45話 消えた歩幅
佐々木朱音
物語の中心となる少女。
純粋で感受性が高く、鋭い直感で大人たちの見逃した“真実”を見抜く力を持つ。
スケッチブックに描く絵が、事件の断片や記憶の手がかりとなる。
最終章では、怜奈への想いを紙飛行機に託し、物語を締めくくる。
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佐々木沙耶
朱音の母であり、玲の調査チームの一員。
人の心に寄り添う共感力と観察眼を併せ持ち、事件関係者の心の動きを読み解く。
怜奈の過去を知った後も、静かにその“痛み”と向き合おうとする強さを持つ。
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佐々木圭介
朱音の父。十年前の「倉庫事件」に深く関わる過去を持つ。
失われた記録を追ううちに、再び“仕組まれた事故”の真相へと導かれる。
家族を守るため、過去と正面から向き合うことを決意する。
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玲
冷静沈着な探偵。K部門の現場統括者。
論理的な分析と鋭い洞察で事件を導くが、その背後には長年の後悔と孤独がある。
怜奈の行方を追う中で、“見えない敵”の存在に気づき、真実の核心へと迫る。
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橘奈々(たちばな なな)
玲の助手。情報処理と通信解析を得意とするデジタルスペシャリスト。
現場で収集したデータを即座に解析し、玲をサポートする。
冷静な判断の裏に、強い正義感を秘めている。
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川崎ユウタ(かわさき ゆうた)
“記憶の証人”と呼ばれる少年。
他者の残した感覚記録や記憶の断片を“聴き取る”特異な共鳴能力を持つ。
怜奈のボイスメモを解析し、消えた夜の真実を導き出す鍵となる。
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水無瀬透
“記憶深層探査官”。現場の残留記録や心理的痕跡を読み解くスペシャリスト。
冷静沈着な態度の中に、人の痛みに寄り添う優しさを秘めている。
怜奈の残した“最後の感覚”を読み取り、玲たちを河川敷へと導いた。
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九条凛
心理干渉分析官。怜奈のボイスメモや行動記録を心理学的に解析する。
彼女の“恐怖”が単なる錯覚ではなく、意図的な追い込みであったことを立証する。
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柏倉慧
法学部三年。怜奈に対して強い恨みと支配欲を抱き、尾行と心理的圧迫を繰り返していた犯人。
河川敷で怜奈を追い詰めたが、証拠を残し逮捕される。
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怜奈
本作の“消えた少女”。実は多重人格を抱え、長年苦しんできた。
「もし僕が消えたら──」というメッセージを残し、自らの記憶と向き合う覚悟を決める。
彼女の声と記録は、ユウタを通じてチームへ届き、事件の真実を照らす光となった。
2025年5月26日(月)午前8時17分/東京都青梅市・御岳山麓 ロッジ「玲探偵事務所」
朝霧の残る山の縁を、小鳥のさえずりが跳ねるように抜けていった。
東京都の郊外、青梅の山あい。標高五百メートルに建つロッジ型の探偵事務所は、平日とは思えぬ静寂に包まれている。
都心から車で二時間。都会の喧騒を離れたこの場所は、依頼人の多くが「誰にも知られず話ができる」と口をそろえる隠れ家でもあった。
「お湯、沸いたわよー」
ダイニングテーブル越しに、沙耶が声をかける。ストーブの上では鉄瓶が穏やかに湯気を立てていた。
玲はその隣で新聞を折り畳みながら短く答えた。
「ありがとう」
「ここのところ、相談が続いていたから……今日くらい、何もないといいんだけど」
沙耶は湯飲みに緑茶を注ぎながら、玲の顔色を伺うように言った。
「平穏な日というのは、なぜか物語の幕開けを連れてくる」
玲は窓の外を見やる。霧が薄くなり、木立の向こうに奥多摩の街並みがわずかに見える。
そのとき、事務所の奥で通信端末が震えた。
「来たわね」
奈々がノートPCの画面を覗き込みながら言った。
「10時に来訪予約。匿名。内容は“家族に関する相談”とだけ」
玲は立ち上がり、コーヒーミルを手に取った。
「名前を伏せている時点で、ただの悩み相談ではないな」
沙耶が少し身を乗り出す。
「失踪? それとも――」
「それは、会ってみれば分かる」
玲の声は穏やかだったが、その瞳にはすでに“現場”の光が宿っていた。
窓の向こう、まだ霞の残る坂道を、黒い軽自動車がゆっくりと登ってくる。
時計は、午前10時00分を指していた。
日時:2025年5月25日 午前10時00分
場所:東京都郊外・探偵事務所ロッジ前
窓の向こう、まだ霞の残る坂道を、黒い軽自動車がゆっくりと登ってきた。
玲は応接室の窓際で新聞を畳み、車の動きを見つめる。
車はロッジ前に停まり、ドアが静かに開いた。
降りてきたのは、五十代の女性──柚木静江。顔色は青白く、手はわずかに震えていた。
玲はすぐに立ち上がり、低く静かに声をかける。
「柚木静江さんですね。ご相談の内容をお聞かせください」
静江は一歩、室内に入ると、ハンドバッグをぎゅっと握りしめた。
「三日前の夜、娘の怜が駅の改札を通ったのが最後で……その後は、どの防犯カメラにも映っていません」
玲は手帳を開き、メモを取りながら訊ねる。
「警察には届けましたか? 遺留品などは残っていますか?」
「はい……でも事件性は低いと……」
言葉が途中で途切れる。静江の瞳には不安と焦燥が混じっていた。
玲は短く頷き、落ち着いた声で告げる。
「わかりました。こちらでも調べます。できるだけ早く」
静江は深く頭を下げ、応接室を後にする。
奈々が小さな声で漏らした。
「玲さん……これは、単なる家出じゃないですね」
玲は窓際に立ち、坂道を見下ろす。
「消えたのは足取りじゃない。怜の“選択の瞬間”がどこかに残されている。その軌跡を辿れば、必ず手掛かりが見つかる」
外の霧がわずかに流れ、朝の光が木立の間から差し込む。
静かな空気の中に、しかし不穏な気配が潜んでいた。
日時:2025年5月25日 午前10時15分
場所:東京都郊外・探偵事務所ロッジ 内応接室
奈々がコーヒーカップを片づけながら、控えめに呟いた。
「玲さん……ただの家出じゃ、なさそうですね」
玲は応接室のテーブルに資料を広げ、冷静に答える。
「警察の扱いでは情報が限られる。だが、痕跡の空白が示すのは──計画的な行動、あるいは意図的な攪乱だ」
沙耶が地図に指を置きながら言った。
「坂道の監視カメラや通行履歴、目撃証言を集めれば、足取りはある程度絞れる」
玲は頷く。
「よし、今回の調査は三本柱で進める」
調査拠点1:アパート現場(現場検証/沙耶+玲)
沙耶が現場の階段や玄関周囲の足跡、残留物を確認し、細かな写真とメモを残す。
玲は部屋の家具配置や扉の施錠状態、窓の開閉痕などを入念に調査。
「怜が最後に触れた可能性のある物品をすべて記録する。手掛かりは小さな変化に宿る」
調査拠点2:大学(聞き込み/奈々)
奈々は怜のゼミ室や友人たちへの聞き込みを行い、行動パターンや心理状態の確認に努める。
「怜ちゃん、最近何か変わったことなかった?」
友人たちの回答を逐次報告し、行動の時間軸を整理する。
調査拠点3:スマホ履歴・心理分析(ユウタ+九条 凛)
ユウタが怜のスマホ通信ログを解析し、通話やメッセージのやり取りから行動の手掛かりを抽出。
凛は得られた情報を元に心理的な傾向や不安要素を分析し、家族や友人への影響も考慮して行動予測を行う。
「怜は最後の瞬間、恐怖や不安よりも“選択”を優先している。偶発的な家出ではない」
玲は全員を見渡し、決意を込めて告げた。
「よし、情報は逐次共有。手分けして分析を行う。怜の足取りを一歩でも早く確実に追い、消えた時間を取り戻す」
窓の外、坂道には朝の光が差し込み、小鳥のさえずりが響く。
だが事務所内の空気は緊張に包まれていた。
小さな手掛かりの積み重ねが、この連続失踪事件の核心を照らし出す日を、着実に近づけていた。
日時:2025年5月25日 午前11時10分
場所:東京都郊外・柚木怜のアパート周辺
玲と沙耶は、怜のアパート周囲に到着した。建物はごく普通の3階建てだが、細部に目を凝らす玲の眼差しは、どこか鋭く研ぎ澄まされていた。
「まずは入り口と共用廊下の足跡、指紋を確認する」
玲はしゃがみ込み、入り口のタイルを指先でなぞる。乾いた土や砂、微かな泥の跡が点在していた。普通の人なら見落とす程度の痕跡だが、玲は一つひとつ記録する。
沙耶が隣でメモを取る。
「左の廊下に、靴底の溝が薄く残っています。深く踏み込んだ跡じゃないから、急いでいたわけではなさそう」
玲はさらに、玄関ドアの取っ手を観察する。
「指紋はほぼ怜本人のものだけ。だが……隅に微かな皮脂汚れがある。恐らく、何かをつかんで出た痕だ」
沙耶が首をかしげる。
「手に何か持っていたんですか?」
玲は小さくうなずいた。
「鍵か、スマホか。あるいは、メモかもしれない。だが、これは外から持ち込まれた形跡ではない。本人が最後に触った痕跡だ」
階段の踊り場で、玲は足元に散乱した埃と砂のパターンに目を留めた。
「……あそこ。角度が揃っている。ここで一瞬、立ち止まった形跡がある」
沙耶が拡大写真を撮る。
「短時間だけど、何を考えて立ち止まったんでしょうか」
玲は地面に跪き、膝の高さから視線を落とす。
「誰かとすれ違ったか。もしくは、通行人や車の存在を確認している。足取りは一瞬、思考で止められている」
廊下の片隅に、小さな紙片が落ちているのを沙耶が見つけた。
「玲、これ……」
玲が手に取る。折りたたまれたメモは、怜の筆跡に似ていた。
『……駅前、十字路で待つ』
「間違いない、これが手掛かりだ」
玲は慎重に紙片を封筒に収め、手袋越しに扱った。
沙耶が息を呑む。
「……なるほど。駅で何か約束があった、あるいは誰かを待っていたのかもしれません」
玲は立ち上がり、遠くの駅方向を見やる。
「次は駅だ。ここで分かったことは、怜は計画的に、誰にも見られずに行動していた。偶発的な家出ではない」
沙耶が頷く。
「失踪は、意図的だった……」
玲は手帳に新たな記録を書き込む。
『現場検証完了:足跡・指紋・手掛かり紙片確認。怜は駅前で誰かと接触の可能性』
窓の外、坂道を渡る風が木々を揺らす。静かな朝の光景だが、その裏で、怜の行方を追う静かな戦いが動き始めていた。
玲は表札の名前を指先でなぞる。薄く掠れた「柚木」の文字。
「……最後にこの部屋の灯りが点いたのは、25日の夜22時ちょうど。以降、電力使用の記録はない」
沙耶はドアの前にしゃがみ込み、小さく深呼吸をしてから言った。
「なんだか、入ったら“時間”ごと抜け落ちてそうね」
玲は微かに頷き、静かにドアノブを回した。鍵は──かかっていない。
鈍く軋む音と共に、ドアが数センチ開く。ほの暗い室内から、微かに埃と紙の匂いが漂った。
「……知人として。だが、記録の“裏”に入る覚悟は必要だ」
沙耶は立ち上がり、並んでその薄闇の中へと足を踏み入れた。
ドアポストには新聞が3日分溜まっていた。鍵は施錠されたまま。呼び鈴にも反応はない。
「朱音が描いたスケッチに、ここと似た部屋が出ていた」沙耶は呟いた。「あの子、何か見たのかもね」
玲は無言のまま、隣室の住人に軽く挨拶し、目視で部屋の状況を確認する。
「午後3時に管理人が立ち会いに来てくれる。それまでは外部の様子だけ確認だ」
ベランダには洗濯物もなく、部屋の窓はカーテンが閉じ切っていた。
ただ──玄関マットの角が妙に折れ曲がっていることに、沙耶は目を留めた。
「……誰か、帰ってきているかも。マットが数センチずれている。これは怜の癖じゃない」
玲はその言葉に一度頷き、スマートフォンを取り出した。
「次は大学。奈々と合流しよう」
日時:2025年5月25日 午後0時20分
場所:柴ノ沢駅周辺
奈々は玲の指示で、駅周辺の聞き込みを開始した。コンビニやカフェ、改札前のベンチに座る人々に目を配りながら、持参のノートPCとスマホを駆使して、怜の行動パターンを推測する。
「すみません、5月25日の夜、22時前後にこの辺で大学生くらいの女性を見ませんでしたか?」
奈々は駅の警備員や通行人に丁寧に聞き込みを行う。返ってくる情報はまちまちだが、あるコンビニ店員が覚えていた。
「……ああ、その時間なら、女の子一人で急ぎ足で駅前を通りましたね。小さなリュックを背負っていました」
奈々は即座にノートに書き込みながら、玲に連絡する。
「玲さん、目撃情報あり。小柄の女性、リュックで駅前を通過、時間は21時55分頃」
次に奈々は、怜のスマホ履歴の解析に取りかかる。玲が事前に押収していたスマホのログを解析し、怜が最後に使用したアプリや通信を確認する。
「SNSの位置情報はオフだけど、Wi-Fi接続履歴で駅近くのカフェに22時前に接続した形跡があります。短時間、約8分間」
奈々はスクリーンを指差しながら報告する。
玲が端末越しに頷く。
「カフェに立ち寄った可能性あり。何かを待っていたか、あるいは受け取ったか」
奈々は眉を寄せる。
「でも、誰とも通信していないんです。直接会った可能性が高いですね」
玲は静かに手帳を開く。
『駅周辺調査:目撃者情報・Wi-Fiログ確認。怜は駅前のカフェで一時滞在。直接接触の可能性あり』
奈々は続ける。
「不自然なのは、そこからの移動記録がないことです。22時10分以降、公共交通の乗車ログもなし」
玲は少し考え込み、指先で駅の構内図をなぞる。
「つまり、怜はここから徒歩で移動、または知人の車で運ばれた可能性がある。目的地はまだ特定できない」
午後の駅は、通勤客も少なく、静かな時間帯だ。だが、その穏やかな空気の下で、怜の足取りを辿る手がかりは、一つずつ確実に集められていった。
玲は立ち上がり、窓の外を見つめる。
「次は徒歩ルートを割り出す。怜が歩いた可能性のある道、監視カメラの死角を確認する」
奈々も頷き、PCを閉じる。
「了解です。少しでも見逃しがないように、すべてを洗い出しましょう」
──現場検証とスマホ解析を経て、怜の“消えた足取り”は、徐々に輪郭を現し始めた。
日時:2025年5月25日 午後1時15分
場所:東京郊外・柴ノ沢駅南口〜旧住宅街方面
玲の通信越しの沈黙に、奈々は視線を上げて続けた。
「しかもその日の講義後──構内の掲示板前で、ある男子学生と口論していたって目撃証言がある。名前は……柏倉 慧、法学部の3年。彼とはゼミが違うけど、どうも“過去に関係があった”らしい」
通信の向こうで、玲が低く息を吐く。
「なるほど……“過去の関係”が、失踪の直前に再燃した可能性があるというわけか」
「ええ。柏倉は今も大学に通っているけど、ここ数日は講義に顔を出していません。研究室への連絡もなし」
玲は手元の地図に目を落とした。
「……奈々、駅前のカフェ“ルシエル”から怜がどの方向へ向かったか、監視カメラ映像の確認を」
「了解。交差点の防犯カメラ、商店街の角、それから住宅街入口のドラッグストア前……三つの映像を確認します」
奈々はノートPCを開き、解析ソフトでフレームを追っていく。映像の粒子が粗く、街灯の下で雨の反射が不規則に揺れている。
数分後、奈々の指が止まった。
「……いました。22時11分。怜が南口から住宅街の方へ歩いている。傘なしで、リュックだけ。誰かと通話しているみたいです」
玲の声が低くなった。
「通話の相手は?」
「わかりません。スマホの通話履歴、直前の発信・着信は消去済み。でも──この方向に歩くなら、目的地は“桜ヶ丘住宅街”のほう」
玲は即座に現地に向かった。
午後の陽光が木立の間に差し込み、静かな住宅街を淡く照らしている。舗装の古い坂道には、まだ昨夜の雨が細く残っていた。
玲は怜の最後の足取りが映っていた防犯カメラの位置を確認し、周辺を歩きながら記録をつける。
「歩幅は一定。走ってはいない……何かを“確かめる”ように歩いている」
やがて坂の途中、古い街灯の下で立ち止まった。路肩の側溝に、小さな金属片が落ちているのに気づく。
しゃがみ込み、ペンライトを当てる。
それは、折れた鍵の一部だった。
先端に微かに“YUNOKI”の刻印。
玲の目が鋭くなる。
「……怜の部屋の鍵か。だが、なぜここに」
そのとき、奈々の声が通信に入った。
「玲さん、もう一つ報告。怜のスマホ、最後にWi-Fiを拾ったのは“桜ヶ丘三丁目・民家A”──地図で見て、玲さんのすぐ近くです」
玲は顔を上げ、住宅街の奥に目を向けた。
午後の陽射しの中、白い二階建ての家が一軒、カーテンを閉ざしたまま静まり返っている。
──その家の玄関前、砂利の上に、黒い折り畳み傘が一本、倒れていた。
玲は無言でポケットから手袋を取り出し、傘の持ち手を確かめる。
タグには、うっすらと「R.Y.」の刺繍。
奈々が息を呑む。
「……それ、怜のものですか?」
玲は頷いた。
「間違いない。ここで、何かが起きた」
周囲の静けさが、かえって不自然に感じられるほどに張りつめていた。
遠くで犬が一度だけ吠え、風に洗濯物がかすかに揺れる。
玲は静かに玄関を見上げる。
「桜ヶ丘三丁目一六。柚木怜が最後にいた可能性の高い場所。──調べる価値は十分にある」
午後の光が傘の先端をかすかに照らした。
その瞬間、玲の胸に、確かな“予感”が走る。
この家こそが、失踪の真相への扉。
日時:2025年5月25日 午後3時40分
場所:桜ヶ丘三丁目一六・無人住宅(旧借家)
「これが、怜のスマホのバックアップ記録だよ」
ユウタが操作していた解析端末の画面に、次々とデータが浮かび上がる。
薄暗い部屋の中、カーテンは閉め切られ、湿った空気がわずかに漂っていた。
玲はテーブルの上に置かれた埃の跡を見つめながら、慎重に言葉を選んだ。
「……電源は落ちたまま。だが、Wi-Fiログはこの家で途切れている。怜はここで最後にスマホを操作していた可能性が高い」
ユウタがうなずき、画面を指でスクロールする。
「5月25日、22時15分──“慧”って名前のメッセージスレッドがある。けど、内容が全部消去されている。手動じゃない、バックアップ領域ごと消されている」
奈々が顔をしかめる。
「慧……柏倉慧。やっぱり彼が関係している」
玲は周囲を見渡した。
部屋は整頓されすぎていた。生活感がない。冷蔵庫の中には水のペットボトルが一本だけ。
玄関の靴箱には、サイズの違う靴が二足。どちらも、履き跡が新しい。
沙耶が、窓辺に立って静かに言った。
「……この家、最近まで誰か住んでいた気配がある。でも、急に“消えた”。洗面台の歯ブラシ、まだ湿っていた」
玲は手袋越しにテーブルの下を確認し、小さな紙片を拾い上げた。
白い紙には、薄いインクで書かれた走り書きが残っている。
──“待ってて。話したいことがある”
玲はそれを見つめたまま、低く呟く。
「この筆跡……怜のノートと一致する。つまり、ここで“誰か”を待っていた」
奈々が、ユウタの端末を覗き込む。
「ユウタ、メッセージの消去時刻は?」
「22時17分。Wi-Fiログが途絶えた直後だね」
玲がゆっくり顔を上げた。
「──怜は、ここで柏倉慧に会っている。だが、その直後に“通信が消えた”。」
沈黙が部屋を満たす。
冷蔵庫のモーター音だけが、遠くで一定のリズムを刻んでいた。
そのとき、奈々の通信端末が震えた。
「玲さん、大学から追加の情報。柏倉慧、今朝から連絡が取れないそうです。ゼミの担当教授も居所を知らない。携帯も電源オフ」
玲は短く息を吐き、玄関へ向かう。
「……偶然が二度続くことはない。彼も“消えた”ということだ」
外に出ると、午後の光がやや傾き、住宅街の影が伸びていた。
玲は坂の下を見下ろしながら、呟く。
「怜の失踪と慧の消失。その接点は、この家──“誰もいないはずの場所”」
沙耶が静かに問う。
「玲……もし、ここがただの空き家じゃなかったら?」
玲はわずかに頷いた。
「おそらく、“誰かが”一時的に使っていた。監視されない、短期間の隠れ場所として」
奈々が端末を見つめる。
「……バックアップの最後、位置情報タグに“柴ノ沢河川敷”の名前が一瞬だけ残っています。通信途絶の直前」
玲の瞳が光を反射した。
「河川敷、か。行こう──怜が最後に“見た場所”を確かめる」
夕刻の風が、住宅街の並木を揺らした。
誰もいない家の玄関には、倒れたままの黒い傘が、まだ雨粒を抱いていた。
日時:2025年5月26日 午後4時32分
場所:柴ノ沢河川敷・下流エリア(桜ヶ丘橋付近)
「――GPS履歴、復元完了」
ユウタが画面をタップし、マッピングソフトを展開した。
タブレットの上には、淡い青い線で描かれた移動軌跡が表示される。
その線は駅を出たあと、一度まっすぐ北へ向かい、やがて川沿いの堤防へと折れていた。
玲は地図をのぞき込み、眉をひそめる。
「ここで信号が途切れているな。位置データの最終取得時刻は?」
「22時18分。──怜のスマホが完全にオフラインになった瞬間です」
ユウタの声は静かだが、緊張が滲んでいた。
彼らが立つ河川敷は、夕刻の風が吹き抜ける広い空間だった。
土手の上には車の通った跡があり、下流側には雑草が不自然に倒れている。
水の匂いに混じって、微かに湿った金属のような匂いが漂っていた。
奈々がしゃがみ込み、地面の一点を指差した。
「……玲さん、これ。泥に半分埋まっています」
玲が近づくと、そこには黒いスマホケースが落ちていた。
端の一部が擦れており、表面には小さな指紋の跡がいくつも残っている。
ストラップの金具が外れており、まるで何かに引き剥がされたようだった。
沙耶が慎重にビニール手袋をつけ、それを拾い上げる。
「……怜のものだわ。裏に貼ってあるシール、大学のロゴ入り」
玲はケースを受け取り、わずかに傾けて光を反射させた。
「落としたというより、“奪われた”ように見えるな。ストラップの裂け方が不自然だ」
奈々が視線を上流側へ向ける。
「玲さん、見てください。草むらの奥……何か足跡が続いています」
玲は一瞬だけ目を細めた。
草の根が踏みつぶされ、乾いた土の上に、浅いが明確な足跡が二種類残っている。
一つは小柄な女性のもの。もう一つは、明らかに男性の靴跡だった。
「間隔が広いな……逃げている?」
玲の呟きに、ユウタが頷いた。
「怜の足跡が軽い。踏み込みが浅い。走っていたと思う。でも、もう一方は深い。追っていたんじゃないかな」
沙耶が足跡を追うように歩き、少し離れた場所で立ち止まった。
「ここで……止まっている」
そこには、急に足跡が途切れ、代わりに土が円を描くように乱れていた。
玲がその場にしゃがみ込み、手袋越しに地面を撫でる。
「揉み合った跡だ。靴跡が交錯している。しかも、片方は泥を滑らせている……倒れたか、引きずられた」
奈々が小声で言う。
「その先、数メートル先の斜面にタイヤ跡があります。車が停んでいた可能性が高い」
玲はゆっくりと立ち上がり、川面の方を見やった。
薄い夕焼けが水面に反射し、静かに波打っている。
何もないようで、確かに“誰かがいた痕跡”だけが残っていた。
「……怜はここで、連れ去られた」
玲の声が、川風に溶けていく。
沙耶は拳を握りしめ、唇をかすかに噛んだ。
「じゃあ、慧は?」
玲は一瞬の沈黙のあと、低く答える。
「彼も、この場所を知っていた。だが、怜を連れて行ったのは別の誰かだ」
奈々が無線機に手を伸ばした。
「現場保全の連絡を入れます。防犯カメラの確認は?」
「私が回る。橋の下の監視ポール、あの位置なら車種が映っているはずだ」
玲が言い残し、河川敷の坂を登っていく。
背後で、ユウタが再び画面を操作する。
「玲さん、補足情報。最後のGPS信号の直後、怜の端末から“Bluetoothペアリング”の痕跡がある。デバイス名は……“Kashiwakura-K”。」
玲の足が止まった。
夕陽が傾く中、その横顔にわずかな影が落ちる。
「……慧は現場にいた。だが、“怜を連れ去った側”ではないかもしれない」
奈々と沙耶が顔を見合わせた。
沈黙の中、風が草を揺らす音だけが響いた。
日時:2025年5月26日 午後8時12分
場所:柏倉 慧の自宅マンション/東京都・小金井市 貫井北町
ワンルームの玄関を開けた瞬間、玲は空気の重さに眉を寄せた。
ワックスの匂いと古いタバコの煙が入り混じった、使い込まれた生活の気配。
机の上には書きかけのレポート、冷めたコーヒー、そして――カーテンの隙間から覗く街の灯り。
「警察は一度来ているみたいですね。玄関の封印テープが新しい」
奈々が低い声で言い、手袋をはめ直す。
玲は黙ってうなずき、靴を脱いで中に入った。
狭い室内に、紙と電子機器の匂いが混じる。
机の上にはノートPCが置かれ、モニターの端に貼られたメモの一枚。
そこには、乱れた筆跡でこう書かれていた。
> 「“柴ノ沢”は偶然じゃない。あの日の映像は、俺じゃない。」
奈々がその文字を見つめながら、眉をひそめた。
「これ……怜さんの失踪当日を示している?」
玲はノートPCの電源を入れる。パスワード入力画面。
ユウタのサポートを受けながら復旧を試みると、すぐに複数のデータログが現れた。
その中に、ひときわ異質なフォルダがある。タイトルは──「backup_0518」。
フォルダを開くと、画像ファイルが並んでいた。
どれも駅周辺や河川敷の夜景。しかし一枚だけ、明らかに違う。
モザイクのような光の中に、人影が二つ。片方が、怜に似ていた。
「……これ、防犯カメラの静止画データです」
奈々が指で拡大する。
もう一方の人影は、フードを被った男。顔は映っていない。
その背後に黒い車の一部が写り込んでいた。
玲がその画像を見つめ、低く呟く。
「この車……河川敷のタイヤ跡と一致する」
奈々の表情が強張る。
「じゃあ、慧くんが怜さんと会っていたのは確か。でも……彼が犯人じゃない可能性も?」
玲は机の引き出しを開けた。中には封筒がひとつ。
白い封筒には、ボールペンでこう記されている。
> 『怜へ。あの日、君を守れなかった』
中から出てきたのは、大学構内の防犯カメラ映像を保存したUSBメモリだった。
ラベルには「5/25 - 18:00」と記されている。
玲がそれを手に取り、ゆっくりと息をついた。
「慧は“何かを知っていた”。そして、その証拠を残していた……」
奈々が静かに言葉を継ぐ。
「でも、本人はもう行方が分からない。これ、もしかして怜さんと同じように……」
玲は一瞬、目を閉じた。
窓の外、遠くで電車の音がかすかに響いていた。
そして、手元のスマートフォンが震える。ユウタからのメッセージ通知。
> 【解析完了:怜のスマホのメッセージログ、一部復元成功】
画面に現れたのは、断片的に復元されたメッセージ履歴。
玲は目を細め、声を落とす。
「……続けてくれ。慧と怜の“最後の会話”が、この事件の鍵だ」
日時:2025年5月26日 午後9時02分
場所:玲探偵事務所/東京郊外・ロッジ内 作戦室
雨脚が弱まり、屋根を叩く音が静かになっていた。
薄暗い室内に、端末の光だけが漂っている。
ユウタが操作するモニターに、復元されたメッセージログが次々と映し出されていく。
[5月20日 22:03]
怜《“あのとき見た顔”……やっぱり、駅のホームにいた気がする》
[5月22日 00:41]
怜《これ、誰にも言っちゃいけない気がしてた。でも、……やっぱり変だよね》
[5月23日 19:18]
相手不明《また、今日もそこにいた?》
怜《うん。……ずっと立っていた。目は合ってないけど、“視られてる”感じがした》
奈々がログを読み上げながら、眉をひそめる。
「“あのとき見た顔”って……何を指しているんだろう」
玲は黙ったまま、テーブルに置かれた地図へ視線を落とした。
「“駅のホーム”という言葉が二度出てくる。──それと、“誰にも言っちゃいけない気がしてた”」
声を落としながら、ゆっくりと指先で地図の一点を示す。
「柴ノ沢駅……そして、河川敷の方向。怜は何かを見た。自分でも“信じたくないもの”を」
ユウタが端末を操作し、メッセージの時刻とGPS履歴を重ねる。
画面上に、光る点がひとつ──駅から離れ、南側の旧貨物線跡地へと移動していた。
「ここです。失踪当日の21時48分、怜さんのスマホが最後に通信した地点。
でも……このエリア、正式には“立入禁止区域”のはずです」
奈々が息をのむ。
「まさか、彼女は“あの人影”を追って、そこまで……?」
玲は静かに頷く。
「“視られてる”という言葉は、怜が一方的に感じた恐怖じゃない。
……彼女を“見ていた側”にも、理由があった」
モニターの光が、玲の瞳を淡く照らす。
その表情には、確信に近いものが宿っていた。
「──次の現場は、旧貨物線跡地。怜が“最後に立っていた場所”を、直接確かめる」
日時:2025年5月27日 午後10時12分
場所:旧貨物線跡地(柴ノ沢南側)/雨上がりの夜
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線路の錆びたレールが、湿った街灯の光を鈍く反射していた。
遠くで犬の鳴き声が一度だけ響き、それきり夜は静まり返る。
玲と奈々は、柚木怜の最後の通信記録が残った地点に立っていた。
足元の砂利は雨でまだ湿っており、靴底が沈むたびに音が吸い込まれるようだった。
奈々がイヤホンを片耳につけ、ユウタからの通信を確認する。
「音声ログ、再生しますね。怜さんのスマホに自動録音されていたものです。
ただし、途中からノイズで途切れています」
小型スピーカーから、微かな風音と、怜の息づかいが流れた。
《……これ以上、近づけない……でも、あの人……あそこに──》
《え? 誰……? なんで──》
(ノイズ混入・音声欠落)
《やめ……! そこに──来ないで……!》
音がぷつりと途切れた。
奈々が顔を上げる。
「……この“やめて”の後、通信が完全に途絶えています」
玲は黙って辺りを見回した。
街灯は少なく、闇が濃い。
旧線路脇には雑草が伸び、錆びた鉄柵が道を遮っている。
「ここ、線路跡の終端に近いな。柵の向こうは河川敷……」
玲の声は低い。
「怜は、何かを“見た”。それが彼女をこの場所に導いた」
そのとき、奈々の肩が小さく震えた。
「……玲さん、風……止まりました?」
玲が顔を上げる。
夜気の中、空気の流れが不自然に途絶えている。
虫の声も、街のざわめきも、なぜか一瞬、消えていた。
奈々が視線を柵の向こうにやる。
「……誰か、いるような……」
玲は答えず、懐中電灯を向けた。
光の先には、草むらと、わずかに沈んだ足跡。
ぬかるみの上には、二種類の靴跡が重なっていた。
一つは小柄で、スニーカーの跡。怜のものだろう。
もう一つは、それより大きく、深く沈んだ男性の靴跡。
「……この跡、怜が消えた方向とは“逆”に向かっている」
玲の目が細められる。
「つまり──怜のほうが、逃げていた」
奈々が小さく息を呑む。
「誰かが追っていた……」
玲は短く頷き、低く言った。
「そして、その誰かは、まだ“この近くにいた”」
その瞬間、街灯が一つだけ、チリと音を立てて瞬いた。
奈々が反射的に振り返る。だがそこには誰もいない。
玲は懐中電灯を下げ、静かに息を吐いた。
「……怜の“視られている”という言葉。あれは恐怖の錯覚ではない。
彼女は確かに、誰かの視線を感じていた」
湿った風が戻り、鉄柵がかすかに鳴る。
夜の闇が再び、二人を包み込んだ。
2025年5月28日(水) 午前1時42分 玲探偵事務所・分析ルーム(東京郊外)
⸻
深夜。
窓の外は霧が再び降り始め、街灯の光を柔らかくぼかしていた。
電子機器の低い駆動音と、雨粒が屋根を叩く音だけが部屋を満たしている。
九条凛は、モニターの前に静かに座っていた。
指先で再生を一時停止し、波形を拡大する。
再生ログのタイムスタンプには、こう記されていた。
[5月25日 21:37](音声メモ)
ヘッドホンから微かな呼吸音と、雨のようなノイズ。
続いて怜の声が、掠れたように流れた。
> 《……姿は見えない。でも、確かにいた。“視線”だけが残っている。あの日から──ずっと》
> 《歩いても、曲がっても……背中に“何か”がいる感じがする。……なぜ、俺なんだ……?》
その声はかすかに震えていたが、恐怖というより“混乱”が混じっていた。
言葉を選びかけて、何かを飲み込むような間。
凛は眉を寄せ、再生を止めた。
「……“俺”?」
凛は小さく呟いた。
怜は女性だ。にもかかわらず、音声メモの中で自分を“俺”と呼んでいる。
彼女が別人を代弁しているのか、あるいは……。
凛は思考を整理しながら、通信端末をタップして玲を呼び出した。
「玲さん、凛です。音声データの最終部分……確認してほしい」
玲の声が返る。
「聞いた。本人の意識状態が不安定だった可能性もあるが、“あの日”という言葉が気になるな」
凛は小さく頷いた。
「はい。失踪の五日前、つまり5月20日。怜は“駅で見た顔”の話をしていました。あれが“あの日”なら──何かが彼女の中で変わった」
「……視線を感じる、と言っていたな」
「ええ。でも、“誰かに見られている”というより……“誰かの記憶に見られている”ような口ぶりでした」
玲は数秒、沈黙した。
その間に、凛の指は再び音声ログの最終フレームを拡大した。
波形の末尾には、人の声とも風ともつかぬ、短い“残響”が残っていた。
> 《──怜……そこには、行くな》
わずかに聞き取れる、男性の声。
再生を繰り返しても、音源の特定はできない。
凛はその波形の一部を切り出し、解析データにタグをつけた。
〈不明話者:男性/推定年齢20代後半〜30代前半〉
〈録音環境:屋外・無反響〉
〈距離:3〜5メートル以内〉
「玲さん。怜のすぐ近くに、誰かいました」
受話口の向こうで、玲が短く息をついた。
「……その声、柏倉慧のものかもしれない」
「でも、もし彼が“止めようとしていた”のだとしたら……怜を追っていたのは別の人間です」
凛の声に、玲は低く答えた。
「……分かった。明朝、現場を再確認する。君はその音声、ユウタに渡して解析を続けてくれ」
通信が切れた。
凛はしばらく画面を見つめ、ヘッドホンを外した。
机の上のペンが、静かに転がる。
そして彼女は、小さく呟いた。
「怜さんは“見られていた”んじゃない。……“見ていた”んだ、誰かを」
雨脚がわずかに強まる。
モニターの光が、凛の横顔を白く照らした。
ボイスメモ①(2025年5月19日 02:12/柚木怜 自宅アパート)
(ノイズ交じり、息が荒い)
「……まただ。誰もいないのに、階段の音。振り返っても、何もない。でも、確かに“誰か”がいる。……笑えるよな、こんな時間に、一人で録ってるなんて。でも、これ……あとで、自分に証明するために、残しておく。俺は、ちゃんと“感じてた”って」
(沈黙数秒)
「……“あの夜”の音と同じだ。身体が覚えている。あの時、強姦されたこと……忘れたはずなのに、思い出してしまう……」
(短い息。再び無音)
九条凛は沈黙のまま、画面を見つめる。
指先がわずかに震える。怜の声には、恐怖でも怒りでもない、“身体の記憶”が滲んでいた。
「……この震え方、ただの不安じゃない。怜は“過去の被害”を思い出していた」
凛の言葉に、奈々が小さく息をのむ。
玲はその場に立ち尽くしたまま、低く呟いた。
「彼女は、逃げていたんじゃない。――思い出してしまったんだ。忘れたはずの夜を」
ボイスメモ②(2025年5月21日 13:45/大学図書館)
(落ち着いた声。周囲に人の気配)
「……大学の図書館。今日も誰とも話してない。講義が終わると、誰とも目を合わせたくなくなる。なんていうか、視線の奥に、“記録されている”感覚がある。いや、気のせいだって言われるのはわかってる。でも、たぶん、俺が“誰かの観察対象”になってるんだと思う」
(ペンのキャップを閉じる音)
「この声も、聞かれない方が安心する。誰にも届かないほうが……」
九条凛は音声を聞きながら、怜の微細な心理反応に注目する。
「怜は過去の被害もあって、無意識に“監視されている”状況に過敏になっている」
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怜の消失ルートの推定(5月25日 夜22:00以降)
1.大学キャンパス(午後21:00)
•怜は図書館から最寄り駅まで徒歩で移動。
•監視カメラ映像を確認すると、怜は柏倉慧との接触後、普段とは異なる歩行ルートを取る。
2.柴ノ沢駅改札(午後22:00)
•最後の目撃は改札通過。
•しかし駅構内カメラには、それ以降の姿が映っていない。
3.住宅街・河川敷ルート(午後22:10~22:20)
•事前に解析したGPS・スマホ履歴を基に、怜が河川敷沿いの小道を通った可能性を推定。
•河川敷で「落とされたスマホケース」と「第三者の足跡」が発見される。ここが事件の転機。
4.犯人推定
•足跡とスマホのGPSデータから、怜を尾行していたのは柏倉慧と不明の第三者の可能性。
•現場検証では、河川敷付近に制御されていない監視カメラの死角が存在。
•専門家の分析により、犯人は怜の心理を熟知しており、意図的に“尾行を感じさせる”行動を取っていたと推定。
ボイスメモ③(2025年5月24日 19:03/河川敷沿いの小道)
(静かな口調、疲弊した声)
「……これが最後になるかもしれない。もう、隠れきれない気がしてる。“何か”が、近づいてる。でも俺、まだ、完全には諦めてない。どこかに、“俺の声”をちゃんと聴いてくれる誰かが、いる気がするから……」
(息を吐く音)
「……俺は、まだここにいる。ここに、いたかったんだ」
九条凛は音声を聞きながら、手元の地図とGPSログを重ね合わせる。
「怜は、河川敷のこの区間で、何者かに追い詰められていた」と静かに言った。
河川敷現場(2025年5月25日 22:15/東京都郊外・河川敷沿い小道)
小雨の残る河川敷。地面はまだ湿っており、水たまりが点在している。低く垂れ込めた雲は光を吸い込み、街灯のオレンジ色の光が水面に反射していた。
風に乗る湿った土の匂いが、現場の緊張感を一層強める。
玲と沙耶は足元の土を慎重に踏みしめながら前進する。靴底に泥が絡みつき、静かな河川敷にわずかな音を立てる。ユウタは端末を手に、怜のGPS軌跡とスマホのバックアップログを対照させていた。
沙耶が低く呟く。
「……ここ、怜のスマホが落ちていた場所。水滴で濡れている。しかも、誰かが掴んだ痕跡がある」
玲はしゃがみ込み、足元の地面を指先で確かめる。
小さな足跡が湿った土に刻まれており、河川敷を縦断して住宅街方向へと伸びていた。
足跡の向き、深さ、間隔を慎重に観察すると、怜が恐怖に駆られながら逃げた方向と、尾行者の体格、速度まで推定できる。
ユウタが端末を操作し、スマホ内の断片データを解析する。
メッセージの未送信文、位置情報、最後の発信履歴から、怜が追跡者に気づきつつも必死で逃げていた軌跡が浮かび上がる。
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決定的手掛かりの発見
沙耶が湿った土の中から、半ば埋もれた小さなハンカチを見つける。
玲が慎重に拾い上げると、ハンカチの繊維に犯人の指紋と、わずかな血痕が残っていた。
玲は低く呟く。
「これで確定だ……」
九条凛が冷静に心理分析を加える。
「怜の恐怖は単なる尾行ではなく、意図的に追い込まれていた証拠。指紋があるということは、犯人は怜と接触している」
ユウタはスマホの位置履歴を再確認。柏倉慧の居場所と時間軸を照合すると、河川敷現場に接近していた形跡が一致する。さらに、近隣の防犯カメラ映像から、怜と柏倉慧が一緒にいる瞬間も確認された。
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犯人確定
•犯人:柏倉慧(法学部3年生)
•動機:怜に対して過去の恨み・対立心を抱き、尾行と心理的圧迫を繰り返していた
•行動:河川敷で怜を捕縛、恐怖を与えようとしたが、偶然スマホを落とすなどのミスにより痕跡が残る
玲はチーム全員に指示を出す。
「警察に通報し、現場の指紋と防犯映像を提出。柏倉慧は拘束されるはずだ」
沙耶が小声で言った。
「怜も、もう安全な場所にいるはずですね」
玲は頷く。
「……これで、怜の消えた夜の全貌が繋がった」
河川敷に差し込む朝の光が、水滴に反射して小さくきらめく。
連続殺人未遂の危機も、こうして現実的な捜査の成果として解決へ向かっていった。
2025年5月25日 23:05/東京都郊外・河川敷沿い小道
──沈黙。
怜は土と水で濡れた服のまま、河川敷の草むらから立ち上がった。足元は泥で滑りやすく、息は荒い。玲と沙耶、ユウタは慎重に周囲を警戒しながら彼女に駆け寄る。
玲が低く声をかける。
「怜、大丈夫だ。もう安全だ」
怜は小さく頷き、震える声で返す。
「……うん、ありがとう……」
奈々が肩にかけていたブランケットを差し出す。怜はそれを受け取り、体を包んだ。寒さと恐怖で震える手が少しずつ落ち着いていく。
そのとき、河川敷の小道を車がゆっくりと上ってくる。降りてきたのは、柚木静江と柚木誠。二人の目には、安堵と心配が混じっていた。
静江が泣きそうな声で叫ぶ。
「怜……!」
怜は一歩踏み出し、母親に抱きついた。誠もすぐに手を伸ばし、娘を強く抱きしめる。雨に濡れた髪と泥まみれの服も、親子の再会の温もりに包まれる。
玲は少し距離を取り、穏やかに見守った。沙耶が静かに呟く。
「……よかった、怜も無事だ」
怜は涙を拭い、母の手を握り、父の胸に顔をうずめる。
「ごめん……心配かけた」
静江は背中をさすり、優しく微笑む。
「大丈夫よ、もう何も怖いことはない」
玲はメモを取る手を止め、穏やかな朝の光を見上げる。
「──一件落着。だが、今回の事件は警察手続きと心理面でのケアをしっかり行う必要がある」
河川敷には、夜明け前の静かな風と、家族の温かい再会の声が溶け合っていた。
2025年5月25日 22:15/東京都郊外・河川敷現場
玲が端末を操作すると、画面に怜のボイスメモが表示された。
自動解析によって付けられたタグが、淡い青色で列挙されている。
〔夜/不安/誰かの気配/外の足音/錯覚〕
玲は画面を見つめ、深く息を吐いた。
「……これだけでも、怜が何を感じ、どの瞬間に恐怖を覚えたかがよく分かる」
沙耶が端末越しに呟く。
「“誰かの気配”と“外の足音”が同時に検出されている……尾行者の存在を本人が感知していた証拠ね」
ユウタが画面を拡大し、GPS軌跡やスマホの加速度センサー情報と照合する。
「土の上の足跡と完全に一致する。この夜、怜は確かに尾行されていた」
玲はノートに静かに書き込む。
『怜ボイスメモ自動タグ確認:夜/不安/誰かの気配/外の足音/錯覚』
『物理的痕跡との照合で尾行者の存在確定』
小雨上がりの河川敷に、静かだが確かな事実が積み重なっていく。
彼女はボイスメモの再生をタップする。
「……また、階段の音がした。午後11時12分。さっきと同じ、ゆっくりとした足音。下まで見に行ったけど……誰もいなかった。……でも、いた。確かに、“気配”が残っていた。間違いない」
音声の最後で微かに息を呑む音が入り、再生が止まる。
2025年5月25日 23:05/東京都郊外・住宅街ビル現場
玲と沙耶は、河川敷から続く住宅街の一角にたどり着いた。
ビルの外観は古び、薄暗い街灯に照らされている。
「……窓が、全部ふさがっている」
沙耶が低く息を漏らす。ガムテープが隙間なく貼られ、外から内部の様子はまったく窺えなかった。
玲は慎重に足元を確認しながら、視線を窓面に沿わせる。
「封鎖の仕方が意図的だ。内部の明かりも音も外に漏れないようにしている」
ユウタが端末を取り出し、赤外線カメラでビルの外壁をスキャンする。
「熱源がほとんどない……中に人がいる可能性は低いが、以前ここを訪れた痕跡が残っている」
沙耶は窓ガラスに貼られたガムテープを指でなぞり、微かなざらつきを確かめる。
「怜がここに向かっていた可能性……あるわね」
玲は静かに頷き、ノートに記録する。
『住宅街ビル現場:ガムテープで完全封鎖。内部探索は不可。怜の移動軌跡との関連調査継続』
冷たい夜風が通りを吹き抜け、封鎖されたビルの無言の威圧感が、調査チームに緊張をもたらしていた。
2025年5月25日 23:15/東京都郊外・住宅街ビル現場内外
玲は深呼吸をひとつ。夜の冷気に包まれたビルの前で、手元のノートに細かく指示を書き込む。
「ここから先は、慎重に。内部に潜む可能性のある痕跡をすべて洗い出す」
沙耶が懐中電灯を手に、入り口周囲の足元を照らす。瓦礫や落ち葉の下、わずかな泥の押し跡、踏み外しの痕。小さな手がかりのひとつひとつが、怜の足取りを示す証拠になる。
ユウタは端末を操作し、GPS軌跡と現場の足跡を照合。
「怜はこのビルに近づいた痕跡があります。微細な泥の付き方から、彼女は2階の裏口付近で立ち止まった可能性が高い」
玲は窓の隙間を覗き込み、手にしたノートにメモを流す。
「物理的な痕跡と心理的な軌跡を組み合わせる。怜が最も恐れた“接触の瞬間”を、ここから逆算する」
沙耶が低く呟く。
「……誰も見ていないようでも、足跡はすべてを語る。怜が感じた不安も、この痕跡が証明してくれる」
玲は頷き、周囲の路地や階段を指差した。
「内部には入れない。だが、表から見える範囲で、物理的な情報はすべて拾う。小さな振動、土の乱れ、泥の付着、ガムテープの張り方……すべてが手がかりだ」
夜の住宅街は静まり返り、遠くで車の走る音だけが響く。
チームは慎重に、現場の最も深い層——怜が経験した恐怖の軌跡を辿る作業に没入していた。
2025年5月25日 23:30/東京都郊外・住宅街ビル現場内
玲はビルの外壁に沿って歩き、わずかに開いた換気口を指でなぞった。
「ここだ……人が通れるほどの隙間はないが、風の通り方や埃の偏りで、過去の動きは読み取れる」
沙耶が懐中電灯を差し込み、金属の床面やガムテープで封じられた窓枠を確認する。
「……誰かが意図的に、外からの視線も内部の動線も封じている」
ユウタは端末を操作し、怜の移動軌跡とビルの構造図を照合する。
「微細な埃の乱れ、泥の付着、窓の隙間からの光の入り方……これらすべてが“存在の痕跡”です。怜がここを通ったのは間違いない」
玲は低く息を吐き、ノートにメモを走らせる。
「封じられた空間、隠された記録。誰かに見られた恐怖は、痕跡として残る。物理的に触れられた箇所、体重で沈んだ床、埃の偏り……これが怜の恐怖の証拠だ」
沙耶が小声で言った。
「怜の“感じたもの”は、この場所に全部残っている……」
玲は頷き、周囲の路地や窓の隙間を指差す。
「全ての痕跡を拾い上げ、怜の行動と心理を再構築する。隠された空間に封じられた証拠は、我々が解き明かす」
夜の冷気が肌を刺す中、チームは静かに作業を続ける。
光も影も、泥も埃も、怜の恐怖の軌跡を証言する証拠として、着実に集められていった。
2025年5月25日 23:45/東京都郊外・住宅街ビル現場内
玲が埃の舞う床面を覗き込み、ノートに線を引く。
「ここまでの痕跡は完璧だ……だが──」
小さく床が軋む音。金属扉の隙間から、かすかな気配が押し寄せる。
沙耶が懐中電灯を握り締め、視線を固めた。
「……誰か、来た」
ユウタが端末を確認し、GPSログの動きを照合する。
「この動き……怜の尾行者が再び接近している。位置は──」
玲は低く息を吐き、銃を引き抜く寸前で一瞬止まった。
「──だが、それは間に合わない」
ガムテープで封じられた窓の外、黒い影がビルの裏手から滑り込む。
残された痕跡はわずか、光も音も掻き消されるように、静かに侵入してきた。
沙耶の指先が微かに震える。
「……遅かった……」
玲は瞬間的に状況を把握し、チームに短く告げる。
「全員、位置を固定。逃げられる可能性は低い──だが油断は禁物だ」
その瞬間、暗がりの向こうで、再び金属扉が軋む音が響いた。
間に合わなかった痕跡は、確かに現実の危機として、目の前に迫っていた。
2025年5月25日 23:58/東京都郊外・旧事務ビル 3階奥の一室
蛍光灯の切れた部屋の隅、机の上に置かれたノート端末が微かに光っていた。
画面には、怜の名が残した最後のファイル。タイトルはただ──《to_誰か》とだけ記されている。
玲が慎重に手袋越しにタッチパネルを操作する。
画面が開くと、短いテキストが浮かび上がった。
「もし俺がいなくなっても、このデータが残っていれば、“誰か”が見つけてくれると思う。
俺は逃げたんじゃない。見つけようとしてた。……本当の“あの夜の顔”を」
その文の最後に添付された一枚の画像。
ブレた街灯の光の下、雨に濡れた誰かの背中が写っていた。
髪を短く刈り込み、フードを深く被った若い男――柏倉慧。
沙耶が息をのむ。
「これ……彼が自分で撮ったのね。最後まで、証明しようとしてたんだ……」
玲は黙って頷き、端末を閉じた。
「──彼が“消える前”に託した、小さな証拠。
これで、すべてが繋がる」
雨音が遠くで強まり、窓の外の街がゆっくりと滲んでいく。
怜が残した一箇所の一データは、確かに生きていた。
2025年5月25日 23:59/旧事務ビル・3階
夜の風が、廃ビルの隙間を抜けていく。
割れた窓の縁をすり抜けるたび、どこか遠くで誰かが息をするような音を残した。
誰もいないはずの空間──それでも、何かがそこに“いた”痕跡だけが、微かに漂っていた。
壁際の机の上に、小さな録音端末。
電源ランプは、消えかけのように弱々しく点滅している。
玲が近づき、慎重に再生ボタンを押した。
──「……これを、もし誰かが聞いてるなら。
俺は、ちゃんと見たんだ。
“あの夜”に、ここで何が起きたかを……」
声は、怜のものだった。
途切れ途切れの録音の中に、風の音と靴音、そして遠くで何かが倒れる音が混じる。
沙耶が息をのむ。
「最後の……瞬間まで、ここにいたのね」
玲は頷き、ゆっくりと端末を閉じた。
夜の風が再び吹き抜ける。
その音が、まるで怜の残した言葉の続きを運んでくるかのようだった。
2025年5月25日 23:59/旧事務ビル・3階
夜の風が、割れた窓の隙間をすり抜ける。
わずかな風圧が、机の上の紙片をふわりと揺らした。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
> 『もし僕が消えたら、真実は“あの場所”にある。
> 信じてくれる人だけに、届きますように──』
玲は静かにそのメモを拾い上げた。
ペンの筆圧は強く、ところどころ紙が破けそうになっている。
まるで、別の人格が“何か”を訴えるように。
ユウタが、机の隅に置かれた古い録音端末を再生する。
ノイズ混じりの音声。
同じ声が、しかし明らかに異なる調子で重なっていた。
──「僕は怜じゃない。……でも、怜を守りたかった。」
──「嘘だ、全部……俺がやったんだ。止められなかった……」
沙耶は息を詰め、九条凛が低く呟く。
「……人格が交錯している。怜の中に、二人──いや、もっといる。」
玲は静かに立ち上がり、窓の外を見た。
街の灯りが遠く滲み、風がその光をぼやかしていく。
「怜は、最後まで戦っていたんだな。自分の中の“もう一人”と。」
ビルの奥で、何かがかすかに軋んだ。
まるで、怜のもう一つの声が、まだどこかで囁いているかのように──。
【日時】2025年5月27日 午後9時42分
【場所】旧第三倉庫ビル・最上階
──薄暗い蛍光灯が一つだけ、かすかに瞬いていた。
沙耶がそっと頷き、静かに言葉を重ねた。
「……怜はきっと、最後の瞬間まで“誰かを信じたかった”んだと思う。
自分の中にいるもう一人じゃなくて、ちゃんと現実の誰かを。」
彼女の声は、風に溶けるようにかすかだった。
その言葉に、ユウタがゆっくりと顔を上げる。
「だから、残したんだ……“信じてくれる人だけに届きますように”って」
玲は手にしたメモを見つめ、指先で紙の縁をなぞった。
そこに刻まれた筆跡は、確かに怜のものだったが──
文字の一部だけが、まるで別人が書いたように歪んでいた。
九条凛が低く続ける。
「人格の境界が崩れる直前……“彼の中の誰か”が、真実を託したのでしょうね」
窓の外、雨上がりの夜空に薄い月が浮かんでいた。
玲はゆっくりとその光を見上げ、静かに言った。
「怜は消えてなんかいない。……彼の“声”は、まだここにある。」
【日時】2025年5月27日 午後9時45分
【場所】旧第三倉庫ビル・最上階・臨時解析室
室内の照明は最小限に落とされ、ディスプレイだけが静かに脈打つように光を発している。
その青白い光が、沙耶と玲、そしてユウタの顔を淡く照らしていた。
モニターには、怜の音声ファイルと自動記録ログが並んでいる。
いくつもの時間軸、断片的な記憶、そして複数の“声”——
まるでひとりの人間の中に、違う誰かが交互に書き込んでいるようだった。
「……やっぱり、“もう一人”いたんだね」沙耶が呟く。
玲は頷きながら、ディスプレイの波形を指先でなぞる。
「声の周波数が微妙に違う。同じ声帯で発せられたものじゃない」
ユウタが端末のキーボードを叩く。
音声ログの解析が進むにつれ、ひとつのタグが自動で浮かび上がった。
〔怜/“他者”/葛藤/警告/別人格〕
「……“彼自身”が、怜を止めようとしていたのかもしれない」玲が静かに言う。
その瞬間、スピーカーから微かなノイズが漏れた。
再生ボタンを押した覚えはないのに、ディスプレイの波形がわずかに揺れ動く。
『──僕を、見つけてくれてありがとう。』
怜の声だった。
けれど、それはどこか別の“誰か”の響きを帯びていた。
【日時】2025年5月27日 午後10時18分
【場所】都内・柴ノ沢地区 旧貨物線沿いの廃ビル街
──暗闇に沈む街の片隅。
外灯の切れた通りを、冷たい風が抜けていく。舗道には細かい砂埃が舞い、遠くで電線が軋む音がした。
人の気配はない。ただ、ビルのガラス窓に映る夜の灯だけが、かすかに息づいている。
玲は懐中電灯の光を絞りながら、足元のコンクリートを確かめるように進んだ。
沙耶はその背後で小声で呟く。
「……ここ、本当に“怜”が最後にいた場所?」
玲は短く頷く。
「GPSの最終反応がここだ。だが……普通なら立ち入らないはずだ」
壁面のペンキは剥がれ、落書きの上にさらに誰かの書いた意味不明な線が重なっていた。
その一部に、見覚えのあるサイン──“R”の文字が、震えるように刻まれている。
ユウタが後方から通信端末を持って駆け寄る。
「玲さん……ここ、音声タグと映像記録が一致しました。“怜”が消える数分前、最後にこの廃ビルの影を撮っている」
玲はゆっくりと顔を上げた。
廃ビルの最上階、割れた窓の奥に、わずかに揺れる影が見えた。
「……やはり、“あの声”はここに残っている」
沙耶が息を呑む。
夜風が吹き抜け、破れたポスターが音を立てて揺れた。
誰もいないはずの空間で、どこかから──微かに、笑い声のようなものが聞こえた。
【日時】2025年5月27日 深夜0時42分
【場所】旧都心第三区・無響層(封鎖区画B-07)
──暗闇に沈む街の片隅。
深夜の静けさに包まれた旧都心第三区の外れ。
十年以上放棄されたままの廃区画は、今なお〈無響層〉と呼ばれ、正式な調査すら許可されてこなかった。
街灯は一本もなく、アスファルトは割れ、草木が無秩序に伸びている。空気は冷たく、湿った鉄と埃の匂いが重く漂っていた。
玲は懐中電灯の光を細く絞り、足を止める。
「……ここだ。怜の最終行動記録、“無響層”の境界線」
その隣で、沙耶が息を潜めた。
「音が……吸い込まれている。風の音も、靴音も、消える」
ユウタが小型端末を操作しながら応じる。
「GPSも不安定です。位置データが、数秒ごとに途切れている。まるで……“この区画だけ”別の層にあるみたい」
玲は廃ビルの黒い壁面を見上げる。窓はすべてガムテープでふさがれ、外界を拒絶するように沈黙していた。
やがて、微かなノイズが通信端末のスピーカーを震わせる。
〔データ検出:ボイスメモ──発信者:柚木怜〕
玲が画面を覗き込むと、そこには一行だけ残された自動タグが浮かんでいた。
〔夜/不安/誰かの気配/外の足音/錯覚〕
沙耶が、声を潜めて呟く。
「……ここで、怜は“誰か”に会っていたのね」
その瞬間、廃ビルの奥──黒く口を開けた通路の向こうから、
ひとつ、靴音が響いた。
【日時】2025年5月27日 深夜1時05分
【場所】旧都心第三区・無響層内部(封鎖ビル3階)
廃墟の空気は冷たく、天井から落ちる水滴が、静寂を刻むように床を叩いていた。
川崎ユウタは古びた教室の前で立ち止まり、端末に映し出された残響波形を凝視していた。
“記憶の証人”――川崎ユウタ。
失われた声の余韻を読み取り、そこに潜む「真実の断片」を拾い上げることを得意とする若きスペシャリスト。
その隣で、黒のコートに身を包んだ男――玲が、懐中電灯の光をゆっくりと走らせた。
埃に覆われた机、破れたカーテン、そして床に落ちた一枚の制服ジャケット。
玲は屈み、校章の刺繍を確かめる。
「……間違いない。柚木怜のものだ」
沙耶が後ろから近づき、小さく息を呑んだ。
「でも……このサイズ、女子用よ。怜は“彼”じゃなくて――」
玲がゆっくりと顔を上げ、静かに言葉を継いだ。
「“彼女”だった。柚木怜──本名、柚木怜奈」
その言葉に、ユウタの指先がわずかに震えた。
彼の端末の画面には、怜奈が残した最後の音声ログが再生されていた。
《……私の名前は、怜奈。怜は、私が作った“影”だったの。怖かった。誰かに見られるのが。あの夜も、逃げたのは、過去の自分から──》
ノイズが混じり、再生が途切れる。
沈黙。
ユウタはイヤーピースを外し、静かに言った。
「彼女は、自分の中に“怜”という別の人格を作っていたんだ。
守るために。恐怖から逃げるために……」
玲はしばらく黙っていたが、やがて低く呟いた。
「……それでも彼女は、最後まで“誰かに見てほしい”と願っていた」
沙耶が玲を見つめる。
「その“誰か”が、ユウタだったのね」
玲は小さく頷き、視線を廃墟の窓の外へ向けた。
夜明けの光が、濡れた床に反射して微かにきらめく。
玲は怜奈のノートを拾い上げ、最後のページを開いた。
そこには震える文字で、こう記されていた。
──『消えるのは、怜じゃない。私の中の、もう一人の“私”。』
玲はその文字を見つめ、低く呟いた。
「……怜奈は、“怜”を消すことで、自分を取り戻そうとしていたんだな」
廃ビルの外、朝靄の向こうで鳥が鳴いた。
夜の調査は終わり、静かな夜明けが訪れようとしていた。
【日時】2025年5月27日 午前1時40分
【場所】旧都心第三区・無響層内部(封鎖ビル3階・教室跡)
廃墟の床はひび割れ、雨水を含んだコンクリートが冷たく沈んでいた。
その中央に、水無瀬透がしゃがみ込み、掌をそっと地面に添えた。
“記憶深層探査官”――彼は物的痕跡ではなく、人間の残した感覚の残滓を読み取る特殊な技術を持つ。
冷気が指先から腕へと這い上がり、かすかな脈動のような感覚が走る。
透は、目を閉じて低く呟いた。
「……恐怖。逃走。だが、誰かに“触れられた”直後の……抵抗。
ここで彼女は、一度転倒している」
玲が近づき、ライトの光を透の足元に向けた。
「怜奈が倒れた位置か?」
透は頷き、床の亀裂に残った小さな爪痕を指差した。
「そう。これは“生き延びようとした”証拠だ。
恐怖ではなく、意志の痕跡だよ」
玲は黙って見つめ、やがて言葉を落とした。
「……怜奈は、逃げようとした。自分の中の“怜”からも、そして、実際に追ってきた柏倉慧からも」
透はゆっくり立ち上がり、静かな声で言った。
「人は記憶を完全に消せない。たとえ本人が忘れたくても、身体が覚えている。
この場所の“痛み”が、それを物語っている」
廃ビルの外では、遠くでパトカーのサイレンがかすかに響いていた。
玲は深く息を吐き、透に短く礼を言う。
「……ありがとう、透。これで彼女の“真実”に一歩近づけた」
透は振り返らずに言った。
「真実ってやつは、いつだって静かな場所に隠れている。
誰かが、それを掘り起こそうとしなければ……ずっと眠ったままだ」
雨上がりの風が、割れた窓から吹き抜けた。
床の水面がわずかに揺れ、怜奈の残した“抵抗の痕”を淡く照らしていた。
【日時】2025年5月27日 午前1時42分
【場所】旧都心第三区・無響層内部(封鎖ビル3階・教室跡)
冷たい空気が、割れた窓の隙間から静かに流れ込んだ。
埃を含んだ風が、床に散らばる紙片を揺らし、どこか遠くの記憶を呼び起こすように舞う。
水無瀬透は、膝をついたまま掌を床に当てた。
コンクリートの下に残る“熱の抜けた感情”を、彼は感じ取っていた。
「……恐怖と混乱。だけど、その中に、微かに“抗おうとする力”が残っている」
玲が足音を殺して近づき、手にしたライトを傾ける。
白い光が、透の指先と床の爪痕を照らした。
「怜奈が……ここで抵抗したのか」
透は静かに頷く。
「そう。逃げようとした。自分を守るために、必死に――」
言葉が風に消される。
吹き抜ける空気はどこか湿っていて、雨上がりの匂いを運んできた。
玲は周囲を見回しながら低く呟く。
「……この場所は、人の気配が消えている。けど、“何か”がまだ残っている」
透は立ち上がり、窓の外を見た。
街の灯は遠く、廃区画の境界をかろうじて照らしている。
「記憶っていうのは、消えても“形”を変えて残る。
怜奈はここで――自分の中の“怜”と決別したんだ」
玲の目がわずかに揺れた。
「……つまり、彼女が“消えた”のは、心の分岐点だったということか」
透は短く息を吐き、言葉を結んだ。
「真実は、いつも冷たい場所に落ちている。
けれど、それを拾い上げるのは……生きている者の役目だ」
廃墟の奥で、何かが崩れる微かな音。
玲はライトを握り直し、静かに告げた。
「……行こう。怜奈が残した“最後の場所”を確かめる」
風が再び吹き抜け、冷たい空気が二人の間をすり抜けていった。
その瞬間、遠くで朝を告げるサイレンの音が、薄闇を裂くように鳴り響いた。
【エピローグ】
朱音が空に紙飛行機を飛ばした。
薄曇りの空を、白い折り紙が静かに舞い上がり、風を受けてゆるやかに旋回する。
その紙には、朱音が丁寧な字でこう書いていた。
> 「もう、こわくないよ。ちゃんと、見つけたから。」
少し離れた場所で、沙耶がその様子を見つめていた。
彼女の頬をなぞる風は、どこか優しく、遠い記憶を撫でるようだった。
玲が隣に立ち、静かに言う。
「……あの子なりの、けじめなんだろうな」
沙耶は微笑んで頷く。
「ええ。怜奈の分まで、前を向いて生きようとしている」
丘の下では、ユウタが小さな機器を閉じていた。
最後に残された怜のボイスメモ──
その解析を終えた瞬間、彼の目に映ったのは、ノイズの奥に浮かぶ穏やかな声だった。
> 「……ありがとう。見つけてくれて、ありがとう。」
それは確かに、彼女の“本当の声”だった。
記録も、証拠も、もう必要ない。ただ、その言葉だけが真実として残った。
紙飛行機は高く、高く昇り、やがて陽の光に溶けていく。
朱音は小さく呟いた。
「……ねえ、見ている? ちゃんと、届いたよ」
玲はその横顔を見つめ、静かにポケットの中の銀色のペンを握った。
それは、怜奈がかつて大切にしていた一本。
風が止み、空がひとすじの青を覗かせる。
誰も言葉を交わさないまま、ただその光を見上げていた。
──そして、すべての“声”が静かに空へと還っていった。
玲の事務所 夜 22:48
外では静かに雨が降り始めていた。
デスクの上、モニターの隅にメール通知がひとつだけ灯る。
差出人は──怜奈。
玲は息を整え、カーソルを動かした。
件名には、短くこう書かれていた。
「もう一人の“私”について」
クリックすると、数行の本文が現れる。
玲さんへ
病院で、今日“剥がす治療”を受けました。
先生は「これで統合が進むはず」と言いました。
でも……頭の中の“もう一人の声”が、完全に消えたわけじゃありません。
どこかでまだ、私を見ているような気がして。
それでも、あの夜からずっと止まっていた時間を、少しずつ動かしたいと思っています。
また、話を聞いてもらえますか。
玲は無言で文面を読み返す。
指先がわずかに震えた。
「剥がす治療」という言葉の重さ──
それがどれほどの決意を要したか、彼には痛いほどわかっていた。
しばらく沈黙のあと、玲はゆっくりと返信を打ち始めた。
件名:Re: もう一人の“私”について
読みました。
よくここまで辿り着いたね。
無理に“消そう”としなくていい。
消えないものも、きっと意味がある。
次に会うときは、君の選んだ言葉で話してほしい。
どんな声でも、ちゃんと聞くから。
玲
送信を押すと、画面に淡い光が反射した。
外の雨音が、静かにその瞬間を包み込んでいった。




