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56話 影縫いの夜 ―消えた記憶と守る者たち―

れい

•年齢・職業:20代後半、探偵・諜報・潜入に精通

•性格・特徴:冷静沈着、鋭い洞察力と決断力を持つ。命の危険を顧みず、人々を守る覚悟がある

•役割:事件解決の中心人物。影縫いなど特殊技術を駆使して敵の動きを封じ、チームを統率

•関係性:朱音にとって兄のような存在。「妹的存在」として彼女を守る


朱音あかね

•年齢・立場:小学4年生、玲の妹的存在

•性格・特徴:無邪気で純粋、観察力に優れ、日常や事件をスケッチブックに記録

•役割:事件の目撃者・記録者として間接的に事件解明に貢献。精神的支柱としてチームに温かさを与える


沙耶さや

•立場:玲の協力者、感情的支柱

•特徴:鋭い直感を持ち、人間観察力で真実に迫る

•役割:事件現場での判断やチームメンバーの心理的サポート


服部紫苑しおん

•立場:服部家長老

•特徴:温厚で穏やか、経験豊富な指導者

•役割:影縫いの継承者として次世代の育成、チームの精神的支柱


成瀬由宇なるせ ゆう

•立場:影班・暗殺・潜入担当

•特徴:冷徹、動きは素早く正確

•役割:戦術・暗殺・狙撃回避のスペシャリスト


桐野詩乃きりの しの

•立場:影班・痕跡消去担当

•特徴:冷静、毒物処理や痕跡消去に長ける

•役割:現場での証拠管理、潜入サポート


安斎柾貴あんざい まさたか

•立場:影班・精神制圧担当

•特徴:高身長、筋肉質、冷静沈着

•役割:敵の精神的圧迫、監視や制圧


服部朧おぼろ

•立場:服部一族・偽装回収部隊の中核

•特徴:戦闘能力が高く、玲と朱音を最優先で守る

•役割:現場での痕跡回収・防御


服部霞かすみ

•立場:服部一族・偽装回収部隊

•特徴:EMPスキャナ操作など機械操作に精通

•役割:電子機器の制御・監視、影班支援


水無瀬透みなせ とおる

•立場:追跡スペシャリスト

•特徴:データ解析・位置情報復元に長ける

•役割:敵の痕跡追跡、実在の証拠抽出


御子柴理央みこしば りお

•立場:転送・データ解析担当

•特徴:冷静、精密な情報分析能力を持つ

•役割:敵の通信解析、データ追跡


鷲尾修二わしお しゅうじ

•立場:依頼主・影の権力者

•特徴:冷徹、権力と情報を掌握

•役割:裏で暗躍する政治・財界関係者


服部響ひびき

•立場:服部家・感知忍

•特徴:罠や結界の解除に長ける

•役割:潜入・守護、敵の障害除去


服部詠うた

•立場:服部家・音術忍

•特徴:笛を用いた音術による術・情報伝達

•役割:戦術サポート、朱音の心を落ち着かせる存在

冒頭

時間:深夜0時41分

場所:市内北端・柚希のマンション六階・ワンルーム


ディスプレイの光だけが、部屋の静けさを揺らしていた。


モニターに映るのは、スーツ姿の中年男。

顔にはモザイク、声は変調されている。

かすかに震える声が、薄闇の中へ滲んだ。


「選挙後、帳簿を修正しろと指示されたんです。直接じゃなく……秘書を通じて、ですが。

僕が見た帳簿には“あの建物”の名が載ってた……本来、予算に載るはずのない施設の維持費が……」


映像が一瞬、揺れた。

古い録画ファイル――通信状態が悪かったのか、それとも、“録るべきではない何か”が近くにいたのか。


葛城柚希は、再生を止めた。

空気が、一度に冷えたような感覚が背筋を走る。


手元には、厚めの封筒。

そこには領収書の写し、契約日と一致しない検査証、そして火災とされた現場の写真。


「これが……全部、偶然のはずがない」


呟く声は冷静だった。

だが、視線の奥にあるものは怒りと疲労――そして、決意。


彼女はひとりで調べた。

誰も信じず、誰にも頼らず、ただ証拠だけを積み上げてきた。


今夜、この資料を持って“ある人物”に会う約束がある。

名前は伏せられていた。ただ、連絡用の暗号化回線と、合流時間だけが送られてきた。


その人物は、こう言った。


「あんたが“真実を晒す覚悟”があるなら、守ってやるよ」


柚希は息を整え、録音機のデータをUSBへ複製する。

三つ用意し、三つとも別々の封筒に入れた。

一つは編集部へ。

一つは弁護士へ。

そして最後の一つは――今夜会う人物へ。


――その瞬間、部屋のチャイムが鳴った。


「……?」


時計を見る。

約束の時間まで、まだ五〇分以上ある。


胸の奥を、不穏な予感が締めつけた。

だが、インターホンには誰の姿もない。


映像の端――階段の奥が、揺れたように見えた。


(……誰かが、確認していた?)


柚希は無言で窓を閉め、灯りをすべて落とした。

カバンを肩に掛け、玄関の鍵に触れる前に、ひとつ深い息を吸い込む。


「……あと少し」


逃げるつもりはなかった。

この一歩の先に、“彼ら”と繋がる真実がある――その確信だけが、彼女を支えていた。


時間:深夜0時42分

場所:市内北端・柚希のマンション六階・ワンルーム


――その瞬間、部屋のチャイムが鳴った。


「……え?」

柚希はわずかに眉をひそめ、カバンを肩から下ろしたまま、音のした玄関へ視線を向ける。

モニターには誰の姿も映っていない。

だが、チャイムの音は確かに響いた。


(誰か……ここを見ていたの?)

彼女の心臓が一瞬、跳ね上がる。

薄暗い部屋の空気が、一層冷たく重く感じられた。


「こんな時間に、訪ねてくる人がいるはずない……」

小さく呟き、柚希は息を整えた。

そしてそっとドアチェーンを外し、鍵に手をかける。


その指先に、わずかに緊張が走った。

逃げるつもりはない――今夜、この一歩がすべての始まりになるのだから。


時間:深夜0時43分

場所:市内北端・柚希のマンション六階・ワンルーム


映っていたのは、黒い帽子を目深にかぶった男だった。

モニターの画面越しに、表情は読み取れない。

だが、目つきの鋭さだけは、確かに感じられた。


「……誰だ、あんた」

声は小さく、緊張を抑えるように呟く。


柚希は反射的に手元の鍵を握り直し、チェーンも急いで掛け直す。

肩越しにカバンをしっかり抱え込み、部屋の照明もすべて消した。


(侵入者……? いや、確認しているだけ……)

冷たい汗が背筋を伝う。

だが、逃げる選択肢は頭に浮かばなかった。

彼女の決意は、この一歩で決まっていた。


時間:深夜0時44分

場所:柚希のマンション六階・ワンルーム前廊下


同時に、廊下の奥で「ピッ」と電子錠の小さな音が鳴った。

瞬間、柚希の身体が一瞬硬直する。


(……今の音は……外から?)

カバンを抱き直し、足音を立てずに玄関に近づく。

目の前のドアの向こうで、再び静寂が戻ったかと思うと、わずかに冷たい風が隙間から流れ込む。


「……誰が……」

声はかすかに震え、だが怯えではなく、警戒の色が強く混じっていた。

柚希はゆっくりとドアノブに手をかけ、深呼吸をひとつ。

この先に待つ“相手”の存在を、確かめる覚悟を固めた。


時間:深夜0時45分

場所:柚希のマンション六階・ワンルーム玄関前


ドアが、「ガンッ」と激しく叩かれた。

衝撃が体に伝わり、柚希は思わず後ろへひるむ。


「……開けろ。葛城柚希」


低く響く声。男の声だが、抑えきれない苛立ちと焦燥が混じっていた。

柚希の手がドアノブに触れたまま止まる。

心臓が早鐘のように打ち、呼吸が浅くなる。


(……一体、何のために……?)

頭の中で冷静さを保とうとしながらも、胸の奥で警戒心がざわついた。

指先に力を込め、柚希はゆっくりとドアを押し返す準備を整えた。


時間:深夜0時46分

場所:柚希のマンション六階・ワンルーム玄関前


スマートフォンを手に取り、手早くロックを解除する。

指先が震えるが、迷わずメッセージアプリを開いた。


事前に送られていたコード番号を入力し、“ある連絡先”へ即座に通報する。


【緊急コード:17C-R】

【対象:葛城柚希 自宅。侵入の可能性あり】

【支援要請:直ちに】


送信ボタンを押すと、画面に小さな「送信完了」の文字が浮かんだ。

息を一度整え、柚希は再び玄関のドアに視線を戻す。

ドアの向こう、黒い帽子の影はまだ動かず、静かに待っている。


(……焦るな、落ち着け)

胸の奥で警戒心を研ぎ澄まし、柚希は手元のスマートフォンを握り直した。


時間:深夜0時47分

場所:柚希のマンション六階・玄関前


ドア越しに、低い声がねじ込まれるように響いた。


「時間がねぇんだよ……さっさと吐いてもらうぞ、女」


声は怒気を含みながらも、どこか追い詰められた者の焦りが混じっていた。

ドアに伝わる振動で、相手が拳を壁に叩きつけたことがわかる。


「中にいるのは分かってんだ。逃げられねぇぞ。開けろ」


柚希は息を潜める。

スマートフォンを握る指先が汗で滑りそうになるが、声を押し殺して気配を消し続けた。


(……支援が来るまで、耐えるしかない)


時間:深夜0時48分

場所:柚希のマンション六階・玄関前


柚希は静かに呼吸を整え、心拍の高まりを抑える。

視線を廊下の反対側、窓の外にある非常階段へと移した。


(ここからなら……屋外に出られる。音を立てずに逃げるなら、あそこしかない)


足元のカーペットの感触を確かめ、体を窓際へとそっと移動させる。

ドアの向こうからは、低く荒い呼吸と、何度も壁に拳を打つ音が微かに聞こえる。


「……行くしかない」


柚希の指先が窓の取っ手に触れ、ゆっくりと回す。

外気の冷たさが指先に伝わり、背筋に緊張が走る。


時間:深夜0時49分

場所:柚希のマンション六階・玄関前


その瞬間、通信越しの低い声が響いた。


「……ドアから離れろ」


柚希はハッと身を硬くし、思わず窓から目を離す。

声の主は画面越しではなく、無線の向こう――支援側の指示だった。


(成瀬……! もう来てくれているのか)


背筋に走る緊張を抑えつつ、柚希は指示通り身を低くし、窓際で息を潜めた。

廊下の奥から聞こえる足音と、低く唸る男の声が交錯する。


時間:深夜0時50分

場所:柚希のマンション六階・廊下


バシュッ!


鋭い銃声が廊下に響き渡った。

柚希の心臓が跳ねる。息を呑み、視線はわずかに揺れる影に釘付けになる。


「……成瀬……!?」


窓の外の非常階段越しに、闇に溶けた人物の一瞬の動きが見えた。

銃声に続く男の呻き声。反応は速く、冷静に、しかし確実に成瀬の射撃が命中したのだと、柚希の頭は理解する。


背後で電子錠が再び「ピッ」と音を立て、警報のような緊迫感が部屋を満たす。

柚希は手を固く握り、次の動きを待った。


時間:深夜0時52分

場所:柚希のマンション六階・室内


現れたのは、玲だった。


暗い部屋の中に立つ柚希と、廊下に倒れ込んだ侵入者を見比べるように、彼は一度だけ視線を横に動かした。


「間に合ったようですね」


その声は落ち着いていたが、空気を切るような冷静さと確信が含まれていた。

柚希はほっと息を吐き、肩の力を少しだけ抜く。

玲の存在が、今の危機を一瞬で覆したのだと理解しながらも、警戒はまだ解けない。


時間:深夜0時52分

場所:柚希のマンション六階・室内


現れたのは、玲だった。


暗い部屋の中に立つ柚希と、廊下に倒れ込んだ侵入者を見比べるように、彼は一度だけ視線を横に動かした。


「間に合ったようですね」


その声は落ち着いていたが、空気を切るような冷静さと確信が含まれていた。

柚希はほっと息を吐き、肩の力を少しだけ抜く。

玲の存在が、今の危機を一瞬で覆したのだと理解しながらも、警戒はまだ解けない。


時間:深夜0時53分

場所:柚希のマンション六階・室内


玲はゆっくりと廊下側から室内へ一歩踏み込み、倒れた男に視線を落としたあと、静かに柚希へ顔を向けた。

青白いモニター光が、彼の鋭い眼差しを一層際立たせている。


「あなたの命は、これでまた一つ“延命”されました」


淡々とした声だったが、その裏にある切迫した現実は隠しようもなかった。

柚希は無意識に握っていたUSBを強く握りしめる。


玲は続けて、低く静かに言った。


「……ただし、これで敵は“本気”であなたを狙ってくる」


その言葉が落ちた瞬間、室内に流れた沈黙は、先ほどの恐怖とは違う重さを持っていた。

柚希は小さく息を飲み、震える声で答えた。


「……覚悟は、もうできています」


玲は視線を外さずに頷いた。


「なら――ここから先は、私が必ず護ります。どんな相手であっても」


時間:深夜1時02分

場所:柚希のマンション六階・室内


柚希は胸の奥からせり上がってきた言葉を、逃がさないように押し出した。

震えはまだ指先に残っている。それでも――伝えなければいけないと思った。


「朱音ちゃん……私、あの子に……会ったことがあるんです。ずっと前に」


その名を口にした瞬間、玲の表情がわずかに揺れた。

しかし次の瞬間、彼はいつもの“感情を消した探偵の顔”に戻る。


「……いつの話ですか?」


低く抑えられた声。

問いかけというより――確認。

そして、何かを慎重に扱う者の声音だった。


柚希は小さく頷き、目を伏せながら続けた。


「あの倉庫がまだ閉鎖される前……取材で訪れたときです。外で、一人で、絵を描いていて……

あの子、私を見て……『ここ、こわいよ』って……」


玲はほんの短い沈黙のあと、窓の外を見た。

視線は夜の街へ向けられているのに、その奥には別の“影”を見ているようだった。


「……なるほど。あなたが狙われた理由が、一つ増えましたね」


柚希は息をのむ。


玲はゆっくりと柚希へ顔を戻し、低く告げた。


「朱音ちゃんの名前を口にした以上――あなたは、もう後戻りできない世界に足を踏み入れています」


時間:深夜1時05分

場所:柚希のマンション六階・室内


玲は懐から小型端末を取り出し、指先で素早く操作した。

画面には暗号化された指示入力画面。

その光が、彼の鋭い目を一瞬だけ青白く照らした。


「詩乃と安斎を。服部一族とも合流地点の再設定。……“完全防衛”の準備を」


淡々とした指示。

感情はない。しかし“切迫”だけが、言葉の端に滲んでいる。


端末から、暗い電子音が短く鳴った。

指令は送信され、すぐに“影班”は動き出すだろう。


柚希は息を呑んだまま、玲の背中を見る。

その肩には冷徹さが宿り、しかし同時に――彼女を守るという固い意思が滲んでいた。


「……完全防衛って……そこまで必要なんですか?」

かろうじて絞り出した声は、かすかに震えていた。


玲はゆっくりと振り返り、言葉を選ぶように告げる。


「ええ。あなたを狙った連中は、もう“引かない”。

 ここから先は、私たちも手加減できません」


そして、ほんの少しだけ柔らかく声を落とした。


「大丈夫です。――間に合わせますから」


時間:午後10時42分

場所:市内・繁華街中央通り


繁華街のネオンが、無数のガラス窓に反射しながらきらめいていた。

高層ビルの壁面を走る光の帯、店先の看板が放つ鮮やかな色、遠くを行き交う車のライト――

夜の街はまるで、絶えず脈打つ巨大な心臓のようだった。


そんな煌びやかな光の海の中、ひときわ細い影が歩いていた。

フードを深くかぶり、人混みに溶け込むようにして足早に進む女――葛城柚希。


「……ここまで来れば、尾行は振り切れたはず」


独り言のようなつぶやきが、喧騒にかき消される。

しかし彼女の指は、震えていた。

カバンの中には、例の“証拠一式”が入っている。


この街のどこかで、彼女を待つ協力者がいる。

けれど同時に、彼女を“消そう”と動く影もまた――確実に近づいていた。


――そのとき。


「止まれ。……そのまま、振り返るな」


背後からかすれる低い声が届いた。

まるで、夜のネオンの隙間から忍び込んできたような声。


柚希は凍りついた。

喉が一度つまる。


「……誰?」


答えは返らない。

代わりに、耳元すれすれを風が切った。


「左、ビルの陰。一人。――ついて来てる」


その声は、監視する者の冷静さを持っていた。


「……あなたは、味方?」


しばしの沈黙。


そして、小さく、しかし確かな言葉が落ちた。


「味方だよ。――今のところはな」


時間:午後10時44分

場所:繁華街から北へ2ブロック・監視車両内


「……落ちたな。映像フィード、完全遮断。3秒以上の空白あり」


低く押し殺した声が、暗い車内に響いた。

複数のモニターには、繁華街の映像が断片的に揺らめくだけで、中央のメイン画面は“静止ノイズ”を表示している。


「ジャマーじゃない。これは――“介入”だ。

 人為的な……高位のものだぞ」


椅子に深く腰をかけた男が、眼鏡の縁を押し上げながら淡々と言った。

彼の肌は青白く、モニターの光だけで生きているような雰囲気がある。


名は、御子柴理央。

“介入系統の専門家”――映像・記録・デジタル痕跡に対する外部操作を検出するスペシャリスト。


御子柴は再生を巻き戻し、指先で数フレーム単位の解析を続けた。

目は疲れたように見えながら、動きはどこまでも鋭く正確だ。


「……この歪み方。

 信号の途切れじゃない。割り込みで上書きして、視認可能な部分だけ消してある」


隣で画面を見ていた成瀬が眉をひそめる。


「……相当だな。こっちの監視網ごと“見下されてる”感じか」


御子柴は淡々と頷いた。


「うん。通常の妨害じゃ無理だ。

 これは“構造そのもの”を触った痕跡だ……内部のIDが、一時的に書き換えられてる」


「犯人は?」


御子柴はモニターを止め、揺らめくノイズを見つめた。


「一人、心当たりがある。

 ……“あの倉庫”に介入したのと、同じ手口だ」


成瀬の表情が、一瞬だけ緊張に染まる。


「……奴らが動き出した、ってことか」


御子柴は淡々と告げた。


「動き出したんじゃない。

 すでに、柚希さんの周囲を“覆っている”。

 本気で消すつもりなら……次の空白は、3秒じゃ済まないだろうね」


了解しました。時間・場所を明記し、小説形式で、セリフを詳細に入れて書き直します。線引きは入れません。



【時刻:22時41分/場所:東峰区・第五歩道橋】


「……来るなら、出てきなさいよ」


歩道橋の中央で、柚希はわざと通行人の少ない夜気へ声を投げた。

車のライトが下の道路を走り抜けるたび、彼女の影が細く揺れる。


その瞬間だった。


「……なにをしてるんだ、あなたは」


背後から冷たい声が刺さるように響き、柚希はびくりと肩を震わせた。


振り返る前に、玲がすでに彼女の手首を掴み、歩道橋の縁から一歩強引に引き離していた。

普段は動じない男の顔に、明らかな怒気が滲んでいる。


「ここがどれだけ“狙われやすい場所”かわかって言っているのか」


柚希が苦笑混じりに言い返そうとした。


「べ、別にそんなつもりじゃ――」


「黙れ」


玲の声がかぶさり、息が止まりそうなほど鋭かった。


「あなた、いま自分がどういう立場にいるのか本当に理解していないのか?

こんな開けた場所で大声を出す? ふざけるな。

“ここに獲物がいます”と敵に報告しているようなものだ」


柚希は思わず目を伏せる。


玲は続けた。声の熱は怒りというより、切羽詰まった焦燥に近かった。


「三十分前、監視カメラの映像に“介入”があった。

あなたの行動はすべて読まれている可能性が高い。

そんな状況で単独で堂々と立つなんて、自殺行為だ」


柚希は弱く息を吐いた。


「……心配してくれてるの?」


玲は一瞬だけ目を細めた。

怒気が少しだけ色を変える。


「心配? 当然だ。あなたは囮じゃない。

勝手に命を晒す真似は二度とするな。

……守りきれなくなるだろう」


柚希の胸がわずかに揺れた。

玲の言葉は、叱責の形をしていながら、どこか不器用な温度を帯びていた。


夜風が二人の間を吹き抜け、歩道橋の鉄骨を鳴らした。


【時刻:22時44分/場所:東峰区・第五歩道橋】


柚希のポケットの中で、スマホが震えた。

玲の手からそっと離れ、彼女は画面を覗き込む。


メッセージアプリに、見覚えのない番号から一通。


表示された文章は、まるで背中を冷水でなぞられるような嫌な静けさをまとっていた。


「“依頼主”が動いた。君は、これ以上の証言をするべきじゃない。

朱音という少女の名も……封じられる」


柚希の指先が止まる。


足元の歩道橋が、遠くの車の振動でかすかに揺れたような錯覚を覚えた。


「……朱音、まで……?」


声にならない息が漏れた。


隣でその変化を察した玲が鋭く視線を向ける。


「誰からだ。見せてください」


柚希は迷った。

だが目を細める玲の表情に、ほんのわずか怯えながら画面を差し出した。


玲が内容を読み込むにつれ、その顔から温度が消えていく。


「……“始まった”か」


玲が低く呟いたその声は、すでに次の行動を決めている者の声だった。


【時刻:22時46分/場所:東峰区・第五歩道橋】


柚希の手元でスマホの画面が青白く光る。

玲は歩道橋の端に立ち、柚希の視線を注意深く追った。


「やっぱりね。あんたたち、まだ“あの子”がただの鍵だと思ってる」


その声は低く、静かに、だが確実に警告の色を帯びていた。

玲の瞳がわずかに鋭く光る。警戒心が走る。

彼は柚希の手元の画面を見ずとも、その言葉の意味を理解していた。


「……君は、何を知っている」


玲の口元は硬く引き結ばれ、声には冷静さと同時に緊張が混じる。

歩道橋の冷たい夜風が二人の間を吹き抜け、緊張を増幅させる。


柚希は答えをためらう。

だが、背後の闇に潜む“何か”の存在を意識し、息を整えて視線を前に戻した。


「ただの鍵じゃない……守るものでもあるのよ」


玲の視線は柚希から離れず、その場の空気を見極める。

二人の間に言葉以上の沈黙が流れ、夜の街灯の光が影を長く落としていた。


【時刻:22時48分/場所:東峰区・第五歩道橋】


柚希は歩道橋の中央で立ち止まり、夜風に揺れる髪を押さえながら低く言った。

「でも、あの子はただの“鍵”じゃない。扉そのものよ。だから私は話す。すべてを」


玲の顔に瞬間、怒りが走る。

「ふざけんな!朱音は渡さねぇぞ!」


彼の声は夜風に乗り、歩道橋の鉄柵に反響した。

冷たい夜気が二人の間に張り詰め、街灯の光が影を大きく揺らす。


玲の瞳には覚悟が宿り、拳がわずかに震える。

「誰が何を知ろうと、あの子だけは……絶対に、手放さない」


柚希は一瞬、彼の真剣な表情を見据え、微かに唇を引き結ぶ。

その目に、怒りと同時に理解の色もちらりと浮かんでいた。


歩道橋の下では、夜の街が静かに息をひそめ、二人の決意を見守っているかのようだった。


【時刻:22時50分/場所:東峰区・第五歩道橋】


柚希と玲の緊迫した空気の中、背後から低く冷たい声が響いた。

「その通りです」


振り返ると、黒いロングコートに身を包んだ安斎が立っていた。

青い瞳が夜の闇に鋭く光り、息をひそめる夜風にさえ、威圧を感じさせる。


玲の横で、安斎は無言で朱音の存在を意識しているように視線を鋭く動かす。

「朱音に手を出す者には、容赦はしない」


言葉は短く、しかし重く響いた。

夜の街灯に照らされた歩道橋の上で、三人の影が長く伸び、決意と警告が交錯する。


柚希は安斎を見て、思わず息を飲む。

玲もまた、仲間の存在にわずかに安心しつつ、同時に緊張を緩めることはなかった。


【時刻:22時52分/場所:東峰区・第五歩道橋】


玲は夜風に髪を揺らされながら、冷静だが鋭い口調で告げた。

「あなたたちのやっていることは、もう“修復不可能”です。

遮断、偽装、抹消――すべて、後手に回った」


柚希はわずかに息を飲み、安斎はその言葉を受けて拳を握る。

風に乗って言葉が響く中、三人の視線は互いに絡み合い、緊張感が途切れることなく場を支配した。


【時刻:22時54分/場所:東峰区・第五歩道橋】


玲はコートの内側から黒く光る装置を取り出し、掌に静かに乗せた。

「これが、影縫い完全展開キー」


夜風に揺れるコートの裾が微かに光を反射する。柚希は息を呑み、安斎はその手元を鋭い目で見つめる。

玲の瞳には覚悟と冷徹さが宿っていた。

「これを使えば、封じられた記録の全てにアクセスできる。だが、使用者の意思次第で、取り返しのつかない事態も引き起こされる」


短く息をつき、玲は装置のスイッチに指をかけた。

「覚悟はいいか?」


【時刻:22時57分/場所:東峰区・第五歩道橋】


突然、影が壁面を這うように襲いかかる。闇に紛れ、存在をほとんど感じさせない速さで迫るその動きに、柚希の体が思わず硬直する。


「動くな!」玲の声が風に乗って響いた。手にはまだ黒く光る影縫いキーが握られている。


その瞬間、屋上階段から服部一族が合流した。服部元春は黒手袋をはめ直し、詩乃と安斎を伴って慎重に歩を進める。冷静な指揮と統率力で、襲撃の影を包囲するかのように陣形を整えた。


「全員、配置につけ。影の動きを封じる。これ以上、犠牲は出させない」


静寂を切り裂くその声に、柚希はわずかに頷き、玲の背後に身を寄せた。

安斎は朱音の安全を最優先に見据え、鋭い眼光を暗闇に走らせる。


【時刻:23時12分/場所:東峰区・第五歩道橋付近】


赤と青のパトランプが、濡れたアスファルトを血潮のように染める。


近くの飲食店から帰宅中だった男性が、震える声で語る。

「……見たんです、ほんとに。橋の上で、誰かと話してて……その後、柵の外側に立ってて……あれ、飛び降りたんじゃない。落ちたんです……自分の意思じゃなく、何かに押されて……いや、引きずられたみたいに……」


彼は何度も言葉を繰り返し、目の前の光景を必死に整理しようとしていた。

「手を伸ばしたんだけど、間に合わなかった……もう、頭が真っ白で……」


声は震え、足元の水たまりに映る赤と青の光を見つめながら、事実を押さえきれない様子だった。


【時刻:23時12分/場所:東峰区・第五歩道橋付近】


赤と青のパトランプが、濡れたアスファルトを血潮のように染める。


近くの飲食店から帰宅中だった男性が、震える声で語る。

「……見たんです、ほんとに。橋の上で、誰かと話してて……その後、柵の外側に立ってて……あれ、飛び降りたんじゃない。落ちたんです……自分の意思じゃなく、何かに押されて……いや、引きずられたみたいに……」


彼は何度も言葉を繰り返し、目の前の光景を必死に整理しようとしていた。

「手を伸ばしたんだけど、間に合わなかった……もう、頭が真っ白で……」


声は震え、足元の水たまりに映る赤と青の光を見つめながら、事実を押さえきれない様子だった。


【時刻:23時20分/場所:東峰区・第五歩道橋現場】


救急隊員の一人は現場での状況を詳細に記録していた。

“転落による損傷は重度。胸部と頭部に集中した衝撃は即死レベル。

周囲に足場となるものや踏み外した形跡は確認できず。

もし柵の外に立っていたとすれば、何かに『押された』可能性が高い。”


その記録は冷静かつ正確で、現場の異常性を淡々と示していた。

隊員自身も説明の言葉を選ぶように、慎重に状況をまとめている。


【時刻:23時35分/場所:東峰区・第五歩道橋下】


歩道橋下には、壊れたスマートフォンが落ちていた。画面は粉々に割れていたが、SIMカードは辛うじて無傷だった。


「やっほ〜、久しぶり〜!玲さ〜ん!」


リコが元気いっぱいに現れた。手には小さな解析機器を持っていて、壊れたスマホの中身を確認するために呼ばれたのだ。

「さて、どれどれ……中身、大丈夫かな?」

好奇心を隠さず、リコは端末を手に取った。


【時刻:20時17分/場所:東峰区・第五歩道橋下】


■ 現場責任者・K部門調査官 九条凛(心理干渉分析官)


夜気は湿り、風が低く唸っていた。

規制線の向こう、歩道橋の影が黒い刃のようにアスファルトへ落ちている。


九条凛は、無言で屈み込み、柚希の遺体に視線を落とした。

表情は静かだが、その瞳には一瞬だけ鋭い光が宿る。


「……ここまで露骨に“誘導”するとは」


手袋を締め直し、凛は遺体の周囲の空気へそっと指先を滑らせる。

触れているのは“空間”ではなく――その場に残った微細な“精神波”。


「柚希葛城。最後の数秒……かなり強い“心理圧迫”を受けていた跡がある」


検知器の針が小刻みに揺れる。

通常の暴力ではあり得ない数値。

これは、言葉、視線、存在そのものを使った“追い込み”だ。


「挑発したのは彼女自身か……だが、追い詰めたのは間違いなく“向こう”」


凛は立ち上がり、歩道橋の上を見上げた。

夜の闇が揺れ、わずかな残滓がひっかかる。


「精神波の“歪み”が残っている。誰かが“落とした”というより……“落とさせた”」


そこへ、K部門の補助捜査員が駆け寄る。


「九条調査官!記録操作の痕跡……ありました!」


凛は目を細めた。


「やはり。柚希は――自分が見つけた真実で“死んだ”んじゃない。

その真実に“触れた”から、殺された」


冷たい風が、足元の血痕を揺らした。


凛は静かに息を整え、現場全体へ向けて指示を飛ばす。


「すべての記録媒体、すべての証言……“心理干渉”の有無を検証する。

これは単なる転落死ではない――意図された排除だ」


そして、小さく呟く。


「玲さん……あなたはこれを、どう受け止めるのかしら」


夜の街は静かに沈み、しかし事件は、確実に動き出していた。


【時刻:22時12分/場所:東峰区・第五歩道橋上】


玲は夜空を見上げ、微かに揺れる街灯の光に目を細めた。

星々は遠く、しかし確かに輝いている。


「……“影縫い”は既に展開されていた」


指先でコートの内側を軽く触れ、装置の存在を確かめる。

「なら、この干渉は外部からだ」


凛はイヤーピースに向かって低く声を放つ。

「玲、応答を――」


だが、返答はない。静寂だけが耳に残る。

風が肩越しに吹き抜け、遠くのネオンの光が濡れたアスファルトを揺らす。


凛は唇を引き結び、まばたきひとつせず夜空を見据える。

「――何か、動き出している」


頭上の星の光が、まるで事件の行方を試すかのように瞬く。


【時刻:22時18分/場所:東峰区・第五歩道橋】


歩道橋の上、夜風が湿ったコンクリートを撫でる。

柵の外側に、かすかに誰かが立っていた痕跡が残っていた。


砂埃の混じったわずかな跡。

スニーカーのソール痕は、柚希のものとは明らかに違う。

軽戦闘用の男物スリップシューズ――踏み込む者の体重のかかり方まで、微妙に残っている。


玲はその痕跡を指先でなぞるように視線を落とす。

「――確かに、誰かがここに立っていた」


凛も息を潜め、柵の外を静かに観察する。

「手口からすると……計算された侵入。無駄な動きは一切ない」


赤と青のパトランプの光が、アスファルトを揺らし、夜の静寂を引き裂いていた。


【時刻:20時19分/場所:東峰区・第五歩道橋】


玲はイヤーピースに向かって低く指示を飛ばす。

「現場交戦終了。対象は逃走。葛城柚希、保護失敗。K部門全域にコード・マルスを発令。」


指示は短く、無駄がない。

玲の目は歩道橋下の壊れたスマートフォンに向けられていた。


「ただちに記録復元プロトコルを起動。SIMカード解析を急げ。“彼女が最後に見たもの”を、再構成する。」


周囲の暗闇に、電子機器の微かな光と振動だけが反響する。

玲の声には、焦りよりも冷徹な決意が宿っていた。


【時刻:20時20分頃/場所:東峰区・第五歩道橋】


玲は壊れたスマートフォンを手に取り、冷たい指先で慎重にSIMカードを装置にセットした。

「これから行うのは、“死の直前の3分間”を追体験するプロトコルだ。K部門でも最も危険な手法……対象の精神に影響を及ぼす可能性が高い。」


周囲の空気が一瞬張り詰める。微かな電子音だけが、夜の静寂に響いた。

玲の瞳には覚悟と緊張が混ざり合い、決して揺らぐことはなかった。


【時刻:20時25分頃/場所:東峰区・第五歩道橋】


凛はSIMカードの解析結果を画面に映しながら、低く呟いた。

「……あの人の中に、朱音と同じ“音”があった気がする。だから、たぶん……まだ終わってない」


玲は凛の言葉に視線を固定し、わずかに眉を寄せる。夜風が二人の間をすり抜け、遠くのネオンが濡れたアスファルトに揺れる光を落としていた。


【時刻:21時03分/場所:K部門・解析室】


詩織は解析を終えた映像データをホワイトボードに投影し、冷静に説明した。

「この映像は、被験者の主観視覚と聴覚、触覚入力までほぼリアルタイムで再構築しています。つまり、死亡直前のセンサー信号や神経応答データを基に、彼女が見聞きした情報をほぼ完全に追体験できる状態です」


解析装置の青白い光が、室内を淡く照らし、緊張感を増幅させていた。


映像は新宿の歩道橋を映し出していた。柚希が背後を警戒しながら歩く姿が画面に現れる。


しかし、その直後、砂嵐のように映像が乱れ、ノイズが走る。フレームは断続的に途切れ、空間の形状すら把握しにくくなる。


詩織は眉をひそめ、解析装置のログを確認した。

「……外部からの電磁干渉か、あるいは高度な映像改ざんが入った可能性があります。信号は部分的に消去され、残っている情報も揺らぎが大きい状態です」


室内の空気が一層張り詰める中、解析チームは画面の断片的な映像をつなぎ合わせる作業に没頭していた。


【時刻:21時12分/場所:K部門・解析室】


玲はホワイトボードに手を伸ばし、消えた時間の前後を指し示した。


「この“消された0.8秒”に何が映っているかが、この事件の核心になる可能性が高い。しかも、消去は単純なミスではない。非常に高度な技術が使われている」


その瞬間、解析室の片隅から足音が近づく。水城カガリがタブレットを手に現れた。白髪を短く刈り揃え、精密観測スーツを身にまとった彼の目は、スクリーン上の微細なフレーム差異に瞬時に反応していた。


「玲、映像のフレーム解析は任せて。0.8秒の欠落は、単なる消去ではなく、高速干渉と再構成による痕跡操作です。ここからは、過去信号の微振動解析と時系列再構築で、失われた情報を復元できます」


玲は頷き、チームに向けて指示を出す。

「よし、カガリ。君の専門知識で、0.8秒を“再生可能な真実”に変えるんだ」


室内のモニター群が一斉に青白く光り、消えた0.8秒の復元作業が静かに始まった。


【時刻:21時18分/場所:K部門・解析室】


カガリはタブレットを操作し、微細なフレーム差異と残留ノイズを分析する。画面には、歩道橋の映像が拡大表示され、通常の再生では見えなかった微小な動きが徐々に浮かび上がった。


「ここ……0.8秒の前後にわずかな振動パターンがあります。足の動き、呼吸の間隔、そして人影の微かな揺れ。外部干渉が加わっている痕跡もありますね」


玲は画面を覗き込み、冷静に言った。

「つまり、誰かが外部から映像を操作した。映ってはいけない存在を消した――それでも、微細な痕跡は残る。見逃すな」


詩織が隣でデータを整理しながら、ホワイトボードに補足を書き込む。

「消去フレームの前後、歩道橋の柵の影に反射した光の微変化があります。この“光の残留”から、対象の体の動きを再構築可能です」


玲は唇を引き締めた。

「なら、復元だ。0.8秒の映像を完全に再構築して、誰が何をしたのか、明確にする」


解析室の空気は、緊張に満ちていた。モニターの青白い光がチームの顔を浮かび上がらせ、全員が手元の作業に集中する。失われた0.8秒――その短い時間が、事件の真実を握る鍵となる。


カガリが低く呟く。

「……これで、柚希が見た最後の光景が、少しずつ蘇る」


その言葉とともに、スクリーン上の砂嵐が徐々に消え、わずかな人影が確認され始めた。


【時刻:21時25分/場所:K部門・解析室】


玲はモニターを凝視しながら、指で映像のフレームをなぞった。

「つまり……誰かが現場の証拠を消そうとしている。しかも専門的な技術者だ」


詩織がタブレットの解析結果を指し示す。

「0.8秒の間に、映像の光量や振動パターンに人工的なノイズが加えられています。通常の映像編集では再現できないレベルです」


玲は眉間に皺を寄せ、声を低くした。

「つまり、我々が追っているのは“記録操作のプロ”。偶然や素人のいたずらではない……計画的で精密な痕跡隠滅だ」


カガリが補足する。

「足跡や影の残留も精密に操作されている。単純な消去ではなく、空間情報まで計算された干渉です」


玲は深く息をつき、次の指示を口にした。

「なら、こちらも同じ土俵で戦う。消された0.8秒を完全に再構築して、痕跡を炙り出す」


解析室の空気は一層引き締まり、青白いモニターの光が全員の顔に冷たく反射していた。


【時刻:21時32分/場所:K部門・解析室】


玲は静かに頷き、青白いモニターの光を背にして言った。

「加地靖人がまだ近くにいたのか? 転送されていたデータの内容は? “誰”が事故死を必要としているのか――これらを明らかにするために、俺たちは動く必要がある」


背後で立っていた九条凛が小さく息を吸い、イヤーピースを通して報告する。

「対象者の意識波形と空間干渉痕跡を照合しました。事故を仕組んだ者は、既存の監視・セキュリティ網を完全に無効化できる高位の心理干渉能力者です。精神操作のプロフェッショナル……おそらく“記録操作も含めた影班クラス”の人物です」


玲は無言で頷き、指先でモニターの座標データをなぞった。

「なるほど……“誰”とは、単なる肉体的な犯行者ではなく、精神・空間・記録の操作を自在に行える、特殊技術のスペシャリストか。ここまでくると、普通の追跡だけでは足りない」


詩織がタブレットを掲げ、解析結果を示す。

「干渉波形、残留微振動、電磁ノイズ……全て統合すれば、接触痕跡の特定も可能です。つまり、加地靖人に加え、もう一人、影班クラスの“現場制御者”が関与している可能性が高い」


玲は深く息をつき、決意を込めた。

「わかった。ならば俺たちは、その“現場制御者”を先に炙り出す。事故死は偶然ではなく、計画された殺意だ……俺たちは、その計画を止める」


【時刻:14時03分/場所:新宿・喫茶ロマーナ】


レトロな内装の店内は、昼下がりにもかかわらず静まり返っていた。

赤茶色のベロア椅子、磨かれた木製テーブル、そして古いジャズのBGMだけが、ゆっくりと時間を押し流している。


入口のベルが小さく鳴いた。

「……遅れてすまない」


低い声とともに、深緑のコートを羽織った男が姿を見せた。

玲だった。無駄のない動きで店内を見渡し、奥の席へ向かう。


そこにはすでに、一人の女性が座っていた。

黒髪を後ろで束ねた、落ち着いた雰囲気の人物――K部門・“消去区間解析”のスペシャリスト、月岡つきおか みどり


碧は手元のカップを指先で回しながら、玲を見ずに言った。

「静かな店ね。こういう場所じゃないと、“消えた時間”の話はできないでしょ?」


玲は椅子を引き、向かいに座る。

「確かにな。外では機材に拾われる危険がある」


碧はようやく視線を上げた。

その目は、静かで、どこか底まで見透かすような光を宿していた。


「聞いたわ。0.8秒――“消去区間”。普通のデータ抹消なら、もっと痕跡が残る。

でも今回のは違う。上書きじゃない。“存在していなかったように”処理されてる」


玲は眉をひそめた。

「それができるのは、お前を含めて……数人しかいない」


碧は小さく笑った。

「そうね。でも私はやってない。だから言える。――これは“職人技”よ。

記録の隙間、信号の谷、粒子の揺らぎ……その全部を読んで、丁寧に削り取ってある」


ジャズのサックスが、ため息のように店内に響く。


玲は一拍置いてから、低く問いかけた。

「碧。誰がやった?」


碧はカップを置き、玲を真正面から見つめた。

その目に、曖昧さは一つもなかった。


「――犯人は“内部”よ。

K部門の暗号鍵と、影班級の干渉技術を両方持っている人間。

そんなの……一族に一人しかいないでしょう?」


玲の目が細くなる。

店内の空気が、ふっと冷えた。


碧は言い切った。


「“服部はっとり 一清かずきよ”。

影縫いの原型を作った、あの天才よ」


【時刻:16時42分/場所:都内・非公開分析室】


部屋の空調は最低限しか稼働せず、わずかな換気音だけが耳に届く。

壁際には複数のモニターと、解析用の端末が整然と並ぶ。


玲は机の前に立ち、ディスプレイに映し出された人物の情報を凝視した。

「加地靖人……元国家技術調査局。三年前に早期退職して以降、行方不明。だが、特定の事件現場には複数回目撃されている」


その傍らに立つのは、K部門の“事件再構築スペシャリスト”、御子柴理央みこしば りお

理央は手元のタブレットを軽く叩き、追加情報を表示させる。


「彼の足取り、動機、接触先――すべてデータベースに残っています。

ただし、加地本人は通常の追跡手法ではほぼ“不可視”。

現場の微細な痕跡、通信ログ、監視カメラの揺らぎ……これらを組み合わせて初めて、存在を浮かび上がらせられる」


玲は目を細め、冷静に言った。

「なるほど……奴はただの逃亡者じゃない。精密に現場を操作できる“影の存在”だ」


理央は頷き、ディスプレイに浮かぶ加地の過去の行動ログを指差す。

「例えば、この事件。通常の現場解析では完全に事故と判断される。ですが、痕跡操作の精度が異常で、意図的に“事故”に見せかけられています。

加地の関与を示すのは、微細な振動パターンと電磁干渉の履歴だけです」


玲は深く息をつき、手元の資料を押さえる。

「……やはり、奴は単独では動けない。内部の協力者がいる。

その協力者を特定しなければ、柚希の死も、消された0.8秒も、全てが闇のままになる」


理央はタブレットの画面を一枚スワイプし、微かに笑みを浮かべた。

「安心してください。加地靖人が関わった現場なら、私に解析できない痕跡はほぼありません」


玲は頷き、決意を固めた。

「なら、動こう。加地靖人と内部の共犯者、両方を暴き出す」


【時刻:17時26分/場所:東峰区・旧医療研究棟跡地】


周囲を囲むフェンスの内側は、膝の高さまで伸びた雑草が風に揺れていた。

建物は長年放置されていたのだろう。壁はところどころ剥がれ、窓枠は錆びつき、玄関のガラスには蜘蛛の巣状のひびが走っている。

鍵も壊れ、歪んだ扉はわずかに開いていた。


玲は足を踏み入れる前に、手袋をきゅっと締め直した。

「……ここ、加地靖人が最後に目撃された場所だ。内部の改ざん痕跡が残っている可能性が高い」


隣で懐中ライトを構えながら、御子柴理央は首を傾ける。

「入り口周辺に“干渉波の残留”があります。少なくとも48時間以内に誰かが出入りしていますね。

普通の人間じゃ残せない波形です。加地か……それとも協力者か」


玲は壊れた扉に手を当て、わずかに開いた隙間から冷えた空気を吸い込んだ。

「どちらにせよ、ここには“隠していたもの”がある。柚希が追っていた施設の維持費――その原点がこの建物だ」


理央はフェンスの向こうに目をやり、静かに言う。

「本当に、ただの廃施設ならよかったんですけどね……。

この異常な静けさ、センサーの反応……内部に“生きたシステム”が残ってますよ」


玲の視線が鋭くなる。

「……加地靖人。お前、何を残して逃げた?」


二人はゆっくりと、暗い建物の内部へと足を踏み入れた。


【時刻:17時31分/場所:東峰区・旧医療研究棟 玄関ホール】


扉を押し開けた瞬間、冷えた空気が足元を撫でていった。

だが、玲の目は別の“動き”を捉えていた。


「……新しい靴跡だ」


埃が積もった床に、ひとつだけ鮮明な足跡が残っている。

形状が明らかにこの廃れた空間の住人のものではない。

踏み込んだ力の方向、重心、靴底の摩耗――すべてが“最近ここにいた誰か”を示していた。


その瞬間、背後から落ち着いた声が響く。


「見つけましたか。――靴跡の特徴、貸してください」


現れたのは由比ヶゆいがはま てる

K部門の中でも稀少な“足跡解析専門官”。

泥の付着、重心の圧、クセの出る踏み込み角度などから、わずかな痕跡でも人物像を再構成するスペシャリストだ。


輝はしゃがみ込み、小型の角度計とライトを取り出して靴跡を照らす。

「……靴底は“セミタクティカル型”。市販品ではなく、一定の機関が支給する特殊仕様。

歩幅と沈み込みから推定すると、体重は70キロ前後。習慣的に左足に負荷をかけて歩いている――訓練されている証拠ですね」


玲は眉を寄せた。

「……加地靖人本人か?」


輝は首を横に振る。

「違います。この靴跡の主は“二十代後半”。背丈も180近くあります。

加地はこんな歩き方はしません。もっと……軽い、忍び歩きに近い足跡を残す人です」


玲は無言で靴跡の先、薄暗い奥の廊下へと視線を向けた。


――加地の“協力者”。


輝が、ぽつりと言った。

「この男……まだ建物の中にいる可能性があります」


冷気が、ひときわ濃く背筋を走った。


【時刻:17時46分/場所:東峰区・旧医療研究棟 302号室】


奈々が埃を払いながら携帯端末を広げ、玲が見つけたUSBを差し込んだ。

古い蛍光灯がちらつき、読み込み音が静かに室内へ響く。


端末の画面に、黒いリストがゆっくりと展開された。


奈々が息を呑む。

「……これ、裏帳簿。しかも――“改ざん履歴付き”」


玲が近づき、画面を覗き込む。

表示された日付がいくつも赤字でハイライトされ、操作した端末のIDが並んでいる。


「政治家の資金流用……それも国家レベルの“委員会”が絡んでる。

加地靖人は、ただ持っていただけじゃない。これを……“暴く側”には回っていなかったということか」


奈々が別フォルダを開く。

すると、複数の音声ファイルが断片化された状態で見つかった。


「音声記録……でも、ファイルが“切られてる”。誰かが加工した痕跡があります」


奈々が復元ツールを走らせ、数秒後、ノイズ混じりの音声がスピーカーから流れた。


――『……やれ。事故でいい……“あの子”を……』

――『データは……抹消……聞かれたら終わる』

――『加地は……まだ気づいていない……』


奈々は震える声で言う。

「“あの子”……って誰のこと? しかも、これ……複数人の声が混ざってます」


玲は腕を組み、低く呟いた。

「事故死を必要とした“誰か”……その一部が、これか。

裏帳簿の改ざんと、音声記録の断片。加地は……この連中に狙われた」


奈々がデータの底を指し示す。


「玲さん……これ、見てください。

この音声ファイル……“保存者ID”が残ってる」


玲の表情が険しくなる。


表示されたIDは、見覚えのあるコードだった。

国家技術調査局時代の“内部調査専用ID”。

そしてその持ち主は――


「……“加地靖人じゃない”。

これは――“加地を監視していた側のID”だ」


部屋の空気が、重く沈んだ。


【時刻:17時52分/場所:東峰区・旧医療研究棟 302号室】


背後でかすかな金属音が響く。

玲は瞬時に体を低くし、机と古いキャビネットの影に身を隠す。


奈々も気配に気づき、息を潜めた。

「……誰かいる……」


玲はイヤーピースに手を触れ、低く呟く。

「動くな。侵入者の位置を把握する」


空気が一瞬、張り詰める。

埃が微かに舞い、古い蛍光灯がちらついた。


玲の目が暗闇の中で光を捉えた。

足音が一歩、二歩……距離を詰めてくる。

「……来る」


奈々の肩が小さく震える。

玲は低く唇を動かし、静かに合図を送る。

「準備を……記録の保護を最優先だ」


部屋の隅、影の中に潜む人物の輪郭が、徐々に浮かび上がった。


【時刻:19時08分/場所:東峰区・旧医療研究棟 302号室】


玲は窓際に立ち、曇り空の都心を見下ろしていた。外の車や人々の喧騒とは裏腹に、室内は静寂に包まれている。

彼の鋭い瞳には冷静さの奥に隠された緊張感が漂い、窓ガラスに映る自分の顔と対峙するように視線を動かした。


奈々が小さく息をつき、背後から声をかける。

「玲……このまま待機ですか?」


玲は肩越しに一瞥し、低く答えた。

「待つだけではない。侵入者の行動を読み、先に動く。情報を握る者が有利だ」


机の上には解析用タブレットが置かれ、最新の監視データがスクロールしている。

玲の指先が軽く触れ、映像と座標情報を確認するたびに、眉間に微かな皺が寄る。


「時間は刻々と過ぎている……だが焦るな。準備が全てを左右する」


室内の冷気が微かに揺れ、遠くの交通音がかすかに響く。

玲はその音も含め、都心の微細な変化を意識の中で解析していた。


【時刻:19時15分/場所:東峰区・旧医療研究棟 302号室】


部屋の空気が一気に張り詰めた。

玲の冷静な表情の奥で、緊張が微細に震える。

今や彼は、“狙われる側”となった。状況は刻一刻と緊迫し、戦いの始まりを告げていた。


背後から静かに足音が近づく。

「玲、状況を確認。影班、全員集合済み」

低く、成瀬の声が響いた。


窓際に並ぶスナイパー班の二人が、遠方の監視を開始する。

「射線、確認。外部からの侵入者は即時捕捉可能」

桐野が無言で狙撃体勢を整える。


さらに、服部一族の御館様とその側近たちも合流し、部屋全体を囲むように布陣をとった。

御館様は静かに手袋をはめ直し、全員を見渡す。

「玲、これで防御は万全だ。必要に応じ、我々が盾となる」


玲は窓の外の街並みを確認し、深く息をついた。

「いいだろう……来る者をすべて、この中で迎え撃つ」


室内の緊張は、まるで弦が張り詰めた弓のように、静かに、しかし確実に戦闘態勢へと変わっていった。


【時刻:19時28分/場所:東峰区・旧医療研究棟・作戦指令室】


影班の主要メンバーが円卓を囲んで座っていた。部屋の明かりはわずかに落とされ、卓上の地図とモニターが青白く浮かぶ。緊張感が部屋全体を満たしている。


玲はゆっくりと立ち上がり、冷静かつ鋭い視線でメンバーを見渡した。

「全員、状況を把握しているな。今回の対象は極めて危険だ。だが、俺たちには準備がある」


成瀬が軽く頷き、手元の端末を操作しながら答える。

「警戒区域は全方位カバー済み。侵入者は即座に捕捉可能です」


桐野は静かにマスクをずらし、低い声で付け加える。

「必要であれば、痕跡を完全に消去する。敵に情報を残すわけにはいかない」


安斎は拳を軽く握り、椅子の背にもたれながら睨みつける。

「朱音には手を出させない。俺たちが盾になる」


玲は短く息をつき、さらに円卓の上の作戦図を指差した。

「各自、役割を再確認する。連携が崩れれば、全てが終わる。ここから先は、手順通りに、確実に動く」


部屋の空気はさらに張り詰め、影班のメンバー全員が無言で作戦準備に集中した。

外部の危険を前に、緊張と覚悟だけが室内に漂っていた。


【時刻:19時31分/場所:東峰区・旧医療研究棟・作戦指令室】


成瀬は漆黒の戦闘服に身を包み、背筋をまっすぐに伸ばしたまま無言で立ち上がった。

灰色の瞳が、薄暗い指令室の光を吸い込むように冷たく光る。


「潜入、監視、排除。すべてを任せろ」


その声には一切の迷いも感情もない。ただ任務だけを見据えた、静かな殺気。


玲はわずかに頷き、次の指示を出す。

室内の空気はさらに冷え、影班の準備が着実に“戦闘態勢”へと移行していった。


【時刻:19時32分/場所:東峰区・旧医療研究棟・作戦指令室】


玲は一度息を整えてから、静かに言葉を続けた。

「そして――服部忍。お前の家系が受け継いできた“忍法”と独自の追跡術を使い、影班の隠密行動を支援してもらう」


薄暗い室内で、黒装束の青年が椅子からゆっくり立ち上がる。

その動きは音ひとつ立てず、空気さえ揺らぎを許さない。


「敵に悟られずに、加地靖人の足取りを追え。痕跡が薄くても構うな。お前なら拾えるはずだ」


服部忍は目を細め、低い声で答えた。

「承知した。影の匂いは、もう掴んでいる」


玲はわずかに口元を引き締めた。

影班、服部一族、スナイパー班――

全てが“玲を狙う何者か”との戦いに向けて、動き出していた。


【時刻:19時36分/場所:東峰区・旧医療研究棟・作戦指令室】


玲は机の上に広げられた都内地図へ視線を落とし、人差し指で一点を強く押さえた。


「ターゲットは――ここだ。板橋区舟渡の旧通信施設 M 棟付近。

監視カメラに生じた“あのノイズ”の位置情報と完全に一致している」


室内の温度が一瞬、下がったように感じられた。


安斎が腕を組み、眉をわずかに動かす。

「ノイズの発生源が固定されてるってことは……潜伏して、外から介入しているってわけか」


玲は短く頷いた。

「そうだ。通常のジャマーじゃあれは作れない。高度な“映像介入技術”を持つ者――つまり、加地靖人本人か、彼に匹敵する技術者が関わっている可能性が高い」


地図を押さえる指先に力がこもる。

「ここを押さえれば、一気に状況が動く。

影班は北側から回り込み、服部一族は南の林道から侵入。

俺は東側の監視ラインに入る。ターゲットを逃がすな」


【時刻:19時42分/場所:東峰区・作戦指令室前】


静寂の中、影班のメンバーは無言で装備を最終確認していた。

暗色の戦闘服、通信機器、ナイトビジョンゴーグル、抑制器付きの武器――一つひとつが光を反射し、緊張感を増幅させる。


成瀬は肩のストラップを調整し、詩乃はマスクの位置を微調整する。

安斎は青い瞳で遠くを見据え、呼吸を整えている。


玲は静かに腕時計を見やり、指先で作戦開始のタイミングを示す。

「全員、準備完了か?」


頷きだけが応答する。


時は、確実に動き出した。

影班の足音はまだ聞こえない――だが、都市の闇の中で、確かに彼らの影が動き始めていた。


【時刻:20時05分/場所:東峰区・影班作戦指令室】


モニターの前に立つ青山薫は、黒縁メガネの奥から冷静な眼差しを向けていた。

指先がキーボードを滑るたび、画面上の複雑な暗号が一行ずつ解読されていく。


「俺は青山薫。デジタル暗号解析とサイバー防衛が専門だ。加地靖人が転送したデータの暗号はほぼ解読済みだ」


画面に表示されるコードの行列は膨大で、他のメンバーも目を見張る。

「この情報を手がかりに、加地の動きや、事故死に見せかけた操作の痕跡を追跡できる」


冷静な口調だが、その声には緊張感が潜み、指令室の空気をさらに張り詰めさせた。


【時刻:20時08分/場所:東峰区・影班作戦指令室】


画面に映し出されたのは、加地靖人が残した内部資料の断片だった。

ファイル名には意味深に「Operation_Eclipse」と記されている。


青山薫は一行ずつスクロールしながら解析を進めた。

「……“Eclipse”――日食、隠蔽、あるいは全面的な遮蔽を意味するか。加地は何かを意図的に隠そうとしている」


部屋の空気が一層重くなる。

影班のメンバーたちは互いに目配せし、緊迫した表情を崩さなかった。


「このファイルには、転送経路、操作対象、影響範囲がすべて記録されている。ここから全体像を組み立てる」

青山の声は低く、しかし確信に満ちていた。


【時刻:21時32分/場所:都心・高層ビル屋上】


霧雨が細く降る。空は薄墨色に沈み、湿った空気が無機質なコンクリートにまとわりついていた。


屋上の縁に立つ三つの黒衣の影──影班の精鋭、桐野詩乃、成瀬由宇、安斎柾貴。


詩乃はマスク越しに低く呟く。

「視界が悪い……霧で赤外線も効きづらいわね。慎重に進む」


成瀬は灰色の瞳を鋭く光らせ、無言で手元の装備を点検する。

「潜入、監視、排除。すべて、この条件下でも可能だ」


安斎は肩越しに二人を見渡し、冷静に指示を出す。

「霧雨で足元も滑りやすい。無駄な動きは許されない。対象はまだ気付いていないはずだ」


三人の間に言葉は少ない。だが、緊張感は雨粒よりも鋭く、屋上の冷たい空気を震わせていた。


【時刻:21時41分/場所:影班作戦室・第二作戦フロア】


作戦卓の上に立体ホログラムが浮かび、A案・B案・C案の三つのルートが赤線で描かれていた。

玲がその前に立つと、影班の視線が一斉に集まる。


「A案は八重洲通り交差点。監視カメラの死角を利用した長距離狙撃」

「B案は地下鉄丸ノ内線の出入口。群衆に紛れての至近距離狙撃」

玲は指先でホロ地図を操作し、最後の赤線に触れた。

「そしてC案は……最も危険だ。俺自身を囮に使った“自己誘導型”トリガー付き狙撃」


その言葉に、部屋の空気がわずかに揺れた。


背後の壁に凭れかけていた男が、ゆっくりと前へ歩み出る。

黒いタクティカルジャケット、無精髭、眠そうな目。だがその目の奥は異常なまでに計算高い光を宿していた。


「……呼んだか、玲」


玲は短く頷く。

「東雲ライ。自己誘導型射撃と“軌道補正アルゴリズム”の第一人者だ」


東雲は片手を上げ、だるそうに言った。

「C案、やってやれなくはない。ターゲットの思考癖と動線予測、それに風向きのリアルタイム補正……全部、俺の得意分野だ」


安斎が眉をひそめる。

「だが危険すぎる。玲を囮にするのは――」


「危険だから成立すんだよ」


東雲は淡々と話し続ける。


「“自己誘導型”は撃った弾が勝手に追うわけじゃない。狙撃者と対象の心理、移動パターン、環境を“誘導する側”が作る。

玲が動けば、相手も動く。

相手が動けば、俺が撃つ。

外す確率は……まあ、ほぼゼロだな」


玲は落ち着いた声で言った。

「東雲が言うなら信じられる。だが、この案で行くなら全班の連動が必要だ」


詩乃、成瀬、安斎、服部一族。

静寂の中、それぞれが無言で覚悟を固めていく。


東雲はモニターに映るターゲットの情報を片目だけで見ながら、小さく笑った。

「さて……命が惜しい奴は手ぇ挙げろ。これから地獄の誘導開始だ」


【時刻:21時42分/場所:影班作戦室】


「……どれも性格が悪いな」


安斎柾貴が低く吐き捨てた。

唇の端をわずかにゆがめたその表情は嘲りにも見えるが、眼差しはすでに鋭く研ぎ澄まされている。

彼の脳内では、A案・B案・C案それぞれのルートでの防御配置、遮断手順、そして“万が一”に備えた制圧シミュレーションが高速で組み立てられていた。


「A案なら成瀬が前に出る前提だな。死角に潜む狙撃手へのカウンターは俺が担当」

安斎の指がホログラム上の路地をなぞる。

「B案は詩乃が近距離で毒性阻害。人混みの中での混乱処理は服部一族に任せる。……で、C案」


視線が玲へ向けてだけ鋭く沈む。


「冗談抜きで一番ふざけてる。玲を囮にするなんて、正気じゃねぇ」


東雲が肩を竦める。

「でも勝率は一番高い」


「だから余計にムカつくんだよ」

安斎の声は低く、感情は隠せていない。


だがその横顔には揺るぎのない決意が浮かんでいた。


「……どの案でも構わない。来るなら来い。俺らは必ず玲を守る。

相手がどれだけ性格悪くても、な」


室内の空気がひとつ震え、影班の緊張と覚悟がさらに濃く引き締まった。


【時刻:21時44分/場所:影班作戦室】


「……成瀬、お前はC案に備えろ。俺は八重洲を押さえる。詩乃、お前は丸ノ内へ」


安斎が短く、しかし迷いのない声音で指示を飛ばす。


成瀬由宇は言葉を挟まず、ただ静かに頷いた。

その動作のついでにジャケットの裾を払うと、背中に仕込まれたワイヤーブレードが金属のきしむような、だが澄んだ小さな音を響かせる。


「了解。……C案が発動したら、相手は“誘導”を完全に読み切ってくる。玲さんが囮になると分かった瞬間、ためらいなく殺しにかかるはず」


声は淡々としているのに、その奥に確かな殺気が潜んでいた。


桐野詩乃が目を細め、丸ノ内のマップを見つめながら呟く。

「私の方は人混みが問題ね。毒物散布も、摂取経路の誘導も難しい……でもやるわ。丸ノ内線の連中に紛れた起点を潰す」


安斎が一歩前に出て、二人を見渡す。

「相手は“自己誘導型”狙撃のスペシャリストだ。こっちの動きの“未確定部分”を逆手に取ってくる。つまり――」


成瀬が小さく笑った。


「“未来の動き”を読んで撃つタイプ、ってことだな。面白い」


「面白くねぇよ」

安斎が即座に返す。

「玲を狙われてんだ。笑える状況じゃねぇ」


成瀬はその言葉を受け、表情をわずかに引き締めた。


「……なら一発目は絶対に撃たせない。それだけだ」


空気が重く沈み、三人の視線が交わる。

それは命令の確認ではなく――決戦前の、影班にしか共有できない無言の誓いだった。


【時刻:21時47分/場所:影班作戦室】


「服部一族の動きも、そろそろ現場に入る。服部刹那たちの協力がなければ、この包囲網は維持できない」


安斎は腕を組んだまま、深く息を吐くように呟いた。

その声音には、わずかに警戒と期待が混じっていた。


桐野詩乃が眉をひそめる。

「服部家……忍術系の残党でしょ。あの人たち、協力的なの?」


「表向きはな」

安斎が静かに答える。

「でも“矢車”の紋が動く時は、必ず誰かが消える。味方の時は心強いが、敵に回せば最悪だ。今回は、ギリギリこちら側についてくれたってだけだ」


成瀬由宇が窓の外――霧雨に煙る街を鋭く見下ろした。

「服部刹那本人が出るのか?」


「ああ。あやつも来る」

安斎は軽く首を回し、緊張を解くように肩を落とす。

「“風追い刹那”の異名は伊達じゃない。あいつが本気で追跡すれば、数キロ先の獲物でも逃げられない。今回の“自己誘導型狙撃手”の位置割り出しには、刹那の技術が必要だ」


「……矢車の紋が、再び動くか……」


安斎がもう一度、その言葉を噛み締めるように呟いた。

その瞬間、室内の空気がわずかにざわめいた気がした。


成瀬は口元をわずかに緩める。


「敵でも味方でも、厄介な連中だな。けど――俺たちの網の中に入ったなら、逃がさない」


詩乃は淡々とノート端末を閉じた。

「服部の人たちが来るなら、毒物系の扱いも制限しなきゃね。敏感だもの、あの人たち」


安斎が頷く。

「全員の動きが噛み合えば、包囲網は完璧になる。どんな化け物狙撃手でも突破は不可能だ」


霧雨が強まり、窓を細かく叩いた。


その音はまるで――

これから始まる“狩り”のゆっくりした予告のようだった。


霧雨の中、風が一瞬止んだ。


影班の精鋭たちはすでに散り始め、それぞれの配置へと分かれていく。成瀬由宇は屋上の暗がりに身を隠し、詩乃は人通りの少ない交差点へ滑るように移動する。安斎は地下通路の入口に姿を潜め、監視と誘導の準備を整えていた。


夜の都市は静かだが、街灯に映る濡れたアスファルトが、これから起こる“狩り”の舞台であることを告げている。


次に姿を現すのは、加地靖人の眼前か、それとも死の一歩手前か――すべては数時間後に決まる。


空気は張り詰め、街の霧と冷たい雨が、これから展開される攻防を静かに見守っていた。


【時刻:深夜0時17分/場所:都内・旧倉庫地下室】


薄暗い蛍光灯の光が、むき出しのコンクリート壁にぼんやりと影を落とす。かつては倉庫として使われていたこの地下室は、今では玲探偵事務所の極秘サブベース――外部に知られていない、非常時専用の拠点だった。


机の上には複数のモニターが並び、青白い光を放ちながらリアルタイムで都市の監視データと暗号解析結果を映している。配線と小型サーバーが複雑に絡み合い、まるでこの地下空間自体が情報の生き物のように振る舞っていた。


玲は壁際に立ち、腕を組みながら画面を凝視する。その背後では、影班の成瀬由宇と桐野詩乃、安斎柾貴が、それぞれの装備を最終確認していた。三人とも緊張を漂わせつつ、必要以上の言葉は発しない。


「ここから、俺たちはすべての動きを掌握する」


玲の低い声が、静まり返った地下室に微かに響いた。外の世界の騒音は届かず、ただ蛍光灯のハム音と電子機器の微かな唸りだけが、時間の流れを刻んでいた。


【時刻:深夜0時21分/場所:都内・旧倉庫地下室(玲探偵事務所サブベース)】


桐野詩乃は、机に広げられた複数のルートマップを指先でなぞりながら、薄い紫の瞳を細めた。

湿った空気に揺れる声は静かだが、その奥には張りつめた緊迫が宿っている。


「加地の罠……思ったより根が深いわね。ターゲットは玲、そして“情報の接点”になり得る者すべて」


その言葉は、地下室にいる全員の意識を一段階引き締めた。


成瀬由宇が無言で目線を上げ、安斎柾貴はわずかに眉を動かす。

詩乃は続ける。


「玲に直接触れられない場合、近い人物を狙うのは常套手段。

特に“情報逆探知”型の罠は、一回引っかかれば連鎖する。……加地は最初から、私たち全員を巻き込むつもりだった」


詩乃の声が淡々としている分、その内容の重さが地下室全体に沈み込んでいった。


【時刻:深夜0時34分/場所:都内・旧倉庫地下室(玲探偵事務所サブベース)】


玲はモニターの前に立ち、暗い画面に浮かぶ青白い座標と文字列を指先でなぞった。

「“Sコード46-B”……これは、旧通信施設“M棟”の中でも、さらに隠された“階下の階”を示している」


安斎が静かに息を吐き、成瀬由宇は無言で画面に視線を固定する。


玲は続けた。

「加地はあそこに“最後の仕掛け”を残している可能性が高い。単純な監視や待ち伏せではない。……情報操作、物理的封鎖、そして誰も予想できない“干渉”まで、総合的に計画されている」


詩乃は腕を組み、微かに唇を引き締めた。

「……我々が動くタイミングを誤れば、誰も生還できない」


地下室の空気が一層冷たく重くなり、全員の意識がM棟へと集中した。


【時刻:深夜0時36分/場所:都内・旧倉庫地下室(玲探偵事務所サブベース)】


沙耶の眉がひそまり、唇がわずかに震える。

「まさか……転落事件、全部が“試験”だったっていうの?」


玲はじっと沙耶を見つめ、短く頷いた。

「その可能性が高い。あれは偶然の事故ではなく、誰かが能力や反応を観測するために仕組んだものだ」


成瀬由宇は静かに拳を握り、安斎は唇を噛み締める。

「つまり、あの時点で私たちはすでに監視され、動きを計算されていたってことか……」詩乃の声が低く響いた。


地下室の空気がさらに張り詰め、全員の視線がモニターと地図に吸い寄せられる。


【時刻:深夜0時40分/場所:都内・旧倉庫地下室(玲探偵事務所サブベース)】


玲の眼差しが鋭くなる。

「そうだ。映像の撹乱、証言のブレ、被害者の選定。すべて“技術の実証実験”だ。そして本命は……この24時間以内に動く」


沙耶は息を呑み、成瀬由宇は無言で頷いた。

「つまり、私たちはまだ“本番”の開始前にいるってことか……」詩乃が低く呟く。


安斎は地図を指差し、次の行動を確認するように静かに言った。

「監視の死角、退避経路、そして迎撃ポイントを再確認だ。奴らが動く前に、俺たちは先手を打つ」


地下室の冷たい空気が、一気に緊張で張り詰めた。


【時刻:午前1時12分/場所:東京都・丸ノ内線出入口 C案ポイント周辺ビル影】


インカムに、成瀬由宇の低く抑えた声が割り込んだ。


『……こちら、影班・成瀬。C案の拠点に到達。目標位置、視認した。だが――第三者の影を確認。配置が不自然だ。“見張り”か、あるいは……別の部隊だ』


霧雨の中、成瀬の呼吸は一切乱れない。

背後で、ワイヤーブレードが風にかすか触れ、シャリ……と冷えた音を立てた。


『動きは静かだが、素人じゃない。視線の送りが軍用。数は……二、いや三。完全にC案ルートを押さえに来てる』


彼の声はわずかに低くなった。


『玲さん、これは……“待ち伏せ”の配置だ。誰かが俺たちの動きを読んでる』


【時刻:午前1時13分/場所:地下サブベース・作戦室】


玲は数秒だけ静止した。

そして、胸の奥でひそやかに何かを決めたように、短く息を吸い込む。


「……沙耶、行くぞ」


振り返った玲の瞳には、迷いは一欠片もなかった。


「成瀬の位置へ向かう。

全員、これより最終フェーズに入る」


沙耶はわずかに目を見開き、すぐに覚悟を決めた表情に変わった。


「……分かった。私も行く。玲、あなた一人にしない」


奈々が端末を閉じながら即座に立ち上がる。


「追跡ログはすべて私が引き継ぐ。敵部隊の動きはリアルタイムで送るから、油断しないで」


青山薫は椅子から半身を起こし、指先だけで玲に合図を送った。


「C案ルート、プロトコル“アンクロック”を起動した。成瀬が孤立しないように暗号通信の優先チャンネルを開けておく。……戻ってこいよ、玲さん」


最後に凛が、鋭い声で締めくくる。


「現場判断を最優先とする。

――ターゲットは必ずそこに現れる。

覚悟して行け、玲」


玲はコートをひるがえし、階段へ向かう。


その背中に、作戦室に残された全員の緊張が、ただ静かに、だが確実に寄り添っていた。


【時刻:午前5時42分/場所:旧邸宅・庭先】


小雨に濡れた庭の先で、風鈴が細く鳴った。


玲は軒下に立ち、傘越しに庭の様子を見つめる。水滴がゆっくりと地面に落ちる音が、静寂の中で小さく響く。


「……あの子の声が、まだ届く気がする」


沙耶は傘を少し傾け、玲の隣に寄る。指先で濡れた葉をなぞりながら、静かに呟いた。


「朱音……あなたは、本当にここにいるの?」


風鈴がまた鳴る。小さな音が、雨の庭に、わずかな希望と不安を揺らす。


【時刻:午後21時16分/場所:浮草邸・座敷】


襖の向こう、灯りは抑えられ、畳の上に座した者たちの呼吸すら、静寂の一部となっていた。


古き忍の血を受け継ぐ、服部一族の本拠──通称「浮草邸」は、いまなお情報の交錯地であり続けている。


「加地の動き、想定以上に巧妙だ……全員、情報の共有を徹底せよ」


服部忍が低く告げると、座敷に座る若き一族たちは一斉に頷く。


「浮草邸の情報網を使い、加地の次の一手を潰す。見逃すな」


影班の成瀬由宇も端に座り、静かに拳を握った。


「全ては朱音を守るため……漏れは許されない」


座敷の静寂に、紙片に記された暗号が微かに光を反射し、これから始まる作戦の輪郭を照らしていた。


【時刻:午後21時20分/場所:浮草邸・座敷】


中央に座す男、服部雅清は淡々と語った。


「……なるほど。狙われているのは玲殿本人。そして“事故死”が必要な理由は情報封鎖」


彼の前には、玲が正座していた。落ち着いた表情ながら、その瞳は研ぎ澄まされ、静かに場の空気を測るように周囲を見渡していた。


「雅清殿の見立てに間違いはない。加地の目的は、我々の情報接点を全て断ち切ること……だが、こちらにも反撃の手はある」


玲の低く、しかし確固たる声が座敷の静寂を裂いた。


服部雅清は短く頷き、座敷に座る一族たちに目をやる。


「全員、準備はよろしいな。玲殿を護りつつ、加地の行動を封じる。これが我らの任務だ」


座敷の空気がさらに引き締まり、次の行動を待つ緊張が静かに張り巡らされた。


【時刻:午後21時25分/場所:浮草邸・座敷】


雅清の目が細くなる。


「敵の手法は狙撃と通信遮断。だが、玲殿には“気配を消す技”がある。まさか、まだ……“影縫い”を使えるか?」


その言葉に、座敷の空気がわずかに揺れた。


玲は静かに応える。


「……十年前に封じたはずだがな。だが、今夜だけは──使わねばならん」


室内の緊張が一層深まり、影班や服部一族の面々は互いに視線を交わす。全員が、これから起こる行動の重大さを理解していた。


【時刻:午後21時28分/場所:浮草邸・座敷】


雅清が背後の襖を手で払うと、そこには古びた巻物と黒漆の木箱が置かれていた。


中から現れたのは、極薄の装束と、特殊な薬草を漬け込んだ墨──“影縫い”の儀式に使う道具だった。


雅清は落ち着いた声で告げる。


「影縫いは術ではない。気配を断ち、存在を“目に映らせない”意志の統合。未熟者が使えば命を削る」


玲は短く応じ、立ち上がる。


「わかっている。だが、今夜は──死んでも見つけなければならない真実がある」


座敷の空気は一層静まり返り、忍びの血を引く者たちの瞳が、鋭く光った。


【時刻:午後21時31分/場所:浮草邸・座敷】


玲は深く頭を下げ、静かに礼を述べると、黒漆の箱を両手で慎重に抱き上げた。


雅清は目を閉じ、ゆっくりと頷いた。


「ならば行け、玲殿。加地靖人の“闇の再演”に、終止符を打て」


座敷には重みのある沈黙が漂い、残された者たちの視線が、覚悟を決めた玲の背中を見つめていた。


【時刻:午後22時07分/場所:都心・高層ビル屋上】


薄明かりの中、風がビルの縁を滑るように吹き抜ける。夜の冷たさが肌を刺し、遠くの街の灯りが微かに揺れた。


玲は背筋を伸ばし、眼下の街を見渡す。

「……加地靖人の動きは、この風のように静かで、しかし確実だ。逃さない」


背後では、影班の桐野詩乃と成瀬由宇が、それぞれの位置を確認しながら息を潜めていた。


「この一瞬の静寂が、最も危険な前兆だ」玲は低く呟き、冷たい夜風に言葉を溶かすように放った。


【時刻:午後22時12分/場所:都心・高層ビル屋上】


玲は屋上の中央、遮るもののない場所にひとり立っていた。

夜風がコートの裾を揺らし、街の光を微かに反射する。


「ここで動けば、すべてが露見する……だが、逃げるわけにはいかない」


背後の薄暗がりに身を潜めるのは、囮行動のスペシャリスト、服部刹那。

彼は玲の存在を巧みに演出し、敵の視線を一点に集中させる役割を負っていた。


「玲殿の立ち位置は完全に視認される。だが、視覚的焦点を作るだけでなく、動きや呼吸の微細な変化も計算済み」


刹那の冷静な声が無線越しに響く。

玲は短く息を整え、瞳に覚悟を宿す。


「……よし、始めよう」


【時刻:午後22時15分/場所:都心・高層ビル屋上周辺】


玲の周囲──通信シャフト、給水タンクの背後、隣接するビルの屋上──

そこには桐野詩乃、安斎柾貴、成瀬由宇たち“影班”の面々が潜み、状況を静かに見守っていた。


「A案、監視カメラ死角を押さえた。準備完了」詩乃の低い声が無線越しに届く。

「C案は俺が担当。動線を確認済み。異常なし」成瀬の声が続く。

「全員、位置を維持。玲殿が動いた瞬間、即応」安斎の冷静な指示が響く。


服部一族の忍数名も、空調ダクトや屋上の陰に身を潜め、息を潜めて待機していた。

「目標は完全に視界内。動きは制御下」刹那が無線で確認する。


玲は短く息を吸い込み、僅かに肩を動かして存在感を示す。

「すべての目が俺を捉えている……これで敵は、どこからも手を出せない」


【時刻:午後22時17分/場所:都心・高層ビル屋上】


パンッ──!!


屋上に鋭い音が響いた。銃声か、それとも空気を裂く金属音か、瞬間、風が巻き上がり、屋上の埃が舞う。


「――当たったか?」成瀬が無線で短く確認する。

「異常なし、射線外。玲、動くな」安斎の声が冷静に響く。

「敵、位置を特定。どうやらこちらの動きを誘導している」玲は静かに答える。

「全員、警戒を強化。次の動きに備えろ」桐野が低く指示した。


屋上の空気は一瞬で張り詰め、静けさの中に緊張がさらに増した。


【時刻:午後22時17分/場所:都心・高層ビル屋上】


弾丸は玲の身体を貫かなかった。わずかに胸の辺りをかすめるだけで、衝撃は風圧としてしか残らない。


「――よし、無事か」安斎の声が無線越しに届く。


直後、銃声の方向へ向けて影が跳ねるように飛び出す。風を切る速度で、屋上の縁から縁へ、そして隣接する屋上へと肉薄したのは成瀬だった。


「成瀬、急ぎすぎるな!」玲が声を上げる。

「任せろ、目標捕捉!」成瀬の声は短く、冷徹そのもの。


屋上に残った玲は、一瞬視線を周囲に走らせ、狙撃手の潜む可能性のあるポイントを頭の中で整理した。

「全員、配置を崩すな。敵は次の一手を狙っている」


【時刻:午後22時18分/場所:都心・高層ビル屋上および隣接屋上】


「──捕らえた」


成瀬の冷徹な声が通信に乗る。短く、無駄のない音色。相手の動きを確実に押さえ込んだことを告げる、影班らしい正確さだった。


玲は微かに息を整えながら、無線を手に取り確認する。

「状況を報告しろ」


「標的確保。抵抗なし。屋上北側に固定。これより搬送準備に入る」成瀬の声は淡々としているが、その速さと正確さが、今回の作戦の緊迫度を物語っていた。


安斎と詩乃も、それぞれの視点で屋上周囲の警戒を強化し、残る潜伏ポイントを監視する。

「油断するな、次の接触者が来る可能性がある」玲が指示を飛ばす。


【時刻:午後22時19分/場所:都心・高層ビル屋上、影班監視ポイント】


詩乃が双眼鏡をのぞき込みながら即座に報告する。


「確認。狙撃者確保。加地靖人ではない……外部契約者です。身元、海外民間軍事会社──仮名使用」


玲は短く頷き、冷静に屋上の状況を見渡す。

「動きはまだあるか?」


「周囲に異常なし。潜伏者は撤退を開始しています。狙撃用の装備も回収済み」詩乃の声は淡々としているが、その眼差しには警戒の光が宿っていた。


安斎は無線で成瀬に指示を出す。

「対象は完全確保。搬送ルートを再確認。屋上から北棟側に移動開始」


玲は一歩前に出て、夜風に吹かれる屋上の端を見つめる。

「これで、第一段階は終了。次は加地靖人本体だ」


【時刻:午後22時21分/場所:都心・高層ビル屋上】


玲は一歩、風の中を進む。

霧雨が薄く舞い、ビルの縁で揺れるその外套の裾だけが、彼の存在を確かに示している。


「“目撃されてはならない事故死”──加地の狙いは俺の消去だ。」

低く、しかし確信に満ちた声。


「それが本命である以上、奴はこの付近にいる。」


沈黙が屋上を満たした。


安斎が無線越しに応える。

「確率は高い。外部狙撃者を“切り捨て駒”として投入した以上、加地はどこかで様子を見ている。……ただし、痕跡は徹底的に消しているはずだ」


桐野詩乃が、隣接ビルの陰から声を乗せた。

「玲、あなたを観測する“第三の目”が必ずある。狙撃者単体じゃ成立しない作戦。必ず“観測者”がいる」


玲は目を細め、上空・対岸ビル・反射ガラスを一つずつ見渡していく。

風が、彼の頬を静かになでる。


「……いい。ならば、こちらが探すまでもない。」


成瀬由宇が続ける。

「誘き出す気か、玲。」


玲は静かに、しかし確固として言った。

「奴は“俺が生きて動く”ことに耐えられない。なら──見せつけてやる。生きて、なお動き続ける俺を。」


その瞬間、夜の闇の奥で、誰かが息を呑んだような気配がした。


【時刻:午後22時23分/場所:都心・高層ビル群上空 通信網〈サイレント・リンク〉稼働中】


その瞬間──

静かだった“闇の会話”が、ふっと息を吹き返した。


影班専用の暗号通信網サイレント・リンク

音も光も漏らさぬ、完全密閉の指令網に、ひとつの低い声が静かに割り込んだ。


「……サイレント・リンク、全回線接続完了。帯域安定。外部傍受の兆候なし」


声の主は久遠くおん

通信潜行――電波の“影”に潜り込むことを専門とする沈黙の技術者だった。


玲は風を受けながら、わずかに目を細める。


詩乃の冷静な報告が続く。

「高熱源反応、西側通信棟に一名。端末操作中。顔、照合に入る」


安斎が短く吐き捨てた。

「……あいつか。今度こそ詰める」


玲はすぐに制止を飛ばす。

「待て。罠の可能性もある。慎重に──」


その言葉の直後、久遠の声がまたひとつ沈み込んだ。

「玲、データの流れがおかしい。操作中の端末は“囮”。本命は別回線から監視している。あそこにいるのは、本物じゃない」


玲の指先が僅かに動いた。

「つまり……“見えている姿”は罠ということか」


「断言できる」

久遠の声は、夜風にも揺るがない。

「囮に接触すれば、加地靖人は別の拠点へ即座に切り替える。まだ姿を見せる気配はない」


風が、玲のコートの裾をゆっくりと押し上げる。

屋上の影班たちは息を潜めたまま、その言葉を待っていた。


玲は静かに息を吐き、低く命じた。


「……全班、最大警戒。囮を追うな。“本物”をあぶり出す」


サイレント・リンクが、再び深い闇の底で動き始めた。


【時刻:午後22時25分/場所:都心・高層ビル屋上 影班指令室連絡網内】


しかし、次の瞬間──通信網に異変が走った。


久遠の声が途切れ、モニターに表示された信号ラインが一瞬真っ黒になる。

わずか1.6秒──それだけの短さだったが、玲には瞬時に異常が理解できた。


「……遮断されたな。時間はわずか1.6秒」


玲は眉をひそめ、冷たい風に身を固める。

「単なる障害じゃない。誰かが意図的に、我々の通信網に介入した」


詩乃が双眼鏡越しに確認を続けながら応じる。

「異常なし……いや、端末の再起動確認。遮断は確実に外部からだ」


安斎が低く唸る。

「……この瞬間を狙った狙撃、もしくは情報操作の準備だ。完全に人為的だ」


玲は静かに頷き、指示を出す。

「全班、再接続完了まで待機。遮断時間を起点に動く者を追う。奴の存在を暴くためだ」


沈黙の通信網──サイレント・リンクは再び立ち上がり、暗闇の中で微かな光を取り戻した。


【時刻:午後22時25分37秒/場所:影班サブネット・解析ライン】


「……玲。今の一瞬、データの飛びがあった。“転送”だ。奴が何かを送信した」


静かだが緊張を帯びた声が通信に割り込む。御子柴理央──記憶・情報転送の専門家、

“トランスファー・アーキビスト”と呼ばれるスペシャリストだ。


玲は風の中でまぶたを細くし、耳を澄ます。

「理央、内容は特定できるか?」


「いや、通常の通信ログとは別の層……“ステルス帯域”だ。

 攻撃系じゃない。おそらくバックアップ用。

 誰かに自分の動きを“証拠として託した”可能性が高い」


詩乃が眉を寄せる。

「逃走のための保険……?」


「違う」

理央の声が低くなる。


「受信側は……加地靖人本人の端末だ。

 つまり、今の1.6秒遮断は“加地との通信リンク確立”。

 まだ、どこかで見ている」


玲は静かに息を吐き、決意の色を帯びた声で言った。

「……なら、終わらせるしかない。理央、転送ログの追跡を続けろ。

 奴のいる場所まで導いてくれるはずだ」


風が夜気を裂き、影班の通信網は再び緊迫の色を帯びた。


【時刻:午後22時27分/場所:影班サブネット・指揮室】


玲の瞳が冷たく光を帯びる。

「……やはり、終わっていない。加地靖人は、まだ“本命のデータ”を外部に流していない」


通信ラインの向こう、御子柴理央が声を潜める。

「その可能性が高いです。現在の転送痕跡は“断片”に過ぎない。

 本命のデータは別レイヤー、暗号化も高度。

 通常の監視網では検知不可能です」


理央は端末を操作しながら続ける。

「私が解析する限り、このデータは“アクセス権限の統合キー”を持つ者しか開けない。

 つまり、加地自身か、特殊な協力者が必要です」


玲は頷き、指揮卓に手を置く。

「……なら、奴が本命を動かす前に、こちらから動くしかない。理央、全経路を追跡。

 奴の手の内に入る前に、我々が握る」


夜の室内、モニターの青白い光が玲の決意を映し出す。

“本命のデータ”──その所在を追う戦いが、今、完全に始まった。


【時刻:午後23時12分/場所:都心高層ビル屋上】


霧に包まれた夜の高層ビル。遠くで鳴るサイレンと風の唸りが、都市の底に重く響く。


その屋上、確かにいたはずの男──玲が、照準の中心から忽然と“消えた”。


屋上の縁に立つ安斎柾貴は、静かに息を吐きながら無線に声を乗せる。

「確認。対象、視界から消失。だが……フェイクではない。気配そのものが断たれた」


桐野詩乃は双眼鏡を覗き、低く呟く。

「……影縫い。奴は今、完全に視界とセンサーから“抜けた”状態。動きは読めない」


成瀬由宇が風を切る音とともに、屋上の縁から縁へと跳ぶ。

「玲殿、俺がカバーする。動きは慎重に」


霧の中、玲の存在は見えない。しかし、その瞳と意志は、確実に敵の次の一手を追っていた。


【時刻:午後23時13分/場所:都心高層ビル屋上周辺】


「……っ!? 消えた!?」


狙撃銃を構えるスナイパーの声が、わずかに震えた。彼の瞳には、直前まで確かに捉えていたはずの“標的”が、跡形もなく消えていた。


玲の動きを瞬時に追っていた標的捕捉のスペシャリスト、青山薫が無線越しに報告する。

「目標、視界から完全消失。通常の隠蔽手段ではない。気配と熱源も同時に遮断されている。これ以上の追跡には特殊解析を適用する」


屋上の霧が立ち込める中、安斎柾貴が低く呟いた。

「……影縫い、完全展開か。動きは読めない。全員、慎重に」


その瞬間、玲の存在は空間から消えたように見えた。しかし、標的捕捉スペシャリストはすでに次の瞬間に備え、データと意識を最大限に同期させていた。


【時刻:午後23時14分/場所:都心高層ビル屋上】


──“影縫い”だった。


一瞬の静寂が、屋上の霧に溶け込む。


スナイパーが背後に異変を感じ、咄嗟に振り返る。だが視界には何もない。


「……な、何だ……?」


その声と同時に、空気が微かにざわめく。玲の存在は物理的にはそこにないはずなのに、気配だけがスナイパーの背筋を這った。


安斎柾貴が無線越しに低く報告する。

「影縫い、完全展開。敵の熱源と動体感知は無効化されている。警戒、全員──」


霧と夜風の中、玲の“消えた姿”は、すでに次の行動の準備を整えていた。


【時刻:午後23時15分/場所:都心高層ビル屋上】


「──狙撃の原則を忘れたな。“照準を合わせた瞬間、己もまた見られている”」


低く、冷徹な声が霧の中に響いた。


振り向く暇もなく、敵スナイパーの手首に鋭い衝撃が走る。銃口が天を向き、弾丸は発射されずに吹き飛ぶ。


成瀬由宇が素早く飛び出し、その身体を力強く押さえ込む。スナイパーの呼吸が乱れ、瞳には驚愕が宿っていた。


「動くな……完全に押さえた」


成瀬の冷徹な声が無線に乗り、屋上の霧と夜風に溶けていった。


【時刻:午後23時16分/場所:隣接ビル屋上】


安斎柾貴は低くかがみ、夜風に吹かれながら隣のビルの屋上から屋上全体を監視していた。手元の通信機に口を寄せ、冷静に確認する。


「……玲、確認する。“影縫い”を使用したな?」


屋上に立つ玲は一瞬視線を返し、深く息をつく。その目には覚悟の色が宿っていた。


「……ああ。代償は承知だ」


冷たい夜風が二人の間を通り抜け、沈黙の屋上に緊張を残す。


【時刻:午後23時17分/場所:隣接ビル屋上】


玲は肩で荒い息をしながら、夜の闇に混じって静かに声を落とした。


「……影縫いだ。周囲の光も、気配も、すべて歪ませて、俺自身を影の中に溶かす。……だが代償は大きい。神経への負荷は想像以上だ」


安斎はその言葉に頷き、慎重に屋上を見渡す。遠くでサイレンが響く中、二人の呼吸だけが冷たい空気に溶け込んでいった。


【時刻:午後23時18分/場所:隣接ビル屋上】


玲は闇に身を沈めながら、服部雅清の言葉を思い出す。


「気配を完全に絶つということは、世界から自分の存在を一時的に切り離すということだ……」


掌にわずかな震えを覚え、息を整える。神経と意識が極限まで消耗しているのを、玲は静かに感じ取った。


【時刻:午後23時19分/場所:屋上】


玲は暗闇の中で低く呟く。


「これで狙撃の脅威は一つ排除したが、奴の“本命”はまだ動いていない……」


その声は冷静を装いながらも、緊張と覚悟に満ちていた。


【時刻:午後23時22分/場所:屋上】


通信端末から青山薫の声が低く響く。


「玲、重要情報。今、海外経由で暗号通信の新しいログが発見された。加地靖人が今夜、“何かを東京湾エリアで起動する”可能性が高い。コード名は──《ミラー・ゼロ》」


玲の眼差しが一層鋭くなる。背後では、通信・暗号解析のエリートである青山薫の指先がキーボードの上で止まることなく動き、全てのデータをリアルタイムで解析していた。

「《ミラー・ゼロ》……奴の最終目的か。解析ログを一秒たりとも見逃すな」


風が屋上を吹き抜け、緊張が夜気に混ざる。


【時刻:午後23時23分/場所:屋上】


玲が《ミラー・ゼロ》の名を口にした瞬間、影班全員の間に重い沈黙が流れた。

それは、過去に極秘裏で進められていた“失われた計画”──既に封印され、表には決して出ることのなかった「記憶改竄ネットワーク」のプロトタイプを示すコードネームだった。


静寂の中、解析担当の御子柴理央が声を潜めて言う。

「……このコード、過去の極秘作戦と完全に一致します。私は当時、関与していた者たちのデータ復元を担当していました。つまり、あれは単なる伝説や噂ではなく……実在した計画です」


玲は視線を夜景に走らせながら、唇を引き結ぶ。

「奴は、封印された計画を再び動かそうとしている……。我々は、あの“失われた計画”の正体を突き止めなければならない」


屋上の風が冷たく吹き、影班たちの背筋を震わせる。


【時刻:午後23時28分/場所:地下解析室】


ジリ……ジリ……。

旧型のハードディスクが低く軋むように音を立て、青白い端末の画面上でマッピングデータが次々に切り替わる。


御子柴理央がモニターに指を滑らせ、ログの断片を拡大する。

「……加地靖人の痕跡がここにあります。東京湾エリア、複数の地下施設にアクセス履歴……ほぼ同時に起動される可能性があります」


玲は画面に目を凝らし、歯を軽く噛む。

「奴は狙いを分散させて、複数のポイントで同時に《ミラー・ゼロ》を作動させるつもりだ……。時間との勝負だ」


静寂の中、ジリ……ジリ……とハードディスクの軋む音だけが響く。

データの中に潜む“失われた計画の痕跡”が、今、徐々に姿を現し始めていた。


【時刻:午後23時33分/場所:地下解析室】


青白いモニターの光が、水無瀬透の顔を淡く照らす。

彼の瞳は画面に釘付けになり、無言のまま指先だけがキーボードの上を滑る。


「……ここだ」


水無瀬はつぶやき、膨大なログと位置情報の断片を指差す。

「データロガーの履歴、公共ネットワークの挙動、監視カメラの微細なノイズ……全てを突き合わせた結果、加地靖人は間違いなく、東京湾周辺の旧港湾施設に潜伏している」


画面には、海沿いの倉庫群と、アクセス履歴を示す赤い点が幾つも浮かんでいた。

「これが“実在の痕跡”だ。仮想でも偽装でもなく、現実世界に存在する証拠。奴の足取りは逃れられない」


玲は横で頷き、指を画面に滑らせる。

「よし、水無瀬。これで次の行動が定まる。俺たちは奴を、この目で確実に捕える」


【時刻:午後23時40分/場所:地下解析室】


玲はモニターを睨みつけ、冷たい声で言った。

「現場には“痕跡”だけが残されていた。奴は最初から、囮のタイムラインを用意していた……場所ではなく、“時間”で欺いている」


横で解析データを整理していた水無瀬透が、無言で頷く。

「まさに時間の痕跡の操作です。データ上に残されたわずかな遅延、位置情報の微妙なずれ、それを意図的に組み合わせることで、目撃者も監視カメラも、全て誤誘導される」


玲は指を画面上のタイムラインに置き、赤く表示された“ずれ”をなぞる。

「これを正確に見抜けるのは、お前しかいない。痕跡と時間の専門家、水無瀬透」


水無瀬は淡々と答える。

「はい。奴の虚構を、現実に引き戻すのは、今しかない」


【時刻:午後23時52分/場所:地下解析室】


玲の視線がモニターに突き刺さる。

「まさか、あの“交差点カメラ”の映像改竄も──」


隣で解析を続ける九条凛が答える。

「そう。映像の中の“彼女”が落ちた時間は午後8時03分だが、カメラが記録したフレームには意図的な時間のズレが挿入されている。秒単位で誤認させる高度な改竄です」


玲は眉をひそめる。

「秒単位で……奴は全てを計算して動いているのか」


凛はモニターの映像を拡大し、赤いフレームを指し示す。

「はい。この種の映像改竄を正確に検知できるのは、交差点カメラの専門解析官だけです。私が担当します」


玲は短く頷き、次の指示を心に描いた。

「ならば、この“時間の嘘”を暴き、全ての目撃証言と記録を照合する」


【時刻:午後23時58分/場所:地下解析室】


水無瀬はキーボードを叩き、画面を切り替えた。

モニターには、監視網ログに残された別IDの移動記録が映し出される。


「……これは……」玲が低く呟く。

「加地靖人名義の別の顔認証記録です。時間と場所が異なる複数のログが存在しています」


水無瀬は画面をスクロールしながら続ける。

「同一人物が複数の場所に同時に現れたように見せかける、“影のタイムライン”です。物理的に存在していない場所に、痕跡だけを残して欺いています」


玲は眉をひそめ、机の資料を再確認する。

「なるほど……奴は現場を直接操作するだけでなく、痕跡や記録そのものを“偽装”しているのか」


凛が淡々と付け加える。

「正確に解析できるのは、こうした痕跡と時間の専門家だけです。私たちでなければ、偽装を見抜けません」


玲は目を閉じ、一息つく。

「……ならば、奴の時間を切り崩す。痕跡の嘘を暴き、本命のデータに辿り着くまでだ」


【時刻:午前0時12分/場所:地下解析室・第2スクリーン前】


水無瀬 透は、静かに息を吐いてから口を開いた。

彼の声は低く、しかし確信に満ちていた。


「……すべて、録画された“演出”だ。」


玲、沙耶、凛、青山たちが一斉にモニターへ視線を向ける。

画面には、交差点カメラの映像、フレーム単位で区切られたタイムライン、そして異常値が赤字で表示されていた。


水無瀬は続ける。


「監視カメラの編集痕から逆算した。

本来は“すでに死んでいた彼女”を、まだ生きて歩いているように見せるための……細工が施されていた」


沙耶が息を呑む。

「じゃあ……あの“午後8時03分”って時間は……?」


「偽装された“事件発生時刻”だ。」

水無瀬は指先で別ウィンドウを開く。


そこには、複数の監視カメラ映像の“合成エリア”が赤く表示されていた。


「目的は二つある。」


彼は指で二本の指を立てた。


「――一つ。目撃者の記憶の撹乱。

“確かに見た”という思い込みを、映像が補強するように作られている」


玲が低く呟く。

「だから証言が揺れるのか……見たものと、覚えているものが一致しない」


水無瀬は頷き、次の画面を出す。


「――そして二つ目。

“事件が起きたとされる時間”そのものを改ざんすることで……」


画面中央の赤いラインが、わずか数分だけ動く。


「加地靖人の“現場からの不在”を成立させる。

事件の時間をずらすことで、奴は鉄壁のアリバイを得ていた」


青山薫が眼鏡越しに目を細める。

「……時間の偽装工作か。やり口が徹底しているな」


水無瀬は静かに答えた。


「これは“時間痕跡操作”の専門家の仕業だ。

普通の編集ではない。タイムスタンプ、映像ログ、目撃証言──

全部に矛盾が生じない絶妙なラインで改竄されている」


玲はゆっくりと立ち上がり、拳を握った。


「……つまり、“事件が起きたとされる時間”を突き崩せば、加地の偽装はすべて崩れる」


水無瀬は深く頷く。


「はい。奴の最強の武器は“時間そのものの嘘”です。

そこを暴けば、本命の隠し場所へ辿り着けます」


部屋に緊張が走った。


“時間を巡る戦い”が、今まさに幕を開けようとしていた。


【時刻:午前0時12分/場所:地下解析室・第3モニター前】


玲の低い声が、薄暗い部屋に落ちた。


「そこまで細工するってことは、“時間そのもの”に秘密がある。

加地靖人は、午後8時03分──“自分がいないことが証明される時間”を、意図的に作りたかったんだ」


その言葉に、奥の席で黙っていた男がゆっくりと立ち上がった。


白いシャツに黒のスラックス、無駄のない動作。

彼の名は── 時野ときの さく


“時間そのものの挙動”を読み解く、時系列構造解析のスペシャリスト。

警察内部でも名が知られた、時間矛盾の検証における最終切り札だった。


時野はモニター上の複数のログを見比べ、静かに口を開く。


「……確かに“午後8時03分”はおかしい。

映像、GPSログ、交通IC記録、目撃証言──

一見バラバラなのに、すべてが“同じ時刻”を指すように調整されている」


沙耶が眉をひそめる。

「普通ならズレるはずのログが、全部揃ってる……?」


時野は短く頷き、細い指で画面上の三つのログを同時に拡大した。


「これは“時間同期調整タイム・アラインメント”と呼ばれる技術だ。

高度だが、加地のような計画犯なら扱えるだろう」


玲と安斎が一瞬だけ視線を交わす。


水無瀬が続けるように言った。


「……つまり加地は、複数の監視システムの“時計そのもの”に干渉したってことか?」


「干渉…というより、“ずらしてから揃えた”んです」


時野は淡々と説明した。


「本来、機器ごとの時計には数秒から数十秒の誤差がある。

だが加地は、その誤差を“あえて消した”。

同じ時刻に揃えることで──“完璧なアリバイ時間”を作りたかったんですよ」


玲の目が鋭くなる。


「……つまり、“午後8時03分”という瞬間そのものが捏造された“虚構の時間”だと」


時野は静かに言った。


「はい。

あの瞬間は、現実の時系列から“切り取られた空白”です。

そこにいたはずの人物も、いなかった人物も──情報上はどちらにもできる」


沙耶が息を呑む。


「……時間そのものを……いじってるの……?」


「時間は改ざんできません」

時野はきっぱりと言った。


「だが、“記録された時間”は改ざんできる。

そして加地靖人は、まさにそれをやった」


玲は静かに口を開く。


「つまり──“午後8時03分”を崩せば、加地のアリバイも崩せる」


時野朔は深く頷く。


「はい。そのためには、“本来の時間”を再構築しなければならない。

私がそのタイムラインを復元します。

──“加地靖人が消したはずの、真実の時間”を」


静寂。


次の瞬間、その場にいた全員の胸に、緊張と決意が重く落ちた。


“時間そのものとの戦い”が、ついに始まる。


了解しました。

では、線引きなし・小説形式・時間と場所表記あり・詳細セリフありで、先ほどのシーンを再構成します。



【22:41 都内・第三調整局 記録解析室】


ジリ……ジリ……。

旧型ハードディスクが低く唸り、端末の画面がゆっくりと切り替わる。

暗がりに浮かぶ複数のウィンドウ。その一つで、乱れたログが再構築されていく。


水無瀬透は眉をひそめ、画面を凝視した。


「……来たな、同期パケットの異常点。」


その時、通信機が短く震えた。


『水無瀬、聞こえるか。こちら港区。狙撃は防いだ──だが、奴が“ミラー・ゼロ”にアクセスしようとしている』


声の主は影班の安斎柾貴。

背後の風切り音から、走りながらの通信だとわかる。


水無瀬はすぐに別ログを呼び出し、指先を滑らせるように解析ラインをまとめる。


「……了解。こっちでも照合が取れた。」


画面には、被害者が転落したとされる時間──午後8時03分。

その“数秒前”と“数秒後”の記録だけが、まるで誰かに撫でられたかのように滑らかで、異常に整っていた。


水無瀬は低くつぶやく。


「“転落の時刻改竄”は、ただの隠蔽じゃない……これは“テスト”だ。」


指がキーボードを叩くたび、大量の監視ログが束となって流れ、

まるで一つの川のように“特定の時間”へ収束していく。


「奴は記録だけじゃない。」


水無瀬は背筋を伸ばし、静かに息を吸い込んだ。


「“記憶のタイムライン”そのものを操作しようとしている。」


沈黙。

機械の駆動音だけが、記録解析室の夜を満たす。


水無瀬透──

転落時刻改竄と記憶タイムラインの異常を扱う、時間構造のスペシャリスト。


いま画面に映る“揺らいだ時間”は、

加地靖人が仕掛けた偽装事件の核心そのものだった。


【22:44 都内・第三調整局 記録解析室】


解析室の空気は、機械の熱と緊張でわずかに揺れていた。

水無瀬透は、乱れるログの収束点──“改竄された時間”を見つめ、ゆっくりと椅子から立ち上がった。


画面には、転落時刻 20:03 の周囲だけが“不自然に滑らか”な波形を示し、

そこだけがまるで 時間そのものが磨かれたように均質化している。


水無瀬はヘッドセットに指を添え、低く呟いた。


「……ここから先は、記録じゃ届かない領域だ。」


通信の向こうで安斎が息を呑む気配がした。


『つまり……“記憶の層”まで改竄されているということか』


「そういうことだ。加地靖人は──記録と記憶の境目を、完全に曖昧にしている。」


水無瀬の指先がモニターの一点を軽く叩く。

そこには“存在しないはずの時間”を示す、微かなノイズの揺らぎ。


「これを解くには、ひとりしかいない。」


短い沈黙ののち、水無瀬ははっきりと口にした。


「ようやく、出番だな。」


その声には、確信と、わずかな覚悟が宿っていた。


「ユウタを起こせ──あの少年に、“本当の時間”を見てもらおう。」


ユウタ──

記憶の証人。

時間を“記録”ではなく“存在の痕跡”として視ることができる、唯一のエリートスペシャリスト。


水無瀬はモニターの青い光を背に、

これから訪れる“記憶の領域への突入”を静かに見据えた。


【22:58 港区・裏路地の弁当屋裏口】


夜風に揺れるゴミ袋の擦れる音さえ、ここでは異様なほど大きく響いた。

看板も消えた古い弁当屋の裏口。その闇の裂け目から、黒い影が二つ、ゆっくりと浮かび上がる。


足音はない。

呼吸さえ、外へ漏らさない。


“服部一族・偽装回収部隊”。

都市の裏側で存在を語られることすらない影の職人。

残された痕跡を拾い、消し、無かったことにする──最も扱いが難しく、最も危険な現場にだけ投入される。


その先頭に立つのは、ひっそりと笑う中年の男だった。


おぼろ


細い体つきだが、動きには獣の気配があり、目の奥には狂気じみた光が宿っている。

しかしその異様な殺気の裏に、誰よりも強く抱いているものがあった。


──玲と朱音だけは、絶対に傷つけさせない。


血で濁った過去を持つ朧が、その二人だけには穏やかな目を見せる。

彼はそれを、己の贖罪であり、唯一の“正気”として抱いていた。


朧はポケットから薄い金属片を取り出し、乾いた舌で軽く歯を鳴らした。


「……“あいつら”が動いたな。」


隣に立つ若い部隊員が、わずかに身構える。


「加地靖人の“ミラー・ゼロ”関連ですか。痕跡は相当荒れていると──」


朧は首を横に振り、低く笑った。


「違ぇよ。あれは“消し忘れ”じゃねぇ。

 わざとだ。俺たちへの“挑発”だ。」


夜気がひゅう、と路地を抜ける。


朧の顔が、街灯の残光にわずかに浮かんだ。

いつもと違う。

殺気ではなく──怒りだ。


れいを狙った狙撃……あれが本当に“手加減”だったなんて笑えねぇ。」


部隊員が息を呑む。


朧は薄い金属片をぱちんと折るように指で弾き、足元へ捨てた。

街路の闇がそれをすぐに飲み込む。


「……いいか。俺はな、玲と朱音に指一本でも触れた奴は、

 地面に名前すら残らねぇ形で片付ける。」


穏やかに、しかし氷のように冷たい声だった。


次の瞬間、朧は闇の中へと消える。

部隊員もその背を追って影に溶ける。


港区の夜の雑踏は、何も知らないまま流れ続ける。


──だが、この瞬間、“服部一族”が本格的に動き始めた。


【23:01 港区・弁当屋裏口の裏路地】


闇に沈む通路の奥から、もう一つの影がゆっくり歩み出る。

若いが、気配は朧よりも静かで鋭い。

黒いフードの奥に潜む瞳は、夜獣のように光を飲み込んでいた。


かすみ


EMPスキャナを展開しながら、周囲の電子反応を掃き取るように分析していく。

指先の動きはわずか。

しかしその沈着さには、訓練という枠を超えた「実戦の慣れ」が滲んでいた。


スキャナが低く唸り、小さなノイズを拾う。

霞はその場にしゃがみ込み、アスファルトの表面を指先で撫でるように確かめる。


「……残留EMP。微弱。まだ新しい。

 “奴ら”、ここを通った形跡がある。」


朧が横目でちらと見る。


「霞、お前の読みか。」


霞は頷くと、わずかに口を引き締めた。


「玲さんが言っていた“偽装ルート”──

 その補助にEMP撹乱装置を使っていた可能性があります。」


朧の目が細くなる。


「つまり、敵は本格的に足跡を消し始めているってわけか。」


霞は、手にしたスキャナを閉じて立ち上がる。

その横顔には、荒事を恐れるどころか、むしろ静かな闘志が宿っていた。


「……玲さんに近づくものは、俺は絶対に許さない。」


声は平坦。

しかしその底には、確かな血の温度があった。


霞は朧の横に並び、わずかに拳を握りしめる。


「俺は玲さんに命を救われた。

 恩を返す相手を傷つける奴がいたら……

 そいつが誰でも、どんな理由でも、容赦しません。」


朧がくつ、と小さく笑った。


「お前も相当な“甘ったれ”だな。

 だが──それでいい。」


二人の影が並ぶ。

夜風が、彼らの黒衣を低く揺らす。


朧が短く告げた。


「霞。行くぞ。“痕跡”はすでに消されてる可能性が高い。

 だが──俺たちが拾えねぇ痕跡なんて、この街には存在しねぇ。」


霞は迷いなく頷いた。


二人は路地の奥へ、完全な闇へと溶けていく。


──服部一族・偽装回収部隊。

その本当の恐ろしさは、“敵が気づいたときにはもう全てが終わっている”ということだった。


【23:48 港区・地下会議スペース】


ひんやりとした空気の中、蛍光灯の白が円卓の上だけをぼんやり照らす。

重い扉が閉まった瞬間、そこは完全に“外界と切り離された作戦空間”となった。


影班──成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴。

服部一族──雅清、朧、霞。

御子柴理央、橘奈々、青山薫。

そして、円卓の最奥に玲が座る。


全員が揃うのは、これが今夜初めてだった。


奈々がタブレットを置き、深く息を吐く。


「……玲さん。

 狙撃者の装備、ほとんどが“外部仕様”。

 雇われだけど、加地靖人の資金ルートと繋がってます。」


玲は黙って頷き、視線だけで続けるよう促す。


詩乃が追加する。


「拘束中の狙撃者の端末からは……ほぼ全削除。

 でも、彼が受け取った“最終座標”だけは復元できました。」


― 東京湾沿岸。

 立入禁止区域・第七コンテナヤード。


室内にわずかな緊張が走る。


御子柴理央が腕を組み、静かに言葉を落とした。


「“ミラー・ゼロ”の真正な起動地点でしょう。

 あれはネットワーク全体に偽装時間帯を上書きする仕組みのプロトタイプ……

 本格運用されたら、記録も証言も“同じ嘘”を共有する。」


青山薫が眉をひそめる。


「証拠隠滅……じゃない。

 “現実そのもの”を、奴の都合のいい時間に書き換えるってことか。」


朧がその言葉に低く鼻を鳴らした。


「ふざけた真似を……。玲と朱音に手を出したあの野郎、地の果てまで追い詰めてやる。」


霞も静かに同意する。


「玲さんを消すための“事故死のタイムライン”……。

 それを完成させたら、本当に歴史から消されていたかもしれない。」


円卓の中央で、玲がわずかに呼吸を整える。


その声は落ち着いていたが、冷えた鋼の芯が通っていた。


「……加地靖人の目的は二つ。

 一つは、俺個人の消去。

 もう一つは、“ミラー・ゼロ”による時間改竄を完成させ、

 証人となるユウタや朱音の記憶さえ、都合のいい形に上塗りすることだ。」


成瀬が短く言う。


「なら、答えはひとつだ。

 今すぐ動く。」


椅子の音すら響かせず、全員が一斉に立ち上がる。


玲は最後に言葉を落とした。


「……これより第七ヤードへの突入作戦を開始する。

 加地靖人を必ず捕らえる。

 “記憶の奪取”も、“事故死”も──

 今日で終わりにする。」


その瞬間、地下会議スペースの空気は、

戦いの前の静かな凪へと変わった。


【23:49 港区・地下会議スペース】


玲は円卓の前へ一歩進み、全員を見渡した。

その目は揺らぎひとつなく、静かな闘志の光だけが宿っていた。


低く、だが全員の胸に刺さる声で話し始める。


「……ここにいる全員は、今夜、誰よりも“真実”に近い場所にいる。

 加地靖人は、記録も記憶も、時間そのものも捻じ曲げて、逃げ続けてきた。

 だが──それも、ここで終わらせる。」


影班の三人が微動だにせず聞き、

服部一族の雅清と朧、霞も目を細める。

理央、奈々、青山薫も、呼吸を整えながら玲の言葉を受け止めていた。


玲は続ける。


「“ミラー・ゼロ”が起動すれば、関係者全員の記憶に“同じ嘘”が上書きされる。

 事故死も、目撃証言も、十年前の倉庫事件さえ……すべて奴の好きに書き換えられる。」


成瀬が小さく息を呑み、詩乃が手元の双眼鏡を静かに握りしめる。


玲は視線を全員に巡らせ、さらに踏み込んだ。


「今夜動くのは、ただの事件解決じゃない。

 “世界が捻じ曲げられる瞬間”を止める戦いだ。

 そして──俺たちだけが、それを止められる。」


朧が口元で笑い、霞は静かに頷く。


玲は最後に言い切った。


「全員──覚悟を決めろ。

 第七ヤードへ向かう。

 加地靖人の歪んだ時間を、ここで終わらせる。」


言葉が落ちた瞬間、

全員の眼差しが“戦いに向かう者の光”へと変わった。


【24:12 湾岸エリア・第七ヤード 入口】


夜の街に静かな風が吹いていた。

高層ビルの光が湾岸の水面にゆらぎ、車のヘッドライトが遠くで流れていく。

その喧噪の“すぐ横”にある第七ヤードだけが、まるで別世界のように沈んでいた。


玲が立つ地点──門前の影は、ありえないほど“音がない”。


足音も、風切り音も、虫の音さえも途切れ、ただ冷えた夜気だけが張りつめている。

まるでこの一帯だけ、時間が薄くなっているような静寂。


玲はその異様さを確かめるように、周囲へ視線を走らせた。


「……やはり、ここか。

 “記憶のレイヤー”が削がれている。

 ミラー・ゼロの干渉がもう始まってるな。」


耳元の通信が、微かにノイズを帯びる。


安斎の声が入る。


「玲、慎重に行け。

 この沈黙……“音響の誤差”じゃない。何かを吸われてる。」


玲は短く息を吸った。


「音だけじゃない。

 ここ、思考も少し遅れる……“記憶の帯域”が狭まってる。」


成瀬が別ルートから囁く。


『つまり、奴の仕掛けの中心……“門前で既に異常”と。

 加地靖人、確実にここにいる。』


夜の消えたヤード入口で、玲はゆっくり歩き出す。

その一歩ごとに、まわりの“沈黙”がひび割れるように揺れた。


風が吹いているはずなのに、頬には何も触れない。


「……行くぞ。

 本当の時間を取り戻すのは、ここからだ。」


【24:14 湾岸エリア・第七ヤード内部】


湿った鉄の匂いが漂うコンテナ群の狭間。

霧混じりの薄闇の中で、玲は静かに片膝をついた。


そして──指先を地面に触れた瞬間だった。


空気が“沈んだ”。


影が“押し広がった”。


「……《影縫い・完全展開》」


玲が低く呟いたとたん、世界の輪郭がきしむ。

コンテナの影、照明柱の影、フェンスの影、積載車の影、

人が歩いてできた微細な影──

そのすべてが、黒い糸のようにわずかに震え、互いに伸び合い、結びつき、やがて一つの巨大な網へと変貌していく。


ザ……ッ。


足元から奔った黒い波は、目に見えぬ境界となってヤード全域を覆った。


安斎が息を呑む声が通信に乗る。

「……周囲の“光の揺らぎ”、全部消えた。玲、これは……影域の完全支配か?」


玲は答えない。すでに深く集中していた。


影は光に従って形を変える──だが、

今やこの場所にある影はすべて“玲の意思”で統合されていた。


「ここに入った瞬間……俺が見逃す動きは、一つもない。」


わずかな足音、空気の振動、熱源の揺らぎ。

それらはすべて影を通して玲へ流れ込んでくる。


成瀬が囁くように言う。

『……完全展開の“影縫い”なんて、十年前以来じゃないのか。』


「代償は分かっている。だが、今夜だけは外せない。」


玲の声は淡々としていた。

だがその奥には、“圧倒的な覚悟”が張り詰めている。


詩乃のレポートが入る。

「反応多数。ヤード内、影の揺らぎに小さな変動……誰かが“動いてる”。」


玲はゆっくりと顔を上げた。


「……いいさ。

 どこへ逃げようと、この空間に“影を持つ限り”──俺の目から逃れることはできない。」


【24:16 湾岸エリア・第七ヤード内部】


霧の流れが変わった。

わずかに、影の網が“沈む”。


玲はその微細な変化を逃さなかった。


「……まだだ。ここまで動きがあるのに、“本命”が現れない。」


安斎が即座に返す。

「加地本人じゃないにしても──“執行役”が来るはずだ。

 あいつは単独で行動しない。必ず、計画遂行の最後に“手”を置く者を近くに置く。」


そのとき、別周波数から新しい声が割り込んだ。


低く落ち着いた声──立花桂一たちばな けいいち

加地の過去を最も深く追ってきた、“執行役専門”の追跡スペシャリストだ。


「……聞こえるか、玲。執行役について情報更新だ。」


玲:「桂一か。何が分かった?」


桂一は短く息を吐くように言う。

「加地靖人の“執行役”──正式名称は《ハンドラー》。

 計画実行時、現場における“最終判断”と“死の成立確認”を担当する影の役職だ。」


奈々が小さく息を呑む。

「……死の成立確認……」


桂一は続ける。


「ハンドラーは常に二人以上で動く。

 一人は“外部作業”──物理的工作を。

 もう一人は“内部作業”──データ改竄や監視網の消去を担当する。」


詩乃:「つまり……まだ来ていないのは“内部作業”のほう?」


「その可能性が高い。」

桂一の声は落ち着いていたが、明らかに緊張が滲んでいた。


「そして──執行役の特徴は三つ。


 一、現場に足跡を残さない。

 二、影を踏まない。

 三、ターゲットが“死ぬ直前”に必ず視認している。


 ……だから“記録”と“記憶”の両方から消える。」


玲の眉が動いた。


「──影を踏まない、か。」


桂一:「ああ。

 “影縫い・完全展開”で影を結んだ今なら、逆に“影を踏まない足跡”だけが、浮かび上がるはずだ。」


影を結んだ空間の中で──

ただひとつ、“影を持たぬ存在”。


玲はゆっくりと、影の網へ手を伸ばした。


風が止まる。


「……見つけた。」


影の海のど真ん中。

たった一ヶ所だけ、影が“抜け落ちている空白”。


そこに──“誰かが立っている”。


玲は低く告げた。


「執行役。《ハンドラー》……この場に、もう来ている。」


【24:22 湾岸エリア・第七ヤード屋上】


玲は影縫いで繋がれた黒い空間の中、視線を朱音の存在に向けた。


「……朱音は、奴らにとって決して見逃せない存在だ。」


安斎が冷たく応じる。

「そうだ。ターゲットは玲だけじゃない。朱音、そして“情報接点”になり得る者──すべてが抹消対象だ。」


桐野詩乃が双眼鏡越しに屋上の状況を確認しながら付け加える。

「彼女がその場にいる限り、加地や執行役は必ず動く。無防備にはさせられない。」


玲の瞳に覚悟が宿る。

「ならば……俺たちは守る。どんな犠牲を払っても、絶対に――」


安斎が軽くうなずき、背後の闇に身を沈める。

「了解。朱音を守る。玲、あんたも同時に動けるように。」


霧に溶け込む夜風の中、黒衣たちの緊張が、湾岸の闇をさらに深く染めていく。


【24:25 湾岸エリア・第七ヤード屋上付近】


背後の路地にある電灯の影が、わずかに揺れた。


玲は静かに息を整え、その動きに反応する。

「……風じゃない。誰かが踏み込んだ。」


成瀬由宇が通信越しに確認する。

「了解。侵入の兆候を捕捉。微細な気配だけで動きを把握。対象はまだ屋上には到達していないが、影の中には入っている。」


玲の目が鋭く光る。

「なるほど……ただ一歩、踏み込むだけで俺の網に引っかかる。影縫いの感知範囲内だ。」


桐野詩乃が双眼鏡越しに屋上の縁を警戒しながら報告する。

「侵入者は小回りの利く者だ。慎重に、だが確実に追尾可能。」


玲は影を繋ぎ合わせるように視線を巡らせる。

「よし、成瀬、安斎、待機。侵入者を捕捉次第、即時対応。逃がすわけにはいかない。」


湾岸の夜風に混ざるわずかな物音が、屋上の緊張をさらに張り詰めさせた。


【24:27 湾岸エリア・第七ヤード屋上】


玲は深く息を吸った。


その瞬間、影が“波”を打つように揺れ、屋上を中心とした半径25メートルの空間すべての動きが視界に浮かび上がる。


「……これが、影縫い・完全展開の感覚か」


安斎柾貴が通信越しに確認する。

「動きが可視化されている……正確無比だ。逃げ道はゼロ。」


桐野詩乃も目を細める。

「微細な揺れも、足音も、呼吸も……全て捕捉可能ね。」


玲の瞳は冷たく光る。

「よし、誰が動いても、どこから来ても、必ず捉える。朱音を狙う者は、ここを通させない。」


湾岸の夜風が、影の波に軽く揺れる。都市の明かりが、玲の決意を静かに照らしていた。


【24:28 湾岸エリア・第七ヤード屋上】


玲の視界の端、屋上の排気口に熱源反応が浮かぶ。


「──上か」玲は低く呟く。


右側の側道では、白いワンボックスの中で通信の遮断信号が稼働を始めた。


「……奴ら、情報を封じにきている」安斎が短く報告する。


そして左側路地から、地上を踏みしめる“靴音”が微かに響く。


「動きはわずかだが、質量感とリズムから男物、軽戦闘用……間違いない、接近している」水無瀬透の声。彼は靴のソール痕から人物の重量、移動速度、接近角度までも正確に読み取れる。


玲は影縫いの波を広げ、三方向すべての接近を同時に捕らえる。

「──3方向同時。避けられぬ接近だ。迎撃態勢、全員、準備。」


湾岸の夜が、一瞬にして張り詰める。


【24:31 湾岸エリア・第七ヤード屋上】


玲は低く、しかし断固たる声で通信網を通じて全班に指示を飛ばした。


「全班へ。3方向、同時展開──“偽装事故”の準備が始まった。止めるぞ。朱音は結界をはれ……生きて、この夜を越える」


通信の向こうで、影班、服部一族、そしてサポート部隊が瞬時に動きを固める。


「玲殿、対象は本当に高度な偽装技術を使ってくる……“事故”を演出する精緻なプロセスだ」霞の声。彼はEMPや妨害電波、機械的仕掛けを瞬時に解析できる、偽装事故のエリートスペシャリストだった。


「承知。全班、朱音を中心に防御態勢を固めろ。奴らは演出の隙をつくが、我々はすべてを読み切る」玲は影縫いの感覚を最大に広げ、屋上に張り巡らせる。


湾岸の夜風が冷たく吹き抜ける中、運命の瞬間が静かに迫っていた。


【24:32 湾岸エリア・第七ヤード屋上】


冷たい風が屋上のコンクリートを叩く。加地靖人は静かに息を吐き、狙撃銃のスコープを覗き込む。


銃口は玲の立つビル入口を正確に捉えている。だが、彼の指はトリガーにかけられず、微かに震えていた。


「……狙うべき相手は、ただの標的じゃない」加地の低い独り言。


彼の視界の中心で、玲は微動だにせず立っている。影縫いによって周囲の影が微細に揺れ、加地の狙撃感覚を微妙に狂わせていた。


遠くの通信端末で、霞の声が低く響く。

「玲殿、偽装事故は始まった。奴の動き、全て監視下に置いている……だが、この男は自分の存在を意識しすぎている」


加地は狙撃のタイミングを見計らいながらも、胸の奥に潜む不安を押し殺すことはできなかった。


【24:34 湾岸エリア・第七ヤード屋上】


低い唸り声とともに、加地の指がわずかに震える。


「……自分が……やられる側か」彼の声は風にかき消され、周囲には冷たい静寂だけが残った。


加地靖人は“K局”──かつて日本政府直属の特殊暗殺部隊に所属していた男だ。冷徹かつ正確、任務遂行率は常に100%。身体能力、狙撃精度、情報分析──すべてにおいて比肩する者はいなかった。


「任務の成功率……100%、だが……」加地は独り言を続ける。今夜の相手は、ただの標的ではない。


玲の影縫いが周囲の光と影を微細に歪ませ、加地の感覚を完全に揺さぶる。

「……相手は、想定外の存在……」彼の瞳に、わずかな焦りが宿った。


屋上の風がさらに冷たく吹き抜け、K局の男でさえ、この夜の“異常な緊張”を肌で感じていた。


【24:36 湾岸エリア・第七ヤード屋上】


加地の目が暗視スコープ越しに広がる闇の中の“影”を捉えた。


「……なんだ、この布陣は」低く吐き出す声に、苛立ちと警戒が混じる。


ビル群を縫うように配置された影班の面々──桐野詩乃、成瀬由宇、安斎柾貴、服部一族の忍たち──まるで蜘蛛の巣のように玲を守っていた。


「狙撃のチャンスは、必ず……来る」加地は冷静に自分に言い聞かせる。

その指先はトリガーに触れ、呼吸を整える。夜の闇の中、緊張はまさに臨界点に達しつつあった。


【24:37 湾岸エリア・第七ヤード屋上】


加地の喉がわずかに鳴った。

風がスコープを横切るたび、狙撃線が細く震える。


「俺はただの狙撃手じゃない……」

呟きは、夜気に溶けるほど低く鋭かった。


「K局のエリートだ。“囮”にされるわけにはいかない──」


瞳の奥には、かつてK局の訓練で叩き込まれた“囮排除の鉄則”が過ぎる。

敵が複数の布陣を敷くとき、必ず一つが偽装されている。

それを見破れなければ、任務は失敗し、死を意味した。


「玲を消す。全て……終わらせるために」


加地の言葉に合わせて、耳元のインカムがわずかに反応した。

“囮のトレース”──敵がどの動線を本命に見せ、どこを死角にしているか。

K局時代に培ったその分野のスペシャリストとしての勘が、今、加地の全身に走っていた。


スコープの中心、闇に沈むビルの出入口。

その影の一部が、わずかに“ズレた”。


「……あそこだ。影の濃度が不自然だ」


加地は息を殺し、引き金へ指をかけた。


【24:38 湾岸エリア・第七ヤード屋上】


加地靖人は、胸の奥で渦巻く焦燥を押し殺しながら、スコープ越しの闇を凝視した。

“影縫い”──玲特有の空間支配技法。

通常の熱源探知も、光学照準も、気配察知も通用しない。


だが。


加地は、ただの狙撃手ではない。

K局時代、影技術を対処するために編み出された裏技法──

その名も “影抜き(かげぬき)”。

影縫いの結界の継ぎ目、“縫いそこねた影の境界”だけを狙い撃つ、極限の狙撃術。


「……玲。お前の“影縫い”は完璧じゃない」


彼は静かに言った。


「影は生き物だ。張り詰めれば、必ずどこかで“呼吸”する。その瞬間を撃ち抜く……これが、俺の専門だ」


影のスペシャリスト──影技術を破るための反影スペシャリストとして鍛えられた加地だからこそ、見える歪み。


スコープの奥。

ビルの影の一角が、ほんのわずかに──呼吸するように“揺れた”。


加地の心拍が、すっと静まる。

指は、トリガーのカーブに吸い付くように定まった。


「……影縫いを破れるのは、影抜きだけだ。

これで終わりだ、玲」


風が止む。

夜が息を呑む。


そして加地は、影を貫く“最後の一手”を放とうとした。


【時刻:23時12分/場所:服部家・地下室「矢車の間」】


朱音は膝を揃えて座り、じぃじ――紫苑を見上げた。

「じぃじ、わたし……ほんとうにできるの?」


紫苑は穏やかな笑みを浮かべ、手を朱音の肩に軽く置く。

「もちろんだよ、朱音。君の中には、ただの子供の力じゃない“音”があるんだ。それを忘れなければ大丈夫」


朱音は小さな手でじぃじの手を握り返す。

「でも……こわいよ。影とか、いっぱいあるし」


紫苑は首をゆっくり横に振る。

「怖がる必要はない。恐れなければ、影は君の味方になる。光が届かないところでも、気配が薄いところでも、君は“知っている”んだよ」


朱音の目が少しずつ大きくなり、力強く頷く。

「わかった……じぃじ、わたし、がんばる!」


紫苑は目を細め、優しく微笑む。

「うん、よく言った。今夜、この力を使う時が来る。君の“音”で、世界を欺こうとする者たちに真実を見せるんだ」


朱音はじぃじの言葉に胸を打たれ、小さく息を吸い込む。

「うん……わたし、負けない!」


紫苑は静かに頷き、穏やかな眼差しで朱音を見守り続けた。


【時刻:23時15分/場所:服部家・地下室「矢車の間」】


紫苑は膝をついたまま、静かに朱音の隣に目を向けた。

「玲、なかなか見所がある。影縫いの技を持ち、己の命を賭してまでお主を守っておる。」


朱音は小さく顔を上げ、じぃじの言葉に目を輝かせる。

「じぃじ……玲さんって、そんなにすごいの?」


紫苑は優しく笑い、頷く。

「そうじゃ。危険に立ち向かう覚悟と技術、その両方を兼ね備えておる。だが、だからこそお主も力を貸す価値があるのじゃよ」


朱音は小さな拳を握り、決意を込めて答える。

「うん、わたしも……がんばる!」


紫苑は穏やかに目を細め、静かに頷いた。

「よい。その心意気で、今夜の試練を乗り越えるのじゃ」


【時刻:23時18分/場所:服部家・地下室「矢車の間」】


紫苑は朱音と玲の背後に目を向け、静かに呟くように語った。

「もしあやつが真に“影の主”ならば、この一族もまた、長き眠りから目覚めねばならん時が来たのかもしれぬな。」


朱音はじぃじの言葉に少し眉をひそめ、しかし好奇心を隠せずに小さく尋ねる。

「じぃじ……“影の主”って、すごく強い人なの?」


紫苑は穏やかに微笑み、深く頷く。

「そうじゃ。影を操り、己の存在すら隠す力を持つ。だが覚えておけ、朱音。力がある者ほど、その裏には責任と危険が伴うのじゃよ」


朱音は小さく息を吸い込み、真剣な眼差しで答えた。

「わかった、じぃじ。わたし、玲さんと一緒に頑張る!」


紫苑は満足そうに目を細め、静かに頷いた。

「よい。その心意気を忘れず、今夜の試練に立ち向かうのじゃ」


【時刻:23時22分/場所:服部家・地下室「矢車の間」】


紫苑は朱音に巻物を差し出し、その瞳には遠く未来を見据える光が宿っていた。

「お主の存在は、この戦いの鍵じゃ。影班と共に、玲を支え、この暗闇の中で光を灯すのだ。」


朱音は慎重に巻物を受け取り、手のひらに伝わる紙の感触とその重みを感じながら、小さな声で答えた。

「うん……わかった、じぃじ。わたし、玲さんと一緒に、ちゃんと守る……!」


紫苑は穏やかに微笑み、ゆっくりと頷いた。

「よい。その決意を胸に、今夜、そしてこの先も歩みを止めるなよ」


【時刻:23時45分/場所:都心・非公開豪邸の書斎】


暗がりの中、豪奢なソファに深く腰を沈める鷲尾修二。四十代半ばに差し掛かる男だが、鋭い目つきと洗練された身なりがその存在感を際立たせる。


手にはブランドのウイスキーが注がれたグラスを持ち、琥珀色の液体をゆっくり傾ける。冷たい声で、ほとんど囁くように呟いた。

「玲……あの男、なかなか厄介だ。影縫いを使えるとはな。だが、今夜の“演目”はまだ終わらん……」


彼はグラスを唇に近づけ、沈黙の間を楽しむように微かに唸った。

「すべて計算通り。だが、予測不能な変数──あの小娘、朱音……こやつが絡むかもしれん」


鷲尾の瞳が闇の奥で光を宿し、わずかに笑みを浮かべた。

「ふふ……面白くなってきたな」


【時刻:23時45分/場所:都心・非公開豪邸の書斎】


鷲尾修二は、琥珀色の液体を揺らしながら、深く沈み込むようにソファへ体を預けた。

静寂の中、氷が小さく鳴る。その音だけが、男の胸にある苛立ちをかすかに映している。


「奴が動いていた限り、あの“玲”を始末するのは先延ばしにできなかった。」


ウイスキーの香りを一度吸い込み、鷲尾は苦く低い声で続ける。


「やはり……玲は殺すべきだった。」


その言葉は怒気ではなく、計算し尽くされた結論として落ちる重い断罪だった。


彼の視線は、書斎の窓の外──黒々とした都心の夜景に向けられている。

灯りが点滅する摩天楼。それは、計画の“遅延”を嘲笑うかのように瞬いていた。


鷲尾はグラスを軽く回した。

そこに映るゆらめく光の筋は、まるで次に仕掛ける“影”の動線のようだ。


「いいだろう。あの男が生きている限り、計画は完成せん。

……ならば、次は本気で仕留めてもらうだけだ。」


その独白を聞いている者は、この部屋にはいない。

だが──どこかの闇で、すでに“誰か”が動き始めていた。


【時刻:深夜0時12分/場所:都心・廃ビル地下通路】


薄暗い秘密通路の中、成瀬由宇は足音を殺し、壁際に身を寄せた。

灰色の瞳がわずかに光を反射し、前方に設置された敵の背面壁をじっと見据える。


「……ここを突破するには、微細な隙間しかない」


低くつぶやいた声は、暗闇に溶けるように静かだ。

手元の装備を軽く確認し、ワイヤーブレードの位置を再調整する。


「焦りは禁物……一瞬の判断ミスも命取りになる」


息を整え、成瀬は影の中に体を溶かすように再び歩を進めた。

通路の先、わずかに見える光の筋が、今夜の行動の全てを示していた。


【時刻:深夜0時15分/場所:都心・廃ビル地下通路】


成瀬は影のように壁際に身を寄せ、低く囁くように口を開いた。

「朱音を餌にするってことは……玲や朧や霞を怒らせるってことだ」


冷静な声の中に、危険を察知する鋭さが滲む。

薄暗い通路の向こうから、微かな足音がかすかに響く。

成瀬は呼吸を整え、影の中で次の動きを待った。


【時刻:深夜0時22分/場所:玲探偵事務所・地下サブベース】


薄暗い地下室の大型スクリーンが青白く光り、映像がゆっくりと切り替わった。

ついに辿り着いた“依頼主”の顔が映し出される。


その人物は政界の影に潜む男、鷲尾修二。

冷徹な瞳が画面越しにこちらを見据え、室内の空気を一瞬で張り詰めさせる。


青山薫が静かに声を出す。

「……依頼主のID確認済み。鷲尾修二、裏社会との接点、暗号通信履歴、すべて追跡可能。今回の案件の核心に関与している。」


玲はスクリーンを見つめ、手元の地図と通信端末を確認する。

「ならば……奴の行動パターンを逆算する。これ以上、無駄な時間はない。」


室内の全員の視線がスクリーンに集まり、沈黙の中、次の一手を計算する。


【時刻:深夜0時24分/場所:玲探偵事務所・地下サブベース】


スクリーンに映る鷲尾修二の顔は、まるで光を吸い込むような冷たさを放っていた。

その映像を正面から見据え、玲はゆっくりと一歩前へ出る。


影班、奈々、青山薫、御子柴理央。

その全員が、玲の声を待っていた。


玲は、胸の奥にある怒りを押し殺すように目を細め──低く呟いた。


「鷲尾……次はお前だ。」


その言葉に、部屋の空気がわずかに震える。


「“依頼主”が誰か。裏で誰が何を動かしていたのか。

お前を表に出せば──すべてが崩れる。」


奈々が息を飲む。

成瀬由宇の視線が細く揺れ、柾貴は静かに腕を組んだ。


玲は続ける。


「偽装事故も、消された記録も、K局の残党も……全部、お前の“手”だ。

朱音を狙った理由も、ユウタを封じ込めようとした理由もな。」


スクリーンの向こう、鷲尾の表情は変わらない。

だが、その沈黙こそが“核心”を示していた。


玲はさらに一歩、前へ踏み出す。


「……終わらせる。

朱音を守り、この街の闇ごと、お前を暴く。」


誰も声を出さなかった。

だがその瞬間、地下の空間にいた全員の意思が、ひとつに固まった。


“次は鷲尾修二だ”と。


【時刻:深夜0時38分/場所:旧報道局・地下ホール】


薄暗い地下ホールは、かつての華やかな報道の舞台とは程遠く、埃と腐食した壁が陰鬱な空気を漂わせていた。


壁沿いに設置された古い照明がかすかに瞬き、床に不規則な影を落とす。

玲はゆっくりと足を進め、周囲を見渡す。その視線は、ただの物理的な暗闇だけでなく、潜む“真実の影”をも捕らえていた。


「ここに、奴の痕跡が残されている……」玲は独り言のように呟き、手袋をした指先で埃の上の微細な跡を指し示す。


影班の成瀬由宇が、静かに隣で息を潜める。

「微細な振動も逃さない。動くなら今だ、玲」


玲は深く息を吸い、低く答える。

「分かっている。だが、ここで焦れば全てが終わる」


空気は静まり返り、地下ホールの影がまるで生き物のようにうねる。

遠くで水滴が落ちる音が響き、重苦しい緊張感が空間を支配していた。


【時刻:深夜0時42分/場所:旧報道局・地下ホール】


「標的は玲だった。だが、彼を揺さぶるためには――“朱音”という切り札を使うしかなかった」


薄暗いスクリーンに映る鷲尾修二の冷たい瞳は、微動だにせずこちらを見据えていた。その眼差しには、長年培った権力と計算、そして執念が滲んでいる。


「朱音……彼女の存在は、玲を動かし、影班を揺さぶる。全ては計算通りだ」


玲の側では、服部一族の紫苑が静かに眉をひそめる。

「この小さき光を守ることが、この戦いの鍵じゃ……」


朱音の存在を軸にした攻防。影班、忍たち、そして玲自身――すべてが彼女を守るために動く必要があった。

地下ホールの空気は、緊迫と覚悟に重く満たされている。


【時刻:深夜0時47分/場所:旧報道局・地下区画】


薄暗い地下区画の冷気が肌を刺す中、朱音は硬く縛られた手首を見つめていた。


「……じぃじ……」


遠くから、かすかに響く笛の音が彼女の意識を優しく包み込む。その旋律は、暗闇の中でも確かな安心感を運び、恐怖と孤独に沈む心に微かな光を灯していた。


朱音の小さな声は、震えながらも揺るがない決意を帯びている。

「……大丈夫、じぃじ……私、負けない……」


その言葉は、地下区画の冷たい空気の中で、わずかに反響し、守るべき者たちの胸にも届いた。


【時刻:深夜0時49分/場所:旧報道局・地下区画】


「……もう、大丈夫」


その声はまるで風のささやきのように、朱音の心に染み渡った。声の主は、服部一族の若き忍・服部詠うた。彼女の静かな決意が、張り詰めた空気をわずかに和らげる。


次の瞬間、壁の影が揺らぎ、まるで壁をすり抜けるように服部響ひびきが姿を現す。感知忍として卓越した彼の動きは、罠や結界を次々と解除し、周囲の緊張を解きほぐしていく。


朱音の小さな瞳が、微かに光を取り戻す。


「玲お兄ちゃんが……来てる?」


その声に応えるかのように、地下区画の奥からわずかな気配が伝わり、冷たい空気に微かな希望の温もりが差し込む。


【時刻:深夜0時52分/場所:旧報道局・地下区画入口】


金属の軋む音と共に、セキュリティゲートが静かに開いた。


制御端末に指を滑らせていたのは成瀬由宇。影のように静かに立ち、わずかな光にも反応する鋭い瞳が周囲を見渡す。


その横で、桐野詩乃が非常用電源の回線を無効化しながら、冷ややかな声で告げた。

「これで監視系統は一時的に沈黙。先に進める」


薄暗い地下区画に、二人の精密な作業音だけが低く響き渡った。


【時刻:深夜0時55分/場所:旧報道局・中枢司令室跡】


彼らが踏み込んだのは、廃棄された放送機器と監視端末が並ぶ、旧ホールの中枢司令室跡。


「全システム、影班による制御下。監視網は完全に奪取済み」


そう告げたのは青山薫。黒縁メガネの奥で冷静な眼差しが光る。端末の画面に映る複雑なコード列は、既に加地靖人の介入を完全に封じ込めていた。


成瀬由宇と桐野詩乃は素早く周囲の安全を確認しながら、次の行動に備える。影班──都市の闇で鍛えられた精鋭たちが、この瞬間もビルの司令室を掌握していた。


【時刻:深夜1時02分/場所:旧報道局・中枢司令室跡】


「逃げられると思うなよ、“依頼主”。この罠は、お前に向けた“死角狩り”だ」


玲の低く鋭い声が、暗い司令室に響き渡る。


その言葉に応えるように、影班のメンバーが各所に配置を取り直す。成瀬由宇は屋上への潜在経路を押さえ、桐野詩乃は通信系統を監視し、安斎柾貴は死角に潜む可能性のある全方向の侵入を即座に検知可能な態勢を整えた。


依頼主・鷲尾修二の位置を特定しつつ、この「死角狩り」を完璧に実行できるのは影班だけ──都市の闇で磨かれた彼らの熟練した技術が、今まさに発動しようとしていた。


【時刻:深夜1時15分/場所:旧報道局・地下空間】


玲は低く息を吐き、薄暗い空間に立つ男──依頼主・鷲尾修二を見据える。


「鷲尾、もう逃げ場はない。お前が築いた影は、今夜、すべて逆流する」


その声に応じるように、影班の動きが地下空間に波紋のように広がる。成瀬由宇は足音ひとつ立てずに側面の非常口を封鎖し、桐野詩乃は背後の通信端末を瞬時に制御。安斎柾貴は全方向の死角を精密に計測し、潜む可能性のある侵入者を一瞬で捕捉する態勢を整えていた。


「“死角”は、もうお前の味方にはならない」


玲の声は低く冷たく、地下の冷気を震わせるように響いた。


【時刻:深夜1時15分/場所:旧報道局・地下空間】


「撃つな──!!」


鋭い叫びが地下空間の空気を裂いた。

その声は、銃声より速く、殺気より鋭く、影より深く響いた。


影班全員が反射的に動きを止める。

成瀬由宇は引き金にかけた指をぴたりと止め、桐野詩乃は投擲しようとしたナイフをわずかに緩め、安斎柾貴でさえ眉をひそめて気配を収束させる。


声の主は──玲。


彼の視線は、ただ一点、依頼主・鷲尾修二の背後に向けられていた。


「……動くな、鷲尾」


低い声。

そして、その視線の先に“影の揺れ”。


わずかな光の差で形を変える、人の形をした“何か”。

影班の訓練を受けた者でなければ絶対に気づけない、極小の殺気。


「背後に“執行役”だ。撃てばそいつが朱音の方へ回る」


その言葉に、空気が一瞬で凍りつく。


依頼主よりも優先度の高い、最終処理担当──

鷲尾の身辺を守るためではなく、“事が露見した時の後処理”を遂行するための、

影の殺戮者。


玲は続ける。


「……あいつを野放しにして撃てば、朱音が狙われる。

だから、撃つのは“俺が動く瞬間”だ。それまでは、誰も銃を上げるな」


静寂が落ちる。


鷲尾は薄く笑った。


「……さすがだな、玲。やはり、お前は“殺しにくい”」


しかしその嘲りは、誰にも響かなかった。


影が、震えた。


執行役が──動き出す前の、呼吸だった。


【時刻:深夜1時16分/場所:旧報道局・地下空間】


声と共に、床を這うように黒い“影”が逆巻いた。

玲の足元から放たれた影網は、まるで生きているかのように床を滑り、伸び、鷲尾修二の足を絡め取る。


「──止まれ、動くな」玲の低く冷たい声が響く。


影班の目には、玲の“影縫い”が空間を完全に掌握したことが瞬時に理解された。

どの影も、玲の意志に応じて呼吸し、動きを封じる。

鷲尾の背後で執行役が身を潜めても、その影網は一瞬で包囲を形成し、逃げ場を完全に奪った。


「……影が、意志を持つ……」

桐野詩乃の声が、かすかに震える。

「玲、完全展開……か」


安斎柾貴は眉間に皺を寄せ、冷静に状況を評価する。

「この空間内では、誰も“見逃されない”……玲の意志で、すべての動きが制御されている」


影班全員が身を潜めつつ、玲の指示を待つ。

一瞬たりとも、鷲尾も執行役も、息を整える余地はない。


玲の目は、影網の向こうで小さく震える鷲尾を捉えた。

「……さあ、動くか、鷲尾」


【時刻:深夜1時17分/場所:旧報道局・地下空間】


「この技は……“影縫い”……!」

鷲尾修二の声が、わずかに震えた。

その目は見開かれ、息も絶え絶えに動きを止める。


玲の足元から延びる影網は、鷲尾の周囲を瞬時に囲み、微細な動きすら逃さない。

「動くな……無駄だ」玲の低く冷徹な声が、地下空間の静寂に響く。


桐野詩乃が小さく息を呑む。

「完全に……封じられている……」


安斎柾貴は観察を続け、冷静に判断する。

「この範囲内では、あらゆる行動が把握されている。逃走も、攻撃も──許されない」


鷲尾の瞳に、かすかな焦燥が走る。

「……まさか、ここまで制御できるとは……」


玲は影網を微かに揺らし、鷲尾に向かって言葉を落とす。

「さあ、選べ。降伏か、それとも……敗北か」


【時刻:深夜1時18分/場所:旧報道局・地下中枢フロア】


「お前が撃てば、その瞬間にすべてが**“仕組まれた殺意”**として公になる。」

影縫いに拘束された鷲尾の前に、黒いコートの男が一歩進み出た。

その瞳は氷のように冷たく、淡々とした声には、わずかな揺らぎすらない。


仕組まれた殺意のスペシャリスト──七瀬ななせ昂。

“事故”や“正当防衛”に偽装された殺害計画の解析、

それらの構造的意図を暴き出すことを専門とする、裏の調査官。


七瀬は鷲尾を見下ろし、まるで“答え合わせ”をするように続ける。

「政界、財界、そして記憶改変の裏工作──

お前が関与した“隠蔽の構造”は、もうすべてこの場に揃っている」


鷲尾の呼吸が荒くなる。

足を絡め取る影網が、わずかにきしむ音を立てた。


七瀬は平然と、手にした小型端末を起動させながら言った。

「本来なら、お前が撃つ寸前の“焦り”そのものを証拠にする予定だった。

だが……」


彼は玲に目を向ける。


「影班がここまで完璧に制圧してくれた以上、

もう“偶然の事故”は一つも残らない。」


静寂。

鷲尾はついに声を震わせた。


「……くそ……七瀬、お前……最初から……!」


七瀬の返事は短く、残酷なほど冷静だった。


「そうだ。最初から、お前の“殺意の構造”を崩すために動いていた」


【時刻:深夜1時22分/場所:旧報道局・地下中枢フロア】


「終わりだ、“依頼主”。」

七瀬昂の声が地下の冷気を切り裂く。

その目の奥には、計算された冷徹さと、揺るがぬ使命感が宿っていた。


表向きは解析官、裏では“影から影を操る者”。

依頼主の行動パターン、隠蔽の仕組み、裏工作の意図──

すべてを読み解き、逆に制御することを専門とする。


鷲尾修二は影縫いに絡め取られ、無言のまま床に沈む。

影網に拘束された体から力が抜け、指先にわずかに震えが残る。


七瀬は端末を操作し、スクリーンに映し出された全証拠を指差した。

「ここにあるすべてが、お前の手の内で仕組まれた“殺意”だ。

そして、それを明らかにするのは、今しかない」


鷲尾の瞳が、ようやく恐怖で揺れた。

七瀬の指先がわずかに動き、証拠のデータが一斉に外部へ送信される。

「全世界に。証拠は消せぬ……」


その瞬間、地下空間に沈黙が訪れ、すべてが決着したことを告げた。


【時刻:深夜2時05分/場所:服部家・中庭】


紫苑は穏やかな表情で、ゆっくりと周囲を見渡した。

「今夜、すべてが終わった。闇に潜む者たちは姿を消し、残るは我らと光を求める者だけじゃ」


朱音が小さな声で、じぃじの足元に近づきながら尋ねた。

「じぃじ……これで、もう危なくないの?」


紫苑は微笑みながら膝をかがめ、朱音の肩にそっと手を置いた。

「安心せい。お主がいる限り、玲殿も、影班も、この一族も守られる」


玲は中庭の端で、まだ緊張の名残を感じさせる表情で立っていた。

「皆のおかげだ。俺一人じゃ、ここまで来られなかった」


成瀬由宇が冷静に視線を巡らせ、静かに言った。

「これからも油断はできない。だが、今は──無事を喜ぶべき時だな」


桐野詩乃も僅かに頷き、夜風に揺れる髪を押さえた。

「長い夜だった……でも、これで少しは眠れるわね」


安斎柾貴は肩の力を抜き、軽く拳を握りながらつぶやく。

「……まだ終わりじゃない。次の影が現れる前に、俺たちは準備を整える」


紫苑は夜空を見上げ、竹灯籠の光を背に静かに言った。

「光は途切れても、消えることはない。お主たちの道を照らし続けるのじゃ」


朱音は小さく頷き、巻物を握りしめながら静かに答えた。

「うん……私、じぃじと玲お兄ちゃんと、みんなを守る」


中庭の静けさの中、夜風が竹の葉を揺らし、深い闇をやわらげるように光を映した。

ここに集った者たちの影が、互いを支え合う確かな証として、石畳に長く伸びていた。


【時刻:深夜2時12分/場所:服部家・中庭】


紫苑は朱音の肩に優しく手を置き、穏やかな笑みを浮かべた。

「よくぞ、乗り越えたな。朱音、お前はもう立派に“守られる側”を卒業しておる」


朱音は少し照れくさそうに目を伏せ、でも小さな声で答えた。

「じぃじ……でも、やっぱり玲お兄ちゃんや影班のみんなと一緒にいたい」


玲がそっと歩み寄り、朱音の頭を撫でる。

「お前が強くなったことは確かだ。でも、家族や仲間がそばにいるってことも、大事な力になるんだ」


紫苑は頷き、夜空に目をやる。

「守る側と守られる側の区別など、時と共に変わるものじゃ。しかし大事なのは心の在り方。お主たちの絆こそが、真の防壁じゃ」


成瀬が冷静な声で付け加える。

「朱音、お前の存在が、この夜を越えた全員の士気を支えている。忘れるな」


桐野詩乃も柔らかく微笑む。

「今夜の経験は、ただの試練じゃなかったわ。朱音、あんたの成長を誰よりも感じた」


朱音は深く息を吸い、握りしめていた巻物を胸に押し当てる。

「うん……みんなと一緒に、これからも強くなる!」


中庭に漂う静寂の中で、竹灯籠の光が揺らぎ、朱音の決意を優しく照らした。

紫苑の瞳には、確かな未来を信じる光が宿っていた。


【時刻:深夜2時15分/場所:服部家・中庭】


紫苑は静かに歩み寄り、玲の肩に手を置いた。夜風に揺れる竹灯籠の光が二人の影を柔らかく映す。

「……そして、玲。あやつをここまで導いたのは、お主の“覚悟”じゃ。

命を賭けても守ると決めた、その在り様──まさしく“影の主”と呼ぶに相応しい」


玲は一瞬目を閉じ、深く息を吐いた。冷静な瞳の奥に、長い夜を超えてきた疲労と覚悟が滲む。

「……そんな大層なものじゃない。朱音も、影班も、皆の力があってこそだ」


紫苑は微笑を崩さず、しかし言葉に強い確信を込める。

「謙るでない。お主の覚悟こそが、仲間たちを導き、この夜を乗り越えさせた。命を賭しても守るという意思は、形ある力を超えるものじゃ」


玲はじっと夜空を見上げ、微かに頷く。

「……なら、これからも守り続ける。朱音も、皆も」


朱音はその背後で小さく笑い、手を握りしめながら囁く。

「うん、玲お兄ちゃんと一緒なら、怖くない」


紫苑の白髪が夜風に揺れる。中庭に漂う静寂は、ただの闇ではなく、守る者と守られる者の絆の証となっていた。


【時刻:深夜2時30分/場所:服部家・中庭】


紫苑は深く息をつき、夜気を吸い込むように空を見上げた。竹灯籠の柔らかな光が石畳に影を落とし、静寂の中に確かな余韻を残す。

「これで、ようやく“後始末”に入れるな」


影班の三人、玲、服部一族の忍びたち──全員が互いに視線を交わす。疲労と安堵、そしてこれから向かう道への決意が静かに胸を満たしていた。


玲は小さく頷き、手元の装備を再確認する。

「終わったわけじゃない……でも、次の一歩を踏み出す準備はできている」


紫苑は微笑みながら静かに頷く。

「うむ。影の主よ、共に進め。我らの役目は、まだ尽きぬ」


夜風に乗って、竹の葉がかすかに揺れる。闇の中に広がる静寂は、戦いを終えた者たちへの短い休息の合図だった。


【時刻:深夜2時45分/場所:服部家・中庭】


紫苑は中庭の中央に立ち、周囲を取り囲む影班の三人、玲、服部一族の忍たちを見渡した。竹灯籠の光が彼の白髪を淡く照らし、穏やかだが揺るがぬ威厳を漂わせる。


「――これより、我ら服部一族は、“影縫いの継承者”を中心とする連携体制に移行する。影班、そして玲探偵事務所との連携も正式に継続。裏の流れを、再び我らの掌に戻す」


彼の言葉に、忍たちの背筋が自然と伸び、影班の面々も頷く。玲は静かに拳を握り、覚悟を新たにする。


竹の葉が風に揺れ、夜の静寂が再び降りる。その中で、未来へ向けた新たな影の連携が静かに動き出した。


【時刻:深夜3時/場所:服部家・中庭】


静かな風が竹灯籠の炎を揺らす。遠くには、東京の街の明かりがまだ眠らずに瞬いていた。


朱音はそっと手を握りしめ、小さく息をつく。

「じぃじ……もう怖くないよ」


紫苑は微笑み、穏やかに頷いた。

「よくぞ、ここまで来たな。お主の心も、強くなった」


玲は朱音の横で静かに立ち、深く息を吸った。

「これで、やっと……一息つけそうだな」


影班と服部一族も、それぞれ安堵の表情を浮かべる。

夜風が髪をかすかに揺らし、暗闇の中で彼らの影が長く伸びた。

静寂の中、しかし確かに、新たな連携の始まりを告げる夜だった。


【時刻:深夜3時15分/場所:服部家・中庭】


玲は中庭の石畳に立ち、夜空を見上げた。深い闇に星は少なく、街の灯りが遠く淡く輝く。


「……まだ、終わったわけじゃない」


その声は静かだが揺るぎない覚悟を帯びていた。朱音が横で小さく頷く。

「うん、お兄ちゃん……でも、怖くない」


紫苑は背後から静かに見守る。

「影は長く伸びるが、光もまた、必ず届く」


冷たい夜風が頬を撫で、彼らの間に沈黙が流れる。

深い闇の中、次に待ち受ける戦いを思いながらも、今だけは、この静寂を噛み締める時間だった。


【時刻:深夜3時30分/場所:服部家・中庭】


玲は静かに夜空を仰ぎ、胸の奥で長く息をついた。深く重い空気の中、戦いの余韻がまだ辺りを漂っている。


「──この夜が、すべての終わりではない」


朱音は小さな手を玲の袖に添え、かすかに笑みを浮かべる。

「でも、じぃじ……ここまでで、一つの物語は終わったんだよね?」


紫苑は頷き、優しい目で二人を見守った。

「そうじゃ。確かに一つの物語は、ここで終わりを告げたのだ」


遠くで街の灯が瞬き、風が柔らかく吹き抜ける。闇の中に残るのは、静寂と、ほんのわずかな安堵の光だけだった。


【時刻:午前6時15分/場所:高原の山荘・テラス】


玲はテラスの手すりに肘をかけ、朝日に照らされる遠くの山並みをじっと見つめていた。

「……やっと、夜が明けたな」


朱音は小さな背伸びをして、隣で澄んだ空気を深く吸い込む。

「お兄ちゃん、今日は静か……でも、なんだか気持ちいいね」


風がそよぎ、草の香りが鼻をくすぐる。鳥たちの囀りが目覚めの合図のように聞こえ、玲の表情にわずかな微笑が浮かんだ。

「この静けさも、守らなきゃな……」


遠くの山々に朝陽が差し込み、世界がゆっくりと色づいていく。

一つの夜の戦いが終わり、もう一度、穏やかな日常が動き出す予感だけが残っていた。


【時刻:午前6時30分/場所:高原の山荘・テラス】


朝の柔らかな光に包まれ、澄んだ空気の中で佇む玲の姿があった。長いコートの裾が風に揺れ、背後には過ぎ去った夜の戦いの名残ともいえる無数の“影”が静かに流れている。


朱音は小さな手を胸に当て、じっとその姿を見つめた。

「……玲お兄ちゃん。ううん、“私の見てる玲お兄ちゃん”」


玲はゆっくりと振り返り、微かに微笑む。瞳には戦いの疲れの影が残るものの、その奥には優しさと決意が宿っていた。


「おはよう、朱音。夜の間に起こったことも、もう少しでみんなの胸の中で整理されるだろう」


小鳥の囀りが遠くで響き、山の風が二人の間を通り抜ける。戦いの影はまだ残るが、この瞬間の静けさが、再び日常を取り戻す合図のように感じられた。


【時刻:午前6時35分/場所:高原の山荘・テラス】


朱音は小さく笑いながら、玲の前で両手をぎゅっと握った。長い髪が風に揺れ、朝の光が彼女の瞳をきらめかせる。


「おはよ。玲お兄ちゃんって、ほんとはこわくないんだよ。“守る”ときだけ、ちょっとだけ“こわい顔”になるだけで」


玲は少し目を細め、口元に微笑みを浮かべる。


「そうか……そう言ってもらえると、少し肩の力が抜けるな」


その言葉に朱音は満足そうにうなずき、背伸びをひとつして、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


【時刻:午前6時50分/場所:高原の山荘・リビング】


朱音はテーブルに広げたスケッチブックに向かい、静かに鉛筆を走らせる。朝の光が窓から差し込み、ページの上の線を柔らかく照らす。


「今日も、いろんなことがあるんだろうな……でも、怖くない。玲お兄ちゃんがそばにいるから」


玲はその背後で静かに立ち、窓の外の風景を眺めながら朱音の手元を見守る。


「その通りだ。もう、事件だけの世界じゃない。これからは、君の描く日常を守る番だ」


朱音は微笑みながら鉛筆を置き、完成した一枚をそっと見つめる。その絵には、穏やかで温かな朝の風景が描かれていた。


「うん……これが、私たちの新しい一日」


【時刻:午前7時05分/場所:高原の山荘・リビング】


玲は窓の外の林を見つめながら、静かに声を落とした。

「まだ気を抜くな、朱音。外は穏やかでも、この部屋の中には……まだ残像がある」


朱音はスケッチブックから顔を上げ、小さな声で問いかける。

「玲お兄ちゃん……残像って、まだ何かあるの?」


玲は短く頷き、鉛筆を片手に朱音のそばに座った。

「うん。完全に終わったわけじゃない。だが、焦らなくていい。今日は、まず落ち着くことからだ」


朱音は深く息を吸い込み、スケッチブックを胸に抱えた。

「わかった……玲お兄ちゃんと一緒なら、大丈夫」


風が窓越しに林を揺らし、部屋の中に微かな木々の香りと静寂が流れ込む。

張り詰めた空気はまだ残っているが、それでも、二人の間には確かな安心感が芽生えていた。


【時刻:午前10時42分/場所:玲探偵事務所・監視室】


モニターの前に座る青山薫の指が、一瞬止まる。

「……間違いない、あれは玲だ。加地靖人の前に立っている」


御子柴理央が冷静に画面を分析しながら、静かに告げる。

「映像のフレームは断片的だが、加地の動き、そして玲の挙動……すべて一致する」


玲の声が通信越しに入る。

「薫、理央……加地の背後に何か仕掛けがある。気をつけろ」


青山が画面をスクロールさせ、別角度の映像を切り替える。

「なるほど……ただの監視映像じゃない。意図的に作られた誘導だ。奴は玲をここにおびき出した」


玲は深く息を吐き、画面に向かって短く言う。

「……ここからが、本当の勝負だ」


部屋に漂う緊張は、画面越しの二人の影によって一層鋭くなった。


【時刻:午前10時45分/場所:玲探偵事務所・監視室】


モニターに映る加地靖人の動きを解析しながら、御子柴理央が淡々と告げる。

「……音声解析補正完了。聞こえたぞ」


画面の向こうから、玲の落ち着いた声が響く。

「……お前にしかできないことがある」


青山薫がキーボードを叩きつつ眉をひそめる。

「この会話、加地の位置だけでなく、裏の指示も含まれている……なるほど、目的が見えてきた」


玲は画面に集中しながら低く言う。

「俺がやってきたこと、全部を消すには……依頼主を、表に引きずり出すしかない」


理央がスクリーンを拡大し、解析結果を指差す。

「このデータの“末端”を追え。そこに、鷲尾だけじゃない、“連中の本体”がいる」


室内の緊張はピークに達し、全員の視線はモニターに釘付けになった。


【時刻:午前10時50分/場所:玲探偵事務所・監視室】


奈々が冷静に画面を見つめ、指で解析結果をなぞる。

「“連中”……つまり、鷲尾の背後にいた政治系団体の中枢か」


玲は短く息をつき、視線をモニターから外さずに応える。

「そうだ。その動きは巧妙に隠されている。表に出てこない限り、直接手を下せない」


御子柴理央が解析端末に手を置き、端末からデータを引き出す。

「ここで我々が必要なのは、“連中”の動向をリアルタイムで追えるスペシャリストだ。端末操作と情報収集のエキスパート──つまり、連中の監視と干渉を任せられる者」


青山が頷き、無言で指示書を整える。

「わかった。すぐに手配する。対象は複数だが、連中の動きを完全に把握するには、このスペシャリストしかいない」


室内には緊張が漂い、全員が次の行動の準備を整え始めた。


【時刻:午前11時03分/場所:玲探偵事務所・解析室】


御子柴理央が画面を指しながら、低く語る。

「この映像、記憶改竄処理された端末の“揮発領域”から復元したの。普通ならもう消えてる。でも、加地靖人は……最期の一手として、わざと“痕跡”を残してた」


奈々が眉を寄せ、端末のログを確認する。

「つまり、彼は消えるつもりでいても、こちらに見せたい情報を残す計算だったわけね」


玲は画面に視線を固定したまま、静かに拳を握る。

「この痕跡がある限り、連中の本体にたどり着ける。必ず……辿り着く」


室内の空気が一瞬、鋭く張り詰め、全員が次の行動に集中した。


【時刻:午後2時17分/場所:玲探偵事務所・作戦会議室】


玲は重く息をつき、目を閉じて短く呟いた。

「“あの子”を、頼んだ」


奈々がすぐに反応し、端末を操作しながら確認する。

「ユウタですね……記憶の証人として、あの子にしか見えない真実があります」


御子柴理央が頷き、画面に映るユウタの記録を指差した。

「彼の解析力と“記憶保持能力”で、我々が追うデータの時系列と痕跡をつなげる。失われた真実をあの子が照らしてくれる」


玲は決意を込め、拳を握る。

「頼む……あの子だけが、俺たちに未来を見せてくれる」


【時刻:午後2時45分/場所:玲探偵事務所・作戦会議室】


玲はゆっくりと目を閉じ、言葉を紡ぐ。

「加地靖人は、最期の局面で“個人”として動いてた。命令でも依頼でもなく、“償い”として」


御子柴理央が画面の解析結果を指し示しながら答える。

「データの動き、狙撃の痕跡、時間改竄……すべてが彼自身の意思で制御されていた。計画ではなく、個人的な決断です」


奈々が頷き、ユウタの映像を見つめながら付け加える。

「“記憶の証人”としてあの子が確認したのも、加地が残した最後のメッセージ……償いの意思そのものです」


玲は拳を固く握り、静かに息をついた。

「……だから、俺たちは真実を掴む必要がある。加地の意志を無駄にしないために」


【時刻:午後2時52分/場所:玲探偵事務所・作戦会議室】


服部紫苑の落ち着いた声が、静かな室内に響く。

「……玲、お前が“選ばれた”理由が、また一つ明らかになったな」


玲は視線を上げ、じっと紫苑を見つめる。

「……俺に課されたものが、何であれ、受け止めるつもりだ」


朱音が小さな声で隣から付け加える。

「玲お兄ちゃん、ずっと頑張ってきたもんね。だから選ばれたんだよ」


紫苑は微笑み、巻物を静かに手元に置く。

「その通りじゃ、朱音。覚悟と責任を背負う者こそが、この夜を切り開けるのじゃ」


【時刻:午後2時55分/場所:玲探偵事務所・作戦会議室】


部屋に沈黙が戻る。


玲は息を整えながら、机の上の資料に目を落とす。

「……しかし、この沈黙の奥にこそ、次の動きの鍵がある」


紫苑は静かに頷き、朱音の肩に手を置く。

「その通りじゃ。かつて敵だった者の“最後の意志”が、確かにこの場で引き継がれようとしておる」


朱音は巻物を握りしめ、小さな声で言う。

「……私も、その力になりたい」


玲の瞳がじっと彼女を見つめる。

「わかってる。お前の存在が、これからの夜を変えるんだ」


【時刻:午前8時30分/場所:服部家・訓練場】


夏の空は高く、蝉の鳴き声が遠くの山に反響していた。


広大な訓練場では、若い忍たちが静かに、しかし熱心に稽古に励んでいる。


紫苑は木陰に立ち、腕を組みながら全体を見渡す。

「焦るな。技は急がず、心で覚えるものじゃ」


朱音は短い刀を手に取り、低く息を吐きながら振り下ろす。

「はい、じぃじ!」


隣で稽古する若い忍が小声でつぶやく。

「朱音姫、動きが本当に速い……」


紫苑は微笑み、静かに言った。

「お主の目が、すでに“影を読む力”を持ち始めておる」


【時刻:午前8時45分/場所:服部家・訓練場】


中央では響が体術の構えを見せ、素早く身を翻して少年たちの攻撃を捌く。


「違う、重心が甘い。影を読まれるぞ」


響の声は短く、的確で、訓練場に響き渡る。


朱音は刀を握りしめ、真剣な眼差しで構えを修正する。

「はい!」


少年たちも響の指摘に応じ、再び打ち込みの姿勢を整えた。


紫苑は遠くから微笑みながら、静かに観察する。

「一歩一歩が、己の影と対話する稽古じゃ」


【時刻:午前9時10分/場所:服部家・訓練場・東側】


少し離れた東側では、詠が音術の稽古をしていた。


草の上に座った少年少女たちの前で、笛の音がひとつ、静かに鳴る。


「風を通せ。音は、通り道が見えなければ“術”にならない」


朱音はその光景を、スケッチブックに一心に描きとめていた。


風に揺れる草のささやきと、笛の微かな響きが混ざり合い、静かな集中の空気を作り出している。


【時刻:午前9時25分/場所:服部家・縁側】


縁側では、紫が記録用の帳面に細かく文字を書き留めながら、朱音が描いた「忍たちの似顔絵」を何枚か、丁寧に並べていた。


それぞれに特徴をとらえた表情が、紙の上で生きている。


時に真剣で、時に照れくさそうなその顔たちは──誰もがこの場所で、未来に向かって歩み出している証だった。


【時刻:午前9時30分/場所:服部家・縁側】


紫苑が静かに微笑む。


「ふむ……この“家族”が、次代の“矢車”を導くとはな」


【時刻:午前9時35分/場所:服部家・縁側】


その声に反応するように、朱音が駆け寄ってくる。

彼女は勢いよく抱きついて、紫苑の膝に顔をうずめた。


「ジィじ、また甘いもの食べ過ぎちゃダメだよ?」


紫苑は一瞬たじろぐように目をしばたたかせ、それから小さく咳払いする。


「むぅ……まさよに言われて以来、少しは控えておるわ」


「この前、栗羊羹3本こっそり食べてたの、私知ってるもん」


朱音のいたずらっぽい笑顔に、紫苑は渋い顔をしてから、ついに笑いをこぼした。

その笑みは、まるで──何十年ぶりかの、晴れやかな陽だまりだった。


一族の面々は思わず驚き、紫苑の優しさと穏やかさに心を和ませる。


【時刻:午後2時12分/場所:都心高層ビル屋上】


焼けつくような夏の午後。

灰色のコンクリートの屋上に、ひとりの男の影が沈んでいた。


成瀬由宇──かつて“影班”の一員として数々の危険任務を遂行してきた男。

今は任務を終え、日常へと戻る途中だが、その背にはまだ、かすかに緊張の痕跡が残っている。


「……こんなに暑いのに、あの夜と同じ風は来ないな」


彼は低く呟き、屋上の柵にもたれながら遠くの街を見渡す。

夜の任務では見えなかった光景が、昼の陽射しの下でゆっくりと広がっていた。


「朱音も、玲も……あの夜を越えたんだな」


その目には、安堵と微かな誇りが宿っている。

成瀬はゆっくりと肩の力を抜き、背後の影を確認することなく、初めて完全に自分の時間を感じていた。


【時刻:夕方5時45分/場所:玲探偵事務所・応接室】


夕陽が西の空を赤く染め、窓越しに柔らかい光が部屋を満たしていた。

玲探偵事務所の応接室。

一日の喧騒が静まっていく中、ひとつの依頼が、また新たな“扉”を開けようとしていた。


沙耶はソファに腰を下ろし、手元の書類に目を落とす。

「玲……今日は、本当に一息つけそうね」

その声には、これまでの戦いと守り抜いた家族への安堵が滲んでいた。

かすかに笑みを浮かべながら、沙耶は窓の外に広がる夕暮れを眺める。

“事件解決者”としての顔と、“家族の母”としての穏やかな表情が、静かに交差する時間だった。


【時刻:夕方6時/場所:テレビ局・ニューススタジオ】


カメラの向こう、藤堂は原稿を手にして画面に向かう。

「本日夕刻、東京湾エリアで発生が懸念されていた記録改竄ネットワーク計画──通称ミラー・ゼロの未遂事件につきまして、関係各所の報告が入りました」


スタジオのライトが藤堂の表情を照らす。

「関係者によりますと、被害者や一般市民への危険は未然に回避され、現場では精鋭の特殊チームによる封鎖と確認作業が行われたとのことです」


藤堂は少し間を置き、カメラを見据える。

「今回の事件では、特殊技能を有する個人およびチームの迅速な対応が、事態の拡大を防いだと報告されています。現場の詳細や関係者については、引き続き情報が整理され次第、随時お伝えいたします」


その声は冷静だが、微かな緊張感が含まれており、視聴者に事件の深刻さと同時に、未然防止の成果を印象付ける報道だった。

灰色の空が、東京湾の水面に淡く映る。

この街で、どれだけの影が交差し、どれだけの命が守られ、奪われてきたのか──今はもう、計算できない。


俺、加地靖人は、過去のすべてを清算できたわけじゃない。

ただ、最後に選んだのは、“個人としての償い”。誰かの命令でも、依頼でもない、己の意志での行動だった。


狙撃の準備を手放した瞬間、すべての可能性は彼――玲に託された。

奴なら、真実を掘り起こし、影に沈んだ者たちの意思を繋げられると信じたからだ。


表舞台に出ることはなかった。

だが、残した痕跡と、“あの子”――朱音の存在が、俺の最期の答えだ。

彼女たちの未来に、少しでも光を灯せたなら、それで十分だった。


街は静かに揺れ、俺はその波間に身を沈める。

誰も知らぬまま、影は去る。しかし、いつか必ず、誰かがその意味を知るだろう──俺の選択の理由を。


──それが、俺の、加地靖人としての“あとがき”だ。

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