53話 最後の目撃者
佐々木家
•佐々木圭介
年齢:50代前半
過去の事件に深く関わる父親。記憶や記録の真実を追い求める強い意志を持つ。冷静かつ慎重だが、娘の朱音には弱い面もある。
•佐々木朱音
年齢:小学生
圭介の娘。無邪気さと鋭い直感を併せ持つ。スケッチブックに描く絵が事件解明の鍵となることがある。無意識に“記憶の証人”として重要な役割を担う。
•沙耶
圭介の妻、朱音の母。感情的支柱として、直感と観察力で家族や事件の真相に迫る。
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探偵・調査チーム
•玲
冷静沈着な探偵。事件の核心に迫る推理力を持つ。映像解析や人物心理の観察に長ける。
•橘奈々(たちばな なな)
玲の助手。高度な情報処理能力を持ち、事件の裏側を数値やデータで分析する。
•九条凛
心理干渉分析官。抹消された記憶の復元や心理動線の解析に長ける“記憶再構築”スペシャリスト。
•九条優
凛の兄。映像解析や微細なズレの検出に秀でる。データの中の“時の歪み”を見抜く能力を持つ。
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影班(精鋭隠密チーム)
•成瀬由宇
暗殺実行・対象把握担当。漆黒の戦闘服に灰色の目を持ち、表情が読みにくい。
•桐野詩乃
毒物処理・痕跡消去担当。黒髪を結い、暗色のマスクと白い手袋を装着。
•安斎柾貴
精神制圧・記録汚染担当。高身長で筋肉質。ダークグレーのロングコートに黒髪短髪。
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重要事件関係者
•石田誠二
警備員。犯人の“囮”として意図せず関与する。微細な違和感や記憶が事件解明のヒントとなる。
•若槻ミナ(わかつき みな)
清掃スタッフ。事件当日、犯行に巻き込まれたが直接盗みを行ったわけではない。脅されて動いた経験を持つ。
•佐伯玲子
過去に窃盗未遂歴あり。今回の事件で映像解析上、犯行に関与した可能性のある女性スタッフ。
•雷真
真犯人の一人。計画的な侵入者であり、裏の“本命行動”を実行した。自らの行動に葛藤を抱える。
•井上悠介
警備・システム管理関係者。表面的には無害だが、犯人による囮として利用され、行動が事件全体のトリガーとなる。
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スペシャリスト・サポート陣
•三宅美奈子
元看護師。医療・毒物分析に精通。事件時の薬剤痕跡を検出。
•早乙女澄音
映像解析エリート。赤外補正や反射逆演算など高度な映像解析を行う。
•御子柴理央
記憶分析担当。封じられた記憶の解放や心理状況の解析を行う。
•羽村響
尋問スペシャリスト。対象者の心理と行動を引き出す技術に長ける。
•藤堂
報道スペシャリスト。事件全貌を整理して伝える役割。
時間: 午前10時23分
場所: 高級ホテル宴会場
クリスタルガラス張りの天井から、陽光が柔らかく降り注いでいた。会場全体が、金と象牙色を基調とした優雅な調和に包まれている。天井から吊るされたシャンデリアのカットガラスが、差し込む光を細かく反射し、壁の大理石を七色に彩っていた。
「……まさか、こんなに光がきらめくとは」
隣に立つ奈々が、息を呑むように呟いた。
「派手さだけじゃない。空気まで澄んで見える気がする」
玲が小さく笑いながら、手元の書類を確認する。
沙耶は軽く肩をすくめ、窓際に視線をやる。
「ここで何が起きても、不思議じゃない雰囲気ね……」
朱音はスケッチブックを抱え、目を輝かせながら静かに言った。
「光が……七色に揺れてる……きれい……」
玲はその言葉に軽く頷き、天井を仰ぎながら、淡々と告げた。
「この場所が、今日の“舞台”になる……全てはここで始まる。」
時間: 午前10時30分
場所: 高級ホテル宴会場・中央特設ブース
中央の特設ブースには、一つだけ異質な静寂があった。まるでそこだけ、音が吸い込まれているかのように。
「……不思議ね、周囲は歓声で賑やかなのに」
沙耶が小さく呟き、ブースの縁に手を添える。
「視線を奪われるな……ここが鍵になる」
玲が低く言いながら、慎重に周囲を観察する。
朱音は少し身を乗り出し、興味津々の目でブースを見つめる。
「なんだか、秘密の扉みたい……」
奈々は腕組みをし、眉間に薄く皺を寄せた。
「油断できない……あの空気、絶対にただの装飾じゃない」
玲はゆっくりと呼吸を整え、目の前の異質な空間に意識を集中させた。
「……ここで、全てが動き出す。」
時間: 午前10時32分
場所: 高級ホテル宴会場・中央特設ブース
展示台の中心に置かれたのは、ブルーファイア・ダイヤモンド。
「……45カラットか。光の反射が尋常じゃない」
玲が手袋越しにじっと宝石を見つめる。
沙耶は目を細め、指先で空中に触れるような仕草をした。
「まるで、海の底の光を閉じ込めたみたい……」
朱音が興奮気味に声を弾ませる。
「わぁ……角度で色が変わる! 青だけじゃなくて、紫も見えるよ!」
奈々は冷静に観察し、周囲の警備員の位置や展示台の構造を確認していた。
「気を抜くな。この輝きは目を奪うだけで、何か仕掛けがある可能性もある」
玲は微かに頷き、ブルーファイア・ダイヤモンドの奥に潜む微細な陰影まで目を凝らした。
「……ここに、事件の匂いがする。」
時間: 午前10時35分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台周囲
若槻ミナは、スタッフバッジを左胸に着け、展示台の周囲を歩いていた。
「展示品の状態は完璧です。警備カメラも異常なし、警備員の巡回も予定通りです」
彼女の声は落ち着いていて、丁寧だが確かな緊張感が含まれていた。
アイボリーのスーツに身を包み、端正にまとめられた黒髪はうなじの位置できっちりと結われている。華美すぎないルージュと、きりっと引かれたアイラインが、彼女の真面目な印象を際立たせていた。
朱音が展示台越しに覗き込み、興奮気味に言う。
「ねえ、このダイヤって本当に人を引き寄せるみたい……!」
若槻ミナは微笑を返すことなく、軽く首を振った。
「油断は禁物です。展示品の美しさに惑わされず、常に周囲を確認してください」
玲は横で腕を組み、慎重に観察する。
「……この会場、単なる宝石展示会じゃない。何かが潜んでいる気配がある」
時間: 午前10時40分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
「本日ご覧いただいておりますのは、ブルーファイア・ダイヤモンド。45カラットの希少石で、世界に三つしか存在しない青の結晶です……」
若槻ミナの声は落ち着きと品位に満ち、会場の静寂の中に確かに響いた。観客たちは息を潜め、彼女の一言一言に耳を傾けている。
「光の角度によって銀色にも、紫色にも、時に黒曜石のような深い陰影も見せる、非常に美しい宝石です」
朱音は小さな声で囁いた。
「……光が動くたびに色が変わる……本当に不思議……」
玲は展示台の周囲を見渡し、警備員の配置や出入り口の状況を頭の中で整理しながら呟く。
「……これは単なる展示じゃない。何か仕掛けがある匂いがする」
若槻ミナは観客の視線を意識しつつ、冷静に続ける。
「本日の展示は短時間の特別公開です。皆さま、宝石の美しさだけでなく、安全にもご留意ください」
時間: 午前10時42分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
スピーカーから流れるバロック調のBGM――バッハの協奏曲が、会場全体をゆったりとした空気に包む。
若槻ミナの声もまた、静かに場を支配するかのように滑らかに響いた。
「このブルーファイア・ダイヤモンド、光の加減で様々な表情を見せる宝石です……」
朱音は展示台のガラス越しに宝石を見つめ、小さく息を漏らした。
「……まるで生きてるみたい……」
玲は心の中で呟く。
「美しさに目を奪われる人間の視線、行動の予測に使えそうだ……警備と人の動きを把握しておかないと」
ミナは微笑みを保ちつつ、丁寧に手を添え、宝石の輝きを際立たせる。
「どうぞ、角度を変えて、光の変化をお楽しみください」
静かに流れる旋律とともに、会場全体が宝石の青に染まるような、不思議な時間がゆっくりと過ぎていった。
時間: 午前10時45分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
そのときだった。
クリスタルガラスの天井――太陽がわずかに角度を変え、斜めに射し込む陽光が展示室中央に立つミナの肩を淡く照らした。
ガラス越しに差し込む光が、彼女の黒髪の艶を浮かび上がらせ、アイボリーのスーツに柔らかな陰影を作る。
朱音の瞳が光を追う。
「……あ、光が……宝石よりも先に、人に当たってる」
玲は眉をひそめ、観察を続ける。
「光の反射角度……狙いを定めるには絶好のタイミングだ」
ミナは気づかぬまま、説明を続ける。
「この宝石は、光の強さや角度によって、表情を劇的に変えるんです……」
しかし、会場の空気は一瞬、光のせいで凍りついたように静まり返った。
時間: 午前10時46分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
ミナの目が微かに動いた。
視界の端で――不自然に動く、影のような線を見てしまった。
瞬間、身体がこわばる。自分の動きに合わせているのではない――それが確かだと理解したとき、背筋を氷のような冷気が走った。
「……今のは……?」
小さく呟いたが、声はほとんど震えていなかった。
玲は傍らからすぐに視線を合わせ、冷静に指示を出す。
「落ち着け。観察を続けろ。その線が何者かの仕業か、それとも偶然かを確認する」
朱音はミナの肩越しに身を乗り出し、静かに囁く。
「……でも、あれ、普通じゃないよ……」
光の反射と、影のずれ。宝石の輝きの中に、確かに“異質な動き”が存在していた。
時間: 午前10時47分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
だが、ミナはその意味をすぐに理解していた。
この不自然なラインが現れたわずか数秒後、中央制御ブースのシステムが一時的にバッファリング状態に入ることを。
ID:S-YK90の認証キーが、わずか3.2秒だけ“二重化”されるタイミング――
その現象を把握できるのは、展示スタッフ全員の中でもほんの一握りの者だけだった。
ミナは息を潜め、目の前のラインの動きを追いながら、頭の中で瞬時に対応策を組み立てる。
「……誰かが、私たちの動きを見ている……」
心の中でそう呟き、次の動きを決めるための冷静さを保った。
時間: 午前10時50分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
そのとき、ミナの背後で――誰かがひとつ、深く息を吐いた音が聞こえた。
わずかに振り返ろうとしたその瞬間、展示会開始からちょうど20分後。
会場全体の照明が、ふっと、ひと呼吸だけ明滅した。
ミナの肩越しに、中央制御ブースのラインが再びわずかに揺れる。
“異常な同期”――わずか数秒の光の揺らぎは、システム上の意図的なタイミングと完全に一致していた。
息を呑むミナ。心臓がわずかに早鐘を打つ。
「……やっぱり、誰かが、私を――監視している」
彼女の声は、胸の奥でかすかに震えた。
展示台に鎮座するブルーファイア・ダイヤモンドは、照明が明滅した瞬間、まるで心臓の鼓動に呼応するように青い火を揺らめかせた。
一瞬だけ、深海の底で息を潜める生き物のような光が、会場の空気そのものを凍りつかせる。
その“鼓動”は、ただの宝石のきらめきではなかった。
まるで――何かが今、目を覚ましたかのように。
時間: 午前10時20分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
展示台に立つミナの視線は、ブルーファイア・ダイヤモンドの揺らめく青い光に釘付けだった。
「……え?」
彼女の声は、まるで自分でも驚いたかのようにかすかに震えた。
宝石の真下に落ちる影が、わずか1.5センチだけ左にずれている。
通常なら微細な光の差や角度による誤差で片付けられるはずの動きが、何か意図的なもののように、微かに、しかし確実に存在していた。
ミナは思わず息を呑み、指先で展示台の縁に触れながら呟く。
「これは……光の錯覚じゃない……わたしの目の前で、確かに動いた……」
時間: 午前10時20分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
ミナの背後で微かな空気の振動が走った瞬間、展示会の中央制御ブースのシステムが一瞬だけバッファリングに入った。
モニタにはわずか3.2秒間だけ、ID:S-YK90による「一時解除指示」の文字列がちらりと浮かぶ。
「……なんだ、これは……?」
ミナは心の中で独り呟く。
この短い間に、誰かが展示台の保護機構を一時的に無効化し、意図的な干渉を可能にしたことを示していた。
見る者の限られた時間、限られた知識、そしてわずか数秒の操作――そのすべてが、彼女の視界に刻まれる。
時間: 午前10時20分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
ミナの喉がかすかに鳴った。
スピーカーから流れるバロック調のBGMの背後で、微妙な空気の違和感が耳の奥に届く。
「……何かが、確実に動いている……」
心臓の鼓動がわずかに早まり、肩の筋肉が緊張する。
展示台の宝石の影、システムの一時解除、そして見えない“動き”。
すべてが同時に、彼女の感覚に訴えかけていた。
時間: 午前10時21分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
声は――九条優だった。
通信は本来、許可されていない時間帯のはず。
だが、今この瞬間、彼は強制的にラインをつないできた。
ミナの耳に、低くも確かな声が響く。
「……ミナ、動くな。今、展示台の影が示すのは、ただの光のずれじゃない」
その声に、会場の華やかな空気とは別の緊張が瞬時に張り詰めた。
時間: 午前10時27分
場所: 調査室・大型ディスプレイ前
玲は冷たい光を放つ大型ディスプレイの前で息を潜めた。
映し出されているのは、数時間前に収録された宝石展のライブ映像だ。
照明に照らされたブルーファイア・ダイヤモンドが、展示ケースの中で静かに輝き、周囲の観客の動きも映し出されている。
玲の視線は宝石そのものではなく、その下に落ちる影に釘付けだった。
わずかに左にずれた影――あの1.5センチの差が、ただの光の加減ではないことを示していた。
「……誰かが、展示台に手を加えた」
玲は低く呟き、映像を一時停止させた。
時間: 午前10時29分
場所: 調査室・大型ディスプレイ前
玲はディスプレイの側面に設置された分析端末に手を伸ばす。
「まずはカラー成分を分解だ……RGBだけじゃなく、赤外線スペクトルまで解析する」
映像のピクセルごとに光の波長を分離し、肉眼では見えない赤外線の反射や吸収パターンを抽出する。
通常の映像では平滑に見える光の濃淡も、赤外線スペクトル上では微妙な温度差や物体の密度差として現れる。
玲はそのデータを即座に重ね合わせ、ブルーファイア・ダイヤモンドの周囲に“異物”や不自然な影の変化がないかを精査した。
「……赤外線反射のパターンが微妙に乱れている。展示ケースのガラス面に通常はない変形が……誰かが触れた痕跡だ」
玲は静かに唸りながら、さらなる解析を続ける。
時間: 午前10時33分
場所: 調査室・大型ディスプレイ前
「この映り込みは、昼光成分だけでなく、赤外線帯域にも存在している」
奈々が画面に指を差しながら報告する。
玲は画面の赤外線スペクトルマップを拡大し、ガラスケースの奥に映る微細な異常を確認した。
「……なるほど。通常ならガラス面の反射で赤外線はほぼ透過するはずだが、ここには物理的な物体が赤外線を遮っている痕跡がある」
奈々が続ける。「つまり、展示ケースの内側、ブルーファイア・ダイヤモンドのすぐそばに、意図的に置かれた何かがある可能性が高い」
玲は静かに頷き、解析ソフトを使ってその異物の形状と位置を正確に再現しようと、さらに波長ごとのデータ抽出を進めた。
時間: 午前10時45分
場所: 調査室・大型ディスプレイ前
玲は映像のタイムラインを慎重にさかのぼる。
「午前10時のリハーサル映像では、この映り込みは全く確認できない……」
彼の指が再生バーの数秒単位で停止する。
「……本番直前、展示開始の数分間だけに現れている」
奈々が画面を凝視し、赤外線スペクトルの変化を指差す。
「タイミング的に、誰かが意図的にケース内に設置した可能性が高い。リハーサルでは存在していなかったから、準備の最終段階で置かれたんでしょう」
玲は軽く息を吐き、静かに唇を動かした。
「……仕掛けは展示開始直前。だからこそ、誰が近づけたか、動線の解析が必須だ」
時間: 午前10時47分
場所: 調査室・大型ディスプレイ前
画面の隅に、微細な光点がぽつりと浮かんでいた。玲はマウスを握り、デジタルズームで光点を拡大する。
「……この微光反射、可視光だけでなく近赤外線帯域にも反応している。つまり、単なる映り込みではなく、光源自体が物理的に存在している可能性が高い」
奈々がモニタの波形解析を補足する。
「ピクセル単位での輝度変動も一定周期を持っている。照明の揺らぎや反射では説明できないレベル……光点は、ケース内の微小デバイスか、透明な固定具による反射のどちらかです」
玲はさらに細部を抽出し、輝度値、RGB成分、赤外線スペクトル、フレーム単位の変化量を比較。
「光点の軌跡は、固定位置にある小型光源から発せられている可能性が極めて高い。物理的干渉、あるいは透明な固定具による光拡散が原因だ」
彼の声は低く、しかし緊張感を帯びて響く。
「……これは単なる偶然じゃない。意図的に設置された、微細な仕掛けだ」
時間: 午前10時52分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
玲は無言のまま、身分証をセキュリティ係員に差し出した。
灰色のロングコートの襟を自然に立て、肩から背筋にかけての直線的なラインは、まるで冷たい風を切り裂く刃のように鋭く、展示会場の華やかさとは対照的に静かな緊張感を放っていた。
係員は一瞬視線を止め、玲の顔を読み取りながらゆっくりと身分証を受け取る。
「……はい、確認しました。ご入場ください」
玲は短く頷き、音を立てないように足を運ぶ。
その動作ひとつひとつが計算され尽くしたかのように無駄がなく、周囲の光と影が彼の輪郭に鋭い陰影を落としていた。
後ろで微かに響く展示台のガラスの反射音すら、玲の存在感によって一瞬、静寂に溶け込むように感じられた。
時間: 午前10時53分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
彼の内側では、数々の検証と分析が高速で巡っていた。目の前の展示ケース、照明の角度、微かなガラスの映り込み――それぞれの情報が瞬時に組み合わさり、玲の頭脳を駆け巡る。
「犯人はここにいた。もしくは、これからまた動こうとしている」
声に出すでもなく、心の中で淡々と確信が立ち上がる。
周囲の華やかな喧騒とは無縁の緊張感が、彼の視界の端から全体に広がり、わずかに揺れる光の線や影が、次の一手を示すかのように玲の意識を鋭く刺激した。
時間: 午前10時54分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
玲は展示台の縁に視線を落とした。白色LEDが反射するガラス面は、光の加減で青く淡く輝く宝石の存在を強調していたはずだった。しかし、目に映るのは――完璧な密閉状態を維持したガラスケースの中に、宝石の姿がない異常な光景だった。
指紋も、微細な擦れ傷も、ケースのガラス面には一切見当たらない。通常なら、取り扱いや警備の際に残るはずの微細な油膜や埃の乱れすら、まるで存在していないかのように整っている。ケースの縁や底面、角の隙間に至るまで、物理的な介入の痕跡は皆無だった。
宝石だけが、まるで霧のように、何者かの手で“抜き取られた”かのように消えている。その状況は、まったくもって通常の窃盗や偶発的な紛失の類では説明がつかない。
玲は唇をわずかに噛み、思考を巡らせる。
「内部からの操作か……それとも、見えない何かの仕掛けか」
彼の頭脳は、目の前の“完璧な密閉状態”が意味する物理的な不可能性と、可能性の双方を瞬時に計算し、次の行動を導き出そうとしていた。
静かな会場の空気は、彼の冷静な推理の熱に呼応するかのように、一層重く、そして張り詰めたものに変わった。
時間: 午前10時55分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
玲の視線は、展示ケースの底面とガラス面のわずかな隙間に引き寄せられた。目を凝らすと、そこには極薄の反射フィルムが仕込まれているのがわかる。表面はほとんど光を通さず、しかし角度によって光を巧妙に反射させる素材だ。
さらに注意深く観察すると、微小な熱膨張の影響でフィルムはわずかに湾曲しており、そのカーブが光を屈折させることで、ケース内部に宝石が存在しているかのような錯覚を生み出していた。
玲は小さく息を吐き、指先でケースの縁をなぞる。
「なるほど……これはただの窃盗じゃない。視覚情報を完全に操作するトリックだ」
展示会場全体の空気は、依然として優雅な静寂に包まれている。しかし玲の心は、光の反射と熱膨張の微細な挙動を解析し、犯行の手口を寸分たがわずに描き出す冷徹な戦場と化していた。
時間: 午前10時56分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
玲の肩越しに、インカムから低く張りのある声が響いた。
「……玲、映像解析は見たか? ケースの底面、単なる密閉じゃない。微細な反射フィルムと熱膨張による偽装だ」
玲は振り返らず、淡々と応じる。
「確認済みだ。だが、あの光点の存在が気になる。ガラス内に何か物理的な物体がある」
九条の声は間を置き、さらに付け加えた。
「奴はまだ動ける。次の数分が勝負だ」
会場内の華やかな空気とは裏腹に、玲の体内で戦慄が走る。光の反射、熱膨張、そして潜む犯人――すべてが、この瞬間に結びつく気配があった。
時間: 午前10時56分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
玲の肩越しに、インカムから低く張りのある声が響いた。
「……玲、映像解析は見たか? ケースの底面、単なる密閉じゃない。微細な反射フィルムと熱膨張による偽装だ」
玲は振り返らず、淡々と応じる。
「確認済みだ。だが、あの光点の存在が気になる。ガラス内に何か物理的な物体がある」
九条の声は間を置き、さらに付け加えた。
「奴はまだ動ける。次の数分が勝負だ」
会場内の華やかな空気とは裏腹に、玲の体内で戦慄が走る。光の反射、熱膨張、そして潜む犯人――すべてが、この瞬間に結びつく気配があった。
時間: 午前10時57分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
玲はゆっくりと息を整え、目の焦点を定めた。
天井から差し込む陽光の中で、わずかに揺らぐ空気の層が見える。
「……光が歪んでいる……膜がある」
彼の指先は展示台の縁に触れながらも動かず、目だけでその“何もないはずの空間”を追う。
「物理的な存在ではない、だが、光を通している。高度な光学偽装だ……」
耳元で、九条の声が冷静に告げる。
「その膜の位置、把握したか? 奴は今、確実にそこにいる――いや、潜んでいる」
玲の視線は微動だにせず、光と影の揺らぎを鋭く解析しながら、潜む犯人の存在を捉えようとしていた。
時間: 午前10時58分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台前
玲は低く、だが確信を帯びた声で言った。
「つまり、ダイヤモンドは最初から“そこ”にはなかった。本物は、展示直前にすり替えられ、別の場所に隠されていた」
奈々が端末を操作しながら補足する。
「映像解析でも、ケース内部の反射フィルムと光学偽装の形状から、宝石が“存在しているように見せる演出”が確認できる。入れ替えは展示開始前数分以内」
ミナは微かに息を呑む。
「……ええ、では、あの美しいブルーは……すべて幻……」
玲はその場の空気を鋭く切るように続けた。
「幻を見せる間に、犯人はすでに動いている。行動の痕跡は、光の揺らぎと熱膨張の微細な変化に残っている」
会場の華やぎとは裏腹に、事態の緊迫感が、ひそやかに場を支配していた。
時間: 午前11時42分
場所: 展示ホール・第3ガラスケース前
静まり返った展示ホールに、わずかな靴音だけが響く。囲い込まれた観覧スペースの向こう、玲はガラスケースの前で片膝をついたまま、内部に残された“完璧すぎる空洞”を見つめていた。天井からの自然光が白く照り返り、展示台は何も語らない。だが、沈黙こそが決定的な証拠だった。
インカム越しに九条優と奈々が待機するなか、玲がゆっくりと立ち上がる。その灰色のロングコートの裾が、小さく揺れた。そして――冷たく張り詰めた声が落ちる。
「ダイヤモンドは小型とはいえ……45カラット。」
玲は展示ケースに指先をそっと添え、まるで“そこにあったはずの重み”を確かめるように目を細めた。
「指輪でもネックレスでもなく、直接――“皮膚の下”に埋めたんだ。」
奈々が息を呑む気配がインカムに乗る。
玲は淡々と、だが容赦なく続けた。
「特殊な医療用ポリマーでカプセル化すれば、通常の体内スキャンにはまず引っかからない。空港並みのセキュリティでも、体温と同化した異物として扱われる」
午前11時42分の展示ホールは、常設照明のうなる音すら聞こえるほど静かだった。
「……つまり」
玲は立てた指をゆっくり下ろした。
「展示スタッフに紛れた誰かが、“自分の体を運搬ケース”として使っていた。」
言い終えた瞬間、彼の声が冷たく空間を切り裂き、遠くで鳴る警備無線の雑音すら固まった。その静寂のなかで、盗まれたはずのダイヤモンドの“重さ”だけが、まだそこに存在しているかのようだった。
時間: 午前11時45分
場所: 展示ホール・ブルーファイア・ダイヤモンド展示台付近
玲は展示台の縁に視線を落としたまま、低くつぶやく。
「若槻ミナ。展示台の真横を、何度も“同じ歩幅で”往復していたスタッフだ」
周囲の観覧客や監視カメラの動きを想像しながら、彼は細かく分析を続ける。
「彼女だけが、センサーの死角を完全に把握していた。そして、例のインクの印……」
奈々が端末に指を滑らせ、紫外線モードの映像を映し出す。薄暗い光に照らされ、床に浮かぶ微かな線が鮮明に現れた。
「紫外線でしか見えないマーカーは、“回収地点の合図”だった」
玲は息を整え、再び展示台全体を見渡す。完璧に仕組まれたトリックが、わずかな足取りと不可視の印によって成立していたことを、その目が冷静に見抜いていた。
時間: 午前11時47分
場所: 展示ホール奥・非常口付近
玲は展示ホールの奥を一瞥した。非常灯の薄明かりに照らされ、脇の扉の向こうには、警備員に取り押さえられた女性が立っている。
顔色は青ざめ、瞳はまるで何かに取り憑かれたかのように見開かれていた。口は固く閉ざされ、微かな息遣いだけが、静まり返ったホールに響く。
玲はゆっくりと歩を進めながら、視線を女性から外さず、冷静に周囲の状況を確認した。展示台の周囲、警備の配置、観覧客の位置――すべてが、先刻までの緻密な分析と照合される。
「……確かに、彼女だ」
低く呟く玲の声に、わずかな緊張が混じる。犯行の痕跡は明確だ。だが、この女性の沈黙の理由だけは、まだ誰も知らないままだった。
時間: 午前11時49分
場所: 展示ホール奥・非常口付近
玲の視線は、青ざめた女性の肩越しに、淡く光る展示ケースを捉えていた。低く、しかし確信に満ちた声で呟く。
《……“それ”は、まだ手元にある。ちゃんと、戻せる。だけど、今の彼女の心は……限界だったよ》
肩の力が抜け切らぬまま、女性はただ立ち尽くす。玲は短く息を吐き、事態を整理しながら、次の一手を考えた。手元の“それ”――ブルーファイア・ダイヤモンドはまだ安全圏内にある。だが、彼女の精神がこれ以上持たないことだけは、誰にも覆せない現実だった。
時間: 午前11時50分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア
フロアマネージャーの声がインカム越しに響く。
「……え、まさか、そんな……どういうことですか!」
動揺がはっきりと滲んでいた。言葉は途切れ途切れで、呼吸は荒く、普段の落ち着いた声とはまるで別人のようだった。
玲は眉ひとつ動かさず、その反応を静かに受け止める。肩の力を抜かず、しかし心の中は冷徹に分析を巡らせる。フロアマネージャーの混乱は、状況の複雑さを示す証拠であり、同時に犯人の計画が成功する危険性を示す警告でもあった。
視線を展示台中央へと戻す。ブルーファイア・ダイヤモンドの輝きはいつも通りだが、確実に何者かの操作によって舞台は動かされている。光の角度、微かな陰影、そして展示ケース周囲の空気の乱れ――玲の目は、あらゆる異変を逃さなかった。
口元で小さく呟く。
「まだ終わりじゃない……すべて、ここで止める。」
時間: 午前11時52分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア
沙耶は静かに端末の画面を指でなぞり、監視記録を確認する。
「監視記録では……確かにその時刻、照明のサーボが一瞬だけ動作しています。制御ログには、“手動入力”の形跡」
その言葉に、展示ホールの空気がさらに張り詰める。手動操作が意味するのは、誰かがシステムに直接介入した可能性――つまり計画的な操作だ。
玲は眉間にわずかな皺を寄せ、端末に表示されるログの時刻と展示開始のタイムラインを脳内で照合する。微妙な誤差、わずかなズレ。だが、そのズレこそが、犯行の決定的手がかりになる。
玲の視線は、再び展示ケースの中へ。光の微かな乱れ、影のずれ……どれも偶然ではないと確信していた。
時間: 午前11時53分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア
玲は展示台の縁に軽く触れ、わずかに残った温度差を確かめるように指先を滑らせた。
その動作は静かだが、言葉には確信が宿っていた。
「そう。“もう一つの指先”の正体。」
沙耶が顔を上げる。
奈々も、息を呑んだまま解析画面を見ている。
玲は続けた。
「犯人は、完全な密室状態を作り出す一方で、光の反射で“外部からの介入”を偽装した。
観客にも警備にも、“犯行はホールの外から行われた”と思わせるために。」
ゆっくりと視線を天井へ。
クリスタルガラス越しの光が、展示台の中央をかすめている。
「実際には――外からは何も起きていない。
すべては展示台の“内部”と、スタッフ動線の“足元”に仕掛けられていた。
光学的トリックで視線を誘導し、反射フィルムでダイヤの“存在”を誤認させる。
さらに照明の一瞬の手動操作で、“何かが外から干渉した”ように見せた。」
沙耶が震える声でつぶやく。
「だから皆、外部の影を探した……」
玲は静かにうなずいた。
「本当の指先は、最初から会場の中にいた。
犯人自身の“指”が、すべてを動かしていたんだ。」
時間: 午前11時55分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア
玲は展示台のガラス越しに、わずかに揺れる光の線を指で追った。
「逆に、“反射による映り込み”が不自然な角度で現れたことで、こちらは気づけた。」
奈々がモニターに目を走らせ、補足する。
「つまり、外部からの犯行ではなく、犯人は展示フロア内にいた――その確証ですね」
玲は短くうなずき、目をダイヤモンドの位置に戻す。
「そうだ。ダイヤモンドを盗んだ者が“中にいた”という確証に至った瞬間だ。」
会場の静寂の中で、光の微細な歪みだけが、真実を告げる証拠となっていた。
時間: 午前11時57分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア
玲は展示台を挟んで、ミナの立ち位置を思い浮かべる。
「さらに言えば――“照明”は、ミナが触れなくても操作可能だった。」
奈々が即座に端末を操作しながら補足する。
「サーボ制御ログを解析すると、一瞬だけ自動制御信号が割り込んでいます。人為的ではなく、システムを介した遠隔入力です」
玲の目がフロア全体を走る。
「つまり、犯人は光の演出を“遠隔で”行い、映り込みを作り出した。観客も警備も、誰も疑わなかった――完璧な偽装だ」
空気が張り詰め、展示台のブルーファイア・ダイヤモンドは静かにその存在を誇示しているかのようだった。
時間: 午前11時58分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア
玲は冷静に声を続ける。
「映像スタッフの一人が、リハーサルの合間に接続した“テスト用外部操作端末”から。
ご丁寧に、操作ログは削除されていたが、奈々が復元した」
奈々は端末の画面を指差し、微かな緊張を漂わせる。
「削除直後のタイムスタンプまで残っていました。操作自体は短時間でしたが、光の演出と映り込みはその間に仕込まれていたことがわかります」
玲は展示台のダイヤモンドを視線で追い、言葉を付け加える。
「つまり、事件は完全に計算されたタイミングで行われた。物理的な接触は最小限、でも視覚的には完璧な密室と錯覚させる」
時間: 午前12時03分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア
玲は展示台の脇に立ったまま、視線を一点に固定し、低く呟く。
「……すべては、“目撃されたくない真犯人”が、彼女を囮として仕立てた――そう考えると、すべての辻褄が合う」
沙耶は端末を操作しながら頷き、静かに補足する。
「つまり、若槻ミナは計画の一部に過ぎず、意図的に作られた“見せ物”だったのね」
奈々も画面に目を落としながら言葉を添える。
「操作ログや反射分析、監視映像……すべてが裏付けている。偶然ではなく、意図的な演出」
玲は短く息を吐き、会場全体を見渡す。
「そして、我々はその罠の中に、わずかなヒントを見つけた。それだけで、真実の輪郭に近づける」
時間: 午後3時27分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア脇
石田誠二は深く息を吸い込み、震える声で名乗る。
「……私は、石田誠二です。美術品の輸送と管理を専門にしてきました。今回の展示も、輸送過程とセキュリティ管理の立会いとして関わっています」
手元の小瓶を握り直し、指先に力を込めるが、やはり震えは隠せない。
「ただ……正直に言います。今回の件に関しては、表向きの役割以上のことは……私は、知らない……」
玲は静かに彼を見据え、次の言葉を待つ。
その視線の冷たさと鋭さが、石田の心の奥底まで届く。
「君が知っていること、そして知らされなかったこと――どちらも、今ここで話してもらわなければならない」
時間: 午後3時29分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア脇
石田は小さくうなずき、声を震わせながら続ける。
「はい……すべての監視カメラは稼働中です。センサーも、作動範囲を逸脱していません。……つまり、ダイヤモンドに触れるには、何かしらの記録が必ず残るはずなんです」
その言葉には、焦りと責任感が混ざった重みがあった。
玲は無言で頷き、端末を操作しながら視線を石田からディスプレイに移す。
「なら、その記録と君の説明を照合すれば、真実は明らかになる……」
時間: 午後3時31分
場所: 高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア
玲が視線を落とすと、石田の足元――警備用の端末が床に伏せた状態で転がっていた。
画面には、一時ログインの痕跡が残っているが、午後1時43分の記録だけが、まるで意図的に抜き取られたかのように消えていた。
「……この空白が、犯行の鍵になる」
玲の低い呟きに、フロア内の緊張が一層高まる。
時間:午後3時32分
場所:高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・中央通路
玲はゆっくりと顔を上げ、石田の震える手ではなく――その背後の“空白の時間”そのものを見据えるように、鋭い声で告げた。
「あなたの“心臓の薬を常備していること”まで知っていた者。」
石田の肩がびくりと震える。
薬の小瓶は、握る指の間でカタリと弱い音を立てた。
玲は一歩、石田に近づく。
灰色のロングコートが静かに揺れ、周囲のスタッフが息を飲んだ。
「それは――展示関係者ではなく、あなたの“勤務記録より前のあなたを知る”誰かです。」
石田の喉が、ごくりと鳴る。
「……ま、まさか……」
彼の声は細く、消え入りそうだった。
玲は冷静に続ける。
「薬の常備は、今年この会場に配属されてからの情報ではない。
もっと前の、あなたが“別の部署で倒れたこと”を、知っている人間。」
空気が張りつめる。
「そして、午後1時43分――あなたが体調を崩して休憩室に向かった“その瞬間”を狙って、ログを抜き取った者。」
玲の声は低く、静かで、それでいて逃げ場のない確信に満ちていた。
「――石田誠二。あなたを囮に使った犯人は、“あなたの過去に触れられる位置にいた人物”です。」
その言葉に、石田の顔から血の気がすっと引いた。
時間:午後3時33分
場所:高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・中央通路
石田の声はかすれ、低く震えた。
「……もしかして……あいつが……?」
玲は微かに眉を寄せ、冷静に頷く。
「可能性は高い。午後1時43分、あなたの行動と体調の記録、そして展示会場の全操作ログ。すべてが一人の人物に繋がる。」
沙耶が端末を操作しながら、淡々と付け加えた。
「あなたの過去を知り、スタッフとして紛れ込み、かつ一時ログを削除できる者。条件を満たすのは、会場関係者の中ではほぼ一人だけ。」
奈々も画面を凝視しながら言う。
「……そう、石田の過去も、展示会のシステムも、完全に掌握していた者です。」
石田は顔を覆い、震える手で胸元を押さえた。
「……や、やつが……まさか……」
玲の目は揺るがない。
「ええ。あなたを利用したのは、間違いなくあいつです。」
静まり返った展示フロアに、かすかな雨音のような緊張が張りつめる。
時間:午後3時35分
場所:高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・中央通路
石田の声はかすかに震え、過去の記憶が胸を締めつけるようだった。
「七年前に辞めた、かつての後輩です。名前は――高梨健吾。セキュリティ業務に就いていたが、内部トラブルで解雇された。
私が処分を決めた責任者でした……」
玲は静かに石田を見据える。
「高梨健吾。なるほど、条件はすべて符合する。午後1時43分の消えたログも、彼の手で操作された可能性が高い。」
沙耶が端末の画面を指でなぞりながら報告する。
「過去のアクセス権限履歴、会場スタッフの配置表、そしてカメラ死角の検証……すべてが彼の行動範囲と一致します。」
奈々も画面に目を落とし、冷静に付け加える。
「さらに、午後の展示直前にインクマーカーを使った合図も、過去の手口に似ています。巧妙ですが、完全に再現可能な手順です。」
石田は俯き、荒い息をつく。
「……やつが……こんな方法で……」
玲は低く、しかし確信をもって告げた。
「ええ。すべては、高梨健吾の計画通りでした。」
時間:午後3時38分
場所:高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・中央通路
玲の声は静かだが鋭く、石田の胸を突き刺すようだった。
「石田さん。展示会当日の午前11時15分、あなたは警備室を一時離れていますね?」
石田は小さく息を詰め、かすかに頷く。
「はい……薬を飲むために、少し外に出ていました。心臓の薬です……」
玲はゆっくりと視線を石田の手元に落とす。
「なるほど。そのわずかな隙間を狙い、高梨健吾が端末にアクセスした可能性がある。あなたの一時離席は、狙われる条件として完璧だったのです。」
沙耶が端末画面を確認しながら淡々と付け加える。
「午前11時15分、警備室の外気温センサーと内部動作ログの時間差、すべてが一致します。やつは正確に石田さんのタイミングを把握していました。」
石田は目を伏せ、震える声で呟く。
「……俺の薬の時間まで……計算されていたのか……」
玲は静かに頷き、冷徹な声で締めくくった。
「ええ。すべて計算通りです。偶然など、一つもありません。」
時間:午後3時41分
場所:高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・中央通路
「この水筒、いつから使っていますか?」
詩乃の声は低く、しかし的確に石田を追い詰めるように響いた。
石田は視線を床に落とし、指先で水筒の底をこすりながら言葉を探す。
「えっと……確か……三年前くらいから……ずっとです……」
詩乃は頷き、端末に視線を戻す。
「なるほど。内部記録と照合すれば、この水筒の位置情報や運搬ログも確認できますね。つまり、この“常備品”が、事件当日の行動を特定する鍵になる可能性が高い」
石田は肩を震わせ、小さく息を吐いた。
「……まさか、こんなことまで……」
玲は冷静に一歩前に出る。
「偶然ではありません。高梨健吾はあなたの習慣まで把握していました。水筒の存在は、わずかな行動の隙を突くための計算の一部です」
時間:午後3時45分
場所:高級ホテル宴会場・ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・警備室前
「……どうやら、“体調不良を仕組まれた”可能性が高いようですね」
詩乃の声は冷静だが、その目は端末の分析画面に鋭く釘付けになっていた。
石田がびくりと肩を震わせる。
「え……そんな……!」
詩乃は端末を操作しながら説明を続ける。
「あなたの水筒の成分を事前に分析したところ、微量の血管拡張剤が検出されました。通常の用量ではありません。つまり、展示会当日、意図的に体調を崩すために仕込まれた可能性があります」
玲は石田を鋭く見据えた。
「この行為は単なる偶然ではなく、内部事情に精通した人物による計画的な介入です。つまり、高梨健吾は、あなたの行動を制御しようとしていた」
石田は俯き、しばらく言葉を失った。
「……まさか、展示前から……そんな……」
詩乃は冷たく頷き、解析画面のデータを指さした。
「はい。痕跡は完全に残っています。偶然では説明できません」
時間:午後3時49分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア中央
玲はゆっくりと顔を上げ、静まり返った展示ホールを見渡した。
観客がすでに退避させられたフロアには、展示ケースと非常灯だけがかすかな光を落としている。
「……まだいる」
低く落とした声は、冷えた空気の中に溶けていった。
「そこにはまだ、“視えない誰か”が残っている」
奈々が息をのむ。
詩乃も、わずかに眉を動かした。
玲は展示ケースの隣に立ち、指先で空気の流れをなぞるように触れた。
「指先一つで照明を操り、記録に残らない手順で宝石を奪った……“透明な犯人”だ」
その言葉の重みは、事件の核心そのものだった。
しかし、玲は続ける。
「だが――問題はそこじゃない」
石田がかすかな声で問いかける。
「……まだ、何か?」
玲は展示ケースのガラス面に映る、誰もいないはずの空間をじっと見つめた。
「次に探るべきは――」
その視線は、天井の通気口、照明設備、スタッフ動線、そして封鎖されたバックヤードへと、次々に移っていく。
「――誰が、その“影”をガラスの中へ入れたか、だ」
詩乃と奈々が同時に息を呑む。
透明な犯人は“技術”で入り込んだのではない。
招かれなければ入り込めない“位置”にいたのだ。
そこに踏み込める者は、限られている。
玲の目は、暗がりの奥へと鋭く細められた。
まるで、そこに潜む“影”さえも見通すように。
時間:午後3時52分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・モニター前
九条優は深く腰をかけることもせず、モニターの前に立ち続けていた。
手元の端末に表示される映像は、一見すると静止した宝石展示の光景だが、彼の目はその中で“わずかな時の歪み”を追っていた。
「……このフレームだ」
低く呟く声に、周囲の空気が一瞬静まり返る。
モニターに映るブルーファイア・ダイヤモンドの反射の中、1コマだけ微妙に光の屈折がずれている。
「わずか0.04秒……だが確かに、何かが通過した痕跡」
九条は指先で映像を一時停止させ、フレームを精密に拡大する。
「光の変化、微細な屈折、空気層の乱れ……“透明な犯人”の痕跡だ」
彼の視線は一瞬も逸れることなく、フロア全体を頭の中で再構築していた。
「動きは読める……しかし、この人物は、わずかの時間でも全てを計算して行動している」
その集中力は、現場にいる誰もが及ばないレベルで、静まり返った展示ホールに張りつめた緊張を生み出していた。
時間:午後3時55分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・モニター前
九条優はモニターの前で言葉を絞り出す。
「――監視カメラは、真実を写す」
彼の声には静かな重みがあった。
「だがそれは、すべての映像が『正しく動いていれば』の話だ」
モニターに映る映像を指でなぞるように確認しながら、九条は続ける。
「停止や書き換え、微細なフレーム削除……誰かが一瞬でも操作すれば、映像は嘘をつく」
手元の解析端末が、過去のログの不連続を赤くハイライトする。
「わずか数ミリ秒の差。だがそれが、宝石の移動や犯人の存在を覆い隠すには十分だ」
静まり返った展示フロアに、彼の分析の緊迫感だけが重く漂う。
時間:午後3時57分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・モニター前
「実際には、微細な遅延がある」
九条優の声は低く、冷静だが緊張を帯びていた。
「しかも、“人為的なズレ”が1台だけに発生している」
指先がモニター上の3番カメラのログを正確に指し示す。赤くハイライトされたフレームの連続が、通常の時間軸と微妙にずれている。
「このズレは偶然じゃない。誰かが意図的に操作した証拠だ」
九条の視線は、映像の微細な歪みに吸い込まれるように注がれていた。
「この1台を中心に解析すれば、犯人の動線が逆算できる」
時間:午後3時59分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・モニター前
「3番。展示台を斜め上から捉えていたカメラ。11時15分04秒~11時15分22秒の18秒間、他とずれてる」
九条優の声は、低く、しかし確信に満ちている。
「表示される時刻は正常でも、映像の“進み方”がわずかに遅い。つまり――誰かがその瞬間、意図的に時間軸を操作し、映像と現実の同期を崩したということだ」
モニター上の映像は、ごく僅かに引き延ばされたフレームが連続しているように見える。
「この遅延を逆算すれば、犯行が行われた“正確な瞬間”と、そこに立っていた人物が浮かび上がる」
時間:午後4時02分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・モニター前
九条は別の画面を操作し、影の動きをスロー再生した。
すると――本来映るはずの「柵の影」が、一瞬だけ消えていることに気づいた。
「光源は固定。観客も動いてない。なのに影だけがズレてる」
彼の声は低く、緊張を孕んでいる。
「これは、“光を遮ったものがあったのに、映っていない”という証拠だ」
モニターのフレームを拡大すると、その瞬間だけ空間の光の層に微かな歪みが生じており、まるで“透明な何か”がそこに存在したかのように見える。
時間:午後4時05分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・モニター前
九条は指先でログをスクロールしながら、淡々と、しかし確信を帯びた声で言った。
「……石田さんが持っていたIDで、セキュリティ制御端末にアクセス可能だったのは確認済みです」
画面には、石田誠二の認証コード《ID:S‑K12》が、展示開始直前に複数回アクセスした痕跡が残っていた。
「でも、彼自身が操作した形跡はない」
九条は別ウィンドウを開き、ID使用ログの“指紋データ”欄を指差す。
そこには、本来あるはずの“生体照合一致データ”が存在しなかった。
「――つまり、誰かが彼のIDを“複製”している」
モニターから放たれる白色光が九条の横顔を照らし、彼の目の奥にある鋭い光を際立たせる。
ログの隅には、複製ID特有の“認証レイテンシのズレ”が微かに残っていた。
「IDのコピーなんて、普通は不可能だ。しかし……内部データに手が入れられる人間なら、話は別だ」
静寂が落ちる。
そして九条は、背後をちらりと振り返りながら言った。
「――これは、内部犯行だよ。限られた“関係者”しか知らない手順で、IDを書き換えてる」
その言葉は、展示フロアの空気を一層重く沈ませた。
時間:午後4時07分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・監視端末前
九条は、淡いブルーライトに照らされたログ画面を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
その声音には、静かだが否定できない確信が宿っていた。
「“内部にいた誰か”が、石田を体調不良に追い込み……」
画面には、例の水筒の持ち主登録と、展示当日だけ変更された“補充担当者”の記録が浮かんでいる。
「そのIDを使って、展示台のセンサーを無効化」
九条は指で示す。
センサー稼働ログの一行――11時15分17秒。《一時停止:手動入力》
そこだけ、使用されたIDの“生体認証”がブランクになっていた。
「映像を操作して、犯行の一部始終を“存在しなかったように”仕立てた」
隣で奈々が、カメラ映像の時間軸をスクロールしながら頷く。
「……たった18秒。でも、その18秒が“事件そのものを消す”には十分だった」
九条の目は画面ではなく、その向こう――
この場のどこかに“まだ紛れているはずの人物”を見据えていた。
「ここにいた誰かが、石田のIDを“影として”使っていたんだよ」
展示フロアの空気が、まるで薄くなるように張り詰めた。
「……ただひとつ、修復できた“音”がある。展示台のガラスに、指先が一瞬だけ触れた音。完全には消されてなかった。再生する?」
時間:午後4時12分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・監視端末前
九条はゆっくりと頷き、手元の解析端末を操作した。
微かなクリック音、ガラス面を撫でるような指先の接触――
通常のマイクではほとんど拾えないほどの微細な振動だ。
「……これを復元できるのは、このフロアで唯一、センサーのノイズを完全に分離できる端末だけ」
端末のディスプレイに、指先接触の波形が浮かぶ。
通常の展示音や観客のざわめきとは完全に異なる、わずか0.3秒ほどの微振動。
九条はその波形を拡大しながら、声を低くした。
「……この“痕跡”だけが、犯行当時の物理的な証拠になる」
奈々が小さく息を吐き、解析ツールで波形を細かく解析する。
「……センサー誤差、外部ノイズ、フロア振動……すべて除外。間違いない、これはガラス接触の瞬間だ」
玲は冷静に画面を見つめ、指先の痕跡から導かれる犯人の動線を頭の中で再構築した。
「……あの瞬間、犯人は確かにここにいた。証拠は消せなかった」
展示フロアに一瞬、緊張が走る。
ただ静かに、解析波形の細い光が、暗闇に浮かんでいた。
時間:午後4時28分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・監視端末前
九条は端末のタッチパネルに指を滑らせながら、冷静に言った。
「……行動パターン、整理完了しました」
玲が視線を上げ、短く息を吐く。
「見せろ」
画面には、展示フロア全体の平面図と、犯行当日のスタッフや警備員の動線が時系列で重ねられていた。赤い線は犯人の可能性が高い経路、青は観客、緑はスタッフ。
九条は指で赤い線をなぞりながら解説する。
「午前10時50分、展示スタッフに紛れた犯人は中央通路を往復。10分後、展示台の死角を確認。11時15分、センサーが一時的に無効化され、映像ログの遅延が発生。ここで、ダイヤモンドの移動が実行された」
奈々が端末を操作し、映像と動線を重ねる。
「つまり、すべての操作は“透明な影”として映像から消されていたわけですね」
九条は小さく頷き、言葉を続ける。
「被害者や目撃者の記憶にも残らない。心理的圧迫と視覚的錯覚で、犯行者は“見えない存在”としてフロアに潜んでいた」
玲は画面をじっと見つめ、微かな息をつく。
「……なら、次はその“影”が誰の身体を借りていたのか、だな」
静まり返った展示フロアで、解析光だけが淡く光を放っていた。
時間:午後4時35分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・裏通路
玲は壁にもたれながら、凛の言葉に静かに頷いた。
「なるほど……心理動線と物理動線が完全に重なっている」
照度の低い裏通路は、表の華やかさとは対照的に、事件の“気配”だけが濃く残っていた。
奈々が端末のログをスクロールさせ、指先で微細なデータを追う。
「裏通路の監視カメラも稼働してましたが、ここだけ一瞬だけフレーム欠損があります。11時14分58秒から11時15分03秒まで」
玲はゆっくり息を吐く。
「……つまり、犯人はこの“わずかな隙間”を使った。表からは見えず、監視ログにも痕跡が残らない」
凛は画面を指でなぞり、低く言った。
「心理的圧迫と時間差。観客もスタッフも、誰も気づかない。完全な密室を作り出す技術です」
玲の瞳に、光と影の微細なズレが重なるフロア全体の映像が映る。
「……次は、どうやって犯人の“身体”を特定するかだな」
時間:午後4時42分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・監視モニター前
「この軌道、彼女は“清掃のため”と言いつつ、展示台の背面に3.7秒間、体を完全に隠しています。さらに――」
凛は指を画面に滑らせ、スロー再生で光の反射を強調した。
「……その間に、照明の微細な角度調整が行われている。通常の自動制御ではありえない微調整です」
玲は息を詰め、データを凝視する。
「……つまり、彼女は光と影を自在に操れる位置にいた。影を“偽装”しつつ、宝石を安全に移動させたんだ」
奈々が小さく息をつき、ログを確認する。
「この3.7秒の間に、センサーが一瞬だけ無効化されている。ID操作の痕跡も、このタイミングに一致します」
玲の声が低く、鋭く響いた。
「……動きは完璧だ。だが、微細な光の歪みが唯一の証拠。これを逃さなかった俺たちは、犯人を絞り込める」
時間:午後4時43分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・監視モニター前
「掌が、展示台背面の縁に“なぞるように触れている”。軽く、滑らせるように。清掃道具はこのとき使用していません」
凛は画面を拡大し、微細な光の反射を指で追う。
「……通常の接触では残らない指先の微振動が、ガラス面に微かに痕跡として残っています。光学解析で確認済み」
奈々が補足する。
「そしてその指の動きと、照明制御の微調整、ID複製操作のタイミングが完全に一致しています」
玲は息を詰め、冷静に結論を述べる。
「……つまり、この3.7秒間で、犯人は光と影を操作し、宝石の安全な移動を完了させた。手の痕跡だけが、唯一の証拠だ」
時間:午後4時45分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・裏通路
玲は数歩歩き、通路の突き当たり――“展示ホール裏手の出入口”に目を向けた。
そこにはセキュリティの記録がない、小さな搬入口があった。
「ミナがここを通った記録は?」
石田が端末を操作し、照明と動線のログを確認する。
「……残っていません。入退室センサーも、この搬入口には設置されていなかったようです」
詩乃が端末を重ねて解析する。
「ただ、紫外線マーカーで示された“回収地点”の位置と、光学解析で残る微振動の軌跡から推測すると、間違いなくこの搬入口を利用した可能性が高い」
玲はゆっくり頷く。
「……つまり、搬入口は完全に“死角”として利用されていた。センサーの死角も含めて、犯人はすべてを計算して動いている」
時間:午後4時47分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・裏通路
玲は壁際に視線を落とし、微かに残る展示台周辺の熱痕や、ガラス表面の赤外線反射を頭の中で再構築した。
「展示台に仕掛けを残し、裏から脱出……これが“午前の仕込み”だったとすれば――午後の本番中、犯人は何をした?」
凛が分析結果を端末画面に映し出しながら答える。
「時系列と行動パターンから推測すると、展示開始直前の数分間に、密室を偽装する“光の反射操作”と、ダイヤモンドの本体を“内部で移動”させています。ガラスの微振動と照明の一瞬の動作が、その証拠です」
玲は息を吐き、ゆっくりと拳を握る。
「……つまり、展示台の外から手を下す必要はなかった。犯人は最初から“内部で完結させた”」
時間:午後4時49分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・裏通路
玲は、通路の天井にある一点を見上げた。薄く埃を払われた通気ダクトが、微かに光を反射している。
「……この通路のルート、誰が設計した?」
凛がモニタをスクロールし、古い設計図を表示させる。
「設計時から存在していた非公開ルートです。通常はメンテナンス用で、スタッフ以外はアクセス不可。ただし、認証キーS-YK90を持つ者なら一時的に扉を開くことが可能です」
玲は目を細め、ダクトの奥をじっと観察する。
「……つまり、犯人はこのルートを知っていた。午前の仕込みも、午後の本番も、すべて“計算済み”だったということか」
時間:午後4時52分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・展示台脇
玲はしゃがみこんだ姿勢のまま、手にした小型ペンライトを展示台の縁に沿って静かに移動させた。光をわずかに角度を変えると、ガラス表面に微細な屈折が現れる。
「……この歪みは、光学フィルムの重ね貼り……しかも、極薄の偏光処理が施されている」
奈々が隣で端末を操作しながら解析結果を補足する。
「この屈折パターン、通常の展示ガラスでは起きない。外光の角度に応じて、内部の物体を“隠す”ように設計されています」
玲は指先で微かにフィルムの端を確認する。
「つまり、犯人は光の錯覚を利用し、外からは内部が空であるかのように見せかけた……」
時間:午後4時55分
場所:ブルーファイア・ダイヤモンド展示フロア・展示台脇
「成分反応出ました。これは“光学用透明ポリマー”……反射をコントロールして特定の波長を偏向させる素材です」
詩乃は手元の噴射液を用いて、展示ガラスの微細な層に反応を確認した。
「軍用の迷彩研究から流用された可能性があります」
玲は小さく息を吐き、屈折する光を再び観察する。
「なるほど……ただ隠すだけじゃない、光を操作して“見る者に錯覚を与える”。これなら、誰も内部の異変に気づかない」
奈々は端末の解析画面に指を走らせ、偏光の角度データを表示させる。
「角度0度から45度で光の透過率が劇的に変化する。特定の観察角度では、完全に内部が“空”に見える設計です」
玲は暗く沈んだ表情で頷き、次の手を考え始めた。
「犯人はここまで計算していた……次は内部の宝石の位置だ」
時間:午後4時57分
場所:展示ホール裏通路・展示台背面
九条凛は、玲の横で端末のログを指し示した。
「午前10時21分、若槻ミナの“掌の動き”は、まさにここに一致します。
接着剤とポリマーの設置……展示台の背面から、わずか数秒で実行可能な細工です」
玲は展示台背面の縁にペンライトをかざし、指先でそっと触れた。
硬質なガラスとは違う、わずかに“しなる”感触――ポリマー膜が残っている。
「ここに貼った……そして午後には、この薄い透明の皮膜が“影”を隠す役割を果たした」
詩乃は検出液の滴り落ちるガラス片を眺め、短く付け加える。
「掌の温度と圧力から推定すると、ミナは“自分の仕事の一部”のように自然に仕掛けている。急いだ様子も、迷いもない。つまり――午前の時点で、仕込みの手順を完全に把握していた」
九条凛が淡々と続ける。
「……ただし。ミナは“自分が何を仕込んだのか”までは理解していません。
犯人に指示された“行動の形”だけを、疑いなく実行している」
玲のまなざしが鋭く細められる。
「――午前10時21分。
この瞬間、“ミナを操作していた誰か”が、すでに展示台の中に“加工作業を完了させるための環境”を整えていたことになる」
薄暗い裏通路に、緊張がふっと濃く滲んだ。
時間:午後5時02分
場所:展示ホール・中央ステージ前
玲は展示台の前に立ち、ガラス越しの空虚な展示スペースを見つめた。
その横で、九条優と詩乃、凛が静かに耳を傾けている。
玲の声は低く、しかし決定的だった。
「“盗む”のではなく、“消したように見せる”計画を立てた。
本物のダイヤは、もっと前に持ち出された。
……今まで我々が探していたのは、“偽物のきらめき”だったというわけだ」
展示台のライトが反射する空虚な空間――
そこに浮かび上がる“消えたこと自体を演出する”犯行の構図。
詩乃が静かに付け加える。
「つまり、午後の劇的な消失は……“本物の盗難”ではなく、“盗まれたと信じ込ませるための演出”。」
九条優は腕を組みながら、遅延していた三番カメラの映像を画面に映し出した。
「午前の段階で本物は消え、午後には“影を偽装して見せる装置”だけが働いていた……そう考えると、すべての辻褄が合う」
凛が小さく頷く。
「犯人は、盗難の責任をミナに被せることも計画していた。
午後の消失劇は、“囮としての彼女”を観客に誤認させるための舞台装置……」
玲は最後に小さく息を吐き、展示台の空虚な中心へ視線を落とす。
「――本物が消えた瞬間を、まだ誰も見ていない。
それこそが、犯人の狙いだったんだ。」
奈々の声がインカム越しに軽く弾んだ。
「玲、監視映像にさ――“ちょっと変な視線の動き”見つけたよ。
午後1時17分。観客の一人がね、展示台のガラスじゃなくて……ずっと“上の照明”だけ見てた。普通じゃない角度で」
玲が眉をわずかに動かす。
「照明を?」
「うん。しかもさ、この人……イベント前には一度も来店履歴なし。
顔認証も、データに該当者ゼロ。偽造IDっぽいね。とりあえず映像、玲の端末に送っといた」
奈々の報告は淡々としていたが、どこか“確信”を含んだ響きだった。
時間: 14:45
場所: 高級ホテル地下応接室
地下応接室には、静かな呼吸音だけが満ちていた。
壁に埋め込まれた間接照明が、淡い光を落とし、木製の机の上にできた影がゆっくりと揺れる。
若槻ミナは、まるでその影に囚われるかのように、じっと視線を落としていた。
時間: 14:47
場所: 高級ホテル地下応接室
地下応接室の空気は重く、かすかに湿った木の香りが漂っていた。間接照明が淡い光を落とし、木製の机にできた影がゆっくりと揺れる中、若槻ミナは視線を落としたまま、手元の書類を握りしめている。
彼女の前に座る男は、黒のスーツをきっちりと着こなし、整った身だしなみを保ちながらも、どこか柔らかい空気を纏っていた。その低く落ち着いた声は、緊張した部屋の空気を切り裂くことなく、むしろそっと包み込むように響く。
羽村響――尋問のスペシャリスト。相手を追い詰めるだけではなく、心理の隙間に自然に入り込む術を知る男だ。彼の目は冷静で鋭いが、同時に相手の不安を軽く受け止めるような温かさも持っている。
「ミナさん、お疲れさま。今日は少し時間をもらって、あなたの“午前から午後にかけての行動の記録”について、順を追って聞かせてもらえますか。焦らなくていいです、ただ正確に教えてほしいんです」
その声に、ミナはわずかに肩を震わせながらも、羽村の落ち着いた態度に促されるように視線を少しだけ上げた。
時間: 14:48
場所: 高級ホテル地下応接室
羽村響の声は静かだが、質問には確実に重みがあった。
「午前十時二十一分。展示台の周辺清掃のため、あなたがあの場にいた時間ですね?」
若槻ミナはわずかに息を整え、机に置いた手を握り直す。
「……はい」
応接室の静寂の中で、彼女の小さな声が、重々しい空気に吸い込まれていくようだった。
時間: 14:50
場所: 高級ホテル地下応接室
羽村響は黒のスーツの袖を軽く整え、ミナの目をじっと見据えた。
「映像では、あなたが展示台の背後に七秒間だけ写っている。その間、左手を展示台の下に滑らせていた。何をしていたか、覚えていますか?」
若槻ミナは一瞬、視線を机の表面に落とす。掌の震えを押さえながら、ゆっくりと口を開く。
「……あの……清掃のためです。でも、その……」
言葉が途切れ、彼女の喉が微かに鳴る。呼吸を整え、さらに続けた。
「展示台の背面に、光の反射を調整するためのフィルムを貼り付けました……一瞬でも、展示物が正確に見えるように、です」
羽村は静かに頷き、さらに深く、柔らかい声で問いかける。
「その目的で……光学用素材を触った、ということですね?」
ミナは小さく息を吸い、うなずいた。
「はい……でも、それだけです。展示物には、直接触れていません……」
時間: 14:52
場所: 高級ホテル地下応接室
ミナの手元に置かれた封筒の中身を、羽村響はそっと差し出した。
「ステージ準備は君のタイミングで。報酬は終わったらすぐに」
ミナの視線が、紙面の下部にある署名に吸い寄せられる。そこには、冷たく、しかし精緻な筆致で――
「R-Spectre」とだけ記されていた。
羽村は静かに言葉を添える。
「これが、あなたに直接送られた指示書です。誰かの意志、誰かの計画……間違いなく、この署名の主があなたを動かした」
ミナは手を震わせながらも、紙面を握りしめ、薄く息を吐いた。
「……R-Spectre……ですか……」
その名は、会場の華やかさとは正反対に、地下の応接室にひんやりとした緊張を落としていた。
時間: 14:55
場所: 高級ホテル地下応接室
羽村響は静かにミナの目を見据え、低く問いかける。
「“R-Spectre”……この名前に、見覚えがありますか?」
ミナは手元の封筒をぎゅっと握りしめ、わずかに眉をひそめる。
「……覚えている気がする……でも、はっきりとは……」
羽村は頷きながら、少し前に体を傾け、声のトーンを落とした。
「曖昧でも構いません。あなたが覚えていること、その断片でも、今は貴重な証拠です。細かく思い出してください」
沈黙が応接室を包む。木製の机の影がゆっくり揺れ、時折、遠くからエアコンの静かな風が通路を吹き抜ける。
ミナは深く息を吸い、意を決したように口を開いた。
「……R-Spectre……あの事件の、……あの夜に……」
時間: 16:20
場所: 高級ホテル・検査報告室
検査報告室の空気は、静かな緊張に満ちていた。白いテーブルの上には水筒が置かれ、その蓋は慎重に開けられている。
試料は微量だが、分析器の中でゆっくりと回転しており、内部の光がわずかに反射して淡い光の輪を描いている。センサーが試料の化学成分や微粒子の反応を読み取り、ディスプレイにリアルタイムでグラフ化される様子はまるで生きているかのようだ。
奈々は手元の端末を操作しながら、低い声で報告する。
「pH値は正常範囲内……揮発性成分に異常はなし。ただし微量の有機残留物があります。毒性は極めて低いけど、人工的に混入された痕跡です」
詩乃は分析器の画面を覗き込み、さらに詳しく説明した。
「反応パターンから、光学的な安定化剤が含まれてます。つまり、体内で長時間存在させることを前提にした薬剤です。偶然の混入ではなく、意図的に使用された可能性が高い」
室内の静寂を破るのは、分析器の小さな回転音と、奈々のキーボードを叩く音だけ。緊張感は、数字や波形に現れる微細な変化とともに、ゆっくりと部屋全体に広がっていた。
時間: 16:27
場所: 高級ホテル・検査報告室
その横で、かつて看護師として緊急医療の現場に立っていたスペシャリスト、三宅美奈子が手元の端末を覗き込みながら補足した。
「この水筒の内容、単なる水分補給用じゃありませんね。薬剤の濃度と投与量の目安が正確に計算されている。つまり、石田さんの体調を“意図的に調整”するために使用された可能性があります」
彼女の声には落ち着きと確信が混ざっており、室内の静かな緊張感をさらに引き締める。分析器の微かな光と回転音に照らされた三宅の顔は、冷静ながらも鋭い観察眼を宿していた。
「体内への吸収速度、持続時間、ピーク濃度……すべて計算されてます。偶然に起こる数値ではない」
奈々と詩乃は頷き、互いの解析結果を照合する。室内の空気がわずかに重くなる中、三宅の言葉が、今回の事件における“意図的な操作”の確証として、誰の目にも明確に浮かび上がった。
時間: 16:29
場所: 高級ホテル・検査報告室
三宅美奈子は、分析データが映し出されたモニターを指先で軽く叩きながら、落ち着いた声で言った。
「“判断能力をわずかに鈍らせる”のに必要最低限な量です。毒物というより、“強制的にその場から排除するための薬剤”――意識があるまま、安全に動けなくさせる。そういう処方」
彼女の説明は、専門的でありながら明確だった。
室内の白い蛍光灯が分析機器のガラス面に反射し、わずかな揺らめきを作り出す。奈々が画面の数値を読み取りながら、小さく息を呑んだ。
「……これ、完全に狙って投与されてる量だよね。行動不能の“時間帯”まで計算されてる」
詩乃が続けて頷く。
「石田さんの症状と一致します。吐き気、軽い手足の震え、判断力の低下……すべて、午前11時前後にピークが来るように仕組まれている」
三宅は両手を軽く組み、静かながらも確信を込めて言った。
「犯人は石田さんを“倒す”つもりじゃない。“その時間だけ、動けなくさせる”ことが目的でした。
――その18分間が、犯行の核心です」
検査報告室には再び静寂が落ちた。
だがその沈黙は、ひとつの答えにたどり着いた者たちの重い共有意識だった。
時間: 16:37
場所: 高級ホテル・検査報告室
奈々はタブレットを手に、医務員に向かって静かに尋ねた。
「午前11時15分、石田さんは医務室にいましたよね。その時間帯の状態はどうでしたか?」
医務員は腕組みのまま、少し視線を逸らしてから答える。
「はい、その時間です。到着時は顔色も悪く、歩くのもおぼつかない状態でした。意識はありましたが、質問に答えるのに少し間を置く感じで……普段の石田さんではありませんでした」
詩乃が補足する。
「計算通りですね。石田さんは意識はあったけれど、行動は制限されていた。これによって、監視カメラの操作や宝石への接触は完全に“他者に委ねられた”形になった」
三宅美奈子が冷静に頷く。
「まさに、薬剤による“短時間の行動制限”。意図的に犯行時間を作り出すために計算された投与です」
室内の空気が一瞬、重くなる。
玲は無言で映像と医務記録を照合し、ひとつの答えを確信した。
「……すべてがこの時間に向けて設計されていた、ということか」
時間: 16:37
場所: 高級ホテル・検査報告室
奈々はタブレットを手に、医務員に向かって静かに尋ねた。
「午前11時15分、石田さんは医務室にいましたよね。その時間帯の状態はどうでしたか?」
医務員は腕組みのまま、少し視線を逸らしてから答える。
「はい、その時間です。到着時は顔色も悪く、歩くのもおぼつかない状態でした。意識はありましたが、質問に答えるのに少し間を置く感じで……普段の石田さんではありませんでした」
詩乃が補足する。
「計算通りですね。石田さんは意識はあったけれど、行動は制限されていた。これによって、監視カメラの操作や宝石への接触は完全に“他者に委ねられた”形になった」
三宅美奈子が冷静に頷く。
「まさに、薬剤による“短時間の行動制限”。意図的に犯行時間を作り出すために計算された投与です」
室内の空気が一瞬、重くなる。
玲は無言で映像と医務記録を照合し、ひとつの答えを確信した。
「……すべてがこの時間に向けて設計されていた、ということか」
時間: 16:52
場所: 高級ホテル・検査報告室
玲は静かに机に肘をつき、指先でタブレットの画面を撫でるようにして言った。
「R-Spectre。姿なき舞台監督。影の演出家……」
空気が一瞬、張り詰める。
「そして今、その指揮棒が振られた舞台で、誰かが確かに踊っている。計画された行動、意図された動き……すべて、見えない糸に操られているようだ」
詩乃が端末をスクロールさせながら低く付け加える。
「ログには残らない、けれど確かに痕跡はある。誰かが“透明な存在”として舞台に立った形跡。巧妙すぎる…」
奈々がタブレットを覗き込み、眉をひそめる。
「やはり、私たちが追うべきは“R-Spectreの影”そのもの。人物ではなく、意思が先に動いている」
玲は薄く息をつき、モニター越しに映像を見つめる。
「舞台は整った。あとはその踊り子を捕らえるだけだ」
時間: 16:54
場所: 高級ホテル・検査報告室
「了解です」
詩乃が即答する。声は落ち着いているが、指先はすでに端末の操作にかかっていた。
「R-Spectreの影を追跡、ログの復元開始。全ての不一致と秒差を突き合わせて軌道を洗い出す」
奈々も続く。
「監視カメラ映像と通信記録を連携させて、透明な介入のパターンを抽出する。これで午後の行動の全貌が見えるはず」
玲は黙って二人を見つめ、静かに頷いた。
「時間との勝負だ。手遅れになる前に、“踊り子”を止める」
時間: 17:12
場所: 高級ホテル・監視映像再確認室
監視映像再確認室の中、空気は静まり返っていた。
複数のモニターが、展示ホールのさまざまな角度を映し出す。玲はその中の一つに視線を留めていた。
「午後1時17分……この人物の視線、やはり上部照明を凝視している」
奈々が画面を指し示す。モニター越しに映る観客の目元が、微かに光を反射して揺れている。
「偽造IDか、あるいは内部からの協力者……どちらにせよ、ここに“介入の痕跡”が残ってる」
詩乃が分析端末を操作し、光の反射パターンとカメラの微細なズレを重ね合わせる。
玲は息を潜めたまま、ゆっくりと頷く。
「……奴は、まだ動いている」
時間: 17:18
場所: 高級ホテル・監視映像再確認室
指示と同時に、画面がぴたりと静止する。
そこには、スタッフ用のグレーの作業服を身にまとった若い女性――清掃担当の木下遥が映っていた。
小柄で目立たぬ存在。来客の目に触れることのないタイミングで、静かに清掃を行うその姿。
だが――モニター越しに確認できるわずかな動きが、明らかに通常の清掃動作とは異なっていた。
掌が展示台の縁に沿って、なぞるように動く。その指先は、まるで何かを触れずに“感じ取っている”かのように、精密な軌道を描いていた。
玲は眉をひそめ、画面を拡大する。
「――光の反射を操作している。彼女だけが、内部構造と照明の死角を完全に理解している」
奈々が端末を操作し、光学データを再構成する。
「間違いない。この時点で、展示台内の光学ポリマーの反射角を微調整している痕跡が残っています」
玲は画面を見つめ、低くつぶやいた。
「……つまり、彼女は単なる清掃員ではない。何か、指示を受けて動いている」
時間: 17:21
場所: 高級ホテル・監視映像再確認室
モニターの画面を凝視する玲の前で、映像が一瞬、ノイズに覆われる。
そして次の瞬間――そこには、何も映っていなかった。
清掃担当の木下遥の姿も、掌の微細な動きも、光の反射も、すべて消えていた。
まるで最初から存在していなかったかのように、画面は静かに真っ黒な映像だけを映し出す。
奈々が息をのむ。
「……消えた? どうして……」
玲は冷静に画面を確認しながらも、眉間に微かな影を寄せた。
「消された……だが、ここに記録されていないということは、誰かが“リアルタイムで映像を遮断”した。つまり、犯人はまだ動いている」
静まり返った室内に、二人の呼吸だけが反響する。
玲の目には、次の動きを予測する計算が瞬時に走っていた。
「……ここからが、本当の勝負だ」
時間: 17:23
場所: 高級ホテル・監視映像再確認室
玲はモニターに目を戻し、指先で画面上の微細な光点をなぞる。
──金属縁に残された1mmの接着痕。
──赤外線センサーの“すり抜け”。
──そして、照明に紛れた“偽の反射”。
すべてが一連の動作の証拠となる痕跡だ。
誰も気づかないほど微細だが、積み重なれば明確な行動パターンを示す。
奈々が低く息を吐いた。
「……全部、計算されてる……」
玲は静かに頷く。
「計算だけじゃない。これは――“舞台装置として意図的に組まれた痕跡”だ。犯人は、存在を消すだけでなく、残すべき証拠も操ろうとしている」
部屋の空気が、さらに張り詰める。
「これを理解できれば、次の一手は見えてくる……」
時間: 17:24
場所: 高級ホテル・監視映像再確認室
玲の声は、静かだが確信に満ちていた。
「……この子、“実物の消失”を目撃している」
言葉が落ちた瞬間、モニターの光が奈々の瞳に揺れる。
画面に映るのは、清掃担当・木下遥。
動きはぎこちないほど自然――だが、その一瞬だけ。
午後1時43分。
展示台のガラス面の前で、彼女の目線が“何もない空間”を追っている。
まるで、そこに“本物のダイヤ”が現れたかのように。
奈々が小さく息を呑んだ。
「……じゃあ、偽物じゃなくて、本物がそこに“再び”置かれたってこと……?」
玲はモニターを指さす。
木下遥の瞳孔が、ほんのわずか、光を反射した。
反射するはずのないものを見た瞬間――驚きでも、困惑でもなく、
“理解しようとして固まった無意識の反応”。
「彼女は見ている」
玲は言う。
「ポリマーの偏光が外れた瞬間、“隠されていたものが姿を戻す”瞬間を――確かに」
そしてその1.2秒後。
若槻ミナのIDが使われて、展示台のセンサーが完全にオフになる。
奈々が震える声で続けた。
「……じゃあ……木下遥は……巻き込まれた?」
玲は首を横に振る。
「違う。巻き込まれたんじゃない。“観測者として選ばれた”。
R-Spectreは、彼女を“目撃者にするため”に配置している」
モニターの中の木下遥は、ただ戸惑いながら清掃モップを握りしめていた。
“透明な犯人”の動きは映らない。
しかし――
その“存在の痕跡”は、確かに彼女の瞳に刻まれていた。
時間: 17:26
場所: 高級ホテル・監視映像再確認室
玲はモニターから目を離さず、静かに問いかけた。
「このスタッフ、今どこに?」
奈々が端末を操作し、建物内の位置情報と監視ログを連動させる。
数秒後、画面に木下遥の現在位置が赤い点で表示された。
「……裏通路の西側出入口付近です。まだ動いていません。ほぼ静止状態」
玲は深く息を吸い込み、眉間にわずかな皺を寄せる。
「……待機させられてるな。R-Spectreが、行動を見せるタイミングを調整してる」
モニター越しに映る木下遥の姿は、静かに立ち尽くす小さな人影。
そこに、何かが迫る気配はない――ただ、“観測者として置かれた存在”としての圧が漂っていた。
「わかった……この子を守る必要がある」
玲の声には、冷静な決意が滲んでいた。
時間: 17:28
場所: 高級ホテル・監視映像再確認室
玲は低い声で指示を出す。
「凛に伝えて。“彼女の証言”は、他の誰よりも早く聞くべきだと」
奈々は即座に端末を操作し、凛の位置情報を呼び出す。
「了解。凛、無線で接続中……伝達しました。今、向かわせます」
玲はモニターを見つめながら、木下遥の微細な動きを見逃さないよう視線を走らせる。
「……時間との勝負になる。R-Spectreの次の指示が来る前に」
部屋の静寂が、さらに緊張を孕んで重く沈み込む。
湿った空気とモニターの青白い光だけが、玲の決意を際立たせていた。
時間: 17:45
場所: 仮設応接室
仮設応接室のドアが静かに閉まり、部屋の中にわずかな緊張が走った。
清掃スタッフの木下遥は、椅子に浅く腰掛けている。制服の袖をぎゅっと握りしめる仕草に、戸惑いと警戒がにじんでいた。
凛は静かに部屋の中央に立ち、目線を木下に合わせる。
「木下さん。今日は、あなたが見たことを、正直に聞かせてもらいます」
木下は小さく息を吐き、うつむきながらも言葉を探した。
「……はい。あの……展示台のダイヤ……その……」
凛は静かに頷き、口を開くタイミングを待つ。
「焦らなくていい。ゆっくりで構わない」
部屋には微かな照明と、木下の小さな呼吸音だけが響いていた。
時間: 17:46
場所: 仮設応接室
「大丈夫。ここでは、あなたが“見たこと”だけを聞きたい」
羽村響の声は、柔らかく、包み込むように響く。
その声は、命令の冷たさを帯びず、まるで木下に対して「話してもいい」と許可を与えるかのようだった。
木下は小さく肩を揺らし、震える手を膝の上で握りしめたまま、しばらく沈黙する。
「……わ、私……本当に見たんです……展示台の中で……」
羽村はうなずき、静かに席を詰めた。
「そう、焦らなくていい。あなたの声を聞かせて」
室内の空気は、呼吸ごとにわずかに揺れ、緊張と安堵が入り混じった微妙な感触に包まれていた。
時間: 17:48
場所: 仮設応接室
羽村の声は穏やかだが、芯のある低音で木下の耳に届く。
「ゆっくりでいい。10時27分、あなたが清掃していたとき、何が見えたの?」
木下は目を伏せ、膝の上で両手をぎゅっと握る。
「……展示台の中に、宝石が……ないんです。光ってるはずのブルーファイア・ダイヤモンドが、手元にあるはずの場所に、ただの空間だけ……」
声はかすれ、息が途切れ途切れになる。
羽村はそっとうなずき、机越しに手を組んで聞き続ける。
「そのとき、何か、動く影や、光の反射の異常はありましたか?」
木下は小さく首を振りながらも、目を細め、頭の中で光景を辿る。
「……ほんの一瞬……何か、ガラスの向こうで……“線”みたいなものが、動いたような……でも、誰もいないのに……」
時間: 17:50
場所: 仮設応接室
木下は肩を震わせ、息を整えながら、言葉を続けた。
「展示台の……中にあったダイヤモンド……光が一瞬、揺れたんです。ほんの一瞬、ぼやけて――そのあと、消えたんです」
羽村は静かに頷き、手元のメモを止めることなく、彼女の言葉を待った。
「その……揺れ方が、不自然で……光が“どこか別の場所”に吸い込まれるように……消えたんです。ええと……誰も触ってないのに……」
小さな声が震え、木下の手は膝の上でぎゅっと重なる。
羽村は優しく言った。
「わかるよ。怖かったね。でも、ありがとう。君が見たままを教えてくれたおかげで、糸口が見えてくる」
木下はかすかに頷き、視線を床に落としたまま、震える声で続ける。
「……そのあと、展示台の後ろに……手を伸ばして……何かを……」
その言葉を遮るように、羽村はそっと身を乗り出し、静かに問いかける。
「何をしたのか、最後まで覚えている?」
時間: 17:53
場所: 仮設応接室
木下遥の声がかすかに震える。
「……誰かが、ガラスの外側から……それを、持ち上げたみたいで……」
羽村は静かに頷き、メモをとりながら視線を木下に固定した。
「外側から……つまり、展示台の中に手を入れずに、光を揺らすようにして動かしたということだね?」
木下は小さく息をつき、力なく頷く。
「はい……見えたのは、その瞬間だけ。光が、一瞬揺れて……それで、ダイヤが消えたんです……」
部屋の空気はさらに重くなり、羽村は柔らかく、しかし確実に木下の言葉を引き出すように続けた。
「わかるよ。その光の揺れ……君が目撃した通り、何かが、確かに動いたんだ」
木下の手は膝の上で震え、視線はまだ床に落ちたままだった。
「そのあと、どうした?」
時間: 17:55
場所: 仮設応接室
羽村の声は柔らかく、しかし鋭く。木下遥は少し目を見開き、口元に手を添える。
「……そのあとですか……」
小さな息を吐くと、彼女は震える声で続けた。
「光が揺れた直後、ダイヤモンドは……見えなくなったんです。展示台の中は、いつも通りに閉まっていて……誰もいないはずなのに」
羽村は頷きながら、静かに促す。
「君は、そのとき何をした?」
木下は唇をかみしめ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……私は、何もできませんでした……ただ、立ち尽くして、眺めることしか……」
彼女の肩が微かに震え、室内の静寂が一層深まった。
時間: 17:57
場所: 仮設応接室
木下遥の声は、かすかに震えながらも正直だった。羽村は顔の角度を少し下げ、彼女の目を逃さず見つめる。
「君は、自分が見たことを信じられなかったんだね」
木下は小さく頷く。
「はい……だって、誰も気づいていないんです。展示台も警報も何も反応しない。私だけが見てしまった――そんな気持ちで……怖くて、見なかったふりをしてしまいました」
羽村は静かに息を吐き、優しい声で続けた。
「大丈夫、君が見たことは紛れもない事実だ。怖がる必要はない。これから、その証言をもとに真実を整理していこう」
木下の肩の震えがわずかに収まり、緊張が少しだけ解けるのがわかった。
時間: 17:59
場所: 仮設応接室
羽村は木下の言葉を噛みしめるように一度ゆっくりと目を閉じ、思考を整えてから語った。
その声音は、事実を淡々と積み重ねていく“分析者”のそれだった。
「……遥さん。君が見た“揺れ”と“消失”は、偶然じゃない」
机の上に置かれた薄い資料ファイルを軽く指先で叩きながら、羽村は続ける。
「ガラスを破らず、センサーを欺き、誰にも気づかれずに盗む――これは、単に手が早いとか、器用だとか、そういうレベルの話じゃないんだ」
木下は、息を飲む。
羽村は指を一本ずつ折りながら、落ち着いた声で語った。
「視覚。
聴覚。
機械的センサー。
そして、時間の整合性――」
彼は顔を上げ、木下の視線をまっすぐ受け止める。
「この四つを“同時に欺く”必要がある。
たった一つでも破綻すれば、即座にバレる。
でも君が見た通り、破綻しなかった。
つまり犯人は……展示ホールそのものを“舞台”として計算し尽くしていた、ということだ」
木下の手がわずかに強く握られた。
羽村は、彼女が怯えないよう、あくまで優しく、しかし揺るぎない確信を込めて言う。
「だからこそ――君が見た“ほんの一瞬の揺らぎ”は、極めて貴重だ。
犯人の完璧な演出に、唯一生じた“隙”。
それが君の目にだけ写った」
木下は、恐怖と安堵がまじった表情で、ただ黙って羽村を見返すのだった。
時間: 18:02
場所: 仮設応接室
カチ、カチ、カチ――。
壁掛け時計の針が刻む乾いた音だけが、薄暗い室内に残っていた。
照明は最小限。
木下遥の呼吸音すら、空気に吸い込まれて消えてしまいそうな静けさだった。
羽村は沈黙を破らない。
彼は、目の前の証言者が“自分を責める時間”を黙って受け止めていた。
木下の指先が、膝の上で震えている。
その震えに合わせて影が揺れ、部屋の隅に伸びては消えた。
カチ、カチ――。
まるで時間そのものが、彼女の心を追い詰める刃物であるかのようだ。
不意に、羽村が静かに口を開いた。
その声は、時計の音に飲まれるほど低く柔らかい。
「……木下さん。
“怖かった”って言えるのは、逃げたんじゃない。
正しく“感じ取れた”ってことだ」
木下の肩がわずかに揺れる。
目は伏せたままだが、呼吸が一度だけ深くなった。
羽村は彼女の表情を確認し、ゆっくりと続ける。
「普通なら見落とす。
展示台が無傷なら、誰だって“気のせいだ”と思う。
でも――君は気づいてしまった。
あの一秒の揺らぎを」
カチ、カチ、カチ――。
その規則的な音が、今は別の意味を帯びる。
“あの瞬間だけ、時間が歪んでいた”。
そう示すように。
羽村は言葉を締める。
「君の証言で、事件の“矛盾”が確かに姿を現し始めた。
これは……本当に大きな一歩だよ」
時計の針は、なおも無慈悲に時を刻む。
だが木下の表情からは、さっきまでの強い怯えが、ほんの少しだけ色を淡くしていた。
時間: 18:18
場所: 仮設応接室
ミナの両手は、膝の上でぎゅっと固まり、爪がスーツの布を噛んで白くなっていた。
視線は定まらず、空中を漂う。時折、机の木目に目を落とそうとするが、すぐにまた泳ぎだす。
羽村は近くに座り、声を落として問いかける。
「ミナさん、その瞬間、何を感じましたか?」
言葉は柔らかいが、部屋の静寂に鋭く響く。
時計の針がカチリ、カチリ……と刻む音が、まるで時間そのものを重く押し付けるように聞こえる。
玲は黙したまま、椅子に背をもたれ、薄暗い光の中で彼女を見つめる。
言葉を発しないその視線が、今のミナには圧倒的な存在感として迫る。
その視線の前では、羽村の問いかけですら、恐怖の一瞬に変わる。
しかし同時に、それは彼女にとっての唯一の“安全な受け皿”にもなっていた。
ミナはかすかに息を吐き、膝の上で手を組み直す。
小さな揺れが、心の奥で少しずつ、ほんのわずかに落ち着きを取り戻す兆しだった。
時間: 18:21
場所: 仮設応接室
羽村は静かに、しかし確固たる口調で問いかける。
「……ミナさん。あなたは展示台にワイヤーを仕掛けたわけじゃない。少なくとも、“直接盗んだ犯人”ではない……でしょう?」
ミナは微かに肩を震わせ、目を伏せる。
「……はい……違います……。私じゃ、ありません……」
声はかすれ、ほんのわずかに震えるが、嘘ではないと伝わる真実味があった。
玲は変わらず黙して観察し、部屋の緊張はさらに深まる。
時計の針がカチリと音を立てるたび、沈黙の重みが増していく。
羽村はさらに柔らかく続ける。
「そうだね、ミナさん。君はただ……“舞台の上で踊らされていた”だけなんだ。誰かの計画の中で、道具のように使われていた」
ミナの瞳に、かすかな安堵の色が混じる。
恐怖と罪悪感の波の中で、ほんの一瞬、息をつける隙間ができた瞬間だった。
時間: 18:23
場所: 仮設応接室
羽村はゆっくりと、問いを続ける。
「――“脅されていた”んですね?」
ミナの唇がわずかに震える。
「……はい……誰かに……言われたんです……やらなきゃ、私が……私が……」
声は途切れがちで、震え、涙が目の縁に光る。
玲は目を細め、ミナの表情の変化を逃さずに観察する。
静かな応接室の空気に、時計の針の音だけが正確に刻まれていく。
羽村は優しく頷く。
「大丈夫。君のせいじゃない。君はただ……恐怖の中で、できることをしただけなんだ」
ミナの肩の力が、わずかに抜けた。
恐怖と緊張が一瞬だけ、安堵に変わる瞬間だった。
時間: 18:25
場所: 仮設応接室
ミナの声は小さく、震えていた。
「……怖かったんです……」
その言葉は、ただの説明ではなく、胸の奥でずっと押し込めていた感情の吐露だった。
肩を震わせ、視線は床に落ち、過去の出来事を思い出すたびに、身体が微かに硬直する。
玲は静かに頷き、距離を保ったまま見守る。
羽村はゆっくりと前に手を置き、安心させるように声をかけた。
「わかるよ……あのとき、どれだけ怖かったか」
応接室の時計が、カチリ、カチリ、と正確に時を刻む。
その音が、緊張した空気の中で、かすかな慰めのリズムのように響いていた。
時間: 18:27
場所: 仮設応接室
ミナは小さく息をつき、肩を震わせながら語り始めた。
「最初は、ただ……。展示会の前に、連絡が来て。
“ほんの数分、カメラの死角を作ってくれ”って……
それだけで終わるって言われたんです」
手は膝の上で固く握られ、指先が布を押し込むように震える。
声はかすれ、過去の恐怖を思い出すたびに途切れそうになる。
羽村は静かに聞き、言葉を挟まず、ただ彼女の胸の奥から出る声に耳を澄ませた。
その静けさが、わずかながらミナに安心感を与える。
時間: 18:29
場所: 仮設応接室
羽村の低く落ち着いた声が、仮設室の静寂を切り裂く。
「その相手は……?」
ミナは目を伏せ、膝の上で手を絡めながら、小さく息をつく。
声は震え、言葉を選ぶように、かすかに吐き出した。
「……R-Spectre……その人です」
小さな声だったが、部屋の隅々まで響くように、確かな意味を持って伝わった。
時間: 18:31
場所: 仮設応接室
玲の声は低く、しかし部屋の静寂に明瞭に響いた。
「展示会の直前の時間、あなたの清掃動線がいつもと違っていた。そのワゴンの中には……普段使わないクロスと、小型のマイクロツールセットがあった。……誰が入れた?」
ミナは両手をぎゅっと握りしめ、目を伏せたまま小さく震える。
「……わからないです。でも……あの人……R-Spectreの指示でした……」
声に震えが混じり、部屋に沈む時間が長く感じられた。
時間: 18:34
場所: 仮設応接室
ミナの声は震え、言葉が途切れ途切れに紡がれる。
「前日の夜……気づいたときには、もう入ってて。展示台の清掃をするように指示されてたから、“そこに持っていけ”って……。何かを仕掛けることになるのは、分かってた。でも……怖くて、何も言えなかった……」
羽村は言葉を挟まず、ただ彼女の呼吸と微かな肩の震えを見つめていた。
玲は腕を組み、沈黙の中でじっと状況を整理している。部屋に流れる重い空気が、ミナの告白を確かなものとして刻み込んでいく。
時間:18:36
場所:仮設応接室
玲は、深く息を吸ってから椅子の前縁へと体重を移した。
鋭さではなく、確信を帯びた静かな声音――逃げ道を塞ぐためではなく、真実へ導くための声だ。
「ミナさん。あなたを脅した者は、“内部の動線”を正確に知っていた。
清掃ルート、ワゴンの保管棚、鍵の扱い、展示台の清掃時間のローテーション……外部の者が空で言える情報じゃない。
つまり――内部関係者か、あるいは、監視網そのものを逆手に取れる人間です」
ミナの肩が、びくりと揺れた。
その反応は、玲の言葉が核心を突いている証拠だった。
「…………」
唇が震え、声にならない息が漏れる。
羽村は、彼女の前にそっと紙のコップを置いた。
「大丈夫。ゆっくりでいい。あなたの答えが、この事件の“次の扉”になる」
ミナの喉が上下し、ようやく絞り出すように囁いた。
「……“内部の人”です。
……私、顔は……見てません。でも……声は……」
玲の指先がわずかに止まる。
ミナは続けた。
「――“指示は、明日の午前の清掃で終わる。あなたはただ、言われたものを展示台まで運べばいい”
……そう言った声……あれ、館内放送で聞く……あの……」
そこでミナは言葉を失い、恐怖の色を帯びた目で玲を見つめた。
玲は静かに目を細めた。
「――館内オペレーターだな」
部屋の空気が、ふっと凍りついた。
時間:18:42
場所:仮設応接室
羽村は、ゆっくりと椅子に背を預けたまま、落ち着いた声で言った。
「よく話してくれたね、ミナさん。
怖かったはずだ。でも、今話してくれたことが、すべての真実への道しるべになる。
“誰が”ではなく、“何がどう動いたのか”――それを知ることが、次の一手につながるんだ」
彼の視線は優しく、しかし揺るがない確信に満ちていた。
「あなたは責められるべきじゃない。命令に従っただけだ。
そして、今こうして伝えられた“証言”こそが、事件の核心を解く鍵になる」
部屋の中に静寂が戻る。
ただ、時計の針だけがカチ、カチと、確実に時間を刻んでいた。
時間:18:45
場所:仮設応接室
玲は木製の机越しにミナの姿を見つめ、まるで空気の重さまで測るかのように静かに息をついた。
(――これで、ひとつ、“沈んでいたピース”が浮かび上がった)
心の中でそう告げる玲の目は、揺るぎない確信に満ちていた。
外の廊下からかすかに聞こえる足音や、時計の針の音が、逆にその静謐さを際立たせる。
沈黙の中で、事件の輪郭が、少しずつ、確実に形を取り始めていた。
時間:19:12
場所:監視映像分析室
壁一面の大型スクリーンに、静かに映像が再生される。
事件当日の天井カメラ映像。展示ルームの中心、ガラス床に微かに反射する人影や光の揺らぎ。
玲は指を唇に当て、モニターの細部をひとつひとつ追った。
その反射像には、誰も気づかぬ“微かなずれ”と、“存在してはいけない何か”の影が含まれている。
(――この瞬間、見えてはいけないものが、確実に映っている)
心の奥でそう確信しながら、玲は映像の再生速度を落とし、光と影の隙間に潜む手掛かりを丹念に拾い始めた。
時間:19:15
場所:監視映像分析室
「映像復元率、92%。赤外補正完了。次、反射面逆演算に入る」
低く、だが確実な声で告げたのは、解析チームの中でも群を抜くエリート――早乙女澄音だった。
手元のキーボードを素早く操作し、映像データを一コマずつ逆演算。天井カメラに映ったガラス床の反射から、人物の姿や光源のわずかなずれを再構築していく。
スクリーンに映る光の波形が微かに揺れ、まるで床の上で息づくかのように変化する。澄音の指先は迷うことなく、複雑な演算を次々に叩き込んでいく。
「……よし、微細動、抽出完了。存在確認……はい、やはりここにいた」
彼女の言葉に、室内の空気がわずかに引き締まった。
時間:19:17
場所:監視映像分析室
玲は静かにスクリーンを見つめたまま、澄音の背後から問いかけた。
「……オペレーターは今、“どこ”にいる?」
澄音は一瞬視線をキーボードから上げ、画面に浮かぶ反射像を凝視する。
微かな指の震えもなく、落ち着いた声で応える。
「現場フロア上層――中央展示台の照明制御室です。映像と照明の同期状態から逆算すると、間違いありません」
玲は深く頷き、薄暗い室内に沈む空気の中で、次の指示を心の中で組み立てる。
(――動きは完全に把握できた。あとは、この“影”を追うだけだ)
時間:19:19
場所:監視映像分析室
玲は大型スクリーンの前で静かに立ち、映像の微細な揺らぎに目を凝らしながら呟いた。
「……詐欺師の手品に似てる。客の視線が誘導されるように、照明も配置されていた」
澄音は手元のキーボードを操作しながら応える。
「そうです。反射の角度と光の強弱を計算して、観客が“ガラスの中身”を見るタイミングを操作しています。実際には何も触れていなくても、見る者には揺れて見える」
玲は唇を引き結び、画面上の微かな光の揺らぎに再び視線を戻す。
(――この“光の迷宮”の中で、犯人は何を狙ったのか……)
時間:19:22
場所:監視映像分析室
玲の声は低く、しかし確信を帯びていた。スクリーンに映る映像の一瞬、微かに揺れる掌の動き。
「――そこだ。掌がガラスに触れてる。指が、ワイヤーをかけているように見える」
澄音も画面を拡大し、解析ツールを駆使してフレームごとの動きを確認する。
「……確かに。接触角度と微妙な圧力の変化、指先の動きまで一致しています。これは、ただの反射では説明できない」
玲は深く息をつき、拳を軽く握った。
「これが……犯行そのものの証拠になる。間違いない」
時間:19:25
場所:監視映像分析室
澄音はスクリーンを凝視し、指先で映像フレームをひとつずつ止めながら慎重に解析する。
「……完全には言い切れませんが、この映像は“人為的な操作の痕跡”を強く示しています」
彼女の声には緊張が混じりつつも、冷静な分析者の確信がにじんでいた。
「しかも、ここに映っている“影の人物”――女性に見えます。骨格、動き、そして細指の角度。前にも似た影を解析したことがあります」
玲はそっと背筋を伸ばし、画面の微細な揺らぎに視線を集中させた。
「……つまり、この人影は単なる偶然ではない。何者かが確実に意図してここにいた、ということか」
時間:19:26
場所:監視映像分析室
早乙女澄音は新たに呼び出したデータウィンドウを横に並べ、指先で二つのシルエットを重ね合わせた。
画面には、展示当日の「影」と、過去の監視映像から抽出された別の女性のシルエットが映し出される。
「若槻ミナではない、もう一人の女性スタッフ――佐伯玲子」
澄音の声は低いが、揺らぎはなかった。
「過去、数件の窃盗案件に名を連ねています。いずれも手口は高度で、“証拠不十分”のまま不起訴。内部協力者を利用し、影に徹するタイプ……今回の状況と一致します」
玲は腕を組み、画面越しに“消えていた存在”の輪郭を見つめる。
佐伯玲子――若槻ミナと同じフロアで働きながら、姿をほとんど見せないスタッフ。
記録上は「控えめで無口」。しかし、それは“目立たないための偽装”にすぎなかった。
「……あの影は、彼女か」
玲の呟きは、天井の反射映像と重なり、室内の全員に重く響いた。
了解です。修正します。
⸻
時間:19:31
場所:監視映像分析室
玲は無言のまま端末に手を伸ばし、通信回線を確保した。
ディスプレイ越しに表示されるのは、複数の都市交通網と監視カメラのマップ。
「――チームに連絡。出入口と交通機関の記録、全て遡れ。
佐伯玲子が逃げ切ったとは限らん」
彼の声には冷徹な緊張が漂う。
モニターの光が、玲の顔に鋭い影を落とし、室内の空気が一瞬、張り詰めた。
奈々は即座に端末を操作し、過去48時間分の出入り記録を抽出。
沙耶は現場チームと無線をつなぎ、主要駅やバス路線の監視映像にアクセスする準備を整える。
「全方位で追跡を開始します」
玲の言葉に、チーム全員が頷く。
窓の外、夜の街の光が淡く揺れる中、影はまだどこかに潜んでいる――確実に、次の行動を待ちながら。
時間:20:07
場所:監視室・壁際
照明を落とした静かな部屋に、モニターの青白い光が揺れていた。
その光は、壁際に立つ九条優の頬を淡く照らし、陰影を鋭く浮かび上がらせる。
彼の目は、ディスプレイに映る膨大な監視映像の一点一点を追っていた。
微かな光の歪み、影のずれ、時間の僅かな差異――すべてを読み取り、次の行動を予測するために。
「……逃げられはせん」
低くつぶやく声は静かだが、空気を切り裂くほどの重みを持って響く。
モニターの青白い光が、床に長く伸びる彼の影を揺らし、部屋の静寂をさらに際立たせていた。
時間:20:12
場所:監視室・壁際
九条優は淡く揺れるモニターの光の中で、ゆっくりと振り向き、低い声でつぶやいた。
「凛は……“感じた影”を信じてたんだろ?」
その問いかけに、少し間を置いて、妹の九条凛は控えめに答える。
「ええ……でも、ただ“影”を感じただけじゃ、何も証明できない。だから、ひとつひとつ積み上げて、事実を確かめた」
優は肩越しにスクリーンを見やり、冷静なまま頷く。
「感じたものを無視せず、証拠に変える。……そういうやり方だよな、凛は」
微かに揺れるモニターの光が、二人の影を壁に映し出し、沈黙の中にも互いの信頼と理解が確かに存在していることを示していた。
時間:20:15
場所:監視室・壁際
九条凛はモニターの光に照らされ、眉をわずかに寄せながらつぶやいた。
「……証明しないとね。感覚だけじゃ、警察は“思い込み”って一蹴する」
九条優は静かに頷き、妹の言葉を受け止める。
「玲さんも、それがわかってるから……現場の痕跡、映像、証言。全部積み上げて証明する。それが凛のやり方だ」
凛は小さく息を吐き、モニターに映る宝石展示台の映像をじっと見つめる。光と影のわずかな揺らぎも、彼女にとっては重要な手がかりだった。
時間:20:18
場所:監視室・モニター前
九条凛は画面に指を添え、肩と肘の動きを比較しながら静かに指摘した。
「ここ。肩の動きに対して、肘の角度が合わない。つまり――何かを握って“引いてる”」
九条優はその指摘を受け、モニターの拡大映像をじっと見つめる。光と影のわずかなずれから、彼は犯行の痕跡を読み取ろうとしていた。
「……なるほど。握ったものは小型か、体の一部か……。完全に見せないための動作だな」
凛の目は、冷静さと確信に満ちていた。
時間:20:22
場所:監視室・モニター前
九条凛は画面を凝視しながら、低く語りかけるように言った。
「……映像が語りはじめたわね。あの展示ケース、開閉機構が“押し込み式”になってる。力じゃなく、正確な角度と位置。
素手で、しかも“一発で”そこを操作するには、事前に精密な調整とシミュレーションが必要よ」
九条優は隣で腕を組み、わずかに息を詰める。光と影の微妙な差異、動作の完璧な再現性……それらすべてが、犯人の熟練度を雄弁に物語っていた。
「つまり、偶然じゃない。完全に計算された動きだな……」
時間:20:25
場所:監視室・モニター前
九条凛は画面を指差し、静かに続けた。
「そして、わたしたちは今、“その人間が操作した”証拠を可視化してる。
この映像が確定すれば、佐伯玲子の関与は、状況証拠ではなく“実行証拠”になる」
九条優は眉をひそめ、低くうなずく。
「なるほど……ただの噂や憶測じゃない。これで初めて、法廷でも通用する証拠になるわけだな」
凛の指先が画面上の微細な動作をなぞるたび、影の人物の手の角度や握り方が鮮明に浮かび上がる。
「見て、肘の角度、肩の連動……完璧に計算されてる。偶然でこんな動きは不可能よ」
時間:20:27
場所:監視室・モニター前
九条凛は画面に視線を落とし、指先で17コマをなぞりながら静かに言った。
「これで、犯人の動きが映ってるフレームが、全部で“17コマ”。
……十分だよ。ここから“行動軌跡”を再現できる」
九条優は背筋を伸ばし、低く息をつく。
「17コマ……少ないようで、精密な動きはこれで完全にトレースできるな。偶然じゃない」
凛の目が冷たく光る。
「偶然じゃない。すべて計算された動き……これこそ、我々が追っていた“影の手”の正体よ」
時間:23:12
場所:展示会場・休憩室
人工照明が青白く天井から差し込み、部屋全体を冷たい空気で満たす。簡素なテーブルが一つ、硬い椅子が三脚だけ並ぶ。時計の秒針が刻む音すら、夜の静寂の中で大きく響くようだ。
石田誠二は、その中心の椅子に腰を落とし、背筋をわずかに丸めて俯く。手元の紙袋は開かれたまま、内部の書類が無造作に散らばる。机の上には、かつて湯気を立てていたはずのコーヒーカップがひとつ。液面はもう完全に冷め、表面に微細な埃が薄く舞っている。
彼の肩は小さく揺れ、指先が軽く机を叩く。無言の緊張が、室内の静けさをさらに際立たせる。外の街灯の光が、窓ガラスを通してわずかに差し込み、青白い影を石田の顔に落としていた。
空気は静かに濃く、まるで時間そのものがゆっくりと重く沈み込んでいくかのよう。石田の目には、疲労と焦燥、そして迷いが交錯して光っていた。
時間:23:15
場所:展示会場・警備ブース
(……今朝、何かが違っていた)
石田誠二は、静まり返ったブースの中でゆっくりと息をつく。夜の人工照明が薄く差し込み、机の上に並ぶモニターや無線機に淡く反射している。
いつものようにロッカーを開け、水筒を取り出す。手にした水筒の重さや冷たさまで、体は自然に覚えていた。それを持って警備ブースの定位置へ歩き、椅子に腰を下ろす。机の右奥にそっと置く――習慣に刻まれた一連の動作だ。
「何もおかしくない、いつも通りの動作……のはずだった」
だが、その瞬間、胸の奥に微かな違和感が走った。空気の匂いか、視界の端をかすめた影か、それとも時計の針のわずかな揺れか――理由はまだ言語化できない。ただ確かなのは、この感覚が明らかに“異質”であるということ。
時間:23:15
場所:展示会場・警備ブース
(そこまでは、確かに自分の記憶にある)
石田は椅子からゆっくりと立ち上がり、水筒を手に取った。その瞬間、胸の奥にわずかな違和感が走った。
普段なら自然に感じる重みや冷たさが、ほんのわずかに“ずれている”ように思えた。指先の感覚、手首の角度、体のバランス――すべてが、ほんの一瞬、いつもとは違う。
(……なぜだ……?)
その問いは口に出すこともできず、ただ頭の中で渦巻き、暗いブースの静寂の中で、違和感だけが確かに増幅していく。
時間:23:15
場所:展示会場・警備ブース
(……気のせい、そう思った。実際、誰も周囲にはいなかった)
石田はそのまま水筒を元の位置に戻し、椅子に腰を下ろした。深呼吸をひとつ――だが、胸の奥に残る違和感は消えない。
午後になってからの頭痛、軽いめまい。最初は単なる疲労だと思った。しかし、医務室での簡易検査が示したものは――
「わずかなリドカイン反応」
その結果を思い出すたび、石田の手は自然と机に置いた無線機の縁を握りしめる。目の前に何も見えなくても、体は確かに“何かが仕込まれていた”ことを告げていた。
(……誰かに、操作された……?)
警備ブースの静寂は、まるで彼の動揺を吸い込むかのように重く、そして深く沈んでいた。
時間:23:17
場所:展示会場・警備ブース
(俺は“誘導”された……。あの水筒、差し替えられてた)
石田の記憶の歯車が、ゆっくりと音を立てながら噛み合っていく。朝のブースには、一瞬だけ誰かが立ち寄った気配があった。清掃スタッフ……いや、それだけじゃない。もっと薄く、しかし確実に圧迫感を伴う“影”。目には映らずとも、空気の密度で存在を感じる――あの種類の存在感。
背後で、わずかに声が響いた。
「コーヒー飲む? ちょっとだけ残ってたんで」
沙耶の声だ。石田の思考は、現実の空気に引き戻される。差し出された紙コップからは、まだ温かいコーヒーの香りが微かに立ち上っていた。石田は手を伸ばしながら、無意識に息を吐いた。静かなブースの緊張が、ほんの一瞬だけ緩む。
時間:23:18
場所:展示会場・警備ブース
沙耶の声は柔らかいが、芯のある響きを帯びていた。石田は紙コップを握ったまま、わずかに息を飲む。
「……ああ、そうだ。あの水筒、間違いなく差し替えられていた」
沙耶は軽くうなずき、机の端に肘をつく。目は石田をじっと見つめ、優しさの奥に鋭い観察眼を宿していた。
「だったら……どうする? その“誰か”を見つけたいでしょ? それとも、まだ自分で整理できてない?」
石田の手が微かに震える。答えは、頭の中で何度も反芻されていた。沙耶の問いかけが、静かに重く、心に響く。
時間:23:20
場所:展示会場・警備ブース
沙耶は紙コップを両手で包み込み、石田の視線をまっすぐに捉えた。声は柔らかく、だが揺るぎない確信を含んでいる。
「“あの時間帯に、あなたの水筒に触れられる場所にいた人物”。玲が今、映像の一つひとつを洗い直してる。でもね、私たちは、あなたの“違和感”の記録を信じてる」
石田の肩がわずかに緩む。胸の奥で重く沈んでいた疑念が、沙耶の言葉で少しずつ軽くなるようだった。彼は紙コップの縁を指でなぞりながら、かすかな希望と覚悟を胸に抱き込む。
時間:23:21
場所:展示会場・警備ブース
沙耶は、石田の正面の椅子に腰を下ろし、わずかに前傾した。
声を潜めたその言葉は、ただの慰めでも、誘導でもない。
“核心へ近づくための合図”だった。
「違和感は、消せない痕跡。
機械が拾えない微細な変化を、人間の神経は覚えてる。
あとは、あなたがその“気配”を認めるだけ。
――誰が、なぜ、そんなことをしたのか」
石田は息をひとつ飲んだ。
喉の奥で固いものが動く。
視界の端――早朝のブースの影が、じわりと蘇る。
足音はなかった。
ドアの開閉の記録もなかった。
だが、それでも“いた”としか言えない密度。
(……あれは……)
石田の指先がわずかに震え、紙コップの側面を擦る。
言葉にするのを躊躇うように、目線が揺れる。
沙耶は、その揺れを真正面から受け止めた。
急かさない。
否定しない。
だが、逃さない。
「石田さん。
あなたは、気づいてたはず。
――“そこにいた人物”を」
時間:23:22
場所:展示会場・警備ブース
石田はゆっくりと背を椅子に預け、深く長い息を吐き出した。
まるで胸の奥底に沈んでいた“濁った塊”を押し出すようにして――。
「……なら、俺の中にある“確信”を伝えよう」
沙耶の視線が、静かに石田を促す。
彼は、もう逃げずにその目を受け止めていた。
「この行動…単なる嫌がらせじゃない」
低く、絞り出すような声。
言葉のひとつひとつが、確信と恐れの境界を震わせている。
「本命の犯行の前に、
“排除すべき存在”を遠ざけるための作業だ」
沙耶はまばたきを忘れたように、微動だにせず聞いていた。
石田は続ける。
手の中の紙コップが小さく軋む。
「俺は……展示会日の動線も、裏通路の配置も、
“警備の目が届く範囲と届かない範囲”も全部知ってる。
つまり――邪魔だったんだ。アイツにとって」
薄い息が漏れる。
「だから俺を眠らせた。
“本番”の時間帯に、あのブースを空にするために…
水筒をすり替えてまで、俺を遠ざけたんだ」
沙耶の指先が、ほんのわずか震えた。
石田は、押しつぶされた自尊心も、罪悪感も無視して、ただ事実を紡ぐ。
「……俺が目を離す“11時15分”が、犯人にとっての最適解だった。
そこまで読んで計画を立てた奴がいる。
そして――俺はその気配を“知ってる”」
沈黙が落ちた。
その沈黙は、確かな“犯人の影の輪郭”を浮かび上がらせていた。
時間:23:27
場所:展示会場・警備ブース
沙耶は低く息をつきながら、石田の肩越しに視線を送った。
その目は、理解と確信を帯びている。
「やっぱり」
言葉の後に、ほんの一瞬、微かな間が生まれる。
空気が、張り詰めたまま、ゆっくりと震える。
「あなたが“展示ケースの異常”に一番最初に気づける人だったから……」
石田は視線を落とし、わずかに唇を震わせる。
言葉にできない重みが胸を押しつぶすように広がる。
沙耶の声は柔らかく、しかし揺るがない。
「……その気づきが、私たちにとって最初の光になる」
ブース内の照明は淡く揺れ、カップの中のコーヒーが小さく波打った。
二人の間に沈む沈黙の奥で、確かな“真実への道筋”が生まれつつあった。
時間:23:28
場所:展示会場・警備ブース
沙耶は石田の隣で静かに頷き、声を低く落とす。
「玲に伝える。
“石田誠二の記憶には、明確な“痕跡”がある”って。
それが、犯人の計画に対する“最初の抵抗”になる」
石田は微かに息をつき、机の上の紙コップに視線を落とす。
そこにはまだ、朝のわずかな違和感が、確かな記憶として残っていた。
沙耶の言葉は静かに、しかし力強く響く。
「その記憶を信じること。私たちはそれだけで、一歩先に進める」
ブースの空気はひんやりとしていたが、二人の間に小さな光が差し込むように、未来への道筋が見え始めていた。
時間:23:35
場所:展示会場・警備ブース
──静寂。
わずかに振動する空調音と、冷気の軋むような音だけが耳に届く。
天井のLED灯が作る光と影の縞模様が、コンクリートの床にくっきりと刻まれていた。
石田誠二は椅子に深く腰を下ろし、視線を床の縞模様に落とす。
その規則正しい光の帯は、まるで自分の神経を映す鏡のようで、胸の奥に潜む違和感をより鮮明に浮かび上がらせる。
沙耶は横に立ち、軽く腕を組みながら静かに囁いた。
「見える? 記録には残らない“空気の痕跡”。でも、確かにそこにあった」
微かな振動と冷気の中で、二人の意識はひとつの焦点に集中する。
──犯人の存在、その気配の輪郭を、まざまざと感じ取る瞬間だった。
時間:23:38
場所:展示会場・警備ブース
そして――その先に、“気配”があった。
石田の視線がわずかに揺れる。空気のわずかな動き、床に反射する光の微妙な変化。
それは確かに、誰かがブースに近づいていることを告げていた。
「……ずいぶんと早いな。追ってくるのが」
沙耶の声は低く、鋭くも柔らかい。周囲の静寂に溶け込みながらも、二人の緊張を一層高める。
LED灯の光が床を斑模様に照らし、空調の微かな振動が、音には出ない“足音”の気配をさらに際立たせる。
石田は深く息を吸い、覚悟を決めるように手を机の縁に置いた。
目の前に迫る“誰か”を、ただ静かに、しかし確実に感じ取っていた。
時間:23:42
場所:展示会場・裏通路シャッター前
通路の奥。
シャッター裏の影に、フードを被った男がゆっくりと姿を現した。
黒いマスクで顔の下半分を覆い、その瞳だけが冷静に光る。
ゆったりとした動きの中に、無駄のない緊張感が漂う。
男の視線は、まっすぐに玲を捉えていた。
その眼差しには、挑戦とも、警告ともつかぬ静かな強さが宿っていた。
玲は身を軽く沈め、モニターの反射を頼りに、男の動きを読み取ろうとする。
静寂の中、通路の奥から迫る“存在”が、空気をわずかに揺らしていた。
時間:23:42
場所:展示会場・裏通路シャッター前
通路の奥。
シャッター裏の影に、フードを被った男がゆっくりと姿を現した。
黒いマスクで顔の下半分を覆い、その瞳だけが冷静に光る。
ゆったりとした動きの中に、無駄のない緊張感が漂う。
男の視線は、まっすぐに玲を捉えていた。
その眼差しには、挑戦とも、警告ともつかぬ静かな強さが宿っていた。
玲は身を軽く沈め、モニターの反射を頼りに、男の動きを読み取ろうとする。
静寂の中、通路の奥から迫る“存在”が、空気をわずかに揺らしていた。
時間:23:43
場所:展示会場・裏通路シャッター前
玲の声が、静まり返った通路に低く響いた。
「……“あのワイヤー”は、あんたが設置した?」
フードの男は一瞬動きを止め、わずかに肩を揺らしただけで答えない。
その沈黙が、逆に玲の追及の正確さを証明するかのようだった。
男の影は通路の端に溶け込み、呼吸の音と靴底がコンクリートを擦る微かな音だけが、張り詰めた空気の中に響く。
玲は息を殺し、手元の光学装置でわずかな体の動きを追う。
一瞬の微かな揺れが、男の手の先――ワイヤーを握る位置を示していた。
時間:23:45
場所:展示会場・裏通路シャッター前
フードの男は低く、冷静な声で続けた。
「ワイヤーは“罠”じゃない。“時限装置”だよ。
展示会当日の午後、ケース下部がほんのわずかに“開いた”こと、君たちの誰かはもう気づいているはずだ」
玲の目が光を反射させる。影の奥で微かに揺れる男の姿、その手元にあるのは、確かに制御用のワイヤー。
通路の空気が、まるで時間の重みを帯びたかのように張り詰め、呼吸ひとつさえも慎重にならざるを得ない。
玲は一歩前に出る。その足音さえ、静かな夜の通路に吸い込まれるようだった。
時間:23:46
場所:展示会場・裏通路シャッター前
男の声が低く響く。
「そして、“本物”は、あのときすでに“消えていた”。
君たちが見ていたのは“複製品”。
その差に気づける人間は、この会場に二人しかいなかった。
一人は、石田誠二。
そしてもう一人は――」
男の言葉が途切れ、静寂が通路を支配する。
玲の視線が鋭く光る。
「……“ミナ”」
フードの下でわずかに唇が動き、確認するかのようにその名を呟いた。
通路の壁に反射する青白い光が、緊張の影をさらに濃く落とす。
時間:23:47
場所:展示会場・裏通路シャッター前
玲は息を整え、静かに声を放った。
「……そう。ミナだけが、“複製品”と“本物”の違いに気づいた。
午後の展示中、わずかな光の揺らぎ、ガラス内の反射、指先の微細な圧力……
その全てを、彼女は無意識に認識していたんだ。」
彼の瞳は男を真っすぐに捉える。
「そしてその気づきこそが、今回の事件の核心に触れる唯一の鍵。
誰が、本物を持ち出したのか、誰が複製を置いたのか――全ては、ここから繋がる。」
玲の声は低く、しかし確信に満ちて響いた。
空気がひんやりと張りつめ、通路の奥に潜む“影”も、その言葉を逃すまいと息を潜めているかのようだった。
時間:23:48
場所:展示会場・裏通路シャッター前
フードの男は、低く落ち着いた声でそう告げた。
「……なら、止めてみろ。
この計画はもう“終わっている”。
あとは、“誰が、どこまで気づくか”だ」
玲は静かに息をつき、視線を微動だにさせず男を見据える。
「終わっている……?
そう思わせるための演出だとしたら、君の計画は完全だ。
でも、我々は気づきつつある。少しずつ、確実に」
通路の冷気が二人の間を漂い、影と光が交錯する。
男の瞳にわずかな緊張が走ったかもしれない――玲にはそれが見逃せなかった。
時間:23:49
場所:展示会場・裏通路シャッター前
玲はそのまま、冷たい声で告げた。
「計画が“終わっている”と思っているのは、あなただけだ。
私たちは、すべての痕跡を追い、すべての揺らぎを読み取っている。
そして、その本当の“動き”も、必ず明るみに出す」
フードの男は一瞬だけ微かに身を硬くし、唇の端がわずかに吊り上がった。
だが、玲の視線は揺るがず、彼の虚勢を見抜くかのように光を放っていた。
時間:00:12
場所:統括管理室
統括管理室の空気は、外界と切り離されたように静まり返っていた。
白い蛍光灯が壁面にじんわりと影を落とし、無人のデスクにわずかに残る熱が、つい先ほどまでの騒がしさを物語っていた。
玲は淡く光るモニターに視線を落とす。
各種監視カメラのログ、アクセス権限の操作記録、制御端末の応答履歴――すべてを再確認するかのように、指先で画面を滑らせていく。
「ここまで来れば、逃げ道はもうない……」
彼女の声は低く、静かだが、室内の冷気に触れるたびに確実に重さを増していくようだった。
時間:00:13
場所:統括管理室
玲はモニターの前で指を止めた。
画面に表示されたアクセスログの一行に、微かな乱れが見える。
「……不自然な上書きがあるな。ここだ」
その瞬間、室内の静けさがさらに濃くなる。
蛍光灯の淡い光が、玲の顔の輪郭に影を落とし、指先の操作がモニターの光に反射して微かに震えた。
彼女はそのログの差異を慎重に追い、何者かが意図的に痕跡を消し、修正していたことを確信する。
すべての時間、すべての記録は、ここで“操作”されていたのだ。
だが――
玲の目は、画面の乱れだけに留まらなかった。
微細なログの矛盾、アクセス時間のわずかなズレ、システムの自動応答が示す不自然な挙動。
それらすべてが、単なる偶然ではなく、意図的な操作の痕跡を示していた。
「……この上書きは、外部からではなく、内部の誰かがやった」
指先がわずかに震える。だが、声は冷静そのものだった。
「そして、これは“始まりに過ぎない」
統括管理室の空気は、さらに重く、緊迫したものになった。
時間: 午後2時37分
場所: 高級ホテルB2階 統括管理室
玲は画面の前で、わずかに息を飲む。
「……つまり、手を汚したのは一人じゃない。二段構えの犯行だった、ってことか」
凛の指が画面上の青いラインをなぞる。
「午前中の動きと、午後の操作のタイミングが微妙にずれている。最初の犯人が仕掛けを完成させたあと、別の“影”が介入している」
静まり返った統括管理室に、わずかに空調の音が反響する。
玲は低く呟く。
「二人目は……誰だ?」
時間: 午後2時39分
場所: 高級ホテルB2階 統括管理室
玲はゆっくりと画面から目を離し、掌で顎に触れた。
──“展示品のすり替え”が本命ではなかった。
その言葉が、室内の静寂にゆっくりと染み渡る。
凛は指先でモニターのタイムラインをたどりながら、低く言った。
「つまり、前段階は……“本命犯行のための布石”だったわけね」
玲は頷き、淡々と続ける。
「見えているものは、すべて演出。目的は“誰が気づくか”を試すことだった」
空調のわずかな振動だけが、二人の間に残る緊張を伝えていた。
時間: 午後3時07分
場所: 高級ホテルB2階 統括管理室
玲は慎重にその紙を手に取り、朱音の描いた淡い鉛筆線を目で追った。
少女の無垢な線は、一見ただの遊び心のある落書きのように見える。だが、細かく見比べると、地下通路の複雑な構造図と驚くほど正確に一致していた。
玲の瞳が鋭く光る。
「……この子の直感が、今回の事件の“隠された道筋”を示している」
空気は静まり返り、机の上のモニターや資料の影が、わずかに揺れている。
玲の指先が紙の隅に触れるたび、地下に張り巡らされた“影のルート”が、頭の中で徐々に浮かび上がった。
時間: 午後3時12分
場所: 高級ホテルB2階 統括管理室
玲の目が、薄暗い通路の奥へと鋭く向けられる。
モニターの光に反射して、わずかに揺れる影。
それは、先ほど解析した“展示台のすり替え”とは別の動き――まさに本命を狙う者の存在だった。
「……来ている」
玲の声は低く、ほとんど空気に溶け込むように呟かれた。
統括管理室の冷たい蛍光灯が、彼の表情と影の輪郭を交互に浮かび上がらせる。
時間が止まったかのような静寂の中、玲はゆっくりと立ち上がり、影の正体を見極めるために通路へ歩を進めた。
時間: 午後3時13分
場所: 高級ホテルB2階 統括管理室
統括管理室の扉を押し開けた瞬間、玲は微かな空気の違和感に気づいた。
夜間モードに切り替えられた蛍光灯は最低限しか点灯しておらず、室内にはモニターの青白い光だけが、壁際やデスクに淡く影を落としている。
人工光に反射する金属やガラスの表面は、普段の眩しさとは異なる冷たさを帯び、空気には冷却ファンの低い振動音だけが静かに響いていた。
玲は足を踏み入れ、ゆっくりと周囲を見渡す。
静寂の中、わずかな空気の揺れや影の動きが、室内の異常を示す“気配”として彼の感覚に伝わってきた。
そこには、ただならぬ“もう一つの存在”が潜んでいることを、彼は瞬時に察知した。
時間: 午後3時13分
場所: 高級ホテルB2階 統括管理室
統括管理室の扉を押し開けた瞬間、玲は微かな空気の違和感に気づいた。
夜間モードに切り替えられた蛍光灯は最低限しか点灯しておらず、室内にはモニターの青白い光だけが、壁際やデスクに淡く影を落としている。
人工光に反射する金属やガラスの表面は、普段の眩しさとは異なる冷たさを帯び、空気には冷却ファンの低い振動音だけが静かに響いていた。
玲は足を踏み入れ、ゆっくりと周囲を見渡す。
静寂の中、わずかな空気の揺れや影の動きが、室内の異常を示す“気配”として彼の感覚に伝わってきた。
そこには、ただならぬ“もう一つの存在”が潜んでいることを、彼は瞬時に察知した。
時間:午後3時16分
場所:高級ホテル B2階・統括管理室
モニターの光が揺れる統括管理室の中央。
玲はログ端末の前に立ち、開かれた複数の画面を見比べながら、低く言葉を紡いだ。
「……“すり替え”の準備は、この時点ですでに始まっていた」
画面には、警備員・井上が通路を歩く映像が映し出されていた。
だが、その足取りは妙に“綺麗すぎる”。
迷いも、微調整も、現場特有の揺れもない。
まるでモデルデータをなぞるような正確さだった。
玲は画面を指で叩き、静かに続ける。
「犯人は、警備の目を欺くために“二重の存在”を作ったんだ。
井上本人のIDと行動記録を使いながら、裏で別ルートを通る──」
背後で機器のファンが低く唸る。
凛がその隣で、映像解析のウィンドウを切り替えながら口を開いた。
「……つまり、“井上がそこにいたように見せかけた”ってこと?」
玲の声は一段低くなり、確信と冷たさを帯びる。
「そうだ。
井上本人は“公式ルート”を巡回した記録が残されている。
でも実際には、ログの一部が偽物で、足跡は“二重化”されている。
──犯人は、“彼の存在”を表向きの盾にしたうえで、
裏側で“何かを持ち出す”ためのルートを使った」
モニターの光が玲の瞳に映り、淡くゆらめいた。
「犯人は最初から“井上を動かす必要すらなかった”……
必要だったのは、“井上がそこにいるという記録だけだ”」
凛が息を呑んだ。
青白い光の中で、統括管理室の静寂がさらに深まっていった。
玲は静かな統括管理室の中心で、端末から顔を上げた。
モニターの光が頬を淡く照らし、その眼差しには油断の欠片もない。
背後では凛が次の解析を走らせながら、わずかに肩を揺らして笑った。
その一瞬の軽さも、周囲を包む張り詰めた空気を揺らさない。
玲は、まるで状況を客観視するように低く呟いた。
「IQ300が二人も揃えば、詰むのも早いか」
凛が片眉を上げる。
「え、ちょっと待って。誰と誰のこと言ってるの?」
玲は淡々と、指先でログ画面をスクロールしながら答えた。
「……俺とお前以外にいないだろ」
その声音は軽いが、確信の色が滲んでいた。
二人が並んだ瞬間、解析速度も、推理の深度も、一気にギアが上がる。
凛は小さく息を吐き、肩を落としたふりをする。
「……はぁ、またプレッシャーかけてくる」
玲は短く笑い、視線を再び画面へ戻す。
「プレッシャーじゃない。ただの事実だ。
“嘘の行動記録”も、“二重の存在”も……もう割れてる」
スクリーンには、犯人の動線が徐々に再構成されていく。
点と点が線で繋がり、やがて“逃げ道すら存在しない”包囲網を描き始めた。
凛がキーボードを叩きながら小さく呟く。
「……じゃあ、チェックメイトまであと何手?」
玲の声は冷たく静かに落ちた。
「三手。逃げ場はもうない」
【日時】事件当日・午前4時12分
【場所】展示会場・地下制御室 C棟(※三年前に封鎖済)
その瞬間だった。
統括管理室のモニター右下に、見慣れないポップアップが静かに浮かび上がった。
《NEW LOGIN DETECTED / 04:12:33》
《ACCESS POINT:地下制御室C棟》
玲は指を止めた。
凛も息を呑み、画面に目を凝らす。
「……ありえない。C棟は封鎖されたはずよ。
電源も、回線も、すべて三年前に切られてる」
凛の声がかすかに震える。
無理もない。地図上で“存在しないはずの場所”からアクセスが来たのだ。
玲はゆっくり立ち上がり、モニターに近づいた。
暗い室内に、彼の影だけが伸びていく。
「違う。
――“封鎖されていない”、じゃなくて
“封鎖されたように見せかけられていた”だ」
画面右側には、不自然なタイムスタンプの上書き。
そして、その裏にうっすら残る旧ログの痕跡。
凛が、震えを抑えるように息を吐いた。
「……午前4時12分。展示会の準備スタッフが入り始める“二時間前”。
誰もいない。警備も巡回が薄い。完全な死角……」
玲は静かに頷いた。
「本物のダイヤが“消えた”のは、ここだ。
午後のあの盗難劇は――ただの見せ場」
モニターは、新たに浮かび上がったログを淡い赤で点滅させ続けていた。
――地下制御室C棟。
そこは、犯人が最初に“舞台を開いた場所”だった。
【日時】事件当日・午前2時38分
【場所】展示会場・倉庫区画ローカルサーバ室(照明オフ・非常灯のみ)
薄暗い部屋の一角。
そこに置かれた古いサブ端末の前で、凛は静かに腰を下ろしていた。
非常灯のわずかな赤い光だけが、彼女の横顔を照らす。
端末のディスプレイには――たった一行の文字列。
《TEMPORARY ACCESS / ID:IN-04》
《TIME:02:38:12》
凛はそのIDを見つめたまま、呼吸を忘れていた。
「……午前二時三十八分。
この時間の倉庫区画は完全施錠。
巡回ルートもゼロ。
――誰も、入れないはずだった」
画面の青白い光に照らされ、彼女の指先がわずかに震える。
記録は一分にも満たない“瞬間的なアクセス”。
しかし、その一分が“最初の異変”を物語っていた。
背後の扉が静かに開き、玲が入ってくる。
凛は振り向かず、端末を指差した。
「見て。
すり替えは、午後じゃない……もっと前。
ここから始まってる」
玲は画面を覗き込み、目を細める。
「……IN-04。
井上のIDを“装った”偽装IDだな。
ただ、この時間帯に残すとは大胆だ」
凛は小さく首を振る。
「違う。
――“残したんじゃない”。
“わざと残した”。
誰かが、このアクセスを“手がかりに見せるつもり”で」
玲は沈黙した。
倉庫の冷気が、二人の間を静かに流れる。
午前2時38分。
この“隠された一分”こそが、
後に大きな波紋を生む“最初の影”だった。
【日時】事件当日・午前2時38分
【場所】展示会場・倉庫区画ローカルサーバ室(非常灯のみ)
凛は、サブ端末の奥深くに隠れていた“もう一枚の記録”を開いた。
画面の中央に浮かび上がるのは、先ほどのIDとはまるで別物の “異質さ” を持つログだった。
青白い光が、静まり返った部屋の空気を切り裂く。
■ 不正アクセスログ(暗号化レイヤーIIIより復元)
【ID:S-YK90】
アクセス先:倉庫区画・南側セキュリティパネル
認証権限:一時管理者(第三階層)
実行コマンド:
・ログ履歴の一部上書き
・一部削除
・遅延復元スケジュール登録(04:12)
凛は息を呑んだ。
「……これ、完全に“プロの手口”だわ。
上書きして、消して、しかも後で“復元されるように”仕掛けてる。」
玲がモニターに顔を寄せ、画面を見つめる。
「遅延復元……あの午前4時12分の通知か。
つまり、あれも“ミス”じゃない。
最初から、俺たちに見せるために置かれた“痕跡”……」
凛は深く頷いた。
「――そう。
本当に消したい証拠は、別にある。
これはただの“誘導”。」
玲は静かに天井の暗がりへと視線を向けた。
「ID:S-YK90……
第三階層の一時管理権限なんて、“外部の人間”には絶対に取れない。
必ず内部協力者がいる」
沈黙。
非常灯の赤い光だけが、二人の影を細く伸ばした。
そして玲が低く告げる。
「――“展示品のすり替え”は表向きだ。
本命は、この『南側パネル』が守っていたもの。
犯人はただ隠したんじゃない。
俺たちに“気づかせたかった”んだ。
ここに“本当の始まり”があると。」
凛の背筋に冷たいものが走った。
午前2時38分。
密室の倉庫で動いたID【S-YK90】。
その影は、まだ名も姿も持たないまま――
しかし確実に“事件の中心”へ向かって続いていた。
了解しました。では線引きを使わず、地の文として自然に繋げて描写します。
⸻
【日時】事件当日・午前2時40分
【場所】倉庫区画・南側セキュリティパネル前(警備灯のみ点灯)
薄暗い倉庫には、電子機器の低い駆動音だけが漂っていた。
凛がサブ端末を操作し、内部ログを呼び出す。青白い光が二人の顔を照らす中、玲は静かに口を開いた。
「つまり、“すり替えられた何か”がここにある。」
その声は倉庫の冷えた空気に吸い込まれるように落ちていく。
「井上が狙われたのは、彼のIDと行動記録を偽装して、犯人がその裏で秘密裏に動くためのカモフラージュだった。表では井上が動いているように見せかけ、その陰で本命の作業を進める。そのためには、彼の存在を“利用する”必要があった。」
凛が画面を示しながら言う。
「井上は通路に入ったことになっているけど、実際には入ってない。
正確には──“入ったことにされた”だけ。アクセスはこの南側パネルだけ。」
玲はパネルの奥を覗き込みながら言葉を続ける。
「犯人はここで井上の行動記録を編集し、自分の動線をその影に隠した。
展示品をすり替えるだけなら、ここまで深く触る必要はない。」
凛がさらにログを拡大すると、削除された痕跡と暗号化された断片が幾層にも蓄積されているのがわかる。
「このパネルは“展示会場全体の動線”を管理してる。
誰がどのドアをいつ通ったか、全部ここに記録される。
……だからこそ、偽装するならここを操作するしかない。」
玲はひとつ息を吐き、倉庫奥の闇に目を向けて呟いた。
「消えたのは展示品じゃない。
“消されたのは、人間の動きそのものだ”。
犯人は展示品以上に重要な“誰か”を隠すために、井上の記録を利用した。」
凛が小さく息を呑む。
「じゃあ──すり替えられた“何か”って……?」
玲は迷いなく答えた。
「動線データだ。
誰か一人の“存在そのもの”が、ここで書き換えられた。」
倉庫の非常灯が微かに揺れ、影が長く伸びる。
冷え切った空気がひとつ震え、奥へと続く通路はさらに深い闇を孕んだ。
この事件は、まだ始まりにすぎない。
【日時】事件当日・午前2時40分
【場所】倉庫区画・南側セキュリティパネル前
玲の言葉に、倉庫の冷気がわずかに震えたように感じられた。
凛が静かに振り返る。非常灯の薄い光が、二人の影を床へ長く引き伸ばす。
玲はパネル前に立ち、指でログの断片をなぞりながら続けた。
「その通りだ。井上は、犯人の“囮”であると同時に、事件の鍵を握る存在でもある。
彼の行動には、まだ解明されていない意図が隠されている。」
凛が眉を寄せる。
「……囮にされた“だけ”じゃないってこと?」
「ただの巻き込まれた被害者じゃない。」
玲は淡々と、しかし確信を込めて言う。
「ログの改ざんは巧妙だが、井上本人の動きには説明のつかない“空白”と“選択”がある。
犯人が模倣した行動記録と、本当に井上が残した痕跡……その二つが、一部で噛み合っていない。」
「じゃあ……井上は自分のIDが使われていることを“知らなかった”わけじゃない?」
玲は一瞬だけ目を伏せ、静かに頷いた。
「気づいていたか、あるいは……少なくとも、違和感を持っていた可能性が高い。
だが彼は記録を修正しなかった。それどころか、その“空白”を残している。」
凛の息が止まる。
「……まるで、自分が“使われている”ことを、誰かに気づいてほしかったみたいに?」
玲はゆっくりと凛を見る。その瞳には、戦場でしか見せない鋭さが宿っていた。
「井上はただ囮にされたんじゃない。
“囮になることを、受け入れていた”可能性がある。」
倉庫区画を吹き抜ける低い振動音が、二人の間に重く広がる。
その奥に隠された意図――井上の“沈黙”の意味が、事件全体を別の形に変え始めていた。
場所: 面談室B3
時間: 23時42分
薄暗い面談室に、重く冷たい空気が満ちていた。
壁一面に貼られた灰色の吸音パネルは、外界の音を完全に遮断し、
ここだけが地下深く切り離された“密室”のようだった。
天井の蛍光灯は一本だけ。
白い光が中央のテーブルを照らし、その周囲に深い影を落としている。
その影の中心で、雷真はゆっくりと息を吐いた。
拘束具が微かに軋む音が、静寂の中に沈んでいく。
玲が席に着いてから三秒。
雷真は、不敵な笑みを浮かべながらようやく口を開いた。
「……雷真。」
声は意外なほど静かで、しかしどこか底知れぬ圧を帯びていた。
まるで、この狭い部屋の温度を一度下げるような響きだ。
「職業は――そうだな。“調整役”。
依頼内容は、だいたい決まってる。
“見られたくないものを運ぶ”。
“知られたくないことを整える”。
“誰にも気づかれず、何かを終わらせる”。」
拘束された両手を、軽く持ち上げてみせる。
「皮肉だろ?
誰にも触れさせないための手で、いちばん“触れてはいけないもの”ばかり扱ってきた。」
蛍光灯の光が雷真の目の奥に反射し、青白く揺れた。
「……名前が表に出ることは滅多にない。
俺が動くときは、仕事が終わったあとに“気配だけ”が残る。
そういう役目なんだよ。」
玲は一言も挟まない。
ただ、その視線だけで雷真の言葉を測っていた。
雷真は、ふっと笑った。
挑発か、諦念か、あるいは――何かを試すような笑み。
「まあ、今回ばかりは“仕事が終わった後”に捕まっちまったわけだが……
俺が触ったのは展示品じゃない。」
顔を上げる。
その目が、確実に玲の瞳を捉えた。
「――狙われていた“本物”は、もっと別の場所にあったろ?」
場所: 面談室B3
時間: 23時55分
玲は静かにテーブル越しに視線を固定した。
雷真は拘束された手を微かに動かし、口元に薄い笑みを浮かべる。
「君が関わった“すり替え計画”の核心だ。
井上悠介はあくまで囮。
真の狙いは別にある。」
雷真はしばらく沈黙し、部屋の冷気を吸い込むように息を整えた。
そして、低く、しかし確信に満ちた声で応える。
「……わかってるな。囮は囮、でも本物は別の“場所”に置かれた。
俺が関わったのは、あくまで“行程の整備”だけだ。
誰にも触れられず、誰にも気づかれず、最後まで届けるために。」
玲は微動だにせず、ただ雷真の言葉を受け止める。
その沈黙の間に、薄暗い室内の空気はさらに重く、張りつめたものになった。
「……では、その“本物”は今、どこに?」
雷真の瞳が一瞬、わずかに揺れた。
言葉はない。
しかし、その沈黙だけで、答えの一端が玲に伝わる。
場所: 面談室B3
時間: 23時57分
玲はゆっくりと椅子に肘をつき、冷たい視線を雷真に向けた。
薄暗い部屋の奥で、時計の針だけが静かに時を刻む。
「教えてくれ。
君が狙った“本命の侵入者”とは誰だ?
そして、その狙いは何か。」
雷真は手首を拘束具で固定されたまま、ゆっくりと息を吐いた。
その瞳には微かな光が宿り、口元にわずかな皮肉を浮かべる。
「……それを話すのは、簡単じゃない。
だが、君には伝えよう。
本命は――“若槻ミナ”。
狙いは単純だ。
彼女が気づく前に、事件を完遂すること。
そして、誰にも知られず、すべてを自分の思惑通りに終わらせること。」
玲は軽く眉をひそめる。
雷真の言葉の奥に、計算され尽くした冷酷さが潜んでいることを、彼女は瞬時に理解した。
場所: 面談室B3
時間: 23時58分
玲は、テーブル越しに雷真をまっすぐ射抜くように見つめた。
その声は低く、揺らぎなく、しかし“逃げ道を許さない優しさ”すら帯びている。
「その秘密を暴くのが、俺たちの仕事だ。
だから――お前の言葉を聞かせてくれ。」
わずかに空調の音が揺れ、雷真の肩の影が壁に伸びる。
拘束具に締められた両手の指が、かすかに震えた。
挑発でも反抗でもない。
“観念”に近い、小さな震え。
雷真は俯き、ひと呼吸おいてから口をひらいた。
「……わかってるんだよ、玲。
お前らはもう“外枠”に辿り着いてる。
俺が隠しきれる段階じゃねえ。
でも――俺が追ってた“本命の侵入者”は、若槻ミナじゃない。」
玲の眼が細くなる。
雷真はゆっくりと顔を上げ、冷えた瞳で告げた。
「俺が狙っていたのは……
“すり替え計画”に紛れて潜り込んだ、もう一人の影だ。
R-Spectreですら手綱を握れない、
この事件の“もう一つの首魁”だよ。」
部屋の空気が、わずかに震えた。
場所: 面談室B3
時間: 00時03分
部屋の空気が一段と重く沈んだ。
玲の目の前で、雷真は深く息を吐き、両手の指先をゆっくりと組み替える。
拘束具に縛られた手の微かな動きにさえ、緊張が宿る。
「……これが、本命を追う俺の最後の証言だ」
雷真の声は低く、しかし揺らぎはなく、暗がりの面談室に響いた。
「R-Spectreの背後にいるのは、誰も気づかない“もう一つの影”。
君たちが今まで追ってきたのは、その予備動作にすぎない。」
玲は黙って耳を澄ませ、言葉のひとつひとつを頭の中で反芻する。
空調の小さな振動が、部屋全体に静かな緊張を広げていた。
場所: 面談室B3
時間: 00時07分
雷真は拘束具に縛られた両手を軽く揺らしながら、低く、しかし力強く言った。
「誰かの指示で動く…そんな単純なものじゃなかった。
あの“すり替え計画”も、裏の侵入も、全部……自分で選んだ道だ。
俺は、自分の意思で決めた。誰にも操られていない――たとえその代償がどれほど大きくても、俺は自分で選んだ」
拘束された手先の微かな震えが、彼の内面に渦巻く葛藤と覚悟を映し出す。
玲は静かに頷きながら、雷真の言葉を胸に刻んだ。
場所: 面談室B3
時間: 00時09分
玲は椅子に深くもたれかかることなく、まっすぐに雷真の瞳を見据えていた。部屋の空気は重く、外の物音は完全に遮断され、灰色の吸音壁が静寂をさらに際立たせる。中央のテーブルの上には資料が整然と並べられ、照明は控えめに二人の顔だけを浮かび上がらせていた。
玲は低く、しかし鋭い声で問いかける。「その“真実”とは何か? お前が知る、事件の核心――教えてくれ」
雷真の肩がわずかに揺れる。深く息を吐き、拘束された指先をゆっくりと組み替えるその動作に、内面の葛藤が滲み出ていた。彼の瞳はわずかに揺れ、言葉にすることをためらうように光を揺らした。
部屋の静寂は重く、二人の間に張り詰めた緊張を増幅させる。時計の秒針だけが、無情にも正確に、重く、そして確実に時間を刻んでいた。その針の音が、雷真の心拍のように二重に響き渡る。
玲の視線は揺るがない。声のトーンは冷たくもあり、包み込むような安心感も含まれていた。彼の問いかけは圧迫ではなく、誘いかけるように、雷真の胸の奥に眠る真実を呼び覚ます。
雷真はゆっくりと唇を開く。その声はかすれ、震えを帯びながらも、まぎれもなく現実を映す重さを持っていた。「……誰かの指示で動く…そんな単純なものじゃなかった。あの“すり替え計画”も、裏の侵入も、全部…自分で選んだ道だ……」
場所: 隔離区域・地下通路
時間: 01時42分
雷真は薄暗い通路の奥で立ち止まり、低く、そして確信に満ちた声で口を開いた。
「……誰かの命令で動いたわけじゃない。すべて、自分で選んだ道だ。あの“すり替え計画”も、裏の侵入も、そして監視網の欺きも――全部、俺自身の意思だ」
声は低く震えるが、言葉の芯には揺るぎない決意が宿っていた。通路の壁に反響するその響きは、薄暗い空間に深く沈み込み、まるでここに流れる時間そのものを染め上げるかのようだった。
「だから……この先にある“真実”も、俺の目で見て、俺の手で動かす。それを阻もうとする者がいても関係ない――俺が決めるんだ」
冷気に包まれた地下通路で、雷真の吐息が白く浮かび、影を揺らした。彼の瞳には、まだ誰も知らない答えと計画の全貌が宿っている。それは、静寂の中で静かに、しかし確実に通路全体に存在感を刻んでいた。
場所: 倉庫区画・地下制御通路
時間: 午前2時38分
玲は端末の画面に映るアクセスログを指で追いながら、低く呟いた。
「……このルートは通常、アクセス権限レベル4以上を持つ者でも拒絶される領域だ。にもかかわらず、再使用された“ID:S-YK90”によって開錠が成立している。」
冷たい光に照らされた通路で、端末の画面が青白く光を放つ。玲の視線は画面の文字列を追いながら、事実の重みを静かに咀嚼していた。許可されていない者がこの通路を操作可能にした事実――それは、計画の裏側に潜む“影の存在”を示す、何よりも強い証拠だった。
場所: 倉庫区画・地下制御通路
時間: 午前2時38分
玲は壁面の緊急灯の赤い光に照らされながら、端末に映るログデータをゆっくりと閉じた。
足元に落ちる影が、彼の言葉に合わせて揺れる。
「だからこそ、この“本命の侵入者”は単独では動けない。」
低く、確信を帯びた声。
通路の奥へ伸びる暗がりは、その言葉の重みを飲み込むように静まり返っていた。
「背後に、強力なサポートがあって初めて実行できる。
そしてその支援は、外部の人間ではありえない……内部構造を熟知し、権限体系を正確に把握した者だ。」
玲は歩みを進めながら、指先でひび割れた壁を軽く叩く。
その音がわずかに反響し、閉ざされた地下空間に染み込んでいく。
「狙いは単なるデータ改ざんじゃない。
倉庫区画全体のセキュリティ“根幹”を、一度だけ──完全に無力化するための“鍵穴”を作ることだ。」
彼の目が、遠くの暗闇に潜む“もうひとつの影”を射抜く。
「その先にあるのは……展示品のすり替えなんて生ぬるい話じゃない。
もっと重大で、取り返しのつかない意味を持つ。」
玲の声は、冷え切った地下通路でより深く響いた。
「“本命の侵入者”は、ただ盗むために来たんじゃない。
ここを一度、完全に壊すために来たんだ。」
場所: 倉庫区画・地下制御通路
時間: 午前2時42分
玲は薄暗い通路の端に立ち、壁沿いに散らばる埃をかき分けるように視線を走らせた。
指先が微かに震えるのは、冷気か緊張か——いや、両方だろう。
「……問題は、この侵入者の本当の狙いが何なのか、だ。」
彼の声は低く、静かな地下空間にしっかりと染み込む。
目の前の端末に映るID履歴とログデータを重ね合わせ、頭の中で時系列を組み直す。
「そして、それが“井上悠介”の行動とどう繋がっているのか……」
玲は拳を軽く握りしめ、壁の冷たさを確かめるように指先を滑らせる。
胸の奥で、頭の中で、複雑に絡み合う情報の糸を、一つひとつ手繰り寄せる。
「ここまで計画された侵入……
単独犯じゃない。囮も、サポートも、そして本命の狙いも、すべてが緻密に設計されている。」
足元に落ちる影を見下ろし、玲は静かに息を整えた。
「井上は知らぬ間に、ある意味で“事件の鍵”を握らされている……いや、操られているのかもしれない」
薄暗い通路の奥、壁のひび割れの向こうに、玲の視線はまだ何かを追っていた。
場所: 地下制御室・倉庫区画C棟
時間: 午前2時55分
薄暗い地下制御室の中、無数のケーブルが床と天井を這い、端末の青白い灯りだけが冷たい空間を静かに彩っていた。
御子柴理央は、椅子に浅く腰をかけ、指先で慎重に操作を続ける。画面にはアクセス履歴やログデータが並び、微かなスクロール音だけが耳に届く。
「……ID:S-YK90の動きは、やはり不自然だ。午前2時38分に発生した一時アクセス……通常の管理者でもここまでの操作はできない」
彼は端末に表示されたデータを一行ずつ指でなぞるように確認し、声を潜めてつぶやいた。
「しかも、このログ上書きと遅延復元スケジュール……意図的に痕跡を消そうとしている。単純な誤操作じゃない、誰かが計算してやっている」
画面の微かな点滅に目を凝らし、理央はさらに解析を進める。
「……この操作のタイミングと、倉庫区画のアクセス記録を突き合わせれば、裏で動く“本命の侵入者”のルートも特定できるはずだ」
指先がキーボードを滑り、解析ソフトが静かにデータを吐き出す。
「やはり、これは単独犯の手によるものじゃない……誰かが“囮”を用意して、計画的に動かしている」
理央の視線は、青白い光に照らされたケーブルの隙間を抜けて、制御室の奥へと続く暗がりをじっと見据えていた。
場所: 地下制御室・倉庫区画C棟
時間: 午前2時55分
玲が、無造作に見えて鋭い動作で椅子を引き寄せ、理央の隣に立つ。
青白いモニターの光が、その表情を静かに照らした。
「これは偶発的な事故ではなく、完全に計画された“誘発”だ。」
低く落とした声は、地下の冷気よりも冷たかった。
理央は画面を指し示しながら応える。
「……やっぱり、そこに気づいたか。ログの消し方が雑に見えて、実際は“見つけさせるための誘導”になってる。犯人は最初から、俺たちがここに辿り着くことを計算してた」
玲は目を細め、ゆっくりと首を振った。
「そういう手口だ。証拠を完全に隠すのではなく、あえて“断片だけ”残す。追う側に時間を浪費させ、核心をすり替える……古いプロのやり方だ」
理央は唇を噛んだ。
「つまり、ここに残ってる情報は“本物”じゃない。犯人の意図通りに、俺たちは誘導されてる可能性が高い」
玲は淡々と続けた。
「本命は別の場所だ。ここはただの“誘爆点”……気づかなければそのまま罠に嵌る。だが、気づいたということは――」
玲はモニターから目を離し、暗がりの奥を見据えた。
「“侵入者”はまだ、このフロアのどこかにいる。」
場所: 地下制御室・倉庫区画C棟
時間: 午前3時02分
玲は端末の画面に顔を近づけ、冷たい光に照らされる目をさらに鋭く細めた。
指先でマウスを軽く叩きながら、低く呟く。
「“井上悠介”の行動は、表面的には無害に見えたが、その裏でこのアクセスが起点となって、全ての流れが動き始めていた。」
御子柴理央が隣で画面を覗き込み、眉を寄せる。
「……つまり、井上は“囮”であると同時に、無意識のうちに犯人のシナリオを動かすピースになっていた、ってことですか」
玲は静かに頷き、さらに冷たい視線を端末上のログに落とす。
「その通りだ。ただの偶然ではない。すべて計算されていた……だが、その“計算外”の要素もある。気づいた者がいることだ」
部屋の空気は静まり返り、端末のファン音だけが、冷ややかに響いていた。
場所: 警備本部・取調室
時間: 午後2時47分
冷たい蛍光灯の光が、白い壁に反射して部屋を明るく照らしていた。
中央に据えられた椅子に、真犯人は静かに腰掛け、両手を膝の上で組んでいる。
黒のスーツの上からでも、その体つきは無駄な緊張を感じさせず、まるですべてを計算しているかのようだ。
玲はゆっくりと椅子を回り、目をじっと真犯人に据えた。
「……ここまで、よく持ちこたえたな」
声は低く、冷たく、しかしどこか挑発的だった。
真犯人は微かに笑みを浮かべ、静かに答える。
「持ちこたえた、とは? まだ“ゲーム”は始まったばかりだ」
玲の指先がテーブルの端に触れ、軽く叩く。
「では教えてもらおう。すべての計画の“本当の狙い”を――誰を、何を、どう動かすつもりだったのか」
部屋には静寂だけが残り、蛍光灯の光が冷たく二人の影を床に落としていた。
場所: 警備本部・取調室
時間: 午後2時50分
彼は拳を軽く握り締め、指先の震えを抑えるようにして、低く続けた。
「俺が倉庫の扉を開錠したのは、現場の危険を止めるためだったんだ。無関係な人間を守るために……だが、結果的に計画された『すり替え計画』のきっかけを作ってしまった。」
玲は黙って聞き、顔の筋肉を微かに緊張させる。
「つまり、あなたの意図は善意だった。しかし、その行動が、他者に利用される可能性を生んだ……と?」
男は静かに息をつき、視線を床に落とす。
「そうだ……気づくのが遅すぎた。俺の判断が、すべてを連鎖させたんだ」
部屋の蛍光灯が冷たく二人の影を引き伸ばし、空気は沈んだまま張りつめていた。
場所: 警備本部・取調室
時間: 午後2時50分
彼は拳を軽く握り締め、指先の震えを抑えるようにして、低く続けた。
「俺が倉庫の扉を開錠したのは、現場の危険を止めるためだったんだ。無関係な人間を守るために……だが、結果的に計画された『すり替え計画』のきっかけを作ってしまった。」
玲は黙って聞き、顔の筋肉を微かに緊張させる。
「つまり、あなたの意図は善意だった。しかし、その行動が、他者に利用される可能性を生んだ……と?」
男は静かに息をつき、視線を床に落とす。
「そうだ……気づくのが遅すぎた。俺の判断が、すべてを連鎖させたんだ」
部屋の蛍光灯が冷たく二人の影を引き伸ばし、空気は沈んだまま張りつめていた。
場所: 廃墟化した倉庫前
時間: 午後3時12分
朽ちかけた錆びた金網越しに、瓦礫の山が広がっている。焦げた臭いが微かに漂い、乾いた風がその破片を揺らして、かすかな軋みを立てる。
瓦礫の合間には、崩れた鉄骨や砕けた木材が無秩序に重なり、まるで時間ごと凍りついたような空間を作っていた。
玲は金網に手をかけ、視線を細める。
「……ここが、爆心地点か。あの瞬間、何が起こったのか……。」
風に混じる灰の粒が、彼の肩にかすかに触れる。静寂の中、瓦礫の山はまるで過去の記憶を抱えたまま、息を潜めているかのようだった。
場所: 玲の執務室
時間: 午前8時27分
朝の柔らかな光が窓から差し込み、机の上に置かれた朝刊の見出しが目に入る。
「第七研究棟爆発事件、元責任者・井上悠介逮捕」——大きな文字が、静かにしかし冷徹に事実を伝えていた。
玲は新聞を手に取り、文字を一行ずつ追う。爆発現場の写真、関係者の証言、捜査の経緯……すべてが整然と並ぶ紙面に、事件の重さがじわりと迫ってくる。
窓の外では、早朝の風が街路樹を揺らし、街全体がまだ目覚めきっていない静けさの中で、玲はゆっくりと息をついた。
(……真実は、新聞の紙面の向こうにある。ここから、また動き出さねば)
場所: 玲の執務室
時間: 午前8時45分
御子柴理央が微笑みを浮かべ、窓の外の街をちらりと見やった。
「スペシャリストの連携がなければ、この事件は迷宮入りしていただろう。技術、心理、現場の感覚、すべてが組み合わさって初めて見えてくる真実がある」
玲は資料の山に視線を落とし、手元のノートを軽く指でなぞる。
(……それぞれの小さな証拠、見落とした違和感、偶然に見える符号――すべてが一つの線で繋がっていたんだ)
微かな静寂の中、二人の間に流れる空気には、事件解明の確信とこれからの戦略への緊張が混ざっていた。
場所: 玲探偵事務所
時間: 午前10時12分
梅雨の湿り気が街を包む午前、事務所の窓辺には紫陽花が揺れていた。
淹れたてのコーヒーの香りが静かに広がり、重なった書類の間をゆっくりと漂う。
玲はカップを手に取り、窓の外の雨粒を眺める。
(……事件の余韻はまだ残っている。だが、この静けさの中で、次に進むべき道を整理する時間だ)
机の上には解析済みの映像と報告書が整然と並び、空気は静かに張り詰めている。
場所: 玲探偵事務所
時間: 午前10時15分
玲は窓辺から顔を上げ、淡い光に照らされた紫陽花を横目に端末を操作しながら呟いた。
「天気予報は……曇りのち雨。午後には少し降るってさ。」
隣に座る奈々が眉をひそめる。
「雨か……屋外の目撃証言や行動確認、少し影響出ますね」
玲は軽く頷き、手元の書類を整理しながら続ける。
「確かに。でも雨なら雨で、動きが読める。逆に、午前中の曇りの間に済ませたい調査もある。予定通りに進めよう。」
端末に目を戻し、降雨の時間帯と屋外調査ルートを重ね合わせながら、玲の表情は静かに引き締まった。
場所: 玲探偵事務所
時間: 午後2時40分
玲は書類の束をゆっくりめくり、報告書を指でなぞりながら、静かに言った。
「罪状の重さからいって、しばらくは拘留される。ただ、行動の一部が“抑止”だったと証明されたことで、量刑は見直されるだろう。」
沙耶が端末から目を上げ、軽く息をついた。
「なるほど……それなら少しは救いがありますね」
玲は視線を窓の外に向け、街路樹の揺れをぼんやり眺めながら続ける。
「そうだな。ただ、形式的な裁きがどうであれ、事実として残るのは“彼が選んだ行動”だ。それを私たちは正確に記録して伝えるだけだ」
沙耶は頷き、控えめに紙を受け取った。
事務所の空気は、淡い午後の日差しと静けさに包まれ、緊張は解けつつも、事件の余韻を確かに残していた。
場所: 玲探偵事務所
時間: 午後2時55分
玲は手元の報告書を軽く揺らしながら、低く静かな声で言った。
「井上悠介は……すべてを語った。彼がシステムの再起動に関与していたのは事実。ただ、それが“誰かに命じられたもの”か、“自身の判断”だったかは、まだ判断が割れている」
沙耶が視線を窓の外から玲に戻し、少し間を置いて問いかける。
「でも、彼が裏で何かを止めようとしていたことは間違いないんですよね?」
玲は紙を軽く置き、顔を上げて答える。
「そうだ。被害を最小限に抑える意図は確かにあった。だからこそ、責任の重さと善意の行動が微妙に絡み合って、評価が分かれている」
部屋の中は静かで、雨の気配を含んだ午後の空気だけが、二人の会話の間を漂っていた。
場所: 佐々木家・ダイニング
時間: 午前7時32分
沙耶は温かいスープの湯気を立てながら、静かに匙を動かす。
窓の外からは細かい雨粒の音が、屋根を打つリズムとなって部屋に届く。
朱音はまだ半分眠ったような目をこすりながら、パンにバターを塗る手を止め、母の方を見た。
「雨……ずっと降ってるね」
沙耶は微笑みを返し、箸を置いて答える。
「そうね。でも、こんな朝はちょっと落ち着くでしょ。外は騒がしくても、ここだけは静かだから」
カチャリとカップが机に置かれる音。
窓の雨音と食器の触れ合いだけが、しばしの静寂を部屋に刻んでいた。
場所: 玲探偵事務所・会議室
時間: 午前10時45分
玲は書類を机に置き、ゆっくりと顔を上げた。
「仮の判断が出た。『限定的協力者』として、監視付きで社会復帰の可能性を探る、だそうだ」
奈々が端末を覗き込みながら、眉をひそめる。
「でも……条件付きですよね。完全な自由はない」
玲は頷き、窓の外の曇天を見やった。
「それでも、こういう扱いが最も安全で、かつ事件の情報を活かせる方法だ。無理に押さえつけるより、協力を引き出すほうが早道になる」
机の上で書類が微かに擦れる音だけが、静かな部屋に響いた。
場所: 玲探偵事務所・会議室
時間: 午前10時50分
玲は書類を軽く指先で押さえながら、低く静かな声で告げた。
「罰の形を変えたものだよ。彼は“命令”で動いた。ただ、それだけじゃない。
あの場で、井上を止めようとした。証拠も、証言もある」
奈々が画面をスクロールしながら眉をひそめる。
「……つまり、完全に被害者でも加害者でもない、ということですか?」
玲はゆっくり頷き、窓の向こうの淡い光を見つめた。
「その通りだ。状況は複雑だが、彼の行動があの場で“抑止”になったことは間違いない」
机の上の書類が微かに震え、静寂の中で時間だけがゆっくりと流れていた。
場所: 玲探偵事務所・会議室
時間: 午前11時12分
玲は資料を揃えながら、静かに声を落とした。
「雷真は今、“誰かのために動いた自分”を、自分自身で許せるかどうかを問われてる。
おまえがこれから会うなら、迷うかもしれない。でも、聞いてやってくれ。あのとき何を思ってたか」
奈々はモニターを見つめ、言葉を選ぶように頷いた。
「……わかりました。先入観なしで、事実だけを聞くようにします」
玲は淡く微笑み、窓の外の光を背景に、静かに目を閉じた。
「それだけで十分だ。真実は、時に感情よりも先に理解される」
部屋の空気は重く、しかし緊張に満ちた静寂が流れていた。
場所: 非公開観察拠点・監視室
時間: 2025年6月16日 20:14
非公開文書:成瀬由宇 観察記録(抜粋)
記録日:2025年6月16日 20:14
観察者:成瀬由宇(影班・対象接近/観察担当)
対象:佐々木朱音(観察コード:A-05)
20:14
対象は居室内の窓際で静止。視線は室内の散乱物に向けられ、微細な動作を繰り返す。手元のスケッチブックにペンを走らせる動作が断続的に観測される。身体の緊張は高く、呼吸は浅め。
筆記動作の間隔や視線の揺れから、意図的な“外部刺激への反応抑制”が確認できる。特定の音源や光源にはほとんど反応せず、内的集中状態が顕著。
対象は一時的に立ち上がり、机上の物品に手を触れるが、視線は常に一定方向に固定され、行動は外的干渉を受けていないことが確認される。
この時間帯における心理的負荷は低から中程度。外部の影響よりも内的作業の優先度が高い様子。
記録備考:対象は過去数週間の観察傾向と比較し、通常通りの集中状態を維持しており、逸脱行動や外部干渉の痕跡はなし。
所見:
佐々木朱音は、過去の事件現場における一部始終を“記憶”している可能性が高い。ただし、その記憶は明確な言語化や意識的理解としてではなく、無意識下での直感や感覚として表出していると判断される。
観察対象の動作や視線の揺れ、筆記中の手の運びにおいて、過去経験と関連する反応の痕跡が確認される。特定の刺激に対して瞬間的に注視する行動や、描写の精密さは、彼女の内部記憶が情報処理の基盤として働いていることを示唆する。
総合的に見て、朱音の行動パターンは「無意識的な証人」としての特性を持つ可能性があり、外部情報や補助的解析なしでも、過去の出来事の断片を反射的に再現できる能力があると評価される。
“白い扉”は、事件の核心概念である「境界」「記憶の封印」「出入りの制御」を象徴していると推測される。朱音が描いた“3つの黒い影”は、明確に影班(成瀬由宇・桐野詩乃・安斎柾貴)を示唆している。
注目すべきは、朱音がこれらの影に対して恐怖を示していない点である。むしろ、彼女の認識では「こちら側を守ってくれている存在」として受け止められており、心理的な抵抗や不安はほとんど観察されない。
無意識的反応として、影班の存在に関連する刺激に対して瞬間的に安心感や注意の集中が見られ、外的脅威としてではなく、保護的存在として認識していることが確認される。
佐々木朱音は、事件の全貌を「覚えていないように見えて、無意識のうちに観察していた」可能性が高い。年齢や精神構造上、記憶の層に直接アクセスできないため、彼女の内部では映像や感覚として断片的に保持されていると考えられる。
朱音が描いた“黒い影”は、彼女にとって「守護者」「鍵の番人」というイメージに変換されており、外的脅威ではなく安心感や保護の象徴となっている。
これは我々影班にとって最大の“証明”である。すなわち、我々が彼女に与えた存在は恐怖ではなく安心として届き、護衛任務の本質が確かに作用していたことを示している。
備考:
本記録は、対象者への心理的影響を考慮し、非公開かつ第三層暗号にて保管される。
必要時に限り、玲およびK部門審査官に共有可能とする。
次回観察予定は、2025年6月18日 午前10時。
──記録者署名:成瀬由宇
場所: 留置施設・個室
時間: 2025年6月17日 09:50
雷真はベッドに腰掛け、手首の拘束具をぎゅっと握りしめた。狭い室内に、自分の呼吸音だけが響く。
「……外の世界は、こんなに静かだったのか」
かすれた声で呟く雷真。目は壁の一点を見つめ、表情には焦燥と諦めが混じる。
玲はベッドの前に立ち、冷静に観察しながら低く声をかけた。
「静かだからといって、ここで時間を無駄にする必要はない。話してくれ、雷真。君が何を考え、何を守ろうとしていたのか――全部。」
雷真は視線をわずかに上げ、玲をまっすぐに見返す。
「守ろうとしていたのは……自分じゃない。誰かのために、だ。だが、それが正しい選択だったのか、今も答えは出ない……」
その声には、自分の行動の重みと、後悔がしっかりと刻まれていた。
場所: 留置施設・個室
時間: 2025年6月17日 10:05
雷真はベッドの縁に座り、無言でテレビを見つめる。画面の向こうで、ニュースキャスターが事件の顛末を淡々と読み上げていた。
「……誰も、俺のことを止められなかったんだな」
小さく呟く声には、諦めと孤独が滲む。手首の拘束具が冷たく光り、腕に重くのしかかる。
玲はベッドの前に立ち、声を落として問いかける。
「雷真。君が見たもの、感じたもの――すべてを教えてくれ。君だけが知っている真実を。」
雷真は少しだけ息をつき、深く視線を落としたまま、言葉を選ぶように口を開く。
「……誰かの命令で動いたわけじゃない。すべて、自分の意思で選んだ道だ……」
室内の静寂が、彼の言葉をやわらかく包み込む。
場所: 佐々木家・書斎
時間: 2025年6月17日 15:42
薄汚れた小さな紙が机の上に置かれていた。
その上には、子どもの字で描かれた「灯台」と「白い扉」の絵。線は不揃いで、力強さよりも淡い印象を残している。
玲はそっと紙を手に取り、目を細める。
「……これが、朱音の視線が捉えた世界か」
指先で絵の輪郭をなぞると、無意識に描かれた線の奥に、過去の記憶の残滓を感じ取ることができた。
「灯台……光の道標。そして白い扉……境界。やはり、彼女は“見ている”」
その言葉は、静かな書斎の空気に、そっと溶けていった。
場所:留置施設・個室
時間:2025年6月17日 21:45
雷真はベッドに腰を下ろし、手元のノートに静かにペンを走らせた。
文字はゆっくり、だが迷いなく刻まれる。
「――俺は、すべてを計算して動いたつもりだった。だが、予想もしなかった感情と予期せぬ事態に、何度も迷った。
人を守るつもりで起こした行動が、結果として誰かを巻き込むことになる。
それを理解していながら、止められなかった自分の弱さを、今も許せない。
それでも、ひとつだけ確かに言える。俺はあの時、選んだ。
命令に従っただけじゃない、自分の意思で、守るべき誰かのために、動いたんだと。
この文章は、未来の誰かが読むかもしれない。
だが読んでほしいのは、俺の罪や過ちではなく、意志の記録だ。
――俺は、自分で考え、決め、行動した。
それがどれほど愚かで、危うくても、俺の責任だ。」
雷真はペンを置き、ノートの最後のページをそっと閉じた。
窓のない部屋の中、唯一の音は自分の呼吸と、遠くで聞こえる雨音だけだった。




