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43話 再開

れい

S級の冷静沈着な探偵。家族や仲間を守るために孤独に戦ってきた。普段はクールだが、朱音に呼ばれて照れる一面も。


玲司れいじ

玲の兄。玲の秘めた力を理解し支える存在。家族思いで冷静。


佐々木朱音ささき あかね

玲の妹ではないが、身近な存在として関わる少女。元気で明るく、玲の照れ顔を引き出す。


神崎美和かんざき みわ

玲司と玲の母。優しく強い母親で、家族を支える。


神崎一樹かんざき かずき

美和の弟。家族のような存在で、冷静な支え。


橘奈々(たちばな なな)

玲の事務所の情報処理担当。冷静かつ茶目っ気があり、チームを和ませる。


沙耶さや

玲の事務所メンバー。鋭い直感と人間観察力を持つ、感情的支柱。


影班かげはん

玲たちを護衛する隠密精鋭チーム。成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴の3名で構成される。

【時間】午前6時48分

【場所】東京都郊外/山中ロッジ・玲探偵事務所 分室


風のない朝だった。

霧は深く、木々の隙間から差し込む陽光は鈍く滲んで、世界は灰色のヴェールに包まれていた。

ロッジの煙突から立ち上る薄煙が、空に溶けるように揺れていた。

その静けさを破るものは、遠くで聞こえる鳥の声と、雪解け水の滴る音だけ。


玲は、ロッジの小さなキッチンでコーヒーを淹れていた。

蒸気の立ちのぼるカップを手に取ると、窓辺に歩み寄り、しばらく黙って外を見つめた。


その背後、朱音が眠そうな顔で毛布を引きずりながらソファに座り、スケッチブックを膝に開いた。

薄い色鉛筆で何かを描きながら、口元にぼんやりとした笑みを浮かべている。


奈々は、ロッジの一角に設けられた小さな情報端末の前に座り、ログイン処理を終えた画面を見つめていた。

彼女の指が軽快にタッチパネルを滑るたび、静かな起動音が部屋に心地よく響く。


「……今朝は、何か変だね」


朱音がぽつりと呟く。


玲が振り返る。

「何が?」


「……音が、少ない気がする。鳥の声も、風の音も……全部、隠れてる」


奈々がふっと視線を上げる。

「朱音の勘は当たるからね。……少し、警戒しておいた方がいいかも」


玲はコーヒーを一口飲み、ゆっくりと頷いた。

「……なら、今日も無事じゃ済まないだろうな」


まるでそれを合図にするかのように──


ギイ……


重い扉の軋む音が、静寂を割いた。


玲が反射的に身構え、朱音と奈々も動きを止める。


だが、そこに立っていたのは──

かつて“記録の封印者”と呼ばれた男。


神崎玲司。


コートの裾からしたたる霧露を払いながら、彼は穏やかに笑った。

その姿は、過去の亡霊でも、記録の残骸でもなかった。


ただの、兄だった。


「久しぶりだな、玲。……元気そうで、よかった」


玲の手から、コーヒーカップの湯気が消えた。


玲は一瞬、表情を崩さなかった。だがその瞳の奥に、わずかな揺れが生まれる。


「……どうして、ここに」


淡々とした声の奥に、かすかな苛立ちと、戸惑い。


玲司はコートのポケットから、古びた茶封筒を取り出して見せた。封は破られていない。その角には、見慣れた印が押されていた──かつて玲自身が封印した、極秘指定文書の記章。


「“彼女”が託してきた。……そろそろ、向き合う時期なんじゃないかってさ」


玲の視線が、その封筒に落ちた。ほんの一瞬だけ。だが、それだけで十分だった。


奈々が沈黙を保ちつつ、端末の画面をすばやく切り替え、通信記録のチェックを始めている。その動きに迷いはない。


朱音は、スケッチブックを閉じてそっと立ち上がり、玲の隣に寄った。その小さな手が、玲の袖を軽く引く。


「お兄ちゃん……この人、知ってるの?」


玲はわずかに笑った。


「……ああ。俺の兄貴だよ」


朱音は驚いたように目を見開いた。けれど、そのまなざしは不思議と怖がってはいなかった。


「へぇ……なんか、似てないね」


玲司は小さく吹き出した。


「それ、昔から言われてる」


一瞬だけ、ロッジの中に柔らかな空気が流れた。


だが──


奈々の端末に、警告の音が走る。朱音がびくりと体を揺らし、玲が即座に奈々のもとに駆け寄る。


「何があった?」


「……監視範囲、北東側の林道に不審な熱源。数、三……いや、五。全員、人間。動きが軍用パターン。完全にこちらを把握してるわけじゃないけど、接近は間違いない」


玲の表情が再び研ぎ澄まされる。

彼はカップをテーブルに置き、言った。


「……迎える準備をする。玲司──今は家族を守る側に回ってくれ」


玲司は眉をひそめた。だが、すぐに頷く。


「了解。だが、オレも記録の守り手だった。お前ひとりに全部は背負わせない」


玲が背中を向け、ロッジの裏手にある武装ロッカーへと向かう。その足取りは迷いなく、静かに、しかし確実に“戦い”の気配を呼び込んでいた。


──風のない朝。


その静けさは、嵐の序章だった。


【時間】午前7時12分

【場所】東京都郊外/山中ロッジ・玲探偵事務所 分室


とても美しい再会シーンです。この章にふさわしい「穏やかさ」と「内に秘めた強さ」が丁寧に描かれており、玲の張りつめた日常にようやく差し込んだ“家族”の光が感じられます。以下にご提案として、ごくわずかに流れを補強・強調した形の改稿をお出ししますが、今のままでも十分に完成度の高い一節です。



薄く朝霧のかかるロッジの窓辺で、玲は黙って湯気の立つコーヒーカップを見つめていた。

朱音はソファの上でスケッチブックをめくり、奈々は静かに端末を操作している。

まだ誰も言葉を交わさない、息を潜めるような静かな朝だった。


──その沈黙を破ったのは、硬い靴音と、重い扉の軋む音。


ギイ……。


誰もが振り返る。

そこに立っていたのは、かつて“記録の封印者”と呼ばれた男――神崎玲司。

玲の実の兄だった。


けれど、その姿に威圧感はなかった。

むしろ、どこか懐かしく、温かな気配をまとっていた。

優しげな目元、小さな笑み、そして疲れたようなコート姿。

何より──かつて弟を庇うように背を向けて立っていた、その背中を、玲は誰よりもよく知っていた。


「久しぶりだな、玲。……元気そうで、よかった」


玲は、ただ驚きに目を見開いた。

次いで、その感情が胸に込み上げてきて、言葉を探すように口を開いた。


「兄さん……生きてたのか……」


その声はかすれていたが、確かに震えていた。

ずっと封じていた記憶の奥底で、崩れかけたピースが、一つ、静かに音を立ててはまっていく。


玲司はその様子を見て、ただ穏やかに微笑む。


「当たり前だろ。あの時、お前に“託した側”の人間として……忘れたくても、忘れられるはずがない」


その声には静かな決意と、長年の孤独を耐えてきた者の深さが滲んでいた。


──封印とは「隠す」ことではなく、「残す」こと。

神崎玲司はかつて、多くの記録を封じた。だがそれは、誰かを守るためであり、未来を信じていたからこそだった。


「この場所に戻ってきた理由は一つ。……もう、お前がひとりで背負うには、あまりにも重すぎるからだ。今度は、俺が一緒に支える」


玲の目に、一瞬だけ迷いが浮かんだ。

だがその揺れはすぐに静まり、代わりに少年の頃のような柔らかい眼差しが宿る。


「……ありがとう、兄さん」


言葉は少なかった。だが、その一言にすべてが込められていた。


──二人の間に横たわっていた空白が、静かに、確かに埋まっていく。


それは、ただの“再会”ではない。

過去と現在、封じられた真実と、これから歩む記憶の道。

それらすべてを繋ぎ直す、優しき兄の帰還だった。


玲司は一歩、部屋に足を踏み入れた。

その気配は静かで、けれど言葉の重みが空気を変えた。


「……俺も、“あの実験”の被験体だった。ユウタと同じようにな」


室内にいる全員が、息を呑む。


玲の目が大きく見開かれた。

「兄さん……それは……」


「そうだ。十数年前――“ゼロ試験群”の初期段階。俺は“観測記憶媒体”として選ばれた。成功例とされた、数少ない“記録受信体”だ」


語る声は穏やかだったが、その奥に秘められた傷は、言葉にできぬほど深いものだった。


「なぜ、今まで黙っていたのかと聞くだろう? それは――“語る”という行為自体が、俺の中の記録を壊す危険があったからだ。俺の中には、いまもなお……触れれば崩れる“他者の記憶”が棲みついている」


安斎がゆっくりと視線を向けた。

「記録の封印者とは、つまり……記憶の墓守でもあったというわけか」


玲司はうなずいた。

「それが俺に与えられた役割だった。“自分の記憶を捨てて、他人の真実を守る”。……ユウタも、その先に置かれていた。俺には、それが他人事に思えなかったんだ」


玲は、拳を握りしめた。

「兄さん……」


「だから今、ここに来た。……過去を守るためじゃない。“未来に手渡す記録”を、俺もともに築きたいと思ったんだ。封印するだけの記録には、もう、終わりが来ている」


その言葉に、誰かが静かに頷いた。

まるで、一つの眠っていた記憶が目を覚ましたかのように。


ユウタと同じ苦しみを背負いながらも、優しさを失わず、記録とともに生きた男――

神崎玲司は、ただの“封印者”ではなかった。

彼もまた、“記憶の証人”だった。


玲は言葉を探したが、何も出てこなかった。

ようやく口にしたのは、ただ一つの願いだった。


「……生きててくれて……ありがとう、兄貴」


玲司は小さく笑い、そっと近づいてきた朱音の頭に手を置いた。

その掌には、かつて誰かを守ろうとして失った温もりが、まだ残っているようだった。


「ようやく戻ってこられた」

その声は、どこまでも静かで、どこまでも優しかった。


「これからは共に闇を暴こう。……俺も、チームに入る」


朱音は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと笑顔になった。

その瞳には、誰よりもまっすぐな光が宿っていた。


玲もまた、微かに笑みを浮かべ、兄の背を見つめた。


「……ああ。ようこそ、俺たちの場所へ」


奈々が目を細めて呟いた。


「……これが、あなたたちの出会いだったんですね」


少し間を置いてから、くすっと笑いながら付け加える。


「でも……玲の戦いぶりを初めて見たとき、私、正直ちょっと引きましたよ。強すぎて、人間じゃないって」


玲は肩をすくめて答える。


「それ、よく言われる」


朱音が笑い、沙耶が肩を軽く叩いた。


「あんたはもうちょっと、加減ってものを覚えなさい」


その場に、ふっと柔らかな空気が流れた。

出会いの記録は、確かに“今”へと繋がっていた。


だが、兄の帰還が意味するものは単なる希望だけではなかった。

その背後には、まだ姿を見せぬ巨大な組織犯罪の影が、確かに迫っていた──。


そして、ロッジの外。

舗装されていない山道の奥に、黒塗りの車がひっそりと身を潜めていた。

その内部では、誰かが静かに時計の針を見つめていた。

──動き出す“指令”を、ただ待ち続けるように。


物語は、ここから再び動き出す。


【時間】午前8時16分

【場所】東京都郊外/ロッジ裏 手入れされていない林道沿い


湿った朝露が、音もなく落ち葉を濡らしていた。

一人の男が、その静寂を乱さぬよう林の中を歩く。

ブーツの底に泥が絡みついても気にせず、男は双眼鏡を構えた。

木々の隙間に見えるロッジでは、人々が笑い合い、穏やかな時間を過ごしている。


だが、その視線には懐かしさの色はない。

ただ、対象を見極める──狩人のそれだった。


男はコートの内ポケットから古びた通信端末を取り出す。

無言でボタンを押し、深く息を潜めて呟く。


「──対象、再接触を確認。神崎玲司、生存確定」


声は低く、感情の欠片すら含んでいなかった。

その報告が、どこへ届くのか。


──それはまだ、誰も知らない。


【時間】午前8時32分

【場所】ロッジ内 地下室・旧資料保管庫


玲は、兄・玲司に案内されるままロッジの地下へと降りていた。ほこりにまみれた旧資料庫──かつて誰にも使われていなかったその空間は、十年間の記録と秘密を静かに封じていた。


「見せてやるよ。俺が潜ってた組織の核心を」


玲司は、重たいスチール製の棚をゆっくりと横に滑らせると、奥の隙間から小さな金属ケースを取り出した。


開けられたその中には、薄く色褪せた紙の束と、精密に仕分けられた資料がぎっしり詰まっていた。


玲司は埃を払いつつ、一枚の薄い紙を丁寧に広げた。


そこには、手書きで複雑に描かれた組織の構成図。そして、中央に大きく「014計画」と記された文字が目を引いた。


「これが……014計画の設計図だ」


玲は息を呑み、細部まで目を凝らした。


玲司は静かに、しかし力強く語り始めた。


「俺たちはただの“実験体”じゃない。ここに記されているのは、“記録を記録する者”としての哲学だ。俺たちをそう呼んだのは、組織の中の一部の者たち……“記録の鏡”と。」


玲は戸惑いを隠せなかった。


「記録の鏡……?」


「そうだ。鏡は映すものだ。だが、もし曇ってしまえば誰の姿も映らなくなる。俺たちは他人の記憶を映し出す鏡であると同時に、自分自身の記憶を捨て去らなければならなかった。だから……俺の中にあるのは、他人の感情や苦しみばかりだ」


玲の瞳に、じわりと光が宿る。


「つまり……お前たちは“生きた証人”でありながら、同時に“記憶の墓守”でもあるってことか?」


玲司は苦笑した。


「そう。だが墓守とは、単に“隠す”だけじゃない。“耐えて残す”ことでもある。俺たちは消えゆく記憶の中に、真実を刻み続けるために存在している」


彼はさらに一枚の薄紙を手に取った。それは暗号化された連絡記録で、組織の表層に流された情報とは別の“真実の影”を秘めていた。


「これが表層の記録。だが本当に重要なのは、その奥に隠された“真実の影”だ。俺たちはそれを暴くために、ここに戻ってきた」


玲は拳を握りしめる。


「俺たちはこれまで封印された記憶の重みを背負ってきた。でも、もうそれだけじゃ足りない。過去を守るだけじゃなく、未来に手渡す記録を共に築いていくべきだ」


玲司は静かに頷いた。


「そうだな。だからこそ、俺は帰ってきた。お前と共に闇を暴き、真実を刻むために」


部屋の静けさが一層深まった。


玲はその言葉を胸に刻み込むように、ゆっくりと息を吐いた。


「兄さん……ありがとう」


その一言が、長い時を越えた絆を確かなものにした。



【時間】午前9時10分

【場所】ロッジ1階/リビング


沙耶と朱音、そして奈々が資料を前に思案を重ねていた。玲と玲司の会話が戻ってくるまで、彼女たちもまた、それぞれの記憶と戦っていた。


「玲司さん、本当に……ずっと見てたのかな」


朱音がぽつりとつぶやく。沙耶がうなずいた。


「そうね。でも、戻ってきたってことは──これからの戦いは、もっと本気になるってことよ」


奈々が目を細め、窓の外を見やった。林の中でかすかに動く黒い影に、直感が告げる。


「ねえ……あそこ。誰か、見てる?」


静かだった朝に、微かな異変が、確かに忍び込んでいた。


玲は黙って窓の外を見つめた。黒い影に気づいたその瞬間、胸の奥がざわついた。


「俺も見た……間違いない。誰かが監視している」


沙耶が朱音の手を軽く握り、奈々はすぐに端末を取り出して周囲の監視カメラの映像をチェックし始める。


「まだ気配が薄いけど、確実にこちらを窺っている」


玲の声は低く、鋭かった。まるで、過去に何度も裏切りと陰謀を経験した者のそれだった。


「奴らは俺たちの動きを、ずっと追っている。これからは隠れているだけじゃ済まない。こちらから動く必要がある」


朱音が小さくうなずくと、沙耶は決意を込めて言った。


「よし、ならば私たちも準備を始めよう。覚悟を決めて」


ロッジの静かな朝は、確かに新たな緊張と覚悟に包まれていた。


【時間】午前9時15分

【場所】林道/黒い車の中


暗い車内に緊張が走る。

指揮官の冷徹な命令が無線を通じて響き渡り、静寂を引き裂いた。


「コードTに移行。対象“014”は任務終了後、消去対象とする」


車内にいた数人の影が一瞬硬直する。

しかし、すぐに任務の厳しさと残酷さを受け入れ、沈黙を保った。


モニターにはロッジの中で静かに動く玲と玲司の姿。

彼らが抱える秘密の重さを、誰もが感じ取っていた。


「これが、終わりじゃない……始まりだ」


誰もが心の中で呟いた言葉は、

やがて大きな嵐の前触れとなる。


──暗闇に潜む“影班”の動きは、ますます激しくなり、

ロッジに集う者たちの未来を不確かなものにしていくのだった。


【時間】午前10時16分

【場所】林道・高台/偽装通信車内


風に揺れる梢の向こう。双眼鏡を覗く成瀬由宇は、木々の隙間から黒い車の動きを正確に捉えていた。


「確認。黒車両、ロッジ南東ルートに侵入。内部に3名。うち1名、管制型通信装置を所持。K系列じゃない、これは別系統だ」


玲の無線越しに沈んだ声が返る。


「了解。影の動きとは別件か……だが、放ってはおけないな。由宇、そのまま追跡。詩乃と安斎をルートDへ回す」


成瀬は頷きながら、双眼鏡をしまい身を低くする。


「動く。制圧は静かにやる」


木々の影が風に揺れるなか、成瀬由宇は音もなく次の観測地点へと滑るように移動していった。ロッジを巡る真実の断片が、また一つ浮かび上がろうとしていた。


由宇の声が落ち着いて通信に乗ると、後方で作業していた桐野詩乃が映像の解析を終えて、淡々と告げた。


「マスクされた通信信号、周波数帯が以前と一致。“影内偵”の仮装チームじゃない。完全な外部勢力──所属不明。おそらく“記録除去専門”」


「除去専門……ってことは、証拠隠滅を目的に動いてる可能性が高いわね」

沙耶が眉をひそめてつぶやく。その表情には、警戒というよりも、怒りが滲んでいた。


玲は一瞬だけ目を伏せ、次いで静かに告げた。


「なら、急ごう。奴らの目的は“記憶”じゃない。記録そのものを、この世界から消すことだ」


奈々が隣で手にしていた端末を強く抱え込んだ。


「……今度は、絶対に消させない」


風が揺れた。黒い車両の影が、森の奥へとゆっくり消えていく。

その背後に、確かに“闇”がいた──静かに、しかし確実に、記録を喰らおうとするものが。


「つまり──玲司の抹消に動いている」

安斎柾貴が低く言った。資料の中の一枚を指差す。それは10年前の倉庫事件で消されたある“少年”の記録を示すものだった。


玲がその資料を覗き込み、目を細めた。


「……玲司が、“Y-009”を知っていた理由。すべて繋がっていくな」


桐野詩乃が補足するように続けた。


「この記録――本来なら、事故処理として処分されたはずの証拠。それが今になって追跡されているってことは、彼は今も“例外”として生きてると見られてる」


奈々が小さく息を呑んだ。


「じゃあ、今動いている“記録除去専門”って……玲司さんの口封じ?」


「口封じってレベルじゃない」

安斎が静かに言う。


「“存在”ごと、もう一度世界から消そうとしてる。記録、記憶、人間ごと──」


玲の目が鋭くなった。


「……なら俺たちが守る。兄さんは、記憶の証人だ。俺と同じように、あの時、未来のために立った人間なんだ」


桐野が手元のスキャナを閉じ、視線を上げる。


「敵が動いた理由、それしか考えられない。玲司が“何か”を掴んだ。だから排除に来た」


玲は頷きながら、一歩前へ出た。


「兄さんが掴んだ“何か”──それは、今の俺たちにとっても脅威の根源だってことだ」


詩乃の目が鋭く光る。


「“例外の記録”は、本来どこにも存在しない。なのにその痕跡を辿れたってことは、玲司が内部の“深層領域”にアクセスした可能性がある。しかも……外部から」


奈々が息を飲んだ。


「外部アクセスなんて、できるわけない……よね?」


安斎が冷静に言葉を継ぐ。


「通常の手段ではな。だが彼が持ってるのは“被験体”としての認証権。十年前に封じられたコード……それが、まだ生きてるなら」


成瀬が小さく呟く。


「……つまり、敵はそれを“恐れている”ってことだ。玲司が思い出した記憶が、世界を覆す鍵になると」


玲は静かに拳を握った。


「兄さんを見つけ出す。そして……今度こそ、すべてを記録に残す」


由宇は黙って車外に目を戻し、しばし呼吸を整えた。


「安斎、妨害信号は?」


「すでに展開済み。奴らの通信は1分後に沈黙する。だがそれまでに接触されたら、玲司は持たない」


「──なら、行くしかないな」

由宇の目が細くなった。


通信機を切ると同時に、彼は黒のカスタム拳銃をホルスターに収め、車外に出た。斜面を滑るように駆け下りる背後に、桐野と安斎も続く。


その瞬間、影班の三人が一斉に“任務”ではなく“意思”で動き始めた。


成瀬由宇は静かに双眼鏡を外し、腰のホルスターに手を添えた。


「了解。目標、再設定。優先保護対象:玲司」


桐野詩乃はマスク越しに息を吐き、手元のスキャナを閉じて立ち上がる。


「記録を消される前に、私たちが残す。“真実の痕跡”を」


安斎柾貴は深くフードをかぶり直し、足元の端末を片手で砕いた。


「対象を奪い返す。その意味を、やっと俺も理解した」


彼らの瞳は、冷たい任務遂行者のそれではなかった。


その先にいる“誰か”を守るため、記録されなかった想いを刻むため、彼らは影から一歩、外へと踏み出す。


――もう、記録の中で生きるだけの存在ではいられなかった。


【時間】午前10時20分

【場所】ロッジ・裏手の非常階段付近


玲司はロッジ裏手の非常扉を開け、わずかな物音に耳を澄ませていた。


──確実に、何者かが迫っている。

それはかつて、彼が“影”の末席にいた頃、任務中に幾度となく感じた“死の空気”だった。


玲司は一瞬、息を止める。

あの頃、肌にまとわりついた“消される側”の気配。

そして今、それが──自分を狙って蠢いている。


「……なるほど。こういう形で来るか」


静かにそう呟くと、玲司は懐から小型の記録端末を取り出し、最後のログを素早く暗号化し始めた。


──これでいい。たとえ“消されても”、記憶は残る。


かつて守れなかった者たちの“記録”。

今度こそ、誰にも渡させはしない。


「……時間がない」


彼は端末と一緒に、スケッチブックを懐にしまい込み、裏手の斜面へ視線を移す。

その瞬間──木々の向こうから、乾いた破裂音が響いた。銃声だ。


「……撃たれた?」


玲司が咄嗟に身を屈めたそのとき、木の影から影のように飛び込んできたのは──成瀬由宇だった。


「玲司、動け! ──敵は3名。半自律型だ。君の記憶、狙われてる」


木の幹に銃弾が食い込み、破片が四散する。

玲司は即座に体勢を立て直し、視線を向けた。


「……暗殺者が、なぜここに……」


由宇はわずかに目を細める。だが返事はなかった。

代わりに、構えた銃口が迷いなく闇を射抜いた。


「質問は後。生き延びたければ、俺に合わせろ」


それだけを告げると、彼は影の中へと姿を溶かす。

玲司は無意識に、その背を追っていた。


──なぜ“影”の仲間たちが今、動いているのか。

疑念は確信へと変わり始めていた。

誰かが、自分を“守ろう”としている──そう、意志によって。


背後から、さらに二つの影が現れた。

安斎柾貴と桐野詩乃。かつての影班の中核が、すでに陣形を組んでいた。


「データ媒体は?」詩乃が冷静に確認する。「記録を直接持ってるの?」


玲司はわずかに頷き、胸元から薄型のICチップを取り出した。

手のひらに乗せると、それはまるで呼吸しているかのように微かに脈打っていた。


「これが“ゼロ記録”の一部だ。完全体じゃない……けど、“あの日”の断片が、ここにある」


詩乃の紫の瞳が鋭く細められる。


「それが敵の目的。……なら、回収と防衛を最優先する」


「安斎、精神波探知を」


「もうやってる」

安斎は周囲の気配に集中したまま、短く応じた。


「波動変位……接近中。……5秒以内に来る。囲まれてるぞ」


「影班、撤収ルート確保」

安斎が短く命じ、次の瞬間にはすでに前方に射線を定めていた。


「玲司、同行を」


玲司はその背を一瞥し、微かに息を吐く。

状況がまだ飲み込めていない──だが、身体は迷わず動く。


「……あんたら、一体……何者なんだ……?」


その問いに、成瀬由宇が木立の奥から振り返る。

灰色の瞳が、一瞬だけ、笑った。


「“影”さ。表に出ない仕事をする、裏側の人間──だが今は、意志で動いてる」


そしてすぐ、前方へ視線を戻す。

その瞬間、空気を切り裂く音──

それは玲だった--------

玲は静かに息を整え、鋭い眼差しで敵の動きを捉えた。

敵が一瞬の隙を見せたその刹那、玲は鋼のような意志を込めて前に踏み出す。


無駄のない動きで距離を詰めると、彼の手は素早く敵の武器を叩き落とし、次の瞬間には相手の喉元へ鋭い掌底を叩き込んだ。


敵は一瞬、痛みに目を見開くも反撃の間もなく膝をつき、そのまま倒れ伏した。


玲は冷静にその場を見渡し、周囲の安全を確かめながら静かに言った。

「これで、道が開けた。先へ進もう」


その声には、確かな決意と揺るぎない覚悟が宿っていた。

玲司は、その姿を見て、言葉を失った。


「……何だ……あいつの動き……」


玲の動きはまるで時間が止まったかのように鮮やかだった。

銃声が森に響くよりも前に、彼の体はすでに敵との距離を詰めていた。


片手で敵の銃口を力強く叩き落とし、その衝撃で武器は地面に飛び散る。

次の瞬間、玲の掌は敵の顎を狙い澄まされ、瞬く間に強烈な掌底が放たれた。


敵は反射的に身構えたものの、その攻撃は寸分の狂いもなく喉元を貫き、苦悶の声すら上げられずに膝を崩した。


玲は呼吸一つ乱さず、鋼のように冷静なまま、無駄のない動作で構えを解いた。

その仕草はまるで、長年の訓練によって染みついた本能のように滑らかで完璧だった。


彼の瞳は静かに次の標的を見据え、動じることなく前へ進む決意を示していた。


玲司はその異様な静けさに飲み込まれ、かすれた声で呟いた。

「嘘だろ……あれが“弟”の戦い方なのか……?」


かつて無邪気だった弟が、今はまるで違う世界の人間のように、冷徹で正確な戦士となっていた。

その姿は彼の心に深い衝撃と複雑な感情を刻み込んだ。


玲司の視線がまだ敵の倒れた地面に釘付けになっている中、詩乃の冷静な声が背後から響く。


「驚くのはまだ早いわ。彼が本気を出すのは──ここからよ」


その言葉に場の空気が一層引き締まった。詩乃の紫色の瞳が鋭く輝き、まるでこれから訪れる嵐を予感させるように静かに告げる。


玲司は再び玲の背中を見つめ、次に何が起こるのかを覚悟し始めていた。


──影は、確かに動いていた。

だが、その動きはもはや命令によるものではない。

“意志”によって動く者たちが、いま、記憶を守るために戦っている。


そして、消去されるはずだった記憶が、いままさに“反撃の記録”へと書き換えられようとしていた。


【時間】午前10時23分

【場所】ロッジ・裏手の斜面──浅い沢に続く獣道


玲はまるで影のように静かに動いた。足音ひとつ立てず、倒れた敵の間をすり抜けるように進む。彼の視線は鋭く、周囲を警戒しながらも、揺るがない決意がその瞳に宿っていた。


その手には、まだ温もりの残る記憶解析用の端末が握られている。そこに保存された記録は、事件の真実を解き明かす鍵となるはずだった。


玲は端末を大切に扱いながら、まるで失われた記憶を取り戻すかのように慎重に歩を進めていく。背後では、詩乃と安斎が緊張感を保ちながら彼を支えていた。空気は張り詰め、これから訪れる真実との対峙を予感させていた。


玲の声は低く、重みを帯びていた。


「……014の記録を狙ってきた連中は、ただの消去班じゃない。奴らは“真実の抹消”を目的とした、選ばれし影の精鋭だ」


彼の目が暗闇の奥を鋭く見据える。


「これは、単なる記録の奪い合いではない。記憶そのものの戦いだ。俺たちが守らなければならないのは、忘れられた真実──そして、未来への証言だ」


斜面を下る風が一瞬止まり、静寂が訪れる。

玲の目が、はるか先に姿を現した黒い人影へと向く。


──そこにいたのは、通信車両で“コードT”を命じた張本人だった。

全身を黒衣に包んだ男。仮面のように感情を持たぬ顔。右手には細身のサプレッサー付き拳銃。


「“玲司”の記録は確かに脅威だ。だが、それ以上に危険なのは……“お前”だ、玲」


玲は微かに眉をひそめ、冷静にその黒衣の男を見据えた。


「俺が……? 危険だと? それならば、貴様は何を恐れているんだ?」


男の瞳が鋭く光り、静かな林間にその声が響いた。


「お前が記憶を繋ぎ、真実を暴くことこそが、俺たちの支配を崩す。だから、排除する──それが、我々の使命だ」


玲は拳を軽く握りしめ、静かに応じた。


「ならば、覚悟を決めるしかないな。真実のために、俺はここにいる」


一瞬、空気が凍りつく。


玲はその場から一歩も動かず、ただ静かに問い返した。


「……どうして、今、俺を消す必要がある?」


男はゆっくりと足を踏み出し、影の中から冷たい視線を向けた。


「お前が繋ごうとしている“記憶”は、俺たちの存在を揺るがす。真実が明るみに出れば、組織は瓦解する。だから消す──消さねばならない」


玲の目が鋭く光る。


「ならば、俺は消される前に、すべてを記録してやる。たとえ命を賭しても」


林間の空気が凍りついたような一瞬。


玲の姿が霧のようにかき消えた瞬間、辺りに静寂が広がる――次の刹那、その沈黙を切り裂くように、三つの黒い影が低空から滑るように突入してきた。


最初に反応したのは、成瀬由宇だった。


「動くな」


その声と同時に銃口が振るわれ、引き金が引かれる。閃光のような銃声。撃ち出された弾丸は、影のひとつの肩口を貫き、鋭く体勢を崩させる。呻き声が漏れ、敵はそのまま膝をついた。


だが、残る二人の反応は異様に早かった。煙のように左右に分かれて反撃に転じようとした、その瞬間。


「遮断弾、起動」


桐野詩乃が投げた小型の球体が、敵の足元に着地。瞬間的に閃光と低い衝撃音が爆ぜる。可視光と高周波ノイズが放たれ、敵の視覚と聴覚を一時的に遮断。戦場の一角が真空のような感覚に包まれる。


その無音空間を切り裂いたのは、安斎柾貴の動きだった。


遮断効果が持続するわずか数秒の間に、彼は迷いなく一人に接近、鋼のような脚で相手の腹部を蹴り上げる。壁に叩きつけられた敵は、うめきも上げられず気を失い崩れ落ちた。


最後の一人――混乱の中で銃を構えかけたその背後に、すでに玲がいた。


「もう動けない」


その声はまるで、死刑執行の宣告のように低く冷たい。


玲の銃口は静かに敵のこめかみに突きつけられ、相手が気づいたときには、既に逃げ場はなかった。反撃の意思すら読み取られるより早く、玲はトリガーを引かずに精神を折る。“排除”とは、必ずしも発砲を意味しない。


敵の表情は一瞬で凍りつき、膝から崩れ落ちる。その場にいたすべての者が悟った――この戦場において、主導権は完全に“こちら”にあると。


成瀬が銃を収め、詩乃が遮断の余波を確認。安斎は最後の敵の脈と意識を確認しながら言った。


「……全員、行動不能。静かに終わったな」


影班の動きには、無駄が一切なかった。まるでそれぞれの呼吸と鼓動が一つの意志に従っていたかのように――まさに“影”のごとく、音もなく任務を遂行した。そしてその中心には、玲という存在が確かに立っていた。


冷たい夜風が静かに戦場を洗い流し、木々のざわめきだけが現場に残された。立ち尽くす影班の面々の耳に、通信機からの抑えた声が響く。


『南東に一体。残りは撤退行動に移行。玲司は保護下に移した。──合流地点を指定してくれ』


玲は一瞬、夜空を見上げた。霧が薄まり、星の輪郭がにじむ。そこに浮かぶのは、記憶と現実が交差する座標。


「座標:E-6、旧観測台跡。そこが“記録”の投影点になる」


彼の声には確信があった。まるで、それが運命に刻まれた答えであるかのように。


「朱音のスケッチブックと、玲司の記憶……二つの“声”が重なる場所だ。そこに、ユウタが遺した“真実”がある」


詩乃が短く頷き、成瀬は銃をホルスターに収めた。安斎は静かに一言。


「ようやく、核心だな」


そして、彼らは再び静寂を切り裂き、闇の中へと歩き出す。記録と記憶、そして“消された過去”に導かれるように。


通信が静かに途切れたあと、玲はふと足を止め、薄闇に沈むロッジの方角を振り返った。そこには、かつて笑い声が交差し、そして沈黙が残された“日常”の残像があった。


──過去と向き合う時間が、ついに訪れようとしている。


彼の瞳は鋭く、だがどこか静かに揺れていた。すべてが始まったあの“十年前”──その真相を知ることは、誰かを救うためでも、罪を暴くためでもなく、“記憶の声”に応えるためだった。


それは、玲だけではない。

朱音の描いた絵が示すもの。

玲司の内側に封じられていた記録。

ユウタが最後に“残した”選択。


すべてが一つに重なろうとしている。


──今、この瞬間、記憶の証人たちは“封印された十年前”と正面から対峙する。


玲は再び前を向き、静かに歩き出す。その背をなぞるように、夜風が木々の枝を鳴らした。


まるで、「記録はまだ終わっていない」と、森そのものが囁いているかのように──。


【時間】午前10時30分

【場所】旧観測台跡・林間の開けた斜面


樹々の間を抜けたその先に、旧観測台跡はひっそりと姿を現した。夜霧に包まれたその場所は、かつて誰かが空を見上げ、何かを記録しようとした静かな記憶の名残を漂わせていた。


コンクリートの基礎は年月に風化され、あちこちに亀裂が走っている。苔に覆われたその表面は、まるで“過去”という名の皮膜に覆われているようだった。風は途絶え、虫の声すら聞こえない。ただ、沈黙だけがこの場を支配していた。


朱音がゆっくりとスケッチブックを開く。その手元から、一筋の光が滲み出るように広がる。


玲はその中央に歩み寄り、深く息を吸った。


「ここだ……記録が交差する場所。ユウタが、最後に『伝えたかった』場所──」


彼の声に、朱音が頷く。

そっと地面にスケッチブックを置いた瞬間、絵の中に描かれた“扉”が、風も音もない闇の中でゆっくりと、開こうとしていた──。


この場こそが、「消された記憶の真相」が姿を現す“投影点”。


かつて何が起こり、誰がそれを封じたのか。

すべてが、今──浮かび上がろうとしていた。


玲の声は、まるで霧の中に刃を走らせたように鋭く、静寂を切り裂いた。


「──排除じゃ、足りない」


その言葉に、仮面の男の眉がわずかに動いた。だが口は開かない。ただ、その背後で控える精鋭たちが、まるで一つの影のように歩調を揃え、静かに布陣を変える。銃口はぶれることなく、玲たちを囲むように円を描く。


「来たか……“記録抹消”の精鋭班」

安斎が低く呟いた。拳をゆっくりと握りしめる。


桐野詩乃は片膝を地につけ、風向きと距離を測るように視線を泳がせる。

「遮断装置……複数持ってる。下手に撃てば反射されるわ。相手は“録音”と“視認”を完全に消すつもりね」


成瀬由宇の銃口が僅かに上がる。

「でも──私たちには、護るべき“記録”がある」


玲はただ前を見つめていた。仮面の男の奥にある、闇のような虚無を。


「……十年前、君たちは間違った。記憶は消せても、“真実”までは殺せない」


その瞬間、仮面の男の右手がわずかに動いた──


だが、玲の足が一歩先に出る。地面を蹴る音が、その場に新たな戦端を告げた。


「この記録は、もう誰にも“消せない”。お前たちにとって不都合でも──俺たちには、未来なんだ」


──沈黙が、爆ぜた。


「“S級モード、展開”」


玲が低く呟いたその瞬間、空気が明確に変わった。


まるで空間そのものが捻じれたかのように、風が逆流し、木々の葉が一斉に逆方向へとざわめく。耳鳴りのような振動が地面を這い、重力が一瞬だけ逆転したかのような錯覚が、全員の平衡感覚を奪っていく。


──それは、視覚すら裏切る現象だった。


一瞬前まで玲が立っていた場所に、彼の姿は“なかった”。


「いない……?」

詩乃がかすれた声で呟く。


「違う、見えないだけだ」

由宇が即座に銃口を右へ振る。

「“空間ズレ”。視線を欺いて、軌道ごとすり抜けてる……!」


記憶抹消班の一人が、気配に反応して背後へと振り向く──その頸動脈に、玲の手刀が一瞬だけ閃いた。

無音。

敵は音も立てず崩れ落ち、仮面が地面を転がる。


──それでも誰も、玲の“姿”を確認できない。


「どうなってる……動きが視覚に入らない……」

安斎が眉をひそめる。

「認知ブラインドか……あいつ、“完全遮断フィールド”に入ってる」


そして次の瞬間。

銃声が、ひとつ。


だが音よりも早く、敵の一人が膝から崩れ落ちる。

撃ったのは、玲だった。

だが誰も、どこから放たれたのかすら見えていない。


仮面の男がゆっくりと顔を上げた。

「……なるほど。これが、“S級処理対象”の戦闘値か」


そして、玲の声だけが、どこからともなく響く。

「抹消されるべきだったのは、俺の“記憶”じゃない。

……お前たちの“存在”そのものだ」


──戦場は、玲を中心にして完全に掌握されていた。

まるで“未来の記録”そのものが、今この場に先行して再生されているかのように。


一陣の風が駆け抜け、遅れて“音”が追いついた。


その“音”は、破壊の記録だった。


──最初の敵の首が、奇妙な角度で折れた。

まるで時間軸がねじれたかのように、動きよりも先に結果が現れる。

誰も気づかなかった。玲がそこにいたことにすら。


──次の一人が声を上げようとするその瞬間、玲の肘がその喉元を砕いた。

呼吸も、言葉も、音も──すべてを奪い、無音のままその身体を崩れ落とす。


──三人目の銃声は鳴らず、引き金より先に腕が破壊された。

人間の反応速度をあざ笑うかのように、関節が不自然な方向へ折れ、武器は宙を舞った。


すべてが、数秒のうちに終わった。

秒数すら、体感では存在しないような無音の一連動作。


そこにあったのは、“技術”ではなく、“処理”。


玲の瞳には、迷いも情けもなかった。

怒りもなければ、誇りもない。ただそこにあるのは──「目的」のみ。

ひとつの記録を守るために、無価値と定めた対象を“無”へと還すという決定的な意思。


その姿に、成瀬由宇ですら息を呑んだ。

桐野詩乃はほんのわずか、手の中の刃に力を込めた。

安斎柾貴は、視線を逸らさずにいた──敵か味方か、判別できなくなるその一線を、玲が超えていくのを確かに見ていたから。


──それが、“S級”の本質だった。


破壊の速度ではなく。

消去の冷酷さでもなく。


「生存を許す価値の選別を、自らに許可した者」

それが、この世界における最も危険な存在の定義だった。


玲司はただその場に立ち尽くした。

風も音も、遠ざかっていくようだった。

まるで、自分だけが時間から置き去りにされたかのように。


息が、喉に詰まる。

指先が、かすかに震える。

目の前にあったのは──自分が「弟」と呼んできた人物の、知らなかった姿。


「……いまの……何を……した……?」


かすれた声が零れた。問いというより、吐息に近い。


玲は振り向かない。

敵を排除した位置から一歩も動かず、足元の血を踏むことさえ避けるように、静かに立ち尽くしていた。


しばらくの沈黙のあと、彼の声が背を向けたまま響く。


「……“記録の保全”だ。──君が、十年前に奪われた時間を、取り戻すための。」


その声には、怒りも感情もない。

だが──たしかに、痛みのようなものだけが、静かに染み込んでいた。


詩乃が、わずかに眉をひそめながら、虚空に漂うスクリーンの残滓を見つめる。

その紫の瞳は、まるで空気中に焼きついた“存在の痕跡”をなぞるかのように、細かく動いていた。


「……完全な“抹消”。記憶ごと、存在ごと、無にする……」


彼女の言葉に、空気がひとつ緊張する。


「玲の能力は、本来“記録を守るため”のもの。

でも──逆も、できる。守るために、壊すことも」


その声は静かだった。

けれど、芯のある強い響きを帯びていた。

ただの観察ではない。

それは、かつて誰よりも近くで“あの力”を見た者の実感だった。


玲司がかすかに唇を動かす。

「……記録を……“壊す”?」


詩乃は頷く。

「彼が触れた“記録”は、必要とあらば──存在ごと、帳消しにできる。あの男たちも……最初から“なかったこと”にされた」


玲の背中が、静かに風の中に溶け込む。

それは、守るために選ばれた、最も孤独な戦い方だった。


傍らに立つ安斎柾貴が、ゆっくりと目を伏せ、深く頷いた。

その表情には、わずかな哀しみと理解が滲んでいた。


「記録の守護者は、必要とあらば記録を消すこともできる。

それが……玲の“S級モード”の本質だ」


彼の声は低く、しかし確信に満ちていた。


「彼は、記録を守る者であると同時に……“抹消者”でもある。

矛盾しているように見えるが、それがこの役目の真理なんだ。

“残すべきもの”と、“消すべきもの”──玲は、その選別を自分の意志で担う存在なんだよ」


言葉の端ににじむのは、仲間としての誇りと、どうしようもない重さへの共感。


玲司がふと視線を落とす。

「それって……人間にできることなのか?」


安斎は静かに目を閉じた。

「人間じゃないと……できないんだよ」


──だからこそ、玲は選ばれた。

人でありながら、記録の境界を超える存在として。

そして、ただの“能力”ではない、“覚悟”としてそれを受け入れている。


玲はゆっくりと朱音の方へ歩み寄り、彼女の肩をそっと抱き寄せた。

その腕には、戦場で見せた鋭さも、記録を抹消した冷徹さもなかった。

ただ、ひとりの人間としての、あたたかさだけがあった。


朱音の小さな呟きを、彼は確かに受け止める。


「……玲は、もう“ただの探偵”じゃないんだね」


その言葉に、玲は一瞬だけ微笑み、朱音の額に手を添えて静かに言った。


「そうかもしれないな……でも、君たちを守りたいっていう気持ちは、最初から変わらないよ。

たとえ、どんな役割を背負っても──僕は、君の味方だ」


朱音の瞳が少し潤んだ。

その胸の中で、言葉にできない安心が、そっと灯をともしたようだった。


そして玲はもう一度、優しく彼女の肩を抱きしめた。

記録の守護者としてでもなく、抹消者としてでもなく──ただ、玲として。


静寂が、旧観測台跡を包み込む。


玲の声は風の音よりも静かで、それでいて誰よりも確かだった。


「必要だっただけだよ。君を護るには」


その言葉には、悲しみも、怒りも、誇りさえもなかった。

ただ、“選び取った覚悟”だけがそこにあった。

玲司は、言葉を失ったままその背中を見つめる。

少年の頃、一緒に並んで歩いたあの日の弟の姿は、もうどこにもなかった。


だが同時に、目の前のその背に──

すべてを捧げて、誰かの記憶を守るために戦う「玲」という存在が、

確かに、そこにいた。


朱音が玲司の手をそっと握る。

彼女のスケッチブックが、小さく鳴った風に揺れている。

それはまるで、「この記録は、まだ終わっていない」と囁いているかのようだった。


──その瞬間、空間が反転したような錯覚が走った。


暗殺者たちは連携して動いた。煙幕、遮蔽、フルスペクトラム妨害、完全な包囲線と殲滅態勢──本来なら、一切の逃走も攻撃も不可能な「封殺領域」。


だが、玲はそこに“いなかった”。


否、“すでに全ての動きを先読みし、その領域ごと乗っ取っていた”。


最初の死は、静かだった。

煙の外縁で待機していた一人が、違和感すら覚える暇もなく、喉元に微かな冷気を感じ──そのまま、音もなく倒れた。


次いで、もう一人。

情報共有のための通信すら成立しないまま、射線を取ろうと姿勢を変えた瞬間──背後から“圧”が突き抜け、思考が途切れる。


「──視えない、感知も不能……」


残された者の声は震え、逃走手段へと賭けた。

煙幕を強化展開、サイキック・ブラインド、知覚融合妨害を重ねた完全遮断フィールドが空間を封じる。


そこはもう、“誰も侵入できない領域”のはずだった。


だが──


〈記録領域、掌握〉


通信が割り込む。

その瞬間、遮断フィールドの中心が、静かに割れた。


そこに、玲がいた。


光も音もなく。

ただ立っていた。

まるで「最初からそこにいた」とでも言うように。


「“帳消し”を望むなら、せめて記録を残せ」


玲の言葉は、遮断された知覚の中ですら響いた。

言語ではなく、存在そのものが敵に“意味”として叩き込んだ。


──そして、最後の者が音もなく倒れた。

否、「倒れた」という言葉さえ正確ではない。


彼の身体は霧のように薄れ、崩壊した。

そこに“いた”という情報そのものが、空間から消えた。


〈記録不整合:対象ID不明〉

〈追跡不能:存在認識対象なし〉


記録も、認識も、記憶も──一切が失われた。

“死”という概念では測れない、完全なる「抹消」。


玲の声が、残響のように空間に響いた。


「存在の余白は、ここで終わる」


そして──最後の敵の胸を、目に見えぬ“何か”が貫いた。

瞬間、空気が震え、空間にわずかな歪みが走る。


誰も彼の名前を思い出せない。

誰も、彼の顔を覚えていない。

そこに“誰かがいた”という記憶すら、霧散している。


──魂ごと、記録ごと、存在は消え去った。


旧観測台跡に残ったのは、風の音だけだった。

そして、その中央に立つ玲の影──

記録の守護者にして、抹消者。

ただ一人、全てを知り、すべてを背負う者。


やがて風が止み、時間そのものが止まったような沈黙が広がった。


成瀬由宇は、双眼鏡を胸元に戻し、わずかに口角を上げた。


「ほんと……“あの日”とは比べもんにならないな。玲、あの時よりずっと遠くに行ってる」


木々のざわめきすら凍ったような気配の中、彼の声は自分だけに向けた独白のように消えていく。


その視線の先には、誰もいなかった。


ただ、痕跡も熱も、記憶さえも残さず消えた“空白”だけが、淡く揺れていた。


そして──


由宇は肩をすくめ、小さく吐息を漏らした。


「……まったく。あんなのが“味方”でよかったよ」


そう言いながら、彼は踵を返し、樹々の奥へと歩き出した。


その背後に残ったのは、ただ風に揺れる葉音と──

“消されたはずの”出来事の、わずかな余韻だけだった。


玲の指先が敵の胸元に触れた瞬間、空間が微かに震えた。

その触れた場所からゆっくりと淡い光が滲み出し、敵の身体を包み込むように広がっていく。


「君の記憶は、もうどこにも届かない──」

玲の声は低く、柔らかく、しかし揺るぎない慈愛を湛えていた。


その言葉とともに、白い閃光が瞬く間に空間を断ち切った。

眩い光は敵の肉体と精神を一度に浄化し、過去の傷跡や憎しみさえも消し去っていく。

もはや痕跡も、記録も、存在の影さえも残らなかった。


しかし玲の手には、温かく、閉じられたままの“記憶の気配”が、かすかに残っていた。

それはまるで、消え去った魂の断片がひっそりと守られているかのような感触だった。


影班の誰もが息を呑み、声を発することができなかった。

この行為は単なる“抹消”とは違う。そこに込められていたのは──

記憶と存在の穢れを清める、“浄化”の儀式だったのだ。


「玲……それは……」

桐野詩乃がようやく口を開くが、玲は静かに首を振った。


「奪うのではない。守るためのものだ」

その瞳には、失われた過去への深い哀惜と、未来への静かな決意が映っていた。


「消すのではなく、解き放つ。痛みと呪縛から──」


その言葉が風に溶けるように消え、旧観測台跡には再び深い静寂が戻った。

ただ一つ確かなのは──玲の浄化が、誰も辿れない新たな境地を開いたことだった。


玲司の震える手をそっと握り締めながら、その瞳は敬意と驚きを湛えていた。


「……玲……お前は……」


言葉は続かなかった。胸の奥に込み上げる複雑な感情が、それ以上の言葉を許さなかったのだ。


玲は静かに目を閉じ、深く息をついた。


「……俺たちは、これからも──お前と共に進む」


その言葉は約束であり、決意の宣言だった。


影班の三人、成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴も静かに頷く。


風がそよぎ、木々の葉を揺らす。


その風は、ただの自然の音ではなかった。


それは──死すら越え、存在すらなかったことの証明を運ぶ、静かな追憶の風だった。


玲はゆっくりと膝をつき、深く息を吐いた。


その瞬間、影班の三人が躊躇なく駆け寄り、玲の両肩をしっかりと支えた。


成瀬の低く落ち着いた声が辺りに響く。


「無理するな、玲。今は……休め」


玲は重いまぶたを上げ、短くうなずいた。


「……これからもっと厳しい戦いが待っている。だとしても……俺たちは、守る。必ず」


その決意の言葉は、まるで薄霧に溶けるように、静かに、しかし確かにこの場に残った。


夜風がそっと吹き抜け、三人の影をゆらりと揺らした。


【時間】午前10時45分

【場所】旧観測台跡・林間の開けた斜面


玲は影班の三人に支えられながら、ゆっくりと立ち上がった。彼の体はまだ重く、だが確かな意志がその動きを支えていた。


「玲、大丈夫か?」

成瀬由宇の声が低く、しかし確かな温かみを帯びて響く。


玲はわずかに笑みを浮かべ、短くうなずく。

「問題ない……いや、少しだけ限界だ」

浅く息を吐きながら、彼は表情を引き締め、視線をまっすぐ前に向けた。


その瞳には、これから訪れる困難をも見据えた覚悟が宿っていた。


──その時だった。


林の奥から、かすかな物音が聞こえた。

朱音がぴくりと肩を震わせ、反射的にそちらを振り向く。


「……誰か来る?」


彼女の呟きに、その場の空気が一瞬で凍りついた。


玲もすぐに身を固め、周囲を見渡した。木々の間から、不意に影が揺れ動く。


成瀬が素早く銃を構え、静かに囁く。

「気を抜くな、何者かが接近している」


詩乃は紫の瞳を鋭く光らせ、暗闇の中に目を凝らす。

安斎も緊張の面持ちで周囲を警戒した。


朱音は震える声で、でも決して逃げることなく言った。

「ここで……また、何かが始まるの?」


玲はゆっくりと彼女に近づき、優しく肩に手を置いた。

「大丈夫だ、朱音。俺たちがいる。必ず守る」


風がざわめき、林の静寂が再び切り裂かれようとしていた。


影班が即座に動く。無駄な動作一つなく、静かに警戒の布陣を組んだ。

玲も姿勢を正し、鋭い眼差しで林の奥へ視線を走らせる。


──気配がある。確かに、誰かがこちらへ向かっている。


息をのむような沈黙の中、風がわずかに枝葉を揺らした。


その先に現れるのは、敵か、味方か──


静寂が、ゆっくりと崩れようとしていた。


木々の影から姿を現したのは、K部門の調査員たちだった。

迷彩に身を包み、無線で連携をとりつつ慎重に距離を詰めてくる彼らの顔には、緊張と決意が滲んでいる。


玲はほっと息をつき、微かに肩の力を抜いた。

「K部門……ここに来るとは、よほどの事態だな」


成瀬由宇が鋭く周囲を警戒しつつも、軽く頷く。

「敵の包囲網を突破してきたってことは、手がかりは確実にあるはずだ」


調査員のリーダー格がゆっくりと前に進み出て、低い声で告げた。

「現場での調査で、事故では済まされない証拠が複数見つかりました。隠蔽されていた記録の改ざんも判明しています」


玲は朱音の方に視線を向け、彼女の握るスケッチブックを思い出した。

「これからが、本当の戦いだ……」


静かな森の中、緊張感が一層増していく。

風が再び樹々を揺らし、遠くでかすかに鳥の声が響いた。

それはまるで、今後の戦局を見守るかのように。


空気が、張り詰めた。


一人の調査員が前に出ると、手早く身分識別信号を表示し、敬意を込めて一礼する。


「玲さん、現場報告です。──事故の可能性は排除されました」


その一言に、朱音の肩がぴくりと震える。


玲は静かにうなずき、眉間に深い影を落とした。


「……事故ではない、ということか」


調査員は頷き、続けた。


「はい。物理的な証拠と、複数の証言の矛盾から、これは計画的な殺人事件であると断定されました。さらに、証拠の改ざんや隠蔽工作も確認されています。」


朱音は手に握りしめていたスケッチブックをぎゅっと抱きしめ、小さく息を吐いた。


成瀬由宇が鋭い目つきで調査員を見つめ、


「それで、どこから手がかりを掴めそうなんだ?」


リーダー格の調査員は地図を広げ、ポイントを指差しながら説明を始めた。


「まずは現場の監視カメラ映像の解析です。そこに不審な動きが記録されている。加えて、近隣の目撃情報の整理も進めています。」


玲は深く息を吸い込み、決意を固めるように言った。


「全員、集中だ。何があっても、真実を掴み取る──それが俺たちの使命だ。」


「想定通りだ。だが──ここからが本番だな」


その言葉に、影班の成瀬由宇が小さくうなずき、周囲を警戒しながら口を開いた。


「動きがある。情報が漏れたか、あるいは……」


その瞬間、木々のさらに奥で枝葉が揺れ、わずかに足音が響いた。


玲の目が鋭く光った。


「敵かもしれない。全員、警戒を最大限に──」


影班の三人が一斉に動き、迅速に身を隠すと同時に射線を確保した。


朱音は玲の後ろに身を潜めながらも、スケッチブックをしっかりと抱きしめる。


足音は徐々に近づき、林の奥から黒衣の男が現れた。


「……やはり来たか」


玲は低く呟き、静かに拳を握り締めた。


玲はゆっくりと息をつき、目を閉じて深く考え込むように沈黙した。


「……一時的な影響か……ならば、まだ隙は残されているということか」


彼の声は静かだが、その奥底には鋭い決意が宿っていた。


「だが、今回の一件で我々の連携がどれほど重要か、改めて思い知らされたな」


成瀬が頷きながら、警戒を解かずに言葉を継いだ。


「敵もあの手この手で揺さぶりをかけてくるだろう。俺たちの任務はこれからが本番だ」


朱音はスケッチブックを抱きしめたまま、玲に向かって小さく呟く。


「玲さん、私も守りたい……ずっと一緒に」


玲は優しく微笑み、朱音の頭をそっと撫でながら答えた。


「もちろんだ。君も、みんなも、絶対に守る」


静かな決意が、彼らの間に新たな絆を生んだ瞬間だった。


朱音がぽつりと呟いた。


「……玲お兄ちゃんの“スケッチ”があったから──みんな助かったんだよね」


玲は、そっと朱音の肩に手を置く。

その掌は、かすかに震えていたが──温かかった。


「──ああ。君の描いた“記憶”が、みんなを繋いでくれた。

君の直感が、誰よりも早く真実を見つけていたんだ」


朱音は小さく目を伏せ、けれど誇らしげに微笑んだ。

その頬には、涙のような朝露がひとすじ、静かに光っていた。


詩乃がその様子を見つめながら、ぽつりと呟いた。


「……この子の感性は、きっと“記録”を超える」


その言葉に、安斎も深く頷いた。


「理屈ではたどり着けない領域がある。彼女は、そこに触れた」


玲は朱音の肩に置いた手をわずかに強くしながら、静かに言葉を紡いだ。


「──記憶は記録に残らない時もある。でも、心が覚えてる。君の絵は、その証だよ、朱音」


朱音は涙をぬぐいながら、少しだけ背筋を伸ばす。


「うん……私、もっと描く。玲お兄ちゃんのために。みんなのために」


玲は目を細めて頷いた。


「……それが、きっと未来を変える」


風が木々を優しく揺らす。

その音はまるで、静かに讃えるようだった──朱音という、もう一人の“記憶の証人”の目覚めを。


「これからは……俺たちだけじゃない。

記録を護る者、証人、そして現場を記す者たちが、一本の線で繋がっていく」


誰もがその言葉に耳を傾けた。玲の声には、迷いのない強さがあった。


「記録を消すことは──許されない。

存在を“なかったこと”にするなんて、決して、あってはならない。

……それが、これからの俺たちの戦いだ」


少しの沈黙のあと、安斎が腕を組んだまま口を開いた。


「玲の力は強大だが……その分、負荷も大きい。

無理をすれば、敵に隙を与えることになる。……俺たちが、必ず支える」


その言葉が空気を凍りつかせる。

背後に重く張りつめた緊張感が広がり、詩乃はゆっくりと頷いた。

紫の瞳が鋭く光を放ち、視線が冷たく周囲を走る。


彼女の声は、まるで研ぎ澄まされた刃のように冷たく、確かな意志を宿していた。


「すべてを闇に還される前に……

私たちが、“記録”を刻まなければ」


木々のざわめきが、まるで次なる覚悟を呼び起こすかのように、静かに揺れていた。


「まずは──この場所の安全確保と、証拠の保全が最優先。

敵は、まだどこかに潜んでいる可能性が高い」


彼女の声は、まるで冷たい刃のように研ぎ澄まされていた。


「すべてを闇に還される前に……私たちが、“記録”を刻まなければ」


木々のざわめきが、次なる覚悟を呼び起こすように、静かに揺れていた。


成瀬由宇が静かに息を吐き、腰のナイフを軽く握り直した。


「……なら、やることは決まってるな」


彼の声は平静だったが、全身からは覚悟と緊張がにじみ出ていた。


「詩乃、安斎──各区域の封鎖と再調査を。逃走経路と痕跡の再解析も頼む」


玲の指示に、二人は即座に動く。

それはもう、言葉を交わす必要もないほどに、信頼と共闘の時間が積み重ねられていた。


朱音はその様子を見つめながら、小さく唇を噛んだ。


「……私にも、できることあるよね?」


玲は一瞬だけ目を細め、そして穏やかに頷いた。


「ああ、君の“視えるもの”を描いてくれ。それが、俺たちを導く鍵になる」


朱音は深くうなずき、スケッチブックを胸に抱きしめた。


──その場には、静けさの中に確かな決意があった。


「存在を記す者、記録を守る者、記憶に寄り添う者──そして、闇から引き戻す者」


玲の言葉が風に溶けていく。


「この戦いは、“記録”のための戦いだ。過去も、今も、未来も……決して、失わせはしない」


木々の影に、朝日が差し込み始める。

新たな一日が、静かに──けれど確かに始まろうとしていた。


詩乃はスキャナをしまいながら、短く呟いた。

その声は、普段の冷静さの裏に秘めた覚悟と、わずかな揺らぎを含んでいた。


「“影”であることに変わりはない。

でも今は、人知れず消すためじゃない──

人知れず、護るため」


彼女の紫の瞳が、静かに闇を見据えた。


安斎の言葉は重く響き、静かな決意が部屋の空気を支配した。


彼の青い瞳は揺るがぬ覚悟を映し出し、言葉の一つ一つに確かな重みがあった。


「抹消された記憶も……見届けた者がいれば、それは“真実”として残る」


その言葉が胸の奥に深く刻まれ、皆の心に静かな炎を灯した。


成瀬由宇の冷静な笑みに、かすかな緊張と期待が入り混じる。


「……始まったな。“本当の記録戦”が」


彼の言葉は静かな合図のように響き、これから始まる新たな戦いの幕開けを告げていた。


玲はその言葉のすべてを、黙って受け止めていた。

目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をひとつ。

まるで心に刻まれる“誓い”のように。


「──そうだ。これは、“記録戦争”だ」


彼の声は穏やかだったが、確かな意志を孕んでいた。


「偽りの記憶が上書きされ、真実が都合よく消されていく世界なら……

俺たちが、それに抗う唯一の“証人”になる」


沈黙の中、朱音がスケッチブックを強く抱きしめた。

その表紙には、まだ描かれていない未来の一頁が、静かに待っていた。


成瀬が短く笑い、刀の柄に手を添える。


「俺たちは影だ。だが──光を背にした“影”になら、なれる気がする」


詩乃はそっと目を伏せ、安斎は静かにうなずく。

誰もが、覚悟を固めていた。


──これは、記録を巡る戦い。

消された真実を繋ぎ直し、記憶という証を未来へ託すための、静かな革命。


風が再び木々を揺らし、朝の光がその場を照らす。

闇に埋もれた記録の断片が、いま──確かに、ひとつの物語へと結ばれてゆく。


玲はその声にゆっくりと頷いた。

そして、朱音の手元にあるスケッチブックへと視線を落とす。


「──ああ。ユウタは“記憶の証人”だ。

誰も気づかなかったことを、誰よりも早く感じ取って、

記録される前の“記憶の声”を聴くことができる」


その言葉に、朱音は目を見開いた。

ページの中に描かれた、まだ色も輪郭も曖昧な少年の影──それが、ユウタの“痕跡”なのだと気づく。


玲は続けた。


「彼は今も、どこかで記憶の断片と向き合いながら、誰かの真実を守ってる。

それがたとえ、自分の存在が記録に残らないとしても──」


朱音はそっとスケッチブックを胸に抱きしめた。

彼女の頬に、光の粒のような涙が一筋、静かに伝う。


「……ありがとう、ユウタお兄ちゃん。わたし、ちゃんと覚えてるからね」


玲もまた、目を伏せたまま静かに頷いた。

その背後では、影班の三人もそれぞれの想いを胸に、記憶の“痕跡”に敬意を込めて立っていた。


──消された記憶は、誰かが覚えていれば、決して消えない。

たとえそれが影の中の存在でも。


玲はその言葉に優しく頷き、朱音の頭を軽く撫でた。


「そうだ。ユウタの記憶も、俺たちの“証人”の一つだ。どんなに消されそうになっても、忘れられないように――俺たちが繋いでいくんだ」


──そして、その光と影の狭間に浮かぶ小さな希望。

それは朱音のスケッチの中に、静かに描かれ始めていた。


かつて失われた記憶。

消されたはずの記録。

封じられた真実。


すべてが、今ここに、新たな「証」として線を結びはじめる。


玲は振り返らない。

ただ、前を見つめる。

その先に何が待っていようと、仲間と共に“記録”を選び取るために。


──記録とは、過去ではない。

未来を護るために刻む、“意志”なのだ。


風が吹いた。

森の奥、誰も知らない道がひっそりと開かれていく。


静かに、確かに──


【時間】午前11時05分

【場所】旧観測台跡・斜面上部の岩場


玲はゆっくりと空を見上げ、その瞳に決意と覚悟を灯す。


その瞬間、林間の空気がほんのわずかに震え、微かな異変を感じ取った。


「何かが動いている……」玲が低く呟くと、影班の三人がすぐさま周囲に目を光らせる。


静寂を切り裂くように、遠くからかすかな足音が近づいてくる——


新たな緊張の波が、一行を包み込んだ。


足音は、確かに“こちら”を目指していた。

迷いも、警戒もない。だが、その歩調には不自然な規則性がある。


詩乃が素早く背後に下がりながら囁く。

「機械的……まさか、“人”じゃない可能性もある」


安斎がわずかに表情を曇らせる。

「このタイミングでの接触……意図的だな。迎撃準備を」


だが、玲は右手を軽く上げて制止した。


「まだだ……あれは、敵意ではない」


そう告げた玲の目が細められる。

林の影から、ゆっくりと姿を現したのは──


一人の少年だった。

風に揺れる髪。どこか現実感を欠いた佇まい。

そして、彼の目は──玲とまっすぐに交わる。


「……ユウタ……?」


朱音が思わず声を漏らす。


玲の口元に、ごくわずかな緊張と驚きが走る。


だが──それは、確かに。

あの“記憶の証人”、川崎ユウタだった。


変わらぬ瞳。だが、その奥に宿る何かが、以前とは違っていた。

まるで──記憶そのものが、人の姿をとって歩いてきたかのように。


玲は朱音のスケッチを覗き込み、目を細めた。そこには形にならないはずの存在が、確かに「気配」として描かれていた。言葉では説明できない、だが否定もできない──それは、記録にも記憶にも残らない「痕跡」だった。


「……これは、“証拠”だ」

玲が静かに呟くと、影班の三人もそれぞれの視線を朱音の描いた絵に向ける。


成瀬が眉をわずかに寄せた。

「人の意識に干渉する“残響”……記録の奥に潜む、未処理の情報断片かもしれない」


詩乃がスケッチを冷静に見つめながら、言葉を添える。

「もしこれが実在の痕跡なら、“消された存在”が何かを伝えようとしている」


安斎は腕を組み、やや低い声で続けた。

「だがこの反応……単なる未練や幻視ではない。何か“構造的な歪み”が発生してる可能性もある」


玲は頷き、朱音の肩に手を置く。

「君の絵が、また真実の入口を開いた。これは、君にしか見えなかったものだ」


朱音は少しだけ恥ずかしそうに笑いながらも、視線をスケッチから逸らさなかった。

「だって……ユウタお兄ちゃん、さっき一瞬だけ、その“何か”に反応してた。……気づいたよね?」


玲はその言葉に目を伏せ、そして静かにユウタを見つめ返した。

その少年──いや、“証人”の中で、何かが目覚めようとしている。

過去に消された「もう一つの真実」が、今まさに輪郭を取り戻そうとしていた。


玲は朱音の絵をじっと見つめ、静かに頷いた。


「君の直感は、いつも鋭い。形にならない“影”でも、存在を感じ取れる。俺たちが見逃してはいけないものだ」


ユウタが一歩、朱音のスケッチへと近づいた。

その視線は、かすかに揺れていた。まるで、彼の中に眠る“何か”が、この絵に呼応しているかのように。


「……この感覚、確かに……知ってる。いや……覚えている、ような気がする」


彼の声はかすかに震えていたが、目は離さずにいた。スケッチに描かれた曖昧な存在、それは彼の深層に封じられた“記憶”の断片を揺り動かしていた。


玲が静かに問いかける。

「ユウタ、何が見える? そこに、誰かいるのか?」


ユウタは目を細め、絵の中にじっと意識を沈めた。


「……声がする。“置いていかれた”って。……名前は、ない。でも……確かに、あの時、そこにいた」


朱音が小さく息をのむ。

玲はユウタの言葉を受け止め、すぐに影班へ目配せを送った。


「詩乃、スケッチの周囲を再スキャン。残留情報の特定と記録補完を急いでくれ」


詩乃は頷き、すぐに携帯端末を取り出す。


安斎が静かに呟いた。

「……もう一人、いたのか。記録に残されず、記憶にも引っかからなかった“存在”が」


朱音はスケッチブックを抱きしめるように胸に押し当てた。


「その人……まだ、助けを待ってる気がする」


玲は、そっと朱音の頭に手を置きながら言った。


「なら、見つけよう。その人を、“忘れられた者”にしないために」


森の奥で吹いた一陣の風が、彼らの足元をかすめる。

それは、記録の奥底に沈んだ真実が、再び地上へと顔を出そうとしている──静かな合図だった。


玲は深く頷き、朱音の背にそっと手を添えた。

その手には、誰にも踏み込めない“闇”に挑む覚悟と、朱音の感性への確かな信頼が込められていた。


「……朱音、お前は“証明者”だ。目に見えない真実を、誰よりも早く掴み取る。その力を、信じていい」


朱音は少し驚いたように玲を見上げ、すぐに小さく頷いた。

その頬に、決意がひとすじ刻まれていた。


詩乃はスキャナの画面を見ながら、さらに付け加える。


「朱音のスケッチは、通常の残留痕跡よりも正確。視覚化できない精神波動や干渉履歴まで、色と線で“描き起こしている”可能性がある」


安斎が腕を組んだまま言う。


「感性による補完が理論を超える──

……だからこそ、脅威でもある。敵も、その“力”に気づいている可能性が高い」


成瀬由宇が淡々と、しかし確かな意志を込めて言葉を継いだ。


「朱音の護衛を強化する。単なる対象じゃない。……これは、戦力だ」


玲は一歩前へ出て、全員を見回した。


「ここから先は、情報戦と記憶戦が交錯する。

記録の歪みが最大化する前に、“見えない存在”を掴み取らなければならない」


そして最後に、朱音の方へ再び視線を向ける。


「……お前の目が、俺たちに“正しい足跡”を教えてくれる。頼りにしてる」


朱音は緊張に小さく肩をすくめたが、そっと色鉛筆を握りしめ、はっきりと頷いた。


「うん。描くよ……ぜったい、見つける」


その声に、誰もが背筋を正した。

闇に沈んだ真実へ──今、再び“色”が灯されようとしていた。


玲は玲は深く頷き、朱音の背にそっと手を添えた。

その手には、誰にも踏み込めない“闇”に挑む覚悟と、朱音の感性への確かな信頼が込められていた。


「……朱音、お前は“証明者”だ。目に見えない真実を、誰よりも早く掴み取る。その力を、信じていい」


朱音は少し驚いたように玲を見上げ、すぐに小さく頷いた。

その頬に、決意がひとすじ刻まれていた。


詩乃はスキャナの画面を見ながら、さらに付け加える。


「朱音のスケッチは、通常の残留痕跡よりも正確。視覚化できない精神波動や干渉履歴まで、色と線で“描き起こしている”可能性がある」


安斎が腕を組んだまま言う。


「感性による補完が理論を超える──

……だからこそ、脅威でもある。敵も、その“力”に気づいている可能性が高い」


成瀬由宇が淡々と、しかし確かな意志を込めて言葉を継いだ。


「朱音の護衛を強化する。単なる対象じゃない。……これは、戦力だ」


玲は一歩前へ出て、全員を見回した。


「ここから先は、情報戦と記憶戦が交錯する。

記録の歪みが最大化する前に、“見えない存在”を掴み取らなければならない」


そして最後に、朱音の方へ再び視線を向ける。


「……お前の目が、俺たちに“正しい足跡”を教えてくれる。頼りにしてる」


朱音は緊張に小さく肩をすくめたが、そっと色鉛筆を握りしめ、はっきりと頷いた。


「うん。描くよ……ぜったい、見つける」


その声に、誰もが背筋を正した。

闇に沈んだ真実へ──今、再び“色”が灯されようとしていた。


玲は絵に近づき、指先で紙をなぞるようにして、その「影の人物」の輪郭に目を凝らした。


「この場所……記憶の封印域と似ている。けれど、違和感がある。何かを“隠すため”に設計されている……そんな気がする」


朱音は小さく頷きながら、色鉛筆を握り直した。


「ユウタくんがそこにいたのは──たぶん、そこが“始まり”なんだよ。彼の記憶が……全部、変わった場所」


詩乃が目を細め、絵の構造を分析し始めた。


「これは……封鎖された実験区画か。通気口もなく、音も光も遮断されている構造。記録の抹消ではなく、記憶の“隔離”が目的」


安斎が重い声で言葉を続ける。


「存在を残したまま、記憶だけを切り離す……そんな真似、普通の心理操作では無理だ。ユウタの笑顔が“寂しそう”だったのも、その影響かもしれん」


玲は目を伏せ、低く言った。


「つまり……その“地下室”が、ユウタの記憶の起点。そして、俺たちがまだ知らない、最も重要な“証拠”が封じられている場所だ」


沈黙の中、朱音が絵の隅に、そっとひと筆を加えた。淡い青で描かれたのは、地下室の壁に刻まれた、見慣れない“記号”。


「これ……気づいたら、見えてたの。意味はわからないけど……たぶん、カギになる」


玲の目が鋭くなった。


「記録専門班に回して解析する。だが……俺たちは先に進まなきゃいけない。

──“ユウタがいた扉”を、開けに行くぞ」


影班の3人が即座にうなずき、静かに動き出した。


その先に待つのは、記憶の奥底に沈んだ、封じられた“真実”。

そして、まだ見ぬもう一人の「記憶の証人」かもしれない。


朱音はスケッチブックをそっと抱きしめ、微かに呟いた。


「ユウタくん……今度は、わたしたちが君の記憶を守るからね」


詩乃がわずかに目を伏せたまま、静かに言葉を継ぐ。


「……その笑みが、“諦め”だったのか、“決意”だったのか……今はまだ判断できないわ」


安斎も腕を組んだまま、重く呟いた。


「記憶を隔離され、なお笑えるなら──そこには、何かを“守ろうとした意志”がある。ユウタが自らそこに残ったのだとしたら……それは、彼なりの戦いだったんだろう」


玲は小さく息を吸い込み、空を見上げた。


「……俺は、ユウタに“置いていかれた”気がしていた。けれど違ったんだな。あいつは、“先に行っていた”んだ。記録も、記憶も、すべてを引き受けて──」


朱音がそっと玲の袖を握った。


「ユウタお兄ちゃんは、今もきっと、待ってる。みんなが“たどり着く”のを──あの扉の向こうで」


玲は微かに頷き、朱音の手にそっと自分の手を重ねた。


「なら──俺たちも、あの扉に手をかける時だ。ユウタの“笑み”の意味を、この手で確かめるために」


木々の間を抜ける風が、まるで過去からの呼び声のように、音もなく森を撫でていった。


その先にあるのは、笑みの奥に隠された“記憶の核心”──


もう誰にも、なかったことにはさせない。


玲は絵に描かれたその扉の前の人物を見つめ、眉をわずかにひそめた。


「……顔は描かれていない。でも、そこに“いる”って感じる。ユウタの気配が、確かにこの絵に残っている」


朱音は小さく頷きながら、唇を噛んだ。


「ユウタお兄ちゃん……扉の奥には行かなかった。ずっとその前に立って、誰かを待ってるみたいだった。……でも、あの笑顔……なんだか、もう“さよなら”って言ってるように見えたの」


玲はしばらく黙っていたが、やがて静かに言った。


「“あの時”のユウタは、自分がどうなるか分かっていたのかもしれない。

記憶を封じられるってことが、どういうことか……それでも、笑ったんだな。

……その扉の先に、自分の“すべて”を置いてきたんだ」


木漏れ日が、朱音のスケッチブックに柔らかく差し込む。

描かれた扉の前、誰とも知れぬ“影”が、光と影の境界に佇んでいる。


それは、失われた記憶の番人。

あるいは──「帰ってくる場所」を信じて、ただ静かに待ち続ける者の姿だった。


玲は絵に描かれたその扉の人物をじっと見つめた。影のように輪郭がぼやけ、顔は描かれていない。それでも、どこかに見覚えがあるような既視感があった。


「この地下室、見覚えがあるわ」

桐野が横から静かに口を開いた。


玲が振り返り、桐野の言葉に鋭く反応した。


「見覚えがある……どういうことだ?」


桐野はスキャンデバイスを操作しながら、落ち着いた口調で説明した。


「過去に調査した、ある古い施設の地下構造に似ている。場所は市街地から少し離れた廃工場の近くだったわ。確か、記録消去や証拠隠滅を目的とした隠し拠点として使われていた可能性が高い」


玲は眉をひそめ、思いを巡らせた。


「なら、ユウタがいたのもそのあたりか……。だとすれば、この地下室が今後の鍵になる。早急に現地を確認しなければ」


成瀬が冷静に言葉を添える。


「影班も動ける準備はできている。移動時の警戒は怠らないように」


朱音はスケッチブックを胸に抱きしめ、小さく頷いた。


「私、絶対に真実を見つける……」


朱音の震えた手が、ゆっくりとスケッチブックのページをめくる。

そこには、封印された地下室の扉の向こうに広がる、薄暗い廊下の絵が描かれていた。


玲は静かに息を吸い込み、深く見つめた。


「さあ、行こう。ユウタの声を、今度は僕たちが聞き届ける番だ」


その瞬間、スケッチブックの上に光が走るような感覚があった。

玲の目が鋭くなった。


「……呼ばれてる。あの扉の先に、“何か”がある。記録の核心──そして、ユウタが最後に遺した真実が」


玲はスケッチブックをそっと閉じ、静かに立ち上がった。影班の三人も同じく緊張の面持ちで身を固める。


「俺たちは今、歴史の狭間に立っている。この扉の向こうに眠る記憶こそ、消された事実の鍵だ」


成瀬由宇が慎重に扉の表面を調べながら呟く。


「この封印はただの物理的なものじゃない。記録を守るための巧妙な仕掛けが施されているはずだ」


玲はそっと頷き、詩乃の背中を守るように周囲へ視線を配った。


「……頼んだ、詩乃。あの扉の向こうに、ユウタの“記憶”が眠っている気がする。中途半端な解析では、逆に何かを壊しかねない」


詩乃は無言でうなずき、指先で端末を操作しながら慎重にパルス信号を送る。コンクリートの壁を透かすように、振動解析と熱反応のログが一つ一つ浮かび上がっていく。


「内側から封鎖された形跡がある……しかも、物理的なロックだけじゃない。記録自体が“存在しないように見せかける”特殊なデータ偽装が施されてる」


沙耶が息をのんだ。


「……誰かが、意図的に記録を“無かったこと”にしようとしたってこと?」


詩乃の紫の瞳が鋭く光った。


「ええ。けど、この扉は──完全に消されたわけじゃない。“記憶の残滓”がまだ残ってる。

……朱音のスケッチが導いてくれた以上、私たちは開けなきゃいけないの」


朱音はそっと絵を抱きしめ、小さく囁いた。


「ユウタお兄ちゃん……待ってて。きっと、扉の向こうで寂しくないようにするから」


その声は静かだったが、確かな決意に満ちていた。

そして詩乃の指が、ロックの最終解除コードに触れた——


玲は一瞬だけ目を閉じ、深く息を吸い込んだ。


そして、ゆっくりと目を開ける。

その瞳には、迷いのない光が宿っていた。


「──ああ。これは、俺たち全員の記憶のための一歩だ」


彼は扉の前に立ち、朱音の描いたスケッチと詩乃の解析結果を重ね合わせるように視線を落とした。


成瀬由宇が無言のまま前に出て、周囲の安全を確認する。

桐野詩乃は最終確認を終え、短く「準備完了」と頷いた。


沙耶が朱音の肩に手を置き、柔らかく微笑む。


「大丈夫。あなたの感じた“残響”が、きっと正しかったんだよ」


朱音は静かに頷いた。


詩乃が解除ボタンを押した瞬間──

空気が変わった。


重く、軋むような音を立てて扉が開き始める。

その向こうに広がっていたのは、ひどく静かな、だが確かに誰かがいた痕跡──


記憶の“空洞”。


そしてその中心に、たしかに人影がひとつ──


「……ユウタ……?」


玲がそう呟いたその時、かすかな光が、誰かの瞳の奥で揺れた。


空気が一層張り詰め、静寂の中に緊迫した決意が満ちていった。

朱音も勇気を振り絞って玲の隣に立つ。

彼女の瞳には、不安と希望が入り混じっていた。


朱音はスケッチブックをしっかりと抱きしめ、玲の隣に静かに立った。彼女の小さな肩は震えていたが、その瞳は確かな決意を宿していた。


「お兄ちゃん……私も、一緒に行く」


その声はかすかに震えていたが、揺るぎない意思が伝わった。


玲はその声をしっかりと受け止め、ゆっくりと朱音の方を向いた。

そして、迷いのない眼差しで彼女を見つめ返す。


「……ああ。君がいてくれるなら、きっと“真実”に辿り着ける」


優しく微笑んだ玲は、そっと朱音の頭に手を置く。

その手は、かすかに震えていたが、確かな温もりがあった。


「君の“絵”が導いてくれる。“記録”を護る旅は、もう始まってるんだ」


朱音は小さく頷き、深く息を吸い込んだ。

スケッチブックを胸に抱きしめながら、彼女は扉の奥へ視線を向ける。


──闇の中で、記憶の残響が呼んでいる。


そのとき、影班の三人も無言でそれぞれの位置についた。

成瀬由宇は後方警戒を、桐野詩乃は前方の残留データを、安斎柾貴は精神的な揺らぎを感知しながら、皆の背を支える。


玲が一歩、前に進んだ。朱音も、すぐ隣で歩を合わせる。

その小さな足音が、沈黙の地下に確かな存在を刻む。


──ここから先は、記録に残らないかもしれない。

だが、彼らは知っている。


“真実”とは、誰かの心に宿り、誰かの記憶に生き続けるものだと。


そして、その記憶を紡ぐ者たちが、いま確かに──前に、進んでいく。


玲は優しく微笑み、朱音の頭をそっと撫でる。


「ありがとう、朱音。君の直感と勇気が、きっと僕たちを導いてくれる」


影班の三人も黙って頷き、まるで家族のような温かさを帯びた空気がその場に満ちていった。


玲は静かに頷き、朱音の手を優しく握った。


「一歩ずつ、確かめていこう。真実を知る覚悟があれば、どんな闇も越えられる」


朱音も深く息を吸い込み、小さくうなずいた。


その瞬間、誰の言葉も要らなかった。

手と手が繋がれたことで、すべての意志がひとつに結ばれたのだ。


朱音の小さな手は冷たく震えていたが、そこに宿る“覚悟”は誰よりも強かった。

玲はその強さを感じ取りながら、もう一度、彼女に微笑みかける。


「怖くてもいい。君の感じたことが、きっと“鍵”になる」


安斎がわずかに肩をすくめ、ぼそりと呟いた。


「……朱音を中心に隊を動かす。あとは俺たちが護るだけだ」


詩乃は無言のまま、朱音の手にひとつの小型スキャナをそっと渡した。

彼女の紫の瞳は、鋭くも優しく朱音を見つめている。


「君の感覚を、私たちが全方向から支える。安心して進んで」


成瀬由宇も、短くひとつ頷くと、周囲の警戒を再確認するように視線を巡らせた。

その背は、どこか誇らしげだった。


──“家族”とは、血ではなく、共に進む覚悟の形かもしれない。


そう思わせるほどに、そこには静かで力強い絆があった。


そして、朱音はそっと扉の前に立つ。

震える指先でページを開き、ひとつの新たな“記録”を描き始める。


その第一筆が、まるで扉の封印を解くかのように、世界を静かに震わせていた。


影班の三人が慎重に前方を警戒しながら、一行は封印された扉の前へと歩を進めた。


扉の向こうには、忘れ去られた過去と未来を繋ぐ“記録”が待っている。


玲は深呼吸し、静かに扉の前へと歩み寄る。

そして、手を伸ばし、重い鋼鉄の扉の冷たい表面に触れた。


「さあ、開けるぞ」


扉に触れた玲の指先から、静かな緊張が空気に伝播する。

背後で誰もが息を呑み、時が止まったかのような一瞬──


金属が軋む、鈍く重い音が静寂を破った。


ギィ……ギギ……。


鋼鉄の扉はゆっくりと開いていく。

中からは冷たい空気が流れ出し、まるでそこに封じ込められていた“何か”が目を覚ましたかのようだった。


その先に広がっていたのは、薄暗く、無機質な地下空間。

コンクリートの壁にはかすかにひびが入り、古びた機材が並んでいる。

中央に据えられた一台の記録装置──そして、そのすぐ傍らに置かれた、子ども用の椅子。


朱音が息を呑んだ。


「……ここ……スケッチと、同じ」


玲はゆっくりと歩を進め、装置の前に立った。


その時だった。


「……やっと来たんだね」


柔らかく、けれどどこか寂しげな声が響いた。


誰もが振り返る。


そこにいたのは──川崎ユウタ。

しかし、その姿はどこか現実から乖離している。

影と光の狭間に揺れるように、まるで“記憶そのもの”が人の形を保って立っているようだった。


玲は声を詰まらせたが、すぐに静かに言った。


「ユウタ……君はここで、何を見ていた?」


ユウタはほんの少し笑って、こう答えた。


「全部だよ。みんなの“忘れてしまった真実”──ここに、全部、あるんだ」


そして、記録装置の画面が、静かに光を帯び始めた。


玲の指先にわずかな震えが走る。静寂が一瞬、辺りを包んだ。


ゆっくりと、鋼鉄の扉が軋みを立てて開き始める。


扉の奥からは、かすかな埃の匂いと共に、薄暗い廊下の冷気が漂い出した。


玲の言葉が静寂を裂いた瞬間、記録装置の画面に淡い光がゆらめき、幾重にも重なった映像の断片が浮かび上がってくる。

声なき声。見知らぬ視点。震える手。閉じ込められた想い。


「十年前の“倉庫事件”──」

玲の声が絞り出すように続く。

「……ここに、記録されていたのか」


ユウタの姿はその光に溶けるように揺れながら、静かに頷いた。


「僕が“記憶の証人”になった日。

でも、それは僕だけの記憶じゃない。

ここには……失われた、みんなの“記録”が詰まってる」


詩乃が装置に接続された端末を操作しながら低く言う。


「改ざん、上書き、削除……。でも、完全には消されていない。

残滓として“ここ”に、記憶の痕跡が残ってる」


朱音がそっとスケッチブックを開く。

ページの中の絵が、まるで装置の中の映像と共鳴するように光を帯びた。


安斎が静かに言う。


「玲……あとは、お前の役目だ」


玲は一歩、記録装置に近づいた。

指先が光の波へと触れようとする。


「これが、俺たちの戦いの本当の意味だ。

“記憶を記録し、存在を証明する”──消された真実を、もう一度世界に刻み直す」


彼の背に、朱音、ユウタ、影班の三人、すべての想いが重なっていく。


そして──

玲の指先が光に触れた瞬間、映像が解き放たれた。


闇に葬られた真実が、いま、白日のもとにあらわれようとしていた。


安斎が低い声で囁く。

「一歩でも間違えば、消された過去の罠に嵌る可能性もある。慎重に進もう」


玲は頷き、安斎の警告を心に刻むように静かに答えた。


「わかってる。これは“記録”を掘り起こす作業じゃない……記憶の地雷原を進むようなものだ」


その言葉に、場の空気が一層張りつめた。


詩乃は端末の画面を見つめながら、冷静な声で言う。


「この装置、ただの記録媒体じゃない。……“封印”されてる。何か、見せたくなかったものがある」


成瀬由宇も珍しく口を開く。

その声は静かだが、底知れぬ警戒心を含んでいた。


「……誰かの“意志”が、この記録を守っている。逆に言えば──見られたくない奴が、まだどこかで見ているってことだ」


朱音は緊張した面持ちでスケッチブックを抱きしめ、そっと呟いた。


「でも、進もう……そこに“本当のユウタくん”がいるなら……絶対に見つけ出さなきゃ」


玲が目を閉じ、ひとつ深く息を吸い込む。


「……ああ。真実は、たとえ痛くても、向き合うしかない」


そして、彼らは──

まるで地層の奥底に埋もれた“記憶の遺構”を発掘するように、慎重に、確かに一歩ずつ進み始めた。


玲は頷き、影班の三人も身構える。

朱音も震える手をぎゅっと握りしめ、覚悟を新たにした。


薄暗い廊下に一歩足を踏み入れると、冷たい空気が肌を刺す。

静寂の中に、微かな機械音が潜んでいるのを皆が感じ取った。


玲はゆっくりと前を見据え、口を開く。

「記録の扉の先には、真実と罠が交錯している。俺たちはその狭間を見極めなければならない」


一行は慎重に、しかし決意を秘めて歩みを進めた。


桐野が周囲の動きを鋭く見張りながら、

「敵の気配も消えていない。背後にも気を配って」


玲が振り返り、静かに頷いた。


「そうだ、油断は禁物だ。ここから先は、何が待ち受けているか分からない。」


安斎が警戒の目を光らせ、影班の成瀬と詩乃も周囲をくまなく見渡す。


朱音は小さく息を飲みながらも、玲の背中を見つめていた。


廊下の奥へと進む一行に、緊張と覚悟が静かに満ちていく。

朱音は震える手でスケッチブックを握りしめ、

「この先で、ユウタくんの声が聞こえる気がする……」と小さく呟く。

玲はそっと朱音の肩に手を置き、優しく微笑んだ。


「大丈夫だ。君の感覚はみんなの道しるべになる。ユウタの声を、しっかり受け止めよう。」


朱音は玲の言葉に勇気をもらい、小さく頷いた。

彼女の瞳にはまだ不安が揺れていたが、その奥には確かな意思の光が宿っていた。


「……うん。ユウタくんが、ここで何を残したのか……ちゃんと見つける」


その瞬間、廊下の奥からかすかな音が聞こえた。

──風のような、誰かの囁きのような、曖昧で掴みどころのない気配。


詩乃が立ち止まり、機器のセンサーを静かに操作する。

数値の微妙な揺らぎを見つめ、彼女は低く言った。


「記憶の残響……この先、何かが反応してる」


安斎が一歩前に出る。


「罠の可能性もある。だが、避けては通れない」


成瀬は静かに周囲を見渡しながら、囁くように付け加えた。


「“記録”は、生き物のように息づく。きっと……この先で何かが、俺たちを待ってる」


一行は再び歩き出す。

揺れる灯りの中、朱音は胸の前でスケッチブックを強く抱きしめた。


──そして、廊下の奥に見えてきたのは、一枚の古びた金属扉。

その扉の向こうに、彼らが求める“真実”が眠っているのかもしれなかった。


玲司は朱音と玲のやり取りを黙って見つめていたが、ふと押し殺したような声で呟いた。


「……この子は……いったい、何者なんだ……?」


その言葉には、ただの驚きではなく──畏れすら混じっていた。


玲はその声に静かに振り返り、玲司の表情を見つめた。

彼の瞳には、朱音に対する驚きと戸惑い、そして──どこか遠い記憶を呼び起こされたような影が揺れていた。


朱音は一瞬戸惑いながらも、玲司の視線を真正面から受け止めるように立ち尽くしていた。

その小さな体の奥には、年齢には似つかわしくない、深く静かな「確信」があった。


玲がやわらかく口を開く。


「朱音は、“感じる”んだ。形ではなく、意味でもなく……もっと深いところにあるものを」


そして、朱音の頭にそっと手を置く。


「何者か、なんて簡単には答えられないさ。でも、彼女はここにいる──俺たちと一緒に、真実を見つけるために」


玲司は言葉を失ったまま、ただその光景を見つめ続けた。

目の前にいるのは確かに、幼い少女──だが彼の心に重く響いたのは、「この子だけは、何かが違う」という直感だった。


朱音は玲の手を受けながら、小さく呟くように言った。


「……私、ただ……怖かったの。忘れられちゃうのが。誰かが、いなくなっちゃうのが……」


その言葉は、玲司の胸に深く刺さった。


そして彼は気づく──

この少女は、ただ記録を“見る”のではない。

記録に“寄り添い”、記憶の中に取り残された“誰か”の存在ごと、救おうとしているのだと。


彼の瞳には、決意の光が灯っていた。

場の空気が静まり返る中、玲の声だけが静かに、確かに響いた。


玲の眉がわずかに動いた。

「……十年前の信号形式だと?」


調査員は頷き、端末を開きながら続けた。

「はい。現行のプロトコルとは異なり、古い暗号方式です。しかも、通常の端末では解析できないほど劣化した記録……。ですが、解析チームが断片的に復元したデータに、“K-9ユニット”のコードと、ある名前が含まれていました」


玲が目を細める。


「……名前?」


調査員は静かに頷いた。


「“川崎ユウタ”。

ただし、そのIDは十年前の事件で“死亡者扱い”となっているはずです。なのに……昨夜、この観測台から発信されたログの中に、彼のアクセス認証が一瞬だけ、再出現したんです」


一同に緊張が走る。

玲司は一歩前に出て、思わず言葉を漏らした。


「つまり……ユウタは、自分の意思で何かを“発信”したというのか……?」


朱音がスケッチブックをぎゅっと抱きしめる。

小さな声で、けれど確かな確信を込めて言った。


「やっぱり……ユウタお兄ちゃん、ここに“いる”。わたしたちに、何かを伝えようとしてるんだよ」


玲は深く頷き、調査員に視線を戻した。


「この信号……どこに向けて送られていた?」


調査員は一瞬の間を置き、答えた。


「……“自己宛て”。

過去のログデータへ。まるで、記録そのものに“自分の記憶”を埋め込もうとしたような痕跡です。封印された記憶の中に、彼自身の存在を刻むように──」


玲の目が細く鋭く光る。


「……“記憶を、証人として残す”……か。川崎ユウタ……やはり、君はまだ終わっていなかったんだな」


地下へと続く廊下の先。

そこに待つのは、“消されたはずの記憶”と、“今も語ろうとする声”。


真実の扉は、いま静かに──再び開き始めようとしていた。


調査員は頷きながら続けた。


「はい。しかも──その信号、一定間隔で“ループ”しているようなんです。同じ断片的なコードが、まるで“誰かに見つけてもらうのを待っている”かのように、繰り返し送られている」


玲の目が細められる。その奥に、緊張と、ほんのわずかな驚きが宿った。


「それは……記録というより“呼びかけ”だ」


詩乃が即座に端末に接続し、信号の解析を開始する。冷静な声が響いた。


「この形式……ユウタが“記憶共有実験”で使っていた旧コードだわ。封印されたプロトコル。表向きにはすでに廃棄されたはずの……」


安斎が息をのむ。


「なら……彼は今も、記憶のどこかで“生きている”。意識のすべてが消されたわけじゃない……!」


朱音がゆっくりとスケッチブックを開き、先ほど描いた“地下の扉”の前に立つユウタの絵を見つめた。


「……ねえ、あの扉の向こうに、まだユウタくんの“声”があるのかもしれないよ」


玲は端末から顔を上げ、皆を見渡す。


「……行こう。その信号が本物なら、俺たちのすべてを懸けてでも、彼の記憶にたどり着く」


その言葉に、誰も反論する者はいなかった。


“記憶の証人”ユウタが、過去の闇から差し出した、たった一つの希望の断片。

今こそそれに応える時だった。


玲が画面を覗き込むと、ある文字列が浮かび上がった。


--Y009-LINK-INACTIVE--


玲の眉がぴくりと動いた。


「……コードY-009……」


玲司がその言葉に反応し、思わず口を開く。


「……それ、俺の“被験体コード”だ」


玲の目が鋭く光る。


「被験体コード……つまり、兄さん自身が実験か何かの対象だったということか?」


玲司は一瞬言葉に詰まり、視線を落としたまま静かに頷いた。


「……十年前、ある記憶干渉プロジェクトに関与していた。いや……正確には、俺自身が“記憶の移植対象”として選ばれていたんだ」


空気が重く沈む。


玲の瞳に、一瞬だけ動揺が走る。しかし次の瞬間には鋭く問いかけた。


「誰が主導していた? そのプロジェクトの目的は何だった?」


玲司はゆっくりと顔を上げ、かすれた声で答える。


「“記憶の保存と継承”。優秀な記憶資産を他者に“移植”し、個人の限界を越える──そう謳っていた。だが……実際は、“制御不能な人格干渉”が問題になった」


詩乃が低く呟く。


「つまり、記憶だけでなく“意思”まで移る危険性があった……?」


玲司は頷く。


「俺は、かつて“Y-009”として、その危険性を証明した存在だ。途中で中止されたが……記憶は完全には消えなかった。どこかで残り続けていた。そしてそれが──ユウタに受け継がれた可能性がある」


朱音が不安げに顔を上げた。


「……ユウタくんの中に、玲司さんの記憶が?」


「正確には、“干渉された断片”が共鳴している可能性がある」と玲が静かに補足する。「そして今、リンクが切れている──Y-009が“活動を停止した”とシステムが判断している……」


安斎が険しい顔で言う。


「逆に言えば、“再起動の痕跡”を隠しているか、あるいは別のコードとして再構成されているか……」


玲は深く息を吸い、静かに呟いた。


「──つまり、俺たちはただ“ユウタを探す”だけじゃない。“自分たちの過去”を、もう一度向き合う必要がある」


玲は静かに頷き、決意を込めて言った。


「ならば、俺たちが証人になる。絶対に兄さんの記憶も、存在も、消させはしない。」


玲司はその言葉に目を見開いた。そして、ほんのわずかに──だが確かに、口元が緩んだ。


「……お前がそんなふうに言う日が来るとはな」


その声には、懐かしさと、ほのかな後悔、そして希望が混じっていた。


朱音はそっとスケッチブックを開き、すでに描かれていた“扉”の絵に新しい線を加えた。


「じゃあ……これから描くのは、“閉じられた記憶”じゃなくて、“開かれる未来”だね」


その一言に、皆の視線が自然と集まった。


玲は朱音の頭に手を置き、穏やかに微笑む。


「そうだ。俺たちは、これからの真実を描いていく。“記録”じゃない。“記憶”として」


静かに鳴る端末の接続音が、その決意を後押しするように響いた。


Y-009:LINK──再構築中…

記録断片アクセス:認証待機──


ユウタの微かな記憶の残響が、再び世界に姿を現そうとしていた。

その言葉は、観測台跡の空気に新たな緊張と決意を刻み込んだ。

──そして“記録の証人たち”は、次なる闇へと歩を進めていく。


「十年前、ユウタが“最後に記憶された場所”──旧第七観測棟。あの時、封鎖されたままの地下階層に、まだ誰も足を踏み入れていない」


玲司が静かに続けた。


「封印されている記憶と証拠のすべてが、あの地下に眠っているはずだ。俺たちの手で、真実を取り戻さなければならない。」


朱音が描いたスケッチの扉の奥へ、真実は眠っている。


玲は静かに朱音の描いたスケッチを見つめた。

鉛筆で描かれた地下室の扉は、ただの絵ではなかった。そこには確かに、「記憶された真実」が、彼女を通して形を持っていた。


「……旧第七観測棟。封鎖指令が出たのは、十年前の“あの日”だ。事故扱い──だが、あれは意図的な記録封印だ」


玲が鋭く言い切った。


玲司の表情が凍りつく。静かな怒りが、その言葉の裏ににじんでいた。


「……やはり、そうか。あの日、あの場所で何が起きたのか、誰も口にしようとしなかった理由がそれなら──納得だ」


玲は端末の画面を睨みつけながら、言葉を続けた。


「“事故”は偽装。“封鎖”は抹消。そして“記録”は改ざんされた。けれど、完全には消せなかった……断片は残っていた。ユウタの中に。そして──朱音の感覚の中に」


詩乃が静かに頷き、手元の記録端末を操作する。


「もしこの観測棟の中枢システムがまだ生きていれば、記録復元のチャンスはある。削除ログやアクセス履歴……痕跡は消せても、存在の“影”までは完全に抹消できない」


安斎が短く息を吐いた。


「真実に近づくほど、消された理由も明確になる。だが……同時に、近づいた者が危険にさらされるのも常だ」


玲はその言葉を受け止めながら、静かに、しかし確実に言った。


「それでも進む。“事故”の名の下に閉じ込められた真実を、俺たちで暴くんだ──十年前の“あの日”の記憶を、もう二度と誰にも消させないために」


玲司が不安げに問いかける。


「そこに……ユウタの、記憶の“原点”があるってことか?」


玲は少しの間、沈黙したまま観測棟の朽ちた外壁を見つめていた。まるで、そこに刻まれた記憶の残滓を確かめるかのように。


やがて彼は低く、しかし確信に満ちた声で答えた。


「……ああ。おそらく、ユウタが“証人”としての存在になった、その最初の歪みが……ここにある」


玲の手が、スケッチブックに描かれた“扉”の絵にそっと触れる。


「朱音が感じ取った“影”──それは、記録にも記憶にも残らなかった誰かの存在。そしてユウタは……その何かを背負わされて、ここで“変わった”」


玲司が言葉を失い、静かに朱音へと視線を向ける。


朱音は小さく頷いた。


「そこに……声があったの。“忘れないで”って、誰かが言ってた……それは、ユウタくん自身じゃなくて……もっと奥に、深く沈んでる“誰か”の声」


詩乃が息を呑みながら言う。


「それが……封じられた“もう一つの人格”か、“記憶の継承体”か……」


安斎が目を細めて続ける。


「もしくは、記録の歪みそのものが、ひとつの意志を持ったとしたら──」


玲はゆっくりと息を吐き出し、観測棟の暗い出入口を見据えた。


「真実は、あの扉の奥だ。ユウタの記憶の原点──それを掘り起こさなければ、俺たちは“記憶の証人”という意味をまだ、何ひとつ理解していない」


朱音がぎゅっとスケッチブックを抱きしめる。


「じゃあ……そこに行けば、ユウタくんの本当の気持ち、知れるのかな……?」


玲は朱音のその問いかけに、ゆっくりと目を閉じた。胸の奥で何かを噛みしめるように、静かに言葉を選ぶ。


「……たぶん、答えは“そこ”にある」


目を開いた玲の瞳には、確かな覚悟と、そして朱音を守る強い意志が宿っていた。


「ユウタがどんな想いで、何を背負って“証人”になったのか──それを知ることは、彼をほんとうに“理解する”ってことだ。記憶の奥底にある、言葉にできなかった想いを……一緒に、受け止めよう」


朱音は小さく頷きながら、抱きしめたスケッチブックにそっと手を添える。


「うん……どんな気持ちでも、ちゃんと聞きたい。ユウタくんが泣いてたなら、私……そばにいたかったって、伝えたい」


その言葉に、影班の三人もふと目を伏せる。詩乃が小さく呟く。


「感情は記録できない。でも、こうして誰かが“感じる”ことで、記憶は証明になるのね……」


玲は静かに頷き、観測棟の奥へと向けて一歩踏み出した。


「さあ、行こう。真実は、まだあの闇の中だ」


安斎が通信機に手をかけながら、確認する。


「旧第七観測棟──地下階層のアクセスコードは既に破棄されてる。だが、K部門内部に非公式ルートがあるはずだ。俺が当たる」


玲は安斎の言葉に即座に反応し、頷いた。


「頼む、安斎。公式ルートが封鎖されたってことは──“そこ”には、誰かがまだ触れさせたくない記憶が眠っている。俺たちが先に辿り着くしかない」


安斎は無言で頷き、通信機に素早くアクセスを開始する。複雑な暗号プロトコルを解読しながら、低い声で呟いた。


「……あった。旧第七観測棟地下への非常用保守経路。K部門記録の“廃棄ナンバー”と偽装されていた。アクセス用認証コード“Δ-Beta79”、生体認証は俺のコードで突破できる」


橘奈々の声が通信越しに割り込んだ。


「K部門の監視系統にはまだ気取られてないけど、長くはもたないわ。記録される前に潜入して、データを取得して」


玲が短く答える。


「了解。ユウタの記憶が眠るその場所に、必ずたどり着く」


朱音が不安そうに玲の背中を見る。


「……でも、危ないの? 行ったら、戻れないかもって……」


玲は振り返り、朱音の目をまっすぐ見つめた。


「危険はある。でも、後悔はしたくない。ユウタも、きっと“そこ”で待ってる」


影班の三人も無言で立ち上がり、装備の確認を終えると、詩乃が静かに言った。


「さあ、“記録されなかった真実”を迎えに行こう」


玲が頷き、即座に補足する。


玲は険しい表情のまま言葉を続けた。


「つまり、我々だけではどうにもならない部分があるということだ。十年前の関係者の誰か――圭介、啓一、あるいはあの時に関わった他の人物たちだ」


彼は一瞬、朱音の方へ視線を向ける。


「彼らの協力を得ることが、この扉を開けるためのもう一つの鍵になる。影班も含め、全員の力が必要だ」


安斎が腕を組みながら冷静に付け加えた。


「だが、関係者の中には“記憶を消された者”もいるかもしれない。そうなれば協力は難しいが、諦めるわけにはいかない」


玲は軽く息を吐きながら、無線に向かって答えた。


「生体認証か……それなら、十年前に現場にいた人物の誰かの協力が絶対に必要になる。圭介さんか啓一さんか…だが、状況が厳しいな。」


朱音が小声で言う。


「お兄ちゃんたち……覚えているかな。あの場所のこと…」


玲は朱音の言葉に頷き、影班の三人に目配せを送った。


「分かっている。慎重に動こう。ユウタのためにも、絶対に真実を掴む。」


朱音がはっと息を呑み、スケッチブックを見下ろす。


「……ユウタくん……?」


玲の視線が、彼女のページに引き寄せられる。


「──否。ユウタだけじゃない。もう一人、その扉を開けられる人物がいるはずだ。“記録の証人”として、あの場所に触れた者……」


玲はゆっくりと朱音のスケッチブックを見つめながら言葉を続けた。


「それは、圭介さんかもしれない。彼もまた、あの事件の核心に触れているはずだ。生体認証の鍵は、記憶の証人たちの“共通点”にある。」


影班のメンバーも静かに頷き、場の緊張感がさらに高まる。


玲は覚悟を決めたように言った。


「よし、まずは圭介さんに連絡を取ろう。真実の扉を開けるために、彼の協力が必要だ。」


安斎が通信機を切り、短く言う。


「照合する。今夜中に全ルートを掌握する。……準備は、いいな?」


玲は力強く頷き、鋭い目で安斎を見つめた。


「ああ、全力を尽くそう。真実を掴むために、一歩も引かない。」


朱音も小さく拳を握り締め、静かな決意を胸に秘めていた。


詩乃が冷静に付け加える。


「ここから先は、影班と我々の連携が鍵になる。慎重に、しかし迅速に動こう。」


玲の声が森の静けさの中に響き、緊迫した空気をさらに引き締めていった。


桐野詩乃が静かに地図を広げ、朱音のスケッチと照合する。


「位置は……確かに一致。しかもこの扉、既存の設計図にない。“意図的に削除された空間”──あの頃の“隠蔽部隊”の仕業ね」


玲が詩乃の言葉を受け、険しい表情で地図を覗き込む。


「つまり、設計図ごと改ざんされた……完全に“忘れさせる”ための処理だ。そこに繋がるのが、この扉……そしてユウタの記憶か。」


安斎が地図の隅を指しながら言う。


「この周囲の通気口と点検路。通常なら維持管理記録が残るはずだが、データベースに痕跡がない。全て“存在しなかったこと”にされている」


朱音は黙ってスケッチブックを開き、もう一枚の絵を見せた。

そのページには、崩れかけた階段と、うっすらと扉の奥に立つ影が描かれていた。


「……ここ。たぶん、この中に……“残ってる”」


玲は静かに頷き、決意を込めた声で言った。


「行こう。ここが“原点”なら、必ず真実にたどり着ける」


玲が詩乃の言葉に深く頷く。


「“記録消去班”だけじゃなかった……K部門内部に、もう一層下の隠蔽階層が存在していた。そこが、ユウタの“記憶の起点”……すべてが始まった場所だ」


朱音は震える手で地図とスケッチを見比べながら、ぽつりと呟く。


「……ユウタくん、きっとあの場所で……“最後の選択”をしたんだよ。誰かを守るために、自分を消すことを……」


玲司の拳が自然と強く握られた。


「もう……誰も、あんな選択をさせない。あいつの記憶を取り戻す。その記録を──俺たちが、守るんだ」


安斎が静かに付け加える。


「地下に行けば、隠してきた連中も本気で動く。だが……このチームでなら、乗り越えられる。記憶を奪う者たちに、“記録の証人”が何かを、見せてやろう」


詩乃が地図の一点を指差す。


「この通路。閉鎖されてるが、旧設備の点検経路として今も最低限の電力が通ってる可能性がある。……そこが突破口」


玲の瞳が細くなり、決意の色が宿る。


「なら、進むだけだ。“記憶の真実”が眠る場所へ──今度は、忘れられないように」


玲は朱音の頭に手を添えた。


「君の描く記憶が、私たちの地図だ。これから行くのは──真実の心臓部だ」


朱音は静かに頷き、スケッチブックを胸に抱きしめる。

その表情には、恐れと同じだけの決意が宿っていた。


「……うん。ユウタくんの“本当の記憶”を、見つけに行こう。わたし、描き続ける」


玲の手がゆっくりと離れた。


「君の描いた線が、隠された過去を繋ぎなおす。“心臓部”──それは、おそらく、彼の“願い”そのものだ。誰かに思い出してもらうことを……ずっと待っていた」


周囲の仲間たちが次々に頷く。


安斎は通信機を握り直しながら言う。

「旧第七観測棟、地下へのルートが確定した。……あとは、俺たちが記録に入る番だ」


玲司もその場を見渡し、静かに口を開いた。

「これは、ユウタだけの記録じゃない。俺たち全員が──“ここにいた”って証明だ」


そして、沈黙の中──


朱音のスケッチブックの次のページに、ひとりでに線が引かれていった。

そこには、まだ誰も見たことのない扉があった。


その扉の向こうに、

忘れられた“真実の記憶”が、息をひそめていた。

──そして彼らは歩き出した。


封印された記憶が眠る、旧第七観測棟へ。

かつての“倉庫事件”と、ユウタの最期の声が交差する場所へ。

すべての記録を取り戻し、そして“なかったこと”に抗うために。


霧に包まれた旧第七観測棟。

深く静かに、誰にも触れられないまま“あの記憶”はそこに沈んでいた。


朱音の描いた扉の前で、誰もが息を呑む。

それはただの鋼鉄ではなく、“過去を封じ込める意思”そのものだった。


玲は一歩、前に出た。


「ここが……“記憶の交差点”。倉庫事件の真実と、ユウタの最期の声──すべてがここに眠っている」


その言葉に、誰もが息を呑んだ。


コンクリートの壁に覆われた地下通路の先。

鈍く錆びた鋼鉄の扉が、重く、ただ静かにそこに佇んでいた。


朱音は震える指でスケッチブックを開き、描かれた扉と実物を見比べる。

「……間違いない。ここが、ユウタくんの“最後の場所”……」


玲の声は、静かで、それでいて鋭く響いた。

「十年前の倉庫事件──事故に見せかけられた、記憶の封印。

ユウタが最後に『証人』として残そうとした“声”は……ここに記録されたままだ」


玲司が唾を飲み込み、壁をなぞる。

「なんで……誰もここを見つけられなかった……? こんな場所、最初から“地図にない”ってことか……」


桐野詩乃が言葉を継いだ。

「そう。“空間の削除”……隠蔽部隊が使った手口。設計図、通路記録、地質レーダーのデータまで。全部が“なかったこと”にされたの」


朱音が、静かに前へ進み出る。

「……でも、ユウタくんは、それでも記憶してた。……ここに、ずっと“誰か”が来るのを待ってたんだよ」


その時、鋼鉄の扉の前で──

スケッチブックが、またひとりでにページを捲った。


そこに描かれていたのは、扉の奥の景色。

古びた記憶保持装置、床に落ちた破損した記録媒体──そして、

微笑む少年の姿。


玲は手を伸ばし、扉にそっと触れる。


「ユウタ……君が遺した“真実”、今ここで、開くよ──」


そして、静かにロックが解除される音が響いた。

“記憶の交差点”が、今、開かれようとしていた。


安斎が背後で警戒態勢を整えながら言う。


「解析班の報告通りなら、この扉の向こうは存在しない“空間”だ。記録上、初めから無かったことになってる。だが……現実には、確かにここにある」


玲は扉に手を添えたまま、小さく頷いた。


「……記録を操作して“存在を消した”場所。

けれど、記憶には刻まれていた。ユウタの中に──そして朱音のスケッチに」


桐野詩乃が無言で、記録装置の携行端末を構える。

「空間そのものが“封印”されていた場合、通常のスキャンでは内部構造が読み取れない。

でも……彼らは痕跡を消しきれなかった。残された“記憶”が、道を繋いでる」


安斎は銃を構え、肩越しに周囲を確認する。

「……つまり、この扉の先は“記憶によってのみ認識される空間”だ。

K部門の中枢すら、ここを知らない。十年前に葬られた場所……それが、いま俺たちの目の前にある」


朱音が息をのむ。

「……じゃあ、本当に……この中にユウタくんの“最後の声”が……?」


玲の声は、迷いなく静かだった。

「あるよ。ここに、すべての始まりと終わりが眠っている。

私たちは“消された記録”を、いまから──取り戻す」


そして、手を押し当てた扉が、ゆっくりと──重く開き始めた。


冷たい空気と共に、長い間閉ざされていた“記憶”が、世界に滲み出していく。

誰もが言葉を失い、ただその空間の闇を、息を潜めて見つめていた。


玲司が口を結び、手のひらで壁をそっとなぞった。


「ユウタが……ここで何かを残したんだな。思い出じゃない、“証拠”を」


玲は一歩踏み込み、懐中電灯の光を奥へと投げかけた。

地下空間の壁面には、時間の経過を示すかのように埃と剥がれ落ちた塗装が広がっていた。

だがその一角──古びたパネルの奥、目視では判別できないほど精密な“溝”が、玲の目に止まった。


「これは……コード埋め込み式の記録痕。通常の光では浮かばない。特殊な熱処理を使えば、再構築できるかもしれない」


玲司がそれを見つめながら言葉を絞り出す。

「ユウタは……ここで、誰にも知られない場所に、自分の“最後の声”を隠したんだ。誰か一人でも、いつかここにたどり着くことを信じて……」


朱音がバッグからそっとスケッチブックを取り出し、目を閉じて指先を滑らせた。

「この壁……見たことある。ユウタくんの後ろに、同じ模様があった。あのとき、笑ってた──でも、泣きそうでもあった」


安斎が低く呟く。

「なら、この壁の裏が“答え”か……。よし、K部門の解体班を呼ぶ。最小破壊で内部にアクセスする」


玲がそれを制した。

「待って。……ユウタの“記憶の痕”は繊細だ。乱暴に触れれば、消えてしまう可能性がある。

朱音、もう一度……あの笑顔の意味を、思い出してくれる?」


少女は黙って頷いた。

目を閉じ、ゆっくりとページをめくる。すると──彼女の描く線が、記録されていたはずの“開かれたパスコード”の断片と一致し始めた。


玲司はその光景に、胸を震わせながら呟いた。


「……これはもう、“記憶”じゃない。……ユウタの、遺した意志だ」


桐野詩乃が端末を翳し、扉に走る微細なセンサー痕を読み取る。


「再封印の痕跡あり。“014”の記録と一致──つまり、ここがあの子の“記憶の最終点”」


玲がその言葉を聞き、顔をわずかに上げた。

「“014”──ユウタの最終記録ナンバー……。つまりここで、すべてを終わらせた……否、“終わらせさせられた”可能性がある」


桐野はスクリーンに浮かび上がった微細なデータを拡大しながら、冷静に続けた。

「封印コードは複層式。第三階層まで物理ロック、第四階層から内部干渉型の記憶干渉……。これは完全な“記録抹消”の構造。けれど──微かに上書きの痕がある。ユウタ自身が……一部を書き換えた?」


玲がその推論に即座に反応する。

「……『誰かに届くように』。そう考えると、朱音のスケッチが導いたのも納得できる。封印は完全じゃなかった。彼は“記録されること”を諦めてなかったんだ」


朱音はそっと壁に手を当て、かすかに笑った。

「……ユウタくん、やっぱり……ちゃんと、ここにいたんだね」


詩乃が改めて端末を操作し、確認する。

「残された上書き記録は、“視覚記憶”としての痕跡。……これ、映像として再現できる可能性がある」


玲が静かに頷き、深く息を吸った。

「再構成を始めよう。……ここから先は、彼が『見せたかった真実』だ」


朱音がそっとスケッチブックを抱きしめる。


「ユウタくんの声……ちゃんと、ここまで導いてくれた。だから、私──怖くない」


玲はその言葉に静かに頷いた。

「大丈夫だ、朱音。君が描いてくれた“記憶”が、俺たちを真実まで導いたんだ。もう一人じゃない」


詩乃が操作していた端末に、微弱な信号が走った。

「……映像データ、構築できそう。ユウタくんの視覚記録、断片だけど……再生可能よ」


安斎が後方を警戒しながら、低く言った。

「周囲に異常なし。今なら安全に再生できる」


玲は朱音の肩にそっと手を置いた。

「ユウタが“託した記録”を、今ここで開く──真実の扉を、共に見よう」


朱音はスケッチブックを胸に抱いたまま、深く頷く。

「……ユウタくん、聞こえるよ。ちゃんと、覚えてるよ」


そして、静かに──再生が始まった。


そこに映ったのは、十年前。

閉ざされた観測棟の地下室。

ユウタが最後に見た光景。

彼の目線から語られる、決して語られなかった“最期の真実”だった──。


奈々から無線が入る。

「玲司、あんたのお父さんとお母さんが玲司さんが生きてるってほんとかってロッジに来てるよ」


玲司は思わず立ち止まり、顔をこわばらせた。


「……今、なんて言った……?」


無線の向こうから、奈々の声が少し静まり返った口調で続く。


「ロッジに来てるの。“玲司さんがまだ生きてる”って……それが本当かどうか、確かめに来たんだって。お父さんもお母さんも……泣いてたよ」


一瞬、その場の空気が止まったように感じられた。


朱音が不安げに玲司を見上げた。


「……玲司お兄ちゃん……?」


玲司は拳を握り締め、深く息を吐いた。瞳の奥には動揺と、長い間押し殺してきた感情がうごめいていた。


「十年前──俺は“死んだこと”にされた。……彼らの記憶からも、記録からも、抹消されていたはずなのに」


玲が低く呟いた。


「記憶は消せても、想いまでは消せなかった。……あの人たちは、信じてたんだ」


安斎が短く言う。


「会うか?」


玲司はしばらく沈黙したあと、静かに首を横に振った。


「……今はまだ、行けない。けど──終わったら、必ず俺から会いに行く。それが“記憶を取り戻した人間”の責任だ」


玲が頷いた。


「じゃあ、まずは目の前の扉を開けよう。すべての“記録”と向き合うために」


詩乃が冷静に続ける。

「または、“誰かに知らせるため”に、抹消を逃れた記録が存在した……あるいは、家族も巻き込まれた計画の当事者だった可能性もあるわ」


玲司の目がわずかに揺れる。だがその奥に宿るのは恐れではなく、真実を知ろうとする決意だった。


「……“知らせるための記録”……俺の存在そのものが、何かを伝えるために“残された”ってことか」


玲が頷く。


「意図的に生かされ、そして記録からは消された……おそらく、それを仕組んだ人物がいる。真実を全て消すのではなく、いつか誰かに“気づかせる”ために、痕跡を残した」


詩乃は地図上のマークを指し示す。


「この記録、削除対象の中でも妙に不完全な断片がいくつか残ってる。形式がばらばらなのに、どれも“Y-009”を指していた。まるで、何者かがわざと見つかるように並べていたような……」


安斎が低く呟く。


「なら、その“何者か”は──敵ではなく、味方だった可能性もある」


朱音がそっと言葉をつぶやく。


「……ユウタくんが、全部わかってて……残したのかな……? 玲司お兄ちゃんの記憶も、全部……」


玲司は静かにスケッチブックに描かれた“扉”の絵を見つめる。


「記録の断片。記憶の残響。すべてがここに導いている……」


玲が最後に言った。


「この先にあるのは、偶然じゃない。“誰か”が意図して、この道を作ったんだ──真実に辿り着ける者たちのために」


玲司は複雑な表情で無線に返答した。

「奈々、二人を……安全な場所で待機させてくれ。俺が必ず行く」


少しの沈黙の後、奈々が小さく息を吐くように言った。

「了解。……ちゃんと、話してきなさいよ、玲司」


玲司は無線機から少し目を離し、深く息を吸い込んだ。感情が胸の奥で静かにうねり始めるのを、ぐっと押し込める。


玲がそっと尋ねる。


「……会うつもりか?」


玲司はわずかに頷いた。


「ずっと、忘れようとしてた。でも……今なら、ようやく向き合える気がする。俺がここにいる意味を、ちゃんと伝えなきゃいけない。あの人たちにも、自分にも」


朱音がそっと呟く。


「……家族って、待ってるんだよ。きっとずっと、ずっと……」


玲司の口元に、ようやくわずかな笑みが浮かぶ。


「そうかもな。……行ってくる。だが、“あの場所”に向かう準備は、止めないでくれ。戻ったら、すぐに動く」


安斎が静かに頷いた。


「わかってる。ここは任せろ」


玲も短くうなずき、言った。


「大丈夫。俺たちは“家族”を待てる側でもあるからな」


玲司は無言で一礼し、静かにその場を離れた。足取りは重くも、確かなものだった。まるで、過去と未来を繋ぎ直す旅路の第一歩を踏み出すように──。


朱音がそっと玲司の袖を掴んだ。

「……行ってきて。大丈夫、待ってるから」


玲司は一瞬立ち止まり、朱音の小さな手の温もりを感じてそっと振り返った。


その瞳には不安と寂しさ、でもそれ以上に強い信頼の光が宿っていた。


玲は朱音の頭を優しく撫でながら微笑む。


「ありがとう、朱音。君がいるから、俺たちは迷わずに進める」


玲司も少しだけ目を細め、穏やかな声で言った。


「……すぐ戻る。だから、怖がらずに待っててくれ。お前が見つけた“影”の続き、俺も一緒に見たいから」


朱音は強く頷いた。


「うん……ユウタくんの気持ち、みんなで見届けようね」


玲司は静かに背を向け、再び歩き出す。

玲はその背を見送りながら、朱音に囁いた。


「さあ、俺たちはここで“光”を守ろう」


スケッチブックを胸に抱えた朱音の瞳には、もはや迷いはなかった。

それは、真実を照らす光そのものだった。


玲司は深く頷き、背筋を伸ばした。

十年前に失ったはずの“家族”と、

今こそ──向き合う時だった。


無線の向こうから、奈々の声が続く。


「……しかも、玲司さんの名前を聞いて、しばらく黙ってたの。今は圭介さんが神崎さんご夫妻と話してるけど、玲司──すぐ来た方がいいかも」


玲司は眉をひそめ、しかしその瞳には揺るぎない決意が浮かんでいた。

深く一つ息を吐いて、無線に静かに応える。


「わかった、奈々。……すぐに向かう。圭介さんにも伝えてくれ。俺が……俺自身として話す覚悟は、もうできてるって」


隣で聞いていた玲がそっと頷いた。


「過去と向き合うことは怖い。でも、そこに希望が眠っているのなら、踏み出す価値はある。行ってこい、兄さん」


玲司は無言で玲の肩を軽く叩くと、朱音にも目を向けた。


「俺が戻るまで、しっかり“感じて”いてくれ。……あの扉の向こうで、ユウタが待っているかもしれないから」


朱音は真剣な眼差しで頷いた。


「うん。……絶対に、ユウタくんをひとりにしない」


玲司は小さく笑みを浮かべ、踵を返す。

静かな足音が、記憶と再会の場所へと向かって消えていった。


影班の成瀬由宇が冷静に声をかける。

「家族のことなら、俺たちが護衛する。安心して行け」


玲司はその言葉に振り返り、わずかに目を細めた。

成瀬の鋭く冷静な視線は、かえって確かな信頼を感じさせる。


「……由宇。あんたがそう言うなら、本当に大丈夫なんだろうな」


成瀬は無言で頷くと、朱音の側に立つ。すでに状況把握は完了しているというような、隙のない構えだった。


玲もその様子を見て、口元に小さく微笑を浮かべる。


「さすがだな、“影”の名は伊達じゃない」


成瀬はその言葉にも動じず、ただ短く言った。


「彼女の目が見ているのは、まだ“途中”だ。……だから、守る価値がある」


その背中に、桐野詩乃と安斎柾貴も自然に並び立つ。三人の気配が場を包み、まるで見えない結界のように朱音とその場の空気を護っていた。


朱音は少しだけ安心したようにスケッチブックを抱きしめ、玲司に向かって小さく頷いた。


「行ってきて……お兄ちゃん」


玲司は軽く手を振り返し、無線を握り直す。


「奈々、そっちへ向かう。……家族の話を、終わらせに行く」


その声には、もう迷いはなかった。


玲は朱音の肩に軽く手を置き、微笑んだ。

「待っていてくれ、必ず戻る」


チームは緊張感を保ちつつも、どこか一体感を感じていた。

玲司はロッジへと足早に向かう。

そこで待つ家族との再会が、どんな真実をもたらすのか――。


詩乃が視線だけで頷く。「待ってる。記録は逃げない。けど、家族の言葉は──今しか届かない」


玲司は詩乃の言葉を胸に刻み、急ぎ足でロッジへと向かった。

朱音はスケッチブックをしっかりと抱えながら、小さく呟く。

「家族の声、ちゃんと聞かなきゃね…」


影班の三人も静かに準備を整え、玲の帰りを待つ。

それは、過去の傷と未来への希望が交錯する、かけがえのない瞬間だった。


玲司は朱音の頭を軽く撫でると、無線に向かって口を開いた。


「奈々、待たせないでくれ。……すぐに向かう」


無線越しに奈々の声が明るく響いた。


「了解。気をつけてね、玲司!」


玲司は深く息を吸い込み、震える心を抑えながらロッジへと足早に向かった。

彼の背中には、仲間たちと家族、そして守るべき“記憶の証人”たちの想いが重くのしかかっていた。


──記録の証人が、今度は“家族の記憶”と向き合う時が来た。

闇の奥に眠る真実だけでなく、

誰かの“祈り”もまた、記録されていたのかもしれない。

その後ろから、玲も静かにロッジへと入ってきた。


そして、玲ファミリー――

神崎一樹(父)、神崎美和(母)、玲司、玲――

がロッジに住むことになった。


家族として、過去の影を共に背負いながら、未来への希望を紡いでいく。


──ロッジの夜は静かだった。

薪のはぜる音が、わずかにその沈黙を破る。


神崎家の四人は、久しぶりに“家族”として同じテーブルを囲んでいた。

それはぎこちなく、しかしどこか温かい――再生の瞬間だった。


美和は湯気の立つ紅茶を玲司の前にそっと置く。

「……少しは、痩せたわね」

その言葉に玲司は苦笑し、カップを手に取った。


「まあ、いろいろあったからな。……でも、こうして話せてるのが不思議だ」


一樹が静かに頷いた。

「本当は……ずっと、会いたかった。ただ、“記録”から君を消されたと知った時……どうしていいかわからなくなった」


玲がその言葉に目を伏せる。

「僕たちは、ずっと記録と向き合ってきた。でも、本当に大切なのは……“記憶”のほうだったのかもしれない」


その言葉に、誰も反論しなかった。

朱音が奥のソファで眠りかけている。スケッチブックを抱いて、静かに――まるで、今ようやく“家族の夢”を見られたかのように。


そして、ロッジの外では影班が静かに見守っていた。

由宇は空を仰ぎ、ぼそりとつぶやく。


「……祈りってのは、こういうことを言うのかもな」


詩乃と安斎も、無言でうなずいた。


──闇の奥に沈んでいたものは、完全な絶望ではなかった。

誰かが消されかけた記憶の中に、確かに灯した希望と祈りが、今はこうして繋がっている。


記録の証人がたどり着いたのは、

“過去の証明”ではなく、“未来の選択”。


そして物語は、静かに次の章へと歩み始めた――。


2025年5月25日 午後7時30分


ロッジ・リビングルーム


静かなロッジのリビングルームに、神崎一樹と美和、そして玲司が腰を下ろしていた。暖炉の火がゆらめき、柔らかな光が部屋を包んでいる。


そのとき、無線から奈々の声が響いた。


「美和さん、一樹さん、確認ですけど……玲司さんには今のところ、特に変わった様子はありません。何か起きているようには見えませんでした」


神崎美和は無線の声にゆっくりと目を閉じ、わずかに安堵の息を漏らした。

「ありがとう、奈々さん……わかりました」


その横で、一樹が険しい表情のまま、じっと玲司の横顔を見つめていた。

火の揺らめきが玲司の瞳に映り、過去と現在を行き来するかのようにその目はどこか遠くを見ていた。


「……父さん、母さん。俺は、何か“おかしく”なってたのか?」


玲司の問いに、美和が一瞬言葉を失う。

だがすぐに、静かに首を振った。


「違うの。おかしくなんて……なってない。ただ……あなたの中に、誰か“別の意志”が重なっていたように見えた時があったの」


「……別の意志?」


一樹が深く頷いた。

「それは、君自身のものじゃない“記憶”だったのかもしれない。十年前……あの観測棟で、君が“何を見たのか”さえ、私たちは知らされなかった」


玲司は唇を引き結び、少しだけうつむいた。

「……全部は覚えてない。でも、時々……断片がよみがえるんだ。ユウタと、もう一人の“声”。自分じゃない感情が流れ込んでくる」


その言葉に、美和はそっと玲司の手を取る。

「大丈夫。あなたがどこにいても、どんな記憶とつながっていても……私たちは、あなたをあなたとして受け止めるわ」


一樹もその隣で静かに頷いた。

「記録が消えても、記憶が曖昧でも、家族の繋がりは……決して失われない。玲司、君は“ここ”にいる。今も、ちゃんと」


──それは、記録にも記憶にも残らない、ただの“家族の言葉”。

だがそれは確かに、玲司の胸の奥に刻まれていった。


そして暖炉の火が、静かに彼らを包み込むように、ゆらゆらと揺れていた。


2025年5月25日 午後8時10分


ロッジ・リビングルーム


その時、ロッジの入り口のほうから、玲がゆっくりと歩いてきた。

背筋を伸ばし、眉をわずかに寄せた険しい表情。

彼の歩みに、神崎美和が思わず立ち上がる。


「玲……!」


玲はその声に気づくと、わずかに足を止め、目を伏せた。

だが次の瞬間には再び顔を上げ、まっすぐに美和の方へと歩を進める。

静かに、しかし確かな意志を込めた足取りだった。


「……ただいま、母さん」


その一言は、十年以上の沈黙を破るには、あまりにも静かで――

けれども確かに、そこに“帰る意志”が込められていた。


神崎美和の目が潤んだ。言葉を紡ぐよりも早く、その胸にこみ上げてきたものが彼女を突き動かした。

彼女は一歩、そしてもう一歩と近づき、震える手で玲の頬に触れた。


「……あなたが、無事でよかった……!」


玲はその手をそっと受け入れたまま、目を細めた。

感情を抑えていた彼の瞳にも、微かに光がにじんでいた。


その背後では、玲司がゆっくりと立ち上がり、少し離れたところから二人を見守っていた。

一樹もまた、目を細め、静かに頷く。


その瞬間、ロッジの空間には──

「家族」という言葉の意味が、確かに、もう一度刻み込まれていた。


玲は、はっきりと告げた。


「兄さん、あなたには家族と向き合ってほしい。母さんも、父さんも……ずっとあなたを待ってた」


玲司はその言葉に小さく息を呑み、玲の目をまっすぐに見つめ返した。

その眼差しには、もう迷いはなかった。


静かな沈黙がロッジの空気を包む中、神崎一樹がゆっくりと口を開く。


「玲司……私たちは、お前がどこで何をしていたかを知ることよりも──

今、こうしてここに戻ってきてくれたことが、何より嬉しいんだ」


神崎美和も、小さく頷きながら微笑みを浮かべる。


「もう無理に話さなくていい。でも……あなたが、苦しみを抱えているなら、家族で分け合いたいの」


玲司は唇を引き結び、数秒、言葉を探した。

そして、震える声でようやく絞り出す。


「……俺は……生きてていいのか、ずっと、わからなかった……。

でも……今日、玲が言った言葉を聞いて、やっと少しだけ、自分を許せた気がするんだ」


玲は黙って頷き、そっと兄の肩に手を置いた。


「兄さんがいてくれることで、救われる人がいる。僕も、朱音も、ユウタも──そして、父さんと母さんも」


玲司はその手に、自分の手を重ねた。

目元に浮かんだ涙を、あえて拭おうとはしなかった。


「ありがとう、玲。……ありがとう、みんな。俺……もう、逃げない」


そして、神崎家の四人は、静かに肩を寄せ合った。

過去に閉ざされていた扉が、確かに今、わずかに開いた。

そしてその先には──新しい記憶と希望が、静かに待っていた。


美和が目を潤ませながら玲を見つめる。


「でも、あなたも私の子でしょう……玲司と同じように。ひとりで戦わせるなんて……!」


玲は一瞬、言葉を失ったように美和の瞳を見つめ返した。

その瞳に宿るのは、母親としての強い祈りと、深い後悔。


「……母さん……」

玲の声はかすれた。


「俺は……兄さんが消えたあの日から、ずっと答えを探してた。なぜ家族が壊れたのか。なぜ、真実だけが隠されたのか。

それを知るには……一人で進まなきゃいけない道だった。だから、戦ってきたんだ」


美和は、涙をこぼしながら首を振った。


「それでも……母親なのよ。何も知らなかったなんて、言い訳にならない。玲、お前の痛みに、私は何もしてあげられなかった……!」


玲はその言葉を静かに受け止め、そして一歩、美和に近づいた。


「ちがう。母さんがいたから、俺は壊れなかった。

……たとえ言葉じゃ届かなくても、誰かが信じてくれてるって、それだけで、どれだけ救われたか……わかってる」


美和の手が、小さく震えながら玲の頬に触れる。

玲はそれをそっと受け入れた。


「これからは……俺も、家族と一緒に進む。兄さんと。母さんと。父さんと。

そして──この“記憶”の物語を、終わらせるんだ」


その言葉に、一樹も静かに頷き、

火のゆらめくリビングルームは、かすかな涙とぬくもりに包まれた。


“家族”という言葉の重みが、ようやく取り戻されようとしていた──。


玲はわずかに微笑みながら、静かに言った。


「大丈夫。俺には仲間がいる。影班も、柊も、由宇もいる。朱音も、ここにいるし──家族の“今”は、兄さんがつないで」


玲司はその言葉に、ゆっくりと顔を上げた。

玲の微笑みには、これまでの孤独と闘いを超えて得た“信頼”と“希望”が宿っていた。


「……仲間、か」

玲司の声が少しだけ震える。

「……昔は、そんなもの、持てるとは思ってなかった。全部失って、自分ひとりだけが取り残されたって……そう、思ってた」


玲はそっと頷き、朱音の方をちらりと見やった。

その視線を追って、玲司も彼女を見つめる。朱音はスケッチブックを胸に抱え、小さくうなずいた。


「でも今は、違うよ」

玲の声が力を帯びる。

「俺たちは、誰かの記憶に触れて、そして絆を結んできた。誰かを守るって、そういうことなんだって、知ったんだ。

……兄さんが繋いだ“今”が、俺たちをここまで運んできた」


玲司の瞳に、ゆっくりと光が戻っていく。

「そうか……俺にも、帰る場所があるんだな……」


「あるよ」

玲はしっかりとうなずいた。

「“家族”も、“仲間”も……この記憶は、もう誰にも消させない」


その瞬間、静かなロッジに、朱音の描いたスケッチがひらりと落ちた。

そこには──手を繋ぐ“家族”と、その背後に立つ“仲間たち”の姿が、優しい線で描かれていた。


それは、未来へ続く記憶の絵。

誰にも奪わせない、彼らの“本当の物語”だった。


──無線からの報告が静寂を切り裂いた。


『こちら成瀬由宇。西側林道に敵影を確認。数は3、単独行動に見えるが、潜入の動きがある』


玲司はすぐに立ち上がり、緊張を帯びた視線でリビングの窓の外を見やった。暖炉の火がパチリと音を立てる中、彼は両親の前に立ちはだかるようにして言った。


「……来たか。ここは俺が守る」


美和が不安げに玲司を見つめた。


「玲司……危ないことは──」


玲司は母の言葉をそっと遮るように、穏やかだが力強い声で答える。


「母さん、ここにいて。今度はもう、俺が誰も失いたくないんだ」


美和の目に涙が滲む。玲もすぐ近くまで歩み寄り、兄の背中を見つめながら静かに頷いた。


「……俺は別ルートから動く。兄さん、家族は頼んだよ」


そして神崎家の兄弟は、それぞれの場所で「家族」を守る覚悟を固める。


──十年前、崩れた絆を今、確かに繋ぎ直そうとしていた。


無線の向こうで一瞬、冷たい風が吹き抜けたような沈黙があった。 そして、成瀬由宇の低く引き締まった声が返ってくる。


『……了解。玲、気をつけろ』


その言葉には、命令でも報告でもない、確かな信頼と仲間としての誓いが込められていた。


玲は微かに口元を引き締め、無線機を握ったまま応える。


「そっちもな、由宇。朱音を頼む」


背後では朱音がスケッチブックを抱えたまま、黙って玲の背中を見つめていた。


玲は一瞬だけ振り返ると、彼女にだけ聞こえるような声で呟いた。


「すぐに戻る。……ユウタの声を、共に聞こう」


そして彼は再び、夜の静けさを裂いて動き出した。


──その先に待つ“記録の扉”と、まだ語られていない真実の記憶へと向かって。


玲は静かに玄関のドアノブに手をかけた。

その背に、美和がそっと言葉をかける。


「……玲。帰ってきなさい。どんなに傷ついても、あなたには“帰る場所”がある」


玲はわずかに動きを止めた。


ドアノブにかけた手がわずかに震え、その指先に、美和の声が確かに染み込んでいく。


振り返らずに、しかし確かにその想いを受け取るように、玲は静かに答えた。


「……ありがとう、母さん。帰る場所があるから、俺は進める」


扉をゆっくりと開ける音が、暖炉の薪のはぜる音に重なる。冷たい夜の風が差し込み、玲のコートの裾を揺らした。


その背中には、少年だった頃の痛みも、仲間たちの祈りも、そして家族の温もりも、すべてが重なっていた。


──そして、彼は闇へと歩き出す。


過去の影を越え、“未来を迎えに行く”ために。

そして扉を開き、夜の闇の中へと消えていった。

ロッジには、しばらく沈黙が流れた。


玲司が美和の隣に座り直し、そっと手を取る。


「……あいつ、強くなったな。泣き虫だった玲が」


美和は微笑みながらも、どこか切なげに頷いた。


「ええ……でも、その強さは決して一人のものじゃないわ。家族の絆が、彼を支えているのよ」


玲司は静かに息を吐き、窓の外の暗闇を見つめた。


「そうだな……これからも守らなきゃいけないものが増えた。だからこそ、俺たちが負けるわけにはいかない」


玲司は静かに目を閉じ、心の奥で決意を新たにした。


「孤独だったあの時期があったからこそ、今の絆が強く感じられるんだ。これからは、みんなで支え合っていくしかない。」


美和もまた、微笑みを浮かべて言った。


「そう、家族も仲間も一緒に。どんな困難も乗り越えられるわ。」


2025年5月25日 午後8時24分

ロッジ裏手・林道へ向かう小道


「玲──!」


玲司が声を張り上げながら林道を駆け抜ける。その後ろには、懸命についてくる一樹と美和の姿。


玲は振り返らず、鋭い眼差しで前を見据えた。


「もう、逃げられない──ここで終わらせる。」


背後から迫る足音がますます近づく。

林道に差し込む夕暮れの光が、彼らの覚悟を照らし出していた。


息を切らせながら木々の間を抜けた瞬間、三人は目を疑った。

月明かりが差し込む林道の先、玲が敵十人を相手に静かに立っている。

その様子を、林の少し離れた場所で玲司、神崎美和、神崎一樹が見守っていた。


「一体何が起きているんだ?」一樹が眉をひそめ、周囲を見回しながら呟く。


「玲があの人数を相手に……?」美和も不安そうに声を潜める。


玲司が無線を耳に当てる。


「影班、状況を教えてくれ」


ほどなく、成瀬由宇の落ち着いた声が返ってきた。


「あれがS級の玲だ。数で圧倒しようとする相手を、一人で確実に制圧している。傷一つつけられていない」


玲司は目を見張り、息を呑んだ。


「さすが……影班でも特別な存在だ。玲は、ただの弟じゃない。」


一樹は複雑な表情で拳を握りしめる。


「こんなにも強くなっていたとは……俺たちは彼の背中を見守り続けるしかないのか」


美和は祈るように目を閉じ、静かに呟いた。


「どうか、無事でいてほしい……」


遠くから響く玲の冷静な指示が、緊張の空気を引き締める。


「動くな、油断するな。全員確実に抑えろ。」


桐野詩乃が冷静に付け加える。


「敵は軍隊式の連携を試みているが、玲の動きは流れるようで、すべての攻撃を予測し排除している。まさに“影”のような存在だ」


玲司は感嘆の声を漏らした。


「まるで、戦場の化身だ……。玲がここまで強くなっているとは。」


美和が息を呑みながら言った。


「玲、あなたが守るべきもののために、こんなにも強くなったのね……」


一樹も静かに頷き、無線越しに影班へ指示を送った。


「支援に向かう。玲を孤立させるな。全力でカバーしろ。」


「家族の前でそんなに暴れて大丈夫か?」一樹が少し心配そうに言うと、安斎柾貴が無線口から答える。


「玲司さん、安心してください。影班は玲司さんたちを守るためにここにいます。彼に任せて、ちゃんと見ていてやってください」


玲司は一瞬目を閉じ、深く息を吸い込んでから答えた。


「ありがとう、安斎。家族の前で全力を見せるのは……正直、緊張するけど、守るためなら臆さない。」


一樹がほっとしたように頷き、


「そうか。なら頼むよ、玲。俺たち家族を、そしてみんなを守ってくれ。」


玲は無線越しに冷静に応える。


「任せてください。一瞬たりとも気を抜かず、全力で守ります。」


玲の戦いぶりは、まさに“人外”の領域だった。


彼の動きは、もはや常人の目で追えるものではなかった。すべての行動が計算され尽くし、無駄がない。攻撃と防御、間合いの支配と心理の読み合い、そのすべてを瞬時に掌握していた。


──戦場で、彼は“情報”と“感覚”を同時に処理している。


敵の足音、風の流れ、木々の揺れ──わずかな変化さえも見逃さず、次の行動へと結びつける。彼の視線は一度たりとも迷わず、すべてを見通していた。


■ 検証不能な速さ

玲の動きには、通常の動体視力や筋力だけでは説明のつかない“加速”があった。空気を裂く音さえ追いつかない速さ。敵が攻撃を仕掛けるよりも一瞬早く、その意図を察知し、あらかじめ空間から“消える”。


まるで「攻撃を予知して動いている」ような──異能にも似た感覚すら漂わせる。


■ 攻撃の精度と破壊力

玲の拳は重く、鋭い。しかしそれは単なる力ではない。加速した体重移動と、敵の骨格の“弱点”に正確に当てる技術が合わさっている。


──特に顕著だったのは、「相手を最小限の力で制圧する」その緻密さ。


一撃で戦闘不能に陥るように、呼吸、視界、足元──相手の“バランスの核心”を突いてくる。気絶、脊椎のショック、神経断裂……いずれも非致死性であるが、復帰不能な一撃。


■ “影”の如き存在

桐野詩乃が言った「まさに影」という表現は、戦術的にも象徴的にも的確だった。


玲は音を殺し、動きを消し、気配すら断つ。


その一方で、自分が“守るべき者たち”の元には、必ず届く存在である。


――まるで「死神の鎌」のように、害意のある者だけを正確に刈り取り、味方にすら気づかせぬままに現れ、そしてまた静かに立ち去る。


■ 精神の“冷徹”

戦闘中の玲には、怒りや焦りといった感情の波が一切見られなかった。敵が恐怖に飲まれていく中で、彼の眼差しは静まり返り、ただ目的のために動いている。


その姿は「冷酷」とも、「覚悟」とも取れる。だがそれは、玲が“自らの感情を戦いに持ち込まない”という信念に基づくものだった。


敵にとってそれは「心を砕く恐怖」であり、味方にとっては「絶対の信頼」を意味した。


■ そして──“無傷”の意味

すべてが終わった後の玲の姿は、神話のようだった。


服にすら一筋の切れ目もなく、髪の一本さえ乱れない。


その姿こそ、彼の実力を如実に物語っていた。守り抜くための力。誰も傷つけず、誰にも触れさせず、それでも敵だけを無力化する。


──S級。


その称号は、ただの記号ではなかった。戦闘者として、記録の証人として、そして“家族を護る者”として。


玲は今、すべての意味で「無敵」だった。


玲司は思わず呟いた。


「玲の動きが……まるで、消えたみたいだ……」


美和も息を呑み、かすれるような声で続けた。


「……あれが、本当に玲なの……? こんな……冷たくて、鋭くて……でも、あの瞳だけは……あの子のままだわ……」


玲司は静かに頷いた。


「きっと……あいつはずっと、こうやって誰かを護ってきたんだ。誰にも言わずに、自分の痛みを見せずに──」


その言葉に、一樹が口を閉ざす。沈黙が三人を包む中、林の奥で、玲は最後の敵に背を向け、ゆっくりとその場を離れていった。


月明かりの下、彼の背中はどこか寂しげで、それでも確かに「帰る場所」を知っている者の歩みだった。


玲司は拳を握りしめ、胸の奥でつぶやいた。


「……もう、ひとりで背負わせない。玲、今度は──俺たちが、お前を護る番だ」


玲の足音は静かだった。敵をすべて制した後も、彼の呼吸はまったく乱れていない。まるで、これが日常であるかのように自然な佇まい──それがS級の実力というものだった。


月明かりに照らされた彼の姿は、もはや「若き戦士」ではなかった。「影」そのもの。音もなく、しかし確かに存在し、必要な時にだけ姿を見せる“護る者”。


その玲が、ゆっくりと踵を返した。風がわずかに彼のコートの裾を揺らし、その背に刻まれた傷の重みさえも、誰にも感じさせなかった。


彼の視線が、林の奥に立ち尽くす三人へと向けられる。


玲司は、思わず足を踏み出しかけた。だが、美和がそっとその腕を掴んで止める。


「待って。……今の玲には、言葉じゃ届かない」


美和の声はかすかに震えていたが、その目は玲と同じ光を宿していた。母として、彼の“本当の顔”を知っている者の強さだった。


玲の目が三人を捉える。その眼差しは冷たくも、どこか静かな慈しみを孕んでいる。


──あなたたちが無事でよかった。


言葉ではない。けれど、その目が確かにそう語っていた。


玲は深く一礼するように頭を下げ、再び背を向けた。去ろうとするその姿を、今度は玲司が止めた。


「待て、玲」


玲の足が止まる。だが、振り返らない。


「もう……お前を“戦うための弟”として見たくない。俺は……兄として、お前を家族として迎えに来た」


玲は沈黙のまま立ち尽くす。


「強くなったなお前。でも……もう、ひとりでその強さを抱えなくていい。俺たちがいる。父さんも、母さんも……俺も、お前の“家族”だ」


その言葉に、わずかに玲の肩が震えた。


長い沈黙のあと、彼はゆっくりと振り返る。


その目には、涙が浮かんでいた。


玲は静かに歩み寄り、玲司の前で立ち止まる。


「兄さん……俺、まだ……家族としての俺を、ちゃんとわかってないかもしれない。でも──」


その瞳に灯った光は、闇の中に差し込む希望だった。


「俺も……帰って、いいのかな」


玲司は無言で頷いた。そして、強く抱きしめた。


「おかえり、玲」


その瞬間、静寂に包まれた林の奥に、小さな春の息吹のような温かさが広がっていった。


「見せるつもりは、なかったんだ。だが、今は護るために動くしかない。」


その言葉に、玲司はしばらく沈黙した後、深く息を吐いた。


「それが……お前の力だったのか……」


玲の目は冷血で鋭く、だがどこか揺るがぬ決意が感じられた。


玲は静かに目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。


「誰にも話せなかった。守るために、黙って戦い続けてきたんだ。」


美和の涙が頬を伝い落ちる。


玲司がそっと母の肩に手を置き、言葉を紡いだ。


「お前が一人で抱え込む必要はない。これからはみんなで戦うんだ。」


玲のまなざしが一瞬だけ揺れた。だが次の瞬間、背後から成瀬由宇が現れ、すぐに報告する。


玲がわずかに視線を動かすと、黒い影が木々の間からすっと現れた。成瀬由宇だった。戦闘服に身を包み、血の気一つないその表情はいつも通りだが、どこか安堵の色が宿っていた。


「玲、全域の掃討完了。残敵なし。周辺の潜伏痕跡も、桐野が確認して排除済みだ。……これで、今夜の脅威は去った」


玲はうなずくだけだった。


だが、その場にいた誰もが、彼の背中からわずかに緊張が解けたことを感じ取った。


成瀬は玲を見てから、玲司、美和、一樹の三人に視線を移す。そして、礼を込めるように言った。


「……あなた方が彼の“帰る場所”でいてくれること。それが、玲にとって何よりの力になります」


言葉少なに、けれど確かな想いが宿るその一言に、美和は静かに目を伏せ、震える声で答えた。


「……帰ってきてくれて、ありがとう。玲。あなたはもう一人じゃない」


玲の瞳が揺れる。冷たい鋼のようだったその眼差しに、わずかに人の温度が戻ってきた。


玲司は一歩、彼のもとへと近づく。


「これからは、俺たちがそばにいる。どれだけ傷ついても、お前が帰れる場所を……俺たちが守る」


玲はその言葉に、わずかにうなずいた。


まるで、戦いのなかにしか存在できなかった彼が、ようやく人としての輪の中に戻ってきたかのようだった。


そのとき、成瀬が無線に指をあてる。


「桐野、状況を報告しろ」


無線から桐野詩乃の淡々とした声が返ってくる。


『敵の装備は改造された市販品。組織的な動きがあった痕跡はあるが、プロフェッショナルではない。……この戦力をもって、何かを狙っていたとすれば、目標は明確。それは“玲の排除”、あるいは“彼の家族の拘束”』


沈黙が落ちる。


玲の視線が、ふたたび玲司に向けられる。


「だから……もう、“見せるつもりじゃなかった”なんて、言ってられなかった」


その声には、冷たさではなく、静かな意志が宿っていた。


玲司は小さく笑った。


「いいさ。全部見せてくれ。強さも、弱さも……お前がどんな姿でも、家族であることは変わらない」


玲はその言葉に、かすかに口元を緩めた。


それは、長い年月をかけてようやく見せた、彼の「ただの弟」としての表情だった。


そして──月明かりの下、家族と影班に囲まれながら、玲は今、確かに“護る場所に帰ってきた”。

成瀬由宇の姿を確認すると、わずかにその鋭かった肩が緩む。まるで、戦場の緊張が溶け落ちる瞬間のように。


そして──


玲は丁寧に頭を下げ、深く、真っ直ぐな一礼を成瀬に捧げた。


「……よくやってくれた、成瀬。これでしばらくは安心できそうだな」


その言葉には、戦友としての信頼と、玲なりの感謝の念が込められていた。

成瀬は無表情のまま少しだけ眉を動かし、短く返す。


「任務ですから。……だが、あなたが生きていてよかった。それだけは、本心です」


玲は一瞬だけ目を細める。戦闘で見せた冷徹な瞳とは違う、静かで人間らしい光が宿っていた。


「お前がここにいてくれてよかったよ。……俺一人では、この夜を越えられなかった」


そのとき、少し離れた場所から桐野詩乃と安斎柾貴も姿を現す。


「戦闘圏、完全制圧を確認。追跡者なし」桐野が淡々と報告し、


「周辺のスキャンも異常なし。……やれやれ、少しは眠れそうだな」安斎が肩をすくめて付け加える。


玲は再び彼らを見渡す。──自分を支えてくれた仲間たち。


その背後、少し離れたところで玲司、美和、一樹が静かにその様子を見つめていた。


玲はふと振り返り、家族の方を見やる。


そして小さく、しかし確かに、彼らにも一礼を送った。


「……ただいま」


その一言に、美和が口元を押さえて涙をこぼし、一樹が目を伏せ、玲司がまっすぐ頷いた。


静寂に包まれた林に、ようやく安らぎが戻った。


その中心で、玲はただ立ち尽くしていた。──守りきった者として、帰る場所を手にした者として。

背後の静寂に、影班の緊張感が漂う。


玲司は拳を軽く握りしめ、静かに呟いた。


「これからが、本当の戦いだ…」


玲は微かな風に揺れる木々のざわめきに耳を澄ませながら、無線機を手に取った。


詩乃の声が続く。「赤外線では6名、斜面をゆっくりと移動中。装備は軽装、だが動きに迷いがない。傭兵型の訓練を受けている可能性あり」


成瀬由宇がすぐに応答する。「迎撃地点を設定する。接近される前に制圧する。詩乃、座標を送れ」


詩乃「了解、送信──……完了」


安斎柾貴の声が重なる。「念のために残党の可能性も視野に。玲、今回は俺も前に出る」


玲は無言のまま一度うなずき、玲司の方へ視線を向ける。


「家の中へ。扉は影班が守る。中にいれば安全だ」


だが玲司は首を横に振る。「いや、もう“中”にいるだけじゃ済まされない。俺も行く」


玲は一瞬、反論しかけたが──


玲司の目が、それを許さなかった。家族を守る男の目。覚悟のある瞳。


玲は静かに目を細め、しばし無言のまま見つめ──やがて口を開いた。


「……わかった。ただし、背中は預けるな」


玲司が頷いた。


「背中はお前が見てろよ」


そのやりとりに、美和が一瞬だけ眉を寄せたが、次にはふっと笑った。


「この兄弟は、本当に……」


その声に、どこか緊張がほぐれる。


一樹が自ら拳を握りしめ、背中越しに玲司を見上げて言った。


「僕も手伝うよ。僕だって、見てきたから。玲のこと──そして、玲司のことも」


玲は、今度は一樹を見た。


「無茶はするな。……でも、ありがとう」


月明かりが差し込む林道に、彼らは再び並び立つ。


玲、玲司、一樹──背後には、家族。仲間。そして護るべきもの。


西の斜面。次なる敵が迫る。


しかし今度は、誰も一人ではない。


玲が短く言った。


「……出るぞ。終わらせるために」


木々がざわめき、風が吹く。再び始まる戦い。


だがその夜、ロッジの光は揺らがなかった。


──“護る”覚悟を手にした者たちが、そこに立っていたからだ。


2025年5月21日(火) 午前1時12分/東京都郊外・玲探偵事務所ロッジ


静けさが戻っていた。


ロッジのまわりの木々は、先ほどまでの戦慄を忘れたように葉を揺らしていた。夜風は穏やかで、夜空には星がひとつ、またひとつと姿を現していく。


玲はロッジのウッドデッキに立ち、手にした黒革のノートを閉じた。ページには、今夜起きたすべてのことが記されている。


「……今回は、守りきれたな」


沙耶が静かに言った。傍らには奈々、そして、肩に毛布を羽織った朱音がいた。彼女の手には、例のスケッチブックがある。ページには、白い狼と、静かに並ぶ仲間たちの影が描かれていた。


「……これは、今夜のこと?」


奈々が尋ねると、朱音はコクリと頷いた。


「うん。お父さん、泣いてたから……きっと、嬉しかったんだと思う」


遠くで、圭介が沙耶に背を預けて座っていた。その顔は疲れと安心が入り混じっていたが、どこか穏やかでもあった。


ロッジの内部では、K部門の調査官たちが最終チェックを終え、静かに撤収の準備をしている。ユウタは服部榊と共に、地下の結界が完全に安定したことを確認していた。


「……もう、ここにはそう簡単に侵入できない。服部門が張った結界は、“記録”そのものを守るものだ。あの子たちの記憶も、もうそう簡単には奪わせない」


榊はそう言うと、ユウタの頭をポンと軽く叩いた。


「それでも──」


ユウタが目を伏せる。


「また来るかもしれない。違うやり方で、違う顔で。記憶を壊そうとする奴らは、まだどこかにいる」


榊は黙って頷いた。


「……だがな、ユウタ。忘れるな。お前は“記憶の証人”だ。誰かの過去を、絶望ごと覚えていてやるのが、お前の役目だ」


「……うん」


ユウタはうなずき、静かに階段を上がっていった。


ロッジの外では、夜明けが近づいていた。


まだ黒く、重い夜の底で、東の空に一筋の青がにじむ。


──護る覚悟を手にした者たちは、まだ傷ついていた。

──だが、その目は前を向いていた。


朱音はそっとスケッチブックを閉じ、空を見上げた。


「……ねえ、ユウタ。コウキくん、ちゃんと見てくれたかな」


「きっと、見てるよ」


ユウタは隣に立ち、空を見上げた。まだ戻らぬコウキの姿を、彼は思い描く。


「──だって、あいつの記憶、今もここにあるから」


朱音は微笑んだ。


そして、彼らは再び静けさの中へと歩き出した。


まだ終わらない。けれど、始まってしまった物語の続きを──

このロッジから、彼らはまた描き始めるのだった。


【後日談】

場所:東京都郊外のロッジ・玲探偵事務所のリビング

時間:春の昼下がり


窓の外では柔らかな春の風が木々を揺らし、ロッジの中には静かな安らぎが広がっていた。


玲はデスクに向かい、事件の資料を整理しながらも、どこか穏やかな表情を見せていた。


「玲、たまには休めよ」


背後から父の一樹が穏やかな声をかける。玲は振り返り、少し照れくさそうに笑った。


「わかってるよ、父さん」


朱音の元気な声がリビングに響き渡った。


「お兄ちゃん!」


玲はその声に一瞬、戸惑いを見せ、顔がわずかに赤らんだ。普段は冷静沈着でクールな彼だが、朱音の無邪気な呼びかけには心の奥底から温かな感情が湧き上がったのだ。


しかしすぐに、玲は男らしい誇りを取り戻すように胸を張り、柔らかな微笑みを浮かべながら答えた。


「おう、朱音。元気そうだな。」


朱音は満面の笑みで玲の足元に飛びつき、安心したように彼にしがみついた。


「うん!だってお兄ちゃんが守ってくれるって分かってるから!」


その言葉に玲は心の中で密かに誓う。


“必ず、みんなを守り抜く──それが俺の役目だ。”


その瞬間、リビングの空気が一層温かく包まれ、家族の絆がより一層強く結ばれたのだった。


玲は照れ隠しに軽く腕を組み、わずかに目を伏せながらも、どこか誇らしげな笑みを浮かべた。


「……男だからな。たまには、こういうのも悪くないだろう」


沙耶がからかうように目を細め、橘奈々はにやりと笑いながらも、そんな玲の一面を微笑ましく見守っていた。


玲の冷静で鋭い瞳の奥に、一瞬だけ柔らかな光が灯り、彼の普段のクールさとは違う、少し不器用な温かさが滲んでいた。


ロッジのリビングは笑い声に包まれ、硬かった空気がふっと和らいだ。


仲間たちと家族の絆が、ここに確かに根を張り、新たな日常の一歩が静かに刻まれていった。

あとがき(玲司視点)


玲司は静かに遠くを見つめながら、深い息をついた。


「弟・玲の動きを見ていて、彼が抱えてきた孤独と覚悟を改めて感じた。彼はずっと、家族や仲間を守るために一人で戦ってきたんだ。けれど、これからはもう一人じゃない。僕たち家族も仲間も、彼のそばにいる。だからこそ、どんな困難が来ても、共に乗り越えていけるはずだ。」


玲司は拳を軽く握りしめて、確かな決意を胸に秘めていた。



あとがき(父・圭介視点)


圭介は、家族の写真を手に取りながら呟いた。


「玲があれほどまでに強くなったとは思わなかった。彼の中には、守りたいという強い意志が宿っている。あの日、あの事件があって以来、彼は決して弱さを見せなかった。でも、本当は誰かに頼りたかったはずだ。今、この家族が一つになり、彼の背中を押していることを誇りに思う。」


目に光るものを感じながらも、静かな笑みを浮かべた。



あとがき(母・美和視点)


美和は窓の外の夜空を見上げて、優しい声で語った。


「玲はいつも孤独だった。でも、それは彼が家族を守るための選択だったのね。これからは、みんなで彼を支え、温かい絆で包みたい。家族の絆がどれほど強いか、改めて感じる夜だったわ。どんな闇も、みんなの光で切り拓いていけるはず。」


彼女はそっと、家族の写真を胸に抱きしめた。

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