38話 視ることの責任
主要人物
神崎 玲
年齢:29歳
職業:探偵・玲探偵事務所代表
特徴:冷静沈着で観察眼と推理力に優れる。直感的な捜査も得意。朱音やチームメンバーの安全と真実を守るため、常に先を読んで行動する。
佐々木 朱音
年齢:10歳
職業:小学生
特徴:純粋な感受性を持つ少女。スケッチブックに描いた絵が、事件の鍵や人々の記憶と不思議に共鳴する。神崎玲の捜査に重要なヒントを与える存在。
沙耶
年齢:36歳
職業:主婦・チームの支援者
特徴:朱音の母。直感と人間観察に優れ、神崎玲やチームメンバーを精神的に支える存在。朱音との絆が深く、危険な現場でも娘を守るため冷静に判断する。
御子柴 理央
年齢:32歳
職業:記憶分析官
特徴:冷静沈着で分析力に長ける。朱音のスケッチや事件の情報を科学的に解釈するスペシャリスト。チームの理論的支柱。
水無瀬 透
年齢:31歳
職業:深層意識探査官
特徴:封じられた記憶や無意識の領域にアクセスできる。心理的な異変を読み解き、チームの行動に重要な情報を提供する。
九条 凛
年齢:30歳
職業:心理干渉分析官
特徴:精神分析と心理誘導の専門家。対象者の証言の真偽や心理状態を見極める能力に長ける。御子柴とは長年の協力関係がある。
柊 コウタ/ユウタ(ひいらぎ こうた/ゆうた)
年齢:10歳
職業:事件の目撃者・「記憶の証人」
特徴:双子の少年。コウタは幼稚園の倉庫で発見され、ユウタは事件に関連する消された記憶を保持する。真実を暴く鍵となる存在。
御影 清流
年齢:27歳
職業:K部門・終端解析官
特徴:膨大なデータ解析、暗号解読、脅威予測のエキスパート。事件解決の知的切り札。冷静で無駄のない判断力を持つ。
服部 煌(はっとり こう/きらめき)
年齢:不明
職業:服部一族・解析班
特徴:影班の一員で、極めて高い身体能力と情報解析能力を併せ持つ。冷徹な性格だが、チームの指示には忠実に従う。
柊 蓮司
年齢:33歳
職業:記憶構造解析の第一人者
特徴:冷静沈着で分析眼に優れる科学者。朱音の感受性やスケッチの力に強い興味を持ち、神崎玲と複雑な事件を共に解決してきた。
プロローグ
2025年10月18日(土) 22時47分 都内・玲探偵事務所
夏の余韻がまだ街を包む深夜。夜風は少し冷たく、街路灯の光が濡れたアスファルトに反射して揺れている。
玲はデスクに肘をつき、無言でモニターを見つめていた。
映っているのは、数時間前に発生した銀行強盗の防犯映像だ。
「……動きが訓練されてるな」
玲の低い声が、静まり返った事務所の空気を引き締める。
「入店から脱出まで、わずか三分四十二秒。無駄がない」
沙耶が椅子を引き、映像の時間表示に目をやる。
「強盗というより、作戦行動ね。金だけが目的じゃない気がする」
御子柴理央は腕を組み、画面の一部を拡大した。
「逃走ルートが不自然です。出口は三つあるのに、全員が同じ方向に走っています。
誰かが指示を出していた可能性があります」
玲は短く息を吐き、立ち上がって椅子を回転させる。
「現場の地図、すぐ出せるか」
「もう出してます」
御子柴が操作を行い、モニターに立体地図を表示させる。
銀行前の通り、裏口、近隣のカフェ──そのすべてのルートが詳細にマッピングされていた。
沙耶は地図を見つめながら呟く。
「このルート、途中に監視カメラの死角がある……偶然じゃないわね。誰か、事前に位置を把握してた」
玲は地図を凝視し、指先で一点を示した。
「ここ。裏通りの信号。タイミングを計って逃げれば、十秒で視界から消える」
「……じゃあ、そこに車を用意してた?」
沙耶が問いかける。
玲は頷き、淡々と答えた。
「恐らく。逃走車のナンバーがわかれば、一気に追跡できる。明朝、現場で確認する」
御子柴がファイルを閉じ、落ち着いた声で言う。
「通報のタイミングも気になります。現場の警備員がボタンを押したのは、犯行後……なぜか」
玲は腕時計をちらりと見て、静かに告げた。
「その答えも、現場で確かめよう」
三人の間に短い沈黙が流れる。
街の遠くで車の走る音がかすかに聞こえ、夜風が窓から事務所の空気を揺らした。
玲はモニターを一時停止させ、映像のタイムスタンプを指でなぞった。
「……2分17秒。」
沙耶が眉をひそめる。
「……これ、何の数字?」
御子柴理央は画面を拡大しながら分析する。
「犯行開始から金庫制圧までの時間です。しかし、不自然なのは、監視カメラの起動タイミングと一致していないこと。
つまり、意図的に残した“数字”の可能性があります」
玲はゆっくり息を吐き、視線を画面から離して部屋の窓の外を見た。
「2分17秒……偶然ではないな。犯人は計画的に、何かを伝えようとしている」
沙耶が手帳を取り出し、細かくメモを取り始める。
「“時間”でメッセージ?……まさか暗号なの?」
玲は腕組みし、決意を込めて口を開く。
「まずは、この2分17秒が意味するものを解読する。逃走ルート、監視の死角、犯人の動き……
数字には必ず、何かの指針が隠されているはずだ」
御子柴は頷き、冷静な声で付け加える。
「映像の中の微妙な遅れやタイミングも、すべて含めて解析すれば手掛かりになるでしょう」
沙耶は窓の外に広がる夜の街を見つめ、小さく息をついた。
「……犯人、すぐそばにいるのかもしれないわね」
玲は静かに頷き、デスクに手を置き、決意を固めた。
「なら、こちらも手は打つ。明日の朝までに、すべてを洗い出す」
夜の風が事務所のカーテンを揺らす。
2分17秒――それは、静かな街に潜む“計画の証”だった。
時間:翌日午前7時30分
場所:都内某銀行支店前、現場検証エリア
朝の光がガラス張りの銀行を淡く照らす。街路樹の葉は秋風に揺れ、道行く人々の足音が控えめに響く。深夜の騒動の痕跡はほとんどなく、ただ警察の黄色い封鎖テープだけが、ここで何かが起きたことを示していた。
玲はコートの襟を立てながら、現場に到着した。手元には前夜の映像データをまとめたタブレット。隣には雨宮直哉刑事が立ち、無線機を耳に当てながら簡単な報告を始めた。
「深夜0時45分、警備員からの通報で強盗が発覚。犯人は2名、現金自動搬送カートに向かって侵入した形跡があります。映像と現場状況に大きな矛盾はありませんが……」
玲はタブレットを開き、現場の写真と比較する。
「ただし、動作のタイミングが微妙にズレている。2分17秒という数字……これが犯人の計画を示す目安かもしれない」
雨宮が封鎖線の向こうに視線を投げる。
「現場はほぼ整理済みですが、足跡や細かい物証を再確認する必要があります。監視カメラもすべて回収済みです」
玲は頷き、地面に残るわずかな埃や落下物を指先で確認した。
「夜間の動線を再現すれば、2分17秒の意味が見えてくるかもしれない。午前中いっぱいかけて解析しよう」
秋の冷たい空気が、銀行前の街角を包み込み、静かな緊張感が漂っていた。
時間:翌日午前8時15分
場所:都内某銀行支店前、現場周辺
銀行前の広場に、朝の光が低く差し込む。玲は封鎖テープの外側に立ち、現場の建物と道路を見渡した。彼の前には、少女のような小さなシルエット――被害者役として想定した人形が置かれていた。
「まず、ここが入口。犯人はこの自動ドアから侵入したはずだ」
玲は指で入口からATMカウンターまでの距離をなぞる。
「そして、監視カメラの死角はこの角度。深夜の照明条件を考慮すると、ここからの侵入が最も安全だ」
雨宮直哉刑事がメモを取りながら尋ねる。
「なるほど、ここから現金カートまでの距離が2分17秒に対応する、と?」
玲は頷き、タブレットを操作して防犯映像と照合する。
「そうだ。映像の中で犯人が小走りした時間と一致する。この動線を再現すれば、次にどの位置に誰が立っていたかがわかる」
彼はシルエットの前に立ち、動きをゆっくり再現してみせた。
「ここでカートを押す、次に監視員の位置を確認、最後に出口へ。この一連の動作が2分17秒で完了する」
玲は地面に残る微かな靴跡に視線を落とす。
「足跡の向きも、この動線に沿っている。夜間の光の角度と微妙な埃の移動……全てが、計算された動きだ」
少女のシルエットが静かに朝の光に溶け込む中、玲は手を腰に当てて考え込む。
「ここまで計画的な犯行なら、次に何を狙うかも推測できる。重要なのは、現場に残された数字の意味だ……」
秋の風が街路樹を揺らし、銀行前に静かな緊張が漂った。
時間:翌日午前8時30分
場所:都内某銀行支店前、現場周辺
玲は地面に跪き、タブレットの映像を再生した。画面上で犯人の動きをスロー再生し、2分17秒のタイムラインを指でなぞる。
「……2分17秒か」
彼は低く呟き、眉間に皺を寄せる。
「この時間は単なる行動時間じゃない。次の動作のタイミングを知らせる合図だ」
雨宮直哉刑事が問いかける。
「合図……ですか?」
玲は頷き、映像の細部を指さした。
「現金カートを押す速度、監視カメラの死角に入るタイミング……全てが秒単位で計算されている。2分17秒は、入口侵入から脱出までの最短ルートに合わせた『安全時間』だ」
彼は立ち上がり、深呼吸をひとつ。
「この情報をもとに、我々は次の行動を決める。現場を抑えるなら、脱出経路に重点を置け。2分17秒の間に出口を封鎖すれば、犯人は逃げられない」
雨宮がメモを取りながら頷く。
「なるほど、タイムラインを逆算して行動すれば、未然に防げるわけですね」
玲は周囲を見渡し、現場の状況を冷静に確認する。
「いいか、まず裏口から駅方面への逃走経路を封鎖。次に正面通路を押さえ、警備員には監視カメラの死角に留まらせる。全て2分17秒を基準に配置する」
彼は指示を出し終えると、タブレットを手に微かに微笑む。
「時間は限られている。だが、この計算通りに動けば、強盗は捕えることができる……さあ、準備を始めよう」
秋の朝風が街路樹を揺らし、銀行前に緊張感が張り詰める中、玲は次の行動を指示するために動き出した。
時間:深夜0時15分
場所:都内某銀行支店周辺、路地・裏口・正面通路
夜の空気はまだ夏の名残を帯び、街灯が路面を淡く照らしている。玲は路地の角に立ち、手にした無線機を握りしめた。
「全員、封鎖ラインを確認。雨宮、裏口から駅方面への逃走経路を押さえろ」
無線越しに雨宮の声が返る。
「了解。裏路地は警戒配置済み。逃走者の動線を遮断する」
玲は手元の地図をなぞりながら指示を続ける。
「正面通路は死角を埋めろ。タイムラインは2分17秒を基準に動く。猶予はこの間だけだ」
成瀬由宇と黒沢もそれぞれのポジションにつき、路地の影や交差点を監視する。無線からは静かな指示のやり取りが交わされる。
「監視カメラの死角をカバー中。正面通路は異常なし」
「裏口に動きあり。誰も逃げられない位置に押さえた」
玲は微かに息を吐き、視線を前方に向ける。遠く、街灯に照らされる路地の端に、犯人と思われる人物の動きが見えた。
「よし、接触まであと30秒。全員、動きを乱すな」
朱音は後方の安全な位置から、手元のノートに街灯や建物の配置を描きながら静かに見守る。
「……緊張するね、玲さん」
玲は小さく頷き、無線で最後の指示を飛ばす。
「各自、タイミングを逃すな。2分17秒の間に脱出経路を完全封鎖しろ。準備完了次第、接触だ」
そして──正面通路から現れた犯人の動きに合わせ、玲と現場チームは一斉に追跡を開始した。
夜の街に静かな緊張が走る。銀行前の通りでは、計算された動きで犯人を逃がさない、緊迫の追跡劇が始まっていた。
時間:深夜0時15分
場所:桜ヶ丘通りの銀行周辺、路地・裏口・正面通路
夜の空気はまだ夏の名残を帯び、街灯が路面を淡く照らしている。玲は桜ヶ丘通り沿いの銀行前に立ち、手にした無線機を握りしめた。
「全員、封鎖ラインを確認。雨宮、裏口から商店街方面への逃走経路を押さえろ」
無線越しに雨宮の声が返る。
「了解。裏路地は警戒配置済み。逃走者の動線を遮断する」
玲は手元の地図をなぞりながら指示を続ける。
「正面通路は死角を埋めろ。タイムラインは2分17秒を基準に動く。猶予はこの間だけだ」
成瀬由宇と黒沢もそれぞれのポジションにつき、路地や交差点を監視する。無線からは静かな指示のやり取りが交わされる。
「監視カメラの死角をカバー中。正面通路は異常なし」
「裏口に動きあり。誰も逃げられない位置に押さえた」
玲は微かに息を吐き、視線を前方に向ける。遠く、街灯に照らされる路地の端に、犯人と思われる人物の動きが見えた。
「よし、接触まであと30秒。全員、動きを乱すな」
朱音は後方の安全な位置から、手元のノートに街灯や建物の配置を描きながら静かに見守る。
「……緊張するね、玲さん」
玲は小さく頷き、無線で最後の指示を飛ばす。
「各自、タイミングを逃すな。2分17秒の間に脱出経路を完全封鎖しろ。準備完了次第、接触だ」
そして──正面通路から現れた犯人の動きに合わせ、玲と現場チームは一斉に追跡を開始した。
桜ヶ丘通りの夜に、計算された動きで犯人を逃がさない、緊迫の追跡劇が静かに幕を開けた。
時間:深夜0時32分
場所:桜ヶ丘通り・銀行裏路地脇
無線のざわめきが落ち着き、路地に残された紙片が風にそよぐ。成瀬が犯人の拘束具を押さえつけ、雨宮が手錠をかける。黒沢が懐から小さな端末を取り出し、事件の決定的な映像を再生しようとしたその瞬間、朱音が後方からそっと近づいてきて、目を大きくして画面を見上げた。
「見せる?」と誰かが囁く。画面には、犯人の顔と、彼が持っていた凶器の一部が映し出されている。場の空気がほんの少しだけ冷たくなるのがわかった。
玲は一歩前に出て、画面の端を指で覆いながら静かに言った。
「……見せないほうがいいかも」
その声には迷いがなく、保護者として、指揮官としての判断が滲んでいた。奈々が小さく息をつき、頷く。成瀬も視線を朱音に移してから、端末の明かりを消した。
「詳細は後で説明する。安心してここにいていいよ、あかね」玲は柔らかく続けると、朱音の頭をそっと撫でた。朱音は小さくうなずき、胸に抱えたスケッチブックをぎゅっと抱きしめた。
その間に雨宮が無線で伝達を完了させ、犯人は警察車両へと移送された。夜風が路地を撫で、桜ヶ丘通りには再び静けさが戻ってきた。
時間:午前6時15分
場所:佐々木家・朱音の寝室
薄明かりの中、朱音は毛布にくるまったまま、目を閉じて深呼吸をした。昨夜の夢の余韻がまだ胸に残っている。夢の中では、街の通りを駆け回り、謎めいた数字や人々の動きを追っていたのだ。
ベッドの端に腰をかけ、朱音は小さな手でスケッチブックを抱き寄せる。昨夜描いた絵の線や色が、まだ頭の中で微かに揺れて見えるようだった。
「……あの夢、なんだったんだろう」
小さな声を漏らし、朱音は窓の外に目を向ける。まだ秋の名残を感じさせる朝の空気が、カーテン越しに部屋をそっと撫でた。深く息を吸い、朱音はゆっくりと立ち上がる。ベッドの隣に置かれた鉛筆と消しゴムを手に取り、夢で見たものをスケッチブックに書き写す準備を始めた。
静かな部屋の中で、朱音の小さな動作が朝の光に混ざり、今日一日の始まりを告げていた。
時間:午前6時20分
場所:佐々木家・朱音の寝室
ノックの音に朱音は一瞬手を止め、耳を澄ませた。静かな朝の空気がその音を際立たせる。
「朱音、起きてる?」
穏やかな母・沙耶の声だった。朱音は小さく頷き、スケッチブックを胸に抱えながら返事をする。
「うん、起きてる……」
扉がゆっくり開き、沙耶が入ってきた。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、母娘の顔を柔らかく照らす。
「まだ夢の余韻が残ってるみたいね。でも、大丈夫。朝ごはんの前に少しお話ししようか」
朱音は小さく微笑み、母の隣に座った。静かな朝のひとときが、二人の間に穏やかな温もりを運んできた。
時間:午前6時25分
場所:佐々木家・朱音の寝室
朱音の指先が、まだ昨夜の夢の余韻を残すスケッチブックの紙面をそっとなぞる。描かれた線は柔らかく、けれどどこか鮮明で、彼女の心の小さな震えを映し出しているかのようだった。
「……昨日の夢のこと、描いちゃった」
小さな声に沙耶が微笑む。
「うん、でもいいのよ。絵に描くと、少し落ち着くでしょ?」
朱音は頷き、指先で線をたどりながらゆっくりと深呼吸した。部屋の外では、朝の風がカーテンを揺らし、柔らかい光がスケッチブックの上に差し込む。
「今日は……何をしようかな」
沙耶はそっと肩に手を置き、優しく答えた。
「まずは朝ごはん。それから、一緒に外を少し歩きましょうか」
朱音は小さく笑い、スケッチブックを抱きしめたまま立ち上がる。静かな朝の光の中で、母娘の時間がゆっくりと流れていった。
時間:午前6時28分
場所:佐々木家・朱音の寝室
ふいに、朱音の鉛筆が紙の上で動き出した。まるで意志を持ったかのように、線は迷わず走る。
「……あれ?」
朱音は目を丸くして鉛筆を握る手を止めたが、線は止まらず、スケッチブックのページに静かに形を描き続ける。
沙耶がそっと肩越しに覗き込む。
「朱音……描きたいの?」
「うん……なんだか、描かないと落ち着かないみたい……」
鉛筆は少女の指先に導かれるように、夢の断片や昨夜見た光景の残像を紙の上に映し出す。ページの隅には、まだ言葉にはできない小さな想いが形を成していく。
朱音は小さく息を吐き、紙面を見つめながら呟いた。
「……描こう。全部、描こう」
部屋に差し込む朝の光が、彼女とスケッチブックを優しく包み込む。
時間:午前6時33分
場所:佐々木家・朱音の寝室
次の瞬間──
朱音の鉛筆が、ページの中央に勢いよく大きな円を描き出した。鉛筆の先端は止まることなく、くるくると動き、紙の上に新しい形を刻む。
「わっ……!」
朱音は驚きの声をあげ、鉛筆を握る手をぎゅっと固める。だが、線はまるで彼女の意思を先取りするかのように、静かに続いていく。
沙耶はそっと彼女の肩に手を置いた。
「大丈夫、朱音……何を描いてもいいのよ」
朱音は深く息を吸い、目を閉じて鉛筆の動きを感じた。紙の上に描かれるのは、昨夜の夢の残像、街角の風景、そして何より、胸の奥にしまった“モヤモヤ”の形だった。
「……全部、見せてあげる……」
その言葉とともに、朱音の手は一層力強く動き、スケッチブックに新たな物語が刻まれ始めた。
時間:午前6時36分
場所:佐々木家・朱音の寝室
足音がしない。
朱音はハッと息を飲み、鉛筆を止めた。薄明かりの差し込む部屋の中、風の音もなく、ただ静寂だけが広がる。
「……ママ?」
沙耶の声に反応しようとするが、答えは返ってこない。窓の外の街路灯の光が揺れるだけで、普段なら聞こえる家の中の微かな物音も、今は完全に消えていた。
朱音はそっとベッドから降り、足元を確かめながら部屋の中を見回す。
鉛筆はまだスケッチブックの上で小さく動いているが、それ以外に動くものは何もない。
「……誰もいないの?」
その問いかけに、答えはない。ただ静寂が、部屋を包んだままだった。
時間:午前6時38分
場所:朱音のスケッチブック内の“描かれた世界”
鉛筆の線が震え、朱音の手がスケッチブックをなぞった瞬間、紙の上の街並みに光が差し込む。
気づくと、朱音自身が線で描かれた街の中に立っていた。手にはまだ鉛筆が握られている。
前方には小さな標識があり、文字はぼんやりと光っている。朱音は息を整え、ゆっくりとその標識の前へ歩み寄った。
「……ここは……?」
標識の先には、歪んだ反射を映すミラーが立っている。朱音はその前に立ち、鏡に映る自分と、そして背後の玲の姿に目を留めた。
玲もまた、紙の上の世界に吸い込まれてきたらしい。
二人の影がゆらりと重なり合い、紙の上の街は微かに震え、鉛筆の線が生き物のように動き始めた。
朱音は小さく息を呑み、玲の方へ視線を向けた。
「……玲さん、私、どうしたら……」
玲は落ち着いた声で答える。
「まず、ここが“描かれた世界”だと理解することだ。そして、道を確認する……僕たちは、この中で進む必要がある」
二人は静かに、鏡の向こうへ歩き出す。
鉛筆の線が光を帯び、紙の世界が息を吹き返すかのように広がった。
時間:午前6時40分
場所:朱音のスケッチブック内、描かれた街の中
朱音は小さく息をつき、標識の前で立ち止まった。視線の先には、鉛筆で描かれた街並みと、あの桜ヶ丘通りの銀行のシルエットがぼんやりと見えている。
「……ここ……やっぱり、現場なんだよ」
彼女の声は震えていたが、どこか確信めいた響きもあった。
玲は朱音の横でうなずき、紙の上の街を一歩ずつ歩きながら確認する。
「線や建物の配置も、現実と一致している……間違いない。君の目で見た通りだ」
朱音は小さな手で鉛筆を握り、描かれた街の角を指でなぞる。
「ここ、あの時……強盗が走っていった道……」
玲は静かに頷いた。
「そうだ。君が描いた通りに動けば、犯人の足取りも再現できる」
朱音は深呼吸を一つして、小さくうなずいた。
「……じゃあ、私、ついて行く……」
玲も鉛筆の線を確認しながら、朱音の隣で歩き始める。
静まり返ったスケッチの街の中で、二人の影だけがゆっくりと動き出した。
時間:午前6時42分
場所:朱音のスケッチブック内、描かれた街の角
朱音が鉛筆で描いた街を進むたび、玲は紙面の線と現実の差異を注意深く確認していた。
足元にふと目をやると、スケッチには描かれていない電柱の影が静かに落ちている。
「……あれ?」玲は低く呟いた。
朱音も視線を向け、眉をひそめる。
「描いてない……でも、ある……」
玲は鉛筆を握る朱音の手元を見つめ、慎重に指示した。
「君の線と違うものがある。よく見て、覚えておけ。後で追跡に使う」
朱音は小さくうなずき、電柱の影をじっと目に焼き付けた。
「……わかった」
紙の上では静かだった街の空気が、わずかにざわめくように感じられる。
影ひとつで、街の見え方は少し変わる──そんな、奇妙な緊張感が二人を包んでいた。
時間:午前6時45分
場所:スケッチ内の街角、標識前のミラー
玲はゆっくりと歩みを進め、朱音の横で立ち止まった。前方には、スケッチに描かれた小さな道路標識と、その先に立つ交通用ミラーがあった。
「……ここで止まろう」玲は低く言い、視線をミラーに映る街の反射をじっと見つめる。
朱音も肩を寄せ、ミラー越しの風景を覗き込む。
「……私たち、ちゃんと現場にいるんだね」
玲は頷き、口調を少し柔らかくして続けた。
「そうだ。ただ、気を抜くな。現実と描かれた線が、微妙にずれているかもしれない。君の観察が、後で大きな手がかりになる」
朱音は小さく息を吐き、再び鉛筆を握り直した。
「うん……見逃さないようにする」
二人の影がミラーに重なり、静かな街角の空気をわずかに震わせる。
時間:午前6時46分
場所:スケッチ内の街角、標識前のミラー
玲は無言のまま、一歩を踏み出した。足元のアスファルトが軽く鳴る。
朱音は息をのんで彼の動きを見守る。
「……玲さん、どこへ行くの?」
玲は振り返らずに低く答えた。
「前に進む。まずは現場を、君の目で確かめるためだ」
彼の瞳はミラーの反射に映る街角を鋭く捉えている。微かな風に落ち葉が揺れ、朝の静寂がさらに張り詰める。
朱音は小さく頷き、鉛筆を握り直した。
「わかった……一緒に行く」
玲はその言葉に軽くうなずき、二人はゆっくりと歩を進めた。
街角の空気が、緊張と期待でわずかにざわめく。
時間:午前6時48分
場所:スケッチ内の街角、標識前のミラー
突然、ミラーの表面が微かに波打つ。光が揺れ、朱音の目に赤黒く反射した。
朱音は思わず息を呑む。
「……あれ、なんだろう……?」
玲は一歩前に踏み出し、ミラーを静かに見つめる。
「落ち着け。何かの光の反射かもしれない……だが、無視はできない」
赤黒い光はわずかに形を帯び、街角の影をなぞるように揺れている。
朱音の手が自然と鉛筆に伸び、スケッチブックにその奇妙な光を描き始める。
玲は低い声で囁く。
「その光……君の観察力に任せる。記録して、形に残せ」
空気は張り詰め、朝の静けさの中で、二人だけが光の揺らぎを見つめていた。
時間:午前6時52分
場所:スケッチ内の街角、標識前のミラー
朱音が描き終えたスケッチを見下ろし、息を詰めるように呟いた。
「……事故じゃなかった」
玲はスケッチをそっと覗き込み、眉をひそめる。
「そうだ。無作為の衝突や転倒じゃない。計画的だ──誰かが意図的に仕組んだ」
朱音の瞳が赤黒く揺れる光に吸い寄せられた。
「……この光……犯人の痕跡?」
玲は静かに頷き、街角を見渡す。
「そうかもしれない。だが確証を得るには現場の動線を再現する必要がある。朱音、君の描いた情報が鍵だ」
朱音は小さく頷き、鉛筆を握り直す。
「わかった……私、ちゃんと描く」
朝の静けさの中、二人はスケッチと現場を突き合わせ、真相への第一歩を踏み出した。
時間:午前6時55分
場所:スケッチ内の街角、標識前のミラー付近
朱音の視線が地面に落ち、顔が青ざめた。
「……血の跡……」
玲はひざを折り、跡を指先でなぞるように確認する。
「ただの汚れじゃない……誰かが傷ついた痕だ」
朱音の手が震える。
「こんな……現実で見るなんて……」
玲は優しく彼女の肩に手を置き、低く言った。
「大丈夫だ、朱音。君の描いたスケッチが、真実を追う道しるべになる。落ち着いて、順を追って調べよう」
二人は、血の跡を手掛かりに現場の動線を慎重に再現し始めた。
小さな街角が、徐々に事件の輪郭を浮かび上がらせていく。
時間:午前6時57分
場所:スケッチ内の街角、標識前のミラー付近
玲は血の跡を確かめた後、立ち上がり、周囲を見渡した。
「……目撃者がいる」
朱音が目を見開く。
「え……でも、この場所には……」
玲は静かに頷く。
「現実には存在していなかった。記録からも消されている」
朱音の手がスケッチブックの上で止まる。
「じゃあ、私が描いた……あの人……」
玲は低く、力強く言った。
「そうだ。君の目で捉えたものだけが、この真実を示している。だから、焦らずに見極めるんだ」
二人はスケッチを基に、目撃者の存在を慎重に検証しながら現場の再現を進めた。
時間:午前7時02分
場所:スケッチ内の街角、標識前のミラー付近
ミラーの表面が微かに砕けるように光を反射し、裂け目から闇のような影が足元に広がった。
朱音は息を呑み、思わず後ずさる。
「……なんで……こんな……」
玲はその場に静かにしゃがみ、影の広がりを指先で確かめる。
「落ち着け。これは偶然じゃない。影の広がり方、方向、全てに意味がある」
朱音が小さな声でつぶやく。
「……私が見たもの、描いたもの……全部、つながってるの?」
玲は真剣な眼差しで頷いた。
「そうだ。この影は、現実と記録の間に残された“痕跡”だ。見逃すな」
足元に広がる影は、二人の視線に吸い込まれるように静かに揺れ、街角全体に冷たい気配を落としていた。
時間:午前7時03分
場所:スケッチ内の街角、標識前のミラー付近
玲は素早く朱音の腕を取り、静かに引き寄せる。
「戻るぞ。まだここにいるには、早すぎる」
朱音は一瞬戸惑った表情を浮かべるが、玲の真剣な眼差しに頷く。
「うん……わかった」
二人の足元の影は、まるで生き物のように揺らめき、追いかけるように伸びていたが、玲はそれを気にせず、慎重に歩を進める。
「一歩ずつだ。焦るな」
朱音は小さな手で玲の手を握り返し、二人は街角を離れ、現実の路地へと戻っていった。
冷たい朝の風が頬を撫で、街はまだ眠りの名残を残していた。
時間:午前7時05分
場所:スケッチ内の街角、標識前のミラー付近
玲は朱音の手に目を留めた。
その小さな手には、確かにスケッチには描かれていなかった“赤い布片”が握られている。
「……これは……」
朱音も目を見開き、布片をじっと見つめる。
「知らない……描いてなかった……」
玲は唇を噛み、布片をそっと手に取り、慎重に検分した。
「現場の手がかりだ。絶対に落とすな」
朱音は小さく頷き、赤い布片をしっかり握り直す。
二人は再び歩き出し、現実の街角へ戻る。
朝の光が静かに差し込み、布片の赤がわずかに反射した。
その色が、静かな街の中で異様な存在感を放っていた。
時間:午前7時07分
場所:スケッチ内の街角、標識前
玲は赤い布片を手に取り、そっと太陽の光にかざした。
光を透かすと、布の繊維がわずかに輝き、血のような濃淡が浮かび上がる。
「……間違いない。これは現場から残った痕跡だ」
朱音は息を飲み、そっと玲の腕を握った。
「……玲さん、これ、どうするの?」
玲は布片を慎重にポケットの中へ収め、落ち着いた声で答える。
「まずは保管だ。これが証拠になる。誰かに触れられる前に、な」
二人の背後で、朝の街は静かに動き出していた。
赤い布片の存在だけが、未解決の事件の影を密かに告げている。
時間:午前7時08分
場所:スケッチ内の街角、標識前
朱音の指先が微かに震えた。布片の冷たさが手に伝わり、胸の奥で何かがざわめく。
「……朱音、大丈夫か?」
玲はそっと手を差し伸べ、彼女の肩に触れる。
「……怖くてもいい。今は俺たちが一緒だ」
朱音は小さく息を吐き、震える指先をぎゅっと握りしめる。
その目には決意が宿り、ただ震えているだけの手が、少しずつ覚悟を帯びていった。
朝の柔らかい光が、二人の周囲を静かに包み込み、赤い布片がほんのわずかに光を反射する。
まるで、この小さな手の震えも、事件の真実を導く一歩に変わろうとしているかのようだった。
時間:午前7時12分
場所:スケッチ内の街角、標識前
玲の携帯電話が震え、画面に『雨宮直哉』の名前が浮かぶ。
朱音が布片を握りしめたまま、そっと玲を見上げる。
「……雨宮さんか」
玲は息を整え、携帯を耳に当てた。
「雨宮、状況はどうだ?」
電話の向こうから低く落ち着いた声が聞こえる。
「玲さん……現場で異変がありました。目撃者の証言と現場記録に微妙な食い違いがあります。時間はちょうど、あの2分17秒の直後です」
玲は頷きながら、布片を握る朱音の手を軽く押さえる。
「わかった。現場の動線を再確認する。朱音、しばらくここで待っていてくれ」
朱音は小さくうなずき、布片を胸元に押し当てた。
玲は静かに背を伸ばし、足元の影と街角を見つめながら次の行動を思案する。
時間:午前7時14分
場所:スケッチ内の街角、標識前
朱音が握る赤い布片を、朝の柔らかな光にかざす。布にはわずかに濃い染みが残っていた。
「この染み……ただの汚れじゃない。まるで、誰かの記憶が染みついているみたい」
朱音の声は震え、指先も微かに震えている。玲は彼女の横にひざまずき、布片を手に取らずそっと見つめる。
「……気持ちはわかる。でも落ち着け。見えているものがすべてじゃない」
朱音は小さく息を吐き、布片を胸元に抱えたまま、震える手でスケッチブックを押さえる。
玲は深呼吸し、再び周囲の街角と標識の配置を見渡す。
「雨宮からの連絡もある。動線を確認して、次の手を考えるぞ」
朱音はうなずき、微かに布片を握りしめたまま、玲の指示を待った。
時間:午前7時16分
場所:桜ヶ丘通り・銀行前の現場
現場は静まり返っていた。朝の光が建物の壁を斜めに照らし、通りには人影もまばらだ。わずかに風が街路樹の葉を揺らし、紙くずが足元を滑る音だけが響く。
玲は朱音の腕をそっと引き、歩道に沿って現場の動線を再現し始める。
「犯人はここから逃げた……だが、ここに残されたわずかな痕跡を見逃すな」
朱音はスケッチブックを抱き、玲の指示通りに建物の影や通りの広さを見比べながら頷く。
「……やっぱり、誰かがここにいたのね」
玲は無言で現場を見回し、手元のメモ帳に指先で線を引きながら動線を確認する。静寂の中に、わずかな異常の兆候を探す二人の呼吸だけが、空気を緊張させていた。
時間:午前7時18分
場所:桜ヶ丘通り・銀行前の現場
朱音は赤い布片を手のひらで静かに握りしめ、細めた目で路面の先を見つめた。風に揺れる木の葉が、わずかな音を立てて視界の隅をかすめる。
玲はその横で静かに腕を組み、朱音の視線の先を追った。
「……布片の位置と、逃走経路が重なるな。奴らはここで何かを落とした」
朱音は小さく頷き、そっと布片を握る手に力を込めた。
「この布……見たことある気がする。けど、どこで…」
玲はスマートフォンを取り出し、現場の写真を確認しながら指示を送る。
「雨宮、現場を封鎖して。2分17秒の意味を再検証する」
朱音は握った布片を見つめながら、静かに息を吐いた。
その目には、ただの現場ではない、何か“重要な痕跡”を見つけた確信が宿っていた。
時間:午前7時20分
場所:桜ヶ丘通り・銀行前の路上
朱音は布片を握った手をそっと前に伸ばし、路面のわずかな凹凸を指先で辿るようにして言った。
「ここで……車が止まっていた。でも、変だね」
玲は膝を折り、朱音の横にかがむ。目線を布片の落ちた位置から路面全体へと広げる。
「確かに……タイヤ痕が微妙に不自然だ。回転方向と止まった位置が、普通の停車ではあり得ない」
朱音は小さく息をつき、赤い布片をさらに強く握った。
「誰かが急いで逃げたんだ。ここで何かを落として、次の行動に移った……」
玲はスマートフォンを手に取り、無線で指示を送る。
「雨宮、現場の映像をもう一度解析してくれ。布片と車両の位置関係を正確に追え」
朱音の目が路面に沈み込むように注がれ、その先には事件の“手がかり”が確かに存在している気配があった。
時間:午前7時22分
場所:桜ヶ丘通り・銀行前路上脇の掲示板
朱音は赤い布片を握ったまま、路肩に立つ小さな掲示板に目をやった。
金属製の枠が朝陽にわずかに反射し、その中心には小さな布片が釘で打ち付けられている。
「……これ、さっきの布片と同じ……」
朱音は手を伸ばしかけたが、玲が静かに制する。
「触るな。そのまま写真に収めろ。指紋や痕跡も重要だ」
朱音は頷き、スマートフォンを取り出して掲示板と布片の位置を撮影した。
赤い布が掲示板の中央で微かに揺れ、まるで誰かが意図的に“ここを見ろ”と示しているかのように見えた。
玲は膝をつき、布片の向きや掲示板の角度を慎重に観察する。
「布の配置も不自然だ……誰かがわざと残した手がかりだな」
朱音の目が掲示板に釘付けになった。
「……でも、どうしてこんなところに?」
玲は微かに唇を引き結び、街の喧騒を遠くに聞きながら、次の行動を考えていた。
時間:午前7時23分
場所:桜ヶ丘通り・掲示板前路上
朱音と玲が掲示板を観察していると、背後から低く落ち着いた声が響いた。
「……それを、触るつもりか?」
二人は同時に振り向く。
細身のスーツ姿の男が、朝の光を背に立っていた。手には小さなメモ帳。表情は冷静だが、瞳には鋭い光が宿っている。
玲は静かに前に一歩出た。
「誰だ。立ち去れ」
男は微かに口角を上げ、淡々と応じる。
「私は……この街の“観察者”だ。あまり深入りすると、後で困ることになる」
朱音は腕の中の布片をぎゅっと握りしめる。
「……困るって、どういうこと?」
男は何も答えず、掲示板に目を落とすと、すっと背を向けて歩き去ろうとした。
玲は素早く歩を進め、男の後ろ姿を追う。
「待て、質問に答えろ」
朝の通りにはまだ人通りが少なく、二人と一人の影だけが静かに伸びていた。
時間:午前7時24分
場所:桜ヶ丘通り・掲示板前路上
玲は男の背中を見つめ、すぐに警戒の色を浮かべた。
「……ただ者じゃないな」
朱音の肩越しに、男の動きを鋭く観察する。
「朱音、ここから離れろ」
朱音は一瞬戸惑うが、玲の強い視線に従い、一歩後ろに下がった。
玲は呼吸を整え、無線を取り出す。
「黒沢、現場周辺を封鎖しろ。怪しい人物が動いている。目標は通行人に紛れている可能性あり」
男はちらりと振り返り、玲を一瞥した後、足早に路地へ消えていく。
玲は追うかどうか一瞬迷ったが、朱音の安全を優先し、まず無線で味方を動かすことを選んだ。
街路樹の影が長く伸びる路上で、静かな緊張が二人を包んでいた。
時間:午前7時25分
場所:桜ヶ丘通り・掲示板前路上
玲と朱音は、互いの顔を見合わせた。
朱音の目は不安で揺れているが、どこか好奇心も混ざっていた。
玲は穏やかに、しかし力強く言った。
「怖がるな。俺がそばにいる。」
朱音は小さく頷き、赤い布片をしっかりと握りしめる。
「……うん、わかった」
街路を流れる朝の風が、二人の間の緊張をわずかに和らげた。
玲は再び視線を掲示板の跡へ戻し、次の行動を考えながら、朱音の安全を第一に頭を巡らせる。
時間:午前7時26分
場所:桜ヶ丘通り・掲示板前路上
朱音の胸は、握りしめた赤い布片と同じくらい強く、高鳴っていた。
小さな手に伝わる冷たさと、かすかな血の匂いが、彼女の感覚を研ぎ澄ます。
玲はそっと朱音の肩に手を置き、低い声で囁いた。
「落ち着け、朱音。今は観察するだけだ。慌てるな」
朱音は息を整え、布片を握る力を少し緩めた。
目の前の掲示板と路面の痕跡を見つめ、心の中で問いかける。
「この布……誰のものなの?」
玲は鋭い目で周囲を見渡しながら、静かに答えた。
「手がかりはここにある。焦らず、一つずつ確認するだけだ」
秋の朝の光が、赤い布片に微かに反射して揺れる。
朱音はその揺らぎに、まるで何かが呼びかけているかのような不思議な感覚を覚えた。
朱音は布片から視線をそっと玲へ移した。
その瞳には、ただの驚きや戸惑い以上のもの――信頼と覚悟の混ざった光が宿っていた。
玲は目を細め、朱音の視線を受け止める。
「大丈夫だ。俺がついている」
朱音は小さく頷き、握りしめた布片を胸元に押し当てた。
風に揺れる街路樹の葉の音だけが、静かな路上に響く。
二人は並んで立ち、赤い布片が示す先──車の停まっていた場所へと視線を向けた。
「……行こうか」
玲の一言に、朱音は少し震えながらも前へ歩き出した。
玲は静かに一歩前に出た。
足元の路面に夜の淡い光が反射し、彼の影がわずかに伸びる。
「……ここで間違いない」
低く、落ち着いた声で呟き、視線を布片の落ちていた場所に固定する。
朱音は少し後ろで息を整え、玲の判断を待つように立っていた。
風に舞う落ち葉が二人の周囲を静かに転がり、夜の街の静寂を際立たせる。
玲は静かに息を吐いた。
肩の力を抜きつつも、瞳は布片の落ちた場所から目を離さない。
「朱音、後ろに下がって」
低く、けれど確かな声。朱音は一歩後ずさりし、玲の後ろに立つ。
夜風が路面の水たまりを揺らし、街灯の光が二人の輪郭を淡く照らす。
玲の指先が布片に向かってゆっくり伸びる。
その動作は無駄がなく、迷いもない。
彼の呼吸と動きが、静かな緊張感を夜の街に刻み込む。
朱音は力強く頷き、スケッチブックを胸に抱きしめた。
玲はその背中を一瞥し、静かに頷く。
「よし、行くぞ」
彼は布片にそっと手をかけ、慎重に持ち上げる。
夜の街は、二人の小さな影を長く伸ばしながら、ただ静かに見守るようだった。
時間・場所: 10月上旬、早朝6時過ぎ、都内郊外・桜ヶ丘通り沿いの小さな雑貨店前
薄明かりが街路樹の葉を淡く照らす中、玲は落ち着いた足取りで歩き、朱音は少し遅れてその後ろをついて行く。通りはまだ人影がまばらで、冷たい空気がほんの少し秋の匂いを運んでいた。
朱音は手に抱えたスケッチブックをぎゅっと握りしめ、店の前に立ち止まる。玲が横に立ち、静かに話しかけた。
「ここが昨日の現場だ。朱音、しっかり観察してくれ。」
朱音は頷き、窓ガラス越しに店内を覗き込む。その視線の先には、事件の痕跡がまだ微かに残っていた。
時間・場所: 10月上旬、早朝6時10分、桜ヶ丘通り・雑貨店内
玲は慎重に店内へ一歩踏み入れた。割れたガラスの破片が床に散り、棚から落ちた缶や瓶が無秩序に転がっている。
「商品がほとんど手付かずに残されている……だが、この散らかり方は急いで逃げた痕跡だな」
玲の声は低く、落ち着いているが、その目は店内の動線をくまなく追っていた。
朱音はスケッチブックを膝に抱え、床に目を落とす。
「……ここで誰かとぶつかったんだ。足跡が交差してる」
玲は頷き、朱音の指差す方向を確認した。小さな靴の跡と、それを追うような大人の靴跡が、床に粉塵と混ざって残されていた。
「よし、この足跡を元に、犯人が逃げた方向を特定できる」
朱音は深く息を吸い、スケッチブックに簡単な図を描き始める。玲は静かにその横で観察を続け、二人の間には緊張と集中の空気が流れた。
時間・場所: 10月上旬、早朝6時15分、桜ヶ丘通り・雑貨店内
店の奥から、年配の店主が息を切らしながら現れた。
「……ああ、どうも……朝一で来たのに、こんなことになってしまって……」
玲は振り向き、軽く会釈した。
「おはようございます。被害状況をお聞きしたいのですが、何か見覚えのある人物は……?」
店主は眉を寄せ、震える声で答える。
「いや……何も……ただ、ガラスが割れる音で飛び起きたら、もう誰もいなかったんです……」
朱音はスケッチブックから目を上げ、店主を見つめた。
「誰かに追いかけられていた感じは、ありませんでしたか?」
店主は首を横に振る。
「いや……静かだったんです。ただ、足音もなく……まるで誰もいなかったみたいで……」
玲は軽くメモを取り、天井と床、散乱する物品の位置を確認する。
「わかりました。ありがとうございます。落ち着いて対処してくれて助かりました」
朱音は再び床の足跡に視線を落とし、鉛筆で記録を取った。
「……ここで止まったんだ、犯人は」
玲は頷き、店内の窓際に視線を走らせた。
「足跡の方向、逃走ルートの特定に繋がるかもしれない。慎重に進めよう」
時間・場所: 10月上旬、早朝6時20分、桜ヶ丘通り・雑貨店内
朱音はスケッチブックを膝に広げ、昨夜見つけた赤い布片のイメージを描き写す。
「……これ、さっきの布と同じ色だ」
玲はその描写に視線を移す。鉛筆の線はまだ粗いが、布の質感や微妙な折れ目まで正確に再現されていた。胸に、言い知れぬ不安が広がる。
「……妙だな。布の置かれ方も、足跡も、計算されている」
朱音は少し俯き、鉛筆を握り直す。
「でも……誰が、どうして?」
玲は息を整え、静かに朱音の肩に手を置いた。
「今は推測よりも、現場の確認が先だ。だが、この布片が示すものは、確かに普通じゃない……」
朱音は深く頷き、スケッチブックの上で鉛筆を止めた。彼女の小さな手からも、無意識の緊張が伝わってくる。
玲は店内を見渡し、視線を足跡と布片に交互に送った。
「……ここから、何かが始まる気配がする」
時間・場所: 10月上旬、朝7時30分、佐々木家・ロッジ和室
朱音はスケッチブックを胸に抱え、畳に座り込む。
「……なんだか、昨夜のことがまだ頭から離れない」
玲は和室の窓から外の森を見やり、ゆっくりと息を吐いた。
「異常はない。だが、現場の布片とスケッチの対応は無視できない」
朱音は鉛筆を置き、玲に顔を向ける。
「玲、どうして布片があんな場所に……」
玲は静かに首を振った。
「まだ分からない。だが、君の観察眼は確かだ。今の情報だけでも、次の行動のヒントになる」
朱音は少し微笑み、畳の上で膝を抱える。
「じゃあ、私もちゃんと手伝う」
玲は頷き、和室の机に広げた資料を整理し始めた。
「うん、まずは現場の布片の流れを確認して、状況を整理するところからだ」
外では風が木々を揺らし、ロッジに静かな秋の光が差し込んでいた。
時間・場所: 10月上旬、朝8時過ぎ、佐々木家・ロッジ和室
朱音は畳の上でスケッチブックを広げ、小さな声でつぶやいた。
「ばぁば……この影の中に、誰かがいるんだよ」
佐々木昌代は柔らかく微笑み、朱音の肩に手を置いた。
「ふふ、そうかい。怖いかもしれないけど、大丈夫よ。ばぁばがいるからね」
朱音は小さく頷き、スケッチブックの影を指さす。
「紙の上に描いたら……ほんとに動いてるみたいで」
玲は窓際からその様子を見つめ、静かに声をかける。
「朱音、その観察は大事だ。この“動き”が事件の手がかりになるかもしれない」
朱音は目を輝かせ、鉛筆を握り直した。
「うん……描いてみる!」
昌代は微笑んだまま、そっと手を握り返す。
「怖くても、描くことで力になるんだよ」
外では秋の風が森の葉を揺らし、和室に静かな朝の光が差し込んでいた。
時間・場所: 10月上旬、朝8時半、佐々木家・ロッジ和室
昌代はゆっくりと目を開け、深い溜息をついた。
「……やっぱり、何かが動いているのね」
玲は畳にひざまずき、朱音のスケッチブックをそっと覗き込む。
「動き、か……普通の現象じゃないな」
朱音は少し不安そうに、でも興味津々で聞き返す。
「玲さん、どうしてわかるの?」
玲は静かに息を整え、答える。
「紙の上の線、影の揺れ方……現実と少し違う。目に見えない何かが働いている証拠だ」
昌代は優しく微笑み、朱音の肩を撫でる。
「怖がらなくていいのよ。観察して、描くこと。それが君の力になるから」
朱音は決意を込めて鉛筆を握り直した。
「わかった、ばぁば。描くよ!」
窓の外では、朝の柔らかな光と秋の風が、ロッジの和室に静かに流れ込んでいた。
時間・場所: 10月上旬、朝8時40分、佐々木家・ロッジ和室
昌代は力強く立ち上がり、鋭い眼差しで前を見据えた。
「……ここで止まってはいられないわね。玲、朱音、行動を起こす時が来た」
玲は頷き、スケッチブックを胸に抱えた朱音を見やる。
「昌代さん、状況は僕たちも把握しています。まずは現場の確認から始めましょう」
朱音は小さく息を呑み、でもしっかりと鉛筆を握り直す。
「うん、私も描くから!」
昌代は静かに深呼吸をし、柔らかくも力強い声で付け加えた。
「覚悟を決めて進みなさい。恐れる必要はない、でも油断は禁物よ」
和室の中に、朝の光が差し込み、三人の決意をそっと照らしていた。
時間・場所: 10月上旬、朝8時45分、佐々木家・ロッジ和室
和室に静寂が落ちていた。窓の外では、秋の柔らかな陽光がカーテン越しに差し込み、畳の上に淡い光の帯を作っている。
朱音はスケッチブックを抱えたまま、小さく息を吐き、周囲を見渡した。
玲はその横で静かに立ち、眼差しを窓の外へ向けながら、心の中で次の行動を計算していた。
昌代は畳に手をつき、深い呼吸で自分を整える。
「……静かすぎるわね。逆に気をつけなきゃ」
その瞬間、和室の空気が微かに揺れた気がした。小さな風も音もないのに、誰もいないはずの部屋に、何かの気配を感じるような──そんな不思議な静寂だった。
時間・場所: 10月上旬、朝8時50分、佐々木家・ロッジ和室
すると──ふすまが静かに開いた。
灰色のロングコートに身を包んだ水無瀬透が、慎重な足取りで部屋に入る。背後には、冷静な目を光らせた御子柴理央と、柔らかく微笑む九条凛が続く。
朱音は一瞬、目を見開き、スケッチブックを胸に抱え直した。
玲は立ち上がり、軽く会釈する。「おはよう。早かったな」
水無瀬は視線を朱音に向け、静かに口を開いた。
「状況は確認済みです。今日は……慎重に動く必要があります」
御子柴は手元のタブレットを軽く叩きながら報告を続ける。
「現場の情報と、朱音ちゃんの描いたスケッチを照合しました。予想以上に一致しています」
九条は柔らかく朱音に視線を向け、静かに声をかけた。
「大丈夫よ。怖がることはないから。私たちがいる」
和室には、緊張と安心が入り混じった静かな空気が漂った。
時間・場所: 10月上旬、朝9時、佐々木家・ロッジ和室
御子柴理央がタブレットの画面を指でなぞりながら、静かに説明した。
「このスケッチは、“記録”じゃない。朱音ちゃんの感覚や直感が形になった、“感応体”なんだ」
玲は眉をひそめ、スケッチブックを見つめる。
「感応体……つまり、描かれたものが現実の手掛かりになる、ということか?」
水無瀬透が頷き、落ち着いた声で補足する。
「はい。朱音ちゃんの描くものは、潜在的な情報を引き出す触媒として機能しています。単なる絵ではない」
九条凛も穏やかに微笑み、朱音に視線を落とした。
「だから怖がらなくていいの。あなたの感じたことを、絵にしてくれた。それだけで十分よ」
朱音はスケッチブックを胸に抱え、ゆっくりと頷いた。
玲も肩の力を抜き、静かに息をついた。
「なるほど……これは、俺たちの捜査にも大きな手掛かりになるな」
和室には、緊張と期待が混ざった、静かな時間が流れた。
時間・場所: 10月上旬・午前9時42分 佐々木家ロッジ 和室
玲は静かに立ち上がり、朱音の前に膝をついた。
彼の手が、そっと朱音の小さな手に触れる。
「行こう。」
その声は驚くほど優しかった。けれど、そこに宿る決意は鋭い。
朱音は戸惑いながらも、玲の瞳をまっすぐに見つめ返した。
「……どこへ?」
玲は短く息を整え、視線をスケッチブックへと落とす。
紙面には、朱音が今朝描いた“もう一人の子ども”の姿。
「ユウリの記憶の中だ」
朱音の指先がわずかに震えた。
和室の空気が静かに張り詰める。
「……ユウリって、あの絵の中の子?」
玲はうなずいた。
「そう。倉庫の事故で名前を失った子ども。だが、朱音──お前が“感じた”ものの中に、まだ眠っている。真実が。」
朱音は唇を噛みしめ、強くスケッチブックを抱きしめた。
「……うん。わたし、行く」
その瞬間、玲は朱音の手を握り返した。
柔らかな朝の光が障子越しに差し込み、二人の影をゆっくりと重ねていく。
時間・場所: 10月上旬・午前9時45分 桜ヶ丘通り
──そして。
目の前に現れたのは、曲がり角の標識、折れたミラー、荒れたアスファルトの地面。
朝の光が低く差し込み、地面に細かく影を落としていた。
朱音はスケッチブックを抱えたまま、ゆっくりと歩を進める。
「……ここ、さっき描いた場所と同じだ」
玲は横に立ち、冷静に周囲を見渡す。
「そうだ。だが気を抜くな。ここにはまだ、事件の痕跡が残っている」
朱音の視線が地面に落ち、赤く染まった布片が微かに見えた。
「……あの布……」
玲は朱音の肩に軽く手を置き、声を落とした。
「握ったままにしろ。これが手がかりになる」
街はまだ人影が少なく、遠くで車のエンジン音がひとつ響くだけ。
静かな通りに、二人の足音だけがゆっくりと重なっていった。
朱音の小さな声が、背後から静かに響いた。
「……玲……あの……」
玲は振り返らず、肩越しに落ち着いた声で答えた。
「何だ、朱音?」
朱音は手の中のスケッチブックをぎゅっと抱え、少し声を震わせながら続ける。
「この場所……なんだか、怖い……でも……行かなくちゃ……」
玲は短く頷き、落ち着いた口調で言った。
「大丈夫だ。俺がそばにいる。目を離すな、朱音」
風に揺れる街路樹の葉が、二人の静かな決意を映すように、ささやかに音を立てた。
時間:10月上旬、午前6時30分
場所:佐々木家ロッジ・和室
⸻
朱音のスケッチブックの上で鉛筆が微かに動く。ページを覗き込むと、描かれた風景の中で地面や建物の輪郭がわずかに軋むように揺れていた。
「……ううん、変……動いてる……」
朱音の声は小さく、しかし緊張で震えていた。玲は彼女の肩に手を置き、低く落ち着いた声で言った。
「焦るな、朱音。何が起きても、ここから離れない。」
スケッチ内部の街角では、折れたミラーがゆらりと揺れ、標識がわずかに傾く。赤く塗られた布片の輪郭も、微かに光を反射して脈打っていた。
「……あの布……やっぱり、ここに……」
玲は朱音の視線に合わせ、静かにスケッチに指を差した。
「見えるな、朱音。覚えておけ、全ては手がかりだ。」
外の朝陽が和室に差し込み、二人の影を紙の上に落とす。軋むような空間の中、時間はゆっくりと、しかし確実に動き続けていた。
時間:10月上旬、午前6時32分
場所:佐々木家ロッジ・和室
⸻
朱音のスケッチブックの上で、街角の輪郭がわずかに揺れる。玲は眉をひそめ、ゆっくりとページに視線を落とした。
「ここが……誰かの記憶の断層?」
その声は、和室の静寂に吸い込まれるように響く。朱音は息を呑み、鉛筆を握り直す。
「……断層って……なに?」
玲は朱音の肩に手を置き、落ち着いた声で答えた。
「普通の道じゃない。人の記憶や感情が残って、時間や形を歪めている場所だ。俺たちは今、その中に足を踏み入れた。」
朱音は小さく頷き、スケッチブックを胸に抱きしめる。
「……怖いけど、行く……」
玲は静かに息を整え、スケッチの中の軋む路面を指さした。
「よし、進もう。断層の奥に、真実がある。」
和室の窓から差し込む朝の光が、二人の影を紙の上に落とす。その揺れる輪郭の中に、これから辿る謎の始まりが静かに刻まれていた。
時間:10月上旬、午前6時35分
場所:朱音のスケッチ内部(佐々木家ロッジ・和室)
⸻
玲は朱音の手を軽く握り、もう一度スケッチブックのページに視線を落とした。
「行くぞ、朱音。慎重に」
朱音は小さく息を吸い込み、ページの輪郭の中に身を沈める。
瞬間、周囲の空間が微かに揺れ、床や壁の感覚がまるで液体のように変化した。
そのとき──壁の向こう側から、かすかに何かが揺れる音が聞こえた。
朱音の手が鉛筆を握り直す。
「……誰か、いるの?」
玲は静かに首を振り、低い声で答える。
「音のする方向に注意しろ。気を抜くな、朱音」
二人の呼吸が重なり、スケッチ内部の微かな揺れに耳を澄ませる。
視界の端で、折れた標識や割れたアスファルトが波打つように揺れ、時間の感覚までゆがむ。
玲は小さくうなずき、朱音の背中に手を置いた。
「今、何が潜んでいるのか、確かめる時だ」
薄明かりの中、壁の向こうで揺れるものの正体を確かめるため、二人は静かに前へ進んだ。
時間:10月上旬・午前6時42分
場所:佐々木家ロッジ・和室
⸻
朱音は膝の上に置いたスケッチブックを両手で抱え、静かに深呼吸をした。
冷たい朝の空気が肺を満たし、胸の奥のざわめきが少しずつ静まっていく。
「……もう一度、行くね」
その声に、傍らで見守っていた玲が軽くうなずく。
「いい。だが、今度は俺も入る。途中で離れるな」
朱音は頷き、ページをめくる。鉛筆の線が朝の光を反射し、淡い銀の軌跡を描く。
やがて、スケッチの中に描かれた風景──曲がり角、標識、そしてひび割れた道路が、ゆっくりと現実と混ざり合っていく。
紙の表面がかすかに波打ち、朱音の髪が静電気を帯びるようにふわりと浮いた。
「……始まる」
玲がその言葉を呟いた瞬間、空間がわずかに軋み、光が裏返るように変わった。
次の瞬間、二人の身体は再びスケッチの奥へと吸い込まれていった。
──静寂。
──そして、遠くで鳴る、風にかすれた声。
朱音は瞳を開いた。そこは、確かに彼女が描いた“あの場所”だった。
時間:10月上旬・午前6時45分
場所:佐々木家ロッジ・情報室(別棟2階)
⸻
九条凛は椅子に腰を下ろし、耳元の通信イヤピースにそっと手を添えた。
ノイズ混じりの周波数の中から、かすかに玲と朱音の呼吸が拾える。
「……入ったのね、二人とも。」
凛の声は静かだが、その奥には緊張の糸が張り詰めていた。
背後では、御子柴理央が端末を操作している。
モニターには朱音の脳波とスケッチの線形データが複雑に交差していた。
「共鳴反応、上昇中。スケッチ内部で時系列の歪みが出てる……」
凛は軽く頷き、通信チャンネルを微調整する。
「玲、聞こえる? 今あなたたちの位置は“断層領域”の第2層。
空間が自己修復を始めている。滞在は長くできないわ」
一瞬、耳の奥で砂のようなノイズが走った。
『……こちら玲。了解した。あと少しで“記録の核”に届く。』
凛の眉がわずかに動く。
「焦らないで。あそこは“意識の再演域”。見たものすべてが真実じゃない」
御子柴が画面を見つめながら静かに呟いた。
「柾倉結翔──彼の“記憶残響”が再現されようとしてる」
凛は目を閉じ、通信に集中する。
「玲、朱音を守って。あの子が見る光景は、彼の“最期”と重なる……」
そして、再び通信がわずかに震え、
遠くから朱音の息づかいが微かに届いた――。
時間:10月上旬・午前6時48分
場所:佐々木家ロッジ・情報室(別棟2階)
⸻
水無瀬透が息を吐き、額に汗を浮かべながら低く言った。
「……時層の同期がズレ始めてる。朱音の意識、玲と一緒に第二層の深部へ引きずられてる」
手元のコンソールが警告音を立て、赤いインジケーターが連続して点滅した。
九条凛が振り返る。
「どれくらい持つ?」
透は眉をひそめ、数値を睨みつけた。
「三分。いや……それ以上は危険だ。あの空間自体が“記録体”の自己防衛を始めてる」
御子柴理央がすかさず端末を叩き、映像波形を解析する。
モニターには、朱音の視界を通した不安定な映像が映し出されていた。
割れたミラー、風に揺れる赤い布、そして見知らぬ子どもの影。
凛は小さく唇を噛む。
「……あの子、“見てしまった”のね」
透は無線チャンネルのボリュームを上げ、玲へと呼びかけた。
「玲、聴こえるか? 断層が崩壊する。すぐに朱音を連れ戻せ。
このままだと、“記録の底”に飲まれる」
数秒の沈黙。
そして、微かに混線した中から玲の声が返る。
『……まだだ。もう少しで掴める。あの赤い布の“意味”が……』
透は拳を握り、低く唸った。
「無茶を言うな……あの領域は、もう現実と接してないんだ」
凛が静かに立ち上がる。
「でも、玲は戻るつもりよ。あの子を置いて行くなんて、できるはずがない」
部屋の空気が一瞬、凍りついた。
警告灯がさらに強く点滅し、電子音が高鳴る。
透は深く息を吸い、決意したように操作盤へ手を伸ばした。
「――強制帰還プロトコルを準備する。だが、タイミングを間違えれば……二人とも、戻れなくなる。」
了解しました。
設定を反映して、玲=男性で、スケッチ内部にいる状態のシーンを再構成します。
以下は、スケッチ内部における柊蓮司(外部ラボ)との“リアルタイムリンク”シーンです。
⸻
時間:10月7日・午前9時12分
場所:スケッチ内部・記録断層空間/柊記憶解析ラボ・本館地下1階(同時通信)
⸻
薄い霧が漂う無音の街並み。
歪んだ標識と砕けたミラーが、時間の止まった空間に浮かんでいた。
玲は朱音のすぐ後ろで、慎重に歩を進める。
足元のアスファルトには波紋のような揺らぎ――まるで、記憶が呼吸しているかのようだ。
「……ここが、“断層”の中心か。」玲は呟く。
その声に、インカム越しの低い声が応えた。
『こちら柊だ。映像データ、こちらに届いている。』
柊蓮司――外部のラボから、玲と朱音をリアルタイムでモニタリングしている。
白と青の光が反射する解析室で、蓮司はホログラムに浮かぶ玲たちの姿を凝視していた。
『玲、空間歪曲値が上がっている。滞在時間をこれ以上延ばすと、意識干渉が始まるぞ。』
玲は短く息を吐き、視線を前方に向けた。
「まだだ。……もう少しで“始まり”に届く。」
朱音が不安そうに振り向く。
「玲さん、スケッチの線が……動いてる……」
見ると、地面に走る白線が、ゆっくりと形を変えていく。
それは、まるで誰かが新たな記録を上書きしているかのようだった。
玲は腰の通信機に手を伸ばす。
「蓮司、記録の層が変わった。視覚情報が増幅してる。どういうことだ?」
ホログラムの向こう、蓮司の指が端末を走る。
『……おそらく、“誰かの記憶”が再起動した。朱音の描線が、それをトリガーにしてる。
感応体が記録を呼び戻しているんだ。』
玲は低く呟いた。
「感応体……つまり、朱音自身が鍵ってことか。」
朱音は震える声で尋ねた。
「じゃあ、この場所……“誰か”の中にある記録なの?」
『正確には、“誰かが消した記録”の残響だ。』蓮司の声が、少しだけ低くなった。
『……玲、気をつけろ。その“誰か”は、まだそこにいる。』
次の瞬間――
風のない空間に、子どもの笑い声がかすかに響いた。
朱音が振り向いたとき、遠くのミラーの向こうに、小さな影が立っていた。
玲は一歩前に出て、通信に向かって低く言った。
「蓮司。記録再生レベルを上げろ。……ここから先は、“現実”じゃない。」
霧が揺れ、光が反転する。
玲と朱音の姿が、スケッチの奥深くへと吸い込まれていった。
ラボのモニターに映る波形が、一瞬、真っ赤に跳ね上がった。
時間:10月7日 午前9時20分
場所:スケッチ内部・記録断層空間/柊記憶解析ラボ(本館地下1階)
⸻
玲が通信機越しに呼吸を整えると、柊蓮司の落ち着いた声が返ってきた。
『……断層の構造が変わったな。想定よりも深い階層だ。』
玲は短く応じた。
「予想通りだよ。お前の計算どおりにいくなら、こんな深度じゃ済まないはずだ。」
『計算は誤差を許容していない。だが、君の“勘”はいつも予定を狂わせる。』
蓮司の声音は冷静そのもので、まるで実験の報告をしているかのようだった。
玲は微かに笑う。
「冷たいな。お前のその態度、昔から変わらない。」
『感情に左右されないだけだ。だが――君の直感が的中してきた確率は、私のモデルの予測精度を超えている。』
朱音はそのやりとりを聞きながら、二人の間に流れる空気を感じ取っていた。
互いに信頼している。それでも、簡単に歩み寄れない。
そんな不思議な距離感が、通信の雑音越しに伝わってくる。
玲は立ち止まり、朱音に向かって軽く顎を上げた。
「この先は俺が行く。朱音、スケッチの線だけ見てろ。」
『玲、君の直感を信じよう。だが忘れるな――君の“現場勘”は、時に真実を早く掴みすぎる。
……見たくないものまで、ね。』
玲の足が一瞬止まる。
わずかな沈黙のあと、彼は短く笑って答えた。
「お前らしい忠告だな、蓮司。……でも俺はそれでいい。」
通信の向こう、柊蓮司は無言でホログラムを見つめた。
画面には、霧の中を進む玲の背中――そしてその隣で震える朱音の姿。
静かな呼吸音のあと、蓮司は誰にも聞こえないほど小さく呟いた。
「やはり、君は……止まれないんだな、玲。」
時間:10月7日 午前9時27分
場所:柊記憶解析ラボ(地下1階)/回想:四年前・湾岸第七倉庫
柊蓮司はラボのコンソールに手を置いたまま、微かに目を細めた。
ホログラム越しに見える朱音の姿が、ふと過去のある記憶を呼び起こす。
──あのときも、似ていた。
理屈では説明できない“勘”が、事件の真実を暴いた。
四年前。
秋雨が降りしきる湾岸第七倉庫。
玲と蓮司は、まだ正式な協力関係ではなく、
互いの領域を探り合うように行動していた。
玲は濡れた床を指でなぞり、
すぐに周囲の警察官たちを制して言った。
「動くな。──血痕は“逆流”してる。」
蓮司は驚きも見せず、ただ冷静に観察を続けた。
「血痕が逆流するはずがない。降雨と風圧で流れが錯覚して見えるだけだ。」
「違う。……ここは“現場”じゃない。“舞台”だ。」
玲の声には確信があった。
蓮司は眉をわずかに寄せた。
「君の言葉は詩的だが、捜査報告にはならない。」
玲は無言で、倉庫の奥に歩き出した。
その足取りは迷いがなく、
まるで“誰かの記憶”をなぞるようだった。
そして、奥の壁の裏から見つかったのは、
血液に似た塗料──偽装された痕跡。
それは、事件そのものが“作られた”ことを示していた。
「……これが証拠だ。」
玲は淡々と言い、濡れたジャケットの袖で頬を拭った。
蓮司は無言で現場を見渡し、
静かに息を吐いた。
「君の直感が正しかった。だが、再現できない理論は、偶然と紙一重だ。」
玲は軽く笑って振り返った。
「理屈を待ってたら、誰かがまた死ぬ。」
二人の視線がぶつかる。
そこには互いの矜持と、
決して同じにはなれない“正しさ”があった。
その夜、報告書にはこう記されていた。
――共同捜査者:柊蓮司/玲
――見解の相違により、今後の協力は要検討。
現在。
蓮司は静かにホログラムに触れ、朱音の映像を拡大した。
『……君の“見る力”は、玲に似ている。
だが、あの男よりもずっと柔らかい視点だ。朱音。』
朱音はスケッチの中で、聞こえないはずの声に一瞬だけ反応したように見えた。
蓮司は思わず口元を緩め、
小さく呟いた。
「君は、見届けるだけじゃなく──“変えていける”子だ。」
その声音には、かつて玲に向けることのなかった
わずかな温度が宿っていた。
時間:10月9日 午後3時42分
場所:柊記憶解析ラボ・第2演算室
ホログラムの光が静かに揺れていた。
柊蓮司は、薄い眼鏡の奥から無数のデータラインを追いながら、指先だけをわずかに動かしていた。
後方のスクリーンには、九条凛の手による心理干渉波形解析の結果が映し出されている。
感情の波を数値化したそのグラフは、蓮司にとってはもはや“言葉”のようなものだった。
「やっぱりここだな。認知の揺らぎが、記録の変質点と一致してる。」
通信越しに聞こえた九条の声は穏やかで、それでいて確信に満ちていた。
蓮司は短く応じる。
「……同意する。ここから再構成すれば、玲たちが見ている断層と整合するはずだ。」
数秒の静寂のあと、九条が笑った。
「蓮司さん、珍しく“感覚的”な言い方をするのね。」
「たまには君の影響も悪くない。」
柔らかな空気が通信越しに流れた。
蓮司がこうして冗談を交わすのは、九条と御子柴の前でだけだ。
同じ部屋の隅では、水無瀬透が黙々と作業を続けていた。
無言のまま、彼が解析データを一枚のタブレットに転送する。
蓮司はその動作だけで意図を理解し、短く言った。
「了解。安全層まで降ろしてくれ。」
透は頷きもせず、ただそのまま端末を閉じた。
言葉は要らない。互いの呼吸だけで、十分に通じている。
蓮司は一瞬だけ目を閉じた。
九条、御子柴、透──それぞれのやり方で彼を支える仲間たち。
理論と信頼。
その二つが揃って、初めて“真実”の再現は可能になる。
「……玲、朱音。君たちが見ているもの、必ずこちらでも掴む。」
蓮司の声は静かだったが、その奥には確かな決意が宿っていた。
時間:10月9日 午後4時03分
場所:柊記憶解析ラボ・第2演算室
⸻
低く唸るような電子音が、白い空間の静けさを破った。
モニター群の一つが赤く点滅し、解析用の立体ホログラムが微かに歪む。
蓮司はすぐに異常波形の発生源に目を向けた。
「……これは、スケッチ内部の干渉か?」
御子柴理央が椅子を回転させ、即座に演算ログを呼び出す。
「はい。玲さんと朱音さんが入っている感応層に異常な揺らぎが発生。記憶波が……増幅しています。」
九条凛が一歩前に出て、心拍同期モニターを覗き込んだ。
「玲の反応値が急上昇してる。外部からの刺激じゃない……内部で“記憶体”が暴走してるわ。」
水無瀬透が静かに立ち上がる。
「断層が不安定化してる。あと数分で帰還経路が閉じる。」
ラボの空気が一瞬で緊張に包まれた。
蓮司は冷静な声で指示を出す。
「凛、感応波の干渉を最小化しろ。理央、再構成アルゴリズムを手動で。透、帰還ルートを確保しておけ。」
それぞれが瞬時に動き出す。
無駄のない手の動き、無言の連携。
この静寂の中にこそ、柊蓮司のチームの本質があった。
モニターの中では、朱音のスケッチが崩れかけた構造を保ちながら揺れていた。
断片的な光の粒子が、まるで何かを“拒絶”するかのように弾けている。
「……スケッチが、彼女たちを拒んでいる?」
蓮司の声に、御子柴が小さく頷いた。
「記憶体が外部侵入を“異物”と判断した可能性があります。」
凛が振り返り、眉を寄せた。
「つまり、このままだと玲と朱音は──記憶に取り込まれる。」
蓮司はわずかに目を細めた。
指先が端末の上で止まる。
「……行くぞ。こちらから同期干渉を仕掛ける。」
凛が息を呑んだ。
「蓮司、自分で入るつもりなの?」
「彼らが何を見ているのか、確かめなければ真実には届かない。」
透が短く言う。
「危険だ。」
「分かってる。それでも──行く。」
彼は白衣を脱ぎ捨て、制御椅子の中央に身を沈めた。
光が収束し、波形が音を立てて跳ね上がる。
──蓮司の意識が、スケッチ内部の断層へと滑り込んでいった。
時間:10月9日 午後4時05分
場所:スケッチ内部(仮想記憶空間)
蓮司は端末に指を滑らせ、ホログラム上で揺らめく空間を示した。
「ここだ……」
その指先の先には、薄青色の光の層が微かに揺れ、濁った霧のような塊が浮かんでいる。
玲と朱音がその中を進むたびに、光の層はうねるように動き、空間そのものが息をしているかのようだった。
御子柴理央が解析用端末を覗き込み、低くつぶやく。
「異物反応が確認されました。外部の干渉ではありません……この空間で独自に生成された、未整理の記憶体です。」
九条凛が眉をひそめる。
「未整理の記憶体……つまり、残留する感情や経験の塊。朱音さんがスケッチしたものと交錯している可能性があります。」
水無瀬透が静かに付け加える。
「このままでは、玲さんたちの意識が吸い込まれ、記憶体に同化される危険があります。」
蓮司は唇を引き結び、端末の操作を続ける。
「干渉を最小化しつつ、空間を安定させる……玲、朱音、今のうちに動かないと、この異物に飲み込まれる。」
スケッチ内部では、玲が朱音の手を握り、揺らぐ光の塊に向かって慎重に一歩を踏み出す。
朱音の瞳は恐怖と好奇心が入り混じった光を帯びていた。
「……この中に、誰かいるみたい」
朱音が小さく呟く。
蓮司は端末を操作し、空間の揺らぎを抑える波形を送り込む。
光の塊は少しずつ形を整え始め、微かに人影のような輪郭が見えてくる。
「……間に合ったか」
蓮司は短く息を吐き、ホログラムの揺れを見つめた。
「この異物を観察しつつ、記憶断層の安全圏まで誘導する。玲、朱音、落ち着いて。」
スケッチ内部に広がる幻想的な空間で、三者の緊迫した遭遇が始まった。
朱音の小さな手が、微かに揺れる扉の取っ手に触れた瞬間──空間全体が一瞬、鋭い振動を伴って波打った。
「……あっ!」
朱音の声が震える。
玲はすぐに手を伸ばし、彼女の肩を支える。
「落ち着け、朱音。扉を開けても、すぐに引き返せる。」
だが、扉の向こうからかすかな声が響いた。
「……誰だ……ここに……」
声は震えており、時折こもった低音のように歪む。
玲は眉をひそめ、空間を見渡す。
「この声……記憶の残留体か。意思を持っているようだ。」
朱音は小さく息を吸い、恐る恐る答える。
「……わ、私……朱音……」
すると、扉の向こう側の光が揺れ、灰色の影のような形がゆらりと浮かび上がった。
それは、明確な輪郭を持たず、記憶の断片が寄せ集まったような存在で、目のようなものが朱音を見つめている。
玲は静かに口を開いた。
「落ち着け……この存在は、敵ではない。俺たちは観察し、導く側だ。」
御子柴理央の端末が微かに反応する。
「……この異物、感情の痕跡があります。恐怖と混乱が入り混じっている。接触は慎重に。」
朱音は勇気を振り絞り、扉をそっと押す。
すると異物はかすかに声を漏らした。
「……さみしかった……」
玲は朱音の肩を握り、優しく言う。
「大丈夫だ。ここにいる俺たちは、君を傷つけない。」
朱音がそっと手を差し出すと、異物はその指先に触れ、微かに震えた。
その瞬間、空間の揺れが収まり、光の層が少し落ち着く。
水無瀬透が静かに呟いた。
「……初接触成功。これで、記憶断層の導き手として朱音が機能し始めた。」
九条凛が端末に目を落としながら言う。
「このまま慎重に対話を進めれば、異物の正体と記憶の断片を抽出できる。」
玲は朱音を見下ろし、穏やかに微笑んだ。
「よし……一歩ずつだ、朱音。まずは、声に耳を傾けよう。」
スケッチ内部の空間に、記憶の断片が揺らめく──そして、朱音と玲による最初の“記憶の対話”が静かに始まった。
時間:10月10日 午後7時42分
場所:スケッチ内部(仮想記憶空間)
黒いコートの人物はゆっくりと足を踏み出すたび、床面の光が微かに揺れ、周囲の空間が歪んだ。
朱音の手はスケッチブックをしっかり握りしめたまま、震える指でページを押さえる。
「……あの人……誰……?」
玲は一歩前に出て、低く声をかける。
「落ち着け、朱音。これは異物……記憶の断片が形を取った存在だ。」
黒衣の人物がゆっくりと頭を傾け、朱音と玲を交互に見つめる。
「……記憶に呼ばれて、ここに来たのだな」
声に含まれるのは、威圧だけでなく、どこか深い寂しさのような響きがあった。
朱音は小さく息を吸い込み、震える声で言う。
「……私は朱音……。怖くないよ」
すると、黒衣の人物の輪郭が徐々に変化を始める。
鋭く暗い影が、淡い光を帯びた“子どもの姿”へと溶け込むように形を変え、足元に膝を抱えた小さな少年のシルエットが現れた。
玲は横に立ち、指示を出す。
「焦るな、朱音。触れずに観察して、声を掛けるんだ」
少年の目が朱音に向けられ、微かに涙が光った。
「……ひとり……」
御子柴理央が端末の波形を確認し、冷静に報告する。
「感情の記録が濃い。恐怖と孤独が入り混じっている。接触は慎重に……」
朱音は勇気を振り絞り、手を差し出す。
少年の輪郭がわずかに震え、赤みを帯びた光が彼の周囲を包む。
「……ありがとう……」
空間の波動が少しずつ落ち着き、黒衣の影は完全に子どもの姿へと変わった。
玲は朱音の肩に手を置き、穏やかに言う。
「よし……まずは、警戒せずに、話を聞こう。君の描いたスケッチが、ここで道を開くんだ」
遠くから、スモークのように漂う記憶の断片が徐々に少年の周囲に集まり、空間全体が彼の“過去の瞬間”を映すスクリーンのように変化し始めた。
スケッチ内部の異物は、今や“具体的な記憶の姿”として、朱音と玲の前に存在し、最初の対話が本格的に始まろうとしていた。
時間:10月10日 午後7時44分
場所:スケッチ内部・廃れた公園跡のような空間
朱音は、靴音を忍ばせるようにして歩を進めた。
足元には、ところどころ色を失ったアスファルトと、風に揺れるサビついたブランコの鎖。
空は灰色に沈み、風の音すら遠く感じられる。
そして――その先に、幼い影がぽつんと座っていた。
ブランコの下、砂の上に膝を抱えて座り込む少年。
背中は小さく、うつむいた顔は髪に隠れて見えない。
しかしその肩は、まるでずっと泣き続けてきたかのように、かすかに震えていた。
朱音は立ち止まり、静かに息を呑む。
「……だれ?」
玲が後ろから低く囁いた。
「気をつけろ。干渉は最小限に」
朱音は頷くと、一歩ずつ少年に近づいた。
「ねぇ……どうしたの? ひとりなの?」
少年の体が小さく反応した。
ゆっくりと顔を上げる。
涙の跡で濡れた頬、土で汚れた手、そして――その瞳の奥に宿る深い恐怖。
「……かえれないんだ。ぼく、もう……」
朱音の胸の奥がきゅっと締め付けられた。
「帰れないって……どこから?」
少年は視線を逸らし、震える声で言った。
「……“倉庫のなか”。あのひ、ドアが……しめられたんだ」
玲の表情が一瞬で変わる。
「倉庫……?」
風が吹き抜け、周囲の景色がゆらりと揺れた。
砂場が暗く染まり、背後のブランコが歪んで見える。
朱音は思わず一歩踏み出し、少年の手を取った。
その瞬間――少年の背後に、黒い炎のような“影”が立ち上った。
玲が叫ぶ。
「朱音、離れろ!」
しかし、朱音の手は離れなかった。
「……この子、助けを求めてる!」
その言葉に呼応するように、少年の瞳に再び光が宿った。
「……ぼくの、なまえ……“ゆいと”……」
玲の喉が固まる。
朱音の指先が震える。
――その名は、十年前、記録から消されたはずの“柾倉結翔”だった。
時間:2025年10月13日 午後11時08分
場所:玲探偵事務所・作戦室
「ふざけるな! 再突入だ! 今度は“あの場所”――事故に見せかけられた殺人現場の真実を、絶対に暴いてやる!」
水無瀬が立ち上がり、拳を机に打ちつける。木製のテーブルが小さく震え、モニターの光が乱れる。周囲の解析端末が一斉に静寂を破るかのようにデータのスクロール音をあげた。
「時間はない。証拠は現場にしか残らない。ログは消える前に確保するんだ」奈々が淡々と続ける。端末の画面には、港湾地下第6保管庫の平面図と、十年前のタイムスタンプの重なりが赤く表示されている。
玲は椅子から立ち、静かに水無瀬を見据えた。「分かった。影班は潜入、解析班は外で監視。行動は分ける。あかねはここに残す。無駄なリスクは取らない」
「了解だ」成瀬が小さく頷き、装備のベルトを確かめる。刹那は外周の位置を示す地図に指を差し、紫苑は静かに入口封鎖の手順を復唱する。
短い沈黙の後、奈々が小声で付け加えた。「ログのリレー地点は三箇所同時書換え。タイミングを合わせれば——」彼女の言葉はそこで途切れ、作戦がすべて頭の中で組み立てられていくのが伝わった。
玲は端末の画面を一瞥して、静かに命じた。「行くぞ。」
時間:2025年10月14日 午前3時42分
場所:スケッチ内部・記憶断層領域第3層(朱音のスケッチ内)
朱音は砂の上に座る少年を見つめたまま、声を震わせて囁く。「玲お兄ちゃん、ゆいと、さむそう……」
玲は朱音の背に手を置き、低く注意を促す。「接触は最小限に。観測だけだ。ここは“記憶の重なり”が不安定だ」
だが朱音の瞳は揺らぎ、少年が小さく呟くのを聞き逃さなかった。
「ドアが閉まって……誰も来ないって、約束したのに」
朱音はそっと手を差し出す。玲はその手を引かんとしたが、朱音の声は止まらない。
「ゆいと、ここから出よう。わたしが一緒に連れてくよ」
少年の目に、かすかな光が差す。だが同時に空気が歪み、遠くから不穏なざわめきが這い寄ってきた。風でもない、機械でもない――何かがこの“内部”を掻き乱している。
玲は素早く朱音の肩を掴み、耳元で低く言った。「戻る。今すぐ戻るんだ。外の作戦は始まっている。ここが割れる前に、出る」
朱音は名残惜しげに少年を見たが、小さく頷き、スケッチを胸に抱えて玲と共に振り返る。背後で、記憶の層がひび割れるような音を立てた。
同時刻、作戦室では無線が一斉に鳴り、車列のエンジン音が遠くで唸る。玲の声がスケッチの内外を同じ強さで貫いた。「行くぞ。全員、突入。」
時間:2025年10月14日 午前3時43分
場所:スケッチ内部・記憶断層領域第3層
空間が――震えた。
低い唸りが地の底から這い上がるように響き、朱音の足元の砂が波紋のように揺れる。空気が熱を帯び、色が滲み、現実の輪郭が崩れていく。
スケッチの世界が、自らの存在を維持できなくなっていた。
「……くるぞ!」玲が朱音の手を引いた。
次の瞬間、周囲の建物が一斉に軋みを上げ、看板がねじれ、遠くの空がひび割れたように裂けた。
朱音の髪が風に煽られ、スケッチブックのページが自動的にめくれる。そこに描かれていたのは――“血に染まった標識”。
「玲お兄ちゃんっ、スケッチが……勝手に描き換わってる!」
玲は眉をひそめ、周囲を見回す。光と影が衝突し、断片的な映像が走馬灯のように浮かび上がった。
倉庫の扉、赤い車のヘッドライト、誰かの泣き声。
「――記録が、混線してる。誰かが“外”から干渉してる」
その言葉と同時に、足元の地面が大きく割れた。崩壊する砂の中から、黒い影のようなものが這い出してくる。人の形をしているが、顔は塗りつぶされたかのように黒く、ただ一点、赤い光だけが脈動していた。
朱音が震える声で呟く。「……あの子、ゆいとじゃない……」
玲は咄嗟に朱音を庇い、スケッチの破片を盾のように掲げた。「違う。これは“記憶の残滓”だ。誰かの恐怖が形を取ってる!」
黒い影が一歩、また一歩と近づく。そのたびに空間の震動が強まり、天井のない空が不安定に波打った。
「透、聞こえるか!」玲が叫ぶ。
だが通信はノイズで掻き消され、断続的な雑音だけが返ってくる。
朱音は涙をこらえながら、スケッチブックを胸に抱いた。「玲お兄ちゃん……この世界、もう壊れちゃう……」
玲は深く息を吸い、決意の表情で朱音の手を強く握った。
「いいか、朱音。――ここは記憶の中だ。出口は、君が描くんだ」
朱音は涙を拭い、小さく頷いた。
スケッチブックの白紙のページに鉛筆を走らせる。
描かれるのは、“朝の光”。
光が走った瞬間、空間の震動が一気に反転する。
闇が弾け、空が裂け、すべての色が白へと戻っていった。
玲の声が遠くで響く。
「戻るぞ、朱音!」
世界が崩壊する音の中で、朱音の描いた“出口”が開いた。
時間:2025年10月14日 午前3時47分
場所:スケッチ内部・崩壊域
カリカリ……。
ペン先が紙を撫でる微かな音が、静寂を破る唯一の存在だった。
朱音の手は震えていた。
けれど、その線は確かに前を向いていた。
彼女の描く“出口”の輪郭が光を帯び、紙面の上で脈動する。
玲は周囲を警戒しながら朱音の背後に立つ。
崩壊は目前だった。建物の壁は砂のように崩れ落ち、空はひび割れ、風が音を失っていく。
「……あと少しだ、朱音。そのまま描け」
玲の声は低く、しかし力強かった。
朱音は涙で滲む視界の中、必死に線を結んでいく。
「出口……光のある場所に……」
その言葉と同時に、描かれた白い扉が紙面から浮き上がった。
ゆっくりと、現実と記憶の境界が溶けていく。
だが、その瞬間――背後で“何か”が動いた。
空間の裂け目から、黒い手のような影が伸び、朱音の足首を掴んだ。
「朱音ッ!」
玲が即座に腕を伸ばし、彼女を引き寄せた。
だが影の力は強く、地面が軋む。朱音のスケッチブックが宙に舞い、ページが裂けた。
「……放せ!」玲は叫び、拳を握りしめる。
空間が共鳴し、強烈な閃光が走った。
一瞬、何もかもが白に染まる。
次に朱音が目を開けたとき、そこはもう静かなロッジの和室だった。
窓の外から差し込む朝の光が、畳の上に柔らかな影を落としている。
朱音はゆっくりと身体を起こし、隣に座る玲を見た。
彼の手には、破れたスケッチの断片が握られている。
「……戻って、これたんだね」朱音が呟く。
玲は静かに頷き、その断片を光にかざした。
紙の隅に、かすかに残った赤い線が見える。
「いや……完全には、まだ終わってない。」
外の風が、ロッジの障子を微かに揺らした。
その音はまるで、スケッチの向こうから誰かが“まだここにいる”と囁いているようだった。
時間:2025年10月14日 午前3時48分
場所:ロッジ・佐々木家 和室
玲が低く唸るように呟いた。
「来たか……!」
畳の上に置かれたスケッチブックが、再びかすかに震えていた。
破れたはずの紙の断片が、まるで呼吸をするように波打ち、朱音の膝の上で淡い光を帯び始める。
朱音は息を呑み、玲の袖を掴んだ。
「……誰か、戻ってきたの?」
玲は首を横に振り、目を細めた。
「いや──違う。“向こう”が、こっちを見つけた。」
次の瞬間、空気が一変した。
部屋の温度が急激に下がり、障子の外から吹き込む風が紙を揺らす。
スケッチの中央、裂け目のような線がゆっくりと開いていく。
その奥から、白い指先が現れた。
かすかな血の跡を纏いながら、紙の向こう側から“何か”が手探りで現実を掴もうとしている。
朱音が息を詰める。
「……玲さん……」
玲は無言で立ち上がり、腰のホルダーから携帯端末を取り出した。
液晶に映るのは、蓮司からの緊急通信。
『スケッチ内の“断層反応”が再起動している! 離れろ、今すぐ!』
玲は通信を切り、朱音の肩を押した。
「朱音、後ろに!」
スケッチブックの中心から、黒い波紋が広がる。
紙面が裂け、光と影が交錯するその中──“声”が響いた。
『……ここから、出して……』
幼い、しかし確かに聞き覚えのある声だった。
朱音は目を見開き、震える唇で名を呼んだ。
「──ゆいと?」
時間:2025年10月14日 午前3時49分
場所:ロッジ・佐々木家 和室
朱音の瞳が見開かれた。
スケッチブックの裂け目が大きく広がり、光と影がせめぎ合う中──
その“向こう側”から、ゆっくりと一人の人物が現れた。
真っ白なコート。
血の気を感じさせない肌。
そして、静寂そのものを連れてくるような足取り。
彼は、確かに“現実ではない存在”のはずだった。
玲は一歩前に出て、冷たい声で問いかけた。
「……誰だ。ここはお前の来る場所じゃない。」
その人物は顔を上げ、ゆっくりと玲に視線を合わせた。
瞳の奥には、深い悲しみと怒りがないまぜになったような光。
そして唇が、わずかに動いた。
「記録の外側に、真実はある。……君たちは、まだ“入口”にすら立っていない。」
その声は低く、しかし確かに響く。
現実の空間にも、朱音の心の奥にも。
朱音が小さく息を呑む。
「あなた……誰?」
白衣の人物は答えず、代わりに懐から一枚の紙を取り出した。
それは朱音のスケッチに酷似していた。
だが、紙の端には──赤いインクでこう記されていた。
“No.2843-β 再記録開始”
玲の手が無意識に拳を握り締める。
空気が再び、きしむように歪んだ。
時間:2025年10月14日 午前3時51分
場所:ロッジ・佐々木家 和室(スケッチ内部)
御子柴理央は、白いコートの人物と朱音、そして玲の様子をじっと見つめ、思わず息をのんだ。
「……これは……ただの“幻影”じゃない。何かが、ここに……確実にいる」
九条凛が冷静に分析しながらも、わずかに眉をひそめる。
「記録にも記憶にも存在しない存在……スケッチが示す断層に、現実と非現実が干渉している」
水無瀬透が低く息を吐き、額の汗を拭った。
「……このままでは、朱音の感覚も、我々の感覚も、全部攪乱される」
玲は一歩前に出て、力強く朱音の肩に手を置いた。
「御子柴、凛、水無瀬……全員、冷静に。焦るな。まずはこの存在の動きを見極める」
朱音はスケッチブックを胸に抱き、震える指で赤いインクの文字をなぞった。
「No.2843-β……再記録開始……?」
御子柴はゆっくり息を整え、静かに頷く。
「……俺たちは、まだ入口に立ったばかりだ」
空間が微かに揺れ、時間がゆっくりと伸びたように感じられる中、白いコートの人物は静かに歩みを進めた。
時間:2025年10月14日 午前4時03分
場所:ロッジ・佐々木家 解析室前
朱音は、机の上に置かれたスケッチブックを見つめていた。紙面には、あの夜と同じ──ゆがんだ街角と、見えない何かの気配が描かれている。
指先が震えながらも、その輪郭をなぞると、空気がわずかにざらついた。
玲はその様子を見て、静かに首を横に振った。
「駄目だ、朱音。今度は二人だけじゃ危険すぎる」
「……でも、あそこに“誰か”がいたの」朱音の声はかすれていた。「私、放っておけない」
その瞬間、扉が開く音。
足音とともに、淡い光の中から三人の人物が姿を現した。
先頭の男は、冷静な表情でタブレットを片手に歩いてくる。
御影清流──解析の頂点に立つ「終端解析官」。
その背後には、薄灰色のコートを纏った九条凛、そして無言で通信端末を装着する水無瀬透の姿。
清流はスケッチブックに目を落とし、眉をわずかに動かした。
「構造が崩れている。……二層干渉だ。玲、お前と朱音だけでは耐えられない。今回は“同行者”を追加する」
玲が短く息を吐く。「誰を?」
清流は端末に指を滑らせ、壁面のスクリーンに新たな名を映し出した。
──柊 蓮司。
白衣を纏い、静かに腕を組む男の姿が映し出される。
「蓮司。君の専門領域は“記憶構造の安定化”。今回は、スケッチ内の空間を“現実化”するために必要だ」
蓮司は短く頷き、白衣のポケットに手を入れた。
「了解。……玲、君の衝動が、今度こそ正解であることを祈るよ」
朱音は一瞬だけ玲を見上げ、小さく微笑んだ。
「みんなが一緒なら……大丈夫、だよね」
時間:午前4時45分
場所:佐々木家ロッジ・朱音のスケッチ内部
朱音はスケッチブックを胸に抱え、鉛筆をぎゅっと握りしめた。
玲は静かに朱音を見つめ、深く息を吐く。
「――行くぞ。次は、記録の底にある“真実”を見つける」
御子柴理央が端末を操作しながら、冷静に声をかける。
「朱音、君の描く線が空間を導く。僕らはそばで守る」
水無瀬透が静かに立ち、周囲を警戒する。
「危険は俺たちが先に排除する。無理はするな」
九条凛は耳元で通信波を確認し、低く囁いた。
「精神干渉が強まったら即撤退。集中を切らすな」
朱音は小さく頷き、鉛筆を走らせ始めた。
「わかった……描く、真実を見つけるために」
玲は朱音の肩にそっと手を置き、静かに視線を前方の空間に向ける。
「なら、行くぞ。慎重にな、朱音」
スケッチ内部の街角は微かに揺れ、記憶の断層が徐々に広がっていく。
鉛筆の音だけが静寂を切り裂き、四人は“真実”を追い求めて歩を進めた。
時間:午前4時50分
場所:佐々木家ロッジ・朱音のスケッチ内部
朱音の鉛筆が紙面を滑るたびに、スケッチ内部の景色が微かに揺れた。
そこに現れたのは──赤い布を握りしめた、少年と男の後ろ姿だった。
朱音は息を詰め、視線をそっとその二人に向ける。
「……あの布……この人たち……」
玲は朱音の肩に軽く手を置き、低く呟いた。
「見つけたか……あの現場に関わる人物だ。距離を保ちながら近づくぞ」
御子柴理央が端末を操作し、情報を解析する。
「位置関係からすると、まだ動く可能性がある。無理に接触はせず、記録を押さえる」
水無瀬透が冷静に周囲を見渡す。
「背後からの侵入者も警戒しろ。俺たちが前衛になる」
九条凛は耳元で通信を確認しながら、朱音に囁いた。
「心を乱さず、観察を続けるんだ。感情が揺れれば危険が増す」
朱音は小さく頷き、赤い布を握る少年と男の後ろ姿をスケッチブックに慎重に描き写す。
「わかった……ここから真実を追う」
玲は深く息を吸い、四人のチームを見渡した。
「準備はいいか。慎重に、だ。朱音――君の目で見ろ、僕らはその目を信じる」
空間は微かに軋み、少年と男の姿がスケッチ内部でゆらめきながらも、現実の記録として浮かび上がった。
時間:午前4時56分
場所:スケッチ内部・旧桜ヶ丘通り交差点の再現領域
玲は目を細め、赤い布の先に視線を向けた。
「この空間に残された“記憶コードの暗号”……解き明かすことができれば、真犯人の名が浮かび上がる。だが──」
言葉を区切るように、空気がわずかに震えた。
赤い布の繊維が光を反射し、まるでそこに誰かの“意志”が残っているかのように波打っている。
御子柴理央が即座に解析端末を展開し、鋭い声で報告した。
「反応を検出……コード断片が三層に分かれてる。どれも改ざん跡がある。内部から“誰か”が情報を隠した形跡だ」
九条凛が眉を寄せる。
「記憶そのものを暗号化してる……人間の記憶をデータ構造のように扱うなんて、普通じゃない」
玲は朱音のスケッチを見つめた。
「……朱音。君の“感覚”で探せ。僕たちが解析できないものは、きっと君の記憶が感じ取れる」
朱音は唇を噛み、そっと赤い布の影に手を伸ばす。
「……この中に、誰かの“嘘”がある。言葉じゃなくて……感情の形で隠されてる」
その瞬間、空間の色がわずかに歪んだ。
水無瀬透が即座に警告する。
「玲! 空間圧が上がってる! “記憶防御層”が発動した!」
玲は低く呟いた。
「……やはり来たか。真犯人は、記憶そのものを利用して“自分の罪”を封じたんだ。」
朱音の瞳が大きく見開かれる。
赤い布の奥で、誰かの影がこちらを振り向いた。
時間:午前5時03分
場所:スケッチ内部・旧桜ヶ丘通り交差点再現領域
服部一族の解析班──煌の唇が、わずかに弧を描いた。
その表情は冷静でありながら、僅かに感情の揺らぎを含んでいる。
玲はその微かな変化に気づき、視線を鋭く向ける。
「……煌、お前も感じているな?」
煌は静かに頷く。
「はい。この記憶コードには、外部からの干渉と内部の自己防衛、両方の痕跡があります。解除には慎重さが必要です」
朱音は赤い布に手を伸ばしたまま、心の中で小さく呟く。
「……怖い。でも、絶対に見つける」
御子柴理央が端末を操作しながら補足する。
「記録の奥底に“鍵”がある。コードの順序を間違えると、アクセスできなくなる可能性もある」
玲は深く息を吸い、朱音の肩に手を置いた。
「落ち着け、朱音。君の感覚と、チームの解析能力を組み合わせれば、必ず突破できる」
空間は静かに震え、赤い布の先で暗号の断片が微かに光った。
その瞬間、煌の瞳が鋭く輝く。
「準備は整いました……行きましょう」
時間:不定
場所:スケッチ内部・記憶断層領域
そこは、時間の概念すら崩壊した世界だった。
玲は足元の地面を確かめるように一歩踏み出す。
「……ここでは、過去も未来も、すべてが重なり合っている」
朱音はスケッチブックを胸に抱きしめ、震える声で応じる。
「不思議……絵の中の時間と、現実が混ざってる……」
御子柴理央が端末を操作しながら分析する。
「データ上では、この空間は外界の時間軸と同期していません。すべての事象が同時進行で存在している」
煌は冷静に周囲を見渡す。
「注意してください。この世界では、過去の断片や記憶の残滓が具現化し、予測不能な干渉を引き起こします」
水無瀬透が低く息を吐き、朱音の肩に手を置く。
「君はこの空間で感じたものを信じるんだ。恐れる必要はない」
玲は深く息を吸い、赤い布片に視線を向ける。
「よし……この世界の秩序を読み解き、真実の記憶を取り戻すぞ」
空間全体が微かに軋み、色彩と形が揺れ動く。
そこに、記憶の欠片を抱えた少年と男の後ろ姿が、静かに浮かび上がった。
場所:スケッチ内部・記憶断層領域
玲は赤い布片を握ったまま、視線を高架下の映像に向ける。
「……この場所だ。すべての記憶の起点はここにある」
朱音は震える声で問いかける。
「お兄ちゃん……ここで、何があったの?」
御子柴理央が解析端末を操作し、音声と映像の断片を同期させながら答える。
「記録によれば、この高架下で事故に見せかけられた事件が発生している。犠牲者の動線と時間軸がここに残されている」
水無瀬透が低く囁く。
「間違いない……ここで、真実が封じられたんだ」
煌は赤い布片を一瞥し、冷静に指示する。
「全員、注意。空間の歪みが強まる可能性がある。見えない力が記憶を攪乱する」
玲は力強く頷き、朱音の肩に手を置く。
「さあ、見届けるんだ。今、この瞬間に真実が暴かれる」
静寂を切り裂くように、映像の高架下に残された痕跡が浮かび上がる。
少年と男、そして赤い布――記憶の断片が重なり合い、事件の全貌がゆっくりと形を取り始めた。
場所:スケッチ内部・高架下映像領域
時間:不定
朱音が映像に釘付けになっているその瞬間、玲は背後の気配を察した。
「……後ろだ、気をつけろ」
御子柴理央が即座に朱音の側に移動し、遮るように体を構える。
「誰かが、注射器を……」
水無瀬透が低く唸る。
「狙いは明白だ。あの少年の記憶に干渉させるつもりだ」
朱音は小さく震えながらも玲を見上げる。
「お兄ちゃん……どうしよう……」
玲は眉をひそめ、静かにだが力強く言った。
「落ち着け。俺たちがここにいる。何があっても守る」
煌が端末を操作し、注射器を握った人物の位置を特定する。
「動くな……記憶の歪みに誘導されてはいけない」
映像の世界で、赤い布片と少年、そして危険な影の存在が同時に浮かび上がる。
「この瞬間を乗り越えれば、真実に手が届く」
玲は朱音の手をしっかり握り、周囲の仲間たちと共に、防御態勢を固めた。
場所:スケッチ内部・高架下映像領域
時間:不定
朱音はそっと布片を拾い上げ、手のひらで包み込んだ。
「……この布、誰かの……?」
玲は朱音の隣に立ち、眉をひそめて布片を覗き込む。
「……亡くなった少女が着ていた服の一部だな。色褪せているはずなのに、どうしてこんなに鮮やかに見える……」
御子柴理央が冷静に分析する。
「記憶の痕跡が、この布片に何らかの形で残っている可能性が高い。通常の物理的劣化では説明できない現象だ」
水無瀬透が低く息をつく。
「つまり、彼女の記憶が――ここに宿っている、ということか」
朱音は小さく頷き、布片を胸に抱きしめた。
「……あの子のこと、忘れちゃいけないんだね」
玲は静かに手を朱音の肩に置き、決意を込めて言った。
「そうだ。だからこそ、俺たちは真実を最後まで追う。あの子の記憶を無駄にはさせない」
高架下の映像に映る赤い布片は、風に揺れることもなく、しかし確かに存在感を放ち、スケッチ内部の空間を不思議な緊張感で満たしていた。
場所:スケッチ内部・高架下映像領域
時間:不定
朱音の瞳に映る赤い布片は、ただの遺留品ではなかった。
その色と形は、過去の出来事の断片を静かに語りかけるかのようで、彼女の胸に微かな震えを残した。
「……これ、ただの布じゃない……」朱音は小さな声で呟く。
玲はその言葉にうなずき、布片を慎重に観察した。
「間違いない。これは、現場に残された“記憶の証拠”だ。形だけでなく、あの瞬間の状況を語っている」
御子柴理央が端末を操作しながら分析する。
「布片の色の濃淡や繊維の微細な歪み……過去の衝撃や動きが物理的に残っている。いわば“記録媒体”として機能しているようです」
水無瀬透が低く息を吐き、視線を布片に集中する。
「だから、見えるんだ……朱音の感覚に。彼女の直感が、この布の意味を瞬時に読み取っている」
朱音は布片を握りしめ、目を閉じる。
「……あの子のこと、全部……わかる気がする」
玲は肩を軽く叩き、静かに力強く告げた。
「その直感を信じろ。真実は、この布と君の感覚の中にある」
赤い布片は、光を反射するわけでもなく、風に揺れるわけでもない。ただ静かに存在しながら、スケッチ内部の空間全体に張り詰めた緊張と意味を宿していた。
場所:スケッチ内部・高架下映像領域
時間:不定
朱音が赤い布片を握りしめ、震える声で呟いた。
「……あの人……これ、全部、彼の……」
玲はすぐそばに立ち、目を細めた。
「そうだ。これが、彼の“罪”だ」
御子柴理央が端末の解析結果を見つめ、冷静に補足する。
「布片に残された痕跡、現場状況、時間軸の微細なズレ……すべて一致する。犯行の構造が、ここに集約されている」
水無瀬透が低く息を吐き、朱音の肩に軽く手を置いた。
「だから、君が感じたんだ……この記憶の重さ。あの人の行動が、何を意味していたのか」
朱音は布片を握りしめたまま、小さく頷く。
「……うん……全部、わかる気がする」
玲は深く息を吐き、決意を込めて言った。
「これで、真実の全貌が見える。あとは、この“罪”を公にするだけだ」
赤い布片は静かに、しかし確実に、過去の事件と犯人の行為を語り続けていた。その存在は、スケッチ内部の空間に張り巡らされた緊張の核となっていた。
場所:スケッチ内部・高架下映像領域
時間:不定
朱音の手の中で赤い布片が微かに揺れる。光がゆっくりと広がり、布片の先にいた彼の輪郭をやわらかく包み込んだ。
玲は息を殺し、静かに呟く。
「……今、彼の姿がはっきりと見えた。罪の証が、ここにある」
御子柴理央が端末を操作しながら解析する。
「光の変化で残留情報が浮かび上がった。微細な動きや過去の痕跡も、すべて記録されている」
水無瀬透が朱音の肩越しに覗き込み、低く言った。
「光が真実を映し出している……君の感じたものは間違いじゃない」
朱音は震える指で布片を握りしめ、視線を光に包まれた彼へ向けた。
「……これが、全部……」
玲は短く頷き、決意を込めて前へ一歩踏み出した。
「真実を、ここから持ち帰ろう。全ての罪を明らかにするために」
光は徐々に広がり、スケッチ内部の世界を柔らかく照らし出し、過去の事件と彼の行動を鮮明に浮かび上がらせていた。
場所:ロッジ・佐々木家和室
時間:午前7時45分
朱音たちがスケッチ内部から戻り、和室の畳の上に立つ。朝の光が障子を通して柔らかく差し込み、外の鳥の声が静かに響いていた。
朱音はスケッチブックを胸に抱き、深く息をつく。
「……やっと、戻ってきた」
玲は周囲を見渡し、冷静に確認する。
「全員無事。だが、これで終わりじゃない。記録と証拠を整理して、次の段階に進む」
御子柴理央が端末を手に取り、解析結果を確認しながら頷く。
「残留データは全て回収済み。異常なし」
水無瀬透は静かに朱音を見つめ、低く呟く。
「君が無事で本当によかった」
九条凛も微笑み、肩越しに軽く手を挙げる。
「これで、一段落……かな」
朝の光の中、和室は静寂に包まれ、全員が現実世界に戻ったことで次の行動の準備が整った。
場所:ロッジ・佐々木家 和室前の廊下
時間:午前8時02分
──わたしは、忘れられない。
──この世界のどこかに、“消えかけた記憶”が静かに息づいていることを。
朝の光が障子を透かし、薄く射し込む。
誰もいない廊下の先、扉の外にそっと佇む影がひとつ。
風が吹き抜け、
その背中に結ばれた赤い布が、ひらりと揺れた。
その瞬間──
遠い記憶の底で、かすかに誰かの笑い声が響く。
──Fin.
場所:佐々木家・ロッジ裏庭
時間:午後4時30分
陽は静かに傾いていた。
庭先の木々が長い影を伸ばし、秋の柔らかな光が草の間を揺らしている。
朱音はベンチに腰掛け、膝の上のスケッチブックをそっと開いた。
描かれた線は静かに、だが確かに彼女の手で整えられている。
「ばぁば……また描いちゃった」
朱音の声に、昌代は微笑を返す。
「うん、でも大丈夫。ちゃんと見守ってるわよ」
玲はそっと隣に座り、朱音の背中を軽く撫でた。
「お前の目で見たもの、描いたもの……全部、意味があるんだ」
朱音は頷き、ページをめくる。
そこには、事件で見つけた小さな布片や、街角の何気ない風景まで、静かに残されていた。
庭の風が、柔らかく吹き抜ける。
遠くで小鳥がさえずり、事件の喧騒から少しだけ距離を置いた穏やかな時間が、ゆっくりと流れていた。
朱音はふと顔を上げ、夕陽に照らされる父・玲の顔を見つめる。
「……これからも、いろいろあるけど、みんなで頑張ろうね」
玲は微笑み、頷いた。
「ああ。もう大丈夫だ。俺たちが一緒だからな」
小さな笑い声と、柔らかな風。
平穏が戻った日常の午後に、ほんの少しだけ、未来への希望が差し込んでいた。
場所:玲探偵事務所
時間:午後9時15分
その夜、玲探偵事務所のポストに、一通の封筒が静かに届いた。
宛名も差出人もなく、ただ無機質な白い封筒。
玲は手に取り、慎重に封を切る。中には、一枚の写真と、短いカードが入っていた。
写真には、見覚えのある小さな通りが写っている。
角度や光の具合は、朱音が以前スケッチしていた場所とまるで同じだった。
カードには、鉛筆でこう書かれていた。
「忘れたつもりでも、記憶は生きている──」
玲は写真に目を落とし、ゆっくりと息を吐く。
「……誰だ、これを……」
机の上に置かれた封筒の白さが、深夜の静寂の中でひときわ際立つ。
遠くで時計の秒針がカチリと音を立て、玲の視線は写真の向こう側──まだ見ぬ“何か”を追うように揺れた。
朱音が部屋のドアをそっと開け、覗き込む。
「お兄ちゃん……?」
玲は小さく首を振り、封筒と写真を慎重に持ち上げた。
「いや……これは、始まりの合図かもしれない」
窓の外には、夜風に揺れる街灯の光。
そして、ほんのわずかに、赤い布片の色が記憶の奥で再び揺れたような気がした。
玲は指先でカードを裏返した。そこには、淡いインクの筆跡でさらに数行の文字が記されていた。
「君がくれた“名前”が、僕の心を照らしてくれる。
もう一度、この名前を信じて歩いていくよ」
— ユウタ
朱音はその文字を見つめ、そっと息を呑んだ。
「ユウタくん……」
玲は黙ったままカードを見つめ、ほんの一瞬だけ、眼差しをやわらげた。
どこかで、あの少年の声が風に混じって聞こえた気がした。
「……生きてる。記憶の中だけじゃなく、現実のどこかで」
朱音は小さく頷き、微笑んだ。
「うん。ユウタくん、ちゃんと前に進んでる」
玲は封筒を丁寧に机の引き出しにしまいながら、静かに呟いた。
「なら、俺たちも――進まなきゃな」
窓の外で、夜風がそっとカーテンを揺らした。
それはまるで、どこか遠くでユウタが微笑んでいるように、やさしい音だった。
場所:ロッジ裏庭
時間:夜10時45分
夜の帳が完全に降りていた。静かな庭には、風に揺れる木々の葉のざわめきだけが響く。月光が雪解け水で濡れた地面を淡く照らし、足元の小道を銀色に浮かび上がらせていた。
朱音はベンチに腰掛け、膝の上のスケッチブックをそっと開く。そこには、この数日間で見た景色や感じた不安、そして希望が鉛筆で細やかに描かれていた。
沙耶がそっと隣に腰掛け、朱音の肩に手を置く。
「よく頑張ったね、朱音」
朱音は小さく微笑み、スケッチブックを抱きしめた。
「うん……でも、まだ全部わかったわけじゃない。真実って、こんなに複雑なんだね」
玲は庭の一角で立ち止まり、遠くの山並みを見つめた。
「……それでも、俺たちは進むしかない。記録も、記憶も、消えたものはあるけど、残ったものだってある」
御子柴理央は冷静に観察する目を緩め、朱音を見つめた。
「次の一歩は、慎重に。だけど、確実に」
夜風が一陣吹き抜け、赤い布片のような枯れ葉が朱音の足元に舞い落ちる。
その小さな動きが、静寂の中で生きている証のように、柔らかく揺れた。
朱音は立ち上がり、スケッチブックを抱えたまま庭を一周する。
「……私、負けないよ」
玲はその背中を見つめ、静かに頷いた。
「そうだ。まだ物語は終わらない。俺たちが、次に進むための物語だ」
遠くで、夜の森がささやき、月が静かに庭を包む。
その光の中で、朱音と玲、そして仲間たちは、静かに、確かに前を見据えていた。
──Fin.
時間:夜/場所:玲探偵事務所
玲の机の上に置かれたスマートフォンが、ひときわ小さな振動を知らせた。画面を覗くと、差出人は「ユウリ」とだけ表示されている。
玲は静かに指を滑らせ、メールを開いた。
「玲さん、朱音ちゃん、元気ですか?
ここからでも、少しずつ世界が落ち着いていくのを感じています。
君たちがくれた勇気を忘れずに、もう一度前に進みます。」
玲は画面をじっと見つめ、軽く頷いた。
朱音も隣で画面を覗き込み、微かに笑みを浮かべる。
「ユウリ……元気でいてくれたんだね」
玲の声は静かだったが、確かな安心感がその場に満ちた。
朱音はスケッチブックを抱きしめ、窓の外の夜空を見上げる。
星の光が二人の頬を優しく照らし、過去の暗闇の残像を少しずつ消していくようだった。




