49話 声が届くまで
玲
・職業:探偵
・役割:事件全体の指揮・調査・証拠収集
・特徴:冷静沈着で洞察力が鋭く、記録や証言の矛盾を見抜く。情報分析と現場行動を両立させる。
・関係性:沙耶や奈々、服部一族、スペシャリストチームと連携。被害者や証言者の保護にも尽力。
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沙耶
・職業:心理支援担当
・役割:被害者の精神的ケア、証言補助
・特徴:鋭い直感と共感力を持つ。朱音や結月の支援役としても活躍。
・関係性:玲の協力者であり、結月や他の被害者とも親密。
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朱音
・年齢:10歳
・役割:事件の目撃者(記憶の証人)
・特徴:無邪気さと直感を併せ持つ。スケッチブックに描く絵が事件の手がかりになる。
・関係性:沙耶の娘、玲の調査活動に間接的に関与。
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奈々(たちばな なな)
・職業:情報分析・広報担当
・役割:SNSや報道資料の整理・公開、証拠の拡散
・特徴:高度な情報処理能力。調査報告や作戦ログを担当。
・関係性:玲チームのサポート、情報戦のキーパーソン。
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白峰沙夜
・役割:心理干渉阻止・被害者保護
・特徴:生体防御と心理干渉を防ぐ特殊能力を持つ。スリムな体に黒紫の戦闘ジャケット。
・関係性:朱音を守る護衛役。影零班元構成員。
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服部慎吾
・役割:救出作戦・戦術指揮
・特徴:影零班の影護担当。救出任務では“夜鴉”を統率。
・関係性:玲の支援、夜鴉メンバーとの指揮系統を担う。
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夜鴉
・役割:特殊救出班
・構成:
- 前衛・影走り:俊敏で斥候役
- 偽装・霧織:音・光・痕跡消去担当
- 後衛・残月:格闘・防御担当
・特徴:任務中は極めて静かで、名を持たずに行動する。
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九条凛
・職業:心理自白誘導スペシャリスト
・役割:証言を引き出す、心理操作を阻止する
・特徴:冷静で慎重。被害者や証人の沈黙を破る切り札。
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川崎ユウタ(かわさき ゆうた)
・役割:記憶の証人
・特徴:消された記録や記憶を保持。事件解明の重要鍵を握る。
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柊コウキ(ひいらぎ こうき)
・役割:記憶再現・トラウマ証言
・特徴:倉庫事件での怒りと喪失を保持。深層記憶を同期させる能力。
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結月(仮名)
・年齢:13歳
・役割:被害者・証言者
・特徴:監禁されていたが、勇気を持って声を発信。証言が事件の全貌を暴く鍵となる。
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綾瀬雅弘
・職業:副市長(事件関与者)
・役割:行政内での隠蔽・証拠操作
・特徴:表向きは紳士、裏では不正工作を主導。
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唐沢征一
・職業:秘書官(綾瀬副市長)
・役割:隠蔽実行者
・特徴:記録抹消、被害者家族への圧力などを指示・調整。実質的な組織内隠蔽を担当。
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その他関係者
•永田直樹(市政広報課 統括係長)
•村井千景(児童相談所 調整担当主査)
•萩原泰生(都教育庁 人事交流室 室長)
•柿沼聖司(市議会 監査担当書記官)
(全員、事件露見後に行政的措置・懲戒や異動がなされた)
【冒頭】
昼間の騒がしさが嘘のように、森は静まり返っていた。
ロッジの中には、暖炉の薪が時折「ぱち」と音を立てるだけ。
外の闇は濃く、まるで世界そのものが息を潜めているかのようだった。
朱音は、毛布にくるまったまま目を開けていた。
眠れない夜は初めてではない。けれど、今夜は理由が少し違う。
――あの声が、また聞こえた気がした。
天井の木目を見つめながら、朱音は耳を澄ませる。
ロッジのどこからも物音はしない。
家族の寝息も、風の音も、虫の声さえも消えていた。
それでも、胸の奥に“残響”だけが確かにあった。
言葉にならない、けれど確かに呼びかけてくるような気配。
遠くで、スケッチブックが「ぱさり」と揺れた。
誰も触れていないのに。
開かれたのは、真っ白なページ。
その紙の中央に――
かすかな線が一本、震えるように刻まれていた。
朱音は毛布から身を起こし、そっとページに触れようとした。
だが指先が触れる寸前、ロッジ全体の空気がわずかに震えた。
まるで、“声”が通り過ぎたように。
同じ頃。
山のふもとにある仮眠室で、ユウタが突然目を覚ました。
息が荒い。夢ではない。あれは――確かに誰かの呼ぶ声だった。
「……届かない、のか……まだ」
暗闇の中で、少年の声だけが小さくこぼれた。
森は静寂を守り続けている。
だがその沈黙の裏で、三つの記憶が、静かに重なり始めていた。
――声が届くまでの物語が、いま動き始める。
【深夜02:14/山間ロッジ・外縁結界域】
森の奥に静かに佇むロッジは、夜霧に包まれていた。
しかしその霧の外側には、肉眼では見えない薄い膜のような“揺らぎ”が漂っている。
それが――服部門が張り巡らせた防御結界。
近づく生物は、ある地点で必ず進行を止める。
触れれば、まるで透明な壁に押し返されるように弾かれる。
結界の中心で、服部沙織が静かに呟いた。
「……揺らぎが強まってる。誰かが境界に触れた……いや、触れる“振りをした”?」
隣で封印札を監視していた服部宗次が眉をひそめる。
「結界に干渉できる者は限られている。場所の所在を知るには、我らの案内を受け、封印契約に署名しなければならん。つまり――」
沙織が続けた。
「“ここに近づけた者”は、すでに覚悟を持っている。理由のない接触なんてありえない。」
宗次は唇を引き結び、封印盤に手を置いた。
「……それでも、妙だ。これは“侵入”というより――探るような触れ方だ。」
夜風が揺らぎ、結界の表面に淡い波紋が走る。
【深夜02:14/K部門本庁・モニタリング室】
同時刻。
数十キロ離れたK部門本庁のモニタリング室では、
監視パネルの一つが突然、警告色の赤に染まった。
「……は?」
最初に気づいた若手オペレーター・鷹野が、
手元のコーヒーをこぼしそうになりながら椅子を引いた。
パネル上のロッジ防御結界ステータスが、
“外部精神波干渉”の文字とともに瞬間的に跳ね上がる。
「おい嘘だろ……誰だよこんな時間に結界触ったやつ……」
鷹野が慌ててログを開くが、
すべてのアクセス欄に“不明”の文字が並ぶ。
その後ろから静かに歩み寄り、画面を覗いた御子柴理央が、
眉をわずかに寄せた。
「……これは侵入じゃない。
“存在の声”が結界表層を撫でていった跡だ。」
「声……?いや、でも距離は数十キロ離れて――」
「だから異常なんだよ。」
理央は冷静さを保ちながらも、
その指先だけが緊張を示すように震えていた。
パネルに映る波形は、
人の心拍に似た一定リズムで打ち、
その合間に微かな“名前の破片”のようなノイズが混じっている。
「この干渉……ユウタの持つ“記憶の呼応波”と類似している。
誰かが、彼らの内部にいる誰かを呼んでいる。」
「呼んでいる……“外”から?」
「いや。」
理央はゆっくり首を左右に振った。
「“過去”からだ。」
その言葉と同時に、
ロッジ結界監視画面が再び赤く点滅した。
ピ――ッ!
今度ははっきりとした形を成して波形が現れる。
それはまるで、
何かが“叩いている”ような
規則的な――救助を求める合図。
理央は即座に通信ラインを開いた。
「こちらK部門本庁・御子柴。
ロッジ側、応答を。
結界に第二干渉を確認――
これは、“内側に向けて呼びかける声”だ。」
モニタリング室の空気は張りつめ、
誰も次の警告が鳴るのを待とうとはしなかった。
何かが動き始めている。
過去か、記憶か、あるいは――誰かの“残された想い”が。
【02:16/服部領・結界内ロッジ玄関】
玲は、暖炉の火が小さく弾ける音を背に、
静かに立ち上がった。
「……来たか。」
誰にも聞こえないほどの声で呟き、
足音を殺して玄関へ向かう。
服部一族の結界は完全だ。
“侵入”は不可能。
だが――“許可された来訪者”なら、話は別。
ドアノブに触れた瞬間、
外気が震え、気配が形を結ぶ気がした。
ガチャ──。
扉が開いた。
闇の中、月を背にして立つ影。
その姿は、寒気を伴うほど静かで、
確かな覚悟だけが輪郭を照らしていた。
依頼主がそこにいた。
ボロボロのコート。
泥にまみれた手。
呼吸は浅く、しかし目だけは揺れていない。
「……玲探偵、ですよね?」
かすれた声。
深い絶望の底で、なお折れなかった意思。
玲は黙って相手を見つめた。
誰も、この場所の所在を知ることはできない。
服部の結界を越えるには、“案内”か“許可”が必要だ。
つまり――
この依頼主は、誰かが通した“特異例”だ。
「事情を聞こう。」
玲は低く言い、わずかに身を横へずらす。
依頼主は一歩、ロッジの明かりの中へ進んだ。
その顔が照らされた瞬間――
後ろで待っていた沙耶と凛が、
同時に息を呑んだ。
「あなた……その傷……まさか──」
依頼主は震える手で、胸ポケットから一枚のメモリーカードを取り出した。
そして、玲の目をまっすぐ見た。
「……“声が聞こえた”んです。
十年前に死んだはずの子どもの声が。
助けを求めて――
俺に、名前を呼んだんです。」
ロッジの空気が、張り詰めた。
【02:17/服部領・結界内ロッジ玄関】
男は、濡れた靴のまま玄関に立ち尽くしていた。
肩は荒く上下し、呼吸は乱れ、目の奥だけが必死に何かを支えている。
そして――
震える唇が、ようやく言葉を形にした。
「……川本……俊也……です……」
名前を告げた瞬間、
その声は崩れ落ちそうなほどか細かった。
玲の視線が、わずかに鋭くなる。
名乗りは覚悟の証だ。
結界を越えてここに来た以上、
“嘘”は通らない。
俊也は、一度だけ深く息を吸った。
胸がひくつき、堪えていたものがあふれ出す。
「……お願いです……!」
その場に膝をつきそうになるほどの勢いで、男は言葉を絞り出した。
「娘が――
娘が……誘拐されました……!」
ロッジの空気が凍りつく。
背後で様子を見守っていた沙耶が、
思わず一歩踏み出した。
「娘さん……? いつ、どこで?」
俊也は顔を上げるが、視線は定まらない。
焦燥と恐怖が入り混じった瞳。
「今夜です……家の前で……
声を聞いたんです……。
“パパ、助けて”って……!」
九条凛が眉根を寄せ、
玲は静かに息を吐いた。
確かめるように、低く問う。
「その声……本当に、娘さんの?」
俊也は、即座に首を縦に振った。
「間違えるわけがない……!
あの子は――生まれつき声が弱くて……
俺に呼ばれるときだけ、少し高くなるんです……
それが……はっきり……聞こえたんです……!」
その告白に、
沙耶と凛が同時に息を呑む。
玲は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
そして顔を上げ、静かに告げる。
「……分かった。話を聞こう、川本さん。」
俊也の肩が震える。
その震えは、安堵か、それとも恐怖か。
暖炉の火が静かに揺れた。
ロッジの夜が、確実に“動き出して”いた。
【02:19/服部領・結界内ロッジ・玲探偵事務所】
玲は静かに手を差し、俊也を案内した。
ロッジの廊下を抜け、暖かな明かりに照らされた事務所の扉を開ける。
机の上には、過去の事件ファイルや整理された資料が整然と並んでいる。
「中へ。詳しく話を聞かせてください」
玲の声は落ち着いているが、背筋には緊張の影が走る。
俊也は一歩ずつ慎重に事務所に入り、椅子に腰を下ろす。
手はまだ小刻みに震えていた。
沙耶が彼の隣に座り、静かに手を握る。
「落ち着いて……大丈夫よ」
九条凛は端末を操作しながら、遠隔で情報の整理を始めていた。
「モニタリング、記録開始。声の再生と心理干渉波形の分析を即時に行います」
俊也は深く息を吸い、視線を机の上に落とす。
震える声で、初めて詳細を語り始めた。
「娘は……今夜、家の前から……連れ去られたんです。
見たことのない黒い車が……
でも、声が……声だけが……はっきり聞こえたんです……」
玲は無言でメモを取り、時折目を上げて俊也の表情を確認する。
事務所の暖炉の火が、微かに影を揺らす中、
部屋全体に張り詰めた緊張が漂った。
外の雪が窓に当たり、かすかにパチパチと音を立てる。
それさえも、今は異常な静寂の一部のように感じられた。
【02:22/服部領・結界内ロッジ・玲探偵事務所】
俊也の震える言葉を聞きながら、
玲はゆっくりと視線を伏せ、次いで静かに顔を上げた。
その瞳が――鋭く細められる。
「……黒い車、そして“声だけが残る誘拐”か」
沙耶が俊也の肩に触れ、心を落ち着かせようとする一方で、
玲の頭の中ではすでに複数の断片が組み上がり始めていた。
最近の失踪事件の記録。
服部紫苑が送ってきた“外部干渉痕”の報告。
ユウタ関連の記録で確認された“音だけの残留”。
そして十年前の倉庫事件で使われた、
“声を残して痕跡を消す”手法。
すべてが一本の線に――ゆっくりと、だが確実に――繋がっていく。
玲は深く息を吸い、俊也を見る。
「……川本さん。あなたの娘さんが連れ去られた“状況”、
もう少し詳しく聞かせてもらえますか」
その声は静かだが、
すでに探偵としての“戦闘態勢”に入っていた。
あらゆる情報を拾い、照合し、繋げていく鋭い感覚。
――この誘拐はただの事件ではない。
玲の眼光は暗さの奥で淡く光り、
まるで何かが“近づいている”と知っているかのようだった。
【02:25/服部領・結界内ロッジ・玲探偵事務所】
俊也は言葉を探すように口を開いた。
「家の前で……突然、声が消えたんです。
でも、何か――いや、誰かが『ここにいる』って……感じたんです。
目には見えないけど……確かに、存在を……」
沙耶が俊也の手を軽く握る。
「大丈夫、ここは安全よ。私たちがついている」
玲はペンを止め、窓の外の雪景色に目を向けた。
だが、視線は外界ではなく、頭の中の情報網にあった。
「……声だけで残る。見えない足跡。
そして、最近のユウタの記録――音だけが残る異常痕。
過去の倉庫事件で確認された手口と、極めて類似している」
九条凛が端末に手をかざし、淡い光を発する。
「心理干渉パターンを照合開始。声の残留痕が、明確な感情層に変換されました。
対象者は恐怖と混乱の波形を発しています。…玲、現場への初動が必要です」
玲はメモを閉じ、静かに立ち上がる。
「沙耶、俊也さんを守って。凛の解析と情報補助は頼む。
俺は現場に向かう」
雪の降る夜に、ロッジの暖かさが遠ざかる。
冷たい風が吹き込む玄関で、玲はゆっくりと外へ一歩を踏み出した。
――夜の闇が、すでに事件の気配で震え始めていた。
【15:05/東京都・第七区外縁・カフェ前】
玲は軽く唇を動かし、静かに声をかけた。
「すみません、こちらにお住まいの方ですか?」
女性はゆっくりと顔を上げ、驚いたように目を見開く。
「ええ……そうですが、どうかしましたか?」
玲はバッグからメモ帳を取り出し、落ち着いた声で続ける。
「少しお話を伺えればと思いまして。最近、この辺りで不審な人物や出来事を見かけませんでしたか?」
女性の手がベンチの端を握り直す。
「……最近ですか……そうですね、変な黒い車が何度か通りました。時間はまちまちで、すぐに消えてしまうんです。通り過ぎるだけで、誰も降りない……」
玲は軽く頷き、ペンを手に取る。
「ありがとうございます。その情報は非常に重要です。もし思い出したことがあれば、すぐに教えてください」
女性は頷き、唇をかすかに震わせながら答えた。
「わかりました……でも、本当に危なくないんですよね?」
玲は静かに笑みを浮かべた。
「ここにいる限りは大丈夫です。安心してください」
その背後で、通りの静寂がかすかに震え、
黒い影が通り過ぎたかのような気配が玲の耳をかすめた。
【15:08/東京都・第七区外縁・カフェ前】
玲の視線は、女性が指差した路地の奥に自然と引き寄せられた。
細く曲がりくねった路地は、冬の午後の淡い日差しに照らされていたが、どこか異質な影を孕んでいた。
足元の落ち葉が、かすかに風に揺れる。
だが、玲の目は落ち葉や路地の凹凸ではなく、潜む“違和感”を追っていた。
――ここには、何かが潜んでいる。
――すぐに現れるわけではない、しかし確かに存在している。
玲は深く息を吸い込み、静かに歩を進める。
ベンチの女性はその背後で小さく息をのむ。
玲の一歩ごとに、冬の午後の空気が微かに震える。
黒い影の存在を感じ取りながらも、彼は音もなく路地の奥へと向かった。
【16:42/東京都・第七区外縁・住宅街コンビニ前】
玲は店先に立ち、ガラス戸に映る自分の影を一瞬見つめる。
西日に照らされた影は長く伸び、周囲の住宅街の静けさと相まって、不自然な緊張感を漂わせていた。
店内では、客はわずか。レジ横の棚に並ぶ商品が、夕暮れの赤みを帯びて輝いている。
玲はゆっくりと自動ドアを押し開け、静かに中へ足を踏み入れた。
「すみません、少しお話を伺えますか」
店員は小さく息をのむが、すぐに落ち着いた声で答える。
「はい、どうぞ……でも、特別なことはありませんけど」
玲は静かに頷き、周囲を観察しながら話を続けた。
「昨日からこの辺りで、変わった人物や出来事を見かけませんでしたか?
少しでも気になることがあれば、何でも結構です」
店員は少し考え込み、視線を棚越しに移す。
「……黒い車ですか? 昨日の夕方、何度か角を曲がっていました。人は降りませんでしたが……」
玲はメモ帳を取り出し、淡々と書き留める。
「なるほど……ありがとうございます」
外の夕陽が、店内に差し込む光と影を長く伸ばす。
玲はその中で、潜む異質な気配にわずかに眉をひそめた。
――この街に、確かに“足跡”が残されている。
――そして、誰かがそれを追っているのだ。
【16:45/東京都・第七区外縁・住宅街コンビニ内】
玲は足音を抑え、棚の間をすり抜けるように進む。
店内には数人の客が商品を手に取り、静かに会話を交わしていた。
だが、玲の鋭敏な視線はその日常の隙間に漂う“異質な気配”を逃さない。
レジ前にたどり着くと、店員が控えめに微笑む。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
玲は小さく頷き、落ち着いた声で答える。
「いえ、買い物ではありません。少しお話を伺いたくて……」
店員の瞳が一瞬、困惑と警戒に揺れる。
「……お話ですか? 特別なことはありませんが……」
玲はメモ帳を取り出し、店員に向かって静かに言葉を重ねる。
「昨日、この辺りで変わった車や人を見かけませんでしたか? 些細なことでも構いません」
店員は視線を棚の奥へと泳がせ、記憶をたどるように言葉を紡ぐ。
「黒い車が、夕方に何度か通りました……人は降りませんでしたけど」
玲は頷き、静かにメモを取る。
外の西日が、ガラス越しに店内を淡く赤く染め、日常の影に潜む異質を浮かび上がらせていた。
――この街の“何か”が、静かに動き始めている。
【16:46/東京都・第七区外縁・住宅街コンビニ内】
玲は店員の微細な動きを見逃さなかった。
言葉は丁寧で、穏やかだ。しかし声にはかすかに震えが混じり、普段の落ち着きとは明らかに異なる。
その視線は無意識に手元へと戻る。
レジ横に並べられたガムのパッケージを、何度も同じ位置に揃え直す仕草。
単なる癖ではない。緊張か、あるいは隠そうとする心理の表れだ。
玲は静かに観察を続ける。
「……何か、気になることがあったのでは?」
口には出さず、心の中で問いかける。
店員は一瞬、息をのみ、目を伏せた。
棚の奥や通路の端に視線を走らせながら、手の動きは止まらない。
そして、玲には確信があった――話すことをためらう理由がある、もしくは何かを隠している。
外の西日がガラスを赤く染める中、店内の静寂は緊張を孕み、まるで時間そのものが凍りついたかのようだった。
【16:47/東京都・第七区外縁・住宅街コンビニ内】
玲はペンを指先で回しながら、静かに間を置いた。
「落ち着いて構いません。あなたに危害を加えるつもりはありません。少しだけ教えてくれませんか?」
店員はゆっくりと息を吐き、手を止めた。
目の奥に迷いが漂う。まるで自分の中で、言うべきかどうかを天秤にかけているかのようだった。
「……実は、昨日の夕方、店の前で……変な男がうろうろしていました」
声が小さく、震える。言葉は途切れがちで、確信のない口調。
「ずっと見ていたわけではないんです……でも、なんとなく、怖くて……」
玲は無言でメモを取り、視線を店員から外さない。
黒い服、長い影、そして目の奥に潜む緊張――
全てが、先の事件とどこかで繋がる“断片”であることを、玲は瞬時に理解していた。
店員の指先が再びガムのパッケージを触れる。
「……それだけです。本当に、それだけです」
言葉の端に、無意識の恐怖と、告白できた安堵が混じる。
玲は静かに頷き、深く息を吸った。
「わかりました。あなたの証言は十分です。ありがとう」
外の西日が長く伸びる影の中、玲の心には、次に動くべき道筋がすでに描かれていた。
小さなコンビニで得た“断片”が、事件の真相に触れる鍵となることを――。
【16:49/東京都・第七区外縁・住宅街コンビニ前】
コンビニの自動ドアが「ピン」と小さく鳴り、玲が外の空気に踏み出した瞬間だった。
──風の“流れ”が変わった。
夕陽に照らされた通りは、ついさっきまで穏やかで、人影もまばらだったはずだ。
だが今は……空気が張りつめ、辺りの温度がわずかに下がったように感じられた。
玲は歩を止め、わずかに視線だけを横へ滑らせた。
そこで気づく。
遠く――歩道の端。
街灯の根元に、不自然に“影”が立っていた。
黒いフードを深く被り、体の線が見えないほど無造作に布をまとった細長い人影。
夕日を背にしているはずなのに、表情がまったく読めない。
風が吹いても、その影だけが揺れなかった。
玲の指先が、反射的にコートの内ポケットへ触れる。
(……こちらの動きを“見ていた”)
影の男は、視線を動かさないまま微動だにしない。
しかし距離の向こうから、確かに“監視”の気配が届いていた。
街の喧騒は遠く、近くの道路さえも妙に静かだ。
……誘拐事件。
……服部門の結界。
……黒い服の男。
断片が、ひとつの警告として玲の中で結びつく。
男は一歩も動かない。
ただ“そこに立っている”。
しかし――その沈黙こそが、最も危険な意思表示だった。
【16:51/東京都・第七区外縁・住宅街路地】
玲は足音を立てず、通りを挟んだ反対側へと慎重に歩を進めた。
夕陽が傾き、路地に長い影を落としている。
乾いた風がビルの隙間を抜け、遠くの自販機の微かな音まで運んでくる。
資材置き場の前、錆びたパレットと積まれた木材の影の中に、中年の男性が立っていた。
腕を組み、片足を軽く曲げながら、まるで待っていたかのように休憩している。
日差しに照らされて、顔の表情ははっきりと見えるが、視線の奥にどこか警戒の色があった。
玲は立ち止まり、観察を始める。
(……偶然の人間じゃない)
足元の砂利がわずかに鳴る。男性は一度も顔を上げず、ただ腕を組んだまま、動かずに待っている。
周囲の風景が一瞬静止したかのように感じられる。
遠くで、わずかに人の気配が揺れる。
玲の目は、資材の隙間や路地の影の奥へと滑らせながら、注意深く周囲の異常を拾う。
その瞬間、男性の体が微かに傾いた。
意識的な動きではなく、自然な休憩姿勢の延長に見えるが、玲には確かに「準備された観察者」の気配が伝わった。
【16:53/東京都・第七区外縁・住宅街路地・資材置き場前】
玲はゆっくりと歩を詰め、男性との距離をわずかに縮めた。
砂利の小さな音も意識的に抑え、呼吸を整えながら声をかける。
「……こんばんは。少しお話を聞かせてもらえますか?」
男性は一瞬だけ肩をすくめ、腕組みを緩めずにじっと玲を見つめる。
沈黙が数秒流れる。夕陽が二人の影を長く伸ばし、路地の空気が張り詰める。
玲は口調を柔らかく保ちつつも、目は真っ直ぐに男性を捉えていた。
「ここで何をしていたのか、教えてもらえますか」
男性の視線が揺れる。
腕組みの下で、わずかに手が動いた気配がある。
玲はそれを見逃さず、さらに慎重に距離を詰めながら、警戒を解かせるタイミングを伺った。
【16:54/東京都・第七区外縁・住宅街路地・資材置き場前】
男性は握っていた缶コーヒーを止め、手元で軽く揺らす。
微かに首をかしげ、目を細めて玲を見つめる。
「……あんた、探偵か?」
声は低く、震えはほとんどないが、わずかに緊張が混じっている。
玲は頷き、静かに答える。
「はい。少し話を聞かせてほしいだけです。危険はありません」
男性は缶を胸元に近づけ、腕組みの姿勢を保ちながらも、視線だけで周囲の確認を続ける。
沈黙がしばらく流れる。夕暮れの光が二人の影を路地に伸ばし、砂利の小さな音までが異様に大きく響く。
玲は焦らず、柔らかく声をかける。
「ここにいた理由を、教えてもらえませんか?」
男性はしばらく黙ったまま、缶の底を指で軽く叩く。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……話すかどうかは、状況次第だな」
【16:55/東京都・第七区外縁・住宅街路地・資材置き場前】
玲は瞬間、直感を研ぎ澄ませた。
──何かがおかしい。
男性の仕草、視線、缶コーヒーの微かな揺れ。
それだけでは説明のつかない“不自然な間”があった。
息遣い、肩の微妙な震え、目の奥に潜む焦り……すべてがわずかに過剰で、計算されたように見える。
玲はゆっくりと息を整え、背後の路地と通りの様子を目でなぞる。
遠く、薄暗い建物の影に、もう一つの黒い存在。
──気配は確かにある。だが、それは人間ではない。
玲の脳裏に、最近手に入れた情報の断片が一瞬よぎる。
「……この男、何かを隠している……そして、外からの干渉もある」
声に出さず、玲はただ目を細め、慎重に観察を続けた。
この異常を解明するためには、次の瞬間の動きがすべてを決める。
【16:56/東京都・第七区外縁・住宅街路地・資材置き場前】
玲の目が路地の先、工事現場の前に停まる大型車両に止まった。
──偽装だ。
車両は一般的な工事用トラックの外見をしている。鉄板の色、社名のステッカー、作業灯まで完璧に再現されていた。
だが玲の経験が告げる。工事会社に確認済みのスケジュールと一致しない。現場担当者の顔も見当たらない。
周囲の住民にとっては「ただの工事車両」に映るだろう。だが、現実は違う。
「……誰が、何のために……」
玲の声は小さく、冷静な呟き。
黒い影が車両の脇に潜む。
──ただの荷物ではない。装置でも、あるいは……人かもしれない。
玲はわずかに呼吸を整え、次の行動を決める。
「まず、内部を確認する必要がある……」
そして、目の前の偽装の裏に潜む“真実”を見極めるため、足を踏み出した。
【16:58/東京都・第七区外縁・住宅街・路地沿い】
玲は手元の通信端末に目を落とす。
──まずは映像を確認する必要がある。
受話器を取り、地元の警備会社「オメガ・セキュリティ」の技術担当に連絡を入れる。
電話口から低く落ち着いた声が返ってくる。
「オメガ・セキュリティ、柴田です。どういったご用件でしょうか?」
玲は無駄のない口調で状況を説明した。
「近隣の監視カメラ映像を確認したい。住宅地と商店街、数時間前からの動きを追いたい」
受話器越しに短く息をつき、柴田は答える。
「承知しました。こちらのシステムから過去ログを再生可能です。すぐにアクセス権を付与します」
玲は軽く頷くと、黒い影を意識しながら通りを見渡した。
監視カメラの映像と、現場の“偽装”工事車両。
──全てがひとつの線で繋がる瞬間を、彼は確信していた。
【16:59/東京都・第七区外縁・住宅街・路地沿い】
玲は受話器を握りしめ、眉をひそめた。
「柴田さん、確認してくれ。午後4時12分から4時27分までの映像が、ログに残っていない」
受話器越しに、わずかに沈黙が走る。
「……おっしゃる通りです。通常ありえません。システムは自動バックアップを行っているはずですが、その時間帯だけ完全に消えています」
玲は視線を上げ、路地の先にある工事車両をじっと見つめる。
──ただの工事ではない。誰かが、意図的に15分間の記録を消した。
冷たい風が頬をかすめる。
その刹那、玲の脳裏に、影の気配が過去の記憶とともに浮かんだ。
「……動き出したな」
彼の声は低く、だが確かな決意が込められていた。
【17:02/オメガ・セキュリティ技術管制室・内線通話】
柴田の声は、低く抑えられながらも明らかに緊張を帯びていた。
「メンテナンスは数日前に済ませている。通常の故障ならこんなにきれいに途切れないはずだ。……実は、誰かがリモートアクセスを試みた痕跡がある」
玲の指が、無意識にコートのポケットを軽く叩いていた。癖だ。
「誰だ?」
「判別不能です。IPは多重踏み台で、追跡できないように加工されている。ただ……」
柴田は言葉を濁した。
玲は歩みを止め、通りの静寂の中に身を置く。
夕暮れの光が建物の壁に反射し、細い路地に淡い金色の筋を落としていた。
「ただ?」
「……アクセスパターンに見覚えがあります。十年前の“倉庫事件”で使われた手口に酷似しているんです」
その瞬間、玲の呼吸が一度止まった。
胸の奥で、冷たいものが静かに蠢く。
十年前──
あの日の記録が消された理由。
あの時、真相に最も近づいていたのは、たった一人の少年だった。
「柴田。ログのコピーをすぐに送ってくれ。現場には俺が向かう」
「分かりました。……気をつけてください。相手は、素人じゃありません」
通話が切れる。
夜がゆっくりと濃くなり、風がどこかへと導くように流れていく。
玲は静かに呟いた。
「……ユウタ。これは、お前が残した“声”なのか」
そして彼は、誘拐の真相へと続く闇の奥へ、踏み出した。
【17:05/ロッジ・玲の探偵事務所】
玲は手早く携帯を取り出し、連絡先をスクロールして服部慎吾を選択した。
画面に表示される名前を確認し、深呼吸をひとつ――
「慎吾か……状況を整理しろ」
電話の向こうから、服部慎吾の落ち着いた声が応える。
「はい、玲さん。何件か不審なアクセスを確認しました。オメガ・セキュリティの映像と連動させれば、工事車両に偽装された不審者の動きが追えます」
玲は窓の外、沈みかけた夕日を見やりながら静かに頷いた。
「ユウタの記録にアクセスした人物と、この行動パターン、重なってるか?」
「ほぼ間違いなく同一手口です。十年前の倉庫事件と酷似しています。さらに、アクセスログの断片が消されている箇所も一致しています」
玲は指先で携帯を軽く叩きながら、声を低く絞る。
「すぐに現場の座標とアクセス情報を送れ。俺が直接確認する」
「承知しました。慎重に動いてください。対象は逃走中で、二重三重の防御策を用意しています」
通話を切った玲は、息を整え、次の行動を頭の中でシミュレーションした。
深呼吸をひとつ。夕暮れの影が長く伸びる路地を、彼は静かに歩き始めた。
冷えた風が胸元をかすめる。
「──やはり、声は届いている」
その言葉と共に、玲の目に確かな覚悟が宿った。
玲は一歩だけ後ろへ体重を移し、足音を殺して路地の奥を見つめた。
人影は――見えない。
だが、“見えないこと”そのものが、逆に不自然だった。
夕暮れの色が完全に沈みきらない薄闇の中、静寂はやけに重い。
風に揺れるビニールシートの擦れる音が、まるで誰かの息遣いのように聞こえる。
(……いる。姿を見せないだけだ)
玲は背筋で気配を探りながら、ほんの数秒だけ立ち止まった。
その静寂の中――
コツ……。
コンクリートを小さく叩くような、ごく微細な足音。
一瞬だった。だが、確かにそこに“誰かがいる”と告げていた。
視線の方向を変えずに、玲はゆっくりと携帯を握る。
呼び出すつもりはなかった。
ただ、緊急時の手段を確保しておくためのごく自然な動き。
(影班……いや、この距離感は違う。もっと素人に近い。
だが、監視に慣れていないわけではない)
静かに息を吐き、玲は何もなかったかのように歩き出した。
あえて背を見せる。
あえて気づかぬふりをする。
相手の反応を引き出すために。
そして、数メートル歩いたところで――
背後から、わずかに空気が動いた。
(……ついてきた)
玲の口元に、鋭いが静かな微笑が浮かぶ。
見えない相手の“足取り”が、確実にこちらへ向かってきていた。
【時間:2025年12月3日 午後4時34分】
【場所:現場付近・住宅街路地沿い】
──その時、携帯電話が震えた。
画面に表示されたのは、見知らぬ番号。玲は一瞬、眉をひそめる。
低く冷たい声が、受話器の向こうから静かに響いた。
「……玲か。動くな。すべて、こちらの指示に従え」
路地の風に混ざる声はない。だが、その重みは確実に玲の背筋を貫いた。
玲は受話器を握りしめ、無言で周囲の影を確認する。
背後、空き地の暗がりに潜む気配が、確かに動いている。
──これは、ただの通話ではない。
事件の序章が、静かに始まった音だった。
【時間:2025年12月3日 午後4時35分】
【場所:現場付近・住宅街路地沿い】
玲は一瞬、深呼吸をした。冷たい空気が肺に染み渡り、思考を研ぎ澄ませる。
ポケットに手を入れ、携帯を取り出す。画面には着信履歴が並ぶ中、ひとつの名前が目に入った。
──かつて共に事件を追った専門家の名前。
その名を確認した瞬間、過去の記憶が微かに揺れ動く。
現場の静寂と、携帯の振動音が、まるで時間を止めたかのように交錯する。
玲は無言で指先を履歴の上に置き、呼吸を整えた。
「……やはり、来るべき時が来たか」
静かな路地に、再び緊張が波紋のように広がった。
【時間:2025年12月3日 午後4時36分】
【場所:現場付近・住宅街路地沿い】
玲は携帯を握りしめ、低く呟いた。
「……御子柴理央か。記憶分析のスペシャリスト……」
声には確かな信頼が込められていた。
「理央なら、この状況でも冷静に核心を見極められる。迷いもなく、情報を整理し、手がかりをつなげる力がある」
振り返ると、路地には微かな風が流れるだけ。
玲は深呼吸をひとつして、携帯にもう一度目を落とした。
「……すぐに連絡を取る。これ以上、無駄な時間はない」
その指先が履歴をタップする瞬間、周囲の空気がわずかに張り詰めた。
【時間:2025年12月3日 午後4時37分】
【場所:現場付近・住宅街路地沿い】
玲は携帯の画面を見つめ、指を走らせてメッセージを打つ。
《重要な話がある。急ぎ会いたい》
送信ボタンを押すと、画面が淡く光り、文字が静かに消えていった。
通りの風が一瞬止まったような錯覚。
玲はポケットに携帯を戻し、周囲を慎重に見回した。
「……理央、頼む。すぐに応答してくれ」
その声は小さくても、緊迫した空気を切り裂くように響いた。
【時間:2025年12月3日 午後4時39分】
【場所:現場付近・住宅街路地沿い】
玲が息を整える間もなく、携帯の画面に新たな通知が現れた。
《わかった。指定の場所に向かう》
玲は軽く頷き、ポケットに携帯を戻す。
冷たい風が頬を撫でる中、背後の路地や通りの気配に注意を払いながら、彼は歩を進めた。
「よし……これで、動きは読める」
静かな住宅街に、玲の決意が溶け込むように漂った。
【時間:2025年12月3日 午後4時45分】
【場所:玲の探偵事務所・ビル中階】
玲は重厚な扉を押し開け、静寂に包まれたオフィスへと足を踏み入れた。
ここには看板も掲げられておらず、外界の喧騒は遮断されている。ビルの中階にひっそりと存在するその空間は、表向きにはただの事務所だが、実際には証言の裏付けを探るための冷徹な分析の場であった。
壁一面に並んだモニターパネルは、過去の監視映像や通信ログ、電子データを同時に表示できる仕様になっており、玲はそれらを俯瞰しながら情報の断片を精密に組み合わせる。
机の上には、記録用のタブレットや手書きのメモ、証言者の供述内容が整理されたファイルが整然と積まれており、玲の動線は無駄が一切なく計算され尽くしていた。
静寂の中、微かに響く時計の秒針の音と、外の街路から漏れ聞こえる人々の声が、まるで時の流れを再構築しているかのように響く。玲は椅子に腰を下ろすと、深く息を吸い込み、目の前に広がる情報の海に集中した。
「……全ての手がかりは、ここに集まっている」
その言葉とともに、玲の冷静な瞳は一点の揺らぎもなく、これから辿る真実の糸を探し出すべく、静かに光を宿していた。
【時間:2025年12月3日 午後5時12分】
【場所:市役所・土木課執務室】
役所のビルは、夕刻の柔らかな光に包まれ、廊下にはほとんど人影がなかった。時計の針が刻む音だけが、静けさの中で響いている。
玲は無言で受付を抜け、指定された土木課の執務室へと向かった。薄暗い蛍光灯が天井からゆらりと揺れ、机の上に散らばる書類や図面の影を、わずかに濃く浮かび上がらせる。壁際のキャビネットには、過去の工事記録や申請書が積まれており、微かに紙の匂いが漂った。
案内役の係員は、淡々とした足取りで玲を部屋の奥まで導き、重厚な木製の机の向こうに座る人物を示した。玲は静かに歩を進め、机の前に立つと、薄暗がりの中でわずかに動く影に目を凝らした。
「……本日の件について、詳しくお話を伺います」
玲の低く落ち着いた声が、静寂に包まれた室内に響き、机の向こうの人物がわずかに肩を揺らして反応する。その微細な動きも、玲の鋭い観察眼には逃れなかった。
【時間:2025年12月3日 午後5時14分】
【場所:市役所・土木課執務室】
玲の視線は揺らぐことなく、机の向こうで言葉を詰まらせる係員を捉えていた。声には震えがあり、微妙な間が彼の動揺を物語っている。
「ええと……その件については、詳細な情報をお伝えすることは……難しいかと」
玲は軽くうなずき、柔らかい声色を保ちながらも、鋭い質問を投げかける。
「難しい、とは具体的にどういう意味ですか。書類の破棄、あるいは改ざんの痕跡は……?」
係員の手元がわずかに震え、書類の角を押さえる指が微かに動く。玲はその一挙手一投足を見逃さず、心の中で次の展開を計算していた。
外の夕日が窓ガラスに反射し、部屋の奥の書類に長い影を落とす。微かに揺れる影は、まるで係員の隠す秘密をそっと示しているかのようだった。
【時間:2025年12月3日 午後5時16分】
【場所:市役所・土木課執務室】
玲は一歩前に踏み出し、机越しに係員を鋭く見据えた。声は落ち着いているが、その瞳の奥には揺るがぬ決意が光っていた。
「ここは公の場です。申請の有無だけでも構いません」
係員は一瞬、口をつぐみ、机の下で指を握りしめる。わずかに吐き出す息が乱れ、背筋に冷たい汗が伝う。玲はその微細な変化を見逃さず、次の言葉の隙を伺う。
外の光がゆっくりと室内に差し込み、書類やパソコン画面の表面を淡く照らす。空気は重く、張りつめた緊張感が部屋全体を包んでいた。
男は唇を噛み、机の書類や周囲の壁を素早くちらりと見回した。
その視線には一瞬の躊躇が混じる。玲の鋭い目がそれを捉え、彼の微細な動揺を逃さない。
「……申請は、確かにありました。ですが……一部、非公開指定で……」
男の声は小さく、かすれ、言葉の端々に迷いが残る。
玲はただ静かに頷き、相手の次の言葉を待った。
室内の空気は張りつめたまま、夕陽の光が紙の端に淡く影を落とす。
その時、扉が静かに軋む音を立てて開き、一人の男が影のように姿を現した。
背筋は伸び、服装は黒を基調とした戦術的な装い。顔には険しい表情が浮かび、目つきは鋭く、室内の明かりにわずかに反射して光った。
「……ここで何が行われている」
低く、抑えた声。言葉には威圧感があり、しかし同時に、観察者としての冷静さも漂わせていた。
玲は動かず、静かに答える。
「確認が必要なだけです。邪魔はさせません」
室内の空気が一瞬、微かに震えるような緊張感に包まれた。
【時間:午後5時03分】
【場所:市役所・土木課執務室】
玲が視線を上げようとした瞬間、背後に微かな気配が走る。
反射的に振り返った――が、そこには誰もいなかった。
「……ここに、誰かいるのか?」
玲は小さく呟き、耳を澄ませる。
机の向こうで男が硬直し、わずかに肩を震わせた。
「い、いや……気のせいかもしれません……」
玲は静かに歩を進め、室内を一瞥しただけで、状況を即座に分析する。
「気配の消し方が巧妙すぎる。誰か、私たちの動きを監視している」
空気が一瞬、重く張りつめる。
それは単なる恐怖ではなく、緊迫した駆け引きの予感だった。
【時間:午後5時06分】
【場所:市役所・土木課執務室】
玲が低く、しかし確信を帯びた声で名前を口にした。
「加藤総務部長……あなたが、この件に関わっているのか」
その瞬間、室内の空気が一変した。まるで見えない鎖で引き締められるかのように、重苦しい沈黙が全員を包み込む。男の手元の書類が小さく震え、紙の端がカタカタと微かに揺れた。
「……そ、その名前を、どうして……」男の声は震え、言葉が途切れ途切れになる。明らかに、何かを恐れていた。玲の視線は鋭く、相手の動きや微妙な表情の変化を逃さない。
室内の照明が蛍光灯特有のわずかな瞬きで暗くなり、影が壁に揺らめく。玲の目には、加藤総務部長に繋がる手掛かりだけでなく、その背後で静かに息を潜めている人物の気配までも、微細な動きとして映った。
「隠すつもりなら、無駄だ。真実は、必ず記録される」
玲の言葉は低く響き、しかし室内の空気を切り裂くように力強い。男は唇を噛み、目を伏せるしかなかった。その瞬間、玲はすべてを見抜いていた――影の背後に潜む、計算され尽くした監視者の存在も。
【時間:午後5時08分】
【場所:市役所・土木課執務室】
男の声はか細く、しかしどこか重みを帯びていた。書類の端をぎゅっと握り締め、目をそらしたまま続ける。
「……加藤部長から、直接連絡がありました。『あの日だけは、どんな問い合わせにも答えるな』と。理由は説明されませんでした。ただ、『黙っていればいい』とだけ……」
玲は黙ってその言葉を受け止める。沈黙がしばらく室内を支配し、蛍光灯のわずかな瞬きが壁に長い影を落とす。
「“あの日だけ”……ね」玲の声は低く、しかし澄んでいた。机に置かれた書類を指先で軽く弾き、視線は男の奥に潜む真実を捕らえようとする。
男は小さく息をつき、顔を上げた。わずかに震える手でメモを差し出す。
「……これが、その日の出入り記録です。見ても、分かることは少ないかもしれませんが……」
玲は手元のメモを受け取り、数字と文字が刻まれた紙面をじっと見つめた。その目は冷静で鋭く、しかし奥底には過去と記録の断片が交錯する複雑な感情が宿っていた。
「分かりました。これで、少なくとも何が隠されていたかの糸口はつかめます」
玲の声は静かだが力強く、室内の空気をさらに張り詰めさせる。男はその場に座ったまま、わずかに肩を震わせるしかなかった。
外の通りでは、傾きかけた夕日が建物の影を長く伸ばし、静かな黄昏の時間が室内の緊張を際立たせていた。
【時間:午後5時12分】
【場所:市役所・土木課執務室】
久保は机に置かれた資料を慎重に差し出し、視線を上げて玲を見つめた。
「これが……非公開で処理された“緊急工事”の記録です」
彼の声は低く、抑えられているが、言葉の一つ一つには揺るぎない確信があった。
玲は手を伸ばし、丁寧に資料を受け取る。ページをめくる指先に力を込め、細部の数字や工事申請のタイムスタンプを追っていく。
「……この記録、正式な手続きを経ていないものばかりですね」
玲の声には冷静な驚きが混じる。外見上はただの工事記録だが、内部には不可解な空白と矛盾が散在していた。
久保はうなずき、言葉を続ける。
「はい。市の管理下には残っていません。関係者はごく限られた人間だけです。これを確認できるのは……今回、玲さんだけでしょう」
室内に静寂が広がる。蛍光灯の光が書類に反射し、紙面の文字を白く浮かび上がらせる。玲の瞳は一枚一枚の資料に吸い込まれ、すでに頭の中で過去の出来事と照合を始めていた。
「なるほど……」
玲の声はわずかに低く、しかし決意を帯びていた。外の街並みでは、傾く夕日が建物の窓を赤く染め、室内の緊張感を際立たせる。
【時間:午後5時28分】
【場所:市役所・土木課執務室】
外では、すでに陽が沈み始め、オレンジ色の光が窓越しに差し込んでいる。街路の影が長く伸び、日常の景色に不穏な陰を落とした。
玲は資料を前に座ったまま、窓の外を一瞬見やる。沈む夕日の光が、これから訪れる夜の冷たさと、迫り来る闇の気配を静かに知らせているようだった。
「……これから、何が起きるのか」
玲は小さく呟く。その言葉に不安はない。緊張と決意だけが、冷たい空気の中に漂っていた。
だが、視界の片隅で揺れる夕日の光のように、確かに一筋の道が開き始めていた——真実への道が。
その先に、消された記録、隠された証言、そして封印された記憶が待ち受けていることを、玲は直感で知っていた。
窓の外の闇が深まるほど、内部で揺らぐ光は鮮明に、そして静かに、彼女を導こうとしていた。
【時間:午後5時32分】
【場所:市役所・土木課執務室】
玲は机の上に置かれたスマートデバイスに手を伸ばし、静かに呼び出す。画面が一瞬だけ光り、呼び出し音が小さく鳴る。
《水無瀬透、こちら玲。至急、データ解析と現場支援をお願いしたい》
数秒の沈黙の後、端末から低く落ち着いた声が返ってきた。
「了解。今すぐ準備に入る。詳細な情報を送ってくれ」
玲は資料の整理をしながら応答する。
「映像記録の途切れ、工事の偽装、そして非公開の工事データ……順次、送る。異常の兆候はこの15分間に集中している」
水無瀬は冷静に答える。
「承知。解析環境を立ち上げ、現場に近い層から感情・心理干渉パターンを照合する。異常があれば即座に報告する」
玲は頷き、窓の外に伸びる夕暮れの影を見やる。
「頼む……今回の件は、ただの監視異常では済まない」
沈む日差しが室内の書類に淡く反射する。冷たい空気の中で、二人の間に言葉にせぬ緊張と決意が流れた。
【時間:午後5時38分】
【場所:市役所・土木課・執務室奥の打ち合わせスペース】
薄暗い天井灯の下、玲は椅子をわずかに引き、静かだが磨き上げられた刃のような声で久保に向き直った。
「久保さん――圧力の正体について、具体的に教えてほしい。
もう“濁した説明”では前に進めない。これ以上の遅延は許されない」
その声音には、探偵としての冷静さだけでなく、
“相手がどこまで嘘を重ねられるか” を見抜くプロの気配が滲んでいた。
玲の尋問は荒々しくはない。
だが、逃げ道を静かに塞いでいくような、呼吸の間さえ掴まれるような圧がある。
久保はその視線を真正面から受け止めきれず、視線を机の端へと滑らせた。
喉仏が上下し、小さく息を呑む。
「……その、圧力……ですが」
玲は言葉を遮らず、ただ相手が続けるのを静かに待つ。
“語り始めたがっている時こそ、余計な言葉は不要”――
それが、玲が得意とする聞き出しの技だった。
久保は肩を落とすようにして、ついに腹を括ったようだった。
「正体は……“総務部の上層部”です。
正確に言うなら、加藤総務部長だけじゃありません。
もっと……上から来ている感じでした」
玲の目がわずかに細くなる。
久保は続けた。震えはあったが、確かな実感のこもった声だった。
「私たちが『なぜ非公開なのか』と聞くたび、
“触れるな、深入りするな”――そう、言い回しの違う圧が、いろんなルートから飛んでくるんです。
電話、文書、時には来客として……」
玲の背後の窓から、沈みきる寸前の夕日が差し込み、
その影が久保の表情を一層重く照らし出した。
玲は静かに息を吸い、
“スペシャリストの勘が確信に変わる瞬間”にだけ見せる鋭さで言葉を紡ぐ。
「つまり――市役所の内部で、“事故が起きたことにしたがっている誰か”がいるわけだ」
久保の肩がビクリと震えた。
夕闇が迫る室内で、
真実へ向かうラインがまた一本、はっきりと繋がった。
【時間:午後5時42分】
【場所:市役所・土木課・執務室奥の打ち合わせスペース】
久保は周囲を一度だけ素早く見回し、
まるで自分の影にさえ怯えているかのような足取りで、そっと玲の目の前に歩み寄った。
書類の山に紛れるようにして、
小さく折り畳まれたメモ用紙を、
机の上ではなく――
玲の手の中へ直接押し込む ように渡してきた。
「……ここに書いてある」
声はわずかに震えていた。
しかし、その震えの裏には、
“もう口では言えない”という明確な意思が宿っている。
久保はさらに一歩近づき、
玲の肩越しに背後を確かめるような視線を投げた後、
ほとんど呼吸に紛れるほどの、触れ合う距離で耳打ちした。
「詳しいことは……話せない。
――盗聴されてる。」
その一言は、冷たい刃のように玲の背筋を走り抜けた。
玲は表情を変えず、
まるでただ資料を受け取っただけのような自然さで頷く。
久保はそれで限界だった。
すぐに距離を取り、
誰にも聞かれなかったかのように平静を装って机に戻った。
玲は手の中のメモをわずかに握りしめる。
紙の質感は薄いのに、
そこに込められた“恐怖”の重みは圧倒的だった。
メモの内容を開くのは――
“場所を変えてから”だ。
執務室の空気は、
今や外の夕闇以上に濃く冷たいものへと変わっていた。
【時間:午後5時45分】
【場所:市役所・土木課・執務室前の薄暗い廊下】
玲は執務室を静かに後にし、
足音をできるだけ消しながら廊下の一角――
防災掲示板の陰に身を寄せた。
久保が渡したメモはまだ開いていない。
開くなら、見られない場所で。
聞かれる可能性があるなら、尚更だ。
玲はスマートフォンを取り出し、
素早く暗号化通信アプリを立ち上げる。
そして、最も信頼する「問いのスペシャリスト」――
紫苑 へ連絡を入れた。
玲は息を整え、低い声で囁くように話し始めた。
「……紫苑、こちらに異変があった。
市役所内部で“情報封鎖”が行われている。
工事記録の担当者が、露骨な圧力を受けているようだ。
盗聴の可能性も高い」
通話の向こう、沈黙。
紫苑が状況を瞬時に読み取り、
最も効率的な返答を選ぶときの、あの短い無音だ。
やがて、落ち着き払った声が響いた。
『こちらも監視の兆候を察知している。
玲、位置情報はそのまま保持しておけ。
五分以内に周辺デバイスの電波状況を解析する。
その間、決してメモを開くな』
玲はわずかに息をつき、短く応じた。
「了解。……久保は完全に怯えていた。
“加藤部長”からの指示だと言っていたが、
その背後に誰がいるかまでは言えないようだった」
紫苑の声がわずかに低くなる。
『加藤単独ではない……となると、内部に“手を伸ばせる者”が他にもいる。
玲、外に出ろ。建物の中は危険だ。
合流地点を送る』
数秒後、端末に地点情報が表示される。
市役所から徒歩数分――
監視の死角にある、小さな公共広場。
玲はスマートフォンを握り直し、
静かに廊下を歩き出した。
廊下を流れる空気は冷たく、
まるで建物そのものが何かを見張っているようだった。
【時間:午後5時47分】
【場所:市役所・土木課フロア前 廊下】
執務室の扉を閉めた、その刹那――
玲の視界の端を、スーツ姿の男が音もなく通り過ぎた。
ネクタイはきちんと締められているが、
その歩調は速すぎる。
視線は落としたまま、しかし周囲を常に確認している。
“普通の職員”にしては、警戒の色が濃すぎた。
玲は立ち止まり、わずかに眉を寄せる。
(……急ぎすぎだ。何かから逃げている?
それとも、こちらの動きを探っている?)
その瞬間、廊下の奥から静かに現れた影が一つ。
服部の部下――
玲と影班が独自に共有している“観察役”の一人だった。
男の動きを見た彼は、
玲と目が合ったかどうか分からないほど自然な動作で
視線をそらし、そのまま男の進行方向へ歩き出した。
歩幅は一定。
速度も自然。
しかし、完全に男の後方へと位置を移し、
尾行の距離を保つ。
一切の音も乱れもない、
熟練の影の追跡。
玲は表情を変えず、
ただ胸ポケットのスマートフォンに触れ、
紫苑へ短くメッセージを送る。
《標的かもしれない。服部班が尾行中。
私は合流ポイントに向かう》
送信を済ませると、玲はゆっくりと歩みを再開した。
しかし、その目はわずかに鋭さを増していた。
廊下に漂う、重い沈黙。
市役所の空気とは思えない異質な緊張。
そして――
玲は悟った。
(ここには“何か”が潜んでいる。
工事記録だけではない……
もっと根の深い、別の層が。)
その気配を確かめるように、
玲は階段へ向かって静かに歩き出した。
【時間:午後6時02分】
【場所:市役所裏通り・搬入口付近】
濡れたアスファルトの上を、玲のブーツが静かに打つ。
雨はすでに止んでいるはずなのに、どこかに残った水滴が
路面の街灯を歪ませ、淡い光の帯を伸ばしていた。
玲の手には、久保から受け取った小さなメモ。
紙は薄く震え、手の温度で湿り始めている。
そこに記されていた文字は、たった一行。
──“総務部長 加藤 衛”──
その名を見た瞬間、
胸の奥に冷たい感触が落ちた。
(……戻ってきたか。
あの事件は、まだ終わっていないということだ)
加藤衛。
行政の裏処理を一手に担い、
“都合の悪い工事”や“記録の上書き”を
いくつも密かに成立させてきた人物。
玲が数年前に追っていた“内部癒着事件”。
あの時、彼は証拠不十分で逃げ切った。
だが、確かに暗躍していた痕跡だけは残った。
そして今、
誘拐事件と、記録なき工事。
偶然で済むはずがない。
玲は歩みを止め、
暗がりに沈む市役所の壁を見上げた。
湿った風が吹き抜け、コートの裾を揺らす。
(加藤……なぜ、またあなたの名が出てくる?
今回の“緊急工事”と何を隠したかった?
そして――誰と繋がっている?)
答えは静寂の中に沈み、
ただアスファルトに反射した街灯だけがゆらめく。
その時、
背後で小さな足音が跳ねた。
玲はすぐに振り返り、
ほんの一瞬、手がジャケットの内ポケットへ伸びる。
だが、姿はない。
風が吹き抜けただけ――
いや、違う。
(まただ……視線を感じる)
昨日から続く“誰かの影”。
そして服部班が追っているあの男。
すべてが一本の線になる寸前のような、
重苦しい空気が玲の周囲を満たしていく。
玲は湿った地面を踏みしめ、
低く呟いた。
「……加藤。今度こそ、逃がさない」
そして彼は、
新たな決意を胸に闇の中へ歩き出した。
【時間:午後6時18分】
【場所:市役所近くの小さな児童公園】
風に揺れるブランコの鎖が、かすかに「きい」と鳴いた。
通りの車の音もまばらで、夕闇はすでに公園の奥を呑み込みつつある。
その沈黙を破ったのは──
“コツン”という、乾いた音だった。
玲はすぐに反応し、音のした方向へ視線を向ける。
植え込みの陰。
茂みの隙間から、かすかな気配が引いていく。
(……誰だ?)
玲は周囲を素早く確認しつつ歩み寄り、
地面に落ちている黒革の細いケースを見つけた。
大きさは手のひらほど、
無駄のない形状。
どこか役所用の機密ケースに近い。
彼は腰を落とし、手袋越しにそれを拾い上げる。
革は少し湿っており、つい先ほどまで誰かが握っていた温度がわずかに残っていた。
慎重に開ける。
……次の瞬間、玲の呼吸がわずかに止まった。
中に収められていたのは──
・区役所地下駐車場の車両出入りログのコピー数枚
・そして一番上に挟まれた、“工事許可証の原本データ”の写し
だが、すぐにそれが普通の許可証ではないことに気付く。
日付。
担当部署。
許可担当者名。
すべてが、整いすぎていた。
(偽造……だな)
玲は眉を寄せ、裏面まで丁寧に確認する。
書類には公式の電子署名が添付されているように見えるが、
微妙にフォントが異なる。
精巧なコピー……だが、“本物ではない”。
──誰かが、この許可証を使い
地下駐車場から“何か”を持ち出した。
さらに、“何かを持ち込んだ”可能性も。
そしてその痕跡を、
発覚前に消し去ろうとした。
(……情報提供か。だが、なぜ俺に?)
玲はケースを閉じ、立ち上がる。
公園の静寂に目を凝らし、息を潜める。
植え込みの奥。
さっきまで“誰か”が立っていた場所。
土がわずかに乱れ、枝が折れている。
(服部の者なら気配を消して接近する。
だが今のは違う……素人ではないが、影ほどの完成度でもない)
第三勢力。
あるいは、“内部の人間”。
玲の胸に一つの名が浮かぶ。
久保が怯えていた“圧力元”。
加藤総務部長。
そして、それに従う沈黙の職員たち。
(加藤だけじゃない。何者かが裏で動いている)
玲はケースをジャケット内にしまい、
スマートフォンを取り出して服部慎吾に暗号通信を開く。
短く言う。
「慎吾、公園で“届け物”を受け取った。
地下駐車場の出入り記録と偽造許可証だ。
……提供者はまだ近くにいる可能性が高い。
尾行者を一名、静かに回してくれ」
風が一瞬止み、
公園全体が息を潜めるような静けさに包まれた。
玲は歩き出す。
闇が深まるほど、
真実に近づいている確信だけが、
静かに胸の底で光を放ち始めていた。
【時間:午後6時42分】
【場所:区役所・職員通用口付近】
建物の裏側にある職員通用口。
本来なら、交代制の警備員が必ず二名は配置されているはずの場所だ。
しかし──
玲が足を踏み入れた瞬間、
異様な静けさに気付いた。
「……少なすぎる」
夕闇と街灯の境界線に立ちながら、周囲に視線を走らせる。
普段ならカウンター奥の監視室から見えるわずかな光、
数分ごとに巡回する警備員の足音、
インカムの交信音。
それらがすべて──ない。
まるで、建物そのものが
“ここだけ休眠している”ような沈黙。
(警備は減らせるものじゃない。
まして区役所の通用口だ。
誰かが意図的に“減らした”と考えるべきだな)
玲は躊躇なく通用口の前に歩を進める。
暗がりに溶け込むように、足音を殺して。
扉のすぐ横には、防犯カメラ。
だが、赤いランプは点灯していない。
「電源が……切られている?」
いや、切断ではない。
もっと巧妙だ。
“外部からだけ映らないようにされている”タイプのジャミング。
玲は小さく息を吐く。
(町工場の仕業じゃない。
これはデータ職人……いや、もっと上の手だ。
内部協力者がいる)
そして、少し離れた場所にある守衛室の窓を見た瞬間──
その違和感は確信へと変わった。
室内の照明はついている。
だが、誰もいない。
椅子が、一つ。
まるで“今、立ち去りました”と自己主張するように、
微妙に斜めへずれていた。
玲は眉を寄せる。
(巡回か……? いや、巡回なら二名体制。
ここは都市警備委託区域だ。配置変更には上位承認が必要だ)
内部で──
誰かが“警備を薄くする理由”を作った。
そして、それが自然に見えるよう巧妙に整えた。
玲は歩きながら、スマートフォンを取り出し
服部慎吾に暗号通信で連絡を入れる。
「慎吾、通用口の警備が不自然だ。
計画的に“隙を作られている”可能性がある。
……ここは誰かの通り道だ」
通信の向こうで、服部が低く息を呑む気配があった。
『了解した。影の者を二名、周囲の狭所に配置する。
……玲、気をつけろ。“静けさ”は罠の前触れだ』
「わかってる」
玲は携帯をしまい、再び前を向いた。
ビルのガラス窓に、微かに映る自身の影。
その横で、背後の暗がりに何かが揺れた気がした。
玲は即座に振り返る──
しかし、そこには誰もいない。
ただ、風が通り抜け、落ち葉が地面を滑っただけだった。
(……この静けさは、偶然じゃない)
本能が警告している。
“誰かが、この場所を使って動いた”
そして──
“まだ動いている”
玲は通用口のドアノブに手をかけた。
闇の中、真実への道が
再び静かに口を開けようとしていた。
【時間:午後6時48分】
【場所:区役所・地下駐車場/北側スロープ付近】
薄暗い地下駐車場は、上階の喧騒とは無縁だった。
コンクリート壁に張りついた冷気が、肌を刺すように冷たい。
天井の蛍光灯は数本が消え、点いているものもちらついていて、
まるで“ここでは何も明らかにならない”と告げるようだった。
その中で──
一人の男が、壁際の古い配電盤の前に立っていた。
スーツの上着は脱がれ、ネクタイはゆるく外されている。
額には疲労の汗。
だが、その眼だけは、
「近づくな」と言わんばかりの硬い光を宿していた。
その背後に静かに足音が近づく。
玲は階段の影から姿を現し、ためらいなく声を発した。
「加藤さん。お久しぶりですね」
空気が止まった。
配電盤のライトに照らされた加藤総務部長の横顔が、
ゆっくりと、ぎこちなく、こちらに向けられる。
その目には驚きよりも──
覚悟に似た諦めが浮かんでいた。
「……まさか、君が来るとは」
声は震えていた。
だが、恐怖ではない。
何かを“守ろうとしている者”の震えだ。
玲は歩を進める。
靴音が、地下空間に静かに響く。
「あなたが関わっていないならいい。
ただ確認したいだけです。
区役所の警備を減らし、通用口のカメラをジャミングした人物──
あれは、あなたの指示でしたか?」
加藤は唇を強く噛みしめ、視線を逸らす。
その肩がわずかに震えた。
蛍光灯が「バチッ」と音を立て、瞬間的に光が明滅する。
その一瞬の暗闇で、玲は気づいた。
加藤の背後──
配電盤の裏側に隠れている、細く折りたたまれた金属ケース。
それは区の通常書類ではあり得ない“個別管理金庫”だった。
玲の声が低く落ちる。
「加藤さん……あなたは何を隠している?」
しばしの沈黙。
やがて加藤は、重く深い溜息を一つ落とした。
隠し通す覚悟は、もう残っていなかった。
「……私は命じられただけだ。
“記録を動かすな”と。
“工事計画に触れるな”と。
“見なかったことにしろ”と……」
玲の眉がわずかに動く。
「誰に命じられた?」
加藤は首を横に振った。
「名前は……言えない。
ただ──」
その瞬間、遠くのスロープから
タイヤがわずかに軋む音が響いた。
加藤の顔から血の気が引く。
「……来た」
玲は振り返り、暗がりの奥を探る。
駐車場の蛍光灯が、ひとつずつ、
まるで何者かが“歩いてくる”のに合わせるように
順に消えていく。
バチッ……
バチッ……
バチッ……
音とともに闇が迫る。
加藤の声がかすれる。
「もう遅い……私は“名前”を言っただけで終わる……!」
玲は構えながら冷静に問う。
「追っ手か。誰があなたを黙らせようとしている?」
加藤は震える唇で、
しかし最後は確かな声で絞り出した。
「……“工事を作った者”だ」
【時間:午後6時51分】
【場所:区役所・本庁舎 3階/総務部長室】
部長室のドアは、外から見れば“閉まっている”ようにしか見えなかった。
しかしその内側では──すでに空気が別の色を帯びていた。
カーテンが風もないのにわずかに揺れ、
書棚の影が、あり得ない角度で床に長く伸びている。
まるで“誰かがもうそこにいる”と
部屋そのものが告げていた。
玲が加藤を伴って部長室へ向かう途中、
加藤の手がそっと玲の袖を引いた。
そして、誰にも気づかれない自然な動作で──
一枚の薄いメッセージカードを玲の手の中へ滑り込ませた。
目を合わせず、ただ低い声で囁く。
「……読まないで。今は。
“外”で開けてください……」
それ以上の説明はなかった。
だが、加藤の指先は震えていた。
やがて二人は部長室の前に立ち、玲がノックしようとした、その瞬間に──
中で、何かが“音もなく”動いた。
気配だけがおぞましく、扉の隙間から漏れてくる。
それは風でも気温でもない、“生きた何か”の気配。
玲は一度だけ加藤を見た。
加藤の顔は蒼白で、汗の粒がこめかみを伝って落ちていた。
「……遅かった」
彼がそう呟いた時には、
すでに“ひとつの影”が、部長室の中に滑り込んでいた。
人間の足音ではない。
獣のような気配でもない。
ただ──“存在した痕跡”だけが残る。
扉を開いた瞬間、玲の視界に飛び込んだのは、
整然と並んだ書類、動かされていないデスク、
そして、異様なほどに静まり返った空気。
だが、ひとつだけ違っていた。
書棚の縁に、“指をかけた跡”のように
微かに黒い影が滲んでいた。
まるでそこから誰かが滑り落ちたか、
あるいは──この部屋の記録そのものに
“黒い手”が触れたかのようだった。
玲は声を潜める。
「……影班の手口ではない。もっと異質だ」
加藤は震えながら、部屋の中央を見つめた。
「あの……影が……
部長をどこかへ“連れていった”……
私は……見たんです……」
玲はカードを握りしめ、
一歩、ゆっくり部屋の奥へ進む。
何かが“見ている”──そう感じた。
だが、今はまだ、この場でカードを開くべきではなかった。
加藤がそれを禁じた理由が、
この異様な空間の静けさだけで充分に分かる。
玲は低く呟いた。
「……ここは、もう安全圏じゃない」
そして次の瞬間──
部屋の奥、書棚の裏で微かな音がした。
“コツッ”
人間の靴音にしては軽すぎる。
だが確かに“何かがそこにいた”音。
玲はすぐに気配を追ったが、
その影は一瞬で消え、部屋には再び沈黙だけが戻った。
ただひとつ。
デスクの上に、黒いインクで塗り潰された
何かの書類が置かれていた。
残された“黒い跡”が告げていた。
──この事件の裏には、まだ姿を現していない黒幕がいる。
──そして“影”はすでに動き出している。
玲はカードを握りしめ、静かに部屋を出た。
【2025年6月3日 午後11時47分】
【区役所裏通り・トラック荷台前】
玲は濡れたアスファルトの上で身を低く構え、静かに呟いた。
「……誰がこんな場所に隠した?」
イヤーピースから紫苑の声が届く。
『玲さん、確認中。荷台のシートが不自然に膨らんでいます。人が潜んでいる可能性があります』
玲は息を潜め、シートの膨らみに目を凝らす。
「──よし、声を出さずに慎重に近づく。下手に刺激すると危険だ」
荷台の下から、かすかに呻き声が漏れる。
「……たす…け……」
玲の口元が引き締まる。
「聞こえた。生きてる。落ち着け、誰も手を出させない」
さらに背後で小さく靴音が響く。
「誰だ!」玲が低く問いかけるが、闇に応答はない。
荷台のシートがわずかに動き、微かな肩の輪郭が浮かぶ。
玲は慎重にシートをめくりながら、被害者に語りかける。
「大丈夫、今すぐ助け出す。名前は?落ち着いて」
微かな声が返る。
「……あ……朱音……」
玲は心の中で呟く。
「……ここで、ようやく見つけたか……」
紫苑の声が再び耳に入る。
『急いで保護を、玲さん。一歩間違えれば──』
玲は荷台の膨らみに手をかけ、慎重に引き上げる。
「行くぞ……絶対に無事だ」
夜の闇に、緊張の息遣いだけが響く。
【2025年6月3日 午後11時53分】
【区役所裏通り・玲の位置】
玲は手元のメッセージカードをそっと広げ、薄暗い街灯にかざして文字を追う。
そこには整然とした筆跡で短く書かれていた。
「全ては表に出すな。動くな――綾瀬雅弘」
玲の目が鋭く光る。
「……来るべき相手が、ここにいるか……」
耳にイヤーピースから紫苑の声が届く。
『玲さん、情報確認。加藤部長と綾瀬氏は、過去に共謀して非公開工事と偽装書類の処理に関わっています。危険度は極めて高い』
玲はカードを握りしめ、低く息を吐く。
「……よし、状況は分かった。準備は整った……動くぞ」
背後の路地から、わずかな金属の擦れる音が響く。
「……来ている」玲はつぶやき、暗がりに溶け込む影を見据えた。
夜の静寂に、次の戦いの序章が確かに刻まれた瞬間だった。
【2025年6月3日 午後11時58分】
【中央区役所・会議室302】
部屋の扉は厚く、外からは誰も中の様子を窺えない。薄暗い蛍光灯がかすかに点滅し、床のタイルに淡い影を落としていた。
玲は静かに扉の前に立ち、耳に装着した通信機から紫苑の声を聞く。
『会議室302、監視カメラは切断済み。侵入は困難ではないが、外部の目には完全に“空室”として記録されています』
玲は小さく頷き、息を整える。
「……空室、隔離フロア……誰も気づかぬまま、真実が隠されている場所か」
扉に手をかけると、低く軋む音が響き、内部の冷気が外に漏れた。
「ここに、全ての答えがある――覚悟を決めろ」
玲の視線が会議室の内部を見据えた瞬間、静寂の中で微かな紙の擦れる音が響き、物語の次章への扉が開かれた。
【2025年6月3日 午後11時59分】
【中央区役所・会議室302】
玲は通信機に向かって静かに呟いた。
「凛、到着は間に合うか?」
しばらくして、低く落ち着いた女性の声が返ってきた。
『了解。間もなく現場入りします。対象の心理状態と沈黙パターンを事前に分析済み。最適な誘導手法を適用します』
玲は小さく息を吐き、扉を押して内部へ一歩踏み込む。
薄暗い部屋の奥、机の影に潜む“証人”の姿を視界に捉え、凛の到着を待った。
その存在はまだ沈黙を守っているが、凛が放つ心理的圧力は確実に場を支配しつつあった。
玲の内心で冷静さを保ちながらも、微かな緊張が張りつめる。
「凛の手腕にかかれば、この沈黙も解ける……」
会議室の静寂は、まるで呼吸するかのように重く、しかし、確実に次の展開への道を照らし始めていた。
【2025年6月3日 午後11時59分】
【中央区役所・会議室302】
凛は静かに椅子に腰を下ろし、眼差しを相手に向けた。その視線は強く圧迫するものではなく、しかし芯に深い意図を秘めている。
「……今日は、あなたに話してもらうために呼びました」
凛の声は落ち着いており、低く、微かに温かみを帯びていた。
男性店員は最初、腕を組み、視線を落としたまま硬直していた。だが、凛の言葉の節々に、理論的かつ柔らかな誘導が織り込まれる。
「外部からの圧力や、工事の偽装について……全部、話していいんです。ここでは、あなたの証言だけが真実になります」
言葉を聞くたびに、男性の体がわずかに緩み、唇が震え始める。凛は間を置き、息をつくように優しく促す。
「誰も責めません。あなたが見たこと、感じたことを、そのまま教えてください」
沈黙が続く中、店員の目が一瞬、宙を泳いだ。次の瞬間、息を吐きながら重い口を開いた。
「……あの車両……工事の予定は、そもそもありませんでした……会社も知りません……」
凛は微かに頷く。言葉はまだ断片的だが、確かに外の偽装の真実が紐解かれ始めていた。
【2025年6月3日 午後11時59分】
【中央区役所・会議室302】
凛の声は、まるで深層へ落ちていく階段のように、緩やかで、しかし逃れられない力を帯びていた。
テーブルの木目がぼんやりと照明を反射し、沈黙の中で店員の鼓動だけが微かに響いている。
凛はゆっくりと椅子から身を乗り出し、相手との距離を半歩だけ縮めた。
その仕草は脅しではない。だが、逃げ道をふさぐような密度があった。
「あなたの選択は、もう一人の命を左右するかもしれません」
店員の肩がびくりと震える。
「あなたは脅された。ただ、それを話せば、あなた自身は罪を被ることなく済む。
今ならまだ、引き返せる場所にいる」
その言葉はまるで鍵だった。
店員の胸の奥に固まっていた“封印”に、静かに触れる合図。
店員は唇を噛みしめ、視線が泳ぎ、手のひらが汗で濡れていく。
凛の声がさらに柔らかく沈み込む。
「誰に言われたんですか。
“見なかったことにしろ”、と」
店員の喉が上下し、耐えきれないように絞り出すような声が漏れた。
「……“黒いスーツの男”です……。
店の裏口で待っていて……“余計なことを言うな”って……
“娘さん、無事だといいですね”って……」
その瞬間、部屋の空気が一段冷えた。
凛は一切表情を動かさない。
ただ、淡々と次の言葉を差し出す。
「その男は、どこへ行くと言っていました?」
店員は、震える指先で机の縁を掴みながら答えた。
「……“次は、区役所だ”……って……
“証拠は全部、地下で処理する”……って……」
そして、店員の目に、凛の瞳が静かに映り込んだ。
その目は、嘘を見抜く――そして、真実を吐かせる目だ。
「よく話してくれましたね。
これで、救える命があります」
その声を聞いた瞬間――
彼の最後の抵抗が、音もなく崩れ落ちた。
【2025年6月3日 午後11時52分】
【中央区役所・裏口通用階段前】
玲は影のように階段の踊り場に立ち、慎吾の報告を聞きながら周囲を見渡した。
薄暗い階段の壁にはわずかな水滴が垂れ、金属の手すりが冷たく光る。
重装備の警備員の存在が、無言の威圧として空気に沈んでいる。
「了解……」玲は低く呟く。
その声は冷静だが、内側で計算が動き、戦術のピースが一つずつ組み合わさっていく。
慎吾は小さく息を吐き、手元の端末を確認した。
「距離は約十五メートル。赤外線と圧力センサーで完全監視。突破には二手に分かれる必要があります」
玲は腕を組み、影のように静かに階段を下りる。
「……裏口は通る。だが、警備員の前に“幻”を置く」
慎吾が微かに眉を寄せる。
「“幻”ですか……?」
玲は微笑を浮かべず答える。
「目に見えるものだけが現実ではない。
彼らに見せるのは、俺たちの存在じゃない——混乱だけだ」
階段の奥、薄暗い裏口に二人の警備員の姿が見え隠れする。
だが玲の動きは音もなく、まるで空気に溶けるように静かだ。
慎吾の端末から小さな振動が伝わる。
「……後方も確認。異常なし。玲殿、進行可能です」
玲は深呼吸を一つし、手元の端末を操作。
瞬間、周囲の監視センサーに微細なノイズを送り込み、警備員の注意を分散させる。
「行くぞ」
低く呟くその声に、影のような静寂が応える。
廊下の暗がりに、二人の影が滑り込む。
【2025年6月3日 午後11時53分】
【中央区役所・裏口通用階段】
足音ひとつ立てず、空気の揺れすら最小限に抑えられた動き。
玲と慎吾の姿は、廊下の薄暗い光の中でほとんど影と一体化していた。
常人の目には映らぬほどの異様な静けさと緊張感を帯び、周囲の空気さえ凍り付くようだ。
「……夜鴉、展開」
玲の低い声に応えるように、慎吾は手元の端末で警備員の位置を再確認。
赤外線と圧力センサーのデータを瞬時に解析し、二手に分かれる突破計画を頭の中で再構築する。
彼らが属するのは、服部一族の中でも極めて特殊な任務に就く救出専門班——“夜鴉”。
その存在は公式記録に残ることはなく、影の任務を影のまま遂行することを宿命づけられている。
階段の踊り場を静かに降りながら、玲は目の前の警備員を確認。
鋭い観察眼は、微かな体の揺れ、呼吸のリズム、懐に潜む武器の存在までを一瞬で読み取る。
「慎吾、前方の動線に干渉ノイズを入れろ。注意を分散させる」
慎吾は頷き、端末操作で監視装置に微細なノイズ信号を送り込む。
壁の影に潜む警備員の意識が、ほんの僅か揺らぐのが端末のデータに表れる。
「よし、行く」
玲の低い声と共に、二人の影は廊下の暗闇に溶け込む。
無音の侵入、影のごとき動き——夜鴉の任務が、いま静かに、そして確実に始まった。
【2025年6月3日 午後11時55分】
【中央区役所・地下通用廊下】
廊下の空気は深い湖底のように重く、静まり返っていた。玲と服部慎吾の視線の先——暗がりの中、三つの影がひそやかに立っていた。
彼らはいずれも名を持たない。名を持たぬことは、影として生きることの宿命だった。「任務で名を呼ばれることは死を意味する」——それが代々受け継がれた影の戒律である。
三人はわずかに頷き、声を発さずとも意思を通わせる。役割は自然に展開され、闇に溶け込むようにその存在を消していった。
前衛、“影走り”。
廊下の落ちた光を裂くように、彼の影は一瞬で遠ざかる。俊敏性に特化した斥候で、肉眼では動きを追えない。全身を覆うのは細密な装甲繊維のスーツ。銃弾すら弾き返す強度を持つ。
足音はなく、息遣いもない。空気の層がわずかに震えるだけで、警備員二名の背後をすり抜け、すでに視界から消えていた。
玲は心の中で呟いた。
――速い。さすがだな。
次に、偽装担当、“霧織”。
彼女は“そこにいない者”として存在を薄めていた。指先の装置が淡く光る。光学乱反射、音響スクラブ、場の揺らぎ中立化——すべてが展開され、廊下の一角は映像も音も存在も消えた空間となった。
慎吾が小声で呟く。
「……さすがだ。これで後から何があったか誰にも追えない」
後衛、“残月”。
彼の歩みはゆっくりだが確実で、重みがある。安定のための重さであり、即応の格闘・制圧に対応できる構えだった。右手は常に腰に添え、盾にも刃にもなる準備が整っている。任務中の全員を守る、影の守護者。
彼が一歩踏み出すたび、床の微振動が静かに伝わり、仲間に警告を与える。
玲は心の中で思った。
夜鴉の中でも、最も重い任務を背負う男だ……
三つの影が配置についた瞬間、空調音さえ止まったかのような静寂が廊下に広がった。慎吾が玲に囁く。
「……突破可能。合図を」
玲はメモをポケットに収め、夜鴉の三人を見渡す。
「——行くぞ。目標は部長室。証拠の確保と、加藤衛への接触だ」
三つの影が一斉に動いた。
静寂の中、夜鴉の突入が始まった。
【2025年6月3日 午後11時57分】
【中央区役所・地下通用廊下】
慎吾が短く頷いた瞬間、空気がわずかに張り詰めた。
彼の合図を受け、“夜鴉”たちはすでに行動を開始していた。
言葉はいらない。
この三人にとって、声はむしろ邪魔になる。
指の動き一つ、わずかな足の角度、呼吸のリズム——それだけで意志が伝わる。
前衛の“影走り”が壁際に滑り込み、掌の薄型装置を監視カメラの真下に密着させた。
無音のまま、赤いランプが一瞬だけ明滅し、次の瞬間には闇に沈む。
カメラの映像は一時的な“固定フレーム”を送り続け、廊下を映すはずのモニターは誰も気づかぬ沈黙へと落ちた。
続いて“霧織”が指先で円を描く。
微弱な電波が広がり、通路全体に薄い膜のようにまとわりつく。
電波妨害——外部との通信はここだけ切り離された小さな“無音の領域”となる。
慎吾は喉の奥で短く息を飲んだ。
——見事だ。訓練だけでは作れない精度。これは、生きて帰るための技だ。
後衛の“残月”は一歩前に出て、腕をわずかに上げた。
それは「警戒を続けろ」の合図。
彼は廊下奥の闇に視線を向けたまま、玲にだけ届くような低い声で言った。
「——安全確保。進行可能」
玲は一瞬、夜鴉の背中を見つめた。
三人がそこにいるだけで、空気が変わる。
孤独な影の集団——だが、これほど信頼できる存在はない。
玲は小さく頷いた。
「……行こう。部長室へ」
その瞬間、影たちは一斉に滑るように前進した。
足音も気配も、廊下に残さないまま——ただ静かに、確実に、闇を切り裂いてゆく。
【2025年6月3日 午後11時59分】
【中央区役所・地下通用廊下】
照明は完全に切られ、廊下は漆黒に沈んでいた。
玲は赤外線ゴーグルを装着し、わずかに浮かび上がる熱源を追った。
ゴーグル越しに見えるのは、三つの人影——“夜鴉”の前衛、偽装、後衛だ。
それぞれが静止することなく、微妙な呼吸の揺れだけで互いの位置を確認している。
その視線の先、廊下の奥に一点の熱源が浮かんだ。
人の体温とは明らかに異なる、人工的な熱の帯。
玲は瞬時に理解する。
「……奴らだ」
壁沿いに潜む黒い影。動きはほとんどないが、存在そのものが警戒信号となる。
影の正体はまだはっきりとは見えない——だが、ゴーグルの微細な反射が、動きの輪郭を浮かび上がらせる。
慎吾が小声で指示を飛ばした。
「影走り、前方の障害物確認。霧織、電波の微調整。残月、背後カバー」
玲は深く息を吸い込み、視線を固定した。
一瞬の判断が、全員の生死を分ける。
廊下の奥、赤外線の光点は確かに動いた——動きはゆっくり、だが確実にこちらを意識している。
「……来るな」
玲の心の中で呟かれたその言葉とともに、廊下の闇が次第に重く、緊張で張りつめていった。
【2025年6月3日 午後11時59分】
【中央区役所・地下倉庫】
その言葉を合図に、服部の“夜鴉”たちは被害者の身体をそっと支え、慎重に引き起こした。
廊下の赤外線に浮かぶ影が、一瞬だけ揺れる。慎重な動きの中で、全員の呼吸が重なり、静寂は張り詰めていた。
だが、その静けさは次の瞬間に破られる。
「警報だ!」
倉庫中に耳をつんざく警報音が鳴り響く。
金属製の扉が震え、赤い非常灯が点滅する。霧のように広がる非常光が、暗がりに潜む者たちの姿を照らし出す。
影走りが即座に身を低くし、被害者の体を抱えたまま、壁沿いに回避動作を取る。
霧織は電波妨害装置を再起動し、監視システムの追加遮断を試みる。
残月は後方で盾となり、警報が発した情報をすべて遮断するよう警戒を固めた。
玲は冷静に状況を把握する。
「……想定外だが、動じるな。全員、手順通りに!」
赤外線ゴーグルに映る光点は、まだ動いている。
敵か、センサーか——識別できない。ただ一つ確かなことは、この警報によって時間が限られたということだった。
冷たい汗が額を伝う。闇と光、影と音が入り混じる倉庫で、脱出への秒読みが始まった。
【2025年6月3日 午後11時59分】
【中央区役所・地下倉庫】
倉庫の奥、シャッターの隙間から二人の男が滑り込む。
武装はないが、分厚い防弾ベストが光を反射し、その身のこなしは明らかに訓練されたものだった。
「黙殺班だ……」玲は低く呟く。
影走りが即座に反応する。被害者を抱えながらも、床の影を縫うように回避動作を取る。
霧織は電波妨害装置を強化し、外部通信の遮断を最大限に引き上げる。
残月は後方で体を低く構え、二人の男が接近する隙を決して与えない。
警報の赤い光が点滅し、倉庫内の視界は断続的に遮られる。
音の反響、足音、被害者の微かな動き。すべてが玲の冷静な観察の対象だった。
「動くな、被害者!」玲は低く叫ぶ。
その声が、作戦行動中の影鴉たちに合図となる。
秒単位で刻まれる時間の中、脱出への計算と判断が、倉庫の闇で静かに交錯する。
黙殺班の二人は、あらゆる情報を抹消する使命を帯び、無言のまま影の中を進む。
その訓練された足取りが、緊迫した倉庫内に冷たい圧力を生み出していた。
【2025年6月3日 午後11時59分】
【中央区役所・地下倉庫】
——白光。
——目眩。
——耳鳴り。
倉庫の空気が一瞬、異常な振動に包まれた。
影走りは被害者を抱えたまま身をひねり、光の閃きから身を守る。
霧織の装置が反応し、微細な光線と電磁ノイズを遮断しようと働く。
残月は後方で体勢を低く維持し、振動の中でも全員の安全を守る盾となった。
「……感覚が狂う……!」残月の低い声が通る。
耳鳴りはただの音ではなく、心理干渉の波として全員の神経を揺さぶっていた。
玲は目を細め、頭の中で瞬時に状況を解析する。
“白光の正体はフラッシュバンか。耳鳴りは電子干渉。”
被害者を守りつつ、倉庫内の敵位置を割り出す。
影の中で黙殺班の二人が姿をくねらせ、反撃の隙を窺う。
しかし玲と夜鴉たちは、緊迫の中で同期し、次の一手を静かに準備していた。
【2025年6月3日 午後11時59分】
【中央区役所・地下倉庫】
「退路確保!」
慎吾の低く力強い声が倉庫の暗闇を貫く。
玲は咄嗟に被害者を抱え、背後のシャッター方向へ向かって一歩を踏み出す。
光と音の干渉が続く中、夜鴉たちは一瞬も無駄のない動きで周囲を制圧し、道を切り開いた。
「影走り、前方! 霧織、左右の監視確認! 残月、後方カバー!」
玲の声は静かだが、チームに絶対の指示として伝わる。
全員がその声に同期し、まるで一体の存在のように動き出す。
倉庫内の白光と耳鳴りは消えないが、玲たちの進行を阻むことはできない。
無音の緊張と、わずかに漂う焦げた匂いの中、退路確保のための連携が、静かに、しかし確実に進行していった。
【2025年6月3日 午後11時59分】
【中央区役所・地下倉庫】
玲たちが退路を確保し、夜鴉が周囲を制圧する間、通信機が低く震えた。
「――こちら、K部門本庁。状況把握。対象者の生体信号、正常範囲内。敵の介入はまだ継続中。支援班を即座に派遣可能」
水無瀬透の落ち着いた声が、暗がりの倉庫に響く。
玲は受信機を耳に押し当て、静かに答えた。
「了解。退路確保中。霧織と残月で監視と後方をカバー。進入経路を完全に封鎖する前に、被害者を連れ出す」
「警報は解除不可能。電波妨害は継続中。敵の通信はほぼ遮断状態」
慎吾の低い声が追加で届く。
「わかっている。透、理央、凛。各自の解析班はリアルタイムで感情干渉層の安定を続行。被害者の心理状態を保持しろ」
通信が交わされる間にも、夜鴉たちは沈黙の連携で進み、白光と耳鳴りの中、退路確保のための動きを止めなかった。
【2025年6月4日 午前0時24分】
【服部一族・仮設医療ベース】
被害者は毛布にくるまれ、慎重に担架で運び込まれた。
夜鴉の三人は、周囲の警戒を緩めることなく、入口付近に配置される。
玲は被害者の呼吸と脈を確認しながら、低く呟く。
「大丈夫……落ち着いている。後は透たちが心理安定処置を行う」
水無瀬透は端末を操作し、感情共鳴層の波形を解析。
「感情干渉は最小限。心理的ショックの波及も抑制中。安定化完了まであと数分」
白峰沙夜は静かに被害者の側に立ち、手を添える。
「もう安全です。呼吸も落ち着いている……焦らずに」
外の闇には、夜鴉の影が微かに揺れる。
無言のまま彼らは拠点の周囲を巡回し、任務完了まで目を光らせていた。
【2025年6月4日 午前1時15分】
【都心・綾瀬家私邸 書斎】
玲は控えめにノックをし、扉の隙間から中を覗く。
書斎の奥、重厚な机に置かれた書類の山。その前に座る男──綾瀬雅弘が、淡いランプの光に照らされて落ち着いた表情を浮かべていた。
玲は息を整え、低く呼びかける。
「綾瀬雅弘さん。あなたの動きを知る者がいます。今夜、話を聞かせてもらいます」
綾瀬はゆっくりと顔を上げ、柔らかな笑みを浮かべた。
「玲君、随分と夜遅くに……どうしたのかな。まさか、私の小さな秘密を探りに来たのかね?」
玲の視線は一切揺れず、机の上の書類に置かれた“偽造工事許可証”のコピーを見据えた。
「……表向きの紳士は、ここまで演じられるものですか」
綾瀬は微かに眉を上げる。
「表向き、裏の顔……どちらも私だ。だが、真実はいつだって紙切れの上にしか残らない。君はそれをどう扱うつもりかな?」
玲の口元にわずかに緊張が走る。
「今夜、全てを明らかにする。逃げ道はありません」
外の闇を背景に、静かに張りつめた対峙の時間が流れ始めた。
【2025年6月4日 午前1時17分】
【都心・綾瀬家私邸 書斎】
玲の目は机上の書類に固定されたままだった。そこに積まれた偽造申請書や土地取得の記録、改ざんされた工事計画──それらは表向きの穏やかさとは裏腹に、綾瀬雅弘の行動のすべてを物語っていた。
「これが……過去に消された真実……」玲の声は低く、しかし確かな力を帯びていた。
綾瀬はゆっくりと椅子にもたれ、表情を崩さないまま、淡々と言った。
「真実……か。君がそう呼ぶものも、結局は誰かの目に映る幻想にすぎない。だが、君はそこまで辿り着いたようだね」
玲は書類を軽く叩き、静かに告げる。
「裏に潜む影も、もう見えています。あなたが築いた“罪の構造”──それを誰もが目にする時が来たのです」
沈黙が書斎を包む。外の夜は深く、だが玲と綾瀬の間に張り巡らされた緊張は、それ以上に濃密だった。
記録の裏に潜む巨大な影──そして、名と共に封じられた罪。それは、ただの書類やデータではなく、人々の生活と命にまで影響を及ぼす現実だった。
玲の指先が机の上の書類に触れる。
「今夜、すべてが明らかになります……」
その言葉とともに、闇の中で封じられていた“罪の構造”が静かに震え始めた。
【2025年6月4日 午前2時03分】
【K部門・資料分析室/第七編集卓】
蛍光灯の白い光だけが、深夜の編集室を照らしていた。
壁一面に設置されたスクリーンは電源を落とされ、静寂の中に電子音の残響だけが漂う。
玲は無言で編集卓の前に立つと、USBメモリを差し込んだ。
「……カチッ」
金属の小さな音が、異様なほど大きく響いた。
瞬間、モニターが淡く光り、複数のデータファイルが整列して浮かび上がる。
そこには──
・工事許可証の原本(未改ざん)
・区役所サーバーへの不正アクセスログ
・加藤総務部長の隠しメッセージ
・綾瀬雅弘が関与する“過去の緊急工事”一覧
・誘拐事件現場の消去された監視映像の復元データ
玲はゆっくり息を吸い、手元の再生キーを押した。
モニターが切り替わり、まず映し出されたのは──暗い地下駐車場の映像。
そこに、作業服姿の男が映っていた。だがその胸元には「工事業者」とは無関係な企業のロゴが隠しきれずに覗いている。
玲は小さく呟いた。
「……やはり、綾瀬の動きはここから始まっていたか」
次のファイルを開くと、区役所の内部ログが高速で流れ出し、赤い警告マークが連続して表示された。
【不正アクセス/外部端末】
【許可証番号:A-84-102 書換え】
【記録者:不明】
水無瀬透が残した分析メモも同時にポップアップする。
〈──アクセス元は“偽装中継サーバー”。意図的に追跡不可にされている。
ただ、この改ざん手法……五年前の“倉庫事件”で使われたものと酷似している〉
玲の表情に陰りが差す。
五年前──封印された真実。消された記録。
そして、あの子どもたちのトラウマ。
「……全部、繋がり始めたな」
玲は次のフォルダを開いた。
そこには“復元映像ファイル”と書かれた一つのデータがあった。
カーソルがその上に触れた瞬間、編集室の空気がわずかに震えた気がした。
暗闇で、玲の瞳がわずかに細められる。
「行くぞ……証拠を、見せてもらう」
再生ボタンを押した。
画面がほの暗く点灯し──
そこに映った“真実”が、玲の胸に重く沈んだ。
これはもう、個人の罪ではない。
“構造そのもの”が、人を呑み込み、消し続けてきたのだ。
玲は静かにヘッドセットを被り、録音を開始する。
「……第七記録、玲。
これより、綾瀬雅弘と区役所裏ルートに関する証拠の統合を開始する」
闇の底で、真実が光を帯び始めた。
映像の中の“ぼかされた顔”は、震える声で語りはじめた。
『……あの日、私は現場に行くはずじゃなかった。本来、担当者は別にいたんです。
だが直前になって、綾瀬専務に呼び出され……「急ぎで確認したい事がある」と言われました。』
男の肩が、カメラ越しでもわかるほど小刻みに揺れている。
『現場に着くと、すでに誰かが図面をいじっていて……私は、これはおかしいと思った。
だが、綾瀬専務は言いました。「何も見るな、ただサインをして帰れ」と。
私は逆らえなかった……。』
玲は眉を潜め、慎吾は画面の横で腕を組んだ。
映像は続く。
『……倉庫で私が見たものは、事故なんかじゃない。
意図的に、誰かが……』
そこで、音声が急にノイズにかき消される。
「……ここ、消されてるな」
慎吾が低く言った。
「ええ。でも、“誰かが意図的に何かをした”……その断片だけで十分です」
玲は映像を停止し、別のフレームを指でなぞる。
「それに、このファイル……削除された形跡がある。復元できたのは奇跡だわ。
——いや、“誰かが復元させた”と見るべきかもしれない」
慎吾は瞳を細めた。
「証言を残したかった、ってことか? それとも、我々に拾わせたかったのか……」
玲はゆっくりとUSBメモリを抜いた。
「どちらにせよ……綾瀬雅弘の周囲には、まだ見えない“裏の手”がある。
そして、この証言は事件の入口にすぎない」
彼女の言葉に、室内の空気がわずかに冷える。
「真実を隠したのはだれか……
“事故”に仕立て上げたのはなぜか……
そして、綾瀬雅弘が最も恐れていたのは——」
玲は慎吾と目を合わせた。
「“証拠より、記憶の目撃者”よ」
慎吾が息を呑む。
「ユウタのことか……」
玲は小さく頷いた。
「記録は消せても、記憶は消せない。
……だから綾瀬家は、ユウタを“見えない領域”から徹底的に排除しようとしている」
USBメモリが玲の手の中で、重い沈黙を帯びた。
「次は、“記録の消失点”そのものを洗う。
ここからが本番よ、慎吾」
夜の山の静寂の中で、玲の声だけが鮮やかに響いた。
時間:21:18
場所:中央区・旧配送倉庫内 隠し部屋(救出前の録音)
――録音が流れ出す。
スピーカーから聞こえてきたのは、湿った息と震える声。
狭い密室で録られた音特有の、壁に押し返されるような反響が混じっていた。
『……き、聞こえますか……? 本当に……録れてるんですよね……?』
男の声は不安と恐怖にかすれている。
『俺……やらされたんです……。“工事車両が来ていた”って……証言を……
でも……本当は……見てない……。車なんて……来てなかった……。』
録音の奥で、鉄の軋む音がする。
男が慌てて後ずさる、衣擦れの音が重なる。
『やめろ……やめろ……ッ……! そんなに扉を叩くな……!』
息が乱れ、男の声はさらに低く押し殺されていく。
『……俺を閉じ込めたのは、“加藤部長”じゃ……ない……。
あんたらが探してる……本当の黒幕は……別に……いる……。』
そこで一度、音声が途切れる。
玲は編集卓の前で音を巻き戻し、ノイズの下に潜り込んだ“別の声”を探ろうと再生し直す。
そして、小さな声が確かに録られていた。
『……“浅倉廉”……。
あいつ……俺をここに閉じ込めて……“綾瀬専務のために全部隠せ”って……。』
ガンッ——!
重い扉が叩きつけられる、震えるほどの衝撃音が響く。
男の悲鳴が混じる。
『来た……来た……来た……ッ……!
誰か……助……——』
ぶつり、と音声が切断された。
録音が沈黙したその瞬間、
玲は小さく息を吐き、低く呟いた。
「……決定的すぎるな。」
USBメモリのランプが、暗い編集室の中で静かに点滅していた。
――録音は、ここで終わっていた。
時間:21:26
場所:中央区役所・報道室(内部資料編集フロア)
報道室の空気が張りつめた。
蛍光灯の冷たい光が、無機質な机とモニターを照らす中——
画面には、いま再生を終えたばかりの“被害者の録音データ”が停止して映っていた。
その証言の重さに、編集スタッフたちは誰一人として口を開けず、息すら控えているようだった。
編集卓の近くに立つ一人の職員が、かすれた声を絞り出した。
「……これ、本当に……本物なんですか……?」
玲は答えず、USBメモリを慎重に抜き取ると、
持ってきた黒い封筒へ静かに収めた。
その所作のひとつひとつさえ、緊張で音を立てる。
別の編集員が椅子にしがみつくようにして言った。
「綾瀬雅弘……それに浅倉廉……
この二人の名前、うちの区の“臨時工事申請”で何度も出ています……」
玲は一歩近づき、低い声で遮った。
「ここで名前を並べるな。
今必要なのは暴露じゃない。“確認”だ。」
静かだが、確実に通る声。
その眼差しは、真実を見るための刃そのものだった。
記録班の女性が震える指でキーボードを叩きながら言う。
「ニュース素材……バックアップ完了しました……
でも……これを扱うってなると……その……」
玲は彼女の言葉を受け継ぐように呟いた。
「覚悟がいる。」
女性は、ゆっくりうなずく。
玲は報道室を見渡し、一人ひとりと視線を合わせる。
彼が目を向けるだけで、空気がさらに固まった。
「誰かが動かない限り、また声が消える。
その“また”を、これ以上増やすわけにはいかない。」
報道室の時計が、静かに秒針を刻む音だけを響かせていた。
プリンターが紙を一枚吐き出した瞬間、
その軽い音でさえ、全員の肩がびくりと揺れた。
玲は封筒を手にし、それをしっかりと握り込む。
「綾瀬雅弘の影に、一太刀入れる。」
男の声は静かで、しかし不動の決意を宿していた。
玲は扉の前で足を止め、
振り返らずに告げた。
「次の段階に行く。準備しておけ。」
そして扉を押し開けると、
彼の背中は決戦へ向かう兵のように重くも揺るぎなかった。
時間:21:47
場所:都内・ニュース24スタジオ(第1報道ブース)
“——この速報は、通常の番組を中断してお伝えします——”
澄んだアナウンサーの声がスタジオに響くと同時に、
赤い BREAKING NEWS のテロップが画面を走った。
照明が一段階強く当たり、
スタジオの空気が一瞬で“生放送の戦場”へと変わった。
メインキャスター席の背後では、
報道のスペシャリスト・**藤堂隼人**が
スタッフたちに矢のような指示を飛ばしていた。
「カメラ1、固定。カメラ2、右から寄れ。音声、ラインBを優先!」
「速報パネル、準備急げ!背景映像は“行政不正”のテンプレートを差し替えろ!」
「編集卓、玲さんの持ち込んだファイル——第一報で使うのは“音声A-03”だ!」
その声は鋭さを帯びていたが、妙に落ち着いていた。
藤堂は、混乱を“制御する天才”だった。
プロデューサーが駆け寄り、息を飲むように問いかける。
「藤堂さん……本当に流すんですか?
相手は綾瀬家ですよ……?」
藤堂は資料を片手に、半ば皮肉に口角を上げた。
「綾瀬だろうが誰だろうが——
“国民が知るべきこと”は止められない。」
その一言で、周囲の動きが一段と早くなる。
カメラマンがレンズを拭き、
音声スタッフがミキサー卓をリセットし、
編集担当が玲から受け取ったUSBのデータを慎重にチェックする。
同時に、スタジオ横のガラス越し。
小さなモニターには LIVE の文字が赤々と点滅していた。
そして——藤堂がアナウンサー席の横へ歩み寄る。
「切り替え三秒前。……行くぞ。」
指が無線のスイッチを押す。
「メイン、オンライン!」
スタジオに緊張の空気が走る。
アナウンサーが読み上げる声が、
全国に、リアルタイムで放たれた。
“——本日午後、中央区行政の一部で
重大なデータ改ざんの疑いが浮上しました。
現場の映像と証言を交えてお伝えします——”
藤堂は腕を組み、モニターの光を受けて鋭い瞳を細めた。
その横顔は、
すでに覚悟を決めた“報道という刃”そのものだった。
時間:21:51
場所:ニュース24スタジオ・第1報道ブース
スタジオのモニターが、切り替わる。
映し出されたのは——中央区役所地下駐車場の“偽造工事車両”写真、
そして玲が差し出した“改ざんログ”を示すファイル名の一覧。
アナウンサーの声が、わずかに震えていた。
「……関係者によると、
今回の不正に深く関与していた疑いのある人物として、
綾瀬雅弘氏の名が挙がっています。」
スタジオの空気が、一瞬で変わった。
照明の熱さすら、肌に刺さるように感じられるほど。
モニター奥、
報道スペシャリスト藤堂は、すでに次の映像を送り出す準備をしていた。
目は鋭く、まるで獲物を追いつめる狩人のようだ。
「よし……行け。隠すな。全部出せ。」
スタッフが緊張の面持ちでボタンを押す。
——映像3、再生開始。
画面には、匿名で処理された“被害者証言”のシルエット。
だが声の震えと息遣いだけで、胸の奥に重みが伝わってくる。
『……あの日、“緊急工事”と名乗る男たちが来て……
私をトラックに押し込み……
許可証を見せられたけど、あれ……偽物で……
“綾瀬の指示だ、黙っていろ”と……言われました……』
アナウンサーが言葉を飲み込む。
藤堂は即座に補足テロップを出させた。
【独自】行政データ改ざんの指示系統に“綾瀬雅弘”の名
【証言】匿名被害者「綾瀬の指示と言われた」
画面下のSNS速報欄が一気に騒ぎ始める。
《綾瀬ってあの綾瀬家?》
《行政巻き込んで誘拐?嘘でしょ》
《闇深すぎる》
《もっと続報を》
藤堂が静かにモニターの前へ歩き、息を吸った。
「——ここまでだな。
だが、“名前”はもう出た。
一度光にさらされた影は、もう二度と隠れられない。」
アナウンサーが続ける。
「本件について、綾瀬雅弘氏側からは
“事実無根でありコメントは差し控える”との連絡が入っています。」
藤堂は、冷ややかに笑った。
「差し控える……か。
隠れていられる時間は、そう長くない。」
照明の熱、スタッフの息遣い、
ライブ放送の緊張が渦巻く中——
“綾瀬雅弘”という名が、ついに光の中へと引きずり出された。
その影に潜む“構造的な罪”が、
ようやく世界の目に触れ始めたのだった。
時間:21:56
場所:中央区役所・会議室302
九条凛は無言で録音機をテーブルの上に置いた。
その動作は慎重で、まるで触れれば壊れてしまいそうな精密機械を扱うかのようだった。
「……これで、あなたの言葉も記録として残ります」
凛の声は低く、しかし確実に届く。部屋に充満した緊張をそっと和らげるようだった。
玲は少し頷き、テーブル越しに座る証人に視線を向ける。
「話すことに不安を感じるのは当然だ。だが、今ここに残せば、後で真実を示す証拠になる」
証人は一瞬ためらった。指先がテーブルの縁を握りしめる。
凛は静かに手を差し伸べ、やさしいが確固たる口調で続ける。
「あなたの言葉は、誰かの命や未来を守る力になる。安心してください——私たちは守ります」
深呼吸のあと、証人はゆっくりと口を開いた。
録音機のランプが赤く点滅し、声が部屋に穏やかに響き渡る。
外の廊下からかすかに足音が聞こえるが、凛は気にも留めず、ただ、証人の言葉を静かに導いた。
室内は緊張と静寂が交錯する中、記録される声だけが確かに存在した。
時間:21:58
場所:中央区役所・会議室302
「……私の名前は、結月。中学二年生です。」
声は震えていたが、凛の落ち着いた眼差しに支えられ、言葉は途切れずに紡がれた。
「あの日、私は“連れていかれて”、閉じ込められました。」
彼女の指先がテーブルの縁を握りしめ、かすかな白さを帯びる。
「場所は……わかりません。でも、壁の向こうで何かを運ぶ音がしていて……」
微かに息をつき、肩を小さく揺らす。
「男の人たちが、“これは工事だ”って言ってた……」
その一言には恐怖と混乱、そして封じ込められた記憶の痛みが混ざり合っていた。
録音機のランプが静かに赤く点滅し、凛は黙ってうなずく。
「大丈夫、結月さん。あなたの言葉は、必ず真実として記録されます——」
部屋の空気は緊張と静寂の中で揺れ、外界の雑音は遠のき、ただ彼女の声だけが鮮明に残った。
時間:21:58
場所:中央区役所・会議室302
「“黙ってろ”って言われて、最初は……怖くて、何も言えなかった。」
結月の声は細く、しかし確実に震えていた。
彼女の両手は膝の上で絡まり、解けてはまた強く握り直される。
「でも、私の他にも、誰かが泣いてる声がしたんです。」
その瞬間、室内の空気がわずかに揺れた。
凛はただ頷き、結月の視線を静かに受け止める。
「それで……思ったんです。」
結月は小さく息を整え、搾り出すように続けた。
「私が黙ってたら、次に泣くのは——私じゃない“誰か”かもしれないって……」
録音機の赤いランプがまた一度、静かに瞬く。
その光は、彼女の震える決意を記録するかのようだった。
凛はゆっくりと手を伸ばし、結月の前に置かれた水のグラスをそっと近づけた。
「よく話してくれました。あなたの勇気が、誰かの未来を守るわ。」
会議室302。
外では夜風が窓を揺らし、しかしこの小さな部屋の中で——
一人の少女の“真実”が、確かに世界へ向けて動き出していた。
時間:22:01
場所:中央区役所・会議室302
「だから、話します。」
結月は震える喉を押さえつけるようにして言った。
声は弱々しいのに、不思議と揺らぎがなかった。
録音機のランプが、またひとつ規則正しく点滅する。
「これは、私の“記憶”じゃなくて……」
言葉を探すように、結月は小さく息を吸った。
その指先には、何度も握りしめられた跡が残っている。
「私の“声”です。」
凛の眉がわずかに上がる。
嘘では届かない、嘘では守れない——その意味を、彼女は理解した。
「誰かに伝わるように。」
涙はまだ落ちない。
落とす前に、真実を先に外へ押し出すように。
「嘘じゃないって、ちゃんと、分かってもらえるように。」
その瞬間、会議室302の空気は凛と張りつめ、
窓の外の風でさえ、その場に立ち止まったように静まり返った。
凛はゆっくりと視線を落とし、録音機に手を添えた。
「結月さん。あなたの声は、必ず届きます。必ず。」
重く閉ざされていた真実の扉が、少女の“声”によって、確かに軋みながら開き始めていた。
時間:22:02
場所:中央区役所・会議室302
その瞬間——
録音の最後の言葉が静かに途切れ、赤い録音ランプがすっと消えた。
会議室302の空気は、まるで一枚の薄氷の上に立たされたように張りつめていた。
誰も息をしない。誰も、椅子をきしませない。
ただ、結月の残した“声”の余韻だけが室内を支配していた。
玲も凛も、服部慎吾でさえ、同じ確信にたどり着いていた。
——今の言葉は、決定的だ。
怯えながらも折れず、圧力に押されながらも消えない、あの真っ直ぐな訴え。
それは、曖昧な証言ではなかった。
脅され、閉じ込められ、それでも誰かを守ろうとした少女の、揺るぎない“意思”そのものだった。
誰もが悟っていた。
結月の“声”が、
隠された工事、偽造された許可証、封じられた被害者たち——
その全てをつなぎ合わせ、事件の全貌を切り拓く“鍵”になったのだと。
玲は静かに息を吐き、録音機から手を離す。
「……これで動ける。」
その声は低く、しかし凛とした力があった。
凛がわずかに微笑む。
「ええ。これで“沈黙”は終わりです。」
結月の小さな勇気は、今この瞬間、
巨大な罪の構造にひびを入れたのだった。
時間:22:15
場所:民間放送局・速報編集フロア
モニターが一斉に明滅し、報道チームは戦場のような緊迫感の中で動き続けていた。
「映像、第三カメラに切り替え! モザイク処理、レベルを2段階上げろ!」
「音声ライン、揺れてる! 補正入れて——はい、今だ、流せ!」
スタッフたちの声が飛び交い、編集卓の上には資料とUSB、匿名提供のデータが散乱している。
だが誰も片付けようとしない。
一秒たりとも、画面から目を離す余裕がないのだ。
藤堂はヘッドセットのマイクを口元に寄せ、鋭く指示を飛ばした。
「証拠映像、リアルタイム同期完了。
——よし、全国放送に乗せる。行け!」
大型モニターに切り替わった映像は、
倉庫内の隠しカメラで撮られた“緊急工事”偽装の瞬間。
作業員を装った男たちが重い荷物を運び、何度も周囲を警戒する姿——
その全てが画面に鮮明に刻まれていた。
ナレーションが静かに流れ始める。
「これは、本来存在しない“工事”の記録です。
区の許可証は偽造され、現場は不正に封鎖されました。」
続いて、ゆっくりと切り替わる——
結月の証言映像だ。
ぼかし越しとはいえ、その震える声は視聴者の胸を掴んだ。
『……私、連れていかれて……閉じ込められて……』
スタジオの空気すら沈黙した。
その向こう、全国の家庭でも同じ沈黙が広がっていることが、誰にでもわかった。
藤堂が呟く。
「……これは、止められない。」
玲が提供したデータと、服部一族の救出作戦の結果。
それらが一つの線となり、
“生きている証拠”として全国へ突きつけられていく。
視聴者は画面に釘付けになり、SNSは瞬時に爆発し、
“綾瀬雅弘”の名前が急激に検索ワードを駆け上がった。
そして——
報道フロアの空気を震わせる緊急アラームが鳴り響く。
「外部からアクセス! 番組妨害の試みです!」
誰かが叫んだ。
だが藤堂は一歩も引かない。
「構わん。——続けろ。止められるものなら、止めてみろ。」
光と闇の攻防は、今まさに全国の電波の上で始まっていた。
時間:22:21
場所:民間放送局・速報編集室「ライブ1」
大型マルチスクリーンが一斉に切り替わり、報道フロアの空気が一段と重くなる。
藤堂が低く叫ぶ。「画面構成そのまま維持! 三分割を全国送出に重ねろ!」
技術スタッフたちが息を呑む中、三つの証拠が同時に全国に投げ込まれた。
画面1:地下倉庫内監視映像 事件当日 16:12
薄暗い倉庫の通路。結月と思われる小柄な少女が、フードを深く被せられ、両脇から男二人に支えられるように連れられていく。
男たちの装備は素人ではない。黒の防弾ベスト、無線機、防護手袋。一瞬、カメラを見上げた男の瞳が光を反射した。
藤堂がモニターに顔を寄せる。「……完全に実働班の動きだな。誰が雇った?」
誰も答えられなかった。
画面2:市役所内部流出メール
差出人:綾瀬雅弘(副市長)
件名:不要記録の早期処理について
本文には編集室の空気を凍らせる言葉が並んでいた。
「例の対応は“緊急工事扱い”で手配済。証言者の管理は久保に一任。報道対応については、潮見側の動きを警戒せよ。」
藤堂が息を呑む。「……これを、よくここまで持ってきたな、玲。」
彼は震える手で画面の一部をズームアップする。“証言者の管理”——それが何を意味するか、明白だった。
画面3:結月 証言映像
スタジオではない。九条凛の静かな声と、沙耶の寄り添う手。明らかに非公開の安全な場所で撮影されたものだ。
結月は震えながら、それでも前を見た。「“副市長”って言われたんです……『お前の話は世の中に出させない』って。私は……ただ、助けを呼ぼうとしただけなのに……」
沙耶がそっと肩に触れる。凛は無言で頷き、彼女の言葉を促す。「……誰にも届かないなら、ここで話します。私の声を……誰か聞いてください——」
その瞬間、編集卓のオペレーターが叫ぶ。「SNS側が自動拡散に入りました! 局公式アカウントが、証拠映像を同時配信開始!」
「共有数、上昇! 1万……3万……5万突破!」
「トレンド1位、“未成年監禁事件”。2位、“結月ちゃん”。3位、“副市長”。」
報道フロアの空気が震える。誰もが分かっていた——もう後戻りはできない。
全国へ。世界へ。彼らが隠した“真実”は、今、光にさらされたのだ。
時間:22:24
場所:民間放送局・ライブスタジオ
スタジオのライトが淡く揺れ、司会者の顔が画面に映る。視線はカメラを越え、画面に映る映像を追いかけている。
「……ええと……こちらは……通常放送を中断してお伝えしております。現在、全国に緊急配信中の映像は……未成年監禁事件に関連するもので……被害者の安全は確認されています……が……状況は非常に深刻です……」
司会者の声は、時折途切れ、微かに震えていた。手元の原稿を握る指先もわずかに揺れている。
画面の端でプロデューサーが身振りで合図を送り、スタジオカメラが被害者証言映像へゆっくり切り替わる。
「……視聴者の皆さまには、これからも最新情報を随時お届けいたします……どうか落ち着いてご覧ください……」
その声は、全国の視聴者に向かって発せられたが、同時に、事件の影の深さを静かに告げていた。
誰もが知っていた——この瞬間、隠された真実が一気に表舞台へと押し出されることを。
時間:22:26
場所:民間放送局・ライブスタジオ
司会者はカメラの向こうをまっすぐ見据え、震えを抑えながらも確信に満ちた声で語った。
「この放送は……一時的に停止される可能性があります。しかし、重要なことを皆さまにお伝えします。証拠はすでに第三機関へ送信済みです。私たちは、この国の“記憶”を風化させません」
スタジオ内は静まり返り、スタッフたちは息を潜めてその言葉に耳を傾ける。
「声を奪われた者たちの代わりに、今ここに、事実を提示します。映像、音声、文書……すべてを示すことで、誰もが知るべき真実を、確実に伝えるのです」
カメラのレンズが微かに光を反射し、スタジオの空気は張りつめた緊張と静かな覚悟に満ちていた。
時間:22:29
場所:全国SNSモニタリングセンター
モニタリング室の巨大スクリーンに、リアルタイムでタグの勢いが表示される。
#結月、#副市長の闇、#玲が動いた——わずか180秒で数十万件の投稿が殺到し、ランキングは激変した。
解析担当者が息を詰めて画面を見つめる。
「……これ、もう全国規模です。投稿速度、拡散率、どれを取っても前例がありません」
隣に立つ上司が静かに頷いた。
「事実が、SNSを通して一気に公共の知識になった。これはもう、止められない」
部屋中に緊張と興奮が混ざり合い、誰もがこの瞬間が歴史の分岐点であることを理解していた。
時間:2025年6月3日 午後6時15分
場所:玲探偵事務所・作戦室
橘奈々は手元の端末を見つめ、冷静な指先で画面を操作した。
「この少女はただの被害者ではない」と、彼女は小声でつぶやきながら、文章を打ち込む。
「彼女の証言が、ひとつの行政を揺るがす。見てください——この映像を。これは虚構ではない。誰かが真実を隠そうとし、誰かが声を挙げている」と、文字が画面に流れ、投稿文が形を成す。
最後に目を細め、キーボードを打つ音が静かな室内に響く。
「そして今、それを支える者が動いた」
ハッシュタグを添え、奈々は送信ボタンを押した瞬間、画面が一瞬光を帯びる。
端末の向こう側では、全国のSNSでリアルタイムに投稿が拡散され始め、閲覧数やコメントが瞬く間に膨れ上がっていった。
時間:2025年6月3日 午後6時17分
場所:玲探偵事務所・作戦室
投稿の爆発的な反響を確認した奈々は、端末を置き、深く息を吸った。
画面には通知が雪崩のように流れ込み、世論の波が動き出しているのが肌でわかる。
その中で、奈々はヘッドセットに手を添え、低く短く指示を落とした。
「……第二波の準備を」
わずかな沈黙が走る。
すぐに、別室で状況を監視していた沙耶が応答する気配が聞こえる。
作戦室の緊張が、さらに一段、研ぎ澄まされていく。
奈々は椅子から立ち上がり、巨大モニターに映る“拡散グラフ”に目を向けた。
ピークが迫る。
その瞬間を狙って、次の一撃を叩き込むために。
時間:2025年6月3日 午後6時45分
場所:玲探偵事務所・作戦室
奈々は画面を指でなぞりながら、被害者リストを確認する。
沈黙してきた少女たちの名前は、すべて仮名で処理されているが、細部の記録は鮮明に残っていた。
「R.K.、16歳……女子。記録上は2019年5月、区立一時保護施設で一時保護されて、保護者の迎えで帰宅となっている」
奈々は静かに読み上げる。
「でも実際は、“親族の要望”という名目で、民間の調整団体を経由して郊外の研修所に再配置されていた。あの団体……副市長が外郭支援していたNPO法人ね」
画面には証拠資料が次々に映し出される。
手書きの少女の手紙、当時の施設職員とのやり取りを記録した3分20秒のボイスメモ、そして“帰宅時刻”に施設に残されていた映像。
奈々は拳を軽く握りしめ、低くつぶやく。
「……これが、沈黙してきた声の一つ。けれど、今はもう、無視できない」
背後のモニターでは、SNS上で結月の証言が拡散されるリアルタイムの様子が表示されていた。
作戦室内に張りつめる空気が、次の“第二波”への決意を静かに告げていた。
時間:2025年6月3日 午後6時52分
場所:玲探偵事務所・作戦室
奈々は資料フォルダを開き、次の被害者の情報を確認した。
「T.Y.、13歳……男子。記録上は2021年8月に失踪届が提出され、数日後に保護されたことになっている。報道も一切なし」
画面に映し出される行政記録は、簡潔に事実だけを書き残す体裁だった。
「でも実際には、“問題行動のある子供”として、学校が行政窓口と非公式に連携し、移送されていた。移送先は『再指導プログラム』と呼ばれる非公開施設。名義上の運営は、副市長直属の担当課」
奈々は音声ファイルを再生する。
拘束中のT.Y.が録音した内部音声が流れ、施設職員の実名が明瞭に聞こえた。
「さらに、行政への移送記録に付随する未公開タスク文書の抜粋もある……」
彼女は書類を指でなぞり、目を細める。
「これが……隠された声のもう一つ。表向きは消えた事実でも、確実に記録として残っている」
モニターの端では、結月の証言が全国へ広がり続ける映像が、静かに、しかし確実に室内の緊張感を高めていた。
時間:2025年6月3日 午後7時15分
場所:玲探偵事務所・作戦室
奈々は次の被害者の資料を画面に映し出した。
「M.A.、17歳の女子。記録上は2020年11月、都立高校で頭部打撲……報告書では『自傷行為』と処理されている」
画面の映像には、校内の様子が淡く映し出されていた。
奈々は手元のリモコンを操作し、修復された映像データを再生する。
「でも実際の経緯は違う……加害者は、副市長と近い議員の息子を含む生徒2名。校内カメラ映像は“故障により未記録”とされていたが、報道部が修復ファイルを復元した」
奈々は次に、ボイスレコーディングを再生する。
養護教諭の落ち着いた声が、事件当時の状況を淡々と語っていた。
「さらに、被害届を提出しようとした母親の証言書もある……阻止された記録が残っている」
玲は画面を見つめ、短く頷いた。
「……これが、表向きの記録と現実の差。やはり、副市長の影響力が及んでいた証拠だ」
部屋には再び静寂が訪れる。だが、結月の声と奈々の説明が、室内に緊張感を保たせ続けていた。
時間:2025年6月3日 午後7時42分
場所:玲探偵事務所・作戦室
奈々は深呼吸し、次の資料を慎重にスクリーンに映した。
「次はK.N.、15歳の女子です。記録上は2023年3月、深夜徘徊で補導され、児童相談所へ“一時移送”とされています」
画面には、夜の街を走る移送車両のGPSログが映し出される。軌跡がリアルタイムで再生され、通常の児相ルートとは異なる迂回経路が示されていた。
「しかし実際は……NPO職員、元市役所職員によって連れ去られ、数日間所在不明でした。後に市の“保護支援”として届け出され、記録が整えられています」
奈々はスクリーンを切り替え、K.N.の学校ノートを映した。
手書きで詳細に記された日記には、恐怖と混乱の感情が赤裸々に綴られていた。
「これが手記です……児相職員の匿名証言もあります。音声データは、当時の状況をかなり具体的に語っている」
玲は静かに頷く。
「記録では“一時移送”に過ぎない。しかし現実は……行政の外郭を通じた秘密の移動。副市長の影響が、またここにも及んでいる」
室内には、映像と音声の余韻が静かに漂い、真実の輪郭を一層際立たせていた。
奈々と玲のチームは、すべての被害者に同意を得た上で、仮名・匿名処理し、法的支援団体および第三者報道機関と連携して公開準備を進めている。
時間:2025年6月3日 午後7時57分
場所:玲探偵事務所・作戦室
奈々はモニターを指差し、沈着な声で告げた。
「SNSでは、すでに次のハッシュタグが急浮上しています」
スクリーンには、投稿が時系列で並び、リツイートやシェアの数が刻一刻と増えていく様子が映し出される。
「#結月
#副市長の闇
#記録が証明する
#黙らされた声
#玲が動いた」
奈々は言葉を続ける。
「一つ一つが、匿名の声ではなく、記録と証言に裏付けられた事実です。全国の目が、今、この事件に集中している」
玲は静かにモニターを見つめ、指先でスクロールを止めた。
「影響は想像以上だ……しかし、これで事態は確実に動き出した。次の一手を、慎重に、確実に」
室内の空気は緊張と期待に満ち、まるで次の波を待つ海面のように静かに揺れていた。
時間:2025年6月3日 午後8時15分
場所:テレビ局・特設報道スタジオ
壇上の照明が、一斉に綾瀬雅弘の顔を真っ白に照らした。
スタジオ内は息を飲む静寂に包まれ、カメラのレンズが彼の微かな動揺を逃さぬように捉えている。
綾瀬は額にうっすらと汗をにじませ、視線を落としたまま言葉を探す。
だが、周囲の熱視線の前では、一言も紡げない。
報道スタッフの手元では、映像がリアルタイムで全国へ配信されていた。
「動揺が、そのまま視聴者に伝わっています……」
ディレクターの低い声が、スタジオの緊張感をさらに際立たせる。
綾瀬雅弘の唇が、わずかに動く。
「……これは、誤解です……」
しかし、カメラは逃さない。瞳の奥に隠された焦燥と恐怖を、確実に記録していた。
時間:2025年6月3日 午後8時18分
場所:テレビ局・特設報道スタジオ
画面に暗い部屋の映像が映し出される。
監視カメラの俯瞰映像越しに、机の前に座る綾瀬雅弘の姿が見える。
カメラはその動きを捉え、明確な音声がスタジオに流れ始めた。
「……都の処理は、例のNPOに回せ。“再指導対象”で出しておけ」
「……あの子の件も、報道には出すな。問題視されれば、“家庭環境の問題”として片づけろ」
「……誰にも言わせるな。“私の名”は、絶対に出るな」
スタジオ内は一瞬、息を飲む静寂に包まれた。
その後、低いざわめきが広がる。
キャスターもスタッフも、目の前に映る“権力者の指示”が現実に行われていた事実の重みに息を呑むしかなかった。
時間:2025年6月3日 午後8時22分
場所:テレビ局・特設報道スタジオ
画面が切り替わり、薄暗い部屋に座る結月の姿が映る。
フードを脱ぎ、髪をきちんと整えた中学二年生の少女が、静かに前を向いていた。
九条凛と沙耶が肩にそっと手を置き、支えている。
結月は小さな声で、しかし確かな意志を込めて語り始めた。
「……私の名前は、結月。中学二年生です。
あの日、私は“連れていかれて”、閉じ込められました。場所はわかりません……でも、壁の向こうで何かを運ぶ音がしてて……男の人たちが、“これは工事だ”って言ってた……」
その瞳には恐怖だけでなく、決意が宿っていた。
画面を見つめる全国の視聴者に向かって、少女は続ける。
「“黙ってろ”って言われて、最初は怖くて、何も言えなかった。
でも、私の他にも、誰かが泣いてる声がしたんです。
それで……思ったんです。私が黙ってたら、次に泣くのは——私じゃない“誰か”かもしれないって……」
結月の声は揺れながらも、確実に伝わる。
その瞬間、誰もが理解した——この少女の証言が、封じられた真実を照らす光になることを。
時間:2025年6月3日 午後8時28分
場所:綾瀬雅弘自宅・応接間
綾瀬雅弘の背後、壁際に立つSPの一人が、無線機に手を伸ばし低く囁く。
「……対象、動きあり。連絡を開始します」
その瞬間、応接間の薄暗がりから、影のように静かに三つの影が滑り込んできた。
服部一族の隠密班“夜鴉”だ。
前衛の“影走り”が軽やかな足取りで最短距離を進み、
偽装担当“霧織”は周囲の赤外線センサーや監視カメラを瞬時に無力化。
後衛の“残月”は、静かに体を低く構え、万一の衝突に備える。
誰も音を立てず、ただ空気の流れだけがわずかに揺れる。
夜鴉の動きはまるで現場の空気そのものを操るかのようで、SPも綾瀬本人も、その気配に気づくことはなかった。
玲は通信機で慎吾に短く報告する。
「影、潜入完了。目標周囲の状況を確認、異常なし」
沈黙の中、時間は緊張で止まったかのように感じられた。
時間:2025年6月3日 午後8時45分
場所:全国ニューススタジオ
スタジオの空気は張りつめ、アナウンサーの声だけが微かに震えていた。
「……本日、未成年監禁事件に関する緊急速報です。続報が入り次第お伝えします——」
画面には結月の証言映像が繰り返し映し出され、SNSでは瞬く間に拡散される。
#結月 #副市長の闇 #玲が動いた
ディレクター席では、報道班がリアルタイムで各局の配信状況を確認し、次々とカメラを切り替える。
「映像、ライブで各チャンネルへ送信。SNSも同時配信開始」
視聴者のスマートフォンやPCが振動し、通知音が一斉に鳴り響く。
街中の人々は、ニュースの内容を即座に知り、驚きと恐怖の入り混じった表情を浮かべていた。
玲は画面越しに、事件の全貌が国民の目に晒されていくのを静かに見つめる。
「これで……誰も黙らせることはできない」
時間:2025年6月4日 午前7時15分
場所:玲の探偵事務所
朝の光が窓から差し込み、机の上に広げられた資料を淡く照らしていた。
玲は深呼吸をひとつし、コーヒーカップに手をかける。
「昨夜の拡散で、状況は国民レベルに届いた。だが、これで終わりではない」
机を囲む仲間たちも、静かに頷く。
九条凛は書類を整理しながら、声を低くした。
「次は、法的手段と内部告発の準備です。証拠は揃った。後は……誰に届かせるか」
水無瀬透はモニターに目を落とし、最新のデータを確認する。
「関係者の動きもチェック済み。警戒レベルは最大に保つ必要があります」
玲は窓の外、街を見下ろしながら小さく呟く。
「声を奪われた者たちの代わりに、今度は僕たちが動く番だ」
外では、初夏の光が街を柔らかく包み込み、風が静かに木々を揺らしていた。
それは、嵐の前の静けさでもあり、新たな戦いの始まりでもあった。
時間:2025年6月4日 午前8時05分
場所:都内放送局 報道スタジオ
各局のニュース画面が次々と切り替わり、通常番組のBGMは消え、緊急速報の赤い帯が画面上を駆け抜けた。
玲は藤堂の横に立ち、モニターに映し出された映像を見つめる。
「今回の映像と証言は、単なる報道ではありません。被害者の声を、全国に届けるための“記録”です」
藤堂は静かに頷き、ディレクターに指示を送る。
「すべてのチャンネルで同期再生を。SNS連動も同時に開始する」
画面には結月の証言が流れ、監視カメラ映像、行政資料、メールのスクリーンショットが続けざまに映し出される。
視聴者はリアルタイムで、封印されていた事件の全貌を目にすることになった。
玲は深く息を吸い、画面に映る自分の手元を見つめる。
「これで、真実は隠せない。声を奪われた者たちが、ついに届く──」
外では街路樹が初夏の風に揺れ、ニュース速報の音声が建物の隙間を駆け抜けていった。
時間:2025年6月4日 午前8時12分
場所:都内放送局 報道スタジオ
モニターに次々と映し出される4名の行政職員の顔写真と実名。肩書きも明記され、視聴者の目に疑いようのない形で提示された。
「こちらの方々は、今回の一連の不正対応に直接関与していたことが確認されました」と、藤堂の声がスタジオに響く。
玲は淡々とモニターを見つめながら、手元のタブレットで各職員の行動記録や証拠映像を再確認する。
「報道はここまで。あとは市民一人ひとりが、判断することになります」
画面には各職員が関わった事案の簡単な概要も表示される。学校や児童施設、行政手続きの改ざんや不正移送の経緯などが、時系列に沿って整理されている。
ニュースキャスターの声が震えながらも、確実に情報を伝える。
「これまで黙されてきた声が、今、全国に届けられます。行政の闇が露わになった瞬間です」
スタジオの空気は緊張に包まれ、視聴者の反応を示すSNSのトレンドがリアルタイムで画面下に流れ始めた。
時間:2025年6月4日 午前8時35分
場所:都内放送局 報道スタジオ
玲はモニターの前で静かに立ち、マイクに向かって語りかけた。
「今回明らかになった4名の職員――永田直樹、村井千景、萩原泰生、柿沼聖司。彼らの行動は決して許されるものではありません。しかし、私たちは罰を与えるだけで終わらせてはならない。反省と更生の機会を与え、二度と同じ過ちを繰り返さない社会を作ることこそ、真の正義です」
カメラは玲の真剣な表情を映し出す。声は穏やかだが、意志の強さが画面を通して視聴者に伝わる。
「私たちは責めるだけでなく、改善の道を示す。過去の罪が、未来の教訓となるように。誰もが声を持ち、誰もが守られる社会のために――私はその道筋を、これからも追い続けます」
モニター下のSNSトレンドには、新たに「#玲が願う更生」「#行政の再生」のタグが瞬時に現れ、全国の人々の関心を集め始めた。
時間:2025年6月4日 午前9時10分
場所:都内・各地のSNSモニタリング画面
玲の発信直後、SNS上では瞬く間に情報が拡散した。
ツイッター、インスタグラム、ニュースアプリのコメント欄は、同時多発的に投稿が積み重なる。ハッシュタグは急速にトレンド入り。
#玲が願う更生
#行政の再生
#結月の声
投稿例:
「玲さんの言葉、胸に響きました。罪を罰するだけでなく、未来に生かす視点。#玲が願う更生」
「結月ちゃんの勇気と玲さんの行動が、行政を変えるきっかけになるはず。#行政の再生」
「まだ怒りは消えないけど、誰かをただ責めるだけじゃなく、未来を考える玲さんの判断に感動。#結月の声」
海外メディアも注目し、英語・中国語・韓国語などで翻訳された投稿が拡散。
市民や学生、報道関係者の間で討論が巻き起こり、街頭のニュース掲示板やラジオでも「行政の責任と更生」というテーマが話題に上がった。
玲の意図は着実に届きつつあった。怒りや不信を越え、未来志向の議論へと世論がシフトし始めていた。
背景では、結月や他の被害者の声も次々とシェアされ、単なるスキャンダルではなく、社会全体の記憶として残る状況が形成されつつあった。
時間:2025年6月4日 午前9時45分
場所:都内・各地のSNSモニタリング画面
SNSのタイムラインは、先ほどの投稿を皮切りにさらに勢いを増していた。
#結月の声を聞け
#行政の沈黙
#職員の責任は
#玲の報道
というハッシュタグが瞬く間に全国のトレンドに躍り出る。
投稿例:
「#結月の声を聞け もう黙らされる子はいない。玲さんが動いた証拠を見てほしい」
「#行政の沈黙 今まで誰も声を上げなかった現実。これをきっかけに変わるべき」
「#職員の責任は 関与した4名だけじゃない。見て見ぬふりをした者すべてが問われる」
「#玲の報道 本当に必要な情報を届ける人。今日のニュースを忘れない」
リアルタイムでリツイートとシェアが繰り返され、各ニュースアプリもこの動きを速報として表示。
街中の電光掲示板や駅構内のニュースモニターでも、同じ映像とタグが流れ、通勤・通学者の目を捉えていた。
玲の意図通り、被害者の声と行政の不正の両方が同時に可視化され、社会全体の注目と議論を喚起する状況が形成されつつあった。
時間:2025年6月4日 午前10時30分
場所:中央区役所・都庁内
中央区役所では、広報課と総務部が急遽招集され、緊急対策会議が開かれていた。職員たちは画面に映し出される結月の証言映像やSNS上の拡散状況を固唾を飲んで見守る。
課長の永田直樹が声を震わせながら報告する。
「……区民課、監査担当、全員確認してください。今、この映像がSNSで全国に拡散中です。関与した職員だけでなく、手続きを黙認した部署全体に批判が集中しています」
担当職員が画面上の投稿を指差し、咳き込みながら答える。
「#結月の声を聞け……。リツイート数は数万単位に達しています。問い合わせ電話も殺到中です」
同時刻、都庁でも危機対応チームが動き出していた。
副知事室の萩原泰生は、執務室の電話に手をかけながら冷静を装う。
「都教育庁、人事交流室は即座に事実確認を。市の報告書、NPOの関係資料もすぐに精査させろ」
秘書がメモを差し出す。
「副市長、映像と証言はすでに全国ニュースで放送済みです。SNS拡散も制御不能です。今後の対応方針をどうされますか」
綾瀬雅弘副市長は重い沈黙のまま画面を見つめ、肩を僅かに震わせる。
「……まずは事実関係の精査と、被害者への支援を最優先に。あとは……法的対応だ」
両庁とも、内部調査と広報対応の急務を認識する一方で、全国的な世論の前では迅速な抑制は不可能であることを痛感していた。
数時間以内に、区役所・都庁双方で正式な声明発表と担当者会見が予告される状況となった。
時間:2025年6月4日 午後9時
場所:中央区役所・都庁
夜も更け、区役所の正面玄関はほとんど人影がなかった。だが内部は緊張感に包まれ、職員たちは一斉に人事異動と処分の知らせを受けていた。
広報課の端末に表示された通知を、課長代理が低い声で読み上げる。
「永田直樹……自主退職。理由は“一身上の都合”。コメントは一切拒否とのことです」
隣の職員が眉をひそめる。
「報道に対して完全に口を閉ざすとは……。これでさらに憶測が飛び交うでしょう」
さらに読み上げられる。
「村井千景……総務課付へ異動。その日のうちに辞職願を提出。萩原泰生……都庁の懲戒審査会に送付。全職務から一時的に外される。柿沼聖司……区議会にて参考人として召喚予定。調査には依然非協力的」
職員の一人がため息をつきながら呟く。
「……これでやっと、ほんの少しだけでも事態が動き出したということか」
夜の静寂に、区役所と都庁双方の電話の着信音やキーボードを打つ音だけが響く。
報道とSNSによって暴かれた事実は、人事処理として即座に反映され、被害者支援や行政改革への第一歩が始まったことを示していた。
時間:2025年6月4日 午後11時半
場所:服部一族ロッジ・居間
ロッジの暖炉は、かすかな火を灯していた。揺れる炎が、木製の床や壁に柔らかい影を落とす。外は深い闇に包まれ、森のざわめきも遠くにかすかに聞こえるだけだった。
結月は毛布にくるまり、震える手でスケッチブックを抱えていた。ページには、事件の記憶をなぞるかのように描かれた線が走る。
沙耶は静かに隣に座り、何も言わずに彼女の手元を見守っている。目線だけで、慰めと安心を伝えるかのようだった。
結月が小さな声で漏らす。
「沙耶さん……怖かったです。あのとき……誰も助けてくれないと思って……」
沙耶は穏やかに答える。
「もう大丈夫。あなたの声は、ちゃんと届いた。誰も一人じゃない」
結月は小さく頷き、目を伏せる。
「でも……まだ心の中で、泣いている子たちがいるんです。私みたいに……声を出せない子が」
沙耶はその肩に手を置き、静かに言う。
「だから、あなたが今こうしている。それだけで、誰かの希望になる。声は一つじゃない、でもつながっていく」
火の揺らめきが二人の影を壁に映し、静かな夜に柔らかな安堵が広がっていった。
時間:2025年6月5日 午前2時15分
場所:服部一族ロッジ・作戦室
静まり返ったロッジの一角。スクリーンに映し出されるのは、未解決の児童監禁事件リストと、先日公開された証言の反響分析だった。
玲が画面の前で指を動かしながら、低く声を発する。
「結月のケースは片付いた。しかし、まだ助けを求めている声がある。次は、この子だ——」
スクリーンには、K.N.の移送記録と、GPSログ、匿名証言の断片が並んでいる。
沙耶が慎重に画面を指差し、玲に告げる。
「この子の行方も、副市長の影響下にあるNPOが絡んでいる可能性が高い。時間との勝負です」
玲は深く息を吸い、チームメンバーに視線を向ける。
「準備を整えろ。夜明け前には現場に向かう。誰も巻き込ませない。今回も、確実に声を取り戻す」
スクリーンの青白い光が、チームの顔を鋭く照らす。
影が交錯する夜、次なる救出作戦の幕が、静かに上がろうとしていた。
時間:2025年6月5日 午前2時48分
場所:服部一族ロッジ・作戦室
玲は唐沢征一の名前をスクリーンに映し出し、声を低く絞る。
「次なる標的は、この男だ。副市長直属の秘書官……影の中枢を動かす張本人」
沙耶が眉をひそめ、画面の資料を確認する。
「唐沢は報告書の最終承認、調整、情報の隠蔽すべてを掌握していました。動きは慎重ですが、手口は一貫している」
玲は画面に映る組織図を指でなぞり、続けた。
「彼を押さえれば、隠された記録の多くが浮かび上がる。手をこまねいてはいられない」
静かなロッジに、時計の秒針だけが響く。
「夜明けまでに行動を開始する。全員、準備はいいか?」
沙耶と他のメンバーは、無言で頷き、影の中で次の作戦の輪郭を描き始めた。
闇の奥に潜むもう一人の黒幕――唐沢征一。
その存在が、今まさに浮かび上がろうとしていた。
時間:2025年6月5日 午前2時52分
場所:服部一族ロッジ・作戦室
モニターに映し出された新たな資料に、場の空気が一段と重く沈む。
沙耶が震える指先でスクロールし、静かに言った。
「……結月の記録抹消。通報の握り潰し。被害者家族への示談強要……」
玲が横から資料を引き取り、はっきりと読み上げる。
「ここに記されている“実行フェーズ”の印。全部、唐沢のIDだ」
画面には、綾瀬雅弘の指示とは別に、
“実行可能な形へ加工された命令”
──その履歴が細かく残っていた。
・不都合な記録の削除手順の作成
・担当者への圧力メールの草案
・匿名通報の封鎖ルートの設定
・被害者家族への“示談勧告”文の作成
・外部機関への報告遅延の口実づくり
すべてに“唐沢征一”の実務印。
沙耶が呟く。
「……つまり、綾瀬が“命令”を下したとしても……それを“形にした”のは、この男なんだね」
玲は深く頷き、視線を鋭くした。
「綾瀬は象徴だ。だが、実際に手を動かし、現場に影を落としたのは唐沢。
この男がいなければ、結月は救われていたかもしれない」
作戦室の空気が、静かに、だが確実に変わった。
新たな黒幕が姿を見せた瞬間だった。
時間:2025年6月5日 6:55
場所:全国各報道局・スタジオ
テレビ画面が一斉に切り替わり、スタジオの照明が明るく点灯する。
アナウンサーの声はいつになく緊張を帯びていた。
「おはようございます。通常放送を中断してお伝えします。
本日未明、中央区および都庁関係者の関与が疑われる未成年監禁・記録改ざん事件に関する新事実が判明しました」
画面には、唐沢征一の氏名と肩書きが表示され、続いて関係資料のスクリーンショットが映し出される。
「唐沢征一氏、綾瀬副市長の秘書官として実務上、結月さんら被害者の記録抹消や通報封鎖、示談強要の手続きを実行していたことが確認されました」
スタジオの空気が張りつめる。
キャスターがカメラ目線で語りかける。
「この発覚により、事件の全貌がさらに明らかになりつつあります。現場の関係者の証言や監視映像、内部文書が次々と裏付けとして提出されています」
報道画面の隅では、結月の映像が小さく表示され、彼女が静かに前を向いて証言を繰り返す。
全国の視聴者の目に、未成年者の声と、権力の影が同時に映し出された瞬間だった。
時間:2025年6月5日 7:12
場所:SNS・全国ネット
奈々が自らのアカウントで投稿ボタンを押す。
「あなたが知らない、行政の“操作役”
書いたのは彼。記録を消したのも彼。そして何より、“すべて知っていた”のも彼」
投稿には、唐沢征一の氏名と肩書き、関連資料のスクリーンショットが添付されていた。
ハッシュタグが続く。
#唐沢征一
#隠蔽の構造
#行政の闇
#玲が暴いた真実
数分後、投稿は全国のタイムラインを駆け巡る。
リアルタイムでコメントが増え、シェア数が急上昇。
被害者の声と、組織の隠蔽を暴く“構造”が、瞬く間に世論の中心に浮かび上がった。
時間:2025年6月5日 12:00
場所:中央区役所・市長室
三嶋和弘市長は、疲労の色を帯びた表情でマイクの前に立った。周囲には報道陣がびっしりと詰めかけ、フラッシュが絶え間なく光る。
「……本日明らかになった一連の事案について、区民の皆様、そして関係各位に深くお詫び申し上げます。
今回の件は、行政内部における管理体制の不備、そして個々の職員による重大な判断ミスが重なった結果であり、区として看過できるものではありません。」
記者の一人が手を挙げて質問する。
「市長、この件で副市長及び関与職員に対して、どのような処分を検討していますか?」
三嶋市長は息を整え、重々しく答える。
「関与が確認された職員につきましては、既に一部が自主退職、異動、懲戒審査に付されております。副市長についても、倫理委員会への報告と行政処分を視野に入れて調査を進めております。」
別の記者が声を張る。
「行政の隠蔽体質について、区民に対してどのように信頼回復を図るおつもりですか?」
市長は視線を一度落とし、静かに答えた。
「行政の透明性を最優先とし、第三者機関による監査の強化、及び情報公開の徹底を進めます。二度とこのような事態が繰り返されないよう、全力で改革を行う所存です。」
会見場には、緊張と重みが漂い、静寂の中にフラッシュの光だけが瞬いていた。
時間:2025年6月5日 12:08
場所:中央区役所・市長室
三嶋市長はマイクの前で肩を落とし、深く息をついた。報道陣の視線が一斉に集まる。
「行政における信頼を深く傷つけた本件において、責任は極めて重大です。
唐沢秘書官に関しては、私の職責において、本日付での退職を命じました。
これは単なる形式的な処分ではなく、行政の透明性と信頼回復を最優先に考えた措置です。」
記者の一人が手を挙げ、声を張る。
「市長、この件で副市長・綾瀬氏の処分についてはどのように考えていますか?」
三嶋は視線を前方に戻し、落ち着いた口調で答えた。
「綾瀬副市長についても調査を継続しており、行政倫理委員会への報告、及び適正な処分を検討しております。区民の皆様に対し、すべての情報を隠すことなく公開してまいります。」
会見場には、重く張りつめた空気が広がる。フラッシュの光が絶え間なく閃き、全員が市長の言葉に耳を傾けていた。
時間:2025年6月5日 12:12
場所:中央区役所・市長室
三嶋市長は書類に軽く目を落とし、再びカメラへ視線を向ける。
「副市長は現在、当庁内部での監査を受けており、継続的に調査を進めています。
ただし、唐沢氏に関しては、明確な証拠に基づく“指示の実行者”としての責任を負わせるものです。」
記者席から小さなざわめきが上がる。誰もが、唐沢の背後にある組織的隠蔽の構造を意識している。
「私たちは、行政の透明性を確保する責任があります。
市民の皆さまには、今後も逐次、事実を報告し続けることをお約束します。」
市長の言葉が会見室の空気を支配し、重い沈黙の後、フラッシュの光だけが続いていた。
時間:2025年6月5日 23:45
場所:山間のロッジ・玲の個室
玲は深く息を吸い込み、ゆっくりと目を閉じた。外では森を渡る夜風が、薪の燃える香りと混ざり合い、静かな囁きのように室内に流れ込む。
今日一日で、行政の闇は一つの形として明るみに出た。唐沢征一の責任は明確にされ、副市長の監査も開始され、関係する職員たちは処分や異動を受けた。記録の抹消や証拠隠蔽は暴かれ、声なき被害者たちの声は届いた。
玲の手元には、結月をはじめとする被害者たちの証言や記録をまとめた資料が静かに積まれている。
その資料は、ただの紙切れではない。失われた記憶、抑えられた声、奪われた正義──すべてが形として残る証拠だった。
玲は小さく口元を緩め、心の中でつぶやく。
「これで……終わったのかもしれないな。」
外の夜空には、無数の星が瞬き、静かな闇の中に一筋の光を落としていた。
玲はその光を見つめながら、次に目覚めるべき未来のための静かな決意を胸に抱いた。
時間:2025年6月6日 10:30
場所:山間のロッジ・リビングルーム
結月は穏やかな表情で、支援スタッフと共に朝食を取っていた。窓から差し込む初夏の光が、淡いカーテン越しに室内を温かく照らす。
沙耶はそっと結月の隣に座り、手元のスケッチブックや教本を整える。
「大丈夫、結月。あなたの声は、もう誰にも奪われない」
玲はラップトップの前に座り、次の調査の資料を整理していた。被害者たちの声を守り、行政の闇を暴いた先に、まだ見ぬ真実がある。
「この次は……もっと深く、構造の奥まで掘り下げる必要がある」
奈々がカフェラテを手に近づき、画面を覗き込む。
「被害者支援の教材として結月の証言を活用する件、すでに承認が下りたそうです。教育現場でも、彼女の声を正しく伝えるためのプログラムが組まれる予定です」
結月は小さくうなずき、窓の外の木々の間に揺れる光を見つめる。
「……もう、怖くないです。ちゃんと、みんなに伝わるんですね」
玲は資料を閉じ、静かに立ち上がった。
「ええ、これで終わりじゃない。声を取り戻した彼女たちのために、次の一歩を踏み出すだけだ」
窓の外では、初夏の風が木々を揺らし、遠くの山影に明るい光が差し込む。
ロッジの静かな朝が、新たな調査への決意を包み込んでいた。
最後に流れたナレーション(報道番組・締め)
「この事件は、ひとつの“行政犯罪”が暴かれ、裁かれたという点で区切りを迎えました。
だが、これは“終わり”ではありません。
時間:2025年6月6日 19:00
場所:全国ネット報道スタジオ
画面に映るのは、落ち着いた表情の玲。カメラ越しに全国の視聴者へ、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「今回の事件を通じて明らかになったことは、権力や制度の下に押し込められた声が、どれほど容易に失われてしまうかという現実です。
私たちは、被害者の声を取り戻し、彼らの権利を守る責任があります。そして、行政や関係者には、透明性と説明責任を果たしてほしいと願います。
今後も、隠された事実に目を向け、声を上げられない人々のために行動し続けてください。市民の信頼は、決して当たり前にあるものではなく、守り育てるべきものです。」
玲の言葉がスタジオの空気に静かに染み渡り、カメラはゆっくりと引いて、全国の視聴者へ向けて最後の映像を映す。
画面の隅にテロップが流れる。
「被害者の声を守ること――それは、私たち一人ひとりの責任です。」
ナレーションは締めくくる。
「行政の闇を暴き、声を奪われた者たちに光を取り戻した今回の事件。探偵玲さんの願いは、これからも全国に届けられます。」
時間:2025年6月27日 20:15
場所:山間のロッジ・焚き火前
山間のロッジ。遠くで蝉の声がまだ聞こえず、初夏の涼やかな風が窓辺のカーテンをそっと揺らす。新緑の香りが、かすかに肌に触れる。
玲は焚き火の前に立ち、手元の紅茶を口に運んだ。火の粉が淡く舞い、橙色の光が静かに部屋を照らす。
窓際では、結月がノートを開き、細い鉛筆で文字を走らせていた。表情は落ち着き、以前の怯えた様子は消えている。
沙耶がそっと結月の横に座り、彼女の筆先を見守る。二人の間に言葉はなくても、互いの存在が支えになっていることは明白だった。
玲は紅茶を一口啜り、遠くの山並みを見やる。
「……あの声が、届いたんだな」
静かな夜の中、炎の揺らぎが彼らの影を長く伸ばす。
遠く、森の木々を渡る風が、微かに葉を揺らす音だけが、時間の経過を告げていた。
玲の視線は焚き火の先、確かな希望の光に向けられていた。
時間:2025年6月下旬
場所:結月の支援施設・居室
結月は支援機関の落ち着いた居室で、窓から差し込む柔らかな初夏の光に包まれていた。机の上にはノートや色鉛筆が整然と並び、以前の不安げな様子は薄れている。
週に一度、玲や沙耶とビデオ通話を行う時間が、結月の楽しみだった。画面越しに顔を見せ、照れくさそうに笑うその姿は、少しずつだが確かに前に進んでいる証だった。
「今日は学校でこんなことがあったの」
結月が嬉しそうに話すと、沙耶が静かに微笑みながら頷く。玲も画面越しに穏やかに耳を傾けていた。
部屋の空気は穏やかで、外からは初夏の草や木の香りがわずかに届く。
結月の目には、もう“恐怖”ではなく、少しの希望と安心が宿っていた。
時間:2025年6月下旬
場所:奈々の自室・作業机前
奈々は薄暗い自室で端末を開き、作戦ログを更新していた。画面には〈作戦ログ・更新記録〉と題された表が表示されている。
《作戦ログ・更新記録》
・綾瀬雅弘:辞職勧告が可決される可能性高(調整中)
・唐沢征一:退職済、社会的信用喪失・所在不明
・被害者保護制度:一部制度改正へ向け、行政側と面談予定
・玲:次の調査対象「未処理通報案件リスト」から選定中
奈々は端末を指でなぞりながら、次の段取りを頭の中で整理していた。
「ここからが本当の戦い……」と、独り言が小さく漏れる。
外では初夏の風が窓をかすめ、紙のページや端末画面に軽く触れ、静かな緊張感の中にほのかな季節感を添えていた。
時間:2025年6月下旬・夜
場所:服部一族・山中仮設拠点・焚き火前
慎吾は焚き火の前に腰を下ろし、炎をぼんやりと見つめていた。周囲には夜鴉の者たちもそれぞれ小さな明かりの下で休息を取っている。焚き火のパチパチと弾ける音だけが、静かな夜の闇に響いた。
慎吾は低くつぶやく。
「次の行動に備えなければ……。だが、こうして静かな夜を味わえるのも、ほんのひとときだ」
夜鴉の者たちは無言で、焚き火の暖かさに身を預ける。全員がそれぞれの呼吸を整え、任務で求められる“静けさと集中力”を回復していた。
焚き火の光に照らされる顔は険しくも穏やかで、影の中に潜む決意が、静かに燃え続けていた。
時間:2025年6月28日・深夜
場所:ロッジ外・見晴らしの良いテラス
ロッジの明かりが背後で静かに揺れ、風に揺られた木々がざわめく。
玲は外へ出て、夜空を仰いだ。雲の切れ間から星がいくつも瞬いている。
――そのときだ。
「……ありがとう」
確かに聞こえた。声というより、“届いた想い”のように。
玲は微かに目を細める。
「……結月か? それとも——」
風がひゅう、と木々を撫でた。
言葉の主が誰なのかは分からない。
だが、その響きには、
救われた者の安堵、
守ろうとした者の願い、
そしてこれから歩む者たちの決意——
そのすべてが重なっていた。
玲はゆっくりと息を吐き、静かに答える。
「……聞こえている。俺たちは、まだ終わっちゃいない」
星々がひときわ強く瞬き、夜の空気に微かな希望の気配が混じった。
彼は踵を返し、ロッジへ戻っていく。
次の調査が、すでに始まっていることを、悟りながら。
私は、あの日からずっと、声を出せずにいました。
でも、玲さんや沙耶さん、凛さんがそばにいてくれたことで、少しずつ自分の気持ちを言葉にすることができました。
この物語は、私だけのものではありません。
私と同じように、誰かの声が奪われ、誰かが泣いていた現実があることを、みんなに知ってほしいと思います。
声を出すことは、怖いことです。
でも、誰かがその声を聞いてくれる──その一歩で、世界は少しだけ変わるのだと、私は知りました。
これからも私は、自分の声を大切にしながら生きていきます。
そして、声を奪われた人たちのことも、忘れずにいようと思います。
結月




