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44話 静寂の証人 ― 倉庫連続殺人事件 ―

─ 『静寂の証人 ― 倉庫連続殺人事件 ―』 ─



■ 佐々ささき 朱音あかね


年齢:10歳(小学4年生)

スケッチと結界を媒介に“記憶の残響”を視る少女。

幼少期に記憶異常の症状を抱え、水無瀬透の指導を受けて克服。

倉庫事件の真相を導く「記憶の結界師」。純粋な直感が、沈黙の真実を呼び起こす。



■ 佐々ささき 圭介けいすけ


朱音の父。十年前の“倉庫事件”に関与したとされるが、記録の一部が消されている。

真実を求め続ける中で、家族と過去の狭間に立たされる。



■ 佐々ささき 沙耶さや


朱音の母。鋭い感受性と洞察力を持ち、事件の心理的側面を支える。

母として、そして一人の目撃者として、朱音を見守る存在。



れい


探偵。冷静な思考と圧倒的な分析力を兼ね備える。IQは300を超え、

現場では指揮官として行動。記憶と現実の境界を見抜く冷徹な判断力を持つ。



■ 橘 奈々(たちばな なな)


玲の助手。情報処理のスペシャリスト。

通信・解析・データ復元を担当し、現場の裏側を支える。



水無瀬みなせ とおる


記憶探査官/深層記憶分析士。

感情と空間の“残響”を読み取り、記憶を再構築する能力を持つ。

朱音の記憶訓練を担当した元指導官。十年前の事件と朱音の記憶を繋ぐ鍵を握る。



九条くじょう りん


心理干渉分析官。

人間の精神の揺らぎや“抹消された記憶”を感知・復元する。

朱音の心の安定を保ちながら、犯人の心理構造を読み解く。



久我谷くがたに あおい


視覚痕跡復元士。

現場に残された微細な光の反射・粒子の動きから、

“過去の映像”を復元する技術を持つ冷静な技術者。



三神みかみ 鷹生たかお


時間軸圧縮分析官。

時間の歪みを数値化し、過去の出来事を再現する解析官。

玲の右腕的存在で、現場の「時間」を読む男。



槙村まきむら 伊織いおり


瞬間記憶スペシャリスト。高校生の少年。

視覚・聴覚・体感情報を一瞬で記憶・再生できる能力を持つ。

事件現場の「その瞬間」を脳内で再構築する、若き天才。



皆本みなもと しゅん


量子記録監査官。

電子記録の改ざんや抹消の痕跡を、量子的時系列の歪みから検出する。

冷徹な論理の裏に、人間の“証拠では測れない部分”を見つめる眼を持つ。



霧島きりしま さく


十年前の“倉庫事件”で行方不明になった男。

失われた記録の中心にいたとされるが、すべての公式データから抹消されている。

彼の“存在の残響”こそが、事件を再び動かす。

東京都郊外・ロッジ内 ファミリールーム/午前4時半


 夜明け前の静寂がまだ辺りを包んでいた。

 ロッジのファミリールームには、佐々木家と玲探偵事務所のメンバーが集まっている。

 空気は張りつめ、誰もが息を殺していた。


 朱音はテーブルの端に座り、震える手でスケッチブックを握りしめていた。

 鉛筆の先が紙の上を走る。描かれているのは――朽ちた倉庫。

 壁の一角に、朱音が何度も描いてしまう「Ⅲ–K」の文字が見える。


 玲がその絵を静かに受け取り、目を細めた。

 「また、その倉庫か……」


 朱音は小さく頷く。

 「夢で、何度も出てくるんです。……椅子に縛られた人が、泣いてるように見える」


 その言葉に、場の空気がわずかに動く。

 玲の隣にいた沙耶が、低く呟いた。

 「十年前の“倉庫事件”……あれは火災事故ってことになってたけど、被害者の身元が不明のままだったわね」


 玲はテーブルに資料を広げ、冷静に言葉を続けた。

 「火災の形跡よりも、鈍器による打撲痕が多かった。遺体が一部しか残ってなかったから、警察は“事故死”と処理した。……けど、あのときの通報記録は消えてる」


 成瀬が顔を上げる。

 「つまり、誰かが意図的に“事故”に見せかけたってことか?」


 玲は頷き、朱音のスケッチを指で示した。

 「この絵に描かれてる“Ⅲ–K”は、当時の倉庫番号と一致する。……朱音、君がこれを描く理由はまだわからない。けど、ここに何かが眠っているのは確かだ」


 朱音は俯き、かすかに震える声で言った。

 「――あの人の顔、見たことがある気がするんです。ニュースで、最近の事件の……」


 玲は目を細めた。

 「最近の連続殺人。現場はいずれも“放火で処理された遺体”。そして被害者は、十年前の倉庫事件の関係者。」


 沈黙。

 暖炉の薪がパチ、と音を立てる。


 玲は立ち上がり、コートを羽織った。

 「……現場を確認する。成瀬、沙耶、準備を」


 沙耶が頷き、朱音の肩に手を置く。

 「大丈夫。私たちが全部確かめるから」


 朱音はうつむいたまま、小さく息を吐いた。

 「……お願いします。あの倉庫に、まだ“誰か”がいる気がするんです」


 玲の瞳が鋭く光った。

 「十年前の倉庫事件が、今も続いている。……なら、終わらせるのは俺たちだ」


 外では、夜明け前の風が冷たく木々を揺らした。

 ロッジの灯りがひとつ、またひとつと消えていく。

 誰も知らないまま――再び、過去の“闇”が動き出そうとしていた。


東京都郊外・旧工業地区/午前5時45分


──焼け跡となった倉庫跡地


 天井の照明は蛍光灯特有の白さで、静かに唸る音を立てていた。

 焦げついた鉄骨と崩れたコンクリート片の間に、かすかな煙の匂いがまだ残っている。

 十年前の火災現場。警察の調査はとっくに打ち切られ、今は立入禁止のテープだけが残っていた。


 玲は手袋をはめ、懐中ライトを構える。光が壁をなぞり、焼け焦げた跡の上に赤黒い染みを照らし出した。

 「……火災の痕跡にしては新しいな」


 成瀬が横から覗き込み、メジャーで壁の高さを測る。

 「およそ一五〇センチ。人の胸あたりだ。酸化も浅い……まだ乾いてねぇ」


 玲は指先でわずかに表面を擦り、冷たい声で言った。

 「誰かが、ここを使った。最近だ」


 沙耶が床の焦げ跡を見つめながら、低く呟く。

 「……十年前の事件現場が、再び“使われた”ってこと?」


 玲は無言で頷く。

 その横顔は、静かな怒りを湛えていた。


 「火災後に残された構造はほとんど同じ。……つまり、場所を知っていた人物だ。十年前の資料を見た人間か、関係者本人か。」


 成瀬が周囲を見渡す。

 「監視カメラは?」


 「外周の電源が切られてる。完全に準備された犯行だ。」

 玲の声は低く、確信を帯びていた。


 そのとき、沙耶がふと何かに気づく。

 崩れた柱の下、(すす)に埋もれた金属片が光っていた。


 彼女が慎重に取り出すと、それは“プレート”だった。

 焼け焦げた表面に、かろうじて読める刻印――「Ⅲ–K」。


 沙耶の表情が凍る。

 「……朱音の絵にあった文字と同じ……」


 玲はプレートを手に取り、光にかざした。

 「十年前に終わったはずの事件が、今も続いている。――誰かが、まだ“ここ”に戻ってきてる」


 その言葉と同時に、外の風が倉庫の割れた窓を鳴らした。

 金属音が、まるで何かの警告のように響く。


 玲は視線を外へ向けた。

 「……この場所、まだ誰かが見てる」


東京都郊外・旧工業地区 倉庫跡地/午前5時52分


 呼吸が止まった。

 玲の懐中ライトが、焼け跡の奥で何かに反射した。


 「……動くな」

 低く押し殺した声に、成瀬と沙耶が即座に構える。


 光の先には、鉄骨の影に埋もれるように“椅子”があった。

 古びた事務椅子。背もたれは半分焼け落ち、金属の脚が煤にまみれて歪んでいる。

 しかし――座面だけが、妙に“新しい”。


 布地に焦げ跡もなく、ほのかに漂う鉄の匂い。

 成瀬がライトを近づけると、乾ききっていない血の染みが暗赤色に浮かんでいた。


 「……つい最近、誰かがここに座らされた」

 玲の声は、冷気を含んでいた。


 床に目をやると、周囲の埃が不自然に払われている。

 そして――椅子のすぐ前に、二種類の足跡。


 ひとつは、細く小さな靴底。女性か、あるいは少年。

 もうひとつは、荒く踏みしめられたブーツ跡。

 深く沈んだその跡は、暴力的な圧力を感じさせた。


 沙耶が息をのむ。

 「押さえつけられて……座らされた、ってこと?」


 玲は何も言わず、足跡の方向を追う。

 ブーツ跡は出口へ向かって続いていた。

 しかし、その途中で途切れている。


 成瀬がその位置を指さした。

 「ここで……消えてる。飛び乗ったか、誰かに引き上げられたか」


 玲はしゃがみ込み、ライトを床に滑らせた。

 埃の下に、何か小さなものが引っかかっていた。


 それは、細い金属片――ネームプレートの欠片。

 焼け焦げた表面に、かろうじて残るアルファベット。

 「K.A……?」


 玲の視線が一瞬だけ鋭く光る。

 沙耶が不安そうに問う。

 「誰の名前?」


 玲はゆっくりと立ち上がり、プレートをポケットに収めた。

 「……“K.A”は、十年前の被害者リストにいた人物だ。火災で亡くなったとされた、川崎明人」


 その名が口にされた瞬間、空気が凍りついた。


 倉庫の奥から、風が再び吹き抜け、焦げた壁を鳴らした。

 まるで“何か”が、まだ終わっていないことを訴えるように。


 玲は低く呟く。

 「――十年前に死んだはずの男が、今ここに“いた”」


東京都郊外・旧工業地区 倉庫跡地/午前6時03分


 心臓が跳ねた。

 遠くからパトカーのサイレンが重なり、青と赤の光が焼け焦げた壁面を照らし出す。夜明け前の薄明かりの中で、その光だけが現実を突きつけていた。


 警察の鑑識班が現場に到着する。

 防塵マスクに手袋、白い防護スーツ。足元の砂利が踏みしめられるたび、無機質な音が響いた。


 「被害者の血痕は確認済み。周囲五メートル範囲、二次汚染なし」

 「足跡は二種。成人男性と……未成年の可能性あり。サイズはおよそ23センチ」


 玲は一歩下がり、成瀬とともに現場を見渡した。

 すでに鑑識班が三脚カメラを設置し、焼け残った椅子や床の痕跡を一つずつ撮影していく。

 その静けさの中に、規則的なシャッター音が響き続けた。


 「……座らされていたのは被害者じゃない」

 玲が小さく呟く。


 成瀬が眉を寄せる。

 「どういうことだ?」


 玲は椅子の背もたれを指でなぞった。焦げた金属の冷たさの中に、擦過傷の跡がある。

 「腕を拘束した痕が片側だけ。つまり、逃げようとした“誰か”を、途中で取り押さえた可能性がある」


 沙耶が足跡の写真を見つめながら言った。

 「じゃあ、もう一人いた?」


 玲は無言でうなずく。


 そのとき、鑑識員の一人が声を上げた。

 「玲さん、こちらを!」


 指し示されたのは、焼け焦げた壁の裏側――。

 煤の下から、金属製のプレートが現れた。


 “Ⅲ–K”


 玲の瞳が一瞬だけ揺れる。

 その刻印は、十年前の火災現場と同じものだった。


 「これで確定だな」成瀬が息を呑む。

 「十年前の“倉庫事件”と、同一犯の可能性がある」


 玲は深く息を吐き、鑑識班のカメラ越しに現場を見つめた。

 どこかで誰かがこの再現を望み、そして“記録”を作り直している。

 その確信が、背筋を冷たくした。


 「……この現場、もう一度洗い直せ。犯人は“戻ってくる”」


 焼け跡の向こう、朝の光がゆっくりと差し込み始めた。

 冷たい灰の匂いの中で、何かが静かに目を覚まそうとしていた。


東京都郊外・旧工業地区 倉庫跡地/午前8時12分


 現場の空気は、すでに朝の冷たい湿気を含んでいた。

 煙の匂いは薄れたものの、鉄と焦げの残り香がまだ鼻の奥に残っている。


 玲は防護手袋を外し、鑑識班の一人が差し出した報告書に目を通した。

 その瞬間、眉がわずかに動く。


 「……間違いないのか?」


 鑑識員は静かにうなずいた。

 「はい。現場から採取した封筒と、焼け残った椅子の下にあった紙片――同一人物による筆跡です。さらに……この筆跡、十年前の“倉庫事件”の脅迫文と一致しました」


 成瀬が息を呑み、手元のファイルをめくる。

 「まさか……あの事件の“犯人”が、まだ生きてるってのか?」


 玲は報告書の封筒写真に目を落とした。

 封筒には、震えるような文字でこう記されていた。


 ――“また、ここから始まる。”


 わずかに滲んだインク。

 筆圧が強すぎて、紙が少し破けている。


 玲は指先でその写真をなぞりながら、低く呟いた。

 「封筒の文と、同じ筆跡……十年前とまったく同じ癖だ。横線の端の跳ね、筆の入り方。これは模倣じゃない。本物だ」


 「じゃあ……奴は“生きてる”」沙耶が唇をかみしめる。


 「生きてるだけじゃない」玲はゆっくりと顔を上げた。

 「十年前に終わったはずの事件を、“今”ここで再現している」


 成瀬が小さく息を吐き、無線を手にした。

 「K部門へ連絡だ。優先コードで捜査線を再構築する。対象は“同一人物による再犯”の可能性。玲、次はどうする?」


 玲は無言で、封筒の写真を再び見つめた。

 “また、ここから始まる。”


 その文字は、まるで挑戦状のように彼の胸を刺した。


 「……奴の狙いは、“倉庫事件を終わらせなかったこと”だ。次に動くのは、夜だ」


 朝の光が、倉庫の割れた窓から差し込み、紙片の上で白く反射した。

 玲は報告書を閉じ、静かに立ち上がった。


 十年前に止まったはずの時間が、再び動き出していた。


東京都郊外・玲探偵事務所/午後10時38分


 「映像、解析完了。」


 成瀬由宇の冷静な声が、静まり返ったオフィスに響いた。

 彼は無言のまま、漆黒のUSB端末をモニター横のポートに差し込む。

 わずかな電子音とともに、暗い画面に映像ファイルのリストが浮かび上がった。


 「倉庫跡地の監視カメラ映像。焼損したサーバーから復元した断片だ」

 成瀬は椅子を引き、玲の横に腰を下ろす。


 モニターに、無人の倉庫が映し出された。

 揺れる光、風で舞う埃、そして――不自然な“影”。

 右下の時刻表示は「02:46」。


 玲が身を乗り出す。「ここだ……この時間帯、火災が起きる10分前だ」


 映像がズームされる。

 崩れた鉄骨の影から、誰かが姿を現した。

 作業服に似た服装、顔の半分をマスクで隠し、手には紙袋。


 「一時停止」玲が低く命じた。


 成瀬がキーボードを叩く。映像が止まり、画面に人物の一瞬の顔が映る。

 カメラに振り向いたその瞬間、左頬に十字の古傷が見えた。


 「……やはり、同じだ」玲が呟く。


 沙耶が小声で問う。「十年前の犯人と?」


 玲はうなずく。

 「筆跡、手口、そしてこの傷。全部一致している。火災の前にこの倉庫へ侵入していたとすれば――“再現”じゃない、“同一犯による連続殺人”だ」


 成瀬が淡々と補足する。

 「映像データのメタ情報によれば、この人物は火災の発生直前に倉庫を出ている。扉の外で別の影と接触……これは、もう一人の共犯の可能性がある」


 玲は唇を引き結び、画面の静止した映像を凝視した。

 血の跡、焦げ跡、そして再び現れた“影”。


 「……やっぱり、終わっていなかったんだな。十年前の“倉庫事件”は」


 その言葉が、静かな事務所の中で、ひどく重く響いた。


東京都郊外・玲探偵事務所/午後10時45分


 モニターの光が薄暗い室内を照らし出す。

 成瀬が操作した端末の画面には、無機質な文字列が浮かび上がっていた。


 > トランザクション番号:274-Θ-62

 > 名義:市民団体助成金交付事業(第7次予備枠)

 > 実行日時:2023年11月14日 02:47:31

> 処理ステータス:完了

> 備考:再同期処理済/監査対象外


 玲が眉をひそめ、椅子の背から身を乗り出す。

 「……助成金の処理記録? だが“監査対象外”ってどういう意味だ」


 成瀬はディスプレイに指を走らせながら答える。

 「通常の行政システムでは、すべての補助金処理に監査ログが残る。だがこれは“再同期”として処理されてる。つまり、外部の誰かが監査をすり抜ける形で記録を上書きした」


 沙耶が腕を組み、低く呟いた。

 「倉庫事件の火災が起きたのも、この時間……02時47分。偶然にしてはできすぎてる」


 玲はデータの項目を一つひとつ目で追う。

 “第7次予備枠”――それは表向き、地域再開発支援のための助成金枠。

 だが、取引の実行者名義は存在しない団体名。住所欄には削除済の文字。


 「……これ、金の流れを隠すためのダミー口座だな」


 成瀬がうなずく。

 「裏金処理の証拠。火災と同じタイミングで“処理完了”している。つまり、事件は金の受け渡しと同時に仕組まれていた可能性が高い」


 玲は指先でモニターを指し、静かに言った。

 「このデータを追えば、“誰が火をつけたのか”じゃなく、“誰が命じたのか”が見えてくる」


 成瀬が口角をわずかに上げた。

 「……本当の意味での、殺人の動機だな」


 暖房の音だけが、重く沈んだ沈黙の中に響いていた。


【2023年11月14日 午後11時05分】【郊外・旧倉庫跡近辺の私用車内】


三枝拓真は、スーツのジャケットの中で拳銃ホルスターをもう一度確かめた。指先が革の縁をなぞるたびに、冷えた金属の輪郭が手に触れる。車の内装灯が薄く彼の輪郭を浮かび上がらせ、窓外の暗がりに溶け込むように存在を消していた。


彼は息を浅く吐き、ハンドル越しに倉庫の方向を注視する。遠目には焼け跡が黒い斑点となって林の合間に見えている。現場は既に警察に封鎖されているはずだが、彼の神経はそれを許さない。確認すべきことが、まだ残っている。


携帯電話が震え、三枝は淡々と画面を覗き込む。表示は内線番号。受話ボタンを押すと、低い声が耳元で囁いた。


「先ほどの動きは、予定通りだ。監査の目は逸らせた。だが――」


「問題は?」三枝の声は冷たく、無駄な感情を含まない。


「監査サーバーの一部ログにアクセスが残っている。再同期処理の痕跡は消せたが、外部からの突合せで引っかかる可能性がある。市役所の窓口担当者が質問を受ける前に証拠の流れを断ち切る必要がある」


三枝は窓外の暗闇に視線を戻し、微かに笑みを浮かべた。


「了解した。今夜の優先事項は、その窓口だ。動いてくれ。万が一の時は、直接対処する」


受話器を切ると、彼は再びホルスターに手を当てた。拳銃の冷たさが、いつものように心を引き締める。


車の外から遠く、夜間監視の赤い灯りが一つ、ゆっくりと点滅する。それを眺めながら三枝は静かに呟く。


「火はつけた。次は片づけだ。証拠も、人も、すべてを」


彼の声は車内でのみ鳴った。外の風が窓を軽く震わせ、夜はまた静かに深まっていった。


【同時刻 都内・ビジネスホテル703号室】


高梨は深い眠りに落ちていた。

昼間の取材と、警察関係者への聞き取りで体力も限界に達していたのだ。

部屋はカーテンが閉め切られ、外のネオンの光がわずかに滲む。

テーブルの上には開きっぱなしのノートパソコン、そしてコーヒーカップに残った黒い液体。


枕元には、封を開けた茶封筒が一通。

差出人不明のままポストに入れられていたもので、その中には一枚の写真と、手書きのメモが入っていた。


──「倉庫の真相を追え。次は“議員”だ」──


彼はそれを見た瞬間、背筋に冷たいものを感じた。

だが、今は疲労が勝っていた。

意識が沈んでいくなかで、頭の奥に浮かぶのは一瞬の違和感。


(……あの封筒、確かに……机の右側に置いたはずだ)


だが、今は左側にある。

眠気と警戒心の境目で、彼はほんの数秒だけ目を開けた。


部屋の隅、ドアの覗き窓の下――

誰かの影が、一瞬だけ横切ったように見えた。


次の瞬間、再び深い闇が高梨の意識を覆い尽くした。


【同時刻 永田町・議員会館 内 部屋番号非公開】


ある深夜、永田町の一室。

分厚い遮音カーテンが引かれ、窓の外の街灯の明かりさえ届かない。

時計の針は午前2時を少し回ったところで止まりそうに重たく動いていた。


部屋の中央では、一人の議員がノートパソコンの画面を見つめていた。

画面に表示されているのは、見慣れないトランザクションログ。

その下には──

「市民団体助成金交付事業(第7次予備枠)」の文字。


議員は額の汗を拭いながら、指先でメールの添付ファイルをクリックした。

そこに映し出されたのは、誰かが隠し撮りした映像。

倉庫の内部。縛られた男。

そして、画面の奥から現れる“十字の傷を持つ男”。


「……なんだ、これは……」


議員の声が、静まり返った部屋にかすかに響いた。

次の瞬間、モニターの中央に赤い文字が浮かび上がる。


──《あなたは見られている》──


心臓が一瞬、凍りついた。

机の上の封筒に手を伸ばそうとしたそのとき、部屋の照明がふっと一瞬だけ落ちた。


わずかな暗転のあと、灯りが戻る。

だが、封筒は消えていた。


議員は息を呑み、震える手で電話を取った。

「……至急だ。防衛省の監査サーバーに“欠損ログ”がある。今夜中に、すべて消去しろ」


電話の向こうで誰かが低く応えた。

「了解。だが、先生──“見ている”のは、もうひとりではない」


通信が途切れる。


永田町の静寂に、遠く警鐘のような風の音が響いていた。


【同日 東京都郊外・林道沿い/午前8時】


陽の光が木々の間から斜めに差し込み、アスファルトの表面にまだらな陰影を落としていた。

風は冷たく、遠くの鳥の鳴き声がわずかに響く。

林道の端には、昨夜の騒動の名残が静かに残っていた。


舗装のひび割れや落ち葉の間に、不自然な足跡が続いている。

足跡の先には、黒ずんだシミのようなものが点在していた。

雨に濡れた跡ではない──乾いた血の痕が、淡く朝日に反射している。


玲二は足を止め、視線を落とした。

「……やっぱり、ここで何かがあったんだ」

隣に立つ成瀬由宇も、眉間に深い皺を寄せる。

「昨夜の痕跡だ。被害者がここまで逃げた形跡はあるが、確実に捕縛されたか、――それとも……」


風が足元の落ち葉を舞わせ、わずかな音が静寂を切り裂く。

その音に、玲二の背筋が一瞬だけ震えた。

「──影班は、もうここを通った形跡がある」


二人の視線は、足跡の先にある小さな林の切れ目へと向けられた。

朝日の中で、そこだけがひときわ冷たく、異様な空気を漂わせていた。


【同日 東京都郊外・ロッジ内・書斎/午前8時半】


玲は腕を組んだまま、ホログラムに浮かぶ交通記録映像を無言で見つめていた。

映像には、深夜の住宅街を走る複数の黒塗り車両の動きが細かく記録されている。


「全車両、同時刻に同じルートを通過……不自然だな」

玲は低く呟き、眉間に皺を寄せた。画面上のルートを指でなぞる。


成瀬由宇が静かに横に立ち、端末の操作を行いながら報告する。

「この3台は監視カメラに映ったタイミングも完璧に同期している。意図的な巡回か、標的追跡のための計画的移動だ」


玲は一瞬視線を朱音に向けた。彼女はスケッチブックを前に、昨夜の倉庫跡の図を正確に描き写している。

「朱音の描いた動線と一致する……やはり、奴らは単独犯ではない」


静まり返った書斎に、映像の淡い光だけが二人の表情を浮かび上がらせていた。

玲は深く息をつき、無言のまま決意を固める。

「ここから先は、一つのミスも許されない……」


 【同日 東京都郊外・総合病院・午後2時半】


午後の光が病院の廊下に斜めに差し込み、床のタイルに細長い影を落としていた。

静まり返った空間に、遠くの自動ドアの開閉音だけがかすかに響く。


玲は歩みを止め、廊下の先にある病室の前で立ち尽くす。

「……ここか」

低く呟く声には緊張と覚悟が混じっていた。


扉の向こうには、連続殺人事件の最新の被害者が安静に横たわっている。

看護師の動きは慎重で、微かな呼吸音と点滴のチクタクだけが空気を震わせる。


玲は深呼吸を一つし、手に持ったファイルを開く。

「動かせる証拠はすべて確認する……慎重にな」


背後から成瀬由宇が静かに近づき、低く報告する。

「被害者の証言はまだ得られないが、病室内の遺留品と状況は確認済み。前回の倉庫事件と関連する痕跡もいくつか見つかった」


玲は無言で頷き、廊下の光に照らされた床のタイルを踏みしめながら、次の行動を決める。

「……ここからが本番だ」


【同時刻 病院・臨時対策室】


「ようやく繋がった」


奈々の手がキーボードの上を走った。

モニターには、立て続けに開かれる複数のデータウィンドウ。

監視カメラのログ、救急搬送記録、そして警察庁の内部端末へのアクセスルート。


玲が横に立ち、画面を見つめながら静かに問う。

「どこに繋いだ?」


奈々は指を止めずに答える。

「被害者が運び込まれる直前の救急搬送データ。削除された履歴を再構築してる。──犯人は、搬送経路そのものを“書き換えてる”」


玲の眉がわずかに動く。

「つまり、意図的に“別の病院に運ばれた”ことにされてた?」


「そう。表向きは“別ルートの搬送”。でも実際にはこの病院に直行してた。記録の改ざんが行われたのは搬送から3分後」


奈々は軽く舌打ちし、さらにコマンドを打ち込む。

画面に一瞬、暗号化された署名データが浮かぶ。


玲が低く呟いた。

「……誰かがこの件を“消そうとしている”な」


奈々はディスプレイに反射する光の中で、表情を引き締める。

「ええ。でも、もう遅い。──痕跡は、全部ここに残ってる」


【ロッジ・リビング 午前7時過ぎ】


 玲は、朱音の差し出したスケッチに静かに目を落とした。

 まだ薄い朝の光が窓から差し込み、紙の上に柔らかな影を作っている。


 スケッチには、見覚えのある光景が描かれていた。

 古びた工場の裏手。崩れたフェンス。

 そして、血のような赤で塗られた一点──電柱の根元に転がる、形の判別しづらい黒い塊。


「……これを、どこで見た?」

玲の声は低く、穏やかだが、その奥には確かな緊張があった。


朱音は鉛筆を握りしめたまま、小さく首を振る。

「見たわけじゃないの。ただ……夢の中で。昨日の夜から何度も同じ場所が出てくるの」


 奈々が横から覗き込み、スケッチの隅を指でなぞった。

「これ、座標? 数字みたいなものが書かれてる」


 玲はその部分を見つめ、眉を寄せた。

「……緯度と経度だ。郊外の工業地区の外れ。高梨の遺体が見つかった倉庫の近くだ」


 リビングにいた全員が息を呑む。

 朱音の描いた“夢の断片”が、現実の事件現場と重なった瞬間だった。


 玲はスケッチを丁寧に畳み、朱音に優しく微笑みかけた。

「ありがとう、朱音。君の描いたこれが、もしかしたら次の手がかりになるかもしれない」


 その言葉に、朱音は少し安心したように頷き、スケッチブックを胸に抱きしめた。


 奈々が低く呟く。

「……やっぱり、この事件、まだ終わってない」


 玲は静かに立ち上がり、窓の外の朝の光を見つめた。

 風が木々を揺らし、遠くで鳥の声が響く。

 しかしその穏やかさの奥に、確かに“次の殺意”の気配があった。


【標高1,800メートル地点/長野県・北部山岳地帯 午後3時42分】


 乾いた風が尾根の稜線を越え、白い息のように吹き抜けていく。

 山肌にはまだわずかに雪が残り、足を踏み出すたびに細かな霜が靴底で砕けた。


 玲は双眼鏡を構え、遠くの斜面に視線を向けていた。

 標高1,800メートル地点──朱音のスケッチに記された座標と、ほぼ一致する位置だ。


「ここが……あの絵の場所、か」

 奈々が息を弾ませながら言った。背負っていたバックパックを下ろし、GPSの端末を確認する。

「誤差、3メートル以内。朱音のスケッチ、やっぱり正確すぎる」


 玲は黙ったまま、周囲を見渡した。

 木々は低く、風が当たるたびに枝が軋む。

 そして、斜面の下──雪が溶けかけた地面に、かすかに黒い焦げ跡のような痕が広がっている。


 玲はしゃがみ込み、手袋越しにその跡をなぞった。

 指先に残ったのは、油のような粘性のある灰。

 そして、そのすぐそばに──金属片。


「……ナンバープレートの一部だな」

 成瀬が静かに言った。黒焦げになった金属片をピンセットでつまみ取り、袋に収める。


「車ごと燃やされた?」奈々が尋ねる。


「いや、違う。これ、車の一部じゃない。……監視カメラの基部だ」玲が答える。

「つまり、誰かが“ここを見られたくなかった”」


 成瀬が低く唸る。

「例の“倉庫事件”に続いて……また、監視記録が消された」


 玲はゆっくりと立ち上がり、山の向こうを見つめた。

 陽は傾き、雲の切れ間から斜めの光が差し込んでいる。

 風が止み、空気が一瞬、重くなった。


「ここで、誰かが殺された──そして、証拠ごと“風に流された”」


 玲の声は静かだったが、その奥には確かな怒りが潜んでいた。


 奈々が視線を上げる。

「……この標高で証拠を燃やすなんて、よほど準備してる奴らよ」


 玲は頷き、無線機に手を伸ばす。

「こちら神崎。標高1,800地点、黒焦げの金属と油分の残留反応を確認。鑑識を呼ぶ。これ以上、風で飛ぶ前に採取しておきたい」


 無線の向こうから、玲二の低い声が返ってくる。

『了解した。こっちでも衛星記録を確認する。……玲、気をつけろ。お前の位置、あまりにも静かすぎる』


 玲は短く答えた。

「……わかってる」


 その瞬間、どこかで枝が折れる音がした。

 成瀬が反射的に振り向く。


 風ではない。──誰かが、見ている。


 玲はわずかに目を細め、口の中で呟いた。

「やはり、“ここ”が現場だな」


【東京都警察庁・K部門特別分析室/午後2時10分】


 ブラインドの隙間から、冬の陽光が薄く差し込んでいた。

 机の上には無数の報告書、現場写真、そして一枚の地図──長野北部、標高1,800メートル地点が赤いマーカーで囲われている。


 鬼塚真介は、その地図を無言で見つめていた。

 黒縁の眼鏡の奥、鋭い眼差しは一点の曇りもない。

 コーヒーの湯気が立ちのぼり、書類の隙間にゆらゆらと揺れていた。


 「……事故を装う手口、あのパターンと一致しているな」

 彼は低くつぶやくと、手元のタブレットをスライドさせた。


 画面には、過去5年間で“転落事故”として処理された三件の事件記録。

 だがその死因はどれも、正式な報告とわずかに食い違っていた。

 頭蓋骨の割れ方、出血量、遺体の姿勢──。


 「被害者はいずれも“転落前に”意識を失っていた。死因は即死じゃない」

 鬼塚の声は淡々としていたが、背後の空気が一瞬張り詰めた。


 部屋のドアがノックされる。

 「失礼します、鬼塚さん」

 若い分析官が封筒を手に入ってきた。


 「長野県警からの追加資料です。……標高1,800メートル地点で発見された金属片、鑑識の一次結果が出ました」


 鬼塚は無言でそれを受け取り、封を切る。

 中には、黒焦げた金属片の写真と化学分析表。


 「酸化鉄に加えて……リン酸化合物、そして微量のチタン。──カメラのマウント材だな」


 鬼塚の目が細く光る。

 「やはり、監視装置を破壊した痕か」


 彼は立ち上がり、壁際のボードに磁石で資料を貼り付けた。

 「この件、ただの山中事故じゃない。……“誰かが、証拠ごと燃やした”」


 若い分析官が息をのむ。

 「まさか、また“仕組まれた事故”ですか?」


 鬼塚は手を止めずに答える。

 「いや、もう“事故”の段階は過ぎてる。──これは連続殺人だ」


 彼の声は冷たく、しかし確信に満ちていた。

 静まり返った分析室の中、壁の時計の秒針だけが淡々と時を刻む。


 そして鬼塚は、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。

 そこには、赤いインクで記された言葉。


 《Ⅲ–K:追跡開始》


【長野県北部・山中 崖上のロッジ/午前6時42分】


 夜明けの霧が、ゆっくりと山肌を滑り落ちていく。

 冷たい空気の中、わずかに射し込む陽光が、濡れた木々と崖の岩肌を照らしていた。


 その崖の上に建つ小屋──調査拠点となったロッジの中で、玲たちは集まっていた。

 テーブルの上には、衛星写真、現場の地図、そして黒焦げた金属片。


 玲は腕を組み、鬼塚真介が貼り出した資料ボードをじっと見つめていた。

 「被害者3名、全員“転落死”。だが転落の直前に意識を失っていた痕跡がある……つまり、殺された後に落とされた」


 沙耶が息をのむ。

 「じゃあ、事故じゃなくて──計画的な犯行」


 鬼塚はうなずく。

 「しかも、この場所を選んだ理由がある。見ろ、地形図。崖の直下には河川も道路もない。落ちたら誰にも見つからない」


 奈々がタブレットを操作し、映像データを投影する。

 そこには、霧の中を歩く黒い影が一瞬だけ映っていた。

 帽子を深くかぶり、右足をわずかに引きずっている。


 「防犯カメラの時刻、午前4時17分。──第一発見者が通報する30分前」


 玲がその影を見つめ、低く呟く。

 「……この歩き方、見覚えがある」


 全員の視線が彼に集まる。

 玲は目を細め、記憶の断片を辿るように続けた。

 「十年前の“谷口運送所殺人”。現場から逃げた犯人が、同じ癖を持っていた」


 鬼塚が眉をひそめる。

 「つまり、十年前の事件と同一犯の可能性がある……?」


 玲はうなずいた。

 「逃げ切ったはずの犯人が、再び動き出したんだ。しかも今度は──痕跡を完全に消すために」


 窓の外、霧の向こうでカラスの鳴き声が響いた。

 その声が、まるで次の犠牲者を予告するかのように、冷たい空気を切り裂いていた。


【長野県北部・山中 崖上のロッジ/午前6時45分】


 玲は、一瞬、息を呑んだ。

 奈々が映した映像の一コマ──霧の奥に浮かぶ黒い影。その輪郭が、かすかに震えた。


 「……この映像、もう一度巻き戻せ」


 奈々が無言で操作し、再生をスローに切り替える。

 影が崖の手前で立ち止まり、足元に何かを置く。白いもの。封筒のように見えた。


 「ズーム、そこ」


 画面に映し出されたのは、雨に濡れて泥が滲んだ封筒。

 右下の文字が、かろうじて判読できた。


 “Ⅲ–K”。


 鬼塚が小さく唸る。

 「……また、その記号か。前回の現場の金属片にも刻まれていた」


 玲は目を細めたまま、低く呟く。

 「“Ⅲ–K”。それが犯人の署名だ。いや──挑発かもしれない」


 沙耶が声を震わせる。

 「玲……あなた、知ってるの? その記号の意味を」


 玲は一拍の沈黙のあと、ゆっくりと答えた。

 「十年前の倉庫事件。俺たちが追っていた“Kライン”の符号と同じだ。あの時の調書には、消された痕跡が残っていた」


 全員の表情が引き締まる。

 奈々が静かに尋ねた。

 「……まさか、十年前の事件がまだ続いてるってこと?」


 玲は黙ったまま、ロッジの窓の外を見つめた。

 霧の向こうで、陽がゆっくりと昇り始めている。


 「続いてるんじゃない。──あの時、終わってなかったんだ」


【ロッジ・通信室/午前7時02分】


 通信が繋がると、玲の目がわずかに細まった。

 モニターの向こうに映し出されたのは、K部門の分析官・鬼塚真介。背景には都内本庁の資料室が映り、早朝にもかかわらず、彼の目には疲労の色が濃かった。


 『映像データ、確認した。確かに“Ⅲ–K”の刻印がある。しかも……同じ筆跡の署名が、三件前の“林道転落死”の報告書にも残っていた』


 玲の表情が一瞬だけ固まる。

 「それは──内部処理の記録じゃなかったのか?」


 『そうだ。だが署名者の名前は抹消されている。監査記録も消去済み。つまり、誰かが意図的に“事故扱い”に書き換えた』


 奈々が小声で呟く。

 「やっぱり、連続してる……」


 玲は視線をモニターから外さず、低く言った。

 「鬼塚、確認してほしい。十年前の倉庫事件の照合データに、“Kライン”の符号が残っていないか」


 鬼塚は短く息を吐く。

 『……あんたも気づいてたか。実はな、昨日の時点でそのコードが再び使われた形跡が見つかってる。正式な操作記録じゃない。──“誰かが”今、同じ手口を再現してる』


 玲の眉がわずかに動いた。

 「十年前と、同じ“手”。」


 沙耶が思わず声を漏らす。

 「玲、それってまさか──」


 玲は答えなかった。

 ただ、静かに通信端末の音量を下げ、画面の中の鬼塚に言った。


 「……次の現場、どこだ?」


 鬼塚はわずかに視線を伏せ、そして答える。

 『多摩市郊外。山中の旧トンネル跡地だ。報告じゃ、夜間に火災──そして、“ひとり”行方不明だ』


 玲の瞳が鋭く光った。

 「……動くぞ。」


【ロッジ・通信室/午前7時05分】


 玲が短く告げた。

 「──呼んでくれ。“瞬間記憶”のスペシャリスト、槙村伊織まきむら いおりを。」


 奈々がわずかに目を見開いた。

 「槙村さんを? 本気なの、玲?」


 玲は頷く。その表情に迷いはなかった。

 「現場で見た“もの”を、正確に再構築できるのは彼しかいない。曖昧な証言よりも、確実な記憶を──今、必要としている」


 成瀬が腕を組み、低く息を吐いた。

 「だがあの男、警察組織の枠から外されてもう三年だ。独自に動いてるらしいが……信用していいのか?」


 玲は静かに言葉を返した。

 「信頼はしていない。だが、彼の“記憶”は信じられる」


 モニター越しの鬼塚が口を挟む。

 『伊織か……懐かしい名前だな。俺のほうでも連絡を取ってみる。だが警察側に顔を出す気はないはずだ。おそらく──現場で直接合流する形になる』


 玲は短く頷いた。

 「それでいい。準備が整い次第、現地へ向かう。……多摩の旧トンネル、午前九時現着だ」


 通信が切れると、部屋にはわずかな静寂が落ちた。

 窓の外では、夜明けの光が霧の残る森を淡く照らしている。


 奈々が静かに呟く。

 「“記憶の再現者”か……。あの人が動くってことは、もう後戻りできないね」


 玲は視線を遠くに向け、低く答えた。

 「──ああ。真実を暴くには、覚悟がいる」


【ロッジ・通信室/午前7時07分】


 玲の言葉が途切れたその瞬間だった。


 ──ゴォォ……


 窓の外、重低音が空気を震わせた。

 成瀬が反射的に外を見やる。


 「……上空だ」


 霧の切れ間から、黒い影が現れた。

 低空を旋回するヘリ──民間機に偽装された無印の機体が、ロッジの上空を横切っていく。


 奈々がモニターを操作し、映像解析を開始する。

 「機体番号なし、識別信号も発してない……。玲、これ、ただの偵察じゃない」


 玲の目が鋭く光った。

 「追跡を続けろ。……奴ら、もう動き出してる」


 成瀬がすでに銃器ケースを手にしていた。

 「上からくるってことは、地上班も動いてるな。迎撃体制を整える」


 玲は短く頷き、外に目を向けた。

 朝の光が霧を割り、ヘリの影が林の奥へと消えていく。


 「──槙村に急げ」


 低く響くその声に、奈々が応じる。

 「了解、座標送信。上空支援のルートは遮断済み。こっちの目も、空を見張る」


 玲は静かに息を整えた。

 彼の中で、あの言葉が再び浮かんでいた。


 ──覚悟がいる。真実を暴くには。


 空の向こうで、何かが確かに動き出していた。


【ロッジ・玄関前/午前7時42分】


 山の稜線を越えて、朝の光がようやく霧を裂いた。

 その光の中を、ひとりの少年がゆっくりと歩いてくる。


 薄いグレーのパーカーに、黒のリュック。

 肩から下げたポーチには、無数のメモと小型のデジタルレコーダー。

 彼の瞳は、年齢には不釣り合いなほど落ち着いていた。


 成瀬が玄関の前で腕を組み、わずかに目を細める。

 「……あいつが“瞬間記憶”の伊織か」


 玲は静かに頷いた。

 「槙村伊織。K部門特別補助員。年齢17。現場観察と記憶再構築のスペシャリストだ」


 少年は立ち止まり、軽く頭を下げた。

 「初めまして。玲さん……それと、影班の皆さん」


 声は驚くほど落ち着いていて、礼儀正しかった。

 しかし、その奥にある緊張感は、どこか普通の高校生とは違う。


 奈々が訝しげに眉をひそめる。

 「本当に、こんな若い子が“記憶の再構築”なんてできるの?」


 伊織は少しだけ微笑み、指先でポーチを叩いた。

 「ぼく、見たものは一度も忘れません。音も、匂いも、声も。

  ──ただ、それを“思い出したくないとき”が、あるだけです」


 玲は黙って彼の言葉を聞き、短く言った。

 「今回の現場を見てほしい。映像だけじゃ拾えない“空気の記憶”があるはずだ」


 伊織はうなずくと、霧の残る林道を見上げた。

 「……ここで、人が殺されたんですね」


 その瞬間、彼の瞳の奥に、わずかな光が宿った。

 まるで過去の残響を、ひとつ残らず記録しようとするかのように。


 玲が静かに言う。

 「見たままを、教えてくれ」


 伊織はゆっくりと目を閉じた。

 そして、風の音とともに──“現場の記憶”が、彼の中に再生され始めた。


【東京都郊外・廃倉庫跡/午前8時10分】


 伊織は車を降りると、廃倉庫の前で立ち止まった。

 崩れかけた鉄骨、剥がれ落ちた壁のペンキ、雨で濡れたコンクリートの床。空気はひんやりとして重く、わずかに焦げた臭いが漂っている。


 彼はゆっくりと周囲を見渡す。足元の小さな石や瓦礫の配置、壁の微細なひび割れ、割れたガラスの向きまで、視界に入るすべてを脳内で整理する。


 「……残像がある。ここで人が動いた軌跡、音が反射した痕跡。誰かがここを通ったのは、数時間前か……いや、もっと最近かもしれない」


 玲が横で静かに頷く。

 「伊織、君なら見えるのか」


 「見える、というか“感じる”んです。普通の人間には無意味に見える瓦礫や埃の位置も、動きの履歴として残っている。音の反響や風の通り方も、ここで起きたことを物語っている」


 成瀬由宇は影のように背後から前に出て、伊織の言葉を確認するように倉庫の内部を見つめる。

 桐野詩乃は手袋越しに瓦礫に触れ、微かな振動を指先で感じ取る。


 「足跡が……ある」伊織が指をさす。

 湿ったコンクリートに残る靴底の微細な痕跡。大人二人分、子ども一人分。すべて、時間軸を追えば連続した動きが把握できる。


 「なるほど……」玲は小さく息を吐いた。

 「これは……ただの連続殺人事件じゃない。計画的だ。そしてここに、犯人の焦りも残されている」


 奈々は伊織の背後から覗き込み、息を飲んだ。

 「高校生なのに……こんなに細かく状況が分かるなんて……」


 伊織は微かに肩をすくめ、口元に薄い笑みを浮かべた。

 「細かいことに意味はないと思われるかもしれないけど、全部つながってるんです。証拠も、痕跡も、人の動きも」


 倉庫の廊下を歩くたびに、埃が舞い、わずかな足音が響いた。

 だが、伊織にはその一つひとつが過去の事件の残響として映っていた。


 「ここで……何人かが死んだんだ」

 玲の声は低く、しかし確かな確信が込められていた。

 「そして犯人は……まだ近くにいる」


 空気が一瞬、ひんやりと凍りつく。事件現場の“生きている痕跡”が、確かに彼らの背後で息をしているかのようだった。


【東京都郊外・廃倉庫跡/午前6時15分】


 朝霧のヴェールは、わずかにその厚みを薄めはじめていた。灰色の靄が木々の間を漂い、倉庫の輪郭をかすかに浮かび上がらせる。空気は冷たく、湿った土とコンクリートの匂いが混ざった独特の匂いが漂っていた。


 玲は倉庫の前で立ち止まり、腕を組む。背後には伊織、成瀬由宇、桐野詩乃、奈々がそれぞれ警戒の構えを見せている。霧の向こうに、誰かの気配を探るように視線を巡らせた。


 「足跡がある……まだ新しい」伊織の声が静かに響く。靴底の微細な痕跡が霧に包まれたコンクリートに残っていた。子ども一人、大人二人分の連続した軌跡。計画的でありながらも、わずかな焦りが感じられる。


 「ここで何が起きたか……見えるか?」玲が低く問いかける。


 伊織は目を閉じ、呼吸を整える。微かな振動、埃の舞い方、鉄骨の冷たさ。空気に残った残響すべてが、事件の痕跡として彼の頭の中で再生される。


 「残されている。犯人の動きも、被害者の最後の行動も。普通の人間には意味のない痕跡だけど、全部つながっている」


 成瀬由宇は影のように倉庫の入り口に立ち、薄暗い内部を観察する。桐野詩乃は手袋越しに壁や瓦礫に触れ、音の反響を確かめる。


 霧がさらに薄くなり、倉庫の輪郭がはっきりと浮かぶ。破損した鉄扉、斜めに折れたシャッター、床に散らばるガラス片。どれもが、過去に起きた殺人事件の静かな証人である。


 玲はゆっくり息を吐き、霧の向こうの視界を睨む。

 「計画的だ……犯人は、まだ近くにいる」


 その瞬間、朝の光がわずかに差し込み、冷たい空気の中で影が鋭く揺れた。事件の残像が、現実の霧と重なり合い、緊張が倉庫跡に張り詰めた。


【東京都郊外・廃倉庫跡/午前6時20分】


 冷たい風が一本の杉の枝を揺らした。細い枝がささやくように揺れ、その音は朝霧に吸い込まれてほとんど消える。だが、玲の耳にははっきりと届いた。


 「足跡がここから分かれる……右手の林道に向かっている」伊織が静かに指摘する。


 成瀬由宇は素早く影のように移動し、枝の揺れや落ち葉の位置から微細な変化を読み取る。桐野詩乃も壁沿いに歩き、触れた瓦礫の音で床面の変形や振動を確認する。


 奈々は玲の隣で息をひそめ、双眼鏡越しに倉庫周囲を見渡す。彼女の瞳には、事件現場の空気に染み込んだ不穏な気配が映し出されていた。


 玲は腕を組み、杉の枝が揺れる向こうをじっと見つめた。

 「奴ら、焦っている……気配がまだ消えきっていない」


 杉の枝の間に差し込む朝の光が、コンクリート床の亀裂や散乱したガラス片をほんのわずかに照らす。その光の下で、事件の痕跡が静かに、しかし確実に語り始めた。


【東京都郊外・廃倉庫跡/午前6時25分】


「……この地点、やはりおかしい」


 久我谷碧くがたに・あおいは足元の岩場にしゃがみ込み、風に揺れる髪を気にも留めず、ゆっくりとデータグローブの指先を地表に滑らせた。背中のユニットが低く唸り、かすかな光が彼の左目に反射する。


 「何か、ここだけ地表の摩耗や圧痕が不自然だ」成瀬由宇が横から覗き込み、低く声を漏らす。


 碧は指先の感触に集中しながら答える。「微細な土の変化……普通の通行跡ではない。足跡の深さ、土の圧縮方向、残留物……複数の人物が短時間に動いた痕跡が混在している」


 玲は腕を組み、沈黙のまま碧の解析を見守る。朝霧に溶け込む冷たい風が、倉庫跡の静けさをさらに際立たせる。


 「つまり……誰か、あるいは複数が意図的にこの地点を通った」と伊織が静かに呟く。


 奈々は無言でその場を見渡し、周囲の物音や微細な気配を感じ取る。崩れかけた壁や散乱する瓦礫の隙間に、誰かの存在の痕跡がまだ残っていることを直感した。


 碧の指先がわずかに止まる。微かな沈黙の後、低く息を吐きながら言った。

 「ここは、単なる通過地点じゃない……何かを隠すために、計算された跡だ」


 杉の枝を揺らす朝の風が、事件の残像を静かに揺らしたまま、倉庫跡の霧に溶けていった。


【東京都郊外・廃倉庫跡斜面/午前6時30分】


 三神 鷹生みかみ・たかおは、現場の土の感触を一歩ずつ確かめながら、ゆっくりと斜面を歩いた。湿った土の微妙な沈み、苔の生えた岩の滑り具合──すべてが、彼の目と感覚に鮮明に伝わる。


 通信機に向け、低く静かな声で指示を飛ばす。

 「碧、斜面下の南側ラインも確認しろ。風向きと湿度を考慮して、足跡の痕跡を補正して報告する」


 背後では成瀬由宇が影のように静かに立ち、無言で鷹生の進行を監視していた。斜面に残る足跡や微細な痕跡の一つひとつを、無駄なく回収・記録するためだ。


 奈々が無線で応答する。

 「了解。足跡の角度と圧痕をマッピング中。複数人物の可能性あり、追跡可能」


 鷹生は軽く頷き、視線を遠くに向ける。廃倉庫の斜面は、朝霧に霞んだ杉林に覆われ、まるで人の気配を吸い込むように静まり返っていた。


 「情報が揃い次第、次の行動に移す。焦るな、確実に」


 彼の足元に残る土の感触が、まるで現場の“声”を伝えてくるかのようだった。


【東京都郊外・廃倉庫跡斜面/午前6時35分】


 数秒後、御子柴理央の端末が淡く光を放ち、静かなビープ音が鳴った。


 「ヒットしました。過去の事件記録、目撃証言、そして……十年前の“倉庫事件”に関わった参考人です。ですが、その直後、行方不明になっています。名前は……」


 玲は端末を覗き込み、低く静かに告げた。

 「――霧島 きりしま・さく。消えた記録の、中心にいた男だ」


 斜面の冷たい朝霧の中、微かに足元の落ち葉が擦れる音が響く。鷹生は拳を軽く握り、目を細めて遠方の倉庫跡を見据えた。


 「奴が絡む以上、今回の連続殺人事件も偶然ではない。足跡、痕跡、すべてがつながるはずだ」


 成瀬由宇が無言のまま頷き、冷たい視線を霧の中に送りながら周囲の安全を確認する。


 「倉庫事件の“中心人物”……過去と今が、ここで交差する瞬間か」


 朝霧が斜面に漂い、未解決の記憶のように静かに残る。


【東京都郊外・林道脇/午前6時37分】


 だがその瞬間、林の奥から低く唸る音が響いた。風に揺れる草がざわめき、わずかに光る何かが走る。朝霧に包まれた林の影が、微かに揺れた。


 朱音の目が一瞬、驚きで見開かれる。だが次の瞬間、彼女の表情はぱっと明るく変わった。


 「……透お兄ちゃん!」


 玲は眉をひそめ、林の奥を凝視する。冷たい朝の空気に混じって、遠くからかすかな呼吸が聞こえたような気がした。


 成瀬由宇は無言のまま、影の中へゆっくりと足を踏み入れる。周囲の警戒を怠らず、だがその瞳には、確かな信頼の光が宿っていた。


 霧の中で、再会の瞬間が静かに、しかし確実に訪れようとしていた。


【東京都郊外・林道脇/午前6時38分】


 水無瀬透は朱音の手を軽く握り、静かに微笑んだ。霧に包まれた林道の空気が、二人の間だけ少し和らいだように感じられる。


 「久しぶりだね、朱音。ずいぶん背が伸びたな」


 朱音は驚きと安堵の入り混じった表情で笑みを返す。握られた手の温もりに、過去の出来事や離れていた時間が一瞬だけ遠くなる気がした。


 玲は短く頷く。

 「透は元々、朱音の記憶訓練の指導官だった。彼女がまだ、記憶の“音”に怯えていた頃から」


 玲二は少し離れて立ち、二人の様子を静かに見守る。言葉はなくとも、朱音と水無瀬の再会を認め、安心した空気が林道にわずかに広がる。


 成瀬由宇は林の影から周囲を警戒しつつも、二人の再会の一瞬を確認し、無言でうなずいた。


東京都郊外・林道沿い/午前5時10分


朱音は水無瀬の手元にある小型スキャナにそっと指を乗せ、小さな声で呟いた。


「……まだ、残ってるの……?」


水無瀬は指先の微細な振動を感じ取りながら、落ち着いた声で答える。


「うん。君の脳波の反応はしっかり出ている。過去の記憶の痕跡も、ここには残っている」


朱音は安心したように息を吐き、少し肩の力を抜いた。その瞳に浮かぶのは、懐かしい日々と、今ここで守られているという確かな安心感だった。


玲は静かに後ろから二人を見守り、玲二も隣で微かに微笑む。霧が薄れ始めた林道に、短い静寂がゆっくりと広がっていった。


東京都郊外・林道沿い 臨時観測テント内/午後0時56分


「……開始時間を記録。2025年4月13日、午後0時56分。記憶追跡プロトコル、実行開始」


水無瀬透は淡々とした声で報告を口にしながら、手元の装置を起動させた。モニターのランプが順に点灯し、淡い緑色の光がテント内の壁を照らす。空気がわずかに振動し、静かな電子音が空間に溶けていく。


彼は隣に控える人物へ視線で合図を送った。


その瞬間、朱音の表情がぱっと明るくなる。


「……凛お姉ちゃんも来てくれたんだね!」


テントの入り口に立っていたのは、心理分析官・九条凛。薄いグレーのジャケットに長い黒髪を束ね、静かな笑みを浮かべている。


「もちろん。朱音ちゃんの“心の声”を、ちゃんと聞きに来たからね」


朱音は小さく頷き、緊張の中に安堵の色を滲ませた。

玲は少し離れた場所で腕を組み、無言のまま二人を見つめている。彼の視線は冷静だが、そこには確かな“信頼”が宿っていた。


東京都郊外・山間林道/午前5時12分


まだ朝靄の残る山間に、玲の低い声が静かに響いた。木々の間を抜ける冷たい空気が震え、わずかに鳥の声が混じる。


「……全員、位置につけ」


その声に、影班の三人が無言で反応する。成瀬由宇は黒い戦闘服の袖を引き、周囲の視界を素早くスキャンする。桐野詩乃は端末を手に、足元の地形と微かな振動を確認。安斎柾貴は深く息を吸い込み、林道の先を睨みつけた。


玲は視線を一度朱音に向ける。小さな体で結界の準備を整えている彼女は、緊張と集中が入り混じった表情を見せていた。


「無理はするな……朱音、ここから先は俺たちが守る」


朱音は小さく頷き、手元の結界装置に集中する。森の奥からかすかな足音が響き、戦闘前の静寂がさらに引き締まった。


東京都郊外・山間林道/午前5時15分


その背後、林道の砂利を踏みしめる音とエンジンの低い唸りとともに、一台の車がゆっくりと止まった。車のドアが開き、降りてきたのは玲の家族──母の美和、父の一樹、そして兄の玲二。


三人は静かに林道に立ち、周囲の状況を見渡す。玲の姿を初めて目にする彼らは、その黒い戦闘服と冷静な眼差しに思わず息を呑んだ。


玲は足を止め、無言で父と母、そして兄の方へ視線を向ける。彼らの存在を確認しつつも、戦場としての意識は微動だにしない。


「……玲?」美和の声が、わずかに震えた。


玲は短く頷き、静かに答えた。

「……大丈夫だ。今のところ、状況は把握している」


玲二は少し眉をひそめ、弟の背中をじっと見つめる。目の前の玲は、子ども時代に知っていた弟ではなく、確かな技術と覚悟を背負った“大人の探偵”の姿だった。


静寂が再び訪れる。だが、木々の間に漂う緊張感は、家族の存在によって少しだけ柔らかく、しかし決して緩むことはなかった。


東京都郊外・倉庫周辺/午前5時20分


玲は鋭い目で周囲のメンバーを見渡し、低く張りつめた声で指示を出した。指揮官としての厳格さが、その一言一言に宿る。


「今から、父さんと母さんには任務上、名前で呼ぶ。了承してくれ」


父の一樹と母の美和は一瞬言葉を失ったが、頷いて応じる。玲二も静かに背筋を伸ばし、弟の覚悟を受け止めた。


「一樹、頼む。美和と玲二の安全を確保しつつ、倉庫周辺の状況を細かく逐一報告すること」


一樹は軽く頷き、双眼鏡を手に取り、周囲の木立や倉庫の影を丁寧に確認しながら状況を整理し始めた。


「美和、玲二、無理はするな。常に連絡を取り合い、状況を共有しろ」


美和は小さく息を吸い込み、玲二の手をそっと握る。玲二も固くうなずき、互いに目を合わせる。二人の顔にはまだ緊張が漂うが、玲の冷静な指揮に少しずつ落ち着きを取り戻していた。


玲は一瞬視線を前方の倉庫に移し、深呼吸をひとつ。背後の木立の影に潜む敵の気配を感じ取りながら、次の行動へと静かに思考を巡らせた。


東京都郊外・研究施設・記憶解析室/午前10時15分


遮光ガラスの向こうで、記憶再構成ユニットが低く唸りを上げていた。


静謐な密室に座る水無瀬透は、目の前のモニターを凝視する。そこに映るのは映像でも音声でもない、朱音の記憶断片——揺らぐ空気、湿った土の匂い、遠くで誰かが立ち止まったかのような気配。


水無瀬は息を整え、指先でユニットのインターフェースをなぞりながら、慎重にデータの奥深くへと潜っていく。感覚的な“情動の残滓”だけを手がかりに、彼は朱音の記憶の底を撫でるように進む。


「……ここか」


小さく呟き、微細な反応を拾い上げる。モニターの光がわずかに揺れ、まるで潜在的な記憶が静かに目覚めるかのように変化した。水無瀬の目には、過去の出来事の輪郭が少しずつ浮かび上がって見えていた。


彼の手が止まることはない。朱音の脳裏に刻まれた過去の記憶──断片的で、感情の揺らぎに埋もれた真実──をひとつずつ拾い上げ、再構築していく作業。それは静かで、しかし極めて繊細な戦いだった。


東京都郊外・ヘリ機内/午前6時42分


朝陽がヘリの金属外装を反射し、南の空へと傾き始める。機体は静かに揺れながらも、目的地へと確実に向かっていた。


機内で、久我谷碧は端末の前に座り、ホログラムに投影された複雑なデータ群を無言で追った。朱音のスケッチ、槙村伊織の観察した記憶の断片、水無瀬透が再構成した情動の波形——それらは個別の点に過ぎなかったが、久我谷の冷静な目には、やがてひとつの輪郭として結びつき始める。


「……来るな」


小さく呟き、指先でデータを拡大する。ホログラム上に現れた影の輪郭——黒いコートに身を包み、痩身の体格、そして動きの軌跡から推定される人物。


「霧島朔……間違いない、あの男だ」


久我谷は端末の情報を整理し、目を細めながら俯瞰図にマッピングする。朱音のスケッチで示された倉庫、伊織が読み取った現場の残像、水無瀬の情動波——それらがすべて繋がり、“霧島朔”という存在の位置と行動パターンを明確に浮かび上がらせていた。


ヘリのローター音が微かに響く中、久我谷の指先が次の作業へと滑る。狙いは明確、次の一手を見据えた精密な視覚痕跡の復元——この男を追い詰めるための、現場解析の最前線だった。


東京都郊外・ロッジ臨時分析室/午前6時47分


高解像度の3D再構成映像がスクリーンに映し出される。倉庫周辺の地形、残留物の配置、微細な足跡や破損痕が正確に再現され、現場の空気感までを再構築したかのようだ。


三神鷹生は、眉ひとつ動かさずに指先でスクラブを操作し、時間軸を圧縮した映像を高速で走査する。瞬間ごとの位置情報、人物の微細な動き、物体の揺れ、さらには照明の反射や影の変化までも、彼の眼前で分解され、解析可能なデータとして提示される。


「……この順序、間違いないな」


静かに呟く声は低く、冷静そのものだ。彼の分析は単なる映像確認ではない。時間の流れを圧縮して因果関係を可視化し、誰がどの瞬間に何を行ったかを、ほとんど瞬時に特定する能力だ。


スクラブを操作しながら、三神は映像上の人物の挙動に注目する。微細な手の動き、重心の移動、歩行リズムの揺れ──すべてが行動パターンを特定する決定的な手がかりとなる。


「霧島朔……君はここにいたか」


映像に重ねられた軌跡に、かつて消えた記録の断片が線となって浮かぶ。その軌跡は、十年前の倉庫事件と今回の一連の事件を結ぶ鍵となる。三神は端末のスクロール速度を上げ、過去と現在の情報を重ね合わせながら、動く影を確実に追う。


ヘリのローター音、機材の冷却ファンの微かな振動、周囲の静寂──すべてが彼の分析を妨げることはない。三神鷹生の目の前で、時間と空間は数字と線に変換され、事件の全貌が静かに、しかし着実に輪郭を現していく。


東京都郊外・未舗装林道/午前7時12分


小雨が降り始め、湿った土の匂いが車内に漂う。未舗装の道に細かな水たまりができ、タイヤが跳ねる水しぶきがわずかに車体を濡らす。


運転席には玲が静かにハンドルを握り、前方の視界に集中していた。助手席の伊織は、窓越しに霧にけむる林を眺めながら、静かに呼吸を整えている。


後部座席には朱音と水無瀬透が座り、朱音はスケッチブックに目を落としたまま、鉛筆を走らせる。雨粒が窓に当たる音とタイヤの音だけが、車内の静寂を支えていた。


「ねえ……もうすぐ着くの?」朱音は少し不安そうに、小さな声で訊いた。

玲は一瞬視線を送ると、低く落ち着いた声で答えた。

「もうすぐだ。雨で道が滑りやすい。気をつけろ」


朱音は小さくうなずき、鉛筆を持つ手をぎゅっと握りしめた。


東京都郊外・倉庫跡地/午前6時45分


霧の立ち込める林道の先、冷たい空気が肌を刺す。濡れた葉の匂いと土の香りが混ざる中、彼らは静かに足を進めていた。


記憶を掘り起こす者──水無瀬 透は、慎重に地面の振動や風の流れを感じ取りながら前を見据える。


精神に寄り添う者──九条 凛は、朱音の肩越しにそっと視線を送る。言葉少なに、しかし確かな温もりで彼女を支えていた。


視覚の残滓を読む者──久我谷 碧は、両手の端末で現場の微細な痕跡を解析し、過去の動きと影を重ね合わせる。


時間の歪みを解く者──三神 鷹生は、揺れる霧の向こうにある事象を冷静に見極め、次の動きを予測していた。


結界師──佐々木朱音は、濡れた草の匂いに顔をしかめながら、スケッチブックを抱きかかえつつ小さな声で呟く。

「ねえ……ここ、なんか……こわいかも……でも、がんばる……」


記憶の証人たち──全員の視線は揃い、決意と緊張を帯びた足取りで、あの倉庫跡地へと歩を進める。


空気の静寂に混じるのは、霧が木々に触れる音、湿った土の微かな音、そして彼らの息遣いだけだった。


東京都郊外・倉庫跡地/午前6時50分


倉庫跡地を包む霧は、まだ晴れていなかった。湿った空気に混ざる土と木の匂いが、冷たい朝の光を柔らかく遮っている。


朱音はスケッチブックを抱えたまま、小さな手で鉛筆をぎゅっと握った。

「……あのね、ここ、なんか……前と似てる気がする……」


水無瀬透は静かに頷き、地面の振動や風の流れを確かめる。

「記憶と現実が重なる場所だ。朱音、気を抜くな」


久我谷碧は端末の光を頼りに、足元や壁の微細な痕跡を読み取る。

「人の往来は少ない……だが、この痕跡は最近のものだ」


三神鷹生は霧の向こうを見据え、静かに声を低くする。

「時間軸を重ねると、この辺りで不審な動きが集中している。警戒を」


朱音は小さな声で、でも力強く言った。

「わかった……私、描くから。ここにあったこと、ぜんぶ忘れないように……」


霧の中、記憶の証人たちは互いに視線を交わしながら、倉庫跡地の中心へと静かに歩を進めた。


東京都郊外・倉庫跡地/午前6時55分


霧の中、朱音はしゃがみ込み、鉛筆をスケッチブックに走らせていた。周囲の湿った空気、朽ちた木箱や錆びた鉄片、土に刻まれた微かな足跡――すべてを感じ取りながら描く。


だが、鉛筆が突然、空中で止まる。朱音の瞳が大きく見開かれ、息がわずかに詰まった。


「……ここ……あれ?」


スケッチブックの上には、倉庫の壁際に並ぶ古い木箱の列と、その間に落ちていた微細な金属片が、まるで光を放つかのように正確に描かれていた。その金属片には、ほんの僅かに赤い色が滲み、通常の錆や汚れとは異なる“痕跡”が存在していることを示していた。


水無瀬透は朱音の肩にそっと手を置き、低く呟く。

「……それだ、朱音。君の描いた線が、現場の真実に触れている」


久我谷碧も端末を操作し、朱音のスケッチと現場の痕跡を重ね合わせる。

「一致……間違いない。ここに立った人物の足跡、移動の軌跡、全部がこの金属片を中心に動いている」


三神鷹生は霧の向こうを睨み、静かに指示する。

「朱音、動くな。ここから全てが始まる」


霧の狭間で、朱音のスケッチはまるで現場の“影”を映し出す鏡となった。その一瞬、誰もが気づく――ここに、連続殺人事件の決定的な手掛かりが眠っていることを。


東京都郊外・倉庫跡地/午前7時02分


霧に包まれた倉庫跡地で、朱音の鉛筆が止まったままスケッチを見つめる。水無瀬透、久我谷碧、三神鷹生も息を潜め、静かにその線を追っていた。


玲は腕を組み、眉間に深い皺を寄せたまま全員を見渡す。彼の視線は冷徹で、しかし確かな洞察に満ちていた。


「いいか、全員よく見ろ」

玲の声が、霧に溶け込む低音で現場に響く。


「朱音が描いた金属片の位置。周囲の足跡の微細な角度。木箱の倒れ方、土の微妙な変形……これらを一つの線で結ぶと、犯人の移動軌跡が明確に浮かび上がる」


玲はスケッチの上に指を這わせる。


「まず倉庫の南西角に侵入。金属片はその侵入時に落とされたものだ。侵入の際、犯人は左利きである可能性が高い。理由は、木箱の倒れ方と手の跡の角度、そして落下した金属片の向きから明らかだ」


彼はスケッチの線を延長し、倉庫内部の全体像を脳内で再構築するかのように語り続ける。


「侵入後、犯人は中央通路を一直線に移動し、金属片の周囲で何かを手にした。足跡の圧痕、泥の飛び散り方から判断すると、右足の蹴り出しが極端に強く、体重移動の癖も残っている。この人物は過去に格闘経験がある。つまり、戦闘能力もあるが、今回の行動は“抑制された攻撃”だ」


水無瀬透が息を呑む。

「……それだけで、犯人の体格と行動の癖まで推定できるんですか」


玲は無言で頷く。彼のIQ300クラスの解析は、観測できる最小の痕跡から驚異的な推論を生む。


「次だ。犯人は倉庫北東の出口に向かい、侵入後9秒でこの金属片を落とし、さらに5秒で次の木箱に手を触れている。つまり、全行程14秒。侵入から退避までの最短ルートを常に意識して行動している。計算上、犯人はこのルートを3回以上リハーサルしたことになる」


久我谷碧がホログラム端末にスケッチを重ね合わせ、微細な足跡と木箱の位置をマッピングする。

「この線……確かに、行動パターンが完全に一致します」


三神鷹生も頷き、低く指示する。

「玲、ここからは我々が補足する。朱音のスケッチに基づき、犯人の進行方向を遮断する」


玲は静かに腕を下ろし、全員に視線を巡らせた。

「よし。全員、注意を怠るな。犯人は次の動きを確実に計算している。俺たちは先読みするしかない。朱音のスケッチは、今や俺たちの最大の武器だ」


霧の中で、精緻に描かれた線が、連続殺人事件を解く鍵として全員の目の前に鮮やかに浮かび上がった。


東京都郊外・倉庫跡地/午前7時10分


霧に包まれた地面に、玲は膝をつき、錆びた倉庫の扉に掌を当てた。金属の冷たさが指先を通じて伝わり、微かに振動する床の感触が、犯人の足音の残滓を知らせる。


「……来ている」


玲の低く沈んだ声に、チーム全員の呼吸が止まった。水無瀬透は朱音の横で手元の装置を操作し、微細な空気の揺れから犯人の現在位置を抽出する。


「北東の角、次の足跡……あと3秒でこちらの開口部に到達する」


久我谷碧が端末のホログラムを操作し、地面の微細な踏み痕を拡大表示する。

「速度、約1.8メートル毎秒。体格は中肉中背、左利きの痕跡あり。通路を意識して動いている」


三神鷹生は黙って指示を出す。

「影響範囲を5メートル単位で区画する。角の遮蔽物を利用して包囲を固めろ」


朱音は小さく息を整え、鉛筆を握り直す。

「……ここに行くって思うの!」


玲は頷き、微かな霧の流れに視線を沿わせる。

「正解だ。北東の通路から外側へ出る。3秒で次の遮蔽物に触れる」


影班と解析チームはそれぞれ、玲の予測に沿って配置を調整する。成瀬由宇は左翼を担当し、桐野詩乃は北側を封鎖。安斎柾貴は後方から包囲を固める。玲二は中央通路に控え、朱音と水無瀬透が側面から補助する形だ。


玲は低く指示を続ける。

「由宇、接近のタイミングは秒単位で調整。詩乃、足音に惑わされるな。柾貴、退路を塞げ。朱音、観察を忘れずに」


その瞬間、微かな金属音が倉庫内で響く。玲は目を細め、呼吸を止める。

「……来た。三歩でこの扉の前を通過する」


全員が息を潜め、玲の合図を待つ。


そして、玲の手がゆっくりと上がる。

「今だ」


一斉に動き出すチーム。影のように静かに、しかし確実に、犯人の逃走ルートを取り囲む。


水無瀬が朱音の手を握り、静かに囁く。

「目を離すな、朱音。君の観察が全体を決める」


久我谷が端末を通じて位置情報を全員に送信。三神はタイミングを計算し、遮蔽物を巧みに利用して動線を封じる。


錆びた扉の向こう、犯人が次の足を踏み出した瞬間、玲の指示で全員の視線と動きが正確に同期した。


包囲網は徐々に縮まり、逃げ場のない空間が形成される。霧の中で、倉庫跡地に静かなる緊張が張り詰めた。


東京都郊外・倉庫跡地/午前7時15分


霧がまだ薄く残る金属通路。錆びた手すりと軋む床板が、不規則な音を立てる。水無瀬透は低く息を整え、朱音の指差す方向と自分の解析装置のデータを照合した。


「……ここだ」


彼の指が指す先、通路の角を曲がろうとする犯人の影。透は目を閉じ、微かな呼吸音や金属の残響、足裏の接地感覚を“読む”。そこに過去の動きの残滓──わずかな心拍の乱れや視線の揺らぎが重なった。


「三歩で扉の前、次の角で右折。逃げ道は完全に封鎖される」


透の声に合わせ、玲が低く囁く。

「成瀬、タイミングを見極めろ。詩乃、左翼を固めろ。柾貴、後方から押さえろ」


朱音は鉛筆を握ったまま、息を潜める。

「……ここだよ、透お兄ちゃん!」


通路の角で、犯人が無意識に足を止める瞬間を、透は感じ取った。彼の動作は鈍く、微かに呼吸が乱れている。緊張と恐怖が、金属通路の空気を震わせる。


「今だ」


透の合図と玲の指示に従い、影班が一斉に動く。成瀬由宇が静かに左から近づき、桐野詩乃は正面の視界を押さえる。安斎柾貴が後方を制圧。玲二は中央で朱音と共に観察を続ける。


犯人は逃げようと一歩踏み出すが、次の瞬間、左右から包囲された影班の静かな動きに気づく。逃げ場のない通路、反射的に後ろに下がろうとしたその瞬間、成瀬の手が肩に触れ、桐野の腕が腕を固定する。


「動くな!」


透は静かに前に出て、犯人の背後から柔らかく声をかける。

「安心しろ、もう動けない。ここで安全を確保する」


犯人の顔が青ざめる。呼吸が荒くなり、手足の力が抜けていく。透はその微細な変化を、記憶の残滓として感じ取っていた。


朱音が小さく息をつき、鉛筆を止める。

「……捕まった」


玲は短く頷き、手元の無線機で指示を出す。

「全員、状況確認。撤収準備。怪我人なし」


霧の残る金属通路で、静寂が戻る。水無瀬透はゆっくりと呼吸を整えながら、捕縛の瞬間を淡々と記録した。現場にはもう、犯人の逃げ場は一切残されていなかった。


東京都郊外・倉庫跡地/午前7時30分


天井の抜けた鉄骨の隙間から、曇天の光が斜めに差し込む。倉庫跡の床には、埃と雨水が混じり合い、かすかな足跡が点々と続いていた。


九条凛は低く息を吐き、現場を見渡す。鋭い眼差しは犯人の心理の痕跡を辿るため、表面的な血痕や足跡よりも、空気の揺らぎや物の配置、犯人の動線に残る微細な心理的痕跡を探していた。


「ここ……緊張が強く残っている」


凛は膝をつき、床に落ちた紙片や、倒れかけた椅子、金属片の角度を手で触れながら確認する。犯人が急いで動いたときの心理的焦り、恐怖、判断の迷い——それらが微細な痕跡として現場に残っている。


朱音が横で鉛筆を握り、凛の動きを見つめる。

「……あの角で、誰かが隠れてたの?」


凛は視線を上げず、穏やかだが確信に満ちた声で答える。

「犯人は、追手を意識していた。ここで何度か立ち止まり、周囲を警戒している。心理的な“揺れ”が床や物の配置に残っている」


彼女は、金属片の一部を指で軽く押し、微かに残る振動を感じ取る。

「ここで急に足を止めた理由がわかる。恐怖と焦りの混在。犯人の動線はまだ読み取れる」


玲は凛の分析に頷き、低く指示を出す。

「朱音、水無瀬、透の分析と合わせて。動線を確定させろ。敵はここから脱出できない」


現場の空気を読み、凛は一歩ずつ倉庫内を進む。落ちた金属片、踏まれた木の破片、わずかに動いた埃——それらすべてが犯人の心理を語っていた。


「……ここで最後の包囲だ」


凛が囁くと同時に、影班が静かに配置につく。犯人は無言のまま、薄暗い倉庫の隅で息を潜める。凛は微かに笑みを浮かべ、精神的な圧力をかけるように言葉を投げかける。


「逃げても無駄よ。安全に捕まえる方法は一つだけ」


その声に犯人の肩が小さく震え、手足がわずかに硬直する。凛は目に見えぬ心理の糸を手繰るように、全員に指示を送った。

「成瀬、前面制圧。詩乃、左右を封鎖。柾貴、後方の逃げ道を押さえる」


倉庫跡に静寂が戻る前に、犯人は無言で降伏し、地面に膝をついた。凛はわずかに微笑み、現場に残る“心理の痕跡”を確認しながら、取り調べの準備を整えた。


現場にはもう、犯人の迷いも逃げ場も、すべて透けて見えていた。


東京都郊外・倉庫跡地/午前7時45分


眼前に展開されたスケッチ、ドローン映像、そして旧監視カメラの記録。それらを久我谷碧は、無言で端末に映し出された3Dモデル上に重ねていく。


「……この動線、時間軸も正確に合う」


碧は手元のホログラムに指を滑らせ、朱音のスケッチ上の金属片の位置、床の足跡、倒れた椅子の角度を忠実に再現する。ドローン映像では、犯人の小さな身体の揺れ、微かな足音の振動まで捕捉されていた。旧監視映像は劣化しているが、碧の解析にかかれば“残像”として鮮明に復元される。


「ほら、ここで一瞬立ち止まってる。床の埃の散り方とスケッチの描写が一致してる」


碧は端末上で、影の位置や動きの軌跡を白い線で描画し、動線を視覚的に明確化する。わずかに傾いた照明の残光も、犯人が足元を確認していた角度を示す証拠になる。


「これで全員の位置と動きが同期した」


碧の指がホログラム上を滑り、犯人の潜伏場所を示す。情報は即座に玲と水無瀬、凛に共有され、チーム全体で包囲の計画を立てる材料となる。


「視覚痕跡をここまで精密に復元できれば、犯人の行動パターンはほぼ把握可能だ」


碧はそう呟き、端末のデータを最終確認する。スケッチ、映像、現場痕跡——あらゆる要素が、倉庫跡の狭い空間の中で立体的に重なり合い、犯人の行動と心理を克明に描き出していた。


周囲の霧と埃に包まれた倉庫跡も、碧の解析にかかれば、まるで時間が凍結したかのように、犯人の軌跡が目に見えるかのようだった。


東京都郊外・倉庫跡地/午前7時50分


陽射しは傾き始め、倉庫跡地の鉄骨に斜めの影を落としていたが、空気にはまだ湿った冷たさと前夜の雨の名残が残っていた。


三神鷹生は現場の端に立ち、タブレット端末を手に静かに作業を進めていた。高解像度の3D再構成映像には、朱音のスケッチ、久我谷碧が復元した視覚痕跡、さらに水無瀬透が抽出した現場の微細な動作痕跡が重なって表示されている。


「時間軸を圧縮すると、全体の動きが可視化できる……」


三神は指先で映像のタイムラインを操作する。倉庫内で犯人が移動したわずかな間隔、立ち止まった時間、物に触れた瞬間の微妙な遅延。すべてが目に見える形で折り重なり、複雑な動線が一枚のパターンとして浮かび上がる。


「……ほぼ予定通りの動き。ここで立ち止まった理由も、予測可能だ」


彼の声は低く、無駄がない。分析は冷静で精密だが、現場の霧や光の加減、足元の湿り具合といった物理的条件も織り込みながら、犯人の意図と心理を推定している。


三神は端末を軽く叩き、解析結果をチーム全員に同期させる。朱音、久我谷、水無瀬、凛──それぞれの専門が結集したデータは、現場の一瞬一瞬を漏れなく再現し、犯人の行動を先回りする情報となった。


「ここまで圧縮すれば、次の行動はほぼ確定。準備を急げ」


三神は低く告げ、倉庫跡に残る霧の向こうを見据えた。その瞳には、犯人を捕らえるための冷徹な時間の読みが、揺るぎなく刻まれていた。


東京都郊外・倉庫跡地/午前7時55分


薄暗い鉄骨の隙間から差し込む朝の光に、埃が舞い上がる。槙村伊織は無言で中央の空間へと足を進めた。高校生くらいの少年だが、その目は驚くほど澄んでおり、周囲の細かな変化を逃さない。


「……この場所、全部残ってる」


彼の低くかすれた声が静寂を切る。言葉ではなく、空気の揺れ、床板のわずかな歪み、鉄骨の冷たさ、微かな匂い――すべてが伊織の脳裏に一瞬で映像として焼き付く。彼は瞬間的に周囲の状況を記憶し、あとからどんな動きも再現できる能力を持っていた。


スケッチに描かれた朱音の線、久我谷碧が再構成した視覚痕跡、水無瀬透が解析した微細な感触……それらの情報を頭の中で統合する。伊織は微かに唇を噛み、息を整えた。


「……犯人の軌跡、視える」


少年の目が鋭く光る。わずかに動いた埃、踏みしめられた床板の痕跡、手すりに残る皮脂……ほんの一瞬の変化を見逃さず、彼は犯人が取った行動の順序を、記憶として完全に焼き付けた。


「全員、動線が把握できた。ここから一歩も逃がさない」


伊織は小さく頷き、仲間たちの方へ視線を移す。その目には、まだ子どもらしいあどけなさも残るが、冷徹な分析力と揺るぎない決意が宿っていた。


東京都郊外・倉庫跡地/午前8時02分


無線接続された各ユニットの波形が静かに揺れ、やがて完全に同期する。玲の手元の端末に、朱音のスケッチ、伊織の瞬間記憶データ、水無瀬透の解析した微細な感触、久我谷碧の視覚痕跡、三神鷹生の時間軸圧縮情報――それぞれのデータが次々と流れ込み、画面上で立体的に重なり合った。


端末の画面に表示されるのは、単なる映像や数字ではない。動きの履歴、音の残響、床や壁の微細な圧痕、過去の人物の行動パターンまでが可視化される。玲は眉をひそめ、指先でスクロールしながら情報の断片を瞬時に解析した。


「……全員分のデータが揃った。これで犯人の行動パターンも予測可能だ」


彼の声は低く、確信に満ちている。画面上で、複雑に絡み合った動線が色分けされ、倉庫跡地の立体モデル上に映し出される。埃の舞い方、踏まれた床板の反応、壁面の微細な擦過痕――それらがすべて、犯人が辿った足取りと一致していた。


玲は深く息を吸い込み、チームに向けて告げる。


「各ユニット、待機。犯人の位置はほぼ確定。次の動きに備えて包囲に移る」


静まり返った倉庫跡地に、仲間たちの呼吸がわずかに響く。全員の目が、玲の端末の立体モデルと空間を交互に見つめ、緊張と覚悟の波が静かに押し寄せていた。


東京都郊外・倉庫跡地 即席記憶投影ブース/午前8時15分


遮光布で囲まれた即席のブースの中、水無瀬透は静かに椅子に腰を下ろした。前方には小型モニターと、朱音の手元に置かれたスキャナが連動している。


彼の指先がゆっくりと操作パネルを撫でると、モニターに朱音の記憶の残滓が薄く映し出された。映像でも言葉でもない——微かな呼吸、足音の振動、手が触れた壁の温度差、風のわずかな抵抗。水無瀬は目を閉じ、集中する。


「……朱音、過去の現場を感じ取っているな。音も、気配も、残っている」


モニターに映る情報は断片的だが、彼の高度な解析でひとつの線に結ばれる。朱音が見た記憶の欠片と現場の物理痕跡が、ゆっくりと重なり、犯人の行動パターンを浮かび上がらせていく。


透は深く息を吸い、控えめに呟いた。


「……よし、この情報をチームに送信。全体の動線予測に組み込める」


小さなブースの中で、水無瀬透の冷静な手が、過去と現在を繋ぐ架け橋となっていた。


東京都港湾地区・旧海上貨物管理倉庫群 第六ヤード 中央管理棟跡/午前8時45分


久我谷碧は倉庫跡の中央に立ち、破損した窓から差し込む朝の光を受けながら、端末に映し出されたスケッチやドローン映像を黙って追った。


「ここ……視覚痕跡がまだ残っている」


彼の声は低く、端末のホログラムに重なる。廃墟に残る埃や微細な傷、足跡のわずかな凹みや壁の擦れた跡——それらはすべて、犯人が通った証拠だった。久我谷は指先でホログラムを撫でるように操作し、過去の動線を再構築していく。


「ドローン映像と朱音のスケッチ、そして現場の微細痕跡を合わせれば、逃走ルートがかなり正確に予測できる」


彼の目は鋭く、光の中で微かに揺れる影や埃の動きさえ見逃さない。端末の解析結果を瞬時に頭の中で組み立て、犯人の動きを立体的に描き出す。


「よし……動線確定。チームに送信」


久我谷碧の冷静な観察と再構成能力は、現場で見えない痕跡を確実に“見える化”し、犯人の行動を暴く鍵となっていた。


東京都港湾地区・旧海上貨物管理倉庫群 第六ヤード 仮想再構成エリア/午前9時05分


三神鷹生は静かに端末の前に立ち、ホログラムで浮かぶ倉庫跡地の全体像を見下ろした。光と影、廃材の配置、そして微細な痕跡のすべてが三次元的に再構成されている。


「時間軸圧縮、開始」


彼は指先で空間に触れるようにスクラブし、現場の動きを過去へ巻き戻す。埃の舞い方、足音の痕跡、扉の開閉角度——すべての痕跡が時間の流れに沿って再生される。


「26:47……ここだ」


三神の冷静な声に端末が反応し、瞬間的に過去の動線が重なり合う。倉庫内を走る人物の位置、扉の開閉、物の落下——そのすべてが、現実のわずか数秒間を凝縮した“時間の地図”として表示される。


「逃走方向、行動パターン、滞在時間……これで犯人の動きは完全に追える」


三神は目を細め、静かに再構成結果をチームに送信する。彼の能力は、現場での痕跡を時間軸上に正確に配置し、他のメンバーが追跡や包囲を行うための絶対的な指針となる。


東京都港湾地区・旧海上貨物管理倉庫群 第六ヤード/夕方17時12分


朱音は倉庫の片隅に腰を下ろし、膝の上にスケッチブックを置いた。夕映えの光が錆びた鉄骨や埃まみれの床を赤く染める中、彼女の小さな手は鉛筆を軽やかに走らせる。


紙の上には、朽ちた扉、散乱する木箱、そしてわずかに残る血痕の位置が正確に描き込まれていた。朱音の目は光景の細部を逃さず、感覚だけでなく“何かを感じ取る力”で、現場の微かな異変を捉えていた。


「ここ……なんか、違う……」


小さな声でつぶやきながら、朱音は線を重ね、扉の開閉角度や床の擦れ痕を詳細に記録していく。


彼女の結界師としての能力は、視覚だけでなく現場に残る“気配”や“時間の揺らぎ”を感じ取り、スケッチに反映させることができる。描かれた一枚の絵は、チーム全体が現場の微細な情報を共有するための重要な指針となる。


朱音は立ち上がり、スケッチブックを抱えて玲に近づいた。


「お兄ちゃん、ここ……こうなってるの」


玲は静かに頷き、朱音の描いた線と現場を照らし合わせ、犯人の動線と痕跡の繋がりを頭の中で整理していった。


東京都港湾地区・旧海上貨物管理倉庫群 第六ヤード/午後17時45分


雨上がりの冷気が、打ち捨てられた制御ラインの鉄骨を冷たく包んでいた。湿った空気に混じる錆の匂いが、現場の荒廃を際立たせる。


久我谷碧は慎重に一歩ずつ鉄骨の上を渡りながら、手元の端末で空間をスキャンしていた。ドローン映像と旧監視カメラの記録、朱音のスケッチを重ね合わせることで、彼は現場に残された痕跡を可視化していく。


「……この鉄骨の擦れ、足跡、箱の倒れ方……すべて計算された動きだ」


碧の声は低く、しかし確信に満ちていた。彼の視線は、湿った床に残る微細な痕跡までを逃さない。濡れた鉄板が足音を反射し、誰も近づかずとも現場に静かな緊張を生む。


朱音は鉄骨の脇で小さく身を屈め、描きかけのスケッチを碧に差し出した。


「ここ……こうやって、動いたの、だと思う」


碧はスケッチを覗き込み、指先で床の血痕や木箱の位置と照合する。微かな風に揺れる埃の中、二人の目には、犯人の行動の輪郭が少しずつ浮かび上がってきた。


東京都港湾地区・旧海上貨物管理倉庫群 第六ヤード/午後17時50分


低く、落ち着いた声が倉庫内に響いた。


「……データ、歪んでますね」


量子記録監査官・皆本峻は端末の前に立ち、指先で光るホログラムを軽くなぞる。電子記録の時系列に潜む微細なズレを、量子的な解析で浮き彫りにする技能を持つ男だ。彼の声には、確信と冷静さが同居していた。


「監視カメラ映像と入出庫ログ、電子ロックの記録……改ざんや消去の痕跡が、わずかに残っている。通常の解析では検知不能だ」


朱音はその言葉を聞き、鉛筆を止めて顔を上げる。


「え……改ざんって……」


「そう、誰かが意図的に痕跡を消している。でも完全ではない。残像として、この場所に微細に残っている」


皆本の指がホログラム上で、ログの断片を指し示す。わずかにずれたタイムスタンプ、消えたアクセス履歴、しかし量子解析では、消された痕跡も“揺らぎ”として可視化できる。


玲はその報告を聞き、床に膝をつきながら静かに呟いた。


「つまり、犯人は過去の証拠を消そうとしている。でも、この現場に来れば、俺たちはまだ追跡できる」


雨上がりの冷気と湿った鉄骨の匂いの中、皆本の端末が静かに光り、微細な電子の残像を浮かび上がらせる。それは、現場に残されたもう一つの証拠として、チームに確かな指針を与えていた。


東京都港湾地区・旧海上貨物管理倉庫群 南棟通路D4ブロック/午後18時03分


玲の通信端末が微かに震えた。画面には赤い文字で、警告が点滅する。


〔音響干渉検知:南棟通路D4ブロック・不可解なノイズパターン検出〕


玲は眉をひそめ、静かに端末を手に取り、周囲に目を走らせた。倉庫内の湿った鉄骨が、雨上がりの冷気に震える音を反響させる。


「……音響ノイズか」玲は低くつぶやく。


その瞬間、薄暗い通路の奥から、規則的で微妙に異常な反響音が響き渡る。歩くたびに、足元のコンクリートがわずかに振動し、通常の足音とは異なる“余韻”を残していた。


水無瀬透は端末に指を触れ、耳を澄ませる。

「……この反響、単なる環境音じゃない。誰かが巧妙に仕込んだ装置、あるいは音を利用した監視の可能性が高い」


久我谷碧は視線を巡らせ、通路の影を注視する。

「通路の照明、配線……音響干渉が出る位置、全て計算された配置だ。逃げ道を塞ぐためかもしれない」


玲は無言で端末を操作し、リアルタイムでノイズの発生源を解析。

「座標確認。南棟D4、通路の中程……複数の振動パターンが重なっている。接近している、もしくは仕掛けられた罠か」


彼の指示がチームに届く。

「朱音、離れすぎるな。皆、音響干渉を無視せず、慎重に前進。先手必勝だ」


冷たい空気の中、チームは無言で通路へ歩を進める。異常なノイズの中に、犯人の影はまだ潜んでいる──しかし、玲の鋭い分析と仲間の連携が、それを見逃すはずはなかった。


旧海上貨物管理倉庫群・南棟通路D4ブロック/午後18時06分


玲の端末が、ふたたび短く震えた。

冷たい電子音が静寂を切り裂く。


〔異常接近:周囲半径5メートル内に“未識別存在”を感知〕


画面の波形が乱れ、ノイズのように一瞬、誰かの“息”のパターンが混ざった。


玲は即座に顔を上げ、低く声を放つ。

「……全員、停止。位置確認」


足音が止む。

倉庫内の空気が、まるで凍りついたように静まり返った。


久我谷碧がホログラム端末を展開し、視覚波形を走査する。

「赤外線、可視、紫外――どの帯域にも反応なし。だが……音響の干渉パターンだけが、何かを“避けて”いる」


「避けてる?」

九条凛が囁く。声が震えていた。


「そう。まるで“そこ”に存在するものを、周囲の空間が拒絶してるような反応だ」


水無瀬透が装置を構え、朱音の前に立つ。

「玲、ここは一時的に精神リンクを断った方がいい。干渉される恐れがある」


だが玲は、静かに首を振った。

「……いや、逆だ。接触を断つより、こちらから踏み込む」


彼は通信に短く命令を送る。

「三神、時間軸の補正を。久我谷、視覚再構成を並行で。凛、精神ノイズの波長を固定してくれ」


瞬間、通路の空気がざらりと震えた。

金属片が床を転がり、奥の闇で何かが微かに“動いた”。


朱音が息を呑む。

「……誰か、いる」


玲はその声に応えるように、目を細めた。

「“未識別存在”――十年前の記録から、まだこの場所に残っていたのかもしれない」


冷たい霧の中、通路の奥にぼんやりと人影が浮かび上がる。

そして、解析装置のモニターにその名が一瞬、点滅した。


〔識別候補:霧島 朔〕


旧海上貨物管理倉庫群・南棟通路D4ブロック/午後18時09分


雨に濡れた地面が、わずかな気圧変動に応じてざらりと音を立てる。

玲は一歩前に出て、低く息を吐いた。


「動きを止めろ……奴の行動パターンは、微細な圧力の変化だけで分かる」


久我谷碧が端末のホログラムを覗き込み、地面の湿り気と足跡痕跡を重ねる。

「足跡、未検知……だが地面の凹凸と泥の分布から、右側に二度、小さな荷重変化がある」


水無瀬透が朱音に向き直る。

「朱音、結界を少し広げろ。気配を可視化して、精神的干渉を減らす」


朱音は鉛筆を握り直し、床に軽く線を描くように手を動かす。

「……見える。ここ、すごく変な気がする……」


通路奥、影のように揺れる黒い物体が、微かに反応した。

霧の隙間に、人影の輪郭がわずかに浮かぶ。


玲は端末に目を戻し、解析波形を確認する。

「霧島……いや、奴だ。周囲の湿度と気圧を利用して、気配を隠している」


三神鷹生が即座に補正指示を送る。

「時間軸圧縮、0.3秒単位で予測展開。全員、移動は最小限、同時に視覚・聴覚情報を同期」


冷たい雨粒が頭上から落ち、通路の鉄骨に当たって小さく響く。

その音さえ、玲は“敵の動作のリズム”として読み取った。


そして、静寂の中、朱音の鉛筆が再び止まる。

「……ここ、絶対に誰かいる……」


玲は短く頷き、低く告げた。

「全員、配置につけ。もう一度、奴を挟み込む」


旧海上貨物管理倉庫群・南棟通路D4ブロック/午後18時10分


そのとき──

玲の通信端末が低く振動音を発した。


【アラート:半径5メートル圏内にて、未識別存在の軌道重複を検知。物理接触未確定。存在強度:上昇中】


朱音がびくりと肩を震わせ、透の袖を掴む。

「……ねぇ、今、何かが……通った」


水無瀬透の視線が即座に走る。

「朱音、離れちゃだめ。今は“見えてる側”のほうが危険だ」


久我谷碧が指先を動かし、ホログラムのノイズを拡張する。

波形のひとつが突然、跳ね上がった。

「干渉波、強度三倍。……物理層の反応じゃない。これ、“記憶の残響”だ」


「記憶……が?」凛が息を呑む。

「じゃあ、ここにいるのは──“過去の意志”ってこと?」


玲は目を細めた。

「いや……それだけじゃない。誰かが“記憶を媒介”にして動いている。

 この場にいた“霧島朔”の、行動記録を――今、誰かが再演している」


金属の軋む音。

通路の奥、鉄骨の隙間から、霧が人の形を描くようにゆらめいた。


三神鷹生が冷静に言葉を落とす。

「時間軸干渉、発動中。過去と現在が重なってる。存在強度、さらに上昇……!」


玲が短く指示を飛ばす。

「全ユニット、解析を優先。透、情動波の安定を。碧、視覚追尾を強化。

 ――“未識別存在”の正体を掴め」


霧の奥で、何かが確かに“こちらを見た”。


日時:2025年4月13日 午後3時42分

場所:旧海上貨物管理倉庫群・第六ヤード 南棟通路D4ブロック


そして、制御ライン奥、封鎖された通路の暗がりから──


コツ、コツ──。


湿った鉄骨を叩くような、乾いた靴音。

そのリズムは一定で、まるで意図的に「存在を知らせる」ための足音のようだった。


朱音が小さく息を呑む。

「……誰か、いる……」


凛が朱音の肩に手を添え、周囲を警戒する。

水無瀬透が携行端末を開き、音源の波形を解析した。

「反響が……不自然だ。壁際じゃない、もっと“奥”から。――内部共鳴してる」


玲が静かに前へ歩み出た。

「封鎖された通路の先……そこにまだ“繋がっている”場所がある」


その瞬間、端末に新たな警告が走る。


【アラート更新:未識別存在、位置特定不能。残響波、複数化。】


久我谷碧が低く呟く。

「……足音が、“二つ”に増えてる」


そして、

コツ──コツ──


――今度は“背後”からも、同じ音が響いた。


日時:2025年4月13日 午後3時44分

場所:旧海上貨物管理倉庫群・第六ヤード 南棟通路D4ブロック


──そこに現れたのは、背を向け、ただ静かに“歩いてくる男”。


鉄骨の隙間を通して差し込む薄光に、男の輪郭がぼんやりと浮かぶ。

その足取りは遅く、慎重でありながらも、確かな重みを帯びていた。


朱音が小さく声を震わせる。

「……あの人……」


凛が端末の光を男の影に向け、解析を開始する。

「足音の強弱、体重のかかり方……不自然さはない。生身だ」


水無瀬透が眉を寄せ、記憶残響データと突き合わせる。

「……だが、何かを“隠している”感じがある。周囲の振動を意図的に抑えている」


玲は静かに距離を詰め、端末の波形を凝視する。

「奴の動線は読める。全てが制御されている……だが、逃げる気配はない」


そして、男はゆっくりと顔をこちらに向けた瞬間、倉庫内の空気が一瞬張りつめる。

その目には、何かを知る者だけが放つ重みと、静かな決意が宿っていた。


日時:2025年4月13日 午後3時45分

場所:旧海上貨物管理倉庫群・第六ヤード 南棟通路D4ブロック


玲は静かに地面に膝をつき、男の姿を見据えたまま、低く、しかし確かな声で告げた。


「──戻ってきたか。朔」


男、霧島朔はわずかに肩を動かし、低く吐息をもらすように応じる。

その声は倉庫内にしみ込むように響き、埃と鉄の匂いが漂う空間に微かな緊張を生んだ。


朱音は鉛筆を握りしめ、スケッチを前に身を固くする。

「……透お兄ちゃん、あの人……知ってるの?」


水無瀬透は落ち着いた声で答える。

「……十年前、君たちが知らずに巻き込まれた事件の中心人物だ。だが、今は……行動が読めない」


久我谷碧が端末を操作し、男の足元や通路の反響から軌道データを取得する。

「微細な足音の振動も、完全には消せていない……だが、計算され尽くした動きだ」


三神鷹生が淡々と付け加える。

「時間軸を圧縮すると、ここまでの移動と足取りには無駄がない。全て計画的だ」


男の目が玲に向く。その視線には冷静さと決意が同居しており、静かな対峙の空気が通路全体に広がった。


玲は再び低く、落ち着いた声で囁くように告げた。

「……ここから先は、互いの覚悟次第だ」


日時:2025年4月13日 午後3時47分

場所:旧海上貨物管理倉庫群・第六ヤード 南棟 奥部


倉庫の奥、配線の剥き出しになった梁が、まるで脈打つように軋んでいた。

埃混じりの空気の中で、わずかな振動が床板や鉄骨に伝わり、足元の音が微妙に反響する。


朱音はスケッチブックを抱えたまま、梁の影に目を凝らす。

「……あの梁、揺れてる……なんか、怖い」


水無瀬透がそっと朱音の肩に手を置き、静かに諭す。

「大丈夫。揺れは構造的なものだ。君は観察に集中して」


久我谷碧が端末の表示を確認し、周囲の微細な振動を数値化する。

「梁の振動は周期的だ。機械的な軋み以外、外的な影響はない」


三神鷹生は俯き、時系列を確認する。

「この軋みのタイミングと朔の足取りは完全に同期していない……つまり、意図的に利用する余地がある」


玲は膝をついたまま、配線と梁の影を見据える。

「――梁の揺れを含めたこの空間すべてが、状況判断の手掛かりになる。見逃すな」


暗がりの中で、霧島朔はその梁の影を意識することなく、静かに一歩を進めた。

空気は張り詰め、微細な軋みさえも、チーム全員の神経を鋭く研ぎ澄ませていた。


日時:2025年4月13日 午後3時48分

場所:旧海上貨物管理倉庫群・第六ヤード 南棟 奥部


──そして今。


梁の軋む音と雨上がりの湿った鉄の匂いの中、倉庫奥の空間は静寂に包まれていた。

朱音は鉛筆を握りしめ、スケッチブックに集中する。紙の上に浮かび上がるのは、梁の影、破れたパネル、そして朔が踏みしめた床板の痕跡。


玲は地面に膝をつき、梁の影と配線の位置を頭の中で整理していた。

「全員、配置を維持しろ。朔の動線は必ずこの範囲内にある」


水無瀬透が端末を覗き込み、低くつぶやく。

「朱音の記憶痕跡と梁の微振動、床板の踏み跡が一致する……ここで動くはずだ」


久我谷碧は端末上の映像をスクロールし、梁の影と朔の位置を重ね合わせる。

「左手の鉄骨を使って反転する可能性あり。動線を予測して、包囲を」


三神鷹生は時系列を再圧縮し、わずかに眉をひそめる。

「秒単位で軌道が変化する……反応速度を落とさず、全員同期だ」


倉庫の奥、暗がりから微かに足音が響く。

朔は沈黙の中、ゆっくりと一歩一歩、近づいていた。


玲は静かに息を整え、全員に低く告げる。

「──今だ。全員、動け」


日時:2025年4月14日 午前7時12分

場所:東京都郊外・小さな公園


朝の陽光が柔らかく地面を照らし、鳥のさえずりが公園全体を包んでいた。倉庫跡地での騒動から一夜明け、緊張の余韻は少しずつ解けていく。


朱音はブランコに腰かけ、笑顔を浮かべながら鉛筆を走らせていた。昨日の出来事を思い出すように、スケッチブックには倉庫の梁や朔の足跡が細かく描かれている。


玲はベンチに座り、腕を組んで遠くを見つめる。無言のままだが、肩の力は明らかに抜けていた。


水無瀬透は朱音の隣に立ち、彼女の描く線をそっと眺める。

「昨日はよく頑張ったな」


朱音は顔を上げ、少し照れくさそうに答える。

「うん……でも、まだわかんないこといっぱいだよ」


久我谷碧は遠くの遊具の陰から観察しつつ、端末のデータを整理する。

「次の解析に向けて、今日から準備を始める必要があるな」


三神鷹生は空を仰ぎ、静かに息をつく。

「時間軸は動き出した……次は、逃さない」


玲は立ち上がり、朱音に向かって微笑む。

「さあ、今日は一日、ゆっくり休もう」


朱音はスケッチブックを抱きしめ、澄んだ笑顔で頷いた。

柔らかな光の中、静かな安らぎが、戦いの傷跡を少しずつ癒していく。


空は晴れ渡り、公園の風景と共に、彼らの新たな日常の幕が開けたのだった。

【夜の探偵事務所】


 壁の時計が、深夜二時を示していた。

 玲はデスクに積まれた報告書の山の前で、無言のまま端末を開く。

 その瞬間、画面が一度だけ明滅した。


差出人:voice_nul@disquiet.jp

件名:届かないはずの声より

本文:


 ――聞こえていますか。

 倉庫の西側、第四ラインの下。

 まだ“誰か”が、そこにいます。

 ただし、名を呼んではいけません。

 次に消されるのは、記録ではなく“証人”です。


玲の瞳が、静かに細められる。

メールの末尾には、本文よりも奇妙な一文が添えられていた。


“再同期処理済/監査対象外”


 奈々が息をのむ。

 ――それは、かつて朔の記録が消された時とまったく同じ表記だった。

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