46話 風影の証人(かぜかげのしょうにん)
佐々木朱音
年齢:10歳
家族:父・圭介、母・沙耶、祖母・昌代
特徴:無邪気ながらも鋭い直感と感性を持つ。スケッチブックに描く絵が事件解明や未来予知の手掛かりになる“無意識下の記憶読み取り能力”を持つ。結界術や戦闘スキルは封印されていたが、必要に応じて発現。
佐々木圭介
年齢:38歳
家族:朱音の父。過去の事件に深く関わり、真実追求の意志が強い。
特徴:冷静沈着で理論的。娘の能力を理解し、保護と指導に努める。
沙耶
年齢:35歳
家族:朱音の母。
特徴:感情的な支柱で、鋭い直感と人間観察力を持つ。朱音や玲たちを温かく支える存在。
佐々木昌代
年齢:62歳
家族:朱音の祖母
特徴:霊感を持ち、家族や事件の影に潜む真実に気づく。温かくも強い心を持つ。
玲
年齢:33歳
特徴:冷静沈着な探偵。高度な分析能力と現場指揮能力を兼ね備える。チームをまとめるリーダー格。
橘奈々(たちばな なな)
年齢:28歳
特徴:玲の助手。情報処理能力に優れ、スマホ解析・通信ログ追跡・現場調査を担当。
川崎ユウタ(かわさき ゆうた)
年齢:14歳
特徴:“記憶の証人”。消された記憶や記録の残響を読み取り、事件の真相や未発覚の出来事を可視化できる。
水無瀬透
年齢:30歳
特徴:“記憶深層探査官”。残留感覚や微弱な記録を読み取り、隠された真実を抽出するスペシャリスト。
九条凛
年齢:27歳
特徴:心理干渉分析官。抹消された記憶の復元や精神的サポートを担当し、チームの安全を心理面から支える。
服部一族(矢車の風)
•服部刹那:俊敏な剣士、玲の指揮下で敵陣を制圧する影の守護者。
•響:風の使い手、戦場の動線を制御し攻撃を支援。
•詠:敵の思考を読み、連携攻撃で制圧。
•紫:風刃を操る戦闘担当、精神・物理双方の制御を行う。
•紫苑:最長老にして矢車の風の元締。結界術と圧倒的な剣技を操り、戦場を統率。
朧
特徴:影のように現れ、瞬時に敵を無力化する戦闘代行者。剣技に特化。
白峰緋雨
特徴:精神攻撃・幻覚干渉を得意とする戦闘代行者。敵の指揮系統や思考を混乱させる。
時間:2025年6月5日 午前8時15分/場所:東京郊外・玲探偵事務所ロッジ
朝の柔らかな光が、窓辺のカーテン越しに差し込み、
木造ロッジの空間をやわらかく包み込んでいた。
梁の上を渡る陽射しが、ゆっくりと壁をなぞり、
その中に漂うコーヒーの香りが一日の始まりを告げている。
リビングでは、朱音がスケッチブックに向かい、
色鉛筆を手に夢中で線を走らせていた。
まだ寝ぐせの残る髪を揺らしながら、
彼女の指先は、まるで何か“見えないもの”を描き出すように動いている。
キッチンの方からは、トースターの軽い音が響く。
沙耶がフライパンを火から下ろしながら、ふと窓の外に目をやった。
朝の青空には薄い雲が浮かび、
遠くの木々が風に揺れながら静かに葉音を立てている。
「朱音、おはよう。今朝は調子どう?」
沙耶が穏やかな声で問いかける。
朱音は顔を上げ、にこりと微笑んだ。
「うん……ちょっと変な夢を見たの。でもね、きれいだったよ」
そう言って、スケッチブックを見せる。
そこには、夜空のような群青を背景に、
柔らかく光を放つ“何か”が描かれていた。
沙耶が目を細める。
「……きれい。これ、何の光?」
朱音は首をかしげながら呟いた。
「あの光、また見たいな……。夢の中で、誰かが“まだ終わっていない”って言ってたの」
そのとき、玄関の扉が静かに開いた。
木の軋む音とともに、冷たい空気が一瞬だけ入り込む。
「おはよう、皆。朝の静けさが似合うね」
低く落ち着いた声が響く。玲だ。
その後ろから、一樹と美和が姿を現した。
美和はタブレットを手にしており、画面に目を走らせながら言った。
「でも、今日は少しだけ違う朝になりそう。新しい依頼が入ったの」
沙耶が眉を上げる。
「依頼?どんな内容?」
美和は画面をテーブルに置き、皆に見えるように回転させた。
そこには、未読メールの件名がひとつ。
【件名:声を失った少女の記録について】
送信者:非公開アカウント
時刻:午前6時03分
朱音が首をかしげる。
「声を失った……少女?」
玲が椅子を引き、静かに立ち上がる。
「詳細を話そう。これが次の任務だ」
彼の声は静かだが、その瞳にはわずかな緊張が宿っていた。
リビングの空気が、ゆっくりと変わっていく。
ユウタがノートPCを起動し、データリンクを準備する。
「非公開アカウントか……。発信元の特定、僕がやります」
沙耶は息を整えながら、
「また“声”が関係してるのね。偶然とは思えない」と呟く。
玲は頷き、テーブルに手を置いた。
「……偶然じゃない。あの事件が終わったあとに、このメールだ。
何かが、まだ“呼んで”いる」
窓の外では、風に揺れる木々の葉が、かすかにざわめいた。
それは、次の真実が再び彼らを試そうとしている合図のようでもあった。
【プロローグ】
時間:2025年6月5日 午前6時03分/場所:東京郊外・玲探偵事務所ロッジ
薄曇りの朝。
山の端に霞が残り、静かな風がロッジの外壁を撫でていた。
鳥の声が遠くで一度だけ鳴り、また静けさに戻る。
玲は木製のテーブルに腰を下ろし、
コーヒーを淹れる前に鳴った通信端末の受信音に目を向けた。
画面には、差出人不明のメールが一件。
【件名:北見市爆発事件・民間調査依頼】
送信者:非公開アカウント
受信時刻:06:03
玲は眉をひそめ、本文を開いた。
⸻
北見市第二区・河川敷沿いの集合住宅で発生した爆発事件。
死者5名、負傷者12名。
公式発表では「ガス漏れによる事故」とされているが、
現場には 軍用規格の電磁起爆装置の残骸 が見つかっている。
当局は情報を封鎖し、報道は抑制されている。
しかし、現場には“事故ではない”痕跡が残されている。
一人の少女が、その場から逃げ延びた。
名前は 高城美緒/17歳。
彼女は爆発の瞬間を目撃し、その直後から声を失った。
彼女が見た“最後の光景”を、調べてほしい。
――観測者より
⸻
玲はしばらく画面を見つめたまま動かない。
メールの文体は冷静すぎた。だが、内容は明確に――“隠蔽されたテロ”を示唆していた。
カップに湯を注ぐ音が、静寂を破る。
沙耶がキッチンから顔を出した。
「玲、また何か来たの?」
玲は短く頷き、画面を示した。
「……“北見の爆発”だ。ガス漏れ事故って報道されていたやつだが、
内部情報によると――軍用装置の反応が出ている」
沙耶の手が止まる。
「じゃあ、あれ……やっぱりテロなの?」
「その可能性が高い。だが、隠されている」
玲は椅子から立ち上がり、ノートに短く書き込んだ。
【依頼内容】
北見市第二区爆発事件の再調査。
目撃者:高城美緒(17)
状況:事件後、声を失う。
沙耶が小声で呟く。
「その“観測者”って……誰なの?」
玲は静かに息を吐き、
「それを探るのも、今回の仕事の一部だ」とだけ答えた。
外の空はまだ鈍い灰色。
山の向こうから、遠く救急車のサイレンが微かに響いていた。
だがそれは、これから訪れる“もう一つの音”――
隠されたテロの真実を呼び覚ます音の、ほんの前触れに過ぎなかった。
時間:2025年6月5日 午前9時12分/場所:東京郊外・玲探偵事務所ロッジ地下 作戦室
木造のロッジの下、堅牢な鉄扉の先に広がる作戦室は、すでに緊急対応モードに切り替わっていた。
壁一面の大型モニターには、都心の地図が複数の層に分けて投影され、
爆発が起きた3地点――北見市第二区、南条工業団地、そして環状線沿いの高架下――が赤く点滅している。
複数の通信ログ、交通記録、監視カメラの映像断片が立て続けに浮かび上がり、
それらをAI解析がリアルタイムで結びつけていた。
奈々が端末を操作しながら、焦りを抑えた声で言う。
「3件とも“ガス漏れ事故”として処理されてるけど……爆心位置のデータが不自然。
ガス管の圧力変化が“外側から”だった形跡がある」
玲は腕を組み、低く呟く。
「……つまり、外部からの起爆装置。内部暴発じゃない」
沙耶が画面に目を凝らす。
「これ、通信ログ……。“起爆信号”の波形が似てる。しかも3件とも同じコードで制御されてたみたい」
奈々が頷く。
「信号の発信源は特定できてません。けど、共通するパターンは“北見市第二区”から最初に出てる。
……玲さん、最初の現場を見た方が早いです」
玲は決断を下すように短く言った。
「現場へ向かう。沙耶、奈々、準備を」
──午前10時28分。
調査チームの車両は、報道が封鎖された北見市第二区へと走り出していた。
【北見市第二区・爆心地跡】
時間:2025年6月5日 午後3時21分
立入禁止の黄色いテープが風に揺れ、焦げたコンクリートの匂いがまだ残っていた。
瓦礫の中に混じる鉄骨は黒く焼け、表面には微かな磁化の痕跡が浮かんでいる。
玲は手袋をはめ直し、慎重に焦げ跡の角度と位置を記録した。
そのとき、沙耶が小さく手を挙げた。
「玲、この子……助けられた生存者のひとり。現場近くの避難路で保護されたって」
彼女の視線の先に、小柄な少女が立っていた。
高城美緒(16)。肩まで伸びた髪を風になびかせ、両手をぎゅっと胸の前で握りしめている。
声帯に損傷を負っており、言葉を発することはできない。
だが、その瞳の奥には――確かに「何かを見た」記憶が潜んでいた。
玲は静かに近づき、しゃがみ込む。
「無理に話さなくていい。……見たものを、思い出すだけでいいんだ」
美緒は頷き、小さなノートを取り出した。
震える指で、ゆっくりと鉛筆を動かす。
──ページに現れたのは、3つの波形と、ひとつの光の円。
沙耶がそれを覗き込み、息をのむ。
「これ……電磁波の干渉パターン? でも、肉眼で見えるはずがない……」
美緒は首を横に振り、震える手で“目”の絵を描き足す。
その目の下に、波のような線がいくつも重なり、やがて一つの文字を形づくる。
──**「見せられた」**。
玲の表情が一瞬、強張った。
「誰かが……この子に“予兆”を見せた、ということか」
奈々が端末を操作しながら補足する。
「爆発の二日前、現場付近で異常な電磁干渉が検出されてます。
その時間帯、美緒さんの自宅の通信機器も一斉にノイズを出してた」
沙耶がそっと美緒の肩に手を置く。
「……だから、あなたは“感じて”しまったのね。
この爆発が起こることを、何かの形で」
少女はかすかに頷く。
その瞳には、恐怖とともに、警告を伝えようとする意志が宿っていた。
玲は立ち上がり、現場を見渡す。
「この波形……“偶然”じゃない。誰かが意図的に電磁誘導を使い、
爆発の直前に“信号”を流していた」
その瞬間、風が吹き抜け、
焼けた鉄骨がきぃん……と鈍く鳴った。
まるで、まだ終わっていない“何か”が、そこに潜んでいるかのように。
【北見市第二区・爆心地跡】
時間:2025年6月5日 午後3時42分
きぃん……
焼けた鉄骨が、再び鈍く鳴いた。
それは風ではなく、何かの信号に共鳴した音のようだった。
沙耶が不意に声を上げる。
「玲……これ、今も鳴ってる! 空気の震え方が変だ!」
玲が振り向くと、沙耶は瓦礫の中に身をかがめ、耳をすませていた。
その足元の鉄片の一部が微かに振動している。まるで見えない“波”が走っているかのように。
奈々が急いで端末を取り出し、波形センサーを起動した。
モニターに、不規則な周波数帯が跳ね上がる。
「玲さん、今の周波数……先日の爆発ログと一致してます!」
「つまり……まだ、どこかで同じ信号が発信されているということか。」
玲の声が低く響く。
ユウタが端末を操作しながら、表示を切り替えた。
「追跡開始。発信源は……北見市第三区方面。距離は約2.8キロ。信号強度、上昇中!」
沙耶が顔を上げ、風上の方角を見つめた。
「第三区……? あそこって、前回の爆発現場と“直線上”じゃない?」
奈々が即座に地図を拡大する。
3つの爆発地点を線で結ぶと、そこに一つの幾何学模様が浮かび上がった。
「三点の中心……ここです!」
指先が示したのは、旧市庁舎の地下区域。
十年前の都市改修で封鎖され、現在は“立入禁止”となっているエリアだった。
玲の目が鋭く光る。
「爆心地を結ぶ三角座標……それが信号の“中心”。
もしそこに送信装置があるなら、第2の爆発は——」
ユウタが声を張り上げた。
「──あと1時間以内に、発動の可能性があります!」
現場の空気が一気に張り詰めた。
沙耶は震える美緒の肩に手を置き、静かに言った。
「大丈夫。もう、あなたを一人にはしない。」
玲はすぐさま無線を取る。
「こちら玲。全員、即座に第三区旧市庁舎へ向かう。
発信源の遮断と装置の確保を最優先だ。」
風が止み、空がわずかに暗くなる。
遠くで、低い電子音のような唸りが響いた。
まるで街そのものが、次の“呼吸”を待っているかのように。
場所:東京郊外・玲探偵事務所 地下作戦室
時間:2025年6月7日 午後9時10分
大型スクリーンには、朱音が描いた数枚のスケッチが並べられていた。どれも鮮やかな色使いでありながら、どこか現実と夢の狭間にあるような歪みを帯びている。
玲は腕を組み、静かにそれらを見つめていた。背後では沙耶と奈々がメモを取り、ユウタが朱音の脳波データを整理している。
◆ 無意識下での視覚情報の蓄積
「……朱音は、単なる観察力が高いわけじゃない。」
玲の低い声が室内に響いた。
「彼女は幼い頃から、“空気の変化”を感じ取る感性に優れていた。たとえば、誰かが隠している不安、嘘、緊張──そういった“微かな揺らぎ”を、彼女は視覚以外の方法で捉えている。
そして、その情報は本人が自覚しないまま、無意識の記録層に蓄積されているんだ。」
玲は朱音のスケッチの一部を指でなぞった。そこには、現場で誰も気づかなかった廃ビルの階段の“影の形”が、正確に描かれていた。
「記憶にないのに、正確に描けた──それは、“見ていなかった”のではなく、“無意識に保存していた”ということだ。」
◆ 情報の再構築能力
玲はホワイトボードに「再構築」と書き、朱音の描いた“光”のモチーフを示した。
「朱音の能力は、ユウタのように記憶を“読む”ものじゃない。
彼女は、脳内に沈んだ印象や断片的な記号を“感性で再構成”している。
つまり、情報の“受け手”ではなく、“翻訳者”だ。」
沙耶が小さく頷く。
「……無意識の記憶を、絵という形で“言語化”してるってことね。」
玲は静かに続けた。
「そうだ。彼女が描く絵は、意識的な推論ではなく、心の“自動翻訳”によって生まれている。
だから朱音の絵には、“本人が知らないはずの現場情報”が含まれていた。」
◆ 第六感に近い直感
奈々が朱音の最新スケッチを表示する。そこには、爆発現場近くの街角に立つ“背の高い影”が描かれていた。
「朱音が“見ていた”のは、実際の映像ではない。」
玲は淡々と分析を続ける。
「おそらく、そこにいた誰かの“記憶の残響”だ。場の空気や心理的痕跡を、感覚的に拾い上げた結果、ああいう形で表れた。
つまり彼女は、自分以外の記憶に触れている。」
沙耶が小さく息をのむ。
「……“他人の記憶を視る”ってこと?」
「正確には、“他人が感じた痕跡を感情として受け取る”だな。」
玲はそう言って、ペンを置いた。
◆ 潜在的リンク:ユウタとの感応
ユウタが沈黙のまま、朱音のスケッチデータを見つめていた。玲はその様子に目を向ける。
「ユウタ。お前が彼女と関わるようになってから、朱音の感覚が研ぎ澄まれているのは事実だ。」
「……僕の“記憶波”に反応してる、ってことですか。」
「可能性は高い。お前の記憶が発する“波”に、朱音が無意識に共鳴している。
それが、彼女のスケッチに“見たことのない光景”として表れているんだ。」
玲は机の上のファイルを閉じ、静かに言葉を結んだ。
「朱音の中には、まだ誰も気づいていない“記憶の声”が眠っている。
そしてそれは、今後の捜査で鍵になるだろう。」
【理央の分析報告】
場所:玲探偵事務所・地下作戦室
時間:2025年6月8日 午前0時32分
大型モニターに映し出された朱音のスケッチは、淡い青と灰色で描かれた街並みを映していた。
ビル群の合間を走る高架の影、街路樹の並ぶ駅前通り──だが、その中心には、光が“滲むように”描かれた一点があった。まるで、そこに“まだ見ぬ出来事”の残響が存在しているかのようだった。
理央は腕を組み、スケッチの拡大図をスクリーンに映し出す。
その瞳には、科学者としての冷静さと、わずかな緊迫が混ざっていた。
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◆ “まだ起きていない地点”の意味
「……この絵に描かれている構造、見覚えがあるわ。」
理央は指先で画面をなぞりながら、沙耶と玲に向けて言う。
「ここ、霞ヶ丘駅周辺。複数の路線が交差するターミナルで、地下構造が複雑なの。
でも──現時点では事件の報告は一件もない。」
玲が眉をひそめた。
「つまり、朱音は“まだ起きていない”場所を描いた……?」
「ええ。彼女が拾っているのは“過去の記憶”じゃなく、近未来の予兆情報の可能性がある。
地理的にも、これまでの爆発地点──北見市、東上野、芝浦──その延長線上に位置している。」
理央の声には、抑えきれない確信の色が滲んでいた。
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◆ 第四の爆発予定地の推測
理央はホログラム上で地図を立体的に展開し、朱音のスケッチと照合していく。
•地下鉄路線が三本交差する地点。
•周囲には金融街と再開発地区があり、通勤時間帯には数千人が行き交う。
•避難経路は限られ、出口の多くが再開工事中。
•地下には旧冷却ダクトとメンテナンス通路が存在し、侵入経路として利用可能。
「……過去の爆発地点に共通する構造的特徴が、ここにもある。
特にこの通風口と地下機械室、アクセス制限が甘い。
“仕掛ける側”から見れば、理想的な場所よ。」
奈々がモニターを操作し、監視カメラ映像のサンプルを呼び出した。
「ただ、直近48時間で、このエリアの映像が一部欠落してる。通信ログにも不自然な暗号化痕がある。」
玲が静かに息をついた。
「……誰かが“隠してる”ってことか。」
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◆ 理央の対応方針
理央は深く息を吸い、報告書ファイルを開いた。
彼女の声は冷静でありながら、その言葉の端々に焦燥がにじむ。
「この地点に爆弾が仕掛けられれば、前回以上の被害が想定されます。
早急に現地の安全確認と監視の再設定が必要。
同時に、朱音のスケッチから得られる空間情報をもとに、監視カメラ映像の再解析と通行履歴の照合を行います。」
「玲、あなたは現場班を率いて霞ヶ丘駅周辺の実地調査を。
奈々は交通管制センターとのリンクを確立して、データ転送経路を確保。
私は記憶波解析班として、朱音の“感応”がこの場所とどのように繋がっているかを確認します。」
玲が短く頷いた。
「了解。……時間との勝負だな。」
沙耶は朱音の方に目をやる。
少女はまだ、スケッチブックを抱いたまま眠っていた。
だがその手の中、次なる“真実”の欠片が確かに震えていた。
時間:2025年6月8日 午前5時42分
場所:東京都・霞ヶ丘駅東口再開発エリア
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夜明け前の霞ヶ丘駅は、まだ人通りもまばらだった。
工事用フェンスと仮設照明が並ぶ通りには、かすかに鉄とオゾンの匂いが漂っている。
玲たちは防護ジャケットの上に簡易通信装置を装着し、静かに現場へ足を踏み入れた。
「──やっぱり、朱音のスケッチにあった通風口、実在してるな。」
玲がフェンスの隙間から地下通気路を覗き込み、低くつぶやいた。
通風口の縁には黒ずんだ跡が残り、近づくと微かに焦げた匂いがした。
奈々は携行端末を取り出し、現場データをスキャンする。
「電磁誘導の反応、わずかだけど出てる……この数値、自然にはありえません。」
端末の画面に浮かぶ波形は、通常の環境ノイズとは明らかに異なっていた。
「まるで、“何か”が一度、ここで起動したような痕跡ね。」
沙耶が周囲を見回す。
「封鎖された監視カメラも多いわね。通りの角、三か所ともオフライン。」
「偶然じゃない。」玲が即答した。
「誰かが意図的に“死角”を作ってる。爆発物の設置か、それとも――」
その瞬間、無線がかすかにノイズを発した。
理央の声が通信に入る。
「こちら理央。朱音の脳波データ、再度変動。彼女の無意識が“この地点”に反応している。
それも、過去の記憶じゃない──“未来の記憶”と呼ぶべきパターン。」
「未来の記憶……?」奈々が息をのむ。
沙耶はその言葉を反芻しながら、朱音のスケッチを思い出していた。
駅の地下構造の上に、淡い光の輪のようなものが描かれていた──まるで“結界”のように、円を描く印。
時間:2025年6月8日 午前6時03分
場所:霞ヶ丘駅東口・旧再開発ビル屋上
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微かな風が吹き抜ける。
朝靄に包まれた屋上の空気は、地上とは違う緊張感を孕んでいた。
玲は無線の音量を絞り、足音を殺して階段を上がる。
屋上の扉は半分開いていた。
焦げたような匂いと、微かにオゾンを帯びた空気。
地上で見つけた“結界痕”と同じ気配が、確かに漂っている。
──誰かが、ここで何かを“封じた”。
その確信が、玲の胸の奥で形を成していた。
屋上に出ると、朝の光が雲の切れ間から差し込み、鉄柵を鈍く照らした。
風が吹き抜け、フェンスに吊るされた注意札が小さく揺れる。
その時だった。
視界の端を、黒い影が横切った。
わずかに人の形をしている。
玲は反射的に身を低くし、声を潜めた。
「……そこにいるのは、誰だ。」
沈黙。
だが次の瞬間、風の流れが変わり、影がゆっくりと立ち上がった。
フードを深く被った人物。
長いコートの裾が風に翻り、薄明の光に縁取られる。
手には古びた携行端末――一見して、現行の規格とは異なる機器だった。
「……あなたが、この“結界”を?」
玲の問いに、相手は短く息を吐き、視線を逸らした。
「ここは……放っておけば、全部、終わっていた。」
低く、かすれた声。
男とも女ともつかない中性的な響き。
「終わっていた?」玲が一歩踏み出す。
「あなたが爆破を防いだのか、それとも――」
影は笑いもせず、ただ短く答えた。
「“防ぐ”なんて言葉、正確じゃない。
“喰った”んだよ、あのエネルギーを。残すと、街が壊れる。」
玲の表情がわずかに動く。
「……それは、どういう意味だ。」
影の人物は視線を空へ向けた。
雲の切れ間から差す朝の光が、その横顔をかすめる。
白い肌。冷たい目。どこかで見たことのある輪郭。
「怜……?」
玲の口から思わず漏れた名。
だがその瞬間、影の姿は風に紛れるように掻き消えた。
足跡も、音も、残っていない。
玲は屋上の中央に残された金属片を拾い上げた。
表面には、朱音のスケッチに描かれていたのと同じ“円環の紋様”が刻まれている。
微弱な磁場を帯び、中心部だけが熱を持っていた。
無線が鳴る。
「玲、こちら理央。朱音のスケッチが更新された。
新しいページに、“屋上の光”と“背中を向けた影”が描かれている。」
「──見えていたのか、朱音。」
玲は静かに息を整え、握った金属片をポケットに収めた。
「こいつは、ただのテロ事件じゃない。
“結界を張った者”が、まだこの街にいる。」
薄曇りの空の下、風が柵を叩く音が遠くで響いた。
まるで、去っていった影の残響が、まだこの場所に留まっているかのように。
玲は無線に向かって報告する。
「理央、現場で電磁防御痕を確認。誰かが事前に封じた形跡がある。
爆破はまだ起きていないが、ここに“戦った跡”がある。」
『了解。朱音の無意識と、現場の痕跡が一致してる。
彼女が感じた“未来の記憶”は──この結界の発動の瞬間だ。』
沈黙。
風が通風口の奥から吹き抜け、焦げた鉄骨をかすかに鳴らした。
玲は立ち上がり、遠くのビルの屋上を見上げた。
そこに一瞬、影が動いた気がした。
「……誰かがまだ、見てるな。」
時間:2025年6月8日 午前6時15分
場所:北見ロッジ・2階 和室
朝霧がまだ窓辺に薄く漂っていた。
鳥の声も、遠くの風の音も、どこか現実感を欠いて聞こえる。
朱音はゆっくりと目を開けた。
夢の続きのように、頬をかすめた空気がわずかに震えている。
寝台の横には、描きかけのスケッチブック。
そこに浮かび上がるのは──まだ誰も知らない“背中”だった。
円を描くように薄紅の光が紙面を撫でる。
その筆先から、淡く広がる朱の線。
結界の中心、静かに佇む人物の背。
その輪郭だけが、まるで生きているかのように揺れていた。
「……この人、知ってる気がする。」
朱音の小さな声が、静寂の中に溶けた。
彼女はゆっくりと身を起こし、鏡の前に立つ。
昨日までの淡いワンピースではなく、枕元に畳まれていた新しい衣装が視界に入った。
祖母の手によって仕立てられた、伝統と祈りの形。
墨色を基調とした羽織は、柔らかな布地で肌に馴染む。
袖や帯には、朱音の名を象徴するような淡紅のグラデーション。
光を受けるたびに、彼女の穏やかさと芯の強さが浮かび上がる。
肩のあたりには、小さな家紋風の刺繍。
結界を張るときだけ、その紋が淡く光を放つ。
短めの袴には、桜の花弁と風紋を組み合わせた模様。
裾が揺れるたびに、まるで風が記憶を撫でていくようだった。
足元には、白い足袋を模したスニーカー。
結界師でありながら、どこか現代の少女の軽やかさを失わない。
そして、髪をゆるく編み込み、祖母から譲り受けた小さな髪飾りをそっと差し込む。
半透明のそれは、光を受けてわずかに震え──淡い紅光を放った。
その瞬間、スケッチブックの絵が微かに反応した。
紙面の“背中”の人物の周囲に、淡く光の輪が広がる。
朱音は筆を置き、両手を胸の前で合わせた。
静かに目を閉じ、息を整える。
「……感じる。玲さんたちが、“何か”に触れた。」
その声と同時に、外の風が窓を震わせた。
朝の光が差し込み、朱音の結界衣の袖がひるがえる。
まるで、彼女の祈りが遠く霞ヶ丘駅の屋上に届くかのように。
時間:2025年6月8日 午前6時45分
場所:東京郊外・北見ロッジ・作戦室兼リビング
木造の東京郊外ロッジの地下に設けられた作戦室は、朝の柔らかな光を受けて静かに脈打っていた。
大型モニターには都内地図が複数の層で表示され、朱音が描いたスケッチの構造やランドマークと重ねられていく。
玲は淡々と指を動かし、画面上のログやアイコンを操作していった。
「朱音のスケッチは単なる偶然ではない。彼女の無意識が捉えた未来の断片だ。これを活用し、我々は高度なAI分析班と連携する。」
沙耶が目を細め、朱音の描いた紙面を見つめる。
朱音は無意識のまま、描き足しを続けていた。
先ほどまでは風景だけだった紙面に、薄墨の線で“影”が浮かび上がる。
それは玲が現地で確認した屋上に立つ不審人物の輪郭に重なるようだった。
「この人物……スケッチに映り込んでる。まるで、私たちの動きを“先に見ていた”かのよう。」沙耶が息を吐く。
⸻
AI分析班との連携
1.映像・画像解析
監視カメラやドローン映像から、朱音の描写と一致する場所や人物を自動検出。
爆発予定地周辺の不審者や異常挙動もリアルタイムで追跡。
2.過去データとの照合
過去のテロ事件や類似事件のデータベースと、朱音の絵の構造やパターンを照合。
犯人の行動パターンや使用手口を推測可能。
3.予測モデリング
地理情報、交通データ、人流解析を統合し、次の爆破候補地や犯行タイミングを高精度で予測。
4.記録の欠落検出
遠隔操作装置など、情報の“消去”や“不整合”をAIで検出し、隠蔽された証拠を浮き彫りにする。
朱音の筆が紙面を撫でるたび、淡い光の輪が微かに広がる。
スケッチの“影”が、モニター上のAI解析結果と重なる瞬間、玲は頷いた。
「これで、現場とロッジの静寂が交差した。朱音が無意識に捉えた情報を、我々の行動に直接反映できる。」
朱音は目を細め、まだ半分夢のような表情で線を描き足す。
無意識の手が、未来の危機を事前に示すかのように、紙の上に現れる。
沙耶がそっと呟いた。
「……彼女の感覚、侮れないわね。」
作戦室には、紙の淡墨とモニターの青白い光が混ざり合い、朝の静かな空気の中に緊張感を漂わせていた。
時間:2025年6月8日 09:30
場所:霞ヶ丘駅北口広場および地下連絡通路周辺
――舗道のタイルが朝露で少ししっとりしている時間帯、霞ヶ丘駅北口は既に規制線に囲まれていた。黄色い立入禁止テープが風に揺れ、駅入口付近の人通りはまばらだ。
玲は折りたたまれた地図端末を開き、画面上で南北に走る地下路線と出口群を指でなぞった。スケッチのランドマークとAIの予測モデルが交差する地点が、ピンで示されている。沙耶は両手に検査用の小型プローブを持ち、周囲のコンクリート面を丹念に走査している。奈々は携帯端末で通信ログを追い、ユウタが持つ車載解析機へデータを送っていた。朱音は荷台の折りたたみ椅子に座り、未だ手放さぬスケッチブックを膝に置いている。
「ここだ。モニターの円形表示と、朱音の描いた屋上の角度が一致する。」
玲が穏やかだが確信に満ちた声で告げると、理央が手元のタブレットを切り替え、監視カメラのタイムラインを拡大表示した。
沙耶がプローブの先端の読み取り値を見て眉を寄せる。「コンクリートに、局所的な熱変位と微量の鉄粉が混入してる。表面の焼け方が、ガス爆発ではなく集中した熱源を伴った爆発の痕跡だわ。痕の円周も小さめ、局所的に化学反応が起きた可能性が高い。」
「磁化の残留もある。磁気探知器の波形が規則的だ。電磁誘導を伴う何らかの装置が短時間駆動した痕跡だな。」成瀬由宇が手早く解析報告する。ユウタが車載機から現場のEMスペクトラムを投影して補足する。波形は確かに電磁的なパルスを示していた。
奈々が顔を上げ、防犯カメラの映像を指で止める。「ここ、駅前ロータリーのカメラ。9時12分〜9時18分の映像に欠落があります。時間軸が一分ほど飛んでる。自動保存のタイムスタンプは改竄されているか、外部からの遮断が入った可能性がある。」
理央が淡々と頷いた。「監視系の遮断は計画的だ。現場の監視ログと周辺Wi‑Fiアクセスポイントの通信履歴を突き合わせれば、外部からの操作端末の接近痕跡が出るはずだ。ユウタ、さっき拾った周辺APの照合、頼む。」
ユウタは端末を操作しながら、怜悼的な声で応じる。「了解。今、近隣のAPログと不審なMACの接続履歴を突合中。数分で怪しい端末の位置をプロットできる。」
朱音はスケッチブックを胸に抱え、ふと立ち上がる。紙に描かれた小さな屋根の排気口──それが目の前の地下連絡路の位置と重なることを見つけたらしい。彼女は指でその場所を指し示した。
「ここ。私、この排気口のところに“誰かの背中”が見えた。煙突みたいなのがあって、周りに小さな窪みがあるって……」
玲は朱音の指先と地図上のポイントを照合してから、ゆっくりと頷く。「排気口だ。地下機械室へ通じるメンテナンスダクトがある。監視の死角になりやすく、装置を仕込むには好都合の場所だ。沙耶、そこに向かってくれ。」
沙耶は直ちに動き、2名の鑑識要員と共に排気口周辺の封鎖を行った。蓋を外し、金属棒で内部を探ると、内部に小さな金属筒の残骸と、焦げた配線の切断端が見つかった。鑑識が手袋越しに慎重にそれを取り出し、証拠袋に入れる。
「配線の被覆は最近燃えたものだ。接点部分に磁粉が付着している。ここで何かが起動して熱反応を起こしたと見て間違いない。」鑑識班の報告に、周囲が静かに固まる。
奈々が周囲の人波を見渡してから、低めに告げる。「もしここに細工があったなら、裏の地下連絡路から機材を持ち込んだ可能性が高い。地上から持ち込めば、目撃や防犯の介入がある。地下からだと足取りが残りにくい。」
理央が補足する。「監視穴の映像を精査したところ、この付近の監視は9時14分〜9時16分に異常停止があり、その直前に駅構内の一つのスタッフ用端末が外部通信を行っている形跡がある。内部協力の可能性も視野に入れろ。」
玲は一息ついてから、決然と言った。「まずはその端末の持ち主と当日のシフトを洗う。駅職員の入退記録、保守業者の立ち入りログ、全てだ。ユウタ、理央、奈々はそっちを。沙耶、君は現場で追加の痕跡を探してくれ。俺は地下連絡通路を詰める。朱音はここで待機。何かを感じたらすぐに教えてくれ。」
朱音は小さく頷き、スケッチブックの隅に新たな線を引いた。紙の上の影は、今そこに立つ人影よりずっと先を見ているようだった。
玲たちが動き始めると、駅のホームを見下ろすビルの屋上に、警戒に当たっていた私服の職員がひとり、無線で報告を始めた。「北西の屋上で不審者が確認されました。黒いフードを被り、作業用バッグを携行。屋上の排気口に向かって歩いています。」
玲の目が一瞬だけ鋭くなる。「来る。全員、カバー位置につけ。市民の避難誘導を最優先で。」
その声は静かだが命令は確実に届き、現場には緊張が走る。駅構内のアナウンスが低く流れ、改札付近は規制されていく。玲は最後に朱音に向き直り、そっと言った。
「朱音、ありがとう。君の絵がなければ、ここまで早く動けなかった。気をつけて。」
朱音は少し照れたように笑みを返す。「うん、がんばる。」
――空の色が薄く陰り、駅前の人影がざわめく。刻一刻と、次の動きが迫っている。玲の地図上のピンは、さらに赤く光を増していった。
時間:2025年6月8日 10:45
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
――照明の一切ない地下通路。壁面のタイルには埃と煤が薄く積もり、空気はひんやりと冷たい。わずかに設置されたLEDライトが、天井の配線に沿って点滅し、淡い残照を放っている。
玲は懐中電灯を片手に足元を照らし、慎重に進む。沙耶は隣で小型プローブを操作し、床面の熱痕跡と磁気の残留を確認している。奈々は携帯端末で地下通路の監視ログと通信履歴を突き合わせ、端末の位置を正確に割り出す。
「この光の範囲だけが、やっと環境を確認できる」と玲が低く呟く。壁の影に潜む微細な凹凸や、床面の擦れた跡、そしてプローブが検出した局所的な熱変位――それらがすべて次の手掛かりを示しているかのようだった。
朱音はスケッチブックを胸に抱え、かすかに震える手で線を描き足す。「ここ……何かいる気がする……背中を……」
玲はそっと視線を合わせ、静かに頷いた。「感覚を信じろ。君が見たものが、次の行動の指針になる。」
残照の中、通路の空気が重く揺れ、誰もいないはずの空間にわずかな気配が漂う。足音や呼吸の音は聞こえない。しかし、LEDの光が陰影を作り出すたび、影の位置が微かに変化するように見えた。
「全員、慎重に。この先で何が起きてもおかしくない」玲が指示を出す。沙耶と奈々はそれぞれ警戒し、LEDの残光を頼りに周囲を監視する。
――地下の闇に、計画された“何か”の気配が確実に息づいている。
時間:2025年6月8日 10:47
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
玲の眼が鋭く光った。
「……来たか」
その声は、静まり返った地下通路に低く響き、空気に緊張を走らせる。瞬間、彼は胸元の小型端末に指先を滑らせて操作した。端末のディスプレイが微かに脈打ち、淡い光が周囲を照らす。
光とともに玲の身体の周囲に微細な変化が現れる。呼吸は穏やかに保たれたまま、思考は加速し、視覚情報の処理速度が高まり、神経伝達チャネルが一時的に拡張される。反応能力は飛躍的に向上し、周囲の小さな音や空気の揺れ、わずかな磁気の変動までをも捉える。
「……S級モード、展開」
玲の体が静かに張り詰める。脳裏には、地下通路の構造、過去の監視映像の軌跡、現在の磁気・熱変位データが高速で再構成される。目に見えるものだけでなく、記録されていない“潜在情報”までもが、彼の意識の網膜に浮かび上がる。
沙耶は隣で端末を操作しながら、玲の変化を察知する。
「……気配、やっぱりいる」
奈々も端末のスクリーンを凝視する。赤い光の点滅が通路奥に揺らめき、先ほどまでの静寂が決して偶然ではないことを示していた。
玲は深く息を吸い、わずかに前傾姿勢を取る。
「全員、備えろ。ここからが本番だ」
LEDの残照に影が踊り、地下通路の闇がさらに重く沈む。S級モードの玲は、既に次の瞬間に何が起きても対応可能な状態にあった。
時間:2025年6月8日 10:52
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
沈黙を破るのは、遠くからかすかに響く軋む金属音。鉄骨が微かに揺れる、その音だけで空間の緊張が一段と増す。
朱音は静かに立ち上がり、手にした結界師用の道具を胸元で整えた。墨色を基調に淡い紅色の帯が揺れる衣装は、光の少ない通路でもひときわ存在感を放つ。
「……ここから、私の番ね」
彼女の指先が床面を滑るように動き、無意識に描いた円状の軌跡が空間に淡く光りを帯び始める。結界の印が微かに浮かび、空気の密度が変化する。
沙耶が横で低く囁いた。
「……朱音、結界が反応してる。誰かが侵入してきた……」
玲はS級モードの集中を保ちながら頷く。
「動きを封じる。朱音、準備はいいか」
朱音の結界が床面と壁面に広がり、薄暗い地下通路に光のリングが静かに浮かび上がる。微かに磁気を帯びた結界は、侵入者の位置を微細に捉え、動きを抑制する準備を整えていた。
金属音が再び軋み、通路奥に不穏な影が揺れる。朱音の結界の輪郭がわずかに震え、その存在感が空気を支配した。
「……これで、逃げられない」
小さな声でつぶやく朱音の瞳に、決意と集中が宿る。地下通路の闇は、いまや彼女の結界に守られ、敵にとっては逃げ場のない空間となった。
時間:2025年6月8日 10:57
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
──刹那、その瞬間。
「待たせたな、玲殿」
突風が狭い通路を駆け抜ける。
玲の隣に──紫の羽織が翻った。その影は、まるで時間を切り裂くように高速で通り過ぎ、金属の残響だけを残して消えた。
「服部……!」
玲が叫ぶより早く、“それ”の右腕が宙を舞う。切断面は焼けもせず、ただ鋭く斬られ、滑らかに“外れていた”。
その中心に立つ影。静かに鞘へ刀を納める男──
「服部 刹那、推参」
鋭い眼光と静かな呼吸。だが背後から、幼い声が響く。
「お兄ちゃんっ!!」
刹那の背に朱音が飛びつき、たじろぐ刹那の頬がわずかに赤く染まる。
「ぉ、おおっ!? 朱音殿……す、少しは場を……!」
「へへっ、でも無事でよかったぁ〜!」
──ふ、と微笑む刹那。朱音の頭をぽん、と撫でながらも、視線は前方の機械兵へと戻す。
一樹、美和、玲二は互いに目を合わせ、小声でつぶやいた。
「……忍者が味方とは、心強いな」
静寂の地下通路に、緊張と安堵が交錯する刹那の一瞬だった。
時間:2025年6月8日 10:59
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
──そして。
「響、詠、紫、配置!」
玲の声に応じて、風が舞うように四つの影が玲たちの周囲に次々と着地した。
その身の動きは、空気の揺らぎに逆らわず乗るような滑らかさ。黒装束に銀の刺繍──胸元には矢車模様。風に舞うように現れたその者たちは、玲の背後で静かに身構える。
「風の流れ、悪くない。左斜め上、複数体接近中──!」
響(風刃術・音の制御)
•周囲の微細な気圧変化を読み取り、敵の接近を感知。
•風を操り、刃として放つことが可能。隙間から高速斬撃を繰り出す。
「聴こえる。音なき振動……思考制御波。気を抜けば操られる……!」
詠(無響対抗・精神干渉防御)
•音波や振動による精神干渉を感知し、局所的に遮断。
•味方の神経伝達を保護し、敵の思考制御波を反射可能。
「中央突破は悪手、だが誘導可能。玲殿、後退して。ここからは我らの領分」
紫(誘導戦・立体戦術)
•影のように移動し、敵の動線を読んで誘導。
•地形・風向き・敵配置を利用した最適な攻撃・防御を瞬時に判断。
そして、声を揃えて告げる。
「──我ら、服部一族。“矢車の風”」
黒装束の四影は、周囲の通路に風を巻き起こし、敵の接近を封じる態勢を取った。地下通路に、緊迫した空気と静かな嵐が同時に訪れる。
時間:2025年6月8日 11:02
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
──“矢車の風”
服部一族──その名は、政府中枢の極一部にのみ知られる影の存在。公式記録からは完全に抹消され、一般には存在すら知られていない。
彼らの専門は、認識外任務、そして高次干渉型制御兵器への対処。人ならざる兵器との交戦や、精神汚染を伴う制御波攻撃に対しても、あらかじめ訓練・対応策が練り込まれている。
その動きは、まるで風のように痕跡を残さない。必要な時にだけ姿を現し、連携は流れるように精緻──それが“矢車の風”。
今回もまた、玲たちの危機を察知し、地下通路に静かに介入する。
鋭敏な感覚で敵の接近を察知し、風のように通路を駆け抜け、精神制御の波動を遮断する。その存在は、戦場における最終防衛線であり、玲たちにとって最大の助力となる。
黒装束の四影は、無言のまま地形を読み、空間を支配しながら、次の行動を待つ。通路に漂う空気は、既に彼らの掌中にあった。
時間:2025年6月8日 11:05
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
──“矢車の風”の技と連携
黒装束の四影が通路に散開する中、紫苑は玲の真横にゆっくりと現れた。老齢ながらも、戦場を支配する威圧感と、研ぎ澄まされた直感が漂う。
四影の基本動作と連携
1.響(左前方担当)
•音波感知と振動分析による敵の動線把握。
•精神制御波に影響される前に、玲たちを安全圏に誘導。
2.詠(右前方担当)
•目視不能の高速移動で敵の接近を防ぐ。
•武器は小型ブレードと短棒を使用。連携時には風圧を操作して敵の進行を妨害。
3.紫(左後方担当)
•遠距離制御攻撃の遮断・妨害。
•磁気干渉や電子信号操作を感知し、敵兵器の制御を混乱させる。
4.配置(右後方担当)
•敵の突破経路を分析し、通路や出口を封鎖。
•自身の身体を防壁にして玲たちの退路を確保。
連携の精緻さ
•四影は互いの呼吸や目線だけで動きを共有し、無言で敵の動線を制御。
•音なき振動や空気の揺らぎを読み、玲の周囲の安全圏を維持。
•必要な瞬間だけ物理的攻撃を行い、最小の力で最大の制御を実現。
紫苑の役割
•老練な戦士として全体の指揮を補佐。
•高度な戦術判断により、四影の連携をさらに効率化。
•直接攻撃は少ないが、杖を通じて生体感覚や敵の位置を感知、危険を未然に察知。
──この布陣により、玲たちは精神制御型の兵器や高速移動敵に対して、圧倒的な優位を保つ。
紫苑の低く響く声が、通路の空気を鎮める。
「……さあ、始めるぞ。全員、風の如く動け」
時間:2025年6月8日 11:07
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
──敵の出現
微かな振動が通路の床に伝わる。闇の奥から、機械仕掛けの兵器が低く唸りながら迫ってくる。鋼の外装に異形の関節を持ち、電子制御装置が胸部に光を放つ。振動と電磁波による精神制御の波が、空気の圧力として玲たちに押し寄せる。
四影の展開
•響は床に足を滑らせるように前進し、敵の進行方向に正確な風圧を発生させる。微細な空気の流れで兵器のバランスを崩す。
•詠は短棒を振るい、敵の脚部関節を瞬時に叩く。回転するブレードのような動きで敵の動きを制限。
•紫は背後の壁面から磁気干渉波を送り、電子制御の狂いを誘発。兵器が一瞬動きを止める。
•配置は通路中央に姿勢を低く取り、敵の突進を受け止めつつ玲たちの退路を確保する。
──紫苑の技発動
杖を地面に突き、地面の微細振動と自らの呼吸に同期させる。振動が通路全体に波紋のように広がり、空気中の電子ノイズが乱れる。敵兵器のセンサーは瞬時に誤作動を起こし、視覚・距離計測が狂う。
連携攻撃
1.響の風圧が敵の胸部を押し、バランスを崩させる。
2.詠が素早く接近し、脚部関節を叩いて前進を阻止。
3.紫の磁気干渉で制御信号を狂わせ、機械が空中で軸を回転させながら停止。
4.配置は敵の直線攻撃を防ぎつつ玲を退避させる。
5.紫苑が杖を振るい、全体に広がる“振動の結界”で敵を完全に拘束。
──展開の描写
通路に光はなく、LEDの残照と鉄の軋む音だけが戦場を支配する。敵兵器は何度も軸を狂わせながら立ち上がろうとするが、四影の流れるような連携により、全ての動きが制御下に置かれる。
朱音は結界の中心に立ち、微かに光を帯びた紋様が空気中に広がる。彼女の存在は、戦闘空間に精神的な安定をもたらし、玲や四影、紫苑の技を最大限に引き出す触媒となる。
──戦いは静かだが緊張に満ち、風の如く四影と紫苑が敵を制圧する一瞬一瞬が、通路の闇に刻まれていく。
時間:2025年6月8日 11:09
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
通路を揺らす振動音と電子音の連鎖。敵兵器の胸部が赤く光り、制御波が微細な衝撃として玲たちの精神に押し寄せる。四影の防御網をかすめたその衝撃は、ほんの一瞬、通路の空気を重くする。
「……来る!」
響が鋭く風圧を放ち、敵兵器の軌道を逸らそうとする。瓦礫が舞い上がり、彼女の足元で微かな衝撃が跳ねる。詠は短棒を振り上げ、ブレード状の肘関節に直撃を狙うが、敵の回転速度が増し、攻撃はかすめるだけだった。紫は磁気干渉を強化するも、電子干渉の反動で通路の壁がわずかに崩れた。配置は低重心で通路を塞ぎ、玲と朱音の安全を確保する。
その瞬間、杖を高く掲げる紫苑の声が響く。
「ここで終わらせる……矢車の奥義、風切りの輪!」
杖先から放たれた振動が通路全体に広がる。空気と鉄骨が共鳴し、敵兵器の電子制御が完全に遮断される。
響は旋風を巻き上げ、敵を結界波の中心に誘導。詠は回転攻撃を封じる打撃を脚部に加え、移動を完全に制限。紫は磁気干渉を極大化させ、兵器の制御回路を停止。配置は通路出口を封鎖し、玲と朱音を守る。
結界波が敵兵器を覆うと、鋼の関節は動きを止め、赤い光が消え、通路には静寂が戻った。
朱音は小さく息をつき、結界の紋様が微かに空気中に漂う。
「……守った。これで、朱音嬢の笑顔は、守るに足るものとなった」
紫苑が杖を地面に突き、深く息を吐く。
玲は深く頷き、拳を固めた。四影は散開しつつも、すぐに次の防衛体勢に移る。敵は制圧されたが、都市全体の警戒はまだ終わらない。
通路に差し込むわずかな光が、戦いの痕跡を静かに照らしていた。
時間:2025年6月8日 11:11
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
──紫苑が軽く袖を振る。
その動きは、まるで落ち葉を払うかのように静かだった。だが次の瞬間、空気が歪み、微かな渦が通路内に立ち上がる。
「……っ!」
無音の斬撃が一筋、通路を横切った。金属音も、悲鳴も、破壊の衝撃音さえ伴わず、ただ“風”だけが線となって走る。
接近していた敵兵器の一体が、沈黙のまま崩れ落ちた。断ち切られたものが骨なのか、思考なのか──その区別すらつかぬほど、動作は鮮烈だった。
紫苑の鋭い瞳が、玲をまっすぐに捉える。
「玲、行け」
玲は頷き、意識を集中させる。廃墟の地下に漂うわずかな振動と磁場の変化を読み取り、次の行動へと体を滑らせた。風の流れを纏うように、四影と朱音が玲の後ろで整列する。
通路には、戦闘の余韻として、かすかな静寂だけが残った。
時間:2025年6月8日 11:14
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
──矢車の風、最速の剣。
「頼んだ、刹那。真実までの道は、まだ深い」
玲の声が短く響く。
刹那は微かに頷き、風に紛れるように姿を消した。黒装束の影が通路を駆け抜けると、空気は一瞬で静まり返る。
彼の背には、朱音の描いた“まだ見ぬ場所”──未来の記憶の断片──が淡く映り、進むべき方向を示していた。
玲はその背を見送りながら、再び冷静に次の行動を思案する。通路に漂う微かな振動や磁気の残響を読み取り、四影と朱音を先導する。
静寂の中に、戦いの余韻と、まだ解かれるべき真実への予感が交錯していた。
時間:2025年6月8日 11:27
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
紫苑は静かに朱音に歩み寄り、優しく頭に手を置いた。
「朱音嬢。ワシを“ジィじ”と呼んでもよいぞ」
朱音の瞳がぱっと輝き、無邪気に叫ぶ。
「えっ、ホント!? ジィじ!!」
その瞬間、紫苑の表情は一気に崩れ、くしゃりと柔らかく笑う。
「ふぉっふぉ……悪くない。うむ、実に……尊い……」
頬を伝う涙を隠そうともせず、鼻をすすりながら感動の声を零す紫苑に、側に立つ紫が小さくため息を漏らす。
「……長老、完全に溶けているわよ」
短剣を逆手に構え、戦闘態勢を整えながらも、その視線は朱音と紫苑のやり取りにわずかに注がれていた。
静寂の中に、微かな微笑みと安堵が交錯する一瞬。
時間:2025年6月8日 11:35
場所:霞ヶ丘駅北口地下連絡通路・閉鎖区画
戦場に残されたのは、服部一族──そして次々に襲来する兵器の群れ。
しかし──紫苑が軽く杖を振ると、空気が一瞬静まり返ったかのように変化し、その直後、風が炸裂するように巻き上がった。
「風遁・影散陣!」
詠唱とともに、無数の細かな風の刃が渦となって放たれる。空気を裂く音はなく、しかし確実に敵陣へ拡散していく。
紫苑の声が低く、重く響く。
「響く音よ、汝らの“認識”を破壊せよ──」
風の刃が接触すると、敵兵たちの動きは瞬時に止まった。瞳に映る映像は揺らぎ、聴こえるはずの音は歪み、感覚の座標が狂う。
彼らは自らの存在すら曖昧に感じる錯覚に陥った。
認識遮断──紫苑の術は敵の視覚・聴覚・空間認識に直接干渉し、外部からの命令伝達までも封じ込めていた。
静寂の中に、風だけが残る。
時間:2025年6月8日 23:50
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
夜風に乗って、廃工場跡地の冷たい闇が重く沈み込む。錆びた鉄骨と割れたガラスが、月明かりに淡く光り、静寂の中にわずかな金属音だけが反響する。
足元には、放置された作業台や工具が散乱し、かつての喧騒を思わせる痕跡を残していた。遠くの街灯の光は届かず、影は深く、歩く者の姿さえ飲み込む。
玲は慎重に足を進めながら、手元の端末で既知の爆発地点や監視記録を照合する。周囲の微かな空気の揺らぎに、沙耶が低く声をかける。
「……誰か、いる」
暗闇に沈む工場跡に、気配だけが滑るように漂っていた。
時間:2025年6月8日 23:52
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
その言葉に呼応するように、朧と白峰緋雨が闇の中から姿を現した。
黒装束に身を包んだ二人は、月光に浮かぶシルエットだけで存在感を放つ。朧は柔らかな風のように地面すれすれを滑るように前進し、緋雨は静かに息を潜めながらも、周囲を鋭い目で見据えていた。
玲が小声で確認する。
「二人とも、完全に影に同化している……」
沙耶が頷き、無言で隣に立つ。空気は張り詰め、風の一振りさえ仲間の動きに反応するかのようだった。
闇に沈む廃工場跡地で、影と影が静かに連携を取り始める。
時間:2025年6月8日 23:54
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
音もなく現れた朧は、一体の戦闘代行者の背後に立ち、黒き剣「黒閃」を一閃。
刹那の一撃のように、風切り音すら聞こえず、相手はただ目の前が暗転したかのように崩れ落ちる。地面に倒れた敵の影が、わずかに震え、やがて静止した。
緋雨はその隣で、白き手甲に仕込まれた小型の制圧装置を瞬時に起動。敵の神経伝達を鈍らせ、次の動きを封じる。
「玲殿、前方も制圧完了。」
緋雨の低い声が闇に溶け、わずかな風の流れだけがその存在を知らせた。
──影の連携が、静かに、しかし確実に戦場を支配し始める。
時間:2025年6月8日 23:57
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
暗闇に溶けるように、小夜帖の声が戦場の空気を揺らした。
囁くような低い声が、戦闘代行者たちの脳内に直接響く。
「……お前たちは、もう動けぬ……眠れ……」
次の瞬間、敵の目が虚ろになり、手足の動きが鈍くなる。思考が迷路に迷い込むかのように混乱し、視界はわずかに歪む。
朧が傍らで静かに呟く。
「小夜帖……敵の意識を封じる術、成功。」
白峰緋雨は手元の端末を操作し、光学センサーで敵の行動を確認。完全制圧の兆候を見極めた。
「玲殿、周囲全体に小夜帖の影響拡散完了。次の一手を。」
──影たちの沈黙の連携が、闇に潜む敵を静かに、しかし確実に制圧していく。
時間:2025年6月8日 23:59
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
白峰緋雨が低く息を吐き、手のひらを地面に押し付ける。
「……百度参り、開始。」
瞬間、床面を伝って微細な振動が広がり、黒く冷たい光の糸が無数に立ち上がる。
その糸は敵の足元を縛り、重力感覚や平衡感覚を狂わせるように絡みつく。
朧が横目で確認し、低い声で報告する。
「敵、ほぼ動きを封じられています。小夜帖の術と重なり、完全に制圧状態。」
白峰はさらに手を翳し、振動と光の連鎖を拡大する。
「このまま、動けぬまま眠らせる……」
敵兵は足取りを失い、視覚も聴覚も混濁。闇に包まれながら、静かに膝をつく。
朧と白峰の連携は、静かな闇の中で冷徹かつ正確に、敵の意識と身体を抑え込んでいった。
時間:2025年6月9日 0:03
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
紫苑の声が夜の闇を裂くように響いた。
杖の先端が地を打つ瞬間、淡い蒼光が円を描き、空気が爆ぜた。
「風遁・疾破封紋──展ッ!!」
轟音はなく、ただ“圧”が空間を満たす。
四方に構えた服部一族の影たち──刹那、響、詠、紫──が同時に掌を掲げ、紫苑の印と共鳴するように結界を拡張した。
風が逆巻き、瓦礫が浮かび上がる。
見えざる鎖のように編み込まれた風の線が、敵兵たちの制御波を断ち切っていく。
空間を走る不可視の刃が、外部からの思考リンクを次々と遮断。
電磁波も、精神干渉も、すべてがこの瞬間、風に“封”じられた。
玲が息を呑み、目を細める。
「……これが、“矢車の風”の本陣……」
紫苑はわずかに口角を上げた。
「人の心を縛る術ならば──風が断つ。思考も、命令も、すべて無に還せ。」
疾風が駆け抜ける。
その中心で、朱音の髪飾りがほのかに光り、結界の風に呼応するように揺れた。
──まるで、希望そのものが風に乗って舞うかのように。
時間:2025年6月9日 0:05
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
「──始めるぞ」
低く響く朧の声が、夜気を裂く。
彼が一歩、前へと進んだ瞬間、その姿は闇に吸い込まれるように掻き消えた。
足音も、呼吸の気配さえもない。
ただ、闇がひとつ“形”を得たかのように揺らめく。
次の瞬間、金属が弾ける乾いた音。
敵兵の首筋に黒い線が走り、遅れて血飛沫が舞った。
朧はもうその背後にいない。影から影へ──風より速く、音より静かに。
「朧、左側は任せる。制御核を落とせ!」
玲の声が飛ぶ。
返事はない。だが、その沈黙こそが肯定の証だった。
わずかな風圧とともに、二体目、三体目の兵が崩れ落ちていく。
朧の剣「黒閃」が放つ軌跡は、夜に紛れ、月明かりさえ拒む。
──闇に生まれ、闇に還る一閃。
それはまさに、服部一族のもう一つの名──“影を刻む者”を象徴する動きだった。
時間:2025年6月9日 0:07
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
一方、朧の背後では──白峰緋雨が、静かに唇を開いた。
「──小夜帖」
その声は、夜気よりも柔らかく、しかし確実に敵の脳髄へと浸透していく。
言葉ではなく、音でもない。心の“内側”に直接触れるような響き。
次の瞬間、敵兵たちの動きが止まった。
指先が震え、呼吸のリズムが乱れる。
それは、まるで誰かが耳元で囁き続けるような幻聴──「お前は誰だ」「ここはどこだ」「なぜ戦っている」──
幻影と現実の境界が溶け、敵の視界にはありもしない“味方”の姿が現れる。
同士討ちが始まり、火花が散った。
白峰はその光景を冷ややかに見つめながら、薄く笑った。
「……小夜帖は、静かに狂わせる。夢に落ちるがいい」
彼女の足元に描かれた陣が淡く光を放つ。
一度踏み込んだ者の意識を、静かに、確実に“沈める”禁術。
そして、囁くように最後の詩を添える。
「──眠れ、夜が明けるまで」
敵の一人が膝を折り、静かに倒れ込んだ。
その瞳には恐怖ではなく、まるで夢を見るような安堵の色が滲んでいた。
時間:2025年6月9日 0:09
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
命令すら忘れ、虚ろな瞳で自らを問い続ける敵兵たち。
「……俺は、何を……誰と、戦って……?」
自問の声が、夜の静寂に溶けていく。
その瞬間、白峰緋雨が一歩、前へ出た。
その手に握られた数珠が、かすかに鳴る。
「──百度参り(ひゃくどまいり)」
囁くような詠唱と共に、足元の陣が円を描くように拡がる。
百の歩みを刻むたび、白峰の心念が夜気を震わせ、無数の残像を生む。
その残像は、まるで彼女自身が百人いるかのように敵を取り囲んでいた。
「ひとつ、ふたつ、みっつ──」
数珠の音が鳴るたび、敵の脳に残る“命令”という概念が削がれていく。
思考が空白化し、戦意が霧のように散る。
白峰は冷静に瞳を閉じ、静かに告げた。
「百度祈れば、迷いは消える。──お前たちに残るのは、ただの“無”だけ」
最後の音が鳴った瞬間、敵兵たちは一斉にその場に崩れ落ちた。
呼吸はある。だが、意識は遠く離れた場所へと引きずり込まれている。
朧が前線の影からその光景を見て、低く息を吐いた。
「……白峰、相変わらず容赦がねぇな」
白峰は短く微笑み、指先の数珠を静かに握り締めた。
「祈りは、刃より深く刺さるのよ」
時間:2025年6月9日 0:12
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
「風の流れ、南に一──」
詠が風の中で囁いた。声は微弱で、夜風のざわめきに溶けていく。
しかしその瞬間、周囲の気流が僅かに乱れ、敵の動線が浮かび上がった。
「……右斜め、十歩。そこに“気”が集まっている」
紫は詠の言葉に反応し、即座に体をひねる。
手元で煌めいた刃が、夜気を裂いた。
「疾風断!」
放たれた風刃は、見えぬはずの空間を走り抜ける。
圧縮された空気が直線を描き、数メートル先の敵兵の装甲を一瞬で切り裂いた。
反応する間もなく、敵のセンサー部がスパークを起こし、火花を散らす。
「命中確認。──だが、まだいるわね」
紫が片目を細め、次の位置を視界に捉える。
詠は手のひらを広げ、空気の振動を指先で感じ取っていた。
「風の波、北西から回り込み。三、いや四……あれは制御波源機か」
玲の声が無線に入る。
「詠、紫。抑え込め。外部からの制御信号を切断できれば、残りは物理制圧でいける」
紫は頷き、足場を蹴った。
夜気を裂く一閃が続き、複数の金属音が遅れて響く。
「風は、我らに味方する──」
詠が静かに呟くと、吹き抜ける風が二人の間を通り抜けた。
その風が残した軌跡は、まるで“矢車”の紋のように、夜空に一瞬だけ浮かび上がっていた。
時間:2025年6月9日 0:13
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
音もなく──風が駆け、喉元を断つ。
瞬きの間に一体の兵が崩れ落ち、首元から火花を散らして沈黙した。
刹那、響の手が素早く印を結ぶ。
「風遁・無音震壁!」
低く唸るような風が広がり、周囲の音が一瞬で吸い込まれた。
まるで世界そのものが“音”という概念を失ったかのような静寂。
風の膜が、爆発音も銃声も、敵の通信波さえも遮断していく。
「……これで、外には何も届かん」
響の声は、風に溶けるように微かに響いた。
紫苑が杖を突き、足元の土を軽く払う。
「良い。風が整ったな。これより“内”を断つ」
紫が頷き、刀を抜く音すら立てずに動く。
風壁の内側では、矢車の風が完全に支配権を握っていた。
敵は音を失い、方向感覚を奪われ、互いの存在を認識できずに動きを止める。
その隙に、刹那の影がすっと滑り込む──一閃。
風が裂けた。
それでも音はしない。
ただ、世界が一秒だけ“静止”した。
玲が通信越しに呟く。
「……完璧だ。これが、“矢車の風”か」
紫苑の唇がわずかに緩む。
「静けさこそ、我らの戦場よ──」
時間:2025年6月9日 0:19
場所:旧都心第三区・廃工場跡地
「影散陣、閉鎖」
紫苑が静かに杖を突くと、足元から淡い風の輪が広がり、やがて吸い込まれるように収束していった。
空気の震えが止まり、風に混じっていた微細な粒子が光を失って消えていく。
──風が、止んだ。
それはまるで、戦いそのものが夢であったかのような静寂。
周囲には、壊れた兵器の残骸が散乱しているだけだった。
しかし、そこに血の匂いも、苦悶の叫びも、何一つ残ってはいなかった。
「……終わったか」
刹那が剣を下ろし、深く息を吐く。
「うむ。これで“風の帳”も下ろせる」
紫苑が小さく頷き、杖の先を土に押し当てた。
その一動作で、空間全体に薄く張られていた“結界の膜”が、まるで朝靄のように消えていく。
詠が風の流れを感じ取るように目を閉じ、
「制御波──完全に遮断。残響もなし。外部への漏洩、ゼロ」
と報告した。
紫が肩をすくめて言う。
「さすが、ジィじの結界。歳を取っても衰え知らずね」
「ふぉっふぉっ……歳を取ったからこそ、見える風もある」
紫苑が穏やかに笑う。その声には、どこか安堵と誇りが混じっていた。
玲が静かに前へ進み出て、戦場を見渡す。
「この静けさ……まるで、何もなかったみたいだ」
「それでいい。風は、痕跡を残さぬ」
紫苑が答える。
風がひとすじ、夜の闇を抜けて流れた。
その中で、朱音の笑顔を思い浮かべるように──紫苑は空を見上げた。
「守るべきものは、まだここにある。風は、次へ導くために吹くのじゃ」
時間:2025年6月9日 0:26
場所:旧都心第三区・廃工場跡地・南棟通路
冷たいコンクリートの壁に、誰かの靴音が反響していた。
──カン、カン、カン。
等間隔に響くその音は、まるで規則正しい心音のようでもあり、
同時に、静まり返った空間の中で異様に重たく響いた。
天井の蛍光灯はほとんどが砕け、
わずかに残る非常灯が、血のように赤い光を放っている。
風も、音も、誰の声もない。
だが、その足音だけが、確かに“生”を告げていた。
やがて、通路の奥からひとりの影が現れる。
長いコートの裾を引きずるように歩くその姿は、
まるで夜そのものが形を取ったかのように静かだった。
「……ようやく“風”が止んだか」
低く掠れた声が闇に落ちる。
声の主は、鋭い眼光で周囲を見渡した。
床に散らばる兵器の残骸──そして、風に削り取られた跡。
その者は片手で壁を撫で、
そこに残された風圧の痕跡を指先で確かめるようにした。
「服部一族……また現れたか」
呟きのあと、男はコートの内側から黒い端末を取り出した。
画面に微かに映るのは、玲たちの姿。
ノイズに包まれながらも、その中に“朱音”の笑顔が一瞬だけ映る。
男の瞳が細くなる。
「……あの子が、“鍵”か」
通路に冷たい風が吹き抜け、
赤い非常灯の光が、一瞬だけその顔を照らした。
その瞳の奥──光るのは、人のものではない。
そして、足音が再び響き始めた。
カン、カン、カン──。
闇の奥へと続くその足音だけが、
次の災いの到来を、静かに告げていた。
時間:2025年6月9日 0:27
場所:旧都心第三区・廃工場跡地・中央制御室前
──爆音のあとの静寂。
崩れかけた天井から舞い落ちる粉塵の中、風が逆流するように流れた。
「認識遮断、展開」
紫苑の声が低く響く。杖先から走る淡い光が、瞬く間に空間へ広がっていく。
音が歪み、光が揺らぎ、そこにいた者たちの“存在の座標”がぼやける。
見えているはずのものが見えず、感じているはずの距離が曖昧に崩れていく。
空間そのものが、ねじれた。
紫苑の目が細く光る。
「──これで、貴様らの“命令経路”は断たれた」
その声に呼応するように、背後から白峰が一歩、前に出る。
その唇が静かに動いた。
「小夜帖・封破」
囁くような声が、しかし確かに敵の脳内へと届く。
それは音ではなく、精神の芯に直接触れる“詠唱”。
思考の回路が乱れ、指令系統が途切れ、敵の動きが一瞬、凍りつく。
──そして。
「抜刀」
朧の声が、風のように走った。
次の瞬間、闇を切り裂く閃光。
黒き剣「黒閃」が一筋の弧を描き、
前方に並ぶ自動思考兵の首が、同時に沈黙した。
時間が止まったような一瞬。
風だけが、音もなく通り抜けていく。
朧は鞘に剣を戻しながら、わずかに目を伏せた。
「──これが、“思考なき機械”の末路か」
紫苑は頷き、杖を地に突いた。
「風が止まるのは、まだ早い。……玲たちを、護れ」
白峰と朧が同時に身を翻す。
再び風が走り、夜の闇の中へと、その姿は掻き消えた。
時間:2025年6月9日 0:29
場所:旧都心第三区・廃工場跡地・中央制御室
──沈黙を裂くように、電子ノイズが空間を満たした。
焼け焦げた配線の中で、微かな光が走る。
「コード:《ZERO-FRAME》展開──」
玲の声が、冷徹な響きを帯びて制御室全域に響いた。
次の瞬間、床面と壁面の電磁ラインが一斉に点滅を始める。
空気が震え、耳鳴りのような振動がチーム全員の鼓膜を打った。
「玲殿……まさか、あの“封鎖領域”を使う気か」
紫苑が眉をひそめる。
玲は頷き、手元の小型端末に指を滑らせた。
「外部通信はすでに遮断済み。敵の制御波も干渉範囲外へ排除した。
──これより先は、こちらの思考空間での戦闘となる」
制御卓のホログラムが浮かび上がり、朱音のスケッチに描かれた“結界円”と一致する形が重なった。
玲の眼が細く光る。
「ZERO-FRAME──認識と存在の境界を切り離す、最終防衛式。
敵の“形”そのものを、世界の外側に置き換える」
一瞬、空気が白く閃いた。
次の瞬間──
制御室の外、迫り来ていた無数の機械兵が、音もなく“消えた”。
残ったのは、床に焼き付いたような灰色の影だけ。
紫苑はその光景を見つめながら、静かに呟いた。
「……まるで、存在ごと“記録”から消したようだな」
玲は端末を閉じ、息を吐いた。
「その通りだ。彼らは、もうこの世界に“存在しなかった”ことになる」
沈黙。
白峰がわずかに肩をすくめた。
「……怖いわね。あなたのやり方は、時々、神に近すぎる」
玲は表情を変えず、ただ冷たい声で応じた。
「神ではない。
ただ──“記録を修正する人間”だ」
時間:2025年6月9日 0:31
場所:旧都心第三区・廃工場跡地・中央制御室
──轟音。
「ゴガァァァァンッッ!!」
制御室の壁を震わせる衝撃。煙と埃が渦を巻き、LEDの残照がちらつく。
玲はすぐさま端末を握り直す。
「──衝撃源は外部か。だが、ZERO-FRAMEの影響範囲内だ。敵の実体はもう存在していない」
紫苑が杖を高く掲げ、空気を払いながら周囲を見渡す。
「……それでも残響がある。精神と認識の座標に微細な干渉が残っておる」
刹那が影のように現れ、玲の横に立つ。
「玲殿、この残響を放置すると第二波の誘発になる。封鎖完了まで動けません」
白峰は眉をひそめ、床に落ちた小さな破片を蹴り上げる。
「……この音、あの爆発の名残かしら。心臓に響く」
玲は目を細め、静かに指示を出す。
「──皆、集中。ZERO-FRAME展開下の残響は計算内だ。落ち着け。
この衝撃で怯むようなら、私たちは敵の思惑に嵌る」
その刹那、廃工場の奥で微かな金属の軋みが聞こえる。
敵は消えたはずなのに──残響だけが、静かに、しかし確実に迫っていた。
時間:2025年6月11日 10:15
場所:東京郊外・木造ロッジ・リビング
──事件から二日後。
柔らかな日差しが、リビングの木の床を静かに照らす。窓の外では、朝の風が葉を揺らし、小鳥の囀りがかすかに聞こえていた。
朱音はスケッチブックを開き、事件当日の光景を淡く描き写している。線や色は静かだが、描かれる空気には確かな緊張感が残っていた。
沙耶はキッチンでコーヒーを淹れ、湯気がゆっくりと立ち上るのを眺めながら呟く。
「……やっと、少し落ち着いたわね」
玲は窓際の椅子に座り、手元の端末で爆発現場の解析データを最終確認していた。
「監視映像、通信ログ、被害状況……すべて整理完了。第二波の危険性も今のところゼロだ」
奈々が資料をまとめながら言った。
「朱音嬢も無事だし、チーム全員、生還してる。やっぱり、風の一族がいてくれたのは大きかった」
朱音は小さく微笑む。
「ジィじも、刹那も……皆、無事でよかった」
窓の外の光が、事件の緊張と混乱の残響を優しく包み込む。二日後のこの朝は、ようやく平穏を取り戻したかのように、ロッジ全体を柔らかく包んでいた。
時間:2025年6月11日 10:22
場所:東京郊外・木造ロッジ・リビング
──リビングの空気は、穏やかでありながら、どこか張り詰めたままだった。
「……ふぅ……」
沙耶がふと呟く声に、リビングの静けさが反応する。
「どうしたの? 玲、珍しくため息なんかついて」
玲はゆっくりと口を開きかけるが、言葉は途切れた。やがて、静かにぽつりと呟く。
「……朱音に“お父さん”って呼ばれた」
そのまま、玲は目の前の一点を見つめ、動かない。
普段なら冷静沈着、どんな状況でも揺るがない玲が──完全に放心している。
沙耶はそっと彼の肩に手を置き、静かに微笑む。
「……ふふ、よかったね、玲」
リビングに差し込む朝の光が、柔らかく二人を包み込む。事件の混乱を経て、ようやく訪れた、小さな幸せの瞬間だった。
【夕刻/ロッジ内 リビング】
朱音が描いた絵を眺めながら、玲が静かにコーヒーを啜っていた。
窓の外はすっかり橙に染まり、風が木々を揺らすたび、穏やかな葉擦れの音が響く。
その時──玲のスマートデバイスが短く震えた。
画面に浮かんだのは、見覚えのある送信者名。
《差出人:朧》
件名:報告
玲は眉をひとつ動かし、開封する。
⸻
From:朧
To:玲
任務完了。
残存個体、すべて無力化。
だが──“設計者”は現場にはいなかった。
奴が残した痕跡は、意図的なものだ。誘導の可能性が高い。
……それと。朱音嬢の絵、確認した。
あれはただの予兆ではない。“鍵”だ。
詳細は追って報告する。
追伸:
紫苑殿が「ジィじ」と呼ばれた件、今も少し泣いておられる。
⸻
玲は思わず小さく吹き出した。
「……泣くのは紫苑殿の方か」
沙耶がキッチンから顔を出す。
「また、戦場帰りの報告メール?」
玲は軽く頷き、画面を閉じた。
「いや──平和な、報告だったよ」
そして小さく呟く。
「“鍵”か……朱音、お前はいったい、何を見ている?」
外の風が、遠くで鳴った風鈴の音を運んできた。
静かな夕暮れに、次なる波の予感だけが、わずかに滲んでいた。




