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50話 記録にない殺意

登場人物紹介(最新章まで)



佐々木家

•佐々木圭介ささき けいすけ

過去の事件に関わる父親。真実を追う強い意志と、家族を守ろうとする優しさを併せ持つ。

•佐々木朱音あかね

圭介の娘。無邪気さと鋭い直感を兼ね備え、スケッチブックに描く絵が事件解明の鍵となる。

沙耶さや

圭介の妻であり、朱音の母。感情的な支柱で、鋭い直感と人間観察力で事件の真相に迫る。

•佐々木昌代まさよ

圭介の母。霊感の持ち主で、過去の影と向き合う強さを持つ。



玲探偵事務所

•玲

冷静沈着な探偵。記録の解析、現場の観察、心理の読み取りに長け、行政や事件の裏側に迫る。

•橘奈々(たちばな なな)

玲の助手。情報処理能力が高く、証拠や記録の分析で調査を支える。

九条凛くじょう りん

心理干渉分析官。被害者や関係者の深層心理に接触し、抹消された記憶を復元する。

御子柴理央みこしば りお

記憶分析担当。精密なデータ解析と物理証拠の照合に強み。

神原詩音かんばら しおん

技術・電子機器専門。微細な監視・追跡装置の操作を担当。



チーム影(隠密行動)

成瀬由宇なるせ ゆう

暗殺・対象把握担当。漆黒の戦闘服に灰色の目を持つ、表情の読めない精鋭。

桐野詩乃きりの しの

毒物処理・痕跡消去担当。冷静で正確な動きと、暗色のマスクが特徴。

安斎柾貴あんざい まさたか

精神制圧・記録汚染担当。高身長で筋肉質、記録操作や心理操作のスペシャリスト。

服部慎吾しんご

夜鴉班所属。隠密作戦や情報収集、現場の監視行動を担う。



被害者・関係者

•結月(仮名)

少女被害者。証言が事件解明の決め手となり、保護下で支援を受けている。

大野義明おおの よしあき

文京区のマンションで死亡した中年男性。出版社勤務、在宅校正担当。

高峰里奈たかみね りな

元・大野の共同作業者。事件の核心に関わる“もうひとつの真実”を知る。

佐伯美晴さえき みはる

偽名で過去を隠していた女性。倉田悠一に付きまとわれ、事件の調査対象となる。

倉田悠一くらた ゆういち

佐伯美晴に危害を加えた男。過去に傷害事件で不起訴、今回の密室事件の中心人物。



行政関係

•綾瀬雅弘(副市長)

過去の被害者隠蔽事件に関与。辞職勧告を受け、内部監査中。

•唐沢征一(秘書官)

綾瀬の指示を実行し、記録の改ざんや被害者の操作を行った核心人物。退職済。

•永田直樹/村井千景/萩原泰生/柿沼聖司

行政職員。被害者隠蔽や通報握り潰しに関与。各自処分・異動・調査対象。

冒頭

時間: 2025年11月15日 08:42

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋前


その朝、玲は珍しくコーヒーを飲みきらないまま、事務所を出た。

空気はひんやりとしていて、肌に触れる風が鋭かった。手に握るカップは半分ほど冷め、香りも弱まっている。


警視庁からの連絡は簡潔で、無駄のない指示だけが残されていた。「文京区で密室殺人。状況が奇妙だ。協力を仰ぎたい」


現場は築20年ほどの分譲マンション、4階の角部屋。

エントランスにはすでに数人の警察官が立ち、通行人を制していた。管理人の立花は、額に汗を浮かべ、いつもよりやや青ざめた顔で扉を見上げている。


玲はバッグを肩にかけ、静かに階段を上り始めた。無言のまま、彼の目はすでに部屋の中の異様さを予感していた。

ドアの前に立った瞬間、冷たい金属の匂いと微かに漂う消毒薬の匂いが鼻をかすめる。それだけで、この部屋が日常とは異なる空間であることを告げていた。


時間: 2025年11月15日 08:47

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋前


管理人・立花の声は、少し震えていた。額の汗を拭いながら、彼は手元の鍵束を見せる。


「……私が最初に気づきました。鍵が中から掛かったまま誰も出てこないので、念のため管理キーで開けてみたんです」


玲は無言で聞きながら、眉間にわずかな皺を寄せる。言葉の端々から、ただ事ではないことが伝わってくる。

背後で警察官たちが静かに身構え、部屋の扉を慎重に押し開ける。


冷たい空気が立ち上がり、微かに漂う鉄の匂いが玲の鼻を刺激する。彼の目が、室内の光景を鋭く捉えた瞬間だった。


時間: 2025年11月15日 08:52

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は静かにベッドの端に近づき、視線を遺体に落とす。


「……後頭部に打撲痕がありますね。血は乾いている……死後どれくらい経過しているか、まだ正確には不明です」


警察官の一人が小さく声を漏らした。

「こんなに小ぎれいな部屋で、こんなことが……」


玲は振り返り、管理人・立花に問いかける。

「この部屋に出入りしたのは、最近は誰ですか?」


立花は息をのんで答える。

「……ごく最近までは、この方だけでした。訪問者もほとんどなくて……郵便や宅配も、玄関前に置くだけで済ませていました」


玲は頷き、手袋を装着して慎重に遺体の周囲を観察する。

「状況から見ると、計画的に仕組まれた可能性があります。周囲に物的証拠が残されていないか、詳しく調べる必要がありますね」


時間: 2025年11月15日 08:55

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は遺体の横にかがみ込み、後頭部の打撲痕を指でなぞるように確認した。


「一撃で沈んでいるな……」


警察官が息を呑む中、玲は視線を細めて周囲を観察する。

「死後硬直の状態からして、昨夜の9時から11時の間に死亡した可能性が高い。部屋に争った形跡はない……計画的にやられたか」


立花は震える声で答えた。

「え、ええ……この部屋に来る人はほとんどいませんでした……」


玲はゆっくり頷き、ベッド周囲のシーツや家具、窓枠に手袋越しの視線を走らせる。

「侵入経路や使用された凶器の特定も急ぎましょう。初動で手掛かりを見落とすわけにはいかない」


時間: 2025年11月15日 09:02

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲はベッドの脇に立ち、視線を部屋全体に巡らせた。


「……室内に争った形跡はないな」


倒れた家具はなく、テレビも静かに画面を消している。キッチンに目を向けても、使った形跡は一切なかった。


「すべてが……整いすぎている」


玲は低くつぶやき、慎重に床や窓、扉の状態を確認する。

「侵入者がいた形跡も、被害者自身の動きによる乱れもない。まるで、この空間は計算され尽くした舞台のようだ」


警察官たちは息をひそめ、玲の分析を見守る。

「……この状況、ただの強盗殺人じゃない。計画的な殺害の可能性が高い」


時間: 2025年11月15日 09:05

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


奈々がベッド横のサイドテーブルに視線を止めた。

そこには整然と並べられた物が置かれている。携帯電話、眼鏡、メモ帳。


「玲……ここに何かあるかもしれない」


奈々は手袋をはめ、慎重にメモ帳を手に取る。ページはきれいに整理され、筆跡も落ち着いていたが、わずかにインクの濃淡が変化している。


玲は目を細め、静かに言った。

「……なるほど、書き込みの順序や強弱から、時間の流れと心理状態を推測できるかもしれない」


奈々はページをめくりながら、声をひそめて報告する。


「この最後の書き込み……被害者が何かに気づいた直後のものかもしれない」


玲はゆっくり頷き、部屋全体をもう一度視線で確認する。

「ここから事件の構図を組み立てる必要がある……」


時間: 2025年11月15日 09:12

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は静かに呟く。

「被害者は、大野義明、五十六歳。独身。出版社にいた編集者で、今は在宅で校正をしている。趣味は読書と登山。交友関係はかなり限られている」


奈々はメモを取りながら眉をひそめる。

「……この部屋の整い方だと、争った形跡はないし、外から侵入された形跡もない。ってことは、招き入れたのは知人か」


玲はベッド脇の遺体をじっと見つめ、小声で続ける。

「一撃で終わっている。鈍器の角度も力の入り方も計算されている。素人ではない」


奈々は窓の外を見ながら言う。

「つまり、整然とした密室殺人……計画的に準備された可能性が高いね」


玲は窓の外を見やり、冷静に指示する。

「まずは出入り記録と周辺カメラ、知人や契約先の情報を洗い直す。手掛かりは小さくても確実に拾う」


奈々は頷き、メモを確認しながら答える。

「わかった、玲。すぐ整理して報告する」


時間: 2025年11月15日 09:18

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は一歩踏み出し、部屋の空気を吸い込むように目を閉じた。

やがてかすかに鼻を鳴らして、低く呟く。

「……匂いが変だ。乾いた血の匂いだけじゃない……何か、焦げたような、金属っぽい臭いも混じっている」


奈々が眉をひそめ、疑念を口にする。

「え、焦げた? 火器とか? でも弾痕はないし……」


玲は慎重に部屋を見渡しながら続ける。

「火器じゃない。……鈍器か、もしくは熱を使った道具。血の乾き方と混ざり方が不自然だ」


奈々はその言葉に息を呑み、手元のメモを押さえた。

「つまり、計画的なトリックの可能性もあるってこと?」


玲はうなずき、部屋の四隅を目で追いながら言った。

「うん。犯人は、証拠を残さず密室を作るために、少し手を加えた……それがこの匂いだ」


時間: 2025年11月15日 09:22

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・書斎机


玲は被害者の机の上に視線を落とし、読みかけの原稿用紙をそっとめくった。

朱赤の校正印がびっしりと並ぶ中、あるページの一行だけが異様に目立っていた。


「……“助けを求める者は、最後まで声を上げよ”……」


奈々が息を飲む。

「え……これ、校正の指示じゃなくて、メッセージじゃない?」


玲はページに指を添え、低く言った。

「間違いない。大野は、誰かに伝えたかったんだ。この一行に――何かを、託している」


奈々は肩越しに紙を覗き込み、眉を寄せる。

「でも、誰に? そしてなぜ、こんな形で……」


玲は視線を上げ、寝室の密室を見渡す。

「この密室の中で、最後に残せるのは文字だけだった……彼の“声”が、ここに残されている」


時間: 2025年11月15日 09:30

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


被害者・大野義明が倒れていたベッドの脇で、警視庁・榊原捜査一課の刑事が慎重に足音を忍ばせるように動いた。


「……硬直具合から、死亡推定時刻は昨夜9時から11時の間か」

榊原は低く呟き、ベッド周囲の状況を目視で確認する。家具は整然と並び、倒れたものは何もない。テレビも消え、キッチンには使用の痕跡もない。


奈々がそっと玲に寄り添い、囁く。

「玲……やっぱり、何か“整いすぎ”てる。普通の強盗じゃない」


玲はベッドに目を落とし、眉間に皺を寄せた。

「そうだな……この部屋、異様に“完璧すぎる”。誰かが意図的に、最後の痕跡まで整理した」


榊原が書類ケースを慎重に開き、被害者の財布や小物を確認する。

「現金やカードは手つかず……やはり、金目当てではないな」


玲は低く呟く。

「ターゲットは、本人……もしくは、残したかった“メッセージ”だけかもしれない」


奈々は机の上の原稿用紙を指さしながら、緊張した声で言う。

「この朱赤の校正印……でも、この一行だけ……まるで呼びかけてるみたいだよ」


玲は紙に指を添え、静かに頷いた。

「ここに、大野の“最後の声”がある……俺たちは、それを読み取る必要がある」


時間: 2025年11月15日 09:34

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


榊原がタブレットを確認しながら、落ち着いた声で報告した。

「玄関ドアには施錠の痕跡が残っていて、内側のチェーンも掛かっていました。ドアスコープにも外部からの痕跡なし。窓側も完全に閉じられていて、鍵の内部操作記録は“被害推定時刻以前で最後”。……現時点での第三者の出入りは、物理的に不可能に近いです」


奈々がわずかに息を呑んだ。

「じゃあ……密室、ってこと?」


玲は、ベッドに倒れる大野義明の姿をじっと見つめながら答えた。

「形式的にはな。でも“密室の完成度”が高すぎる。こういうのは――作られた密室だ」


榊原が眉を上げる。

「犯人が計算して密室を成立させた、ってことか?」


玲は端的に頷く。

「そう。問題は……どうやって、だな」


奈々が玲の横で、不安と興味の入り混じった表情を見せる。

「玲……これ、普通の事件じゃないね」


玲は静かに目を細める。

「間違いなく、何かを“隠すため”の殺人だ。

そして、その“隠すべきもの”はこの部屋のどこかにまだある」


時間: 2025年11月15日 09:41

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は視線を床に落としたまま、ゆっくりと部屋の中央へ歩を進める。

ベッド脇から足元を通り過ぎる瞬間、シーツに落ちた一滴の血痕が目に入った。


「……この一滴か」


奈々がそっと近づき、声を潜めて言う。

「玲……これ、何か手がかりになるの?」


玲は血痕を指で軽くなぞるように見つめ、沈黙を保ったまま答える。

「意味を持たせるために残された可能性がある。

 他の痕跡より、この一滴が重要だ」


榊原も身を乗り出し、慎重に周囲を観察する。

「つまり……犯人は、この部屋を“演出”した、と」


玲は微かに唇を動かし、低くつぶやいた。

「そうだ。演出された密室――でも、演出の中には必ず矛盾がある。

 その矛盾を見つけるのが、これからの仕事だ」


時間: 2025年11月15日 09:43

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室・ベッド脇


玲はそう断言すると、迷いのない動きでベッドサイドの床に跪いた。

指先をそっとフローリングに触れ、ゆっくりと横へ滑らせる。


「……あった」


低い声が落ちる。


奈々が身をかがめ、玲の指先の先を覗き込む。

「凹んでる……? でも、これって……」


玲は静かに言葉を続けた。

「ベッドのキャスター。四つのうち……この位置の“ひとつだけ”にだけ、微細な擦れ跡がある」


榊原が驚いたように眉を上げる。

「移動させた痕跡……ってことか?」


玲は首を横に振った。

「いや、“引きずっている”。ベッドを動かした形跡は部屋のどこにもない。

 つまり――キャスターだけが“一瞬だけ”負荷をかけられて動いた」


奈々が息をのむ。

「つまり……誰かがベッドの下に“何か”を仕込んだってこと?」


玲は立ち上がり、指先についた埃を軽く払った。

その横顔には、密室の謎の核心がもう見えているような鋭さがあった。


「この部屋は密室じゃない。

 密室に“見せかけられた”だけだ。」


時間: 2025年11月15日 09:44

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は頷かず、ただ壁の一点を凝視した。

薄いグレーのクロス。傷も汚れもない、どこにでもあるマンションの壁――

だが、彼の眼にはそこに“痕跡”がこびりついているように見えていた。


奈々が静かに問いかける。

「……玲。何、見えてるの?」


彼は答えない。

ただ目だけが、わずかに細められる。


榊原が息を潜めて見守る中、玲はゆっくりと壁に歩み寄り、指先をその表面に触れた。

爪が触れるか触れないか――その微妙な距離で止められた指先が、沈黙の中で告げている。


「ここに……“立っていた”。」


奈々が小さく目を見開く。

「誰かが……?」


玲は壁の一点を指し示した。

「壁のクロスの繊維が、他の場所よりわずかに荒れている。

 身を寄せて、しばらく動かなかった跡だ。

 まるで……“聞いていた”かのように」


奈々の声が震えた。

「大野さんが殺されるのを……?」


玲は静かに目を細める。

その視線は壁を越え、過去の瞬間へと突き刺さるようだった。


「いや――違う」


彼は低く言った。


「ここにいたのは、“被害者じゃない”。

 殺した奴だ。」


時間: 2025年11月15日 09:47

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


その瞬間、玲の携帯が短く震えた。

鋭い電子音が、静まり返った室内に切り込む。


ポケットから取り出すと、画面には――

「九条凛」 の文字。


玲の眉がわずかに動く。

精神干渉のスペシャリストが、現場でもないこのタイミングで連絡をよこす。

それが意味することはひとつしかない。


奈々が息を呑んだ。

「……凛さん?」


玲は無言で通話を押し、耳に当てた。

わずかなノイズの後、凛の澄んだ声が落ちる。


「玲さん。

 被害者――大野義明さんの“最後の感情”に触れました」


その場の空気が、きしむように揺れる。


玲は低く、短く問う。

「……言え」


凛の呼吸が一瞬だけ震えた。

彼女が感情を揺らすのは珍しい。

それが、伝えられる内容の重さを示していた。


「大野さんは……“誰かが近づく音”に気づいていました。

 そして次の瞬間、強い驚きと、信じられないという感情が一気に溢れました」


奈々が青ざめた声で囁く。

「……知ってる人、だった?」


その問いに、凛は静かに答えた。


「はい。

 “大野さんが絶対に疑わなかった人物”です。

 抵抗の意思も恐怖も、最初の一瞬にはまったく無かった……」


玲は目を閉じ、わずかに息を吐いた。


そして、決定的な言葉が凛の口から落ちる。


「……彼は最後に、こう思ったんです。

 ――“どうして君がここに?”――と。」


玲は玄関から戻ると、足音すら立てずに寝室へと戻り、再びベッド脇の小棚へ視線を落とした。


そこだけ、空気が違う。


小棚の上には、ステンレス製の灰皿。

だがその中には吸い殻が一本もない。

日常的に使われていないのか、それとも――


玲は指先を伸ばし、灰皿の縁をわずかに傾ける。

天井灯の光が、その一部分だけ鋭く反射した。


「……拭いてある」


奈々が身を寄せてくる。

「拭いた、って……掃除じゃなくて?」


玲は首を横に振る。

「掃除なら全体を拭く。

 ここだけ、ピンポイントで布が通ってる。跡の形が不自然だ」


奈々がぞくりと震えた。

「じゃあ……誰かが“触った痕跡”だけ消したってこと?」


玲は沈黙のまま灰皿を見つめる。

ステンレスの縁――

そこには、ほんのわずかな“磨き残し”があった。


微細な皮脂。

それを拭き切れていない、ごく薄い指の流れ。


玲は低く呟く。


「……ここに触れた。

 被害者じゃない“誰か”が」


そして、凛の言葉が脳裏に蘇る。


――“どうして君がここに?”


玲は灰皿から視線を外し、部屋全体をもう一度見渡した。


その目は、既に“犯人が何をしたか”ではなく、

“犯人はここで何を探したのか”を追っていた。


2025年11月15日(土) 10:42

東京都・文京区 分譲マンション 4階角部屋・寝室


寝室は朝の薄光に満たされ、静まり返った空気が重く漂っていた。

ベッドの上では大野義明の遺体が静かに横たわり、そのすぐ脇、小棚の上にはステンレスの灰皿がひっそりと存在を主張していた。


玲は灰皿を持ち上げ、縁の一部にだけ不自然に残った“拭き跡”を指先で確かめた。


奈々は隣でタブレットを抱えながら、息を整えて言った。


「調べたよ。大野義明は完全な禁煙者。

会社でも家でもタバコとは無縁。ライターも吸い殻も、どこにもなかった」


玲は灰皿を光にかざし、微細な指紋の乱れを見逃すまいと目を細める。


「だけど……これは昨夜、間違いなく誰かが触った。拭いた痕が新しい」


奈々が小さく震える声で問う。


「じゃあ……この部屋に、被害者以外の誰かがいたってこと?」


玲は灰皿をそっと元の位置に戻し、寝室全体を見渡してから静かに答えた。


「――ああ。

俺たちが“密室”だと思っていたのは、見せかけの状態だった」


奈々の喉が動く。


「じゃあ、本当は……?」


玲は被害者の枕元へと視線を落とす。


「“密室だったのは、死んだあとだけ”だ」


2025年11月15日(土) 10:44

東京都・文京区 分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は小棚の前に片膝をつき、懐中ライトを斜めから当てながら床を丹念に観察した。

照らし出された木目の上に、ほこりがうっすらと層を作っている――はずだった。


だが。


「……ここだ」


玲の指先が、床に走る細い一本の境界線で止まった。


奈々が身をかがめ、息を呑む。


「……ほこりの、切れ目?」


棚の縁から直角に伸びるように、わずか数ミリ幅の“帯”だけほこりがない。

まるでそこに細い板か、器具か、棒状の何かが“差し込まれていた”かのように。


玲は頷き、さらにライトを寄せて確認する。


「ここだけ、ほこりの沈殿が新しい。昨日の夜……ここに何かを置かれたあとで、取り除かれている」


奈々は眉を寄せる。


「じゃあ、何かの“仕掛け”が設置されていたってこと?」


玲は立ち上がり、小棚とベッドの位置関係をもう一度見渡した。


「仕掛け……というより、支点だな。

体重の一部を受けるための、簡易の支点。大野さんを叩き伏せるとき、工具か棒状の器具をここに――」


奈々は息を呑んだ。


「……”第三者がいた証拠”?」


玲はわずかに表情を硬くし、言葉を締める。


「確実に、誰かがいた。

しかも――“密室と見せかけることに慣れているタイプ”だ」


2025年11月15日(土) 11:02

東京都・文京区 分譲マンション前 エントランス脇


奈々はスマホを握りしめ、階段を降りてきた玲に早足で近づいた。

息を整えながら、しかし声は明確に緊張を帯びている。


「玲、被害者の勤務先の元同僚に接触した。

最近、“ある男と二人きりで酒を飲んでいた”って証言がある」


玲は足を止め、奈々に向けてゆっくり視線を上げた。


「名前は?」


「はっきり言うと……“唐沢征一”。」


空気が一瞬、凍りついた。


玲の眉が、ほんの僅かに動く。


「あいつが……大野義明と?」


奈々は深く頷く。


「三週間前。場所は神田の小さなバー。

大野さん、やけに怯えていたって。

“ほんとうにあれで良かったのか”って、酔いながら唐沢に聞いてたらしい」


玲の拳が、静かに固まる。


「……隠蔽の後始末か」


奈々は小声で付け足す。


「その同僚、言ってた。“二人とも、警察沙汰にはしたくない雰囲気だった”って」


玲は再び、マンションの4階――密室となった部屋を見上げた。


「大野義明は、“秘密の共有者”だった可能性が高い。

そして唐沢は――口封じを決断できる人間だ」


奈々が息を呑み、静かに言う。


「玲……これ、また“行政の闇”に繋がってる?」


玲は答えなかった。

しかし、その沈黙が何よりも雄弁だった。


時間: 2025年11月15日 11:15

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は床に跪いたまま灰皿を指さし、奈々に問いかけた。


「唐沢は、煙草は吸うか?」


奈々は少し考え込み、視線を床に落とす。

「……吸う。外では手巻きもするって聞いたことがある」


玲は微かに唇を噛み、棚の周囲に残された不自然な光沢を見つめる。

「なら、この灰皿……誰かが意図的に拭き取った可能性がある」


奈々は小さく息を呑む。

「つまり……唐沢が来た?」


玲はゆっくりと頷く。

「物理的には入れない密室。だが、巧妙に“痕跡だけ消す”ことは可能だ」


その言葉に、部屋の静寂がさらに重く、張りつめるように感じられた。


時間: 2025年11月15日 11:20

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は床に片膝をついたまま、棚の光沢と灰皿を見比べる。

そして、低く、しかし鋭い声で言った。


「――“最初から中にいた”」


奈々の視線が一瞬凍る。

「……え?」


玲はゆっくりと床から立ち上がり、壁の一点を見据える。

「鍵が掛かっていること。チェーンも内側から……だが、この痕跡の拭き方、ほこりの乱れ……誰かが“最初から室内にいた”としか説明がつかない」


奈々は息を飲み、壁越しに残る気配を感じ取ろうとした。

玲はその視線を追い、微かな微笑を浮かべる。

「これが意味するのは、ただ一つ――密室の常識が、最初から覆されていたということだ」


時間: 2025年11月15日 11:23

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲の口元が、冷たく笑った。

その微かな笑みに、奈々は思わず息を呑む。


「……わかるか、奈々」

玲は静かに、しかし確信を帯びた声で言う。

「この部屋の“密室”は、最初から仕組まれていた。誰かが内側で、最初から待っていたんだ」


奈々は視線を床に落とし、微かな痕跡の意味を反芻する。

玲は再びベッド脇の床に目を落とし、ゆっくりと指先で、わずかに凹んだ跡をなぞった。

「この小さな凹み……ここから全てが始まる」


時間: 2025年11月15日 11:27

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲の視線は、被害者が倒れていたベッドではなく、部屋のクローゼットに向けられていた。

静かに、しかし確信を持って扉へ近づく。手を伸ばすと、鍵はかかっていない。

「……ここだ、奈々。全ての手がかりは、この奥に隠されている」


奈々は少し身を引きながらも、玲の肩越しにクローゼット内部を覗き込む。

内部には、きちんと整理された衣類の隙間に、不自然にずれた紙の束が見えた。

玲は指先でそっとそれを取り出し、慎重に広げる。

「やはり……これが、最後の証拠だ」


時間: 2025年11月15日 11:30

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


奈々は玲の隣に腰を下ろすと、手元の端末に指を走らせた。

「情報をクラウドにバックアップ。全ファイルを解析モードで開く……」

画面には、先ほどクローゼットから取り出された紙の束のデータ化が始まる進行バーがゆっくりと伸びていく。


玲は紙束を手に、目を細めながら呟く。

「このデータ……被害者が最後に残した警告だ。誰かに届けたかったんだろうな」


奈々は端末を操作しながら微笑む。

「大丈夫、玲。私が解析して、真実を紡ぐ。彼の声、必ず届くようにする」


背後の窓から差し込む午前の光が、二人の手元を淡く照らす。

静かな部屋の中で、次なる展開への緊張と希望が交錯していた。


時間: 2025年11月15日 11:35

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は黙って頷きながら、ベッドの枕元に置かれた文庫本――『密室の解体』をそっと手に取った。

ページをめくる指先は慎重で、まるで本そのものが、被害者からの最後の手掛かりであるかのように感じられた。


奈々は横で端末を操作しながら言った。

「この本、かなり読み込まれていますね。折り目も多いし、メモも挟まれている」


玲は無言でページを見つめ、床に落ちた小さな血痕を再び視界に収める。

「……ここに、すべてが繋がる」

そう低く呟く声には、冷たくも確かな決意が宿っていた。


静まり返った室内に、二人の呼吸とページをめくる音だけが響く。

外の通りでは、日常の喧騒が遠くに流れていたが、この角の部屋の中だけは、時間が止まったかのようだった。


時間: 2025年11月15日 11:42

場所: 文京区・分譲マンション 外観・階段前


アパートの外観はくたびれたベージュ色で、外階段の手すりには小さな錆が浮いていた。

玲は立ち止まり、足元の階段番号と壁に描かれた団地名を改めて確認する。


「間違いない……この部屋だ」


風がひんやりと頬を撫でる。古い建材の匂いと、遠くで鳴る自動車の音が混ざり合い、静かな緊張感を生む。

奈々が横で小声で言った。

「……鍵は管理人から借りたんだよね。中、何かあるの?」


玲は答えず、目を細めて外階段を見上げた。

「……全て、この部屋の中にある」

その言葉には、静かな確信と、解き明かすべき真実への覚悟が込められていた。


時間: 2025年11月15日 11:45

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋 玄関前


玲は指先で呼び鈴を押す。

「――来たか」


数秒後、内側から控えめな足音が近づき、鍵のかかる音がする。ドアがゆっくりと開いた。

薄暗い廊下の向こうに、管理人の立花がやや青ざめた顔で立っていた。


「……あ、あの……中に、何か……」

声はかすかに震え、手元の鍵束をぎゅっと握りしめている。


玲はゆっくりと一歩踏み出した。

「見せてもらう。中を」


その言葉に、廊下の空気が一瞬、張り詰めた。


時間: 2025年11月15日 11:46

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋 玄関前


ドアの隙間から現れたのは、痩せ気味で目の奥に疲労を滲ませた青年だった。

二十代半ばほどで、神経質そうな眼差しを周囲に走らせる。


「……あ、あの……」

青年は口ごもり、少し身を引く。


玲は落ち着いた声で告げた。

「大丈夫だ。話を聞かせてくれ。君が知っていることを、全部。」


青年は唇を噛み、震える手で背中を押すようにして立ったまま、短く頷く。


時間: 2025年11月15日 11:47

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋 玄関前


青年の声はかすく、言葉の端々に恐怖が混じっていた。

「……何を、話せばいいんですか」


玲は静かに一歩前に出て、落ち着いた口調で答える。

「君が見たこと、聞いたこと。細かいことでも構わない。嘘をつく必要はない。正直に話してくれればいい」


青年は目を伏せたまま、肩を震わせる。

「……わ、私……ただ、その……部屋に……いたんです」


玲は頷き、さらに優しく促した。

「大丈夫。怖がらなくていい。君の声が、真実を動かすんだ」


時間: 2025年11月15日 11:48

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋 玄関前


青年は小さく息をつき、震える声で自己紹介した。

「はい……僕は、松井翔太です。二十五歳……フリーランスの校正作業をしています」


玲は目を細め、静かにうなずいた。

「松井、分かった。まず、何があったのか、順を追って話してくれ」


松井は視線を落とし、手を握りしめながら続ける。

「はい……全部、あの高峰さんがやって……僕はただ……その場にいただけで……何も……」


玲は遮らずに耳を傾ける。

「その“場”というのは、被害者の部屋のことか?」


松井はうなずき、声がかすかに震えた。

「はい……ずっと、そこにいました……でも、手を出したりとかは……僕じゃなくて……高峰さんが……」


玲は軽く息をつき、落ち着いた声で問いかける。

「分かった。君の話が正しいかどうか、これから確かめる。でも今は、無理に背負わなくていい。ゆっくりでいい」


松井は小さくうなずき、震える手でドアの縁を握ったまま、言葉を続けようとしていた。


時間: 2025年11月15日 11:52

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋 玄関前


玲は端末を手に取り、松井の肩越しに画面を覗き込む。


「心拍、急上昇。ストレス反応あり……やはり、隠している情報があるな」


松井は目を大きく見開き、肩を小さく震わせた。

「……すみません、でも……本当に、僕は――」


玲は静かに手を上げ、言葉を制する。

「松井、焦らなくていい。君の呼吸を整えろ。落ち着けば、少しずつ話せるはずだ」


奈々が端末を操作し、ストレス反応の推移を画面に表示させる。

「反応は急激だけど、安定させれば会話可能。玲、サポートは任せて」


玲は頷き、松井の目をじっと見つめた。

「よし。ゆっくりでいい。君が話すべきことだけ、順番に教えてくれ」


時間: 2025年11月15日 11:57

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲はベッド脇に立ち、静かに問いかける。


「あなたは、このベッドの向きを逆にしたんだろう?」


松井は目を伏せ、唇をかすかに噛む。

「……あ、あの……そうです……でも、理由があって……」


玲は腕を組み、ゆっくり歩きながらベッドの周囲を観察する。

「理由ね……普通の人間がこんなことをするのは、何かを隠すためか、何かを演出するためだ」


松井の肩が震える。

「……隠すためじゃないんです。ただ……“気づかれないように”したかっただけで……」


玲は静かに頷き、眼光を松井に固定する。

「その‘気づかれないように’という動作が、この密室の構造を作ったんだ。君がやったことは間違いなく、ここに残っている」


時間: 2025年11月15日 12:05

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


松井の声は震え、言葉が途切れ途切れに出てくる。

「……押入れの中に、誰かがいたんです。『まだだ、今出るな』って……誰かと通話してるみたいで……僕、怖くなって……逃げたんです。もうやめようって言ったのに……」


玲は静かに床に膝をつき、松井の目をじっと見つめる。

「その‘誰か’の指示に従っただけだと?」


松井は小さくうなずく。

「はい……唐沢さんは、“もう見なかったことにしなさい”って……僕、どうすればいいのか分からなくて……」


玲は呼吸を整え、声を落とすように言った。

「君の恐怖も、迷いも、全部ここに残っている。だが真実は、逃げたままではなく、ここで語られるべきだ」


時間: 2025年11月15日 09:48

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


青年の声は震えていた。小さく俯きながら、言葉を絞り出すように続ける。

「わからないんです……誰だったのか、顔も見てない。でも……その時、携帯で――『密室は完成した』って言ってたのは、間違いなく……男の声だった」


玲はじっと彼の目を見据え、間を置くように静かに頷いた。青年の肩越しに、ベッドのシーツの上に残る血痕を視線が滑る。微かな呼吸の音が、室内の静寂をさらに際立たせる。


時間: 2025年11月15日 09:52

場所: 文京区・分譲マンション 4階角部屋・寝室


玲は静かに床に置かれた文庫本を拾い上げ、最終章のタイトルを指でなぞる。

「この言葉、被害者が握っていた文庫本の最終章タイトルと一致します。何かのメッセージか、あるいは意図的に選ばれた“台詞”かも」


青年はわずかに息を呑み、目を瞬かせる。部屋の空気は、さらに重く、そして意味深な緊張感に包まれた。


時間: 2025年11月15日 10:15

場所: 文京区・分譲マンション 外階段


玲は無言で階段を一歩ずつ下り、隣を歩く奈々の存在を意識する。

「被害者の最後の行動、そして文庫本の意味……まだ何か隠されている」

奈々は端末を操作しながら、低く呟く。

「手がかりは少しずつ、でも確実に集まっている。玲、あの部屋、何か“仕組まれた匂い”がする」


二人の足音だけが、静かな団地に響き渡る。


時間: 2025年11月15日 10:18

場所: 文京区・分譲マンション 外階段


玲は階段を下りながら、声を落として呟く。

「犯人は、部屋を出る必要がなかった。最初から現場に潜み、清掃員の作業を密室のカモフラージュに利用した」


奈々は端末の画面を凝視しながら頷く。

「そうか……監視カメラも鍵も、すべて“演出”の一部だったのね」


冷たい風が階段を吹き抜け、二人の背筋をわずかに震わせた。


時間: 2025年11月15日 16:42

場所: 文京区・分譲マンション 外階段


夕暮れの光が二人の前に差し込み、階段の手すりやコンクリートの影を赤みを帯びて染める。


玲は顔を上げ、遠くに見える街路の灯りを確認する。

「この光の中でも、犯人の痕跡は消せない。僕たちは必ず辿り着く」


奈々はそっと玲の腕に触れ、柔らかく笑った。

「わかってる。あなたなら、絶対に見逃さない」


沈む太陽のオレンジ色が、二人の影を長く伸ばして階段に刻む。


時間: 2025年11月15日 17:05

場所: 文京区・分譲マンション 外階段


玲は階段の途中で立ち止まり、夕暮れの柔らかな光が壁を赤く染める中、長く伸びる自分の影を見つめた。息を整えながら、彼はそっと声を漏らす。


「——次は、高峰里奈だ。彼女が知っている“もうひとつの真実”を、引き出す必要がある」


奈々は横で端末を操作し、情報を確認しながら低く答えた。

「連絡は済ませた。彼女が口を開く瞬間まで、我慢して待つだけ」


玲は階段を一歩下り、足元に注意しながら慎重に進む。周囲のビルや街灯が長く影を落とし、街路の静けさを際立たせていた。


「逃げ場はない。現場に潜む犯人の行動も、全部見通せる」


奈々は玲の言葉に頷き、並んで歩きながら視線を巡らせる。外界の喧騒は徐々に夕闇に飲み込まれ、二人の影だけが階段の壁に絡みつくように揺れていた。


玲の心は、まだ見ぬ証言者の口から紡がれる真実へと集中していた。夜の帳が街を包み込む前に、高峰里奈が持つもうひとつの事実に触れなければならない――その決意が、静かに二人の背中を押した。


時間: 2025年11月15日 17:18

場所: 文京区・木造アパート 2階・202号室


玲は静かに足を止め、錆びついた手すりに触れながら周囲を見渡す。夕暮れの光が薄く差し込み、外階段の木材は長年の風雨で色褪せていた。


奈々は隣で端末を操作し、室内の監視や過去の記録を確認している。

「玲……ここまでの動き、ほぼ想定通り。あとは彼女が口を開くのを待つだけ」


玲は小さく息を吐き、控えめな表札に目をやった。『高峰』――その文字が、静かに今後の展開を告げているようだった。


「202号室……ここで、高峰里奈が隠してきた真実が、すべて明かされる」


奈々は視線を玲に向け、低く呟く。

「準備は整った。あとは玲のペースで引き出すだけ」


外階段の軋む音が二人の緊張感をさらに際立たせ、静まり返ったアパートの空気に、これから起こる“告白の瞬間”への期待が重くのしかかっていた。


時間: 2025年11月15日 17:21

場所: 文京区・古びた木造アパート 2階202号室前


玲はインターホンのボタンを軽く押す。かすかな電子音が階段の隙間に反響する。応答はない。


「……やっぱり、出ないか」


奈々が端末を覗き込みながら、低く囁く。

「部屋にいるのは確か。反応があった。今度は少し長めに押してみて」


玲は深呼吸し、もう一度ボタンを押す。今度は音を長く持続させる。


数秒後、室内からかすかな足音が近づく。扉の向こうで鍵の回る音。小さな物音と共に、控えめなドアノブが少しだけ揺れる。


奈々は小さく頷く。

「動きがあった……準備は万全だ」


玲は静かに立ち直り、目を閉じずに扉の方を見据える。

「ここからが、本当の聞き取りだ」


時間: 2025年11月16日

場所: 文京区・古びた木造アパート 2階 202号室前


玲はポケットから名刺を取り出すと、軽く息を吐きながら扉の前で手を差し出した。夕暮れの光が階段に影を落とし、微かに軋む木の音が二人の緊張感を引き立てる。

「高峰さん、俺は玲です。少し、話したくてね……中で構わない。外で立ったままでもいい。」


名刺は紙の厚みと冷たさを手のひらに感じさせる。玲の指先が相手の反応を待つ間、階下の通りの喧騒が遠くに聞こえるだけだった。

彼は慎重に声を落とし、しかし決して曖昧にならないように言葉を選ぶ。「君が知っていることを、全部話してほしい。それだけでいいんだ。」


その瞬間、内側で小さく床を踏む音が響く。名刺を差し出した手はそのまま、ゆっくりと相手が現れるのを待った。


時間: 2025年11月16日

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室前


扉の向こうで、微かな息遣いが止まった。


玲は名刺を持った手を下ろさず、静かに言葉を続けた。声は低いが、逃げ場を与えるように柔らかい。


「私たちは“協力”を求めてきただけです。警察に通報するつもりはありません。今はまだ。」


最後の四文字だけ、ごくわずかに重みを帯びる。

脅しではない。だが、事実としての警告だった。


奈々が隣で端末を握りしめ、小さく頷く。


扉の向こうで再びフローリングを蹴る音がした。

ためらい、恐怖、そして――覚悟の気配。


カチャ。


チェーンロックの金属が震えるように外れ、ゆっくりと扉が開いた。


薄暗い室内から現れたのは、やつれた表情の若い女性・高峰里奈。


彼女の目は赤く、泣いた痕がまだ残っていた。


そして、かすれた声で言った。


「……怖いんです。全部、話したら……私、本当に終わる気がして……。」


時間: 2025年11月16日

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室・居間


玲は一歩踏み込み、視線をゆっくりと室内に巡らせた。

中は薄暗く、カーテンは完全に閉め切られ、昼間の光はほとんど届かない。


乱雑に積まれた古本の山、床に転がるコンビニの袋――生活感と混乱が同居する空間。


一角の使い込まれたデスクに目をやると、銀色の鍵が無造作に置かれていた。

光の反射でかすかに光るその鍵は、まるで「ここに真実がある」と語りかけるようだった。


玲はしゃがみ込み、手を伸ばす前に、そっと部屋の奥を見渡した。

そこに、隠れた息遣いや緊張の気配が漂っていることを察知する。


奈々が静かに玲の肩に手を置き、無言で背中を支えた。

「準備はできてる?」


玲は小さく頷き、ゆっくりと手を伸ばした。


時間: 2025年11月16日

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室・居間


玲はデスクの上の銀色の鍵を見つめたまま、ゆっくりと背後の高峰里奈へと視線を移した。

声は低く、落ち着いていて、逃げ場を与えない。


「聞きたいことは二つです。一つ。あなたは大野さんの部屋に、事件当日、入ったか。二つ。その鍵は、本物ですか?」


薄暗い部屋の空気が、質問の重さに合わせるように沈んだ。


高峰里奈は唇を噛んだ。

瞬間、肩が震え、視線が床に落ちる。

「……なんで……なんでそれを……」


玲は返事を待たない。

視線だけで、すでに“逃げ道はない”と告げていた。


奈々がそっと前に出て、横目で玲を確認してから――

高峰のわずかな呼吸の乱れ、視線の泳ぎ、汗ばむ指先を一つ一つ観察する。


「里奈さん。嘘をつくなら、今じゃない。

 その鍵……あなたのじゃないでしょう?」


部屋の静寂に、時計の秒針だけがカチ、カチ、と響く。


ついに高峰は、崩れ落ちるように腰を下ろした。

両手で頭を抱え、嗚咽が混じる声で――


「……入った……私、あの日……入ったんです……

 でも……でも……“あの男”が先にいたんです……!

 その鍵も……本物じゃ、ない……ただの……合鍵で……」


玲は動かないまま、ただ静かに聞いていた。


彼女の目は、鍵ではなく――

高峰里奈がまだ語っていない“三つ目の答え”を、既に待っていた。


時間: 2025年11月16日

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室・居間


里奈は肩を落とし、嗚咽を抑えながら震える声で答えた。


「……隠しても無駄だよね。もうバレてるんだろ。

 そう……その鍵は本物だ。あの寮の合鍵。昔、大野と二人で管理していたときに、作っておいたんだ」


言葉は小さくも確かに響き、薄暗い部屋の空気を重くする。


玲は静かに頷くだけで、次の言葉を促す。

奈々は里奈の肩越しに慎重に観察を続け、微細な表情の変化を見逃さない。


里奈は俯いたまま手元の鍵を握り締め、声をさらに震わせる。

「……でも、あの日、何が起きたのか……私には、全部は……」


玲の視線は動かず、部屋の隅々まで“まだ語られていない真実”を追っていた。


時間: 2025年11月16日

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室・居間


玲の低い声が、薄闇に沈んだ部屋を震わせる。

「では、その鍵を使って、大野さんの部屋に入った?」


その問いは逃げ場のない直線だった。


里奈は握りしめていた鍵を見つめたまま、しばらく動かない。

喉がひゅっとすぼまり、唇が乾き、呼吸だけがやけに大きく響く。


「……入ったよ」


かすれた声。

小さすぎて、聞こうとしなければ届かないほどだった。


だが、玲は即座に反応した。

目が細くなる。ほんのわずかに、確信が深まった色。


奈々は顔を上げ、里奈の表情を確認する。

「いつ?」


里奈は震える指を机に置き、時間を追うように目を閉じる。


「……事件の少し前。

 大野から“急ぎで原稿を取りに来てほしい”って連絡が来て……

 でも、部屋に着いたとき、大野の声じゃなかった。

 誰か知らない男が、“今は渡せない。帰れ”って……

 それで、怖くなって……すぐ逃げた」


里奈の瞳は怯えと罪悪感で濁っていた。


玲は黙ってその言葉を噛み締めるように視線を伏せ——

次の瞬間、すっと里奈へ向き直った。


「……まだ隠していることがあるね」


時間: 2025年11月16日

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室・居間


里奈は肩を震わせながら、小さな声で告げた。

「脅すつもりだった。ちゃんと話せって、謝って、名義を戻せって……でも、大野は……」


言葉はそこで途切れ、微かに息が荒くなる。

奈々がそっと手を差し伸べるが、里奈はそれに触れず、ただ床を見つめている。


玲は静かに頷き、間を置いて問いかけた。

「でも……?」


里奈の瞳に涙がにじみ、声が震える。

「……大野は……笑って、何も言わなかったの。

 私のこと、責めなかった……だから、余計に……怖くなって……」


薄暗い部屋に、彼女の告白が静かな重みとして沈んでいく。

玲はその言葉の一つ一つを、鋭い観察眼で受け止めた。


時間: 2025年11月16日

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室・居間


里奈の声は、か細くも震えていた。

「鼻で笑った。“そんな古い案、もう価値なんてない”って……。“あんなもん、俺が手を加えたからこそ使えたんだ”って……」


一瞬、部屋の空気が凍るような沈黙が訪れた。

「……あいつの口調、忘れられない……気づいたら、手が出てた。そばにあった鉄製の卓上スタンドで……」


里奈は震える手で胸元を押さえ、目を伏せる。

その言葉の奥に、恐怖と後悔、そして目の前で起きた現実の重みが滲む。


玲は静かに息をつき、里奈の言葉を受け止める。

「……それが、大野さんの死に繋がったんだな」


奈々も隣で俯き、言葉を失ったまま里奈の表情を見守る。

部屋の薄暗さの中で、里奈の告白が“もうひとつの真実”として、三人の胸に重く刻まれた。


時間: 2025年11月16日 17:42

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室


玲は一拍置いて、静かな声で問いかけた。

「……君の話は、被害者の目線から見ても、すべて筋が通っている。ここまで隠されていた事実を、よく話してくれたな」


時間: 2025年11月16日 17:44

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室


玲は静かに灰皿のそばに膝をつき、視線を鋭く里奈に向けた。部屋の薄暗さと乱雑な古本の山が、二人の間の緊張を一層際立たせる。


「そして、もう一つ。現場の灰皿――そこには君の指紋と、煙草の灰が残っていたんだ。大野さんは確かに禁煙者だった。勤務先でも、自宅でも、煙草は一切触れたことがないはずだ。なのに、君の痕跡が残っている。どう説明する?」


里奈は一瞬目を伏せ、手が微かに震える。玲の声には威圧はなく、淡々とした調子で事実を積み上げる冷徹さがあった。言葉のひとつひとつが、まるで部屋の空気を切り裂くかのように響く。


「君は……部屋に入ったのか? 灰皿を使ったのか? 否定するなら、今だ。言葉で証拠を塗りつぶせる時間は、もう残されていない」


その静寂の中で、里奈の呼吸だけが室内に微かに響いた。


時間: 2025年11月16日 17:47

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室


里奈は思わず小さく声を漏らし、震える指で灰皿の縁を撫でた。


「あれ……拭いたはずなのに。なぜ、そんな……?」


玲はその言葉に微かに眉をひそめるが、声は変わらず落ち着いていた。


「証拠は、思い込みで消せるものじゃない。物理的な痕跡は、必ず何かを語る。君がやったことは隠せない――君自身がそう証明してしまったんだ」


里奈の目が揺れ、唇がわずかに震える。部屋の薄暗さが、二人の間に漂う緊張をより濃くしていた。


時間: 2025年11月16日 17:50

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室


奈々は玲の横で端末を手に取り、画面を慎重に操作した。指先が淡々と動き、通報フォームに必要事項を打ち込む。


「通報手続きは完了。現場状況と証拠の概要、指紋と煙草の件もまとめて送信済み」


玲は淡い光に照らされた里奈の表情を見据え、冷静な声で付け加えた。


「これで、君の行為は正式に記録される。逃げ場はない。後は、警察に全てを委ねるだけだ」


里奈は俯き、唇を噛みしめたまま動けずにいた。部屋の沈黙の中、端末から送信完了の音だけが響いた。


時間: 2025年11月16日 18:12

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室


玲は息を整え、里奈の顔をまっすぐ見つめた。

「里奈、今回のことは絶対に口外しないこと。誰かに話せば、君自身の安全も危うくなる。だけど、真実を消す必要はない。記録も証拠も、もう押さえてある。今はただ、自分を守りながら、日常を取り戻すことに集中しろ。」


里奈は肩を震わせ、黙って頷いた。玲はさらに低い声で続ける。

「もし、何か不安になったら、すぐに連絡してこい。俺たちは君を守るためにここにいる。覚えておけ。」


その言葉に、里奈はかすかに涙をこぼしながらも、小さく「わかりました」と答えた。


時間: 2025年11月16日 18:15

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室


玲の声は穏やかだった。柔らかく、落ち着いた響きで、里奈の緊張を和らげる。

だが、その内側に潜む圧は明確だった。言葉の端々に含まれる覚悟と冷静な鋭さは、決して揺るがない。


「理解しているな、里奈。君がどう動くかで、今後の事態の広がり方も変わる。油断するな。ただ、怯える必要はない。君は一人じゃない。」


里奈は俯きながらも、玲の言葉を胸に刻むように静かに頷いた。


時間: 2025年11月16日 18:18

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室


里奈はゆっくりと顔を上げた。目は充血し、こぼれそうな涙の光がわずかに揺れる。声には恐怖と罪悪感、そしてどこかほっとした安堵が入り混じっていた。


「……わ、私……どうすればいいんですか……玲……」


玲は言葉を選ぶように、落ち着いた口調で答えた。

「まずは事実を整理することだ。そして、行動は慎重に。自分を守りながら、間違いを正す方法を考えろ。君が逃げなければ、真実は確実に届く」


里奈はその言葉を胸に、深く息を吸い込んだ。少しずつだが、震えていた肩が落ち着きを取り戻していく。


時間: 2025年11月16日 18:25

場所: 文京区・木造アパート 2階 202号室


玲は静かに手帳を開いた。ページの間から微かな紙の匂いが漂う。ペン先を走らせ、すっと一行だけ書き加える。短い文字列だが、その内容は次の行動を決定づける重みを持っていた。


「高峰里奈——事実を隠さず、正しい手続きを踏むよう指導済み」


書き終えると、玲はペンを置き、そっと手帳を閉じた。瞳はまだ里奈に向けられていたが、心の中では次の調査対象へと意識を切り替えていた。


時間: 2025年11月16日 19:10

場所: 文京区・玲探偵事務所


玲は端末の画面を見つめながら、奈々に小さく呟いた。

「……次の調査対象は“佐伯美晴”。でも注意しろ。本名とは限らない。大学時代から、何度か名前を変えているらしい。SNSの名義も頻繁に変えてて、追跡が難しい。」


奈々はうなずきながら、すぐに端末に操作を入れる。過去の投稿やアカウントの履歴を洗い、人物の行動パターンを分析する作業に入る。


玲は椅子に腰かけ、次の一手を考えながら、静かに深呼吸した。夜の帳が事務所の窓から差し込む中、また新たな“声なき証言者”の存在が、事件解明の鍵になることを直感していた。


時間: 2025年11月16日 19:25

場所: ロッジ/玲探偵事務所


玲は端末を前にして指を走らせ、低い声で言った。

「佐伯美晴。照会開始。過去10年の設計士アシスタント、大学院助手の名義から確認する。」


奈々は隣で手早く資料を整理しながら応じる。

「了解。過去の勤務先データと学籍情報も連動させる。複数の名義があってもクロスチェックで洗い出せるはず。」


玲は画面に映し出される履歴や名義の断片をじっと見つめる。

「慎重にな……この人物、表に出てこない分、痕跡は薄い。だが、必ず何かが残るはずだ」


時間: 2025年11月16日 19:30

場所: 郊外・玲探偵事務所


玲は窓の外に目をやり、暮れかけた郊外の街並みをじっと見つめた。

オフィスの床に映る淡いオレンジ色の光が、玲と奈々の背中をそっと包む。


「静かだな……」玲の声は低く、ほとんど呟きに近かった。

奈々は端末の画面を覗き込みながら頷く。

「でも、ここからが本番だね。佐伯美晴、足跡を辿れば次の事実にたどり着けるはず」


玲は軽く息を吐き、再び端末に視線を戻した。

「一つずつ、見逃さずに……慎重に、だ」


郊外の静かな夜風が窓をかすかに揺らし、事務所内の緊張と静寂の間に、次なる調査への気配が静かに満ちていた。


時間: 2025年11月16日 21:40

場所: 郊外・玲探偵事務所・応接スペース


玲はゆっくりと椅子を引き、佐伯美晴の前にしゃがむように座った。

「もう、安全だ。ここにいる限り、誰も君を傷つけられない」


美晴は顔を上げられず、手を握りしめたまま小さく震えている。

玲はその手にそっと手を添え、落ち着いた声で続ける。

「深呼吸して。大丈夫。君は保護されている。逃げなくていい」


九条凛も横に座り、静かに支える。

「怖かったね。でも、ここからは私たちが守る。誰も一人にはさせない」


美晴の瞳にわずかに光が戻り、かすかな息を吐く。

玲は立ち上がり、奈々に小さくうなずく。

「応急手当と宿泊環境の準備を進めろ。今日はここで休ませる」


奈々は端末を操作し、必要な手配を即座に進める。

外の夜風が事務所の窓をかすかに揺らし、星明かりが二人の影と、美晴の小さな姿を照らした。


玲は静かに言った。

「今夜は、ただ守ることだけを考えよう。話す準備ができたら、ゆっくりでいい」


美晴は小さく頷き、震える体を少しずつ落ち着かせる。

その場に流れる静寂が、彼女にとって初めての“安全な時間”であることを、玲も凛も確かに感じていた。


時間: 2025年11月16日 21:55

場所: 郊外・玲探偵事務所・応接スペース


佐伯美晴は、ソファに座ったまま俯き、かすかに震える声で告白した。

「……私、本当は……名乗ってなかったんです。偽名でした。佐伯美晴……それが本名です」


玲は静かに頷き、優しく言葉を続ける。

「分かった。君の名前も、過去も、これから守る。偽名だろうと本名だろうと、関係ない。君はここで安全にいられる」


九条凛もそっと肩に手を添える。

「偽名で過ごさざるを得なかった理由も、私たちは理解する。今は話す必要はない。安全が最優先」


美晴は小さく息を吐き、手を握りしめたまま少しだけ落ち着きを取り戻す。

玲は立ち上がり、奈々に指示を出す。

「今夜は、彼女を落ち着かせることに集中する。宿泊と食事の準備を整えろ」


外の夜風が事務所の窓を揺らし、照明に照らされた美晴の姿が、初めて安心を得たかのように静かに見えた。


時間: 2025年11月16日 22:10

場所: 郊外・玲探偵事務所・応接スペース


佐伯美晴は、ソファに背を預け、震える声で過去を語り始めた。

「昔……地方で働いていた頃、ある男性に付きまとわれて……。それで名前を変えて、住民票も動かして、やっと、やっと落ち着いたと思ったんです。でも、里奈さんが……過去のことを知っていて。あの夜、それを……口にしたんです」


玲は少し前に出て、美晴の視線を受け止めるように座った。

「分かった、怖かったんだな。でも、もう過去は脅威じゃない。ここにいる僕たちが、君を守る」


九条凛も静かに頷き、そっと美晴の手を取った。

「名前を変えて生きるしかなかった君の気持ちも、全て尊重する。今は安心していい」


美晴は肩を震わせながらも、かすかに涙をこぼす。

奈々が差し出した温かい紅茶を手に取り、深呼吸する。

夜の静寂が事務所を包み込み、ようやく彼女の心に小さな安堵の灯がともった。


時間: 2025年11月16日 22:12

場所: 郊外・玲探偵事務所・応接スペース


玲は静かに、美晴の目を見据えながら問いかけた。

「その付きまとっていた“男性”の名前は?」


美晴は一瞬、言葉を飲み込み、俯いたまま震える声で答えた。

「……名前は……佐伯家に関わるあの人……加藤衛です……あの頃、ずっと……つきまとわれて……」


凛がそっと手を添え、美晴を落ち着かせる。

「怖かったよね。でも今は、もう安全な場所にいる。私たちが守るから」


奈々は端末で保護措置を確認しながら、静かに頷く。

窓の外の街灯が柔らかく事務所内を照らし、夜の静けさの中にわずかな安心感が広がった。


時間: 2025年11月16日 20:45

場所: 郊外の玲の事務所・応接スペース


凛はソファの背にもたれかかり、手元の書類に目を落とすでもなく、ただ床を見つめたまま小声で呟いた。「それ、偶然じゃない……誰かが、情報を渡したのかもしれない」


玲は腕を組み、ソファの隣で静かにその言葉を受け止める。外の街灯が事務所の窓越しに差し込み、壁に淡い光の帯を作っていた。端末の画面を見つめる奈々も、微かに眉を寄せながら、誰がどんな意図で情報を流したのかを頭の中で整理している。


凛の口調には、ただの推測ではない、確信に近い緊張感が含まれていた。彼女の声の震えは小さいが、室内の静けさと相まって、まるで誰かの存在を確かめるかのように響いた。玲は目を閉じ、深く息を吸い込む。情報の出所、流れた経路、その背後に潜む意図——すべてを一瞬で頭の中で推理する。


「なら、次のステップは……」玲が口を開く前に、凛が少しだけ顔を上げた。黒い瞳は微かに光を反射し、確信と覚悟を宿している。奈々も端末を手元に置き、二人の視線を交わす。静寂の中に、新たな調査の緊張が満ちていた。


そのとき——事務所の電話がけたたましく鳴り、凛と玲は同時に顔を上げた。


時間: 2025年11月16日 20:47

場所: 郊外の玲の事務所・応接スペース


奈々がすぐに受話器を取り上げると、向こう側から低い声が響いた。「……こちら、関東合同調査局です。佐伯美晴に関する追加情報が入りました。至急、確認を——」


玲は眉をひそめ、凛も微かに身を乗り出す。電話口の向こうで途切れ途切れに伝えられる内容には、これまでの調査では得られなかった“人物の接触履歴”や“過去の居住先の動き”が含まれていた。


「つまり、彼女の過去に介入した者がまだ……」凛の声が静かに、しかし確信を帯びて事務所の空気を満たす。奈々は端末をすぐに起動させ、電話から聞き取った情報と既存データを突き合わせ始めた。


外の暮れかけた街灯が窓越しに光を投げ、三人の影が薄く壁に重なる。沈黙の瞬間を破った電話の声は、まるでこれから始まる新たな追跡の合図のようだった。


玲が受話器を置いた直後だった。

奈々がふと、ソファ脇の観葉植物の根元に違和感を覚えて、そっと葉をかき分けた。


「……これ、盗聴器?」


その声は大きくはなかったが、事務所の空気を一瞬で緊張に変えるには十分だった。


時間:2025年11月16日 20:52

場所:郊外・玲探偵事務所 応接スペース


凛がすぐに駆け寄り、奈々の手元をのぞき込む。指先ほどの黒い機器が、土の中に半ば埋め込まれている。ホコリは少なく、設置されてからそれほど時間が経っていないことは明らかだった。


「型が古いけど……安物じゃない。素人の仕業じゃないわね」

凛が囁くように言う。


玲は視線をゆっくりと室内へ巡らせた。美晴は黙ったまま、しかし目を大きく見開き、身を縮めている。


「見覚えは?」玲が穏やかに問いかける。

美晴は一度だけ息を詰まらせ、震える声で答えた。


「……わかりません。でも……私が引っ越す前の部屋でも、似たようなものが……管理会社は“誤作動した火災探知器”だって言って……でも……」


奈々が盗聴器を慎重に取り出し、ポーチにしまう。

「同じ人物か、同じグループが関わっている可能性があります。美晴さんを“追跡し続けていた”誰かが」


事務所の奥で、空調の低い唸りだけが響く。

その静けさの中で、玲はゆっくり美晴の前に膝をつき、目線を合わせた。


「安心してください。もう一度言います。あなたは保護下にあります。ここで起きたことは、すべて私たちが扱います」


外の街灯が瞬き、事務所の窓に淡い光が揺れた。

そして玲は立ち上がり、凛と奈々へ小さく頷く。


「——ここから先は、“本気の調査”になる」


時間: 2025年11月16日 20:55

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


佐伯美晴の顔が青ざめた。瞳の奥には恐怖と混乱が入り混じり、唇はわずかに震えていた。


「……これ、盗聴器……ですか?」彼女の声はかすれ、思わず手で胸元を押さえる。


凛がそっと肩に手を置き、落ち着かせるように囁く。「大丈夫。今は安全よ。私たちがいる」


奈々は端末を手に取り、事務所の防犯システムを確認する。映像には事務所周囲を歩く影は映っていないが、わずかな侵入痕が残されていた。


玲は美晴の青ざめた表情を見据え、穏やかな声で言った。「怖い思いをさせてしまった。でも、ここから先は君を守る。全て私たちが管理する」


外の街灯の光が揺れ、影が壁に長く伸びる。事務所内の緊張感は張り詰めたままだったが、守るべき者がそこに確かに存在していた。


時間: 2025年11月16日 20:57

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


「今すぐ、あなたを安全な場所に移します。あなたが“まだ狙われている”可能性が高い。」


玲は静かに言ったが、その声音には決定の色があった。

美晴の肩がびっくりと震える。


「里奈の動きは——あなたを囮にした、別の計画の一部だったかもしれない」


その言葉に、美晴は息を呑んだ。


凛が眉をひそめる。「……つまり、里奈は操られていた可能性もあるってこと?」


「断言はまだできない」玲は短く首を振る。「ただ、彼女が“鍵を持っていたこと”と、“美晴の過去を知っていたこと”……これは偶然じゃ説明できない」


奈々は端末を操作しながら、すでに次の手を打ち始めていた。

「玲、事務所の裏ルート、車の準備できてる。監視カメラの死角を通って移動できるわ」


美晴は両手を胸の前で握りしめ、震える声で言った。


「……本当に……守ってくれるんですか……?」


玲は一歩近づき、彼女の目線の高さで言葉を落とす。


「当たり前だ。もう“逃げ続ける側”にはさせない。君は今日から——守られる側にいる」


その優しい圧に、美晴の瞳がようやく揺れを止めた。


事務所の外では、風が木々を揺らし、不穏な影が道路に伸びていた。

すべてが、次の段階へと動き出そうとしていた。


時間: 2025年11月16日 20:59

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


そのとき——


外で、タイヤを強く軋ませる急発進音が鳴り響いた。

乾いた空気を切り裂くような、不自然なほどの加速音。


美晴が悲鳴の寸前で口を塞ぐ。

凛は即座に振り返り、窓際へ駆け寄った。


「……今の、誰かの車?」


奈々が端末を一瞬で切り替え、周囲の簡易監視を表示させる。

だが、事務所前の通りに設置したはずの簡易カメラは——


「映像が……飛んでる?」


「外部ノイズ。消されたな」

玲はすでに玄関の影に身を寄せ、外の気配を探っていた。


一拍。


二拍。


わずかな排気の残り香が、事務所前へ流れ込む。


「……見張りがいた」

玲の声は低く、確信に満ちていた。


「美晴を運ぶ前に、誰かが動いた。タイミングが良すぎる」


美晴の顔から血の気が引いていく。

凛は彼女の肩に手を置き、震えを抑えるように支えた。


奈々が玲を見つめる。

「玲……どうする?」


玲は短く息を吸い、答えを即断した。


「ルート変更だ。予定していた裏道はもう使えない。

 ——“あの車が戻ってくる前に”、ここを出る」


事務所の空気が、一気に張り詰めた。

逃げ場のない夜が、音もなく迫ってきていた。


時間: 2025年11月16日 21:00

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


「ナンバー、追える? 監視カメラ、ここに何台?」

凛が問う。声は低いが、鋭く張りつめていた。


奈々はすでに端末に指を走らせていた。

「ナンバーは……一瞬だけ。でも前後のフレームが不自然に欠けてる。スピードじゃない、意図的な潰し方だよ」


凛の目が細くなる。

「監視カメラは?」


「公道の固定が二つ、向かいの店舗で一つ、うちの簡易が一つ。計四台」

奈々は息を飲みつつ続けた。

「……でも、全部の映像が“同じタイミングでノイズ化”されてる。自然じゃない」


玲は静かに立ち上がった。

その目の奥には、もう“次の一手”を読んだ者の光が宿っていた。


時間: 2025年11月16日 21:07

場所: 郊外・玲探偵事務所 裏口側・機材保管スペース


低い振動音が、静かな裏側のスペースに広がった。

金属ケースの上に置かれた矩形の検出装置が、まるで心臓のように脈打つ。


その装置にそっと指を触れ、微かな震えを確認した人物がいた。


神原詩音かんばら しおん


細身の体にフィールド用ジャケットを羽織り、目元の保護眼鏡を軽く押し上げる仕草は、現場に慣れした技術者そのものだった。

黒髪を後ろでゆるく束ね、耳にはノイズキャンセラー。

彼は、玲の事務所と協力している“電磁波・盗聴系のスペシャリスト”だ。


「……まさか、ここまで露骨に仕掛けてくるとはね」


装置の波形を確認しながら、詩音は眉を寄せた。

振動は、一定ではない。

“内側から狙い撃ちされた電磁干渉”の特徴が、はっきり出ていた。


事務所内から、奈々の声が飛んでくる。

「詩音、どう? 本気でやられてる?」


彼は静かに頷いた。

「うん。車が出ていった直後にピークが来てる。あれは単なる盗聴じゃない……局所的なジャミング。しかも、素人の作りじゃない」


玲が裏口に現れた。

詩音は装置を示しながら言う。


「玲、これ……“追跡逃れ”じゃなくて、“威嚇”だ。

 相手はあなたたちの動きを完全に読んで、電波の死角を作った」


玲は目を細める。

「——やはり、まだ部屋の外に敵がいる。狙いは、美晴だな」


詩音は保護眼鏡を押し直し、装置の蓋を閉じた。


「ここから先は、俺も動くよ。

 ただの電磁ノイズじゃない。

 “プロの介入”が始まったってことだから」


冷えた空気の中、検出装置の最後の震えが、ゆっくりと沈んでいった。


時間: 2025年11月16日 21:09

場所: 郊外・玲探偵事務所 裏口側・機材保管スペース


御子柴理央みこしば りおは、無言のまま膝をついた。

白い手袋をはめ、ポーチから取り出したマイクロ・トレーススキャナーを静かに地面へ近づける。


装置がわずかに唸り、微細な粒子の密度と成分がリアルタイムでスクリーンに流れた。


金属粉。塗料。タイヤ由来の樹脂。

それらが、薄い尾を引くように一点へ収束していく。


理央は眉をひそめ、スクリーンを指で拡大した。


「……これ、ただの急発進じゃない」


奈々が身を乗り出す。

「どういう意味?」


理央は淡々と答えた。

その声は、事実だけを告げる、冷静な専門家の声だった。


「タイヤ痕に、意図的に散布された微粒子が混ざっている。

 追跡を困難にするための“トレース・ディスラプター”。

 ——軍用の規格に近い」


玲が目を細めた。

神原詩音が険しい表情で理央の画面を覗き込む。


「軍用……? こんな住宅地で?」


理央は静かに頷いた。

「ええ。少なくとも“素人”では絶対に扱えない。

 この粒子の散布は……待ち伏せしていた証拠よ」


奈々が息を呑む。

「つまり……私たちが佐伯美晴を保護すると読んで、張り込んでた?」


理央はスキャナーを閉じながら、立ち上がった。


「追跡は簡単にはできない。

 でも……この粒子の“濃度の偏り”は逆にヒントになる。

 ——犯人の逃走方向は、南東。

 市街地じゃなく、外環の側道に向かってる」


玲は低く呟いた。


「意図的に“足跡を消す”連中……

 ——この事件、まだ序章だな」


時間: 2025年11月16日 21:12

場所: 郊外・玲探偵事務所 裏口スペース(現場)


玲は、理央が示した粒子のデータを一瞥し、

散った微粒子の軌跡の中に“別の異物”が混在していることに即座に気づいた。


彼女はしゃがみ込み、床に映し出された解析ホログラムを指先でなぞる。

そこに、わずかに“血液反応”のラインが混じっていた。


それはあまりに薄い。

目視では絶対に見えないほどの、極めて微細な飛沫。


玲は立ち上がり、静かに告げた。


「つまり——第三者が“実在した”証拠が、ここにある。

 しかも、被害者と何らかの肉体的衝突があった」


奈々が顔を上げる。

「……衝突って、まさか里奈と?」


玲は首を横に振った。

その目は確信を帯びている。


「違う。このサイズの飛沫は、

 “抵抗した相手の腕をかすめたとき”に飛ぶレベルだ。

 体格の差から見ても、里奈じゃない。

 彼女はこういう動きをしない」


理央が低い声で補足する。


「飛沫の位置……犯人は出口側にいた。

 つまり、佐伯美晴が逃げるのを“阻止しようとした”可能性が高い」


凛が息を呑む。


「……追ってきてたの? ここまで?」


玲は短く頷いた。


「その通りだ。

 “盗聴器を仕掛けた者”と“ここに残った血の主”は——

 同一人物である可能性が高い」


事務所の空気が一瞬、張り詰めた。


佐伯美晴は、震える指を胸元に押し当てながら、絞り出すように言った。


「……私、まだ……狙われてるの……?」


玲の返答は静かで、しかし迷いは一切なかった。


「——ああ。

 だからこそ、急いで場所を移す必要がある」


時間: 2025年11月16日 21:25

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


九条凛は、手元の録音デバイスを静かにオフにした。

赤いランプが消えると、室内には微かな機械音だけが残り、張り詰めた空気が少しだけ和らぐ。


凛はゆっくりと顔を上げ、震える佐伯美晴の瞳をまっすぐに見つめた。

「美晴、怖がらなくていい。ここにいる私たちは、君の味方だ」


美晴の唇が小さく震え、肩をわずかに揺らす。

「でも……どうして、私のことを……」


凛は落ち着いた声で答える。

「君が話してくれたから。君の情報が、私たちに“真実を追う手掛かり”をくれたんだ」


玲は背後から静かに頷き、手を差し伸べる。

「さあ、行こう。安全な場所に移す。もう誰も君を傷つけさせない」


美晴は深く息をつき、わずかに頷く。

その瞬間、凛の視線と玲の手が、彼女の心に“守られている安心感”を届けた。


時間: 2025年11月16日 21:28

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


美晴は震える声で答えた。

「……わ、わかりました……でも、怖い……私、本当に……大丈夫……ですか……?」


凛は穏やかに微笑みながら、少し体を前に倒して、美晴の手にそっと触れる。

「大丈夫。私たちが守る。君が話してくれたことは、もう無駄にはしない」


玲も横から声をかける。

「安心して。ここからは君が危険にさらされることはない。私たちがついている」


美晴の瞳から、少しずつ涙が溢れ、震えはまだ残るものの、恐怖の陰にほんのわずかの安堵が差し込んでいくのがわかった。


時間: 2025年11月16日 21:32

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


冷えかけた室内に、わずかに夕風が入り込む。カーテンの端がそよぎ、積み上げられた書類や古本がかすかに揺れた。


美晴は肩をすくめ、震える手で膝を抱え込む。玲はそっと背後の椅子を引き、温かいブランケットを差し出した。

「これを使え。少しでも落ち着くはずだ」


凛は眉間に皺を寄せ、周囲を見渡す。

「まだ外には危険が残っている……監視カメラの映像は全部チェックした。今のうちに、安全なルートで移動しよう」


美晴は震える声で小さく呟く。

「……ありがとうございます……」


玲は微かに頷き、視線を窓の外に向けた。街の灯りが夕暮れに溶け、冷たい空気に反射してぼんやりと光っている。


時間: 2025年11月16日 21:35

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


美晴の唇が震え、声はかすかにしか出なかった。

「……倉田悠一……」


玲は静かにメモを取りながら、眉間にわずかな皺を寄せた。

「倉田悠一……その名前、君にとってどんな存在だった?」


美晴は目を伏せ、震える声で答える。

「……付きまとわれて、逃げたかった。けど……ずっと、つきまとわれて……」


凛はそっと肩に手を置き、低く囁くように言った。

「大丈夫。ここは安全だから、全部話して」


室内の空気が一瞬、緊張と安堵の間で揺れ動く。窓の外では街灯がゆらりと光を反射していた。


時間: 2025年11月16日 21:40

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


背後でメモを確認していた神原詩音が、抑えた声で補足する。

「倉田悠一……過去の通報記録や目撃情報に名前が複数ヒットしています。警察にはまだ共有されていない情報も含まれている」


玲は肩越しに神原の画面を覗き込み、ゆっくりと頷いた。

「なるほど……これが、今回の事件の裏側に絡む“影”の一部か」


美晴は顔を青ざめさせたまま、言葉を詰まらせる。

凛はそっと彼女の手を握り、穏やかに促した。

「怖がらなくていい。今、私たちがついているから」


窓の外では、夕闇が街路を深く染め、事務所内の薄明かりと混ざり合った。


時間: 2025年11月16日 21:42

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


詩音は淡々と続ける。

「倉田悠一は過去十年で複数の匿名通報と現場証言に関与しています。目撃者の供述では、彼は現場にいた可能性が高く、関与した行動は被害者の移動や監視と一致する」


玲は指先で机の端を軽く叩き、思考を巡らせる。

「つまり……この男が、事件の核心にいた“影”の存在だ」


凛は美晴に視線を向け、静かに言った。

「安心して。今は安全な場所にいる。ここから、私たちが全てを整理する」


外の風が窓越しに差し込み、薄暗い室内にわずかなざわめきを運んでいた。


時間: 2025年11月16日 21:47

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


神原詩音が、無言でツールケースを開き、銀色の微細解析装置を取り出す。指先の動きは正確で、装置を机の上に置くと、細かなセンサーを被害者の周囲に向けて調整し始めた。


「粒子反応がある……微量の皮脂と繊維混入、複数の人物による接触の可能性あり」

彼女の声は低く、淡々としているが、画面に表示される数値は静かに異常を告げていた。


玲は装置のディスプレイを覗き込み、目を細めた。

「……やはり、現場にはもう一人いたな」


凛は美晴の肩に手を置き、柔らかく言う。

「大丈夫、怖がらなくていい。全て、これから明らかにするから」


外の闇が少しずつ濃くなり、窓越しに街灯の光が差し込む中、解析装置の光だけが室内に冷たい輝きを放っていた。


時間: 2025年11月16日 21:53

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


玲の声は静かだが、部屋の空気を切り裂くように重みを帯びた。


「——彼は、“密室”を作っただけじゃない。“罪の座標”を、美晴に向けて調整した。あの子を、自分の罪に巻き込むために」


美晴の目が大きく見開かれ、唇を震わせる。震える息が肩を小さく揺らす。


凛はそっと彼女の手を握り、低い声で囁く。

「だから、あなたは一人じゃない。誰も巻き込ませない」


解析装置のセンサーが微かな光を放ち、静かな室内に数字とグラフが浮かび上がる。玲はその光を見据え、決意を固めるように背筋を伸ばした。


時間: 2025年11月16日 21:57

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


玲は解析画面を指さし、数字と断片映像を追いながら説明する。

「倉田悠一。警察に追われた過去はない。だが、記憶追跡に残された断片には——“怒りの自己正当化”が、何度も記録されている」


美晴は目を伏せ、肩を震わせながら囁くように言った。

「……あの夜、全部……思い出してしまう……」


凛は優しく彼女の肩に手を置き、そっと背中をさすった。

「大丈夫。今は安全。私たちがここにいる」


玲は深く息を吸い込み、次の行動を決めるかのように、解析画面に集中した。


時間: 2025年11月16日 22:03

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


玲はゆっくりと椅子に腰を下ろし、遠くの窓の外を見つめながら言った。

「歪んだ正義を信じる者ほど、罪を犯している意識がない。“彼女を守った”とさえ思っているかもしれない……」


美晴は震える手を握りしめ、言葉を発することすらできない。

凛は黙って隣に座り、目を閉じて深く呼吸しながら、状況を静かに受け止めていた。


玲はモニターに目を戻し、解析データの数値を一つひとつ確認しながら、次の一手を練る。


時間: 2025年11月16日 22:17

場所: 郊外・監視車両内


監視車両内、機器の発する微細な電子音と、隊員たちの息遣いだけが空間を満たしていた。

神原詩音が画面を凝視しながら、低く呟く。

「ナンバーは既にトレース開始。移動方向も追尾可能……だが、逃走経路は複雑だ」


奈々は端末を操作し、複数の監視カメラ映像を同時に切り替える。

「市街地に入った……あと5分で主要交差点に到達するはず」


玲は窓越しに夜の街を見やり、冷静に指示を出す。

「追尾班、車線は塞がずに周囲の動きを監視。悠一が暴走しないよう、周辺の民間人も注意しろ」


隊員たちは息を潜め、微細な電子音に耳を澄ませながら、緊迫した静寂の中で監視を続けていた。


時間: 2025年11月16日 22:22

場所: 郊外・監視車両内


隊員のひとりが小型マイクに向かって低く報告する。

「目標、主要交差点を通過。速度は時速40キロ前後、周囲に歩行者なし。付近の信号は全て正常、障害物なし」


神原詩音が画面の数値を追いながら頷く。

「ナビゲーション信号と車両の位置が完全に一致。逃走経路に不自然な変動はない。悠一、計画的だ」


玲は静かに端末を操作し、遠隔で別ルートの監視カメラを確認する。

「複数の出口を抑えろ。彼が逃げるとしたら、最初に選ぶのは——あの路地だ」


奈々が端末をタップしながら、息を潜めて言った。

「確認……路地側のカメラも稼働中。悠一の車両、逃げ場はほぼない」


車内の微細な電子音と、隊員たちの静かな呼吸だけが、緊張感を増幅させていた。


時間: 2025年11月16日 22:28

場所: 郊外・監視車両周辺


もう一人の隊員が車両から降り立つ。黒い戦闘ジャケットに身を包み、ワイヤレス通信用のインカムを耳に装着している。腰にはスティック型の制圧具——通称“ダンパー”が固定されていた。非致死性の電磁パルス式拘束器で、対象の電子機器や自律機械に干渉し、動きを封じることができる。


玲が低い声で指示を出す。

「その位置から、悠一の車両を封鎖。直接干渉は最後の手段に使う。まずは追尾と制御範囲の確保を優先」


詩音は端末を覗き込み、微細振動の解析値を確認する。

「ダンパーの有効範囲内。車両が次の角を曲がる前に、十分に制御可能です」


奈々が端末の地図を指でなぞりながら言う。

「全経路を3分ごとに更新。悠一、逃げ場はほとんどゼロ。逃げ切りは不可能」


黒い戦闘ジャケットの隊員は軽く頷き、夜の路地へと足を踏み入れた。その静かな動きが、緊張の張り詰めた空気に冷たい圧を加える。


時間: 2025年11月16日 22:32

場所: 郊外・路地沿い


その“黒い影”は、突如止まった。夜風に揺れる落ち葉の音すら聞こえるほど、静寂が辺りを支配する。


玲が低く呟く。

「動きを止めたか……この位置で何を確認している?」


詩音は端末の画面に目を落とし、振動解析の数値を読み取る。

「車両と隊員の間に微細な変化。何か、電子信号か磁気反応が干渉している可能性があります」


奈々は手元の地図を再確認し、指で経路をなぞりながら言った。

「悠一の車両はまだ動いています。でも、この影……どうやら進路に障害を感知した模様」


玲は夜の闇を睨む。息を殺し、闇に潜む気配を探るように、ゆっくりと歩を進める。黒い影の正体を見極める、その一瞬が、すべての鍵となる予感がした。


時間: 2025年11月16日 22:36

場所: 郊外・3階建てアパート 302号室前


三階の踊り場に差し掛かると、目の前に302号室の扉が現れた。扉にはまだ捜査中を示すシールが貼られ、黄色いバリケードテープが斜めに張られている。


玲は立ち止まり、低く息をつく。

「ここか……。動きを止めた影は、どうやらこの部屋の前で待機している」


奈々は無言でスマートデバイスを操作し、監視カメラの映像を呼び出す。端末の小さな画面に、階段と踊り場の映像が映し出され、302号室前の黒い影が微かに揺れているのが確認できた。


詩音は端末のセンサーを覗き込みながら呟く。

「電子信号の干渉はさらに増幅しています。影が待機しているだけで、周囲のセンサーを無効化しているようです」


玲は影の存在を意識しながら、慎重に足を進める。呼吸を整え、全神経を302号室の扉と、その背後に潜む人物に集中させる。


時間: 2025年11月16日 22:36

場所: 郊外・3階建てアパート 302号室前


「……動いた。鍵を――」


奈々が息を呑むように呟いた。

端末の画面の中で、黒い影がゆっくりと腕を伸ばし、302号室のドアノブに触れた。

微かな金属音が、廊下の静寂に溶け込む。


カチ……。


鍵が、内側から外された。


玲は即座に手を横に伸ばし、背後の二人を制する。

「まだ近づくな。……鍵の“音”が違う。これは合鍵じゃない」


詩音が眉を寄せる。

「じゃあ――?」


玲は目だけ動かして扉を見据えた。

「“内部機構に直接干渉”している。合鍵を使ってるのではなく……鍵そのものを無力化した」


奈々の指先が震え、端末のアラート表示が赤に変わる。

「信号強度が急上昇……! 電子ロックの制御基板が、外部から完全に乗っ取られてる……!」


“カチャリ”。


ゆっくりと、302号室の扉が開いた。

まるで内部の闇が、外へとにじみ出してくるように。


玲の声は氷のように冷えていた。

「――今のが、倉田悠一の“手口”だ」


影は扉の隙間から滑るように部屋の中へ消えた。

次の瞬間、廊下の照明が一瞬だけ“明滅”した。


奈々が震える声で言う。

「玲……これって、まさか……」


玲は静かに答えた。

「――“密室を破る男”が、ようやく本格的に姿を現した」


時間: 2025年11月16日 22:37

場所: 郊外・3階建てアパート 302号室前


彼は背中のリュックに手をかけ、ファスナーをゆっくりと引く。

中から取り出そうとしたのは、小型の電子装置——おそらく、扉の内部機構をさらに操作するためのツールだった。


玲は一歩前に出て、低く冷たい声で告げる。

「その手を離せ。今、何をしても無駄だ」


黒い影は一瞬立ち止まり、ゆっくりと周囲を見渡す。

監視カメラの死角を計算するかのように、足音もなくリュックから装置を取り出す動きを続ける。


奈々が端末を握りしめ、低く囁く。

「……玲、信号が乱れた……! あれは……電子制御を完全に掌握してる」


玲の目が鋭く光る。

「そうだ……奴は単なる侵入者じゃない。密室を操る“技術者”だ」


黒い影は、リュックから取り出した装置を持ったまま、扉の前で静止した。

その瞬間、302号室の内部から微かな光が漏れ、闇に沈む廊下に冷たい影を落とす。


時間: 2025年11月16日 22:38

場所: 郊外・3階建てアパート 302号室前


バシュッ!


黒い影のリュックから、細長いケーブルが一瞬にして伸び、扉の電子錠に絡みついた。

微かな火花が散り、装置から低い振動音が伝わる。


玲は反射的に足を引き、端末を握った奈々の横で構える。

「……くそ、狙いは扉の制御か。完全に密室化を強化するつもりだな」


黒い影は身をかがめ、装置を調整しながら、まるで機械と会話するかのように微動だにせず立っている。

その背後で、監視カメラの赤いランプが点滅し、薄暗い廊間に緊張感が張り詰めた。


奈々が小さく息を呑む。

「玲……これ、止められるの……?」


玲は冷静に目を細め、低く言った。

「止める……いや、逆手に取る。奴の動きは読めている」


黒い影の手が装置に触れた瞬間、玲は静かにステップを踏み、影との距離を詰める。


時間: 2025年11月16日 22:39

場所: 郊外・3階建てアパート 302号室前


玲は無線を握り締め、低くつぶやいた。

「全員、準備はいいか……奴の動きを封じる。ここからが本番だ」


薄暗い廊下の空気が、まるで時間を止めたかのように張り詰める。

黒い影は微動だにせず、扉の電子錠に目を注いでいる。


奈々が小声で返す。

「……玲、どうする?あの装置、即効で扉をロックするぞ」


玲は目を細め、息を整えながら、次の瞬間を見据える。

「構わない……奴が動くたびに、こちらも動く。計算通りだ」


足元で微かに響くケーブルの振動。302号室前に、緊迫の空気が濃く漂った。


時間: 2025年11月16日 23:12

場所: 郊外・廃屋 内部


廃屋の暗がりに、冷気が淀む。壁は剥がれ、床は埃まみれで、窓の割れたガラスからかすかな月光が差し込んでいた。


その中心に、椅子に縛りつけられた男がいた。倉田悠一――所在不明となっていた男で、かつて傷害事件で不起訴となった経歴を持つ。目はやや虚ろで、額には汗が滲んでいる。


男の周囲には、監視用の小型カメラとセンサーが設置され、彼の動きは逐一記録されていた。静寂の中、かすかに男の呼吸と、遠くで風が揺らす木の音だけが響く。


倉田は口を開く。声は震えていた。

「……ここまで、俺を追ってくるとは……誰が、こんなことを……」


暗がりに、冷たい緊張が張りつめる。


時間: 2025年11月16日 23:15

場所: 郊外・廃屋 内部


玲は無線を握りしめながら、倉田悠一の目をじっと見据えた。静かな声だが、その一言一言には揺るぎない重みがあった。


「あなたが佐伯美晴さんの部屋に侵入し、彼女に危害を加えた。その上で、事故死あるいは自殺に見せかけようとした。そのことは、現場の痕跡と証拠で裏付けられている」


倉田の肩がわずかに震える。手足を縛られたまま、彼の瞳は逃げ場を探すように揺れたが、部屋の中には玲の静かな圧力が張りつめていた。


「……まさか、全部……バレているとは……」倉田はかすれた声でつぶやく。


冷えた空気の中、廃屋の影がさらに深く、二人の間に沈黙を落とした。


時間: 2025年11月16日 23:18

場所: 郊外・廃屋 内部


倉田悠一の声は、縛られた体の震えとともにかすかに漏れた。彼の瞳は床をさまようように泳ぎ、言葉の端々に後悔と孤独が滲む。


「……会いたかっただけなんだ……ただ、少し……話がしたかった……」


玲は無言で倉田を見下ろす。冷静な視線の奥には、相手の感情を受け止めつつも、揺るがない判断の重さがある。


静まり返った廃屋の中、倉田の声だけが響き、影と埃の匂いが交錯した。


時間: 2025年11月16日 23:20

場所: 郊外・廃屋 内部


玲は低く、しかし確実に重みのある声で告げた。倉田悠一の視線が一瞬揺らぎ、言葉の意味を理解するかのように、体がわずかに硬直する。


「その“少し”が、彼女の人生を脅かした。あなたの感情は、他人を傷つけてまで優先されるものではない」


廃屋の空気が張り詰める。倉田は目を伏せ、言葉を返すこともできず、ただ重い沈黙に耐えるしかなかった。


時間: 2025年11月16日 23:22

場所: 郊外・廃屋 内部


玲の目が、一瞬だけ曇った。

感情を抑え込もうとする理性と、目の前の現実に揺さぶられる心が交錯する。

静かな廃屋に、彼のわずかな息遣いだけが響いた。


「……でも、これで終わるわけじゃない」

玲は低くつぶやき、倉田の手元に視線を戻した。


時間: 2025年11月16日 23:35

場所: 郊外・廃屋前の車内


沙耶は助手席でハンドルに寄りかかる玲の横顔をちらりと見た。夜風に吹かれて髪が揺れる彼女の声は小さく、しかし深く沈んだ緊張感を帯びていた。

「……玲、本当にあいつ、自分のしてきたこと、理解してるのかな。自分の感情だけで、他人の人生を脅かしたってこと、分かってるのかな……」


玲はハンドルに指を添えたまま、視線を廃屋の方向に向けていた。言葉には出さないが、彼の胸の中には倉田悠一という人間の歪んだ正義と、それによって巻き込まれた佐伯美晴の未来が、重く、ゆっくりと押し寄せていた。

車内には微かな沈黙が流れ、外の夜風と遠くの街灯の光だけが、二人の間に静かに混じっていた。


時間: 2025年11月16日 23:37

場所: 郊外・廃屋前の車内


玲はゆっくりと頷いた。沙耶の言葉を胸に刻むように、視線は廃屋の闇に向いたままだった。

「……理解してるかどうかじゃない。大事なのは、これからどうするかだ」


言葉少なに、しかし確かな決意が彼の口調に宿っていた。沙耶は軽く息を吐き、頷き返す。車内の緊張は緩むことなく、夜の静寂の中で、二人は次の一手を思案していた。


時間: 2025年11月17日 10:20

場所: 文京区・警視庁取調室


玲はゆっくりと息をつき、目の前の倉田悠一を見据えた。

狭い空間に、二人の呼吸だけが微かに響く。


「倉田悠一。あなたが佐伯美晴さんの部屋に侵入したのは事実ですね?」


倉田は目を逸らし、手のひらで額の汗をぬぐう。


「……ああ……でも、俺は、話をしたかっただけで……危害を加えるつもりは……」


玲は机の上の書類をゆっくりと手に取り、写真や解析結果を一枚ずつ倉田の前に差し出す。

「現場には、あなたの指紋とDNA痕跡が残っています。さらに、防犯カメラの解析結果も、あなたの存在を示している」


倉田は肩を震わせ、声がかすれる。

「……そんな……まさか……」


玲は紙コップの水に手を触れず、低く、しかし確実に響く声で言った。

「あなたの行為は、“事故”や“自殺”に見せかけようとした痕跡がすべて揃っている。被害者の周囲の状況、室内の配置、灰皿やベッド周辺の微細な痕跡、すべてがあなたを指している」


倉田は顔を伏せ、嗚咽に近い小さな声を漏らした。

「……俺は、話をしたかっただけなんだ……それだけで……」


玲はゆっくりと書類を机に戻し、倉田の肩を見つめながら言葉を続ける。

「感情が先走った結果、他人を傷つける権利はない。あなたの『少し話したい』という感情は、彼女の人生を脅かした」


倉田は顔を上げることもできず、重く沈黙する。

玲の視線は一瞬だけ曇ったが、決意の色を帯びたままだった。

その静寂の中、取調室の空気は重く、しかし真実に向かって確実に流れを変えていた。


時間: 2025年11月17日 10:45

場所: 文京区・警視庁取調室


玲は倉田悠一の正面に腰を下ろすと、息を殺すように静かにインカムに囁いた。

「確認。監視カメラの追加解析を、今すぐ現場で再走行させろ」


倉田はその声に反応するように顔を上げたが、目は不安と恐怖で揺れていた。

玲は目を細めず、柔らかくも鋭い声で続けた。

「あなたがいた軌跡、微細な痕跡、すべて確認済みだ。これ以上隠せることはない。話すなら今だ」


インカム越しに、凛の低い声が応答した。

「了解。全方位解析、再度稼働中。微粒子トレースも並行で収集」


玲は倉田の目をじっと見つめ、静かに、しかし確実な圧をかけるように言葉を重ねた。

「逃げ道はない。君の行動は、すべてデータとして残っている。どんな言い訳も、真実を覆すことはできない」


倉田は小さく肩を震わせ、言葉を呑み込む。

取調室に漂う沈黙の中、玲のインカム越しの指示が、静かに、しかし確実に事態を動かしていた。


時間: 2025年11月17日 10:52

場所: 文京区・警視庁取調室


玲は倉田悠一の表情を見つめながら、凛の解析報告を受けて静かに頷いた。


《反応は明確。倉田の“深層意識”が揺らいでいる。特に、“里奈”の名に強い波が出た》


玲の目には、倉田の内側で抑え込まれた感情がわずかに震える様子が映る。目の奥に隠された恐怖と焦燥——無意識の中で反応しているそれは、言葉にせずとも彼の動揺を告げていた。


玲は静かに息を吐き、低く、落ち着いた声で告げる。

「里奈……君が関わったことは、すべて、記録されている。言い逃れはできない」


倉田の唇がわずかに震え、視線が床に落ちた。

取調室の冷たい光の中で、真実と向き合う時間が、ゆっくりと重く流れていく。


時間: 2025年11月17日 10:55

場所: 文京区・警視庁取調室


倉田悠一の声は、かすれた震えを帯びていた。手のひらをぎゅっと握りしめ、視線は床に落ちたまま、言葉を絞り出すように続ける。


「……言ったんだ。『あの子に、手を出すな』って。でも……俺には、止まる理由が、もうなかった」


玲は静かに倉田を見つめ、声を荒げずに問いかける。

「理由がない? 君の行動で、どれだけの人の人生が脅かされたか、理解しているのか?」


倉田は答えられず、わずかに肩を震わせる。

凛の解析が示す微細な脳波の変化——恐怖と罪悪感、そして自己正当化の混ざり合った揺れが、部屋の冷たい空気の中でかすかに響く。


玲の視線は冷たくも、どこか哀しみを帯びて、倉田の深層に静かに沈み込む。


時間: 2025年11月17日 11:15

場所: 文京区・警視庁取調室


玲の目は倉田悠一の奥底に沈む影を捉えたまま、静かに声を落とす。


《今、彼の“過去の記憶”の中に、“誤解された信頼”と“孤独の補填”が崩れている。倉田は、“守られていたこと”に……今、ようやく気づいた》


倉田の肩が震え、瞳の奥に迷いと痛みが滲む。声はかすかに、しかし確かに震えながら漏れた。


「……守られていた……のか……俺は……」


玲は黙って頷き、取調室の冷たい光が二人を静かに照らす。

凛はそっとメモを取りながら、倉田の微細な精神反応を見守った。

静寂の中、過去と向き合う男の小さな声が、部屋の空気に沈んでいく。


時間: 2025年11月17日 11:22

場所: 文京区・警視庁取調室


静寂の中、玲は倉田悠一を見据え、低く確かな声で告げた。


「もう、誰も傷つけるな――自分の手で、終わらせろ」


倉田は目を伏せ、わずかに震える手をテーブルの上で握り締める。

凛もその場に沈黙し、部屋の冷たい光だけが、二人の間に張りつめた時間を映していた。

外の廊下から微かに人の足音が聞こえ、現実がゆっくりと戻り始める。


時間: 2025年11月17日 18:45

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


部屋は暖色の照明に柔らかく包まれ、外の街の喧騒とはまるで隔絶された空間になっていた。壁には淡い色調の抽象画が掛けられ、床にはシンプルなカーペットが敷かれており、そこに置かれた白いティッシュボックスや小さな観葉植物が生活感をわずかに演出している。窓際には軽やかなカーテンが揺れ、わずかに外気を取り込みながらも、静寂を壊さないようにしていた。甘くほのかに香るミントティーの匂いが室内に漂い、緊張の中に落ち着きをもたらしている。


玲は深く息をつき、重厚な椅子に腰を下ろすと、手元の資料を確認しながらも視線の端で佐伯美晴を見守った。美晴はソファに座ったまま、指先でカップの縁を小さくなぞり、時折視線を落としては、わずかに唇を噛んでいた。その表情は恐怖と不安、そしてどこかほっとした安堵が入り混じっており、かつて追い詰められた日々を思い起こしているかのようだった。


玲は静かに口を開き、しかしその声には揺るがぬ意志と温かみが宿っていた。「ここからは、あなたの安全を最優先に進める。過去の出来事に振り回されずに、まずは今を生きること。どんな小さなことでも、我々に話してくれれば守るから」


美晴は小さく息を漏らし、肩の力を少しずつ解きながら、ようやく小声で答えた。「……ありがとうございます……」


部屋の暖かい光と、静かな空気、そして玲の落ち着いた声が、美晴の心の奥底に染み込むように、緊張の糸をゆっくりほどいていった。


時間: 2025年11月17日 18:50

場所: 郊外・玲探偵事務所 応接スペース


玲は静かに立ち上がり、窓の外の柔らかい夕暮れの光を見つめながら言葉を紡いだ。その声は柔らかく、しかし確かな重みを帯びていた。「憎しみで終わらせると、同じものがまたどこかで生まれる。でも、“悲しみ”で終わらせたなら——それは、誰かを守る知恵になる」


部屋の中には微かにミントティーの香りが漂い、暖色の照明が壁に映す影は穏やかで、どこか慈しみを感じさせた。佐伯美晴はソファの端で息を飲み、目を伏せたまま玲の言葉を胸に刻む。震える手がカップを握りしめ、今まで抱えてきた恐怖や混乱が少しずつ形を変え、静かに胸の中で整理されていく。


玲は美晴に向き直り、低く、しかし揺るがない声で続ける。「君の痛みや悲しみは、無駄にはならない。これから誰かを守る力に変えられる。そのために、今は安全な場所で、ゆっくり休むんだ」


外の街灯が一つ、また一つと灯る中、室内の静寂と暖かさが、美晴の心に小さな安心を運んだ。


時間: 2025年11月17日 16:30

場所: 山間・湖畔


夕陽が湖面を金色に染める中、朱音は岸辺に腰を下ろし、スケッチブックを広げて静かに鉛筆を走らせていた。湖面に反射する光が、朱音の髪を柔らかく照らし、風がそっとページを揺らす。


そのそばに、成瀬が立っていた。漆黒の戦闘服は脱ぎ、普段の冷たい印象はなく、朱音の静かな時間を邪魔せぬように、少し距離を置いて立つ。灰色の目が湖面と朱音のスケッチを行き来し、守るべき対象としての存在感を、静かに漂わせていた。


朱音が描く線はまるで言葉にならない想いのようで、成瀬はその横顔を見つめながら、心の中で小さく呟く。「今日も、無事でいてくれてよかった」


湖面の波紋が太陽の光を受けてゆらめき、二人の間に言葉を交わさずとも通じ合う静けさが満ちていた。


時間: 2025年11月17日 21:30

場所: 郊外・玲探偵事務所 書斎スペース


玲は最後の報告書をまとめながら、静かに口元でつぶやいた。自分自身に言い聞かせるように、今回の調査で明らかになったことや、被害者たちの声が持つ意味を、一つひとつ整理するように――。


時間: 2025年11月20日 08:15

場所: 山間・佐々木家ロッジ 裏庭


朝靄がまだ薄く残る山間のロッジの裏庭には、静寂が漂っていた。

佐々木朱音は小さな木製のベンチに腰掛け、朝食前のひとときを絵を描くことに使っていた。手元にはスケッチブックと色鉛筆があり、庭の木々や遠くの山並み、朝露に光る草花を一枚ずつ丁寧に描き込んでいく。


鳥のさえずりや風に揺れる葉の音が、静かな時間をさらに深める。朱音は時折視線を遠くの林に向け、自然の色や形の微妙な変化を紙の上に再現する作業に没頭した。


焚き火の香りと湿った土の匂いが混ざり合い、朝の清々しい空気を包む。鉛筆の先が紙を擦る音だけが小さく響き、静寂の中で確かなリズムを刻んでいた。朱音は深呼吸をして目を閉じ、朝の光と静けさを胸いっぱいに吸い込み、今日という一日が穏やかであることを願うようにそっと呟いた。


時間: 2025年11月21日 午後

場所: 都内・精神医療センター 個室


九条凛は落ち着いた個室の薄暗い灯りの下で、佐伯美晴と向き合って座っていた。壁に掛けられた時計の針が静かに進み、かすかに換気口から流れ込む空気が、部屋全体に冷たくも柔らかな気配を運んでいる。


美晴は手を組み、視線を床に落としながらも、凛の目を時折ちらりと覗き込む。凛は息を乱さず、声を荒げず、しかし確かな存在感で、彼女の言葉を一言残らず受け止めるように座っていた。


部屋の静寂は、二人の会話に余韻を与え、言葉の間に生まれる沈黙さえも、気持ちを整理するための間として感じられる。美晴の小さな吐息、凛の微かな頷き――そのすべてが、この個室に流れる時間を特別なものに変えていた。


時間: 2025年11月21日 午後

場所: 郊外・玲探偵事務所


玲はデスクの前に座り、じっくりと目を通した報告書をゆっくりと閉じた。紙の端が微かに揺れ、静まり返った室内に紙の擦れる音が柔らかく響く。モニターの光がデスク上の書類を淡く照らし、観察した痕跡や証言の詳細が頭の中で順序立てられていく。


彼は深く息をつき、指先で書類の重なりを整えながら、今回の調査で浮かび上がった事件の構造と被害者たちの声の意味を、静かに反芻するように考えていた。外の風が窓をわずかに揺らし、事務所内の緊張と静寂が混ざり合う中、玲は次の行動を心の中で整理していた。


時間: 2025年11月22日 23:17

場所: 郊外・廃工場跡・屋上


静寂の中、成瀬由宇は低く息を吐きながら、夜の闇に紛れて標的を見据えた。冷たい金属の感触が手に伝わるが、以前のような機械的な緊張はなく、わずかな柔らかさが宿る。


「……逃げられないぞ」


彼の低い声が闇に溶ける。指先がトリガーに触れ、銃声が静まり返った夜の空気を裂く。光と音が瞬間的に鋭く交錯し、弾丸は正確に標的を捉えた。


「これで、終わりにする……」


成瀬は息を整えながら、静かに銃を下ろした。夜風が頬を撫で、冷たくも澄んだ空気の中で、彼の瞳には決意とともにわずかな安堵が宿っていた。


時間: 2025年11月23日 17:45

場所: 山間のロッジ・ダイニングルーム


夕暮れの光が大きな窓から柔らかく差し込み、ロッジの食卓を温かく照らす。朱音はスケッチブックを脇に置き、色鉛筆の手を休めて微笑む。沙耶はコーヒーカップを手にしながら、穏やかに会話を続ける。


玲は料理を取り分けつつ、静かに皆の表情を見渡す。奈々は端末を片手に、軽くメモを取りながらも、会話に耳を傾ける。成瀬由宇は椅子にもたれ、窓の外の紅葉をぼんやりと眺めながら、微かに口元を緩めている。


「……こうしてみんなで同じ時間を過ごせるって、やっぱりいいな」


朱音の声が部屋に優しく響き、夕陽の光が頬を染める。テーブルに並ぶ料理や香り、静かな笑い声が、これまでの混乱と危険の影をほんの一瞬だけ忘れさせた。


外の風は冷たいが、ロッジの中は家族のような温もりで満たされている。その光景は、誰にとっても穏やかで、大切な日常の始まりを告げていた。

佐伯美晴のあとがき


あの日から、私はやっと呼吸ができるようになった気がする。長い間、名前を変え、場所を変え、過去を隠してきた。でも、それは「安全」と引き換えに、自分の人生の一部を凍らせてしまったことでもある。


玲さんたちに出会い、守られながらも真実と向き合ったことで、私は気づいた。隠すことだけが生き延びる術ではないと。声を上げ、事実と向き合う勇気を持つことで、初めて自分の人生を取り戻せるのだと。


もちろん、まだ怖い。過去の影が完全に消えたわけではない。けれど、今は恐怖に支配されるのではなく、恐怖を「理解する力」に変えることができる――そう思える自分がいる。


このあとがきは、誰かに読まれるために書いたわけではない。自分自身への覚書のようなものだ。けれど、もし同じように過去を抱え、迷いながら生きる人がいたなら、私の声がほんの少しでも背中を押せれば嬉しい。


「過去は消せない。でも、未来は自分で選べる」――それが、私が学んだ、唯一の真実だ。

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