第36話「消えた足跡」
【主要人物紹介(修正版)】
佐々木 朱音
•年齢:10歳
•佐々木圭介と沙耶の娘。明るく無邪気だが、直感が鋭く、事件解明に重要な役割を果たす。「記憶共鳴」の能力を持ち、過去の事件の断片を映像として再現できる。
佐々木 圭介
•年齢:38歳前後
•朱音の父。過去の事件の影響を受けながらも、真実を追い求める強い意志を持つ。家族を守るため、冷静な判断力で行動する。
佐々木 沙耶
•年齢:36歳前後
•朱音の母であり、家族の感情的支柱。観察力と直感に優れ、娘を支えつつ捜査にも協力する。
玲
•年齢:29歳
•男性。冷静沈着な探偵。証拠の解析や現場検証を得意とし、チームの中心として事件の真相に迫る。朱音には「玲お兄ちゃん」と呼ばれる。
橘 奈々(たちばな なな)
•年齢:28歳
•玲の助手。情報解析・データ復元に長けており、事件解明に不可欠な存在。
黒沢
•年齢:30代後半
•影班の協力者。現場捜査や情報収集を担当。玲との連携で作戦を進める。
瀬名 透子
•年齢:30代前半
•刑事。玲探偵事務所に事件の相談で訪れ、情報提供と捜査協力を行う。
三倉 由梨
•年齢:10歳
•朱音の小学校の同級生。誘拐事件の間接的な鍵を握っていた。内気で控えめな性格。
三倉 優斗
•年齢:12歳
•由梨の兄。事件後、カウンセリングを受けて心の回復に努めている。
川崎 ユウタ
•年齢:11歳前後
•消された記憶を持つ少年。過去の事件の核心に関わる重要人物。
服部 紫
•年齢:30代前半
•技術系担当。音波検知器や監視機器の管理・解析を行う。玲たちの安全確保に貢献する。
九条 凛
•年齢:30代前半
•内部監査官。事件の隠蔽や証拠改ざんの解析に関わり、玲との再会で潜入作戦を支援。
【2025年10月14日 午後11時42分】
【佐々木家ロッジ内・玲探偵事務所】
外は、秋の冷たい雨がしとしとと降り続いていた。
窓の外を打つ雨音と、壁掛け時計の針が刻む音だけが静寂を支配している。
机の上には、資料の束と未処理の報告書。その隣で、スマートフォンが淡い光を放ちながら震えた。
玲は顔を上げ、通話ボタンを押す。すぐに、焦りを含んだ瀬名透子の声が響いた。
「……玲さん、連絡が取れないんです」
玲の眉が僅かに動く。
「誰とだ?」
「朱音ちゃんです。夜の散歩に行くって言って出ていったまま、戻ってきません。
沙耶さんも心配して探しに出たんですが、まだ連絡が……」
室内の空気が一瞬にして張り詰める。
玲は机の端に置かれた懐中電灯と外套を手に取りながら、低く息を吐いた。
「何時に出た?」
「午後九時過ぎです。ロッジの裏の森の方へ……防犯カメラには、その後の姿が映っていません」
玲は一瞬、沈黙した。
窓の外に視線をやると、森の奥が闇に沈み、雨の帳がすべてを隠している。
「……わかった。すぐに現場へ向かう」
玲はスマートフォンを持ち直し、手早く操作を始めた。
「瀬名、黒沢にも連絡を。影班のバックラインを使え。位置特定のデータが必要だ」
「了解。玲さん、気をつけて」
通話が切れた瞬間、静寂が戻る。
だが、その静けさはどこか不穏で、胸の奥をざらつかせた。
玲は短く呟く。
「……朱音、どうか無事でいてくれ」
外套の襟を立て、ドアノブを握る。
冷たい金属の感触とともに、夜の雨音が一気に押し寄せた。
ロッジの灯りを背に、玲は暗い森の中へと足を踏み入れた。
【2025年10月14日 午後11時58分】
【佐々木家ロッジ裏・森林地帯】
雨脚は次第に強まり、街灯の届かない森の奥は、まるで夜そのものが形を持ったように暗かった。
濡れた土を踏みしめる音と、懐中電灯のわずかな光が、玲の進む道を照らしている。
「……足跡があるな。」
低く呟いた玲の声に、隣を歩く黒沢一誠が頷いた。
「朱音ちゃんの靴のサイズだ。踏み込みが浅い――走ってはいない。たぶん、ゆっくり歩いてたんだ。」
玲はしゃがみ込み、ライトを足跡に近づける。
雨で滲み始めているが、小さな靴跡が確かに点々と続いていた。
その先は、森のさらに奥、古びた石の橋の方へ向かっている。
「この方向は……旧倉庫跡のほうだな。」
黒沢の言葉に、玲は表情を引き締める。
「偶然じゃない。朱音が“何か”を感じたんだろう。……彼女の勘は、何度も俺たちを真実に導いた。」
二人は無言で視線を交わし、足跡を辿って進む。
雨が頬を打ち、風が木々の枝を鳴らした。
やがて、小さな開けた場所に出た。
古いベンチと、崩れかけた標識。
そしてその上に――濡れたスケッチブックが置かれていた。
玲は慎重に手に取り、ページを開く。
中には、朱音の筆跡で描かれた一枚の絵。
そこには、森の奥にある「小さな光の輪」が描かれていた。
まるで、彼女がその場所で何かを“見た”かのように。
「……これを残していったのか。」
黒沢が息を呑む。
玲はスケッチを静かに閉じ、辺りを見渡した。
耳を澄ますと、雨音の奥で――かすかな水音と足音。
玲は即座に懐中電灯を消し、黒沢に目配せする。
「……誰かいる。」
闇の中、二人は音のする方角へと身を低くして進む。
その先に、わずかな灯りが見えた。
古い物置小屋の中で、誰かが動いている。
玲は低く呟く。
「黒沢、左から回り込め。中に朱音がいるかもしれない。……慎重に行くぞ。」
雨の中、二人は静かに闇へと溶け込んだ。
【2025年10月15日 午前0時42分】
【森の奥・旧倉庫跡近くの物置小屋】
その時、玲の無線が微かにノイズを立てて鳴った。
雨の音の中に混ざるように、低く落ち着いた黒沢の声が聞こえる。
『黒沢だ。確認が取れた。佐々木朱音ちゃんの所在不明が正式に届出された。時間は0時40分。最後の目撃はロッジ裏の林道だ。』
玲は無言で頷き、短く応答する。
「了解。こちら、旧倉庫跡の物置小屋を確認中。中に何かある。」
黒沢の声が続く。
『応援班は5分後に合流する。玲、無理はするな。朱音ちゃんを最優先で確保しろ。』
「任せろ。」
玲は無線を切ると、わずかに呼吸を整え、懐中電灯を再点灯させた。
光の筋が、古びた扉をなぞる。
取っ手には新しい指紋の跡。
そして、扉の下からは薄く“光”が漏れていた。
(……誰かが中にいる)
玲はゆっくりと腰を落とし、扉の隙間に耳を寄せた。
中からは、小さな水滴が床に落ちる音。
それに混じって、何かが布を擦るような微かな動き。
玲は慎重に扉を押し開けた。
金属の蝶番が軋む音が、夜気を裂く。
中は湿気と埃の匂いに包まれていた。
壁際には古い工具と壊れた棚、床には泥の足跡――そして、その中央に。
「……朱音!」
濡れたブランケットに包まれ、朱音が小さくうずくまっていた。
彼女の頬には雨の跡が残り、震える手の中にはスケッチブックが握られている。
玲はすぐに駆け寄り、外套を脱いで彼女の肩にかけた。
「もう大丈夫だ。玲お兄ちゃんが来た。」
朱音は薄く目を開け、震える声で呟いた。
「……玲お兄ちゃん……光が、消えちゃったの……」
玲は眉を寄せ、彼女の背を優しく撫でる。
「大丈夫。もう見つけた。光も、君も。」
そのとき、背後で小さく何かが動いた。
玲が即座に身構えると、物陰から低い電子音――タブレット端末の電源音が鳴った。
「……なんだ?」
朱音が見ていた方向、棚の裏側に小型端末が置かれていた。
画面には暗号化されたデータファイル。
タイトルには、こう表示されている。
《CASE_Ω-REMNANT》
玲は目を細めた。
(……やはり、これが朱音を導いた“光”の正体か)
無線に手を伸ばし、低く報告する。
「こちら玲。朱音を保護。小型端末を発見――“オメガ・レムナント”のファイル名が確認された。」
黒沢の声が重く応える。
『了解。玲、そのデータは慎重に扱え。……それが次の“扉”だ。』
玲は静かに頷き、朱音を抱き上げた。
雨は止みかけていたが、森の空気にはまだ冷たい緊張が残っている。
(これは、まだ終わっていない)
玲は振り返らず、小屋の扉を閉めた。
外の闇が、再び彼らを包み込む。
【2025年10月15日 午前1時06分】
【森の旧倉庫跡・物置小屋前】
玲は跪き、水たまりに映る光のゆがみを指先で確かめた。
その光はただの反射ではなかった。――タブレットの画面から放たれる淡い青白い光が、夜気の中で波打っている。
雨上がりの静寂の中、かすかに電子音が鳴った。
「……起動したか」
玲はタブレットを手に取り、濡れた袖で画面を軽く拭った。
画面の中央には、黒地に白い文字。
《CASE_Ω-REMNANT》
ファイルの下には、ひとつの再生アイコンと警告文が点滅している。
【警告:このデータは“記録封鎖指定”により、上層機関の認可なしに開示できません】
【解除コード入力:……】
玲は眉をひそめ、ポケットから自らの端末を取り出した。
「……解除キーを試す。黒沢、聞こえるか?」
無線が微かにノイズを立て、黒沢の低い声が返ってくる。
『聞こえている。データは暗号層か?』
「三重暗号だ。だが……形式が妙だ。一般の公安形式じゃない。これ、影班の旧プロトコルを流用してる。」
玲は指先をすばやく動かし、コードを入力する。
画面のロックがひとつずつ解除され、ついに映像が再生された。
――ノイズ。
そして、ゆっくりと映し出されたのは、十年前の“倉庫事件”の記録映像だった。
画面の奥、監視カメラの低解像度映像に映るのは、
燃え上がる倉庫と、その手前に立つ影班の制服を着た数名の男たち。
だが、その中に――見覚えのある人物がいた。
「……待て、あれは……黒川じゃないか」
黒沢の声が無線越しに低く響く。
玲は映像を止め、拡大する。
確かに、黒川が現場にいた。
しかも、命令書を持ち、誰かに指示を出している。
「この事件、“事故”なんかじゃなかった。黒川が、指揮をとっていた……いや――」
映像の右端、さらに奥にもう一つの影。
背の高い男が黒川の背後で無言のまま見下ろしている。
その輪郭を解析ソフトが自動照合する。
――照合結果:一致率 87%。
ファイル名:「R. Kujo(九条 凛)」
玲の目が鋭く光った。
「……九条、か。上層監察の人間がなぜ現場に……?」
黒沢の声が沈黙を破る。
『玲、それはもう“内部操作”の域を超えている。――組織ぐるみだ。』
玲は小さく息を吐き、画面を閉じた。
朱音のスケッチブックをそっと見やる。
そこには、朱音が見た“夢の絵”――燃える倉庫と、黒い影が描かれていた。
「……朱音はこれを“見ていた”んだな。記憶に残ってた。十年前の、真実を。」
小屋の外では、夜明け前の風が木々を揺らしていた。
玲は立ち上がり、無線に向けて静かに告げる。
「黒沢。――これが“Ω-レムナント”。十年前に消された記録の“残響”だ。
俺たちが追ってきたすべての始まりは、ここにある。」
無線の向こうで、黒沢が短く息をのむ。
『了解だ、玲。……“倉庫事件”の再調査を開始する。上層部も、もう逃がさない。』
玲はタブレットを懐にしまい、森の方へ一歩踏み出した。
朝靄の向こう、夜が静かに終わろうとしている。
――そして、新たな真実が、再び光の中へと浮かび上がろうとしていた。
【2025年10月15日 午前2時14分】
【森の旧倉庫跡・簡易指令テント内】
雨が止み、湿った空気が肌にまとわりつく。
テントの中には、携帯端末の光だけが頼りだった。
玲は折り畳み式の机の上に古びた地図を広げ、朱音のスケッチと照らし合わせながら、指先で現場の道路と車の進行方向をなぞった。
「黒川たちの車はこの林道を通り、倉庫の裏手に入った。……だが、映像には“別ルート”から入る影も映っている」
隣で黒沢が頷く。
「九条の部隊だな。彼らは監察名目で同行していたが、実際は現場を“制御”していた可能性がある」
玲は無言で、タブレットを再起動した。
画面には再び《CASE_Ω-REMNANT》の文字が浮かび上がる。
だが今度は、その下に新たなフォルダが現れていた。
【Ω-REMNANT_sublog_09.wav】
【暗号層解除完了:隠し音声ログ】
「……音声データか」
黒沢が低く呟いた。
玲はヘッドホンを装着し、再生ボタンを押した。
ノイズが走り、やがて誰かの息遣いが混じる。
その声は――九条凛のものだった。
『……記録開始。倉庫作戦、指令番号K-27。
指揮官:黒川、監察立会:九条。
本件は“制御不能対象”の排除を目的とするが……状況が変わった。』
短い沈黙。
再び声が続く。
『対象には“少年”がいた。……コードネーム《Ω》。
記録封鎖指定が下る前に、これを残す。
彼の記憶は――ただの情報ではない。人為的に“継承された記憶”だ。
誰かが、未来のために記憶を再構築している。』
玲は拳を握りしめた。
九条の声はかすかに乱れ、何かに追われているようだった。
『……玲。もしこれを聞いているなら、次を探せ。
“Ω”の記憶は完全に消えてはいない。
残響が、きっと――“彼女”の中に残っている。』
音声が途切れ、短いノイズとともにファイルが停止した。
静寂がテントを包む。
黒沢が息を吐き、低く呟く。
「……“彼女”って、誰のことだ?」
玲は視線を落とし、机の端に置かれたスケッチブックに目をやる。
そこには、朱音が描いた一枚の絵――
“倉庫の前で誰かに手を引かれる少年”の姿があった。
玲の声がかすかに震える。
「……九条は知っていた。朱音の中に、“Ω”の記憶が残っていることを」
雷鳴が遠くで鳴り、テントの外の木々がざわめいた。
黒沢が無線を手に取り、沙耶と奈々へ連絡を取る。
『こちら黒沢。玲が“Ω-レムナント”の暗号層を解いた。
……次の調査対象は、佐々木朱音だ。』
玲は地図の上に手を置き、静かに言った。
「記憶の残響――九条が残した“最後の鍵”だ。
朱音を守りながら、真相を掴む。ここからが本当の始まりだ。」
外では風が再び吹き、夜の森が微かにざわめいた。
まるで“記憶”そのものが、玲たちの足取りを導くように。
【2025年10月15日 午前3時08分】
【森の奥・旧倉庫跡地】
夜明け前の霧が、まるで薄いヴェールのように漂っていた。
玲の腕の中で、朱音の身体が微かに震えている。
彼女の瞳は開かれたまま、焦点が遠く宙を彷徨っていた。
「朱音、聞こえるか? 玲お兄ちゃんだ。……もう大丈夫だ」
玲の声は低く落ち着いていたが、その胸の奥には確かな不安が渦巻いていた。
朱音の唇が、震えるように動く。
「……見えるの……“倉庫”……あの日の夜……」
その瞬間、朱音の周囲の空気が淡く光を帯びた。
地面の泥に水滴が落ち、そこから波紋のように光が広がっていく。
玲は息を呑み、朱音を支えながらその現象を見守った。
やがて、視界の全てが白く染まり、
玲たちはまるで別の時代──十年前の夜へと引きずり込まれる。
⸻
【2015年10月13日 午後11時42分】
【旧港湾地区・第七倉庫】
視界の中に、錆びついた鉄骨と崩れかけた壁が現れた。
爆発のような音が響き、炎が天井を舐める。
倉庫内を走り抜ける影──それは少年たち。怯え、叫び、出口を探していた。
玲は息を詰めた。
「これが……倉庫事件の“現場”……!」
その中に、見覚えのある顔があった。
柊コウキ。十年前、消息を絶った少年。
彼は燃え上がる炎の中で、別の少年を庇うように立ちはだかっていた。
「ダメだ、戻れ! こっちは崩れる!」
だが返事はなかった。
代わりに、闇の奥から男の声が響いた。
『全ユニット、撤退を優先しろ! 対象は“廃棄”だ!』
その声を聞いた瞬間、玲の表情が固まった。
「この声……影班の旧通信回線……!」
炎の向こう、黒い戦闘服の影が動く。
黒沢一誠が、少女──沙月を庇って立っていた。
通信の命令を無視し、背を向けて出口を探している。
『黒沢! 命令違反だ、戻れ!』
「くそ……命令なんか知るか! 彼女を助ける!」
その声と同時に、天井が崩れ落ちた。
玲は思わず朱音を抱きしめる。
映像の熱と衝撃が、まるで現実のように押し寄せてくる。
そして、炎の奥からもう一人の人物が現れた。
白衣のような上着、右手には黒いタブレット。
九条凛──心理干渉分析官。
彼女は記録装置を炎の中に投げ入れると、静かに呟いた。
「……これで、“Ω-レムナント”は封じられる」
次の瞬間、映像が音もなく崩れ始める。
朱音の身体がびくりと震え、玲の腕の中で息を詰めた。
「朱音!」
玲が声を上げた瞬間、視界が再び白に包まれる。
音も、光も、すべてが遠のいていった。
⸻
【2025年10月15日 午前3時11分】
【旧倉庫跡地】
玲は膝をつき、朱音をしっかりと抱きとめていた。
霧が薄れ、鳥の鳴き声が微かに聞こえ始めている。
朱音の瞳がゆっくりと玲を見上げた。
「……玲お兄ちゃん……見えたの。あの人が……全部を止めようとしてた」
玲は黙って頷いた。
「九条……やはり、彼女は記録を守ろうとしたんだな」
黒沢が歩み寄り、タブレットの残骸を拾い上げる。
その画面の奥には、朱音が見せた映像の一部がまだ残っていた。
「これが“真相”への扉……記憶の奥に残された証言だ」
玲は立ち上がり、静かに呟いた。
「倉庫事件は終わっていない。──朱音が見せてくれたのは、真実の“始まり”だ。」
【2025年10月15日 午前3時27分】
【旧倉庫跡地・臨時検証テント内】
朱音はブランケットに包まれ、震える手で温かいスープのカップを握っていた。
その目はまだ怯えの色を残しているが、意識ははっきりしていた。
玲はその隣に膝をつき、目線を合わせるように静かに問いかける。
「朱音、怖い思いをしたね。でも、少しだけ教えてくれるか?」
朱音は小さく頷き、かすれた声で話し始めた。
「知らない人が、車に乗せたの。口を塞がれて、後ろに押し込まれた……
運転してたのは、スーツの人だった。……でも、助手席にいた人……
その人の声、聞いたことある……」
玲は眉をわずかに寄せる。
「聞いたことがある?」
「うん……テレビで、ニュースの中で……“安全保障委員会の委員長”って、言ってた」
その言葉を聞いた瞬間、奈々が息を呑み、黒沢が静かに目を細めた。
「まさか……上層部の人間が直接動いたのか?」
玲は朱音の肩に手を置き、そっと安心させるように微笑んだ。
「ありがとう、朱音。もう話さなくていい。あとは俺たちが調べる」
朱音が小さく頷き、沙耶に抱かれて眠りにつくのを見届けると、玲は立ち上がった。
冷えた空気の中、彼の目はすでに戦略的な思考へと切り替わっていた。
⸻
【同日 午前4時02分】
【玲探偵事務所・地下解析室】
モニターに並ぶ複数の映像。
黒沢が持ち帰った車載カメラの断片データと、倉庫跡地から発見されたタブレットの記録──「Ω-レムナント」。
奈々が端末を操作しながら、淡々と報告する。
「解析完了。……やはり、朱音ちゃんの証言は正確です。
“倉庫事件”当夜の指揮系統には、通常の作戦ラインとは別に“もう一つの上層命令”が存在していました」
玲が腕を組む。
「二重命令、か……。十年前と同じ構造だな」
奈々は画面を切り替え、複雑に入り組んだ命令経路を投影した。
中央には、青いラインで示された“公式指令ルート”。
だがその下に、赤い経路が隠されていた。
そこに記されていた発信元のコードは──“AIC-07”。
「安全保障情報会議、第七局……」黒沢が低く呟いた。
「つまり、国家の一部が事件を動かしていたってことか」
玲は無言で頷く。
その瞳は静かだが、怒りの色を隠せなかった。
「十年前、黒沢が“命令違反”とされたのも、この二重命令のせいだ。
本当の敵は、影班でもなく、倉庫の中にいた連中でもない……」
玲は画面を指でなぞり、中央の一点を指差した。
「ここだ。“上層”──すべての命令を偽装した“司令ノード”。
発信元は……国の監査機構、特別情報審議会」
奈々が目を見開く。
「でも、そこは玲……あなたが以前所属していた……!」
玲は静かに頷いた。
「だから分かる。この構造は、内部からしか作れない。
つまり、“内部の誰か”が倉庫事件も、朱音の誘拐も、全部つないでいたんだ」
黒沢が苦く笑う。
「まさか、俺たちが追っていた敵が“国家の影”そのものだったとはな」
玲は、沈黙のまま拳を握り締めた。
指先に力が入り、僅かに震える。
「上層が腐っているなら、正面から暴くまでだ。
……もう、誰も利用されないように」
モニターの光が玲の横顔を照らす。
その眼差しは静かな炎のように揺らめきながら、
確かな覚悟を宿していた。
【2025年10月15日 午前4時38分】
【玲探偵事務所・地下解析室】
朱音の小さな声が、静まり返った部屋に響いた。
「……すごく静かだった。でも、どこかで犬の鳴き声が聞こえてた。ずっと」
玲はモニターの前で立ち止まり、その言葉を反芻した。
奈々が眉を寄せて呟く。
「犬の鳴き声……? 林道の監視エリアには、そんな音は記録されてないはず」
玲は黙って解析データの音声波形を呼び出す。
拡大された波形の隅に、微かに刻まれた異常パターン。
そこに、確かに“犬の遠吠え”と似た波形が存在していた。
「いや……これは犬じゃない」
玲は目を細め、波形をさらに拡大した。
「通信ノイズだ。コード化された同期信号──“暗号化ビーコン”だ」
奈々が息を呑む。
「……つまり、朱音ちゃんが聞いた“犬の鳴き声”は、上層の通信サイン?」
玲は静かに頷いた。
「“Ω-レムナント”が記録していた第二経路の発信元は、間違いなくこの信号と同期してる。
つまり──“二重命令”を発していた上層データサーバは、まだ動いている」
黒沢が低く唸った。
「現役か……なら証拠を奪うチャンスは今しかないな」
玲は机上の地図を広げ、赤いマーカーで一点を示す。
「発信源はここ、霞ヶ丘通信統制センター。
国家監査局の外郭機関……名目上は“防災通信施設”。
だが実際には、内部に上層指令ノード《C-Root》がある」
奈々の指が震える。
「そこに……“二重命令”の原本データが?」
玲は静かに答える。
「すべての命令記録、改ざん指令、発信者ログ。
“倉庫事件”から朱音の誘拐に至るまで、全ての裏指令が残っているはずだ」
沙耶が深く息を吐く。
「つまり……あの場所に乗り込むってことね」
玲は頷き、端末に新しいファイルを開く。
タイトルにはこう記されていた。
──【CASE_Ω-REMNANT:Phase2 奪取作戦】
【2025年10月15日 午後11時25分】
【霞ヶ丘通信統制センター・C-Root内部】
玲は黒沢と並び、暗い通路を進む。
壁面には制御ケーブルが走り、緊急用ライトがわずかに光を反射する。
足音を最小限に抑えつつ、彼らは赤く点滅する端末の前で立ち止まった。
「奈々、進行状況は?」玲の低い声が、通路に響く。
イヤーピースから奈々の冷静な声が届く。
「ファイアウォールは解除完了。アクセス権限も一時的に付与済み。後はノードに直接侵入するだけです」
玲は頷き、手元のデバイスで暗号化ログを解析しながら慎重に進む。
その瞬間、背後から静かな足音。
「……玲、まさか貴方がここに」
玲は振り返り、暗闇の中に佇む人物を確認した。
黒髪の影、鋭い眼差し──九条凛。
「凛……?」玲の声には驚きよりも、慎重な警戒が混じる。
凛はゆっくりと歩み寄る。
「あなたが二重命令の真実を追うとは……感心するわ」
その声は冷たくも、どこか複雑な響きを帯びていた。
玲は視線を外さず答える。
「九条、目的は同じだろう? 二重命令の証拠を守るのか、それとも奪うのか」
凛は軽く笑った。
「私は……守る者。あなたは奪う者。運命が違うだけ」
通路の奥から、警報ランプが赤く点滅する。
「緊急侵入者を検知──」電子音が低く響き、モニターに動体の赤点が映る。
玲は冷静に指示を出す。
「黒沢、左側を封鎖。凛との間を遮断しつつ、中央ノードへ進む」
黒沢は頷き、影のように壁沿いに移動。
凛は玲の前に立ちはだかる。
「貴方、ここで止まると思った?」
その声には軽い嘲笑が混じるが、目は真剣だ。
玲は拳を握り、短く答える。
「止まらない。真実は、誰の手にも奪わせない」
二人の間に緊張の空気が張り詰める。
凛が静かに端末を操作すると、周囲のセキュリティドアが瞬時にロックされる。
「ここが、あなたの終点……」凛の声が冷たく響く。
だが玲は微動だにせず、端末を操作してC-Rootノードへのアクセスを開始する。
「アクセス完了。奈々、ログを一括コピーする」
イヤーピース越しに奈々の声。
「了解。データ転送開始──」
凛は眉をひそめ、玲を睨む。
「……簡単には行かせない」
通路に静かな振動。警備用自動ドローンが二人を包囲する。
玲は冷静に距離を測り、短時間で戦術的に回避しながら進む。
黒沢はドローンの注意を引き、玲の前進を確保する。
「時間がない、奈々!」玲は声を上げる。
「転送完了まで、あと20秒!」奈々の声が迫る。
凛は最後の手段として電子ロックを再起動。
玲は即座に自分のデバイスで干渉し、ロックを停止させる。
一瞬の沈黙の後、モニターに赤いバーが最大値まで到達し、全てのログが玲の端末に複製された。
「──完了」玲は低く呟く。
凛は静かに一歩下がり、冷ややかな笑みを浮かべる。
「……やるわね、玲。貴方が全てを奪い去ったわ」
玲は端末を握りしめ、凛を見据える。
「これで、朱音が見たものも、倉庫事件の真実も、誰も操作できない」
凛は視線をそらし、静かに通路を後にした。
「……次は、私たちの戦いの番ね」
玲は深呼吸を一つ、暗闇の中で端末を抱きしめる。
「誰が相手でも、真実は守り抜く」
C-Root内部には静かな達成感と、しかし次の戦いを予感させる余韻が漂った。
【2025年10月15日 午後11時43分】
【霞ヶ丘通信統制センター・C-Root地下ブロック】
雨音が遠くで響いていた。
地上の嵐が、分厚いコンクリートを震わせるように低く唸っている。
玲は暗い通路を走り抜けながら、耳元のイヤーピースに指を当てた。
「奈々、データ転送は完了。出口ルートを再確認してくれ」
『了解。東側エレベータは封鎖。非常シャフトを経由するしかない。黒沢さんが先行して安全確保中』
息を整える暇もなく、玲は鋭く頷き、濡れた床を蹴った。
赤い警報灯が断続的に点滅し、電子音が絶え間なく鳴り響く。
その中で、背後から軽い靴音が追ってきた。
「……待ちなさい、玲」
玲は振り返る。
光の揺らぎの中に、九条凛が立っていた。
冷たい眼差し。しかし、その奥には一瞬だけ、微かな苦悩が覗いた。
「凛。止めるのか?」玲の声は低く、抑えた怒りを帯びていた。
凛は一歩、二歩と近づき、玲の目前で立ち止まる。
そして、ごく小さな声で――他の誰にも聞こえないように――囁いた。
「……脱走するよ。今、合図を出す。私は“監視下の潜入捜査官”。敵のふりをしているだけ」
玲の目がわずかに動く。
その言葉を理解するまで、わずか一秒。だがその一秒が永遠のように長く感じられた。
「……どういうことだ」
凛は視線を警備カメラに向けたまま、淡々と続ける。
「この施設の動き、すべて“上層”に筒抜けよ。あなたたちをここまで導くために、私はあえて敵側の立場に立った。……早く行って。すぐ追手が来る」
玲は唇を引き結び、低く呟いた。
「凛、まだ危険な立場だろう?」
「いいの。私は見張られてる。でも、あなたたちが真実を暴けば、私の役割も終わる」
凛の声は、雨音に溶けるように静かだった。
次の瞬間、凛が軽く頷いた。
天井のライトが一斉に明滅し、警報が一瞬だけ停止する。
「――今よ!」
玲は黒沢に通信を入れる。
「黒沢、出口へ走れ! ルートを凛が開けた!」
「了解!」黒沢の短い声が響く。
玲は振り返りざま、凛の肩に一言だけ残した。
「……必ず戻る。もう一度、全部を正すために」
凛はわずかに微笑む。
「あなたらしいね、玲。……走って」
玲は暗闇を突き抜け、通路を駆け抜ける。
背後では警報が再び鳴り響き、赤い光が追いすがるように点滅した。
やがて玲と黒沢は、錆びた非常シャフトの扉を開け、外の冷たい夜気へと飛び出した。
雨が顔を叩き、湿った空気が肺を満たす。
玲は振り返り、閉じかけたシャフトの隙間にかすかに見える凛の姿を見た。
彼女は警備隊に囲まれながらも、静かに背を向けた。
まるで、それが自分の“役目の終わり”だと悟っているように。
「……ありがとう、凛」玲は低く呟き、夜の雨の中へ消えた。
冷たい雨が、彼らの足跡をすぐに洗い流していった。
だがその軌跡は、確かに真実へと続いていた。
【2025年10月16日 午後2時15分】
【東京都郊外・ドッグラン付近】
小雨が上がった後の草地に、湿った空気と土の香りが漂う。
玲は黒沢と共に、車のトランクからノートパソコンと防水ケース入りのタブレットを取り出した。
「ここなら、無線の傍受も少なくて済む」玲が地図を広げ、周囲を確認する。
黒沢が足元の葉を踏みながら頷く。
「了解。警備の目も届きにくい。Ωファイルの解析、すぐに始めよう」
玲は手際よくノートパソコンを開き、持ち帰った暗号化データ「Ω-REMNANT」を展開した。
画面には、霞ヶ丘通信統制センターを経由した上層部の命令系統図が複雑に表示される。
「……これが、上層部の二重命令の全貌か」
玲は指で画面をなぞり、黒線でつながれた指令経路を確認する。
黒沢が肩越しに覗き込み、低くつぶやく。
「この二重命令……現場班を完全に混乱させるための構造だ。被害者の事故死偽装も、計画の一部だな」
玲は静かに頷き、タブレットを操作してログを再生する。
「九条が残した隠し音声ログも復元した。聞いてほしい」
イヤホンを差し込むと、薄くかすれた女性の声が流れる。
「……この指令は、表向きの命令に加え、もう一つのルートで同じ現場班に送られています。混乱を誘発し、記録の矛盾を生むためです」
玲は声を聞きながら画面のグラフをスクロールする。
「上層部の誰が、どのタイミングで指令を出したかもすべて刻まれている。黒川直属の幹部だけでなく、その上の管理層まで関与していた」
黒沢は唇をかみしめ、真剣な表情で言った。
「これが公になると、内部告発並みのインパクトだ……」
玲は一瞬、視線を遠くの林の向こうに投げる。
「だからこそ、慎重に扱う必要がある。だが、真実は隠せない。Ωファイルの情報があれば、警察や監査部門に全て提出できる」
玲はタブレットの画面を操作し、各指令経路のログを一括でPDFに変換する。
「これで、誰が何を命じ、誰が改ざんしたのか、全て明確になる」
黒沢が息を吐き、手元の無線を確認する。
「……周囲の電波も確認済み。安全に送信可能だ」
玲は深呼吸を一つして、タブレットを胸に抱く。
「……さあ、これを公に出す。全ての真実を暴くために」
雨上がりの静かなドッグラン。湿った土と草の匂いが立ち込める中、二人の背後では森が静かにざわめく。
その中で、暗号化されたファイルは、確かに真実への道を示していた。
玲は黒沢に小さく頷き、無線で連絡を入れる。
「奈々、沙耶、あかね……準備はいいか?」
無線の向こうで、奈々の声が少し緊張気味に答える。
「はい、玲。全て確認済みです」
玲は画面のΩファイルを指差し、静かに言った。
「これで、すべてが明るみに出る。隠されていた事実、消された記録、上層部の指令……全て」
黒沢は視線を前方に戻し、地面に落ちた雨粒を踏む。
「……行こう。ここからが本当の戦いだ」
雨上がりの草地に、二人の影が長く伸びる。
Ωファイルを握りしめた手に、これからの正義と責任の重さがずしりとのしかかっていた。
【2025年10月16日 午後3時05分】
【東京都郊外・ドッグラン付近】
「朱音がいない……!」
玲は車のドアを閉め、背後の森に視線を走らせた。小さな体が見当たらず、胸に焦りが押し寄せる。
黒沢が無線で確認する。
「状況は……0時40分、最後の目撃はロッジ裏の林道か……」
玲は深く息をつき、手元のΩファイルを握り直す。
「まずはファイルを安全に送信する。真実を公にしないと、上層部の陰謀が終わらない」
二人はトランクからノートパソコンを取り出し、暗号化されたΩファイルを解析用端末に接続。ログを整理し、PDF化した証拠資料とともに警察と内部監査部門へ送信を開始する。
「送信開始……これで、誰が命令し、誰が改ざんしたか、全て明らかになる」
玲の声は静かだが、その瞳には決意が宿っていた。
無線の先で奈々の声が応える。
「玲、沙耶、あかね……確認済み。全データの安全送信が完了」
玲は頷き、森の中に耳を澄ませる。雨上がりの湿った空気に、微かな風が木々の葉を揺らす音が響く。
【2025年10月16日 午後4時30分】
【東京都・第三区警察署・特別捜査室】
広々とした捜査室の中央には、大型モニターが設置され、Ωファイルの解析結果と上層部の命令系統図が映し出されていた。資料やUSB、タブレットが整然と並び、室内には静かな緊張感が漂っている。
玲は端末を操作しながら、警察官たちに説明を始める。
「これが、事故に偽装された事件の全容です。上層部の二重命令により、現場班は混乱させられ、証拠も改ざんされました」
指揮官がモニターを見つめ、眉間に皺を寄せる。
「この情報で黒川直属の上層部まで立件できるのか?」
玲は淡々と頷く。
「はい。九条凛が残した隠し音声ログには、計画の全貌が記録されています。命令の重複や改ざんの痕跡もすべて残っています」
奈々が端末のスクリーンに目を走らせる。
「データの復元も完了しているわ。削除されたメッセージや改ざん履歴もここに揃ってる」
警察官が資料を精査し、低い声でつぶやいた。
「……これで黒川とその関係者の逮捕は間違いないな」
玲は冷静にモニターを見つめたまま言う。
「あとは迅速に行動するだけです。二重命令や改ざんの証拠も添付済みですから、誰も言い逃れはできません」
室内の緊張は徐々に解けつつも、警察官たちの動きは素早く、緊迫感を失わないまま作戦準備が進められていった。
【2025年10月16日 午後5時10分】
【東京都・玲探偵事務所・本部】
重厚なドアが勢いよく開き、警察の強制捜査チームが次々と事務所内に踏み込む。制服の警官たちが整然と動き、玲、奈々、沙耶は冷静にその様子を見守る。
「黒川、手を上げろ!」
隊長の号令とともに、黒川を筆頭とする上層部の幹部たちは、驚きと焦りの表情を浮かべたまま立ち尽くす。
玲はモニターの前でデータを指さし、警官に説明する。
「これが証拠です。USB、タブレット、そしてΩファイル。改ざんや二重命令のすべてがここに記録されています」
黒川は唇を噛み、声を荒げる。
「待て……俺たちは上からの命令で動いただけだ!」
玲は冷静に応じる。
「命令だからと言って、無実にはなれない。事実は事実として裁かれるだけだ」
警察官が素早く黒川の腕を掴み、背後から拘束具をはめる。
「抵抗は無駄だ。すぐに署まで移送する」
奈々が玲の横で小声で呟く。
「玲、ついに……」
沙耶は静かに頷き、玲に視線を向ける。
「これで十年前の事件も含めて、真実がすべて表に出るわね」
玲は深く息をつき、モニターを見つめた。
「まだ終わったわけではない。だが、確実に正義は動き始めた」
警察の強制捜査チームは迅速に上層部の幹部全員を押さえ、証拠とともに署へ移送を開始する。玲探偵事務所の静寂は、勝利と緊張が入り混じった微かな余韻に包まれた。
外では報道ヘリが旋回し、街には徐々に安堵の空気が広がり始める。
【2025年10月16日 午後5時30分】
【東京都・警察署前】
玲は奈々、沙耶とともに署前に立ち、黒川を含む上層部幹部が護送車に乗せられるのを見送った。
雨に濡れたアスファルトに車列のライトが反射し、薄暗い夕暮れの空をさらに陰鬱に照らす。
奈々が小さくため息をつく。
「玲……ついに、ここまで来たのね」
玲は肩に力を入れず、淡々と車列を見つめる。
「焦らず、一つずつ証拠を積み上げてきた結果だ。これで黒川たちも、逃げられなくなる」
沙耶は腕を組み、少し険しい表情で言う。
「十年前の事件も、今回の隠蔽も、ようやく白日の下に晒される。胸がすっとするわね」
護送車の窓越しに、黒川がちらりと玲たちを見やる。悔しげに拳を握りしめたその手は、すでに拘束具で動きを制限されていた。
玲は視線をそのまま外に向け、静かに呟く。
「真実は逃げない。必ず明らかになる」
奈々が玲の腕にそっと触れる。
「玲、ありがとう……あなたがいたから、私たちはここまで来られた」
玲は小さく頷き、雨に濡れた街並みを見つめた。
「まだ安心はできない。でも、一歩ずつ、確実に正義を積み上げていく」
護送車はゆっくりと署を離れ、玲たちはしばし静かにその背中を見送った。
空には雨雲の隙間から、夕陽の柔らかな光が差し込み、長く続いた事件の幕引きを告げていた。
【2025年11月6日 午前7時】
【東京都郊外・雪の残る小道】
雪の残る小道に、小さな靴跡とそれを覆うような大人の足跡が並んでいた。
朱音の小さな足と、玲の足跡が寄り添うように雪に刻まれている。
「……あかね、冷たくないか?」
玲は手袋をはめた手で、あかねの小さな手をそっと握る。
「あったかいよ、玲お兄ちゃん」
朱音は微笑み、足跡をたどりながら歩く。静かな雪景色の中に、事件の喧騒はもう届かない。
遠くの家々では、朝の準備をする人々の足音がかすかに響く。空気は澄み渡り、雪の白さが街を柔らかく包み込んでいた。
【2025年11月6日 午前7時】
【東京都・全国紙社会面】
朝刊一面に大きく躍る見出し。
「計画的偽装事故事件、全貌解明――黒川一派逮捕、上層部関与も判明」
記事にはこう記されていた。
都心郊外で発生した“事故死”とされていた事件は、内部権力闘争に絡む計画的殺人であったことが判明。警察の強制捜査により、黒川を含む上層部の幹部は逮捕され、司法による責任追及が進行中である。
捜査協力者である玲探偵事務所は、USBやタブレットの解析、影班の情報収集により、改ざんデータや監視映像の復元を成功させ、真実を明るみに出した。
テレビのニュースでも、キャスターが淡々と事件の経緯を報じる。
画面には、逮捕された容疑者たちの車列や、警察署へ連行される黒川たちの姿が映し出されていた。
【2025年11月5日 午前10時】
【東京地方裁判所・第3法廷】
法廷内は静寂に包まれ、傍聴席には関係者や報道陣が整然と並ぶ。黒川上層部の数名は、警備に囲まれたまま法廷中央の被告席に座っていた。表情は硬く、緊張が隠せない。
裁判長の声が低く響く。
「本日より、東京都郊外における計画的偽装事故事件に関する審理を開廷する。」
検察官が立ち上がり、手元の資料を整理する。
「被告らは、内部権力闘争に絡み、影班の指揮系統を操作し、無辜の市民を巻き込む計画的殺人を行ったことが判明しています。証拠は揃っており、言い逃れは不可能です。」
USBデータ、タブレットの解析結果、監視映像、影班内部通信ログ──すべてが順序立ててスクリーンに映し出される。映像には、黒川が現場指示を行い、命令を改ざんさせていた様子が克明に記録されていた。
傍聴席で玲は静かにメモを取りながら裁判の流れを追う。隣の奈々は手を握り、朱音は「玲お兄ちゃん……」と小声でつぶやきながら、玲の肩に寄り添った。
黒川の弁護人が立ち上がる。
「被告の一部は、上層部の指示に従っただけであり、個人的な意図はなかったと主張します。」
玲は小さく眉を寄せ、資料を見つめる。
「USBのログや改ざん履歴を見る限り、個人の意思による操作も確実にある……」
法廷の後半、目撃証言と影班の証言が次々に提示され、黒川上層部の行動が明確に暴かれていく。証拠の一つ一つが、彼らの虚偽を突き崩し、真実を法廷に刻み込む。
午後2時、裁判長が静かに読み上げる。
「被告らは、計画的殺人、証拠改ざん、職権乱用の罪により、有罪と認定する。刑は懲役20年、並びに社会的資格停止とする。」
朱音は駆け寄り、声を弾ませる。
「玲お兄ちゃん、やっと正しい裁きが下ったね!」
玲は微笑み、あかねの頭をそっと撫でた。
「そうだ、あかね。これで少しは安心できる」
奈々もそっと玲の手を握り、静かに頷く。
外では報道陣が法廷の外で結果を伝え、街全体に事件終結の安堵が広がっていた。
十年前から続いた因縁は、こうして法の裁きによって清算され、真実は確かに光を取り戻した。
【2025年11月5日 午後11時20分】
【都内郊外・廃屋屋根裏】
月明かりが崩れた屋根の瓦を静かに照らしていた。風に揺れる影が天井に伸び、廃屋の内部は白銀の光と深い闇が入り混じる不思議な空間となっている。
玲は瓦の隙間から差し込む光を指先で確かめるように見つめ、低く呟いた。
「……光の角度から、ここに誰かが隠れていた痕跡が残っている」
奈々は隣でそっと身をかがめ、玲の視線の先を覗き込む。
「玲、あの影……何かの印かしら?」
沙耶が瓦の欠けた部分に手を伸ばし、慎重に触れる。
「物理的に踏まれた跡だわ。誰かが上に立った形跡がある」
玲は手元の小型ライトを取り出し、瓦の隙間を照らす。光が微かに反射し、古い紙片の端が浮かび上がった。
「これは……古い通信記録の一部。上層部の暗号化命令のコピーだ」
朱音は静かに足を止め、月明かりに照らされた瓦の影を見上げた。
「玲お兄ちゃん……ここ、誰か隠れてたの?」
玲はあかねの肩に軽く手を置き、穏やかに頷く。
「そうだ、あかね。でも、もう安全だ。僕たちが全て確認している」
風に乗って遠くから小動物の鳴き声が聞こえる。廃屋の静寂の中、玲たちは瓦の隙間に残された痕跡を慎重に調べながら、上層部の命令系統を明らかにするための解析作業を進めた。
闇の中で月光が揺れ、瓦の影と彼らの影が入り混じる。夜の冷気が肌を刺すが、玲たちは一歩一歩、隠された真実に近づいていく。
【2025年10月14日 午後11時30分】
【都内郊外・佐々木家ロッジ付近の路地】
男は肩を少し落とし、冷たい夜風に吹かれながら小さくうなずいた。
「……偶然見たニュースで、あの子の名前と顔を見て、気づいたんです。昔……俺の妹が、朱音ちゃんにいじめられてた。何年も前のことだ。だけど妹は今でも……夜、眠れない。おかしくなって……」
玲は静かに彼を見つめ、沈黙の間を置いた。
「なるほど……君の妹さんの心に影響を与えたのは、過去の関わりか」
奈々がそっと玲の腕に触れ、低く囁く。
「玲、これも調査に役立つのかしら……」
玲は頷き、夜空に目をやりながら言った。
「朱音ちゃんの行動や影響が、意図せず他者に与えた痕跡も、事件の全体像を理解するためには必要だ」
男は俯き、手をポケットに突っ込む。
「すみません……こんなことまで巻き込んでしまって」
玲は柔らかく微笑む。
「謝る必要はない。君が情報を教えてくれたおかげで、あかねの安全と過去の真相をつなげることができる」
夜の路地に、冷たい空気と微かな安心感が混じり合った。
【2025年10月14日 午後11時32分】
【都内郊外・佐々木家ロッジ付近の路地】
男はゆっくりと立ち上がり、手でフードを脱ぎ捨てた。
月明かりに照らされた顔には、緊張と覚悟の色が混ざっている。
玲は視線を上げ、静かに問いかけた。
「その情報、君自身の言葉で正確に教えてくれるか?」
男は深く息をつき、夜風に髪をなびかせながら頷く。
「はい……妹のことも、朱音ちゃんのことも……全部話します」
奈々が玲の腕にそっと触れ、低い声で囁く。
「玲……ここから先、慎重にね」
玲は頷き、男の背後に広がる闇と、遠く差し込む街灯の光を見比べた。
「わかっている。だが、この情報がなければ、あかねの過去も事件の全貌も繋がらない」
男は小さく息をつき、視線を路地の先に向ける。
「……全部、話します。どうか、あの子を守ってください」
玲は静かに頷き、夜の路地に漂う冷たい空気を感じながら、決意を新たにした。
【2025年10月14日 午後11時33分】
【都内郊外・佐々木家ロッジ付近の路地】
男はぽつりと呟いた。
「……違ったんだ。」
玲は眉をひそめ、慎重に声をかける。
「違った……とは?」
男の目には、微かな後悔と迷いが映る。
「朱音ちゃんが……あの子がやったんじゃない。俺の妹の話も、勘違いだったんだ。ずっと誤解していた……」
奈々が玲の腕に触れ、心配そうに見つめる。
「玲……」
玲は静かに一歩前に出て、男の目を真っ直ぐに見据えた。
「わかった。だが今は責めるべきじゃない。大事なのは、真実を確認することだ」
男は小さく息を吐き、力なく肩を落とす。
「……すみません、迷惑をかけました」
玲は頷き、落ち着いた声で言った。
「迷惑などない。君が正直に話してくれたことで、朱音ちゃんを守る手がかりが増えた」
路地に静寂が戻る。遠くの街灯が二人の影を長く伸ばす中、玲はふと朱音のことを思い、決意を固める。
【2025年10月16日 午前9時30分】
【佐々木家ロッジ・リビング】
朱音が無事に戻ってから数日が経った。
穏やかな朝日が差し込むリビングには、柔らかな光と静けさが満ちている。
朱音はスケッチブックを膝に乗せ、小さな手で丁寧に絵を描いている。時折、玲お兄ちゃんの方を見上げて微笑む。
「玲お兄ちゃん、見ててね!」
玲はソファに腰を下ろし、優しく頷く。
「うん、あかねの絵、楽しみにしてるよ」
奈々は玲の隣で、静かに笑みを浮かべながら言った。
「玲、こうしてみんなで落ち着ける時間が持てるなんて、本当に久しぶりね」
沙耶もコーヒーカップを手に取り、柔らかく微笑む。
「少しの間でも、平和な時間を大切にしたいわね」
部屋の片隅では、服部紫が音波検知器のメンテナンスをしながら、梓紗と静かに会話している。
「梓紗、これでしばらくは異常振動も察知できるはずだ」
梓紗は軽く頷き、微笑む。
「さすが紫さん。戦いの後の日常って、ほんの少しだけ安心できるね」
窓の外では小雨が静かに降り、焚き火ストーブの揺れる炎が木の床や壁に淡く映る。
ユウタは静かに一枚の写真を見つめ、指先でそっと端を撫でる。そこには、過去の事件で共に戦った仲間たちの笑顔が写っていた。
「……みんな、無事でよかった」
小さな声で呟く彼の頬を、雨に濡れた窓の光が淡く照らす。
朱音は手を止め、そっと覗き込む。
「ユウタくん、その写真……?」
ユウタは微かに笑みを浮かべ、写真を胸に抱きながら答えた。
「うん、これを見てると、戦った意味を思い出せるから」
玲はそんな二人を静かに見つめ、穏やかに微笑む。
「これからも、みんなを守る。どんな困難が来ても、必ず」
朱音はにっこり笑い、玲お兄ちゃんの手をぎゅっと握る。
「玲お兄ちゃん、大好き!」
リビングには小さな笑い声と、温かい日常が戻っていた。
雨音と焚き火の揺らめきが、静かな平穏の時間を柔らかく包み込む。
真実は取り戻され、戦いの後の静かな日常が、ようやく訪れたのだった。
【2025年10月17日 午後3時】
【佐々木家ロッジ・リビング】
由梨は紙コップを両手で包み込み、俯いたまま震える声で言った。
「……あの時、私、何もできなくて……朱音ちゃんが……」
朱音はそっと由梨の肩に手を置き、柔らかく微笑んだ。
「大丈夫だよ、由梨ちゃん。もう怖いことは起きないから」
玲は由梨の隣に静かに腰を下ろし、落ち着いた声で続ける。
「由梨、君の話は全部聞いた。無理に話さなくてもいい。ただ、あの時のことを一緒に整理して、みんなで安全に守る方法を考えよう」
奈々も隣で由梨に視線を向け、優しく頷く。
「怖かったね。でも、もうここにはみんながいる。安心して」
由梨は小さくうなずき、紙コップを胸に抱きしめたまま涙をこぼす。
外では小雨が止み、柔らかな陽光がリビングに差し込む。
【2025年10月17日 午後3時30分】
【佐々木家ロッジ・相談室前】
相談室を出た朱音は、建物の前で母・沙耶と合流した。
「朱音、大丈夫?」
沙耶が優しく声をかける。朱音は少し照れくさそうに頷いた。
「うん……由梨ちゃんも、少し安心したみたい」
朱音の声はまだ震えていたが、その目には小さな落ち着きが宿っていた。
沙耶は娘の肩に手を置き、そっと微笑む。
「怖いことはもう終わったのよ。これからは、みんなで守っていくから」
朱音は深呼吸を一つして、小さく笑みを返す。
「うん、ありがとう、ママ」
二人の間に、静かだが確かな信頼感が流れる。外の風が木々を揺らし、柔らかな光が建物の前に落ちていた。
【2025年10月17日 午前10時】
【都内・児童相談室】
三倉優斗は、静かな部屋の中で担当カウンセラーと向かい合って座っていた。
机の上には紙と色鉛筆が並び、優斗の小さな手はじっと机の縁を握っている。
「優斗くん……怖い思いをさせてしまったね」
カウンセラーの声は穏やかで、落ち着いたトーンだった。
優斗は小さく首を振り、目を伏せたままつぶやく。
「……うん、でも、もう大丈夫」
カウンセラーは微笑みながら優斗の手をそっと包む。
「よく頑張ったね。君の気持ち、少しずつでいいから話してごらん」
優斗は深呼吸を一つして、震える声で少しずつ話し始めた。
「……朱音ちゃんが……助けてくれたんだ……」
部屋の中は静かだが、優斗の小さな声とカウンセラーの優しい応答が、確かな安心感を作り出していた。
【2025年10月17日 午後2時】
【都内・玲探偵事務所】
玲、奈々、黒沢、瀬名、三堂が、探偵事務所の重厚な会議室に集まっていた。
机の上には事件関連の資料、USB、タブレット、監視映像のスクリーンショットが整然と並んでいる。
玲は地図と資料を前に、静かに口を開いた。
「今回の事件は、遠隔操作によるデータ改ざん、二重命令、そして計画的な偽装事故が絡む複雑な構図だった」
奈々が隣で頷く。
「証拠も揃ったし、上層部への報告も完了した。ここからは最終整理ね」
黒沢はモニターに映る車両運行ログを指差す。
「各ルートと現場班の動きが完全に把握できた。これで誰がどの指示を受け、何を隠したかが明確になる」
瀬名も書類に目を落としながら補足する。
「警察側への提出資料もすべて整った。内部監査の追及に必要な証拠はすべて揃っている」
三堂が静かに言った。
「これで、事件の全貌が完全に明らかになる。どんな言い訳も通用しない」
玲は資料に視線を落とし、静かにうなずいた。
「皆の協力で、ようやくここまで辿り着けた。最後の整理を終えたら、全てを提出し、真実を公に示す」
部屋には、集中した静寂と、解決に向けた確かな手応えが満ちていた。
【2025年10月17日 午後3時】
【都内・玲探偵事務所前の公園ベンチ】
朱音はベンチに腰掛け、膝の上のスケッチブックをそっと開く。
雨上がりの公園には、湿った土の匂いと、遠くで遊ぶ子どもたちの声が混ざり合っていた。
朱音は鉛筆を握り、ページにゆっくりと線を走らせる。
「玲お兄ちゃん……見ててね」
玲はベンチの隣に腰を下ろし、優しく頷く。
「うん、あかねの絵、楽しみにしてるよ」
奈々も少し離れて座り、静かに微笑む。
「玲、こうして穏やかに過ごせる時間、久しぶりね」
朱音は描きながら、小さな声で呟く。
「……もう怖くない。玲お兄ちゃんがいるから」
玲はあかねの頭を軽く撫で、静かに答える。
「そうだ、あかね。これからもずっと守る」
背後では、母の沙耶がそっと見守り、手にしたカップの温かさを朱音に意識させないように置いた。
公園の木々の葉に差し込む午後の光が、スケッチブックのページを淡く照らす。
朱音の鉛筆は迷いなく動き、過去の影を払うように、鮮やかで穏やかな日常をページに描き出していた。
【2025年10月20日 午前9時】
【佐々木家ロッジ・リビング】
数日が過ぎ、佐々木家のロッジにはいつもの静かな朝が戻っていた。窓の外では柔らかな陽光が木々を照らし、鳥のさえずりが小さく響く。
朱音はソファに腰掛け、スケッチブックを膝に置き、昨夜の夢を絵にしていた。鉛筆の先が軽やかに紙を滑り、楽しげな線が並ぶ。
「玲お兄ちゃん、見ててね」
玲はその隣に座り、朱音の描く絵を静かに見つめる。
「うん、あかねの絵はいつも素敵だね」
奈々はソファの向かいに座り、微笑みながら珈琲を手に取る。
「玲、こうして平和に過ごせるのって、久しぶりだね」
沙耶はキッチンで朝食の準備をしながら、時折二人を見やる。温かな母のまなざしが、部屋に穏やかな空気を満たす。
玄関のチャイムが静かに鳴り、玲が立ち上がって扉を開けると、外には三倉由梨と優斗が立っていた。
由梨は少し緊張した表情で朱音に手を振る。
「朱音ちゃん……久しぶり」
朱音は立ち上がり、少し照れながらも笑顔を返す。
「由梨ちゃん、優斗くん……元気だった?」
優斗はうなずき、担当カウンセラーに連れられながらも、少し安心した表情を見せる。
「はい、もう大丈夫です」
玲は二人を見守りながら、静かに声をかける。
「これでみんな、少しずつ前に進めるね」
朱音はベンチに座ったまま描き続ける鉛筆を止め、笑顔で言った。
「うん、玲お兄ちゃんとみんながいるから、もう怖くない」
沙耶はそっと朱音の肩に手を置き、温かく頷く。
「これからは、安心して過ごせる時間を増やそうね」
ロッジのリビングに差し込む朝の光が、家族や仲間たちの穏やかな日常を包み込み、過去の影を静かに押しやった。
――戦いは終わり、失われた日常が、ようやく戻ったのだった。
【日時】2025年10月14日 午前1時12分
【場所】佐々木家ロッジ・玲の書斎
玲は机の前に座り、画面に映る地図と解析データに目を通していた。静かな夜のロッジに、雨音がかすかに響く。
スマートフォンが振動し、画面に新着通知が表示される。差出人は九条凛。
玲は画面を開き、短い文章を読む。
「予定通り脱出完了。監視役に気づかれず行動できた。玲、次の指示を待つ。」
玲は息をつき、机に手を置いたまま微かに笑む。
「凛……無事だったか」
隣に座る奈々が画面を覗き込み、安心した表情で呟く。
「玲、本当に良かった……。これで潜入作戦は一段落ね」
玲はスマートフォンをポケットにしまい、再び解析画面に視線を戻す。
「まだ油断はできない。だけど、まずは凛が安全な場所に戻ったことを確認できたのは大きい」
外の雨音が、夜の静寂に溶けていく。




