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51話 『声を拾う者』

佐々木家

•佐々木圭介

朱音の父。過去の事件の真相を追い求める冷静な男性。

•佐々木朱音

圭介の娘。無邪気だが鋭い直感を持ち、絵で事件のヒントを示すことがある。

•沙耶

朱音の母。家族の感情的支柱。直感力と人間観察力に優れる。

•佐々木昌代

沙耶の母、朱音の祖母。温かさと強さを兼ね備え、家族の過去に関わる重要人物。

•佐々木澄子

沙耶の祖母、圭介の義祖母。家族史の重要な鍵を握る人物。



探偵・調査チーム

•玲

探偵・記録分析担当。冷静沈着で事件の真相を解明するスーパースペシャリスト。

•橘奈々

玲の彼女で助手。情報処理・ハッキングに長ける。

•成瀬由宇

影班メンバー。標的監視・接近のスペシャリスト。

•桐野詩乃

影班メンバー。証拠痕跡の処理や隠蔽対策のスペシャリスト。

•安斎柾貴

影班メンバー。精神制圧・記録改ざん阻止を担当。

•御子柴理央

記憶・音声解析担当。データ復元・音声照合のスペシャリスト。男性で、中性的な印象。

•水無瀬透

記録探査官。封印された記録や物理的証拠の精査が得意。

•透子

事件関係者。オルゴールやカプセル内の記録を扱い、重要証言を受け取る人物。



元K部門関係者

•川崎真人

元K部門記録補佐官。ID抹消済み。事件の核心に関わる証言を残す。

•戸上雅弘

元K部門記録管理統括。事件時に改ざん命令を受けるも一部記録を密かに保存。懲戒処分対象。



被害者・その他

•涼花

事故として処理された被害者。自らの意思で真実を残した。

•上泉俊郎

最初の被害者。高齢男性。事件の発端となる殺害対象。


冒頭


時間:2026年6月3日 午前8:12

場所:郊外・玲探偵事務所・窓際の執務スペース



朝の静けさは、珈琲の香りとキーボードの微かな打鍵音によって満たされていた。窓際の観葉植物が柔らかな光に揺れ、埃の粒子さえもゆっくりと舞っている。玲は書類に目を落とし、指先でコーヒーカップの縁を軽く撫でた。


そのとき、奈々がドアを少し乱暴に開け、息を弾ませながら駆け込んできた。


「玲、これ……届いたんです。事務所宛てに。変な手紙で……差出人不明、記名なし。しかも、時間指定付きです」


奈々が差し出したのは、無地の茶封筒だった。封筒は手触りが厚く、封がしっかりと閉ざされていて、中に何かが入っているのは明らかだった。宛名は「玲探偵事務所」とだけ書かれ、差出人の記名は一切なく、切手や消印も存在しなかった。


玲は封筒を受け取り、指先で表面の文字をなぞった。


「……6月3日 午後10時までに開封せよ、か」


奈々の声には、不安と緊張が入り混じっていた。玲は封筒を軽く握りしめ、静かに頷く。


「分かった。待とう。差出人が何者か……そして、封筒の中身が何かも、今日の午後に明らかになる」


2025年6月3日 午前9時43分

玲探偵事務所・第二応接室(旧資料室)


古い木製の時計台がひとつ、壁際に置かれている。

だが、その存在感を塗りつぶすように——玲の腕時計の秒針だけが、室内に鋭く響いていた。


コチ、コチ、コチ。


薄い光がブラインドの隙間から差し込み、机の上の茶封筒に落ちている。

その封筒を前にして、重苦しい沈黙が続いていた。


奈々は耐えきれず、椅子の背に手をかけたまま口を開く。


「……玲。

 ねえ、ほんとに、まだ開けないの?」


玲は封筒から視線を外さず、わずかに息を吸った。


「開けないね」


淡々とした声。だが、その背後に何かを計測するような緊張が透けていた。


奈々は眉を寄せ、さらに問い詰める。


「理由を聞いても?」


玲は腕時計を一度見下ろし、針の位置を確認してから言った。


「差出人は“時間指定”をしてきた。

 こういう手紙を送る人間は、たいてい——私たちの反応を試す」


「反応……?」


「焦りか、警戒か、あるいは行動の癖。

 どんな形であれ、指定を無視して開けた瞬間、私たちは“相手の思惑どおりに動く駒”になる」


奈々は思わず息を吸い込んだ。


陽光は穏やかだというのに、室内には冷気が漂っている気がした。


玲は封筒に指先を添え、その微妙な厚みを確かめるように軽く押す。


封は丁寧で、破られた形跡も角の折れもない。

裏面にはただ一言、黒いインクで書かれている。


——6月3日 午後10時までに開封せよ。


奈々はその文字を見て背筋を震わせる。


玲は椅子に深く腰を下ろし、視線は封筒から離れないまま呟いた。


「午後10時まで……あと十二時間以上。

 なのに、この封筒は“待て”と言っている。

 ——いや、“見ている”と言ったほうが正しいか」


その言葉に、奈々の声が揺れた。


「……見てる? どこから?」


玲はほんの一瞬だけ視線を宙に泳がせ、天井を見上げた。


「監視カメラじゃなくてもいい。

 建物の外かもしれないし、近所の誰かかもしれない。

 あるいは、ここへ届けた瞬間から、ずっと様子を伺っている可能性もある」


奈々は手を握りしめる。


「そんな……じゃあ、どうすれば?」


玲は静かに腕時計を閉じるように袖を下ろし、淡い声で答える。


「簡単だよ。

 “相手の意図に乗らないこと”。

 私は午後10時になるまで、この封筒には触らない」


奈々はぐっと唇を噛んだ。


沈黙が戻る。

秒針がまたひとつ進む。


コチ。


その音が、妙に遠く感じられた。


玲はふと、奈々のほうへ目を向ける。


「奈々。

 これは“ただの手紙”じゃない。

 これは——招待状だ」


「……招待状?」


「私たちが、どうしても辿り着かなければならない“場所”へ。

 そして拒んでも、巻き込まれる類のものだ」


奈々の喉が、わずかに震えた。


封筒は光を受け、紙の縁を黄金色に縁取る。

だがその静けさそのものが、不気味な重みを帯びていた。


玲は淡い声で結ぶ。


「午後10時。

 封を切るその瞬間から——本当の時間が動き始める」


再び秒針が進む。


コチ。


コチ。


まるで、見えない誰かが呼吸を潜めながら、それを待っているかのように。


2025年6月3日 午前10時06分

玲探偵事務所・第二応接室


「動くな、見ている」

たったそれだけの短い文が、室内の温度をひとつ下げた。


玲が紙片を机に置くと、奈々は迷いなくその横に座った。

足を組み、玲の腕を軽く掴む。

“他意を隠さない触れ方”——恋人にしかできない距離。


「玲……これ、ただの脅しなんかじゃないよ。

 私たちの生活パターンも、事務所の癖も……全部わかってる奴の手紙だよ」


玲は奈々の指を包み込みながら、落ち着いた声で言った。


「わかってる。

 だからこそ……焦る必要はない」


奈々の目線が鋭くなる。


「焦れって言ってるんじゃない。

 ……玲が“危ない橋”渡ろうとしてるのが嫌なの」


その言葉は、ふだん誰にも向けない“素の奈々”だった。


沙耶はふたりを見て、そっと朱音を連れて部屋の隅に移動する。

空気が二人だけのものになるのを邪魔しないように。


玲は椅子にもたれ、静かに答えた。


「奈々。

 この手紙を送ったのは、おそらく三つのうちどれかだ。

 ……偽装事故の関係者、倉庫事件の生き残り、

 あるいは——“影班”に近い人物」


奈々は舌打ちし、立ち上がった。


「影班絡みなら……成瀬たちが黙ってないはず。

 私たちの前に出てくる前に、まず向こうに伝わるよ」


玲は紙片を見つめたまま小さく頷く。


「だからこそ……この文面は不自然なんだよ」


奈々の眉が動く。


「不自然って?」


「“素人っぽい脅し”を装いながら……

 行動パターンだけはプロが把握している。

 矛盾してる。それが引っかかるんだ」


奈々は肩を落とし、玲の隣に戻ってきた。

声は少しだけ柔らかくなる。


「……玲。

 言って。私は何をすればいい?」


玲は迷わず答えた。


「午前のうちに、事務所の周囲をスキャンし直して。

 さっき除去した盗聴器、あれは“餌”だったかもしれない。

 本命は……別にある」


奈々は真剣な目で頷く。


「うん……わかった。

 玲が言うなら、全部洗う」


その“恋人としての信頼”に、玲はわずかに微笑んだ。


玲探偵事務所ビル裏路地 午前10時12分


成瀬由宇は、二階の窓を見上げたままイヤホンに触れた。

視線は一切揺れず、まるで窓の向こう——奈々と玲の気配そのものを“読む”かのような静けさ。


裏路地は人通りが少ない。上階に続く非常階段の影がアスファルトに長く伸び、

昨夜の雨でまだ濡れた地面が、成瀬の黒いブーツのつま先に淡い光を返す。

遠くで配送車のエンジン音がくぐもって響き、鳥が短くさえずった。


イヤホンの向こうから、低い声が届く。


『状況、どう?』


桐野詩乃。

風の流れさえ乱さない無機質な声。


成瀬は片手をポケットに突っ込み、少しだけ顎を上げた。


「奈々が動いた。玲の指示で、内部をスキャン中。

 手紙の内容……二人とも軽くは見てない」


『……あの文面、素人臭すぎるのよね』


非常階段の影が風で揺れ、詩乃の声も揺らいだように聞こえる。


成瀬は視線を窓から外さずに答えた。


「素人が書いた“ように見せてる”。

 けど、事務所の生活動線を把握してるのは……プロだ」


その横、数歩離れた場所で、自販機の脇に寄りかかっていた安斎柾貴が、缶コーヒーを一口飲んだ。

淡い蒸気が彼の唇から静かに上がる。


「つまり、

 “プロの観察力” × “素人の筆跡”…

 誰かが意図的に混ぜてるってことか?」


成瀬は短く頷く。


「玲に“油断”と“警戒過多”を同時に起こさせたいんだろうな。

 ……やり口としては三流だけど、狙いは悪くない」


『奈々のほうは? 動揺は?』


「揺れてるよ。

 でも、“玲を守る側”として動いてる。

 感情に偏ってない。問題なし」


安斎が缶コーヒーを指で軽く叩きながら、わざとらしく言う。


「恋人が揺れてもブレない玲ってやつだな。

 ……ほんと、あの二人は鉄でできてんのか?」


成瀬の口元がわずかに動いた。

笑ったのか、鼻で息を吐いただけなのか判別できない程度の、ほんの微かな変化。


「鉄じゃないよ。

 “信用してる”だけだ」


安斎:「信用、ね。……簡単に言うな」


成瀬:「簡単じゃないから続いてるんだよ」


空気が静まった。

詩乃がイヤホン越しに低く言う。


『……で、功矢。

 成瀬はどう見てる? あの手紙の主』


成瀬は一拍置いた。

まるで言葉の奥にある“温度”を整えるみたいに。


そして、窓から視線を外さずに答えた。


「玲の“過去”だ」


安斎が眉をひそめる。


「過去って……事件か? 人間関係か?」


成瀬は即答しなかった。

その沈黙自体が、答えの重みを示しているかのようだった。


詩乃が静かに囁く。


『どちらにせよ、この脅しは“玲個人”に向けたもの。

 玲探偵事務所でも、奈々でも、まして朱音でもない』


安斎が口元を拭い、低く吐き捨てる。


「……だったら、なおさら俺たちの出番だな。

 影班は“玲個人の危険”に対しては、黙ってられない」


成瀬は初めて窓から視線を外し、二人のほうを向いた。

その灰色の瞳は、冷静で、そしてほんの少しだけ怒っていた。


「——動くぞ。

 “見ている”って言ったなら、

 その“視線”はこの近くにいる」


詩乃:『捕まえる?』


安斎:「潰す?」


成瀬はイヤホンに触れ、淡々と言った。


「捕らえる。

 玲の望まない形では終わらせない」


その瞬間、裏路地を通り抜ける風が強く吹き、

三人の影が長く揺れた。


影班が——動き始めた。


玲探偵事務所内

午前10時18分


奈々は工具箱を片手に、部屋の隅から隅まで丁寧に確認していた。

机の裏、観葉植物の土の中、配線の束、換気口──その動きは素早く、しかし無駄がない。


玲は少し離れた壁にもたれ、腕を組んで彼女の動きを追う。


「……奈々、そんなに慌ててると怪我するぞ」


「してないって」

奈々は軽く笑いながら振り返り、工具箱を閉じた。

だがその瞳は、緊張を隠しきれていない。


「盗聴器、仕掛けられてるかもって思ったんだけど……変な反応は無し。視線だけ?」


「“見てる”って書くくらいだ。視覚的な監視だろうな」

玲は窓の外をちらりと見る。

そこには、陽光にゆらめく街路樹だけが見えるはずだった。


奈々は眉を寄せる。

「玲……さっきから誰かの気配、しない?」


玲はすぐに息を止め、室内の空気の流れを読む。

背中の皮膚がわずかに粟立つ。


「……感じた。今、窓の向こう。ほんの一瞬だけだが」


奈々はすっと玲のそばへ寄る。

二人の視線が、まったく同じ一点へ向いた。


「動いたよね」

「動いたな」


わずかな気配。それは、プロの動きだった。


玲探偵事務所ビル裏路地

午前10時18分


成瀬由宇は、二階の窓の“僅かな揺れ”にすぐ反応した。

灰色の瞳が細まる。


(気づかれたか)


イヤホンを軽くタップする。


「詩乃、柾貴。ターゲットがこっちを意識した」


【桐野詩乃】

「了解。屋上から死角を移動。カメラ持ちの一般人、三名。尾行者とは無関係」


【安斎柾貴】

「裏通り、ノイズ混入。誰かが電波を切り替えてるな。監視系のプロかもしれん」


成瀬は路地の影に身を隠したまま、視線だけを窓へ戻す。

二階のガラス越しに、少し動く影が二つ──玲と奈々だ。


(……あの二人が同時に気づいた。なら、相手も相当だな)


彼の耳に、僅かな“違和感”の音が入った。

靴がアスファルトを踏む、ほんの軽い接触音。


成瀬は息を殺し、反対方向の影を探る。


(いる……視線の主が)


場所:玲探偵事務所

時間:午前10時19分


玲は窓際へ歩きながら、小声で奈々に言う。


「奈々……成瀬たちが追ってる。外に誰かいる」


「やっぱりね……」

奈々は呼吸を短く整え、スマホの画面を操作する。

指先が震えているのを、玲は横目でそっと気づく。


「怖いか?」


「……玲がいれば怖くない」


その言葉に、玲は一瞬だけ目を伏せる。

だがすぐに表情を引き締めた。


「行くぞ。気配の主を確認する」


「うん」


二人はほぼ同時に、窓の外へ意識を集中させた。


その瞬間──

事務所の外の“影”が、音もなく動いた。


場所:玲探偵事務所

時間:午前9時55分


壁の時計が午前9時55分を指した。

秒針が空気の中に細いリズムを刻む。


奈々は窓際に立ち、外の路地をじっと見つめた。

手の中の工具箱が、かすかに震える。


「玲……さっきの視線、まだ消えてない。動いたけど、完全に切れてない」


玲はデスクに置いた封筒を指で押さえ、わずかに目を細めた。


「相手は見せる気がないわけじゃない。俺たちに意図的に気配を感じさせてる。挑発だ」


奈々が眉を寄せる。


「本気で遊んでるってわけ?こういうの、大嫌いなんだけど」


「俺もだ。だが、相手はかなり訓練されてる。気配の切り方が素人じゃない」


奈々は深く息を吸い、視線を玲に戻した。


「……玲。今日だけは、絶対に一人で動かないで。こういうタイプ、危ない」


玲は穏やかな声で返す。


「大丈夫だ。奈々がそばにいる」


彼女の頬がわずかに赤くなる。


「……言い方がずるい」


時間: 2025年6月3日 午前9時56分

場所: 玲探偵事務所ビル裏路地


裏路地に冷たい空気が流れていた。朝の光はまだ弱く、ビルの壁に細い影を落としている。成瀬由宇は体を壁にぴったりと寄せ、非常階段の影に視線を固定した。イヤホン越しに仲間の動きを確認しつつ、慎重に呼吸を整える。路地を通り抜けるわずかな風に耳を澄まし、物音一つも見逃さないように神経を研ぎ澄ます。


「……動きがある。奴がまだ、視線を逸らさずこっちを監視している」

彼の低い声が無線越しに漏れ、冷たい緊張感が路地全体に広がった。足元の小石が微かに転がる音にすら反応し、手元の無線機を握る指先にわずかな汗が滲む。


向かいの建物の屋根から、もう一人の影班がじっと動かず、視線を研ぎ澄ませている。時間は刻々と迫る。玲探偵事務所内では、奈々が工具箱を床に置き、壁際を調べながら不安げに声を漏らした。


「玲、なんか……気配がある。見てる奴がいる」

玲は淡々と頷き、窓の外に目を向ける。直感が告げる。影班と視線の主の対峙は、これから本格的な駆け引きの幕を開けるのだ。


裏路地の空気はひんやりとして重く、秒針の音よりも静かな緊張が二人を包んでいた。




時間: 2025年6月3日 午前9時57分

場所: 玲探偵事務所ビル裏路地・通路


黒いフードを深く被った人物が、細い通路に滑り込むように現れた。身体は小刻みに揺れ、周囲の様子を慎重に確認している。薄暗い通路に、足音はほとんど響かず、わずかに靴底がコンクリートに擦れる音が一度だけかすかに鳴った。


成瀬由宇は壁際で息を潜め、無線越しに静かに仲間へ伝える。

「……動き確認。奴、目線がこっちだ」


対峙する緊張感が路地全体に張り詰め、わずかな風の揺れや小石の転がる音にも神経が研ぎ澄まされる。背後のレンガ壁に、フードの人物の影が長く伸び、まるで生き物のように揺れた。


奈々は事務所内の窓際で、同時にその気配を察し、玲に囁く。

「玲……今、誰か見てる。外、絶対いる」


玲は窓の外をじっと見つめ、手元の双眼鏡に目をやる。視線の先には、冷たい黒い影が確かに存在している。午前9時57分、裏路地の緊張は、ゆっくりと、しかし確実に臨界点に近づいていた。


時間: 2025年6月3日 午前9時58分

場所: 玲探偵事務所ビル裏路地・角


成瀬由宇が慎重に角を曲がろうとしたその瞬間、背後から詩乃の声が低く、しかし鋭く響いた。

「止まれ……奴、動いてる」


角の先に潜む黒いフードの人物の視線が、一瞬こちらに向く。影班の緊張は、風の揺れや路地の微かな物音にも反応するほど高まっていた。


成瀬は壁にぴたりと体を寄せ、呼吸を整えながら無線で仲間に伝える。

「接近確認。奴、今こちらを意識した。動き出すかもしれない」


詩乃は腕を伸ばし、静かにダンパーの位置を調整する。黒い影は通路の薄暗さに溶け込み、存在そのものが路地に張り付いた緊張を増幅させていた。


奈々は事務所内で双眼鏡を握り、玲に小声で報告する。

「玲……奴、角を曲がるかもしれない。準備して」


午前9時58分、裏路地に静かな戦慄が張り詰め、影班と視線の主の心理戦は一気に最高潮へと突入した。


時間: 2025年6月3日 午前9時59分

場所: 玲探偵事務所・室内


奈々の表情が急に引き締まった。目の奥に鋭い光が宿り、彼女の指先が自然と端末の操作パネルへ伸びる。

「玲……奴、今、窓の外を通り過ぎた……確実に見てる」


玲は目を細め、静かに頷いた。

「わかってる……こっちも動く」


同時に、事務所の外では影班のメンバーが微動だにせず待機していた。成瀬由宇は壁際に体をぴったり寄せ、フードの黒い影を凝視する。詩乃は呼吸を整えながら、手元のダンパーのスイッチに指をかけていた。


「ここで焦ったら負けだ」玲は小声で呟く。奈々もそれに応えるように息を整え、視線は一点に集中していた。


午前9時59分。室内と裏路地の両方に、張り詰めた緊張と、互いの動きを探り合う空気が漂う。


時間: 2025年6月3日 午前10時00分

場所: 玲探偵事務所・室内/裏路地


「……今だ」


玲の低い声が部屋の空気を震わせた。奈々はすぐに反応し、端末を握って影班と連携を取りながら裏路地の情報を確認する。窓の外では、黒いフードを被った人物が通路の先で立ち止まり、周囲を慎重に見回す。靴底がコンクリートを一度だけ擦る音が、ひんやりとした朝の空気の中で微かに響いた。


成瀬由宇は壁に体を押し付け、息を殺して構える。イヤホン越しに、詩乃の声が届く。「位置確認。距離10メートル、行動予測、左方向」


詩乃はダンパーを握り、光学照準を黒い影に向ける。手元のわずかな振動が、緊張感を指先に伝える。


玲は机に肘をつき、奈々を静かに見守る。口元で小さく呟く。「動くのは、君のタイミングだ」

その声は奈々にとって合図であり、冷静さを保つ支えでもあった。


黒い影は一瞬足を止め、左右を確認する。街灯の薄光に影が揺れ、通路の先に張り詰めた緊張が漂う。


午前10時、影班と黒い影の駆け引きは、今まさに臨界点を迎えようとしていた。


時間: 2025年6月3日 午前10時02分

場所: 玲探偵事務所・室内


奈々は眉を寄せ、端末を握ったまま窓の外を睨む。玲の視線もまた、外の黒い影に釘付けだった。


「じゃあ……あいつ、本気で“ここ”を狙ってる」


奈々の声は低く、しかし震えを含んでいた。玲は机に片手をつき、静かに頷く。言葉はないが、彼の目には確かな覚悟が宿っている。


裏路地では、成瀬由宇と詩乃が影を追う。フードの人物は再び動き出し、影班の観測機器に微かな動きが映る。息を殺した空気が、事務所の中まで伝わってくる。


「この距離なら、まだ手は出せる……でも、一歩間違えば全てが終わる」


玲は小さく呟き、奈々に視線を送る。二人の間に言葉は少ないが、緊張感と信頼だけが確かに流れていた。


午後の光が差す前、事務所の中で時間だけがゆっくりと刻まれていく。


時間: 2025年6月3日 午前10時

場所: 玲探偵事務所・室内


時計の針が午前10時を指すと、静まり返った事務所に外の路地からかすかな足音が届いた。


奈々は素早く窓際に寄り、外の気配を探る。玲もすぐそばに立ち、息をひそめながら音の方向を見定める。


「……動いてる」


奈々の声は低く、だが鋭く響いた。玲は軽く頷き、端末に手を伸ばす。裏路地で影班が動き出したのを確認しながら、二人の呼吸は徐々に同期していく。


外のフード姿の人物は壁際に身を潜め、影を滑らせるように進む。微かな風で揺れるゴミ袋の音さえ、事務所内の二人には明確に聞こえた。


「……これは、本気だな」


玲は呟き、奈々はぎゅっと拳を握る。目に見えない緊張が、部屋の空気を重く染めていた。


時間: 2025年6月3日 午前10時01分

場所: 玲探偵事務所・裏路地側


――「最初の扉が開く」。


その瞬間、事務所の外の鉄製シャッターがわずかに軋む音が響いた。成瀬由宇は体を低くし、静かに視線を路地の角に固定する。薄暗い影の中で、フードをかぶった人物の動きが、かすかに揺れた。


奈々は端末を握り、呼吸を整えながら呟く。

「……絶対に逃がさない」


玲は小さく頷き、窓越しに外を見据える。事務所の中の静寂が、まるで張り詰めた糸のように、二人の緊張を増幅させる。


外の影は一瞬立ち止まり、路地を見渡す。微かな金属音が反響し、事務所の中で奈々の指先が端末を震わせた。影班もまた、無言のまま位置を調整し、動きを封じる準備を整えていた。


玲の視線はぶれない。

「……これで、すべてが始まる」


緊迫した空気の中、最初の攻防が静かに幕を開けた。


時間: 2025年6月3日 午前10時05分

場所: 都内郊外・旧木造工房前


玲は工房の正面に立ち、静かな呼吸で周囲の空気を感じ取った。赤く光る警戒テープが風に揺れ、木造の引き戸は微かに軋む。曇った硝子越しに、暗がりの奥がぼんやりと見え、室内に潜む気配を予感させた。


奈々が横に立ち、端末の画面をちらりと確認する。

「……中にいるの、絶対わかってるな」


玲は頷くことなく、引き戸の周囲を丁寧に観察する。木の床の微かなひずみ、埃のたまり方、壁際の影……どれも、誰かが最近動いた形跡を示していた。


遠くの路地からは、かすかに靴底の擦れる音が響く。影班の視線が、外の動きと工房内の気配を同時に追っていた。玲は息を整え、低く呟く。

「……ここから、全てが動く」


静寂に包まれた工房前に、緊張が一層濃く立ち込める。


時間: 2025年6月3日 午前10時05分

場所: 都内郊外・旧木造工房前


玲は工房の正面に立ち、静かな呼吸で周囲の空気を感じ取った。赤く光る警戒テープが風に揺れ、木造の引き戸は微かに軋む。曇った硝子越しに、暗がりの奥がぼんやりと見え、室内に潜む気配を予感させた。


奈々が横に立ち、端末の画面をちらりと確認する。

「……中にいるの、絶対わかってるな」


玲は頷くことなく、引き戸の周囲を丁寧に観察する。木の床の微かなひずみ、埃のたまり方、壁際の影……どれも、誰かが最近動いた形跡を示していた。


遠くの路地からは、かすかに靴底の擦れる音が響く。影班の視線が、外の動きと工房内の気配を同時に追っていた。玲は息を整え、低く呟く。

「……ここから、全てが動く」


静寂に包まれた工房前に、緊張が一層濃く立ち込める。


時間: 2025年11月18日 午前11時20分

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・リビング


玲は資料を手に、淡々と呟いた。

「被害者の上泉俊郎か……72歳か、かなりの高齢だな」


奈々が隣で眉をひそめる。

「でも、老人ってだけで油断はできないよね。自宅でこんな事件が起きるなんて……」


玲は邸内を見渡す。重厚な家具はほぼ元の位置にあり、乱れた跡はない。窓は施錠され、玄関も内側からロックされている。鍵の操作記録も被害推定時刻以前で止まっており、外部からの侵入は物理的に不可能だ。

「整いすぎている……まるで、誰かが“完全な密室”に仕立てたみたいだ」


奈々がノートにメモを取りながら、低く息をついた。

「やっぱり、計画的……ね」


玲は視線をベッドの上に落とす。そこに横たわる上泉の姿が、静かに事件の核心を語りかけていた。


時間: 2025年11月18日 午前11時32分

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・リビング


玲は慎重に言葉を選びながら報告書の内容を声に出した。

「現場には争った形跡はほとんどなく、凶器も見つかっていません。ただ、遺体の状況からは鈍器による強い一撃が頭部にあった可能性が高い。死因は即死と思われます」


奈々が眉を寄せ、テーブルに置かれた資料を指でなぞる。

「じゃあ、外部から侵入したわけじゃなくて……?」


玲は一拍置いてから答えた。

「そう。鍵も窓も内側から施錠されている。外部からの侵入はほぼ不可能だ。つまり、犯人は最初からこの場に“潜んでいた”可能性が高い」


奈々は目を丸くし、息を飲む。

「潜んで……この家の中で?」


玲は頷き、静かにリビングの隅々まで視線を巡らせた。

「全てが整いすぎている。被害者を殺すための“完璧な舞台”が用意されていた……そう考えざるを得ない」


時間: 2025年11月18日 午後0時05分

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・工房


玲は腕を組み、工房の内部へ視線を向けた。薄暗い照明の下、工具や木材が無造作に積まれ、机の上には設計図や未完成の試作品が散らばっている。空気は静まり返り、わずかに木の匂いが漂う。


「……この工房、ただの趣味空間じゃない。何か計画的な痕跡が残されている」


奈々は隣で息を殺し、机の角に置かれた小さな金属片に目を留める。

「玲……これ、何かの部品かな? でも用途が分からない……」


玲は眉間に皺を寄せ、微かな光に反射する金属を見つめたまま低く呟いた。

「些細なものでも、全体の構図を理解する手掛かりになる。ここから、犯人の行動パターンを読み解く必要がある」


奈々は頷き、そっと金属片を手に取り、注意深く観察した。外の風が窓の隙間から入り、工房の埃をかすかに揺らしている。二人の呼吸だけが、静かな空間に響いた。


時間: 2025年11月18日 午前8時42分

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・工房


成瀬由宇は慎重に周囲を警戒しながら、引き戸の奥へと足を進めた。壁には割れた陶器の破片が散乱し、棚には使いかけの陶芸用具が無造作に置かれている。朝の柔らかな光が窓から差し込み、舞い上がった埃が空中に浮かんでいた。


「……静かすぎるな」


低く呟き、成瀬は一度足を止めた。微かな軋み音、風で揺れる薄いカーテン、遠くから聞こえる街の生活音――それらをひとつずつ頭に刻み込みながら、さらに奥へ進む。


棚の隙間に落ちた小さな金属片を目で追い、指先でそっと触れる。冷たく、硬質な感触が手に伝わる。成瀬は眉をひそめ、慎重にその先を見据えた。工房の空気は不穏な静けさに満ち、息を潜めるように進む彼の影が、床に長く伸びていた。


時間: 2025年11月18日 午前8時45分

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・工房


成瀬由宇は、わずかに軋む扉の近くに視線をやりながら、低く呟いた。


「……ここだな。扉の向こうに、何かある。いや、誰かがいる……」


指先で軽く扉の縁に触れ、空気の流れや微かな振動を確かめる。薄暗い室内に差し込む朝の光が、埃を漂わせ、静寂にさざめく音を浮かび上がらせる。


「慎重にな。次の一歩で、全てが決まるかもしれない」


背後で玲が頷き、奈々も息を潜めてその場を固めた。成瀬の影が扉の影と重なり、緊張の空気が工房を包み込む。


時間: 2025年11月18日 午前8時47分

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・工房


桐野詩乃は、壁際に立ったまま視線を巡らせ、低い声で言った。


「部屋が整えられているということは、誰かが証拠を隠そうとしている。埃の層が乱れている場所は少なくとも二か所。被害者の行動が途中で妨害されたか、遺体が移動された可能性がある」


その言葉に、玲は腕を組み、目を細めながら工房の隅々を見渡した。棚の上の陶器片や床に散らばる粉、窓際の埃――微細な乱れが確かに存在していた。


奈々はそっと息を呑み、指摘された二か所の埃の乱れを確認するように視線を巡らせた。静かな工房の空気が、詩乃の言葉によって一層張り詰めたものに変わった。


時間: 2025年11月18日 午前8時52分

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・工房


玲は慎重にしゃがみ込み、被害者の体の脇に半ば隠れるように置かれた小さな革製のケースをそっと拾い上げた。指先で埃を払うと、ケースはかすかに古い革の香りを漂わせる。ゆっくりと蓋を開けると、中には薄い紙片が何枚か折りたたまれて収められていた。


玲は一枚ずつ丁寧に広げ、文字や記号の配置、インクの濃淡まで確認する。紙の折り目や擦れた跡から、誰かが何度も中身を読み返していたことがわかる。


「……これは……重要な記録の一部かもしれない」


奈々が横から覗き込み、小声で呟く。「玲……なんか、ただのメモじゃない感じだね」


玲は頷きながら、視線を紙片に釘付けにした。外の朝の光が工房の窓から差し込み、埃に混ざって微細な光を散らす。静まり返った工房の空気の中、紙片の存在がまるで小さな“声”を発しているかのようだった。


時間: 2025年11月18日 午前8時53分

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・工房


玲は革製ケースから取り出した紙片を手に取り、指先でそっと広げた。「記録か……メモの類かもしれない」


奈々はケースを覗き込み、眉を寄せる。「でも、ただの備忘録って感じじゃない……何か意図があるみたい」


玲は紙に書かれた文字を一文字ずつ目で追い、折れ目や擦れた痕を確認する。「この紙、誰かが何度も読み返している。しかも、重要な内容だけを小分けにして隠してある」


工房の朝の光が埃の粒に反射し、紙片の表面をかすかに揺らす。静寂の中、玲は深く息を吸い込み、次の行動を考えながら紙片を慎重にケースに戻した。


時間: 2025年11月18日 午前8時55分

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・工房


玲は革製ケースから紙片を取り出し、指先の微かな震えを押さえつつ広げた。紙には、無造作に書かれた数字の列と、短く切り詰められた文章が散りばめられている。


「……これは、ただのメモじゃない。暗号か、暗示か……」


奈々が覗き込み、眉をひそめた。「玲……数字だけじゃなく、文章も微妙に区切られてる。まるで読む人に意図的に順序を考えさせるみたい」


玲は紙片をそっと傾け、光の加減でインクの濃淡や擦れの跡を確かめる。「ここに書かれた数字、短い文……連動している気配がある。被害者が何かを記録しようとしていた、あるいは誰かに伝えたかったんだ」


文章は断片的だ。例えば「8時半までに準備完了」「窓の鍵確認」「一番奥の棚」といった形で、作業手順や行動の記録らしきものが書かれている。数字の列は日付、時間、あるいは座標のようにも読めるが、単体では意味がつかめない。


玲は息を整え、紙片を目の前のデスクに置き、目を細める。「……誰がこれを読めばわかるんだ。大野義明の記録の延長線上か、それとも別の人物のためか」


外から差し込む朝の光が、埃を浮かび上がらせ、紙の表面に微かな揺らぎを作る。玲は静かに紙を指先でなぞり、暗号の意味を解くための糸口を探していた。


時間: 2025年11月18日 午前10:00

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・工房


玲は紙片の一行に目を留めた。そこには、鉛筆で薄く書き込まれた文字があった。


「……二人目は、10時15分。次の扉は開かれる」


奈々が息を飲む。顔を上げ、玲に問いかける。「……これって、どういう意味? 二人目って……被害者が、もう一人? それとも……」


玲は紙片を握りしめ、声を落とした。「推測だが、単なる記録じゃない。時間と“次の扉”の表現……誰かが次に狙われる可能性が高い。つまり、このままでは二人目の被害者が出る」


奈々の視線が鋭くなる。「10時15分……あと10分ちょっとしかない。どうする、玲?」


玲は静かに立ち上がり、工房の奥に目をやった。外の光が差し込み、棚の影が長く伸びている。床の埃の揺れ、扉の微かな隙間……彼の直感が、迫る危機を告げていた。


「急ぐ必要がある……誰も、犠牲にさせない」


玲は言いながら、手元の紙片を胸元に抱き、奈々と共に工房を出る準備を整えた。外の空気が冷たく、緊張が肌に張り付く。秒針の音が、二人の胸を刻むように響いた。


時間: 2025年11月18日 午前9時04分

場所: 東京・高級住宅街・上泉邸・工房


玲は紙片を手に、奈々に向き直った。声は低く、冷静だが、内側に緊張を孕んでいた。


「“二人目”…犯人は、次の殺人を“予告している”。しかも“10時15分”、つまりあとわずか10分ほどで動きがあるということだ」


奈々の眉がぴくりと動く。「そんな……あと10分? 間に合うのか、玲」


玲は紙片をぎゅっと握り、工房の奥に視線を走らせた。棚の影、窓の隙間、埃のわずかな乱れ――すべてが、潜む者の存在を示唆していた。


「間に合わせる。誰も犠牲にさせない。情報はこれだけじゃない、現場の状況、埃の動き、扉の位置……全部が手掛かりになる」


奈々が深く息をつき、頷く。「わかった……一緒に行く」


冷たい朝の光が工房に差し込み、二人の影を長く床に伸ばした。秒針の音が、迫る危機を刻むように二人の胸を打つ。


玲は紙片から視線を上げ、沈痛な声で言った。


「……順番に……殺される可能性もある」


その瞬間、工房の空気がひやりと張り詰めた。

奈々が小さく息を呑む。


「順番……ってことは、被害者は“リストの一人”だった、ってこと?」


玲は無言で頷き、紙片に並んだ数字の列を指でなぞった。


「この数字……名前か位置情報か、あるいは犯人がつけた“順番”を示すコードの可能性が高い。

そして──“10時15分”。二人目が狙われる時刻……」


玲は時計を見た。針はすでに10時5分に近づいている。


「まずい……時間がない。

犯人は計画通りなら、すぐに次の標的に動く。詩乃、成瀬、外周の確認を急いで!」


静かだった工房が一気に緊迫した空気へと変わる。

影班が散り、奈々は端末を操作しながら玲に問う。


「玲……次の標的、特定できる?」


玲は紙片を握りしめながら短く答えた。


「できる。

……このメモが残されている以上、“犯人は教えている”。

これは挑戦状だ──“止めてみろ”ってね」


次の犠牲者が出るまで、残された時間は――あと10分。


玲は紙片をもう一度見つめ、数字の羅列の一部を指で押さえた。


「……これだ。“10:15、E-7-4”」


奈々が端末に入力し、すぐに地図を立ち上げる。


「玲さん、これ……!」

奈々の声がわずかに震えた。


画面には、東京の高級住宅地――

港区・南麻布の一角が赤く点滅していた。


「“E-7-4”は、この地区の区画コード……。

一致するのは――この通り沿いにある邸宅が一軒だけ」


奈々が拡大する。

地図には庭付きの白い二階建て洋館が表示された。


《南麻布7丁目4番地——西条邸》


玲の表情が険しくなる。


西条明徳さいじょう あきのり……。

財団理事の一人だな。上泉と同じ“芸術後援会”のメンバー……繋がった」


奈々が時計を見て口を開く。


「玲さん……今、10時05分。

“次の扉”が開く予定時刻まで、残り10分しかありません……!」


玲は工房を鋭く見渡し、すぐさま決断した。


「成瀬、詩乃、車を回せ!

奈々は西条邸周辺のカメラを全て割り出して監視。

私は先に向かう!」


影班が即座に動き出し、引き戸の向こうへ消える。

木造の工房に残されたのは、埃と微かな陶土の匂い、

そして紙片に刻まれた不気味な言葉だけ――


《二人目は、10時15分。次の扉は開かれる》


時間は迫っていた。


午前10時03分

東京都・港区 南麻布/上泉邸 工房前


玲は深く息を吸い、紙片をもう一度握りしめた。

時間の流れが、いつもより速く感じる。


「時間がない。今から“二人目”の候補を洗う」

玲の声は静かだが、張り詰めていた。


奈々が即座にタブレットを構える。

その横で、影班の成瀬と詩乃が周囲を警戒しつつ耳を傾ける。


「被害者・上泉が誰と接点を持っていたか、緊急で調査を。

生前、何を守ろうとしていたのかを知る必要がある」


その瞬間、奈々の端末に新たなホログラムが立ち上がった。

画面の中に落ち着いた白衣の女性が姿を現す。


御子柴理央みこしば りお——記憶分析スペシャリスト。

玲探偵事務所が誇る、最速のデータ照合能力を持つ解析官。


「呼ばれましたので、緊急回線に接続しました」

端末越しの御子柴の声は冷静で、無駄がない。


玲はすぐに状況を説明する。


「上泉俊郎は72歳。陶芸家で、芸術後援会の理事。

亡くなる直前に、暗号めいた記録を残していた。

次の犠牲者が“10時15分”に狙われている」


御子柴が頷き、すぐに数十件の関連データを同時に開いた。


「上泉の交友関係から絞り込みます。

後援会の内部資料……アクセス、開始。

個人メール、寄付記録、採択プロジェクト……全部照合します」


タブレットのホログラムに次々と情報が走る。


奈々が驚いたように呟く。


「相変わらず処理が速い……! 通常の捜査班の十倍ですよ、これ」


御子柴は淡々と続けた。


「――出ました。

上泉が生前“守ろうとしていた”可能性が最も高い人物。

そして、犯人が狙う“二人目”と一致する候補は……」


彼女は一枚のデータを前面に固定する。


西条明徳さいじょう あきのり・64歳

南麻布7丁目4番地 在住》


玲が身を乗り出す。


「……西条邸。やはり、そこか」


御子柴が補足する。


「上泉は亡くなる一週間前から、西条への連絡を避けています。

その代わり、“後援会内部の不正”に関するデータを収集していた形跡がある。

上泉は“誰かに狙われている”と察して動き始めていた可能性が高い」


玲は拳を強く握った。


「つまり——

西条は“守られるべき二人目”であり、

犯人にとっては“次の扉”というわけか」


成瀬がすぐに行動に移る。


「玲さん、車を回します。

詩乃は先行して周囲の偵察、頼む」


奈々が時計を確認する。


「玲さん……10時15分まで、あと12分です!」


玲は工房を振り返ることなく、走り出した。


「全員急げ! 犯人は次の手順に入っている!」


午前10時05分

東京都・港区 南麻布/上泉邸 工房前


玲は短く息を吐き、革製のケースを握りしめた。

紙片の文字が、冷たい光の中で視界に残る。


「……沈黙の理由を知る者。それが、順番に排除されている」


奈々が唇を噛む。

「……やっぱり、二人目だけじゃない。上泉さんの周囲にいた、関係者全員がターゲットってこと?」


影班の成瀬と詩乃も、互いに視線を交わし、静かにうなずく。

外の路地は穏やかに見えるが、空気は張り詰め、次の瞬間の危険を告げていた。


玲は端末を手に取り、御子柴理央に通信をつなぐ。

ホログラムが浮かび上がり、彼女の冷静な声が室内に響く。


「上泉の交友関係を即座に解析。過去10年間の接触履歴、メール、寄付記録、会議出席情報を突き合わせます」

短時間で、候補者が絞られていく様子が端末に反映される。


「対象は……西条明徳。64歳。南麻布在住。上泉が守ろうとしていた人物」と御子柴が告げる。


玲は深く息を吸い、再び紙片を握り直す。

「なるほど……犯人は、上泉に関わる者を順番に排除していく計画だ。時間は10時15分、あと10分余り」


奈々が焦った声を出す。

「玲、急ごう! 西条邸までどうやって最短で行く?」


玲は短く指示を出し、全員が準備を整える。

沈黙の理由を知る者を守るため、緊急の追跡が始まろうとしていた。


時間:午前6時47分

場所:東京都・港区 南麻布/上泉邸 工房


湿った朝靄が窓から差し込み、工房内の埃を淡く照らしていた。

玲は作業台に横たわる被害者の体を、静かに見下ろす。目の前に広がる光景は、まるで時間が止まったかのように凍りついていた。


埃の匂いに混じり、微かに油と鉄の匂いが鼻を刺す。床や作業台の上には、散乱した陶器の破片や工具の跡が残っていたが、決定的な手掛かりはまだ見つかっていない。


周囲を囲む静寂の中、古びた時計の針が「チッ……チッ……」と規則正しく時を刻む。

その音だけが、冷たい空気の中で存在を主張していた。


玲はゆっくりと息を吐き、目を細めて被害者の周囲を観察する。

「……誰かが、確実にここにいた。だが、その痕跡を意図的に消そうとしたのか……」

静かな独り言に、朝靄の光が反射してかすかに揺れた。


そのときだった。


工房の奥、窓際の暗がりで、かすかな物音が響いた。小さな金属音――おそらく工具か陶器の欠片が床に触れたのだろう。玲の視線が瞬時に揺らめく影へ向けられる。


「……誰かいる」

低く、だが明確な声が口をついた。息を止め、耳を澄ます。外の朝の風が窓から微かに吹き込み、埃を揺らし、床の音を微妙にかき消す。


玲はそっと体を屈め、作業台の端に手をかけながら、次の瞬間に備えた。

静寂は崩れ、工房内に緊張が漂い始める。


時間: 2025年11月17日 08:47

場所: 東京・高級住宅地 上泉邸 工房


湿った朝靄の中、玲は工房の奥で被害者の体を前に立ち尽くしていた。埃と油、鉄の匂いが混じる空間に、微かに古時計の針の音だけが響く。


そのとき、男は無言でポケットから黒革のパスケースを取り出した。手際よく開くと、中には光沢のある警察証が収められており、そこにははっきりと「高峯迅」と刻まれ、K部門の公式印章が押されているのが見える。


「高峯迅。元・捜査一課……今はK部門付きの外部専門捜査官だ」


声は落ち着いているが、どこか緊張感を伴っており、玲はその眼差しに静かに見据えられた。男はさらに言葉を重ねる。


「ここへの招集を受けた。……君が“玲”だな?」


その瞬間、工房の空気が一段と張り詰めた。埃まみれの机の上、散乱する陶芸道具の影までが、二人の間の緊迫を映すかのように揺れている。外の柔らかな朝日が窓から差し込むが、そこにあるのは、時間が止まったかのような静けさだった。


時間: 2025年11月17日 08:49

場所: 東京・高級住宅地 上泉邸 工房


高峯は一歩、工房の床に踏み込むと、微かに湿った埃と鉄の匂いを鼻腔で確かめる。呼吸を整えるかのようにゆっくりと深く吸い込み、床に散らばる陶器の破片や、机の上に置かれた陶芸用具の位置を目で追った。


そして視線を被害者の遺体に向ける。長く伸びた影が背後の壁に映る中、高峯の口元だけがわずかに動き、低く、しかし確かな声で呟いた。


「……手を加えられているな。自然死ではない、意図的な力が加わった形跡だ」


声は小さいが、周囲の静寂に鮮明に響き、玲の耳にも確実に届いた。高峯の瞳は鋭く、被害者の体の微細な位置や、周囲の散乱物から得られる情報を瞬時に分析しているようだった。


その立ち姿は冷静でありながら、内部には凛とした圧力を秘めていて、工房全体の空気を一層張り詰めたものに変えていた。


時間: 2025年11月17日 08:52

場所: 東京・高級住宅地 上泉邸 工房


「手首に拘束痕がある。結紮痕、明らかにロープやテープで縛られていた形跡だ」

玲が低く声に出すと、高峯は眉をひそめ、即座に補足した。


「さらに右手小指には液状の付着物がある。血液や体液の混合物だ。被害者が反抗した際、あるいは犯行中に何かを触れた痕だろう。分析すればDNAも検出できる」


玲が足元に視線を落とす。「しかし足裏の靴跡が見当たらない……。裸足での移動か?」


高峯は即座に答える。「いや、靴跡が消えている可能性が高い。現場清掃か、犯行後に足跡を隠す操作があった。いずれにせよ、遺体の位置と周囲状況から、被害者は移動されている」


彼の言葉は専門的でありながら簡潔で、現場に残された微細な痕跡から犯行手口を組み立てるための手掛かりを、玲に明確に伝えていた。


静寂の中、工房の空気が一段と張り詰める。二人の目は、次に犯人が残した“微細な違和感”を探すかのように、床や机、壁の隅に向けられていた。


時間: 2025年11月17日 09:03

場所: 東京・高級住宅地 上泉邸 工房


高峯は封筒を丁寧に手に取り、指先で紙の表面を確かめる。


「紙質は中厚の未晒しクラフト紙に近い。繊維が密で、表面は軽くマット仕上げになっている。触感からすると湿気をほとんど吸っておらず、折り目や角の摩耗も少ない」


彼は指で軽くこすり、縁をなぞる。「紙は酸化や黄変もほとんど見られない。つまり、封筒がこの場所に置かれてから経過時間は非常に短い。現場搬入とほぼ同時に設置されたと推定できる」


玲が頷き、封筒を慎重に受け取った。「なるほど……現場操作のタイミングが、犯人の狙いと一致しているわけか」


高峯はさらに言葉を重ねる。「紙の繊維方向や厚みからも、封筒の強度や内部に入れた物の保護性が推測できる。要するに、単なる脅迫ではなく、現場証拠としての“意図的配置”だ」


工房の中、封筒の存在がただの紙切れではなく、犯行の時間操作や心理操作の手掛かりであることを示していた。


時間:午前10時05分

場所:上泉邸・工房内


文末には、淡い鉛筆の線でこう記されていた。


「10時15分までに、行動せよ」


玲は紙片の端を指先でつまみ、そっと光に透かした。

鉛筆の粉がまだ定着しきっていないのか、触れた指先にわずかに黒い粒が残る。


——強く書いた跡ではない。

だが、筆圧は一定で、急いで震えた線でもない。


まるで書いた人物が「迷いなく、しかし時間がない中で」書き残したような、そんな静かな切迫感があった。


玲の視線は自然と、紙片のその短い一文へ引き戻される。

その文字は、凶器の位置でも現場の状況でもなく、“次の殺意の時刻”だけを指していた。


時間:午前10時06分

場所:上泉邸・工房内


高峯は封筒のそばにかざした紙片を、わずかに傾けながら視線を細めた。


「待て……妙だな」

低く呟き、指先で紙の端をなぞる。その感触から、高峯は封筒や紙の材質には特に問題はないことを確認したが、別の“違和感”が脳裏を掠める。


紙の折り目、筆圧、文字の傾き――どれも自然なのに、文字列の配置が微妙にずれている。

行間の空白、文末の位置、紙片の上下に残された余白……どれも一見、偶然に見えるが、よく見ると計算されたかのように不自然だった。


「……単なる警告だけではない。これは、誰かの意図が“隠されている”サインだ」


高峯は目を細め、紙片を手に取り、封筒からそっと外して再度光に透かす。

そこには、文字だけではなく、微かな紙の凹凸や、印字ではなく手書き特有の紙繊維の乱れが、わずかに示されていた。


「誰かが、この封筒に“意味を仕込んだ”……そう考えるのが妥当だ」


玲もまた、封筒の文末に再び視線を落とした。

その先にある“10時15分”の刻印は、単なる予告の時刻ではなく、何か別の計算を伴った警告である可能性を示唆していた。


時間:午前10時07分

場所:上泉邸・工房内


高峯は静かに息を吐き、封筒の書面の裏側に目をやった。

表面からはわからなかった微細な紙の凹凸や、鉛筆の薄い擦れ跡が、光を受けてうっすら浮かび上がっている。


「……これは、封筒そのものが“仕掛け”になっている可能性がある」

低い声でつぶやきながら、高峯は指先でそっと紙を触れる。表面は滑らかだが、角や折り目の一部にわずかな摩擦の痕が残っている。

「開封する順序や、置かれた角度、紙の折り方……すべてが計算されている。単なる脅迫状ではない」


玲も隣で封筒を覗き込み、眉をひそめる。

「高峯、これは……誰かに見せるためじゃなく、誰かを“誘導する”ための仕掛けだな」


高峯は軽く頷き、慎重に封筒を元の位置に戻した。その目は、封筒の送り主が残した“微細な痕跡”を読み取ろうと、鋭く光っていた。


時間:午前10時09分

場所:上泉邸・工房内


玲の声がかすかに震えた。手に持った封筒の内容が、想像以上に精密に仕組まれていることを理解した瞬間だった。

すぐ隣で詩乃が壁掛けの時計に目をやる。針は10時を指しているが、そのリズムはどこか不自然だった。


「……時間が、ずれてる」

詩乃の声は低く、警戒を含んでいた。

「この封筒に書かれた“10時15分”は、あくまで目くらまし。犯人は、現実の時刻を操作している可能性がある」


玲は頷き、目の前の工房全体に視線を巡らせた。壁や机、窓際の小物――すべてが微細な違和感を持って配置されている。

「フェイクだ……これで次の行動が読める。奴は、時間を“操作”して心理を揺さぶっている」


詩乃は軽く息を吐き、拳を握り直した。

「残された猶予は……実際にはもっと短いかもしれない」

玲は封筒をそっと机の端に置き、詩乃と高峯に視線を向けた。三人の間に、静かだが鋭い緊張が流れる。


時間:午前10時09分

場所:上泉邸・工房内


一瞬、空気が張り詰め、全員の動きが止まったかのように感じられた。

だがすぐに、高峯が低く鋭い声で切り裂くように言った。

「落ち着け。これは時間を欺くフェイクだ。奴は意図的に、心理を惑わせるために数字を使っている」


玲は机に手をつき、封筒の紙片を見つめる。紙の折り目や文字の配置まで、犯人の細かい計算が透けて見える。

「……つまり、10時15分を信用すると、次の行動を読まれる。時間の目安は、実際にはもっと早い、もしくは遅い可能性がある」


詩乃が声を潜め、周囲の物音に耳を澄ます。

「周囲の足音や環境音と照合すれば、フェイクの時間差がどの程度か、ある程度推測できるはず」


玲は深く息を吸い込み、緊張を抑えつつ、作戦を組み立て始めた。

「よし……残された時間を過信せず、実際の行動ペースで動く。奴は心理戦を仕掛けてくる」


三人の間に、冷静な緊迫が静かに張り巡らされる。


時間:午前10時10分

場所:上泉邸・工房内


玲は封筒と紙片を慎重に脇に置き、すでに一歩踏み出していた。

床の埃を蹴らぬよう、足取りを最小限に抑えながら、工房の奥へと進む。

手元の光景を確かめるように、棚や机の配置、割れた陶器の破片まで、目を走らせる。


詩乃が横で静かに呟いた。

「……やっぱり、整えられている。でもどこか、隙がある」


高峯は遺体の脇に残された小物を確認しながら、玲の動きを目で追う。

「動きは早い。だが焦るな。奴の狙いは、時間と心理の操作だ」


奈々も机の端から、封筒の内容と周囲の状況を再確認しながら、玲に軽く頷いた。

「了解、玲。行動の順番、間違えないように」


緊迫した静寂の中、玲の一歩は、ただの前進ではなく、次の殺人を阻止するための確信に満ちた歩みだった。


時間:午前10時12分

場所:上泉邸・工房内


玲は被害者・上泉俊郎のジャケットの内ポケットに、わずかに膨らんだ部分を見つけた。

まるで誰かが何かを忍ばせたかのような、控えめな膨らみ。


指先を慎重に差し入れ、ジャケットの布地を傷めぬように折りたたまれた物体を取り出す。

それは厚みのある封筒で、手に伝わる感触からは、数枚の紙が入っていることがわかった。


玲は息を潜め、封筒を机の上に置き、紙をそっと広げる。

その中には、被害者自身が残したらしい、緻密に書き込まれたメモの断片。

数字と文字が入り交じり、まるで暗号のように並んでいる。


「……これは……次の行動の手掛かりかもしれない」

玲は低く呟き、紙片に視線を集中させた。

奈々は横で腕組みをし、鋭い目で封筒の内容を確認する。

「玲、これ……犯人からの指示か、あるいは被害者の警告かもしれない」


工房の奥には、割れた陶器や散乱する工具が静かに置かれ、外の光が差し込むたびに埃が舞う。

その空間全体が、緊張と予感で満ちていた。


時間:午前10時15分

場所:珈琲館エンデレア


被害者のジャケットの内ポケットから、折りたたまれたレシートが現れる。

紙は薄く、わずかに折り目がついており、手触りからすると新しい。


そこに印字されているのは、静かに朝の証拠を刻んだ文字列。


《珈琲館エンデレア》

2025年6月3日 AM6:11

¥480(ホットブレンド)


玲は眉間に軽く皺を寄せ、レシートを指先でそっと広げる。

「この時間……朝の6時11分。被害者は、この瞬間にここで珈琲を購入していた」


窓から差し込む朝の光に、紙の白がわずかに反射し、周囲の静寂に微かな存在感を放つ。

玲はその数字と店名を頭の中で整理し、次の行動に思いを巡らせた。


時間:午前9時15分

場所:上泉邸・現場


玲はレシートを手に、静かに唇を噛んだ。

「――事件の発生は、午前9時15分。レシートの時刻とは、ちょうど3時間4分の差」


彼は視線を窓の外に移し、朝の光と室内の陰影の間で時間の流れを思い描く。

「被害者は朝の6時11分に珈琲を購入して、ここまで戻ってきた……その後、9時15分までに何があったのか」


紙片を指先で軽く揺らしながら、玲は頭の中で動線と可能性を整理する。

埃の匂い、静寂、そして微かな違和感。すべてが、次の推理の糸口を待っていた。


時間:午前9時18分

場所:上泉邸・現場


玲は黙って頷き、紙片と現場の状況を頭の中で整理した後、ゆっくりと口を開いた。


「珈琲館のレシート、6時11分。事件発生は9時15分。この間に、被害者はどこで誰と接触していたのか、何をしていたのか……それが、この事件の鍵になる」


視線はレシートから現場の細部、そして散らばる物品や埃の層に移る。

「移動経路、接触者、可能な干渉者……すべて洗い出す必要がある。時間は限られているが、手がかりは必ず残っているはずだ」


玲の声は冷静だが、内側には緊迫感が満ちていた。

奈々は彼の言葉に頷き、端末を取り出してすぐに捜査網を検索し始める。


時間:午前9時19分

場所:上泉邸・工房入口付近


そのとき、成瀬の低く鋭い声が、背後から静寂を断ち切るように届いた。


「玲。……“妙な痕跡”を見つけた」


玲と高峯が同時に振り返る。

成瀬は工房の入り口付近、木製の敷居を指先で示した。彼の視線は微動だにせず、ただ一点を射抜いていた。


「ここ……靴跡が一つ、途中で“消えている”。砂埃の流れ方からして、不自然だ。踏みしめた重さが急に軽くなってる」


玲が近づく。

敷居には、確かに片足ぶんの踏み込み跡がくっきり残っているのに、次の足跡だけが途中で断ち切れたように消えていた。


「重心が……抜けている?」

玲が呟く。


成瀬は静かに頷いた。

「普通の歩き方じゃない。犯人は“跳ねるように”移動してる……あるいは、足裏に何か仕込んでる」


高峯が低く言う。

「重さが急に消えるのは、重量移動を意図的に制御している証拠だ。つまり――訓練された人間の動き」


玲の胸にざわりと冷たいものが走る。

奈々も眉を寄せながら成瀬の示す場所を見つめ、苦い声を漏らした。


「……やっぱり、“素人じゃない”ってことね」


工房の空気が、さらに重く沈黙へと沈んでいく。


時間:午前9時22分

場所:上泉邸・工房内


玲は手にした半分に折られたレシートをじっと見つめたまま、唇を軽く噛み締めた。


「……レシートの時間と、現場の被害推定時刻。間に三時間以上の差がある。この差は――偶然じゃない」


高峯がすぐ横で眉をひそめ、指先で紙片をなぞる。

「被害者は、事件直前にどこかで時間を消費している。その行動の意味を突き止める必要がある」


奈々はレシートの文字を読み上げながら、少し声を落とす。

「……午前6時11分。ホットブレンド一杯……この時間、何か予定があったのかも」


玲の目に、やわらかく光が差す。

「狙われた順序、犯人の計画……すべて、この時間差が鍵になる。動かされていたのは、被害者自身の時間だ」


工房の静けさの中、紙片を握る玲の手だけが微かに震えていた。


時間:午前9時24分

場所:上泉邸・工房内


その瞬間、奈々がモニターに視線を釘付けにし、思わず声を張り上げた。


「――動いた!誰か、外を走ってる!」


玲が即座に顔を上げ、周囲を見渡す。工房の窓から見える庭先はまだ静まり返っているが、奈々の指差すモニターには黒い影が通路を駆け抜ける姿が映し出されていた。


高峯は無言で銃を握り直し、微かに息を吐く。

「やつは予想よりも近い……しかも、二人目の候補を狙っている可能性が高い」


玲は唇を引き結び、画面に映る黒影に目を凝らした。

「時間がない。動きを止めるための準備を……」


工房の中、時計の秒針が静かに刻む音だけが、迫る危機の中で異様に響いていた。


時間:午前9時25分

場所:上泉邸・工房内


奈々が指を画面に滑らせながら、声を張った。

「場所は……文京区内、旧印刷所跡。この工房から南東に直線でおよそ900メートルよ!」


玲は瞬時に頭の中で距離と時間を計算した。

「徒歩だと、数分で着く。間に合うか……いや、奴はすでに動き出しているかもしれない」


高峯は銃を構えながら、短く唸った。

「影班、二手に分かる。追尾班は旧印刷所へ、封鎖班は周囲の出入り口を抑える」


奈々はモニター越しに視線を鋭くする。

「了解。急いで準備する……!」


外の路地にわずかに風が吹き抜け、静寂を裂くように車のエンジン音が遠くで響く。その音が、迫る危機の前触れのように聞こえた。


時間:午前9時27分

場所:上泉邸・工房内


玲は素早く手元の無線に指をかけ、低く力強い声で指示を飛ばした。

「封鎖と鑑識処理を続行、ここはK部門第1班に任せて! 高峯と私は旧印刷所へ急行する!」


無線の向こうで、隊員たちの小さな応答音が続く。

「了解、進行中!」


そのとき、奈々が端末を操作しながら報告した。

「玲、服部一族が現場周辺に既に到着。現場周囲の警戒は確保済みよ」


玲は僅かに頷き、視線を工房の出口に移す。朝の光が差し込み、埃の粒子が静かに揺れている。

「よし、時間との勝負だ……影班、全員準備!」


静寂の中に、緊張の波が一気に広がった。風が廊下を抜け、事態の急転を告げるように木の扉をかすかに揺らした。


時間:午前9時28分

場所:上泉邸・工房前の廊下


玲が出口へ向かって歩き出したその背中に、

落ち着いた、しかし芯のある声が追いついた。


高峯は歩幅を緩めず、玲の横に並びながら応じた。


「了解だ、玲。旧印刷所なら地の利はある。

周囲の死角も、逃走ルートも把握している。先行して状況を確認する」


その声は低く、冷静で、何より迷いがない。


続けて、彼はジャケットの内側にある小型端末を取り出し、素早く画面を操作した。

「服部一族がもう動いてるなら、現場の封じ込めは万全だ。

……“二人目”が生きている確率は、まだ十分にある」


玲は短く息を吐き、歩みを止めずに言う。


「高峯、君が前に出ろ。私は後方からサポートする。

犯人が予告をフェイクにしてくるなら、接触ポイントは一つじゃない」


高峯の目が鋭く細められた。


「わかってる。“視線の主”は、俺たちを試している。

……なら、その挑戦、正面から受けてやるさ」


足音が工房の木床を叩く。

緊張が空気に満ちる一方で、高峯の声は妙に落ち着いていた。


「玲、行くぞ。——時間は、もう残っていない」


時間:午前9時29分

場所:上泉邸・工房前から外へ続く石畳の庭


玲と高峯が並んで外へ出た瞬間、湿った朝の空気が二人の頬をかすめた。

庭先に落ちる影はまだ淡いが、緊張だけは確かな形を持って地面に染みついている。


玲は歩みを止めず、小さく息を吸い込んだ。


「……次の現場――そこに待つのは、“誰の沈黙”か」


その声は押し殺した呟きのようであり、

同時に確かな決意の輪郭を帯びていた。


高峯は横目で玲を見る。

険しい眼差しの奥に、わずかな推察が宿る。


「“沈黙”は二種類ある。

守るための沈黙……そして、口を塞がれた沈黙だ。

犯人が消そうとしているのは、後者だろうな」


玲は黙って頷いた。

犯人は“順番”をつくり、“語る前に消す”。

上泉俊郎が守ろうとしたもの、そして口を閉ざした理由――

その連鎖の次が、旧印刷所跡にあるのは間違いない。


石畳を踏む足音が重く響く。


「時間まで、あと――十数分。

“二人目”がまだ沈黙していないことを祈るしかないな」


高峯の声は冷静だったが、その奥には焦りを押し殺した熱があった。


玲は視線を前に向け、

わずかに指先を震わせながらも、確信を持って言った。


「沈黙させられる前に、間に合わせる。

……必ず、間に合わせる」


二人は迷いなく駆け出した。


次の現場へ――

“沈黙の理由”を抱えた者が、まだ息をしているうちに。


時間:午後2時43分

場所:玲探偵事務所・第1調査室


薄曇りの午後、外の光がブラインド越しにゆるくこぼれ、

室内には机の上の資料と電子端末が青白く反射していた。

静かな調査室の中央で、玲はコピーされた予告状の裏面にある数字列をじっと見つめていた。


机の上には、先ほど現場から回収された手紙の複写。

その右下には、印刷とも手書きともつかない奇妙な“薄い文字”で数字が記されている。


11.4|02-15|6.03|-42


玲は紙に指先を滑らせながら、ゆっくり息を吐いた。


「……11.4。座標の分割値に似ているが桁が合わない。

02-15……日付なら二月十五日だが、文脈が合わない。

6.03……距離か高度か。だが中途半端すぎる……

そして、マイナス42。減算か、補正値の可能性が高い」


静寂の中でブラインドの影がゆっくりと揺れ、数字の列に淡い影を落とした。


玲は椅子にもたれ、紙を横向きにして光に透かす。


「単体では意味を持たない。だが並び順を崩していない……

“順列そのもの”に意味がある書き方だ」


紙面をさらに角度を変えて見ると、数字列のわずかな濃淡の差が目につく。


「11.4|02-15|6.03|-42……

縦に読むと――」


声が自然と低くなる。


1


6

-


「……“106−”。開始点の欠片か、あるいは場所コードの頭か……」


玲は紙を机に戻し、目を細めた。


「犯人は、最初から全部見越してる。

時間を偽装し、現場を誘導し、数字に“嘘と本物”を混ぜた……

これは罠じゃない。“次への道標”だ」


調査室の空気が、ほんの少し冷えた。


時計の針が「午後2時44分」へと動く。

玲は再び数字列を見つめ、静かに呟いた。


「……次の扉は、この数字の先にある」


薄曇りの光がまだ調査室に滲んでいる。

玲が数字列を見つめて黙り込んだままの空気を、

背後から入ってきた奈々の声が破った。



「何だそれ……家具の配置? それとも……“場所”を示してるのか?」


奈々は手にしていたタブレットを胸の前で抱えたまま、

玲の肩越しにコピーされた予告状を覗き込む。

ブラインド越しの影が、数字列の上で細く震えていた。


玲は紙から視線を離さずに短く答えた。


「単なる座標にしては値が歪んでいる。

配置図にしては桁が揃いすぎている。

……ただ、“方向”を示している線がひとつだけある。」


「方向?」


奈々が眉を上げる。玲は紙を指先で回し、

数字列を縦に、そして横に、何度か角度を変えて見せた。


「11.4|02-15|6.03|-42

これは家具でも地図でもない。“相対位置”だ。」


「相対位置……って、誰かを基準にした?」


玲はようやく視線を奈々に向け、わずかに頷いた。


「“誰か”じゃない。どこかだ。

犯人が“スタート地点”として指定した、極めて限定的な一点。

そこからの距離と角度を、ばらばらの数字で示してる。」


奈々は息をのみ、タブレットを握る指先に力がこもった。


「……じゃあ、この数字が示してる場所って?」


玲は椅子にもたれて答えた。


「まだ断定はできない。

だが――このビルの中のどこかである可能性が高い。」


奈々が静かに目を見開く。


玲は指で最後の項目を軽く叩いた。


「マイナス42。

これは“階段の段数”か、あるいは地下への深度だ。」


数字列が、じわりと意味を帯び始める。


奈々の喉がわずかに鳴った。


「……まさか、予告状の“次の場所”って、

もう……この建物の中に?」


玲は紙を折り畳み、冷静に答えた。


「その可能性が、一番高い。」




時間:午後2時47分

場所:文京区・K部門調査室


薄曇りの光がブラインド越しに差し込み、

資料の山に淡い影を落としていた。

静まり返った調査室の空気の中で、玲はコピー資料を指先で押さえながら、静かに口を開いた。


「上泉の古い知人――

かつて旧工房で共に働いていた男。

数年前、精神疾患で入院して……

今はもう、連絡が取れない。」


奈々が息をのむ気配がした。


「行方不明……ってことですか?」


玲は短く頷き、紙の端を軽く弾いた。


「記録上は“転院”になっている。

だが、その転院先は存在しない。

家族も、数年前から消息不明のまま。」


奈々の手がタブレットを強く握りしめる。


「じゃあ……誰かが意図的に?」


玲は、予告状の数字列に再び視線を落とした。


「痕跡を切り離された者――

犯人がもっとも“扱いやすい影”にされている。」


調査室に、午後の静かな緊張だけが残った。


なるほど、理解しました。では「時間と場所」を先に明記してから本文を書く形で整理します。



時間:14時42分

場所:旧・文京南印刷所跡(第二作業棟)


玲はゆっくりと立ち上がり、手に持っていたペンを壁際のホワイトボードへ向けた。

白いボードの表面に、丁寧に三つの単語を書き込む。文字は力強く、しかし冷静に選ばれた筆跡で並ぶ。


沈黙

順番

隔離


書き終えた玲はペンを置き、静かに全体を見渡した。

「――犯人は次の標的をここで動かすつもりだ。時間も場所も、ほぼ絞れた。猶予は残りわずか。」


部屋の空気が一瞬、緊張で張り詰める。全員の視線が、玲の指すホワイトボードに吸い寄せられた。


時間:14時43分

場所:旧・文京南印刷所跡(第二作業棟・臨時調査室)


玲の言葉が途切れた瞬間、調査室の空気が一段と冷えた。

ホワイトボードに書かれた三つの単語――〈沈黙〉〈順番〉〈隔離〉。

その前に立つ玲は、ゆっくりと振り返り、重い声で続けた。


「我々が動かなければ、次の犠牲者は……確実に“予定通り”殺される。」


静寂が落ちる。

時計の秒針だけが、淡々と時間を削り取っていく。


成瀬が拳を握りしめた。

詩乃は呼吸を浅くしながらデータ端末を構え、

高峯は顎に手を当てたまま、鋭い眼差しで資料を見渡す。


その場にいた全員が理解していた。

――これはただの殺人ではない。

“順番に消される”リストが、すでに存在している。


玲はゆっくりとコートを翻した。


「急ぐぞ。犯人の“次の一手”が動くまで、あと数分しかない。」


時間:15時07分

場所:旧・文京南印刷所跡(第二作業棟・主作業室)


ガラス扉を押して中に入ると、冷房の効いた空気が肌を撫で、紙の香りと埃の混じった匂いが静かに鼻をくすぐった。

時間の流れさえ緩やかに感じられるその空間で、玲は慎重に足音を忍ばせながら一歩、また一歩と進む。


部屋の奥には、古い作業台と積み上げられた原稿の束があり、薄暗い光が埃を浮かび上がらせている。

壁際には倒れた椅子、散乱する紙片。静けさの中に、わずかに金属が擦れるような微音が響く。


玲は立ち止まり、手袋をはめた指先で紙片の端をそっと撫でた。

そこに刻まれた文字の意味を、彼の瞳が追う。

「……この順番、間違いなく計画されたものだ」

小さな吐息が、冷たい空気に溶ける。


時間:15時09分

場所:旧・文京南印刷所跡(第二作業棟・主作業室・窓際)


彼の視線は、窓際にわずかに差し込む陽光に吸い寄せられた。

そこには、他の椅子とは明らかに異なる、背もたれに赤いクッションが取り付けられた木製の椅子が置かれている。


座面の上には、一冊の古びた赤いハードカバーの本が、まるで誰かの意図でそこに置かれたかのように、静かに横たわっていた。

埃に微かに覆われた表紙には、年月を経たしわが入り、角は擦り切れている。だがその存在感は、部屋の雑然とした空気の中で、異様に強く際立っていた。


玲は無言で椅子に近づき、手袋をした指先を慎重に本の背に触れた。

その瞬間、彼の頭の中に、被害者の意図がほのかに浮かぶような気配が走った。

「……これは、呼びかけだ……」

その小さな呟きは、空間の沈黙に溶けて、誰にも届かないまま消えていった。


時間:15時10分

場所:旧・文京南印刷所跡(第二作業棟・主作業室・窓際)


椅子の赤いクッションと木製の座面のわずかな隙間に、何かが挟まっているのを玲は見つけた。

指先でそっと取り出すと、それは細く折り畳まれた一枚の封筒だった。


封筒は手触りの柔らかい薄紙でできており、角は微かに擦れている。

表面には文字はなく、封は丁寧に折り込まれているだけだった。

その小さな存在が、部屋の雑然とした空気の中で、まるで「ここを見ろ」と言わんばかりに静かに自己主張しているように感じられた。


玲は息を殺し、封筒を慎重に手に取り、ゆっくりと開く。

中から現れたのは、被害者が意図して残したと思われる、薄い紙片だった。

紙は小さく、折り目がしっかり付いている。指先で広げると、そこには短い文章と、いくつかの数字が、緻密に並んでいた。


時間:15時11分

場所:旧・文京南印刷所跡(第二作業棟・主作業室・窓際)


玲は紙片に並んだ数字列をもう一度、ゆっくりと視線でなぞった。

0-3-2 / 1-5-4 / 7-0-7 / 1-1-2

縦にも横にも意味が通るようで、しかし明らかに“何かを指している”。


数字を読み解くたび、心臓が一拍ずつ強く鳴った。


「……“位置情報”だ。これは部屋の座標か、あるいは建物内の配置を示している」

玲は低い声で呟きながら、視線を紙から床へ移す。

「いや、違う……“順番”がある。三つ目の数値だけが異様に大きい……」


紙片の端に書かれた、たった一行の文章が目に飛び込んできた。


《次の扉は あなたが立つ“その位置”から 十五分後に開かれる》


玲の喉が、ごくりと鳴った。

自分の立っている“この位置”――すなわち、旧印刷所。

そして十五分後。


「……俺たちは、もう“次の現場”に足を踏み入れてる」


紙を握る指先に、薄い震えが走った。

犯人は、彼らがここへ来ることを知っていた。

そして――ここで、“二人目”が沈黙する。


数字列は、被害者の座標か、犯行位置か。

いずれにせよ、この建物のどこかに、すでに命の灯火が消えかけている。


玲は振り返り、高峯、成瀬、詩乃へ声を張った。


「急ぐぞ。十五分後じゃない――もう始まってる。この建物の中に“二人目”がいる……!」


薄曇りの光が差す旧印刷所に、緊張が一気に走り抜けた。


時間:15時12分

場所:旧・文京南印刷所跡(第二作業棟・主作業室・窓際)


玲は紙片の数字列をじっと見つめたまま、頭の中で換字表を反復した。A=1、B=2、C=3……アルファベットを数字に置き換える単純な暗号法。しかし、その単純さゆえ、犯人の意図はさらに深く隠されている。


「……これは、単なる順番じゃない。文字を数字に置き換え、さらに位置を示す座標として使っている」

玲は指先で紙片の端をなぞり、数字を声に出して呟く。

「0-3-2……C-B-B……いや、違う。ここは数字のまま、時刻か……」


視線が数字列から紙片の余白へ移る。そこには、短く、一行だけの指示が印字されていた。


《次の扉はあなたの目の前で、十五分後に開かれる》


「……犯人は、俺たちの行動を完全に予測している。位置、時刻、順番……すべて計算済みだ」


玲は深く息を吸い込み、換字表を頭の中で再度なぞった。

「A=1、B=2……数字からアルファベット、アルファベットから意味へ……次の現場は、この数字列が示す“名前”か“場所”だ」


指先がわずかに震える。緊張感が体を貫く。

「高峯、成瀬、詩乃……準備はいいか? もう後戻りはできない。十五分以内に、二人目を守る」


窓際の光が紙片に反射し、数字列はまるで生きているかのように、次の行動を促していた。


時間:15時14分

場所:旧・文京南印刷所跡(第二作業棟・主作業室・窓際)


玲は数字列を見つめ、かすかに息を吐きながら呟いた。


「……こんな単純な換字表で、よくもここまで手際よく……まるで俺たちを手玉に取っているみたいだ」


彼の声は低く、部屋の静寂に溶け込むように消えたが、その口調には緊張と覚悟が混じっていた。


「だが……逃がすわけにはいかない。次の犠牲者は、俺たちが必ず守る……」


紙片の数字列を指先で軽く撫で、玲は次の行動を決意したように視線を天井から床まで滑らせる。


「時間は、あと一分一秒も無駄にできない……行くしかない」


時間:15時15分

場所:旧・文京南印刷所跡付属図書室(閲覧室)


玲は視線を上げた。

その眼差しは、紙片の暗号を読み終えた瞬間にはすでに“次の地点”を捉えていた。


閲覧室の隅——

古い木製の本棚の奥に、二階へとつながる鉄製の階段がある。

通常なら誰も気に留めない、倉庫のような狭いスペース。

しかし、そこへと続く空気だけが、妙に冷たく、張りつめていた。


玲は小さく息を吸い、呟くように言う。


「ここだ……“次の扉”は、二階にある」


背後で奈々が息を呑む気配がした。


「玲……本当にここなの?」


玲は答えず、代わりに暗がりへ向けて一歩踏み出した。

古びた階段は、足元に重さをかけただけでギシ、と低く軋む。


「暗号の“315”の位置、さっきの赤い本の配置……全部、二階への誘導になってる。

犯人は、この場所で“二人目”を待ってる」


成瀬の無線が微かにノイズを混じらせながら響く。


『玲、二階の窓側に微弱な熱源反応。人の気配だ。ただし、動きが不自然だ』


玲は一瞬だけ眉をひそめた。


「不自然……?」


『ああ。ずっと動かない。……まるで“置かれているように”だ』


その言葉に、奈々の表情が固まる。


「……人質、もしくは……」


玲は静かに言葉を継いだ。


「“二人目の遺体”の可能性がある」


そして、再び階段を見上げる。

二階へと伸びる暗闇は、まるで口を開けた深い井戸のように沈黙していた。


玲は拳を軽く握りしめ、ゆっくり階段を上り始める。

秒針のように確実な足取りで。


——“三つ目の扉”は、すでに開きかけている。


時間:15時17分

場所:旧・文京南印刷所跡付属図書室 二階階段前


階段を上った先、玲の目に飛び込んできたのは——


壁際に、赤いインクで手書きされた文字が貼られていた。

紙はA4サイズほどで、無造作に養生テープで固定されている。

しかしその“無造作さ”とは裏腹に、文字は冷たく、そして威圧的な意図を持って部屋の空気を支配していた。


——貼られていた。


玲は一歩近づき、紙を慎重に指先で押さえる。

目を細め、文字列を読み解く。


「……“次の扉を開く者は、10分後にここに立つ”」


奈々の手が、自然と玲の腕に触れる。

息を呑む気配。視線を上げると、二階の薄暗い空間の隅々が、まるで“次の犠牲者の存在”を示すかのように静まり返っている。


玲は低く、確信を帯びた声で呟いた。


「……時間は迫っている。犯人は、この紙で次の行動を知らせている」


背後で成瀬の無線が微かなノイズを響かせる。


『熱源反応はまだそのまま。移動なし、ただし呼吸パターンが不規則……』


玲はその声を聞きながら、紙に書かれた文字を目に焼き付ける。

薄暗い階段の先に広がる空間。

そこに、次の“扉”と、次の犠牲者の影が――静かに待ち構えていることを、彼女は悟った。


時間:15時18分

場所:旧・文京南印刷所跡付属図書室 二階階段前


そしてそのとき、玲の耳に届いたのは、確かに“階段を上る微かな足音”だった。


木製の階段板がわずかに軋み、薄暗い二階空間に規則正しいリズムで響く。

その音は、誰かが意図的に足音を抑えながらも、確実に上がってくることを示していた。


奈々は玲の横で息を詰め、視線を階段に集中させる。

影班の無線からも、微細な振動と人影感知の反応が届く。


玲は紙片を握ったまま、静かに息を整える。

次の“扉”と次の犠牲者の存在——それが、足音という現実の証拠となって目前に迫っている。


「……来る……」

玲は低く、しかし断固たる声で呟いた。

静寂の中、階段の一段一段が、確実に迫る緊迫の時を告げていた。


時間:15時19分

場所:旧・文京南印刷所跡付属図書室 二階階段前


彼の視線は、ゆっくりと階段の音から離れ、図書室の窓へと向けられた。


曇りガラス越しに外光が淡く差し込み、埃っぽい空気をわずかに照らす。

窓際の景色には、建物の影と樹木のシルエットしか映っていないはずなのに、彼の目はそこに“何か”を探すかのように鋭く光った。


奈々は玲の横で息を殺し、窓の外をうかがう。

影班の情報端末も振動し、微細な人影の変化を捉えていることを示す。


玲は紙片を握りしめ、窓の外の影と階段の足音を頭の中で結び合わせる。

次の行動の選択肢は、すべてここから読み解かれる。


「……窓からも、来るかもしれない」

玲の声は低く、だが確信に満ちていた。

その視線の先には、これから訪れる危機の気配が、はっきりと存在していた。


時間:15時21分

場所:旧・文京南印刷所跡付属図書室 二階階段前


玲の視線が窓の外の薄暗い影に向けられたまま、低く呟いた。

「……安斎。行動が早いな」


背後から、安斎柾貴が静かに現れる。黒のロングコートが影のように揺れ、階段の一段一段を踏む音も最小限に抑えられていた。

玲は彼の動きをじっと見つめ、同時に紙片の数字列と照らし合わせる。


安斎は無言のまま立ち、軽く頷く。

その瞳には冷静さだけでなく、緊張と覚悟が混じっていた。

「……行動は迅速かつ確実に。次の瞬間を待たず、動く。それが今の状況で最も安全な選択だ」


玲は一瞬息を飲み、階段の足音と窓際の影の両方を意識しながら、安斎と視線を交わす。

時間が迫る中、二人の間に言葉以上の意思が流れた。


時間:15時22分

場所:旧・文京南印刷所跡付属図書室 二階階段付近


安斎は、こちらを振り返ることはなかった。

だが、その瞬間、彼の右手がわずかに動いた。


ほんのわずかに、指先が宙を切る。まるで“了解”のサインのように。

玲は息を飲み、微かな動きに全神経を集中させる。


そして――風が吹いた。

男の黒いロングコートがふわりと揺れ、階段の影に溶け込む。

一瞬の隙間を経て、次の瞬間には、安斎の姿はもうそこにはなかった。


残されたのは、階段下にわずかに漂う、冷たい空気と静寂だけ。

玲の視線は、窓際の薄暗い影と、消えた安斎の足取りの行方を追い続けていた。


時間:15時23分

場所:旧・文京南印刷所跡付属図書室 二階階段付近


「……あれが、“影班か」

低く響く声に、玲は静かに頷いた。


「あぁ、俺が率いる」

その言葉に、安斎の残した影が、まるで確信に変わったように感じられた。


窓の外から差し込む午後の光が、階段の影と二人の姿を長く伸ばす。

空気は静かだが、緊張の糸は張り詰めたまま、まだ解けることはない。


時間:15時45分

場所:旧・文京南印刷所跡付属図書室 内部調査室


暗く閉ざされた部屋に、再生装置からかすかなノイズが漏れ始めた。

御子柴理央は、片耳にイヤホンを差し込み、波形モニタに映る不規則なパターンを鋭い眼差しで追う。男性的な骨格と体つきだが、どこか女っぽい柔らかさが漂う彼の表情は、集中するたびに静かに引き締まっていた。


「……間違いない。これは単なるノイズじゃない」

低く落ち着いた声に、部屋の空気が吸い込まれるように反応する。

モニタ上の波形がわずかに揺れるたび、御子柴の指先が滑らかにスライダーを動かし、音源の位置を微調整する。


「この信号……誰かが、この部屋で“声”を残した可能性が高い」

暗がりに浮かぶ彼の横顔は、男らしい輪郭を保ちながらも、繊細な感覚の持ち主であることを物語っていた。

部屋の沈黙の中、微かなノイズが次の行動を促す、不可視の鍵となることを告げていた。


時間:午後3時42分

場所:都内・K部門本部 ビル地下3階・第4解析室


薄暗い解析室の天井灯が、わずかに明滅していた。

機械の低い駆動音が空気を震わせ、壁一面のモニターには波形データが青白く揺れている。


その中心に、御子柴理央は座っていた。

長い前髪が伏せられた横顔を隠し、細い指が再生装置のダイヤルに触れる。


ノイズが走る――。


そして、声が流れた。


「……もし、この声が届いているなら……。

私はもう……時間がない。

真実は――誰も知ってはいけない秘密だ……

だから、沈黙は……必須だ……」


ザザッ……ガリ……。


「……だが、これだけは……伝えたい。

誰かが……私の行動を阻もうとしている。

裏切り者が……

そいつは……“身近にいる”……」


ぷつり。


再生が止まり、地下室の空気から一気に熱が引いた。


御子柴は無表情のままイヤホンを外す。

だが、その瞳の奥にはひどく冷たい光が宿っていた。


「……身近、ね。

それが誰なのか――この周波数の歪みが、全部教えてくれる」


彼は一度だけ深く息を吸い、再生装置に指を伸ばした。

午後3時42分の解析室。

その静寂の中で、確かに何かが動き出そうとしていた。


時間:午後3時43分

場所:都内・K部門本部 ビル地下3階・第4解析室


御子柴は椅子をわずかに引き、端末に接続された音声照合システムへ指を滑らせた。

黒い画面に青い文字列が浮かび上がり、複数の音声データファイルが自動で並び替えられていく。


「この声が“誰のもの”か、照合してみる必要がある」


低く落ち着いた声が解析室の無機質な空気に溶けた。

男のようであり、女のようでもある中性的な声音が、不気味なほど冷静だ。


御子柴は再生装置の音声データを読み込みながら、手元のキーボードを素早く叩く。

波形が広がり、複数の既存データとの照合バーが並列に走った。


ピッ……ピッ……ピッ。


「周波数帯は不安定。だが――“加工はされていない”。

この乱れは、生の恐怖による震えだ」


彼の指がさらに深く分析項目へ潜り込む。


「フォルマント、呼気ノイズ……そして発声の癖。

――これは、“普段は表に出ない職種の声”だ」


僅かに口角が上がる。


「さぁ……隠れている“あなた”を、引きずり出そうか」


静寂の解析室で、音声照合はゆっくりと進行し、

画面の照合率バーが――じわ、じわ、と上昇し続けた。


時間:午後3時46分

場所:都内・K部門本部 ビル地下3階・第4解析室


玲は背筋を伸ばし、手元の資料から目を上げた。

解析中の御子柴、端末を操作する奈々、周囲のモニターに目を配る詩乃――全員の視線が自然と彼に集まる。


「――いいか、皆。これからやることは、単なる分析じゃない。

声の正体を突き止めるだけじゃなく、潜む“影”を炙り出す作業だ」


彼の声は冷静だが、その奥に潜む緊迫が空間を満たす。

解析室の静寂を切り裂くように、全員の心が一瞬で引き締まった。


「誰かが、我々の間に割り込もうとしている。手遅れになる前に――動く」


玲はモニターを指さし、分析の進行状況を示すバーの数字を確認する。

「準備はいいか? 一分一秒が命取りになる」


解析室にわずかに漂う電子機器の低い振動と、メンバーたちの息遣いが、

緊迫した空気をさらに引き立てた。


時間:午後3時52分

場所:都内・K部門本部 ビル地下3階・第4解析室


玲はイヤホンを耳に差し込み、机上の音声波形を凝視した。

「……声のトーンが一定じゃない。ところどころ息が詰まるような間がある。単なる恐怖や焦りじゃなく、深い後悔に苛まれているようだ」


御子柴が淡々と端末を操作しながら付け加える。

「声紋の微細パターンと、既知のデータベースの断片を突き合わせています。現状、数名に絞られましたが、完全一致には至っていません」


奈々が端末の画面に指を走らせ、眉をひそめる。

「玲、ここ……心拍や呼吸の微弱な揺れまで検出してるわ。この声、録音者の生体反応そのままかもしれない」


玲はうなずき、机上の波形に指先を這わせる。

「もしこれが生体反応なら、声が乱れる部分で感情の高ぶり、あるいは罪悪感の閾値が読み取れる。つまり――話している本人は、逃げ場を完全に失っている」


詩乃が小声で観測結果を報告する。

「零秒単位で、呼吸の停止と再開が繰り返されている。録音環境のノイズではなく、明らかに話者の生理的変化」


玲は深く息をつき、静かに指示を出す。

「よし、御子柴、残り候補者の過去データを全て並列処理。奈々、モニターにリアルタイムで声紋の微細変化を表示してくれ。詩乃は、音声の周波数帯域ごとの微細変化を分析」


空気が張りつめる。解析室の機械が低い振動を発し、モニターの波形が連続的に上下する。

メンバー全員の目は、玲の指示に集中し、呼吸すら抑えているようだった。


「秒単位で次の行動が決まる。誰がこの声を発しているのか――今、明らかにする」


玲の声は冷静だが、指先の微かな震えに緊張が滲む。

「全員、見落とすな。音声の細部、息づかい、間合い――小さな違和感が、真実を示す唯一の手掛かりだ」


波形の一つ一つが、解析室の静寂を切り裂くように、メンバーたちの集中をさらに研ぎ澄ませた。


時間:午後3時57分

場所:都内・K部門本部 ビル地下3階・第4解析室


理央の手が再生装置のボタンに触れると、微かなクリック音のあと、部屋に低く、しかし鮮明な声が流れ始めた。

「……もし、この声が届いているなら……私はもう、時間がない……」


奈々が眉をひそめ、モニターの波形に目を落とす。

「玲……心拍も呼吸も、再生音と完全に同期してる……まさか、生録……?」


玲は黙って耳を澄ませ、音声の間合い、呼吸の詰まり、震える声の微細な揺れを解析する。指先で波形をなぞりながら、瞬時に脳内で既知データと突き合わせる。


「……間違いない」


玲の声は低く、しかし鋭く響いた。

「この声は……倉田悠一だ。間違いない、音声の微細な癖、呼吸のリズム、声帯の共鳴……すべて彼に一致する」


理央が端末の表示を指差す。

「声紋マッチ率、99.87%……さらに呼吸パターンと心拍変動まで一致。録音環境を考慮しても、他の可能性はほぼ排除されます」


奈々が息を呑む。

「……つまり、あの“沈黙の予告”も、直接、倉田が残していたってこと?」


玲は無言でうなずき、手元の波形をじっと見つめる。

「彼の後悔、恐怖、そして歪んだ正義感……すべて、この声の中に封じられている。残された手掛かりは、これで明確になった」


解析室には、緊迫した静寂が戻る。

だが、それは安堵の空気ではなく、次の行動を迫られる緊張で、さらに重く、張りつめていた。


時間:午後3時59分

場所:都内・K部門本部 ビル地下3階・第4解析室


ブツッ。再生装置が強制的に停止した瞬間、部屋に不気味な沈黙が落ちた。わずかに残る空気の振動さえ、緊張の重みで増幅される。


玲は眉間にわずかな皺を寄せ、短く息を吐いた。

「いいか、時間がない。理央、装置の再起動は後回しだ。即座に波形データをバックアップして送れ」


理央は無言で頷き、端末操作に手をかける。


玲は奈々の肩に軽く手を置き、低く指示した。

「奈々、影班に連絡。直近の監視カメラと屋外の動きを確認させろ。成瀬、詩乃、現場への移動準備を開始する。すぐだ」


奈々はタブレットを手に取り、素早く通信を開始する。

「了解、玲。すぐに全班に情報を流す」


玲は立ち上がり、解析室の窓越しに外の空を見やった。午後の光は薄曇りで、影が淡く揺れるだけ。

「倉田悠一は、動く。奴が何を狙うか、次の手を読まなければならない」


成瀬が口元で小さくつぶやいた。

「……了解。動きを封じる」


玲は再び波形データに目を落とす。装置は止まったまま、だが情報は残っている。

「行くぞ……全員、準備はいいな」


室内の空気が一瞬張り詰め、各自の呼吸が微かに聞こえる。

そして玲は一歩、解析室の扉を押し開き、次の行動のために廊下へと足を踏み出した。


外では影班が動き、監視カメラの映像と連携を取りながら、次の犠牲者を阻止するために配置につく。

事態は、まさに秒単位の緊迫した局面へと突入していた。


時間:午後4時01分

場所:都内・K部門本部 ビル地下3階・第4解析室


理央は端末を操作しながら、再生装置の停止を確認した目で玲を見た。

「玲……この声、奴が何を伝えようとしていたのか、正確には掴めません。でも……裏切り者の存在って、本当にいるんですか?」


玲は肩越しに理央を見やり、冷静に答える。

「可能性としては十分ある。奴は自分を止める存在を知っている。だから、事前に行動を制限する情報を流してきた可能性が高い」


理央は眉を寄せ、さらに踏み込む。

「では……その“裏切り者”は、僕たちの中にいる可能性も……?」


玲は短く頷いた。

「その線も考慮しなければならない。だが今は、推理だけで止まっている時間はない。影班と現場班を動かす。奴が次の行動を起こす前に、こちらから先手を打つ」


理央は息を吐き、端末の操作を続ける。目に光が宿り、緊迫した空気の中でも冷静さを失わない。

「わかりました……玲。次の指示を、すぐに」


玲は壁際のホワイトボードを見やり、次の犠牲者を特定するためのマップを頭の中で描き直した。秒針の音が鋭く響く中、全員の視線が玲に集中する。


時間:午後4時08分

場所:都内・K部門本部 地下3階・記録保管室


地下階への階段を下りるたび、空気の重さが体を押しつけるように感じられた。窓のない記録室はひんやりとして湿気がまとわりつき、棚の間を抜ける照明の光も弱く、影を濃く落としている。


玲は慎重に足を進め、端末で棚番号を確認しながら目当ての書類を探す。理央は肩越しに再生装置を持ち、耳元でノイズの確認を続けていた。


「奴は、この部屋の情報も把握している可能性がある」玲は低く呟き、暗がりの中で棚の奥をじっと見つめる。「油断できない。影班の動きも確認しながら、手際よく進める」


理央は端末を操作し、棚の間にある防犯センサーや微細振動計の数値をチェックした。「振動はほとんどない……だが、監視カメラの死角はまだある」


玲は頷き、慎重に一歩ずつ前へ。紙の束や封筒の微かな反射が、闇の中でかすかな光を放つ。記録室の空気は静まり返り、緊張感だけが確実に増していった。


時間:午後4時15分

場所:都内・K部門本部 地下3階・記録保管室


安斎は椅子の背もたれに手をかけ、指先で微かな凹凸を探るように慎重に動かした。長年鍛えられた感覚が、木材の隙間や接合部の異質な感触を捉える。


「ここ……何か仕掛けがある」安斎の声は低く、だが確信を帯びていた。


玲は背後で目を細め、息を殺して見守る。「焦るな。触れると作動する可能性がある」


安斎の指先が、背もたれの裏側に小さな凹みを見つけた。手応えは、まるで隠し扉のような精巧な仕掛けを示している。


「……隠されている。巧妙だな。ここに、何か重要なものが仕舞われている」


理央が端末で微細振動計の反応を確認しながら言う。「今のところ振動はない。慎重に操作すれば安全……だが、緊張は解けない」


椅子の背もたれを前に、静寂が室内を支配する。外の世界の音は完全に遮断され、ただ安斎の呼吸と指先の微かな動きだけが、緊迫した時間を刻んでいた。


時間:午後4時22分

場所:都内・K部門本部 地下3階・記録保管室


玲は薄手の耐切創手袋を指先まできっちりと装着し、ファイルの表紙を慎重に持ち上げた。ファイルは厚手のアーカイブ用バインダーで、酸性紙ではなく中性紙が使用されており、経年劣化による黄変や脆化が抑えられていた。金属製のリング綴じは軽く摩耗していたが、開閉には支障はない。


中を開くと、手書きの長文は耐水性インクで丁寧に書かれており、文字の圧痕が紙の裏面にうっすら残っているのが確認できる。文章は科学的記録や心理観察報告の形式を踏まえた詳細な叙述で、単なる日記ではなく、行動記録や観察結果を目的とした専門文書の体裁を備えていた。


貼り付けられた写真は、光沢紙ではなく半光沢の記録用写真紙で、湿気や指紋への耐性を持つ素材が用いられている。人物や物件の位置、状況の把握に必要な情報がきわめて正確に収められ、背後の環境まで読み取れる高解像度の画像であった。


玲は手袋越しにページをなぞりながら、指先で紙の厚みや写真の貼付状態、インクの鮮明さを確認し、内容を慎重に目で追った。その姿勢は、微細な痕跡や改ざんの可能性を逃さない専門家の動きそのものであった。


時間:午後4時23分

場所:都内・K部門本部 地下3階・記録保管室


玲は慎重にページをめくり、貼り付けられた写真に目を走らせた。写真は、当時の事件現場と思われる室内の様子を複数の角度から捉えており、家具の配置、窓の開閉状況、散乱した物品の位置まで鮮明に写し出されていた。


さらに、数人の人物が写り込んでいる写真もあった。全員が顔を半分隠すようにしており、動作や視線の向きから、現場で何らかの行動をしていたことが推察できる。写真のコントラストは微妙に調整され、背景の陰影や床の質感まで読み取れる精密な記録になっていた。


玲は手袋越しに写真の紙面を軽く押さえ、指先で光沢や厚みを確認しながら、人物の位置関係や動線を頭の中で整理した。その表情は冷静だが、眼差しは確かな緊張を帯びていた。まるで、現場の空気そのものを目の前で再現するかのように、彼は写真の一枚一枚を丹念に読み解いていった。


時間:午後4時26分

場所:都内・K部門本部 地下3階・記録保管室


玲は薄暗い地下記録室の冷気を肌で感じながら、手袋越しにファイルのページをゆっくりめくった。紙の手触りはざらつき、長年の保管による微かな黄ばみが頁ごとに残っている。


そこに記されていたのは、時間を遡るような一連の告白だった。手書きの文字は丁寧だが、ところどころ筆圧が強くなっており、書き手の心の動揺や葛藤がページ越しに伝わってくる。文章の間に挿入された図やメモ書きは、事件当日の行動、場所、人物の関係性を細かく示しており、まるで現場の空気をそのまま封じ込めたかのようだった。


玲は息を潜め、文字のひとつひとつを視線で追いながら、告白の内容と写真資料の情報を頭の中で慎重に照合する。過去と現在が交錯し、彼の思考は静かな緊張感の中で研ぎ澄まされていった。


時間:午後4時32分

場所:都内・K部門本部 地下3階・記録保管室


玲はファイルのページを閉じる手を一瞬止め、息を吐いた。文字が心に深く響く。


――「彼女は、自らの意志で“事故”を装い、沈黙を選んだ。誰にも知られず、しかし真実は風化してはならない」


文字通り、紙の上に残されたこの一文が、玲の胸に重く落ちる。声には出さずとも、その意味を噛みしめるように、彼は指先でページを押さえた。


地下の冷たい空気が、微かに静寂を震わせる。外界の喧騒は届かず、ただ彼とファイル、そして隠された過去の声だけがそこにあった。玲の視線は、写真と手書きの告白が刻んだ事実を一つひとつ追い、次に取るべき行動を緻密に計算していた。


時間:午後4時35分

場所:都内・K部門本部 地下3階・記録保管室


玲はファイルの中の写真に目を留めた。一枚は廃屋の外観を写しており、窓ガラスは割れ、壁にはひびが走り、廃材が散乱している。あの場所で何があったのか、時間の経過だけが静かに証言しているようだった。


もう一枚には、ある女性が不自然な影を背負うように写っている。光の角度か、はたまた誰かの存在か、女性の後ろには薄く黒い影が伸びており、その影の意味を理解しようと、玲は息を殺して写真を見つめた。


「……誰かが、あの場に潜んでいたのか」

玲の声は低く、ほとんど囁くようだった。指先は次のページへと自然に滑り、ファイルの奥に隠された事実を探ろうとする。静かな地下室に、緊張と冷たい空気が混ざり合った。


時間:午後4時42分

場所:都内・K部門本部 地下3階・記録保管室


玲はノートパソコンの前に座り、解析ソフトを立ち上げた。画面には、特殊復元用のツールが起動され、破損や削除されたデータの一覧が次々と表示されていく。


「消されていると思われた記録も、残留痕から復元可能……ここまでやられても、痕跡は残る」

玲の指がキーボードを静かに打ち、マウスを操作するたび、画面上で小さな進捗バーが緩やかに進んでいく。


周囲の静寂の中で、わずかなファンの音とキーボードのタッチ音だけが響き、緊張感を際立たせる。復元作業は慎重を要し、ミスは致命的だ。玲は息を整えながら、過去の事件と絡む断片的な証拠を、今ここで取り戻そうとしていた。


理央は画面を凝視したまま、眉間に深いしわを刻み、低く呟いた。


「……このデータ、単なる削除じゃない。多段階で改ざんされてる。一度消して、別の情報で“上書き”して、その上からさらにノイズで覆ってる……」


彼の細い指先がキーボードの上で止まり、画面の波形を指し示す。

波形は規則性のないゆらぎを繰り返し、ところどころに人工的な“断絶”が走っている。


「見ろ、ここの振幅の乱れ。時間軸が連続していない。……これは、意図的に“嘘の時間”を作ってる痕跡だ」


わずかに震える声には、驚愕と確信が入り混じっていた。


「つまり……この記録を消した人物は、よほど“知られたくない真実”を握ってる。

しかも……これは外部犯じゃない。K部門内部か、それに“準ずるアクセス権”を持った人間だ」


その言葉が落ちた瞬間、地下室の空気は一気に冷え込んだ。

玲も、安斎も、成瀬も――静かに息を飲んだ。


理央はさらに画面に顔を寄せ、囁くように言った。


「……まだ“残ってる”。完全には消えていない。

この記録の奥に――裏切り者が残した、決定的な痕跡がある」


時間: 午後4時42分

場所: K部門本部 ラウンジ


外は本降りの雨に変わっていた。

ラウンジの大きな窓を叩く雨粒が、途切れなく“パララ……パララ……”と音を立て、

静まり返った室内に低いリズムとして沈み込んでいく。


ソファに腰掛けた玲は、濡れた窓ガラス越しに揺れる街灯の光をぼんやりと見つめていた。

雨の音が強まるたびに、胸の奥でざわつく何かが波立つ。


その沈黙を破ったのは、理央の低い声だった。


「……玲。データの解析、進展があった」


ソファの背にもたれたまま、玲はゆっくりと顔を上げる。


「例の削除データか?」


理央は頷き、持っていたタブレットを胸の前で軽く回す。


「“痕跡”が出た。犯人は……内部の人間だと、ほぼ確定した」


雨音が一段と強くなる。

まるでその情報を肯定するかのように、窓が震えた。


玲は息を吐き、立ち上がると理央の方へ一歩踏み出す。


「……名前は、割れたのか?」


理央はわずかにためらい、その目を細める。


「まだ断定できない。でも……候補は、

“事前に予告状の原本へアクセスできた者”、

“上泉と接点を持つ立場だった者”、

“K部門の記録室に自由に出入りできる者”――

その三つに当てはまる人物だ」


玲は雨に滲んだ窓の向こうへ視線を向け、静かに言った。


「……つまり、俺たちの誰かが“範囲内”にいるってことか」


ラウンジの空気がわずかに軋む。

成瀬が黙ってカップを置く音が、妙に響いた。


理央は続ける。


「でも……その人物は一つ、致命的なミスをした。

削除ログの奥に、消しきれない“手癖”が残ってる。

もう少しで――誰なのか、特定できる」


玲は深く息を吸い、静かに頷いた。


「……分かった。理央、その解析を最優先で続けろ。

裏切り者が誰でも――“次の扉”が開く前に見つけ出す」


雷鳴が遠くで低く唸った。


その瞬間、ラウンジのドアがコンッ……と小さく叩かれた。


そして――

その向こうに立っていた人物の名前が、

次の展開を大きく揺さぶることになる。


時間: 午後5時18分

場所: K部門本部 地下調査室


窓のない調査室。

灯りは天井の蛍光灯が一本だけ。

その冷たい白光が、机の上に置かれた封筒の表面を浮かび上がらせていた。


封筒には、これまでの予告状とは異なる――

“最後のコード”が貼り付けられていた。


玲がそれを静かに見つめていると、

背後のドアが〈ピッ〉と電子ロックを解除しながら開いた。


黒いスリムなケースを抱えた人物が姿を現した。


長い前髪が片目を隠し、

白衣のポケットには何本もの特殊ペン。

黒縁の細い眼鏡の奥にある瞳は、

まるで常に計算式を追っているような鋭さ。


「……呼んだのは、お前か。玲」


低く、しかしどこか中性的な声。

現れたのは、鷹村朔たかむら さく――

K部門が誇る“コード解析スペシャリスト”だった。


理央でさえ解読不能だったデータ暗号を、

過去に三度、数分で解いた天才。

影班とは違い、直接戦闘力は皆無。

しかし“情報戦における一人部隊”と呼ばれる存在。


玲は短く応じる。


「朔。これを見てくれ。

最後の予告状だ。……お前以外、読めるやつはいない」


朔は無言で封筒に歩み寄り、椅子にも座らず、

そのまま身を乗り出してコードを覗き込んだ。


貼られた紙には、幾何学的な線、数字列、

そして意味の分からない黒点と赤い三角形が散っている。


「……ふん」


朔は鼻で笑い、ケースを机に置いた。

中から取り出したのは、特殊色の分析スキャナ、

偏光レンズ、そして黒い小型の暗号パッド。


「三層のコードだな。

第一段は“視覚誘導”――見る者を惑わせるための偽装。

第二段は“数列の崩し”。

……そして第三段は、かなり厄介だ」


玲が目を細める。


「第三段?」


朔はうつむき、コードの縁を指先でなぞりながら言う。


「犯人は……このコードに“時間の概念”を入れていない」


「……どういう意味だ?」


朔はゆっくり顔を上げ、

玲と理央、成瀬たちを順に見回した。


そして静かに告げる。


「この暗号に書かれているのは、

“時刻”でも “日付”でも “順番”でもない。


――“人物名”だ」


調査室の空気が、一瞬で張りつめた。


玲がわずかに息を呑む。


「……誰だ」


朔は暗号パッドに解析した数列を入力しながら、

天井の蛍光灯の白光を反射させるように

封筒の黒点パターンへ偏光レンズをかざした。


解析バーが、緑色で刻々と伸びていく。


そして――

朔の指が止まった。


目が、鋭く細められる。


「……解析、完了した」


玲が一歩、前へ。


朔は封筒から目を離さず、小さく囁くように言った。


「最後のコードが示している名前は……」


「――“佐々木圭介”だ」


静まり返った調査室に、蛍光灯の唸り音だけが残った。


了解しました。名前のふりは一切入れず、自然な地の文と台詞のみで再構成します。



場所:ロッジ地下1階・通信配線室前

時間:22:52


「……扉の前、熱反応なし。内部の空気流動、ほぼゼロ。誰かが動いている気配はない」


「でも、この匂い……焦げた回路。つい最近、何か焼いたわね」


「精神残滓、薄いが――“誰かが急いでいた”痕跡がある。

意識の揺れが散ってる。焦り、迷い……そして決断」


「開けるぞ。三秒後に突入だ。前に出ろ」


「了解――3、2、1……!」


扉が開いた瞬間、蛍光灯が低く唸りながら点灯し、白い光が狭い室内に広がった。

積み上がる配線ラック、むき出しのケーブル、壁一面に貼られた回線図。

しかし、人影はどこにもない。


「……空。逃げられた?」


「違う。ログの最終記録、まだ動いてる。

誰かがここにアクセスしたまま、“遠隔で操作を続けてる”」


「つまり、ここは中継地点にすぎない。

犯人はリアルタイムで私たちの動きを見ている可能性がある」


「残滓、増えた……“観察”。

私たちを見下ろすような意識だ」


「くそ……ターゲットはまだこの建物のどこかにいる」


室内を見回したリーダーの視線が、配線ラックの奥に止まった。


「このルート……“別の階につながってる”。どこに出る?」


「解析中……

出た。最終ルートの終点――“ロッジ最上階・物見台ストレージ室”」


「全員、上へ戻るぞ。

犯人は“上”にいる。逃がすな」


場所:ロッジ地下1階・通信配線室

時間:22:54


かすかな湿気と埃の匂いが漂う中、細く延びる配線管の下に並ぶ古い通信端末群。

その一角――“No.305B”と刻印された、ひときわ古い中継端末の前で、玲は足を止めた。


沈黙が落ちた。


金属ケースには薄く手の跡が残っている。

最近触れられた形跡――誰かが、迷いながら、しかし確かにここを操作した。


内部の基盤は一部焦げ、補修した形跡も乱雑だ。

そして奥のメモリスロットには、ひどく擦り減った古い転送カードが挿したままになっていた。


玲の喉がひとりでに鳴る。

カード表面には、薄く指で書いたような線。

――“S-CASEエスケース

そう読める痕があった。


その瞬間、玲の表情がわずかに揺れる。


「……圭介、嘘だろ」


息を殺すような声で呟いた。

その声には驚愕だけでなく、信じたくない予感の色が滲んでいた。


背後で安斎が低く問う。


「どうした」


玲は答えず、ただカードをひとつだけ持ち上げ、光に透かした。


――そこに刻まれた“識別コード”が示す名前。


その人物だけが、この年代の中継端末にアクセス可能だった。


そしてその名前は。


「……圭介さん、なのか?」と、奈々が小さく息を呑む。


玲はわずかに眉を寄せ、低く囁いた。


「まだ断定はしない。

だが――ここを使ったのは、《佐々木圭介》のアクセス権を持つ誰かだ」


地下室の冷気が、一瞬だけさらに冷たくなった気がした。


場所:ロッジ地下1階・通信配線室

時間:22:55


背後で、静かに息を呑む音がした。

奈々がハッと何かを思い出したように顔を上げる。


「……十年前、中央図書館が火災で閉鎖になる前に、一時的に“記録転送ライン”として使われていた端末があったの。

その最終運用コードが――305Bよ」


室内の空気が、ひと呼吸ぶん止まった。


玲はゆっくりと振り返り、奈々の言葉の意味を頭の中でつなぎ合わせる。


十年前。

中央図書館の火災。

“記録転送ライン”――極秘の記録を、別の保管区へ一時的に避難させるための特別ルート。


そしてその終端コードが、今玲の目前にある“305B”。


安斎が低く呟く。


「……つまり、ここを使った者は、十年前の記録ルートを知っていたということか」


奈々は無言で頷く。


玲はカードを握りしめたまま視線を落とす。

カードの縁についた、古い摩耗痕。

何度も何度も誰かが使い続けた痕跡。


「十年前の火災で失われたはずの記録……

もし誰かが、あの混乱に紛れて一部を回収していたとしたら――」


玲の声が低く沈み、最後の言葉はほとんどささやきになった。


「――まだ“生きている”可能性がある」


場所:ロッジ地下1階・通信配線室

時間:22:57


玲は配線口の端末蓋にそっと手をかけ、慎重に力を入れて開いた。

金属がわずかに軋む音とともに、内部の暗がりが露わになる。


内部には、年代物の基盤が複雑に積み重なるように配置されていた。

ほこりを吸い込んだ古い冷却ファン、使われていない光ファイバーの束、そして――


その奥に、明らかに“後付け”された小型ユニットがひとつ。


奈々が息を呑む。


「……待って。これ、十年前の標準規格じゃない。

誰かがこの端末を延命させて、外部と直接リンクできるように改造してる」


玲はライトを近づけ、静かに指先でユニットの縁をなぞった。


「……誰が、いつの時点でこんなことを?」


すると、安斎が一歩近づき、低い声で言った。


「改造痕の工具跡……細かい刃筋。

これを扱ったのは――“素人じゃない”。」


玲は黙ったまま、さらに内部を照らす。

その瞬間、基盤の裏側に貼り付けられた、細長い黒いカードが目に入った。


古い樹脂が白く乾き、剥がれかけている。

そこには、小さな文字でこう刻まれていた。


《転送ログ:使用者ID……K-SK》


玲は固まった。


そして、喉の奥で誰にも届かないほどの低い声で、呟いた。


「……圭介、何をした……?」


場所:ロッジ地下1階・通信配線室

時間:22:59


玲は視線を床に落とした。薄暗い照明の下、ほこりに埋もれるようにして、一枚のメモが静かに存在していた。


朱音の手が届く距離に置かれたその紙片――文字は乱れながらも、確かな筆跡で綴られていた。


「……朱音の命と引き換えに、仕方なく……」


玲は読み進めるたび、言葉が胸を締めつけるのを感じた。圭介は、誰にも知られずに背負わなければならなかった重責を、静かに、しかし明確に書き残していたのだ。


紙片には、脅迫の状況と、避けられなかった選択の経緯が淡々と、だが痛々しく記されている。


玲は深く息を吐き、目の奥に一瞬だけ影を宿した。

その瞬間、頭の中で計算が回り、次の行動が明確になる――「今、動かなければ朱音が――」


紙片をそっと手袋越しに握り、玲は静かに立ち上がった。


場所:佐々木家・旧居

時間:23:12


玲は旧居の重い扉を押し開け、静まり返った室内へ足を踏み入れた。家具の間に積もる埃の匂い、薄暗い照明の影が、過去の時間をそのまま閉じ込めたかのようだった。


「ここが……旧居か」


床に散らばる古い新聞や雑誌の紙片を踏みしめないように、玲は慎重に歩を進める。壁際には、朱音が描いた小さなスケッチブックが無造作に置かれており、淡い光にほんのり反射していた。


彼の視線は、すぐに奥の居間へと向かう。そこには、かつて家族が過ごした温かな痕跡と、しかし今はどこか凍りついた空気が混ざっていた。


「……圭介がここで、何を思い、何を決断したのか。もう一度、確かめなければならない」


玲は手袋をはめ直し、居間の中央に置かれた古いテーブルにそっと近づいた。上に置かれた紙片や小物に、過去の記憶と今の真実が静かに交錯している。


場所:佐々木家・旧居

時間:23:37


夜の静寂が、朽ちかけた家屋全体を包んでいた。湿った木の匂いと雨音が入り混じり、室内の空気はひんやりとしている。壁にかけられた古い時計の針は止まり、時間そのものも凍ったかのようだった。


玲は低く息をつき、慎重に足音を忍ばせながら廊下を進む。雨で濡れた窓越しの街灯が、わずかに廊下の床に反射し、影を長く引き伸ばしていた。


居間のテーブルには、散乱した書類と写真、朱音の小さなスケッチブックが置かれている。玲はひとつひとつの紙片に目を落とし、過去の記憶と現在の事実を照らし合わせるように読み込んでいった。


「ここに残された痕跡……全てが、真実への手がかりだ」


雨音だけが、重く静かな空間に響き続けていた。


場所:佐々木家・旧居

時間:23:42


白黒のぼやけた輪郭が、薄暗い室内の隅に浮かび上がった。顔の詳細は影に隠れて判別しづらいが、左手首に巻かれた特徴的なバングルだけが、確かに目に留まる。


玲はゆっくり息を整え、距離を保ったままその人物を見据える。影の中から微かに聞こえる衣擦れの音が、室内の静けさをさらに引き締める。


「……あのバングル……間違いない。彼女だ」


彼の声は小さく、しかし確かな確信を帯びていた。雨の音が外から絶え間なく入り込み、緊張の糸をさらに張らせていた。


時間:午前10時52分

場所:旧佐々木家・書斎


かすかな湿気と紙の匂いが漂う書斎で、奈々はノートパソコンの端末を素早く操作し、旧戸籍記録から旧佐々木家の古い写真を呼び出した。画面には、数十年前の集合写真や個人ポートレートが鮮明に表示される。


奈々の指がスクロールするたびに、朱音や沙耶も息を潜めて画面を覗き込む。比較は一瞬だった。輪郭、鼻筋、そして左手首に巻かれた特徴的なバングルの形。


「……間違いない。これ、間違いなく澄子さんだわ」


玲はゆっくりと頷き、紙片を握る手を引き締めた。

「過去の家族写真が、今の状況のヒントになるとは……。澄子さんが知る秘密の意味を、これから慎重に洗い出す必要がある」


沙耶は静かに立ち上がり、窓の外を見つめる。

「祖母は……きっと、私たちに伝えたかったんだわ。朱音の安全のために」


朱音は小さく息をつき、スケッチブックを抱きしめたまま、祖母の姿を画面越しに見つめていた。


書斎の空気は沈黙に包まれながらも、家族の絆と隠された真実への緊張感が静かに高まっていった。


時間:午前10時55分

場所:旧佐々木家・書斎


書斎の空気はひんやりとし、外から差し込む光は薄曇りの午前の柔らかさを帯びていた。机の上に置かれた古い時計の秒針が、まるで呼吸を止めたかのように静かに刻を刻む。その微かな音だけが、沈黙に満ちた部屋で確実に時の流れを伝えていた。


奈々は端末を操作しながら、旧戸籍記録の写真と現在の佐々木家の状況を照合する。画面に映る澄子の姿と沙耶の表情を交互に見つめ、指先が軽く震える。


「……やはり、祖母はここに何かを隠していた。朱音の安全と、家族の過去、どちらも絡んでいる」


玲は静かに頷き、手元の紙片を握り直す。

「時間は貴重だ。澄子が知る情報を慎重に引き出さなければ、次の展開に影響する」


朱音はスケッチブックを抱きしめ、わずかに震える手でページを押さえた。外の風が窓に吹きつけ、雨粒がガラスを叩く音が部屋に重く響く。


秒針の規則正しい刻みが、家族の秘密と今後の行動の重みを静かに示していた。


時間:午前11時03分

場所:旧佐々木家・書斎


玲の視線は、デスク上のモニタに映る記録ファイルへと静かに向けられた。ファイル名は「LastStatement_AK_21_59」と表示され、右端にはタイムスタンプが刻まれている。


モニタを拡大すると、映像は薄暗い室内で撮影されたものと分かる。被写体は座ったままの女性で、顔の表情は硬く、目元に微かな疲労と緊張が滲んでいた。背景には簡素な本棚と、日常生活を示す小物がわずかに見える。


音声は小さく、淡々としているが、その一言一言には抑えきれない感情の震えが乗っている。映像内の女性は、紙に記されたメモや、手元の小物を時折確認しながら、何か重要な証言を残そうとしている様子だ。


玲は手袋をはめた手でマウスを握り、再生ボタンに指をかける。画面の右下には再生時間と録画日が小さく表示され、映像はおそらく事前に自動録画されたものであることを示していた。


「……これが、朱音や沙耶、そして澄子に関わる“最後の証言”か」


彼の声は低く、モニタの光が顔に反射して一瞬だけ緊張の影を落とした。画面の女性が何を語るか、その瞬間にすべての謎が動き出すことを、玲は直感していた。


時間:午前11時04分

場所:旧佐々木家・書斎


彼の指が再生ボタンに触れたその瞬間、室内の空気が一瞬、張り詰めたように変わった。わずかにモニタのノイズが走り、画面の光が淡くちらつく。


映像の女性は軽く息を整え、視線をカメラに向けたまま、低く、しかし明瞭な声で語り始める。「もし、これを見ている人がいるなら……私の意志を知ってほしい……」


言葉の間には、静かな決意と、押し殺した悲しみが混ざっていた。モニタ越しに映る彼女の指先は微かに震え、手元の書類や古い写真をそっと押さえる。その動作ひとつひとつが、過去の記憶や封じられた秘密の重みを伝えているようだった。


玲は息を殺し、画面に映る女性の一挙一動を見逃さないように集中する。背後で奈々が端末を操作し、音声の解析ソフトが微細な声の波形を拾い上げ、すべての情報を逐一解析している。


この瞬間、ただの記録映像ではなく、封印された真実の扉が開かれようとしていた。


時間:午前11時06分

場所:旧佐々木家・書斎


詩乃の席に置かれた解析端末が、玲からの暗号化通信を受信すると、画面が瞬時に光った。画面上には「SECURE LINK—PRIORITY: HIGH」と赤字で表示され、通常の社内通信ルートとは異なる“特別ルート”経由で送信されたことを示している。


端末の小型スピーカーからは、微かに通知音が鳴り、詩乃は即座にデスク上の解析ツールを立ち上げた。スクリーンには“NO.305B TRACEBACK INITIATED”と表示され、次の指令が自動的にポップアップする。


玲の指示は明確だ。「No.305Bへの最終接続ログを可能な限り遡り、どの端末からアクセスがあったか、タイムスタンプ付きで全履歴を抽出せよ。さらに、ルート内の通信中継ノードを解析し、経由した全中継端末とそのセキュリティ認証痕跡を確認せよ」


詩乃は即座に作業を開始する。端末はLANおよび旧式シリアル接続のハイブリッド監査機能を駆使し、305Bへのアクセス経路を逆行解析する。画面上に、アクセス日時・端末ID・接続ログ・暗号化キーの残存パターンが逐一表示され、詩乃は指先でスクロールしながら、履歴の異常点や断絶箇所を確認していく。


旧佐々木家の静かな書斎の中、端末の電子音だけが、緊迫した作業の進行を告げていた。


詩乃は小さく息を整え、ヘッドセットの位置を直しながら端末の前で静かに呟いた。


「……始めるわ」


その声は決意というより、“覚悟”に近かった。


画面には既に、No.305Bの逆行トレースマップが展開しはじめている。

複数の中継ノードが光点になって浮かび上がり、過去へ遡るほど色が薄くなる。

詩乃はそのひとつひとつを、まるで“毒の混入経路を洗い出す”ような鋭さで検証していった。


指先が軽やかにキーボードを走る。

解析ウィンドウが次々と開き、過去ログの断片が高速で組み上がっていく。


「……不自然なログの欠落。いや、削除痕ね……」

詩乃の眉がわずかに動いた。


隣で奈々が息を呑む。

玲から預かった“特別ルート”は、通常では到達できない深層ログ領域までアクセスを可能にしている。


詩乃は続ける。

「誰かが……意図的に通信経路をごまかした。中継ノードを二つ“踏み台”にして……でも、痕跡の残し方が甘い」


画面の奥で、ひとつのノードが赤く点滅した。


「――ここ。305Bに最初に接続した“本当の発信源”が……見える」


雨音が遠くで鳴っていた。

しかし、書斎の中の緊張は、その音すら飲み込んでいった。


時間: 午前10時34分

場所: 都内・玲探偵事務所・地下通信解析室


一瞬、キーボードを叩く指が止まる。詩乃は深く息を吸い込み、モニタに映る逆行トレースの最終ノードをじっと見つめた。

「……この接続、完全に偽装されているわ。外部からの踏み台経由じゃない。内部……つまり、この建物の誰かが、意図的にアクセス経路を操作している」


隣で奈々が視線を交わす。「内部……って、まさか……誰かここにいるってこと?」


詩乃はキーボードを叩き直しながら冷静に答えた。「まだ断定はできない。でも、この痕跡は消去されていない。踏み台の痕跡を辿れば、発信源の人物まで絞り込める」


玲は椅子に深く腰掛け、額に手をあてて考えを巡らせた。静かな解析室に、低く緊張した呼吸だけが響く。


時間: 午前10時36分

場所: 都内・玲探偵事務所・地下通信解析室


詩乃は指先でスクロールバーを操作しながら、解析画面のログを確認する。

「次に確認できるのは、5日前の県庁地下記録室。ここで一時的に“通信不可エリア”が発生していた。物理記録搬送のタイミングと完全に重なってる」


奈々が眉を寄せる。「つまり、誰かがあのタイミングで、意図的に通信を遮断したってこと?」


「可能性が高いわ」と詩乃は頷き、モニタの拡大図に赤い円を描きながら続ける。「アクセスの痕跡が残っていれば、搬送の経路と人物を割り出せる。だけど、慎重に扱わないと、痕跡も消されかねない」


玲は椅子にもたれ、天井の蛍光灯の光に目を細めた。「なら、そこから逆算だ。誰が、その日に現場にいたか……全部洗い出せ」


室内には、低く緊張した空気だけが漂っていた。


時間: 午後3時12分

場所: 玲探偵事務所・地下通信解析室


詩乃は、複数のコードウィンドウを左右に並べ、指を走らせるようにキーボードを叩き続けていた。

その目は一点も揺れず、モニタに流れる暗号化ログの“揺らぎ”だけを追い詰めている。


「……微弱なパケットの層が二重になってる。誰かが意図的に“ノイズ包囲”でログをかき消してる。それでも……掘り下げれば痕跡は残るはず……」


彼女はひとつ息を吸い、次のコマンドを打ち込む。

端末が一瞬だけ低い警告音を鳴らし、暗号化されたログが分解されていく。


「……来た、層の剝離。偽装ログの裏側……本物のルートが覗いた」


奈々が緊張で身を乗り出す。「見える?」


詩乃は小さく頷き、コードの一部をピンポイントで固定し、画面の左端に浮かぶ地図データを引き寄せた。


「今、信号源を一点に絞り込んでる……

……出たわ。“305B”の最終発信は――佐々木家旧居の裏口に一度、近接していた形跡がある。

時刻は、事件当日の午後2時31分」


玲が息を呑む音が、静かな室内にはっきりと響く。


詩乃は続ける。

「位置情報の揺らぎがほとんどない……誤差は1メートル以内。つまり“誰か”が端末を持って、裏口の真横に立ってたってことになる。

発信ログはその一度きり。完全に狙って送られた“単独信号”。」


奈々が小さく震える声で問う。「その“誰か”って……」


詩乃は画面から目を逸らさず、冷静に言い切った。


「――佐々木家の旧居に、事件当日の午後2時31分。

“305B”を持ち込んだ人物がいた。それが、記録を操作し、沈黙を作った“実行者”よ。」


時間: 午後3時17分

場所: 玲探偵事務所・地下通信解析室


詩乃は指先を止めず、モニタ上の端末ログを素早くスクロールさせながら続けた。


「それと……305B、もともとは“K部門管理下の記録タグ”よ。

通常なら、部外流出は不可能なはずの記録物。

だけど、ログの不自然なルートとタイムスタンプを解析すると……誰かが内部アクセス権を偽装して、物理的に搬出した形跡が見える。

つまり、あの日、あの場所で――計画的に記録が動かされた可能性が高い」


玲はゆっくりと息を吐き、視線を詩乃に向けた。

「内部アクセス……つまり、部内に“裏切り者”がいるってことか」


詩乃は頷き、指先で画面上の赤い点を追う。

「正確には、部外者を装った“内部操作”。ログ改ざんも同時に行われている。誰かが全てを計算して、記録と人を操った――まさに完璧な隠蔽工作よ」


奈々が震える声で続ける。「……それって、朱音や美晴のことにも関わってくるの……?」


詩乃は無言でモニタに視線を落とし、指先を微かに動かして次の解析へ移った。

空気が一瞬、張り詰める。室内の時計の秒針だけが、確実に刻を刻んでいた。


時間: 午後3時21分

場所: 玲探偵事務所・地下通信解析室


詩乃は画面を凝視したまま、淡々と告げた。

「関わっている可能性は高い。だけど、直接的な証拠はまだ……ない」


玲は彼女の言葉に短く息を吐き、机の書類に視線を落とす。

「可能性が高い、だけか……それでも行動は急がなければならない」


奈々が端末から目を離さず、低く囁くように言った。

「……次の手、どうする?」


詩乃は指先で画面をなぞり、解析結果の細かな線を辿りながら答える。

「まず、305Bの物理的経路を完全に復元する。裏口の痕跡、搬出時刻、そして不自然な信号断絶のタイミング――全てを線で結べば、誰が内部アクセスを偽装したのかが見えてくる」


玲は頷き、淡い蛍光灯の下で再び慎重に計算を始めた。

沈黙の室内に、解析ソフトの電子音だけが微かに響いた。


時間:午後3時24分

場所:玲探偵事務所・地下通信解析室


数秒の沈黙が室内を包んだ。

詩乃の指先が止まり、薄暗いモニタに浮かぶ波形だけが淡く揺れている。


細く息を吸った彼女は、眉をわずかに寄せた。


「……これは、ちょっと普通じゃないわね」


画面には二種類のデータ痕跡が重なって表示されていた。

ひとつは、通常ログの上書き――“誰かが見た痕跡”。

もうひとつは、その奥に沈んでいた、暗号化解除の痕跡と、“削られたはずの閲覧記録”が復元されかけた形跡。


まるで、誰かがログそのものを“二重構造”で偽装したかのようだった。


詩乃は波形の一部を拡大し、低く言う。

「……閲覧ログの表層は正常。でも下層にあるこれは、削除されたファイルを無理やり復元したパターン。

時間の流れも一致してない。……誰かが“編集”してる」


玲が傍らに歩み寄り、モニタを覗き込む。

「二重の履歴……誰が、何のために?」


詩乃は淡々と答えた。

「偽装のためじゃない。“消された痕跡を、さらに隠すため”よ」


その言葉に、室内の空気が静かに震えた。


時間:午後3時27分

場所:玲探偵事務所・地下通信解析室


玲はモニタに目を落としたまま、低く鋭い声で指示を出す。

「……成瀬、安斎。通信開いて」


成瀬由宇は立ち上がり、イヤホンを押さえながら端末の操作を開始する。

「了解……回線はすでに待機状態、これから305Bの追跡信号を受け取る」


安斎柾貴も冷静に手元のデバイスを確認し、無線を起動。

「接続完了。モニタに信号を映す。二次転送の痕跡も追尾可能」


玲は手元のペンでメモを取りながら、波形を凝視する。

「詩乃、このログの解析結果をリアルタイムで共有しろ。動きがあれば即報告」


詩乃は淡々とキーボードを叩き、通信経路と履歴を高速で解析し始める。

「了解。305Bの最終位置と全ルート、瞬時にマッピングするわ」


空気が一気に緊張し、地下室全体に低い緊迫感が広がった。

窓のない室内では、蛍光灯のチカチカという微かな音だけが、時の重みを際立たせる。


時間:午後3時31分

場所:玲探偵事務所・地下通信解析室


詩乃は肩の力を抜き、キーボードの上で指を滑らせながら解析結果を口にした。

「305Bの信号、最終発信地点から逆算した軌跡はほぼ確定。午後2時31分、旧佐々木家の裏口付近に接近。その後、信号は短時間途絶、再び動き出している」


成瀬がヘッドセットを握り締め、低く返す。

「途絶? つまり誰かが物理的に端末を操作して遮断したってことか」


安斎も映像画面に目を凝らし、補足する。

「途絶直前の映像には、人影が一瞬だけ映った。黒い上着でフードを被っている……ただ、特定はまだ不可能だ」


詩乃は冷静に分析を続ける。

「さらに興味深いのは、信号が再開した直後、履歴に“復元痕”と見られる異常な暗号列が追加されている。意図的に操作された形跡がある」


玲は視線を両者に向け、低く言葉を絞り出す。

「全員、この動きに注視。次の行動まで、絶対に目を離すな」


室内の蛍光灯のチカチカと、解析端末の微かな電子音だけが、緊張感をいっそう際立たせていた。


時間:午後3時32分

場所:旧佐々木家周辺・裏庭


成瀬はイヤホン越しに詩乃の指示を確認すると、静かに呼吸を整え、一歩ずつ裏庭の影に身を潜めながら前進した。地面の湿った落ち葉や小石の感触を足裏で確かめ、微かな音も漏らさぬよう注意深く歩く。


「安斎、俺の位置を確認してくれ。視界に入るものはすべて報告する」


安斎の声が通信越しに響く。

「了解。建物の角、植え込み周辺を重点監視。微細な動きも拾っている。成瀬、距離はおよそ十五メートル、視認範囲内」


成瀬は小さく頷き、壁際に身を寄せながら慎重に角を曲がる。薄暗い庭の陰影が、まるで彼を隠すためにあるかのように揺れる。手には軽量のダンパーを構え、次の瞬間に備える。


「動きがあれば即報告。次の瞬間、逃すわけにはいかない」


彼の声には、影班としての冷静さと、任務を遂行する鋭さが混ざっていた。


時間:午後2時45分

場所:旧中央図書館別棟・西館制御室


灰ランタン――仮想空間に浮かぶ暗灰色のUI画面に、冷たい光が反射する。画面上には、重々しく刻まれた文字列が整然と並び、操作する者に緊張感を与えていた。


《ログ最終更新:2025年6月5日(木)14:31》

《アクセス者名:K-Δ7(記録無効ID)》

《端末所在:旧中央図書館別棟・西館制御室》


画面に映し出された情報は、端末の稼働履歴と不正アクセスの痕跡を明確に示している。灰色のUIは、仮想空間でのデータ操作を忠実に再現しており、微かな入力音が静寂を切り裂く。


「……このID、通常の利用者じゃない。完全に偽装された外部アクセスだ」


詩乃が低く呟き、画面の拡張ウィンドウを操作して詳細ログを展開する。暗号化されたアクセス経路と復元データの並列表示が浮かび上がり、旧西館制御室からどのルートで情報が流出したのかを、一目で示していた。


「成瀬、安斎。このラインを追えば、記録搬出の経路を辿れる。端末が残した微細な痕跡を逃すな」


仮想空間の灰色の光が揺れ、重々しい沈黙の中、影班の呼吸と指先の動きだけが現実世界に微かな振動を残していた。


時間:午後2時47分

場所:旧中央図書館別棟・西館制御室


空間のノイズが、灰色の霧のようにディスプレイ全体を霞ませ、視界をぼんやりと覆う。小さなちらつきが画面の端に現れ、意図せぬ信号が微かに波紋を描くようだった。


「……この痕跡、ありえない」


詩乃が指先を止め、画面を凝視する。ログ上には、存在してはいけないID“K-Δ7”が明確に刻まれている。アクセス者は、本来この端末に接続する権限を持たないはずだった。


「……誰かが、ここにいた……確実に」


成瀬が背筋を伸ばし、無言で周囲を見渡す。灰色の霧が、まるで現場の空気そのものを視覚化したかのように、緊張感を増幅させる。


安斎の声も、低く抑えられていた。

「画面の外……現実にも、誰かが動いた可能性がある」


微細な振動が指先から伝わり、ディスプレイの霧が揺れる。存在していないはずのアクセス者の“気配”は、ただのデータ上の記録ではなく、現実世界の誰かの行動と奇妙に呼応していた。


詩乃は息を整え、再び操作を再開する。灰色のUIの霧の中で、存在の影を追いかける作業が続く。


時間:午後2時50分

場所:旧中央図書館別棟・西館制御室


詩乃の指先がわずかに震え、灰色のUI画面上の通信回線を慎重に切り替える。玲の端末へと接続が切り替わると、回線内の微細な信号がひときわ鮮明に浮かび上がった。


「――“305B”は死んでいない」


低く、しかし確信に満ちた詩乃の声が室内に響く。画面に表示されるデータ列は、これまでの混乱したアクセスログとは異なり、静かに安定していた。


「記録を消した者でも、記録に殺された者でもない……これは、あくまで“生き続ける記録”だ。つまり、誰かの手で意図的に操作され、隠されていたわけではない」


玲は黙って画面を見つめる。指先を軽く端末に添え、情報の波形を追いながら、次に何を読み解くべきかを即座に判断する。


安斎もまた、その微かなデータの揺らぎを見逃さず、低い声で確認した。

「……生きている。305Bは今も、どこかで情報として、存在し続けている」


部屋を満たす冷気の中で、灰色のUIは静かに霧をたたえ、誰もいないはずの端末の存在を確かに主張していた。


時間:午後7時42分

場所:郊外・旧中央図書館外周


灰色の空が夜の闇に沈みきる寸前、周囲の空気は湿り、土の匂いに微かな錆のにおいが混じっていた。足元の落ち葉は湿気を含み、踏むたびにかすかな音を立てる。


玲は重い足取りで歩きながら、暗がりの中で周囲を見渡す。街灯の光は届かず、影が建物の壁面を黒く塗りつぶしているかのようだった。


「……305B、確かにここまで届いている」


低くつぶやく玲の声は、夜の静寂に溶け込み、周囲の湿った空気を震わせる。彼の視線は、かすかな人影や窓の反射、錆びついた手すりにまで向けられ、すべての可能性を探るように動いていた。


遠くで水たまりに落ちた雨粒が弾ける音が響く。玲は息をひそめ、次の行動のために情報を整理する。夜の気配と共に、影班の影も徐々に彼の意識に入り込んでいった。


時間:午後7時43分

場所:郊外・旧中央図書館外周


──ガチャン。


古びた鉄製の扉が音を立てて閉まる。その金属音は湿った夜気の中に鋭く響き、まるで闇の中に潜む存在に合図を送ったかのようだった。


玲は即座に身を低くし、足元の落ち葉を踏まないよう慎重に動く。扉の向こうからはわずかに機械音が漏れ、冷たい空気と湿った錆の匂いが混ざり合う。


「……来るな」


低くつぶやきながら、彼は影班の連絡を確認する。耳を澄ませると、鉄扉の奥で何かが動く音、軽い金属音、そして微かに呼吸する気配が交錯する。夜の静寂は、一瞬にして緊張で満たされた。


時間:午後7時44分

場所:郊外・旧中央図書館外周


パキンッ!


乾いた音とともに、古びた電子装置が小さく爆ぜ、周囲に強烈な電子妨害ノイズが瞬時に走った。空気がざわつき、近くの金属製の扉やパイプが微かに振動する。


「くっ……!」


玲は咄嗟に端末を覆い、妨害波による干渉を最小限に抑えようと手を動かす。背後で安斎が低く唸り、成瀬は影の中から状況を窺いながら、無線で報告を送る。


「電子妨害、範囲およそ半径十五メートル。機器は一時的に使用不能、通信回線も不安定!」


詩乃は淡々と、だが緊張を押し殺すように声を届ける。空間は瞬間的に緊迫の渦に巻き込まれ、誰一人として呼吸を乱すことなく次の動きを待つ。


電子ノイズが収まるわずかな隙に、玲は周囲の影を鋭く見渡し、標的の動きを読み取ろうと視線を泳がせた。


時間:午後7時46分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


「逃がすな」


安斎が鋭い動きで前方を封じ、成瀬は音もなく背後に回り込む。湿った地面に落ちた枯葉が微かに踏み鳴らされ、男の影が倉庫裏のわずかな隙間をすり抜けようとした瞬間、二人の視線が同時に絡む。


「そこだ……止めろ!」


玲の低く冷たい声が無線を通して届く。男は一瞬立ち止まり、気配を殺そうと身を縮めるが、安斎の鋭い眼差しが捉え、成瀬の足が滑らかに着地する。


影と光が交錯する狭い空間で、時間が一瞬だけ止まったかのように感じられる。雨に濡れた地面が、わずかに足音を反響させ、緊迫の空気が全員を包む。


「動くな……!」


安斎の声と同時に、成瀬が影の男に向けて素早く手を伸ばし、逃走経路を塞いだ。男の呼吸が荒くなる。濃密な沈黙と雨音が混ざり合い、倉庫裏の一角は決定的な瞬間を迎えていた。


時間:午後7時47分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


男は扉の前で動かず、沈黙を漂わせていた。その姿は、まるで今の追跡劇を予期していたかのようだ。雨で湿った地面に靴底がわずかに触れる音だけが微かに響く。


右手には、先ほど爆ぜた装置の白い破片がまだ握られていた。冷たい金属の残留感が指先に伝わり、男の緊張を示すかのように小さく揺れている。


「まだ動くつもりか……」


玲の声が無線越しに低く響く。安斎と成瀬は呼吸を整え、互いに目配せをする。影班の存在が、男の一挙手一投足を確実に押さえ込んでいる。しかし、男の静止した姿勢は、それ以上の動きへの警告のようで、誰も次の一手を決めかねていた。


雨粒が男の肩に落ち、微かに光を反射する。破片を握る右手がわずかに震え、倉庫裏の空気は、緊張の極みに達していた。


時間:午後7時49分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


無線を通して玲は、男の正体を確認した。表示される端末情報に、淡々と文字列が並ぶ。


《身元:川崎真人/元K部門記録補佐官》

《現在ID:抹消済/最終稼働記録:2017年10月12日》

《関係者:柊啓一/佐々木圭介/水無瀬透/“涼花”──》


安斎が低く呟く。「抹消済……つまり、公式記録上は存在しない人物だ」


成瀬は男の背後から視線を離さず、息を潜める。「K部門の中でも、補佐官レベルか……。だからここまで痕跡を消せたんだな」


玲は黙って数字と文字を頭の中で整理する。川崎真人──存在しないはずの男が、今、目の前で動いている。そして彼の背後には、かつて関わった人物たちの影が色濃く残っている。


「……涼花、か」玲の声が低く響く。その名前が、場の空気にひりつく緊張をさらに強めた。


時間:午後7時51分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


玲が低く問いかける。「……涼花のことを知ってるのか」


安斎はわずかに眉を動かすだけで答える。「知っている。あの子が関わった記録の一部は、川崎真人の操作履歴と深く絡んでいる」


成瀬が背後から視線を送る。「どういうことだ? 涼花は、あの男と接点があったのか」


安斎は手元の端末を指差しながら淡々と説明する。「川崎真人は元K部門補佐官。記録操作や証拠改ざんに精通している。涼花は、過去の一件で彼の記録内に名前が残っていた。つまり、彼女を知る、もしくは関与していた可能性が極めて高い」


玲は黙って頷き、男の動きを見据える。目の前にいる川崎真人は、公式記録上は“存在しない”が、その手の中には確実に、過去の真実と関わる鍵が握られている。


時間:午後7時53分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


しばしの沈黙――雨粒が倉庫の屋根を叩き、重く湿った空気の中に響き渡る。


川崎真人の肩が、ふっとわずかに緩む。長年背負ってきた重圧が、一瞬だけ姿を見せたかのようだ。目元には深い疲労の影と、これ以上逃げられないと覚悟した者特有の緊張が交錯している。


玲は距離を保ちつつ、静かに息を潜める。「……ここで終わらせるしかないな」


成瀬と安斎も、呼吸を合わせるように沈黙を守る。雨音が二人の間の緊迫感を際立たせ、倉庫の薄暗い空間は、まるで時が止まったかのように重く、凍りついていた。


時間:午後7時54分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


川崎真人の呼吸が、一瞬だけ乱れる。普段は微動だにしない瞳の奥に、迷いと覚悟が同時に揺らめき、まるで感情の波が水面に立つように広がる。


玲の冷静な視線は、その微かな変化を逃さず捕らえていた。背後の雨音が微細な沈黙を包み込み、倉庫内の空気は一層張り詰める。


成瀬が低く息を吐き、安斎も静かに身構える。誰もが、次の瞬間に何が起こるのかを慎重に予測しながら、雨に濡れた鉄の匂いと冷気の中で固唾をのむ。


時間:午後7時55分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


背後では、詩乃と沙耶が即座に連携を開始する。詩乃はラップトップを開き、WAN経路のパケットキャプチャとログヘッダのヘキサダンプ解析を並行処理。リアルタイムでアクセス権限の偽装や不正認証フラグをチェックし、古い記録タグの転送履歴と物理搬送タイムスタンプを突き合わせる。


一方、沙耶は監視カメラ映像のフレームごとの光量とモーションベクトルを分析し、部屋内の微細な物体移動や手の影の軌跡をトラッキング。さらに、封印された記録ケースの磁気パルス反応をセンサーで測定し、過去に施された物理的施錠や干渉の痕跡を特定していく。


両者の解析は並列で進み、瞬時にデータを統合。端末と監視映像、物理的証拠が一体となって“誰が、いつ、どの手順で記録に触れたか”を浮かび上がらせつつあった。


時間:午後8時03分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


いつの間にか合流していた透子は、周囲の気配を確認しながら慎重に指先で小さな木製の蓋を持ち上げた。蓋の蝶番はわずかに錆びつき、開くと同時に微かな振動が空気を震わせる。


すると、内部のオルゴールから、かすかに懐かしい旋律が流れ出した。その音色は穏やかで、しかしどこか切なさを帯びている。聞く者の胸に、過去の記憶が蘇るかのようだった。旋律は涼花がよく口ずさんでいた子守唄のアレンジで、封印された時間と記憶の断片を静かに呼び覚ます。


玲はその音色を耳にしながら、表情を微かに硬くし、過去と現在が交錯する現場の意味を瞬時に理解していた。透子の指先がオルゴールを操作する手元を、成瀬と沙耶が無言で見守る。部屋の空気が、子守唄の旋律に合わせてわずかに揺れるようだった。


時間:午後8時05分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


透子が震える手で小さなカプセルをそっと取り上げた。指先に伝わるひんやりとした金属の感触が、長い沈黙の空気をさらに重くする。蓋を開ける前の一瞬、世界の時間が止まったかのような静けさが倉庫内を満たした。


そのとき、ドア越しに玲の声が静かに響いた。

「中身は……“記録”か、“証言”か」


透子は息をのみ、わずかに肩を震わせながらも、決意を込めてカプセルを握り直す。音楽がかすかに響くオルゴールの旋律と、玲の声が交錯し、重苦しい緊張感が部屋全体を包み込む。背後で成瀬と沙耶が慎重に視線を巡らせ、万一の事態に備えて動きを止めない。


時間:午後8時07分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


カプセルの留め具が、かすかに「カチリ」と音を立てて外れた。透子は思わず息を呑み、手を一瞬止める。


ゆっくりと深く息を吸い込み、覚悟を決めるように手を動かすと、カプセルの中に収められていた銀色の小型レコーダーをそっと取り出した。手のひらに収まるほどの古い型の記録装置は、表面に微かな擦れ傷があり、長い年月の存在を物語っている。


透子はその冷たい金属の感触を確かめるように指先でなぞり、同時に心の中で玲の声を反芻する。背後では成瀬が慎重に部屋の出入り口を警戒し、沙耶が視線を合わせて次の指示を待っている。


空気は張り詰め、オルゴールの旋律と雨音だけが、緊迫した沈黙を際立たせていた。


時間:午後8時08分

場所:郊外・旧中央図書館裏倉庫


——一瞬の無音。


透子の手のひらで銀色の小型レコーダーが微かに震える。呼吸を整える間もなく、装置のスイッチに触れた指先に、わずかな冷たさと抵抗を感じる。


その瞬間、内部の小さなランプが緑色に点灯し、再生準備が整ったことを知らせる。周囲の静けさの中で、かすかな電子音が響き、誰もが息をひそめた。


玲の声が低く背後から届く。「慎重に……再生開始だ。」


雨音とオルゴールの余韻が、張り詰めた緊張をさらに際立たせる。


時間:午後8時09分

場所:旧中央図書館裏倉庫・奥室


レコーダーのスピーカーから、かすれた女性の声が流れ出した。

それは、今ここにいない人の声――涼花のものだった。


——それは、風に消え入りそうな弱さと、

誰かを守ろうとする強さを、同時に抱えた声音。


《……透子、ごめんね。これを聴いてる頃には、私はもう隣にいないのかもしれない。》


透子の指が震え、再生装置を落とさないように握りしめる。


沙耶がそっと息を呑んだ。

詩乃は画面から目を離さず、だがその手の動きだけが一瞬止まる。

安斎は表情を動かさないが、視線だけがわずかに揺れた。


レコーダーから続く、涼花の言葉。


《……全部話すには、時間が足りない。でも……あなたたちにだけは、真実を残したかった。

 “あの日の倉庫”で何があったのか。

 私が何を知ってしまったのか。

 そして……誰が、ユウタを“消そうとした”のか。》


音声が小さく途切れ、ノイズが走る。


透子は唇をかすかに噛み、震える声でつぶやいた。


「涼花さん……最初から、これを残すつもりで……」


玲は目を細め、低く言う。


「……最後まで聴く。ここが“起点”だ。」


レコーダーの音質がわずかに乱れ、

それでも涼花の声だけは、確かにそこにあった。


《あの日、私が“事故”として処理された出来事には……ちゃんと“誰かの意志”が関わってた。

 私はそれを知ってて、でも最後まで言えなかった。》


透子の肩が震え、沙耶は思わずその背に手を添えた。

部屋の空気が、まるで温度を失ったように静まり返る。


詩乃は端末から顔を上げず、

だがその目はわずかに細まり、感情の揺れを抑え込んでいる。

安斎は眉ひとつ動かさぬまま、

「……事故じゃなかったか」と低く呟く。


玲はただ、じっとレコーダーを見つめていた。

その瞳の奥に、長年追い続けてきた“繋がるはずのなかった線”が

ゆっくりと色を帯びていく。


音声は続く。


《……私は、知ってしまった。“記録”に触れた人間の行く末を。

 本当は、言うべきじゃなかったんだと思う。

 でも……透子、あなたには隠したくなかった。》


ノイズが軽く走り、息を吸う音が混じる。


《この“事故”を仕組んだのは……》


言葉が途切れた。その先を告げようとした瞬間に。

透子は息を詰める。


玲の目が鋭く光った。


次の瞬間――音声の向こうで、

何かが倒れる音と、短い息の乱れが記録された。


そして。


《……ごめん。時間、もう……ない……》


微かな囁きだけを残して、録音は一度、闇に沈んだ。


レコーダー内部の磁気テープが、かすかに揺らめくような雑音を吐き、

その直後、涼花の声は一段と静かに、けれど決して揺らがない響きを帯びて戻ってきた。


《君だけには伝えておきたかったの。

私が“逃げた”わけじゃないことを。

——私は、守ったの。

全部を、君も、あの子も。》


透子の指がレコーダーにそっと触れる。

まるで“触れたら壊れてしまう”かのような慎重さだった。


沙耶は息を呑み、

昌代は目を伏せて静かに手を組む。

室内の空気が、重く、深く沈む。


成瀬は低く呟いた。

「……“あの子”って、誰のことだ?」


安斎は視線を逸らさず、音声の余韻を追いかけるように言う。

「文脈からして……この事件の鍵を握る人物だ。

 もしくは、まだ“記録に現れていない子ども”……」


玲の目が、かすかに細められた。


「涼花が守った“あの子”。

 ……誰だ?」


詩乃が静かに端末へ視線を戻し、

解析ログを呼び出しながら呟く。


「この録音、削除痕が不自然に多いわ。

 意図的に“特定の固有名詞”だけ削られてる。

 触れられたら困る情報……誰かが“後から”編集した形跡がある」


透子は唇を噛み、

録音装置を胸に引き寄せた。


涼花の最後の言葉だけが、

この部屋で最も重たい真実として残る。


《——私は、守ったの。君も、あの子も。》


その“あの子”が誰なのかを知ることが、

事件を貫く核心へと繋がる――

その予感だけが、確かに全員の胸に宿っていた。


レコーダーの中で、涼花の声がふっと震え、

かすかな呼吸音が混じった。


《透子、お願い。……彼らを信じて。

 真実は、“あの部屋”の中。》


その一言は、まるで“これ以上は言えない”と口を押さえられたかのように、

急に途切れた。


静寂。


透子の肩がわずかに揺れ、

玲は音が止まった瞬間、すでに頭の中で“あの部屋”という言葉を反芻していた。


「……涼花は、具体的に場所を示す言い方は避けた。

 でも、“知っているはずの誰か”に向けて言っている」


成瀬が短く息を吸う。

「透子……心当たりは?」


透子は目を閉じ、

昔の風景を必死に探るように記憶を辿った。


「“あの部屋”……

 涼花がよく言っていたのは……“隠す場所じゃない、守る場所”って……」


詩乃が端末に視線を走らせる。

「“部屋”というワードで、家族関連の旧記録を優先検索するわ」


沙耶は透子の背にそっと手を添え、

昌代は深くうなずいた。


玲だけが、静かに呟いた。


「“あの部屋”……

 涼花が最後にアクセスした記録線と一致する場所が、

 一つだけあるはずだ。」


その瞬間、

解析端末に一つの候補が表示され、詩乃の声が落ちる。


「ヒットしたわ。

 旧佐々木家……“第二保管室”。」


透子の目が大きく見開かれる。


涼花が遺した《あの部屋》。


真実は、そこに――。


レコーダーの中の涼花の声は、

先ほどよりもずっと弱く、震えていた。


《……透子。ずっと、言えなくてごめんね。

 怖かったの。君まで巻き込むのが》


言葉の途中で、小さく息を呑む音が混じる。

かすかなノイズ。

まるで、涙をこらえているような沈黙が数秒続いた。


《でもね、最後にこうして話せてることが……

 ほんの少し、救いなんだ》


その“救い”という言葉だけには、

微かな微笑を含んだ柔らかさが残っていた。


透子は口を押さえ、肩を震わせた。

沙耶がそっと支える。

成瀬も安斎も、動かず、ただその声に耳を澄ませていた。


玲は黙ったまま、ただ一点――

レコーダーのスピーカーを見つめていた。


“逃げたのではない”と。

“本当は守っていたんだ”と。

その事実を、ようやく直接、本人の声で聞けた。


涼花の録音は続く気配を見せながら、

強いノイズの波が一瞬だけ走る。


玲は息を詰め、

「次が……核心だ」と、誰にも聞こえない声で呟いた。


レコーダーから流れる涼花の声は、

今にも途切れそうな細い光のようだった。


《君の笑顔が、私の灯だった。

 だから——もう一度、君が笑えるように、お願い。

 真実を……》


“真実を”の言葉の直後、

かすかな呼吸音がひとつ――

そのあと、静寂が押し寄せた。


透子の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。

握りしめた両手が震える。


玲はそっと、録音機の停止ボタンに触れようとして……

触れられずに止まった。


「まだ……続きがあるかもしれない」


安斎が周囲を警戒しながら低く言う。

成瀬は、透子の震えを見て一瞬だけ眉を寄せたが、表情はすぐに元に戻る。


沙耶は透子の背に手を置き、

「大丈夫……聞くのは、あなたのタイミングでいいわ」と囁いた。


しかし、涼花の残した最後の“お願い”は、

すでに全員の胸に重く刻まれていた。


——真実を、明らかにしろ。


その静かな命令が、

部屋の空気を一段と引き締めていく。


レコーダーのスピーカーには、

まだわずかにノイズが続いていた。


時間: 午後3時17分

場所: 旧佐々木家・地下記録室


透子は震える手でレコーダーを胸元に抱え、薄暗い記録室の隅で小さく震えていた。

玲はゆっくりと近づき、端末の明かりに目を落とす。画面には、過去の封印記録と照合用データが並んでいる。


「透子……まず、落ち着いて。君が持っているそのレコーダーの情報を解析すれば、手掛かりが得られる」

玲の声は静かだが、決意を帯びていた。


安斎は棚の影から慎重に周囲を警戒しつつ、透子の持つレコーダーを指先で操作可能な位置に誘導する。

「もしこのデバイスに暗号化やアクセス制限がかかっていても、解析可能だ。透子、君の助けが必要だ」


沙耶は透子の肩にそっと手を置き、目を合わせた。

「怖いかもしれないけれど……私たちが一緒にいる。涼花の望んだこと、私たちで受け継ごう」


透子は小さく頷き、深く息を吸う。

指先が銀色のレコーダーの操作ボタンに触れると、かすかなクリック音が響く。

瞬間、内部メモリに残されたデータの解析が始まり、画面には波形とテキストが次々に表示されていく。


玲は画面を覗き込みながら、低く呟いた。

「これで、涼花が守ろうとした“全て”の痕跡が、見えてくる」


安斎が端末の解析結果を確認しながら補足する。

「記録には、当時の監視カメラ映像、操作ログ、そして物理的に封印されたファイルの復元データまで入っている。すべてを紐解けば、事件の真相に直結する」


透子の瞳が、光を反射して揺れる。

その小さな手には、重くても確かな使命感が宿っていた。


静寂を破るのは、解析ソフトの軽快なビープ音だけ。

しかしその一つ一つの音が、今、部屋にいる全員にとって、

緊迫した希望の鐘のように響いていた。


時間: 午後3時18分

場所: 旧佐々木家・地下記録室


透子の肩に添えられた沙耶の手は、驚くほどあたたかかった。

その温度が、張りつめた空気の中で唯一の“現実”のように感じられる。


沙耶は何も言わない。

ただ、透子の震えを受け止めるように、そっと寄り添っていた。


その沈黙は慰めではなく、強さだった。

「大丈夫、私はここにいる」

そう伝えるような、静かな寄り添い方だった。


レコーダーから流れ出した涼花の最後の声が、まだ透子の耳の奥で震えている。

彼女の喉が締めつけられ、目元が熱を帯び始めたそのとき――


沙耶の手が、ほんのわずかに力を込めた。


それは、「泣いてもいい」とも

「立ち止まらないで」とも受け取れる、絶妙な強さだった。


玲は二人に背中を向けたまま、解析モニタのログを追いながら静かに言った。

「透子。涼花が託したのは“証拠”だけじゃない。君の選択だ。

 ……ここから先は、君がその手で開くんだ」


安斎も視線だけで透子を確認し、短く言葉を添えた。

「恐れる必要はない。お前が選ぶ答えを、俺たちが支える」


透子は涙をこらえながら、小さく、でも確かに頷く。

沙耶の手がその背を支え続ける。


そして――透子は震える指で、次の再生ボタンにそっと触れた。


地下記録室に、再び涼花の声が流れ始めた。

まるで、時を越えて“語りかけてくる”ように。


時間: 午後3時21分

場所: 旧佐々木家・地下記録室


透子の指が再生ボタンに触れた瞬間、かすかな電子音が響き、銀色のレコーダーから涼花の声が再び流れ出した。

「……透子。聞こえてる? ここから先は、私じゃなくて、あなたの判断になる……でも怖がらないで。全部、伝えたかったことだから」


部屋の湿った空気が微かに震え、壁に反射する光が揺れる。透子は思わず息を呑む。声には、淡い悲しみと揺るぎない意志が同居していた。


沙耶は隣で静かに見守る。手は肩に添えたまま、指先が微かに透子の背を押すように動く。

「涼花は……最後まであなたを信じていた。だから、透子、恐れずに次へ進むの」


玲は解析用のモニタに視線を落としながらも、時折透子をちらりと見上げる。

「この記録には、単なる事実以上のものが隠されている。数字やログ、日付だけじゃなく、感情や意思の痕跡――それを理解できるのは、君だけだ」


安斎も近くで手元のデバイスを確認しつつ、低く声をかける。

「君が開くその次の一歩で、全てが動き出す。支えるのは俺たちだけじゃない。涼花も、ここにいる」


透子は指先の震えを必死に抑えながら、再生画面に視線を固定した。

淡く揺れる音声波形と、微かに残る回路のノイズ。それらは、時間を隔ててなお語り続ける“生きた証”だった。


小さな部屋の空気は、やわらかくも緊張を孕んでいた。

透子の中で決意が固まり、胸の奥にひそむ恐怖が、少しずつ希望に変わり始める。


再生装置の小さな光が、まるで道標のように透子の目の前で揺れ、次の展開への扉を静かに開こうとしていた。


時間: 午後3時35分

場所: 旧佐々木家・地下記録室


窓の外では、夜の雨が静かに止み始めていた。濡れた庭木の葉が微かに滴を落とし、暗がりに揺れるその光景が、部屋の静けさと対照的に映る。


透子はまだ手にしたレコーダーから目を離せず、胸の高鳴りを抑えながら小さく息をついた。沙耶はそっと彼女の背中に手を添え、言葉はなくとも励ましを送る。


玲は淡々とモニタを見つめながら、解析結果を整理する。

「ログと声の波形から、涼花の意図は明確だ。彼女は事件の真相を封印するために動いた。だが、君がそれを受け止めれば、次の行動が可能になる」


安斎は低く、しかし力強く言った。

「ここからが本番だ。恐れず、焦らず、一歩ずつだ」


透子は手元のレコーダーを握り直し、深く息を吸った。夜雨のやわらかい匂いが部屋に届き、重く張り詰めた空気の中にわずかな安堵が混じる。

外の世界と地下室の記録室、二つの時間軸が、今この瞬間、静かに交錯していた。


時間: 午前10時45分

場所: 都内・秘密会議室


鉄製の扉が重く閉まり、外の喧騒が完全に遮断される。会議室の中は静寂に包まれ、長机の周囲には数人の精鋭だけが座っていた。誰も口を開かず、空気は張り詰めている。


中央に座る玲は、手元の報告書を開き、ページをめくる指先に全神経を集中させる。隣の奈々は腕を組み、モニターに映る〈305B事件 調査報告書/最終版〉の表紙を見つめながら、玲の動きに合わせて小さく頷いた。沙耶は静かに手を組み、沈黙の中で仲間を見守る。理央はモニターの波形を凝視し、微細な異常を見逃さぬよう目を細めていた。


玲は指でページの端を押さえ、低く告げる。

「全ての事実を整理した。これが、現時点で確認できる真実だ。順を追って報告する」


奈々が小さく息をつき、沙耶と理央が視線を交わす。室内の重い空気は、事件の真実を共有した者たちだけの静かな誇りで満たされていた。


時間: 午前11時15分

場所: 都内・秘密会議室


玲は深く息を吸い込み、報告書を前に声を落とした。


「今回の調査は、旧中央図書館別棟での記録改ざんおよび死者のメッセージに関するものです。対象となる証拠は、No.305B端末に記録された全データです。」


彼は指先でページをなぞり、順序立てて説明を続ける。


「まず、川崎真人の残した音声メッセージおよび手書きメモによって、涼花の死は単なる事故ではなく、本人の意志が関与した行動の結果であったことが確認されました。加えて、オルゴール内に隠されていた小型レコーダーには、涼花が不正行為を告発する意思を持っていたこと、そして誰かに真実を伝える手段を託していたことが記録されています。」


玲はモニターに手を伸ばし、図表を指し示した。


「改ざんの経緯についてですが、当時K部門上層の一部職員が、台帳および映像記録を“事故処理”の名目で削除・改ざんしました。しかし、削除ログは裏サーバー“灰ランタン”に残存しており、これが今回の証拠解明の決定的な手がかりとなっています。」


彼は視線を上げ、会議室のメンバーを見渡す。


「責任者については、元K部門記録管理統括・戸上雅弘に懲戒処分が下されました。ただし、彼の証言によれば、改ざんを命じられたものの、真実の記録を密かに残していたことが認められます。この行動は『記録を守る意志』として評価されます。」


玲は最後にページを閉じ、静かに付け加えた。

「以上が、今回の調査の要旨です。全ての記録、証言、ログ解析は、専門用語に則り厳密に確認済みです。」


静寂が会議室を包む中、奈々が小さく息をつき、沙耶が頷く。理央は眉をひそめながらも、画面上の波形を最後まで凝視していた。


時間: 午前11時45分

場所: 都内・秘密会議室


玲は席に座ったまま、ゆっくりと視線を前方のモニターに落とす。


「記録は、誰かのために存在する。そして、誰かの声を拾う者がいる限り、それは決して消えない。」


彼の声には、冷静さと同時に揺るぎない信念が含まれていた。


「今回の305B事件で明らかになったのは、記録というのは単なるデータではなく、意思と記憶の証明であるということです。たとえ操作や改ざんが加えられても、それを読み解く者がいれば、真実は再び姿を現す。」


会議室の空気が静まり返る。奈々が小さく息をつき、沙耶は机に手を重ねながらうなずく。理央は画面の波形を凝視し、まるで玲の言葉を裏付けるかのように頷いた。


玲は最後に一言、低く付け加える。


「――記録分析担当、玲。」


静寂の中、その言葉はまるで、消えかけた光をもう一度灯すように、会議室に響いた。


時間: 午後6時03分

場所: 都内・テレビ局報道スタジオ


カメラの前で、ニュースキャスター藤堂が直立し、深呼吸をひとつ入れる。画面の向こうには全国の視聴者が息を詰めて見つめている。


「本日、都内で発覚した『旧中央図書館別棟 記録改ざん事件』について、速報でお伝えします。今回の事件は、過去に“事故”として処理されたとされていた死者の意志が、後に記録として発見されたことに端を発します。」


藤堂は手元の資料に目を落とし、再びカメラへ視線を戻す。


「事件の核心となったのは、証拠番号305Bに記録されていた音声メッセージです。音声には、当時亡くなったとされた人物、涼花さんが自身の意志で行動していたこと、そして事故ではなく意図的な行動であったことが明示されていました。」


藤堂の声は冷静だが、ところどころに驚きと緊張がにじむ。


「また、記録改ざんに関わった元K部門職員の一部は、懲戒処分を受けましたが、同時に真実の記録を密かに残したという証言も確認されました。このため、事件の全容解明には、今後さらなる捜査と記録分析が必要とされています。」


藤堂は深呼吸をひとつ入れ、視聴者に向けて締めくくる。


「今回の事件は、過去と現在をつなぐ記録の重要性、そして“消えない声”の存在を改めて示すものとなりました。現場の関係者の皆様には引き続き警戒と協力が求められます。」


画面の向こうで、スタジオのライトが淡く揺れ、藤堂の言葉は全国に届く。静かな緊張が、ニュースの放送を通じて瞬間的に拡散していった。


時間: 午後6時15分

場所: 都内・自宅やカフェ、スマートフォン画面上


テレビでの速報が流れるや否や、SNSは瞬く間に騒然となった。


「#305B事件 やばすぎ…涼花さん、事故じゃなかったのか…」

「K部門の改ざんってマジ? 絶対許せない」

「ニュース見てるけど、玲って人が全部解明したの? すごすぎる」

「レコーダーに残ってた声…泣きそう。誰か守ってくれてたんだね」

「旧中央図書館別棟って、あんな裏のほうで…怖すぎ」


一方で冷静な分析コメントも目立つ。


「音声記録が証拠として残ってるのか。デジタルフォレンジックすごいな」

「改ざんされたログが灰ランタンに残ってたって、K部門内部監査は何してたんだ」

「真実を残した職員の行動は英雄的だと思う」


さらに、一部のネット民は推理合戦を始める。


「じゃあ次は誰が関わってたか特定されるのかな」

「佐々木家旧居の記録って、他にも何か隠されてるんじゃない?」


瞬く間に「305B事件」がトレンド入りし、映像ニュースや記事リンクが次々とシェアされる。数分ごとにタイムラインは更新され、全国の人々の関心と疑念が交錯したまま夜のSNS空間に広がっていった。

透子のあとがき


あの日、私はただ、隅で息を潜めていた。

声を上げることも、身を守ることも、何もできずに――ただ見ているしかなかった自分が、ずっと恥ずかしくて、悔しくて。


でも、あのオルゴールの旋律と、銀色の小さなレコーダーが私に勇気をくれた。

涼花の声は、私の耳にだけ届いた。彼女の覚悟、そして私への信頼。

それを受け取った瞬間、私は初めて、自分にできることがあると知った。


記録は、真実は、誰かのために存在する。

そしてその声を拾う者がいる限り、決して消えることはない――。


私がこうして、真実の一部を伝えられるのも、彼女の勇気のおかげだ。

もしも読んでいるあなたがいるなら、どうか忘れないでほしい。

沈黙の中で守られた声が、確かにここにあったことを。


――透子

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