37話 「No.2843-β ― 記録の子」
登場人物紹介|No.2843-β ― 記録の子
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佐々木朱音
佐々木圭介の娘。幼いながらも鋭い直感を持ち、時に“大人が見逃す真実”を見抜く。
彼女のスケッチブックには、まだ誰も知らない記憶の欠片が描かれている。
「この子、泣いてたの……でも、誰も名前を知らないの」
――彼女が描いた“黒い車”が、事件の扉を再び開く。
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玲
探偵事務所の代表。冷静かつ戦略的な判断でチームを率いる。
感情を表に出さないが、誰よりも仲間を守る意志が強い。
かつて“記録抹消任務”を経験しており、その過去が今、彼を再び現場へと向かわせる。
「俺たちは、もう二度と“消させない”――誰の存在も。」
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御子柴理央
記憶分析官。理知的で冷静な判断を下すが、内には誰よりも強い感情を秘めている。
若き日の病室で出会った玲と“いつか一緒に真実を追う”と約束していた。
現在はK部門の中核として、記録と記憶の整合を担う。
「このデータ、まだ生きてる。――“彼”は、消されていない。」
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川崎ユウタ(かわさき ゆうた)
“記憶の証人”と呼ばれる少年。
消された記録、封じられた時間、そのすべての「残響」を感じ取る力を持つ。
自身の中に存在する“誰かの記憶”の声に導かれ、朱音とともに真実へと歩き出す。
「……この声、知ってる。俺の中で、泣いてるんだ。」
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御影 清流
K部門直属の“終端解析官”。冷徹な精度で事件全体を俯瞰する。
コードネーム〈イデアル〉。彼の演算は、人の嘘すらも解析してしまう。
今回の事件で、“抹消済”のはずの記録No.2843-βを再識別した張本人。
「データは沈黙しない。ただ、再び読む者を待っているだけだ。」
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水無瀬透
深層意識探査官。対象者の潜在意識から“消された記憶”を掘り起こす。
静かな口調の中に、研ぎ澄まされた感性と危ういほどの共感力を秘める。
「思い出すことは、時に生き直すことだ。」
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九条凛
心理干渉分析官。精神防御・記憶再構成のスペシャリスト。
優しい笑みの奥で、誰よりも鋭い心理的観察を行う。
「心は、隠せない。沈黙もまた、ひとつの“声”なの。」
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成瀬由宇
影班の実行担当。冷徹な精密動作と迅速な判断で現場を制圧する。
一見無感情だが、朱音の存在にだけは微かな人間味を見せる。
「命令完了――次の行動、確認を。」
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柾倉翼
元国家監察庁の幹部。既に“抹消済”の存在。
だが今もなお、彼の“意志”だけが電子の残留体として現実に干渉し続けている。
「我々は記録に残らない者たちだ。だが、それこそが真実だ。」
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柾倉結翔
記録番号:No.2843-β。享年8歳。
“倉庫事故”の被害者として葬られたが、その実態は証拠隠滅の犠牲だった。
ユウタの記憶の中に“微かな笑顔”として残り続ける。
「おにいちゃん……ぼく、ちゃんと帰れるかな……?」
【日時】2025年11月12日 午前9時05分
【場所】東京都・霞ヶ関官庁街
灰色のビル群が立ち並ぶ霞ヶ関。冷たい風が官庁街の歩道を吹き抜け、忙しく行き交うスーツ姿の人々の間に緊張が漂っていた。
玲は端末を片手に歩きながら、黒沢と通信を続ける。
「黒沢、確認だ。先週から都内で増えている投資詐欺案件の調査に入った。表向きは小規模だが、手口が巧妙で見破りにくい」
無線の向こうで黒沢の声が低く返る。
「情報は共有済みだ。奈々が昨日から数件のデータ解析を始めている。今回の案件は“リスクゼロ”と謳われている点が特徴だな」
玲は歩みを緩め、前方のビルの壁に貼られた広告チラシを指先でなぞるように見つめる。
「狙われているのは、普段投資に無関心な層だ。若年層や主婦、サラリーマンの小口投資がターゲットになるだろう」
黒沢が静かに続ける。
「なるほど……街に溶け込む罠、か」
玲は視線を前に戻し、淡々と呟く。
「今日は現場に赴いて、実態を確認する。奈々の解析結果が出次第、追って連絡を」
無線を切った玲は、背筋を伸ばし、霞ヶ関の官庁街から新都心駅前へと歩みを進める。
人々の喧騒に紛れるように、この街のどこかに冷酷な罠が静かに潜んでいることを、まだ誰も知らずに――。
【日時】2025年11月12日 午後2時30分
【場所】東京都・新都心駅周辺商店街
紅葉が色づき始めた街路樹の葉が、風に揺れて舞う午後。落ち葉が歩道に静かに積もる中、玲は端末を片手に商店街を歩いていた。
「……怪しいのはこの付近だ」
玲は小さな広告掲示板に貼られたチラシに目を止める。『リスクゼロ投資で資産倍増』──文字は鮮やかだが、内容は曖昧で具体性に欠ける。
「黒沢、現場確認。掲示板のチラシ、複数の場所で不自然に同一デザインが繰り返されている。散布範囲が計画的だ」
無線から低く返る声。
「了解……近隣カフェや駅前掲示板も確認する。ターゲット層の動線を把握できれば手がかりになる」
玲は足元に目を落とす。歩道の隅に、見慣れない小型のQRコード付き名刺が散乱していた。
「これだ……不自然なばら撒き。目立たず情報を撒き、反応を見て次の接触を選ぶ。巧妙な手口だ」
玲は端末を取り出し、名刺のQRコードを読み取る。画面に暗号化されたURLが表示される。
「……解析開始。奈々、もし解析が完了していたらデータを送ってくれ」
背後から通りかかった通行人が玲を一瞥するが、玲は無言のままデータ確認に集中する。
「ターゲットは日常に溶け込む層、情報に疎い人々。巧妙だが、証拠は確実に残っている」
玲は端末のスクリーンを指先でなぞり、商店街の地図上に名刺の散布位置をマッピングする。
「この範囲で接触履歴を追えば、詐欺ネットワークの出発点が見えてくる……」
落ち葉を踏む足音と商店街のざわめきが混ざる中、玲は冷静に不正の痕跡を追い始めた。
【日時】2025年11月12日 午後2時45分
【場所】東京都・新都心駅周辺商店街
そのとき、朱音が歩道に落ちていたパンフレットをそっと拾い上げた。秋風に揺れる落ち葉の間で、彼女の小さな指先がパンフレットの文字を追う。
「……この計算、おかしい」
玲は朱音の手元を覗き込み、眉をひそめる。
「どうした、あかね?」
朱音は指で数字の部分を指し、かすれた声で答える。
「ここ……利率の計算が合ってない。全部、嘘で塗り固められてるみたい」
その瞬間、玲の端末が振動し、奈々から解析結果が届いた。画面には複数の暗号化URLと名刺散布位置のマッピング、そしてQRコードのアクセス履歴が示されている。
「来たな……」玲は静かに呟き、奈々の解析内容を確認する。
「このネットワーク、思った以上に精密だ。小口投資者を狙った段階的な詐欺計画が、複数のサイトと連動して動いている」
朱音はパンフレットを握りしめ、玲を見上げる。
「玲お兄ちゃん、これ……どうやって止めるの?」
玲は端末を手に、商店街の人々の流れを目で追いながら答える。
「解析データを使えば、接触履歴を追跡できる。誰が最初に仕掛けているかを特定すれば、被害を未然に防げる」
秋の午後、赤や黄に色づいた落ち葉が舞う中、玲と朱音は奈々の解析結果を手がかりに、巧妙な詐欺の全貌に迫ろうとしていた。
【日時】2025年11月12日 午後3時05分
【場所】東京都・新都心駅前カフェ
玲と朱音は、商店街を抜けた先の小さなカフェに入った。窓際の席に座ると、外の紅葉した街路樹と、行き交う人々の足元が見える。
「ここからでも、人の流れやターゲットの痕跡を確認できる」
玲は手元の端末を開き、奈々が解析したデータと現場の映像を照合する。朱音は膝の上でスケッチブックを抱えながら、その様子を興味深そうに眺める。
玲は指で画面をなぞり、商店街や駅前の防犯カメラ映像とターゲット情報を重ね合わせる。
「この位置……ここで数件の小口投資者がパンフレットを受け取っている。接触者は全員、端末に残したアクセス履歴が追える」
朱音が小さく息をつき、窓の外の人々を観察する。
「玲お兄ちゃん、あの人……さっきパンフレットを配ってた人?」
玲は朱音の指差す方向を確認し、頷く。
「そうだ、あかね。彼が最初の仕掛け人の可能性が高い。店の出入りや動線も追跡できる」
玲は端末を操作し、ターゲットの移動経路を赤い線で表示させる。駅前の交差点、カフェ周辺の人の流れ、歩道に落ちた小さなパンフレットの位置……すべてがデジタル上で可視化されていく。
「これで、どこで誰に接触しているかが一目で分かる」
玲は朱音に微笑みかけ、落ち着いた声で告げる。
「さあ、次は現場で直接確認だ。被害を未然に防ぐため、ターゲットを追う」
朱音はスケッチブックを抱え直し、小さく頷いた。
「うん、玲お兄ちゃん。私も一緒に見つける!」
カフェの外では、秋風に舞う落ち葉が歩道を覆い、駅前の人々の流れと混ざり合っていた。玲は端末の地図を片手に、朱音とともにターゲット痕跡の追跡を開始する。
【日時】2025年11月12日 午後3時20分
【場所】新都心駅前商店街
目の前のテーブルでは、スーツ姿の男が客に声をかけ、スマートフォンを片手にパンフレットを渡していた。
玲は端末で解析中のターゲットの移動経路と照らし合わせ、低い声で呟く。
「ここが最初の接触地点か……」
朱音は窓際から静かに覗き込み、玲の指示を待つ。
「玲お兄ちゃん、あの人、こっちを見てる?」
「気をつけろ、あかね。相手は監視も兼ねて動いている可能性がある」
玲は素早く端末の画面を確認し、男の過去の接触履歴を赤い線で追う。
「ここで二人の被害者に接触している……次の角で商店街を抜けると、駅前広場まで移動するパターンだ」
玲は席を立ち、朱音に小声で指示する。
「スケッチブックをしっかり握って、動線を記録してくれ。俺は直接確認する」
商店街に出ると、落ち葉が歩道に散らばり、秋風が冷たく頬を打つ。玲はすぐにターゲットの後を追い、目で細かく動きを追う。
男は商店街の角を曲がり、店先に立ち止まって通行人に声をかける。玲は歩幅を合わせながら、端末に表示された赤い線で男の接触履歴を確認する。
朱音は少し離れた場所から、スケッチブックに男の姿や移動経路を描き込む。
「玲お兄ちゃん、ここでまたパンフレットを渡した!」
玲はうなずき、次の行動を決める。
「よし、この後の動きも追う。無理に声をかけるな、記録が最優先だ」
男は駅前広場に差し掛かると、数人の若者にパンフレットを手渡す。玲は目を細め、端末で接触者情報を確認。
「やはり、若年層と主婦層がターゲットだな……」
朱音は一息つき、落ち葉を踏みしめながらスケッチブックを見せる。
「玲お兄ちゃん、線で繋いでみたよ。この動き、繰り返してる……」
玲は端末と朱音のスケッチを照合し、微かに唇を引き締める。
「これで、どの地点で被害が発生するか予測できる。次は現場で直接確認する段階だ」
駅前の広場では、秋の光に映える人々の足音と、パンフレットを手にした人々のざわめきが混ざり、緊張感を静かに増していた。
【日時】2025年11月12日 午後3時50分
【場所】新都心駅前カフェ「リヴェール」
新城慶はカフェの窓際席に座り、若いサラリーマン風の男性に穏やかな笑顔を向けた。
「リスクゼロです。ほんの少額で始められますし、リターンも確実に見込めます」
手元のパンフレットをそっと差し出す新城の声は柔らかく、それでいて説得力があった。
カウンター奥の植え込み越しに、玲は身を潜めて観察する。
端末には新城の過去接触者データと動線が表示されており、赤い点で被害者候補が浮かび上がる。
「狙いはこのサラリーマンか……」玲は低く呟き、朱音に無線で指示を送る。
「朱音、位置を変えずにスケッチを続けろ。俺が接触阻止に入る」
朱音は頷き、静かにスケッチブックを膝に置き、窓越しに男の動きを描き始める。
落ち葉が舞う通りに、秋風が冷たく吹き抜ける。
玲は慎重にカフェの入口付近に回り込み、男の背後に影のように潜む。
新城がパンフレットを手渡す瞬間を見計らい、玲は足を踏み出した。
「すみません、その方に渡すものですか?」
玲の声は穏やかだが、男の手を止めさせるには十分だった。
新城は軽く微笑みを返す。
「ええ、少額投資のご案内です」
しかし、玲の端末には既に複数の赤い点が点滅しており、ターゲットが次々と接触される前に阻止できることが示されていた。
玲は静かに、しかし確実に被害者に近づき、手元のパンフレットをそっと押さえる。
「この情報、正確なリスクを知らずに手を出すと危険ですよ」
男の表情が一瞬強張る。監視対象の一人も玲の存在に気づき、戸惑いを見せる。
朱音は窓際から、スケッチブックに玲と新城の位置関係を描き込み、無線で小声で報告する。
「玲お兄ちゃん、動線を描いたよ!このまま接触を防げそう」
玲は深く息を吸い、男をカフェの奥へ誘導しながら、ターゲットと安全な距離を保つ。
「これ以上は渡せません。ちゃんと理解した上での判断です」
新城は小さく笑いながらも、手元の資料を引っ込め、次の被害者への接触を諦めた様子だった。
外の秋の風が通り抜け、落ち葉が舞い上がる中、玲は一息つく。
朱音が窓越しに小さく手を振る。
「玲お兄ちゃん、うまくいったね!」
玲は微かに笑みを浮かべ、端末で残りの動線を確認する。
「これで、被害は最小限に抑えられた。だが、まだ完全ではない……」
秋の午後、駅前カフェの緊張は静かに解け、玲の影は落ち葉に溶けていった。
【日時】2025年11月12日 午後4時15分
【場所】新都心駅前・商店街
玲が駅前カフェ「リヴェール」から目を離すと、新城慶は席を立ち、スマートフォンを片手に足早に商店街へ向かっていた。
その背後には、落ち葉の舞う秋風が冷たく吹き抜ける。
玲はすぐさま端末を操作し、追跡データを確認する。
「次のターゲット……氷室隼か。危険度は非常に高い」
氷室隼――その名を知る者なら誰もが警戒する男。表向きは資産家だが、裏社会との関わりは深く、手口は冷酷かつ巧妙だ。新城の次の接触先として標的に設定されていることは、玲の解析データからも明確だった。
玲は朱音に小声で指示を送る。
「朱音、あの商店街の角で待機して。スケッチブックはそのまま、動線だけ描いて」
朱音は頷き、影のように歩道の端に身を潜める。
新城は通りの照明に反射するスマホ画面を見つめ、ターゲットの位置を確認して歩を進める。
玲は人混みに溶け込み、影から静かに追う。
「このまま接触を許すわけにはいかない」
商店街の角を曲がると、氷室隼が姿を現す。
落ち着いた革靴と長めのコートが、秋の夕暮れに映える。表情は冷静だが、目は鋭く、新城の動きを見逃さない。
玲は端末で接触予測ルートを確認し、朱音に合図を送る。
「朱音、氷室が動いた。描きながら位置を報告して」
朱音はスケッチブックに素早く線を引き、手元の無線で報告する。
「はい、玲お兄ちゃん、二人の距離は約15メートル。右側の角を曲がると接触する可能性があります!」
玲は人混みを利用して、静かに新城と氷室の間に割り込む。
「ちょっと失礼……」
端末と資料を手に、被害者への接触を未然に防ぐ。新城は一瞬動きを止め、睨むが、玲の落ち着いた目線に押され、攻撃的な行動はできない。
氷室は不自然に微笑む。
「ふむ……面白い介入者だな」
玲は無言で観察を続け、距離を保ちながら新城の進行を妨げる。
朱音の報告も正確だ。
「玲お兄ちゃん、二人の距離を保ったまま、次の交差点を通過させないで!」
玲は深呼吸をひとつし、冷静に判断する。
「これで、今回の接触も阻止できる……しかし、まだ完全に安心はできない」
夕暮れの商店街に、落ち葉が舞い、秋の冷たい風が通り抜ける。玲の影は氷室の視界の端に溶け込みながら、次の一手を静かに見据えていた。
【日時】2025年11月12日 午後4時30分
【場所】新都心駅前・カフェ「リヴェール」前・商店街
玲はカフェのテーブルに腰を下ろし、端末で街角の動線を確認していた。落ち葉が舞う商店街を、静かに緊張感が支配する。
扉が静かに開き、御子柴理央が入ってきた。
「玲、状況は?」
玲は端末を指差し、短く説明する。
「新城と氷室が交差点で接触する可能性が高い。朱音は角で待機中だ」
理央は微かに眉を寄せ、端末を受け取る。
「よし。情報解析を続けつつ、直接の介入は最小限に抑える。被害者を守ることが最優先だ」
その瞬間、商店街の角で新城と氷室の距離が一気に縮まる。
人混みの隙間から、二人の影が接触線上に重なるのが見えた。
玲は即座に立ち上がり、テーブルから資料を掴むと、人混みを縫うように歩を進める。
「朱音、スケッチブックを下ろして隠れて!角に入るな!」
無線越しに朱音の声が返る。
「うん、わかった!」
新城は氷室に気づかれず、被害者に接触しようと手を伸ばす。
玲は素早く距離を詰め、肘で角の空間を微かに塞ぐように立つ。
氷室は眉をひそめ、周囲を警戒しながらも新城の動きを止められない。
理央は玲の背後から無線で助言する。
「玲、右側から人の流れを作る。二人の距離を分断できるはず」
玲は落ち葉の舞う歩道を利用し、人の流れを自然に誘導する。新城が一瞬足を止める。
その隙に、氷室の位置を微妙にずらし、直接接触を回避させることに成功する。
商店街には、静かながらも張り詰めた空気が漂う。二人の動きは制御されたが、状況はまだ予断を許さない。
玲は端末で位置情報を再確認し、朱音の安全を確認する。
「よし、今回は回避……だが、次の角での動きも監視が必要だ」
理央は静かに頷き、玲に寄り添う。
「この街の喧騒に紛れる罠を、ここで初めて阻止できた。次も油断はできない」
秋の冷たい風が商店街を吹き抜け、落ち葉が足元で舞う中、玲と理央は次の一手を静かに見据えていた。
【日時】2025年11月12日 午後4時45分
【場所】新都心駅前・商店街
朱音は落ち葉に埋もれたパンフレットを拾い、指で示しながら元気に言った。
「玲お兄ちゃん、この数字、おかしいよ!どう見ても計算が合ってない!」
玲は朱音の指差す箇所を端末で確認しながら、穏やかに頷く。
「なるほど、確かに。これが狙いを見抜く手がかりになりそうだ」
カフェ「リヴェール」を出た玲は、商店街の人混みを縫うように歩き始める。朱音は小さな足で玲の横をついてくる。
奈々は端末で解析を続け、無線で情報を送る。
「玲、新城が次のターゲットに移動中。商店街の北通りに入った模様」
玲は足音を殺しつつ、影から新城を追う。落ち葉がカサカサと乾いた音を立てる。
「朱音、こっちの人混みに隠れて。手を離すな」
朱音は素早く脇に身を潜め、スケッチブックを抱きしめた。小さな体が大きな人波に紛れる。
新城はサラリーマン風の男性に声をかけ、穏やかな笑顔で勧誘を始めた。
玲は距離を保ちつつ、無線で理央に状況を伝える。
「理央、新城が接触を始めた。朱音の安全を最優先に動く」
理央は静かに頷き、カメラ越しに商店街の交差点を確認する。
「了解。周囲の警備と人の流れを操作すれば、接触は阻止できる」
玲は落ち葉の舞う歩道を巧みに使い、人の流れを誘導する。新城がターゲットに手を伸ばす直前、玲は前に出て影を作り、接触を回避させた。
奈々は端末を操作し、次の接触地点を予測する。
「次の角を曲がった先にもう一人、狙われる人物がいる。迅速に誘導すれば安全圏に入れます」
玲は朱音を抱きかかえ、短距離を全力で駆ける。
「朱音、しっかり掴まって!」
新城は焦る様子もなく、人混みに紛れつつ次のターゲットに向かう。
玲は距離を保ちつつ、落ち着いた判断で進行方向を逐次修正する。
商店街の角を曲がるたび、落ち葉が舞い、冷たい秋風が吹き抜ける。
朱音は息を切らしながらも、玲の背中を見上げ、安心した笑顔を浮かべた。
「玲お兄ちゃん……大丈夫?」
玲は短く微笑み、端末を確認する。
「大丈夫だ、朱音。あと少しで安全圏に入れる」
理央は遠隔から無線で指示を送る。
「歩道の人の流れをここで切り替えろ。新城はこのままではターゲットに接触できない」
玲は周囲の店先や人波を利用し、自然な形で流れを作り出す。
新城はわずかに動きを止め、進路を修正するが、次の瞬間には追跡者の気配に気づき始める。
秋の商店街には緊張感が張り詰め、落ち葉の乾いた音と人波のざわめきが混ざる中、玲と理央、奈々は朱音を守りながら新城の動きを制御していた。
一瞬の油断も許されない、街中の緊迫追跡が静かに続いていた。
【日時】2025年11月12日 午後5時10分
【場所】新都心駅前・商店街
玲は朱音の手を軽く握り、カフェ「リヴェール」の入り口をじっと見つめた。
視線の先には、氷室隼が人混みに紛れるように立ち、鋭い目で商店街の流れを観察していた。
「氷室……やはりここに来ていたか」玲は低く呟く。
朱音は不安そうに玲を見上げる。
「玲お兄ちゃん、あの人……こわい」
玲はそっと頷き、落ち着いた声で答える。
「大丈夫だ、朱音。僕がいる。離れるなよ」
その瞬間、新城がターゲットのサラリーマンに声をかけようとした。玲は人波に紛れて距離を詰める。
「ここで阻止する」
無線で奈々が指示を送る。
「玲、周囲の歩道を少し封鎖。ターゲットを安全圏に誘導して」
玲は自然な動きで人々を誘導し、新城の視界を遮る。
「朱音、隠れて!」
朱音は素早く玲の陰に身を潜め、スケッチブックを抱きしめる。
新城は焦る素振りを見せ、ターゲットに近づこうとするが、玲の影が前に立ちはだかる。
「新城、これ以上は無駄だ」玲の声は低く、静かに威圧感を帯びている。
氷室も一歩前に出て、周囲を警戒しつつ新城の動きを封じた。
「接触は許さない。狙いを外せ」氷室の低い声が人混みに響く。
新城は一瞬躊躇した。玲はすかさず距離を詰め、ターゲットに手を触れさせないよう身体で制する。
「もう逃げられない。朱音ちゃんも無事だ」
朱音は少し顔を出し、玲にしがみつきながら安心した声を上げた。
「玲お兄ちゃん……ありがとう」
奈々が端末で周囲の状況を確認し、無線で連携する。
「残りの人混みは安全です。ターゲットを誘導、追跡者を分断します」
玲は朱音を抱きかかえ、新城と氷室の間に立ったまま、冷静に新城を見据える。
「これ以上は終わらせよう。無駄な争いは必要ない」
新城は一瞬の動揺を見せたが、冷静に背後の逃走経路を探す。しかし氷室の視線と玲の距離管理により、身動きが制限されていた。
朱音の小さな手が玲の首に回る。
「玲お兄ちゃん、守ってくれてるんだね」
玲は微かに微笑み、彼女の頭を優しく撫でる。
「そうだ、あかね……じゃなく、朱音。もう安全だ」
無線から奈々の声が届く。
「全て完了。新城の追跡は終了、ターゲットも無事保護」
玲は一息つき、街の喧騒と落ち葉が舞う商店街を見渡した。秋の夕暮れが、緊迫した戦いの終わりを静かに告げる。
朱音は安心した笑顔で玲に寄り添い、玲も穏やかに彼女を抱きしめる。
街の冷たい風の中で、守るべき者を守り抜いた戦いは、静かに幕を下ろした。
【日時】2025年11月12日 午後5時30分
【場所】新都心駅前・カフェ「リヴェール」
テーブルを挟んで、氷室隼と御子柴理央が向かい合っていた。
氷室は黒いジャケットの襟を立て、冷たい灰色の瞳を理央に向ける。理央は端末を手にしながら、落ち着いた声で話す。
「氷室、君の行動は逐一監視されている。無駄な抵抗はやめろ」
氷室は軽く笑みを浮かべる。
「監視されているのは、こっちも同じだ。君の動きも見ている」
理央は手元の端末で、朱音やターゲットの位置を確認しつつ続ける。
「ここで何か起こせば、ターゲットに危害が及ぶ。冷静になれ」
氷室は視線を周囲に泳がせ、店内の客や人通りを確認する。
「わかっている。だが、状況は変わる可能性もある」
理央は静かに頷き、さらに一歩距離を詰める。
「その可能性を減らすために、君と直接話している。ここで決着をつけよう」
テーブル越しに二人の緊張が張り詰める。秋の夕暮れが窓から差し込み、揺れるカップの水面が二人の静かな対峙を映す。
「……動くなら、今だな」氷室が低く呟く。
理央も身を乗り出し、端末の画面を氷室に見せる。
「朱音ちゃんも、ターゲットも無事。君の手は届かない」
氷室は僅かに息を吐き、視線を逸らす。
「……理解した」
カフェの静寂の中で、二人の睨み合いは短く、しかし鋭い緊張感を残したまま幕を下ろした。
【日時】過去・玲16歳、御子柴理央17歳の頃
【場所】都内某病院・病室
病室の薄暗い光の中、御子柴理央はベッドに座り、うつむいたまま膝を抱えていた。17歳の少女の肩は細く、背中にはどこか儚げな緊張が張り付いている。
「お母さんが…全財産を預けたの。大丈夫って、信じてたのに…」
声はかすれ、涙は頬を伝わって落ちる。隣の病室のカーテン越し、当時16歳の玲も同じ病院に入院していた。体調は優れず、ベッドに横たわる玲の視線は、薄暗いカーテンの隙間から理央を静かに見守る。
しばらく沈黙が続いた後、理央は小さく声をかけた。
「……あなたもここにいるのね」
玲は微かにうなずき、ぎこちない笑みを返す。
「うん、体調悪くて…でも、君のこと、少し見てた」
理央は驚き、そして少し笑みを返した。初めて交わす言葉。二人の間に、静かだが確かな心のつながりが芽生える瞬間だった。
「ねえ、いつか…一緒に仕事できたらいいな」
理央の言葉は、弱々しくも、確かな決意を帯びていた。
玲は目を細め、頷く。
「うん、約束だ。必ず一緒にやろう」
窓の外、雨音が静かに響く夜。病室に灯る小さな明かりの下、二人は互いの存在を確認し、未来への小さな希望を胸に抱いた。
【現在 午後4時12分/新都心 第三金融ビル・屋上監視ポイント】
秋の風が、都会の高層ビルの谷間を吹き抜けていく。
灰色の空の下、玲は無線機を耳に当て、視線を鋭く通りへと向けていた。
歩道をゆっくりと進む新城慶の姿が、群衆の中に見え隠れしている。
「ターゲット、新城を確認。通行人との接触はまだだな」
無線の向こうから、落ち着いた声が返ってきた。
だがその声は低く穏やかで、わずかに柔らかい響きを帯びていた。
『了解。こちら御子柴。追跡ドローン、信号安定。映像、ノイズなし。……ただし、二人目がいる。氷室隼だ。』
玲の眉が僅かに動く。
「氷室……やはり同じ線上か。」
屋上の反対側、御子柴理央はノートPCを膝に置き、ヘッドセット越しに玲の声を聞いていた。
黒のシャツにライトグレーのジャケット。長めの前髪が風に揺れ、その横顔にはどこか静かな憂いが滲んでいる。
「玲、映像転送する。氷室は護衛ではなく、監視側だ。……むしろ、新城を“利用している”ように見える。」
玲は短く息をつき、
「なるほどな。取引の裏を取るつもりか」
と呟き、視線を遠くに向けた。
御子柴の指先は軽やかにキーボードを叩き、画面に新城の動線と氷室の位置関係が次々と表示されていく。
その正確さと速度に、玲はわずかに目を細める。
「……やはりお前の補佐は頼りになるな」
御子柴はふっと小さく笑い、少し照れたように肩をすくめた。
「褒められても、別に嬉しくないですよ。ただ……こうして肩を並べて動けるのは、悪くないですけどね。」
玲の口元にわずかな笑みが浮かぶ。
「十年前、病室で言った約束。ようやく果たせたな。」
御子柴の手が一瞬止まり、穏やかな声で応じた。
「ええ。あのときの俺たちは、ただの子供でした。でも――今は、“本気で追う側”です。」
玲は無線の音量を少し上げ、風に翻るコートの裾を押さえた。
「……行くぞ。新城が動いた。氷室も同行している。捕捉ルートBで迎え撃つ。」
『了解。現場データ、リアルタイムで送ります。玲、くれぐれも無茶はしないでください。』
玲は小さく息を漏らし、
「お前に言われるとはな、昔は口調も女子っぽかったからな」
「ふん、昔はな」
と微笑みながら、街の喧騒の中へと姿を消した。
屋上に残された御子柴の端末には、解析データの波形と共に、玲の現在位置が点滅していた。
そして彼は、風に吹かれながら静かに呟く。
「……もう二度と、誰も奪わせない。」
【午後6時42分/新都心 第三区倉庫群・第7棟内部】
薄暗い倉庫の天井から、ひび割れた蛍光灯がわずかに明滅していた。
湿った空気の中に、油と埃の匂いが重く沈む。
コンテナの影に身を潜めていた玲は、無線のイヤーピースに触れながら低く呟いた。
「……位置、確認できた。中央コンテナ付近に二人。新城と氷室だ。」
御子柴の声が、わずかなノイズ混じりに返ってくる。
『ドローン映像、視認完了。……取引のデータ端末を渡すタイミングです。玲、いけますか?』
玲はゆっくりと立ち上がり、足音を殺して前へ進む。
薄明かりの中、コンテナの隙間から見える二人の男。
一人は、スーツ姿の新城慶。緊張に喉を鳴らしながら、封筒を両手で抱えている。
もう一人――氷室隼。
黒いコートの襟を立て、冷ややかな微笑を浮かべたまま封筒を受け取ろうとしていた。
「これで……約束は果たした。俺の身の安全は――」
新城の言葉を、氷室が遮るように低く笑う。
「安全? お前は使い捨ての駒だ。……約束なんて、最初から存在しない。」
その言葉が落ちた瞬間、玲はコンテナの影から姿を現した。
一歩。
鋭く、確信を持った足取りで、暗がりの中から現れる。
「氷室隼――いや、“清水悠太”。これで詰みだ。」
氷室の表情が一瞬だけ凍る。
次の瞬間、彼の手が懐に伸び――だが、それより早く玲の手が動いた。
金属音。床に転がる黒い拳銃。
玲の動きは一切の無駄がなかった。
「お前の名前も、経歴も、全部調べた。旧金融庁データ管理局の元職員。
不正アクセスでデータを改ざんし、“投資詐欺”を裏で操っていた張本人だ。」
氷室は目を細め、冷たく笑った。
「……なるほど。御子柴理央の仕業か。」
玲は無言で答えず、ただ無線に指先で合図を送る。
瞬間、倉庫の天井に取り付けられた非常灯が一斉に点灯。
明るみに照らされた空間に、複数の警察官と影班の面々が突入した。
「警視庁・特別捜査班! 全員その場で動くな!」
新城は驚愕に目を見開き、氷室はゆっくりと両手を上げた。
しかし、その瞳の奥には、まだ何かを計算するような光が残っている。
御子柴の声が無線から届く。
『玲、確保班が到着まであと2分。氷室のデバイス、起動サイン検知。気をつけてください。』
玲は素早く前へ出て、氷室の手首を掴み、力強く押さえつけた。
「悪あがきはやめろ。お前のコードはすべて解析済みだ。“Ω-レムナント”もな。」
氷室の顔に初めて、わずかな焦りが走る。
「……あのデータを、どこで――」
「九条凛からだ。お前を泳がせたのも、あの人の判断だ。」
沈黙。
その言葉が落ちた瞬間、氷室の表情から笑みが完全に消えた。
玲は静かに告げる。
「終わりだ、清水悠太。お前の計算は、ここで途切れる。」
外ではサイレンが鳴り響き、雨が屋根を叩き始めていた。
光と音の交錯の中、玲の影がゆっくりと氷室の前に立つ。
その背中には、冷徹な覚悟と、譲れない信念が滲んでいた。
【午後7時03分/倉庫外・仮設医療テント前】
外の空気は、雨と冷気を含んで重たかった。
救急車の回転灯が、濡れたアスファルトを赤く照らしている。
朱音はブランケットを肩に掛けられ、無言でその光景を見つめていた。
その隣に、御子柴理央が静かに腰を下ろす。
彼は何も言わず、ただ朱音の手に温かい缶ココアを差し出した。
朱音は戸惑いながらも受け取り、視線を彼に向ける。
「……あの人、捕まったの?」
「氷室隼。ええ、もう逃げられません。」
御子柴の声は、氷のように冷静だった。だが、その奥に沈むものは、朱音にもわかった。
テントの向こう側では、玲が警察官と共に氷室の身柄を確認していた。
手錠をかけられた氷室は、なおも薄い笑みを浮かべ、玲に目を向ける。
「……まさか、お前がここまで仕組むとはな。九条も、御子柴も――俺の読み違いだ。」
玲は淡々と答える。
「お前の“読み”は、人の痛みを計算に入れていなかった。ただ、それだけだ。」
氷室は静かに笑い、そしてその笑みが、ゆっくりと色を失っていった。
「……あの時、俺も信じてたんだよ。
この国の仕組みが“正しく”動いてるって。
でも……正義を名乗る連中が最初に裏切った。
だから俺は、壊すしかなかったんだ。」
玲はその言葉に、わずかに眉を動かす。
「壊すことしか選べなかったのか? 救うことも、守ることもできたはずだ。」
氷室はうつむき、短く息を吐いた。
「救う? ……救われたかったのは、俺のほうだったのかもな。」
その言葉を最後に、氷室隼――清水悠太は連行されていった。
彼の背に降る雨が、まるで過去を洗い流すように静かに落ちていく。
テントの中。
朱音は御子柴の袖を小さくつまんだ。
「ねえ……あの人、泣いてたの?」
御子柴は少しだけ視線を伏せて、答える。
「……泣いていたように、見えました。
ただ、誰のために泣いていたのか――それは、きっと本人にも分からなかった。」
朱音はそっとスケッチブックを開き、鉛筆を握る。
滲む光の中に、雨に濡れた街と、手錠を掛けられた背中の影が描かれていく。
御子柴はその絵を見つめ、静かに呟いた。
「……終わりじゃない。まだ、続きがある。」
玲がゆっくりと歩み寄り、二人の前で足を止めた。
「帰ろう。報告は済ませた。――あとは、明日からのことだ。」
朱音は小さくうなずき、ブランケットを整えながら立ち上がる。
その背に、御子柴はかすかに微笑みを浮かべた。
雨は、いつの間にか止んでいた。
街の灯が静かに瞬き、夜の空気が少しだけ柔らかくなっていた。
【午後10時12分/警視庁・特別取調室】
取調室の蛍光灯が、白く無機質な光を落としていた。
氷室隼は椅子に座りながらも、背筋をまっすぐに伸ばしていた。
その態度には、敗北を認めた者の諦めよりも、何かを見届けるような静かな意思があった。
対面には、玲と御子柴理央が並んで座っている。
壁際には瀬名透子が記録端末を構え、冷静な視線を向けていた。
玲がファイルを開き、淡々と口を開く。
「あなたが関与した金融詐欺グループは、“新城慶”を中心に全国へ拡散していた。
しかし、主犯格の一人としてあなたが得た資金の一部は、犯罪被害者支援団体の口座に流れている。これは、どういう意図だ?」
氷室はわずかに口元を歪め、低く答える。
「……贖罪だよ。奪った金で、誰かを救えば帳消しになる――そんな愚かな計算をしてた。」
御子柴がゆっくりと腕を組み、静かに視線を向ける。
「“救い”を都合よく定義するあたり、あなたらしいですね。
でも、それを許すかどうかは……被害者たちの選択です。」
氷室はしばらく沈黙したのち、ぽつりと呟いた。
「……あの時、あの病室で泣いてた少女。
俺は自分が壊したものを見た気がした。……まさか、君がその隣の部屋にいたとはな。」
玲が目を細める。
「過去は消せない。ただ、これからどう生きるかは、まだ残っている。」
氷室は静かにうなずき、手錠をかけられたまま目を閉じた。
その表情には、かすかな安堵が見えたようにも見えた。
⸻
【午後10時48分/警視庁・会議室】
取調べを終えた玲と御子柴、そして朱音は、報告書の最終確認を行っていた。
デスクの上には、「新城・氷室グループ摘発事件」と記された資料が積まれている。
奈々がモニター越しに映り、明るい声で言った。
『主要な資金ルートは全て凍結完了。被害者口座への返還処理も始まりました。玲さん、これで一区切りですね』
玲は小さく頷いた。
「よくやってくれた、奈々。――これで、ようやく被害者たちの人生が動き出す。」
朱音は隣でスケッチブックを開き、事件の関係者たちの“影”を描いていた。
ふと、彼女は鉛筆を止め、玲に尋ねた。
「玲お兄ちゃん……悪い人って、どうして悪いことをしちゃうの?」
玲は少し考えてから、穏やかな声で答えた。
「たぶんね……“誰かを守る方法”を、間違えたまま信じてしまったんだ。
でも、その間違いに気づけるなら――もう一度やり直せる。」
朱音は静かに頷き、ページを閉じた。
御子柴はその様子を見つめながら、小さく笑みを浮かべた。
「……あの頃、病室で言った通りになりましたね。
“いつか一緒に、誰かを救う仕事をしよう”って。」
玲は肩をすくめ、苦笑した。
「まさか本当に現実になるとは思わなかったけどな。」
三人の間に、ようやく穏やかな空気が戻っていた。
窓の外には、秋の夜風が街灯の光を揺らしている。
事件は終わった――しかし、それぞれの中で残った“痛み”と“希望”が、確かに息づいていた。
【午後9時03分/警視庁・特別取調室 第三室】
薄暗い室内に、低い蛍光灯の音だけが響いていた。
机を挟んで向かい合うのは、天城遼――警察内でも“供述誘導のスペシャリスト”として知られる男。
黒いスーツの襟を整えながら、彼は椅子の背に軽く体を預けていた。
その視線の先には、先ほどまで強気だった詐欺グループの元幹部が座っている。
汗ばむ手でペンを握りしめ、落ち着かない様子で視線を泳がせていた。
「……“全部話した”って言ってたな?」
天城の声は、低く、どこか抑制の効いた響きを持っていた。
男は一瞬うなずいたが、その目はわずかに逸れた。
天城はその瞬間、わずかな笑みを浮かべる。
「表情のブレ、まばたきの回数……」
天城は指で机を軽く叩きながら、淡々と続けた。
「――こいつ、まだ本題には入っていない。」
部屋の空気がわずかに重くなる。
背後でモニタリングしていた玲と御子柴理央が、無言で互いに視線を交わした。
玲が小さく呟く。
「……始まったな。天城の“誘導術”だ。」
天城はゆっくりと身を乗り出し、男の目をまっすぐに見据えた。
その瞳には、圧迫でも威嚇でもない――ただ“逃げ道を消す”ような冷徹な確信が宿っていた。
「君さ、ここに来るまでに誰かと話したろう? “言うな”って言われた。違うか?」
男の喉がかすかに動いた。
天城はさらに一歩踏み込むように声を落とす。
「いいか。君が黙っている間に、外では“氷室”が全責任をかぶる筋書きが進んでる。
……君の名前は“保険”として消える。いや、消される。」
男の肩が震えた。
わずかに歯が鳴る音が、静寂の中に響いた。
玲はその反応を見て、モニター越しに言った。
「……あと三十秒。もう一押しだ。」
天城はゆっくりと息を吐き、口調をやわらげた。
「――君のために聞いてるんだ。最後のチャンスだ。“命令系統”を話せ。
あんたが本当の黒幕を知ってる。」
男は視線を落とし、しばらく黙り込んだのち、震える声で言った。
「……“黒川”です。全部、あの人が……。」
天城の目が静かに細まる。
その瞬間、長い沈黙が破れ、取調室の空気が大きく変わった。
御子柴が低く呟いた。
「……やっぱり、天城遼は“人の嘘を剥がす男”だな。」
玲は腕を組みながら、小さく頷いた。
「――これで、全ての点が線になる。」
【時刻】2025年10月15日 深夜0時12分
【場所】警視庁・特別捜査本部・作戦室
天城はゆっくりとファイルを開け、蛍光灯の光が紙の端を白く照らした。ページをめくるたび、静かな紙擦れの音だけが部屋に残る。開かれたファイルの中には、先ほど引き出された供述調書と、黒川上層部のコミュニケーション記録、資金移動のチェーンが整然と並んでいた。
「ここだ」天城は指で一行を示す。声は低く、だが確信に満ちている。
「黒川の命令が、二系統に分かれていた痕跡。形式上は『監査指示』だが、実体は現場班の動きを混乱させるための介入だ。被告の供述は一致している――上層での指示が先にあり、その後現場で改竄が行われた。」
玲はファイルの山を押しのけ、天城の示すページに目を落とす。画面には追跡中のログと、影班が先に押さえた証拠品のデータベースが並んでいた。御子柴は端末を片手に、複数のカメラ映像と通信記録を同時に流している。
「タイムラインを合わせると、黒川がリモートで命令を出した直後に監視映像の編集が試みられている。証拠の一致率は九割を超える。」御子柴が淡々と報告する。声は柔らかいが、数字は冷徹だ。
奈々がホワイトボードに地図を貼り、指で数箇所を指し示す。
「黒川一派は拠点を三か所に分散させています。第一拠点──都内・北区の倉庫、第二拠点──郊外の隠し事務所、第三拠点──黒川の自宅兼私設オフィス。全て監視が入りました。」
沙耶は慎重に付け加える。
「証拠の押収順序を守らないと、法的に弱くなります。封鎖→挙証→押収の順を徹底。御子柴、通信遮断は君に任せる。」
御子柴はうなずき、ヘッドセットのマイクを調整した。
「了解。全通信ノードをリレーで遮断、遠隔ログは即時ミラーリング保存。逃走経路は私が塞ぎます。現場班は成瀬の指揮で動いてください。」
天城は椅子から立ち上がり、軽く肩を回す。視線は皆に向けられている。
「供述誘導は現場確保後だ。だが、ここで得た証言を活かすためには、逮捕のタイミングが重要になる。証拠が揃った瞬間に動く。遅延は許されない。」
玲が短く合図を送る。彼の声はいつもより乾いていた。
「役割確認する。成瀬、突入・制圧。奈々、法的手続きの最終確認と報告文の作成。沙耶、現場の痕跡保全と鑑識の統括。御子柴、通信遮断とデータ確保。天城、現場での即時取り調べを標準化して。黒沢、影班の後方支援と連絡調整を頼む。俺は指揮の最終判断を出す。」
黒沢が拳を軽く握りしめ、小さくうなずく。
「了解。ルートD5に配置完了。脱出車両は封鎖済みだ。」
天城はファイルを閉じ、拳でテーブルを一度だけ叩いた。音は小さいが、その重さは作戦室の空気を締める。
「注意点だ」天城は一人一人の目を見て言う。
「黒川らは抵抗の可能性が高い。監視網で誰が“指示”を出しているか不明な箇所がいくつかある。万が一、上層部の別の手が動くなら即座に撤退ラインを取る。だが、撤退を選ぶ前に事実を確保する。証拠は最優先だ。」
御子柴が小さく笑みを見せる。
「私はデータを確実に取る。外堀は埋めてある。あとは、あなたが突っ込むだけですね、玲。」
玲は肩越しに夜空を見上げ、低く吐息を漏らす。窓の外、街灯が雨上がりの路面を淡く照らしている。彼は皆を見渡し、短く言った。
「行くぞ。」
無線のランプが一斉に点滅し、影班の声が順に返る。廊下の靴音が遠ざかる。天城は最後にファイルを机に押し戻し、冷たい視線で時計を見た。
0時30分。
全員の呼吸がひとつになった瞬間、作戦は始動した。
【時刻】2025年10月15日 午前1時03分
【場所】警視庁・特別捜査本部 分析室
蛍光灯の白い光が、無機質な壁と機材の銀面を照らしていた。
御子柴理央は分析卓に腰を下ろし、タブレットに映る音声波形と映像データを凝視していた。
画面の中央には、先ほど押収された「黒川上層部会議ログ」の映像が再生されている。
「……一時停止、フレーム戻して。」
彼の指が軽やかに画面を滑り、映像の一瞬が静止した。波形の一部が強調表示され、人工音声のようなノイズが可視化される。
玲が背後で腕を組み、無言のまま様子を見ていた。
「異常箇所は?」
御子柴は眉をわずかに寄せ、波形の一部を拡大する。
「ここです。通常の音声トラックの下に、もう一層の“埋め込み音”がある。周波数がずれてる……24.6キロヘルツ。人間の耳にはほとんど聞こえません。」
奈々がモニター越しに覗き込み、瞬きをする。
「つまり、データ内に隠された音声暗号?」
「ええ。波形をフィルタリングします。」
御子柴が指を動かすと、ノイズが削除され、残響の奥からくぐもった声が浮かび上がった。
『……実行は、命令系統βから。α系統は陽動だ。報告先は“C-Root”の管理者経由で処理しろ。』
部屋の空気が一瞬にして張り詰める。
玲がゆっくりと息を吐き、タブレットを見下ろした。
「……二重命令の証拠か。」
御子柴は頷き、指でさらに映像のタイムコードを進める。
映像内では黒川が電話を耳に当て、低く何かを話していた。だが、その直後、音声には一瞬の“切れ”がある。
「この無音。録音装置の自動停止じゃない。外部から“音声遮断信号”を入れられています。つまり、通信傍受を防ぐための指示だ。」
奈々が険しい表情で呟く。
「自分たちの命令が不正だと、最初から分かっていたのね……」
御子柴は軽く頷き、データ解析用の画面を切り替えた。
波形の裏に潜むノイズから、さらに別のデータ構造が浮かび上がる。
「追加で、音声の裏に小さなデジタルタグが埋め込まれています。識別コード……“Ω-File/Segment-03”。玲、これ、以前のレムナントファイルの構成と一致します。」
玲の目がわずかに細くなる。
「Ωファイル……つまり、倉庫事件の記録とも繋がっている。」
御子柴は静かにタブレットを回転させ、玲に差し出した。
「この波形、誰かが“監査官側”から残したものです。意図的に削除されないよう隠された“内部告発データ”。」
玲は一瞬、目を閉じ、深く息を吸った。
「……九条凛か。」
御子柴が穏やかに頷いた。
「彼女の署名タグがここに。内部監査官のアクセスコード。つまり、味方だ。」
奈々が息を呑み、玲を見つめる。
「じゃあ、凛さんが潜入してた理由も、全部……」
玲は立ち上がり、タブレットを手に取った。
「このデータがあれば、黒川上層部の“実行命令”そのものを証拠として押さえられる。
……全員、準備を整えろ。これが最後の駒だ。」
御子柴はモニターを切り替え、波形データを暗号化保存に回す。
画面の片隅に、「Ω-FILE/音声再構成完了」の文字が点灯する。
静かな電子音が響く中、玲は振り返り、低く告げた。
「――これで、終わらせる。」
【時刻】2025年10月15日 午前2時47分
【場所】都内某所・第七監視ポイント(廃ビル屋上)
冷たい夜風が、ビルの縁に置かれたパラボラアンテナを揺らしていた。
成瀬由宇は黒の戦闘服のフードを深くかぶり、片膝をついて無線端末を操作している。
視界の先には、霞む街灯の光と、警察庁特別捜査本部が入る建物の屋上が見えた。
無線が短く鳴り、玲の低い声が響く。
『こちら玲。Ωファイルの裏コードが確認された。黒川上層部の動きは予想通り、β系統経由で逃走準備をしている。由宇、監視ルートは?』
成瀬は双眼鏡を目元に当て、夜の闇に沈む通りをじっと見据えた。
「……ターゲットの車両、識別ナンバー一致。黒川の護衛チームがビル裏に配置されています。人員は4、うち2名が外部契約の警備。銃器所持の可能性あり。」
『警察突入班が五分後に現着する。時間差で動くな。』
由宇は短く息を整え、静かに答える。
「了解。こちら“影一号”、監視を継続。接触前に遮断線を展開する。」
無線の向こうで、御子柴の声が重なる。
『由宇、気象データ更新。風速が上がる。狙撃視界が乱れるぞ、位置を三メートル左へずらせ。』
「了解、位置修正。」
彼は軽やかに体をずらし、屋上の縁から少し身を引いた。
風の流れが変わり、闇夜の中で遠くのサイレンが微かに響く。
玲の声が再び入る。
『黒川たちの動きが早い。目標がビル地下駐車場に移動を開始。由宇、カバーできるか?』
成瀬は双眼鏡を下ろし、腰の通信端末を軽く叩く。
「問題なし。――追跡ドローン“φ-3”、起動。」
低く唸るような電子音とともに、黒い小型ドローンが静かに浮かび上がった。
夜風に溶けるように滑空し、廃ビルから駐車場方向へと進む。
「映像送信開始。ターゲット車両、ナンバー確認――B36-07、黒川の専用車と一致。」
奈々の声が無線の奥で響く。
『映像受信良好。……由宇、すごい、完全に死角を抜けてる。』
由宇は淡々と応じた。
「これが俺の仕事だ。」
玲が短く息をつき、低く告げる。
『よし。全班、最終段階に入る。由宇、そのまま監視を継続――合図が出たら、即座に“閉じろ”。』
無線の奥で一瞬の沈黙。
夜風の音だけが響く中、成瀬は静かにマイクに口を寄せた。
「――了解。
“影一号”、ターゲットの行動を完全監視下に置く。
……黒川、もう逃げ場はない。」
彼の視線の先、駐車場の暗がりにゆっくりと光が点いた。
次の瞬間、遠くのサイレンが一斉に鳴り響き、夜の街が戦慄に包まれた――。
【時刻】2025年10月15日 午前3時12分
【場所】警察庁地下・特別聴取区画 第3防音室
密やかに仕切られたその部屋は、まるで音そのものが封じられたかのような静寂に包まれていた。
厚い鋼鉄扉の内側、壁一面に取り付けられた吸音パネルが灰色の光を鈍く反射している。
机の上には、わずかに開かれたファイルと、録音装置の赤いランプが静かに点滅していた。
天城遼は椅子に腰を下ろし、指先でペンを軽く転がした。
その向かいには、拘束を解かれた黒川が無言で座っている。
彼の表情には疲労と苛立ち、そしてどこか諦念にも似た色が浮かんでいた。
「……ずいぶん静かな部屋ですね。」
黒川が皮肉を込めて言うと、天城は口元だけで笑った。
「静かな方が、嘘が響く音がよく聞こえる。」
その言葉に、黒川の眉がぴくりと動く。
天城はファイルを開き、ページをめくりながら淡々と続けた。
「あなたの供述は、いまのところ“部下が独断で動いた”という一点に終始している。
しかし、“Ωファイル”の解析結果では、あなたの決裁コードが複数回使用されている。」
「……知らないな。部下が勝手に使ったんだろう。」
「勝手に?」
天城は静かに顔を上げた。
目の奥の光は、冷たい観察者のものだった。
「では――なぜ、その“勝手に使われたコード”が、あなたの個人端末の内部メモリから復元されたんです?」
一瞬、室内の空気が変わる。
黒川の喉が微かに動き、彼は視線を逸らした。
天城はペンを机に置き、ゆっくりと身を乗り出した。
「あなたは、命令を出した。“記録を抹消しろ”と。
だが部下の一人――九条凛が、命令を二重記録していた。
そのもう一層に、あなた自身の音声ログが残っていた。」
黒川の目が見開かれた。
「……九条、だと?」
「そうだ。」
天城は微かに笑った。
「彼女は潜入捜査官だった。あなたの命令を、最初から“記録するために”動いていた。」
沈黙。
わずかな空調音が部屋の中をかすめる。
天城は立ち上がり、黒川の背後に回ると、小さく囁いた。
「逃げ場はない。
あなたが“消した”と思っていた証拠は、今この瞬間――玲たちの手の中にある。」
黒川はゆっくりと息を吐いた。
「……勝てると思っているのか、あの若造たちが。」
天城は無表情のまま扉の方へ歩き出した。
「勝ち負けじゃない。
――真実は、誰かが守ってきた。あの子たちは、それを繋いでいるだけだ。」
扉が閉まり、重い錠の音が響いた瞬間、録音装置の赤いランプがゆっくりと消えた。
その無音の中で、黒川は初めて、小さく笑いを漏らした。
だがその笑いには、もう勝者の響きはなかった。
服部宗真──漆黒の羽織が歩みに合わせて揺れ、鋭い視線が空間全体を制圧する。
【時刻】2025年10月16日 午後5時35分
【場所】都内・霞ヶ関近郊の高級料亭「桜風亭」個室
宗真の漆黒の羽織が、静かな足音とともに畳の上でかすかに揺れる。
一歩、一歩。無駄のない動作で柾倉の前へと近づいていく。
柾倉は肩に力を入れ、目を細めて宗真を睨む。
「……動くな」
低く警告の声を発するも、宗真の動きは止まらない。
玲の声が、頭の中で冷静に響く。
『排除命令を優先。対象の行動を封じろ』
宗真の右手が、羽織の下で確実に短刀を握り込む。
その指先に力が入り、刃先が微かに光を反射する。
「柾倉……私の手で終わらせる。」
低く、しかし確実に響く声。
その瞬間、室内の空気が鋭利に張り詰める。
柾倉は一歩後ずさり、背中の障子にかすかに影を落とす。
宗真は無駄な動きを一切せず、相手の呼吸と微細な体の動きを読み取る。
畳の上の沈黙が、二人の緊迫した駆け引きをさらに際立たせる。
外の秋風が竹林を揺らす音も、室内では刃先の気配に飲み込まれ、時間が一瞬止まったかのように感じられた。
【時刻】2025年10月16日 午後5時37分
【場所】都内・霞ヶ関近郊の高級料亭「桜風亭」個室
宗真の声が、低く響く。畳に反射する言葉は、室内の空気を凍り付かせた。
「──玲殿から命を受けた。我ら“服部”は、粛清のために存在する。この場において貴様は、“拘束”の対象ではない。“排除命”に変更された。」
柾倉の目が一瞬大きく見開かれる。手元の扇を握り締める指に力が入り、肩に微かな緊張が走る。
「……なっ、何だと?」
言葉にかすかな震えが混じる。
宗真は冷静に、一歩前へ進む。羽織の影が畳に長く伸び、視界の端で揺れる。
「言ったはずだ。無駄な抵抗は許されぬ。ここで終わるべきだと」
柾倉の視線が左右をさまよい、逃げ道を探すが、室内の配置と宗真の鋭い間合いがそれを許さない。
宗真は刃先をわずかに傾け、次の動きに備える。
「動くな……さもなくば──」
畳の上の沈黙が、一層重く、張り詰める。外の秋風のざわめきすら、今は二人の駆け引きに飲み込まれていた。
その一言が終わると同時に、影班のメンバーが瞬時に動き出した。
成瀬由宇は静かに羽織の裾を掴み、宗真の視界の死角に滑り込む。
桐野詩乃は床に伏せ、暗視ゴーグルで周囲の微細な動きを監視。
安斎柾貴は拳を握り、呼吸を整えながら宗真への最短接近ルートを確保する。
宗真は一瞬目を細めるも、その瞬間を狙うように影班が同時に襲撃の構えを見せた。
緊張が極まる中、空気は張り詰め、時間の流れが遅くなるように感じられる。
玲は冷静に無線で指示を飛ばす。
「全員、ターゲット優先。排除命令は確認済み。慎重に、だが迷うな」
沙耶は朱音のそばで静かに頷き、目を閉じて呼吸を整える。
「大丈夫……玲と影班がいるわ」
その瞬間、宗真と影班の間に、静かだが確実な攻防が始まった。
羽織が揺れ、影が交錯し、暗闇に微かな金属音が響く。
まさに一瞬の判断と反応が生死を分ける、戦慄の瞬間だった。
玲たちは深く息をつき、緊張の余韻を残したまま静かに立ち上がった。
玲は一歩前に出て、宗真に向かい軽く一礼する。
「今回の件、感謝する」
宗真もまた冷静に頷き、瞳にわずかに光を宿した。
「──玲殿、影班。今回の任務、見届けた」
奈々や沙耶もそれぞれ礼を返す。
朱音は少し緊張した面持ちで、しかし安心した様子で玲の手を握った。
そして、玲たちは再び歩き出す。
無言のまま、しかし確かな意思を胸に、影班とともに現場を後にした。
静寂の中、残された緊張の余波だけが、微かに揺れる夜の空気に溶けていった。
【日時】2025年11月20日 午後6時46分
【場所】都内・霞ヶ関近郊・高級料亭「桜風亭」個室
その瞬間、柾倉は素早く内ポケットから小型の装置を取り出し、指先でスイッチに触れた。端末がかすかに光り、微かな電子音が部屋に響く。玲は即座に状況を察知し、低く息を吐きながら奈々と沙耶に指示を送る。
「動くぞ、気を抜くな」
沙耶が手を握りしめ、椅子から立ち上がる。奈々は端末を素早く操作し、装置の信号を解析し始めた。室内の空気が一瞬で張り詰め、緊張の糸がさらに硬くなる。
御子柴理央は静かに一歩踏み出し、端末を睨みつける柾倉を鋭い眼差しで捉えた。
「そこで止まれ──何をしようとしている」
柾倉の指先が微かに震える。玲はすぐ後ろで状況を見守りながら、低く指示を出す。
「沙耶、奈々、柾倉の手元を押さえろ。無駄な動きは許すな」
御子柴の存在が柾倉に重くのしかかる。部屋全体に、緊迫した静寂が漂った。
玲の声は低く、しかし部屋全体に鋭く響いた。
「消せ。」
その一言を受け、沙耶と奈々が同時に柾倉の手元を制圧する。御子柴理央は端末の画面に目を走らせ、装置の作動を寸前で止めた。
柾倉は一瞬、口を開きかけるが、御子柴の鋭い視線に押され、黙り込む。
玲は冷静に周囲を見渡し、続けて低く指示した。
「全て確保。証拠は漏らすな。」
個室の中に張り詰めた緊張感が、わずかに解けるかのように流れた。
──その瞬間、柾倉翼の姿は、暗闇に溶けて消えた。
【日時】2025年11月20日 午後9時30分
【場所】都内・霞ヶ関近郊 高級料亭「桜風亭」個室
残響すら残さず、柾倉翼の存在は完全に掻き消えた。
それは物理的な消失ではなく、“記録”そのものの抹消だった。
端末に映るデータも通信ログも、彼の痕跡は一切残っていない。
玲は静かに息をつき、窓の外の夜景を見渡した。
「……これで、奴は完全に存在しなかったことになる。」
沙耶と奈々も黙して頷き、御子柴理央は手元のタブレットを確認しながら淡々と呟いた。
「情報の全抹消……組織の手は想像以上に徹底している。」
その瞬間、部屋には異様な静寂が広がり、柾倉の“存在消滅”を象徴するかのように、夜の霞ヶ関の灯りだけが淡く揺れていた。
【日時】2025年11月21日 午後8時15分
【場所】都内・玲探偵事務所・解析室
「……朱音の描いた絵にあった“黒い車”と同じタイミングで映っていた。」
水無瀬透が壁際から口を開いた。
玲は画面に映る映像を凝視し、指先で静かにタイムラインをなぞる。
「つまり、あかねの直感──いや、絵に残された情報が、現場の微細な証拠と完全に符合しているということか」
奈々が隣で端末を操作しながら、低く息をついた。
「朱音の観察力、やはり侮れない……」
沙耶は窓の外の夜景を見つめ、静かに言う。
「子どもの目は、私たちが見落とすものをちゃんと拾ってるのね」
透は小さく頷き、解析結果のスクリーンを皆に差し出した。
「これで、黒い車の動線も正確に割り出せます。現場班との連携も容易になるでしょう」
玲は深く息をつき、穏やかだが決然とした声で告げた。
「朱音の目と記憶を信じ、事実を積み上げる。それが、今回の事件を解明する鍵だ」
解析室には、静かな緊張感と確かな希望が同時に漂っていた。
【日時】2025年11月22日 午後10時05分
【場所】都内郊外・林道沿い
黒い車両のエンジン音が、わずかな湿気を含んだ空気を震わせる。
玲は木陰に身を潜め、息を殺して車の動きを追った。
「……進入経路は、ここから林道沿いに曲がる」
無線越しに黒沢が報告する。
「ターゲットが動き始めた模様。朱音の絵と一致する位置です」
奈々は端末で車両のGPS情報と映像を同期させ、画面に指を走らせた。
「速度、停車ポイント、進行方向……完全に追跡可能です」
玲は低く呟く。
「朱音の観察力が、今回も我々を正しい線に導いてくれる……」
林道の曲がり角に差し掛かる黒い車両の影を、夜の闇がじっと包み込んでいた。
湿った空気の中で、緊張の静寂が林道を支配していた。
【日時】2025年11月22日 午後11時20分
【場所】都内・K部門情報解析室
蒼白のモニターが幾重にも並ぶ中、一人の青年が無言でキーボードを叩いていた。
白金色の髪を後ろに束ね、指先には一切の迷いがない。仄暗い部屋の中で、彼の瞳だけが異様なほど澄んでいる。
御影 清流は、K部門直属の「終端解析官」として、情報処理と脅威演算のエキスパートである。
その卓越したスキルは、多岐にわたる任務で発揮され、数々の難解な事件を解決へと導いてきた。
「……対象の暗号化通信を突破。アクセス経路を特定。」
彼の指先は高速で動き、モニター上の複雑なデータ列が次々に解析されていく。
壁際の大画面に、黒い車両の動線と朱音の絵から割り出された情報が同期され、緊迫した追跡マップが浮かび上がる。
「これで……追跡の精度が格段に上がる」
御影は微かに息を吐き、次のキーを打ち込む。
夜のK部門、冷気に包まれた解析室で、事件解決への最後の歯車が静かに回り始めていた。
【日時】2025年11月23日 午前2時
【場所】都内・K部門解析室
蒼白のモニターの前に座る御影 清流は、わずかに光る指先でキーボードを叩き続ける。
彼の主なスキルは次の通りである。
1.高度なデータ解析能力
膨大な情報の中からわずかな不整合や異常値を瞬時に特定することができる。暗号化された通信や改ざんされた記録も、彼の手にかかれば迅速に解読される。
2.脅威予測・演算モデル
過去のデータとリアルタイム情報を組み合わせ、犯罪者の行動パターンや次の動きを予測するモデルを構築する。これにより、未然に事件を防ぐことが可能となる。
3.サイバーセキュリティのスペシャリスト
高度なハッキング技術と防御能力を兼ね備え、サイバー犯罪者との攻防戦でも圧倒的な強さを見せる。
具体的な活躍例としては、「記憶起爆計画 N-0」の解析任務が挙げられる。
膨大な暗号化データと改ざん記録の中から、彼はわずか数時間で実行経路と影響範囲を特定。
その成果によって、未然に被害を防ぎ、事件解決への決定的な手がかりをチームにもたらしたのである。
御影は画面を見つめながら、静かに呟いた。
「……この動線と情報の齟齬、確かに繋がる。」
夜更けのK部門で、彼の解析能力が次の事件の防波堤となろうとしていた。
【日時】2025年11月23日 午前2時30分
【場所】都内・K部門解析室
蒼白のモニターが無数に並ぶ中、御影 清流は冷静な視線を画面に向けたまま、指先を絶え間なく動かす。彼の存在は、単なる解析官に留まらない――危機的状況を打破する「知の切り札」として、常に最前線で輝き続けているのだ。
「このデータの不整合……見逃さない。」
彼の声は静かだが確信に満ちている。膨大な情報の中から、犯罪者のわずかな行動パターンや通信の痕跡を瞬時に見抜く。その手腕は、チームが直面する難解な事件の突破口となる。
高度な解析能力、脅威予測モデル、サイバー防御――御影の技術と洞察力が揃うとき、どんな危機も事前に回避可能となる。まさに、情報戦の最前線で不可欠な存在だ。
画面上に浮かぶ複雑なデータを指先で操作しながら、御影は静かに呟く。
「……動きが出たな。次の行動を封じるには、このルートしかない。」
夜明け前のK部門で、彼の知力が事件解決への道筋を照らしていた。
【日時】2025年11月23日 午前3時10分
【場所】都内・K部門解析室
御影 清流の瞳が蒼白のモニターに映る波形と数値を鋭く追う。無言の空間に、彼の声だけが静かに響く。
「そのとおり。柾倉は消された。だが“柾倉の意志”は今もなお、現実を書き換えようとしている。」
指先は止まらず、暗号化された通信ログや改ざんされた記録を次々と解析する。彼の手にかかれば、過去に消されたはずの存在の痕跡すら、再び浮かび上がる。
「このまま放置すれば、次の被害者は不可避だ……。玲たちが現場に到着するまでに、ルートを封鎖する必要がある。」
冷静な判断と卓越した解析力――御影はただの解析官ではなく、情報戦における“知の切り札”として、夜のK部門で静かに、しかし確実に、事態の行方を制御していた。
【日時】2025年11月23日 午前3時15分
【場所】都内・K部門解析室
御影 清流は無線機を手に取り、低く落ち着いた声で問いかけた。
「沙耶と朱音、今どこだ?」
机上のモニターには都市部の監視カメラ映像やリアルタイム位置情報が並ぶ。彼の指が地図上を滑り、朱音と沙耶のアイコンを正確に追う。
「……朱音はまだ商店街付近、母親の沙耶もすぐ後方に。だが、このままでは接触不能の危険がある」
彼の声は冷静そのものだが、解析画面の数値が赤く点滅するたび、緊迫した空気が室内を満たしていた。
「位置を把握した。次の指示を出す。玲と連携して、二人を安全圏まで誘導する。」
御影の視線はモニターに釘付けのまま、夜の街を支配するかのように、すべての状況を把握していた。
【日時】2025年11月23日 午前3時18分
【場所】旧国営研究施設・南棟前広場
「全員、南棟へ。これは“柾倉の最後の仕掛け”だ。」
御影清流の声が無線越しに冷たく巡り、広場の暗闇を切り裂いた。雨に濡れたコンクリートが僅かに光り、影班は合図と同時に動き出す。成瀬は林縁を滑るように走り、桐野は薬剤キットを腰に手早く配置する。安斎は無言で刃を確かめ、刹那は側面の狭い通路へと回り込む。玲は地図を片手に最後の確認をし、奈々は解析端末の画面に集中する。御子柴は柾倉の装置に干渉するためのコマンドを打ち込み、羽瀬が朱音と沙耶に向けて安全ルートの音声を送信する。
時計の針が一刻一刻と進む。南棟の重い扉の向こうで、時間と記録を賭けた戦いが始まろうとしていた。
【日時】2025年11月23日 午前3時27分
【場所】旧国営研究施設・南棟・防御ブロック前
警報が金属音のように鳴り響く廊下。赤い非常灯がちらつき、影を不規則に揺らす中、朱音が守られている防御ブロックの前に、黒いコートを翻して玲が駆け込んだ。
「朱音!」
玲の声は緊張に震えつつも、的確に朱音の位置を伝える。周囲の空気は重く、危険が渦巻く。しかし、彼の視線は一点、朱音の小さな姿に定まっていた。
無線越しに御影が低く告げる。
「柾倉の残留プログラムが稼働中。タイムリミットはあと七分。装置はブロックの奥にある。」
玲は短くうなずき、手元の端末でブロック内の安全経路を確認。影班も同時に展開し、朱音の保護と装置への接近を同時進行で進める。
「絶対に守る……!」
玲の決意が、赤く点滅する警報灯の下で静かに光を放った。
【日時】2025年11月23日 午前3時29分
【場所】旧国営研究施設・南棟・防御ブロック前
朱音を守る防御ブロック前に、次々と異彩を放つ人物たちが姿を現した。
その中でひときわ異質な気配を漂わせるのは、川崎ユウタ──わずか12歳ながら「記憶の証人」と呼ばれる少年だ。
玲の横に立つユウタの瞳は、薄暗い光を反射し、しかし冷静そのもの。周囲の混乱にも動じず、彼の視線は防御ブロックの内部、朱音の位置に鋭く定まっていた。
ユウタが低く囁く。
「見える……彼女がここにいる。柾倉の残留記憶が、装置に干渉している。」
玲は頷き、ユウタの能力を最大限に活かすことを決意する。
「ユウタ、お前の目でルートを確認しろ。俺たちはその通りに動く。」
少年は小さく頷くと、目を閉じ、記憶の海へと潜るように集中し始めた。
その瞬間、防御ブロック前の空気がわずかに変わり、異様な静寂が廊下を包み込む。柾倉の最後の仕掛けが、静かに、しかし確実に動き始めていた。
【日時】2025年11月23日 午前3時31分
【場所】旧国営研究施設・南棟・防御ブロック前
朱音を守る防御ブロックの前に立つもう一人の重要人物──御子柴理央。
冷静沈着な記憶分析官である彼は、白いシャツの袖を軽くまくり上げ、タブレットを手に周囲のデータを瞬時に解析している。過去の事件記録、柾倉の行動パターン、防御ブロックの設計図──あらゆる情報が彼の前で統合され、即座に戦略へと変換される。
御子柴は低く呟いた。
「柾倉の残留意識はまだ防御ブロック内部に干渉中。玲、ユウタ、朱音の安全を最優先に動かないと。」
彼の瞳には淡い怒りが混ざりつつも、冷静さは崩れない。状況を正確に把握し、最適な行動指示を出す──御子柴の存在は、チームの“知の盾”そのものだった。
玲は御子柴に視線を送る。
「理央、データは頼む。ユウタの視覚情報と合わせて、ルートを確定する。」
御子柴は頷き、タブレット画面を指先でなぞりながら解析を加速させる。防御ブロック前の静寂が、チームの集中によって緊張感に満ちた戦場へと変わっていった。
【日時】2025年11月23日 午前3時35分
【場所】旧国営研究施設・南棟・防御ブロック前
防御ブロックを囲む照明がわずかに明滅する中、もう一人の影が姿を現した。
──水無瀬透。
深層意識探査官。
彼は、表面上の記憶ではなく「心の奥底に刻まれた真実」へと直接アクセスできる稀有な存在だった。
黒のロングジャケットのポケットに手を突っ込み、透は無言で辺りを見渡す。
冷たく澄んだ瞳が、一瞬だけ朱音の方を捉えた。
「……“残響”がまだ残っている。柾倉の意識断片が、記録層を伝って干渉してる。」
彼の言葉に、御子柴がすぐさま反応する。
「理論的には不可能だ。抹消済みの記録から干渉が起こるなんて──」
透は首を振る。
「“理論”の外にあるのが、記憶の闇だ。あいつは自分を消した瞬間、どこかに“逃がした”んだよ。意思だけを。」
玲が短く息を吐き、ユウタをかばうように前に出る。
「……つまり、柾倉はまだ“観ている”ってことか。」
透のまなざしが玲へと向く。
「観ているだけじゃない。あいつは“再起動”を狙ってる。」
防御ブロックの壁面が低く唸り、まるで意識を持つかのように赤いラインが走る。
水無瀬透はその音を聴きながら、静かにイヤーデバイスを装着した。
「玲、時間がない。俺が中に潜る。柾倉の残響を断ち切るのは……たぶん、今しかない。」
【日時】2025年11月23日 午前3時41分
【場所】旧国営研究施設・南棟・防御ブロック前
微かな足音が、コンクリートの廊下に静かに響いた。
玲が振り返ると、そこに立っていたのは、長い黒髪を後ろで束ねた女性──九条凛だった。
──心理干渉分析官。
抹消された記憶、歪んだ意識、錯綜する感情。
それらの“揺らぎ”を読み取り、精神的なバランスを制御するスペシャリスト。
彼女は落ち着いた口調で言った。
「……防御ブロック内の意識波が乱れてる。朱音ちゃんの脳波が、外部の干渉と同期し始めてる。」
御子柴が即座にモニターを確認する。
「柾倉の残響……か?」
凛はわずかにうなずいた。
「ええ。しかもこれは“直接干渉”じゃない。朱音ちゃんの感情記憶を介して、外部の意志が“扉”を開けようとしてる。」
玲の表情が鋭くなる。
「……つまり、柾倉の最後の狙いは、朱音の“心”そのものってわけか。」
凛は深く息を吸い、瞳を閉じる。
「私が入る。心理層のバランスを維持するのは、今しかない。」
透がその横に立ち、短く言った。
「意識層は俺が繋ぐ。中の“残響”を切るタイミング、誤るなよ。」
凛の唇が静かに動いた。
「大丈夫。彼女の“声”が、まだここに届いてる。」
その瞬間、防御ブロックの中で朱音のスケッチブックがゆっくりと開かれ、白紙の上に黒い線が浮かび上がった。
それはまるで、“記憶の底”から誰かが描いているようだった。
【日時】2025年11月23日 午前3時43分
【場所】旧国営研究施設・南棟・防御ブロック周辺
──その瞬間。
廊下の天井に埋め込まれた通信端末が一斉に点灯し、低い電子音が空気を震わせた。
ノイズ混じりの信号の中から、落ち着いた青年の声が響く。
「……こちら《イデアル》。全端末をリンクした。映像・音声・思考伝達、全チャンネル開放。」
御影清流──解析スペシャリスト。
仄暗い管制室の中、無数のモニターを背に、彼は静かに指を動かしていた。
白金色の髪が淡い光に照らされ、その瞳だけが異様なほど冷静に輝いている。
玲がすぐさま応じる。
「清流、南棟の心理層が崩れかけている。外部干渉のトリガーを特定できるか?」
清流の声は途切れることなく返ってきた。
「解析中……同期パターンは朱音の“感情記憶”。しかし、その発生源は施設内部じゃない。」
御子柴が息をのむ。
「まさか──“外部回線”経由?」
「いや、“消された記録”そのものだ。」
清流の指がさらに速度を増す。モニターに幾何学的なデータ波形が映し出され、青白い光が彼の顔を照らした。
「柾倉の最終コードが“記録の中”に埋め込まれていた。彼の意志は、物理的存在ではなく、情報の“構造”として残っている。
──そして、今それが朱音を媒介に現実へ干渉している。」
凛が目を細める。
「つまり、朱音ちゃんが“記憶の扉”として利用されているのね。」
「正確には、“彼女が描く記憶”が開鍵装置だ。」
清流の声が低く響く。
「玲、全員の心理波を俺の端末に統合する。これより、“干渉領域”への一時的侵入を試みる。成功すれば、柾倉の残響を完全に断てる。」
玲は深く息を吸い、仲間たちを見回した。
「……全員、清流の指示に従え。ここが、境界線だ。」
リンク音が再び鳴り響き、通信網が一つに統合される。
その瞬間、まるで空間そのものが脈動するかのように、廊下の照明が一瞬だけ明滅した。
──柾倉の“残響”と、彼らの“意志”が交錯する最前線が、今ここに生まれた。
【日時】2025年11月23日 午前3時44分
【場所】旧国営研究施設・南棟・防御ブロック前
──タイマー:残り27秒。
「……っ、カウント始まった!」奈々の声が無線越しに響く。
防御ブロックの隔壁には赤い警告灯が点滅し、天井のセンサーが異常振動を検知していた。
玲は息を整え、低く指示を飛ばす。
「清流、制御系統に侵入できるか?」
『試みている──だが、柾倉のコードは自己増殖型。消すほどに“構造”が枝分かれしていく。通常の防壁じゃ処理が追いつかない。』
御子柴が険しい顔でタブレットを操作する。
「残り27秒……記録層を“逆展開”して一時停止を狙う。玲、朱音の心理波を安定化させて。」
玲はうなずき、朱音のそばに膝をつく。少女の小さな手が震えていた。
「朱音、俺の声が聞こえるか?」
朱音がかすかにうなずく。玲の声はいつもの冷静さを保ちながらも、どこか優しい響きを帯びていた。
「いいか。お前が描いた“黒い車”──あれはもう過去の影だ。今を見ろ。俺たちはここにいる。」
──タイマー:残り19秒。
清流の声が緊張に染まる。
『干渉層、開いた。玲、今だ。朱音の心理層に“現実同期”を流し込め。』
玲は朱音の手を強く握り、短く息を吐いた。
「──戻るんだ、朱音。お前は、もう“消えた記憶”の中にはいない。」
瞬間、白光が廊下を満たし、すべての警告灯が同時に消灯した。
電子音が止み、タイマーの数字が――00:00で静止。
数秒の静寂。
『……成功だ。柾倉のコード、完全に消失。記録層、安定を確認。』
清流の声が無線に響く。
玲は朱音をしっかりと抱き留め、深く息をついた。
「終わった。柾倉の“残響”はここで消えた。」
秋の風が、崩れかけた南棟の隙間から静かに吹き抜けていく。
その風はまるで、過去の亡霊を吹き払うように冷たく澄んでいた。
【時間】2025年11月23日 午前3時46分
【場所】意識同期層(朱音の記憶共鳴領域)
⸻
──暗闇の中に、白い床だけが浮かんでいた。
玲はゆっくりと目を開けた。
空も壁もない。上下の感覚すら曖昧な空間に、ただ白い床が延々と続いている。
その中心に、朱音が立っていた。
彼女の髪が、風のないはずの空間で微かに揺れている。
玲は一歩、また一歩と近づいた。
足音は響かない。だが、確かにその距離は縮まっていく。
「……ここは?」
玲の問いに、朱音はゆっくりと振り向いた。
その瞳には恐怖も涙もなく、ただ穏やかな光が宿っていた。
「“消された記録”の残り……わたしの中に、まだ残ってた場所」
玲は息をのむ。
この空間──柾倉が遺した“Ω-コード”の残響領域。
本来なら消去とともに崩壊するはずの意識の断片が、朱音の記憶共鳴によって一時的に再構築されているのだ。
朱音は小さく微笑み、白い床にしゃがみ込む。
その指先でなぞるように描かれたのは、あの“黒い車”の輪郭。
「玲おじさん。わたし、もう怖くないよ」
玲は静かに膝をつき、朱音の肩に手を置いた。
「……そうか。強くなったな、朱音」
その瞬間、床に広がった光が波のように揺れ、二人を包み込む。
白が溶け、暗闇が少しずつ消えていく。
無線の声が遠くで響いた。
『──玲、応答を!こちら御子柴。意識リンク、解除完了!』
玲は目を閉じた。
光の中で、朱音の小さな声が最後に聞こえた。
「ありがとう。ちゃんと“見つけてくれて”」
そして、世界が現実へとゆっくり戻っていった。
【時間】2025年11月23日 午前3時52分
【場所】都内第七管区・K部門分析棟 第2意識同期室
⸻
「──玲、戻ってきて!」
凛の声が、揺らめく光の中で響いた。
その声が、深い眠りの底に落ちていた玲の意識を引き戻す。
呼吸が戻る。
硬質な空気の中で、玲は一気に息を吐き出し、上半身を起こした。
額には細かな汗。
脳波モニターの警告音が一斉に止まり、周囲の照明が通常の白光へと切り替わった。
「……ここは……?」
声を発した瞬間、隣の端末から御子柴理央が短く息をついた。
タブレットには、解析中のΩファイルから再構成されたデータ波形が映し出されている。
「おかえりなさい、玲さん。危なかったですよ……あと三十秒遅ければ、リンクは完全に断たれていました」
理央の声は冷静だが、指先はわずかに震えていた。
玲は椅子の背に手をつき、息を整えながら問う。
「朱音は……無事か?」
清流がコンソールの前から振り向く。
白金の髪が光を受け、彼の無機質な瞳に一瞬の安堵が浮かんだ。
「安定しています。脳波に一時的な同期ノイズがありましたが、今は回復傾向です」
凛が静かに歩み寄り、玲の腕に軽く触れる。
「あなたの意識、まだ残響を引きずっている。無理に思い出そうとしないで」
玲は短くうなずき、額に手を当てた。
白い床、朱音の微笑み、そして――柾倉の影。
どれも現実と幻の境界に溶け合っていた。
清流が端末に指を走らせ、モニターを切り替える。
そこには、朱音の記憶共鳴で再生された倉庫事件の映像断片が表示されていた。
「……これが、朱音ちゃんの見た“真実”だ」
映像の中で、黒い車が夜の倉庫街を走り抜け、
その後方には――確かに、“柾倉翼”の姿が映っていた。
玲はモニターを見つめたまま、低く呟いた。
「消されたはずの存在が、記録の中で蘇る……。つまり、あいつはまだ“残っている”ってことか」
凛が眉を寄せ、淡く笑う。
「ええ。記録は消せても、意志は消せない。あなたが一番よく知ってるでしょう?」
玲は無言で頷いた。
その目の奥に宿るのは、決意――
そして、再び真実へと踏み込む覚悟だった。
清流が通信ラインを開く。
「……黒沢、聞こえるか? “Ω-残留体”の所在、追跡を開始する」
玲はゆっくりと立ち上がった。
その背中に、凛の静かな声が重なる。
「玲。あなたが戻ってきてくれて、よかった」
玲は振り返らず、ただ前を見据えた。
「まだ終わってない。柾倉の影は、朱音の中だけじゃない――現実にも、残っている」
分析室の照明が再び明滅し、
緊迫した空気が再び、動き始めた。
【時間】2025年11月23日 午前4時28分
【場所】都内第七管区・K部門分析棟 第1監視管制室
⸻
「──玲さん、現場チームが動きました。」
御子柴理央の落ち着いた声が、低く静かな室内に響く。
薄暗い照明の下、モニターには複数のライブ映像が映し出されていた。
黒沢の車両カメラ、成瀬由宇のボディカメラ、そして奈々の操作するドローンの俯瞰映像。
玲は椅子に腰を下ろし、顎に指を添えながら画面を凝視していた。
「位置は?」
「目標の信号は、東京湾岸の旧貨物区画C-12。数時間前に封鎖されたエリアです。
ただし、信号は“柾倉の個人認証コード”を模したデータ――つまり、人工的な残留体の可能性があります」
御子柴はタブレットを操作し、映像を切り替えた。
波形グラフに複数のノイズが走り、それが“意図的に生成されたデータ”であることを示している。
「これは……人為的な再構成だな」
玲が低く呟くと、清流がモニターの横で短くうなずいた。
「おそらく、柾倉自身が死の直前にセットした“バックアップ”。彼の意識データの一部が、外部サーバに自動転送されている」
玲の表情が一瞬だけ曇る。
「つまり、消されたはずの柾倉が、まだ“動いている”……」
通信が一つ点滅した。黒沢の無線だ。
『こちら黒沢。現場到着。貨物ヤードは無人、ただし赤外線で異常反応を感知。──動体3、位置は北西ブロック』
玲は即座に指示を出す。
「成瀬、南側から回り込め。奈々、ドローンを上空40メートルに。センサーを“残留熱源”に切り替えろ」
『了解』
『了解、玲さん』
画面の中で、夜霧の中を走る黒い影。
成瀬の動きは静かで速く、銃を構えたまま貨物コンテナの間を滑るように進む。
奈々のドローン映像には、熱反応の残滓が小刻みに点滅していた。
御子柴が淡々と報告を続ける。
「データ波形に変動。残留体の“出力”が上昇……玲さん、まるで呼吸のように動いています」
玲はわずかに目を細めた。
「……柾倉。お前は死んでも、なお手を伸ばすか」
その瞬間、黒沢のカメラ映像が一気に乱れた。
白い閃光、そして轟音。
『……!爆発だ!コンテナ内で何かが起動した!』
「黒沢、退避しろ! 成瀬、奈々を援護!」
玲の声が鋭く響く。
御子柴は冷静さを失わず、解析を続けながら報告する。
「今の閃光、物理的爆発ではありません。高周波データパルスです──“意識干渉波”。」
清流が即座に指を走らせ、モニターの帯域を切り替えた。
「柾倉の残留体、デジタル上で自己増殖を開始……くそ、これは記録汚染だ!」
玲の拳が机を叩く音が響く。
「……あいつ、本気で世界を巻き込む気か」
モニターには、赤く脈動するコードの塊。
それはまるで、生き物のようにデータを侵食していく。
御子柴が声を低くした。
「玲さん。……“あの時”と同じです。倉庫事件の記録汚染と、波形が一致しています」
玲は立ち上がり、通信を開く。
「黒沢、聞こえるか。……柾倉の“意志”が動き出した。もう逃げ場はない。全チーム、これよりΩ残留体を封鎖する」
静寂の中、玲の声だけが冷たく響く。
「これが、俺たちの最後の戦いだ。」
【時間】2025年11月23日 午前4時37分
【場所】東京湾岸・旧貨物区画C-12
⸻
──柾倉翼の記録は、正式には“抹消済”のままだ。
存在しないはずの男。その名は、あらゆる公的データベースから完全に消されている。
だが、現場にいる三人はそれを“肌で感じていた”。
確かに、そこに“何か”がいると。
湿気を含んだ冷たい風が、鉄錆の匂いを運んでくる。
無数のコンテナが積み上げられた無人のヤード。
その隙間を縫うように、黒沢・成瀬・奈々の三人が展開していた。
「黒沢、南側クリア。残留信号、北東に集中してる」
奈々の声が通信に響く。
手元の端末では、データ波形が生き物のように脈動していた。
それは電磁的な“痕跡”──柾倉の残留体が放つ干渉波。
『了解、奈々。成瀬、北ルートを塞げ。パルス遮断フィールドを展開する』
黒沢の声は低く落ち着いているが、背後では風がうねり、静電気が空気を裂いていた。
成瀬由宇は応答もなく動いた。
黒いコートの裾を翻しながら、足音を一つも立てずにコンテナの影に消える。
手にした携行装置を地面に突き立て、スイッチを入れた瞬間──
無数の光が走った。
電磁遮断フィールドが半径二十メートルを包み込み、空気が震える。
「フィールド展開完了。玲さん、ここからは逃げられません」
御子柴の声が管制室から届く。
その直後、奈々のドローン映像に異常な熱反応が映り込んだ。
「……出た」
コンテナの影。
空間が“揺らぐ”。
まるでノイズが実体化したような歪みが広がり、
やがて黒い残光が人の形を成した。
──柾倉翼の残留体。
顔の輪郭も定かでなく、ただ輪郭だけが煙のように漂っている。
だが、その中心にある双眸は確かに“意思”を宿していた。
『……排除対象、確認』
黒沢の声と同時に、銃口が閃いた。
だが次の瞬間、弾丸は空間の歪みに吸い込まれ、まるで弾かれたように霧散した。
「物理防御フィールド!? データ体のくせに、実体防御を再現してる……!」
奈々が舌打ちし、ドローンを急上昇させる。
「黒沢、EMPチャージを準備! 成瀬、左回りで遮断を維持!」
成瀬は即座に反応した。
携行ナイフを抜き、コンテナの鉄板に走る電子ラインを切断。
次いで、黒沢のEMPが炸裂した。
爆音と共に、青白い衝撃波が空間を貫く。
──だが。
残留体はそれすら飲み込んだ。
電磁波が波紋のように吸い込まれ、歪んだ空間の中心で“再構成”されていく。
『……無駄だよ。俺は消されない。お前たちの“記録”こそ、上書きされる。』
その声は確かに柾倉のものだった。
残留体が周囲の電波を乗っ取り、直接脳に響く幻聴のように再生されていた。
「くっ……御子柴!」
奈々が叫ぶ。
『波形解析中……! これはデータ汚染と電磁干渉の融合体です!
玲さん、時間がありません! 物理遮断だけでは抑え切れない!』
玲の声が、鋭く返る。
『黒沢、EMP全出力で再照射。成瀬、トリガーコード“Ω-04”を起動しろ。
奈々、リンク回線を一時切断──柾倉の干渉波を断ち切る!』
「了解!」
奈々の指が走り、ドローン群が一斉に信号遮断モードへ切り替わる。
黒沢の装置が赤く脈動を始め、EMP波が再び収束していく。
その瞬間、成瀬が低く呟いた。
「……終わりだ」
地面を蹴り、残留体へと突進。
ナイフの刃先から放たれた青い光が、空間の歪みに突き刺さる。
──閃光。
空気が弾け、世界が白く塗りつぶされた。
次の瞬間、すべての音が止んだ。
静寂。
残留体の輪郭が崩壊し、微かな声だけが空気に滲む。
『……記録は……消せない……』
そして、消えた。
風が止み、灰色の空に朝の気配が滲み始める。
黒沢が拳銃を下ろし、ヘッドセットを外した。
「……終わったか」
奈々はゆっくりと息を吐き、ドローンを回収する。
成瀬は答えず、ただ遠くの海を見ていた。
彼らの背後では、御子柴の声が静かに響いた。
『柾倉翼──記録上、依然として“抹消済”。
だが……データ残渣が、まだ生きている。完全消滅には至っていません。』
玲が小さく呟く。
「……“意志”は、まだ終わっていないか」
そして、その言葉を最後に通信は途切れた。
【時間】2025年11月23日 午前6時02分
【場所】K部門・第七分析室/佐々木家・ファミリールーム
⸻
小さなベッドの上で、朱音はスケッチブックを開いていた。
柔らかな朝の光がカーテン越しに差し込み、薄い紙面を透かして、鉛筆の軌跡がゆらゆらと浮かぶ。
その手の動きは、ただの子どものお絵描きには見えなかった。
線は途切れず、まるで何かに導かれるようにページの上を走っていく。
──黒い車。
──崩れかけた倉庫。
──そして、光の中に消える“誰かの影”。
朱音の瞳がわずかに揺れ、唇が震えた。
「……また、動いてる……この絵……」
その頃、数十キロ離れた都心・第七分析室では、
御影清流がディスプレイに向かっていた。
青白い光がその横顔を照らす。
「波形、再検出。残留体のデータコード、完全に自己増殖を始めている。
封印プロトコルを起動──御子柴、凛、同期開始」
御子柴理央が素早く応答する。
「了解。メインフレームを第4層へ切り替える。
“柾倉プロトコル”の残渣データを一括転送──対象識別コードは、消去済みの“個体情報”。」
「心理波干渉、上がります」
凛が静かに目を閉じ、精神同調モードに入る。
彼の頭部インターフェースに接続されたケーブル群が淡く光り、空間の温度がわずかに下がった。
『……記録は……消せない……』
ノイズ混じりの声が室内に響く。
柾倉翼の“残留意識”が、ネットワークを介して再び囁いていた。
「来たか」
清流が指を止め、端末上に重ねた複数のウィンドウを一つに束ねる。
演算アルゴリズム《IDEAL-FRAME》が全力稼働に入る。
「御子柴、データ層の奥行き値を確認。
“存在情報”そのものを抜き取って封じる」
御子柴が眼鏡を押し上げる。
「対象コード、深度値-7.13。……これ、単なる記録じゃない。
“自己認識”が残っている。人格断片が構成中です」
「人格再構築を許せば、柾倉は再生する。
凛、今すぐ干渉ラインを切れ!」
清流の声が鋭く響く。
だが凛は、目を閉じたまま囁いた。
「……ダメだ、今切れば、朱音の方に逆流する」
「朱音……?」
御子柴が息を呑む。
清流は一瞬で理解した。
朱音が描いている“絵”──それは、柾倉の残留体が寄生している媒介だ。
彼女が無意識に描くたび、封じられた“記憶”が形を得ようとしている。
「……繋がってる。彼女の意識と残留体が」
御子柴の指が止まる。
「なら、封印は両方向から行うしかない」
清流が頷く。
「よし、プロトコル《REQUIEM》を発動。
俺たちは“データの柩”を作る。
朱音が描く“絵”が完成した瞬間に、全てを閉じ込める」
分析室の照明が落ち、青白い光の粒が天井から降る。
三人の前に浮かぶホログラフィック画面には、膨大なデータ波形が螺旋を描いていた。
その一方で──
朱音は、ゆっくりと鉛筆を止めた。
描かれた絵の中心には、黒い車の後ろ姿。
その先に、小さな光がぽつんと浮かんでいる。
「……これ、もう終わり……?」
その瞬間、K部門の分析室で警告が鳴り響いた。
御子柴が叫ぶ。
「波形固定! 朱音ちゃんの描線と同期──封印ポイント確定!」
清流が最後のコマンドを入力する。
「──プロトコル《REQUIEM》、封印実行!」
光が弾け、無数のデータ粒子が収束していく。
空間の中心で、柾倉翼の“声”が微かに残った。
『……俺は……まだ……ここに──』
だがその言葉は、白い光の中に吸い込まれた。
──静寂。
清流は深く息を吐いた。
御子柴が、端末の表示を見つめながら呟く。
「封印、完了。……存在情報、確定的に停止」
凛が目を開け、かすかに微笑んだ。
「……朱音ちゃん、ありがとう。君の描いた光が……彼を閉じ込めた」
その瞬間、佐々木家の部屋では、朱音の描いた絵の中央に“白い羽”がひとつ、静かに舞い落ちた。
【時間】2025年11月28日 午後4時36分
【場所】山間のロッジ・裏庭
⸻
午後の陽射しはやわらかく、落ち葉が風に運ばれては、朱音の足もとに舞い落ちた。
ロッジの裏庭は、すっかり秋の色に染まっている。
遠くで川の音が微かに聞こえ、あの日の緊迫した夜が、まるで遠い昔の出来事のように思えた。
朱音はベンチに腰を下ろし、スケッチブックを膝に広げる。
白いページには、前に描いた“黒い車”の跡が残っていたが、今はその上に小さな灯の絵が重ねられていた。
──“光の向こうに、帰る道がある”──
朱音の手が、ゆっくりと鉛筆を滑らせていく。
「……ねぇ、お母さん」
背後から歩み寄る足音。
沙耶が笑みを浮かべながら、朱音の隣に座る。
「どうしたの、朱音?」
「絵を描くとね、いろんな音がするの。
木の声とか、風の声とか……このあいだまで、ちょっと怖い声も聞こえたけど、
今はもう、優しい音しか聞こえない」
沙耶はそっと朱音の頭を撫で、微笑んだ。
「大丈夫。もう全部、終わったのよ」
「うん……でもね、まだ“ありがとう”って言ってる声が、聞こえるの」
朱音は、描きかけの絵の中央を見つめながら呟いた。
──そこには、淡い光の中に、白い羽が一枚。
沙耶はその絵を静かに見つめた。
言葉はなかった。ただ、心の奥で何かがやさしくほどけていく。
ロッジの少し離れた場所では、玲が腕を組み、遠くの山を眺めていた。
その背後で、奈々と御子柴が軽く頷き合う。
「封印データの再起動は、検出されていません。完全に安定しています」
御子柴が端末を閉じながら報告する。
奈々は微笑を浮かべた。
「ようやく、一息つけるね」
玲は小さく頷き、空を見上げた。
雲の切れ間から、白い光が差し込む。
「……あの夜、確かに“終わり”は来た。だが、“記憶”は消えない」
奈々が横目で玲を見つめる。
「それでも、前に進むんでしょ?」
玲は少しだけ笑った。
「──ああ。俺たちは“記録する者”だ。たとえ、どんな真実でも」
風が吹き抜け、木々の間で朱音の笑い声が響く。
それは、長い沈黙を破るように澄んでいた。
沙耶がふと、空を見上げた。
雲の向こうで、白い羽がひとつ舞っている。
まるで“誰か”が見守っているかのように。
⸻
その羽が消えたあと、
御影清流のデスク上では、端末のディスプレイに一瞬だけノイズが走った。
【unknown_signature_detected】
──署名コード:柾倉翼/Fragment_02
だが、それに気づいた者はいなかった。
秋風が静かに流れる中、
ロッジの裏庭には、朱音の小さな笑い声と鉛筆の音だけが響いていた。
──物語は、まだ続いている。
白光のモニターが並ぶ無人のフロア。
静寂の中、端末の一つが低く電子音を鳴らした。
画面に浮かび上がった文字列は、どこか“生々しい鼓動”を帯びていた。
⸻
――記録復元個体番号:No.2843-β
氏名:柾倉 結翔
享年:8歳
備考:倉庫内爆発事故・証拠隠滅対象に含まれる。
再識別:記憶断片より確定(証人:川崎ユウタ)
⸻
ファイルが開かれるたび、画面上に断片的な映像が走る。
焦げた壁、倒れた木箱、燃える鉄骨。
その中で、小さな手が何かを掴もうとしていた。
「……まさか」
御影清流が息を呑み、指先でスキャンログを止める。
再生データのノイズが収束し、一枚の静止画像が鮮明に現れた。
そこには、朱音のスケッチに酷似した“光と影の模様”が映っていた。
「玲に報告を……いや、これはまだ……」
清流は一瞬ためらう。
彼の瞳に映るのは、誰も知らなかった“もう一人の柾倉”。
背後の記録サーバーが低く唸りを上げ、
停止していたはずの封印システムが、再び微かに動き始めた。
ログが連鎖的に開く。
【Fragment_02:認識領域再構築プロセス開始】
【トリガー・シーケンス:共鳴因子(朱音)】
【ステータス:進行中】
清流の額に冷や汗が流れた。
「……封印が、動き出してる?」
彼は迷いを断ち切るように通信端末を取り出し、
玲への緊急回線を開いた。
「玲、聞こえるか。――“柾倉結翔”。あの倉庫で消えた子供の記録が、復元された」
短い沈黙のあと、無線越しに低い声が返る。
『……確認した。すぐ向かう。清流、記録を消すな。すべての断片を保持しろ』
清流は頷き、端末を見つめ直す。
モニターの中央では、小さな子供の笑顔が一瞬だけ映り、そしてノイズに呑まれて消えた。
その最後のログに、淡く文字が残る。
――“またね、ユウタくん”
清流は固く唇を結んだ。
「……これが、“柾倉の最後の仕掛け”か」
再び電子音が響き、地下ラボの灯りが一瞬だけ点滅する。
それは、眠り続けていた“記録”が再び息を吹き返した瞬間だった。
ロッジ裏庭・夕刻
夕暮れの風が、湖面をかすかに揺らしていた。
朱音はスケッチブックを膝の上で閉じ、静かに息をつく。
そのとき、テーブルの上に置いたスマートフォンが小さく震えた。
画面に浮かんだ送信者の名を見て、朱音の指が止まる。
From:Yuito.M(送信元不明)
胸の奥が静かに締めつけられる。
震える指先で開いたメールには、ただ一行だけが記されていた。
『スケッチ、ありがとう。もう、こわくないよ。』
それだけだった。
けれど、その言葉が画面の光に溶けるように滲んで見えた。
朱音は小さく息を吸い、ゆっくりと空を見上げる。
淡い雲の切れ間から差す光が、まるで誰かの記憶が微笑むように揺れていた。




