41話 「亡霊ファイル ~記録に残らない日々~」
■ 神崎 玲【29歳】
•職業:元K部門特殊捜査官/現・民間調査協力
•特徴:冷静沈着で頭脳明晰。身体能力も高く、銃器・戦闘技術に長ける。
•性格:表情をあまり出さないが、心の内には強い正義感と仲間への深い信頼を持つ。
•役割:事件解決の中心。仲間や被害者の記録・証言を守り、正確な判断で危機を回避する。
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■ 佐々木 朱音【10歳】
•特徴:純粋で直感力に優れた少女。スケッチブックを持ち歩き、目にしたものを描くことで事件解明に貢献。
•性格:無邪気で好奇心旺盛。だが危機察知能力は非常に高い。
•役割:S級情報破壊スペシャリスト。玲や沙耶と共に合同訓練に参加。
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■ 沙耶【29歳前後】
•特徴:玲の妻・朱音の母。影の殺戮者として高い戦闘能力を持つ。
•性格:冷静で判断力が鋭いが、家族や仲間には深い愛情を示す。
•役割:任務では圧倒的戦闘力で仲間を守る。日常では朱音の“ママ”として温かさを見せる。
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■ 成瀬 由宇
•特徴:影班メンバー。暗殺・索敵・情報制圧を担当。
•性格:冷酷で表情をほとんど変えないが、仲間への忠誠心は絶大。
•役割:合同任務や実戦訓練で玲を補佐。危機察知能力が非常に高い。
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■ 桐野 詩乃
•特徴:影班メンバー。毒物処理・痕跡消去のスペシャリスト。
•性格:物静かで慎重。仲間への信頼は厚く、任務中は冷徹。
•役割:情報痕跡の消去や証拠操作を担当。玲や沙耶と連携する。
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■ 安斎 柾貴
•特徴:影班メンバー。精神制圧・記録汚染を担当。
•性格:高身長で筋肉質。冷静だが、玲に対する尊敬と信頼を行動で示す。
•役割:任務時に仲間の心理的圧迫や敵の動きを封じる。
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■ 奈々(なな)
•特徴:玲の補佐役。端末操作・情報解析担当。
•性格:元気で明るく、玲を“さん付け”ではなく呼び捨てで呼ぶ。任務では緻密。
•役割:遠隔操作や端末解析で玲たちの作戦を補助。
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■ 榊 健司
•特徴:元消防官・現K部門分析官。現場調査・痕跡解析担当。
•性格:冷静で観察力に優れ、僅かな違和感も見逃さない。
•役割:現場から得られる物理的証拠を解析し、事件解決の手がかりを提供。
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■ 柊 コウキ(ひいらぎ こうき)
•特徴:封印された記憶を持つ少年。事件の証人として重要。
•性格:無口だが、直感力と観察力は鋭い。玲と深い絆を持つ。
•役割:記録実験施設跡で玲と繋がり、過去の事件の真実を示す。
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■ 高城 次長
•特徴:K部門上層部の内部協力者。心理戦・情報操作を得意とする。
•性格:冷酷で計算高い。自らの権力と情報網を駆使して影から事件を操る。
•役割:物語後半の黒幕的存在。玲との心理戦で物語に緊張感を与える。
時間:午前7時15分
場所:東京都杉並区西荻北3丁目、朝日ハイツ2階の一室
住宅街には、朝の通勤ラッシュを前にした静けさがまだ残っていた。古びたアパート「朝日ハイツ」の2階から、わずかに異様な気配が漂う。
「……いつもは午前6時すぎには洗濯機の音がするんだけど、今日は何の物音もしなくて……変だと思って、声をかけたんです」
隣室に住む初老の女性が警察官に説明する。声には小さな震えが混じっていた。
警察官が現場に到着する。制服の光沢に反射する朝日が、古びた廊下を淡く照らす。
「内側から鍵がかかってますね。強行開錠します」
巡査の一人が言い、金属バールを手にドアに向かう。
ガチャリ――
ドアが無理やり開けられた瞬間、沈黙が部屋を覆った。
倒れていたのは、20代の女性。髪は乱れ、下着がずれ、身体の一部には打撲痕が見える。頬には微かに乾いた涙の跡。だが、部屋には争った形跡はほとんどなかった。
「……意識はありますか!?」
救急隊員が駆け寄り、肩に手を置く。
女性は低反応のまま、呼吸は浅くかすかに動いているだけだった。
「すぐ搬送します。落ち着いて、もう大丈夫ですから」
救急隊員が声をかけ、担架に女性を慎重に乗せる。
通報者の初老女性は、手を胸に当て、震える声でつぶやいた。
「……こんなこと、今までなかったのに……」
外の朝の光と、通勤ラッシュの喧騒が、何事もなかったかのようにアパートの外で流れていた。
時間:午前7時20分
場所:東京都杉並区西荻北3丁目、朝日ハイツ2階の一室
刑事たちは、室内を見渡して言いようのない違和感を覚えていた。
「性被害の可能性がある――そう報告は上がっているのに、本人は“何もされていない”の一点張りだ」
刑事Aが眉をひそめる。声には、現場に漂う異様さへの戸惑いが滲んでいた。
「でも、打撲痕や乱れた衣服はどう説明する?」
刑事Bが書類を手に問いかける。被害者の体には、確かに不可解な痕跡が残っている。
通報者の初老女性は、階下の廊下で手を震わせながら話した。
「……こんなこと、今までなかったのに……。彼女はいつもおとなしくて、誰とでも仲良くする子なのに……」
刑事たちは視線を交わす。被害者は低反応のまま、救急隊員に付き添われて病院へ搬送される。
「搬送先で詳しく事情聴取を行うしかないな」
刑事Aが小さくため息をつく。
「現場には争った形跡もほとんどない……。強制性があったのか、それとも心理的な圧迫か」
刑事Bが慎重に言葉を選ぶ。
窓の外では、朝の通勤ラッシュが始まっていた。外界の喧騒と、この部屋の静寂は、あまりにも対照的だった。
刑事たちはその静けさに、一層の違和感を覚えながら、証拠保全のための写真撮影と採取作業に入る。
「衣服や痕跡はすべて押さえておく。後で専門家の意見も仰ぐ」
刑事Aが指示を出す。
「…本人が何も覚えていないと言っても、現場と痕跡は残る。慎重にやるしかないな」
刑事Bが頷く。
室内の異様な沈黙の中で、刑事たちは静かに、しかし確実に捜査の第一歩を踏み出していた。
時間:午前11時42分
場所:警視庁杉並署 刑事課・取調室B
その数時間後、刑事課に届いた身元確認報告が、場の空気を一変させた。
報告書には、こう記されていた。
「被害者氏名:川原真由/27歳/杉並区西荻北3丁目在住/都内出版社勤務」
デスクに報告を置いた刑事の表情が硬い。
「……川原真由。去年、別件で“つきまとい被害”の相談をしていた人物だ」
室内の空気が一気に緊張する。
刑事課の係長、榊警部補は、報告書を静かにめくりながら言った。
「前回の相談記録、すぐ照会。対応したのは生活安全課だったな。内容は“元交際相手の不審な行動”か」
若い刑事が端末を叩き、該当記録を呼び出す。
モニターに映し出されたのは、たった一枚の相談票。
『深夜に何度もインターホンを鳴らされる。家の前に立っている影を見た。警察に相談したが、実害がないと言われた』
榊は低く息を吐いた。
「……実害が出るまで放置された、典型的なパターンか」
時間:午後3時05分
場所:警視庁杉並署 刑事課・聞き込み室
被害者・川原真由は、意識を取り戻してから数時間後、医師の許可を得て、短時間の事情聴取が行われていた。
同席するのは女性警察官の高梨巡査部長、そして榊警部補。
被害者の心理的負担を最小限にするため、聴取はゆっくりと進められた。
榊が記録用のタブレットを軽く閉じ、穏やかに口を開く。
「川原さん、無理に思い出そうとしなくていい。確認だけさせてください。あなたの部屋の合鍵を持っている人は、誰かいませんか?」
真由は少し眉を寄せ、首を傾げる。
「……ひとりだけ、前の……彼が。返してもらったはずなんですけど」
榊が顔を上げる。
「名前を教えてください」
「……瀬川直人。同じ会社にいました。今は、別の部署に……」
榊が視線を送ると、背後で高梨が静かにメモを取る。
「その方とは、最近連絡を取っていますか?」
真由は小さく首を振った。
「別れて半年くらいです。連絡は……最後に“荷物を返す”ってLINEしたきり」
榊は低く唸る。
「その荷物の受け渡し、どこで?」
「……自宅の前です。夜7時ごろ。あの日も……コーヒーを……」
榊と高梨が一瞬だけ視線を交わした。
榊が淡々と確認する。
「そのとき、彼が部屋の中に入ったことは?」
「……いえ。玄関の外で話して。……ただ、玄関を閉める前に、“またいつでも呼んで”って……」
榊は深く息を吐き、メモを閉じた。
時間:午後4時20分
場所:杉並区西荻北3丁目・被害者自宅前
現場では、鑑識班と刑事二名が改めて周辺を確認していた。
捜査一課からの応援で来ている若手刑事・田嶋が、玄関の鍵穴を覗き込みながら呟く。
「鍵穴に傷なし、ピッキング痕なし。内部開錠の可能性、ほぼ確実ですね」
「つまり、合鍵が使われた……」
同行していた高梨が頷く。
「……だけど、彼女は返してもらったと言ってる」
田嶋が近くの防犯カメラを指差す。
「このアパート、管理人室に録画データが残ってます。過去一週間分を押収済みです。再生しますか?」
高梨がうなずき、モニターを確認する。
映し出された映像には、事件の前日夜7時ごろ、スーツ姿の男が小さな紙袋を手にして玄関前に立つ姿が記録されていた。
顔は伏せがちだが、肩の線と歩き方からして、ほぼ瀬川直人と断定できる。
高梨「……間違いない。これが“荷物の受け渡し”の日ね」
田嶋「じゃあ、その翌日……」
再生が進む。
画面に映るのは、深夜2時。
玄関前を横切る人影。
一瞬だけ立ち止まり、ポケットから何かを取り出して――鍵を差し込む仕草。
そして、ドアが静かに開いた。
高梨「……入ってる。これ、完全に合鍵使用だわ」
田嶋「顔が映ってないが、体格と歩幅は昨日の男と一致してます」
高梨は唇をかみしめ、無線を取った。
「榊さん、こちら高梨。現場映像確認。被害者元交際相手・瀬川直人と思われる人物が、事件当日深夜2時に無断入室しています」
無線越しに榊の低い声が返ってくる。
『了解した。すぐに瀬川の勤務先を割り出せ。任意同行の準備を』
時間:午後5時10分
場所:都内・新宿区某出版社 本社ビル
榊たちは、被害者の勤務先である出版社を訪れていた。
応接室で対応に出たのは、人事課の女性だった。
榊「川原真由さんの同僚に、瀬川直人という方がいますね」
人事担当「ええ、同じ編集部にいましたが、今月初めに休職届を出しています」
榊「理由は?」
人事担当「“家庭の事情”とだけ。ですが、休職届が出た翌日に退去連絡もありました」
榊が眉をひそめる。
「退去? どこの物件ですか?」
「会社の社宅です。住所はこちらに」
榊はその場で連絡を入れた。
『榊より本部へ。瀬川直人の社宅を特定。即時現地確認を依頼。逃亡の可能性あり』
電話を切る榊の目が鋭くなる。
「合鍵、侵入、薬物混入、そして退去。――瀬川直人、間違いなく意図的だ。
あとは“なぜやったのか”だな」
時間:午後8時15分
場所:警視庁杉並署 捜査会議室
蛍光灯の下、榊警部補は白板の前に立ち、集まった刑事たちへ視線を走らせた。
壁際では、高梨巡査部長と田嶋刑事がそれぞれ資料を手にしている。
榊が短く息を整え、口を開いた。
「鑑識による現場採取の結果が出た。
被害者・川原真由の部屋のキッチンから“空のコーヒーカップ”を発見。
指紋は被害者本人のもののみ。だが――縁の部分に微量の粉末残留が確認された」
数人の刑事が顔を見合わせる。
「粉末って、まさか……」
田嶋が声を潜めて問う。
榊は頷いた。
「成分鑑定中だが、ベンゾジアゼピン系の鎮静剤の可能性が高い。
つまり、飲み物に薬を混入され、意識を落とされた可能性がある」
会議室に重い沈黙が落ちる。
榊は一枚の写真をホワイトボードに貼り付けた。
それは、現場から押収された監視カメラの静止画だった。
「深夜2時。瀬川直人と思われる人物が、被害者の部屋に侵入している。
顔は伏せているが、体格と歩幅の一致率は九十六パーセント。
しかもその翌日――勤務先に休職届、そして社宅を退去」
榊はペンを手に取り、白板に線を引く。
そこには三つのキーワードが並んだ。
1.薬物混入
2.合鍵侵入
3.退去と通信遮断
「これらを踏まえ、瀬川直人は計画的な犯行の可能性が高い。
だが――問題はここからだ」
榊が一拍置いて、机の上の資料を開く。
「瀬川のPC・スマホの通信履歴を解析した結果、事件の一週間前から“匿名アカウント”とのやり取りが確認された。
その相手が誰なのかはまだ特定できていないが、送信内容の一部が暗号化されている。
内容は『次は指示通りに』『彼女は覚えていない』」
会議室がざわめく。
高梨が眉を寄せて言った。
「じゃあ、瀬川は誰かの“指示”で動いてた可能性があるってこと?」
榊「そうだ。単独犯と見るのはまだ早い。少なくとも、“誰かが背後にいる”」
田嶋「社宅の方は?」
榊は腕時計を確認し、短く答える。
「現場班から報告が入った。今、突入準備完了だ」
時間:午後8時42分
場所:東京都中野区上鷺宮1丁目・会社社宅棟205号室
「警視庁! 中にいる方、応答してください!」
榊の声が響き、同時にドアのロックが破られた。
突入と同時に室内を制圧――だが、部屋の中は完全にもぬけの殻だった。
ベッドの上には整然と畳まれたシャツ。
机の上には、電源を落とされたノートPCと割れたスマートフォンの残骸。
カーテンの隙間からは、東京の夜景が冷たく光を差し込んでいる。
高梨が小さく息を呑んだ。
「……生活感がない。最初から逃げるつもりだったみたい」
田嶋はノートPCを手に取り、慎重に確認する。
「ストレージの一部が物理破壊されてます。ですが――」
彼が指先で端子部分をなぞる。
「暗号化データの一部が残ってる。通信履歴も消去しきれていません」
榊が短く頷く。
「解析に回せ。……それと、部屋の奥を見ろ」
照明の届かないクローゼットの奥――。
そこには、紙で覆われた壁一面に貼られた“女性の写真”。
その中には、川原真由の勤務証のコピーも含まれていた。
高梨が低く呟いた。
「……これ、ストーカーじゃなくて“監視”よ。誰かに報告してた可能性が高い」
榊は写真を一枚手に取り、指で縁をなぞった。
そこにはボールペンで走り書きのメモ。
『3/12 成功 指示通り服用』
榊の表情が険しくなる。
「やはり――“共犯者”がいる」
田嶋「榊さん、じゃああの匿名アカウントの相手は――?」
榊は答えず、ただ静かに立ち上がった。
「明日から、対象を“外部協力者”として再分類する。
これは単なる交際トラブルじゃない。――明確な操作型犯行だ」
夜の社宅棟の外で、パトカーの赤色灯が鈍く光った。
午前9時30分 警視庁 K部門・第4記憶犯罪対策班
警報音が一度、低く鳴った。
デスクの端末に赤いフラグが点滅し、当直官が反射的に受信ボタンを叩く。
「被害者の発話は、表面上は正常だが――記憶に断絶がある。
医師からの報告でも、“心因性失語”の兆候が確認された。
さらに……記録抹消技術の使用が疑われる」
室内にざわめきが走る。
記憶犯罪対策班の主任、榊健司警部補は、すぐさま椅子を引いた。
「……“記録抹消”か。久しく聞かなかった言葉だな」
ファイルを開きながら、彼は眉間を押さえる。
ディスプレイに映し出されたのは、先日の“杉並区上荻のアパート事件”の現場写真。
被害者・川原真由――医療的には命に別状なし。だが、事件に関する記憶がすっぽり抜け落ちている。
榊は無言で報告書に目を通し、低く呟いた。
「表層記憶だけが削られている……ってことは、やったのは素人じゃない。
“操作”だ。意図的に消された」
若い捜査官の一人が、端末を見ながら問う。
「前回の“白金データ消去事件”と同じ手口の可能性は?」
榊は首を横に振った。
「いや――あれは完全削除。今回は“残された”。
削除じゃなく、編集されてる」
午後2時24分 警視庁・K部門 第4記憶犯罪対策班 ブリーフィングルーム(千代田区霞が関)
会議室の照明はやや落とされ、中央のモニターに現場データが静かに投影されていた。
映し出されているのは、杉並区上荻三丁目の古いアパートの一室――
倒れた被害者・川原真由(26)、乱れた室内、そして机上に置かれた一つのコーヒーカップ。
その縁に、微量の粉末と指紋――。
榊健司警部補は、背もたれにもたれずに身を乗り出し、腕を組んで画面を凝視していた。
彼の横では、補佐官の橘奈々が無言で端末を操作している。
室内には他に、分析担当、心理捜査官、通信管制官など、計七名の専門スタッフ。
誰も口を開かず、ただファンの低い唸り音だけが響いていた。
やがて、榊がゆっくりと口を開いた。
「……被害者の意識は戻ってる。だが、“事件そのものを覚えていない”」
奈々がモニターに被害者の面談映像を投影した。
病室で撮影されたものだ。
川原真由は穏やかな顔で、「何もされていません」と繰り返している。
だが、瞳の動きは微妙にズレ、声のトーンもどこか無機質だった。
奈々「心因性失語の兆候は軽度。でも、発話パターンの周期が一定すぎる。
まるで再生された記録みたいなの」
榊「つまり、“自分の言葉”じゃない可能性があるってことか」
奈々は小さく頷いた。
「はい。
通常のトラウマ反応なら、感情の波がもっと不規則になります。
でも彼女の場合、発話も呼吸も心拍も――完全に整いすぎてるんです」
榊は指先で顎を押さえ、しばらく黙考した。
やがて、低く呟く。
「……“整ってる”のは、誰かが整えたからだ。
これは、自然な記憶欠落じゃない」
分析官の一人が口を挟んだ。
「榊さん、現場のキッチンから検出された粉末、初期分析出ました。
“ジアゼパム系”の微量痕跡ですが、脳内作用に変調を与える量じゃありません。
つまり、薬物単独では説明がつかない」
榊「薬で眠らせ、記憶を書き換えた……いや、“誘導した”って線もあるな」
奈々は画面を切り替え、事件発生前の通信履歴を表示する。
そこには“瀬川”という名前が残っていた。
元交際相手、そして会社の同僚。
だが現在は所在不明――端末は電源ごと切断されていた。
榊「瀬川の捜索を優先。だが――」
そこで一拍置き、声を落とした。
「今回の件、“記録抹消”にしては手が込みすぎてる。
このパターン……誰かがプロトコルを知ってる。
しかも、現場の痕跡を最小限に抑えてる。まるで訓練された手口だ」
奈々が静かに問う。
「榊さん、まさか内部流出の線も?」
榊は答えず、ただ視線を彼女に送った。
沈黙。
その沈黙が答えだった。
奈々は深く息を吐く。
「……了解。
K部門のアクセスログ、私が洗います」
榊「頼む。
それと、K部門全班に通達――本件を**記憶犯罪特別指定(G-14)**として扱う。
関係者すべて、監視下に置け」
榊の声が会議室の空気を切り裂いた。
奈々の指が端末を滑り、即座に通達が走る。
その瞬間、壁面モニターの一つが一瞬だけノイズを走らせた。
映像が乱れ、ざらついた音が空気を震わせる。
奈々が即座に反応する。
「……誰か、今、外部からアクセスしました!」
榊の瞳が鋭く光った。
「内部協力者がいる――」
低く、抑えた声で。
K部門の戦慄が、そこから始まった。
2025年10月17日(金) 午後2時27分 東京都千代田区霞が関 警視庁・K部門 第4犯罪対策班 ブリーフィングルーム
無機質な蛍光灯に照らされた会議室で、記憶探査官・**水無瀬透**は、モニターに映し出された現場映像を前に眉を寄せていた。
映像には、川原真由のアパート室内の様子が映っている。散乱したカップ、テーブルの上の粉末、乱れた寝具。だが、不思議なことに、明確な暴力の痕跡は見当たらなかった。
「……本当に争った形跡がないな」
透が呟くと、背後で榊警部補が資料を閉じた。
「被害者は意識を取り戻している。だが、供述が曖昧だ」
榊の声は低く、疲労の色が混じっている。
「“何もされていない”と言い張っているが、身体的な痕跡は確かにある。医師の診断でも、外傷性のショック反応と記憶の断絶が確認された」
透は映像を止め、被害者の顔写真を拡大する。
画面の中で、真由はどこか虚ろな表情をしていた。
視線は焦点を結ばず、何かを思い出そうとするたび、苦痛に顔をゆがめている。
「ショックで断片的に記憶が抜けている可能性がありますね。
ただ、現場の状況を見る限り……相手は顔見知りだったのかもしれません」
榊が頷く。
「その線で動いている。現在、交際相手だった**瀬川俊介**を中心に周辺を洗っているが、昨夜から連絡が取れない。勤務先の社宅ももぬけの殻だ」
透は腕を組んだ。
「逃げたのか、それとも……?」
榊は短く息を吐いた。
「わからん。
だが、彼のパソコンとスマホの通信履歴に、不審な連絡記録が残っていた。事件直前、誰かと長時間の通話をしている。
相手の身元は、まだ特定できていない」
会議室の隅で端末を操作していた橘奈々が顔を上げた。
「現場の鑑識報告、更新入りました。
キッチンのコーヒーカップから、被害者本人の指紋以外は出ていません。
ただ、縁に微量の粉末が付着していて、検査中とのことです」
「薬物の可能性か……?」と榊。
「はい。睡眠導入剤、あるいは鎮静剤の成分かもしれません。
量が少なく、自発的摂取の線も消えませんが――」
透がゆっくりと言葉を継いだ。
「だが、被害者の証言と合わない。
“何もされていない”のに、薬を飲む理由がない」
沈黙が落ちた。
紙の擦れる音も、キーボードの打鍵音も止まる。
榊は腕を組み、短く告げた。
「いいか。これは単なる性被害事件として処理できない。
――被害者は“自覚のない被害者”かもしれん」
奈々が顔を上げる。
「つまり……?」
榊の目が冷たく光った。
「誰かが、“抵抗できない状況”を作り出し、あえて“覚えていない”よう仕向けた可能性がある。
心理的な操作、もしくは薬物による記憶の混乱……いずれにせよ、悪質だ」
透はモニターを見つめたまま、低く呟いた。
「“何もされていない”と言いながら泣いている顔――
あれは、記憶じゃなく“感情”が拒絶してる」
榊は小さく頷き、言葉を絞り出すように言った。
「瀬川を探せ。
まだ都内にいる可能性が高い。
そして――“もう一人の協力者”がいると考えて動け」
静寂の中、奈々が小さく頷いた。
部屋の空気が、確実に捜査の“初動”へと変わっていった。
外では、夕暮れ前の霞が関のビル群に、薄橙の光が滲み始めていた。
2025年10月17日(金) 午後3時12分 東京都千代田区霞が関 警視庁・K部門 第4犯罪対策班 ブリーフィングルーム
カタカタと静かなキーストローク音が、会議室の中に響いていた。
端末を操作しているのは橘奈々(たちばな なな)。
無表情のまま、解析用モニターを次々と切り替えていく。指の動きは正確で、まるで機械のように無駄がなかった。
「……通信記録の解析、進行率72%。
瀬川俊介の端末から、“非登録番号”への発信を確認。発信時刻は事件前日の22時41分。通話時間、43分12秒」
奈々の声に、記憶探査官の水無瀬透が顔を上げる。
「43分? それだけの長時間……何を話していたんだ?」
「内容まではまだ復元できません。暗号化通信の一種です。
ただし、プロトコルが一般的な通信回線のものじゃない」
榊警部補が眉をひそめた。
「つまり、業務用か?」
「はい。企業間通信に使われるセキュリティチャンネルに似てます。
――でも、瀬川はそんな環境に所属していません」
会議室の空気が一瞬、重くなる。
透はタブレットに表示された被害者・川原真由の勤務記録をめくりながら、静かに呟いた。
「彼女の勤務先は、一般企業の経理部門……。
瀬川は同じビルで設備管理の契約社員。二人とも普通の社会人。
“裏”とは無縁の生活だったはずだ」
榊は黙ってホワイトボードにマーカーを走らせた。
《川原真由(被害者)》
《瀬川俊介(失踪)》
《非登録通信:暗号化/業務チャンネル》
赤い線で三つの点が結ばれる。
「……やはり、誰かが介在してるな」
榊の声は低く、確信に近かった。
その時、奈々の指が止まった。
「通信の一部、復元できました」
全員の視線がモニターに集まる。
ノイズの向こうから、かすれた男性の声が浮かび上がった。
『……例の“記録”、消したんだな?』
沈黙。
水無瀬透は一瞬、息を呑んだ。
榊も、奈々も、その言葉の意味をすぐに理解した。
「……“記録”?」
榊が呟く。
奈々は映像を止め、静かに説明した。
「削除操作のログはありません。
つまり、“何か”を消した記録自体が、最初から存在しないようにされている」
透は腕を組み、深く息を吐いた。
「まるで――痕跡ごと“消されている”みたいだな」
榊はホワイトボードを見つめたまま、低く言った。
「被害者の“記憶”が曖昧なのも、偶然じゃないかもしれん。
……この事件、単なる暴行じゃなく、“何かを消すための犯行”だ」
奈々は端末を閉じ、短く返す。
「痕跡抹消型の犯人、ですね」
カタカタ……。
再び、奈々の指が静かに動き始めた。
無機質なキーストローク音が、会議室の中で再び鳴り響く。
その音だけが、今も見えぬ犯人を追う“記録”の鼓動のように響いていた。
2025年10月17日(金) 午後3時47分 東京都千代田区霞が関 警視庁・K部門 第4犯罪対策班 ブリーフィングルーム
玲の携帯が静かに振動した。画面には“K部門・榊警部補”の名前が表示されている。
指先で画面をスライドさせると、着信が自動でスピーカーフォンに切り替わった。
「玲か。現場の解析状況だが、被害者の周辺に不自然な通信痕跡が確認された。
君の現場出動を要請する。状況は、既にK部門が把握している通りだ」
玲は端末を脇に置き、無言で資料の束から一枚の写真を取り出した。
それは、被害者・川原真由の部屋のキッチン付近で発見された空のコーヒーカップの写真だった。
静かにテーブルの上に置き、視線をその写真に落とす。
薄暗い会議室の蛍光灯の光が、カップの縁に残った微量の粉末をわずかに反射させていた。
「……微量の粉末か」
玲の声は低く、抑えた調子だった。
「指紋は本人だけ。外部侵入の痕跡もなし。となると……やはり“内部操作”だな」
奈々が端末を操作しながら、眉を寄せる。
「粉末は即時検査済みです。一般的な薬品ではない。被害者が無意識に触れた可能性もある」
成瀬由宇が壁にもたれながら、低くつぶやいた。
「こういうケースは……直接的な暴行より、心理的操作のほうが犯人の目的に沿うことが多い」
玲は写真をじっと見つめ、慎重に言葉を選んだ。
「了解。俺が現場に行く。まずは被害者の周辺調査から始める。元交際相手、勤務先、合鍵の所在……全部確認する」
榊警部補がうなずき、手元の資料をまとめる。
「よし、君の判断に任せる。だが、くれぐれも慎重にな。状況は複雑だ」
玲は写真をそっと握り、端末をポケットにしまった。
「わかった。行く」
静かな決意とともに、玲は会議室を出て、現場へ向かう準備を始めた。
カタカタと再び端末が操作される音だけが、背後で微かに響いていた。
2025年10月17日(金) 午後3時59分 東京都千代田区霞が関 警視庁・K部門 第4犯罪対策班 ブリーフィングルーム
扉がノックもなく、静かに開いた。
「記録探査班、到着しました」
低く抑えた声が響き、薄暗い室内に新たな緊張感が漂う。現れたのは、K部門外部協力専門家――通称“スーパースペシャリスト”たちだった。
まず、氷室澪が前に出る。
「デバイスからの“残響”がある限り、何かしら拾えるはずです。時間はかかりますが」
彼女は手元のタブレットを軽く操作しながら、消去された映像の痕跡を光学信号で再構築する準備を整えていた。
次に、篠原詩織がゆっくりと一歩を踏み出す。
「被害者の記憶深層に私が“入る”。その痛みを追体験することになるけど……必ず見つけてみます」
被害者の心理層と共鳴し、感情の残響から事件像を浮かび上がらせる“共鳴者”の言葉は、重みを伴っていた。
最後に御子柴理央が資料の束を確認しながら告げる。
「必ず指紋が残る。あとは、その“指紋”を検出するだけ」
加害者の精神的署名を数値化し、痕跡から対象を特定する分析官だ。
玲は三人の顔を順に見渡し、深く頷いた。
「わかった。各自、手順通りに進めてくれ」
手際よくバッグを肩にかけ、静かに立ち上がる。
室内の蛍光灯が、彼の冷静な決意を淡く照らしていた。
2025年10月17日(金) 午前10時12分 東京都文京区本郷4丁目 古びたアパート 302号室
玲と氷室澪は、無人となったアパートの室内に足を踏み入れた。
床にはほこりが舞い、窓から差し込む朝の光が、わずかに焼けたカーテンを透かして室内を淡く照らす。
「ここが、通報のあった部屋か……」
玲は低くつぶやき、慎重に足を運ぶ。
氷室は手早く周囲を観察しながらタブレットを取り出す。
「デバイスの残響を確認します。消去された映像でも、微弱な光学信号として残っている場合があります」
玲は部屋の角に目を向け、倒れた家具や散乱した書類の隙間を注意深く視線でなぞる。
「怪しい痕跡は……この辺りか」
氷室がタブレットをかざすと、床や壁に微かなノイズのような光の残像が浮かび上がる。
「反応があります。ここに、消去されたカメラ映像の残響が残っている」
玲は息を整え、無言で頷いた。
「よし、そこを解析してくれ。俺は室内の痕跡を確認する」
二人の動きは静かだが、互いに呼吸を合わせるように無駄がない。
この古びたアパートの302号室には、ただの空間ではない、事件の“痕跡”が確かに眠っていることを、二人は肌で感じていた。
2025年10月17日(金) 午前10時20分 東京都文京区本郷4丁目 古びたアパート 302号室
玲は室内をゆっくり見渡し、氷室澪に小さく目配せを送った。
「ここは、現場の状況を整理してから動く。まずは周囲の情報だ」
氷室は頷き、端末を操作する。微弱な残響信号を拾いながら、被害者の行動履歴や接触者情報の初期分析を始めた。
玲は携帯端末に目を落とし、被害者・川原真由の勤務先と交際相手の情報を確認する。
「勤務先は文京区のデザイン事務所、元交際相手は隣駅付近に住んでいる。合鍵は勤務先に保管されていた可能性がある」
氷室は端末を置き、声を潜めた。
「この部屋に誰かが侵入した形跡は少ない。でも微細な痕跡が残っている。指紋は本人のみ。粉末状の残留物がキッチンカウンターにある」
玲は立ち上がり、窓際に目をやった。
「外からの侵入か、もしくは本人の同意なく室内に連れ込まれたか。可能性は絞れる。だが、本人の証言が重要になる」
午前10時35分、病院の個室。川原真由はベッドに座り、意識を取り戻していた。
玲は警察官とともに静かに部屋に入り、椅子に腰掛ける。
「川原さん、今の状態で構わないので、できる範囲で教えてほしい。昨日、何があったのか、覚えている範囲でいい」
真由は小さく頷き、声を震わせながら答える。
「……何も……覚えていないんです。ただ、気が付いたらここにいました」
玲はメモを取りながら、静かに質問を続ける。
「昨日、誰かと会ったり、連絡を取ったりしましたか?スマホやパソコンの使用記録でも構いません」
真由は首を横に振る。
「……誰とも。いつも通りの生活だけでした……」
玲は氷室に目配せし、彼女が端末を操作して通信履歴と連絡先を確認する。
「連絡先、交際相手、勤務先……誰とも不自然な接触はなし」
玲は静かに息を吐いた。
「では次は、合鍵の所在と、勤務先での出入り記録を確認しよう。時間の経過や行動の空白が事件の糸口になる」
氷室は頷き、二人で資料を整理しながら、事件の全体像を慎重に組み立て始めた。
2025年10月17日(金) 午後3時12分 警視庁 K部門・記憶共有カプセル室
篠原詩織は白衣に身を包み、静かに記憶共有カプセルのコックピットに座った。周囲のモニターには、川原真由の神経活動の断片がリアルタイムで映し出されている。
「川原さん……入ります」
彼女は小さく息を吸い込み、ヘッドセットを装着。手元の端末で接続を完了させると、意識はゆっくりと被害者の記憶深層へと沈み込んだ。
瞬間、視界が揺れ、淡い光と影の織りなす世界に変わる。
真由の見知らぬ朝の部屋、通勤途中の駅、そして自室で微かに響く鍵の音や足音――すべてが篠原の意識に流れ込む。
「……ここか」
篠原は内心で呟き、空間を慎重に進む。目の前に現れる断片的な映像や音は、あまりにも微細で、ほんの一瞬でも見逃せば重要な手がかりを失う。
彼女の心拍はゆっくりと高まり、微かな動作や声のトーンまで解析しながら、記憶の奥底に潜む違和感を探る。
「誰か……いた。部屋の中に、見えない何かが」
微かに光る影が、篠原の前を横切る。
「……まさか、被害者は自覚していないだけで、侵入者の痕跡が残っているのか」
カプセル内の彼女は、一歩一歩慎重に進みながら、真由が経験した“出来事の真相”を追体験していく。篠原の意識は、痛みや恐怖の感覚も吸収するが、それを冷静に解析することで、外部に正確な情報として返すことが可能だった。
「これで……現場では見えなかった事実が、浮かび上がるはず」
篠原は視界の歪みを整え、断片化した記憶を順序立てて整理し始める。
被害者が目撃した“微かな違和感”や“不可解な痕跡”は、すべて彼女の手元のデジタル端末にデータとして反映されていった。
2025年10月17日(金) 午後3時45分 警視庁 K部門・ブリーフィングルーム
玲は資料の束を手元に置き、椅子に座ったまま篠原詩織の報告を待っていた。
榊警部補は立ったまま腕を組み、モニターに映し出される篠原の解析画面を見つめる。
「篠原、状況は?」
玲の声は低く、しかし確実に緊張を孕んでいた。
篠原は小さく頷き、口を開く。
「被害者・川原真由の記憶深層に入りました。表面上は意識も言語も正常ですが、無意識下で明らかな違和感が残っています。部屋の中に、第三者の痕跡が確認できました」
榊が眉をひそめる。
「物理的な証拠は現場で何も見つからなかった。どういうことだ?」
篠原はモニターの映像を指し示す。
「ここです。鍵の音や微細な影が、通常の生活動作とは異なるパターンで現れました。おそらく侵入者が短時間だけ立ち入った痕跡です。被害者本人はその存在を認識していません」
玲は静かに資料をめくりながら頷く。
「なるほど……つまり、真由は意図的に恐怖を覚えさせられたが、自覚はないままってことか」
榊も考え込む。
「つまり犯行は、被害者の心理に対して巧妙に操作されている。単独犯か、共犯者か……そのあたりを洗う必要があるな」
玲は篠原に目を向ける。
「篠原、この痕跡を元に、侵入者の行動パターンを具体的に割り出せるか?」
「可能です。部屋の中の動線、時間差、光や音の変化……すべて数値化し、侵入のタイミングと手口を再現できます」
榊が即座に提案する。
「それなら、被害者の元交際相手や勤務先も含めて、接触の可能性を精査しよう。合鍵の所在や不審者の出入りも確認する」
玲は決意を込めて頷く。
「わかった。俺は現場を再確認する。篠原、数値化された侵入痕跡を元に行動パターンを作ってくれ。榊、情報収集は君に任せる」
篠原は静かにうなずき、端末にデータを入力し始める。
榊もすぐに連絡網を確認し、必要な情報を次々に手配していく。
玲は深く息をつき、モニター越しに真由の部屋を思い浮かべた。
「被害者に、犯人に、絶対に逃げ場は作らせない……」
ブリーフィングルームには、緊張と覚悟の空気だけが静かに漂った。
2025年10月17日(金) 午後4時10分 品川区東五反田・川原真由のアパート室内
玲は静かに立ち上がり、再び部屋の隅を見つめた。
床には微かな埃の堆積があり、窓際のカーテンはわずかに揺れている。
「ここか……」
玲は低く呟きながら、部屋を一歩ずつ慎重に進む。
靴底がフローリングに触れる音さえ、意識的に抑えている。
氷室澪が後方から静かに近づき、玲の動きを確認しながら端末を操作する。
「ここにカメラ痕跡があります。通常は消去済みですが、光学的残響で再構築可能です」
玲は頷き、窓際の小さなテーブルに視線を落とす。
そこには、空になったコーヒーカップと、微かに粉末が残る縁がある。
「これか……微量だけど、人為的に混入された痕跡だな」
玲はカップに触れる前に手袋を装着し、慎重に採取。
同時に部屋の周囲を見渡し、家具の角や隙間に不自然な痕跡がないかを確認する。
「ここも調べてほしい」
玲は書類の束を示す。表面にはほとんど手付かずの状態だが、紙の端に指紋や押印の痕跡が残っている可能性がある。
氷室は端末を覗き込みながら答える。
「了解です。指紋解析とデバイス痕跡を同時に処理します」
玲はゆっくりと立ち上がり、窓から差し込む秋の光を受けながら深呼吸する。
「侵入者の動線はここで止まった……時間差で入った可能性が高い」
そのとき、部屋の奥のクローゼット扉に微かな隙間があることに気づく。
玲はそっと近づき、扉の影を指先でなぞった。
「触れた感触が、通常の使用痕とは違う……誰かが短時間だけ使用した形跡だ」
氷室は端末の画面をスワイプしながら報告する。
「侵入者は短時間で複数箇所を確認し、目的物を探していたようです。証拠は残さず、被害者の意識下にはほとんど痕跡を残していません」
玲は視線を窓の外に移し、周囲の建物と通路を頭の中で組み合わせて考えた。
「逃走経路も把握しておく必要がある……榊、通信履歴もすぐ解析してくれ」
冷静さを失わず、しかし内側では緊張が高まる中、玲は静かに部屋を一周した。
「ここから、犯行の全体像を組み立てる……」
無人のアパート室内には、微かに埃が舞い、静寂だけが残った。
玲の目は、すべての痕跡を見逃すまいと光を宿していた。
2025年10月17日(金) 午後4時45分 品川区東五反田・警察署内面談室
玲は受付を通じ、静かな廊下を歩いて面談室の前に立った。
扉の向こうから、支援員の低い声と紙をめくる音が聞こえてくる。
「失礼します……」
玲は軽く頭を下げ、部屋に入った。
室内は簡素で、中央に小さなテーブルと二脚の椅子。
片側には警察の支援員が座り、手元には川原真由の被害届や初期聴取メモが置かれている。
「神崎さんですね。ご協力ありがとうございます」
支援員は丁寧に微笑むが、目は真剣そのものだ。
玲は椅子に腰を下ろし、資料を手元に置きながら問う。
「被害者の元交際相手について、何か情報はありますか?」
支援員は資料をめくり、慎重に説明する。
「はい。川原真由さんは、元交際相手の男性と半年ほど前に別れています。別れた理由は、性格の不一致や連絡頻度の問題とのことでした」
玲は眉をひそめる。
「連絡の取り方や、別れた後も関係を持ち続けていた可能性は?」
「調査では、別れた後は連絡はほとんどなく、SNSや電話にも痕跡は見られません。ただし、合鍵を所持していた可能性は否定できません」
支援員は慎重に言葉を選びながら続ける。
「現場に押し入った痕跡や指紋は、現段階では元交際相手と一致しませんが、第三者による不正使用の可能性もあります」
玲は机に置かれた合鍵の管理記録を確認する。
「勤務先には通勤記録もありますね。事件当日、元交際相手の行動履歴はどうですか?」
「勤務先のタイムカード、出退勤記録、監視カメラの映像すべて確認済みです。事件発生時、職場にいたことは確実です」
支援員は画面に映像を映し、証拠を示した。
玲は深く頷く。
「なるほど……直接的な侵入の可能性は低い。だが、合鍵の第三者使用や外部協力者の関与は否定できない」
支援員はメモを取りながら応じた。
「ええ。現場と周辺の状況から、被害者自身には気付かれない形で侵入された可能性が高いと考えています」
玲は静かに息を吐き、頭の中で全体像を整理する。
「元交際相手は重要な手がかりだが、犯行者ではない……可能性としては、知識や合鍵を悪用できる第三者の関与か」
支援員は資料を机の上に整え、玲に向かって言った。
「ここまでの情報で、現時点では直接の関与は見えません。ただ、追加の捜査で繋がる線は残しています」
玲は資料を手に取り、微かに視線を上げた。
「わかりました。ありがとうございます。次は勤務先と合鍵管理の履歴も詳細に確認させてもらいます」
面談室の空気は静かだが、玲の中ではすでに次の捜査ステップが鮮明に描かれていた。
静かに、しかし確実に、犯行の全貌を炙り出すための推理が動き始めていた。
2025年10月17日(金) 午後5時15分 警視庁 K部門解析室
薄暗い解析室で、モニターの光だけが淡く照らしていた。
奈々が端末に向かい、川原真由の勤務先の通信履歴や入退室データを解析している。
御子柴理央が隣で、画面をじっと見つめながら低く言った。
「勤務先……時間帯とアクセス記録に不自然な点はないか?」
奈々は指先を動かしながら、詳細なログをスクロールして確認する。
「社員カードの打刻や入退室は正常です。だが、過去30日間のネットワークアクセスで、社内のセキュリティカメラ映像への不正アクセスが1件あります」
御子柴は眉を寄せ、画面を拡大する。
「どの端末からだ?」
「社内の管理用PCからです。アクセス権限は元交際相手にはありません。外部IPからの侵入もなし……つまり、内部の誰かが操作した可能性が高い」
御子柴は軽く息を吐き、奈々の肩越しに画面を覗き込む。
「なるほど……元交際相手は物理的に現場に入れない。だが、内部協力者がいれば遠隔操作は可能だ」
奈々はキーボードを叩きながら解析結果をまとめる。
「ここからは、アクセス権限の履歴と操作ログを詳細に洗わないと。怪しい操作のタイミングを被害者の行動と照合する必要があります」
御子柴はうなずき、低い声でさらに言った。
「その通り。勤務先の環境は鍵のかかった箱だ。だが、箱の中に“手の届く隙間”があるかもしれない。そこを探るのが俺たちの仕事だ」
奈々は画面をスクロールしながら、小さく頷く。
「わかりました……ここから全ての操作履歴をクロスチェックします」
解析室には静寂が戻る。
しかし、その静けさの中で、二人の頭の中ではすでに犯行の構図が少しずつ浮かび上がり始めていた。
2025年10月17日(金) 午後6時05分 都庁・地下4階 特別保管室「記録中枢層」
薄暗い地下通路を、玲と奈々、御子柴が慎重に歩く。
壁面の金属パネルがひんやりと冷え、微かに機械音が反響する。ここが都庁内でも最も機密性の高い“記録中枢層”――地下4階の特別保管室だ。
奈々が端末を手元で操作し、侵入ログの解析結果を確認する。
「……見つけました」
御子柴が近づき、画面を覗き込む。
「どれだ?」
奈々の指がスクロールした先に、複数の警告マークが点滅する。
「勤務先の社内PCから、特定のタイミングでこの保管室のアクセス認証システムに遠隔ログインの痕跡があります。通常の管理者権限ではありえない操作です」
玲が眉をひそめ、静かに声を発した。
「つまり……誰かが内部の協力者を使って、被害者の勤務先からこの記録中枢にアクセスしていたと」
御子柴は低くうなずいた。
「そうだ。そしてログ解析で操作した端末のMACアドレスと認証IDが一致する人物は……勤務先のIT管理部員、しかも被害者と以前交際関係にあった者だ」
奈々は息を呑む。
「つまり元交際相手ではなく、社内の内部協力者が実際に手を動かしていた、ということですね」
玲は深く息を吸い、冷静に指示を出す。
「この痕跡を確実に押さえろ。アクセスした端末の使用履歴、ログイン時刻、操作内容、全てだ」
御子柴は端末を操作しながら、低くつぶやく。
「不正アクセスの証拠は残っている……改ざんは試みられているが、完全ではない。痕跡はここにある」
奈々が肩越しに画面を覗き込み、指を震わせながら言った。
「見つけました……ここまで細かく操作を追えるとは思わなかった」
玲は静かに頷き、周囲を見渡す。
「内部協力者の存在を確認した。ここから先は、証拠を押さえたうえで本人を突き止める」
地下4階の冷たい空気が、三人の背筋を引き締める。
都庁の深層で明らかになった事実――被害者の勤務先と記録中枢層を結ぶ侵入痕跡――は、事件の真相に大きな光を投げかけていた。
2025年10月17日(金) 午後6時27分 都庁・地下4階 特別保管室前
御子柴理央の落ち着いた声が、静まり返った通路に響く。
「玲、奈々……痕跡は確保した。内部協力者の位置を特定。動きは……ゆっくりだが確実にこちらに向かっている」
玲は背筋を伸ばし、目の前の冷たい金属扉を見据えた。
「わかった。侵入者との対峙は俺が担当する。奈々、端末で監視を続けろ」
奈々は端末を手に小さくうなずき、緊張感の中でログの変化を追う。
「了解……すぐに動きを通知します」
数歩進むと、通路の先に人影が見えた。薄暗がりの中、黒いスーツ姿の男が立ち止まり、こちらを伺うように見返している。
玲はゆっくり手を伸ばし、声を低く落とす。
「――お前が内部協力者だな。動くな」
男は一瞬の沈黙の後、微かに笑みを浮かべた。
「さすが、玲神崎……俺の存在をここまで追い詰めるとはな」
御子柴の声が再び響く。
「ログと端末の解析結果、全て一致。逃げることはできない。ここで動けば証拠は確実に残る」
玲の瞳が鋭く光る。
「逃がさない。被害者のためにも、君の正体を明らかにする」
男はゆっくり手を上げ、しかし何も持たず、抵抗するそぶりも見せない。
「認めよう……だが、俺は命令に従っただけだ。指示がなければ動かなかった」
玲は息を整え、冷静に問いかける。
「誰の指示だ。名前を言え」
男の表情が微かに歪む。
「それは……俺の上司だ。K部門内部……いや、都庁の中枢にいる者だ」
奈々の手が微かに震える。御子柴は端末を操作しながら、冷静に指示を出す。
「玲、慎重に。証言の信憑性を確認しつつ、監視と連携を絶やすな」
玲は深呼吸し、ゆっくりと男に近づく。
「協力者として君の情報は全て押さえる。これ以上の迷惑は許さない」
男は小さくうなずき、静かに捕縛を受け入れた。
地下4階の冷たい空気の中、事件の核心に一歩近づいたことを、玲たちは感じていた。
2025年10月17日(金) 午後6時45分 都庁・地下通路
玲は足音を殺し、鉄製の通路をゆっくりと進んだ。背後では奈々が端末を操作し、監視カメラとログの情報をリアルタイムで送信してくる。
「玲、相手の移動経路と通信履歴を解析しました。黒幕に繋がる可能性のある端末が確認されました」
奈々の声は冷静だが、緊張が微かに滲む。
玲は黙ったまま、通路の暗がりに潜む影を見据える。壁に反射する蛍光灯のわずかな光が、彼の鋭い瞳を際立たせる。
「了解。記録の痕跡を辿る。無駄な動きは一切せず、直接黒幕に迫る」
内部協力者から得た情報には、都庁内部に潜む“上層部の人物”の名が記されていた。単なる管理者ではなく、長年にわたり暗躍してきた影の存在だ。
通路の先、管理室の扉がわずかに開き、鍵のかかったデスクの向こうに、黒幕の気配が漂う。玲は息を潜め、心拍を一定に保ちながら慎重に距離を詰めた。
御子柴の端末から、内部協力者が残したログの解析音が微かに響く。
「玲、この人物の通信履歴は完全に秘匿されている……しかし、端末の残響から動線は特定可能です」
玲は微かに頷き、低く呟く。
「逃がさない。被害者のためにも、ここで全てを明らかにする」
管理室の扉をわずかに押すと、黒幕の姿が浮かび上がる。洗練されたスーツに身を包み、冷たい眼差しでこちらを見据えるその人物は、誰もが想像できなかった内部権力者だった。
「神崎玲か……噂以上に厄介だな」
黒幕の声は低く、通路に反響する。
玲は手を止めず、端末に目を落とす奈々を一瞥し、静かに言う。
「名前を言え。全てを話せば、逃げ道は残してやる」
黒幕はわずかに笑みを浮かべる。
「逃げ道?……君がここまで辿り着くとは、想像していなかった」
玲は拳を握り締め、冷静に前へ踏み出す。
「今からでも遅くない。ここで終わらせるか、さらに多くの被害者を生むか。選ぶのはお前だ」
その瞬間、通路の端で奈々の声が小さく響いた。
「玲……準備は整いました。全て記録します」
玲は深く息を吸い、目の奥の炎を燃え上がらせた。
黒幕との最終対決まで、時間は残されていなかった。
2025年10月17日(金) 午後6時50分 都庁・地下通路付近管理室
玲は端末の画面をちらりと確認する。《K-X051/隠密操作記録・権限外照会》――黒幕が長年にわたり操作してきたログの断片が、微かに光を放つ。
「あなたは……全てを把握していたのですね」
玲の声は低く、冷徹だが、震えはない。
黒幕は椅子に腰掛け、軽く指先で書類の山を叩く。
「把握……そうだな。しかし君も同様に動いている。お互いに“観察者”であり、干渉者だ」
玲は一歩前に出る。
「観察しているだけで、被害者を守れると思ったのか?」
その声には、怒りと悲しみが静かに混ざる。
黒幕はわずかに微笑む。
「守る……それも正義のひとつだろう。しかし、正義は必ずしも唯一の道ではない。君が手を汚す覚悟があるかどうか、それが試されているのだ」
玲は端末の画面を指でなぞり、K-X051の権限外照会ログを読み上げる。
「あなたは、被害者の記録だけでなく、警察内部のデータにまで手を伸ばしていた。つまり、罪も、欺瞞も、逃げ場もない」
黒幕の瞳が鋭く光る。
「愚かだな……証拠を突きつけるだけで、私を動かせるとでも思っているのか?」
玲はわずかに息を吸い、冷静に答える。
「動かすのではない。暴かせるのだ。あなた自身の行動が、あなたを孤立させる」
黒幕は机に手を叩き、鋭く笑った。
「孤立か……なるほど、君の理屈は甘い。だが、心理的圧力で人間は簡単に崩れることを、私は知っている」
玲は軽く口元を引き締め、静かに視線を合わせる。
「崩れるのは私ではなく、あなたの世界だ。隠してきたもの、操作してきたもの――全て、ここで暴かれる」
黒幕の唇がかすかに震え、わずかに視線を逸らす。その瞬間、玲の瞳は光を増し、存在そのものが圧力となって黒幕を押し込む。
「……あなたが恐れるのは、私ではない。過去でも未来でもない。唯一恐れるべきは、自分自身だ」
沈黙。管理室に響くのは、微かに流れる換気扇の音と、二人の心拍のような静かな緊張だけ。
玲はゆっくりと手を伸ばし、端末を黒幕の前に置いた。
「K-X051の全ログ。あなたの操作の痕跡、内部協力者の記録、被害者への影響――全て、この手で証拠として残す」
黒幕は一瞬固まる。だが、すぐに笑みを浮かべる。
「……なるほど、君は本当に生き残る者だ。だが、ここから先は、心理戦だけでは済まない」
玲は拳を握り、低く呟く。
「心理も、戦術も、全て私が制する。あなたの全てを、ここで終わらせる」
そして次の瞬間、黒幕は立ち上がり、管理室の空気が一変する。心理的圧迫、視線、空間に漂う威圧感――二人の間で不可視の戦いが始まった。
端末の光が揺れ、K-X051のログが静かに二人を見つめる。その記録は、どちらの意志をも裏切らず、ただ真実を待っていた。
2025年10月17日(金) 午後7時15分 都庁・地下管理室
静寂を切り裂くように、管理室の扉が開き、高城次長が一歩踏み入った。
「玲、私は監察として、この現場のすべてを見届ける」
低く響く声には、揺るがぬ権威と冷静さがあった。
玲は目を細め、わずかに頷く。
「次長、今ここで終わらせます。心理も、罠も、全て読み切った」
黒幕は薄く笑みを浮かべた。
「読めるかどうか……君に、この心理の迷宮を」
言葉の端々に含まれる挑発は、まさに精神的罠そのものだった。
玲は静かに足を踏み出す。端末の光が、二人の間の空気を切り裂くように揺れる。
「迷宮でもなんでもない。あなたの行動パターン、操作の傾向、心理的弱点……全て、私の前では暴かれている」
黒幕の視線が鋭く光った瞬間、玲は一歩間合いを詰め、言葉を重ねる。
「あなたが恐れているのは、人でも組織でもない。唯一、逃げられないもの――自分自身だ」
高城次長は端末のデータを静かに確認しながら、玲の言葉にうなずいた。
「全ての記録がここにある。心理的圧力も、矛盾も、逃げ場もない。君の言う通りだ、玲」
黒幕はわずかに後退し、額に汗が浮かぶ。
「……な、何故……こんなことに……」
その声には、もはや挑発も操作も、計算も混じらなかった。ただ、追い詰められた恐怖だけが響いていた。
玲は低く息を吐き、端末をゆっくりと黒幕の前に押し出す。
「K-X051の全ログ。あなたの操作痕、内部協力者、被害者への影響――全て明らかになった。これ以上、逃げる余地はない」
黒幕は一瞬、目を閉じ、そしてゆっくりと膝をついた。
玲の眼光が、空間全体を切り裂くように黒幕の意思を制圧する。
「……終わりだ」
その瞬間、管理室の空気が張り詰め、端末の光が二人を照らした。
高城次長は静かに言う。
「玲、よくやった。心理戦を読み切り、記録と証拠を駆使して完全に追い詰めた」
玲は端末の画面を閉じ、深く息を吸う。
「はい、これで黒幕は裁きの手に渡ります。あとは、被害者のために真実を守るだけです」
黒幕は沈黙のまま、監察室の手によって拘束される。
玲は無言でその光景を見届け、やっと肩の力を少しだけ抜いた。
廊下に差し込む蛍光灯の光が、深く緊張した夜の地下管理室を静かに照らしていた。
心理戦は終わり、真実だけが残ったのだった。
2025年10月17日(金) 午後7時45分 都庁・地下管理室
玲は息を潜め、端末の画面を素早く切り替えた。
「……よし、被害者の位置はほぼ特定できた」
端末に表示された地図上の赤い点が、地下保管室の奥を示している。
「氷室、該当フロアの監視カメラ映像、再構築できるか?」
「できます。残響データを解析中……」
氷室澪の声が静かに響く。端末の光が室内を淡く照らした。
玲は深呼吸し、歩を進めるように端末を操作する。
「奈々、今回も頼む。安全確認と周囲制圧、任せる」
無線から奈々の明快な声が返る。
「了解。玲、あの子を守る。絶対に誰も触れさせない」
玲は地下通路の冷たい金属の壁を伝いながら、慎重に進む。
その視線の先には、拘束されたまま震える女性の影――川原真由が見えた。
「……安心して。もうすぐ助ける」
玲の声は低く、だが揺るぎない決意を帯びていた。
奈々が無線で報告する。
「周囲の確認完了。通路内に異常なし。今から接近する」
玲は端末で微細な動作を確認しながら、一歩ずつ被害者に近づく。
「水無瀬、篠原、御子柴、心理的圧迫が残ってるか?真由さんへの影響は?」
「篠原:浅い層の恐怖は残っていますが、深層は安定しています。今なら安全に引き出せます」
「御子柴:加害者の操作痕は完全に封じました。ログも保持されています」
「水無瀬:精神的混乱の兆候は最小限、問題なし」
玲は頷き、ゆっくりと手を伸ばした。
「真由さん、もう大丈夫だ。私たちが守る」
拘束を解かれ、彼女の瞳に安堵と涙が浮かぶ。
「……ありがとうございます……」
声は震えていたが、恐怖の色は薄れつつあった。
玲は被害者をそっと抱きかかえ、奈々とともに地下通路を後退する。
「全員、位置確認。被害者は安全圏へ」
外気が差し込む階段の先、淡い照明が二人を迎えた。
玲は息を整えながら、初めてわずかに笑みを見せた。
「これで……全員無事だ」
周囲の仲間たちも、ほっと息を吐き、被害者救出の任務は完了したのだった。
2025年10月17日(金) 午後8時12分 都庁・地下管理室
玲の端末画面に赤い警告が瞬く。
「玲!そのファイル、今、外部から“抹消命令”が入った!」
奈々の声が無線を通して鋭く響く。
玲は眉をひそめ、すぐさま操作を切り替えた。
「わかった、すぐにバックアップを確保する」
同時に、K部門の監視室では榊警部補が動く。
「全ユニット、加害者拘束の準備!命令系統外のアクセスは全て封鎖だ!」
水無瀬透が端末を操作しながら報告する。
「監視カメラ映像を分析。対象は地下保管室付近に潜伏中。周囲に人影はなし」
玲は被害者を抱き、奈々と共に奥の通路へ進む。
「成瀬、安斎、詩乃!通路封鎖と制圧、任せる!」
無線越しに三人の声が即座に返る。
「了解。敵は逃がさない」
「確認。被害者周囲は制圧完了」
「異常なし」
その瞬間、監察室のモニターに黒い影が映る。
「奴か……K部門内部協力者の可能性あり」
御子柴理央が低く呟いた。
玲は銃を握り直し、端末でデータを守りながら慎重に進む。
「被害者を安全圏に移すまで、誰も触れさせない」
背後で奈々が声を潜める。
「玲……無茶はしないで」
「大丈夫だ。今は、任務に集中する」
玲の声は冷静で揺るがない。
数分後、K部門の特殊班が地下通路に突入。
加害者は驚く間もなく制圧され、手錠が冷たく閉じられた。
「拘束完了。外部からの命令も封鎖済み」
榊警部補が静かに報告する。
玲は端末を確認し、ファイルが安全に保全されているのを確認した。
「これで、抹消されることはない」
奈々が被害者をそっと支え、玲の隣に立つ。
「玲……本当に、よくやったね」
玲はわずかに微笑み、端末を片手に周囲を見渡した。
「これで全員、無事だ……」
地下室に落ちた静寂の中、勝利と安堵の余韻がゆっくりと広がっていった。
2025年10月17日(金) 午後8時45分 都庁・取調室A
モニターの映像が激しく揺れ、データの断片が黒いノイズに吞み込まれていく。
玲は端末を片手に、取調室の重い扉を押し開いた。
取調室の中には、手錠で固定された加害者が座っていた。顔には焦燥と冷静さが混じる。
榊警部補が静かに指示する。
「玲、まずは状況を確認してくれ。俺たちは周囲を封鎖する」
玲は加害者を見据え、低く、だが明瞭に告げた。
「貴様は何のために、川原真由に手をかけた」
加害者は軽く肩をすくめ、薄笑いを浮かべる。
「手をかけた?いや、ただの“記録操作”さ。目的は——消すこと、全ての痕跡を」
玲の瞳が鋭く光る。
「消す?それは命令か?個人的な快楽か?」
加害者は一瞬目を伏せるが、すぐに目線を戻す。
「両方だ。権力の命令、そして……誰も覚えていない快感。存在を抹消することの快感」
御子柴理央が端末を操作しながら、冷静に指摘する。
「被害者周辺の通信履歴と監視映像を照合した。お前の操作は単独ではなく、内部協力者が関与していた可能性が高い」
加害者の笑みが消え、表情が僅かに硬直する。
「内部協力者……?そんなことまで考えていたのか」
玲はゆっくりと歩み寄り、声をさらに低くする。
「説明しろ。誰が指示を出した。全てを吐けば、これ以上被害は増えない」
沈黙が続く。監視カメラの赤いランプが、加害者の額に反射する。
奈々が背後から控えめに呟いた。
「玲……焦らず、証拠を整理して」
玲は一度頷き、再び加害者を見据えた。
「言え。今のままでは、記録と証言の両方から逃れられない」
加害者の肩が小さく震える。ついに声が出た。
「……K部門内部の者だ……指示は……高城次長から……」
部屋の空気が一瞬、凍る。
玲は深く息を吸い、端末を押さえながら冷静に言った。
「なるほど……これで全てが繋がる」
榊警部補は静かに書類を手に取り、手順を確認する。
「よし。内部協力者の捜査は別途開始。まずは被害者の保護と加害者の供述の確保だ」
玲は端末を閉じ、加害者の目をじっと見つめる。
「記録は消せない。お前の嘘も、これ以上は通用しない」
部屋に漂う静寂の中、緊張が緩むことはなく、しかし確実に事態は動き出していた。
2025年10月18日(土) 午前10時12分 都内・第二警察病院 聴取室B
薄暗い通路を、玲は足音を殺して歩いていた。
病院特有の消毒液の匂いが、冷たい空気と混ざり合って鼻を刺す。
その奥、聴取室のドア前で彼は立ち止まり、静かに息を整えた。
ガラス越しに見える室内では、被害者・**川原真由(26)**がベッドの上に座っていた。
淡い病衣に包まれた彼女の手は、まだ微かに震えている。
対面するのは心理支援員と、録音係の女性警察官。
玲は扉を開け、静かに入室した。
「……川原真由さん。警視庁・K部門の神崎といいます。
今日は、あなたの言葉を記録させていただきます」
真由は一瞬だけ視線を上げ、ためらいながらも頷いた。
その目には、恐怖と覚悟が混ざった揺らぎがあった。
玲は椅子を引き、真正面に座る。
沈黙ののち、ゆっくりと声をかけた。
「まず、思い出せる範囲で構いません。昨夜、あなたの部屋で何があったのか――教えてください」
真由の指先が布団を握る。
「……夜の、八時半ごろだったと思います。
コーヒーを淹れて……一口、飲んだところで……急に、体が動かなくなって……」
玲は小さく頷き、榊からの聴取資料に目を落とした。
「薬物反応は、微量の鎮静剤系。外部から盛られた形跡がある」
真由は、怯えたように首を振った。
「でも、誰も……いなかったんです。ドアも窓も……ちゃんと閉めてたのに」
玲の表情が僅かに動く。
「そのコーヒーは、あなた自身が入れた?」
「はい……でも、そのマグカップ……少し、位置が違ってた気がして……。
朝に洗ったまま置いたはずなのに、シンクじゃなくて、テーブルに戻ってたんです」
記録係のペンが止まり、室内にかすかな紙の擦れる音だけが響く。
玲はその沈黙を破るように、静かに問う。
「あなたの部屋の合鍵を持っている人物は?」
真由は唇を噛みしめた。
「……元、交際相手です。瀬川智志……。
別れてからは連絡も取っていません。でも……一度だけ、最近……“戻りたい”ってメールが来て」
玲は低く息を吐き、榊へ無線で指示を送る。
「K部門本部、こちら現場。被害者証言より、元交際相手・瀬川智志の再照会を要請。
特に社宅と勤務先の防犯映像、48時間以内を重点に解析」
無線の向こうから榊の声が返る。
「了解。回収班を向かわせる。――玲、被害者の保護を優先してくれ」
玲はわずかに頷き、真由の方へ視線を戻す。
「もう大丈夫です。これからは、私たちが護ります。
……あなたの“声”が、真実の第一歩になる」
真由の瞳に、ほんの少し光が戻った。
小さな震えの中で、彼女はかすかに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
玲は静かに立ち上がり、深く一礼して部屋を出た。
ドアの外の廊下には、奈々が待っていた。
「どうだった?」
玲は短く答える。
「核心は一つ。――彼女の“記憶”じゃなく、“現実”が歪められてる」
奈々の目がわずかに見開かれた。
「つまり……外部操作?」
玲は頷いた。
「瀬川だけじゃない。……背後に、“まだいる”」
廊下に、冷たい風が吹き抜けた。
2025年10月19日(日) 午後11時42分 東京都世田谷区・旧配送センター跡地
通路の最奥――壁に埋め込まれたはずの整備用扉が、わずかに開いていた。
わずかな隙間から、室内の蛍光灯が滲むように漏れている。
玲は身を低くし、無線に囁いた。
「こちらK部門・神崎。対象潜伏先を確認。位置は地下通路B‐7。――榊、応答を」
無線が一度だけノイズを返し、榊の声が低く届く。
『了解。監視班の映像で確認した。対象はまだ内部にいる。強行突入のタイミングは現場判断に任せる』
玲は小さく頷き、通路の影から奈々へ視線を送った。
奈々は膝をつき、タブレット端末を操作しながら低く告げる。
「室内の熱源反応、ひとつ。おそらく瀬川本人。――ただ、通信ノイズが強い。誰かとリンクしてる可能性がある」
「共犯者か」
玲が短く言うと、背後で氷室澪が装備ケースを閉じた。
「外部通信はすでに遮断済み。扉を開けた瞬間、内部データもロックされる。逃げ場はない」
玲はわずかに頷き、拳銃を静かに構える。
「……行くぞ。突入は三秒後」
奈々が息を止め、カウントを始める。
「3――2――1」
金属音が鳴り、扉が開かれた。
内部は、乱雑に積まれた段ボールと、配線がむき出しの古い機械で埋め尽くされていた。
中央の机にはノートパソコンが二台、その前に座り込む男の背中。
肩は小刻みに震え、何かを入力しているようだった。
玲が声を発した。
「――瀬川智志、警視庁K部門だ。動くな」
男の指が止まる。
ゆっくりと振り返ったその顔には、数日間まともに眠っていない影が浮かんでいた。
「……やっぱり来たか。K部門、ね。あいつの記憶まで“管理”するつもりか?」
玲は銃口を下げずに近づく。
「おまえが川原真由に薬を盛り、記録を改ざんした。目的を話せ」
瀬川は唇を歪め、笑う。
「改ざん? 違う。“戻した”だけだ。彼女が俺を忘れたから、思い出させてやったんだよ」
「おまえがしたのは“支配”だ」玲の声は低く冷たかった。
「記憶を弄って、感情を縛る。それは愛じゃない」
瀬川の表情が一瞬だけ歪む。
「愛? 違う、俺は……ただ……戻りたかっただけだ」
その瞬間、奈々が叫んだ。
「玲! 通信が再接続される!」
瀬川が机の下に手を伸ばす。
玲は反射的に動いた――
乾いた銃声。机の上の端末が弾け飛び、火花を散らす。
瀬川の手が止まった。
彼の指先には、小型の通信ドングル。
玲はすぐに詰め寄り、それを蹴り飛ばして取り上げた。
「終了だ、瀬川。おまえの“記憶ごっこ”はここで終わりだ」
榊の声が無線に入る。
『対象拘束確認。K部門解析班を現場へ派遣する。玲、瀬川を確保して帰還しろ』
玲は短く応答し、男の腕を背中にねじ上げて手錠をかけた。
「……川原真由の記録も、彼女自身の“時間”も、これ以上は誰にも奪わせない」
外に出ると、夜気が冷たく頬を撫でた。
奈々が隣で息を整え、ぽつりと呟く。
「……結局、人の心って、一番“改ざん”しやすい場所なんだね」
玲は空を見上げた。
曇り空の向こう、街の灯が滲んでいる。
「だからこそ――守らなきゃいけないんだ。誰かの心の“記録”を」
そして、彼は歩き出した。
2025年10月20日(月) 午前10時18分 警視庁・K部門取調室
シャッターが鈍い金属音を響かせて開く。
中に一歩足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
無機質な灰色の壁、天井から吊るされた小さな蛍光灯。
その光が、中央の金属テーブルに反射して白く滲む。
瀬川智志は、手錠をかけられたまま椅子に座っていた。
焦げ茶の髪は乱れ、頬には夜通しの尋問による疲労の色が浮かぶ。
だが、その眼だけは、まだ何かを諦めていなかった。
扉が閉まり、静寂が落ちる。
対面に座ったのは、K部門外部協力専門家――神崎玲。
その隣には、心理共鳴分析官の篠原詩織が静かに端末を起動させていた。
玲は無言のまま、資料のファイルを一枚開く。
無数の記録写真と、鑑識の報告書。
焦げたデータチップ、壊れた通信機器、そして被害者・川原真由の写真。
「瀬川智志。32歳。
元東京都庁・記録情報管理課職員。
川原真由の元交際相手であり、事件の三日前に退職届を提出」
玲の声は低く、しかし一言一言が鋭く響く。
「君の部屋から押収された機材には、記憶誘導プログラムのコード片が検出された。
さらに、被害者の部屋に残っていた粉末――睡眠誘導剤と精神安定薬の混合。
これを飲ませ、記憶の操作を試みたと見て間違いないな」
瀬川は沈黙を保ったまま、テーブルを見つめていた。
玲は視線を動かさず、さらに続ける。
「君は被害者の記憶を“修復”したと言ったな。
だが実際は、彼女の脳に強制的に虚偽の記憶を埋め込み、
自分への“信頼”と“愛情”を再構築しようとした。――違うか?」
その瞬間、瀬川の肩がわずかに震えた。
低く、掠れた声が漏れる。
「……違わない。でも……彼女が俺を忘れたんだ。全部、消したんだよ。俺だけを」
玲は無感情に答えた。
「だから、君は彼女の意思を上書きした」
瀬川が顔を上げた。
「違う! ただ……思い出してほしかっただけなんだ……!」
篠原詩織が静かに端末のボタンを押した。
室内に、小さな音声が流れる。
『……たすけて……だれか……』
それは、川原真由の声だった。
事件当夜、録音装置が拾っていたわずかなノイズ。
瀬川の表情が一瞬で凍りつく。
玲はその様子を見逃さない。
「君が“思い出してほしかった”というその行為の結果が、これだ。
被害者は今も、断片的な記憶の欠落に苦しんでいる」
瀬川は唇を噛み、うつむいた。
「……あいつが、俺を選ばなかったからだ」
玲は静かに席を立ち、机の上のファイルを閉じた。
「――君の中にあるのは“愛”じゃない。“所有欲”だ」
沈黙。
瀬川は顔を覆い、かすかに震えた。
玲は出口に向かいながら、背を向けたまま言葉を落とした。
「もう一度言う。君のしたことは“記録の書き換え”じゃない。
――人の人生の“奪取”だ」
ドアが静かに閉まり、蛍光灯の光だけが残る。
瀬川はその光を見つめながら、ゆっくりと涙を流した。
2025年10月21日(火) 午後3時42分 警視庁・K部門 医療観察室
【外部抹消プロトコル:進行中】
【記録残時間:03:12】
――静寂の中、機械の低い駆動音だけが響いていた。
分厚い防音ガラス越しに見えるのは、薄く白い光に包まれた小部屋。
そこに、川原真由は座っていた。
無機質な医療衣の袖からのぞく手首には、細い静脈注射のチューブ。
その先で、微弱な電気信号が一定のリズムを刻んでいる。
対面には神崎玲。
その隣で、心理共鳴探査官の篠原詩織が静かに端末を操作していた。
映し出される心拍と脳波――不安定ながら、意識の深層は確かに動いている。
玲は短く息を整え、低い声で切り出した。
「川原真由さん。少しずつで構いません。
あの日、何が起きたのか――あなたの言葉で、聞かせてください」
真由の瞳がわずかに震えた。
唇が動き、声が漏れる。
「……ドアが、開いたんです。
鍵、かけたはずなのに……」
室内の空気が、わずかに重くなる。
玲は黙って続きを促した。
「最初は……夢だと思いました。
部屋の電気が急に消えて、誰かが……“私の名前”を呼んだ。
――優しい声で。懐かしい、声で」
詩織が軽く眉を寄せる。
共鳴波形が一瞬、乱れた。
「その声の主を、覚えていますか?」
玲の問いに、真由は小さく首を横に振った。
「……顔が、見えませんでした。
でも、“忘れたの?”って……言われたんです。
そして……コーヒーを、差し出されました」
玲の表情がわずかに動く。
詩織の端末には、“再生記憶断片”のタイムラインが点滅していた。
――映像に映るのは、揺れるコーヒーカップと、沈み込む粉末。
「それを飲んでから……すぐに頭がぼやけて。
気づいたとき、誰かが私の髪を撫でていた。
“これで、また一緒にいられる”って……」
玲はゆっくりと椅子に背を預けた。
沈黙のあと、真由がぽつりと呟く。
「……でも、思い出したんです。
その“声の主”――あの人は、私の記憶を壊した。
そして、自分を“正しい愛”だと信じていた」
詩織の端末が再び光を放つ。
深層記憶の残響データが完全に復元されたことを示すサイン。
玲は目を閉じ、ゆっくりと立ち上がる。
「ありがとう、川原さん。
これで、あなたの証言は正式な“真実の記録”として保存されます」
ガラス越しに、管制室のオペレーターが報告する。
【外部抹消プロトコル:強制停止】
【記録保存:完了】
わずかな沈黙ののち、玲は振り返らずに言った。
「……記憶は、消すためじゃない。
――立ち向かうためにあるんだ」
静かな照明の下、真由の瞳から一粒の涙がこぼれ落ちた。
その光は、ようやく“恐怖”ではなく、“解放”の色を帯びていた。
2025年10月21日(火) 午後5時12分 警視庁・K部門 第四会議室
【外部抹消プロトコル:進行中】
【記録残時間:03:12】
「……間に合うか、御子柴」
玲の声が通信に乗る。低く、しかし焦りの欠片もなかった。
『プロトコル遮断まであと二分三十。
玲、記録データの第4層は君の端末にしか保存されていない。
それを中枢に同期させれば、完全消去は防げる』
「了解」
玲は通信を切ると同時に、報告会議室の扉を押し開けた。
会議室の照明は暗く落とされ、壁際の大型モニターには現場映像とデータ解析ログが並んでいる。
テーブルの中央には、玲、篠原詩織、御子柴理央、そして刑事課の榊警部補。
全員の表情には、長時間の捜査を終えた緊張と疲労の色が滲んでいた。
玲が手元の端末を操作し、データ同期の進行状況を映す。
カウントダウンが赤く点滅する。
【記録残時間:02:58】
「ギリギリだな」榊が低く呟く。
「瀬川智志の取り調べ内容は、こっちでも一部しか照合できていない。
おまけに“外部からの上書き命令”が同時に走ってる。まるで誰かが意図的に――」
「消そうとしている。」
玲の言葉が、会議室の空気を一瞬止めた。
詩織が顔を上げる。
「まさか……上層部の誰かが関与してるってこと?」
御子柴は、無表情のままキーを叩いた。
「“偶然”で済ませるには、出来すぎている。
データ改ざんの手口はK部門内部の暗号体系を熟知していなければ不可能。
つまり――内部犯だ。」
榊が椅子の背もたれに体を預け、息を吐いた。
「……やっぱりな。瀬川の背後には“協力者”がいた。
都庁の記録中枢層に侵入した形跡も出ている。
だが、問題はその上――誰が“指示”したかだ」
玲は黙ったままモニターを見つめていた。
データ復旧率が“98%”を示し、同期完了まであと10秒。
「玲」
詩織の声が震えていた。
「もし、このデータが完全に復元されれば……川原真由さんの記憶が、正式な“証拠”になる。
でも同時に――その裏で誰かが消されるかもしれない」
玲は静かに頷いた。
「それでも、やる。真実を守るために、どんな犠牲が出ても止めるわけにはいかない」
【同期完了:100%】
【外部抹消プロトコル:強制停止】
御子柴が画面を確認し、短く告げた。
「……成功だ。データ保全、完了」
その瞬間、張りつめていた空気が緩む。
榊が腕を組み、苦笑した。
「やれやれ、あんたたちのやり方はいつも肝が冷える。
だが――見事だよ、神崎」
玲は席を立ち、窓の外の夕陽を見上げた。
オレンジ色の光が、冷たいガラスに反射して揺れている。
「……これでようやく、“彼女の時間”が戻る」
詩織が静かに頷き、御子柴が端末を閉じた。
誰も口にしなかったが、その場の全員が同じ感情を抱いていた。
――終わったのではない。
“始まり”に辿り着いたのだ、と。
榊が最後に言った。
「さて、ここからが本番だ。
内部協力者と、上層部の“消し屋”を炙り出す」
玲の目に、再びあの鋭い光が宿った。
「真実は、いつだって消される前に――記録されるものだ」
2025年10月21日(火) 午後8時03分 警視庁・K部門監察室 地下2階特別会議区画
──【関連記録:柊コウキ - UNIT-HK-001】
無機質な空気が満ちる密閉室。
白い蛍光灯が、わずかに瞬きを繰り返していた。
神崎玲は、扉の前で立ち止まる。
右手の中で、金属製の認証カードが冷たく光った。
「……K-14、神崎玲。入室許可を」
認証音が短く鳴ると同時に、重いドアが開いた。
その奥には、監察室次長――高城雅臣がいた。
グレーのスーツに整えられた髪。
机上には資料一式と、K部門の極秘ロゴが刻まれた黒い端末。
彼は微笑みを浮かべ、玲を迎える。
「君が来ると思っていたよ、神崎君」
その声には、一片の焦りもない。
むしろ、すべてを見通しているような余裕が漂っていた。
玲は無言で歩み寄り、机越しにその男を見据える。
「……“内部協力者”の痕跡、あなたの端末から検出されました。
抹消プロトコルを走らせたのも、あなたですね」
高城は軽く肩をすくめ、指先でペンを転がす。
「言葉が過ぎるな。証拠は? 君の“感”か?」
「証拠なら、御子柴が今ここに送っている」
玲の声は静かだった。
その沈黙が、かえって部屋の温度を下げていく。
モニターに、新たなウィンドウが開く。
【UNIT-HK-001 関連データ:接続元 K監察室/端末ID-TK04】
高城の目が、一瞬だけ鋭く光を帯びた。
「……君、そこまでやったか」
彼の声が、わずかに低くなる。
玲はテーブルに両手を置き、静かに告げた。
「あなたが守っていたのは、“組織”じゃない。
“真実を隠す側”だった」
沈黙が落ちる。
次の瞬間――高城は笑った。
それは諦めでも後悔でもなく、ただの“理解者の微笑”だった。
「……君もいずれ気づくだろう。
“真実”というのは、守るに値しないほど脆い」
玲の表情は微動だにしない。
「それでも――俺は、選ぶ。
たとえ脆くても、それを守るのが俺たちの役目だ」
高城は立ち上がり、ジャケットの内ポケットから小さなメモリデバイスを取り出す。
「なら、持っていけ。君が求める“答え”の一部だ。
……柊コウキ――その名に覚えはあるか?」
玲の瞳が一瞬だけ揺らいだ。
「……どこで、その名を?」
高城は短く息をつき、静かに背を向けた。
「彼は“削除”された。
だが、完全ではなかった――君の兄、神崎礼二が関わっている」
沈黙。
時間が止まったかのような緊張が部屋を包む。
玲の手が、無意識に拳を握りしめていた。
「……やっぱり、すべては“あの実験”から始まっていたのか」
高城は出口へと歩きながら、わずかに振り返る。
「神崎君、忠告しておこう。
“柊”に関わるな――あれは、人の領域を越えた記録だ」
扉が閉まる直前、玲の低い声が響いた。
「……あなたが“真実”を恐れた理由、その答えを俺が見つけてみせる」
金属音が静かに響き、密閉扉が閉じる。
残されたのは、わずかな残響と、玲の手に握られた一つのメモリデバイス。
液晶画面に、わずかに浮かび上がる文字――
【UNIT-HK-001 柊コウキ 記録コード:未完】
玲の瞳が、その名を見つめながら、静かに呟いた。
「……生きていたのか、コウキ」
2025年10月21日(火) 午後8時42分 東京・霞が関第六庁舎 K部門地下通信管理棟
足早に建物を出た玲は、夜の冷気をまといながら歩を止めた。
高城との対峙で受け取った黒いメモリデバイスを、手の中で確かめる。
わずかに傷が入った外装――使い込まれた痕跡。
「……礼二、これを残したのか」
玲はそのまま無言で庁舎裏のスロープを下り、K部門の通信管理棟へと向かった。
警備員に短くIDを提示し、認証ゲートを通過。
地下へ続く無機質な廊下を抜けると、そこにはひとつだけ灯りの点いた作業室があった。
「入るぞ」
玲の声に反応して顔を上げたのは、記録解析担当の御子柴理央だった。
モニターの光が彼女の眼鏡に反射し、淡々とした声が返る。
「早かったですね。……まさか、それが?」
玲は無言で頷き、メモリデバイスを差し出した。
御子柴は慎重に手袋をはめ、端末へ接続。
モニター上で認識音が短く鳴る。
だが、すぐに画面がノイズで覆われた。
「暗号化層、三重。しかも“自己崩壊型”です。
解除を誤れば、内部データが一瞬で消えるタイプ」
「……やはり、礼二が触っていた線が濃いな」
玲は低く呟き、モニターを見つめる。
御子柴の指がキーボードを走る。
複数のウィンドウが立ち上がり、黒いコード群が流れ出す。
わずかに息を呑む音。
「待ってください……“柊”の名が出ました」
画面には断片的な文字列が浮かび上がる。
【UNIT-HK-001/Subject:柊コウキ】
【記録再構成中……残存データ:41.2%】
【アクセス権限:R-KAMI/LOCKED】
「……“R-KAMI”。これ、礼二さんの署名コードです」
御子柴の声が低く震えた。
玲は目を細め、息を整える。
「つまり――コウキのデータは、礼二が隠した」
「はい。そして“鍵”は、おそらくあなたです」
玲は黙ったまま椅子に腰を下ろし、深く息を吐いた。
彼の右手がデバイスに触れると、モニターが一瞬だけ反応する。
コードが走り、解析不能なシンボル群が流れ出す。
【再構成トリガー認証:神崎玲】
【アクセス承認】
「……開いた」
モニターに、映像が再生され始めた。
ノイズ交じりの画面の中、映っていたのは――
薄暗い実験室。そして、その中央で少年が目を閉じていた。
白衣を着た技術者たち。
そして、カメラの奥から声が響く。
『これが“柊コウキ”。記録融合実験体――第一群体』
玲は息を呑んだ。
その声を、忘れたことがなかった。
「……兄さん、やっぱり生きてたのか。
――あの実験を、まだ追っていたんだな」
御子柴が静かに尋ねる。
「どうしますか、玲さん?」
玲はしばし沈黙し、拳を固めた。
「このデータ、K本部にはまだ送るな。
まず、俺が確かめる。……“柊コウキ”が、何を見ていたのか」
モニターの中で、少年――柊コウキのまぶたが、ゆっくりと開いた。
その瞳の奥には、言葉にできないほどの恐怖と哀しみが宿っていた。
2025年10月22日(水) 午前1時07分 東京都立東栄医療センター・病棟最上階(旧研究棟)
夜の病棟は、まるで時間そのものが止まったかのように静まり返っていた。
最上階の廊下には、わずかな非常灯の光だけが伸び、長く細い影を床に落としている。
玲は、無人のナースステーションの前を通り抜けながら、懐から一枚のメモリカードを取り出した。
表面には、兄・神崎礼二の筆跡で書かれた小さな文字――「K-051/Core to Sky」。
「……“空へ至る核”。」
玲は低く呟き、わずかに眉をひそめた。
礼二が残した暗号。
それは、十年前に封鎖された“記録実験施設跡”への座標を示すものだった。
この病棟の最上階――かつて研究棟として使われていた場所の奥に、隠されたアクセスルートがある。
玲は懐中電灯を点け、壁面を照らした。
薄く剥がれかけた塗装の下に、古い金属プレートが埋め込まれている。
錆びた表面に刻まれた番号――「B-12/内部接続経路」。
「ここか……」
細いドライバーでネジを外すと、プレートの裏から古い端末ポートが現れた。
玲はメモリカードを接続し、携帯端末をリンク。
画面に、古いプロトコル認証が走る。
【神崎礼二署名コード検出】
【サブキー要求:REI/第2認証層】
「……俺を使う気か、兄さん」
静かに息を吸い込み、玲は自らのコードを入力した。
瞬間、壁の一部が低い駆動音を立てて開く。
薄暗い階段が、地下へと続いていた。
冷気が吹き上がる。
錆と薬品の匂いが混ざり合い、過去の残滓を呼び起こすようだった。
「十年前の、実験場――」
足を踏み出した瞬間、階下からかすかな音が聞こえた。
金属の擦れる音。
玲は反射的に銃に手を伸ばし、灯りを消す。
……誰かが、すでにここにいる。
闇の中、階段の下からかすかに人の気配。
そして――低く押し殺した声。
「……柊、コウキ……?」
玲の胸が、わずかに震えた。
その声は、確かに――少年のものだった。
だが同時に、どこか人工的な響きを帯びている。
【再構成体認識:UNIT-HK-001/稼働中】
玲は息を呑んだ。
「……まさか、稼働してるのか……。十年も経って……」
暗闇の底で、微かな光が揺れた。
それは人の姿を模した輪郭を形作り、ゆっくりと玲の方を向く。
「神崎……玲?」
少年――柊コウキが、そこに立っていた。
だがその瞳は、明らかに“生身”のものではなかった。
玲は銃を下ろし、静かに言った。
「……おまえを探していた。兄さんが残した記録を辿って」
コウキは無表情のまま、首をかしげた。
「兄……? 記録にない。僕の記憶は、もう……書き換えられている」
「なら――取り戻そう。おまえの中の“真実”を」
玲の声が低く、確かな決意を帯びて響いた。
十年の沈黙を破り、“封印された記録実験施設”が再びその目を開く。
そして、暗闇の奥で微かに点滅する警告灯が、静かに告げていた。
【ミラージュ・システム:再起動準備完了】
2025年10月22日(水) 午前1時26分 東京都立東栄医療センター・旧研究棟地下施設
病室の中は、低く調整された照明と、微かな医療機器の音だけが支配していた。
玲が階段を降り、封鎖された“実験施設跡”に足を踏み入れたその瞬間――
空気が、わずかに震えた。
「……電源が……入った?」
彼が足元の床パネルを照らすと、薄く浮かび上がるように古い警告文が表示された。
【SECURITY PROTOCOL:MIRAGE SYSTEM / REBOOT】
【WARNING:UNAUTHORIZED ACCESS DETECTED】
玲は即座に後方を確認したが、扉はすでに自動ロックされていた。
コウキがわずかに顔を上げる。
「玲、動かない方がいい。ここ、覚えてる……防衛システムが、生きてる」
次の瞬間――
天井の隙間から、細い赤外線のラインが何本も走った。
それは網のように交錯し、侵入者の動きを測定している。
「旧式の監視プロトコル……けど、作動圏内に入ると防御ユニットが起動する」
玲は歯を食いしばり、携帯端末を取り出した。
「御子柴、聞こえるか。ここ、施設地下で自動防衛が作動した。解除コードは?」
通信越しに、御子柴理央の冷静な声が返る。
『映像フィード確認。……ダメだ、玲。セキュリティは完全に独立してる。
礼二の署名コードが必要だ。』
「兄さんの、コード……?」
玲が言葉を失った瞬間、天井の奥で金属音が響いた。
続けて、側壁から無人ドローンのような黒い球体が数体、浮かび上がる。
冷たい赤い光が、そのセンサー部分で点滅した。
【防衛シーケンス起動】
【目標:侵入者/コード未承認】
玲は身を低くし、コウキを庇うように腕を伸ばした。
「伏せろ!」
一瞬遅れて、音もなく金属弾が壁をかすめ、火花が散った。
古い施設の空気が震え、粉塵が舞い上がる。
「玲!後方経路、まだ反応が残ってる!右斜め奥のメンテナンスルートだ!」
奈々の声が通信越しに響いた。
玲は短く頷く。
「コウキ、走れるか」
「……うん。記録が……導いてる」
少年の瞳が、一瞬、青白く光を帯びた。
玲はその光を信じて、施設の闇の中を駆け抜ける。
背後では、警告灯が赤く点滅し続けていた。
【MIRAGE SYSTEM:LOCKDOWN SEQUENCE 80%】
【侵入者排除プロトコル:最終段階移行】
コウキの記憶に封じられた“十年前の真実”が、
今まさにその防衛システムによって再び葬り去られようとしていた。
玲は振り返らず、ただひとつの言葉を心に刻んだ。
「兄さんが守ったものを――今度は俺が、守る」
2025年10月22日(水) 午前1時42分 警視庁・K部門 第4記憶犯罪対策班 管制室
窓の外では小雨が静かに降っていた。
深夜の都心は静まり返り、遠くで救急車のサイレンが一度だけ短く響く。
奈々は端末の前に身を乗り出し、ヘッドセットを押さえた。
隣で御子柴理央が、複数のモニターを同時に睨んでいる。
画面には、玲が潜入している“記録実験施設”のセキュリティ構造がリアルタイムで表示されていた。
「……反応、消えた。玲たち、完全に内部ネットワークから切り離されたわ」
奈々の声がわずかに震える。
御子柴は落ち着いた口調で応じた。
「自動防衛システム“MIRAGE”が作動した。
中枢演算はスタンドアロン。外部アクセスは本来、物理的に不可能だ」
「“本来”ね。――でも、できないって言葉、好きじゃないの」
奈々は指先で端末を叩き、セキュリティトレース用のコード群を展開した。
画面に無数の文字列が流れ、青い光が彼女の瞳に反射する。
「玲が中で生きてる限り、回線は死なない。
微弱でもいい、どこかでログが流れてるはず――」
御子柴が別のモニターを切り替えた。
「……待て、検出した。通信用サブノード“P-67”が微弱に応答してる。
でも暗号化レベルが高い。単独では解除不能だ」
奈々は短く息を吸い込んだ。
「だったら――一緒にやる」
二人は同時にキーボードへ手を伸ばした。
カタカタと静かな打鍵音が、雨音と交じり合う。
御子柴がタイピングの合間に低く呟く。
「このコード……礼二が残したものに似てる」
「玲の兄さんの?」
「ああ。つまり――中枢は彼の署名アルゴリズムで封じられてる」
奈々の指が一瞬止まった。
「じゃあ、それを解く鍵も……」
「兄弟にしか、わからないはずだ」
室内に沈黙が落ちた。
奈々はわずかに目を伏せ、そして再び画面を見据える。
「玲なら、絶対に諦めない。
だったら――こっちも止まれないでしょ」
彼女はキーを強く叩いた。
その瞬間、モニターの一部が閃光のように明滅する。
【外部回線リンク確立:1%】
【警告:不正侵入検知 ID:UNKNOWN】
御子柴の目がわずかに光を帯びた。
「……食いついた」
「いい子ね、ミラージュ。ちょっとだけ、口を開けてもらうわ」
外では、雨脚が強くなっていた。
雷鳴が遠くで鳴り、電光が室内のガラスに反射する。
奈々と御子柴は、ひたすらコードを打ち続けた。
まるで二人の指先が、玲へと続く一本の“命綱”を編み上げていくかのように――。
【リンク進行率:72%】
【防衛シーケンス遅延中】
御子柴が冷静に言う。
「あと少し。玲、時間を稼げ……!」
奈々は雨に打たれる窓の向こうを見つめ、
心の中でただ一人の名を呼んだ。
「――お願い、玲。絶対に戻ってきて」
2025年10月22日(水) 午前1時58分 警視庁・K部門 第4記憶犯罪対策班 管制室
カーテンの隙間から、わずかに光が漏れていた。
外は土砂降り。雨粒が窓を叩き、雷鳴がビルの谷間を震わせる。
奈々は端末に向かい、集中したまま微動だにしない。
モニター上では、玲の潜入している“記録実験施設”へのアクセスログが秒単位で更新され続けていた。
だが――次の瞬間、警告音が鳴り響く。
【警告:不正経路検知】
【追跡コード照射源:不明/外部接続網経由】
御子柴理央が顔を上げ、険しい声を放った。
「逆探知された……!? このパターン、通常のファイアウォールじゃ防げない!」
奈々の指が止まり、唇がかすかに震える。
「反撃型ウイルス……!? 玲の位置情報まで辿られる!」
そのとき、制御室の自動ドアが音もなく開いた。
現れたのは、黒いパーカーに身を包んだひとりの男。
手にはノートPCと暗号化デバイス。
榊警部補が即座に振り返る。
「おい、誰だ――」
「外部特認コード《S-09》。
“オーバーライド・スペシャリスト”、九条凛です」
男――九条凛は静かに身分証を提示すると、モニター前の空席に座った。
御子柴が驚きの表情を浮かべる。
「……K部門でも数名しか存在しない、逆侵入特化のエリート……」
凛は余計な言葉を挟まず、即座に端末を接続した。
画面に黒と青のコードが流れ出す。
「追跡コードの発信元は……国外経由、ただし経路が変則的だ。
“外”からの侵入じゃない――“中”に潜んでる」
奈々が息をのむ。
「……内部? でも、ここは閉域網のはず」
「通常ならな」
凛の指が滑らかに動き、数層の暗号を突破していく。
「これを仕込めるのは、K部門の上層権限保持者だけ。
内部協力者が、玲を“切り離す”ためにプロトコルを仕掛けた」
榊の顔色が変わった。
「高城か……!」
その瞬間、室内の照明が一瞬だけ明滅した。
端末の一つが強制シャットダウンし、セキュリティモニターが黒く塗りつぶされる。
「遮断シーケンスが動き出した!」
奈々が叫ぶ。
凛は冷静なまま、コードを叩き続ける。
「“消される前に、こっちが掴めばいい”」
御子柴が隣で補助モニターを展開した。
「バックトレース、成功。……反応が一つ、霞ヶ関の中枢サーバ群にある」
奈々が顔を上げる。
「それって――玲たちを閉じ込めた制御の根幹……!」
凛が静かに頷く。
「今、そこへ橋をかける。だが成功率は二割以下だ」
奈々は迷わず言った。
「十分。それで玲が繋がるなら」
凛の指が再び踊り始める。
まるで電子の雨が画面上で弾けるように、無数の光の粒が走った。
【プロトコル上書き開始】
【リバースリンク:構築中】
雷鳴が轟く。
御子柴が小声で呟く。
「頼む……間に合ってくれ……」
そして次の瞬間――
モニターの一つが復旧し、微弱な音声が再生された。
『……こちら、玲。聞こえるか――』
奈々の瞳が大きく見開かれ、凛は薄く口角を上げた。
「……接続、完了だ」
2025年10月22日(水) 午前2時07分 K部門・第4記憶犯罪対策班 管制室
玲は通信越しに聞こえた奈々の声に、そっと目を閉じた。
疲労ではない。
ほんの一瞬、心の底からの安堵――
それが、次の警報音にかき消される。
【警告:外部信号干渉 検知】
【対象:K部門管制室メインフレーム】
九条凛の指が一瞬止まる。
御子柴が画面を覗き込み、息を呑んだ。
「おい、嘘だろ……? こっちが逆探知されてる。管制室ごと――標的だ!」
奈々が青ざめた顔で椅子を蹴り立ち上がる。
「玲との回線を切らないと、こっちが巻き込まれる!」
凛は一瞬だけ振り返り、冷ややかに言った。
「切断すれば、玲は“消される”。……だから切らない」
榊がすぐに命じる。
「凛、何ができる!?」
「……罠を張る。
“攻撃”を誘い、逆に侵入元を焼く。
ただし、相手はAI主導の自動追撃システム。
正面からは無理だ」
凛の目が一瞬だけ鋭く光る。
そして通信席の奥――暗がりの中から、もう一人の人物が静かに歩み出た。
「だったら、罠の“形”を変えよう」
榊が驚いて振り向く。
「おまえ……まさか、“幻影解析班”の――」
「ええ、外部協力コード《E-04》。
フェイズ・トラップ・エンジニア、相沢蓮。
データの“影”に影を重ねるのが専門です」
相沢は淡々とモニター前に立ち、凛と短く視線を交わす。
「君が扉を開ける。僕が“もうひとつの管制室”を作る」
「ダミー空間か」
「そう。奴らに“攻撃成功”を錯覚させる」
奈々が素早くサブモニターを展開し、御子柴がデータミラーを立ち上げた。
室内の照明が切り替わり、低い電子音が鳴り始める。
【フェイズ・トラップ構築開始】
【制御層ダミー領域:生成中】
榊は緊張の面持ちで立ち尽くしながらも、部下たちの動きを見守った。
「……全員でこの室を守れ。玲を孤立させるわけにはいかん」
雷鳴が再び鳴り響き、床下の回線が低く唸る。
凛がモニターを睨みつけ、静かに言った。
「来るぞ――」
その瞬間、モニターの一つが真っ黒に染まり、次いで爆音のようなノイズが室内を包み込む。
データの奔流が壁面のスクリーンを走り抜け、複数のモニターが一斉にフリーズした。
奈々が叫ぶ。
「第一層突破された! 早すぎる!」
「いい、予定通り」
相沢は微動だにせず、低く呟いた。
「これで“奴ら”は罠の中だ」
一拍遅れて、凛が即座にプログラムを展開する。
【オーバーライド・カウンタートラップ 起動】
【敵システム:識別コード不明 → 仮想封鎖領域へ転送】
御子柴の目が見開かれた。
「成功した……侵入コードが“閉じ込められた”!」
奈々の震える手が止まり、息を吐く。
「……すごい、本当に……罠ごと、飲み込んだ……」
凛は短く頷き、画面に再び玲の映像を呼び出した。
「玲、聞こえるか。攻撃は遮断した。安全圏を確保――今のうちに抜けろ」
通信越しに、玲の低い声が返る。
『……了解した。ありがとう、九条……そして、助かった』
相沢が薄く笑みを浮かべた。
「礼は要らない。まだ“本当の敵”は外だ」
榊が腕を組み、静かに呟く。
「……この侵入を仕掛けたのは、K部門の権限保持者だ。
つまり――内部の“上”が、動いている」
雨音が止み、遠くでサイレンが鳴り響いた。
その音は、次なる戦いの合図のように――確かに管制室に響いていた。
2025年10月22日(水) 午前2時19分 K部門・第4記憶犯罪対策班 管制室 地下4階
重厚な扉が、低い重金属音を響かせて開いた。
玲と御子柴、そして心理分析官の九条凛が、ほとんど同時に室内へ足を踏み入れる。
蛍光灯の明滅が続き、床下のケーブルが焦げたような匂いを放っていた。
モニターのひとつはすでにブラックアウトしており、残るスクリーンには“転送済み”と表示されたデータログが流れ続けている。
「……到着が遅れたか」
玲が低く呟き、すぐに周囲の状況を確認した。
御子柴が指先で端末を叩く。
「フェイズ・トラップはまだ生きてる。相沢が張った仮想封鎖領域が稼働中だ」
九条凛は静かに頷き、心理波形モニターの前に立った。
「……けど、何か変。侵入側の信号、完全に止まってない」
榊の声が無線に走った。
『各員、注意しろ。外部通信が再び動き出した――第二波が来る!』
その瞬間、床下から鋭い振動が突き上げた。
スクリーンが一斉に点滅し、データノイズが耳を裂くように走る。
「防御層が再起動してる!? ありえない、もう封じたはずだ!」
奈々の声が震える。
凛が眉を寄せ、映像を凝視した。
「……違う、これは“外”からじゃない。内部プロトコルを利用して、仮想層の裏側から侵入してきてる!」
玲が即座に判断した。
「フェイズ層を切断しろ! 相沢、聞こえるか!」
返答が一拍遅れて届いた。
「……いや、まだ切れない。ここで切ったら本管に波及する。玲、すぐに全員を退避させろ」
「お前は?」
「僕が“影”を閉じる。これ以上、中に触れさせない」
御子柴が息を呑む。
「待て、ここで張ってるのはあんたの神経リンクだろ!? 崩壊したら……!」
相沢の指がキーボードの上で止まり、わずかに笑みを浮かべた。
「平気だよ。これが俺の仕事だから」
その言葉と同時に、室内の照明が一瞬で落ちた。
空気が静電気のように震え、全員の髪がわずかに逆立つ。
【警告:フェイズ・トラップ臨界】
【エネルギー逆流検知】
玲が駆け寄ろうとした瞬間、凛がその腕を掴んだ。
「行くな、玲! 巻き込まれる!」
相沢は端末の前に立ち、背中越しに短く呟いた。
「九条、君がこれを見てるなら……“認識層の裂け目”を閉じてくれ」
凛の目に、一瞬、光が宿る。
「――了解」
相沢がキーを強く叩く。
その瞬間、空間全体が歪んだ。
轟音。
管制室の中心に、光の渦が発生する。
データの奔流が逆流し、黒いコードのような残響が渦巻いた。
奈々が悲鳴を上げる。
「相沢さん、戻って――!」
彼は振り返らなかった。
ただ、微笑みながら一言だけ残した。
「……もう十分、守れた」
眩い閃光が走り、轟音がすべてを呑み込む。
──そして静寂。
警告音が止まり、モニターに“フェイズ層安定化”の文字が浮かんだ。
凛が震える手で通信を開く。
「……こちら第4班、第二波は――防ぎました」
玲はしばらく言葉を発せず、焦げた床の中央に残る相沢の端末を見つめていた。
その画面には、わずかに揺れる文字列が残っていた。
【影は閉じた。だが“上”はまだ見ている。】
御子柴が拳を握り締める。
「……奴は、自分ごとシステムを閉じ込めたんだな」
玲は静かに目を閉じた。
「彼の選択は、正しい。……だが、これで終わりじゃない」
凛が顔を上げる。
「“上”――つまり、まだK部門の内部にいる誰かが、この攻撃を主導している」
玲は無言で立ち上がり、重く言った。
「……次は、“上層”に行く。
本当の黒幕を、表に引きずり出す」
外では、雨が止んでいた。
しかし、夜明けの空はまだ暗く――新たな嵐の兆しを孕んでいた。
日時: 午後3時47分
場所: 警視庁 K部門 管制室
奈々が操作する端末の画面に、異常なログが次々と表示された。赤く点滅する警告文字が、管制室の静寂を切り裂く。
「玲……見て! 上層部アクセスが暴走してる!」
奈々は声を震わせながら端末に指を滑らせる。
玲はすぐ隣で画面を覗き込み、冷静に指示を出した。
「奈々、落ち着け。まず侵入元を特定しろ。御子柴、制御層の遮断準備を」
奈々が焦る手を止め、玲の目を見上げる。
「でも、玲……崩壊がもうすぐ、監察室全体に広がるの!」
玲は肩越しに画面を確認し、端末に手を伸ばす。
「だから俺がいる。奈々、俺の指示だけを見ろ」
モニターの警告が点滅し、空気が緊張で張り詰める中、玲は端末の中枢に指を置き、操作を開始した。
奈々は息を呑み、静かに呟いた。
「玲……お願いします、止めて……」
玲は淡々と答えた。
「止める。俺たちの記録を、誰にも消させない」
日時: 午後4時12分
場所: 警視庁 K部門 内部調査用廊下
静まり返った廊下に、玲・奈々・御子柴の三人の足音だけが規則正しく響いた。
奈々が小さく息を吐きながら、玲の後ろを追いかける。
「玲……本当に大丈夫なの?」
玲は振り返らず、静かに答える。
「大丈夫だ。焦るな、奈々。今は慎重に進む時だ」
御子柴が端末を操作しながら呟いた。
「侵入ログは残っている……だが、この先が問題だ」
廊下の先、重厚な鉄扉が薄暗く光を反射し、三人の影を壁に長く落としていた。
奈々は小声で玲に確認する。
「玲……ここを突破すれば、黒幕に近づけるの?」
玲は目を細め、静かに答えた。
「……ああ。全ての鍵は、ここにある」
三人の足音が再び静寂を切り裂き、緊張感が張り詰めたまま廊下を進んでいった。
日時: 午後4時15分
場所: 警視庁 K部門 内部調査用 特別制御室
廊下の奥、重厚な扉を押し開くと、部屋の中央に巨大なホログラム・コンソールが浮かび上がっていた。青白い光が周囲を冷たく照らす。
玲は静かに足を止め、奈々と御子柴に目配せした。
「ここから先は慎重にな……」
背後から低い声が響く。
「やっと来たか、玲神崎。待っていたぞ」
部屋の奥、影のように佇む人物――内部協力者・高城次長が立っていた。ホログラムの光で、その顔の一部だけが鋭く浮かび上がる。
奈々が小さく息を詰め、玲の腕に手を添えた。
「玲……この人、危険すぎる……」
玲は冷静に、だが瞳に強い決意を宿して答える。
「分かってる。でも止める。全てをここで終わらせる」
御子柴は端末を操作し、次の手順を確認する。
「高城のアクセス権限はここまで制御可能……侵入ログを逆探知させれば、動きを封じられる」
高城次長はわずかに笑った。
「私を止められると思うか?神崎……君の仲間も同じく、無駄な抵抗だ」
玲は拳を握り、ホログラムの光を背に一歩前へ出る。
「無駄じゃない。ここで止める。誰も、もう誰も傷つけさせはしない」
部屋の空気が張り詰める。ホログラムの淡い光が三人の影を長く伸ばし、対峙の瞬間を凍らせた。
日時: 午後4時17分
場所: 警視庁 K部門 内部調査用 特別制御室
沙耶は無言で防弾ベストを肩から背中に回し、ベルクロを丁寧に固定した。その動きは静かだが確実で、室内の張り詰めた空気を一層引き締めた。
玲は高城次長の視線を直視する。次長の瞳は冷たく光り、心理の深淵から計算された圧力を放っていた。
「君は……なぜ、ここまでやるのか」玲は低く問いかける。
「私がやる理由など、単純だ。権力と記録の支配。それだけだ」高城の声は平然としているが、微かに笑みが混ざる。
「それで、人を傷つけることに何のためらいもない、と?」
「傷つけるのは手段に過ぎん。目的のために必要な犠牲だ。君には理解できないだろうがな」
玲は拳を握り締め、しかし動きは穏やかだった。
「理解はする。だが、ここで止める。どれだけ強くても、正義は曲げさせない」
沙耶がそっと背後で手を添える。
「玲……焦らないで。私たち、二人で支える」
高城は微かに顔を傾け、静かな笑みを浮かべた。
「ふむ……君は仲間に依存している。それが弱点になることも知らぬか?」
玲は反論せず、わずかに呼吸を整える。
「弱点でもいい。それでも守るべきものがある限り、俺は動く」
室内のホログラムが淡く揺れ、三人の影が壁に長く伸びる。心理戦は静かな緊張の中で互いの意志を削り合い、次の一手を待っていた。
日時: 午後4時32分
場所: 警視庁 K部門 内部調査用 特別制御室
金属製のシャッターが一斉に閉まり、冷たい音が室内に反響する。赤い警告灯が瞬き、緊張の色をさらに濃くした。
高城次長が微かに笑みを浮かべ、動きを見せたその瞬間、玲は一歩前に踏み出す。
「……今だ」
短く呟き、玲の視線は次長の手の動きに完全に同期する。体の重心を瞬時に移動させ、次長の右手を正確に捕らえ、抑え込む。
「動くな」玲の低い声が室内に響き、まるで空気そのものを押さえ込むような威圧感を放った。
沙耶が背後で警戒を固め、手を伸ばしながら次長を取り囲む。
「玲、合図を待って!」
次長は一瞬、驚きと困惑を交えた表情を見せたが、玲の動きは揺るがない。
「……こういう状況、嫌いではないな」と次長が低く呟くも、もう抵抗は叶わない。玲の判断と冷静さが、心理的優位と物理的制圧を同時に成立させていた。
室内の警告灯が赤く瞬く中、静寂が戻る。シャッターの冷たい金属音だけが、かつての緊張を証明するように残った。
玲の瞳には、冷徹さと守る意思が交錯していた。
日時: 午後4時34分
場所: 警視庁 K部門 内部調査用 特別制御室
その瞬間、黒い影が空間を滑るように現れた。気配は重く、室内の空気を一瞬で締めつける。
沙耶は冷静に視線を次長と影に配り、瞬時に判断した。低く構え、防弾ベスト越しに体を沈めながら、次長を完全に制圧する。手際は正確で無駄がなく、影の気配も同時に抑え込む。
「玲、後は任せて」沙耶の低い声が響く。
その声と同時に、K部門の他メンバーが合流した。榊警部補、奈々、御子柴理央、篠原詩織──それぞれが迅速に位置を取り、次長と黒い影を取り囲む。
玲は一歩前に出て、低く静かに告げた。
「動けば即座に拘束。隙は与えない」
室内に張り詰めた空気の中、影も次長も、もはや反抗する余地はなかった。警告灯の赤が、制圧完了の緊張感を映す。
沙耶の掌の力、玲の冷静な判断、そしてチーム全員の協力──短い数秒で、事態は完全に掌握された。
外部からの通信も遮断され、K部門内部の制御は完全にチームの手中にある。
玲は静かに深呼吸を一つし、仲間を見渡した。
「よし……これで、安全圏だ」
室内に安堵と緊張の残滓が混ざり合う。
しかし、玲の目には、まだ消えぬ警戒の光が宿っていた。
日時: 午後4時36分
場所: 警視庁 K部門 内部調査用 特別制御室
廊下を支配する静寂を切り裂くように、成瀬のナイフが黒く輝き、一瞬で影の兵器を断ち切った。
金属の摩擦音、空気を裂く鋭い閃光、それだけで敵の攻撃は封じられた。
残されたのは、次長・高城の冷たい瞳だけ。
玲は息を潜め、彼の心理を鋭く読み取る。
「お前が……内部協力者……いや、黒幕か」
玲の声に、次長は静かに微笑む。
「そうだ、玲。私がすべてを掌握していた。K部門内部の抹消プログラムも、外部情報も、すべてだ」
その声には、冷徹さと計算された狂気が宿る。
影の正体は、外部から送り込まれた“情報破壊専用兵器”。
無人で動き、記録と存在を削除する能力を備えた、最新型の制御ドローンであった。
次長はこの兵器を、K部門内部の証拠隠滅と心理的圧迫のために設置していたのだ。
玲は短く息を吐き、沙耶と成瀬を確認する。
「奴は人間だ。兵器は管理下。だが、動機は……次長自身の暴走だ」
榊が低く呟く。
「K部門の信頼を盾に、個人的な権力欲で……ここまでやるとは」
御子柴理央が端末を操作し、次長の権限履歴と操作ログを照合する。
「ここまで計画的に改ざんと消去を繰り返した痕跡は、内部者でなければ不可能です」
玲は次長を見据えた。
「すべて吐け。誰が関わっている、何を目的に、誰の命令で動いた」
次長の口元に、微かな笑みが浮かぶ。
「……君には見抜かれたか。だが、もう遅い。情報は消され、真実は闇に沈む」
だが、玲の目には、もう恐怖はなかった。
沙耶、成瀬、御子柴、篠原、奈々──全員の存在が、彼の背を押していた。
「遅くない、俺たちが止める」
次長と影の正体が明らかになったその瞬間、室内には、緊張と勝利の予感が交錯していた。
日時: 午後4時42分
場所: 警視庁 K部門 内部調査用 特別制御室
玲の身体が閃光のように動く。
次長・高城の視界から、ほんの一瞬だけ姿が消えたかと思うと、もう目の前に立っている。
「動きが……早すぎる」
次長は一瞬ひるむが、冷静に次の一手を考える。
玲は静かに足を止め、低く囁いた。
「高城次長、すべてを吐くんだ。君の計画、兵器の設置場所、関係者、すべて」
次長は微笑み、冷たい目を細める。
「玲……君に理解できると思うのか。権力、情報、記録――それを握った者がすべてを支配する。君たちはまだ子供だ」
玲は短く息を吐き、心理を読む。
「君は恐怖と優越感で人を縛り、証拠を消して支配しようとした。だが、誰かを守る覚悟を知っている者には、もう通じない」
沙耶が静かに次長の側面に回り、身体的圧力で動きを制御する。
成瀬は無言でナイフを構え、あらゆる反撃に即応できる陣形を取る。
次長はなおも挑発する。
「君は感情に流されている……記録を守るなど、無意味だ」
玲の目が光る。
「感情も、判断も、すべて俺の力だ。君の思い通りにはさせない」
御子柴が端末を操作し、次長が操作していた抹消プログラムの残存痕を洗い出す。
「プログラムの制御は完全に解除済み。内部協力者の痕跡も確認、逃げ場はない」
篠原詩織が低い声で補足する。
「次長、心理的優位は通用しない。被害者の痛みを無視して計画を続ける限り、君は孤立している」
次長は一瞬、目を伏せる。
しかしすぐに冷笑を浮かべる。
「……では、証拠を示せ。だが、私の言葉は否定されるのだろうな」
玲は間髪入れず、静かに手を伸ばす。
「その否定も含めて、すべて法の下に置く。君の心理操作も、もう効かない」
室内の緊張は極限に達する。
息遣い、指先の震え、そして眼光。
心理戦の勝敗は、玲の冷静さと沙耶・成瀬の連携、そしてK部門の解析能力に委ねられていた。
次長はゆっくりと、しかし確実に追い詰められていく。
「……まさか、ここまで計算されていたとは……」
その声は、勝者への認識と敗北の始まりを告げていた。
日時: 午後4時55分
場所: 警視庁 K部門 内部調査用 特別制御室
冥刻──その名が告げられた瞬間、室内の空気は凍りついた。
次長・高城次長は、わずかに肩を震わせながら椅子に座らされる。
玲が冷静に前に立ち、鋭い視線を注ぐ。
「高城次長、“冥刻”の全容を説明してもらおうか」
次長は一瞬の沈黙の後、重い口を開く。
「……やむを得ぬか。すべては記録と支配のため……俺の……計画は……」
成瀬が無言で足元を固め、沙耶が次長の背後に立ち、心理的圧力をかける。
玲はゆっくりと続ける。
「証拠も抹消命令もすべて逆算済みだ。ここで君を拘束する」
御子柴理央が端末を操作し、内部協力者の痕跡、そして冥刻プログラムのログを一括表示する。
「記録の残存は完全に復元済み。逃げ道はありません」
高城は冷笑を浮かべるが、視線は徐々に定まらなくなる。
「……君たち……強いな……」
その言葉に、玲は微かに眉を上げる。
「強さは、誰かを守るために使う」
九条凛が低い声で追撃する。
「これ以上、心理的操作は通用しません。証言も証拠も、すべて君の行為を裏付けています」
重厚な手錠が次長の手首を締める。
「……冥刻……すべて明るみに出るのか……」
玲は静かに頷いた。
「すべて。記録は守られる。君の計画も、ここで終わりだ」
成瀬と沙耶が次長の移送準備を整え、K部門の他メンバーも監視を強化する。
室内の緊張は解け、しかしその場に残る静寂は、事件の深刻さと決着の重みを物語っていた。
日時: 午後5時27分
場所: 警視庁 K部門 記録保管室および病院連絡室
──ビィッ!
端末のアラーム音が会議室に響く。御子柴理央が手早く操作し、提出用データの最終確認を行う。
「すべての証拠ファイル、K部門の正式レコードとして保存完了。改ざん痕跡なし」
玲は静かに頷き、書類に署名する。
「これで被害者救出も含めて、正式に事件は封じられた」
沙耶は控えめに息を吐き、モニター越しに病院の病室を確認する。
ベッドに横たわる川原真由が、安堵の表情を浮かべている。
「無事で良かった……」
成瀬と桐野が、救急搬送の準備と患者対応の最終チェックを行う。
「被害者への二次被害を防ぐ措置も完了。これで安心だな」
桐野が頷く。
玲は病室の前に立ち、静かに呼吸を整えた。
「川原さん、私たちが守ります。もう一度、ここからやり直せる」
御子柴が電子端末で署名記録を残す。
「証拠、救出、全て記録されました。これで法的手続きに移行できます」
奈々が肩越しに玲を見上げ、少し微笑む。
「玲、さすがだね。もう大丈夫」
玲は微かに目を細め、被害者の安堵した表情を見据えた。
「……ああ、これで事件は終わった。次は、真実を生かす番だ」
重厚な扉の外では、再び静寂が戻る。
K部門の記録保全室には、解決の余韻と、守り抜いた人々への責任感だけが残っていた。
日時: 翌朝 8:15
場所: ロッジ・談話室
窓から差し込む朝陽が、談話室の木製テーブルに柔らかな光を落としていた。
コーヒーの香りと薪のはぜる音が、室内に静かに満ちる。
玲は窓際の椅子に腰かけ、新聞をめくりながら昨日の事件報告を頭の片隅に置いていた。
沙耶はテーブルの反対側で、軽く伸びをしてから朱音のスケッチブックに目を落とす。
奈々はラップトップに向かい、昨夜の監視データとチームの動きを整理していた。
「昨日の記録、正式に裁判資料に提出されたんだな」
玲は低く呟き、砂糖をひとさじ入れたコーヒーを静かにかき混ぜた。
沙耶は朱音に微笑みかける。
「朱音、おはよう。今日も元気そうね」
朱音は元気よく頷き、スケッチブックを抱きしめたまま席を立つ。
「おはよう、ママ!玲さんもおはよう!」
奈々は軽く笑いながら玲に言った。
「玲、昨日みたいに“みんなの前で落ち着いて指揮する”の、やっぱり得意だよね」
玲は少し照れたように眉を上げる。
「……元から、だろ」
沙耶と奈々が同時に顔を見合わせ、軽く吹き出した。
談話室には、戦いの余韻は残っていたが、それ以上に温かい“日常”の空気が流れていた。
三人のチームは、昨日の緊迫から解放され、互いの存在を当たり前に感じながら朝のひとときを過ごしていた。
日時: 午前10:00
場所: 川原真由・病室および社会復帰支援室
川原真由はゆっくりと目を開け、病室の窓から差し込む光に目を細めた。
医療スタッフが控えめに声をかける。
「無理はしないで、少しずつね」
玲はそっとベッド脇に座り、被害者に向けて言った。
「もう大丈夫です。過去は変えられないけれど、これからの未来は守れます」
沙耶は椅子を引き、手を添えて微笑む。
「怖い思いをしたけど、もう一人じゃないよ」
川原は涙を浮かべながら小さく頷く。
「ありがとうございます……」
奈々は端末で今後の復帰プランを整理し、資料を玲に渡した。
「学校や職場復帰も、少しずつ進めましょう。無理は禁物」
玲は深く息を吐き、窓の外を見やった。
小雨に濡れた街路樹が朝日に光り、日常の音が戻りつつある。
「……さあ、次の事件が来ても、このチームなら大丈夫だ」
沙耶と奈々が互いに頷き、朱音もスケッチブックを抱えながら笑った。
窓の外では、静かに新しい一日が始まっていた。
エピローグ
戦いが終わった。
ロッジの談話室には、薪が静かに燃える音と、珈琲をすする静かな呼吸だけが満ちていた。
窓から差し込む柔らかな朝光が、昨日までの緊張を優しく溶かしていく。
玲は椅子に腰かけ、カップを手に遠くの景色を見つめていた。
沙耶は朱音と共にソファに座り、穏やかに微笑む。
奈々は端末を片付け、チームの昨日の行動を振り返りながらも、どこか肩の力を抜いていた。
「もう、戦いは終わったんだな……」玲は小さく呟く。
沙耶はそっと手を差し伸べ、肩に触れた。
「うん。でも、あなたがいてくれたから、私たちはここにいる」
朱音が笑顔で跳ねる。
「玲さん、今日も元気だね!」
玲は微かに口元を緩めて答える。
「……元からだろ」
沙耶と奈々が同時に吹き出し、談笑が室内に広がる。
外では小雨が止み、澄んだ空気が街を包み込む。
戦いの傷跡はまだ残るが、この部屋の中には、確かに“家族”と呼べる温もりがあった。
玲は深く息をつき、再び窓の外を見つめる。
過去は終わり、未来はまだ始まったばかり。
誰もが、静かに、しかし確かな希望を胸に抱いていた。
たことを意味していた。
日時:2025年10月20日 21:37
場所:玲の自宅/書斎
玲はデスクの椅子に腰かけ、わずかに冷めたコーヒーを手にしていた。
端末の通知音が軽く鳴る。画面を見ると、差出人は高城次長――あの黒幕として立ちはだかった人物からだった。
玲は画面を開き、短文のメールを読む。
「玲君、今回の件では助かった。君の判断と行動には感服する。
被害者も無事で、事後処理も順調に進んでいる。
心から礼を言わせてもらう。
高城」
玲はわずかに眉を上げる。文面は簡潔で、どこか形式的だが、確かに感謝の意が込められていた。
彼は画面を閉じ、深く息を吐く。
「……あの次長からの感謝か。皮肉めいてるけど、まあ、悪い気はしないな」
その横で、沙耶が微笑んで訊いた。
「高城次長から?」
玲はうなずき、画面を差し出す。
「そう。今回の件に対してだって。……まあ、あいつなりの礼だな」
沙耶は軽く頷き、肩越しに画面を覗き込む。
「表現は不器用だけど、心は伝わってるんじゃない?」
玲は画面を机に置き、静かに窓の外を見つめた。
街の灯が雨に濡れて淡く光る。
あの日の事件の影は消えたわけではないが、少なくとも今は、こうして“感謝”という形で終息の兆しを見せていた。




