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闇夜の真実  作者: ysk
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3話 影取引ファイル:絵画消失事件

【主要キャラクター(探偵チーム)】


神崎かんざき れい

•年齢:29歳

•役割:探偵・リーダー

•背景:元・警視庁捜査一課の刑事。ある汚職事件の内部告発に巻き込まれ、組織を去る。正義を貫くため独立し、「真実を暴く探偵」として《神崎探偵事務所》を設立。

•事務所への経緯:創設者。自身の正義を貫くために事務所を立ち上げた。



藤堂とうどう 智紀とものり

•年齢:30歳

•役割:現場担当・交渉役

•背景:玲の大学時代からの親友。法律学を専攻していたが、現実の法制度の限界を痛感し、より直接的に人を救いたいと考え転身。

•事務所への経緯:玲からの誘いで、立ち上げメンバーとして参加。以来、相棒として行動を共にする。



鈴村すずむら 拓海たくみ

•年齢:24歳

•役割:情報収集・雑務全般

•背景:元新聞社の研修記者。正義感と好奇心からスクープを追っていたが、玲の事件を偶然取材したことで彼の信念に共鳴。

•事務所への経緯:玲に食い下がるように頼み込み、半ば押しかけのような形で加入。当初は雑用係だったが、今や貴重なサポート役。



宮原みやはら 悠斗ゆうと

•年齢:27歳

•役割:デジタル解析・監視映像分析

•背景:国家情報機関に属していたが、内部の非倫理的な監視体制に嫌気が差し、辞職。玲の事件を調査中に共鳴。

•事務所への経緯:玲の元に匿名で資料提供を続けていたが、ある事件で直接協力。その後スカウトされ、正式加入。



たちばな 悠真ゆうま

•年齢:35歳

•役割:法医学・裏社会担当

•背景:玲の警察時代の先輩。表に出せない捜査や裏の人脈に精通し、玲が孤立した時も静かに支えていた。

•事務所への経緯:玲が事務所を立ち上げた直後、自ら連絡を取り、非常勤ながら協力を申し出た。主に影で支援。



相馬そうま 啓介けいすけ

•年齢:26歳

•役割:フリーのハッカー・外部協力者

•背景:天才的クラッカー。かつて公安が追っていたが、ある事件で玲にだけ敗北を喫し、興味を持つ。現在は半ばフリーランスで情報を売買。

•事務所への経緯:依頼もなく事務所にふらりと現れ、「勝手に手伝う」と言って居座った。正式メンバーではないが、難事件のたびに現れる。



【依頼人・関係者】


倉橋くらはし 理沙りさ

•年齢:33歳

•役割:依頼人(元美術館学芸員)

•背景:真面目な性格で、美術に対する深い理解と誠実さを持つ。過去に美術館での不可解な事件を経験し、今回も密室から絵画が消えたことで玲を頼る決意をする。

•事務所への経緯:玲の過去の事件を新聞で知っており、「真実を暴く」という姿勢に賭けて、自ら連絡を取り事務所を訪れた。



佐伯さえき 俊介しゅんすけ

•年齢:38歳

•役割:事件の犯人/美術館幹部

•背景:表向きは模範的な管理者だが、裏で「影の取引」に関与。自らの地位と利益を守るため、巧妙なトリックとハッキングを使い事件を隠蔽しようとする。

•事務所への経緯:事務所には来ていないが、玲たちの捜査によって存在が浮かび上がり、最終的に逮捕へと至る。

新宿の雑居ビルに佇む《神崎探偵事務所》。年季の入ったエレベーターを抜け、五階の一室に辿り着くと、そこには古びた木製のドアと、擦り切れた金色のプレートが静かに迎えてくれる。まだ眠りの余韻が残る朝、淡い陽光がブラインドの隙間から差し込み、木の床に柔らかな縞模様を落としていた。


コーヒーメーカーの控えめな蒸気音と、漂う深煎りの香り。事務所の中央には、重厚な木製のデスクが一つ。壁際には書類が積まれた本棚、そして窓際には観葉植物がひっそりと置かれている。静寂の中に、生活の気配が溶け込んでいた。


藤堂はデスクにもたれかかり、新聞をぱらぱらとめくるふりをしながら、向かいのソファに座る人物に視線を送った。片方の口角をわずかに上げて、からかうような声を投げる。


「…で、今度はどこの浮気調査? まさかまた“記憶にない一夜”なんて依頼者の決まり文句に騙されたんじゃないでしょうね、神崎さん?」


ソファに深く腰を沈めていた神崎は、手にしたカップを軽く揺らした。琥珀色のコーヒーがわずかに波打ち、光を受けて揺れる。眠たげな目を細め、低く呟いた。


「騙されたっていうより…興味が湧いたんだよ。『影が動いた気がする』なんて、普通は夢か見間違いで片付ける。でも彼女は違った。妙に確信めいてた。」


藤堂は眉をひそめた。「影…?」


神崎は小さくうなずくと、ブラインド越しの光を見つめながら言った。


「そう。…影の中に、誰かがいた。そんな風に言うんだ。ねぇ、藤堂。そういう依頼ってさ、わりと俺たち向きじゃないか?」


静かな事務所に、時計の針が一秒ずつ刻む音が響く。どこか異質な空気が、陽光の中に忍び込んできていた。


――影を通過した“何か”が、この静けさを切り裂く前触れのように。


「玲、お前のデスク、そろそろ発掘作業が必要なんじゃないか? もしかして、そこに失われた文明の遺跡でも隠してるのか?」


藤堂が笑いをこらえつつ言った。カップを片手に、スーツのジャケットを軽く羽織ったまま、彼は気怠げにソファの肘掛けにもたれている。


神崎玲――この事務所の主であり、私立探偵。やや長めの前髪を指でかき上げ、散らかったデスクを一瞥した。書類、ファイル、メモ用紙、電子端末、かろうじて残っているペン数本。明らかに“管理”より“放置”という言葉が似合う混沌の山。


「発掘ってほど大袈裟なもんじゃないさ。少なくとも、ここは俺の脳内より整理されてる。」


玲は肩をすくめて、メモの束の中からひとつの書類を抜き出した。手馴れた動作。乱雑に見える山にも、彼なりの秩序があることを物語っていた。


「それ、第三層の左奥だろ。三日前の聞き込み記録。」


藤堂が眉をひそめる。「……マジで? まさか全部把握してるのか、それ。」


「感覚でな。記憶に、多少“タグ”をつけてるだけだ。」


玲がそう答えると、室内にコーヒーメーカーの控えめな電子音が鳴った。カップに注ぎながら、ふと、資料の山からひらりと一枚の紙が滑り落ちた。


床に舞い落ちたのは、焼け焦げた端を持つ、古びた映画の半券。日付は――十年前。印刷は擦れ、だが確かに読み取れる。


玲の手が止まった。


「……あれ、それ、何のチケットだ?」


藤堂が無造作に覗き込んでくる。だが玲は答えない。目は過去の彼方――記憶の奥底の何かをたぐるように、その紙片をじっと見つめていた。


「……十年前の夜に……あの倉庫の、近くで拾った。ずっと忘れてた。」


室内の空気が、わずかにざらついた。


窓の向こう、隣のビルの隙間に、不自然に“揺れる影”が一瞬映る。


誰の気配もないはずの部屋の片隅で、静かに空気が脈打つような気がした。


玲はチケットを机に戻し、静かに呟く。


「また……来たか。」


沈黙の中、どこからか聞こえる時計の針の音が、一層鮮明に響いた。


二人の軽妙なやり取りが、まだ薄暗い事務所の中にほのかな温もりを運んでいた。窓から差し込む朝陽は、ホコリ交じりの空気を金色に染め、その残照の中で、藤堂がカラフルな菓子の袋を誇らしげに掲げている。


藤堂の手のひらには、小粒のグミやチョコ、ビタミンキャンディが雑多に詰まっていて、まるで宝石箱を開けたかのようにキラキラと輝いていた。舌打ちにも似た笑みを浮かべ、彼は自慢げにひとつをつまみ上げて言う。


「ほら見ろよ。糖分は集中力の源だって、科学的にも証明されてんだぞ! これ一粒で午前中の捜査が乗り切れるってもんだ」


軽やかな仕草で袋を振るたび、ビルの薄暗い屋内でも、まるでカラフルな蛍が飛び交っているかのように見えた。藤堂は鼻の下を伸ばしてさらに続ける。


「それに、甘いもので頭が活性化すれば、どうせ溜まってるあの書類の山もサクサク片付くってもんだ。ねえ、玲さんも一粒どうだ?」


しかしデスク脇のホログラム端末に視線をまっすぐ向け、指先を高速で動かし続ける宮原は、菓子の袋がひらつく音すら聞こえないかのように、淡々とした口調で返した。


「糖分の摂りすぎは身体に悪い。ミトコンドリアの過剰酸化が進行すると、逆に集中力が低下しかねないんだが」


宮原は言いながらも、その手は止まらない。眼前には浮かび上がった虚像──いくつもの窓を持つ3Dモデルの建物と、そこに設置された監視カメラの映像がホログラムとなって映し出されていた。電光のように切り替わる映像を指先でつまみ、表示を細かく配置し直している。


「――特に午前中は、ブドウ糖が一気に血糖値を乱高下させて、かえって眠気の原因になりやすいんだ。自律神経失調を防ぐなら、まずは少量ずつ、長時間かけて摂取すべきだ」


言葉と動作の端々に、理知的かつクールな佇まいがにじむ。淡々と語りかけながらも、その眼差しは――スクリーン上の映像と、事務所の隅に積み上がったファイルの山を交互に走り、おそらく最善のホログラム配置を探している。


藤堂はそれを聞いて、くすくすと鼻を鳴らした。菓子をひとつ口に放り込みながら、目元を細める。


「へえ、健康志向かよ。ま、俺も知ってるぜ。……ただの言い訳ってやつだろ? お前のあの真面目な顔を見てると、甘いもんどころか、コーヒーすら飲んでないんじゃないかって気になってくるぜ」


藤堂がからかうようにそう言うと、宮原はわずかに顔を上げた。端末の画面の明かりが彼の横顔を照らす。まだ完了していないホログラムの設定を確認しながら、静かに言い返す。


「確かに、俺はコーヒーもブラック一択で、菓子に手をつけることはまずない。だが、捜査と分析中に甘いものをつまんでいる時間があったら、ホログラムの新しいアルゴリズムを一行でも書いたほうが、よほど有益だと思うだけだ」


その言葉に、藤堂は肩をすくめて笑った。ふたりの間には、拮抗した知性のぶつかり合いと、長年の信頼関係が感じられる。外からはまだ通勤ラッシュの喧騒がかすかに聞こえてくるが、事務所内には別のリズムが流れていた。


淡い朝陽に照らされる探偵事務所の一角で、藤堂と宮原のやり取りは、言葉少なでも互いをよく知るがゆえの“温度”を孕んでいた。そこには、甘いものをめぐる突き刺すような論戦とともに、長年すり合わせてきた知識や嗜好の微妙なバランスが潜んでいる。


藤堂が再び袋を振りながら提案する。


「じゃあさ、それなら一粒だけ……俺の健康を考えて“低糖タイプ”のやつを持ってきたからさ。一口くらいいってみろよ、集中力アップのおまじないだって思えばさ」


宮原は一瞬だけ眉をぴくりと動かした。それから端末をいったんスリープモードにし、薄い唇を真一文字に結ぶ。


「……わかった。一粒だけだぞ。あとでホログラムのバグを見逃したら、その責任は全部お前に取ってもらうからな」


藤堂はやった、と言わんばかりに満面の笑みを浮かべ、袋からひとつのキャンディをそっと差し出した。宮原はそれを受け取る前に数秒ほどじっと見つめ、慎重に封を裂く。


――パキリ、と小さな音を立てた包装フィルムの破片が、朝の光を受けてキラリと光る。


宮原は小さくひと息つき、飴玉を口に含んだ。しばし沈黙が続く。藤堂は満足気に観察し、宮原が味わう表情を探る。


やがて宮原は目尻をわずかに緩め、端末のホログラム画面へ視線を戻した。


「……確かに、頭の回転がほんの少し速くなった気がする。午後の分析にも悪くないかもしれないな」


藤堂は人差し指を高く掲げ、小さくガッツポーズを決めた。


「ほらな? 言っただろ。糖分は集中力の源って!」


宮原は画面に手を伸ばしながら、


「ただし、これを常食にしてマルチタスクを両立させる気なら――ちゃんと運動も取り入れないとな」


と、さらなるアドバイスを続ける。その言葉もまた、彼の冷静な頭脳と、過剰摂取を戒める配慮が伝わってくる。


――事務所の中は再び静寂に包まれ、淡い光とふたりの息遣いが、ゆったりとした調和を描いた。


この朝のひとときが終われば、いよいよ一日の捜査が本格的に始まる。だが今しばらくは、糖分とホログラムという、それぞれの“専門”を武器にした論戦が余韻として続いていくのだった。


和やかな空気を切り裂くように、事務所の扉がノックもなく、まるで誰かの意志すら感じさせないほど静かに――しかし不気味なほど滑らかに開いた。


キィィ……という軋みさえ聞こえず、重たい扉が外気と室内の境界を裂くように、ゆっくりと開かれていく。


事務所の扉が重々しく開かれ、外の朝の光とともに、どこか非現実的な冷たい空気が流れ込んできた。まるで外の世界から切り離されたように静まる室内に、硬質なヒールの音が一歩、また一歩と響く。


入ってきたのは、一見して隙のない端正なスーツを身にまとった女性――倉橋理沙。


切りそろえられたショートボブに、冷静な瞳。彼女の歩みには一分の揺らぎもなく、その佇まいからは企業の法務部や検察にいた経歴を思わせる、隠せない鋭さと威圧感が漂っていた。


神崎(玲)がその姿を見て小さく息を呑む。


「……倉橋理沙か。あんたがここに来るとは、珍しいな」


「個人的な依頼よ」と、彼女は言葉を返しながら、迷いなく神崎のデスクに近づく。


そして、片手に持っていた厚手の封筒から一枚の写真を取り出し、机に叩きつけるように置いた。


ぴたりと止まった彼女の仕草と、封筒が机に当たる乾いた音が、まるで銃声のように空気を切り裂いた。


神崎、藤堂、宮原――誰もがその写真に目を向ける。


それは、一見するとただの風景画。


けれど、細部を見ればその筆致には異様なほどの繊細さが宿り、夕暮れの林に射し込む光の表現は、まるで見る者の記憶を揺さぶるような錯覚を与えた。


しかしその写真には、一目見てわかる“異様さ”があった。


額縁もなく、保管状況も不明瞭な状態で撮られたその絵は、まるで盗撮されたかのように不自然で――そして何より、その絵の中央に立っているはずの人物が、完全に抜け落ちていた。背景だけが異様に鮮明に、そして妙に生々しく写っていたのだ。


倉橋が低く、冷ややかな声で告げた。


「この絵が、密室から消えたの。警報もなかった。鍵も壊されていない。誰も入れないはずの部屋から、忽然と。」


神崎が写真を手に取り、視線を細める。藤堂も身を乗り出しながら、ぽつりと呟いた。


「まるで……絵のほうから出て行ったみたいだな」


倉橋の瞳が鋭く光る。


「冗談じゃないの。問題は、その絵を描いた画家――古藤陽一郎も、同じ日に行方不明になっていることよ」


宮原が素早くホログラムを操作し、照合を開始。


「古藤陽一郎……三ヶ月前に都内で個展開催。その直後に隠棲、アトリエは封鎖されてるはずだ。密室の現場は?」


「彼の自宅の地下室。アトリエとして改装された空間。唯一の出入口はセキュリティ付きの鋼鉄ドア。開閉記録はゼロ。部屋の空気圧すら変化がなかったと記録されている」


神崎が低く唸るように呟いた。


「密室から絵と人間が消えた……“現実側”の犯行か、それとも……」


彼の言葉の終わりが不意に曖昧になったのは、背後の気配に気づいたからだった。


――また、影が揺れた。


誰も動いていないはずの事務所の片隅で、コート掛けの下に落ちた光が、ありえない方向に“歪んだ”。


ほんのわずか。けれど確かに、“そこに何かがいた”。


神崎の眼差しが、次の瞬間、鋭く研ぎ澄まされた。


「倉橋、この絵……過去に“記録干渉”を受けた形跡は?」


「……それを調べられるのは、ここだけよ」


沈黙。


そして、神崎探偵事務所の空気が、再び変わり始めた。


依頼ではなく、“記憶”そのものを解き明かす戦いが、いま静かに幕を開ける――。


倉橋理沙は短く息をつき、すぐに応じた。


「地下にある専用展示室。面積は約12平方メートル。出入口は一か所のみ、前室を通らないと入れない構造よ。ドアは指紋認証付きの電磁ロック、監視カメラも複数設置されていたわ。だが――その映像には“誰も出入りしていない”」


玲は眉間に深い皺を刻み、写真の奥にある違和感を見極めようとするかのように凝視した。その手元にある写真の中で、風景は静かに、しかし妙に“生きている”ような気配を放っていた。


「窓は?」


「ない。地下構造だから、採光口も換気口もすべて上部に集約されていて、完全に管理下にあった。絵があった場所の周囲には、赤外線センサーも仕込まれていた。なのに、警報も一切鳴っていない」


玲は目を閉じ、頭の中で構造を組み立てるように口を動かす。


「ドアもセンサーも、突破された形跡なし。空間は閉じている。……となると、絵と画家が同時に“消えた”のではなく、“消された”と考えるべきか」


藤堂がソファに身を乗り出し、低い声で補足する。


「監視カメラの映像が改ざんされた可能性は? たとえば、外部から侵入したハッカーに……」


宮原が即座に首を振った。


「無理。映像はスタンドアロンの保存媒体に自動的に記録され、ネットには一切つながってない。しかも、記録の連続性に“空白”すらなかった。……映ってないんじゃなく、“本当に何も起きてないように見える”」


玲が再び写真を見やる。夕暮れの林。茜色の空。写っているのは確かに風景だけ――だが。


「……これ、構図がおかしい」


倉橋の眉がぴくりと動いた。


「構図?」


玲は写真を傾けて見せた。


「中央の空白。通常なら被写体があるべき場所に、木も光も“ない”。自然に見えて、違和感のある“消失点”が設定されてる。これは偶然じゃない。最初から“誰かがそこに立つこと”を前提に描かれてる構図だ」


藤堂が唸るように言った。


「つまり、その“誰か”が……絵から抜けた?」


玲はその冗談のような言葉に、返さなかった。ただ、静かに写真を伏せ、眼差しを倉橋へ向ける。


「これはただの盗難事件じゃない。絵は鍵だ。“見た者の記憶”に作用する絵かもしれない。……誰か、この絵の“中”にいたのかもしれないな」


事務所内の空気が、一瞬で冷えた。


そしてまた、誰かが見た気がした。


壁際の影――そこに、微かに揺れる“人影ではない何か”の輪郭を。


まるで、すでにこの空間に“第三者”が入り込んでいるかのように。


その瞬間。


ホログラムの映像に、一瞬だけノイズが走った。


ザザ――。


展示室の奥の影に、輪郭のぼやけた“何か”が現れて、消えた。


一同の視線が固まる。


宮原がホログラムのログを急いで巻き戻すが、そこには何も映っていない。


「今のは……?」


玲の声は低く、しかし確信に満ちていた。


「……絵は、閉じた空間ではなく、“開かれた出入口”だった。あの展示室は密室じゃない。“外側”から入ってきたんだよ――“常識の外側”からな」


そしてその時、誰かが――それが誰であるかすら、誰にもわからなかった――呟いた。


「……戻ってきてはいけなかったのかもしれないね。あの絵は。」


事務所の奥で、ほんの一瞬、壁際の影が揺れた。誰かの視線をなぞるように。


倉橋は唇を強く噛み、かすかに震える声で続けた。


「私がかつて勤めていた美術館でも、同じような事件があった。やっぱり“絵”が消えたのよ。誰にも気づかれず、痕跡も残さずに。」


玲の眉がわずかに動く。倉橋の言葉は、ただの偶然では済まされない響きを持っていた。


「同じような事件……それはいつのことだ?」


「――八年前。場所は銀座のアカリエ美術館。あの時も、展示中の一点が忽然と消えたの。カメラにもセンサーにも何も記録されていない。展示室は完全な密室で、関係者は私を含めて四人。けれど……誰も犯人ではなかった。」


彼女の手は机の端を掴んでいた。震える指先を玲は見逃さなかった。


「“その絵”も、視覚操作が施されていたのか?」


倉橋はゆっくり首を横に振る。


「いいえ。そちらは写実的な静物画。特別な仕掛けはなかった。でも……共通点がある。」


彼女はバッグからもう一枚の写真を取り出した。それは失われた絵の複写と思われる画像――だが、どこか異様だった。筆致が微細すぎるほど精緻で、背景の遠景がこちらを見ているかのような圧迫感があった。


「この絵を描いた画家、“蓮見昴はすみ こう”……彼の名を知っている?」


玲と宮原、藤堂が同時に首をかしげる。


「聞いたことがないな。」


「それも当然。彼は、美術界の記録から“抹消されている”画家なの。作品も、経歴も、存在そのものが、何かの力で……」


倉橋の声が震える。彼女の瞳は、まるでその“何か”を見た者にしか持ちえない、忌まわしい記憶の色を帯びていた。


「私は一度、彼の“遺されたアトリエ”を見たの。忘れようとしても、夢に出てくる……。そこには、壁一面に描かれた“目”があった。視線を逸らしても、どこまでも追ってくる……そんな“知覚”が塗り込められていたのよ。」


沈黙。


誰も言葉を発しなかった。


玲が静かに椅子から立ち上がる。


「――蓮見昴、か。ならば、まずはそいつの過去を掘る必要があるな。存在を消されているなら、消した者がいる。」


宮原がすでにホログラムの検索を始めていたが、画面は空白を示していた。


「……検索不能。登録なし、照合不能。学籍、戸籍、美術協会データベース……どこにも記録がない。まるで“最初から存在しなかった”ような消え方。」


「消したんじゃない。“見えなくした”んだ。」


玲の声が事務所に落ちる。


「その絵に関わる者は、何かを“見る”ことで、何かを失う。――ならば、俺たちはそれを見破る必要がある。」


その瞬間、宮原のホログラムが再び一瞬だけ乱れた。


ザザ……


画面の片隅に、ノイズのような“目”が浮かび、すぐに消える。


空気が凍りつく。


藤堂が低く呟いた。


「……絵が、俺たちを見ているのか?」


倉橋が、わずかに泣きそうな笑みを浮かべた。


「いえ――もう、見られているなんて段階じゃないの。“あれ”は、私たちの“内側”に入ってくるの。」


静寂が、何よりも重たく事務所にのしかかった。


その瞬間、橘悠真の表情が険しく変わる。空気が一層張り詰めた。


「この絵は、過去にも一度“消えた”。まるで存在そのものが影に溶けるように…裏社会では、これを“影の取引”と呼ぶのさ。」


藤堂が腕を組み、低く唸るように言う。


藤堂の唸り声が、神崎探偵事務所の静謐な空間に重く響く。


「影の取引……ただの伝説だと思ってたが、実際に起きてるのかよ。存在が“影に溶ける”なんて、まるで都市伝説そのものじゃないか。」


玲が鋭い眼光で橘を見据えた。


「具体的にはどういうことだ?影の取引とは?」


橘悠真はゆっくりと身を乗り出し、声を潜めて説明を始めた。


「影の取引は、情報も物も“消す”だけじゃない。関わった者の存在や記憶まで、文字通り影に溶かしてしまう。それは、表に出せない秘密を完全に葬り去るための闇の手法だ。だが、その代償は大きい。影に飲まれた者は、ただ消えるだけじゃなく、痕跡すら残さず消失し、関係者に“影の呪縛”をもたらす。」


宮原が眉を寄せ、端末を操作しながら言った。


「“影の呪縛”とは……?」


橘が一瞬だけ目を閉じ、重い口調で答える。


「関わった者は皆、無意識のうちに“見てはならないもの”を見てしまう。それは精神を蝕み、正気を失わせることもある。過去の事件で何人もその犠牲になっている。」


藤堂がふと遠くを見つめるように呟く。


「つまり、この絵と関わった人間は、ただの被害者じゃない。知らぬ間に“影の取引”の闇に足を踏み入れてしまったんだ。」


玲は拳を握り締め、低く呟いた。


「俺たちは、その影の呪縛の正体を暴き、そして…誰かを、何かを守らなければならない。」


倉橋の目に、微かな光が宿った。


「“守る”……それが私たちに課せられた使命なのね。」


事務所の窓から差し込む朝陽が、彼らの背中を優しく照らし出した。外の世界は、まだ静かに時を刻んでいる。だが、彼らの戦いは、今まさに始まろうとしていた。


橘悠真は写真をじっと見つめながら、さらに詳しく語り始めた。


「この絵、実は20世紀初頭に一度“消失”しているんだ。美術館で展示されていたある日、突如としてその姿が消えた。誰も消えた瞬間を見ていなかった。捜索は徹底的に行われたが、盗難説や超常現象説が飛び交う中で難航したんだ。」


藤堂が腕を組み、眉をひそめる。


「で、その絵はどうなったんだ?」


橘は目を伏せ、静かに続けた。


「数年後、地方の古い倉庫で偶然発見された。ただ、見つかった絵にはわずかな変化があった。色味が微妙に変わっていたり、細部のタッチが違っていたり。専門家でも説明できない不自然な違いがあったんだ。」


玲はその話を聞きながら、静かに拳を握り締める。


「つまり、ただの盗難じゃない。これは資金洗浄や裏の資産移動の一環として使われている可能性が高い――影の取引の闇は、俺たちが思っている以上に深く、複雑だ。」


倉橋が厳しい表情でうなずく。


「表に出せない何かが、そこにある。消えた絵は、単なる物質以上の意味を持っているのかもしれないわ。」


宮原は端末の画面を見つめながら、冷静に言った。


「この謎を解かなければ、次に何が起きるか予測できない。影の呪縛に巻き込まれる者が増えるかもしれない。」


静かな事務所の中、誰もがそれぞれの覚悟を胸に、次の行動を見据えていた。外の街は今日も無邪気に動いているが、その影には深い闇が確かに潜んでいるのだった。


その時、事務所の空気は凍りついた。


静寂を切り裂くように、扉が軋む音と共に開かれる。その場にいた全員が反射的に視線を向けた。


「へえ、面白い話してるね。」


低く、鋭い声が響く。薄暗い廊下から姿を現したのは、情報分析のプロ——相馬啓介だった。冷徹な瞳が室内を一瞥し、唇の端をわずかに吊り上げる。


「相馬啓介。ハッカーだ。君たちの手に負えない話なら、僕が見てあげるよ。」


事務所の空気が一瞬にして張り詰めた。相馬啓介の冷たい視線が一人一人を射抜き、その存在感はまるで氷の刃のようだった。

藤堂が軽く身を乗り出し、挑戦的な笑みを浮かべる。

「おや、相馬か。ここで何の用だ?まさかまた、厄介ごとに首を突っ込むつもりか?」


相馬はゆっくりと室内を歩きながら、手に持った小型の端末を軽く叩いた。

「僕は裏側の世界を知り尽くしている。君たちの“影の取引”も、そう遠くないうちに表に出るだろうね。ただし、僕の協力なしには解けないパズルだ。」


玲はじっと相馬を見据え、冷静に答える。

「協力するかどうかは、条件次第だ。無闇に騒ぎを大きくしたくはない。」


相馬は一瞬だけ目を細め、意味深な笑みを浮かべた。

「条件ならある。だが、それは後で話そう。今は、君たちが知らない“何か”が動き始めていることを知らせに来たんだ。」


彼の指先がホログラム端末に触れた瞬間、青白い光が弾けるように広がり、空間に浮かび上がるセキュリティログの映像が鮮明に変化した。ログはまるで生き物のように脈打ち、不自然な波形が画面上を踊る。


「見ての通り、監視カメラの映像には、明らかな改ざんの痕跡がある。しかも巧妙だ。普通のハッカーなら到底ここまではできない。」


彼の声は冷静だが、その瞳の奥には鋭い光が宿る。

「この改ざんはただの隠蔽工作じゃない。誰かが意図的に“影”を消そうとしている。消されたものは絵だけじゃない。関わった者たちの足跡までもが、記録から消されている。」


藤堂が顔をしかめ、重い口を開く。

「つまり、表には出てこない“何か”が、確実に動いているってことか…」


相馬はうなずきながら、画面に指を滑らせてさらに深層のデータを引き出す。

「そして、この影の裏には“人間の手”がいる。技術だけでは解決できない闇だ。」


室内の温度が一段と下がったように感じられ、誰もが背筋に冷たいものを覚えた。


「見ろ。防犯システムのログに、不自然な“沈黙時間”がある。それだけじゃない。外部からのアクセス痕跡も確認した。」


玲が鋭い視線で問いかける。「誰がやった?」


相馬はデータをさらに解析し、画面に浮かび上がるコードの中から一つのIDを冷淡に指差す。


「理沙——君の元同僚、佐伯俊介だ。展示室のセキュリティ設定に一度だけアクセスしている。それも、事件当日の未明に。」


倉橋はその言葉に呆然とし、唇を震わせながら呟いた。


「まさか…彼が?」


倉橋理沙の顔に青ざめが広がり、瞳が揺らいだ。かすかな声で震えるように続けた。


「佐伯俊介は、かつて私が信頼していた同僚だった。だけど…最近は連絡も途絶え、彼の動向は掴めていなかった。」


玲は画面を凝視しながら、さらに問い詰める。


「彼が何のためにセキュリティにアクセスしたのか?その動機は?」


相馬は無表情のまま解析を続け、データの奥から断片的な通信ログを拾い上げた。


「不審な通信が複数、佐伯のIDを経由して外部とやり取りされている。内容は暗号化されていて解読できないが、アクセスは断続的で計画的だ。」


藤堂が腕組みをし、重くつぶやく。


「つまり、佐伯俊介は事件の黒幕か、それとも誰かに操られている可能性があるってことか…?」


倉橋は俯きながら、胸の内を吐露する。


「彼が何を考えているのか、今の私にはわからない。でも…このまま放置できない。」


玲が静かに頷き、事務所内に緊迫した空気が漂った。

誰もが、真実へと続く闇の深さを改めて実感していた。


宮原が映像を拡大し、展示室の出入り記録を照合する。

「展示ケースの開閉ログは、確かに深夜2時に作動している。ただし、警報は鳴っていない。」


藤堂が眉をひそめた。「まさか、展示ケースそのものが細工されてたってことか?」


宮原が指先でホログラム映像を操作しながら、説明を続けた。


「警報が作動しなかったということは、ケースのセンサーか警報システムに何らかの改ざんがあった可能性が高いです。外部からのアクセスログもあることから、遠隔操作で警報を無効化できたと推測されます。」


藤堂が視線を鋭くし、唸るように言った。


「なるほど…つまり、犯人は展示ケースを物理的にこじ開けたわけじゃなく、内部から“無音開錠”したってことか。」


倉橋が小さく息を呑み、震える声で言葉を重ねた。


「そんなことが…許されるなんて…私たちの信じていた美術館のセキュリティが…」


玲は冷静に言葉を続けた。


「ここまで来ると、内部に協力者がいる可能性も否定できない。佐伯俊介だけじゃなく、ほかにも目配せしている者がいるかもしれない。」


宮原が頷きながら、さらなる調査の必要性を示した。


「これから、防犯カメラ映像の細部まで解析し、異変の兆候を探します。見逃したものが必ずあるはずです。」


室内の緊張感が一段と増し、皆の視線が一つに結ばれた。

事件の闇は、まだまだ深く続いていた。


玲が頷く。

「絵画の裏にマグネット式の仕掛けがあるな。ガラス面を伝ってスライドするタイプだ。ケースに傷があったって言ったな、倉橋。」


倉橋はハッとしたように目を見開き、うなずいた。


「ええ……展示ケースの右端、目立たないけれど、細い擦れ傷があったの。清掃スタッフが報告してきた時は気にも留めなかったけど……今思えば、あれは不自然だった。」


玲はホログラムに再び目を向け、展示ケースの構造図を呼び出す。ガラス面にそって、裏から取り付けられたマグネットレールの経路をなぞるように指を滑らせた。


「つまり、絵画の裏に仕込まれたマグネット機構が、外部からの指令でガラス面をスライドした。完全密室で、警報も作動せず、誰にも気づかれずに“絵”だけが消える。そのための仕掛けが、最初から絵に組み込まれていたってわけだ。」


相馬が低く呟いた。


「なら、絵を運び込んだ“搬入業者”も、グルの可能性があるな。展示直前に絵を確認したのは誰だ?」


倉橋は目を伏せ、小さく答える。


「…佐伯俊介よ。彼が最後にチェックして、封印のテープを貼った。私も立ち会っていたけど、そのときは何も…」


藤堂が苛立ったように口を挟む。


「用意周到な手口だ。この仕掛けごと仕込むには、相当な技術と、時間、そして美術品に精通した知識がいる。」


玲が静かに結論を出した。


「つまりこれは、“芸術盗難”を装った、高度なインサイダー犯罪だ。痕跡が薄いのも納得だ。」


沈黙が落ちる。

だが、その沈黙の向こうに、次なる“気配”が、確かに忍び寄っていた──。


相馬が指を弾く。「今、佐伯の端末から位置情報を取得した。渋谷の倉庫だ。」


玲が立ち上がり、コートを羽織る。「行くぞ。」


藤堂がすぐに立ち上がり、銃型のセンサーを腰に装着しながら玲の隣に並ぶ。


「俺も行く。奴が本当に“消えた絵”の鍵を握ってるなら、話は早い。」


宮原はホログラムを操作しながら頷く。


「倉庫の構造と周辺マップを転送する。出入口は西側と地下搬入口の二つ。監視カメラは稼働してるが、どうも一部に盲点がある。」


相馬は端末の画面を斜めに傾け、玲に見せる。


「彼の端末、まだ動いてる。ただ……動きが鈍い。固定されてるか、誰かに奪われた可能性もある。気をつけろ。」


倉橋は拳を握りしめた。


「私も行くわ。彼が裏切っていたのなら……私の目で確かめたい。」


玲が一瞬だけ視線を交わし、静かにうなずいた。


「自己責任でついてこい。途中で迷ったら置いていく。」


そして、神崎探偵事務所の扉が再び開かれる。

冷たい朝の空気が入り込み、緊張を帯びた沈黙の中、一行は渋谷へと向かった。


──目的地:渋谷第五倉庫。

そこには、失われた“影”の真実が待っていた。


倉庫の内部は薄暗く、湿気と古びた木材の匂いが漂っていた。埃を被ったコンテナや資材の隙間に、ひときわ異質な存在——例の風景画が、無造作に立てかけられていた。だが、その周囲だけがまるで別の空間のように静まり返り、まるで“絵”そのものがこの場所の主であるかのような威圧感を放っていた。


藤堂が絵に駆け寄り、慎重にライトを当てる。


「間違いない。本物だ…だが、なぜこんな場所に?」


その時、倉庫の奥から物音がした。玲が素早く身を翻し、声を放つ。


「出てこい。手は見えている。」


ゆっくりと姿を現したのは、痩せぎすで神経質そうな男——佐伯俊介だった。スーツの襟元は乱れ、顔には疲労と諦めの色が浮かんでいた。逃げるそぶりもなく、彼はただその場に立ち尽くし、呟いた。


「……俺はただ、回してただけだ。“影の取引”の流れに乗っただけさ。あの絵は……依頼主から回ってきただけなんだ。本当の持ち主なんて、誰も知らない。俺たちはただ、影を動かしてるだけなんだ。」


玲はゆっくりと歩み寄り、その言葉を沈黙の中で噛み締めながら、スマートフォンを取り出して通報する。


「こちら神崎玲。絵画盗難事件の容疑者を確保。渋谷第五倉庫、座標送る。」


警察への通報を終えたあとも、玲の視線はしばらく佐伯から離れなかった。

その眼差しには、怒りでも同情でもない、ただ底知れぬ「思考の深み」が揺れていた。


相馬が低く呟く。


「奴は“操られていた”というより、“飲み込まれてた”んだな。影の経路をたどるには、もっと深く潜る必要がある。」


倉橋は絵に近づき、その表面にそっと触れる。

風景画の中の空は、わずかに以前と色が違っていた。


「……また、変わってる。前に見たときと、色調が微妙に……これは、“記憶”を吸ってる……?」


玲は無言でそれを聞きながら、警察のサイレンの音が遠く近づいてくるのを待っていた。


闇の中で回る“取引”と、記憶を孕む絵画——

彼らはまだ、ほんの入り口に立ったばかりだった。


◆ エピローグ(詳細描写)


《神崎探偵事務所》の窓辺には、午後の光が斜めに差し込み、カーテン越しに淡い陰影を落としていた。事件を終えた空気はまだどこか張り詰めた余韻を残しながらも、室内には確かな安堵が流れていた。


倉橋理沙は深く頭を下げると、震える声で言葉を紡ぐ。


「ありがとうございます……。あの絵を守れただけじゃない。私自身が、過去と向き合う勇気をもらいました。」


玲はデスクに肘をつき、視線を落としながらも、まっすぐな声で応じた。


「過去は消せない。でも……未来は選べる。選んだ先に立ち続けること、それが生きるってことだ。」


その言葉に、倉橋はゆっくりと顔を上げ、玲の静かな瞳を見つめた。そこには、犯した罪も、守った真実も、すべてを抱えながら歩んできた者の覚悟が宿っていた。


藤堂がコーヒーを淹れながら軽く笑う。


「さて、次は甘い菓子でも用意しておくか。今度は事件じゃなくて、穏やかな午後の語らいを期待したいね。」


宮原は苦笑しながらホログラムを畳み、端末を机の隅に戻した。


「だといいけど。さっき、K部門からデータの照合依頼が入ってた。何か、また面倒そうな気配がある。」


玲の目がわずかに細められた。


「予感か。……悪くない。」


倉橋が出口へ向かいながら、もう一度小さく頭を下げる。背筋は先ほどよりもずっと真っすぐだった。


扉が静かに閉まると同時に、再び事務所に静寂が戻る。


午後の陽射しが机上のファイルに落ち、わずかにページがめくれた。


その下には、新たな依頼書の一片——まだ誰の目にも止まっていない、薄い灰色の封筒。


探偵たちの日常に終わりはない。

そしてまた、新たな“影”が、静かに輪郭を現し始めていた。


◆ 次回予告詳細:《眠れる遺体と硝子の檻》


朝の静けさを切り裂くように、ホログラムが切り替わる。

壁際の投影面に浮かび上がったのは、冷たい光を帯びた一枚の現場写真。

そこには密閉されたショーケースの中、まるで眠るように横たわる遺体。

ガラスに囲まれたその姿は、あまりにも静かで、あまりにも不自然だった。


藤堂は新聞を折りたたみ、額に手をやって低く呟いた。


「また厄介な事件が動き始めたな……“遺体は死後数時間経過”とあるが、密室で、監視カメラも生体センサーも突破されていない……」


玲は無言のまま、ファイルの中に記された報告書へと視線を落とす。

その文字列は明らかに何かを秘めていた。


調査対象

・事件現場:都内の現代アートギャラリー「Galerie Lucide」

・被害者:今のところ不明

・状況:閉館後の展示室にて“生体展示”の演出中に死亡。外傷なし。

・展示ケースは防弾強化ガラス製。開錠ログなし。警報なし。

・目撃者:ゼロ

・展示名:『眠れる遺体と硝子の檻』


「これ、ただのアート事故じゃないわね」と宮原がつぶやく。

「展示当日、来場者の一人が何かおかしいって通報してる。“遺体の目が一瞬動いた”って」


「……生きていたのか、最後まで」と藤堂。


玲はホログラムに指先を滑らせ、ケース内部の3D構造を表示させる。


「硝子の檻……閉ざされた空間。だが、その密閉は、誰かの意図か、それとも……」


——そして、ある記録映像が映し出される。


遺体が横たわる数時間前、展示室の照明がわずかに揺らいだ一瞬。

その時、監視カメラには「映ってはいけない何か」が、ガラス越しに反射していた。


「……影か」


玲の声が、誰にも聞こえぬように零れた。


今回の事件は、物理的な密室殺人と見せかけて、その奥に“記憶”と“演出”が絡んでいた。

誰が、なぜ、密閉空間に眠る遺体を演出したのか?

“硝子の檻”は本当に閉じられていたのか?

そして、死の真相は本当に「内部」で起きたのか?


次回:《眠れる遺体と硝子の檻》

——見えない扉が、静かに開く。

命と記憶の境界線に、探偵たちが再び踏み込む。

長い旅路とも言えるこの物語を、最後まで読んでいただきありがとうございます。新宿の雑居ビルに佇む《神崎探偵事務所》、玲や藤堂、宮原、そして個性豊かな仲間たちと共に謎解きの世界へ足を踏み入れてくださった皆様に、心から感謝の気持ちをお伝えします。


今回の事件「消えた絵画」では、密室トリックや影の取引というミステリアスな要素を通じて、登場人物たちの内面や過去が少しずつ明らかになりました。彼らのやり取りに潜むユーモアや、時に鋭い洞察が、物語の緊張感を和らげつつも新たな深みを与えてくれたと感じています。


玲の冷静な観察力、藤堂の軽妙なユーモア、宮原の分析的な視点、そして相馬の鋭い頭脳——それぞれの個性が交錯し、事件解決への糸口を紡ぐ姿は、読んでくださる皆様にとっても新たな発見になったのではないでしょうか。


次回作「眠れる遺体と硝子の檻」では、さらに複雑で深い謎が待ち受けています。影の取引とは異なる、新たな闇が彼らの前に立ちはだかることでしょう。


最後に、この物語を通じて少しでも心に残る余韻や、探偵事務所の温かな空気感を感じていただけたなら、それ以上の喜びはありません。


また次の事件でお会いしましょう。

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