で複雑なんだ。音のループに感情や想いが絡みつき、やがて“嘘の記憶”すら紡ぎ出してしまう。あの部屋は、まるで生きているかのように僕たちに語りかけていたんだよ」
しばらく静かな時間が流れ、誰もがそれぞれの思いに沈んだ。
やがて玲が軽く笑い、夜空に手をかざした。
「まだ解き明かせていない真実は多いけれど、今日はここまでだ。明日も、俺たちは歩き続ける」
美和はその言葉に小さく頷き、深く息を吸った。
星空の下で、彼らの新たな物語が静かに幕を開けていた。
後日談
2025年8月中旬
場所:都内各所・玲探偵事務所・ほか
玲は事務所のデスクに腰掛け、読みかけの本を静かに閉じた。窓から差し込む夏の午後の柔らかな光が部屋を満たし、背後では凛が手際よくコーヒーを淹れ、沙耶がそっとそれを受け取っている。
玲はゆっくりと息をつき、穏やかながらも深い思索の色を浮かべて口を開いた。
「結局のところ……“意識を音に封じる”って発想は、倫理よりも執着の産物だったな」
沙耶が静かに頷きながら答えた。
「誰かを忘れたくない、忘れられたくないという強い感情が、理性や倫理の枠を越えてしまったのかもしれないね」
凛はカップをテーブルに置き、少し微笑んで付け加えた。
「でも、その執着がこんなにも人を傷つけるなんて……。記憶と意識は繊細で、簡単に操れるものじゃないってこと、改めて思い知らされたよ」
玲は窓の外、遠くの街並みを見つめながら、決意を込めて言った。
「だからこそ、俺たちはこれからも“真実”を追い続けなければならない。人の心の奥底にあるものを守るために」
三人の間に静かな決意が満ち、コーヒーの香りと夏の空気が柔らかく溶け合っていた。
それぞれが過去と未来を見据え、また新たな一歩を踏み出すために動き出していた。
■ 凛
音響解析ファイルを一枚一枚、丁寧に並べ替えながら、凛は小さな声でつぶやいた。
「“音”って……結局、誰かに届かなければ意味がないんだよね」
彼女の目は淡く光を反射し、ファイルの隙間から覗く波形のグラフに視線を落とす。
「でも届いた瞬間、それは“記録”になる。消せない、確かな痕跡として……」
指先でそっとファイルの端を撫でるように触れながら、凛は静かに続けた。
「人の感情や意識も、音の波にのって残っていく。だからこそ、音は怖くもあるし、救いにもなる……」
その言葉には、今回の事件で見つめてきた“声なき声”の意味を深く噛みしめる思いが込められていた。
■ 鴻上直人
あの夜から数日後、鴻上は大学の講義室の前に立ち、深呼吸を一つした。
「“音は記憶を運ぶ器だ”──これは科学の根本だが、皆さんにはもう少し哲学的な視点を持ってほしい」
教壇のノートパソコンを操作しながら、彼は黒板に大きくこう書き込んだ。
「どこまでが“記録”で、どこからが“魂”なのか──」
教室の空気が一瞬、静まり返る。
鴻上は目を閉じ、事件で得た経験を思い返すように続けた。
「音は単なる波形以上のものを運ぶ。記憶や感情、時には意識の断片さえも……それが科学と心の交差点にある。」
学生たちは彼の言葉に引き込まれ、ただの音響解析を超えた「何か」を探る目で彼を見つめていた。
■ 昌代
サイコメトリーの記憶に疲れた日、昌代は久しぶりに朱音と共に街へ出た。
賑やかな商店街の一角、古びたベンチに並んで腰掛け、手にはそれぞれ冷たいソフトクリーム。
柔らかな夕暮れの光が二人を包み込む中、昌代は静かに語りかけた。
「……たまに視える“悲しいもの”ってね、消えないの。心の奥にずっと残るのよ。
でもね、それは決して凍りついたままじゃなくて……温め直せるものでもあるの。」
朱音が少しだけ顔を上げ、祖母の言葉をじっと聞いた。
「人が忘れない限り、悲しみも愛しい記憶も、生き続けるのよね。
だから、たとえ傷ついても、また誰かの温もりで癒されていくの。」
昌代の瞳にほんの少しの優しさが灯り、二人の間に柔らかな時間が流れた。
■ 中村美和
事件のあと、美和は心のどこかに引っかかるものを感じ、かつてのアルバイト先の小さな録音会社に連絡を入れた。
電話の向こうの担当者は驚きながらも、古い資料を丁寧に調べてくれた。
数週間後、手元に届いた束の書類をめくると、懐かしい名前が目に飛び込んだ。
「久保美琴……」
昔、一緒に作業をした同僚の名が、音声記録のリストに記されていた。
その名前の隣には、事件と関わりのありそうな古い録音記録の番号が並ぶ。
美和は胸の奥で、過去と今が静かにつながるのを感じていた。
「あの時、私たちは知らずに何かを残してしまったのかもしれない……」
彼女の目には決意の光が宿り、新たな謎解きの扉がゆっくりと開かれようとしていた。
■ 宮田征司
消息を絶っていた男、宮田征司。長い間、その行方は誰にも分からなかった。
しかし、鴻上の音響解析によって、驚くべき事実が明らかになった。
「彼は最近まで、自分自身の“声”を使って、意識の再構築を試みていた痕跡がある」
解析データには、微細な音声パターンと複雑なループが幾重にも重なり合い、まるで宮田自身が自分の存在を音の中に封じ込めようとしているかのようだった。
玲たちが追いかけていた記憶操作の先に、彼自身の深い執着が見え隠れする。
宮田は、どこか遠くで、自分を音の世界に閉じ込めながら、まだ戦い続けているのかもしれない。
その消息は不明ながらも、確かなのは、彼が“音”に残した痕跡が、真実への道しるべとなっていることだった。
【次回予告】
『風鈴の家の事件』
昭和十一年──
神崎探偵事務所の創設者・神崎辰一郎が、探偵として初めて名乗りを上げた事件。
それは、風鈴の音が絶えず響く一軒の古家から始まった。
東京・杉並の外れ、夏の終わり。
屋敷の女主人が密室で死を遂げた夜、誰もが聞いたのは「風鈴が逆に鳴った音」だった。
・密室の謎
・時間差で消えた足跡
・そして“記憶に残らない証言者”
辰一郎は、過去に縛られた家族の声なき記憶を手繰り、音の痕跡から真相に迫る。
そして時は流れ──
令和の世、孫の神崎玲が再びその屋敷跡に立つ。
祖父が遺した未完の手記とともに。
封印された原点の事件が、再び目を覚ます。
次章、『風鈴の家の事件』、開幕。
中村美和のあとがき
あの203号室で過ごした時間のことを、私は一生忘れないと思います。
最初はただの“異音”だと思っていたけれど、あの音には確かに意味があった。声にならない叫びが、誰かに届くように形を変えて、ずっとここに残っていたのだと……今ならわかります。
朱音ちゃんの目と手が、その声を“見せてくれた”。言葉ではなく、線や感覚で。私はただそれを見つめ、感じるしかできなかったけれど、それでも胸の奥で、救われた気持ちになりました。
私たちが知ることのできた真実は、ほんの一部かもしれません。だけど、助けを待ち続けていた子たちの存在を、忘れずに覚えていられること、それが何よりも大切だと思います。
もしもまた、同じように声なき声に気づいた人がいるなら、どうか耳を澄ませてほしい。小さな叫びが、世界の誰かに届くその瞬間を、見逃さないでほしいと願います。
中村美和




