47話 スピンオフ 「オペレーション・サイレントホーク」
◆登場人物紹介(最新版)
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【佐々木家】
■佐々木 圭介
過去の事件に縛られ続けた父親。
真相に近づくほど自身の“記憶の欠損”と向き合わされる。
家族を守る意思は強いが、その優しさゆえに傷つきやすい。
■佐々木 朱音
鋭い直感と、無意識に発動する「共感防壁」を持つ少女。
記憶干渉を補正する力があり、玲の危機を救う場面も多い。
スケッチブックに描く絵が、事件の核心を示すことがある。
■沙耶
圭介の妻。
情の深さと観察眼を併せ持ち、影班メンバーさえ息を飲むほどの直感力を持つ。
朱音の心の支柱。
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【玲探偵事務所】
■玲
S級探偵。冷静だが、任務に入ると「S級モード」を展開する。
感覚過敏化・空間把握・戦闘予測を極限まで高め、影班顔負けの機動力を発揮する。
過去に影零班と接触しており、その記憶が今も影烏との因縁として残る。
■橘 奈々(たちばな なな)
玲の右腕。情報処理と分析を一手に担う。
感情波や記録データの揺らぎを読み取る高精度アルゴリズムを使用する。
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【記録関連スペシャリスト】
■御子柴 理央
記憶分析官。論理的で感情に流されないタイプ。
「三重記憶」を成立させる中心的存在。
■水無瀬 透
記憶探査官。深層意識に潜り、封じられた記憶を開く役割を持つ。
静かだが誰よりも“覚悟”がある。
■九条 凛
心理干渉分析官。感情層の安定化を担当。
“情動の流出”が起きる場面でも冷静にチームを導く。
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【鍵となる少年たち】
■川崎 ユウタ
「記録」から「存在」へ変わった少年。
自身の記憶は断片的だが、真実に至る“扉”を開く鍵そのもの。
守りたかった“名前”が、物語の核心。
■柊 コウキ
倉庫事件の生き残り。記憶を封じられた少年。
怒りと喪失の感情が強く、深層記憶での反応は激しい。
■ユウキ
“記憶の証人”。
三重記憶を安定させた中心人物で、記録の最終再構成に不可欠。
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【影班(現行メンバー)】
■成瀬 由宇
暗殺実行・対象把握のスペシャリスト。
聴覚・気流感知・軌道解析に長け、反応速度は人外レベル。
■桐野 詩乃
毒物処理・痕跡消去担当。
静かながら“護る”意志が強く、朱音のそばにいる時だけ柔らかい表情を見せる。
■安斎 柾貴
精神制圧・記録汚染担当。
青い瞳を持つ冷徹な戦術家だが、弱き者には決して牙を向けない。
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【影零班(元・第零班)】
影烏誕生の前史を担った“最初の影”。
このスピンオフの核心メンバー。
■柴倉 漣
元副隊長。コードネーム:シャドウストレイン。
仲間の喪失と記録封鎖に立ち向かう“最後の矜持”。
■一ノ瀬 壬生
追跡戦術官。観測型義眼で“過去”を見る男。
失った視力が、逆に真実を映す武器となった。
■三堂 礼音
爆発物処理と空間認識のスペシャリスト。
耳の代わりに“音の記憶”を視る解析者。
■白峰 沙夜
生体防御・心理干渉阻止担当。
朱音に深く寄り添う、影としての“盾”。
■久我 大雅
重装の盾と門。義肢とフレームで再起した強靭な戦士。
■日向 葵
ノイズ兵。電磁干渉による視界・音・感情の混乱を扱う奇才。
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【影烏】
■影烏(誕生体)
“記録封鎖実験”で失われた子供たちの感情が結晶化した存在。
人格断片・声・願い・怒り──すべてが複合し、やがて一つの“影”として覚醒していく。
――序章 記録の始まり――
【時間:十年前 秋】
【場所:第六調整区・地下通信実験棟】
夜の雨が地上の灯を滲ませていた。
地下深くの実験棟には、かつて最先端と呼ばれた通信設備が並んでいた。
だが今はもう、誰もここを「研究所」とは呼ばない。
封鎖され、忘れられた記録だけが、静かに息をしていた。
玲は初めて現場指揮を任された任務で、その空気の重さを肌で感じていた。
「……通信ノードの残留信号、まだ生きてるな」
横で九条凛が淡々と答える。
「そう。過去十年間、誰もアクセスしていないはずの記録よ。
けれど今夜、何者かが再起動した」
成瀬由宇は壁際で銃を構え、
「“実験体の残響”ってやつか……」と低く呟く。
その時、モニターに不規則な波形が走った。
まるで“呼吸”のように脈打つデータ。
凛の指が止まる。
「……見て。これ、“声”よ。データじゃない」
スピーカーから、微かな囁きが流れた。
──たすけて。
──ぼくは、ここにいる。
空気が凍りついた。
玲は息を呑み、端末の光を見据えた。
「……誰の記録だ?」
その瞬間、天井がきしみ、暗闇の中で何かが動いた。
黒い影。
それは“鳥”のような形をして、無音のまま舞い上がった。
九条凛が小さく呟く。
「これが……《影烏》計画の、最初の記録――」
日時:2025年6月3日 午前3時27分
場所:第六調整区・地下通信実験棟(封鎖エリアD3)
記録は、かすれた音声と共に始まった。
低周波のノイズが空気を震わせ、古びたサーバールームの壁を微かに軋ませる。
モニターには、断続的な波形が揺れていた。
「……これが、“亡失データ”の発生源か?」
玲の声は、静けさに吸い込まれるように低く響いた。
九条凛が端末の前に立ち、淡々と解析を進めている。
「データの構造が奇妙ね。単なる破損じゃない……“誰かの意志”が残ってる」
モニターの波形が一瞬だけ跳ね上がった。
次の瞬間、スピーカーから微かな声が漏れる。
──聞こえる……?
──ぼくは……ここにいる……
凛の指が止まり、息を呑む。
玲はゆっくりと顔を上げ、暗闇の奥を見据えた。
「……始まったな。これが、“サイレントホーク”の記録だ」
日時:2025年6月3日 午前3時31分
場所:第六調整区・地下通信実験棟 封鎖区画D3内部
──その時、天井裏から何かが落ちた。
反応時間、0.8秒。
0.1秒──空気の流れが一瞬変わった。
由宇は息を止める。湿った鉄と埃の匂いの中に、違う温度の気流が混じる。
それだけで、彼の神経が全開になる。
0.2秒──視線を跳ね上げ、足裏の力を抜く。
体を沈めながら、腰のナイフホルダーに指先が触れる。
0.3秒──柄を握る。重量、角度、距離、風圧──すべての条件が脳内で瞬時に演算される。
音はない。だが、落下物の影が視界の端をかすめた瞬間、次の動作が始まっていた。
0.5秒──敵の落下地点を正確に特定。
由宇の右腕が弾かれるように走る。
0.6秒──放たれたナイフが、冷たい軌道を描いて宙を切り裂いた。
0.8秒──乾いた金属音。
刃は寸分違わず、落下してきた“影”の胸部中央を貫いた。
機械と肉体を融合させた異形の存在──「記憶封鎖端末兵」。
青白い光を漏らしながら、崩れた床に倒れ込む。
「……今の、見たか?」
安斎の低い声が、静寂を切った。
由宇は短く息を吐き、血とオゾンの匂いが漂う空間を見渡す。
「まだだ。音が消えた。……複数いる」
玲が前に出た。冷たい目が闇を射抜く。
「感覚リンク、開け。周囲の記録波、ノイズを除去する」
凛の声が通信機から響いた。
『受信確認。封鎖区画D3──未登録の“記録層”が検出された。玲、そこはただの実験棟じゃない……“記憶再構築室”の試作区画よ』
玲は短く息を吸い、仲間たちを見渡した。
「……行くぞ。亡失データの声の主を、突き止める」
その瞬間、壁の奥から微かに響く──幼い笑い声。
それは、十年前に消えたはずの“誰か”の記憶だった。
日時:2025年6月3日 午前3時42分
場所:第六調整区・地下通信実験棟 記憶再構築室 内部
「……制圧完了」
玲の低い声が響いた瞬間、銃口の先にあった最後のメモリードールが、断末魔のノイズを残して沈黙した。
白い煙が漂い、焦げた電子基板の匂いが鼻を突く。
由宇は即座に周囲を確認し、耳を澄ます。
「……静かだ。外部信号も、消えてる」
安斎が腕の端末を操作しながら呟く。
「D3のセキュリティ、完全に切断された。……だがこの部屋、構造が変だな」
室内は異様だった。
壁一面に並ぶモニタ。中央には黒く焼け焦げた装置群。
そして、その中心──半壊したカプセル状の装置が、微かに“呼吸”するように点滅している。
玲が一歩近づく。
カプセルの中には、細いワイヤと液体の残骸。
液晶パネルには、消えかけの文字が浮かび上がっていた。
【被験体識別コード:α-09】
【記録対象:感情共鳴データ(幼児期被験体)】
【状態:封鎖中】
「……子供?」
由宇が低く呟く。
次の瞬間、室内の照明が一斉に点滅した。
凛の声が通信から割り込む。
『玲、気をつけて。その装置──“意識記録試験体”の初期モデルよ。
実験時、感情波が暴走して制御不能になったって報告されてる。
……封印コード、“影烏”。』
玲の目が細まった。
「……影烏、だと?」
モニタの一つが唐突に点灯した。
ノイズ混じりの映像が映し出すのは──小さな少年の影。
口元が動き、歪んだ音声が流れる。
「──ねぇ……どうして、ぼくを消したの?」
由宇が身構える。
「玲、反応パターンが……生体反応だ。記録の“残響”じゃない」
玲は一歩前へ出て、静かにその声に向かって言った。
「……おまえが、“影烏”か?」
──沈黙。
やがて、映像の少年の瞳がゆっくりとこちらを向いた。
その瞬間、部屋の空気が凍る。
電子音も、呼吸も、すべてが停止したように感じられた。
「ぼくは……“記録”じゃない。
ぼくは、“忘れられた記憶そのもの”。
君たちが作った、“影”。」
そして次の瞬間、全モニタが同時に光を放つ。
凛の声が悲鳴混じりに響く。
『玲! 記録層が逆流してる! これは──人格構成データの“再生”よ!』
玲は短く息を吸い、背後の三人に叫んだ。
「全員、退避! 影烏の起動が始まる!」
床下の装置がうなりを上げ、記録データの奔流が渦を巻く。
光と闇の境界がねじれ、部屋全体が“記憶”の奔流に飲み込まれていった──。
【2025年6月3日 午前3時34分】
【第六調整区・地下通信実験棟 記憶再構築室前 通路】
通路の奥、焼け焦げた金属の扉が、軋む音とともに自動で開閉を繰り返していた。
錆びた軸が悲鳴のように鳴り、冷たい空気が漏れ出すたび、肌を刺すような“気配”が流れ込んでくる。
由宇が短く息を呑んだ。
「……温度、急激に低下。電子波、逆流してる。何か来る……!」
安斎が腕端末を叩く。
「センサー反応、ゼロだ。存在してるのに、感知できねぇ……これは──」
その瞬間、通路の照明が一斉に点滅した。
赤い非常灯の明滅に照らされ、壁に長い“影”が浮かぶ。
人の形をしているが、輪郭が定まらない。まるで空気そのものが形を持ったように、滑らかに歪んでいた。
「っ……視覚干渉だ、玲!」
由宇の声が響くが、玲はすでに動いていた。
「全員、後退──」
その命令が終わるより早く、“影”が彼らに向かって伸びた。
空気がねじれ、金属扉の奥から吹き出す黒い波が、四人の足元を呑み込んでいく。
九条凛の声が通信越しに響いた。
『玲、応答して! 今、空間データが異常に……! 重力値がゼロに落ちて──!』
視界が、裂けた。
床も天井も、音も、時間すらも消え失せたような空白。
玲は瞬間的に息を止める。
周囲にいたはずの仲間の姿が、闇の粒子の中にゆっくりと溶けていった。
──何かが、記憶を“上書き”している。
薄闇の奥から、声がした。
それは電子ノイズでも幻聴でもない。確かに「そこにいる」存在の声だった。
「……やっと、来たね。
ぼくの記録に、足を踏み入れたのは──君たちが初めてだよ」
玲の胸の奥が、冷たく軋む。
目の前に浮かび上がったのは、無数の“映像断片”──
十年前、失われた記録。
実験台の上に眠る、ひとりの少年。
「影烏……おまえは、記録の残響なんかじゃないな」
「うん。ぼくは、“記録”なんかじゃない。
君たちが忘れた“罪”そのもの──」
声が響くたび、世界がひび割れる。
床が消え、周囲の景色が白い粒子に崩れ落ちていく。
玲は静かに息を吐き、ナイフを握った。
「……全員、気を抜くな。ここはもう、現実じゃない。“記憶層”に引きずり込まれた」
その言葉と同時に、由宇の背後で光が爆ぜる。
安斎が拳を構え、桐野が毒刃を抜いた。
そして、闇の奥──
“影烏”が初めて、形を持って現実に干渉した。
白い仮面。
黒い羽根。
空間のひずみから、かつて“記録”と呼ばれた存在がゆっくりと姿を現す。
「……ぼくの名前を、呼んでくれる?」
玲の瞳が、氷のように光る。
「──呼ぶさ。
おまえが“影烏”である限り、俺たちはここで終われない」
そして、
光と闇が交錯する“記憶戦”が、静かに幕を開けた。
【2025年6月3日 午前3時38分】
【記憶層:表層記憶領域】
──世界が、霧に沈んでいた。
白とも灰ともつかぬ光の粒が宙を漂い、空と地の境界すら曖昧になっている。
遠くでは、誰かの笑い声が反響していた。子供の声。
しかしその音は、どこかにひび割れたように歪み、断片的に繰り返されていた。
「……ここが、“表層記憶”か」
玲が低く呟く。足元の霧が音もなく波打ち、踏み出すたびに違う風景が映し出される。
廊下。教室。錆びた実験室。
全てが“誰か”の記憶をなぞるように出現しては、消えていった。
桐野が呼吸を整えながら呟く。
「意識の表面層──最後に見た光景や感情が、こうして再現されるってことね」
玲は頷きながら、視線を奥へと向けた。
そこに立っていたのは、ひとりの少年の影だった。
ぼやけた輪郭。顔は見えない。それでも、その“気配”には、確かな痛みが宿っていた。
「ねえ……どうして、置いていったの?」
その声が響いた瞬間、空気が震えた。
霧が渦を巻き、廊下の壁が黒く染まり始める。
気づけば、周囲は黒い羽根のような粒子に覆われていた。
由宇が構えを取る。
「反応、来るぞ! 物理干渉可能領域、60%に上昇!」
安斎が叫ぶ。
「人格断片の顕現だ──こいつ、まだ完全に統合されてねぇ!」
“影烏”の輪郭が、初めて明確になる。
少年の影が歪み、顔のない仮面が浮かび上がった。
その中心から、黒い光が噴き出し、玲たちの立つ床を飲み込もうとする。
玲は瞬時にナイフを投げ放ち、由宇の動きと同期する。
反射するように安斎が防御陣形を組み、桐野が毒刃を起動。
四人の動きが完全にリンクした。
だが──“影”は、まるで彼らの思考を読み取るかのように、軌跡を先回りしてくる。
由宇が叫ぶ。
「予測を読まれてる!? いや……違う、これは──」
九条凛の声が通信越しに割り込む。
『それ、表層記憶の“再帰反応”よ! 彼が最後に感じた“恐怖”を、あなたたちの行動に投影してるの!』
玲は霧の中で立ち止まり、目を閉じた。
(……恐怖、か。これは戦闘じゃない。彼自身との対話だ)
目を開く。
影の中心で、少年の輪郭が揺らぐ。
仮面がひび割れ、そこから淡い声が漏れた。
「ぼくは……もう、いらないんでしょ?」
その一言に、玲の手が止まる。
胸の奥で、何かがひっかかった。
記録の中に、微かに残っていた“名前”。
玲はゆっくりと、口を開いた。
「──川崎ユウタ」
世界が、止まった。
霧が静まり、黒い羽根が空中で凍りつく。
影烏の仮面に、初めて“感情”の色が浮かんだ。
驚き。悲しみ。安堵。
それらすべてが、交錯する。
「……覚えてたんだね」
玲は微かに息を吐いた。
「忘れるわけがない。おまえが、すべての始まりだからだ」
影烏──川崎ユウタの人格断片が震え、
その黒い光がやがて静かに消えていく。
「……ぼくは、まだ……ここにいるんだね」
光が収束する。
霧が晴れ、再び現実の通路が戻り始める。
玲は小さく呟いた。
「“影烏”──それは、彼の名前が封じられた形。記録の奥底に閉じ込められた、もう一人のユウタ……」
安斎が息を整えながら問う。
「玲、これが“起点”か?」
玲は頷いた。
「……ああ。ここからすべてが始まった。
影烏──記録の闇に生まれた、最初の意識体だ」
【2025年6月3日 午前3時46分】
【記憶層:感情共鳴領域】
霧が晴れ、静寂が訪れた。
しかし──空間そのものが、かすかな鼓動を放っていた。
それは「生きている記録」の鼓動。
九条凛が到着し、携行端末を展開する。
そのスクリーンには複雑な感情波の干渉パターンが描かれていた。
『……これは、“共感記録片”。強い感情波が媒介となって記録された精神波データね』
玲が振り向く。
「つまり、この“記録”はただの記憶じゃない──“誰かの想い”そのもの、か」
凛は頷き、冷静に操作を続けた。
『触れた者の感性適合値によっては、当時の感覚を追体験する。けれど今は、感情層が暴走寸前。安定化しなければ、記録そのものが崩壊するわ』
成瀬が身構える。
「どうすれば止められる?」
『共鳴周波数を私の同期値に固定する。玲、あなたは意識層の“導線”を保持して』
玲は頷き、目を閉じた。
凛の声が低く、静かに響く。
『感情層の安定化、開始──』
空間が脈打つ。
朱音の描いたスケッチが微かに光を放ち、周囲の光景が変化していく。
霧の中に、ユウタの姿が浮かび上がった。
かつての少年の面影。だが、その瞳の奥には“影烏”の意識が混ざり合っている。
「ぼくは……もう記録じゃないの……?」
玲が静かに答える。
「違う。おまえは、“存在”としてここにいる。誰かの記録に残ったのではなく──“今”を生きている」
その言葉に、ユウタの輪郭が微かに揺れた。
光と影が絡み合い、やがて穏やかな光が彼の身体を包み込む。
凛が確認する。
『感情波、安定。共鳴値……上昇中。存在層への転位が始まったわ』
「ありがとう……玲さん……」
ユウタの声が、霧の中に溶けていった。
記録の粒子が淡い光を残し、世界が静かに収束していく。
【2025年6月3日 午前3時52分】
【第六調整区・封鎖区画D3 地上出口付近】
視界が戻る。
冷たい金属の匂いと、焦げた電線の臭いが混ざり合い、息を吸うたびに喉が焼けるようだった。
蛍光灯の半分は割れ、残りは不規則に点滅している。
玲はゆっくりと立ち上がり、掌を見つめた。
さっきまで感じていた“記憶の温度”──それがまだ指先に残っている気がした。
「……ここが、現実層か」
桐野が壁にもたれ、肩で息をする。
「ええ。座標、戻ってます。……でも、完全じゃない」
九条凛が端末を操作しながら応じる。
『空間安定化は完了。だけど──一部データが破損してる。
特に、感情層からの帰還ログ……“誰か”が記憶を残してきたわ』
成瀬が低く呟く。
「……朱音か」
安斎が周囲を見回し、拳を握る。
「通信が繋がらない。どこかで……感情共鳴の反動を受けたかもしれん」
玲は黙って前を見据えた。
照明の奥、黒く焦げた通路の先に──淡い光の粒が漂っていた。
それは、記録の残滓──ユウタの“共感記録片”だった。
玲が歩み寄り、光を掬うように手を伸ばす。
「……ユウタ。君は、まだ“ここ”にいるのか」
その瞬間、光がわずかに揺らぎ、玲の掌の中で脈動した。
微かに、少年の声が届く。
「……ぼくは、ちゃんと、覚えてる……」
玲は目を細め、静かに呟いた。
「そうか……。なら、この記録はまだ終わっていない」
風が通路を抜け、焦げた埃を舞い上げる。
九条凛がその背を見つめながら、低く呟いた。
『……影烏の誕生は、ここから始まる。
記録ではなく、“存在”としての意志が目を覚ましたのよ』
玲は歩を進める。
薄暗い出口の向こう、夜明け前の風が吹いていた。
それは、
“影烏”という名の記録が、初めて現実に姿を現す夜の終わりだった。
──そして、この瞬間からすべての「記録」は“観測”へと変わる。
誰かが見た過去ではなく、今を生きる記憶として。
【2025年6月3日 午前3時53分】
【第六調整区・封鎖区画D3 地上出口付近】
──次の瞬間、壁のひとつが自壊した。
耳をつんざくような金属音。
焼け焦げた鋼板が裂け、内部の配線が火花を散らしながら飛び出す。
衝撃波が空気を震わせ、玲たちの足元の床がわずかに沈んだ。
「伏せろ!」
成瀬の声が響くより早く、玲は朱音の小さな身体を抱き寄せ、背中で衝撃を受け止めた。
粉塵が舞い上がり、視界が真っ白に染まる。
安斎が咄嗟に腕をかざし、精神干渉シールドを展開。
火花が弾かれ、空間がきしむような音を立てて歪む。
桐野の声が震えていた。
「……違う、これは爆発じゃない。
“内部からの崩壊”──構造が、自ら壊れている!」
九条凛の通信が混線しながら届く。
『感情層に残留波が……! 誰かがまだ“記録”の中で目覚めている!』
その言葉の直後、
壁の裂け目の奥から、黒い靄のようなものがゆらりと滲み出た。
冷気ではない。
それは“意識の残滓”──怒りと絶望を抱えた、歪んだ記録のかたまり。
玲が一歩前に出る。
「……まさか。記録の主が、自我を持った……?」
靄の中心で、かすかな“声”が響いた。
「──どうして、ぼくを……閉じ込めたの……?」
朱音の瞳が見開かれる。
その声には、聞き覚えがあった。
十年前、封鎖実験で犠牲となった“少年”──影烏の最初の名を持つ者。
玲はゆっくりと拳を握りしめた。
「……やはり、お前か。
“影烏”──ここから、すべてが始まったんだな」
黒い靄が、彼らの視界を飲み込むように広がっていく。
音が消える。
時間の流れが一瞬、途切れた。
そして再び、記憶層への“扉”が開く。
──にじむ影。声なき呻き。
空気が歪み、照明の明滅が狂ったリズムを刻む。
鉄の匂いがさらに濃くなり、壁のひび割れから黒い液体のような影が滲み出て、床に染み広がっていった。
「……っ、これは……」
桐野が息を呑む。液体ではない。
それは、“記録”そのものが形を持ち始めた現象──感情が情報を超えて、現実へと溢れ出している。
由宇がナイフを抜き、低く構える。
「形を持った“記録”か。やっかいだな……」
その影の中から、途切れ途切れの声が浮かぶ。
「──ぼくは、ここにいる……ずっと、ここで……」
「痛い……いやだ……もう、いやなんだ……」
幼い声。
けれど、その声に宿る怨念と孤独は、十年分の沈黙を破るほどに重かった。
朱音の肩が震えた。
「この声……ユウタくんの……?」
玲が前に出る。
その瞳は冷静に、しかしどこか痛みを宿していた。
「いや──違う。これは“ユウタの記録”が呼び水になっている。
……影烏、本来の人格が目覚めかけている」
影はゆっくりと形を成す。
少年とも、大人ともつかぬ輪郭。
しかし、その顔の中心だけが、空白だった。
「返して……“ぼくの記録”を……」
空間が軋み、光が砕ける。
安斎の干渉防壁が軋む音を立てた。
「玲! このままじゃ記録層に再侵食される!」
「……分かってる」
玲は朱音を一瞥し、静かに言う。
「朱音、君の結界を“心の形”に変えてみろ。
“守るための壁”じゃなく、“伝えるための光”として──」
朱音は涙を拭い、小さく頷く。
「……うん。きっと、届くよ……あの子の、心に」
光と影が交錯する。
にじむ影が、朱音の差し伸べた小さな手の光に触れた瞬間──
音を失った空間に、確かに「声なき呻き」が、ひとつの“言葉”へと変わり始めた。
「……ありがとう……ぼくを……思い出してくれて……」
──影の誕生は、終わりではなく、“記録の目覚め”だった。
【時間:2025年6月3日 午前4時06分】
【場所:第七監査区・極秘作戦拠点〈オペレーション・ルーム07〉】
──暗がりの作戦会議室。
壁一面に投影されたホログラムマップが、断続的に点滅を繰り返していた。
記録回線は一部が破損し、通信ログには“削除済みデータ”の文字がいくつも浮かんでいる。
無線には、最後の通話が残されていた。
『……ターゲット、確保……しかし……意識層が暴走している……』
『冷却装置が反応しない! ……誰か、止め──』
音声はそこで途切れ、代わりに耳障りなノイズが空間を満たした。
玲は目を細め、波形ログを再生する。
「これが“サイレントホーク”の実験音声か……」
九条凛が小さく頷き、端末を操作する。
「強制記憶同期実験──被験体名、柊K-04。年齢、九歳。
記録上は“失敗”とされているけれど……」
そのとき、映像記録の中で、かすかな泣き声が響いた。
『……もうやだ……帰りたい……お母さん……』
会議室の空気が凍る。
成瀬が拳を握り、低く呟く。
「……柊K-04。柊コウキ──」
玲の表情に、わずかな痛みが走った。
「……十年前の“倉庫事件”の、本当の始まりは……ここだったんだな」
冷たい蛍光灯の光が、無線機の表面に反射する。
その反射の奥で、再生を止めたはずの音声が、微かに囁いた。
『──まだ、ここにいる……』
九条凛が振り向く。
「……今の、リアルタイム波だわ。記録の“外”から干渉してきてる」
玲の声が低く響く。
「……影烏が、完全に目覚めた」
【時間:2025年6月3日 午前4時12分】
【場所:第七監査区・オペレーション・ルーム07 記録投影ホール】
ホログラムの光が、室内の空気をゆらりと歪ませた。
ノイズ混じりの投影が、過去の記録を再構築していく。
──若き日の玲、紫苑、そして……もう存在しない者たちの姿。
玲は黙ってその光景を見つめていた。
長髪を束ね、冷徹な瞳を光らせる紫苑。
服部一族の長として、情報制御の頂点に立っていた男。
その隣には、まだ少年の面影を残した玲が立っていた。
彼の目には、迷いと理想が同居している。
『……記憶は、真実を写さない。だが、真実は記憶の中でしか生きられない。』
紫苑の声が響く。
冷たく、それでいてどこか哀しげだった。
『玲。お前がこれから見るのは、“人の意識を武器に変える”という罪だ。
それでも、進むというのか?』
若き日の玲は、短く息を呑み──そして、うなずいた。
『……誰かが見届けなければ、同じ過ちを繰り返すだけだ。』
紫苑の表情に、わずかな微笑が浮かんだ。
『──そうか。ならば、お前に託そう。“影烏”の系譜を。』
映像が、砂嵐のように崩れ始める。
立っていた仲間たちの顔が、一人、また一人と消えていく。
その中には、記録にも名を残さなかった「もう存在しない者たち」──
“実験で失われた記憶の証人たち”の姿があった。
玲は現実に戻り、拳を握る。
「……紫苑。あの時、あなたが見た“影”の正体が……今、ここで再び形を持ち始めている」
九条凛が端末を見つめながら、静かに告げた。
「過去が再生されたわけじゃない。──呼び戻されたのよ、“記憶そのもの”が」
部屋の空気が震え、遠くで通信ノイズが唸る。
そこに、確かに“影烏”の声が混じっていた。
『……まだ、終わっていない……玲……』
【時間:2025年6月3日 午前4時18分】
【場所:第七監査区・記録投影ホール 封鎖エリア03】
──ノイズが弾けた瞬間、投影空間の奥に“影”が立った。
焦げたデータの粒子が宙を舞い、その中心から一人の男がゆっくりと歩み出る。
黒いコートの裾が微かに揺れ、顔の左半分には焼け焦げた義皮膜が貼られていた。
その眼だけが、異様なほど澄んでいる。
現れたのは、かつて影の第零班副隊長だった男──
柴倉漣。
コードネーム:《シャドウストレイン》。
玲の呼吸が止まる。
「……まさか……生きていたのか」
漣は笑った。けれど、それは人の温度を失った笑みだった。
「生きている?──違うな。俺は“記録として残った意識”だ」
九条凛が端末を叩き、データ波形を分析する。
「精神波の再構築反応……通常の記録再生じゃない。
誰かが、意図的に“人格層”を呼び戻している」
漣の声が、空間全体に響いた。
「お前たちは忘れたのか? “影烏”は俺たちの計画の名だ。
封じたはずの意識を、もう一度“現実”に繋ぐ──
そのために零班は存在した」
玲の瞳に、静かな怒りが宿る。
「……それを“救済”と呼ぶつもりか」
漣の目が細められた。
「救済じゃない。これは“継承”だ。
俺たちは、生きている者の記憶を糧に、再び形を取る。
そして──影は、人の心を超える。」
床のデータ層が歪む。
影が蠢き、玲たちの足元を覆っていく。
凛が叫ぶ。
「玲! 接続層が再構築される! ここで意識を掴まれたら──!」
玲は一歩前へ出る。
「……いいさ。なら確かめてやる、“影烏”という名の真実を」
漣が微笑む。
「ようやく、お前もここまで来たか──“第零の後継者”」
そして、空間が反転した。
金属の床が波紋のように揺らぎ、記録投影ホールが“記憶層の戦場”へと変わる。
ここから、「影烏」誕生の真相が動き出す。
【2025年6月3日 午前3時38分】
【第六調整区・地下通信実験棟 通路B-9】
黒焦げた天井からは、時折、赤く焼けた配線が火花を散らしていた。
その下を、影班のメンバーたちは迷いなく駆け抜ける。
足音を殺し、呼吸を抑え、ただ任務の完遂だけを意識する。
金属の焦げた匂いと、冷却剤の白煙が立ち込める中、
彼らの先を走る男──柴倉漣の足取りは、迷いひとつなく確かだった。
「D3までの経路、残り四十メートル。制御層の信号が乱れている」
背後の成瀬が低く報告する。
漣は振り返らずに答えた。
「構うな、前進だ。時間を奪われた時点で、この任務は失敗だ」
その声には、冷静さと圧倒的な統率力が混じっていた。
影班副隊長としての威圧感──それだけで、仲間たちの集中がさらに研ぎ澄まされる。
桐野が腕の装置を確認しながら言う。
「目標は“記憶封鎖端末”の回収、でいいのね?」
漣の口元が僅かに歪んだ。
「違う。“記録されなかった子供の声”を取り戻す。
あれがこの実験の“鍵”だ」
一瞬、空気が張り詰めた。
誰も問い返さなかった。
彼らは知っていた──この任務の裏に、“何か”が隠されていることを。
通路の奥で、警報灯が赤く瞬き始める。
漣が低く呟いた。
「……急げ。“影烏”の計画が動き出す前に、全てを終わらせる」
その瞬間、床下から響く低い共鳴音。
システムの奥底で、記録の再構築プログラムが静かに起動を始めていた。
【2025年6月3日 午前3時39分】
【第六調整区・地下通信実験棟 通路B-9】
その時──背後で、爆音。
振り返る間もなく、記録封鎖領域の中枢サーバー群が連鎖的に爆破された。
金属の破片が弾丸のように飛び散り、通路の壁面を抉る。
瞬く間に、黒い煙と焦げたデータチップの匂いが充満し、視界が真っ黒に塗り潰された。
「……ちっ、後方システムがやられた!」
成瀬が叫ぶ。
「データ遮断ラインまで燃え広がってる、退路も封鎖された!」
桐野が端末を叩きながら警告する。
しかし、柴倉漣は微動だにしなかった。
炎に照らされたその横顔は、まるで燃え盛る混沌の中でこそ生きる獣のようだった。
「──予定通りだ」
低く響くその声に、全員の動きが止まる。
「これは偶然じゃない。誰かが、我々の進入を“予知”していた。
……つまり、“ここ”が本命だ」
漣の視線の先、崩れた天井の奥で、青白い光が脈動していた。
電磁干渉と感情波の混線。記録サーバーの奥底で、何かが“生まれよう”としている。
成瀬が息を呑む。
「まさか……封印されてた“実験体”か……?」
漣は答えず、ただ一言、冷たく命じた。
「全員、遮断壁の内側に下がれ。ここからは──“影の作戦”だ」
再び爆風。
天井の配線が火花を散らしながら落下し、漣の影が揺れた。
その瞬間、彼の胸元の通信端末が微かに反応し、
ノイズ混じりの幼い声が、かすかに流れ出す。
『──おとう、さん……やめて……』
影烏誕生の記録が、静かに再生を始めた。
【2025年6月3日 午前3時40分】
【第六調整区・地下通信実験棟 通路B-9】
──だが、その時。
突如、周囲の照明が一斉に落ちた。
赤い非常灯が瞬く間に点滅し、警報音が重低音で通路を震わせる。
「停電……? 違う、これ、制御遮断だ!」
桐野が叫び、端末を操作するが、画面には無数のノイズが走る。
“ジジジ──”
空気が歪むような電磁音。
通路の壁面がまるで生き物のように脈打ち、
焼け焦げた鉄の匂いと共に、黒い影のような粒子が浮かび上がる。
安斎が即座に防御波を展開した。
「精神波干渉反応──出所は、上層記録階層……いや、違う。これは“中にいる”!」
漣の目が鋭く光った。
「……記録体が、覚醒したのか」
次の瞬間、通路の奥──さっきまで青白い光を放っていた区画の中心から、
人の形をした影がゆっくりと立ち上がった。
黒い粒子が人の輪郭を描き、歪んだ声が空気を震わせる。
『……ぼくは……消えたはずだったのに……』
成瀬が低く息を呑む。
「まさか……“影烏”の原型体……!?」
玲が一歩前に出た。
瞳の奥で、冷たい光が一瞬だけ走る。
「──いいや、まだ“影烏”じゃない」
「これは、“誰かの記憶”が形を成そうとしている段階だ」
その言葉と同時に、再び通路が激しく揺れ、天井の鉄骨が落下する。
火花が散り、空間全体が“記録層”へと変質を始めた。
世界が、現実から記憶へと沈んでいく。
そして、その中心に立つ“影の子供”の目が、ゆっくりと玲を見た。
『──玲……? どうして、ここにいるの……?』
【2025年6月3日 午前3時45分】
【第六調整区・通信実験棟 地下封鎖層E-1】
──かつての影の第零班、最後の矜持。
焦げた鉄の匂いと、記録層のノイズが入り混じる中。
柴倉漣は、崩れ落ちた通路の瓦礫を踏み越えて進んでいた。
爆風で焼け焦げた壁には、かつての仲間たちの識別コードが刻まれたまま残っている。
“第零班”──最初の影、最初の犠牲。
表には決して記録されない存在。
その名を知る者は、今では数えるほどしかいない。
『……漣、後退しろ! この層はもう……!』
通信越しの声。紫苑のものだ。
しかし、漣は立ち止まらない。
彼の足取りには、ためらいも恐怖もなかった。
「後退はしない。──第零班の矜持は、ここで終わらせない」
手の中でナイフが光を反射する。
空気が裂け、金属の響きがこだまする。
前方、闇の中に“それ”は立っていた。
影のような人影。
だが、漣には見覚えがあった──かつて、彼が守れなかった少年の輪郭。
『……どうして、ぼくを、あの日、置いていったの……?』
その声に、漣の表情が一瞬だけ歪む。
胸の奥に沈めた後悔が、鋭い刃のように突き刺さる。
「……悪いな。
でも──俺たちは、“生かすために”お前を残したんだ」
影が微かに震え、空間がねじれる。
記憶の層が重なり合い、過去と現在がひとつになる。
漣はその中心へと、迷わず踏み込んだ。
焼けた床に黒い足跡を残しながら、
かつての仲間たちの亡霊が、背後で静かに手を伸ばすように見えた。
──失われた記憶。抹消された仲間。
それでも、影はまだ終わらない。
「影烏──お前が生まれる前に、俺たちは“真実”を残していたんだ」
その言葉を残し、柴倉漣は闇の奥へと消えた。
【2025年6月3日 午前3時48分】
【第六調整区・通信実験棟 地下最下層 記録再構築サーバールーム】
──そして影班は、漣の導いた通路を抜けて、最下層・記録再構築サーバールームへとたどり着く。
焼け焦げた金属扉の向こうに広がっていたのは、まるで“機械の墓場”のような光景だった。
無数のサーバータワーが黒く焼け落ち、液晶の破片が床一面に散乱している。
しかし、中央の一基だけが──まだ生きていた。
青白い光を瞬かせるその筐体には、「R-00:再構築母体」と刻まれた識別プレート。
微かに唸る冷却ファンの音が、まるで心臓の鼓動のように響く。
成瀬由宇が即座に警戒姿勢をとり、桐野詩乃が端末残留データの解析を開始する。
安斎柾貴は通路の死角を見張りながら、静かに言葉を漏らした。
「……ここが、“影烏”が生まれた場所、ってわけか」
玲は一歩、前へ出る。
彼の視線は冷たく、それでいて確信を帯びていた。
「違う──ここは“創らされた”場所だ。
影烏は人の罪と記録の歪みの中から、生まれざるを得なかった」
その言葉に、サーバーの光が一瞬だけ強く点滅する。
続いて、部屋全体に低い共鳴音が走った。
【記録起動プロトコル:再構築シーケンス R-00 開始】
電子音声が響いた瞬間、床に刻まれた回路が青く光り出す。
次の瞬間、周囲の壁面に“人影”が浮かび上がった。
──それは、記録の残響。
消された職員たち、封鎖実験の被験者、そして……少年の姿。
朱音が思わず息を呑む。
「……これが、記録の……叫び?」
玲は静かに頷き、前を見据えた。
「いいや──これは、“影の記憶”そのものだ。
ここからが、本当の再構築だ」
光が弾ける。
現実の層が揺らぎ、彼らの意識が再び“記憶空間”へと引きずり込まれていった。
──その中心で、かつての第零班副隊長・柴倉漣の影が、微かに微笑んでいた。
【2025年6月3日 午前3時49分 記録再構築サーバールーム・中枢隔離区画】
重厚なセキュリティ扉が、空気を裂くような音を立てて開いた。
鉄と油の匂いが混ざった冷気が一気に吹き出し、ヘッドライトの光を白く濁らせる。
玲が先頭に立ち、慎重に一歩踏み込む。
床にはケーブルが蛇のように這い、壁面のパネルは焼け焦げてひび割れていた。
だが、中央の台座に鎮座する一体──黒い冷却ユニットだけは、今もかすかな呼吸をしていた。
「動いてるな……」
成瀬由宇が低く呟く。指先で空間をなぞると、データの微弱な流れが空気を振動させた。
桐野詩乃が携帯端末を接続し、即座に解析モードを起動する。
「反応あり……システムコード〈R-00〉。封鎖命令の上書き……あり得ない、誰かが再起動を――」
彼女の言葉が途切れた瞬間、低い電子音が部屋全体に響く。
【アクセス認証完了。再構築プロトコル起動】
青白い光が床を走り、回路の紋様が浮かび上がる。
玲は即座に叫んだ。
「由宇、柾貴、離れろ!」
しかし次の瞬間、光は脈動し、空間そのものが歪んだ。
天井の照明がねじれ、壁面が波打つ。
──“記憶層”が、現実と接触を始めたのだ。
桐野の端末が自動的に切り替わり、画面に無数の顔と断片的な音声が流れ込む。
それは、封鎖実験で犠牲になった子供たちの記録。
『……おかあさん……こわいよ……』
『……だいじょうぶ、すぐ帰れるって言ってたのに……』
安斎柾貴が歯を食いしばる。
「これは……全部、消された“声”か……」
玲は無言でその中心に立つ。
彼の眼差しが、再構築ユニットの奥──虚ろなスクリーンの中に映る“黒い影”を捉えた。
「……出てこい。
おまえが“影烏”か」
光が爆ぜた。
そして、記録が、現実を飲み込んだ。
【2025年6月3日 午前3時50分 記録再構築サーバールーム・中枢隔離区画】
記録は更新される。
今この瞬間にも、記憶の棺に刻まれる新たなログ。
過去と現在が重なり、封じられていた“出来事”が再構成される。
玲の目の前で、光が複雑に交差し、無数のデータ断片が宙を舞った。
破片の一つひとつが、泣き声、笑い声、叫び、そして――沈黙の記憶。
桐野が震える声で報告する。
「記録波、自己再結合を開始……。誰かが、再生を“望んでいる”……」
「望んでいる?」
成瀬が眉をひそめた。
「まさか、封印された人格が……」
その瞬間、部屋の中央に黒い霧が立ち上る。
電子信号が歪み、記録ノイズが音へ、音が言葉へと変換されていく。
『記録……再生中……』
『ここは、どこ……? どうして……まだ、終わらないの……?』
ユウタの声だった。
玲の瞳がわずかに揺れる。
十年前、倉庫崩壊事件の夜。彼が最後に残した“声”が、今、記録の中で再び息をしている。
桐野が叫ぶ。
「玲! 共感記録片が活性化してる! このままだと――!」
だが、玲は一歩前へ出た。
冷たい光の渦の中で、彼は静かに呟く。
「……構わない。
これが、“真実”にたどり着くための代償なら」
黒い霧が彼を包み込む。
視界が暗転し、音が消える。
次の瞬間、世界は――再構成された。
白い廊下。
赤い警告灯。
そして、あの夜の声。
『……逃げて……! もうすぐ崩れる……!』
記録と現実の境界が、完全に溶け合っていく。
玲の意識が、過去の“事件”そのものへと沈んでいった。
【2025年6月3日 午前3時53分 記録再構築サーバールーム・最深部】
漂う光の粒子が、ゆるやかに揺れながら空間を漂う。
記憶の棺、その最奥──。
張り詰めた沈黙の中、静かな足音が金属床を踏みしめる音が響いた。
一歩、また一歩。
光の粒がその足跡に反応するように淡く明滅し、まるで“過去”が呼吸をしているかのようだった。
桐野が小声で呟く。
「……ここが、“再構築の核”……」
成瀬は銃を構えたまま、前方の影を睨む。
「気を抜くな。空間そのものがまだ“生きている”」
静寂を切り裂くように、低いノイズが走った。
光の粒が一斉に散り、中心部の黒い装置が脈動を始める。
その瞬間、桐野のモニターが異常値を示した。
「……共感記録片が再起動してる……! 誰かの“感情波”が干渉してる!」
玲が前に出る。
目の奥には、ためらいのない決意の光。
「いい。……ここで確かめる。」
黒い装置の上、霧のような光が人の形を結び始めた。
それは、少年の輪郭。
声を失い、ただこちらを見つめる“記憶の亡霊”。
「ユウタ……?」
玲の口から漏れたその名が、空間を震わせる。
光の粒子が一斉に弾け、記憶層の深部が開いた。
──それは、影烏が初めて“現実”に干渉した瞬間だった。
【2025年6月3日 午前3時54分 記録再構築サーバールーム・最深部】
閃光。
光の粒が弾け、空間が歪む。
重い空気の中に、ひとつの影が立っていた。
──漣が現れた。
焼け焦げたジャケットの裾を翻し、ゆっくりと歩み出る。
その眼差しは冷たく、しかし奥底には確かな炎を宿していた。
桐野が息を呑む。
「……シャドウストレイン……?」
漣は何も答えない。
ただ、足元に転がる端末の残骸を見下ろし、低く呟いた。
「……まだ、終わってない。記録は、“あの日”で止まったままだ」
玲が一歩、前へ出る。
「漣……あなたは、あの封鎖実験で──」
彼は振り向かず、静かに右手を上げた。
掌に刻まれた古い識別コードが、赤く脈動する。
「影烏の記録を……解放する」
瞬間、部屋中の光が揺らぎ、再構築サーバーが唸りを上げた。
封じられていた“声”が次々と流れ出す。
悲鳴、泣き声、祈り──そして、かすかな笑い声。
それは“第零班”が消えた夜の記録。
そして、漣が守ろうとしたもののすべて。
玲が目を見開く。
「……あなたは、まだ“あの記録”の中にいたのね」
漣はわずかに微笑んだ。
「俺たちは……記憶に縛られた亡霊だ。けど、それでも──守る理由はある」
光が弾け、影班の通信が途切れる。
世界が反転する直前、玲の耳に、彼の声が確かに届いた。
「……次に目を覚ます時、“影烏”は完成する」
【2025年6月3日 午前3時56分 記録再構築サーバールーム・最深部】
──記憶の再構築フェイズ、最終段階へ突入する。
冷たい電子音が空間全体に響き渡った。
光の粒子が収束し、サーバーの中心に巨大な円環が浮かび上がる。
幾重にも重なったデータの波が、呼吸のように明滅しながら鼓動していた。
桐野の瞳が細められる。
「……フェイズ・スリー。ここまで進むと、もう“削除”じゃなく“再生”だわ」
成瀬が刃を構えながら呟く。
「再生? つまり、何かが“生まれ変わる”ってことか」
九条凛の声が通信に割り込んだ。
『注意して。感情層の変動が異常。……これは、単なる記録再生じゃない』
玲の視線が円環の中心へ向く。
そこに、ゆらゆらと人影が立ち上がっていく。
──それは、かつて「柊K-04」と呼ばれた少年の輪郭。
崩壊した記憶データの中から、彼の“存在”そのものが再構築されていた。
朱音が小さく息を呑む。
「……ユウタ?」
少年の瞳が、微かに開く。
光も闇も映さぬその瞳が、まっすぐ玲を見つめた。
玲の声が震える。
「……いや、違う……これは“ユウタ”じゃない」
円環の光が激しく瞬き、金属床が共鳴する。
“誰かの声”が、重なり合うように響き出した。
「──記録の証人、コード・シャドウ。
プロトコル・影烏……起動」
空間が一瞬、白く焼き切れた。
次の瞬間、玲たちはまるで引きずり込まれるように──
“記憶の内側”へと転落していった。
──光と闇の狭間で、ゆらめく輪郭。
それは「存在そのものが記録された少年」。
肉体も魂もとうに失われ、残されたのは“記録”という名の生存。
それでも、彼の瞳には確かに“生きていた頃”の意志が宿っていた。
玲が低く呟く。
「……これは、生きている記録体──いや、“封印という名の記録体”か」
円環の中心で、少年が静かに顔を上げる。
その周囲のデータ層がひび割れ、青白い光が漏れ出した。
九条凛の声が震える。
『あり得ない……! 記録の位相が人格領域と融合している……!
彼は“記録”じゃない。“記憶そのもの”が存在しているのよ』
桐野が息を呑む。
「じゃあ……今ここにいる彼は──」
玲の瞳が、冷たく細められる。
「“記録された存在”が、再びこの世界に触れようとしている」
少年の唇が微かに動いた。
「……ぼくは……消えたんじゃない。
記録の奥で……ずっと、呼んでいたんだ──」
次の瞬間、サーバー全体が眩い光に包まれた。
記録と現実の境界が崩れ、空間そのものが“彼の記憶”に書き換えられていく。
──こうして、“封印された記録体”は目を覚ました。
それが、後に影烏と呼ばれる存在の“誕生”だった。
【2025年6月3日 午前3時57分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最下層 記録再構築サーバールーム】
散らばるメンバーたち──。
柊K-04:通信妨害と心理攪乱を担う指揮補佐。
ノイズまみれの通信機を握りしめたまま、なお指先を動かしていた。
その唇から洩れるのは、仲間の名と断片的なコード。
「──シグナル維持……まだ、落とすな……」
意識は薄れながらも、彼の干渉信号がシステムの崩壊をわずかに食い止めていた。
斎木X-3:重装支援と広域殲滅担当。
彼の右腕は、先ほどの爆発で完全に失われていた。
それでも、残った左手でシールド発生装置を起動し、
崩壊する天井から仲間を守るように立ちはだかっていた。
金属音の中、彼の瞳は静かに笑っていた。
「まだ……終わっちゃいねぇだろ……」
セラY-β:情報潜入と記憶奪取のスペシャリスト。
胸には致命的な損傷。
それでも、彼女の端末はなお稼働し続け、
光の線が空間を走る──
「……データ……抜いたわ……これが……“影烏”の原核」
彼女の声が途切れた瞬間、端末のスクリーンに“UNKNOWN CODE:A-01”の文字が浮かぶ。
そして──
最後に立っていたのは、戦術統括であった男。
柴倉漣。
コードネーム:シャドウストレイン。
破損した義眼が赤く光を放つ。
その目には、倒れた仲間たちの姿が焼き付いていた。
「……第零班、“影”の矜持を……ここで終わらせるわけにはいかない」
彼は静かに片膝をつき、サーバーの中枢核に手を置いた。
光の奔流が一気に逆流し、記録の層が震える。
「……影烏計画、最終承認コード──ストレイン・ゼロ、発動」
その瞬間、轟音とともに光が弾け、
漣の姿が記録空間の中心に吸い込まれていった。
──それが、“影烏”誕生の瞬間だった。
【2025年6月3日 午前3時59分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最下層 記録再構築サーバールーム 西側格納通路】
「──これで終わりだと思ったか?」
低く抑えた声が、焼け焦げた空間の残響を震わせた。
玲と漣が一斉に振り向く。
薄明かりの中、ゆっくりと歩み出る影がひとつ。
金属音を立てながら、重装靴の先が瓦礫を踏み砕く。
──一ノ瀬 壬生。
影零班の元追跡戦術官。
小柄だが、歩調には無駄がない。
全身を包む黒の戦術スーツの表面には、焼け焦げと古い血痕が滲んでいた。
彼の左義眼が赤い閃光を放つ。
「観測型デバイス・モードB、起動……」
わずかに唇を動かすと、視界の端に数百もの光の残像が走った。
壬生の視覚は、数キロ先の熱源を感知するだけでなく、
この空間に刻まれた“過去の残留データ”──
記録の影──を視覚化していた。
「……見える。あの夜の“記録”。ここにまだ残ってる」
彼の義眼が青白く輝き、空間の一角に微かな人影が浮かび上がる。
かつての仲間たちの笑顔。
そして、崩壊直前の“柊K-04”が泣き叫ぶ残響。
漣が、深く息を吐いた。
「……おまえ、生きていたのか」
壬生は一歩踏み出し、かすかに笑う。
「生きていた……というより、“残っていた”だけさ。
──俺はもう、生身の人間じゃない。“記憶を視る装置”だ」
義眼が再び赤く瞬いた。
視線の先に、黒い靄のような存在が蠢き出す。
漣が短く呟く。
「……影烏の断片か」
壬生は静かに頷いた。
「そうだ。あいつはまだ終わっていない。
おまえたちが“封じた”と思っているその記録──今、目を覚まそうとしている」
次の瞬間、空間が歪み、無数の光の粒が壬生の義眼から放たれた。
それは記録の残滓を読み解くための“観測衝撃波”。
玲が反射的に後退しながら呟く。
「……これは、記録干渉型の視覚波動……!」
サーバールーム全体が軋み、金属の床が低く唸る。
──そして、“影烏誕生”の記録が再び、動き始めた。
【2025年6月3日 午前4時07分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最下層 記録再構築サーバールーム 南側接続通路】
重たい静寂を破ったのは、**“チリ……”**という微かな金属音だった。
その音は、壁の亀裂を伝って空気を震わせ、音波のように空間を撫でた。
玲が眉をひそめる。
「……この反響、人工的な共鳴だ。誰かが、通路を開けている」
次の瞬間、暗闇の奥から淡い橙色のライトが灯る。
光の中に姿を現したのは、一人の男──
──三堂 礼音。
黒い防音マスクを顎にかけ、左耳の後方には銀色の補助装置が装着されている。
彼の足元では、解除済みの小型地雷が十数個、規則正しく並べられていた。
「爆発物反応、全消失。安全域確保──」
淡々と報告するその声は静かで、どこか響きを欠いている。
だが、彼の目には“音の情報”が流れていた。
過去の衝撃波、金属の共鳴、残響する声──。
三堂礼音の世界は**“音が見える世界”**だった。
彼は事故で聴覚を失って以来、音を“記憶の波形”として視覚的に再構成する技術を身につけた。
彼の補助装置は、空間内のわずかな振動を読み取り、
音の記憶を立体映像のように可視化する。
「……音が残ってる。ここで“誰か”が叫んだ」
礼音が片手を上げると、通路の空中に波紋のような光が浮かぶ。
それは声の残響を可視化した“音の記憶”。
『──逃げて、柊!』
焼けた空気の中、少女の声が確かに再生された。
玲が振り向く。
「……音声再構成……この層の記録にまだ、感情波が残っているのか」
礼音は静かに頷く。
「聴こえなくても、“音”は消えない。
──俺はそれを見る。それが、俺の仕事だ」
壬生がわずかに口角を上げた。
「……三堂礼音、か。おまえが来るってことは、本気で“記録層”を解くつもりだな」
礼音は淡い微笑を浮かべ、工具ケースを閉じた。
「影烏の記録は“音”を喰う。
なら、俺が聞いてやる。──あの夜の“最後の声”を」
その瞬間、再構築サーバーの奥から、低い唸りが響いた。
記録層の波形が乱れ、空気が揺らぐ。
玲が短く指示を飛ばす。
「全員、感覚防護を。……“記憶の声”が、こっちに来るぞ」
光と音と記憶が交錯する。
──“影烏”誕生の夜、封印された真実が、いま再び響き始めた。
【2025年6月3日 午前4時12分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最下層 記録再構築サーバールーム 北側防衛通路】
薄暗い通路の向こうで、空気がわずかに揺れる。
静寂の中に混ざるのは、微かな呼吸音──生き物の存在を告げる信号。
──黒紫の戦闘ジャケットが闇に溶ける。
白峰 沙夜。
影零班のかつての影護担当。
生体防御と心理干渉阻止を任務とし、戦場では仲間の盾となる存在だった。
「……記録層、揺れすぎ」
低く呟き、手首に装着されたセンサーが光を放つ。
周囲の微細な心理波動を解析し、異常を検知する能力──
彼女の盾は、“記憶干渉”の波から仲間を守るために展開されていた。
任務中に毒物感染で倒れた過去も、抗体生成技術と精神耐性訓練により克服。
その結果、心理干渉に耐性を持つ“生きた防壁”として現場に立っている。
桐野が小声で囁く。
「沙夜がいるなら、感情層の波動も多少は抑えられる……」
沙夜は静かに頷き、周囲の空間に薄紫の光を纏わせた。
その光は、記録層内の暴走する感情波を吸収し、安定化させる結界のように作用する。
「全員、心理干渉域に入る前に位置を固めろ」
彼女の声は落ち着いているが、周囲の波動は確実に抑えられる。
壬生が視線を向ける。
「……さすが、影護担当。見える、感情の波が盾で折り返されている」
沙夜はそのまま通路を前進し、仲間たちの前線を形成する。
黒紫の影が、サーバールームの暗がりに静かに揺れる。
──彼女の存在こそが、封印された記録層の混乱を抑え、影烏の覚醒に抗う最初の“防波堤”となった。
【2025年6月3日 午前4時18分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最下層 記録再構築サーバールーム 中央防衛ライン】
金属床を踏みしめる重低音が、部屋中に響いた。
振動が床を伝い、瓦礫の隙間で跳ね返る。
──その一歩一歩が、存在感と威圧を物理的に示す。
久我 大雅。
影班の物理攻撃と重装展開の破壊特化型。
盾として、また門として、仲間の進行ルートを確保する戦術核。
かつて任務中、爆風から仲間を庇った際、両脚に重傷を負う。
義肢とパワードフレームを装着し、再び戦場へ復帰。
動きは重く、機械音を伴うが、その一歩ごとに込められた意思は、瓦礫すら押しのける力を持つ。
「……全線展開、俺が先導」
低く、太い声が通路に響く。
パワードフレームの油圧音と金属音が、まるで生きた武器のように空間を支配する。
桐野が横目で確認する。
「……久我が前に立つだけで、敵の侵入速度を抑えられる」
白峰 沙夜の心理防護と連動し、久我の重装が前線を固める。
由宇、礼音、壬生──全員が彼の展開に沿って位置を取り、記録層への侵入を最小限のリスクで進められる。
久我は目を細め、瓦礫の向こうを見据えた。
「……行くぞ。俺の前に立つ者は、誰も通さない」
その重厚な足取りが、暗闇のサーバールームに確かな秩序をもたらす。
──彼の存在こそが、影烏覚醒前夜の最終防衛ラインであり、仲間たちの命綱となった。
【2025年6月3日 午前4時26分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最下層 記録再構築サーバールーム 東側観測通路】
空間の空気がわずかに揺れた。
壁の隙間から、金属や瓦礫の残響に紛れる不自然なノイズ。
──小さな影が、光と音の狭間に浮かぶ。
日向 葵。
影零班の“ノイズ兵”。
情報拡散と心理陽動を得意とし、敵の感覚を翻弄する異質な存在。
頭部に装着した電磁干渉ユニットが、微かな振動と光を放つ。
視界、音、そして感情波──あらゆる情報を操作し、混乱を作り出す能力を持つ。
「……さて、楽しませてもらおうか」
小さな声だが、通路に反響するノイズがその声を複数に分散させ、聞く者の方向感覚を狂わせる。
数年前、精神干渉による自壊状態に陥った経験を持つが、特殊メンタル制御処置によって復帰。
今では、自らの心理波を盾と矛に変え、戦場での心理的優位を確立している。
由宇が視線を送る。
「……日向か。奴のノイズ干渉、現場全域に展開してる」
日向は小さく手首を振る。
微弱な電磁パルスが空間を満たし、敵の認知情報を乱す。
記録層内での影烏の断片的な視覚・聴覚に干渉し、追跡の精度を下げる作戦。
壬生が冷静に解析する。
「……彼の干渉範囲、広すぎる。感情波にまで影響を与えている」
日向は闇に溶けるように身を低くしながら、静かに笑った。
「混乱は芸術だ──さあ、どう踊る?」
その一瞬、光と音が歪む。
──影烏の覚醒に抗う、影零班最後のノイズ操作が始まった。
【2025年6月3日 午前4時33分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最下層 “最深層記憶領域”入口】
空気が異様に重い。
視覚はかすみ、音は遠く、振動は肉体に直接響く。
──ここが、最深層。
導入人物:水無瀬 透
影零班の“記憶探査官”。
深層意識へのアクセスを得意とし、対象者の感情・肉体感覚に同調して記憶層内部を進む能力を持つ。
透はゆっくりと呼吸を整え、指先で空気の流れを感じ取る。
鼓動のリズム、皮膚の微細な温度変化、緊張による筋肉の微振動──
全てが、最深層内で同期され、彼自身に伝わる。
「……くっ……感情波が強い」
透の目が微かに潤む。
過去に誰かが感じた恐怖、悲しみ、希望──それが一度に押し寄せ、胸を締めつける。
背後から由宇が囁く。
「……あの感覚か。最深層……身体に直撃するレベルだ」
透は目を閉じ、全身で情報を受け止める。
そして静かに指示を出す。
「全員、感情同期を意識して前進。記録層はもう、表層ではなく感覚の海だ」
その瞬間、通路の壁から微かな光が滲み出し、過去の情景と感情が混ざり合って、現実と記憶が重なり合う。
──最深層の探索は、ただの調査ではなく、感覚の冒険となった。
【2025年6月3日 午前4時41分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最下層 “最深層記憶領域”内部】
──無音。
世界の音が消え、色彩までも薄れていく。
視覚・聴覚・触覚すべてが抑制され、ただ“存在”だけが残った空間。
導入人物:三条 静
影零班の“無音特化型オペレーター”。
音を感知する神経を極限まで制御し、無音環境下での動作と心理干渉に特化。
聴覚が遮断されても、振動や空気の流れ、仲間の存在感を正確に把握できる。
静はゆっくりと周囲を見渡す。
音が消えたことで通常なら混乱するはずのチームも、彼女の存在により落ち着きを保つ。
「……動くな、音を立てるな」
低く、しかし鋭く響く声。声の存在そのものが心理的な鎮静剤となる。
由宇が囁く。
「……あの静、無音環境でも完全に感覚を補正している」
静は手のひらを床にかざし、微細な振動を読み取る。
瓦礫の微妙なずれ、息遣い、空気の流れ──
無音の中で、仲間の位置と敵の接近を正確に把握する。
その動きは、最深層で感情波や記憶干渉が暴れ出す中でも、チームを現実に繋ぎとめる“生きた羅針盤”となる。
──無音という名の戦場で、彼女の能力が最深層探索の鍵となった。
【2025年6月3日 午前4時47分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最下層 記録再構築サーバールーム 内部・爆心域】
──熱気が肌を焦がす。
鼓膜が張り裂けそうな轟音に揺さぶられる。
視界に揺れる残像。瓦礫の向こうで、少年が必死に手を伸ばす。
燃え盛る光の中で、その唇が震え、最後の言葉を紡ぐ。
「……母さん……!」
その声は、物理的には届かずとも、最深層の“感情波”として周囲に残る。
悲痛、絶望、愛──全てが記録され、空間そのものに焼き付けられる。
水無瀬透が目を閉じ、胸に手を当てる。
「……これは、少年の最後の感覚……。皮膚の熱、鼓動、痛み、恐怖……すべて同調する」
三条静は微動だにせず、無音の中で空気の振動を読み取る。
「……彼の存在はもう、現実にはない。だが、感情層としては生き続けている」
由宇が低く呟く。
「……あの少年の記憶、この層を覆う“核”になるかもしれない」
その瞬間、爆心地の残響と少年の感情が最深層に波紋を描き、記録層の時間と空間が歪み始める。
──これが、影烏誕生への原初の痕跡であり、封印され続けた真実の入口となった。
【2025年6月3日 午前4時58分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最深層“隔離セルF-12”】
湿り切った空気は、鉄と血の臭いを重く孕んでいた。
細い呼吸が、暗闇の中でかすかに震える。
──少女は、閉じ込められていた。
膝を抱えたまま、冷たい床に背を預ける。
壁に触れる指先は、すでに皮がめくれ、赤く擦り切れていた。
「……だれか……聞こえる……?」
声は掠れ、ほとんど息のように漏れるだけ。
返事はない。
ただ、錆びた鉄扉が響かせる、微かな軋み音だけが続く。
少女は、震える手で扉を叩いた。
小さな拳で、何度も何度も。
「……あけて……お願い……」
「さびしいの……こわいよ……」
扉は動かない。
少女の泣き声が消えてゆくほど、静寂は深く増していく。
冷えた涙が頬を伝う。
喉の奥から、痛みとも願いともつかない声が漏れる。
「……お母さん……」
その一言は、あまりに弱く、しかし切実だった。
壁に染み込んだように、かすかな響きだけが残る。
彼女は指先を見つめた。
血で滲んだ爪、震える手。
それでも、諦めなかった。
まだ届くと信じていた。
「……だれか……だれでも……」
「わたしを、ここから……出して……」
その瞬間。
隔離セル全体が、まるで息を呑むように沈黙し、
次いで、記録層の深部から“別の記憶”が、黒い霧となって滲み出し始めた。
──「少女の声」。
──「少年の叫び」。
──「影烏の原初記録」。
それらが、重なり始める。
少女の震え声は、やがて記憶の層に焼き付けられ、
後に“封印された存在の証拠”として、影烏編へと繋がっていくことになる──。
【2025年6月3日 午前4時59分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最深層“隔離セルF-12”】
少女の息は細く、弱い。
闇に溶けてしまうほどの声すら、記録層は確かに拾い上げていた。
鉄の壁に触れた指先は震えていたが、
その震えの奥には──消えない何かが、微かに脈を打っていた。
──これは、ただの記録ではない。
失われた想いが、今なおここで“生きている”証だった。
少女の涙の跡も、
擦り切れた指先の赤い軌跡も、
絶望の中で絞り出された小さな声も。
すべてが、記録としてではなく、
“願い”として、この最深層に焼き付いていた。
遠くで微かな音がした。
まるで、誰かが扉の向こうに触れたような──そんな小さな気配。
少女が顔を上げる。
瞳には涙が揺れたままだが、その奥にわずかな希望の光が差す。
「……だれか……いるの……?」
返答はない。
だが、この空間に漂う“想い”が確かに応えた。
まだ終わっていない、と。
まだ切り捨てられていない、と。
そして、この“生きている記憶”が、後の影烏の誕生と、
玲たちが追い続ける事件の核心そのものへと、
静かに繋がっていくのだった──。
【2025年6月3日 午前5時02分】
【第六調整区・地下通信実験棟 最深層“記憶連結域”】
漂う光の粒子が、色を変えながら三方向へ裂けていく。
まるで、異なる心臓の鼓動が同時に鳴り響き、
互いの“最も深い場所”を暴き合うように。
それは──
どの記憶も、誰かの「最後の願い」でできた断片だった。
◆朱音の記憶──“焼けた教室で見た最後の背中”
【時間:午後3時41分】
【場所:市立第二小学校・旧校舎 3階・2年B組教室】
黒煙が天井を舐めるように広がり、
焼けた床のきしむ音が、朱音の小さな身体を震わせていた。
熱気は皮膚を刺すほど鋭く、
窓際のカーテンはすでに炎に飲み込まれ、
赤い光が教室全体を狂ったように揺らしている。
そのとき──。
倒れた机の陰にうずくまった朱音の視界に、
ひとつの“背中”が立ちはだかった。
灰色のスーツの肩が煤で黒く汚れ、
袖口からは焦げた布がわずかに垂れている。
しかし、その姿は恐怖よりも
「温度」を帯びていた。
誰よりも近くで、炎から朱音を庇うように
大人の背中は動かずに立ち続けていた。
「──動かないで。朱音ちゃん、大丈夫だから」
振り返らずに、声だけが届いた。
息が荒い。
噎せるような咳が混ざる。
それでも、朱音を落ち着かせるためだけに
優しい音色を必死に保っているのが分かった。
朱音は震える唇で、かすかに返す。
「……こわい、よ……」
大人の背中が、わずかにだけ揺れた。
「大丈夫。絶対に君を外に出す。
──だから、“ここ”を見ていて」
その言葉が、炎よりも強く朱音の心に刻まれた。
やがて天井が軋み、どこかでガラスが割れる音がした。
世界が崩れていく音が連続で響く。
だが朱音の視界には、
炎ではなく、その“背中”だけが焼きついた。
強く、真っ直ぐで、
どこか悲しげな背中。
朱音は忘れられない。
あの瞬間だけ、自分はひとりではなかった。
──その背中の主の名前を、
今も、思い出せないまま。
◆柊コウキの記憶──“倉庫事件の怒りと喪失”
【時間:午後8時12分】
【場所:市外沿岸部・旧輸送倉庫 第3区画】
湿った鉄と古い油の匂いが漂う倉庫に、
最初の“崩れ落ちる音”が響いたのは、ほんの一瞬のことだった。
──ギィィ……ガアンッ!
鉄柱が傾く不吉な悲鳴。
空気が押しつぶされるように震え、
次の瞬間、暗闇が一気に押し寄せる。
「──ッ! 伏せろ!」
誰かの叫び。
だがコウキは振り返れなかった。
視界の端で、
あの人の背中が鉄骨の下へ押しつぶされるのを見たからだ。
「やめろ……っ、どいて……どいてよ!!」
駆け寄る。
膝が床を削る音さえ、耳に届かない。
瓦礫に手をかけた瞬間、
皮膚が裂ける痛みも、鉄の冷たさも、何ひとつ気にならなかった。
ただ──その下に、
自分にとって消えてほしくない“声”があった。
「動かないで……コウキ……っ」
掠れた声。
弱い。
弱すぎる。
コウキの胸の奥で、何かが激しく引き裂かれた。
「なんで……!なんで守るんだよ……っ!
僕が……僕が代わりだったら……!」
鉄の匂いと、血の温度。
手のひらが震える。
倉庫全体が崩れ落ちようとする轟音が響く中、
コウキの耳には、その声だけが残った。
「……生きて……コウキ。君は……まだ……」
最後まで言葉は聞こえなかった。
次の瞬間、鉄柱が連鎖的に崩れ、
その“存在”は闇に飲み込まれた。
コウキの喉から、叫びとも呼べない音が漏れる。
怒りだったのか、悲しみだったのか、
区別もつかない感情が胸を焼いた。
その後の記憶は乱れている。
誰かに抱えられて外へ出たのか。
自分で歩いたのか。
泣いたのか、叫んだのか。
ただひとつだけ確かに残ったのは──
守りたいと願った相手を、守れなかった自分への激しい怒り。
その夜、倉庫に残ったのは
崩れた鉄骨と、
彼の心に刻まれた“喪失”だけだった。
◆川崎ユウタの記憶──“守りたかった名前”
【時間:不明(記録断片より推定)】
【場所:無機質な隔離室・白壁区画】
──真っ白。
天井も壁も床も、
境界線すら分からないほど色が消えた世界。
物音ひとつないのに、
声だけが響く。
「ユウタ、聞こえる? ……返事をして」
優しい声でも、冷たい声でもない。
感情をそぎ落としたような“装置の声”。
少年の瞳はうるんでいた。
泣いている自覚はなかった。
ただ、胸がずっと締め付けられていた。
「……返事、できないよ。
だって……言ったら、消される……」
ユウタは震える拳を胸に押し当てる。
なぜ自分がここにいるのかも、
何を忘れさせられたのかも、
もう分からないはずだった。
それでも──ひとつだけ、どうしても消えなかった。
名前。
呼ばれた記憶。
手を引いてくれた記憶。
泣いた時、頭を撫でてくれた感触。
たった一言。
たった一つの、大切な音。
「……ぼくは……忘れたくないんだ。
あの人の名前だけは……」
白い部屋がゆらりと揺れたように見えた。
記憶再構築の“負荷”が始まっている。
声がもう一度響く。
「対象:名称照合。
ユウタ、君の中に残る“その名前”を提出して」
「いやだ……!」
ユウタは首を振る。
小さな体が震える。
「言ったら……あの人が、本当にいなくなる……っ」
理由なんて説明できなかった。
ただ分かっていた。
“名前だけが、あの人を繋ぎ止める最後の記録だ。”
白い壁が揺れ、光がチカチカと瞬く。
「ユウタ。
名前を提出しなさい。
それが君の“安定”に必要だ」
「やめて……やめてよ……っ!!」
叫んだ瞬間、
胸にしまっていたたったひとつの“音”が
強烈に脳裏に灯った。
──***(名前:伏せられたままの記録欠損)***
消えたはずの記憶が、たしかに脈打った。
涙が頬をつたう。
白い世界がさらに軋む。
「ぼくは……守りたいんだ……
せめて“名前”だけでも……
消えないで……お願い……」
その願いだけが、
隔離された白の空間を震わせる唯一の“本物の声”だった。
──それぞれが最後に守ろうとした想いが、
ここから一つの“存在”へ繋がる。
〈──ログイン:御子柴理央〉
〈──ログイン:水無瀬透〉
〈──ログイン:九条凛〉
【2025年6月3日 午前4時01分】
【第六調整区・最下層“記憶再構築サーバールーム”】
金属質の低音が、床を震わせた。
端末群が一斉に起動し、青白い光が壁面を走る。
霧のように漂っていた“記憶粒子”が
三人のログイン認証と同時に静かに収束し──
最深層への“扉”が開く。
御子柴理央は、指先を軽く動かした。
その動作だけで複数のウィンドウが展開し、
エラーフラグと欠損領域が立体的に浮かび上がる。
「……思ったより、崩れていないわね。
けど、これは──ただの欠損じゃない」
凛が静かに目を閉じ、深呼吸した。
“感情層”の波形を読むための処置だ。
「感情の揺らぎが強すぎる……
ユウタくんの記憶は、いまだ自我化と記録化の境界で振れている」
水無瀬透は、額に触れながら小さくため息をつく。
「過去を“感覚ごと”再生している状態。
このままだと、彼の意識の方が記録領域に取り込まれる」
御子柴が凛を見る。
「……行ける?」
凛は目を開け、短くうなずいた。
「最深層〈エモーショナル・デプス〉に潜る。
私が感情層の安定化、
透が意識の帰還ルート、
理央が記録片の再配置と復号。」
三人は端末の前に立ち、同時に手をかざす。
空間の空気がひび割れるように揺れ、
最深層の入口となる“青い亀裂”が音もなく開いた。
「──ユウタくん。
今度こそ、君を“記録の檻”から戻す」
九条凛の声は静かだが、
確かな決意が宿っていた。
──三重記憶。
【2025年6月3日 午前4時03分】
【第六調整区・最下層“記憶再構築サーバールーム”/最深層接続ゲート前】
青い裂け目が、低く脈打つように光った。
その光は三人──御子柴理央、水無瀬透、九条凛──の神経系を
別々の波長で揺らす。
理央が眉をひそめて呟いた。
「……来たわね。
“三重記憶”。
ユウタ、朱音、柊コウキ……
三人の感情記録が同一領域で重なっている。」
透はモニターに走る立体波形を見て、顔色を変えた。
「本来あり得ない構造だ。
個別の記録片が“互いを補完”するように重ねられている……
まるで誰かが最初から、
複数の記憶を一つの“核”として再構成したみたいだ」
凛は震えるような呼吸を整えながら、
三つの感情波の同期を維持するために指先をかざした。
青、赤、白──
三色の感覚光が彼女の周囲に浮かび、
お互いを押しつぶし合うように揺れている。
「……三重記憶の発生条件は
“強い保護欲求”
“共有された危機”
“同一対象への喪失感”。
三つがそろった時だけ起きる……
けど、これは明らかに自然発生じゃない」
透が喉を鳴らす。
「つまり──誰かが、意図的に三人の感情を重ねた?」
理央は冷静に補足した。
「感情を“束ねて一つの核”にしてしまえば、
その核に触れた者は全員……
同じ記憶の渦に引きずり込まれる。
影烏の誕生条件そのものよ。」
凛の表情が変わる。
「……三人の記憶が混ざっているなら、
最深層に踏み込むと、
“誰の感情”で世界が形作られるか分からない……」
青い裂け目がさらに大きく開き、
ひとつの“声”が微かに滲んだ。
──ぼくは……ここにいるよ。
ユウタの声だった。
だがその声には、朱音の震えと、コウキの怒りが重なっている。
理央が歯を噛みしめる。
「……急ぐわよ。
三重記憶が“崩壊相”に入ったら、
私たち三人の意識も引きずられる」
凛と透がうなずいた。
そして──
三人は同時に、最深層の裂け目へと足を踏み入れた。
記憶が、音もなくねじれた。
【2025年6月3日 午前4時06分】
【第六調整区・記憶再構築サーバールーム “最深層リンクホール”】
薄い霧のような光子粒子がゆらめく空間。
床は静かに脈打ち、生体回路のような紋が淡く発光していた。
ここは、記憶の“最深層”へアクセスするための中間領域──
現実と記憶が重なり始める危険な境界。
玲たちが立ち位置を整えた瞬間、
空気の密度が、目に見えるほど変化した。
──無音。
音が削ぎ落とされ、世界が一瞬、色を失った。
呼吸音すら消え、脈拍だけが耳の奥で重く響く。
直後、九条凛の声が震えを帯びて漏れた。
「……心理干渉、急激に上昇……! 三名分の記憶波が重なっている……!」
光の霧が、まるで生き物のようにうねり、
玲たちの足元に絡みついた。
それは記録の“残滓”ではない。
感情そのものが形を持ち、干渉を試みているのだ。
◆朱音の断片──熱。焦げた匂い。
◆コウキの断片──怒号。鉄が崩れる音。
◆ユウタの断片──白い空間。名を呼ぶ声。
三つの感情波が重なり、境界がたわむ。
凛は冷たい汗を流しながら、制御パネルに手を伸ばす。
「最深層の感情が……“同期化”を始めてる……
誰か、早く……外部リンクを……!」
その瞬間──
床下、深部から低い振動音が響いた。
金属と石が共鳴し、記憶層が完全に“開く”。
玲が瞬時に判断した。
「……くるぞ」
世界の境界が、静かに崩落した。
色のない渦が立ち上がり、
そこから無数の断片が浮かび上がる──
誰かの涙、誰かの叫び、誰かの後悔。
“心理干渉”。
それは単なる記録ではない。
失われた想いが、今なおここで“生きている”証だ。
そして、最深層はついに──
玲たちを飲み込んだ。
了解、空白を詰めて密度の高い小説描写に整えます。
以下は同じ内容を“密度の高い文体”で再構築したものです。
⸻
【2025年6月3日 午前4時08分】
【第六調整区・記憶再構築サーバールーム/最深層リンクホール】
床下のパルスが波のように脈打ち、光子粒子が重く漂っていた。そのわずかな揺らぎの中で、玲たちの身体に“誰かの鼓動”が重ねられたような不快な振動が広がる。
「……くるわよ、情動の流出。」
九条凛が小さく息を呑み、解析モニタを叩いた瞬間だった。
空間が震え、三つの感情が同時に吹き荒れた。
◆朱音の記憶──
玲の頬を、突然“温かい涙”が伝った。自分の涙ではない。十年前の朱音の涙だ。
「……この熱さ……記憶が直接、感覚に……」
◆柊コウキの記憶──
久我の胸が激しく脈打ち、怒りの波が全身を突き上げる。義肢フレームが悲鳴のように軋む。
「ぐ……っ……この怒り、身体の奥から這い上がってくる……!」
◆川崎ユウタの記憶──
成瀬の指がふるふると震えた。頬が青ざめ、声が消え入りそうになる。
「……ひとりだ……真っ白で……誰も……いない……」
凛の顔が蒼白になった。
「三つ全部が混線してる……このままじゃ、誰かの心が崩壊する!」
光子粒子が怒りの裂け目のように赤くひび割れ、朱音の涙の光が滴る。孤独を象徴する白い霧が床面を覆い、境界がゆっくりと“記憶側”へ侵食されていく。
玲が短く呟く。
「……ここが現実でなくなる。流出に飲まれれば、戻れなくなるぞ。」
そのとき、床が波打ち、三つの感情が一点に集束した。霧が淡く形を結ぶ。
涙の光、怒りの裂け目、孤独の白い影──それらが混ざり合い、黒い“人影”のような輪郭が浮かび上がった。
凛が小さく震える声で言った。
「……これはもう記録じゃない。“存在”として動き出してる……」
玲の瞳が鋭く光った。
「──影烏の、原型……!」
三人の記憶が溢れ、現実がゆっくりと侵されていく。
ここから先は、記憶でも記録でもない。
“生きている想い”との対峙だった。
了解、文体密度を保ったまま自然に物語へ織り込みます。
⸻
その瞬間、玲の視界に浮かんだのは──
まるで、過去という闇に灯された一本の光の道。
それは記憶の断層を貫き、情動の嵐の奥へ伸びる“帰還ルート”のようにも見えた。
朱音の涙が散らす光粒が道標となり、コウキの怒気が影を払い、ユウタの孤独が静かな余白をつくる。
三つの“心の形”が絡み合いながら、一筋の白い道を浮かび上がらせていた。
凛が小さく目を見開く。
「……これ、三重記憶の“重ね合わせ”……? 情動の流出が、逆に道を示してる……」
玲は一歩、闇へ踏み出す。
光の道は、確かにそこにあった。
だが同時に、足元では怒りと涙と孤独が渦を巻き、形を持ちはじめた“影烏”が低く唸っていた。
過去はただの記録ではない。
触れれば、飲み込まれる。
進まなければ、未来が奪われる。
玲は短く息を整え、光の道を見据えた。
「──行くぞ。三人の過去が、ここで一つになる前に。」
【2025年6月3日 午前4時15分】
【第六調整区・記憶再構築サーバールーム/最深層リンクホール】
玲は静かに膝をつき、漂う光子粒子の中に手を伸ばした。周囲を覆う霧と感情の渦は、未整理のまま暴れ出し、触れた者の心を揺さぶる。しかし彼は一歩も動じず、全身で“誰の記憶か”を感じ取り、目の前に現れる光景をただ受け入れた。
──ここで、彼が行うのは単なる観察ではない。
朱音の涙、コウキの怒り、ユウタの孤独──三つの感情波が混線し、現実に形を持ち始めた。玲はその渦に身を置き、記録の“感情層”と完全に同期することで、再構築される記憶の正確性を担保する。
「俺が……証人だ。」
声にならない声を心の中で繰り返しながら、彼は自らを“記憶の証人”として差し出す。誰も知らないその行為は、暴走する記憶の渦に秩序を与え、影烏誕生の起点を安定させる唯一の方法だった。
凛が遠隔で解析データを確認する。
「……玲が同期している間、この層の感情波は暴走しない。彼がいなければ、三重記憶は崩壊していたわ」
玲は冷静な表情のまま、光の粒子に手を置き、ゆっくりと深呼吸する。外界の喧騒も、痛みも、怒りも、すべて彼の意識に吸い込まれ、彼の心だけが“記憶の証人”として立ち続ける。
時間も場所も関係ない。
ここにあるのは、過去を守るために立つ一人の人間と、甦るべき記憶だけだった。
【2025年6月3日 午前4時18分】
【廃倉庫・第六調整区外縁】
──その空間は、瓦礫と煙の残る古い倉庫だった。
焦げた鉄骨が不規則に積み重なり、割れた窓から微かな月光が差し込む。空気は重く、湿気と焦げた臭いが混ざって鼻を突く。静寂の中、遠くで鉄の軋む音が反響し、床に落ちた瓦礫が微かに揺れるたび、影が揺らめく。
玲たちは慎重に足を進める。光子粒子の淡い光が床面や壁に反射し、まるで記憶の粒子が舞い踊るようだった。瓦礫の下に隠された記録断片、封鎖された意識──それらすべてが、この倉庫の奥深くに眠っている。
「……ここだ。あの夜の全てが、まだ残っている」
朱音はスケッチブックを抱き締め、小さく震える声で呟く。
「……うん……覚えてる……」
その瞬間、瓦礫の間からかすかな光が漏れ、三人の記憶の残響が倉庫全体に共鳴する。
怒り、悲しみ、孤独──それぞれの感情が現実の重力に押されて浮かび上がり、影烏の原型となる闇の輪郭を形作っていった。
【2025年6月3日 午前4時22分】
【廃倉庫・第六調整区外縁】
記憶同期完了。
ユウタの証言を中核に、散逸していた全データがゆっくりと再構成される。
瓦礫と煙に包まれた倉庫内に、淡い光の粒子が舞い、まるで過去の時間が巻き戻されるかのように空間が揺らぐ。朱音の涙、コウキの怒り、ユウタの孤独──三つの感情波が交錯し、浮かび上がる輪郭は次第に鮮明になった。
玲は深呼吸を一つ、慎重に目を閉じる。
「……これで、全ての断片が繋がった……」
光の粒子が集束し、記録の中に封印されていた“真実の核心”を照らし出す。
その瞬間、影烏の原型が、初めて現実の空間に姿を現す。
【2025年6月3日 午前4時35分】
【廃倉庫・第六調整区外縁】
静寂が戻った倉庫内。瓦礫と煙の間に漂っていた光は徐々に薄れ、やがて柔らかな朝の光に変わる。過去の記憶は再構築され、ユウタ、朱音、コウキの感情は互いに結びつきながら、ようやく安定を取り戻した。
玲は深く息をつき、周囲を見渡す。
「──終わったな」
朱音はスケッチブックを抱きしめたまま、小さく頷く。
「うん……みんな、ちゃんといる……」
コウキは無言で拳を握り、目の奥に消えかけた怒りの火を静かに鎮める。ユウタもまた、初めて笑みを浮かべ、守りたかった名前の重みを胸に刻む。
遠隔で監視していた凛と奈々も、安堵の声を通信越しに届ける。
「これで、記録は完全に安定。誰も、もう過去に囚われることはないわ」
影烏の原型は光の粒子となり、ゆっくりと消えていった。存在は残るが、その暴走の恐怖は、もはやこの世界を脅かさない。
瓦礫の間から差し込む朝の光に、三人の影が長く伸びる。
過去と現在が交差したこの場所で、彼らは初めて、未来に向かって歩き出せることを確信していた。
──そして、物語は静かに幕を閉じる。
だが、この世界にはまだ、語られざる記憶と、次なる闇の兆しが確かに残っていた。
【2025年6月3日 午前4時42分】
【廃倉庫・第六調整区外縁/臨時指令室】
玲は最後の報告書に静かにペンを走らせながら、低く呟いた。
「──これで全ての記録は、封印と再構築の両方が完了した。誰も、過去に迷わされることはない……」
朱音が横で小さく頷き、スケッチブックを抱き締めたまま微笑む。
「……玲さん、ちゃんと守ったんだね」
玲はペンを置き、窓の外に広がる廃倉庫の朝の光を見つめる。
「守るべきものは守った。だが、これで終わりだとは思わないことだ。記憶も、影も……いつ、何処で再び形を変えるかわからない」
凛の声が通信越しに届く。
「理解。次の異常記録も、すでに監視下に置かれています」
玲は小さく笑みを浮かべ、静かに立ち上がった。
「なら、俺たちは次の一歩を踏み出すだけだ──過去と未来の間で、記憶の証人として。」
【2025年6月12日 午後3時18分】
【佐々木家ロッジ・中庭】
初夏の風が、木々の間をそよがせながら通り抜けていく。
柔らかな陽射しの下、朱音は草むらに腰を下ろし、スケッチブックを広げていた。白いページに、小さな花の影が静かに落ちる。
足元には白峰沙夜が佇んでいる。
黒紫のジャケットが風に揺れ、だが彼女の視線だけは一切揺らがない。
朱音が色鉛筆を走らせるたび、沙夜はわずかに瞬きをするだけで、ひと言も発さない。
その姿は──まるで、少女の描く線の向こう側に眠る“記憶”を、ひとつひとつ確かめているかのようだった。
「……さよさん、これ、どう?」
朱音が花の絵をかかげる。
沙夜は短く息を吸い、
「きれいです」
とだけ答えた。
その声は、かつて毒物に侵され沈黙の闇に沈んでいた者とは思えないほど澄んでいた。
朱音はにっこり笑い、スケッチブックをそっと抱きしめた。
「もう、怖くないよ。だって……みんながいるから」
沙夜は答えない。
ただ、柔らかな風に揺れる花を見つめながら、胸に手を添えた。
──あの日、最深層で感じたあの“情動の流出”。
少女の涙、少年の怒り、守りたかった名前の声。
それらは今も薄く残響として沙夜の中に流れている。
けれど、今の沙夜は思う。
(……これは痛みじゃない。生きている証だ)
そして、彼女は朱音の隣にしゃがみ、静かに続けた。
「朱音ちゃん。あなたの描くものは、いつか……誰かの道しるべになります」
朱音はきょとんとし、やがてふわりと笑った。
その笑顔は、過去の影をそっとほどくように温かかった。
【2025年6月12日 午後4時02分】
【佐々木家ロッジ・裏庭・離れのガレージ】
その頃──影零班の元構成員たちは、静かに別れの準備をしていた。
薄曇りの空の下、離れのガレージには古い作業灯だけが灯り、微かに油と金属の匂いが漂っている。
長く続いた任務の終わりを告げるには、あまりに慎ましい光景だった。
久我大雅は重い義肢のロックを確認し、工具を静かに並べ直した。
「……ようやく、だな」
低い声は、安堵と寂しさが混じったように揺れていた。
その隣で、三堂礼音は小型の音解析装置をケースに収めていく。
無音の世界に生きる彼の動きは、まるで影のように静かだ。
ふと手を止め、彼は微笑むように口を動かした。
「音がなくても……みんなの声は覚えてるよ」
一ノ瀬壬生は古い戦術スーツの面ファスナーを外し、
まるで儀式のように丁寧に折りたたんだ。
「終わりじゃねえよ。ここから先は……俺たちの“生活”が始まる」
白峰沙夜は、小さな薬包と精神安定デバイスを並べてチェックしていたが、
その瞳には微かな翳りがあった。
「影から離れても……人の心に触れる仕事は、続けられます」
最後に、日向葵が旧式のノイズマスクを机に置き、
不意に明るく笑ってみせた。
「ねぇ、みんな。さよならって感じじゃなくない?
むしろ……“放課後、また会おうね”って感じじゃん」
大雅が呆れたように息を吐く。
「お前は最後の最後まで軽いな……」
「軽くなきゃ、やってられなかったんだって」
葵は肩をすくめ、天井を見上げる。
「でもさ。あの子……朱音ちゃんの絵、見た?」
沙夜がわずかに微笑む。
「ええ。……とても、強い線でした」
沈黙が落ちる。
その沈黙は、過去の喪失を悼むものではなく──
これから歩む未来の静けさを確かめるような、穏やかな沈黙だった。
壬生が背中にバッグを背負い、ガレージの扉へ向かう。
「じゃあ……俺たちも行くか。
影零班の終わりは──影烏が証明してくれた」
誰も反論しなかった。
その言葉は、ここにいる全員が抱いていた思いを正確に形にしていたからだ。
そして、古びたガレージの扉がゆっくりと開き、
初夏の風が彼らのもとへ流れ込んだ。
影零班は静かに歩き出す。
過去に囚われた影としてではなく──
ようやく、自分の時間を取り戻した人間として。
──そして誰も、後ろを振り返らなかった。
初夏の風が、去っていく影たちの背をそっと押した。
その足取りは迷いなく、振り返らないことが当然であるかのように静かで確かなものだった。
彼らの背中からは、かつての任務の重さも、悲しみも、血の匂いも、すべて遠ざかっていく。
同じ道を歩きながら、同じ景色を見ながら、それでも──
誰一人として、過去へ視線を戻す者はいなかった。
なぜなら、背後にあるのは“影としての人生”。
そして前に広がるのは、
影に生きた者たちがようやく手にした“これから”だからだ。
足音だけが、静かなロッジの外庭に伸びていく。
その音も、やがて風に溶け──
影零班は、ひとつの時代とともに完全に姿を消した。
【あとがき】
──語り:御子柴理央(記憶分析担当・K部門)
⸻
記録とは、ただの“事実の写し”ではない。
それは、誰かの心が揺れた瞬間の温度や、言葉にならなかった願いの影、
そして失われたはずの痛みを、静かに抱え込んだ“痕跡”だ。
今回の一連の“影零班”案件──正確には、
私たちK部門が再解析を担当した 《影烏前史事案(コード:Silent Hawk)》 は、
その典型だったと言える。
記憶は崩れていた。
感情層は歪んでいた。
ログは欠落し、声は途切れ、名前は塗り潰されていた。
解析官としては最悪の状態だ。
しかし、あの時、私は確信していた。
──この記録は必ず“再生”できる、と。
なぜなら、そこには“想い”が残っていたからだ。
どれほど傷つけられ、封印され、消されかけても、
子供たちの心の残響だけは、まだ薄く震えていた。
九条凛が感情層を固定し、
水無瀬透が深層へ潜り、
玲や影班の面々が身体を張って“記録の外側”を押さえ込む。
そして──
ユウキが“証人”として最後の扉を開いた。
あの瞬間、私は、かつてないほど静かに震えた。
記録は、データではなく、“生きている”のだと。
だからこそ、我々分析官は、
たとえどれだけ残酷な記憶であっても向き合わなければならない。
誰かが確かにそこにいたという証を、
嘘で上書きさせないために。
今回の再構成で浮かび上がった真実は、
決して軽いものではなかった。
影零班の喪失、少年たちの願い、
そして影烏という存在の起点──
どれも、私たちが想像していたより、ずっと痛ましく、
そして、ひどく人間的だった。
それでも、すべての記録が繋がった今、
私はひとつの結論に、静かに辿り着く。
「記憶とは、救いのために存在する」
そうでなければ、あれほどの痛みが光へ変わる理由がない。
この物語を読んでくれたあなたが、
ほんの少しでも、誰かの“想い”の重さや、
そのかすかな輝きに気づいてくれるのなら、
記録分析官として、これほど嬉しいことはない。
──御子柴理央
K部門・記憶分析担当
再構成班リーダー




