表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
30/121

30話 黒の記録と白の空白

主要人物


神崎 玲

•職業:探偵・指揮官

•特徴:冷静沈着で状況判断に優れる。影班や服部一族を統率し、事件の全貌を把握する指揮官。

•性格:感情を表に出さず、常に論理優先。必要なときには命を懸けて部下を守る。


佐々木 朱音

•職業:記憶の証人・事件の鍵を握る少女

•特徴:無邪気だが直感と観察力に優れる。スケッチブックに描く絵が事件の手がかりになることも。

•性格:純粋で好奇心旺盛。危険な状況でも感情を素直に表現する。


沙耶

•職業:心理観察・家族的支援

•特徴:鋭い直感と観察眼で事件に関与。朱音の保護者的存在。

•性格:温かく包容力があり、チームの感情的支柱となる。



影班メンバー


成瀬 由宇

•役割:暗殺・前線監視

•特徴:沈黙の中で状況判断する暗殺スペシャリスト。高所からの監視や奇襲に長ける。

•性格:感情を抑えつつも、朱音や仲間には優しい面を見せる。


桐野 詩乃

•役割:痕跡消去・毒物処理

•特徴:静かに痕跡を消し、戦闘時には敵の動きを妨害する。

•性格:冷静で理知的。仲間の信頼を受けつつも慎重。


安斎 柾貴

•役割:精神制圧・排除専門

•特徴:圧倒的近接戦能力を持ち、精神干渉も扱う。裏と表の二面を持つ。

•性格:冷酷かつ忠実。指揮官の命令には絶対服従。必要以上の情報は語らない。


シズク

•役割:潜入・戦術支援

•特徴:影のような存在感で敵陣に侵入し、戦闘支援や索敵を行う。

•性格:無口だが仲間への気配りを忘れない。


風間 凱

•役割:戦術解析・突破工作

•特徴:影班の中でも指揮補助として優れ、戦術眼が鋭い。

•性格:冷静沈着で的確な判断を下す。



服部一族


服部 紫苑

•役割:忍術戦術統括・結界管理

•特徴:服部半蔵の末裔。戦術家として小隊単位での隠密行動を得意とする。

•性格:厳格だが朱音に甘い面も見せる。


服部 刹那

•役割:戦術統括・前線指揮

•特徴:隠密行動と奇襲に長ける。影班との連携も可能。

•性格:寡黙で冷静。戦闘時の指揮に優れる。


服部 響

•役割:幻術操作・認識撹乱

•特徴:音と光による幻術で敵の認識を錯乱させる。

•性格:冷静で状況分析に長ける。朱音を守る行動を優先。



記憶・心理スペシャリスト


如月 迅

•役割:記録復元・暗号化解除

•特徴:改ざんされた記録を解析し、失われた真実を復元する。

•性格:几帳面で冷静。論理を優先するが、正義感が強い。


御子柴 理央

•役割:記憶分析・心理サポート

•特徴:深層記憶の分析に長ける。冷静な判断力で事件解明に貢献。


九条 凛

•役割:心理干渉分析

•特徴:抹消された記憶の復元と精神サポートを担当。

•性格:冷静かつ論理的。


水無瀬 透

•役割:記憶探査官

•特徴:深層意識へのアクセスを得意とし、封じられた記憶を解放する。


笹原 晶

•役割:封印解読・記憶アクセス

•特徴:特殊な解読能力で封印された記憶に触れられる。

•性格:無表情だが、指揮官には忠実。


篁 誠司

•役割:記憶操作の第一人者

•特徴:封印された記憶への直接介入が可能。

•性格:無表情だが冷静で分析的。



記憶の証人


川崎 ユウタ

•役割:記憶の証人

•特徴:消された記憶を保持し、証言として提供可能。

•性格:内向的だが、真実を守る意志が強い。

場所:ロッジ・ダイニング

時刻:朝



「お味噌汁、今日ちょっとだけ甘いね」

朱音が口を尖らせ、湯気の立つちゃぶ台をのぞき込む。


「それ、私が入れたからだよ」

沙耶がふふっと笑いながら答える。「ちょっとだけ、お芋の出汁も入れてみたの」


「なるほど。朱音、舌は正確だな」

玲は新聞をたたみつつ微笑む。立ち上がり、静かに食器を運ぶ。動きは無駄がなく、正確そのものだった。


「由宇、あのさ」

朱音が箸を置き、成瀬由宇に向き直る。「昨日の夜、風の音が変だった。ピーヒャラって鳴ってた」


「……鳥じゃないのか?」

由宇が首を傾げる。隣にいた桐野詩乃は目を細め、ぽつりと漏らした。


「風は、何かを運んでくる。……違和感の前触れ、かもね」


「こらこら、朝から怖がらせるなって」

安斎柾貴がトーストをかじりながら苦笑する。「今日は平和な朝だろ?なあ、紫苑」


「……朱音、あんまり“じぃじ”って呼ぶな」

紫苑はむすっとしつつも、口元に小さな笑みを浮かべる。


「だって、じぃじだもん」


和やかな空気がロッジを包む。だが――その空気は、一本の電話によって途切れる。


玲のスマートフォンが短く震えた。


「……神崎玲です」


数秒後、彼の瞳が鋭く細くなる。


「失踪事件だ。現場に向かうぞ。朱音は留守番……いや、紫苑と一緒に来い」


「……何か、起きたの?」

朱音の問いに、玲は答えず、ただ一言静かに告げる。


「深紅のリボンが見つかった」


その瞬間、部屋の空気は凍りついた。


風がロッジの外の森を吹き抜け、遠くで犬が鳴く。


次なる“記憶の戦い”が、静かに幕を開けようとしていた――。


場所:旧市街・空き地

時刻:午後

天候:曇天、ひんやりとした風が吹く



空き地の中央に、深紅のリボンがひらりと舞っていた。

砂利と古びた石畳の上で揺れるその色は、周囲の灰色に鮮やかに対比している。


玲は少し前に立ち、影班と服部一族の姿を確認しながら、静かに足を踏み入れた。

「リボンの意味を解析する。由宇、桐野、柾貴――周囲を固めろ。」


成瀬由宇は無言で四方に散り、桐野詩乃は目線だけで異変を察知する。

安斎柾貴は低く呟いた。「不自然だ……これが、ただの遺留品とは思えない。」


朱音はリボンのそばにしゃがみ込み、手を伸ばす。

「……何か、感じる……」


玲は静かに首を振り、低く指示する。

「触るな。これは単なる物ではない。誰かが――ここで“記憶”を呼び出している証だ。」


風が吹き、リボンがひらりと宙を舞い、古びた建物の影に吸い込まれていく。

空き地は、突如として不穏な静寂に包まれた。


場所:旧市街・空き地

時刻:午後

天候:曇天、ひんやりとした風



そこに現れたのは、少女――ではなかった。

朱音の横で立っていたのは、年端もいかない少年。


目は真っ直ぐに空を見据え、手には何も持たない。だがその背筋からは、ただならぬ覚悟と沈黙が伝わってきた。

玲の視線が、少年の存在を瞬時に把握する。

「……お前が、もう一人の“記憶の証人”か。」


少年は微かに頷き、言葉を発しない。だが、風の揺らぎ、周囲の微かな空気の動き――すべてが、彼の存在を物語っていた。


成瀬由宇が足を止め、桐野詩乃と目を合わせる。

「これは……想定外だな。」


安斎柾貴は低く息を吐き、拳を握りしめる。

「気を抜くな。記録操作の手は、まだ届いている。」


朱音は少年に近づき、そっと手を伸ばす。

「……あなた、覚えてるの?」


少年はゆっくりと頷き、朱音を一瞥した後、視線を遠くの廃屋へと向ける。

その沈黙の先に、次の“記憶の戦場”が待っていることを、誰もが感じ取った。


場所:旧市街外れ・旧紡績工場跡

時刻:午後遅く

天候:曇天、冷たい風が吹き抜ける



玲たちは工場跡の入り口に立ち、視線を巡らせる。

錆びた鉄骨が絡み合い、窓ガラスのほとんどは割れ、廃墟特有の静寂が支配していた。


「風の通り道が……妙に複雑だな」

風間凱が肩越しに周囲を見渡し、低く呟く。


成瀬由宇は無言で装備を確認し、桐野詩乃は微かな振動や匂いの変化を探る。

安斎柾貴は背後の建物を警戒しつつ、端末で遠隔監視を開始する。


朱音は小さく息を呑み、少年の横で手を握りしめた。

「……ここに、何かあるの?」


少年はゆっくりと頷き、目を細める。

その視線の先――工場跡の奥深く、錆びた扉の向こうに、かすかな光の揺らぎが見えた。


玲は静かに前に一歩出る。

「影班、慎重に進め。ここは“記憶の痕跡”が濃く残る場所だ。」


影班はそれぞれ呼吸を整え、無音のまま工場内部へと足を踏み入れた。


場所:旧紡績工場・管理棟跡地下倉庫

時刻:午後5時30分

天候:曇天のまま、薄暗い光が差し込む



古びた階段を慎重に降りた影班と玲は、薄明かりの差す地下倉庫に足を踏み入れる。

空気はひんやりとして湿り、かすかな埃の匂いが漂う。


壁にもたれかかるように座る少女の姿。髪は乱れ、目はうつろだが、確かに存在感を放っていた。


玲は一歩前に出て、低く声をかける。

「君が……目撃者か?」


少女はゆっくりと顔を上げ、かすれた声で答えた。

「……はい……でも、私は……覚えていない……」


成瀬由宇が周囲を警戒しつつ、少女のすぐ前にしゃがみ込み、声をかける。

「落ち着け。ここは安全だ。誰も傷つけたりはしない。」


桐野詩乃は微かな振動を探り、安斎柾貴は暗がりに潜む可能性のある脅威を確認する。


玲は静かに目を細め、端末を手に取る。

「よし……影班、朱音、準備。ここからが本当の接触だ。」


少年の手が少女の手に触れ、微かに震える。

その瞬間、地下倉庫の空気が一段と重くなり、忘れられた記憶の残響がかすかに揺れた。


場所:旧紡績工場・管理棟跡地下倉庫

時刻:午後5時32分

天候:曇天、薄暗い光



玲は足音を立てずに少女の前に一歩進む。

「名前を教えてくれるか?」と、低く穏やかに尋ねる。


少女は俯き、指先で床の埃を撫でるようにしながら、かすれた声で答える。

「……ユウナ……です……」


成瀬由宇が横に膝をつき、優しく声をかける。

「ユウナ、怖がらなくていい。ここは安全だ。」


桐野詩乃が壁際の振動を確認し、安斎柾貴は暗がりに潜む影を鋭く監視する。


玲は端末を手に取り、静かに呟く。

「影班、ユウナの保護を最優先。朱音、君は彼女の傍にいてやれ。」


地下倉庫に漂う冷気の中、少女の目に微かに安堵の色が差し込む。

その瞬間、忘れられた記憶の痕跡が、薄暗い空間にかすかに光を取り戻した。


場所:旧紡績工場・管理棟跡地下倉庫

時刻:午後5時37分

天候:曇天、薄暗い光



地下倉庫の静寂を切り裂くように、かすかな物音が響く。

影が壁を滑るように動き、床の埃が微かに舞った。


玲はすぐさま端末を確認し、耳にイヤーピースを装着する。

「影班、動け。周囲に異常を確認――現在進行形の接触者あり。」


成瀬由宇は息を潜め、桐野詩乃と安斎柾貴も無言で配置につく。

ユウナは震える手を握られ、朱音がそっと肩を抱く。


玲は低く、冷静に指示を出す。

「絶対に逃がすな。だが焦るな。痕跡を残す者は必ず現れる。」


倉庫の奥、暗がりの中で揺れる影――

それは、ただの物音ではない。意図をもった存在の動きだった。


影が動き出した瞬間、事件はすでに現在進行形で進んでいた。


場所:旧紡績工場・管理棟跡地下倉庫

時刻:午後5時40分

天候:曇天、薄暗い光



薄明かりの中、影の動きに気配を察した玲が微かに眉をひそめる。

その瞬間、低く鋭い声が地下倉庫に響いた。


「ここに手を出すな。」


声の主は鳳凰院士道。

記憶封印や心理防壁の構築を極めたエリートスペシャリストである。

長い白衣の裾を揺らしながら、冷静かつ精緻な足取りで少女のそばへと歩み寄った。


玲は端末越しに影班に伝える。

「鳳凰院到着確認。対象は保護下に入る。接触班、周囲警戒を強化。」


成瀬由宇は息を潜め、桐野詩乃は影のように少女を守る位置へ。

安斎柾貴も冷静な眼差しで周囲を確認する。


鳳凰院士道は少女の目を一瞬だけ見つめ、静かに声を落とした。


「安心しろ。ここは、誰にも荒らさせない。」


少女は微かに肩を震わせるが、鳳凰院の存在により、恐怖の中にもわずかな安堵が生まれる。

地下倉庫に漂う冷気と埃の匂いの中、事件の緊張はさらに高まっていた。


場所:ロッジ地下・作戦指令室

時刻:午後5時45分



玲は大きなモニターに目を走らせ、影班や服部一族の位置情報、現場からの映像をリアルタイムで確認していた。

端末に手を置き、短く息を吐く。


「影班、朱音と鳳凰院を守れ。周囲の索敵を強化。もし接触があれば即時制圧。」


風間凱が地図上の動線を指でなぞり、解析結果を報告する。

「南側通路に微細な痕跡あり。敵の接近ルートとして利用される可能性大。」


玲は頷き、安斎柾貴に視線を送る。

「柾貴、あのラインを封鎖。桐野、由宇、朱音の安全確保を優先。」


作戦室の空気は緊張に包まれ、遠くの風の音や木々のざわめきすら、モニター越しに感じ取れるようだった。

玲の目は、現場と作戦室、両方の流れを常に意識し続けていた。


「全員、準備完了次第、次の指示を待て。」

玲の声は静かだが、確かな命令感に満ちていた。


場所:旧紡績工場・地下倉庫

時刻:午後6時03分


少女は震える声で続ける。


「――わたしをさらったのは、“知っている人”だった。

わたしが信じていた人だった。

“赤いリボン”は、その人が“印”として結んだもの……」


玲は少し身を乗り出し、静かに問いかける。

「名前を教えてくれるか?」


少女は目を伏せ、指先で床の埃をかき混ぜる。

「……言えない。言ったら、また狙われる。」


安斎が低く呟いた。

「守る……全員で守るしかない。」


風間が端末の画面を確認しながら付け加える。

「接近痕跡がまだ残っている。追跡は可能だ。」


玲は深く頷き、影班と服部一族に向けて短く指示を出す。

「全員、配置につけ。次の行動は俺の合図で。」


地下倉庫の静寂の中、緊張が一層高まる。少女の吐く息まで、すべてが作戦室のモニターに映し出されていた。


場所:旧紡績工場・地下倉庫

時刻:午後6時07分


地下倉庫の静寂を裂くように、赤い警告ランプが点滅し、耳をつんざく警報音が響いた。


「――警報、侵入者検知!」

端末を手にした風間が声を上げる。

「位置は……北側通路。誰かが近づいている。」


成瀬由宇が無言で床に身を低くし、視線を動かす。

桐野詩乃は目で玲に合図を送り、安斎柾貴は背後の通路を封鎖する体勢に入った。


玲はゆっくりと息を吐き、冷静に告げる。

「影班、服部一族、配置につけ。接触は最低限、だが捕縛優先。」


少女は壁にもたれたまま、目を大きく見開く。

「……来る……」


その瞬間、闇の奥から何者かの気配が滑り込む。

影班と服部の動きが連動し、静かな戦いが始まろうとしていた。


場所:旧紡績工場・地下倉庫

時刻:午後6時08分


漆黒の影が壁を伝うように跳び、倉庫内の空気を震わせる。

風がうねり、埃が舞い上がる。


刹那が静かに息を吸い込み、動線を遮断するように足を踏み出す。

「朱音、伏せろ」


響は壁際から手をかざし、微細な光の干渉で侵入者の視覚を撹乱する。

「幻影展開、視界分断。慎重に」


成瀬由宇は無音のまま影に沿って滑り、攻撃の隙を探る。

桐野詩乃は毒気検出器を微かに振り、異常を確認する。

安斎柾貴は銃口を狙点に合わせ、冷静に準備を整える。


玲は低く囁く。

「影班、服部――制圧優先。記憶改ざん痕跡は保護。行け」


闇がざわめき、次の瞬間、接触の瞬間が訪れようとしていた。


場所:旧紡績工場・地下倉庫

時刻:午後6時09分


対する服部一族――刹那、響、そして紫苑――も、即座に反応していた。

刹那は静かに刃を構え、風の微細な変化で侵入者の位置を察知する。

響は手のひらを掲げ、空間を揺らす幻術で敵の認識を分断。

紫苑は端末を確認しながら、全体の動線と潜在的危険を解析していた。


「朱音を狙う者はここにいる」

刹那の低い声が暗闇を貫く。


玲は影班に目配せする。

「全員、位置を固めろ。接触まで三秒」


地下倉庫に張り詰めた緊張が、空気を震わせた。

影班と服部一族――互いの存在を完全に意識したまま、静かに次の瞬間を待つ。


刹那の眉がわずかに動いた。

――読めない。風の流れに“痕跡”がない。


「……ありえない」

響が小声で呟く。彼女の幻術の網を、まるで最初から存在しなかったかのように掻い潜ってくる“何か”。


紫苑が即座に指を鳴らした。

「全員、後退。結界、第二層起動。」


低く唸るような音とともに、床の文様が淡く光を放つ。

しかし――その光を踏み潰すように、“影”は一歩、また一歩と進み出た。


黒い布をまとった人影。

だが、照明の角度を変えても、その輪郭はどこか不自然に揺らめいていた。


玲が拳銃を構えた。

「――姿を見せろ。」


応えたのは、人間とは思えぬほど静かな声だった。


「……封印を、返してもらおう。」


その瞬間、刹那の背筋に冷たい電流が走った。

“記憶の封印”を知る者――本来、この場所には、存在しないはずの人物。


紫苑の袖がわずかに揺れた。

「……来たか。」


薄闇を切り裂くように、数人の影が姿を現す。

彼らの動きは一糸乱れず、呼吸すら同調している。

その中心に立つ男が、一歩、前に出た。


鳳凰院ほうおういん 士道しどう。精神領域第七階層の認定保持者。」

玲が低く呟く。

彼の後ろには、九条凛、御子柴理央、水無瀬透――かつて“精神干渉班”と呼ばれた三名が並んでいた。


士道は静かに片手を上げる。

「ここから先は、我々の領域だ。記憶を媒介に侵入してくる存在は、精神操作でしか止められない。」


その声に応じて、凛が小さく頷き、

御子柴がタブレットを起動、水無瀬は目を閉じて意識の波を探る。


空気が一変した。

音が吸い込まれ、重力が歪むような圧が広がっていく。


玲は朱音の肩に手を置き、低く言った。

「――彼らの干渉が始まる。絶対に、声を出すな。」


紫苑の目が鋭く光り、服部一族の術式陣が連動する。

精神干渉と忍の結界――

記憶の守りと現実の守り、二つの領域が重なり合う。


そして――


士道が低く呟いた。

「……来い。“侵蝕者”よ。」


闇が、答えた。


【時間】 午前3時42分

【場所】 旧市街・紡績工場跡地下倉庫 第2保管室


――冷気が、沈黙を切り裂くように漂っていた。


記憶が波のように揺れ、歪んだ光の粒が空間を漂う。

その断片が形を取り始め、過去の映像が再構築されていく。

泣き声、笑い声、そして「約束」という言葉――

それらが幾層にも重なり、やがて確信へと結晶化していく中、ユウタは静かに少女の前に膝をついた。


「……もう、思い出さなくていい。」

その声は、驚くほど優しかった。


少女は顔を上げる。

涙に濡れた瞳の奥に、揺らめく赤いリボンの記憶が映る。


「でも……わたし、あの人を――」


ユウタは首を横に振る。

「“あの人”は、もういない。残っているのは“記憶の残響”だけだ。」


彼の掌が空気をなぞると、周囲の光の粒がゆっくりと沈静化していく。

記憶の波が引き、倉庫にはふたたび静寂が戻った。


遠くで、時計の針が一度だけ鳴る。


そしてユウタは、誰にも聞こえぬほどの声で呟いた。

「……真実は、まだ終わっていない。」


【時間】 午前3時44分

【場所】 旧市街・紡績工場跡地下倉庫 第2保管室


その瞬間、少女の瞳が――淡い光を帯びた。


最初は、微弱な反射かと思えた。

だが、ユウタの目にはそれが明確な“起動反応”として映った。


光は瞳孔の奥でゆらめき、次第に淡い青から金色へと変わっていく。

倉庫の空気がひやりと震え、周囲の埃が宙に浮かび上がった。


「……アクセスが始まっている」

ユウタが低く呟く。


御子柴の声が、無線越しに響いた。

『脳波パターン、変化確認。これは――“他者の記憶回路”と同調している!?』


ユウタは少女の肩に手を置いた。

「誰の記憶に、繋がれている……?」


少女の唇がかすかに動く。

空気を震わせるように、かすれた声で一言。


「――“朱音ちゃん”……」


ユウタの心臓が、一拍遅れて跳ねた。


倉庫の照明がちらつき、光の帯が少女の周囲に奔る。

同時に、ユウタの脳裏にも微かな痛みとともに、誰かの笑い声が流れ込んできた。


「……これは、記憶の“共有”じゃない。“引き継ぎ”だ……!」


ユウタの叫びと同時に、少女の瞳の光が爆ぜた。

記憶の波が空間を包み、倉庫全体が――まるで一つの意識になったかのように、震え始めた。


【時間】 午前3時49分

【場所】 旧市街・紡績工場跡地下倉庫 第2保管室


耳をつんざくような振動の中、通信機から奈々の声が飛び込んできた。


『ユウタ! そこから離れて! 記憶波が臨界値を超えてる!』


焦りを帯びた声。だが、その中には、確かな冷静さもあった。

彼女の指がモニターを走り、無数のデータを解析していく音が重なる。


『――同調率が急上昇中。ユウタ、あなたの脳波が彼女と完全に重なりかけてる!

このままだと“人格境界”が崩壊する!』


「……まだだ」

ユウタは歯を食いしばり、光の渦の中で少女の肩を支え続けた。


「彼女の中に、“朱音”の記憶がある。切り離したら、二度と戻らない!」


奈々の沈黙が、数秒だけ続いた。

だが、すぐにその声が鋭く返る。


『だったら――時間を稼ぐ。玲さん、聞こえる? 防壁を張って!』


『了解。影班、全員退避。篁、封鎖コードを展開しろ。』


玲の声が通信に重なると同時に、空間の振動が一段と激しくなった。

光の粒が宙を舞い、少女の髪が金色に透けていく。


ユウタはその瞳を見つめながら、かすかに微笑んだ。

「……大丈夫。君は、もうひとりじゃない。」


奈々の声が再び響く。

『ユウタ、リンク安定――でも長くはもたない! 残り二十秒! 急いで!』


光の奔流が、二人を完全に包み込んだ。

記憶が、時を越えて――一つになろうとしていた。


【時間】 午前3時53分

【場所】 旧市街・紡績工場跡地下倉庫 第2保管室


光と闇がせめぎ合う空間の中で、玲の声だけが静かに、確かに響いた。


「――ユウタ。この記憶を、正しく“証言”として変えろ。

この子の、名前ごと。誰にも消させるな。」


その言葉は、命令ではなかった。

祈りにも似た、重い託しだった。


ユウタは振り返らない。ただ、両手で少女の肩を包み込む。

彼の眼差しに、かすかに光が宿る。


「……わかってる。俺が、この記憶を証明する。」


床の亀裂から蒸気のような光が立ち上がり、少女の頬を照らす。

奈々の声がかすかに震えながら響いた。


『記録構造、安定化……始まるわ。玲、信号が書き換わっていく!』


玲はわずかに頷き、拳を握りしめた。


「よし……そのまま行け、ユウタ。

“誰かの痛み”を、ただの記録にするな。

それを“生きた証言”として、未来に残せ。」


ユウタの視界が白に染まる。

少女の唇が微かに動き、息のような声が漏れた。


「……あかね……」


玲の目が見開かれた。


「――そうか。やっと……名前が、戻ったな。」


次の瞬間、全ての光が弾けた。

記憶の奔流が世界を包み、過去と現在の境界が静かに溶けていく。


玲は目を閉じ、静かに呟いた。


「もう、誰にも消させない――」


【時間】 午前4時26分

【場所】 玲探偵事務所・地下記録保管室


ユウタが提出した記憶証言のデータは、玲の端末から即座に本部へ転送された。

転送完了の表示と同時に、警告音が鋭く鳴り響く。


玲は目を細め、静かに呟く。

「……来たか。」


画面上に現れたのは、アクセス遮断を試みる無数の外部信号。

それは明らかに“人為的”だった。


「防衛プログラム、作動開始。識別コード:R-09、記録領域をロック。」

奈々の指が高速で端末を叩く。表示されるデータの流れが、赤から青へと切り替わっていく。


その横で、沙耶が緊張を押し殺すように低く呟いた。

「記憶証言が“証拠”と認定された瞬間、向こうが動いた……。玲、やっぱりこれは、内部の誰かが――」


「言うな。」

玲は短く制した。だがその声音には、確信が滲んでいた。


ユウタが顔を上げる。

「つまり……俺たちが見た“真実”を、もう一度消そうとしてるんだな。」


玲は頷き、端末を閉じると立ち上がった。

「妨害が来る。全員、待機配置につけ。沙耶、朱音を避難させろ。

ユウタ、君はここに残れ。――この“記憶”を、もう二度と渡さないために。」


その瞬間、照明が一斉に点滅した。

外から、金属を削るようなノイズと共に、侵入アラームが鳴り響く。


奈々が振り向き、声を張り上げた。

「玲さん! 外部システムからの攻撃、第二波来ます!」


玲は冷たい目で扉の方を見据える。

「……始まったな。“記録戦争”の第二幕だ。」


【時間】 午前4時29分

【場所】 玲探偵事務所・地下記録保管室前通路


黒いコートの裾が鋭く翻り、闇の中からひとつの影が現れた。

足音はほとんどなく、ただ空気が揺れる気配だけがそこに残る。


安斎柾貴――影班の制圧担当、精神制圧と記録汚染のスペシャリスト。


「……予想より早いな。」

玲が静かに呟くと、安斎は片手で手袋を締め直し、無言で一歩前に出た。


「外部からの侵入を確認。三、いや……四波。精神ノイズを混ぜてきている。」

その声は低く、淡々としているのに、どこか殺気を孕んでいた。


奈々が端末に視線を落としながら応じる。

「精神ノイズって……つまり、“感覚干渉”型の攻撃?」


「そうだ。直接の物理侵入より厄介だ。」

安斎は壁際のライトを切り、薄暗闇に包まれた通路を睨みつけた。

「この暗さでさえ、やつらにとっては“視界”の一部になる。錯覚を利用した侵入だ。」


玲は頷き、短く命令を出す。

「安斎、第一防衛ラインを維持。幻覚侵入の軌道を読んでくれ。

奈々、凛、御子柴を呼べ。心理干渉班を連携させる。」


「了解。」

安斎が通路の奥に目をやると、冷たい視線の先で空気が歪んだ。

ノイズのように揺らめく影が、ゆっくりと形を持ち始める。


安斎の瞳がわずかに青く光った。

「来るぞ……第1波、実体化。」


その瞬間、通路の奥から“何か”が跳ねた。

形を持たない存在――それでも、確かに“殺意”だけは伝わってくる。


玲が銃を構え、低く言い放つ。

「……影班、排除を開始しろ。」


黒と青の閃光が交錯し、静寂が砕けた。


時間:午前4時30分

場所:玲探偵事務所・地下記録保管室前通路


玲の声が短く、鋭く響いた。

「遮断だけでは不十分だ。出処を叩く。水無瀬透、座標を追跡せよ。指揮は任せる。」


水無瀬透は即座に端末を取り、イヤーピースを差し込んだ。画面に浮かぶノイズの波形を一瞥すると、指先が踊るように操作を始める。

「了解。干渉のスペクトルを分解、反射点を逆算する。座標推定、五点候補を抽出。最短経路は港湾側の中継ノード――ここから五百メートル圏内。」


奈々が横でデータを受け取り、声を張る。

「ログ追跡にも成功。暗号化リレーは多段だが、反復パターンがある。関与端末は内部ネットワークにアクセス済み!」


玲は目を細め、影班に視線を投げる。

「風間、成瀬、刹那――迅速に現場封鎖。安斎、幻覚干渉の監視を続けろ。篁、如月、九条はここで防壁維持。転送阻止が最優先だ。」


安斎が冷たく頷く。

「了解。物理・精神の二段防御で抑える。俺が先に“見えない”奴らを抑える。」


篁が端末越しに短く告げる。

「封鎖コード展開。記憶汚染の伝播を遅延させる。時間を稼げ。」


如月は暗号解析を急ぎ、九条は心理干渉の異常震動を耳で追い始める。

「こちら準備完了。水無瀬、誘導をくれ。」(如月)

「心理振幅の同調値を送る。九条、干渉層の位相をずらしてくれ。」(奈々)


水無瀬の声は落ち着いていたが、その指は迷いなく動く。

「第一候補座標へ影班を送る。刹那、屋上からの侵入経路を遮断。成瀬、北側通路を一気に詰めろ。安斎、中央ラインの幻覚層は俺が逐次解除する。玲、朱音とユウナはここに残す。移動は不可。」


刹那が影のように消え、成瀬が静かに廊下を走る。

外側では風間が車両を動かし、港湾側へ向かう影班の増援と連絡を取り合う。

端末画面上の赤い点が、ひとつ、またひとつと潰されていく――水無瀬の逆追跡が成功しつつある証拠だった。


玲は短く目を閉じ、静かに言った。

「出処を潰す。誰にも、あの記録を消させない。」


廊下に戻るのは、まだ先だ。だが全員の動きには、ためらいはなかった。

防衛と追跡、それぞれの役割が重なり合い、やがて一つの終端へと収束していく——。


時間:午前4時42分

場所:玲探偵事務所・地下記録保管室


水無瀬透の低い声が、通信チャンネルに響いた。

「……見つけた。発信源は東区旧整備局地下施設。不自然な信号の歪みが一致している。玲、ここが奴らの“出処”だ。」


室内に緊張が走る。玲の目が細く光る。

「旧整備局……十年前に閉鎖されたはずの場所だな。」


奈々がすぐに端末を操作し、立体地図を投影した。

「地下二層構造、記録上は廃棄済み。でも……センサー反応あり。動力系がまだ生きてる。」


安斎がトレンチの襟を整えながら立ち上がる。

「廃棄された施設を“通信中継基地”に転用、ってわけか。奴ららしいな。」


玲は静かに頷き、短く命じる。

「影班、全員出動。目標:旧整備局地下。生体反応を優先。撃滅ではなく確保――“誰が”記憶を消そうとしているかを突き止める。」


由宇が即座に応える。

「了解。成瀬由宇、前線侵入ルート確保に入る。」


「詩乃、毒物処理系と反応剤を用意。現地の空調が死んでいる可能性がある。」

「了解。……それと、朱音は?」

「俺と残る。」玲の声は短く断ち切るようだった。「今回の狙いは“記録”そのもの。朱音を動かすのは危険すぎる。」


紫苑がそのやり取りを黙って見ていたが、やがてゆっくりと立ち上がる。

「……我ら服部一族も同行する。半蔵門の結界を展開して、敵の干渉を遮断する。」


「頼む。」玲が短く頭を下げた。「通信妨害の可能性が高い。紫苑、君の結界が要だ。」


水無瀬の声が再び響く。

「玲、座標を送信。北口からの進入が最短。……ただし、内部は“記憶の罠”が張られてる可能性がある。心理干渉の兆候が強い。」


玲の眉がわずかに動く。

「……つまり、そこに“奴”がいるってことだな。」


安斎が笑う。低く、挑発的に。

「なら、上等だ。こっちには精神制圧の専門家が揃ってる。」


奈々が端末を閉じ、静かに告げる。

「これが……“記憶封鎖事件”の核心。」


玲は上着を羽織り、無線を再接続する。

「全員、出発準備。東区へ――行くぞ。」


扉が開き、冷たい夜風が吹き込む。

外はまだ夜の名残を抱えた薄闇。

それでも、誰一人として迷いはなかった。


次の記憶の戦場が、そこにあった。


【時間】午前5時03分

【場所】ロッジ外周・北東林道監視ラインβ


ロッジを包む結界の外――

林道に張られた監視ラインβが、わずかに揺れた。


霧が低く漂う早朝。木々のざわめきに紛れて、微細な電磁波の変調音が走る。

警戒灯が一瞬だけ点滅し、静かに警報が作動した。


「……侵入反応。識別コードなし。距離、六十メートル圏内。」

詩乃の声がイヤーピース越しに響く。彼女の指先は、携行端末の波形を読み取りながら冷静そのものだった。


「生体反応は?」玲の低い声。


「一……いや、二。だが一つは極端にノイズが多い。人間の範囲を逸脱してる」


「変異データか……。」

紫苑が林の奥を見据え、手にした護符を軽く弾いた。空気が一瞬だけ張りつめ、結界の層が再展開される。


成瀬由宇が茂みの影にしゃがみ込み、小声で報告する。

「玲、視認確認。黒装束二名、動きが不自然だ。まるで――」


「記憶操作を受けているような挙動、だろう?」

安斎柾貴が言葉を継ぐ。わずかに笑みを浮かべながらも、右手はすでに腰のホルスターへ。


玲は静かに目を細めた。

「……敵は、こちらの位置を“知っている”。」


霧の向こうで、わずかに光が瞬いた。

紫苑が低く呟く。

「半蔵門の外壁を破る気か……ならば、こちらも“迎え撃つ”のみだな。」


玲が短く頷き、通信回線を切り替える。

「影班、全隊へ。βライン侵入反応確認。交戦許可――下りた。」


空気が震え、沈黙が戦闘の序章へと変わる。

林道の霧が一瞬裂け、風がうねった。


その中心で、記憶を蝕む影が――姿を現した。


時刻:午前5時06分

場所:ロッジ外周・北東林道監視ラインβ付近


成瀬の低い声が無線を震わせた。

「一体、入った。

ただの侵入者じゃない。……“仕留める覚悟で来ている”」


玲は一瞬だけ目を細め、周囲を見渡した。霧は深く、樹々の影が黒々と揺れている。

「――安斎、表の任務は完了した。これより“裏”で動け。」


安斎柾貴は軽く頷くと、無言で体をひねり、闇へと溶け込むように動き出した。

表の守りは既に固められている。成瀬が外縁を閉じ、刹那が屋根線を抑え、紫苑の結界が外周を縫うように展開している。だが玲は知っていた――相手は記憶を弄り、観測者の心を裂いてくる。表だけで十分とは限らない。


安斎は背中越しに短く返す。

「了解。裏で動く。幻影と情報の“根”を切る。」


彼の目には、普段の淡々とした冷静さよりももっと深い緊張が宿っていた。腰に差した小さな端末を操作すると、周波数を極低ノイズ帯に合わせ、視覚干渉を逆探知するための小型センサー群を起動する。指先でデバイスをはじくたびに、闇の向こう側の音が微かに浮かび上がる。


玲は無線を閉じずに続ける。

「安斎、裏で“記憶の中継”を叩け。中継ノードを見つけ次第、封鎖と強制同期解除。時間を稼げ。成瀬、刹那は接触不能者の拘束優先。朱音と紫苑は安全圏維持。」


成瀬が低く応答する。

「分かった。接触ラインは俺が切る。」


刹那は影の中から短く声を返した。

「裏の侵入者か。奴らに“裏”の風景を見せるわけにはいかない。」


安斎は林間を滑るように進んだ。葉擦れが彼を隠すが、彼は甘くはない――歩き方も少し変え、振動の伝播を利用して自分の位置を錯綜させる。外見上は一人の男だが、彼の周囲には小さな“無音の罠”が幾重にも張られている。視認されない電子トラップ、音を逆位相で打ち消すフィールド、そして記憶汚染を一時的に封じるためのアナログ回路。


水無瀬の解析が背後から流れる。

「安斎、裏口のノイズパターンを送る。こいつらは位相をずらして侵入してくる。逆位相で返せば中継を撹乱できるかもしれない。」


安斎は短く笑みを漏らし、返す。

「やってみる価値があるな。俺のほうは物理的な“跡”を残さずに中枢を切る。必要なら問い詰める前に燃やす。」


彼の声には迷いがない。だがその眼差しは、誰よりも冷たく、誰よりも責任を帯びていた。裏で動くとは、往々にして“誰にも見せられない”ことを行うということだ。安斎はその覚悟を飲み込み、地面に小さな装置を置いた。装置は微かな振動で地盤のノイズを読み取り、異質な波形を拾い上げる。


闇の中、微かな赤色ランプが点滅する。安斎の手は止まらない。やがて端末に、逆追跡の候補座標が浮かんだ。五つ、三つ、そして一つに絞られる。彼は一瞬だけ息を吸い、静かに呟いた。

「行くぞ。」


その声は無線で聞こえたかもしれないし、聞こえなかったかもしれない。だが確かなのは、誰よりも先に“裏”へ踏み込んだ男が、闇の中へ消えていったということだった。


【時間】午前5時13分

【場所】北東林道・監視ラインβ内側


霧が、不自然に“生きている”かのように揺れていた。

夜明けの薄光が差し込み始めた林の奥、風は止まり、虫の声すら遠のく。


影が一体、音もなく地を滑るように進んでいた。

その足取りには躊躇がなく、足音は地面に吸い込まれていく。

気配を完全に断ち、存在そのものを薄める――暗殺者の典型的な動き。


しかし、その“無音”の中に、わずかな歪みが生じた。

風が逆流するように、空気の層がずれたのだ。


「……誰だ。」


影が一瞬だけ振り返る。

返答はなかった。代わりに、背後の霧が裂けた。


音もなく、刃が閃く。


霧の中から姿を現したのは、黒衣をまとった一人の男。

銀の髪がわずかに光を受け、鋭い視線が霧の中を射抜く。


服部刹那。


その一歩は、まるで時を断ち切るかのようだった。

動いた瞬間、霧が二つに割れ、空気が震える。


「……服部の者か。」影が低く呟く。


刹那は無言のまま、刀の鍔に指をかけた。

瞳には、一切の感情がない。


風がうねり、葉が舞う。

次の瞬間、二人の影が交錯した。


金属音ではなく、“風の爆ぜる音”が響く。


わずかに遅れて、影の腕が宙を舞った。


霧の中、刹那が淡々と告げる。

「――侵入を許可した覚えはない。」


影が崩れ落ちる。

その瞬間、刹那の無線がかすかに震えた。


『こちら成瀬。接触完了、制圧一件。残り二――』


刹那は応じず、霧の奥を見据える。

もう一つの気配が、まだそこにあった。


そして、風が再びざわめいた。


「……次は、お前か。」


声は低く、しかし確かに、静寂の中へと溶けていった。


【時間】午前5時17分

【場所】北東林道・監視ラインβ内側


霧が深く、視界はわずかにしか開けていなかった。


敵は動揺する間もなく崩れ落ちる。

その隙すら許さず、冷酷な処理人が静かに立っていた。


黒いコートの裾が揺れ、顔には感情の色が微塵もない。

安斎柾貴――その名は、無音の死をもたらす男。


「全件、完了」

低く、静かで、感情の温度を感じさせない声。

無線からも漏れず、ただ空気に溶け込むように響いた。


霧の中、刹那と響は互いの位置を確かめ、朱音の安全を守るために警戒を固める。

安斎の一歩が、暗い林道に冷たい秩序を刻み込む。


敵影は完全に制圧され、残されたのは静寂と、わずかに揺れる霧だけだった。


【時間】午前5時19分

【場所】北東林道・監視ラインβ


監視員の一人が目を見開いたまま、硬直する。

端末には異常なし。警報も鳴らない。

だが、視線の先――そこに立っていた安斎柾貴の手は、すでに血に濡れていた。


静寂の中で、霧だけがひそやかに揺れる。

刹那と響は無言で周囲を固め、朱音の身を守る盾となった。

安斎の黒いコートは、朝靄に紛れながらも、冷徹な殺意を静かに告げていた。


林道にはまだ風が通り、木々が微かにざわめく。

だが、誰も声を上げることはできず、存在そのものを震わせる冷たさが、空間を支配していた。


【時間】午前5時21分

【場所】北東林道・監視ラインβ


霧の中で、安斎柾貴の姿が微かに揺れる。

目には感情の色はなく、ただ命令を遂行する冷徹さだけが宿っている。


刹那が視線を送る。

「……あれが、裏の安斎か」

響は頷き、空間のノイズを読み取りながら朱音の背後を固める。


林道に残る冷たい空気は、安斎の存在そのものに圧迫されるようだった。

彼の手は、もう二度と躊躇しない。

命令に忠実で、ただ確実に排除する――それが、裏の安斎柾貴だった。


【時間】午前5時34分

【場所】ロッジ・指揮室


玲は端末を手に取り、画面に映る暗号化された文字列を凝視する。

解析プログラムが自動で起動し、断片化された情報が次々に再構築されていく。


「……なるほど。これは裏の動きの報告か」

玲の声は低く、冷静だった。


沙耶が横から覗き込み、眉をひそめる。

「玲さん、内容は?」


玲は短く指を振り、端末を操作しながら答える。

「影班と服部一族、二手に分かれろ。裏で動く敵の排除と、証人の保護を同時に行う」


端末の中で、暗号化された報告が確定データへと変換される。

それは、次なる戦場の地図となった。


【時間】午前5時42分

【場所】ロッジ・指揮室


扉が静かに開き、安斎柾貴が無言で戻ってきた。

黒いコートの裾が床に触れ、わずかに埃が舞う。


玲は立ち上がり、冷静な視線を安斎に向ける。

「状況は?」


安斎は短く頷き、無表情のまま報告する。

「裏の敵は全て排除済み。証人への被害はなし。」


玲は端末を操作しながら、次の指示を送る。

「では次は封鎖線の再確認だ。動きの痕跡はすべて記録しろ。完全に守る」


安斎は黙ってうなずき、再び闇のように静かに任務へ戻る。

部屋には、わずかな呼吸音と電子端末の光だけが残った。


【時間】午前5時45分

【場所】ロッジ・指揮室


扉の向こうに差し込む朝の光が、安斎の背をかすかに縁取っていた。

沈黙が数秒続いたのち、玲が静かに口を開く。


「……君を“表の専門家”として使う以上、裏のことはすべて、私の責任だ。

誰に問われても、命令は私が下したと言えばいい」


低く、しかし確かな意志のこもった声。

安斎の背が一瞬だけ止まる。足音が、そこで途切れた。


数秒の間をおいて、安斎が振り返らずに答える。


「……言うつもりはありません。

言葉にすれば、あなたが“ただの人間”になる。

それでは、俺たちは守れません」


玲は目を伏せ、わずかに息を吐いた。

安斎の背中はもう、扉の向こうに消えていた――。


ロッジの外では、夜明けの風が木々を揺らし、遠くで朱音の笑い声が小さく響いていた。

その音が、ほんのひとときだけ、玲の心の奥に温度を戻した。


【時間】午前6時10分

【場所】ロッジ・窓辺


霧が森を包み込み、視界を淡く霞ませていた。

沙耶は窓の外をぼんやり見つめ、手元のコーヒーカップを軽く回す。


玲が静かに隣に立つ。足音はなく、息遣いさえも聞こえない。


「……夜が明けると、状況は変わる」

玲の声は低く、しかし確かに沙耶に届いた。


沙耶は小さく頷き、言葉を選びながら答える。

「でも……守るべきものは、もう誰も消せない……」


玲は窓の外を見据え、わずかに目を細めた。

「そうだ。だから、俺たちは動く」


霧が淡く揺れ、森の奥深くに残る闇の影をそっと包み込む。

その静けさの中、二人の意志だけが確かに燃えていた。


玲はしばらく沈黙した。


冷たい霧に包まれた森の中、彼の瞳が静かに揺れる。


「――俺を守るのは、俺自身だ。」


その声には覚悟と孤独が混じっていた。沙耶はじっとその言葉を受け止める。


「……それでも、あなたが出した命令を、誰かが守る。」


玲は小さく頷き、霧の向こうを見据えた。

「そうだな……それが影班であり、服部一族であり、君たちだ。」


風が静かに吹き抜け、森の奥深くに沈黙だけが残った。


「……誰にも守られなくていい。

その代わり、“すべてを守る責任”は、私が背負う。

それが、“指揮官”という立場だから」


玲の言葉は、霧の中でひっそりと響いた。


沙耶はしばらく黙ったまま彼の横顔を見つめる。

小さな風が森の枝を揺らし、落ち葉が静かに舞った。


玲は続けた。

「誰も俺を守る必要はない。だが、俺が守るべきもの――仲間も、朱音も、真実も――それは全て、俺の責任だ。」


沙耶は息を吐き、静かに頷いた。

「……それなら、私も――あなたと一緒に、守るわ」


玲は微かに目を細め、静かに頷いた。

森の霧は再び落ち着きを取り戻し、彼らを包むだけの静寂が広がった。


時間:午前5時42分

場所:旧市街外れの霧深い林道


霧が地を這い、視界はほとんど効かない中、ゆっくりと足を運ぶ。


「この霧……ただの自然現象じゃない。何かが隠れている」


肩越しにうなずき、小さな声で答える。

「ええ……気配がある。誰かがここにいる」


落ち葉を踏む音だけが、静寂を切り裂く。端末を取り出し、影班に指示を送る。


「全方位展開。霧の中、微細な動きも見逃すな」


無線越しに返事が返る。

「了解。全員、位置につきました」


その瞬間、霧の中で黒い影が揺れ、かすかな足音が遠くから迫ってくる。


低く、静かに告げる。

「……来るぞ。準備」


拳を握りしめ、毅然と答える。

「わかってる。行きましょう」


黒い影と共に、濃霧の中へと踏み出す。

その足取りは静かだが、確実に次の“接触”へと向かっていた。


時間:午前5時47分

場所:旧市街外れの霧深い林道


霧の中、影が三つに分かれる。前線を進むのは「ファントム班」――接触・先制制圧を担う小隊だ。


「ファントム班、前方警戒。障害物の有無を即座に報告」


低い声が無線を通じて届く。

「了解。視界確保中。小規模の影を確認」


後方には「シェード班」と「スレイヤー班」が続く。

シェード班は索敵と包囲を担当し、霧の中の動きを探知。

スレイヤー班は破壊工作・排除任務を担い、敵の潜伏を断つ準備を整える。


「各班、位置についた。あとは指示待ち」


霧の奥で微かな足音が揺れる。前線のファントム班が即座に姿勢を低くし、潜む敵を探す。


「……接触確認。距離およそ二十メートル。対象、移動中」


静寂の中、霧に紛れた戦いが、今まさに始まろうとしていた。


時間:午前5時50分

場所:旧市街外れの霧深い林道


ファントム班の影が霧の中を滑るように進む一方、その後方に控えるのは「メンタル・シーカーズ」――精神干渉の専門家たちだ。


「全員、集中。対象の心理波動を読み取り、微細な異常を報告」


彼らの動きは目立たない。霧に紛れ、音も立てず、敵の意識の揺らぎを感知する。


「左側三メートルに異常な心理残留。注意」


「了解。ファントム班に警告。接近の可能性あり」


彼らは戦闘では直接前線に立たないが、その情報は部隊全体の動きを支配する。

心理的圧力、記憶操作、干渉の痕跡――すべてを掌握し、敵の反応を誘導する。


霧の奥で、三つの小隊は完全に連動していた。目に見える戦いは始まっていない。

だが、精神の揺らぎが確実に“戦場”を形成していた。


時間:午前5時55分

場所:旧市街外れの霧深い林道


最後方に控える「エクリプス班」は、部隊全体の背後を守る影の存在だ。


「全員、位置を維持。接近してくる敵は即時制圧」


彼らの役割は単純だが、極めて重要。前方の混乱や心理的操作で生じる“抜け道”を封鎖し、部隊全体の安全を保証する。


「左後方、微細振動を感知。ファントム班に伝達」


霧の中、三つの小隊――前衛のファントム班、精神干渉のメンタル・シーカーズ、そして後衛のエクリプス班――は完全に同期して動く。

視界の先では戦闘の気配すらないが、すでに“影の戦場”が構築されていた。


時間:午前5時58分

場所:旧市街外れ・林道上空に面した崩れた展望台跡


成瀬由宇が、高所から霧の向こうを鋭く見据えていた。

双眼鏡越しに映るのは、無人の廃路と、風に揺れる枯れ枝だけ。だが、彼の瞳はその“静けさ”に潜む異物を確実に捉えている。


「……一体、進行。東側。動きが早い」


耳元の通信機に低く報告を入れる。

下では、桐野詩乃が静かにしゃがみ込み、手袋越しに土を撫でた。


「残留反応、微量。さっきまで誰かがここを通った」


彼女の声は穏やかだったが、その手つきは正確で冷ややかだ。

小瓶に詰められる微細な繊維、拭い取られる足跡の端。どんな痕跡も、彼女の手にかかれば跡形もなく消える。


由宇は風の流れを読むように視線を上げた。

霧の奥、確かに“人の気配”があった。


「詩乃、ここから先は早い。……風が、変わった。」


詩乃は短く頷き、背の装備を整える。

冷気の中、二人の影が霧の向こうへと溶けていった。


時間:午前6時02分

場所:旧市街外れ・林道上


霧の向こう、低く垂れこめた影がゆらりと動いた。

由宇の目が細まり、呼吸をひそめる。


「来たな」


声は低く、感情の色を含まない。それでも、張り詰めた空気を一瞬で支配した。

霧の隙間から、三つの気配が滑るように近づいてくる。


桐野は静かに手を伸ばし、微量の粉末を撒く。

その瞬間、足跡の残留熱がかすかに揺らぎ、侵入者の位置を微妙に乱す。


「由宇、影は三つ」

「確認。先手を取る」


二人の視線が交わり、無言の了解が空間を満たした。

霧に包まれた林道に、戦いの気配が静かに落ちた。


時間:午前6時04分

場所:旧市街外れ・林道上


濃霧に包まれた林道。視界はほとんど効かず、足音だけがかすかに響く。

由宇の体が瞬間的に緊張し、桐野の指先が軽く動く。


「接触!」


声が低く、鋭く響く。

影の中から三つの気配が同時に動き、霧が裂けるように接近してくる。

柾貴は無言で銃を構え、呼吸を整える。

霧の中、時間が止まったかのように、すべての動きが凝縮された。


時間:午前6時05分

場所:旧市街外れ・林道上


由宇が低く、力強く叫ぶと同時に、霧を切るような銃声が響いた。

前方の霧の中から、影が跳ねる。

桐野は素早く周囲の痕跡を消しながら、接近する敵の動きを封じる。

柾貴は冷静に狙いを定め、的確に制圧射撃を放つ。


「反応早すぎる……!」

敵の声が霧に飲まれ、次の瞬間には姿勢を崩した者たちが林道に倒れ込む。


霧の中で光る銃口、影が交錯する中、戦闘は瞬く間に激化した。


時間:午前6時07分

場所:旧市街外れ・林道上


詩乃は静かに動き、毒霧を霧の流れに乗せて拡散させた。

その影響で、接近してきた敵の足取りは鈍り、視界もわずかに乱れる。


柾貴は霧の中で精神干渉を逆流させ、敵の思考を混乱させた。

仲間の位置も、自分の意識も、敵には断片的にしか認識できない。


玲は短剣を握りしめ、霧の隙間を縫うように敵の中心へと突進する。

「動くな……!」

その低く冷たい声に、混乱した敵は足を止めざるを得なかった。


銃声、影の交錯、毒霧の靄――すべてが短時間で交差する、旧市街の林道に緊張が走った。


時間:午前6時12分

場所:旧市街外れ・林道奥


霧の中、別ルートから現れた異質な影は、空気ごと歪むかのように周囲を切り裂いた。漆黒の外套は風がないのに揺れ、瞳には冷たい光が宿る。その動きは常識を超え、誰も追随できない速さで迫る。


由宇が反応する間もなく、わずか0.3秒の死角が生まれ、緊張が空気ごと凍りつく。


その瞬間、低く冷たい声が闇を裂く。

「……無駄だ。こいつは“精神”より先に“肉体”から壊すべきだったな」


黒影が霧を切って割り込み、殺気をまとった一閃。侵入者の首が音もなく地面に沈む。


由宇と詩乃が目を見開く。

「……安斎……? なぜ前に出て――」

「まさか、あなた……近接戦……?」


柾貴はただ無表情に立ち、霧の中で次の動きを見据えていた。


時間:午前6時13分

場所:旧市街外れ・林道奥


安斎柾貴は静かに立ち、倒れた侵入者の血を指先で拭い取る。その動きは無駄がなく、まるで一連の動作全体が計算され尽くしたかのようだった。


霧の中、残されたのは静寂と冷気だけ。由宇と詩乃は一瞬、息を呑む。

「……まさか、あんなに速く……」

「……いや、あれが“裏の安斎”の動きか……」


柾貴は振り返ることもなく、低く告げる。

「次は表の任務に戻る。全員、集中を切らすな」


霧は再び静かに林道を覆い、緊張の空気だけが残った。


時間:午前6時14分

場所:旧市街外れ・林道奥


安斎柾貴の関節に目をやると、冷たく無機質な黒い戦術用メタルが埋め込まれていた。光を反射し、暗い霧の中でも鋭く存在感を放つ。


由宇が思わず呟く。

「……まるで、人間じゃないみたいだ」


詩乃は眉をひそめ、冷静に分析する。

「恐らく、反応速度や瞬発力を補助する改良がされている。人体だけでは追いつかない動きも、これで可能になる」


柾貴は微動だにせず前を見据えたまま、低く言う。

「表の任務は、この装備を使うためのものだ。だが、裏の動きは……それ以上の精度が必要になる」


冷たい金属と緊張が、林道の霧に溶け込むように静かに共鳴していた。


時間:午前6時15分

場所:旧市街外れ・林道奥


「……精神操作はただの補助だ。本質は、接近して確実に“排除する”ことだ。」


その声は低く、感情を排した冷徹な響きを帯びていた。


霧の中、黒い戦術用メタルが微かに光る。由宇と詩乃は互いに視線を交わし、息を呑む。


「つまり、距離や幻術に関係なく、奴は“直に殺す”ために存在する……」


柾貴の瞳は前方の闇を鋭く貫き、まるで霧や影の向こうにある“危険”を事前に知っているかのようだった。


「だから、俺に任せろ。対象を確実に制圧する」


言い切ったその声に、周囲の空気が一瞬、凍りついた。


時間:午前6時16分

場所:旧市街外れ・林道奥


詩乃が小さく震える。手の中の小瓶が微かに鳴り、指先に伝わる冷たさを彼女は必死に抑えた。


「大丈夫か?」と低く訊く声が一つ。詩乃は俯き、短く息を吐く。

「平気……です。ただ、あの速さは……」


霧の向こうで黒光りする関節が微かに光を放つ。安斎は何も言わず、静かに前へ一歩踏み出す。動きには無駄がなく、まるで息をするかのように自然だ。


「無駄に震えるな。震えは伝播する」と、冷たく、しかし淡々とした声が返る。彼の言葉に詩乃は肩をすくめ、唇を噛んでこくりと頷いた。


由宇が周囲を掃視しながら短く指示を出す。

「気を抜くな。次がある」


一瞬の沈黙のあと、霧の流れが変わり、足音が再び林道を這うように近づく。詩乃は震えを押し殺し、毒の散布角度を修正した。手はまだわずかに震えているが、目は確かに冷たく研ぎ澄まされている。


「行くぞ」――その一言で、三人は再び動き出した。霧の中に残るのは、決意だけだった。


時間:午前6時23分

場所:旧市街外れ・林道


霧の残る朝。薄く差し込む光が湿った石畳をぼんやりと照らし、冷えた空気が肺を刺す。


由宇が高所から周囲を警戒する。視線は霧の向こう、わずかな動きも逃さない。

詩乃は背後の壁際で小瓶を握り、毒の準備を微調整する。手の震えは完全には消えないが、集中力は確かだ。

柾貴は無言のまま前方を睨み、足取りひとつで侵入者の進路を封じる。


「まだ気を抜くな」

低く響く声が、霧に吸い込まれるように消えた。


空気がひゅ、と音を立てて揺れた。霧の奥から、漆黒の影が再び姿を現す。

瞬間、三人の体が一斉に動き、林道の霧に溶け込みながら、次の接触へ備えた。


静寂の中、呼吸と緊張だけが確かに存在している。


時間:午前6時48分

場所:ロッジ・地下通路入口


やがて、重厚な扉が静かに開いた。

錆びた蝶番がわずかに軋む音が、張りつめた空気を切り裂く。


冷たい風が地下から吹き上がり、霧の粒を押しのけるように流れ込む。

薄暗い通路の奥には、複数の影がうごめいていた。


玲が一歩、前へ出る。

手にしたライトの光が、コンクリートの壁面に広がる古い血痕を照らした。


「……ここだな。最初の“封印”が破られた場所は」


後方で、沙耶が無意識に息を呑む。

光と闇の境界線のようなその扉の向こうで――またひとつ、事件の記憶が目を覚まそうとしていた。


時間:午前6時49分

場所:ロッジ・地下通路


霧が流れ込み、空気が一瞬、張り詰めた。

扉の向こう――淡い光の中に、ひとりの青年が静かに立っていた。


長い黒髪が肩口で揺れ、灰色の瞳が冷ややかにこちらを見据える。

その瞳には怒りも恐怖もなく、ただ無音の確信だけが宿っていた。


足元には、誰も踏み入れていないはずの乾いた埃。

しかし、青年の靴跡だけが、そこに確かに残っている。


玲が一歩進み、声を落とした。

「……名を、聞いても?」


青年は小さく息を吐き、わずかに目を伏せて答えた。


「――服部、蓮。」


その名が響いた瞬間、通路の奥にいた安斎の表情がわずかに動く。

そして、由宇が低く呟いた。


「……服部一族、か」


時間:午前6時50分

場所:ロッジ・地下通路


由宇の口元がかすかに動く。

その声は、霧に溶けるほど低く、鋭かった。


「……つまり、安斎の暴走に備える“安全装置”として?」


沈黙が落ちる。

蓮の灰色の瞳が、ほんの一瞬だけ揺らいだ。


安斎が視線を横に逸らす。

その肩越しに見えるのは、拭いきれない血の痕。


「……暴走、などではない。」

安斎の声は冷たくも静かだった。

「命令に従っただけだ。それを“制御”と呼ぶなら、好きに呼べ。」


玲がわずかに眉を寄せる。

「だが、もしそれが制御不能になった場合……」


蓮が一歩、前に出た。

足音は驚くほど静かで、しかし確かに響く。


「その時は、俺が止める。――服部の“役目”だ。」


霧の奥、紫苑の名を継ぐ者の言葉が、氷のように空気を裂いた。


時間:午前6時52分

場所:ロッジ・地下通路


詩乃はわずかに戸惑いながらも、ゆっくりと頷いた。

その表情には恐怖ではなく、理解と覚悟の色が宿っていた。


「……安斎の力を、最も信じていたのも私たち。

でも……それが制御不能になれば、最も恐ろしい存在になるってこと。」


沈黙の中、由宇が目を細める。

その視線の先で、安斎は何も言わず立ち尽くしていた。


蓮は視線を下げ、淡々と呟く。

「それが“影班”の本質だ。――信頼と危険は、常に表裏一体にある。」


玲は小さく息を吐き、壁際に置かれた端末へと視線を向けた。

「ならば、この均衡を崩す者が現れた時……我々は、どちらを選ぶ?」


その問いに、誰も答えられなかった。

霧の向こうで、遠く鳥の声がかすかに響いた。


【時間】午前7時08分

【場所】旧市街地下・監理区画第七封鎖室


重い扉が音もなく開いた。

外気が流れ込み、わずかな塵が舞い上がる。

冷たい金属音が反響し、内部の照明がひとつ、またひとつと点灯していく。


その光の中に立っていたのは、玲だった。

無表情のまま足を進め、中央の解析卓に置かれたデータドライブを見下ろす。

静寂の中、背後から低い声が響く。


「……解除コードは、ここにしか残っていません」


現れたのは、御子柴理央。

白手袋の手で端末を操作しながら、わずかに眉をひそめる。


「中身は、完全な“黒記録”です。

 誰かが意図的に封印しなければ、こんな形式では保存されません。」


玲の瞳がわずかに光を帯びた。


「――開けろ。

 記録が“失われた過去”なら、それを開くのが我々の役目だ。」


理央が頷き、指を滑らせる。

次の瞬間、薄闇の中に浮かび上がったのは、ひとつの名。


『第零区:柊ユウタ/証言未承認記録』


空気が一気に張り詰めた。

玲は無言で前に出て、指先でデータを掴むように見つめた。


「……やはり、“始まり”はそこからか。」


【時間】午前7時14分

【場所】旧市街地下・監理区画第七封鎖室


安斎は静かにロングコートの内側から、黒鋼の短剣を取り出した。

光を吸い込むようなその刃は、研ぎ澄まされた静寂そのものだった。

一歩、二歩。彼は音を立てずに前へ進む。


金属のきしむ音が微かに響き、周囲の空気が張りつめる。

玲が視線だけで問いかけると、安斎は短く答えた。


「……嫌な“気配”がする。

 この部屋そのものが、誰かの意識に“覗かれている”。」


理央の手が止まる。

解析卓の端末が一瞬だけノイズを発し、画面に不可解な揺らぎが走った。


「干渉波……? 外部アクセスは遮断しているはず……」


玲が即座に端末を覆うように手を伸ばす。

だが、その一瞬の遅れを突くように、天井の照明が一斉に瞬いた。


暗闇の中、安斎の短剣だけがわずかに反射し、

その刃先が――見えない“敵意”の方角を正確に指していた。


【時間】午前7時16分

【場所】旧市街地下・監理区画第七封鎖室


暗闇の中、安斎の声だけが低く響いた。


「……今からは、裏の仕事だ。」


その一言で、空気が変わった。

理央も透も、言葉を失い、玲はただ静かに頷く。


足元に散らばる影が、音もなく動いた。

安斎は短剣を逆手に構え、無駄のない呼吸で周囲の気配を読み取る。


「通信、切断。監視カメラの回線も遮断しておけ。」

玲の指示が飛ぶ。


「了解。」

奈々の指先が走り、モニターが一斉に暗転した。


完全な沈黙。

だが、それは恐怖ではなく、ただ――“狩りの開始”を告げる合図だった。


安斎の足音がゆっくりと遠ざかる。

濃霧のような気配が彼の周囲を包み込み、

次の瞬間、照明の残光を裂くように、その姿が闇に溶けた。


“裏の仕事”とは、誰にも知られてはならない任務。

記録にも、報告にも、存在しない。


その夜、旧市街で起きた異常値は、

翌朝には――何事もなかったかのように、霧の中へと消えていた。


時間:午前7時18分

場所:旧市街地下・監理区画第七封鎖室および周辺通路


「――全員、配置完了。‘影の印’の座標、ロック。赤いリボンの持ち主、敵性確認。殺意反応あり。……行け。」


玲の声は静かだが、端末を通して伝わる命令は冷徹そのものだった。瞬時に伝播する指示に、各員の体が反応する。


成瀬は廊下を滑るように走り、角を曲がる。刃先を地面と平行に保ち、気配だけを刈り取る。

桐野は小さな缶を手首で回しながら、毒性反応と痕跡消去用の薬剤を最短で展開する準備を整える。

柾貴は目を細め、短剣を逆手に握り込む。視線の端で瓦礫の陰に潜む“異常”を数カ所マークする。

刹那は屋根伝いに移動し、上方からの奇襲を封じる。響は手のひらで幻術の薄膜を張り、外側からの視界を歪ませる。


「朱音、ユウナ、安全圏へ。ナツメ、側で待機。」玲の冷静な声。朱音は小走りで後方へ誘導され、ユウナは震える手を誰かの袖に隠すようにして従う。ナツメは落ち着いた動作で二人を包むように構える。


通路の向こう、赤いリボンの落ちていた“影の印”の座標で、空間の温度がふっと下がるのを誰もが感じた。空気が重く、音が遠ざかる。奈々の端末に波形が点滅する。篁が封鎖コードを最終展開し、御子柴が干渉痕跡を読み取る。


「接近、左三メートル。微振動検出。」水無瀬の声が短く入る。


成瀬が静かに膝を折り、刃を構え直す。桐野が合図もなく薬剤を撒き、微粒子が霧のように流れ込む。柾貴が一歩踏み出した、その瞬間――


暗がりから動く影が飛び出した。人影だが、その動きは合理を超えて滑らかで、不意に世界のリズムを狂わせる。目にもとまらぬ速度で弧を描き、刃が光る。


「来た」成瀬の短い声。動きが連動する。


柾貴が前に出て、短剣が一閃する。衝撃は音にならず伝わり、影は床に沈んだ。だが、それは始まりに過ぎなかった。影は単独ではなく、複数。周囲の陰影から、さらに幾つもの気配が擦り抜けてくる。


「幻術層、揺らぎ始め。九条、補正を」御子柴の冷静な指示。九条が低く鼻歌のように口ずさむと、幻術の位相が微かにずれる。響の張った膜が震え、敵の視界が一瞬だけずれる。


成瀬は無言で次の相手へ飛び込み、刃を交える。桐野は煙幕状に拡散した薬剤で視線を奪い、安斎が影を追って床へ這いつくばるように接近する。動きは速く、確実だ。誰もが任務の一点――赤いリボンの持ち主の確保と“証拠”の保全――に集中している。


短い、硬質な断続音。足音の間に交じるのは金属の擦れる音と、かすかな息遣い。やがて、刹那が低く告げる。

「一点、確保。幼児反応あり。移送準備。」


「ログ回収班、今だ。影の残滓を吸い上げろ」玲が命じる。端末の操作音が一斉に重なり、如月が暗号化された記録の断片を引き出し、望月が改ざん痕跡の縫い目を突き刺すように解析していく。


数十秒の乱戦ののち、静寂はゆっくりと戻ってきた。倒れた影が通路に散り、薄い血の匂いが立ちのぼる。だが、誰かが確実に守り抜いた証が残る――赤いリボンを握る小さな掌、震えるが確かに生きている証人。周囲には回収されたログと、封じられた干渉の残滓だけが残った。


玲は銃を下ろさず、端末に短く入力する。

「全員、位置確認。負傷者はいるか。証拠は現場保全。移送班は三分で準備。」


桐野が小声で答える。

「毒の拡散は局所のみ。意図的に制御している。負傷は軽微、ただし心理干渉の痕跡あり。」


玲は目を細め、周囲の影を一瞥して短く言った。

「いい。だが、これで終わりではない。出処は明らかになった。次はそこを叩く。全員、準備を。」


霧と静寂の合間に、赤いリボンがわずかに揺れる。誰かが拾い上げ、掌のなかで確かめるように握りしめた。記憶を守るための、次の戦いの始まりを告げる証だった。


時間:午前7時20分

場所:旧市街地下・監理区画最奥通路


安斎は、刃を水平に構えたまま、音を立てずに歩を進めた。

黒鋼の短剣は暗闇を吸い込み、彼の関節に埋め込まれた戦術用メタルが僅かに機械音を漏らす。霧の残香と冷えたコンクリートの匂いが混ざり、空気は濃密だった。


背後では、刹那が屋上の高所を抑え、成瀬が通路ごとに目を走らせる。響は掌を震わせ、幻術の薄膜を薄く張って敵の視線を散らす。玲は端末を握り締め、掌の中の画面で最終座標をなぞり続けた。無線は一切の雑音を立てず、全員が呼吸を揃えているかのようだった。


「安斎、ノイズが上がる。奥三メートル、注意」――如月の低い声がイヤーピースを通じて届く。


彼は一度だけ肩越しに振り返り、誰にも見せぬ表情を見せることなく、再び前へ。短剣の先が、壁に刻まれた古い封印文様の縁を撫でる。そこに残る記憶残滓が、冷たい針のように皮膚を刺す。


最奥の扉は想像よりも薄い抵抗で開いた。内部は狭く、ほとんど人を受け付けないような圧迫感を持っていた。空間の中心に立つのは、複合記録装置の残骸と、床に散らばった赤い糸――リボンの断片。空気に混ざる粒子が、まるで誰かのささやきを運ぶかのように揺れた。


安斎は短剣を一閃、装置の外装を裂く。金属と古い樹脂が軋んで、内部から淡い光が漏れ出す。光は暗闇の中でうねり、記憶の断片が床上に立ち上がった――風景の断章、子どもの笑い、倉庫の炎、そして朱音の小さな手。だがそれらはまだ輪郭が曖昧で、抉られるようにねじれている。


そのとき、空気がひんやりと変わった。何者かが最奥から立ち上がる気配。安斎は刃をゆるめず、ただ一語を低く吐いた。

「出てこい。」


応えはなかった。だが床に散った光の中から、ひとつの影が自ら形を結び始める。人の形をしているようで、人ではない。目の代わりに冷たい針がいくつも瞬き、口は記録の断章を貪るように動いた。


安斎は短剣を構え直す。刃先が震えるのは、息ではなく緊張の波動だけだ。彼の掌は血の冷たさをまるで想定内のように受け止め、体は一瞬の狂いもなく動く準備をしていた。


背後から、玲の声が静かに届く。

「ログ回収班、準備を。こいつを消すな、解体せよ。」


短く、刹那の合図が通路に落ちる。

響の幻術が最大位相に入り、敵の知覚を裂く。成瀬が側面からじわりと詰め、桐野の小瓶が防護霧を噴く。安斎と影は、あらかじめ組まれた輪舞のように動き始めた。


一瞬の呼吸。次の動きで、この最奥の闇が――

消えるのか、記録として残るのか。刃と意志だけが、答えを知っている。


時間:午前7時42分

場所:旧整備局地下施設・階層B7最奥区画


低い唸りを上げる送風機の音が、濁った空気の中に混じっていた。

崩れかけた配線が天井から垂れ、冷たい蛍光灯の明滅が空間を不規則に照らす。


その中心――。


長い外套の男が、背を向けたまま立っていた。

彼の手首には、血のように鮮やかな“赤いリボン”。

それは単なる装飾ではなく、意志を持つかのように微かに脈動し、光を帯びていた。


「……あれが、“記憶の証拠”を操る者。」

詩乃が低く呟く。息が白く揺れる。


安斎は一歩、前へ。短剣の刃先が、淡い光を反射した。

由宇の狙撃ラインがわずかにずれ、響の幻覚が空間を覆い始める。


男は動かない。ただ、ゆっくりと首を傾け、彼らの存在を察知したように笑った。


「ようやく来たか、“記録の守護者”たち。」

その声は、異様なほど澄んでいた。


玲が低く問う。

「お前が――“記憶操作”の発信源か。」


男は静かに右手を上げる。

指先のリボンが、淡く光りながら空気を切り裂いた。


「これは記録でも、記憶でもない。“真実のかけら”を繋ぐ鍵だ。

 だが……君たちが触れようとしているのは、“偽りの方”だよ。」


その瞬間、空間が軋む。

壁が歪み、地面に埋め込まれた記憶断片が共鳴を始めた。

映像が走る――過去の現場、炎に包まれた倉庫、そして朱音の小さな影。


安斎が刃を構えた。

「……戯言はいい。お前の記録ごと、ここで断ち切る。」


男の赤いリボンが、光の鞭となって宙を裂いた。

それは記憶を破壊する刃――現実をも穿つ、“証拠の力”そのものだった。


玲が声を張り上げる。

「影班、全展開――“記録崩壊”に備えろ! ここが、分岐点だ!」


時間:午前7時45分

場所:旧整備局地下施設・階層B7最奥区画


刹那が鋭く視線を走らせ、敵の動きを瞬時に読み取った。

「距離、三メートル。右手に赤い反応。封鎖ラインはこのまま維持。」


安斎は息を殺し、短剣を低く構えながら床を滑るように前進する。

漆黒の外套が揺れ、光を吸い込むように影が伸びる。


敵は微動だにせず、赤いリボンが微かに震える。

その瞬間、刃の閃光が走った――赤い光が空間を切り裂き、安斎の肩をかすめる。


刹那が低く声をかける。

「右から来る、避けろ!」


安斎は素早く体を翻し、刃をかわす。

同時に短剣の先を振り、敵のリボンに小さな切り込みを入れる。

リボンの光が一瞬、弾けるように消え、空間がわずかに静寂を取り戻した。


刹那は即座に反応する。

「安斎、後は任せた。俺がカバーする。」


安斎は微かに頷き、目の前の男に向かって加速した。

短剣を握る手に、無駄のない冷徹な力が漲る。

「……ここで止める。」


床を蹴る音、空気を切る刃の音。

最奥区画に、静かな殺意の波が広がった。


時間:午前7時52分

場所:旧整備局地下施設・通路C12


安斎とシズクは互いに距離を取りつつ、床に沈む微かな振動を感じながら進む。

壁際の湿ったコンクリートに沿って影を伸ばし、周囲の音を最小限に抑える。


シズクが低く囁く。

「左の角に警戒反応。光学センサーか、誰かが潜んでいる。」


安斎は短く頷き、息を殺して前進を続ける。

「赤いリボンの持ち主はここにいる。位置を確実に固定しろ。」


通路の先、微かに光を反射する赤い布片が揺れる。

その揺れだけで、潜む者の存在が明確になる。


シズクが指先で合図を送る。

「3、2、1…侵入。」


安斎は体を低く構え、短剣の刃先を光に沿わせる。

目の前の赤いリボンがわずかに震え、空間に微かな緊張が走る。


「……今だ。」


二人は一瞬の呼吸で行動を合わせ、赤いリボンの持ち主に接近を開始した。


時間:午前7時53分

場所:旧整備局地下通路C12


薄暗い通路に、安斎の低い声だけが冷たく落ちる。

「ここで終わらせる。」


彼の動きは遅く見えたが、実際には瞬き一つ分の速さだった。短剣が閃き、相手が反応する前にその動脈を押さえられる。音はない。布が震え、赤いリボンが指先から滑り落ちて床にぽたりと落ちる。リボンは泥に僅かに濡れ、そこに残された鮮やかさが、廃墟の灰色に不釣り合いに映った。


シズクが無言で確認に寄り、手早く対象の脈を探る。反応はない。彼女は静かに首を振り、報告を返す。

「排除、完了。」


安斎は短剣を拭う仕草も見せず、そのまま鞘に収めようともしない。刃先に付いた痕跡を、無造作に自分の袖で払う。動作は事務的で、感情はそこになかった。彼の声はさらに低く、周囲へ向けられる。

「この地点での痕跡はそのまま保全しろ。ログ回収班、来い。」


刹那の影が角を回り込み、低く答える。

「了解。幼児反応の有無と周辺証拠の確保を同時に行う。」


安斎は短く頷き、通路の奥へ視線を投げる。

「先に進め。次がある。」


濃密だった緊張がほんの少しだけ解け、だがそれは一時のことに過ぎない。赤いリボンは床に横たわり、誰かの記憶を繋ぐ脆い証拠としてそこに残されたまま、次の指示が交わされていった。


時間:午前8時07分

場所:旧整備局地下本部


影班の二人が、まるで影のように静かに部屋に現れた。詩乃は手元の報告書をそっと差し出し、由宇は後ろで微動だにせず周囲を警戒している。


「排除任務完了。対象はすべて制圧済み、痕跡も消去済。」

詩乃の声は低く、風のように柔らかいが、端々に冷静な鋭さが混ざる。


由宇は軽く頷き、指先で報告書の要点を示す。「侵入経路は封鎖済、警戒ラインも異常なし。影班全員、予定通りに動作。」


玲はページをめくり、図表と数字をひと目で把握する。

「よし……無駄な動きはなかったな。作戦は完璧だ。」


詩乃は床に手を軽く触れ、忍びの所作で一礼する。「影の任務、ここにて完了。次の指示を待ちます。」


由宇も背筋を伸ばし、影の如く静かに答える。「全員、生存率も問題なし。任務は成功しました。」


玲は二人をじっと見つめ、静かに息を吐いた。「よし……表の報告もまとめ、次に移る。」


時間:午前9時32分

場所:旧整備局地下最深部


霧のように漂う埃が、薄暗い通路を包んでいた。赤いリボンが手首に結ばれた者は、まるで待ち構えていたかのように静かに身を潜めている。


影班の足音はほとんど聞こえず、だが安斎の存在だけが空気を切り裂くように伝わる。刹那が先行し、狭い通路の両脇を制圧。響が視覚と聴覚のトラップを確認しつつ、通路の奥へと進む。


安斎が低く呟いた。「ここで終わらせる」


その声に合わせるかのように、刹那と響も身構える。赤いリボンの持ち主の瞳に光が宿る――警戒、恐怖、そしてわずかな迷い。


通路の先で、静かなる対峙が始まろうとしていた。


時間:午前9時35分

場所:旧整備局地下通路


闇に紛れた五人の影――安斎、刹那、響、詩乃、由宇――は一糸乱れぬ動きで前進する。呼吸すら最小限に抑え、周囲の微細な音も察知しながら、赤いリボンの持ち主が潜む最奥を目指す。


安斎の声だけが無線に低く響いた。「全員、排除。任務完了まで手は抜くな」


刹那が頷き、響が視界のトラップを再確認する。詩乃は毒と痕跡消去の準備を整え、由宇は全方位の警戒を固める。


目標までの距離が縮まるにつれ、空気が緊張に染まる。静寂の中で、五人の進撃はまさに“死神の行進”の如く、無慈悲な速度で進む。


時間:午前9時42分

場所:旧整備局地下最奥通路


赤いリボンの持ち主が抵抗を試みる。刃を振り、幻惑を仕掛けるが、五人の連携は完璧だった。


安斎は素早く間合いを詰め、接近戦で攻撃を封じる。刹那が影から側面を制圧し、響の幻術が敵の感覚を錯乱させる。詩乃は微細な毒霧で行動を鈍らせ、由宇は全方位を警戒しつつ、敵の逃走経路を封鎖する。


「もう逃げられないぞ」

安斎の低い声が、狭い通路に冷たく響く。


敵の動きは次第に鈍り、抵抗はほとんど意味を成さなくなった。五人の圧倒的実力により、赤いリボンの持ち主は完全に追い詰められた。


遂に本体が姿を現した。長い黒衣に赤いリボンを結んだその人物は、精鋭たちの前に立ちすくむ。


だが、全員の眼差しは鋭く、動きは一糸乱れない。安斎の刃が閃き、刹那の影が横合いを制し、響の幻術が感覚を切り裂く。詩乃の毒霧が動きを鈍らせ、由宇の監視が逃走路を封鎖する。


抵抗する余地はなかった。赤いリボンの本体は、一瞬で無力化され、闇の中に倒れ込む。


「これで……終わりだ」

安斎の声が、静まり返った通路に冷たく響いた。


時間:午前10時03分

場所:旧整備局地下最奥通路


全任務、完了。


五人は無言のまま隊列を整え、倒れた敵の周囲を一巡。影のように静かに後方へ退き、残骸や痕跡を最小限に処理。足音ひとつ、物音ひとつ立てず、現場は元の沈黙に戻った。


「排除完了、全域掌握。異常なし」

由宇の低い声が端末に届く。


「物品・痕跡は全て回収済み。報告書提出準備完了」

詩乃が身を翻し、静かに報告を続ける。


安斎は短刀を収め、動作を止めることなく隊列を抜ける。刹那と響も、互いに目線を交わしながら無言で任務完了を確認した。


全員の所作は無駄なく、まるで風が通り過ぎるかのように静謐で正確だった。

それは新たな未来の始まりを告げていた。


時間:午後15時42分

場所:ロッジ・リビング


任務を終え、空気はひどく静かだった。

朱音は窓際の椅子に座り、柔らかな日差しを浴びながらスケッチブックに向かう。鉛筆が紙をかすかに擦る音だけが響いた。


玲は新聞をたたみ、ソファに腰かける。

「無事だったな」と、短くつぶやく。声には疲労と安堵が混ざっていた。


由宇は窓の外を見つめ、遠くの山肌に目をやる。

刹那と響は隣で、互いに軽く肩を寄せ合い、静かな連帯を感じていた。


詩乃は食器を片付けながらも、目線は朱音のスケッチに留まる。

柾貴は淡々と書類整理を進めるが、その手は微かに震えていた。


窓の外、木々を揺らす風が優しく囁く。

かすかな鳥の鳴き声と、遠くで流れる川の音。

任務の緊張から解き放たれた空間に、ようやく平穏が染み渡る。


朱音が顔を上げ、微笑んだ。

「みんな……ありがとう。」


玲は静かに頷き、短く答える。

「これからも守る。ここにいるみんなを、ずっと。」


部屋の中に、ささやかな温もりと、確かな安心が満ちていた。

任務は終わった。だが、日常の中で、また新たな物語は静かに始まろうとしていた。


朱音はスケッチブックを抱え、詩乃の前にちょこんと座った。

「詩乃さん……今日もすごかったよ。毒の使い方とか、動きの早さとか、全部かっこよかった。」


詩乃は一瞬、目を細めて朱音を見返す。

「……ありがとう。褒められるほどじゃないけど……そう言ってもらえると、少し救われるな」


朱音はにっこり笑い、スケッチブックを差し出す。

「これ、今日の戦いのイメージ描いたの。詩乃さんの動き、ちゃんと描けたと思うの」


詩乃はそのスケッチを受け取り、紙面を見つめる。

線は素早く、鋭く、まさに朱音の目に映った彼女の動きそのものだった。

「……ふふ、悪くない。ありがとう、朱音」


朱音は小さく胸を張り、満足そうに笑った。

「うん! だって、詩乃さんって、本当にかっこいいんだもん!」


静かな午後のロッジに、二人だけの小さな笑い声が溶け込んだ。


時間:午後16時10分

場所:ロッジ・書斎前


朱音は安斎の前に、少し緊張した様子で立っていた。

「安斎さん……今日の動き、すごかった……本当に、早くて、正確で……」


安斎はいつもの無表情のまま、静かに朱音を見下ろす。

「……褒められても、動きは変わらない」


朱音は少し口をとがらせるが、目を輝かせて続ける。

「でも、見てると……安心できるんだ。安斎さんがいると、怖くないって思えるの」


安斎の目の奥で、わずかに光が走る。

「……そうか」


朱音は満足そうに頷き、少しだけ手を伸ばす。

「これからも、みんなを守ってね!」


安斎は一瞬だけ間を置き、静かに頷いた。

「……ああ、任務だ。誰も守るべき対象を間違えるな」


朱音はにっこり笑い、軽く小さなジャンプをしてその場を離れた。

冷静で無表情な守護者の背中に、少女の素直な感謝が残った。


時間:午後16時25分

場所:ロッジ・中庭


朱音はシズクの前に歩み寄り、小さな手をそっと差し出す。

「シズクさん、今日の動きもかっこよかったよ!」


シズクはゆっくりと振り返り、朱音を見つめる。無言だが、その視線には温かみがある。

「……ありがとう」


朱音は目を輝かせて続ける。

「シズクさんがいると、安心できるんだ。どんなに怖い時でも、きっと大丈夫って思えるの」


シズクは少しだけ眉を緩め、朱音の頭を軽く撫でた。

「……そうか。なら、これからも守り続ける」


朱音はにっこり笑い、元気よく手を振る。

「うん! ずっとお願いね!」


無言で静かな守護者と、明るく素直な少女。その間に流れる空気は、言葉以上に確かな信頼と安心で満たされていた。


時間:午後16時45分

場所:ロッジ・中庭


朱音は元気よく由宇の前に駆け寄り、小さな手を握りながら顔を上げた。

「由宇おじちゃん! 今日もかっこよかったよ! すごく頼もしかった!」


由宇は微かに目を細め、肩の力を抜いて笑った。

「そうか……ありがとう、朱音。でもお前も、よく頑張ったな。怖がらずにちゃんと動けた」


朱音は胸を張るようにしてにっこり笑う。

「うん! 由宇おじちゃんがいたから大丈夫だったんだもん!」


由宇は小さく頭を撫で、朱音の頭を軽く押しながら言った。

「……それなら俺も嬉しい。お前の笑顔を守るために、俺ももっと強くならなきゃな」


朱音は元気よく手を振った。

「うん! よろしくね、おじちゃん!」


小さな手と大きな手が重なり、信頼と安心が静かに交わるひとときだった。


時間:午前9時

場所:ロッジ・リビング


朱音は窓辺に立ち、外の光を浴びながらにこにこと笑った。


「みんな、本当にありがとう……!」


詩乃、由宇、安斎、シズク、そして紫苑。

影班も服部一族も、皆揃って微笑む。


「これでやっと、安心して毎日を過ごせるね」

朱音の言葉に、詩乃がそっと頷く。


「……朱音、君が無事でよかった」


安斎は相変わらず無表情だが、少しだけ目が柔らかくなる。

「これからも守る……約束だ」


シズクは静かに立ち、朱音に手を差し伸べる。

「無理はしないことだ。君の安全が最優先」


紫苑は思わず肩を揺らし、笑みを隠せない。

「……じぃじとしても、安心だ」


朱音はその言葉に、嬉しそうに小さく跳ねるように頷いた。


静かな午後、窓から差し込む光が、これまでの戦いと恐怖の影をやわらかく包み込む。

それは、少しずつ日常が戻る、穏やかな始まりの光だった。

【時間】

【場所】ロッジ・リビング


スマートフォンが短く震える。玲が画面を覗き込むと、ユウナからのメールだった。



件名:確認事項

本文:

「玲さん、朱音ちゃんの件、無事で何よりです。

少し落ち着いたら、彼女と会っても大丈夫そうですか?

こちらの資料も整理して送ります。あと、あの“赤いリボン”について、いくつか気になる点があります。


返信待っています。」


玲はゆっくりと画面を閉じ、隣で静かにコーヒーを啜る朱音を見た。

彼の目は穏やかに揺れ、しかしその奥には常に次の警戒が潜んでいた。


「……ユウナか。了解。後で確認しよう」


朱音が肩をすくめて、くすくす笑った。

「おじちゃん、またお仕事?」


玲は短く頷き、画面を胸に抱えた。

この平穏も、ほんのひとときのものに過ぎないのだと、彼は理解していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ