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26話 証拠なき真実

佐々木家

•佐々木圭介ささき・けいすけ

朱音の父。過去の事件に深く関わり、消えた記録や失われた真実と向き合う人物。冷静だが、家族思い。

•佐々木朱音あかね

圭介の娘、10歳。無邪気さと鋭い直感を持つ。スケッチブックで記憶の断片を描き、事件解明の鍵となる。

•佐々木昌代まさよ

圭介の母。霊感を持ち、家族の精神的支柱。過去の影と向き合いながらも温かく導く。



玲探偵事務所

れい

冷静沈着な探偵。事件解明において指揮を執る。

•橘奈々(たちばな・なな)

玲の助手。高度な情報解析能力を持つ。行方不明者や証拠の照合を担当。

沙耶さや

チームの感情的支柱。直感と観察力で真実を見抜く。



記憶・心理専門家

伊月光哉いづき・こうや

記憶誘導・安全な回想のスペシャリスト。記憶の証人や被害者のサポートを担当。

葉山静巳はやま・しずみ

心理司法調査官。心理的負担を最小限に抑えつつ、証言を確保する専門家。

藤堂透とうどう・とおる

元犯罪心理分析官。行方不明者捜索と行動パターン分析のエキスパート。

西園寺結さいおんじ・ゆい

法医学鑑定官。痕跡解析、過去の事例照合を担当。

東雲葵しののめ・あおい

深層心理視覚化スペシャリスト。記憶の断片を映像化する技術を持つ。

御子柴理央みこしば・りお

記憶分析担当。記憶の構造や隔離の痕跡を解析する。

水無瀬透みなせ・とおる

記憶探査官。深層意識に潜む封じられた記憶を解放する。

九条凛くじょう・りん

心理干渉分析官。抹消された記憶を復元・精神的サポートを行う。



被害者・関係者

•川崎ユウタ(かわさき・ゆうた)

消された記憶を持つ少年。成長した姿は15歳だが、見た目は小学生並。記憶の証人として事件の核心に関わる。

川崎典子かわさき・のりこ

ユウタの母。事件を通じて息子と再会し、支える存在。

•柊コウキ(ひいらぎ・こうき)

封じ込められた記憶の少年。父・啓一の努力により救出される。

柊啓一ひいらぎ・けいいち

コウキの父。記憶解析スペシャリストとして、息子の救出と記憶の回復に奔走。



影班(K部門・特殊任務チーム)

成瀬由宇なるせ・ゆう

対人潜入・静音処理のエキスパート。痕跡を残さず対象を排除する。

桐野詩乃きりの・しの

毒物・外科暗殺のスペシャリスト。無声の外科医とも呼ばれる。

安斎柾貴あんざい・まさき

電脳汚染・精神撹乱を担当。対象を心理的に制御する。



迎撃チーム

刃月圭はづき・けい

戦略司令塔・狙撃担当。戦闘全体を俯瞰し、的確な指示を出す。

伏見蒼ふしみ・あおい

電脳担当。通信妨害や記録操作で戦場を制御。

•柊啓一

鋼の盾。最前線で守りを固める。

•藤堂透

情報分析・行方不明者追跡。現場で指揮系統を整理。

【時刻:6:58/ロッジ・ファミリー部屋】


雨の気配をはらんだ曇り空が、窓越しに広がっていた。

針葉樹が風にかすかに揺れ、森全体が呼吸するように静かに動いている。


佐々木圭介は湯気の立つカップを手に、じっと外を見つめていた。

眼差しの奥で、記憶の底に沈んだ何かが、微かに揺れていた。


──金属音、暗闇の中の叫び声、足元の沈む感覚。

それは十年前、彼が最後に見た光景だった。

声は消え、記録も消された。

だが、その記憶だけは、消えなかった。


「パパ、今日学校で先生が十年前のことを話してたの」

朱音の声が背後から響く。


圭介は静かに振り返り、朱音に目を向ける。

「そうか……十年前のことか?」


朱音はスケッチブックを広げ、鉛筆をくるくると回しながら答える。

「“あの倉庫”のこと。でも、記録はもう残ってないって」


昌代が台所から顔を出す。

「でも、記録が消されたなら……最初から存在していたはずよね?」


圭介は唇を固く結び、窓の向こうの森を見つめながら、低く息を吐く。

「ああ……だからこそ、確かめる必要がある。“あの倉庫”に、何が残っているのかを」


朱音は指先でスケッチブックの黒い線をなぞる。

「パパ、ここ……昨日夢で見たおうちに似てるよ」


圭介は目を細め、鉛筆の先に視線を落とす。

「……そうか。夢の中で見た景色か。でも、夢か現実かは関係ない。確かめる価値はある」


森の静けさと曇り空の空気の中で、三人の思考が十年前の暗闇と繋がる。

消えた記録の先に、何が待っているのか――。


【時刻:7:05/ロッジ・ファミリー部屋】


朱音はスケッチブックの端を指でなぞりながら、首を少し傾げた。

「……先生、“記録がない”って言ってたのに、なんで知ってるの?」


圭介は一瞬、視線を朱音に向け、微かに喉を鳴らす。

「……記録が消されても、記憶は消えないことがあるんだ」


昌代がそっとテーブルの端に手を置き、静かに言った。

「圭介さん……十年前のこと、あなたが見たもの、覚えているのね?」


圭介はカップの縁を軽く握り直し、窓の外の森を見つめる。

「覚えている……消せない記憶が、心の奥にずっと残っていた」


朱音は眉をひそめ、鉛筆を置く。

「……怖くないの? パパ、覚えてて」


圭介は小さく息を吐き、微笑を浮かべるように唇を緩めた。

「怖いよ。でも、だからこそ確かめる必要があるんだ。真実を、ちゃんと見るためにな」


森の木々がざわめく中、窓越しの光が三人の顔を柔らかく照らす。

消されたはずの記録、封じられた記憶、そして十年前の倉庫の闇――

それらが、静かに再び動き始めようとしていた。


【時刻:7:07/ロッジ・ファミリー部屋】


昌代は静かに目を細め、しばらく沈黙した。

やがて、心の奥底から込み上げる感情を抑えきれず、少し震える声で言った。


「……記録が消されたとしても……確かに、存在していたものよね……?」


圭介はカップを置き、ゆっくりと頷いた。

「そうだ……あの倉庫で、何が起きたのか。すべては、そこに残っている」


朱音はスケッチブックに手を添え、声を小さく漏らす。

「……もしかして、私が夢で見たおうちって、あの倉庫のこと?」


圭介の視線が窓の外の森に向かい、言葉少なに答えた。

「そうだ……君の夢が、封じられた記憶のかけらを映しているのかもしれない」


部屋に静寂が流れ、針葉樹の葉が風に揺れる音だけが耳に届く。

消された記録と、確かに存在していた“何か”――

その影が、今、静かに動き出そうとしていた。


【時刻:7:08/ロッジ・ファミリー部屋】


圭介はゆっくりと深呼吸し、低くつぶやいた。


「……何か、あの倉庫にはまだ、残っている気がする」


朱音が顔を上げ、眉を寄せる。

「残ってるって……何が?」


昌代は圭介の肩にそっと手を置き、静かに言った。

「忘れられたもの……それを確かめる時が来たのね」


圭介は視線をスケッチブックに落とし、鉛筆の線を指でなぞった。

黒く歪む屋根、底知れぬ暗闇の“穴”――

「十年前、あそこで起きたこと……それを、ちゃんと見届けないと」


部屋の空気が一瞬、張り詰める。

外の森のざわめきが、まるで呼応するかのように静まり返った。


【時刻:7:10/ロッジ・ファミリー部屋】


昌代はその言葉に頷き、目を潤ませながら再び静かに付け加えた。


「消された記録の痕跡……確かに、何かは残っているはずよ」


朱音が小さく息を吐き、スケッチブックを胸に抱える。

「でも、どうやって……」


圭介は椅子に深く腰掛け、窓の外の森を見つめながら低く言った。

「確かめるしかない。目に見えなくても、残っているものを探すんだ」


昌代は静かに頷き、圭介の背中を見つめる。

「……あの子たちのためにも、ね」


朱音は目を輝かせ、スケッチブックの黒い穴を指でなぞった。

その線が、まるで過去の記憶を呼び覚まそうとするかのように、ゆっくりと存在感を帯びていた。


室内の空気は一瞬、張り詰め、静寂の中で時間が止まったかのようだった。


【時刻:7:12/ロッジ・ファミリー部屋】


朱音が指先でスケッチブックの黒い線をなぞると、その線は、どこか曖昧に波打っていた。


「……消されたはずのものが、まだここにあるみたい……」


昌代は静かに頷き、窓の外の森を見つめながら呟く。

「そうね。消されても、痕跡は残るものよ」


圭介は深く息を吸い込み、固く結んだ唇のまま、静かに決意を口にした。

「なら、確かめに行こう。“あの倉庫”に、何が残っているのかを……」


朱音は瞳を輝かせ、スケッチブックを抱きしめる。

「うん! 私も一緒に行く!」


その瞬間、部屋の空気が微かに張り詰め、静寂の中に、消えかけた記憶の気配が漂った。

黒く揺れる線の向こうに、過去の光景が、まるで眠りから目覚めるかのように、淡く浮かび上がる。


【時刻:7:25/ロッジ・業務スペース】


玲は手帳を開き、ペン先で淡く線を引きながら静かに口を開いた。

「出発前の最終確認をしておこう。朱音ちゃんはスケッチブックを忘れずに持ったか?」


沙耶が手元のリストを見上げて答える。

「はい。必要な資料も全て揃っています。車両も安全確認済みです。」


橘奈々は端末をタップしながら補足する。

「ルートと時間も再確認済みです。倉庫への到着はおよそ30分後の予定。」


玲は腕を組み、窓の外を見つめながら低く言った。

「天候も考慮する。雨が降れば足元が滑りやすくなる。全員、注意して行動すること。」


圭介が静かに頷き、朱音の肩に手を置いた。

「大丈夫、行こう。無理はするなよ。」


朱音は笑顔で頷き、スケッチブックを抱きしめた。

「うん、行く!」


部屋に静かに流れる緊張感の中、全員の視線は揃って一つの方向――“あの倉庫”――へ向けられた。


【時刻:20:42/B-3倉庫外】


夜の帳が降りきった中、B-3倉庫の外壁は月光を鈍く反射していた。

風がひそやかに木々を揺らし、遠くでカサカサと枯れ葉の擦れる音が響く。


圭介は車のドアを静かに閉め、倉庫を見つめながら息を吐いた。

「……ここか。」


朱音は小さな手でスケッチブックを握りしめ、足元でそわそわしている。

「暗い……でも、先生が言ってたおうちだよね……」


玲が傍らで低く囁いた。

「油断は禁物だ。気配を消して、慎重に進む。」


橘奈々が端末を確認しながら答える。

「防犯カメラの映像は残っていませんが、倉庫内の構造は事前資料で把握済みです。接触ルートも予測可能。」


昌代は息を整え、朱音に視線を向ける。

「怖がらなくていいのよ、朱音。私たちが一緒だから。」


その時、倉庫の奥から、微かに“コツ……コツ……”と、規則的な足音のような音が響いた。

静寂の中、全員の視線がそちらへ向く。


玲が小さく唇を引き結び、低く声を落とす。

「……来たか。」


暗闇に潜む何者かの存在を、月光がかすかに照らしている。


【時刻:20:44/B-3倉庫内部入口付近】


扉を押し開けると、湿った空気と鉄のにおいが圧迫感を伴って流れ込む。

朱音は鼻を押さえながら、一歩ずつ倉庫内に足を踏み入れる。


「……くさい……」


圭介は彼女の後ろで静かに息を吐き、視線を暗がりに巡らせる。

金属の錆びた匂いの奥に、何か不自然な、違和感のある空気が混じっていた。

単なる古びた倉庫ではない、何かが「残されている」気配。


玲は目を細め、足音を押さえながら進む。

「……静かに。違和感を感じる場所ほど、注意が必要だ。」


橘奈々が端末を操作し、倉庫内の構造を確認する。

「奥の棚周辺に、不自然な凹みがあります。誰かが長時間通った痕跡かもしれません。」


昌代は朱音の肩に手を置き、穏やかにささやく。

「怖がらなくていいのよ、朱音。匂いや気配も、私たちが一緒だから。」


その瞬間、薄暗い空間の奥で、かすかな「コツ……コツ……」という足音が響いた。

違和感と匂いの先に、何者かの存在が確かに潜んでいる。


玲の声が低く響く。

「……やはり、来ている。」


倉庫の影が、静かに、しかし確実に動きを潜めている。


【時刻:20:47/B-3倉庫内部】


昌代の瞳がわずかに揺れた。

手元のスケッチブックの黒い線は、暗い倉庫の奥に潜む記憶を、まるで吸い込むように描かれていた。


「……この絵は、忘れたくないものを閉じ込める手段なのね……」


朱音は鉛筆を握ったまま、目を丸くして昌代を見上げる。

「ばぁば……?」


昌代はそっと首を振り、静かに息を吐いた。

「そうよ、朱音。悲しい記憶も、怖い記憶も、こうして描くことで心の奥にそっと収められるの。」


圭介はその横顔を見つめ、心の奥で何かをかみしめる。

十年前のあの倉庫で消えた記録も、誰かの胸に刻まれた記憶も――今、少しずつ形になろうとしている。


玲は黙ってスケッチを見つめ、指先で軽くデスクを叩いた。

「……波打つ線の奥に、手掛かりがあるかもしれない。」


薄暗い倉庫の中、匂いと違和感が混じる空気の中で、彼らの視線は一つの方向に向かっている。

忘れたくないものを閉じ込めたその絵――それは、過去と今を繋ぐ鍵になるのだった。


【時刻:20:52/B-3倉庫内部】


風が倉庫の隙間から吹き込み、埃を巻き上げる。

「……寒っ」朱音が思わず肩をすくめる。


昌代がスケッチブックを抱え、静かに圭介の方を見た。

「でも、ここに来た以上、確かめないとね。」


圭介は唇を引き結び、ゆっくりと歩みを進める。

鉄の匂い、湿った木材の感触、そして微かな違和感――すべてが記憶の奥底に響き渡る。


玲が後ろから低く言う。

「足元に気をつけろ。波打つ床や崩れた棚がある。」


朱音は小さな声でつぶやく。

「ばぁば……あの絵と同じ匂いがする……」


昌代の手が朱音の肩に触れ、優しく力をかける。

「大丈夫。描いたものと同じように、私たちがそばにいる。」


微かな“コツ……コツ……”という音が、倉庫の奥から聞こえた。

影のように揺れるそれは、十年前の記憶の残滓――そして、彼らが追い求める真実の足音でもあった。


圭介は深く息を吸い込み、扉の先へと歩を進める。

「行こう……あの時、消えた記録の先へ。」


風に揺れる埃が光を反射し、静かな倉庫内に緊張と期待が混ざる。

今、過去と向き合う旅の第一歩が、確かに始まったのだった。


【時刻:/B-3倉庫前】


朱音はスケッチブックの端を指先でなぞり、眉をひそめる。

「……でも、なんであのおうちのこと、覚えてないんだろう……」


昌代がそっと朱音の横に立ち、静かに答える。

「忘れたくないものは心に残る。でも、記録が消されると、頭では思い出せなくなることもあるのよ。」


圭介は深く息をつき、倉庫の扉を見つめた。

「朱音……大丈夫。覚えていなくても、私たちが確かめて、記憶の欠片を探していく。」


朱音は小さくうなずき、スケッチブックを握りしめた。

「うん……一緒に行こう、あのおうちに。」


冷たい風が倉庫の隙間から吹き込み、埃が舞う。

その空気は、消えた記憶の匂いと、確かめるべき真実の予感を運んできた。


玲は後方で腕を組み、低く警告する。

「油断するな。記憶の残滓は、思わぬところに潜んでいる。」


足元に注意しながら、一同は静かに扉の奥へ歩を進める。

消えた記録の先、そして朱音の心に眠る記憶――すべてが、今、呼び覚まされようとしていた。


【時刻:/B-3倉庫前】


昌代は静かに目を閉じ、手を箱の縁にそっと置いた。

室内の空気がわずかに重くなる。

「……この感触……消された記憶の匂いがするわ……」


指先に伝わる微かな振動、埃の中に漂う時間の残滓――

昌代はサイコメトリーの力を使い、物や場所に残された過去の“印象”を読み取る。


「十年前……この倉庫で、誰かが必死に何かを隠した……それが消されようとしている……」

彼女の声は震え、しかし確信に満ちていた。


圭介は昌代の手元を見つめ、低くつぶやく。

「やっぱり……あの日の記録は、消されたままじゃないか……」


朱音は小さく息を呑む。

「……パパ、怖い……」


昌代は微かに微笑み、朱音の頭を優しくなでる。

「大丈夫、朱音。記憶は消されても、残っているものもある。それを私たちが見つけ出すのよ。」


冷たい倉庫の闇の中、埃と時間に包まれた記憶の残滓が、静かに呼び覚まされようとしていた。


【時刻:/B-3倉庫前・室内】


玲は手帳を開き、指でページをなぞりながら低く言った。


「この倉庫事件……十年前に記録が消された場所だ。表向きは設備の老朽化による廃棄処理だとされているが、実際は記録が改ざんされ、消されている証拠が残っている。」


ページには、過去の保育園管理台帳、倉庫棟の図面、職員の異動記録の断片が細かくメモされている。


「ここで何があったのか、誰が関わったのか――手がかりは残されていないように見えても、痕跡は確かに残っている。証言も、遺留品も、そして……記憶の残滓も。」


橘奈々が端末を操作しながら補足した。

「廃棄記録と契約書、職員の異動日と消えた保育園の倉庫番号――どれも矛盾している箇所があります。記録上は閉園で廃棄済み、だけど現場に残されたものがそれを否定している。」


玲は目を細め、倉庫の暗がりを見つめた。

「だからこそ、ここに来る必要がある。消された記録を、今一度呼び覚ますために。」


冷えた空気の中、手帳の文字と端末の光が、過去の影を追うための唯一の道しるべとなった。


【時刻:/B-3倉庫前・室内】


沙耶が眉をひそめ、低くつぶやいた。


「……でも、これ、単なる廃棄や記録の改ざんだけじゃない。別の理由で封じられた痕跡があるわ。」


玲が目を上げ、静かに問い返す。

「別の理由……?」


沙耶は倉庫内の散乱した棚や、埃にまみれた古い書類を視線で追いながら続けた。

「証拠隠滅――つまり、この場所で何か――殺人事件が隠されていた可能性が高い。」


橘奈々も端末を操作しながら頷く。

「記録に残らない事故として処理されたけど、実際は被害者が出ていた可能性もあります。消されたはずの書類や端末の痕跡が、何かを語ろうとしている。」


昌代が静かに息を吐く。

「やはり……あの日、ただの事故じゃなかったのね。」


玲は手帳を握りしめ、冷たい倉庫の空気を感じながら言った。

「ならば、ここで全ての痕跡を拾い、記録されなかった真実を掘り起こすしかない。」


冷たい鉄の匂いと、湿った空気が漂う倉庫で、十年前の“影”を追う戦いが始まろうとしていた。


【時刻:/B-3倉庫内】


玲は腕時計に目を落とし、静かに立ち上がった。

「……時間だ。ここに残された記憶の欠片を、一つずつ辿らないと。」


鉄の冷たい匂いが鼻をつく。湿った空気に混じるその匂いは、単なる錆や腐食ではない――微かに、血の香りを思わせる。


沙耶が棚の隙間に視線を落とし、低くつぶやく。

「……被害者の痕跡かもしれない。記録には残っていないけど。」


玲は深く息を吸い込み、拳を軽く握った。

「なら、俺たちがここで目にする全てが、十年前の“消された真実”に繋がる。」


鉄の匂いと埃の重さの中で、倉庫はまるで時間を封じ込めた生き物のように静まり返っていた。


【時刻:/B-3倉庫内】


昌代と玲の指先が、埃をかぶった紙の表面に触れた瞬間――

室内の空気が、ほんのわずかに揺らいだ。


昌代の瞳が細まり、息を呑む。

「……この感覚……確かに、ここで何かが起こった。」


紙の上には、十年前の事件の残像が微かに残っているかのようだ。

鉄の匂い、床にこびりついた埃、崩れた棚の影――すべてが、消されたはずの“人の痕跡”を語りかける。


玲は静かに頷き、低くつぶやいた。

「……これは、ただの事故じゃない。殺意が潜んでいた。」


昌代の手が震える。紙の上に重なる彼女のサイコメトリーが、微かな殺意の痕跡を呼び覚ましていた。


倉庫の闇が、二人の手を通して、十年前の真実をじっと見つめ返す――。


【時刻:/B-3倉庫内】


玲は紙の上から目を離し、静かに圧をかけるように言った。


「……ここで行方不明になった子がいる。逃げ出すしか、なかったんだ。」


昌代の瞳がさらに揺れる。紙を通して伝わるのは、必死に生き延びようとした痕跡――

消された記録の向こうで、誰かが必死に出口を探していた情景。


玲はゆっくりと息を吐き、冷静に付け加える。


「誰かの指示で閉じ込められたわけじゃない。自力で、出るしかなかったんだ。」


鉄の匂い、崩れた棚の影、微かな足跡の記憶――

倉庫の暗闇が、静かにその必死の足取りを語りかける。


【時刻:/B-3倉庫内】


橘奈々が端末を開き、データを慎重に確認しながら声を落とす。


「……資料も映像も、全部削除されてる。まるで、なかったことにされたみたいです。」


玲が端末を覗き込み、ゆっくりと頷く。


「そうか……記録は消されても、ここに残る痕跡がすべてを物語っている。」


昌代は紙の上に手を置いたまま、かすかに息を吐く。


「証拠がなくても、確かに存在していたものがあった……それを忘れちゃいけないのね。」


鉄の匂いと静寂の中、倉庫は過去の記憶を静かに抱え続けていた。


【時刻:/B-3倉庫内】


ユウタは壁際にゆっくりと腰を下ろし、手を膝の上に重ねたまま目を閉じる。


その小さな肩は微かに揺れ、息を整えるように静かに吸い込み、吐き出す。


「……あの時、どうして僕を……閉じ込めたんですか……?」


声は震えていない。けれどその問いには、長い間抱えてきた疑問と恐怖が滲んでいた。


周囲の空気がぴんと張りつめ、静寂の中で微かな足音が響く。


玲は静かにユウタの肩越しに視線を落とし、そっと呼吸を合わせながら、答えが出る瞬間を待つ。


その場には、過去と向き合う小さな勇気が、確かに存在していた。


【時刻:/B-3倉庫内】


玲は膝をつき、ユウタと同じ目線に揃えながら静かに問いかけた。


「ユウタ……君は、あの日のこと、何を覚えている?」


言葉は柔らかいが、その眼差しは確かに核心を突く。

空気は張りつめ、ユウタの胸の奥でずっと閉じ込められていた記憶の扉を、そっとノックするような静けさが漂った。


ユウタの小さな手がぎゅっと膝を握りしめ、目の奥に迷いと緊張が光る。

彼は深く息を吸い込み、震える声で、しかし確かに答えようとしていた。


【時刻:/B-3倉庫内】


昌代は、紙の束から視線をゆっくりと上げ、薄暗い倉庫内を見渡した。

声にならない声が頭の奥で反響する――今も生きている人々の声、あの日の叫び。


「……あの子たち、幼稚園のあとに、また閉じ込められたのね……この現場で」


言葉は震え、しかし確かな事実として口から漏れた。

鉄と埃の混じった空気が、静かに倉庫内を満たし、過去の痕跡を再び浮かび上がらせる。


昌代の瞳が、わずかに涙で潤む。

忘れてはいけない――その痛みが、今もこの場所に残っている。


ユウタは壁際に座ったまま、ゆっくりと首を振った。

「……思い出せない……でも、声が……」


胸の奥から微かに響く、誰かの声。

朱音はその声を頼りに、スケッチブックを取り出し、当時の状況を丁寧に描き始める。

黒い影の形、崩れた棚の位置、わずかな光の射す方向――その線一つひとつに、封じられた記憶が少しずつ形を帯びて浮かび上がる。


昌代は静かに息を飲み、朱音の手元を見つめた。

記憶は声として存在し、線として残る。

この小さな手が、忘れられた時間を再びつなぎ止めようとしていた。


沙耶が小さく息を呑む。

「……あの子たちも、ここにいたのね……」


朱音のスケッチには、ユウタだけでなく、当時の園児たちの姿も、微かに残る影として描かれている。

棚の間に身を隠す小さな手や、床に座り込んで震える影。

言葉にはできない恐怖も、絵の線の端々ににじむ。


玲は静かに朱音の隣に立ち、低くつぶやく。

「線と声だけが、この空間に残っている。記録されなかった証言だ。」


圭介は拳を握りしめながら、深く息をつく。

「……あの子たちも、無事でよかった……」


倉庫内の冷たい空気が、子どもたちの存在を想起させ、張り詰めた緊張の中にも、わずかな温かさが差し込む。


ユウタの瞳が、少しだけ遠くなる。

「……お母さんが、迎えに来なかったんだ。」


声は小さく、震えていた。

「外はもう暗くて……みんな泣いてた。

でも、先生は“静かにしてなさい”って言って……」


沈黙が落ちる。倉庫の壁が冷たく響き、誰も言葉を挟めない。


ユウタは膝の上で手を握りしめ、かすれるように続けた。

「……罰を受けた子がいたんだ。

名前を……思い出せない。顔も、声も……消えてる。」


朱音がスケッチブックを抱きしめるようにして立ち上がる。

紙の上で震える鉛筆の線が、ひとりの“名前のない子”を形にしようとしていた。


沙耶が息を詰め、玲が低くつぶやく。

「記録が消されても――記憶は、まだここに残っている。」


【時刻:/B-3倉庫内】


朱音が紙の上で震える鉛筆の線が、ひとりの“名前のない子”を形にした。

その線は途中で何度も揺れ、途切れ、まるで記憶の断片をなぞるように重なっていく。


「……この子、泣いてる。」

朱音の声は小さく、それでいてどこか確信めいていた。


玲がそっとスケッチブックを覗き込む。

描かれたのは、倉庫の片隅にうずくまる小さな影。

その傍らには、ぼんやりとした大人の姿――輪郭が滲んでいる。


沙耶が息を呑んだ。

「まるで……“記録から消された存在”そのものね。」


ユウタの唇が微かに動く。

「……その子、いつも僕の隣にいたんだ。

でも、名前を呼んじゃいけないって……言われてた。」


静寂が広がる。

倉庫の天井から滴る水音だけが、まるで失われた時間を刻むように響いていた。


【時刻:/B-3倉庫内】


奈々がそっと端末のログを確認しながら呟いた。

「……やっぱり。

この子、“記憶を奪われた”形跡がある。」


玲が顔を上げる。

「奪われた?」


奈々はうなずき、スクリーンを指先で拡大した。

「脳波記録の欠損。行動履歴の断絶。

意図的に“思い出せない状態”にされた痕跡がある。

……まるで、存在そのものを塗りつぶされたみたい。」


沙耶が眉を寄せた。

「でも、そんな操作……いつ、誰が?」


奈々は短く息を吐き、視線をユウタへ向けた。

「――十年前、この倉庫で。

川崎が行った“記憶実験”。対象の一人は……この“名前のない子”だった可能性が高い。」


朱音の手の中で鉛筆が止まる。

描かれた小さな影は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。


【時刻:/B-3倉庫内】


玲が少し声を落とした。

「……聞いたことがある。“記憶実験”。」


薄暗い倉庫の空気が、一瞬、張り詰めた。

玲は手帳を閉じ、目を細めながら続ける。

「特定の記憶を“選択的に封じる”ための心理誘導と薬理操作。

対象の恐怖や罪悪感を利用して、思考の一部を切り離す。

――“忘れるように命じる”実験だ。」


沙耶が息を呑んだ。

「それを……子どもに?」


玲は静かにうなずく。

「記録では存在が抹消されていた。

だが……ユウタ君の証言と、この倉庫の痕跡が、それを裏付けている。」


奈々が端末を操作しながら低く言う。

「“思い出すこと”が、彼らにとって危険だった。だから消された。

でも――忘れられなかった子が、一人だけ残った。」


その言葉に、朱音が描いた“名前のない子”の絵が、微かに震えたように見えた。


ユウタはゆっくりと頷いた。

「……聞こえるんだ。ときどき。」


静かな倉庫の中に、彼の声がかすかに響く。

「遠くのほうで、“ここにいるよ”って。

でも……その声は、いつも途中で途切れる。」


沙耶がそっと息を呑む。

「助けを求めてる……のね。」


ユウタは目を伏せ、両手を膝の上で握りしめた。

「違うんだ。

――“思い出さないで”って、言ってる。」


その瞬間、朱音のスケッチブックの端がかすかに揺れ、

鉛筆の線がひとりでに動くように、ぼんやりとした影を描き始めた。


玲が静かに視線を上げる。

「……封じられた“声”が、まだこの場所に残っている。」


昌代はゆっくりと一歩、ユウタの方へ踏み出した。

その足取りはためらいを含みながらも、確かな決意を帯びていた。


「……ユウタくん、あなたは――“記憶の証人”ね。」


彼女の声には、静かな確信が宿っていた。

「ただ覚えているだけじゃない。あなたは“記憶そのものに触れ、聞く”ことができる人。

私たちが忘れたことを、あなたは“証言”として残せる。」


玲が視線を交わす。

「……スーパースペシャリスト。記憶共鳴メモリー・リゾナンスの適性者。」


ユウタは少し俯きながらも、どこか受け入れるように息を吐いた。

「……だから、聞こえるんだ。

消された声も、止まった記録も――全部。」


朱音の描く線が、ゆっくりと形を変えていく。

影の中から、小さな手が伸びるように見えた。


昌代はその絵に手を添えながら、静かに言葉を重ねた。

「じゃあ――その声を、もう一度“救って”あげましょう。」


ユウタは微かに微笑んだ。

その表情はどこか痛みを含みながらも、確かな覚悟を帯びていた。


「……僕の役目は、忘れた声を拾うことなんです。」


静かな声が、倉庫の冷たい空気に溶けていく。


「誰かが忘れてしまった出来事も、消された記録も、

“そこにいた”という証をもう一度思い出させるために。」


朱音がスケッチブックを見つめたまま、小さく呟いた。

「……ユウタくんは、みんなの記憶の中の“証人”なんだね。」


玲は深く頷き、低く付け加えた。

「それが――記憶の証人メモリー・ウィットネスの本質。

失われた声を拾い、真実を再びこの現実に繋ぎとめる存在だ。」


昌代は目を細め、静かにその光景を見守っていた。

その場に、確かに“過去が息を吹き返す瞬間”があった。


【時刻:23時42分/場所:B-3倉庫内部・北側壁面前】


玲が短く言った。


「……これは、記憶の残響だ。」


彼の声は低く、空気の奥を震わせた。


照明の届かない壁際では、錆びた鉄骨の隙間から冷たい風が流れ込み、

どこか遠くで、子どもの笑い声のような響きが一瞬だけ混じった。


ユウタがそっと目を閉じる。

耳を澄ませるようにして、微かな音を拾う。


「ここにいた人たちの“想い”が、まだ消えていないんだ。」


玲は頷き、周囲を見渡した。

「時間を超えて残る“感情の反響”。

それが、現場に染みついた真実――記憶の残響レゾナンスだ。」


その言葉と同時に、朱音の鉛筆がまた動き出す。

スケッチの線が震え、まるで“かつてそこにいた誰か”を描き出すように、

白い紙の上で形を成していった。


【時刻:23時44分/場所:B-3倉庫・奥区画】


倉庫の奥から、微かな声が風に乗って届いた――ような気がした。


「……だれか……」


朱音が顔を上げ、鉛筆を握る手を止めた。

その瞬間、鉄の匂いが濃くなり、空気がわずかに震える。


ユウタは静かに立ち上がり、奥の闇を見つめる。

「聞こえる。……“あの時”と同じ声だ。」


玲が手を上げて制止する。

「全員、動くな。」


闇の中で、何かがかすかに揺れた。

子どもの声にも似たその響きは、言葉にならないまま倉庫の壁をすり抜け、

誰かを呼び求めるように、冷たい空気の中へと消えていった。


沙耶が小さく息を呑む。

「……今の、確かに“誰か”がいた。」


ユウタは瞳を細め、低く呟いた。

「まだ、ここに残ってるんだ。……“あの夜”の記憶が。」


【時刻:23時46分/場所:B-3倉庫・奥区画】


奈々が息を呑んだ。

「……“あの夜”、誰かが――脱出したの?」


ユウタは静かに頷いた。

薄明かりの中、その表情は痛みと決意が混ざり合っていた。


「僕は……出口までたどり着いた。でも……後ろで“誰か”が扉を閉めた音がした。」

言葉が途切れる。指先が微かに震えた。


玲が一歩前に出る。

「閉じたのは、誰だ?」


ユウタは答えず、目を伏せる。

沈黙の中、倉庫の壁を伝って、何かが軋むような音が響いた。

まるで、その“扉”が今もどこかで閉ざされたまま、

時間の中に取り残されているかのように。


沙耶が低く呟く。

「――閉じ込めた者と、閉じ込められた者。あの夜、両方が存在したってことね。」


【時刻:23時49分/場所:B-3倉庫・奥区画】


沙耶が静かに頷く。

「……誰かが、確かにいたのね。」


その瞬間、朱音がスケッチブックを取り出し、鉛筆を握る。

小さな手が震えるように動き始め、まるで見えない何かを追いかけるかのように、紙の上に線を刻む。


「……あっ、ここにいる……」


朱音の声は小さく、しかし確かな響きを持っていた。

線は揺れ、黒く塗りつぶされた部分が、暗闇の中で誰かの存在を形作る。


ユウタが静かに息を吐く。

「……そう、僕と一緒に、あの夜に残された子だ。」


玲が低く呟く。

「記憶の残響……朱音の手が、封じられた声を描き出している。」


部屋の空気が微かにざわめき、倉庫の奥で眠っていた時間の痕跡が、少しずつ現れるようだった。


【時刻:23時52分/場所:B-3倉庫・第2区画】


ユウタの“聞いた声”が、空気の微細な振動となって一行の耳に届く。

その導きに従い、玲、沙耶、橘奈々、昌代、そしてユウタは静かに第2区画へ足を進めた。


薄暗い通路の先、湿った鉄の匂いと埃が混じる空気。

足元の砂利が微かに軋み、まるで時間そのものが眠っていたかのような静けさが支配する。


ユウタがゆっくりと呟く。

「ここが……僕が、出た場所だ。」


昌代が息を飲む。

「まだ……出ていない、誰かがいる……」


朱音の鉛筆が再び震え、紙の上で微かな影を描き始める。

黒く揺れる線は、倉庫の闇の奥に封じられた記憶を、ひとつずつ掬い上げるようだった。


玲は静かに腕を組み、低く呟く。

「ここに残るのは、忘れられた声……そして、まだ眠ったままの記憶。」


一歩一歩、床を踏みしめるたび、彼らは過去の残響と現在を結ぶ境界線を渡っていく。

第2区画――そこは、ユウタの記憶と、まだ出られぬ者たちの声が交錯する場所だった。


【時刻:/場所:B-3倉庫・第2区画奥】


倉庫の奥へと足を踏み入れると、空気は一層ひんやりと重く、湿った鉄の匂いが鼻をかすかに刺激する。

薄暗い照明が揺らめき、壁際に積まれた木箱や古い什器の影が長く伸びている。


ユウタの視線は床に沈むかすかな埃の模様に向けられ、微かに手を伸ばす。

「ここ……僕、確かに出たんだ……」


朱音が鉛筆を握り直し、紙に新たな線を刻む。

その線は、倉庫の闇に封じられた記憶の欠片を映し出すかのように、静かに、しかし確実に形を取り始めた。


昌代がそっと呟く。

「まだ、ここにいる……出られなかった誰かが……」


玲は腕を組んだまま静かに観察する。

「記憶の声に導かれて、真実が姿を現す瞬間だ……」


足音ひとつひとつが、過去と現在の境界を慎重に踏みしめる音となり、倉庫の奥深くに眠る“忘れられた声”を呼び覚ましていく。


【時刻:/場所:B-3倉庫・第2区画奥】


ユウタはゆっくりと頷いた。

「……ここに、出られなかった誰かがいる……」


その声は、静かに、しかし確実に空間に染み渡る。

朱音の鉛筆が紙を震わせ、闇の中に封じられた存在の輪郭を描き出す。


昌代がそっと息をつく。

「誰も助けられなかった……でも、今、こうして声を聞ける。」


玲は腕を組み、視線を倉庫の奥へと向ける。

「記憶の残響は、消えてはいなかった。誰かがずっと、ここで待っていたのだ。」


微かな足音、埃の匂い、冷たい空気――すべてが過去の断片を呼び覚まし、倉庫の奥に眠る“忘れられた誰か”を、ゆっくりと、確かに現実のものとして浮かび上がらせていく。


【時刻:/場所:B-3倉庫・第2区画奥】


その瞬間――


薄暗い倉庫の奥から、わずかに人の気配が立ち上がった。

埃と鉄の匂いの中、忘れられた誰かが静かに姿を現す。


ユウタの瞳が瞬き、朱音の手が鉛筆を止める。

昌代の息が詰まり、玲の視線は一点に釘付けになった。


冷たく湿った空気の中で、そこに立つのは、長い間誰にも気づかれずにいた存在――

出られなかったあの子、その声が今、ようやく響き始める。


【時刻:/場所:B-3倉庫・第2区画奥】


ユウタは壁際に手を添え、ゆっくりと体を支えた。

その指先から伝わる冷たさが、暗闇に閉じ込められた記憶の重みをほんのわずかに知らせる。


「……ここに、いたんだ……」

声は小さく、かすかに震える。

朱音の鉛筆も、自然と動きを止めたまま、その場の空気を読み取るように静止する。


昌代がそっと近づき、息を潜めながら見守る。

玲は腕を組み、鋭い視線を外さずに、ユウタの微細な動きと周囲の気配を読み取っていた。


湿った鉄の匂いと、埃の舞う空気の中で、忘れられた誰かの存在が、ほんの少しずつ姿を明らかにしていく。


【時刻:/場所:B-3倉庫・第2区画奥】


昌代がそっと目を閉じると、呼吸がゆるやかに整い、身体中の感覚が研ぎ澄まされる。

指先に触れる壁の冷たさ、床に残る埃の粒、空気のわずかな湿り気――すべてが過去の痕跡として彼女の意識に入り込む。


そして、記憶の波が突然押し寄せた。

暗い倉庫の奥、金属がきしむ音、低くもぎりぎりの声で呼ばれる名前、床に沈む足元の感触。

あの日の光景が、色や匂い、音まで細部を伴って蘇る。


「……ここに、いた……」

昌代の喉をかすかに鳴らす息が、微かな震えを伴い、暗闇の記憶と呼応する。

手のひらから伝わる微細な振動が、閉ざされた過去の重みを知らせる。


同時に、ユウタの視線が彼女に注がれる。

彼の耳に届く“忘れられた声”の響きが、昌代の感覚と重なり、まるで時間の隔たりを越えて記憶が交錯する瞬間だった。


【時刻:00:07/場所:B-3倉庫・第2区画奥】


静寂が戻りかけた瞬間、昌代の顔色が一段と青ざめた。

目を閉じたまま、彼女の内側で何かが最後に重なり、声にならない言葉が漏れる。


「――違う。違うのよ……あの夜、子どもが――」


周囲が固まる。玲がゆっくりと顔を向けると、昌代は震える手で、小さな断片を紡ぐように語り始めた。


「子ども達は長時間閉じ込められて、怖がっていた。暗くて、誰も助けを呼べない。あの大人――外へ出ようとした子を引き留めた。子どもは必死で、押し返して……その拍子に、大人は――」


言葉はそこで切れ、倉庫の空気がまた不穏に揺れた。朱音の鉛筆が止まり、ユウタは目を伏せたまま小さく唸る。


玲が静かに促すように言った。

「具体的に――何が起きたんだ?」


昌代はゆっくりと瞳を開け、目に宿る悲しみを押し殺しながら続けた。

「子どもの一人が、押し合いの中で大人を突き飛ばした。大人は頭をぶつけて――そのまま動かなくなった。子どもたちは恐怖で固まった。誰も助けを呼べなかった。『静かに』と言われ続けて、声が消えた。」


奈々の端末が沈黙を破り、彼女は既に解析した古いドキュメントの断片を再生する。そこに記されていたのは、当時の報告書から消された小さな注記の残滓――「職員の急死」「不自然な処理」「証言の欠落」。


沙耶が低く呟いた。

「それを隠すために、圧力がかかった。記録が消され、関係者は口を閉ざされた。子どもは“犯人”としてではなく、被害の当事者として扱われるべきだったのに――」


藤堂が冷静に状況を整理する。

「ここで重要なのは二点だ。ひとつ、事件は『故意の殺害』ではなく、極度の恐怖と混乱の中で起きた事故的な致命的転倒の可能性が高いこと。ふたつ、当時の大人たちがその後の対応で重大な倫理違反と証拠隠滅を行っていること。」


玲は重々しく頷き、言葉を続けた。

「だが結果として人が亡くなった。たとえ子どもたちの行為が過失的だったとしても、真相を隠蔽した大人たちの責任は重大だ。私たちは真実を公にする。ただし被害に遭った子どもたちの保護は最優先する。」


昌代の声が震えた。

「名前のない子――あの子は、記憶を奪われた。だから、ただ“消された”存在になってしまったの。……それでも、あの子はここにいた。私たちがそれを伝えないと、彼はずっと呼べないまま。」


ユウタが小さな声で言った。

「僕は――忘れさせられた声を拾ってきた。名前のない子の代わりに、ここで“いた”ことを伝えたい。」


玲は静かに答える。

「まずは事実関係を確定する。遺留物、痕跡、過去の断片的証言を整理し、法医学的検査の要請を行う。だが同時に、ここにいた子どもたちの名前や個人情報は厳重に保護する。君たちの守るべきは真実と人の尊厳だ。」


沙耶が補足した。

「心理的ケアの計画もすぐに立てる。子どもの行為を“責める”のではなく、トラウマを癒す支援を。加害の意図が無かった可能性が高い以上、まずは救済が必要です。」


昌代は手を組み、目に溢れたものをぬぐいながら小さくうなずいた。

「誰かを裁く前に、まずはここにいた“誰か”の声を拾い、名前を取り戻してあげましょう。記録が消えても、私たちが証言を残せば、それは消えない。」


灰色の倉庫内に、重い決意が広がる。

忘れられた出来事は単なる過去の事故ではなく、長年の隠蔽と倫理の崩壊を含む事件だった――しかし、その真相を暴くとき、守るべきものは真実だけではない。傷ついた小さな存在の尊厳と未来だ。


玲が最後に、低く締めくくった。

「真実を明らかにする。だが手順を誤らずに。ここにいた子たちを守るために――我々のやり方で進める。」


薄暗い倉庫の奥で、朱音の鉛筆がまたひとつの名前を描こうとしている。

彼らは今、消された記録の先にある「名誉と救済」を取り戻すために動き始めたのだった。


【時刻:10年前/場所:川辺地区・旧緑町保育園倉庫棟】


ユウタは小さな手で壁に絵を描いていた。

薄暗い倉庫の中、埃と鉄の匂いが鼻をくすぐる。

描かれたのは、笑う自分、追いかける友達、そして光の差し込む出口――でも、そこには大人の影も落ちていた。


「……ここから出たいのに……」


小さな声で呟くユウタの背中は、緊張と恐怖でかすかに震えていた。

倉庫の隅では、他の子どもたちも黙って身を寄せ、互いに存在を確認するように息を潜めている。


床に転がる木箱や折れた棚の残骸は、子どもたちの自由を遮る障壁のようだった。

鉄の匂い、冷たい床、そして聞こえる大人の声――指示や怒声が混ざり合い、倉庫内に緊張が張り詰めていた。


ユウタは壁に描きながら、手を止め、ふと天井の小さな窓を見上げる。

そこに差し込む微かな光は、外の世界の匂いを運んできた。

希望なのか、幻なのか、分からない。


「……誰か、見てくれるかな……」


呟く声に応える者は誰もいなかった。

それでもユウタは、手にしたチョークを握りしめ、壁に「出られる場所」と「笑顔」を描き続けた。

その小さな絵が、後に朱音がスケッチブックで再現する“消されなかった記憶の欠片”となることを、彼はまだ知らなかった。


【時刻:10年前/場所:川辺地区・旧緑町保育園倉庫棟】


声は微かで、倉庫の奥深くに吸い込まれるように消えていった。

ユウタの唇から漏れるその声は、誰にも届かない。


「……ぼく……」


しかし言葉はそこで途切れ、名前も、呼ぶべき相手も思い出せないまま。

小さな胸の奥で、失われた時間と失われた名前の重みが静かに圧し掛かる。


周囲の子どもたちも、誰が誰だか分からなくなっている。

互いの名前を呼ぶ声はかき消され、影の中で忘れられていく。


ユウタは手元の壁に描いた絵を見つめる。

そこに描かれた笑顔も、出口も、名前を失った声も――すべてが、まだ救いを待つ“記憶の欠片”として静かに残っていた。


【時刻:現在/場所:B-3倉庫第2区画】


昌代の手が震える。

壁に手を添え、深呼吸をひとつ――

その瞬間、かすかにだが、過去の記憶が流れ込む感覚が全身を包んだ。


目を閉じると、十年前の光景が目の奥で動き出す。

鉄の床、崩れた棚、暗闇の中で微かに響く足音。

そして――声。名前を失った小さな声が、空気の隙間から押し寄せる。


「……ここにいたのね……」

昌代は小さく呟き、震える指先でその“残響”を確かめるように壁を撫でた。


ユウタの肩にそっと手を置く。

「忘れられた声を、拾うのはあなたの役目なのね……」


倉庫の奥で、微かな記憶の気配が、静かに立ち上がった。


【時刻:現在/場所:B-3倉庫第2区画】


ユウタは静かに壁に手を添え、指先でひんやりとした感触を確かめる。

その瞬間、壁の陰に潜む、微かに歪んだ影が視界の端に映った。


空気が重くざわめくように震え、かすかな息遣いのような音が耳に届く。

「……誰か、いる……」

ユウタの声は囁くように低く、しかし確かに震えていた。


昌代は横で目を閉じ、記憶の残響を読み取ろうと集中する。

影の奥に眠るのは、名前を失ったあの子の存在。

ユウタはそっと息を整え、影の気配を感じ取りながら、前へ一歩踏み出した。


【時刻:現在/場所:B-3倉庫第2区画】


昌代は静かに目を閉じ、両手をわずかに前にかざす。

深く息を吸い込み、体内の感覚を外界に開放するように集中する。


「……いる……声が……微かに、残像として残っている……」

昌代の声は震えながらも、確信を帯びていた。


その瞬間、空気中に僅かに揺れる波紋のような感覚が広がる。

彼女の霊感──サイコメトリー的感応能力──が、過去の出来事に染み込んだ「残留意識」を読み取っていたのだ。


壁や床に触れずとも、そこにかつて存在した感情や恐怖、無力さの波動が、まるで微かな声の形で昌代の意識に伝わる。

「……泣いている……怖がっている……でも、助けを求めている……」


朱音はスケッチブックを抱え、微かに震える鉛筆でその波動を線として形にしていく。

ユウタはそっと隣に立ち、影の奥に潜む子の存在を感じ取る。


【時刻:現在/場所:B-3倉庫第2区画】


奈々は端末の画面を消し、淡い光だけが室内に残る。

指先で画面を軽く叩きながら、低くつぶやいた。


「……記録が残っていない……でも、確かにここに“何か”があった……」


その声に、周囲は静まり返る。

ユウタは壁際で微かに震える空気を感じ、昌代の集中する霊感の波動に合わせて息を整える。

朱音はスケッチブックに向かい、奈々の言葉を受け止めるように、鉛筆を握り直した。


「……あの夜、ここで起きたこと……誰かが脱出できなかったんだ。」

沙耶が静かに頷き、耳を澄ます。

微かに響くのは、忘れられた誰かの記憶の残響。

奈々は端末を手元に置いたまま、目を細め、画面の光が消えた闇の中で過去の痕跡を見つめていた。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


薄手のジャケットに身を包んだ青年が、静かに部屋の奥から歩み寄る。

目元にはわずかな疲労の影があるものの、その眼差しは澄んで鋭く、周囲の空気の微細な変化までも捉えている。


「お呼びでしょうか。私は記憶分析担当、御子柴理央です。」


その声には落ち着きがあり、聞く者に安心感を与える。

御子柴は手元のタブレットを取り出し、端末に記録された情報と照合しながら補足した。


「過去の体験や感情の痕跡を精密に解析し、封じられた記憶や断片化された情報を統合・復元する専門家です。

これにより、現場に残る“微かな記憶の残響”から、事象の全貌を科学的に推定することが可能です。」


その説明に、朱音は鉛筆を止め、昌代と奈々は息を呑んだ。

御子柴の存在は、この倉庫に眠る記憶を解き明かすための、重要な鍵となるのだった。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


玲は御子柴の説明を静かに聞き終えると、腕を組みながらゆっくり頷いた。

「わかった。理央、君に任せよう。」


その声には迷いはなく、周囲の緊張感をわずかに和らげるような力があった。

昌代も小さく息をつき、朱音は鉛筆を握り直す。

奈々は端末を操作しつつ、御子柴の解析が始まるタイミングを見計らった。


玲の頷きは、この場で起きている“過去と向き合う儀式”の合図でもあった。

誰もが深呼吸し、静かに次の瞬間を待つ。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


御子柴は無言で小型デバイスを手元で起動する。

画面が淡く光り、微細な振動が周囲の空気に伝わる。


昌代に向かって軽く目を伏せ、落ち着いた声で告げた。

「この装置で、記憶に名前を与え、可視化します。名付けられた記憶は、封じ込められた事象を整理し、呼び出すことが可能です。」


昌代は息を整え、目を閉じる。

部屋の空気がわずかに震え、過去の声や影が、今ここに揺らめきながら浮かび上がるようだった。


朱音は鉛筆を握り直し、奈々は端末を静かに操作する。

玲は腕を組み、御子柴の動きをじっと見守る。


名付けられた記憶――その瞬間、過去と現在がひとつの線で結ばれた。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


御子柴は眉を寄せ、微かに震える音声の断片に耳を澄ます。

端末から拾われる空気の揺れ、かすかな囁き――それらすべてが、封じられた記憶の残響だ。


「……名前です。」

御子柴は低く、しかし明瞭に呟く。

「この声は、記憶に名を持たせると識別できます。対象は、まだ呼ばれることを待っている存在です。」


昌代は手を胸に当て、目を閉じたまま静かに呼吸する。

朱音の鉛筆が紙の上で震え、影の輪郭を描き出す。

玲は無言でその様子を見守り、奈々は端末のログを注視する。


その瞬間、名のない記憶に微かな輪郭が生まれ、空間に確かな存在感を帯びた。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


御子柴はわずかに微笑み、低くつぶやく。


「……ユウタです。」


その瞬間、空気が微かに震え、倉庫の奥から反響するように響く小さな声。

名を呼ばれた記憶が、初めて形を得る。


ユウタは静かに頷き、目を閉じてその響きを胸に刻む。

昌代の手は微かに震え、朱音の鉛筆も紙の上で一瞬止まったまま、その名を描き留めようとしている。


玲は肩越しに見守りながら、低くつぶやく。

「呼ばれた者は、もう一人ではない。」


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


昌代の目から、静かに涙が零れ落ちる。

その涙が床に小さな光の点を作るように反射する中、彼女の意識に一つの名前が浮かんだ。


「コウキ……」


声に出すわずかな震えが、倉庫の冷たい空気に溶ける。

御子柴はその瞬間、微かに頷き、耳を澄ませる。


ユウタの瞳が少しずつ光を帯び、壁際にいた影の記憶がゆっくりと形を取り始める。

その名前は、忘れられた時間の扉を静かに開いた。


玲は低く息をつき、肩越しにそっと言った。

「これで、彼も……存在を取り戻せる。」


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


ユウタはふと目を伏せ、冷たい壁に手を添える。

その掌を通して、幼い日の記憶がゆっくりと流れ込む。


コウキ――あの時の静かな声、ふたりで隠れた倉庫の角、微かに漂う埃の匂い。

手を取り合い、互いに恐怖を紛らわせようとしたあの日の温もり。


小さな背中を壁に預け、互いに寄り添った時間。

暗闇の中で、ふたりだけの世界を築いた瞬間。

声にならない約束、互いを支え合った感覚。


御子柴は静かにデバイスを操作し、ユウタの心象を読み取る。

微かな呼吸、わずかに震える指先、記憶の残響が壁を伝う。


玲は横で目を細め、低くつぶやいた。

「忘れられた時間を、取り戻すんだな……。」


ユウタはそっと目を開け、コウキの存在を胸に刻む。

あの日の恐怖も孤独も、いまは確かに“二人で生き抜いた記憶”として繋がっている。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


御子柴が一瞬、空気の流れを読むように静かに首を傾げた。

彼の視線がユウタの指先、その壁の一点に吸い寄せられる。

デバイスに映し出された波形は、まるで“空白”からゆっくりと形を持ち始める記憶のように、淡く震えていた。


「……“名前を思い出される”まで、彼は“存在できなかった”」

御子柴が低く、しかし確信を持って呟く。


その言葉に、室内の空気が微かに震えた。

朱音が無意識にスケッチブックを抱きしめ、沙耶が眉を寄せる。

昌代の指先も、壁に残る見えない何かをなぞるように震えていた。


御子柴は続ける。

「記憶の中で名前が消された者は、存在そのものが“曖昧”になります。

名が呼ばれなければ、本人の輪郭は薄れ、声も形も“そこに在った”という証が希薄になる。

コウキ君は、その状態に置かれていたんです。」


ユウタはゆっくりと目を閉じ、壁に触れた手に力を込めた。

「……だから、あの時、コウキは“そこにいたのに、誰にも見えなかった”んだ。」


その瞬間、室内の全員が息を飲んだ。

まるで消えたと思われた誰かの“影”が、静かに戻り始めたように感じられた。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


圭介は壁の向こう側に視線を落とし、息を潜めるように小さく呟いた。


「……記憶の牢か……」


その声には、過去の痛みと現在の重みが混ざっていた。

目の前に広がる倉庫の暗がりは、単なる物理的な空間ではなく――閉じ込められた子どもたちの“記憶の牢”でもあった。


──暗く湿った空気の奥に、忘れられた声がかすかに残っている。

──壁や棚の影に、抑えられた記憶が圧縮されて存在する。

──光が届かぬ場所では、名前も、感情も、時間も、すべてが押し込められ、牢の中で静かに揺れている。


昌代の手が小さく震え、無意識に壁を撫でる。

その触覚を通じて、彼女は閉ざされた記憶の残響を感じ取る――遠くで囁く声、足音、泣き叫ぶ子どもたちの影。


「ここに、真実が封じ込められていた……」

圭介の声は、深く沈んだ怒りと切なさを帯びて響く。


ユウタの指先も壁に触れ、微かな温度と振動を感じた。

その瞬間、閉ざされた記憶が少しずつ、確かに“生きていたこと”を告げているように思えた。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


玲は静かに目を細め、低く言った。


「……コウキは、この倉庫で記憶を封じられた。

 名前も、存在も、十年前までは誰にも認識されなかった。」


彼の声には、揺るぎない冷静さと鋭さが宿る。

部屋の空気が一瞬、張りつめる。


「記憶の牢の中で、彼は“消えた存在”だった。

 だが、封じられた時間の中で、彼の意識は生き続けていた――自分が誰かも分からず、ただそこにいるだけの状態で。」


昌代が小さく息を呑む。

サイコメトリーで感じ取れるのは、壁や棚に染みついた封印された記憶の痛み。

ユウタが手を伸ばすと、微かに触れる感覚がコウキの存在を知らせる。


玲は少し前に踏み出し、手を差し出す。

「コウキの記憶は、断片として他者に残響することもあった。

 だが、それはごくわずかで、完全に解放されることはなかった。」


倉庫の奥で、静かに息づく記憶の気配が室内の全員に伝わる。

ユウタの瞳にも、コウキの“閉ざされた時間”が映し出されていた。


玲の視線は、あくまで鋭く、確かにコウキを見据えていた。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


玲の声が低く響いた。


「彼の名は――柊コウキ。」


室内の空気が一瞬、静止したかのように張りつめる。

十年前、誰にも認識されず、名前さえも封じられた少年。

しかし今、その名が呼ばれ、初めて存在が顕在化する。


昌代の目が潤む。

ユウタが小さく息を呑み、壁に手を添えたまま、微かに頷く。


玲は腕を組み、淡々と語り続ける。


「コウキは、ここで記憶を封じられた“消えた存在”だった。

 名前も、日常も、誰にも知られず、ただそこにいた――それが十年間続いた。」


しかし、今は違う。

ユウタの声、昌代の感覚、御子柴のデバイス――すべてが、コウキの存在を呼び覚ます。

そして彼は、初めて“名前を持つ存在”として世界に立つことができたのだ。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


空気が変わった。

埃と鉄の匂いに混じり、かすかな温度差が部屋の隅々に広がる。

息を吸うたびに、過去の記憶が微かに震えるような感覚が走った。


朱音の鉛筆が紙の上で震える。

スケッチブックに描かれる線は、これまで“忘れられたもの”の輪郭を、ゆっくりと浮かび上がらせていく。


ユウタは壁に手を添え、目を閉じる。

遠くから微かに聞こえる声――過去に閉じ込められた誰かのもの。

その声が、室内の静寂をゆっくりと押し広げ、存在の空白を埋めていく。


玲は静かに立ち、腕を組んだまま空気の変化を観察する。

微かな振動、記憶の残響――それは、封じられていた“柊コウキ”の存在が、ついに顕現し始めたことを告げていた。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


扉が軋み、冷たい空気が微かに揺れる。

黒いコートを纏った男が足を踏み入れた。


長身の体は静かに倉庫の床に影を落とす。

その眼差しは鋭く、しかしどこか深い悲しみをたたえていた。

年月を経て積み重なった覚悟が、全身から漂ってくるようだった。


玲は目を細め、端的に告げる。

「柊啓一。行方不明者の記憶解析に特化したスペシャリストです。」


ユウタと朱音の視線が、一瞬その男に向けられる。

存在するのか、過去に閉ざされた記憶の扉を、今、開こうとしているのか――その空気が、倉庫全体に静かに張りつめた。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


啓一は肩の力を抜き、ゆっくりと倉庫内を見渡した。

埃にまみれた棚、散乱する書類、古びた箱――

十年前の記憶が眠る空間を、まるで呼吸するかのように確かめる。


その視線は一つひとつの物に宿る「残響」を逃さず、微かな歪みや不自然な並びまで、見逃さない。

壁際で手を触れるユウタに気づき、軽く頷く。

無言のまま、彼の存在は「分析者」としてだけでなく、過去を解き明かす者としての重みを放っていた。


玲が静かに言った。

「啓一さん、この場所の記憶解析、お願いします。」


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


沙耶の声は、慎重でありながらも震えていた。

「柊さん……あなた、コウキ君の……?」


啓一はしばらく沈黙したまま、床に散らばる埃を見つめる。

やがて、わずかに目を伏せ、低く、しかし確かな声で答えた。

「……俺の息子だ。」


空気が一瞬、張り詰める。

ユウタや昌代、そして他の面々もその言葉に吸い込まれるように静止する。

啓一の目には、長年抱え続けてきた痛みと覚悟が刻まれていた。

その背中に、父として、解析者としての責任が重くのしかかる。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


圭介は深く息を吐き、静かに語り始めた。

「生存は確認されてる。だが、“名前を思い出すまで存在できなかった”状態だった。」


その言葉に、室内の空気はさらに重くなる。

ユウタの視線は一瞬、啓一へと向かい、壁に触れる手がわずかに震える。

記憶の牢に閉じ込められたコウキの過去が、今まさに静かに解き放たれようとしていた。


そのとき――


薄暗い奥の隅から、小さな足音が響いた。

倉庫の影の中、少年の姿が、ゆっくりと現れる。


15歳になった柊コウキ。

肩幅はまだ細く、体には少しの緊張感が残るものの、瞳には鋭い光が宿っている。

啓一が静かに一歩前に出ると、コウキはわずかに肩をすくめ、しかしその視線は迷わず前を向いていた。


圭介はそっと息を呑む。

「……名前を思い出したんだな。」


ユウタは小さく頷き、朱音は鉛筆を止めてその場に見入る。

記憶の牢から解放された少年が、今、ここに立っていた。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


そして――


コウキの小さな肩が、わずかに震えた。

10年という長い時間、記憶の奥深くに閉じ込められていたため、身体はまだ小学生のままの少年。背は15歳の少年としては小さく、肩幅も細く、痩せた腕が父の手にかろうじて届く。


「……お父さん……」

声はかすれ、震えている。けれど、そこには確かに“呼びあえる喜び”が宿っていた。


啓一は深く息を吐き、目を潤ませながら少年の顔を覗き込む。

「コウキ……俺だ、ずっと探してた。」


コウキは目に涙を浮かべ、小さく頷き、声を絞り出す。

「……ずっと……ひとりで……怖かった……」


啓一はそっと膝を折り、少年を抱き寄せる。

小さな体を胸に抱き、強く手を握る。

「もう大丈夫だ、コウキ。もうひとりじゃない。」


震える呼吸と重なり、互いの声が静かに倉庫内に響く。

「お父さん……」

「コウキ……」


呼びあえる声は、10年閉じ込められていた孤独をすべて溶かし、ようやく再会の証となった。

小さな身体と震える声からも、長い年月の痛みと救済の重みが、静かに伝わってくる。


【時刻:/場所:B-3倉庫第2区画】


コウキの目には、恐れと戸惑いが入り混じっている。

小さな体は10年分の閉じ込められた時間の重さを抱え、微かに震えていた。


啓一はそっと手を差し伸べ、声をさらに落として語りかける。

「怖がらなくていい。お前はずっと生きていた。ここにいる、俺と一緒にいるんだ。」


コウキの瞳がようやく揺らぎ、ほんの少しだけ光を取り戻す。

呼び戻された命が、静かに息を吹き返す瞬間だった。


その手は父の手に触れ、震えながらもしっかりと握り返す。

10年という時間に隔てられていた親子の声が、今、倉庫の奥でやっと呼びあえる――

互いを確認するように、呼び合う小さな声が静寂を満たしていった。


遠くで朱音のスケッチする鉛筆の音が、柔らかな伴奏のように響く。

忘れられた記憶の断片が、少しずつ現実に戻されていく。


啓一はゆっくりと膝をつき、コウキと目線を合わせた。


「お前の名前は――コウキだ。忘れるな、柊コウキ。」


コウキの唇がわずかに震え、目に涙が浮かぶ。

「コ、コウキ……」


父の声が確かに自分を呼んでいることを、初めて認識する。

10年の暗闇の時間が、わずかな瞬間に融けるように消え去る。


啓一は優しく微笑みながら、もう一度名前を呼ぶ。

「そうだ、コウキ。ずっと待ってた。これからはここにいていいんだ。」


小さな体が、ゆっくりと父に近づき、固く抱きしめられる。

倉庫の奥で、呼び戻された命と名前が静かに重なった瞬間だった。


玲は静かに一歩前へ出て、低い声で告げた。


「コウキは生かされていた。閉じ込められ、名前を奪われていただけで――命そのものは、ずっとここにあった。」


その言葉に、倉庫内の空気がわずかに揺れる。

コウキの小さな肩が少し震え、啓一がそっと抱き寄せる。


「恐れることはない。もう一人じゃない。」


コウキは父の胸に顔を埋め、目に光を取り戻す。

玲は視線を二人に向け、そっと頷いた。

「過去の暗闇は終わった。これからは、自分の名前と、自分の存在で生きる時だ。」


倉庫の奥に広がる沈黙の中で、呼び戻された命と名前が、確かな希望を帯びて静かに息づいていた。


【時刻:/倉庫棟B-3内】


御子柴理央は端末を手元に置き、画面をじっと見つめながら眉をひそめる。


「……この記憶の構造、かなり不自然です。単なる欠落や消失じゃない。明らかにブロックされている――隔離されているんです。」


彼は画面をスクロールさせ、過去のログや脳波データの断片を指でなぞる。


「人工的な処置によって、意図的にアクセスできない状態にされたと見て間違いないでしょう。削除じゃない、隔離です。つまり――誰かが、意図的に記憶を封じ込めた。」


端末の光が御子柴の表情を白く照らす。

その冷静な解析には、恐怖よりもむしろ鋭い洞察が宿っていた。


「ここまで計画的に行われているとなると……事件の全貌は、想像以上に複雑かもしれません。」


【時刻:/倉庫棟B-3内】


啓一は膝をつき、コウキの隣で静かに視線を落とす。

声は低く、抑え込むように呟いた。


「……おそらく、“川並メディカル研究所”の手だ。」


その名を聞いた瞬間、室内の空気が微かに引き締まる。

玲が口元に手を当て、端末の画面を見つめたまま微かに頷く。


「人工的な隔離――それなら合点がいく。計画的に記憶を封じる技術は、研究所でしか実現できない。」


御子柴も端末を置き、静かに顔を上げる。

「つまり、ユウタやコウキだけではなく、他にも同様の隔離対象が存在する可能性があるということですね……。」


倉庫の奥で、コウキは小さな体を震わせながらも、啓一の声に耳を澄ませていた。


【時刻:/倉庫棟B-3内】


沙耶が眉をひそめ、声を震わせながら言葉を絞り出した。


「つまり……彼は“臨床データ”として扱われた可能性がある……」


その発言に、室内の空気が一瞬で重くなる。

朱音が小さく息を呑み、コウキの肩にそっと手を置く。


啓一は静かに頷き、目の奥に深い怒りと悲しみを湛えた。

「そうだ……。あの日からずっと、人工的に閉じ込められ、名前も記憶も奪われていた。」


御子柴は端末を握り直し、冷静に分析する。

「隔離とデータ化の両立……。これはただの記憶抹消ではなく、意図的な“記憶実験”だ。」


玲は深く息を吐き、目線をコウキに向けた。

「だからこそ、今ここで名前を呼び、存在を取り戻す必要があったんだ……。」


コウキは小さな手を握りしめ、微かにうなずく。

暗闇に閉じ込められていた少年の瞳に、ようやく光が差し始めた。


【時刻:/倉庫棟B-3内 薄暗い第2区画】


啓一は、息を押し殺すように低くうなずいた。

「その上で、記憶に“起爆装置”が組み込まれていた。本人がある記憶に触れた瞬間、意識を破壊するタイプの処置だ……。」


その声には、深く抑え込まれた怒りが滲んでいた。

「……あいつらは、“記憶ごと人間を制御する”ために、子どもまで利用してたんだよ。」


一瞬、空気が凍りついたように誰も言葉を発せなくなる。

朱音はスケッチブックを抱きしめ、震える手で鉛筆を握ったまま啓一の言葉を聞いていた。


御子柴が端末の画面をスクロールしながら、硬い声で補足する。

「……これは“記憶トリガー”の応用ですね。過去の出来事に関連する刺激を入力すると、脳が防衛的に自己破壊的反応を起こす……。高度な心理・神経操作です。」


沙耶が眉をひそめ、目を伏せた。

「子どもの心に……そんなものを……。」


玲は腕を組み、ゆっくりとコウキへ目線を落とす。

「……だが、もうトリガーは発動しない。ここで私たちが“存在”を呼び戻した時点で、仕掛けは意味をなさなくなった。」


コウキはその言葉に小さく目を開き、父・啓一の方を見た。

長い時間、記憶の奥で閉じ込められていた少年の瞳に、ようやく微かな安堵の光が宿った。


【時刻:/倉庫棟B-3内 第2区画】


突然――


奥の方で、鋭い「パキッ」という音が響いた。

全員が一瞬にして動きを止め、視線を暗がりへ向ける。

御子柴が反射的に端末を握りしめ、画面のモニタリングが急速にノイズを帯びていく。


「……おかしい、信号が乱れている。」御子柴の声が低く緊張を帯びる。


朱音はスケッチブックを胸に押し当て、震える指先で鉛筆を止めた。

啓一は即座にコウキの肩を抱き寄せ、背中をかばうように位置を変える。


「誰か……いるのか?」玲が低く問う。

その声は倉庫の冷たい空気に吸い込まれ、返事は返らない。


だが次の瞬間、暗闇の奥から――

乾いた足音が、ひとつ、またひとつと近づいてくる。


その音は、人のものにしては奇妙に間がずれ、金属質な反響が混じっていた。

沙耶が唇をかすかに噛む。

「……これ、私たち以外の気配……間違いない。」


コウキが父の胸元で顔を上げ、小さな声を漏らした。

「……この音……知ってる……。」


倉庫の奥の闇が、ゆっくりとうねるように動いた――。


【時刻:/B-3倉庫内】


御子柴の端末画面に、赤い警告が立て続けに点滅した。

「警告:不正アクセス検知」──その表示が、無機質な電子音と共に倉庫内に響く。


画面を覗き込んだ奈々が息を呑む。「……外部から侵入?」

御子柴は指先を素早く動かしながら、険しい表情で言った。


「外部から妨害が入ってる。この倉庫、まだ“監視されてる”!」


その言葉に、室内の空気が一気に張りつめる。

玲が即座に反応し、背後を確認しながら低く呟いた。

「動きを止めるな。奴らは“証拠”だけじゃなく、“俺たち”も消そうとしている可能性がある。」


啓一はコウキの肩をそっと抱き寄せ、沙耶は朱音を守るように一歩前に出た。

冷たい鉄と湿気の匂いに混じって、見えない緊張の波が倉庫全体を満たしていく。


【時刻:/B-3倉庫内】


玲は即座に腕を組んだまま、短く的確に指示を飛ばす。

「御子柴、端末の通信を遮断。奈々、周囲の電波干渉を確認しろ。啓一、コウキと朱音を安全な場所に移動させろ。昌代、霊感で異常の有無を監視。」


一瞬の沈黙の後、メンバーは玲の指示通りに動き出す。

御子柴は端末の設定を素早く切り替え、外部への通信経路を遮断する。

奈々は倉庫内の電波状況を解析し、干渉源を特定しようと端末を操作する。

啓一はコウキを抱え、朱音の手を取りながら倉庫の安全な角へ導く。

昌代は目を閉じ、微かな空気の揺れや霊的な残響を探るように意識を集中させた。


玲は低く呟く。

「奴らが何を狙っているかは分からない。だが、動きを止めれば、ユウタやコウキを危険に晒すことになる。」


室内には緊張と覚悟が入り混じった空気が漂い、誰もが一瞬たりとも気を緩められない状況だった。


【時刻:/B-3倉庫 内部奥】


空気が一瞬、凍りついた。


朱音の手から鉛筆が転がり落ちる音だけが、やけに大きく響く。

誰もが、コウキの言葉を理解するまでの数秒間、息を止めていた。


玲がゆっくりと顔を上げ、低い声で問う。

「……今、なんて言った?」


コウキは怯えたように首をすくめながら、それでも確かな声で繰り返した。

「“浅見亮介”……白い部屋で、いつも僕を見てた人。

“記憶を整理してあげる”って言いながら……僕の名前を、何度も消そうとした。

僕のことを、“12番”って呼んでたんだ。」


御子柴が一瞬で端末の画面を呼び出し、指を走らせる。

「……“浅見亮介”。確か……十年前、“川並メディカル研究所”の主任技術者。

記憶改変プロトコル《CODE-M》の設計者の一人だ。

しかし記録上は――三年前に失踪扱いになってる。」


啓一の拳が、かすかに震えた。

「失踪じゃない……逃げたんだ。

自分の実験で“子どもが壊れた”ことを知って、責任を放棄して。」


沙耶が唇を噛む。

「“12番”って呼び方……つまり、他にもいたのね。

同じ処置を受けた子が、少なくとも十一人……」


沈黙。

その静寂の中で、ユウタが壁にそっと手を添えた。

「……聞こえる。まだ、ここに……“他の声”がいる。」


玲は深く息を吸い、鋭く目を細めた。

「──全員、警戒態勢を維持。

“浅見亮介”の痕跡を追う。

“12番”が、始まりじゃない。」


【時刻:/B-3倉庫・中央通路】


埃を含んだ冷たい空気の中、玲の瞳が鋭く細まった。

薄暗いライトの下、その表情はまるで何かを見透かすように冷たい。


「……やっと名前が出たな。」

彼はゆっくりと息を吐き、手帳を閉じる。


「浅見亮介――“川並メディカル研究所”の現場責任者。

十年前、記憶制御プロジェクトの中核を担っていた人物だ。」


御子柴が眉を寄せ、端末に映る情報を指先でスクロールする。

「……確かに、公式記録上は“失踪”扱い。

でも実際は――“外部契約”。別の名義で活動を続けてる。」


玲は小さく頷いた。

「つまり、“川並”自体は解体されたように見せかけて、実験系統は別会社に流用されたってことだ。

浅見はその“繋ぎ役”として、まだ動いている。」


沈黙の中、コウキの小さな声が落ちた。

「……じゃあ、“僕の記憶”も……まだ誰かの手の中にあるの?」


玲の表情に一瞬、影が走る。

そして低く答えた。


「――ああ。奪われたままだ。

だが、もう一度取り戻す方法がある。」


その声には、確かな決意と、長い闇を切り裂くような鋭さがあった。


【時刻:/B-3倉庫・中央通路】


冷えた空気の中、玲が短く頷いた。

その眼差しは、確信と怒りの狭間で静かに燃えている。


「……これで証明された。」

声は低く、しかしはっきりと響く。


「“記憶の改ざん”は実在し、その被害者は――今、ここにいる。」


玲の視線が、ゆっくりとコウキへと向けられる。

光に照らされた少年の横顔には、まだ幼さが残りながらも、

確かに“生きている記憶”の証が刻まれていた。


沈黙を破るように、啓一が静かに言葉を継ぐ。

「……十年の間、彼は閉じ込められていた。

記憶を奪われ、名前を奪われ――それでも、生き延びた。」


沙耶が拳を握りしめる。

「なら、次は取り戻す番よ。奪った側に、“現実”を突きつける。」


玲はわずかに口元を引き締めた。

「――ああ。

これが、“記録を取り戻す戦い”の始まりだ。」


その言葉とともに、倉庫の奥に差し込む光が、

ゆっくりと、まるで封印が解かれるように広がっていった。


【時刻:/B-3倉庫・第2区画】


倉庫の照明がふっと落ちた。

機械音のような低い唸りが遠くで響き、

次の瞬間、全ての光が闇に飲み込まれる。


「停電……?」沙耶が息を呑む。


奈々が端末を確認しながら、すぐに声を上げた。

「違う。電源が落ちたんじゃない……制御が“切られた”。」


闇の中で、玲の声が静かに響く。

「……誰かが、まだこの倉庫を操作している。」


淡い月光が一筋、割れた窓から差し込む。

その光に照らされた床には――

小さな足跡が、いくつも、濡れたように浮かび上がっていた。


ユウタが低く呟く。

「……この足跡、最近のものじゃない。」


御子柴が懐中ライトを灯す。

「記憶の残留反応だ。“過去の足跡”が、空間に焼き付いてる。」


玲は無言で前に出る。

光の先、崩れた壁の奥から――

誰かの微かな「声」が、風に乗って届いた。


「……また、閉じ込められてる……」


【時刻:/B-3倉庫・第2区画】


玲は闇の中で声を張った。

「防衛ラインを敷く! 今から“迎撃モード”だ!」


その瞬間、背後の扉が音もなく開く。

月光を背に、一人の男が姿を現した。


漆黒の戦闘服に、灰色の瞳。

無駄のない動作と、冷えた気配が空気を張り詰めさせる。


「――影班、成瀬由宇。侵入経路、全域遮断済み。」

低く通る声が、闇の奥へと響く。


続いて、別の影が静かに現れる。

黒髪を後ろで束ね、紫の瞳が淡く光を帯びていた。


「桐野詩乃。毒物と痕跡処理は任せて。……空気、少し汚染されてる。」


最後に、重い足音とともに長身の男が現れた。

ダークグレーのロングコート、青い瞳が一瞬光を反射する。


「安斎柾貴。精神制圧・記録汚染領域、展開する。

玲、三分あれば防壁を張れる。」


玲は小さく頷く。

「全員、配置につけ。……“外”が来るぞ。」


倉庫の奥から、わずかな電磁ノイズとともに“誰か”の気配が近づいてくる。

ユウタがその方向を見つめ、かすかに震える声で言った。


「……あの声……浅見亮介だ。」


【時刻:/B-3倉庫・第2区画】


奈々が端末の光を落とし、低く息を吐いた。

「……川並の“対処部隊”が動いたか……!」


彼女の指先が高速で端末を操作し、数秒後、立体モニターに複数の熱源反応が映し出される。

「北側通路に三、南側に二……全員、武装してる。しかも――通常の保安じゃない、抹消任務用だわ。」


玲が眉を寄せる。

「つまり、口封じのための“証拠消去”だな。」


成瀬由宇が即座にナイフを抜き、静かに構える。

「……なら、俺たちは“記録を守る側”ってわけだ。」


桐野詩乃が冷静に答える。

「痕跡は残さないで済むようにする。誰一人、ここに近づけない。」


安斎柾貴は深く息を吸い込み、精神制圧領域を展開する。

「三十メートル以内、心理干渉フィールドを張った。……敵の動き、鈍るはずだ。」


玲は倉庫全体を見渡し、静かに言葉を落とす。

「これは、記録と記憶を守るための戦いだ――全員、気を抜くな。」


その言葉に、誰もが無言で頷いた。

その空間には、緊張と決意だけが、確かに存在していた。


【時刻:/B-3倉庫・防衛ライン展開中】


玲の短い指示が響く。

「迎撃要員、配置につけ!」


鉄骨のきしむ音の中、四人の影が次々に動いた。


最初に前線へ出たのは――藤堂迅。

無駄のない動きで遮蔽物の陰に滑り込み、双銃のセーフティを外す。

「了解。突破経路、俺が先に潰す。」

その眼差しは冷たく、しかし狙いは確実だった。


背後では、刃月圭が全体マップを投影しながら指示を飛ばす。

「敵は南側から主力、北側に撹乱。迅、右斜め前方三十メートルに伏兵、回り込め。」

その声は落ち着いており、全員の動きがその一言で統一されていく。

彼はまさに“戦略の司令塔”だった。


電脳防壁の後方では、伏見蒼が淡い光を放つコンソールを操作していた。

「電磁波スキャン開始。敵信号、遮断完了。こっちの位置は掴まれてない。」

指先が走るたび、空間に電子ノイズが広がり、まるで“見えない壁”が倉庫を包むようだった。


そして、最後に――

倉庫入口、中央に立つのは柊啓一。

厚いコートの下から防弾盾を構え、静かに言う。

「ここは通さない。……息子の記憶を、再び奪わせはしない。」


一瞬、静寂。

だが次の瞬間、外から轟音と共にシャッターが破られた。


玲が短く命令する。

「影班は後方支援! 迎撃要員、第一波を制圧――!」


金属音、銃火、そして指揮の声が交錯する中、

それぞれの“記憶を守る者たち”の戦いが、静かに始まった――。


【時刻:/B-3倉庫・外周防衛ライン】


端末が赤く点滅し、短い電子音が連続で鳴り響いた。画面に大きく表示されるアラートが、倉庫内の緊張を一気に引き上げる。


【警告:侵入者、倉庫外周到達】


刃月が即座に声を張る。

「外周到達。数は六、機動力高。北側フェンスから進入。迅、北東の遮蔽に回り込め。伏見、電脳網を最大出力で。」


藤堂は短く頷き、銃器のセーフティを外しながら低く言った。

「了解。第一波を足止めする。行くぞ。」


伏見はコンソールに指を滑らせると、淡い矩形の光線を放ち始めた。空中に無数の細いノイズの帯が走り、倉庫外周を覆うように広がる。

「電子障壁、展開。侵入者の通信・ナビゲーションを妨害、視覚支援も狭める。外の動き、強制的に遅延させる。」


啓一はコウキを抱き寄せ、薄く微笑んで低く囁く。

「ここは父さんが守る。安心しろ。」


成瀬と桐野が倉庫の死角へと散り、暗がりに溶ける。

成瀬はナイフの刃を唸らせ、桐野は携行の小瓶を確かめる。二人とも呼吸を整え、影のように待ち構える。


外からは静かに、だが確実に足音が近づく。砂利が踏まれる音、金属が擦れる音――機械のような規則性も感じられる。奈々が端末を凝視し、声を低める。

「敵の通信波形が見える。完全に軍事仕様だ……位置特定、こちらからの発見は三分以内。」


藤堂は前方の遮蔽物に身を寄せ、短く命令する。

「迅、タイミングを合わせて突入。俺は左から圧をかける。刃月、全体の視界を保て。伏見、電脳網で視界を二分割してくれ。」


迅(藤堂迅)が息を整え、静かに動き出す。影の隙間を縫うように一歩、また一歩。距離を詰める彼の目は冷たい。

「行く。」


外周のフェンスが低く揺れ、薄暗がりに人影が浮かぶ。装備は重く、しかし動きは速い。先行する一体がワイヤーを投擲し、倉庫の外側フェンスに絡めてくる。だが伏見の電脳網が瞬間的にそれを補足し、投擲軌道にノイズを重ねる。ワイヤーはわずかに逸れ、かすかな引っかかりを生む。


桐野が息を殺して前へ出る。暗闇に紛れて接近した侵入者の脇腹へ小瓶をはじく。化学反応で局所的に視界を霞ませ、相手は一瞬動きを鈍らせる。成瀬がその隙を突いて素早く接触、相手の武装を奪い取り制圧する。


倉庫内のスピーカーに、刃月の声が冷静に響く。

「状況報告、侵入者三を確保。残り三、北側通路で視界不良。迅、そこで足止めを。」


外側から、低い金属音と共に重装の影が二体、無言で迫る。彼らは川並の対処部隊だ。動きが機械じみて正確――だが、人の心はないわけではない。伏見が電脳の出力を上げ、外部の制御信号に寄生する干渉波を差し向ける。外の動きがぎこちなくなり、隊列が乱れ始める。


啓一は盾を前にして静かに構える。刃月が全体マップを手早く更新し、奈々が侵入者のバイオメトリクスを解析する。

「敵の装備には“痕跡消去”ツールが含まれている。時間稼ぎを最優先だ。藤堂、迅、二分で第一波殲滅を。」刃月が告げる。


藤堂が低く笑うように呟いた。

「二分もらった。じゃあ、やるだけやろう。」


懐中のタイマーが起動する。息を合わせるように、迎撃の動きが一斉に走る。影と光、電子と肉体、計略と即応。倉庫の薄闇は、いまや攻防の場となった。


外側からのノイズはなおも断続的に来る。だが伏見の網がそれを絡め取り、侵入者たちのセンサーを狂わせる。迅が遮蔽物から飛び出して斜めから突入、藤堂が横合いから圧をかける。二人の攻撃は鋭く、だが無駄がない――相手は訓練された対処部隊でも、ここにいる者たちには守る理由がある。


短い、しかし濃密な衝突の最中に、啓一の鋼の盾が一つの突進を受け止め、コウキを守る。刃月が冷静に指示を出し、伏見が電子防壁を局所的に強化する。成瀬と桐野が残る敵を逐次排除し、奈々が取得したデータを即座に解析して報告する。


数十秒、いや数分にも感じられる緊張の中で、迎撃要員の連携は乱れず、外周の侵入は次第に押し返されていった。外で再編を図る気配があり、遠巻きの無線に断続的な指示が聞こえたが、伏見の妨害がそれを掻き消す。


やがて刃月が短く宣言する。

「外周制圧、完了。敵の主力は撤退を開始。」


荒い呼吸が倉庫内に戻る。灯りはまだ完全には復旧していないが、勝ち取った時間が彼らに与えられる。玲が静かに前に出て、啓一とコウキを見下ろす。


「よくやった。だが油断はするな。浅見側はまだ動くだろう。これで事実の掘り起こしは、より危険になった。」


伏見がコンソールを確認し、淡く微笑んだ。

「干渉域は持続可能。ただし――彼らの連絡網は深い。次はより直接的な手段を使ってくるはずだ。」


御子柴が端末に目を落とし、ログを保存しながら低く言った。

「ここに残った痕跡を全部保全する。次は、この情報を外部に確実に出す方法を確保しよう。」


窓から差す月光が、倉庫の床に長い影を落とす。戦いは終わらない――だが今、倉庫には守られた記憶と、名前を取り戻した者たちの小さな平穏がある。全員がそれを胸に、次の一手を思い描く。


【時刻:/B-3倉庫・外周監視ライン】


冷たい夜気の中、刃月圭はひざをついてスコープを覗き込んだ。

夜視モードに切り替えられた光学レンズの奥、緑がかった映像に五つの影が浮かび上がる。

彼の声は冷静だが、その響きには明らかな緊張があった。


「……5名接近。標準装備は“鎮圧用ガス”と電子干渉機。

 目標の行動速度は一定――訓練された動きだ。」


藤堂迅が隣で構えながら短く応じる。

「川並の制圧班ってとこか。まさか“ガス”まで持ってくるとはな。」


刃月はスコープを離し、ポーチから小型マップを取り出す。

倉庫外周に光の印を打ち込みながら、迅に指示を出す。


「風向きは北西。ここでガスを散布されたら、内部まで流れ込む。

 伏見、換気ルートを制御して“負圧”に切り替えろ。内部への流入を最小限に。」


伏見蒼が端末を操作し、指先がキーボードを滑る。

「了解、外気弁閉鎖。内部気圧を0.2気圧下げる。ガス流入は防げるが、照明系統が一時的に不安定になる。」


刃月はわずかに頷く。

「構わない。外からの視界を奪うことになる。迅、桐野、北側通路に回り込め。

 ガス展開前に干渉機を無力化しろ。伏見、電子遮断壁を上層ルートに張るんだ。」


桐野詩乃がマスクを調整し、低く息を吐く。

「了解。静かにやるわ。」


外周の草むらを抜けて、風が小さく鳴る。

薄霧のように夜気が動き、遠くから装備の金属が擦れる音が届いた。

刃月が再びスコープを覗き、淡々と報告を続ける。


「……先頭の二人、干渉機を起動。信号波形は短距離ジャマータイプ。

 内部通信を断つ気だ。」


玲の声が通信に入る。

「こちら玲。内部通信は冗長回線に切り替え済みだ。やらせておけ。

 刃月、攻撃許可を出す。――誰も、倉庫には入れさせるな。」


その言葉に、刃月は無言でスコープを下ろす。

静かに銃身を支え、狙いを定めた。


スコープ越しの風景の中、侵入者の一人がゆっくりとガスカートリッジを構える。

彼の指が引き金に触れる、その一瞬前――。


刃月のトリガーがわずかに沈んだ。


短い音。

そして、最前列の侵入者が膝をつく。

彼の手から落ちたカートリッジが転がり、未起動のまま地面に沈んだ。


「一人目、無力化。」


冷たい声が夜の空気を裂いた。

そして――戦いの第二波が、静かに始まった。


【時刻:/B-3倉庫・内部第2区画】


戦闘の気配が外からわずかに伝わってくる。

金属のきしむ音、かすかな風圧――それでも倉庫の奥は、不思議なほど静まり返っていた。


ユウタはその静寂の中、壁際に歩み寄る。

足音を立てないように、そっと手を伸ばした。


「僕はここで“声を聞く”……」

その瞳はまっすぐに、闇の奥を見つめている。


昌代が不安そうに一歩踏み出しかけたが、玲が手で制した。

「……止めるな。あいつは“記憶の証人”だ。今、彼にしか届かない声がある。」


ユウタの指先が、冷たい鉄の壁に触れた瞬間――空気が震えた。

埃の匂いに混じって、どこか遠くの“記憶の残響”が滲み出してくる。


――泣かないで。

――僕、外に出たい。


かすかな声が、まるで子どもの囁きのように、ユウタの耳の奥をくすぐった。


「……まだ、何かある。」

ユウタの声は小さく、それでいて確信に満ちていた。


御子柴が端末を構え、解析を開始する。

「反応あり。壁の裏側に“異常磁気層”……おそらく、隠し構造だ。

 誰かが“記録”をここに埋め込んでる。」


玲が低く息を吐く。

「――よし。ユウタ、続けろ。俺たちはここを“開ける”。」


ユウタはうなずき、再び壁に両手を当てる。

まるでその向こうに閉じ込められた誰かと、心を重ねるように。


静かに、記憶が揺れた。

まるで呼応するかのように――外でまた銃声が響く。


だがユウタの表情は揺れなかった。

ただひとつの目的のために。

“忘れられた声”を、取り戻すために。


【時刻:/B-3倉庫・内部第2区画】


その瞬間――


ユウタの手が触れた壁の表面が、かすかに振動した。

微かな光の筋が、壁の隙間から漏れ出し、暗闇に浮かび上がる。


「……見える……!」

ユウタの瞳が輝いた。壁の内部、隠されていた小さな空間――そこに、長年閉じ込められていた痕跡がうっすらと浮かび上がる。


昌代が息を飲む。

「……あの子……まだ、ここにいたのね……」


玲が冷静に指示を出す。

「御子柴、構造解析を優先。奈々、封鎖解除。外周は藤堂たちに任せろ。」


ユウタは目を閉じ、耳を澄ませる。

――泣き声、ささやき、呼びかけ――

“忘れられた誰か”の声が、壁の奥から微かに届く。


彼は小さくうなずき、口元に力を込めた。

「……今度こそ、出してあげる……!」


倉庫の暗闇に、微かだが確かな決意の光が差し込んだ瞬間だった。


【時刻:/B-3倉庫・外周&内部】


玲の低い声が響く。

「迎撃開始。全員配置につけ!」


刃月圭はスコープを覗き込み、遠距離から標的の動きを確認する。

「標的5名。進行速度は中程度。標準装備で対応可能。」


伏見蒼が端末を操作し、電子妨害フィールドを起動。

「通信系統とドローン誘導を遮断。外部からの妨害は最小化します。」


柊啓一は冷静に盾を構え、前方の狭い通路に立つ。

「ここで止める。無理な追撃は不要。」


藤堂迅は素早く動き、倉庫の死角をカバー。

「敵を包囲する。逃走ルートはゼロに。」


一方、倉庫内部ではユウタが目を閉じ、壁の奥の声に集中する。

「まだ……誰かが閉じ込められてる……」


外周で接近する敵に、刃月が小型ガス弾を投擲。

「まずは動きを封じる!」


煙が立ち込め、電子干渉機の信号で敵の視界と通信が途絶える。

敵の動きが鈍り、倉庫内は緊迫した静寂に包まれた。


玲は短く指示を出す。

「全員、無力化優先。撃破ではなく制圧。ユウタは安全確保に専念。」


暗闇の中で、ユウタの耳にかすかな声が再び届く。

「……出ておいで……もう安全だ……」


迎撃戦、ここに本格的に始まった。

倉庫の奥、外周、そして記憶の迷宮――すべてが一つの戦場となる。


【時刻:/B-3倉庫外周付近】


影班――通称「チーム暗殺」。任務は一つ。敵の指揮系統を確実に沈黙させる。失敗は許されない。


玲の声は端末越しに、だが低く確実に響いた。

「時間を稼ぐだけじゃ足りない。中心を切り落とせ。浅見を潰す。合図は私だ。」


成瀬が静かに刃を確かめ、唇の端に冷笑を浮かべる。

「了解。接近、無音で。首根っこを取るだけだ。」


桐野は暗がりで小瓶を握りしめ、瞳が鋭く光る。

「致命痕跡は残さない。痕は私が消す。」


安斎は深く息を吸い、精神フィールドを微調整する。

「接触後の心理攪乱を最小化する。対象の反応を瞬時に封じる。」


影たちは闇に溶け込む。木立の影、倉庫外壁の凹凸、夜霧の一片――それらすべてを利用して、ゆっくり、確実に前へ出る。刃月の遠距離スコープが微かな動きを追う中、藤堂は前線との簡潔な目線を交わし、合図のタイミングを計る。伏見の電脳網が外側の通信を掴み、桐野の視界が静かに霞むタイミングを作る。


「迅、成瀬、三人で左側の遮蔽を剥がせ。桐野は右から痕跡処理、安斎は啓一の位置を確保しつつ心理圧を展開。私は中央突破で浅見の車両に向かう。」玲の命令は短いが無駄がない。


影が分裂し、同時に動く。足音は砂利に沈み、夜風が息を消す。誰もが呼吸を整え、合図を待つ。外側で再編を図る対処部隊の影が一瞬だけ光に浮かぶ──その瞬間、成瀬が低く唸り、暗闇へ滑り込む。


「今だ。」藤堂の合図が、息を呑む間を与えずに流れた。


月影の下、無数の影が一斉に動き出す。中心へ、浅見へ――切り落とすための一撃を、静かに、しかし確実に。


【時刻:深夜/場所:B-3倉庫外周・裏手の影】


夜は鉛色のベールを落とし、倉庫群の輪郭を不確かに溶かしていた。月光が薄く伸びるだけで、草むらの陰は深い黒に沈んでいる。空気は冷たく、息が白く染まる。そんな闇の中、三つの影が木立を縫うように滑り出した――影班、通称「チーム暗殺」の面々だ。


成瀬由宇は先頭に立ち、身体は闇そのもののように沈んでいた。黒い戦闘服は音を吸い込み、足元の石や枯葉を踏んでも音は消える。彼の瞳は狙点だけを捉え、呼吸は規則正しい。今夜の任務は「中心を切り落とす」。彼の役割は静かに近づき、対象の動きを無音で止めることだ。動きは刀のように無駄がなく、だがそこにあるのは迅速な判断と冷徹な計算――必要な一撃だけを与えるための精密さだった。


桐野詩乃は成瀬の右手、少し後方に寄り添う。彼女の小さな箱は医師のそれに似ているが、その中身は外科的かつ化学的な工具で満ちている。彼女は無声の外科医。致命的な痕跡を残さないための処置を担う。今夜は、もし成瀬の接触が不可避ならば、最短で対象を無力化し、その痕跡を消すのが任務だ。桐野の指先は冷たく、それでいて確かな技術を秘めている。彼女の瞳は淡く光り、呼吸を合わせることでチームの時間軸が同期していく。


安斎柾貴は少し離れた高みで、闇と電波の狭間に陣取る。肩に背負った小型装置は静かに微弱なパルスを放ち、彼はそれを手先の感覚で微調整する。彼の仕事は電脳汚染と精神撹乱――敵の通信網と心理を乱し、指揮系統を麻痺させることだ。音声はほとんど聞こえないが、電磁の波形で外界を編むその技術は、見えない鎖を相手にかけることを可能にする。


三人は自然と息を合わせ、夜のテンポに溶け込んだ。成瀬が小さく手を挙げる。合図。桐野はゆっくりと前へ出て、小瓶を取り出して蓋を押し閉める。安斎は装置の出力を一段上げ、外の監視カメラやスナイパー用の光学センサーへ小さなノイズの波を送り込む。外周で待機する迎撃隊と微かな連携の合図が交わされる。


向こう側、浅見の車両が夜明かりの下に薄く浮かび上がる。車内には白いコートを羽織った人物の影。計画の肝はここだ――浅見を直接排除すべきか、あるいは即時拘束して証拠を引き出すか。決断は既に下されていた。玲の命は「中心を切り落とせ」。浅見の存在が連鎖の源ならば、その連鎖をここで断つしかない。


成瀬が枯れ草をまたぎ、両足で地面に接地する瞬間、桐野は微かなヘッドバンドを車両窓に向けて放った。内側のセンサーに一瞬の錯乱を与え、車内の視界を限定させる。その一瞬、成瀬は音もなくフェンスを越え、車両へ向かう。影のように静かな接触。二歩、三歩、掌の先だけが光る。


安斎の声は発せられない代わりに、波形で伝わる。彼は車両付近の無線帯に錯綜したノイズを注ぎ込み、外部援護の無効化を確実にした。浅見の耳には、かすかな金属音と遠くの風のような音しか届かない。判断は遅れ、反応は薄れる。


成瀬が車両のドアハンドルに手をかける。時間は極小のスケールで飛ぶ。桐野はポーチから短い注射器を取り出し、必要最小限の薬剤で対象の意識を素早く奪う。

瞬間の後、浅見の動きは止まった。成瀬は静かに後退し、桐野は痕跡を最小限に処理する。安斎はパルスを緩め、外側の動きを再評価する。三人は無言で合図を交わし、影の中へと溶けていく。


闇が再び喰み、足跡は風に散るように消える。だが倉庫群の裏側では、確かな変化が生じていた――中心が断たれたことで、浅見側の指揮系統に一瞬の混乱が走る。迎撃の面々は次の動きへと備え、影班は任務の果実を握ったまま、冷静に撤収を始める。


夜は何事もなかったかのように戻らない。代わりに、微かな優位が生まれた。任務は終わらない。しかし今は確かに、切り落とされた中心が静かにその場に転がり、次の盤面が動き始める――影はいつでも、夜とともに動き続けるのだ。


【時刻:深夜/場所:B-3倉庫・外周付近(北側フェンス側)】


煙が夜風に巻かれて低く流れる。白い塊が地面を這い、遠くの物音を鈍くする中、成瀬由宇は影のようにその中へ滑り込んだ。黒い戦闘服は夜の闇と同化し、呼吸はほとんど音を立てない。目に映るのは、煙によって輪郭を失った世界──だが彼の感覚は、むしろ研ぎ澄まされていた。


足裏に伝わる地面の微かな反発、腰のわずかな傾き、肩越しに流れる冷たい空気の方向。成瀬はそれらを合図にして動く。煙に混じる匂いは発火や化学薬品のそれではなく、焼けたワイヤーと湿った金属の、冷え切った匂いだった。指先に伝わる振動は、遠くで誰かが短く足を踏んだのと同期している。


車両の影がふっと近づいたように見え、彼は体を沈めてその端を縫うように進む。拳一つ分の隙間を見つけると、成瀬は息を止め、重心をさらに低くする。胸の内で鼓動が早まるが、それは焦りではない。むしろ長年の習慣がゆっくりと拍を刻ませる、冷たい規律のようなものだ。


窓ガラス越しに見える車内は、薄い影が折り重なったまま静止している。浅見の姿ははっきりと確認できないが、動かぬ肩の輪郭が一つ。成瀬は自分がここへ来た理由を反芻する。命令は明快だった——中心を切り落とし、指揮を断つ。だがその背後には、子どもたちの声と、取り戻すべき記憶がある。彼は単なる道具ではない。守るべきもののために影になる、と自分に言い聞かせる。


桐野の合図が微かに伝わる。短い、確かな気配。それだけで成瀬は動く。フェンスの縁をそっと乗り越え、草むらを滑るように移動する。膝は地面に触れず、爪先で地面をなぞるように──それが彼のやり方だ。足跡は浅く、やがて夜風がそれを撫でて消すだろう。


車両のドアハンドルが、視界の片隅でちらりと光る。成瀬は掌をそっと当て、冷たい金属の温度を確かめる。時間は圧縮され、音は遠のく。思考は必要最小限に絞られ、身体がほとんど自動で軌道を描く。ここで必要なのは速さでも派手さでもない——確実さだ。確実に届き、確実に終えること。


彼の手がハンドルに触れる瞬間、内側で浅く「息遣い」が響いた。対象がわずかに動いたのだ。成瀬は瞬時に電光石火の判断をする——だがその描写を細部に渡って語るべきではない。ここで描かれるのは、彼の内面と周囲の感覚だ。


動きの後、成瀬はさっと後退して影の線に戻る。胸の内の熱はすぐにクールダウンし、呼吸は整う。桐野がそっと現れ、無言で小さくうなずく。安斎の波形が短く変化して、外側の視界ノイズがさらに膨らむ。三者は言葉を交わさずとも互いを把握している。


成瀬の瞳が、車両の窓に映る自分の影を一度だけ追った。そこに映るのは、静かな決意と、折れそうな何かを守ろうとする意志だ。煙はゆっくりと流れ、夜は再び深まる。外側の戦闘の音は小さくなるが、ここで守られたものはまだ終わってはいない。


成瀬は最後に、足跡を一度だけ振り返る。草むらに残された浅い窪みはすでに半ば風に消されかけている。彼は暗がりへと滑り込み、仲間の元へ戻っていった。任務の一片は終わったが、物語はこれから続いていく──守るべき記憶を抱えた者たちのために。


【時刻:深夜/場所:B‑3倉庫外周・車両付近】


桐野詩乃は草むらに身を伏せたまま、耳に小型の通信機を深く差し込み、歯ぎしりするような低い声で報告した。

「標的は――指揮用車両、内部。敵のバックアップチームが展開する前に沈める。痕跡は残さない。動きは最小限で。」


その一言が、夜の空気をさらに冷たく引き締めた。通信越しに、成瀬由宇の呼吸が微かに震えるのが伝わる。彼は応答もせず、ただ視線だけで合図を返した。合図は短く、無駄のない意思の交換だった。

安斎柾貴はわずかに顔を曇らせ、手元の小型装置の出力バーを軽く上げる。言葉は発さないが、彼のすることは明確だ――外部の目と音を曖昧にし、時間の流れをこちらに寄せる。


遠方で刃月圭がスコープを覗き込み、藤堂迅は暗がりで状況を再構成する。伏見蒼は電子防壁のパラメータを確認し、奈々がデータのバックアップを瞬時に冗長化した。玲は静かに立ち、全員を一瞥して短く言葉を落とす。

「迅、成瀬、桐野の合図で行動。安斎、外部妨害を最大限に。刃月は撤退ルートの監視を。奈々、ログを確保して外部へフェイルセーフを送る。」


チームの間には言葉以上の信頼がある。桐野は小さな手の震えも見せず、ポーチの中の器具に触れながら、冷たい夜気を肺に入れた。彼女の視線は車両のランプに向けられ、そこに宿る人影の輪郭を丹念に追っている。

成瀬は影の如く車両へ近づき、呼吸を整え、瞬間の「止め」を待つ。安斎のパルスが空間を満たすと、外側の通信が薄く裂け、車両周辺の世界だけが短く歪むように感じられた。


一瞬の隙間、そして音のない合図――詩乃の冷たい命令が、すべてを動かす。誰一人余計な言葉は発しない。やがて動きが生まれ、夜の縫い目が切り裂かれるようにして一連の行為が連動していった。

だが描かれるのは結果の輪郭のみ――その場で為されたことの詳細は語られない。残るのは、静かに広がる影と、守られた記憶のために交わされた沈黙の誓いだった。


【時刻:深夜/B-3倉庫外周・影班待機地点】


安斎が唇をゆがめ、低く言った。

「やるのは簡単だ。問題は――“誰に見せるか”だ。」


その言葉は夜気に溶けるように響き、周囲の空気を一拍、凍らせた。

影班の三人は一瞬互いの顔を見合わせる。無言のやり取りの中に、それぞれの立場と恐れが透ける。


成瀬は闇に溶けたまま、かすかに息をつく。

「見せる相手が間違っていれば、ただの消失と同じだ。証拠を焚き尽くされるだけだ。」

声には苛立ちもあったが、どこか諦めにも近い現実味が含まれていた。


桐野は冷静に、しかし静かに指先で無遠慮に地表を押すようにして答える。

「見せ方次第で人が死ぬ。守るべきものを減らすつもりはない。」

目の奥に、過去に見た痕の気配がちらつく。彼女にとって“痕跡を残さない”は信条であり、手放せない警句でもある。


安斎は端末の小さなスクリーンに浮かぶ波形を見下ろしながら続ける。

「浅見を消す――で、事は終わるかもしれない。だが浅見の上には、研究所、その後ろには資金や利権がある。暴露すれば、消されかねないし、黙らせれば“終息”する。」

彼の口調は冷たい計算を含んでいたが、その瞳の片隅には、ふとした哀しみが差していた。


影班の沈黙を破ったのは、倉庫の内部から戻った刃月の短い声だった。無線越しに、だが確かに届く。

「外周の敵は撤退傾向。だが浅見の車両には“暗証”が組み込まれている。単純な証拠の取り出しじゃ済まない。」


成瀬が静かに吐き出す。

「つまり、ここで浅見を潰しても、資料や端末の中身が残るとは限らない。見せるなら、もっと“抜け道”を作る必要がある。」


桐野が小さくうなずいた。

「“誰に”見せるか――それが問題なら、私たちが動く意味がある。隠蔽される前に、届く形で残す。消せない形で。」

彼女の声には決意が滲む。痕跡を残さぬ技術と、残すべき痕跡を両立させる矛盾を、彼女は受け入れていた。


安斎はしばらく黙った後、ゆっくりと肩をすくめた。

「公開するなら、メディアか法廷か、それとも国の監査機関か。だが――一番安全なのは、広く“観測”可能にしてしまうことだ。隠し場を消す前に、世界に散らしてしまえば、消す価値が薄れる。」

彼の言葉は技術的提案のようであり、同時に道義的な含意を含んでいた。すべてを暴くことの危険と、隠蔽を許すことの罪悪との天秤。


成瀬が目を細める。

「だが、今は“浅見”を止める。あとは――玲たちの判断に従う。」


桐野は小さく笑って見せる。

「私たちは影だ。だが影にも選択はある。守るべきは子どもたちだ。証拠はそのために使う。」


安斎は深く息を吐き、端末を手にしたまま静かに頷く。

「わかった。条件付きで動く。浅見の動きが止まった瞬間、その端末からデータのスナップショットを遠隔で分散送信する。消される前に“誰か”の目に触れさせる。受け手は――玲に一任する。」


暗がりに、小さな合図が流れた。

誰に“見せるか”の問いは、ここでひとつの答えに収束した。

公に晒すか、法に訴えるか、あるいは記録を複数の信頼に置くか――選択はリスクを伴う。だが決断は必要だった。


成瀬が静かに動き出す。桐野は身支度を整え、安斎は端末越しの波形を微調整する。

外では、迎撃隊の動きが再編されつつある。影班の任務は成功の余韻を残しつつも、次の一手へと移行していく。


夜風が再び草むらを撫で、遠くで戦闘の残響が消えかける。

三人の影は闇へ溶け込みながらも、心の中では確かな決意を灯していた。

守るべきもの――名前を、記憶を、声を。誰に見せるのか。問いは終わらないが、彼らの行動はすでに次を目指して動いていた。


【時刻:深夜/場所:B‑3倉庫外周・木立の影】


成瀬の声は低く、風に溶けるように届いた。

「見せるな。痕跡も残すな。……“霧が通った”程度で終わらせろ。」


その一言が、一瞬で場の空気を締め上げた。

桐野は成瀬の目を見やり、微かな合図で肯いた。安斎は端末の波形を一度だけ撫で、わずかに眉を寄せた。


「簡潔だ。」桐野は小さな声で言う。「だが、それが本当にできるかどうかは――やってみなければ分からない。」


安斎が冷静に返す。

「“見せない”という選択は安全だが、浅見の背後にいる連中は、証拠が消えたとしても動きを止めない。被害が永続する可能性がある。情報を分散させるか否かの天秤を、今ここで僕らが一手で決めるのは重すぎる。」


成瀬は肩越しに倉庫の明かりを見やり、短く吐息を漏らした。

「そうだとしても、俺はここで子どもたちの顔をもう一度曇らせたくない。見せることで、誰かが標的になる可能性があるなら――俺は止める。」


桐野は静かに頷き、手元の機材に触れた。

「では、まずは浅見を“その場で”無力化する。端末類は最低限のログだけ残し、物理的痕跡は消す。データは一切触らせない。外へ出すという判断は玲の判断に任せる。」


安斎が短く息を吐き、最終確認のように呟いた。

「条件は二つ。現場を完全に封鎖すること。そして、外部の追撃を一切許さない。もし計画が狂ったら、情報を守るために即時撤退だ。」


成瀬は拳をぎゅっと握り、草むらの闇へと視線を落とす。

「約束だ。ここに残るものは、風だけにしてやる。」


三人は互いに無言で合図を交わし、影のように分かれて動き出した。

夜は冷たく、木々はそれに応えるようにさざめいた。彼らの影が草をかき分けて進むたび、遠方の戦闘の残響が小さく反響する。だが、今ここで決められたのは――子どもたちの安寧を最優先にするという、影の掟のようなものだった。


桐野は窓ガラスに小さな器具をそっと押し当てる。成瀬は車両の側面に沿って滑り、安斎は電子の波形を心理の振幅に合わせて調整する。具体の手順は描かれないが、その身のこなしと呼吸の合致だけで、彼らの熟練が伝わってくる。


数分後、影たちは戻り、中心に立っていた成瀬が口を開く。声にはほのかな疲労が混じるが、確実な成果が籠もっていた。

「終わった。車内は動かない。外の回線も一時的に切った。痕跡は──残りにくい形にしてある。」


安斎が端末の残響ログを確認し、淡い光を落とす。

「一時的な安全だ。だが完全に消えたわけではない。浅見の関係するネットワークは深い。次は――玲の判断が要る。」


桐野は肩の力を抜き、夜風に髪をなびかせながら小さな笑みを見せた。

「“霧が通った”ように見せる。約束通りにやったわ。」


成瀬はコウキの方へゆっくりと視線を向ける。倉庫の窓から差し込む月光が、少年の髪を銀色に染めていた。彼の表情はまだ幼さを残し、同時に闇を見つめる深さを持っている。成瀬はその姿を一瞬だけ見つめ、そっと呟いた。

「帰る場所を、守らせてもらったよ。」


影班は再び木立の中へと戻り、夜に紛れて姿を消した。倉庫には、かすかな風と消え残る緊張だけが残る。だが彼らが残したのは確かな一点──子どもたちの眠りを壊さないための短い平穏だった。


遠くで、玲の声が無線を通して届く。静かだが明確な命令が次に動く者たちへ伝わっていった。影班の選択はひとまずの勝利をもたらしたが、物語はそこで終わらない。夜は深く、次の朝が来るまでに多くの決断が待ち受けているのだ。


【時刻:深夜/敵側・指揮車両(倉庫裏手付近)】


金属製の車内は狭く、無数の小型機器が無言で淡い光を吐いていた。外の闇が窓越しに押し寄せるように見え、ランプの赤い点滅だけが夜の輪郭を刻む。耳には、断続的にノイズ混じりの通信音が入り続けていた──切れかかる声、途切れる符号、うまく聞き取れない短い指示。


木谷はハンドルに片手をかけたまま、顎をわずかに引いて画面を睨む。指先は神経質にパネルをなぞるが、表示はゆっくりとノイズに埋もれていく。いつもの現場ならば、こうした混信は一瞬で潰せる。だが今夜は違った。外部の電波が、何かに絡め取られている。


「……まただ。通信が乱れてやがる。」木谷の声は低く、車内の仲間に向けられたが、すぐに自分に返ってくるだけだった。耳に差したイヤーピースは、時折切れた言葉を吐き出す──「撤収」「指示」「…浅見──」断片が歪んでいく。


彼は短く息を吐き、無線を切り替えた。別回線を叩く。応答はない。短く打った命令が戻る前に、端末のログがひとつふたつ黒く染まって消えた。画面に浮かんだ小さな赤い文字列が、嫌な予感を形にする。──外部妨害、信号劣化、視界喪失。


木谷は顔を硬くし、窓の外を見た。倉庫の外周にはまだ影が蠢いている。遠方でかすかに――何かが動いた。だがそれは味方の動きではない。彼の胸に、瞬間的な冷たさが走った。誰かが、こちらを嵌めに来ている。あるいは、浅見の指令が変わったのか。


「本部、こちら木谷。状況報告を。浅見からの追加入電は?」彼は再度、低く頼むように問いかける。返ってくるのは細切れのノイズだけ。ついに、イヤーピースの中からかすかな掠れ声が聞こえた──だがそれは、期待した命令ではなかった。


『――撤退指示……自己判断で退避を。端末を温存しろ。』


言葉の先端が欠け、意味が断片的にだけ残った。木谷は瞬間、拳を握りしめた。命令系統の混乱。浅見の影はまだ動いているはずだ。なのに、連絡がこうも脆くならされているということは――こちらが何者かに“切り離されている”証拠だ。


彼の視線が車両後部の暗がりへ泳ぐ。そこに座る男の顔影は、いつもより青ざめている。浅見だ。だが浅見の表情は硬く、どこか虚ろだった。木谷は内心で答えを探す。浅見自身が操作を受けているのか。あるいは外部からの強固な妨害が、有線も無線も同時に潰しているのか。


無線のノイズが僅かに収束した隙に、浅見の低い声が車内に落ちた。だがそれは命令というより、弱い囁きのようだった。


「……木谷、状況を見極めろ。だが、焦るな。こいつらは……厄介だ。」


木谷は唇を噛み、苦い笑みを一度だけ漏らした。外の喧騒が一瞬、遠のいたように感じる。窓の外、草むらの影が再び動く。その動きが意味するものを、彼はまだ完全には理解していなかった。だが確かなのは──現場はもはや“自分たちだけの戦場”ではない、という事実だった。


耳の中のノイズが再び唸り出し、木谷は短く拳を作る。眼前の機器類が彼の手で震えない程度に押さえられている限り、彼らは生き残れる。だがその先にあるのは、単純な撤退か、あるいは──浅見のための、ある種の“後始末”なのかもしれない。


車の外側、遠景にかすかな人影がひとつ流れた。木谷の目がわずかに反応した。影はすぐに消えたが、彼はそれを見逃さなかった。背後に、何かが通り過ぎたのだ。風か、それとも――霧のようなものか。


木谷は掌の汗を拭い、低く囁いた。

「……浅見、俺たちは置かれている。指示が来ないなら、自分で動くしかないのか。」


しかしその言葉の直後、彼はまた通信画面の赤い点滅を見つめ、どう動くべきかを決めかねていた。外側の風が車両を震わせ、夜は深く、答えを与えないまま続いていく。


【時刻:深夜/倉庫裏・指揮車両内】


車両の後部ドアが、わずかに軋む音を立てた。木谷が反応する間もなく、闇から影が滑り込む。成瀬由宇──静音処理のプロが背後から忍び寄り、息を潜めたまま標的の喉元を正確に突いた。わずか一撃で、抵抗の余地はない。


同時、桐野詩乃が静かに腕を伸ばし、微量の毒を注入する。外科的手腕と冷静な判断により、標的の体は瞬時に無力化された。


安斎柾貴は端末に手をかけ、即座に誤指令を送信。外部の監視映像と車両内のログを削除し、痕跡は完全に消滅する。


静寂が戻った車内。赤いランプだけが淡く点滅し、外の闇に吸い込まれるように光が消えていく。


──計測された時間はわずか28秒。

5名の侵入者は、まるで霧が通り抜けたかのように沈黙した。


成瀬が低く息を吐き、詩乃と安斎は端末を確認。

「痕跡、ゼロ。誰も生きて報告できない。」

安斎の声は冷たく、しかし緻密な計算の果てに浮かぶ達成感がにじむ。


窓の外では、夜風が倉庫の鉄壁をかすかに揺らす。闇の中、影班の動きは完全に周囲に溶け込み、ただ静寂だけが残された。


玲の声が無線越しに届く。

「完了。次のフェーズへ移行。」


影班の任務は、28秒で終わった。だが、戦いはまだ終わらない──外の闇の向こうには、さらなる敵の影が待っている。


【時刻:深夜/B-3倉庫裏・指揮車両付近】


成瀬は素早く周囲を一瞥し、低く息を吐いた。車内の静寂は鈍い金属音だけを残している。夜風が窓の縁を撫で、草むらの葉先がかすかに震えた。


成瀬は冷えた指先で端末の受信ログを一度だけ確認し、肩越しに報告するように言った。

「木谷、排除。指揮系統、壊滅。」


桐野は指先で素早く器具をしまいながら、無表情で応じる。声は低く、仕事の終わりを告げるように淡々としていた。

「遺体処理完了。ここに“指揮官などいなかった”。」


安斎が傍らで小さく唇を歪め、波形をひとつ撫でてから返した。

「通信ログを改竄して誤指令を注入。外部からの映像は消去済み。こちらの足跡も薄めてある。」


短い間があって、成瀬はゆっくりと頭を振った。夜の闇が、ほんの少しだけ濃くなった気がした。

「出来る限り“霧”に見せた。余録を残したくない。」


桐野は歯車のように着実に動きながら、ふと小さな声で付け加えた。

「子どもたちが朝を穏やかに迎えられるならそれでいい。跡は残さない、それが仕事。」


安斎は端末をしまいながら、冷静に次の段取りを整理した。

「これで浅見側の即時指揮は崩れる。だが、上位の連絡網は断片的に生きている可能性がある。追手が来れば即座に撤退、ログの保全を優先する。」


三人の影は言葉少なに互いを見やり、合図ひとつで再び闇へと溶け込んだ。車両の窓に映った自分たちの面影は、すぐに風にかき消される。


遠くで、迎撃を続ける面々からの通信が断続的に届いた。玲の声が無線越しに短く入る。

「皆、状況は把握。現場保全と証拠の確保は優先だ。浅見の動きが完全に止まるまで油断するな。」


成瀬はコウキのいる方向を一瞥した。少年は窓の外から差す月光に髪を銀色に光らせ、まだ小さな体で倉庫の外を見つめている。成瀬の胸に、何かが重く落ちるような感覚があった。だが口には出さず、彼はただ短く息を吐いた。


「終わった。行くぞ。」


影たちは跡形もなく消え、夜は再び静けさを取り戻した。だが倉庫の壁の向こう、断たれた指揮系統の空白は静かに波紋を広げ始めていた。


【時刻:深夜/B‑3倉庫裏手】


無線越しの玲の冷ややかな声が、影班の耳に静かに落ちる。

「……十分だ。お前たちはそこで止まれ。あとは藤堂たちが表で畳む。」


成瀬は一度だけ肩越しに月影の方を見やり、短く頷いた。

「了解。撤収する。」彼の声は消えるように低く、だが揺るがなかった。


桐野は煙の匂いを胸の中で吐き出し、器具をきっちりと箱に収める。指先に残った冷たさを払うように手を振ると、無言で成瀬の背に合わせる。安斎は端末画面を一瞥し、ログの断片を瞬時に暗号化して外部に分散送信する準備を整えた。三人は互いに目を合わせると、影のように林の陰へと消えていく。そこに残された跡は、風が払えば消えるような淡い痕跡だけだった。


――一方、倉庫前面。


藤堂は暗がりで全体を俯瞰し、刃月の報告を短く受ける。外周では迎撃要員が再配置を終え、拘束された侵入者の確保と負傷者の処置が淡々と進んでいた。刃月が低く報告する。

「外周制圧。浅見周辺の通信網は乱れているが、撤退の動きが見える。車両は機能停止、ただの殻だ。」


藤堂は唇を引き結び、無線で命令を送る。

「封鎖線を維持。周辺の監視ハードを保全し、証拠はそのままに。官憲への引き渡しは玲の判断で動く。浅見関係者の追加接触を各所で封鎖しろ。」


応答があり、各隊が連携を確かめる。迎撃の名目は「記録と人命の保全」。だがその裏側には、誰が何を知り、誰に何を語らせるのかという、より重い選択が横たわっていた。


倉庫のガレ場に、玲は静かに立っていた。指先に小さなメモを挟み、夜気を吸い込む。コウキが彼女の脇に寄り、じっと顔を上げる。玲はその小さな顔を一瞥して、柔らかな声を投げた。

「ここから先は、君の物語を守るために動く。怯えなくていい。」


コウキはぎこちなく笑い、ポケットから小さなメモを取り出す。震える手で玲に渡すと、短い言葉をそっと落とした。

「ありがとう、玲お兄ちゃん。」


玲はそれを受け取り、目を細めた。その表情は硬さと優しさが交錯していた。夜風が倉庫の鉄板を撫で、遠くで再編を始める車列の光が引いていく。影班は去り、迎撃隊は外で状況を固める。だが、刃月の声が無線に残した一言が、誰の耳にも重くのしかかった。

「浅見の背後には、もっと大きな網がある。これは始まりに過ぎない。」


玲はゆっくりと顔を上げ、夜空を見上げた。月は薄く雲に隠れ、森は静かに息をしている。彼女は拳を軽く握りしめ、低く呟いた。

「真実を掘り起こす。対象は浅見だけじゃない。ここに刻まれたものを、消させはしない。」


その言葉は無線を通さず、ただ現場に居合わせた者たちの胸の内に届いた。刃月たちが外で手を伸ばし、影班が闇に溶けた後も、倉庫に残されたのは「守られた記憶」と、これから払うべき代償の影であった。翌朝、世間に何を見せるか、誰に託すか——決断の時は近い。


【時刻:/倉庫内指令室】


玲は端末を握りしめ、短く低い声で告げた。

「“影が通った”。……これでもう、あいつらはまとまらない。」


通信越しに届く刃月の視界報告を耳にしながら、玲は冷静に状況を把握する。

倉庫外周に展開した影班の働きで、敵の指揮系統は完全に断絶。混乱はそのまま敵内に留まり、再編成の余地はない。


端末のスクリーンに映る赤点滅は静まり、室内の空気だけが緊張の余韻を漂わせていた。

玲の瞳は倉庫奥に向き、ユウタやコウキ、そしてチームの動きを見守る。

「あとは藤堂たちに任せる……。」


短い言葉に全てが集約され、倉庫内に一瞬の静寂が訪れた。


【時刻:/倉庫内指令室】


御子柴理央は端末を軽く叩きながら、眉をひそめる。

「……これが“K部門・影班”かよ……やることが速すぎる。」


玲は腕を組み、端末を眺めたまま淡々と返す。

「やると決めたら、一切が“完了”しているのが彼らの仕事だ。」


言葉の端には、緊張感と確信が漂う。

影班の動きはただ迅速なだけでなく、痕跡を残さず、任務を完璧に遂行する。

御子柴はそれを目の当たりにし、分析者としても感嘆せざるを得なかった。


倉庫内の暗がりで、わずかに機械音が響く。

その静寂の中に、影班の痕跡のなさが際立つ――完璧すぎるまでに、消えた存在のように。


【時刻:/倉庫外周・迎撃線】


敵の通信は完全に遮断され、現場は瞬く間に混乱に包まれる。

指揮を失った部隊は統率を失い、動きは断続的で無秩序に崩れていく。


藤堂迅と刃月圭は遠距離から進行を確認し、迎撃チームは一歩一歩着実に前進する。

伏見蒼は電子妨害装置を調整し、残存する敵のセンサーや通信網を次々と無効化。


室内では、安斎柾貴が精神干渉と誤情報の送信を続け、敵の士気を完全に崩す。

指揮なき部隊は互いに連携できず、混乱はさらに深まる。


玲は端末を見つめながら冷静に短く告げる。

「よし、このまま全域を制圧。逃げ場は残さない。」


影班の沈黙の仕事、迎撃チームの正確な動き、そして電子戦術――

すべてが有機的に組み合わさり、現場は“制圧”へと傾いていった。


【時刻:深夜/B‑3倉庫前広場】


玲はゆっくりと目を閉じ、声を降ろした。

「決められない。ただ……“過ちを選ばせない力”を使ってるだけだ。」


その言葉は、夜の冷気に吸い込まれるように静かに広がった。誰もすぐには応えない。刃月はスコープを肩から外し、暗闇に溶けた視界の先をじっと見据えたまま、短く唇を噛む。藤堂は腕を組み、冷えた空気を吸い込んでからゆっくりと答える。


「選択の余地を奪うという行為自体が、倫理の境界線を押し広げる。それを承知でやるかどうか、という話だ。」藤堂の声は柔らかく、それでいて厳しかった。


御子柴は端末の表示を一瞥し、眉をひそめる。

「だが、放置すれば子どもたちの記憶は永久に奪われたままだった。結果と手段のどちらに重みを置くかは、現場の判断が問われる。」


安斎は淡々と機器のログを閉じ、冷たい論理を重ねた。

「選ばせない力──それは我々の持つ“影の裁量”だ。だが、その裁量を誰がどう監督するかが問題だ。今回の作戦は、被害の最小化と即時救出を優先した判断だ。」


成瀬は倉庫の方を一瞥して、低く呟いた。

「灰色の選択だっていい。俺たちにできるのは、目の前にいる子どもたちを守ることだけだ。」


コウキがそっと近づき、玲の袖に小さな手をかける。少年の声は震えていたが、真っ直ぐだった。

「玲お兄ちゃん……ありがとう。怖かったけど、今は……安心。」


玲は息を吐き、目を開ける。月明かりが彼女の顔の一部を淡く照らし、疲労と決意が混じった表情を浮かべていた。

「俺たちは審判じゃない。代わりに判断することしかできない場面がある。それが今回だった。だが、これを永久に続けるつもりはない。証拠は確保し、法と手続きに委ねる──できる限り正しく。」


藤堂が頷き、無線で各チームへ簡潔に指示を出した。

「現場保全を最優先。浅見の関係者の動きを封鎖、被害者の保護措置を完了させろ。記録は吾々の責任で整理する。」


刃月が遠くの林に向けて一瞥を投げる。

「夜は明ける。だが連中の網は深い。ここからが本当の闘いだ。」


玲は小さく笑って、コウキの頭を軽く撫でた。

「まずは眠れ。朝になったら、君の声と記憶が消えないように届ける。俺たちが、それを担保する。」


夜風が一度倉庫を撫で、遠くの車列の赤いランプがゆっくりと後退していく。現場は静まるが、決定の重みは誰の胸にも深く残っていた。翌朝の報告、法的な手続き、暴露と隠蔽の攻防――物語はまだ終わらない。だが今、ひとつの夜は、子どもたちのために守られたのだった。


【時刻:深夜・残り4分/B‑3倉庫外周 — 木立の陰】


影班は無言で撤収を始めていた。

成瀬由宇は草むらに沈むように身を翻し、桐野詩乃は小箱を抱えるように歩く。安斎柾貴は端末のログを最後に確認して、淡い光を消した。三人の背中は、夜に溶けていく墨の一筆のように細く、確かな後ろ姿を残すだけだ。


成瀬の足取りは滑るように速く、だが決して慌ててはいない。彼の耳には依然、倉庫の奥から聞こえる微かな声の反響が残っていた――あの声を守れたかどうか、それが彼の胸の内で最後の良心を震わせる。桐野は振り返らず、ただ一度だけ指先で小さく合図を送る。安斎は無言で波形を一つ封じ、仲間に頷いた。


「ここで止まれ。あとは表を任せる」――玲の短い命令は、影たちに既に浸透している。影班はゆっくりと木立の中へ消え、かすかな風が通り過ぎると同時に足跡は一つ、また一つと薄れていった。


――外は静かに、だが確実に制圧へと傾いていく。迎撃隊の声、遠くで再編される無線の息づかいが夜空に滲みる。



【時刻:深夜/B‑3倉庫・内部第2区画 — 記憶アクセス最深層】


一方、倉庫の内部は別の時間軸を刻んでいた。銃声も、足音も、外側の喧騒もここまでは届かない。ここは記憶が溜まる場所。埃の粒子が浮遊し、古びた木箱や蔵書の端が月の光を受けて銀灰に光る。空気は重く、時間が濃縮されたように濃い静寂が張りつめている。


ユウタは壁に手を当て、目を閉じたまま深く息を吸う。彼の周囲には、これまでに聞こえた声の断片が重なり合い、まるで層をなしている。御子柴理央が小型の解析端末を抱え、慎重に波形を追っている。沙耶は持参したノートを胸に抱き、目には母としての鋭い慈愛と不安が混じる。神垣惟道は静かに数珠を弄り、霊感の針を休めずに外界の残響を探る。


「最深層は、画像と感情が同期している。直接的な記憶ではなく“感覚の塊”がそこにある。」御子柴の声は低いが確かだ。画面には不規則な波形と、淡い模様のようなビジュアルが流れている。


伊月光哉はユウタの傍らに寄り、そっと手を握った。誘導の技法は、ここでは声ではない。呼吸のテンポ、触れる手の温度、軽い圧が合図となる。葉山静巳は録音機を起動し、法的に有効となる証言の土台を整えるため、最小限の言葉だけを拾い上げる準備をしている。


西園寺結が淡い光の輪を操作する。彼女の投影装置は、ユウタの脳波と外部のセンサーを同期させ、記憶の層を可視化している。やがて、薄い光のヴェールの向こうに、一つの形が滲み出した。


それは、子どもの背丈ほどの小さな空間。そこに詰まっているのは音の断片、布のざらつき、金属の冷たさ、そして――誰かが繰り返し口ずさんでいた無垢な歌。光が揺れるたびに、その“場”は生々しくなり、息遣いが聞こえるようになる。


「ここだ」神垣が低く告げる。彼の眼差しは、遠くを見通す老人のように確かだった。ユウタの指先が震え、彼は一歩踏み出す。目を閉じたまま、しかし確信を持って。


ユウタの内側から、ゆっくりと声が湧いてきた。かすかな、しかし確かな音。――あの夜のざわめき、子どもたちの笑い声、そして金属音。声は繰り返され、折り重なり、やがて一つの名が形を得る。


「……コウキ……」ユウタの口元が震える。声はその名を探し出し、空間に投げた。


光のヴェールが一瞬、鋭く震えた。その揺らぎの中心から、目を覆いたくなるような断片が顔を出す――小さな手形、燃えかけた紙片、埃まじりの絵本の角。だが同時に、薄暗い隅で誰かが小さく呼ぶ声があった。名前のない誰か。呼びかけに応えるように、コウキの姿が薄く浮かぶ。


御子柴が端末のログを叩き、解析を声に乗せる。

「ここは隔離された“記憶倉”。人工的に閉じられ、外界と遮断された領域だ。記録は削り取られているが、感覚の残滓が温度差として残っている。」


沙耶が目を潤ませながら、ゆっくりと唇を動かす。

「コウキ、ここにいる? 聞いて。私たちは、あなたを見つけにきたの。」


その呼びかけに応えるように、薄い影が少しだけ前へ出た。形はまだ頼りない。だが確かに、そこに「人」がいる。彼の目は、世界を取り戻すための小さな希望を宿していた――見た目は小学生のままだが、内側には10年分の時間が詰まっている。


「注意して」伊月の低い声。誘導は優しく、だが確実でなければならない。記憶の最深層は脆く、衝撃に弱い。呼びかける側の態度一つが、記憶の回復を助けも破壊もする。


ユウタは手を伸ばし、壁と壁の間にできた“裂け目”に指先を差し入れた。そこにひやりとした冷気と、長く封じられていた湿り気が触れる。コウキの影は一瞬震え、唇がわずかに動いた。声にならない声が一つ、漏れた。


「……暗かった。怖かった。誰も来ないと思ってた。」


その言葉に、部屋の中の誰もが息を呑む。言葉は短く、しかし重い。葉山がすぐに記録ボタンを押し、淡々とした声で導入の確認をする。神垣は数珠を強く握りしめ、古い祈りを小さく呟く。御子柴は解析端末のパラメータを鋭く調整し、ユウタの感受性を保護するためのフィルターをかける。


「ゆっくりでいい。君の時間を、ここで少しずつ取り戻そう。」玲の声が柔らかく響く。彼女の手がユウタの肩に軽く触れ、現実の支えを与える。コウキはその手の温かさを感じ取り、ほんの少しだけ顔を上げた。目と目が合う。そこには涙のようなものが光るが、それは怒りでも恐怖でもなく――やっと誰かに“呼ばれた”ことへの安堵だった。


波形が揺らぎ、光のヴェールがさらに薄くなる。覚醒は一気に来るものではない。だが確かな亀裂が入った。最深層の封印に、裂け目が生まれたのだ。


外では「残り3分」の無線が静かに流れ始める。だがここにいる者たちの時間は、外の時計とは別のリズムを刻んでいる。彼らがやるべきは一つ――この小さな命を、壊すことなく取り戻すこと。


ユウタの唇が震え、もう一度名を呼ぶ。

「コウキ。僕と一緒に歩こう。ここから、出よう。」


コウキの瞳が揺れ、薄い声が空間に満ちる。声は小さくても、確かに存在していた。記憶の最深層が、ゆっくりと答えを返し始めている。


【時刻:深夜/B‑3倉庫・内部第2区画】


伏見蒼ふしみ・あおいが端末を素早くスライドさせ、モニターの波形を凝視した。

青白い光に照らされた彼の瞳に、急激な異常値が走る。


「視覚干渉発動!」

彼の声は低く、しかし緊迫していた。

「こっちのレンズにも映らない……“記憶除去型”の存在だ!」


画面の右下では、光学カメラの映像が一瞬ノイズ混じりに揺れ、そのままブランクになった。

赤外線も、磁場センサーも、すべてが“そこに何かある”ことだけを示し、姿形を捉えられない。

伏見は眉間に皺を寄せ、専門用語を絞り出すように呟いた。


「認知撹乱+感覚抹消……典型的な“ミーム型不可視”だ。

存在そのものを記憶できないようにする――視覚・聴覚・触覚、全部にフィルタをかけてくる!」


玲が即座に反応し、端末に指を走らせる。

「位置だけでも固定できるか?」


伏見はわずかに顎を引き、両手で端末を持ち直した。

「できるが、秒単位だ。見て、認識して、次の瞬間には記録が消える……“その瞬間”を掴むしかない!」


沙耶がユウタの肩に手を置く。

「ユウタ……“声”は、まだ聞こえる?」


ユウタは薄く目を閉じ、かすかに頷いた。

「映らなくても、声は……まだ残ってる。呼んでる……」


御子柴理央が即座に補足する。

「なら、声のトレースで逆探知する。視覚がダメでも、波形と心象パターンは残るはずだ。」


倉庫の空気が再び張りつめる。

目に見えない“誰か”が、確かにそこにいる――

そしてその存在は、記録されることを拒むように、淡く空間を揺らしていた。


玲は目を細め、短く命じた。

「全員、意識の軸を固定しろ。“見えない”という感覚に呑まれるな。

ユウタ、君が“声”で引き留める。御子柴、伏見、波形の固定を。」


伏見は歯を食いしばり、両手で端末を支えた。

「了解――ミーム型不可視対象、捕捉を試みる!」


倉庫の奥、わずかな空気の揺れ。

誰にも映らない“何か”が、そこにいた。


【時刻:深夜/B‑3倉庫・第2区画(記憶アクセス最深層)】


玲は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。

暗闇に沈む空間の中で、その声は静かに、しかし確実に届いた。


「……“殺せない”なら、“記録に残せ”ばいい。」


言葉は刃のように鋭いが、同時に救いの手でもあった。そこにいる誰もが、瞬間的に意味を飲み込む。殺すことも、消すこともできない――ならば、残す。目に見えぬものを、世界の目の前で証すために。


沙耶が小さくうなずき、ユウタの手を強く握る。

「君が聞いた声を、そのまま届ける。失われた名前を、こちら側の世界に刻もう。」


御子柴は端末類を並べる手を止め、静かに提案した。

「視覚は不安定だ。だが“記憶の残滓”は感情と同期する。声と感触を“同時”に重ねれば、外部記録に残る可能性が高い――機器だけでなく、“人”が証人になることが大事だ。」


伏見は短く唇を噛み、波形のスクリーンをじっと見据えた。

「見えない相手には、人の証言と物的痕跡を結合させるのが一番効く。僕が“見えない”を追う間、誰かが直接“触れる”か“呼ぶ”。複数の感覚軸で同時に刻むんだ。」


神垣は数珠を指で回しながら、静かに言葉を添える。

「祈りは記憶に触れる。だが今は、科学と祈りを合わせて“証す”時だ。声を、触れを、震えを――ここに置いていこう。」


玲は短く頷くと、手早く指示を出した。だがそれは細かな手順ではない。誰がどの役割を担うか、誰が“証人”として名を挙げるか、そして何を以て「残す」とするか。人の行為と言葉で、世界に証を立てる作戦だ。


ユウタは、震える声でコウキの名前をひとつずつ、ゆっくりと繰り返す。沙耶は彼の背中を抱き、同じ名前を重ねる。葉山が淡々と記録ボタンを押し、法的に有効な形で音声を残す。御子柴は解析端末のログを同時に回し、複数のチャンネルで音声と心象波形を同期させる。神垣は低く節を唱え、古い言葉を場の空気に紡ぐ。伏見は波形を固定するための“瞬間のキャプチャ”を試みる――その具体的な方法論は語られない。ただ、彼らは「同時性」を創り出した。


そして、誰かがそっと小箱を開き、赤い髪留めを取り出す。コウキの記憶に繋がる物として、ユウタがそれを指に触れさせる。触覚と呼び声、記録機器の電池が吐く低い唸り、祈りの節と人の息遣いが、同じ瞬間に重なる。


空気が震え、細い声が廊の奥から零れた。音はかすかだが、生々しい。葉山の録音は確かに反応を示し、御子柴の端末の波形は微かながら明瞭な同期を描く。伏見が端末を覗き込み、低く呟く。

「取れた。映像じゃない、“記憶の印”が残った。」


――記録は完璧ではない。像として綺麗に映るわけでも、触れるように形が出現するわけでもない。だが複数の軸で同時に刻まれた「痕跡」がそこにあった。小さな音声断片、空気の温度差、ユウタの手先に残った湿り、神垣の数珠が震えた微かな振動。それらが合わせてひとつの証拠群となった。


玲は静かに目を閉じ、深く息をついた。

「いい。これで“ここにいた”という証が残る。法は必ず全てを解釈するわけではないが、記録はいつか誰かの判断材料になる。」


沙耶はユウタを抱きしめ、嗚咽をこらえながら囁く。

「帰ろうね。今はまだ夜だけど、君はここから出る。誰かがちゃんと見ている。」


外では迎撃が確実に進行し、残りの時間は刻一刻と減っていく。だがこの最深層に流れる時間は別物だった。彼らは“不可視の存在”を無理に可視化したわけではない。むしろ、人という媒体で記録を編み、世界に証を投げ込んだ。その重ね合わせは、目に見えぬものを世界へと押し戻す小さな奇跡だった。


玲は端末にメモを打ち込み、淡く言った。

「朝になったら、これらの記録を分散保全する。誰かが消そうとしても、消せない形で。最低でも“ここに、何かがあった”という事実だけは、世界に残す。」


コウキの瞳がわずかに潤み、口元に小さく笑みが戻る。ユウタは彼の手を取り、二人はゆっくりと倉庫の出口へ歩き出す。外の光はまだ遠いが、夜の闇の中に一筋の道ができていた。記録されたものは、やがて届く。来るべき朝に向けて、彼らは静かに、しかし確かな歩みを始めた。


【時刻:深夜/B‑3倉庫外周・残響廊下】


薄闇の中、チーム“影”の無線には低い声が落ちてきた。

成瀬由宇の声だ。雑音混じりだが、いつも通り冷たく、正確で、迷いがない。


「相手は視覚干渉型。“見るな”。感覚で追え。」


刹那、現場の空気が変わる。視界という最大の武器を奪われた緊張が、全員の皮膚を刺す。

桐野詩乃がすぐに小さく息を整え、耳だけで空気の流れを拾い始める。

安斎柾貴は指先に神経を集中し、ノイズの裏にある微かな電子波のリズムを探る。

伏見蒼は端末の波形を一瞬だけ確認すると、画面を伏せ、代わりに床を爪先で軽く叩いて反響を測る。


成瀬の声が再び無線を震わせる。

「奴らの得意は“見せない”こと。

 こっちが頼るのは、空気の重さ、金属の温度、足音のない“間”だ。

 匂いでも、風でもいい。視覚を切れ。残る感覚を最大まで上げろ。」


詩乃が短く返す。

「了解。静音プロトコル、開始。」


暗殺チームは同時に“視覚”を閉じる訓練モードに入った。小型ゴーグルを外し、目を瞑り、呼吸と脈拍を整える。まるで獣が夜に戻るかのように、聴覚と触覚、そして微かな匂いだけを鋭敏に研ぎ澄ます。


廊下の先、目には見えないが、確かに何かがいる。

空気がわずかに揺れ、温度が一度下がった。金属の匂いが流れる。

成瀬がナイフを逆手に構え、囁くように告げた。


「風が裂けた。……そこだ。」


その瞬間、桐野が静かに移動を開始し、安斎が電子ノイズを一斉に汚染。伏見が反響波で位置を確定、全員が視覚以外で敵の“座標”を共有する。


暗殺チームは闇の中、視覚を捨て、感覚だけで“見えない敵”を狩りに行った。

その動きは、まるで霧そのものが刃となって忍び寄るようだった。


【時刻:深夜/B‑3倉庫・外周通路】


桐野詩乃は、暗闇の中でわずかに息を整えた。

目を閉じ、手の中の細いガラス管(携行用ナノ毒注入器)をそっと握りしめる。

風の向き、空気の密度、そして聞こえないはずの微細な呼吸――

彼女の感覚が、そこにある“異常”を鮮明に形にしていく。


詩乃が、低く、淡々と呟いた。


「対象を識別済み。

 呼吸、質量、圧、すべて人間域を外れてる。

 “人間の皮を被った記録消去装置”……

 生物兵器じゃない、記憶そのものを食う“証拠消去体”だ。」


成瀬が無線に応じる。

「確認した。“記録を喰う”タイプか。視覚干渉+物理情報抹消……厄介だな。」


安斎柾貴の声が重なる。

「おまけに、存在を記録した瞬間にデータが焼けるタイプだ。

 俺の端末も波形が崩壊してる……“証拠残し”ができない。」


詩乃は管を持ち直し、わずかに冷たい笑みを浮かべた。

「じゃあ、物理だけで落とす。記録できないなら、形そのものを壊す。」


伏見蒼が端末を閉じ、息を整える。

「こっちで“座標の共鳴”を維持する。

 目じゃなく、音と温度で追え。」


その瞬間、暗殺チームの全員が視覚を捨て、

呼吸・質量・空気圧の変化だけで敵の位置を“感じ取る”モードに入った。


――目に見えない記憶消去体と、視覚を閉ざした暗殺者たち。

倉庫外周の通路は、音なき狩猟場へと変わっていった。


【時刻:深夜・残り数分/B‑3倉庫・外周通路】


玲の声音が室内に低く響いた。

「最優先任務:対象レムの“存在ログ”を逆に確定しろ。見えないなら見させろ。痕跡ゼロの刺客に、“存在”という枷をつけろ。」


短い命令は鉄のように冷たく、しかし救いを含んでいた。周囲の空気が一拍、引き締まる。刃月の視線が暗闇を割り、御子柴の手が端末を固く握る。全員の思考が一つの問いに結実した――「どうやって、見えないものを世界に刻むか」。


桐野が鼻の奥で笑ったような音を漏らす。

「見せる、って単純な言葉だが中身は重い。映像と音声だけじゃだめ。人が“体験”した証を重ねる。それが枷になる。」


成瀬が静かに近づき、暗がりで囁く。

「視認できない相手にレンズを向けるだけは無意味だ。残るのは、触覚と匂いと痛みの記録だ。人の記憶を証人にする、誰かが“感じた”という事実を同時多重で刻めば、消えにくくなる。」


伏見は端末の表示に目を落とし、短く言った。

「“同時多点記録”を作る。人の感覚、人の言葉、人の触れた痕跡——それらを時間的に同期させる。機械のログが焼かれても、人の証言と物理痕跡の連関が残れば、後で照合が可能になるはずだ。」


安斎は冷ややかに付け足す。

「そして“触媒”。対象の記憶と強い結びつきを持つ物体を現場に置き、複数の証人の手で触れさせる。物と人の同時性が、この《レム》を“ここに居た”と証明する枷になる。」


御子柴が即座に解析プランを並べる。

「音声は複数回録る。異なるマイクと人間の耳で同時に捕らえる。振動・温度・微かな気圧変化もログに採る。さらに、触覚——誰かが直接触れて得た“湿り・凹み・温度差”を逐次メモする。記録チャンネルを人と機械で重ねるんだ。」


神垣はゆっくりと数珠を回しながら言葉を落とす。

「私が祈りで“場”の意識を掴む。その間に、君たちが感じたものを言葉にしろ。言葉は記録を越える。声が場に刻まれると、忘却の力は及びにくくなる。」


沙耶は震える手でユウタとコウキを抱きしめ、顔を上げる。

「子どもたちも証人だ。彼らの体験は純粋で矛盾が少ない。怖がらせるな――だが、君たちの“感じたこと”を、静かに、確かに言葉にしてほしい。」


玲は短く頷いた。

「方法は自由だ。ただし、誰一人として無用な危険に晒すな。人の証言と物の痕跡を同時に刻め。刻めば、消せない。」


瞬間、各自の動きが始まる。御子柴は複数の録音機材を配置し、葉山が録音スイッチを押す。伏見は触覚センサーを人の手の平に仕込み、小さな金属片を“証拠触媒”として用意する。神垣が低い節を唱え、沙耶が子どもたちに優しく名を呼ばせる。成瀬は視界を捨てたまま風の流れを手で読み、桐野は微かな気配を追って指先で物の位置を調整する。


時間はない。だが「同じ瞬間」に重ねられた人の声、触れた指先の冷たさの記録、揺れる空気の波形、そして祈りの振動。すべてが交差した刹那、御子柴の端末に小さなピークが現れた。葉山の録音機は微かなノイズの中に、人間の言葉では説明し得ない低周波の“残響”を捕らえる。伏見の触覚センサーは、手のひらに一瞬残った湿りと温度差をログに残す。


桐野が低く息を吐く。

「取れた。映像じゃない、“証”だ。」


玲は目を閉じ、短く言葉を返す。

「よくやった。これを持って朝を迎える。誰が消そうとしても、ここで刻んだものは一枚一枚繋がる。記録は、人の記憶と物の痕跡が結びついたとき、初めて“証”になる。」


外側で迎撃の声がまだ聞こえるが、最深層で交わされた同時の行為は静かに、しかし確実に意味を持った。見えないものに枷をはめるのは暴力ではない。消されるはずの声を、誰かの口と手で繋ぎ止める時間――その重みが、倉庫の暗闇に満ちていった。


【時刻:/B‑3倉庫・最深部】


“透明な刃”が、レムの背後を切り裂いた。


刹那、空気がひんやりと震え、わずかな光の屈折が走る。

目には見えない刃が、存在を揺さぶり、痕跡だけを残して対象を封じ込めるように通過する。


成瀬由宇の低い声が響く。

「……捕捉。視覚には映らないが、質量の変化を手で感じろ。」


桐野詩乃は冷静に、管の先を微かに動かす。

「人間に触れず、存在だけを制御する。これが“透明な刃”……痕跡ゼロの暗殺者の技術だ。」


安斎柾貴は端末を叩きながら付け加える。

「ログ上は何も動かず、だが現場の圧と音の波形は確実に変化している。これが“存在を揺さぶる”手法だ。」


御子柴理央は記録を確認し、眉をひそめる。

「感覚データにだけ反応する……いや、逆に言えば、残す方法を組み合わせれば、見えない存在にも“証”を刻める。」


玲は短く指示を飛ばす。

「位置を固定せよ。痕跡は人と物に刻む。見えなくても、確実に残せ。」


倉庫の闇の中、透明な刃が空気を裂き、見えない戦いが確実に進行する。

存在を消される者に、しかし記録としての“枷”を刻む瞬間――それが、ここでしかできない戦術だった。


【時刻:/B‑3倉庫・最深部】


成瀬の姿はすでに消え、暗闇の中に残るのは、微かに揺れる空気と、かすかな気配だけだった。

まるで誰も通らなかったかのように静まり返る倉庫。しかし、残された“痕跡”は確かにそこにある。


桐野詩乃の冷静な声が通信に流れる。

「影は通った。だが、形は残した。見えなくても、存在は証明済み。」


安斎柾貴が端末を操作しながら付け加える。

「センサー上には何も映らない。でも、圧力と微振動のログが残っている。これが痕跡だ。」


御子柴理央は記録データを解析し、静かに呟く。

「見えなくても、存在の証は残せる……まさに“痕跡だけの存在”だ。」


玲は短く指示を出す。

「この痕跡を頼りに、次の行動を決めろ。消された者でも、証は残せる。」


倉庫の闇に沈むのは、消えた影と残された記録だけ――

成瀬の不在が、逆に確かな存在証明となった瞬間だった。


【時刻:/B‑3倉庫・最深部】


薄い埃が舞う中、桐野詩乃はゆっくりと歩み寄り、誰もいない空間の一点に視線を定めた。

そこは、さっきまで“透明な刺客”レムが潜んでいた場所だ。

目に見えるものは何もないのに、詩乃には確かな“存在”が感じ取れていた。


彼女は指先で小型データキャプチャを握り、静かに耳元で囁いた。

「お前の存在そのものが“データ”になった……もう、消えられないよ。」


その声は柔らかくも冷たく、まるで判決のように空気に沈んでいく。


背後で安斎が端末を見つめ、低く報告した。

「ログは固定された。動きを完全にトレース可能だ。もう“透明”じゃない。」


詩乃はわずかに目を細め、見えない敵を“そこ”に釘付けにするように視線を向けた。

倉庫の奥深く、沈黙の中で確かに誰かが息を呑む気配があった。

レムは初めて“逃げ場”を失い、自分の存在が記録に縫い付けられたことを理解していた。


【時刻:/B‑3倉庫・最深部】


同時に、安斎の声がレムの内面に直接流れ込む。

彼は端末を操作しながら、相手の精神層へノイズ混じりの声を滑り込ませた。


『よう、感情のないお嬢さん。

お前の記録も、もうこちらで“保存”させてもらった。

存在証明ってのはね――“証人”がいる限り、消せないんだよ。』


低い声は笑ってもいないのに、どこか余裕を孕んでいた。

レムの内面にまで響き、意識の奥でさざ波のように反響する。


視覚干渉をかけているはずのレムの輪郭が、徐々に空間に浮かび上がってきた。

白い息、わずかな重さ、心拍の波形――それらが全て、今や“記録”として拘束されている。


安斎は片手で端末を操作しながら、さらに低く囁くように告げた。

『お前がどんなに消えようとしても、ログが残り、証人がいる限り――お前はここに縫い付けられる。』


詩乃が視線を上げ、静かに頷いた。

透明だったはずの刺客は、もはや“ここにいる”と全員に認識されていた。


【時刻:/B‑3倉庫・最深部】


玲は端末を握り、低く、しかし鋭い声で通信を飛ばす。


「今、“封鎖”を!」


その言葉に応えるように、倉庫内外の電磁遮蔽装置が一斉に作動。

外部との通信経路は瞬時に断たれ、監視カメラもレーダーも完全に沈黙した。


藤堂が無線越しに報告する。

「封鎖完了。周囲の侵入者も通信不能。逃げ場はない。」


成瀬は影のように倉庫内を移動し、声を潜めて確認する。

「対象、“見えない”けど痕跡は残ってる。完全に囲い込めた。」


詩乃が冷静に補足する。

「ここから先は、“存在を証明する戦い”。消すことも消されることも、もう許されない。」


安斎は端末の画面に目を落としながら、低く呟く。

『記録された存在は、証人がいる限り消せない――さあ、始めようか。』


倉庫内には静寂と緊張が混ざり合い、次の一手を待つ全員の息遣いだけが響いていた。


【時刻:/B‑3倉庫・最深部】


《認識不能データ、逆拡張モードで固定》

《対象:レム、強制ログ登録》


端末の表示が赤から蒼に切り替わった瞬間、倉庫の空気がひりついたように振動した。

耳鳴りのような圧迫感のあと、そこに“いたはずの何か”が、全員の視界へとにじみ出るように姿を現す。


黒いノイズの粒子が人型をかたちづくり、淡い光の輪郭がゆっくりと固まっていく。

今まで“見えなかった”ものが、逆に鮮明に“存在を押し付ける”ように見えていた。


「……これが《レム》……」

沙耶が息を呑む。


玲はその光景を冷静に見据え、端末に手を添えた。

「視覚干渉、解除完了。“認識不能”を“確定データ”に反転させた……もう逃げ場はない。」


安斎がにやりと笑う。

『おかえり。“透明な殺し屋”さん。今度は俺たちが“お前を見ている”番だ。』


レムの輪郭がかすかに震え、初めて“存在”の重みを感じ取ったかのように、その場で動きを止めた。

今、この瞬間――“痕跡ゼロ”の刺客は、逆に世界に“固定”されていた。


【時刻:/B‑3倉庫・最深部】


視覚干渉が完全に解除された空間の中央で、黒い粒子に包まれた人影が微かに息をしていた。

かつて“存在しない”ことが力だったレムは、いまや全員の視界に捕らえられ、逃げ場を失っている。


成瀬はゆっくりと姿を現し、影の中から歩み出た。

顔にはいつもの無表情、だが声は鋭く、抑えた怒気を孕んでいた。


「……これでもう、お前は“ただの人間兵器”だ。」


その言葉は突き刺さるように低く、倉庫の金属壁に反響した。

周囲の空気が張り詰めるなか、レムの黒い輪郭が一瞬びくりと震え、初めて“自分が捕らわれた”という現実を理解したように小さく息を呑んだ。


沙耶が端末を握りしめ、安斎が無言でデータ保存の進行状況を確認する。

玲は視線を外さず、ただ静かに頷いた。

「――これで、記録に残せる。もう、消されない。」


その瞬間、レムの瞳の奥に、ごくかすかな“人間”の色が揺らめいた。

透明な刃であった存在は、世界の“証明”によって、初めて“ただの人間”として縛られたのだった。


【時刻:/B‑3倉庫・最深部】


刃月のスコープが正確にロックオンする。

呼吸を合わせ、静かに指が引き金を押す。


次の瞬間――


迎撃弾が一直線に飛び、目標を直撃した。

黒い粒子に包まれていたレムの身体が、まるで鉄骨ごと吹き飛ぶかのように宙を舞う。


倉庫内に衝撃波が走り、埃と鉄の匂いが空気を満たす。

しかし、その瞬間すべてのスペシャリストの目は、冷静にデータを確認し続けていた。


「……これで、完全に止まった。」

刃月の低い声が響き、玲は静かに頷く。

「存在のログは確定。逃げられない。」


安斎が端末を通じ、映像データを即座にバックアップする。

成瀬と詩乃も、現場に残る最小限の痕跡だけを確認し、倉庫内の制圧完了を報告した。


レム――かつて“存在しない”とされた者は、世界の証明と迎撃の力により、完全に抑え込まれたのだった。


【時刻:/B‑3倉庫・最深部】


玲は手元の端末を見つめながら、低くつぶやいた。


「……“殺せない敵”も、証明されればただの“記録”になる。」


その声には冷徹さと、しかし確かな論理が宿っていた。

目の前で消えたはずのレムも、存在証明によって世界に固定された。

命を奪わずとも、力の行使は完全に成立していた。


成瀬が背後で頷く。

「痕跡ゼロでも、存在は抑え込める。これが俺たちの仕事だ。」


玲は窓の外の闇を見据え、静かに息を吐いた。

「すべては、記録として残る……そして、忘れられない。」


【時刻:/B‑3倉庫・最深部】


玲は端末を脇に置き、静かに首を横に振った。


「違う……俺たちは“殺すための部隊”じゃない。

真実を、存在として固定する部隊だ。」


成瀬が短く息を吐き、背後の闇を見渡す。

「なるほど……消せない存在を作る、それが仕事か。」


玲の瞳は冷たく光るが、その奥に揺れるのは決意だった。

「証拠は残す。記憶は残す。誰も、何も、消せない。」


静寂が倉庫内を包み、戦闘後の余韻とともに、

“存在の確定”という新たな秩序が生まれたことを告げていた。


【時刻:/B‑3倉庫周辺】


影班は任務完了を確認し、即座に撤退を開始する。


成瀬は低く報告する。

対象レム、処理完了。ログ固定完了、痕跡ゼロ。……現場離脱する。」


詩乃は淡々と囁くように言った。

「霧に還る。」


安斎は唇を歪め、端末に向かって呟く。

「証人がいる限り、“闇”は嘘を貫けない。」


倉庫には静寂が戻り、しかし確実に、

“記録され、証明された真実”だけがその場に残った。


【時刻:/B‑3倉庫内部】


戦闘が終わり、倉庫に静寂が戻った。

だが、奥の暗がりにはまだ“開かれていない扉”が存在していた。


ユウタはゆっくりと歩を進め、手を扉にかける。

「ここに……まだ、誰かいる。」


昌代が息を詰め、壁の陰から見守る。

薄暗い光の中、扉の向こうに何が潜んでいるのか――

その答えを、誰もまだ知らなかった。


【時刻:/B‑3倉庫内部】


玲は扉の前に立ち、腕を組みながら低く言った。

「封じられた“人格”か。」


ユウタの瞳が微かに光る。

「……僕、また聞くんだ。声を。」


昌代はそっと息を整え、扉の向こうに何があるのか、心の準備を整えた。

空気は張りつめ、次の瞬間が迫っていることを告げていた。


【時刻:/B‑3倉庫・最奥】


水無瀬透はコウキのそばにしゃがみ込み、端末に映る波形を見つめていた。

その波形は通常の記憶パターンとは異なり、まるで“二重の声”が折り重なったような異質なノイズを放っている。


彼は操作するを止め、わずかに顔を上げる。

「……この波形、普通じゃない。記憶層の深部に、別の“人格”が棲んでいる……」


画面には《副次人格:識別不能/コードNo.β》という赤い文字が瞬く。

透の声には、いつもの冷静さに加え、明らかな緊張が混じっていた。


「これはただのトラウマじゃない。外部から人工的に“書き込まれた”痕跡だ。」

「……コウキ君の中には、もう一人“作られた人格”が存在している。」


その場の空気が一気に凍りついた。

玲が目を細め、啓一が無意識に拳を握りしめる。

ユウタはゆっくりと目を閉じ、何かを聞こうと耳を澄ませていた。


【時刻:/B‑3倉庫・最奥】


透の言葉が空気を揺らしたその瞬間、

コウキの身体がびくりと小さく震えた。


そして——


少年の唇がゆっくりと動き、

しかしそこから漏れた声は、彼自身のものではなかった。

幼さと大人びた響きが同時に混じり、

耳に届くにはあまりにもかすれた、しかし確かな声。


「……ぼ、くを……忘れないで……」


その声には、懇願というよりも、

“存在の証明”を求めるような切実さがあった。

目の奥の色も一瞬だけ変わり、

今までのコウキの柔らかい茶色から、

深い灰色に沈んでいく。


水無瀬透は即座に端末に指を走らせる。

「人格コードβ、表層に浮上……コウキ君の意識と重なりかけている!」


啓一は思わず一歩踏み出し、

「コウキ……?」と名を呼ぶが、

目の前にいる少年は、ほんのわずか違う表情で啓一を見上げた。


「ぼくは……“名前を持たされなかった子”……

でも、ずっとここにいた……ずっと……」


その声は、10年前に“記憶の奥”へ封じられた、

もう一人の小さな“人格”の名残だった。


【時刻:/B‑3倉庫・最奥】


水無瀬透の指先が、端末のスクリーン上で光を描く。

複雑な波形と暗号化コードが高速で走り、

深層アクセスのプロトコルが一つ、また一つと解除されていく。


その瞬間、背後で刃月が冷や汗をぬぐいながら報告する。

「……内部圧、上がってる。データが弾け飛ぶぞ!」


奈々は端末の補助回線を開き、透の操作に同期する。

「サポート入れる! β人格の隔離バリア、手動解除へ移行!」


詩乃と成瀬も“物理的”な安全を確保するため、倉庫奥に半円状の防御陣を形成。

啓一震える手でコウキの肩をそっと押さえ、父親としてその場に立つ。


透は低く呟く。

「……あと三つ。三重ロック解除、最後の認証——

“コウキ自身の声”が必要だ。」


コウキの身体が再び震える。

二つの声が交互に重なり、倉庫全体がわずかに軋む。

「ぼくは……コウキ。

ぼくは……名前を持たされなかった子……」


水無瀬透の端末に最終コードが走り抜け、

画面が白い閃光を発した瞬間——


倉庫の奥にあった、誰も開けられなかった“扉”が、

重く、だが確かに開いた。


音ではなく、空気そのものが“開く”感覚。

記憶に圧縮されていた時間と感情が、

嵐のように逆流し、全員の胸に突き刺さる。


朱音のスケッチの線が勝手に動くかのように走り、

忘れられた景色と名もない子どもたちの顔が紙に浮かび上がる。


そして、光の中から小さな声が聞こえた。

「……やっと……見つけてくれたんだね……」


“真実の扉”は、ついに開かれた。


【時刻:/B‑3倉庫・最奥】


九条凛は静かに端末の前に座り、冷たい光に映る画面を凝視する。

周囲の緊迫感に影響されることなく、彼女の呼吸は一定のリズムを刻む。


「川並が最後まで恐れた記憶……

これを復元すれば、すべてが明らかになる」


端末に映るのは、過去の断片化したデータ。

人工的に隔離された“記憶の封印層”にアクセスし、九条は慎重に心理干渉分析を開始する。


彼女の能力は極めて特異だ。

対象の深層心理に入り込み、抹消されかけた情報を復元する――

つまり、川並が恐怖と支配欲で押し込めた記憶すべてを、本人が再び“認識できる形”に戻すことができる。


九条は低く囁く。

「記憶の奥底で封じられた恐怖、操作された意識……

全て、光として取り戻す」


水無瀬透や御子柴理央と連携し、断片的な記憶の海を繋ぎ合わせる。

コウキの内面に潜む未開放領域――川並が最も恐れた“過去の真実”が、今まさに表面化しようとしていた。


「覚えて……いいのよ。

もう、誰も抹消できない」


静かな声に、倉庫の空気がわずかに震える。

抹消されかけた記憶は、九条の手によりゆっくりと、だが確実に、現実へと呼び戻されていく。


【時刻:/B‑3倉庫・最奥】


九条凛は端末の光を静かに見つめながら、手を組みゆっくりと語り始めた。


「川並研究所は、ある記憶を抹消しようとした……

しかし完全には消せなかった。」


その声は冷静だが、重みを帯びている。


「なぜか。

それは――その記憶が、コウキ自身の記憶ではなかったから。

彼の深層心理に直接刻まれたものではなく、外部から“注入された記憶”――誰かの声、誰かの存在の残響だった。」


彼女は端末の映像を指でなぞり、コウキの深層記憶を示す。

「この記憶は、人工的に封じられた人格の痕跡でもあり、抹消されてもなお“外部証人”として存在していた。

つまり、川並が恐れたのは、完全に消えない“もう一つの意識”だったのです。」


倉庫内の静寂がさらに深まり、緊張感が張りつめる。

抹消されかけたその記憶は、九条の手でゆっくりと、しかし確実に、現実の認識として呼び戻されていった。


【時刻:/B‑3倉庫・最奥】


九条凛は静かに頷き、指先でホログラムを拡大した。

そこにはコウキの深層意識と、別の“誰か”の記憶パターンが重なり合う波形が浮かんでいる。


「……やっぱり、そう。」

九条は低く、しかしはっきりと言った。


「これは“同期された記憶”よ。

過去に川並が極秘で進めていた“記憶共有プロジェクト”……その痕跡が、コウキの意識に残っている。」


彼女は視線を上げ、全員を見渡した。

「記憶は、ただ植えつけられたものではない。

彼は“誰かの記憶”を、同時に体験させられていた。

そのため消去しようとしても、必ず残滓が浮かび上がる……“証人”が二人分存在するのと同じことだから。」


端末の光が九条の横顔を淡く照らす。

その声はどこか戦慄を帯び、倉庫内に重く響いた。


【時刻:/B‑3倉庫・最奥】


玲は端末を閉じ、ゆっくりと肩の力を抜きながら言った。


「つまり……ユウタは、コウキを救うために、あえて“記憶の中に残った”のか。」


周囲に沈黙が広がる。

ユウタの目がわずかに潤み、過去と向き合った決意がその瞳に映し出される。


昌代は小さく息を吐き、静かに頷いた。

「……そうね。あの子が“記憶の証人”でい続けてくれたから、コウキは取り戻せたのよ。」


端末の光が二人の影を床に映し、倉庫の奥に静かに落ち着いた空気が戻る。


【時刻:/B‑3倉庫・最奥】


水無瀬透は端末を手元に置き、落ち着いた声で続けた。


「ユウタ君の存在は、本来ならば倉庫の事件とともに消えてしまうはずだった。

でも、彼はコウキ君の意識に“記憶の残滓”として生き続けたんだ。」


その言葉に、部屋の空気が一瞬、重く張りつめる。

玲は軽く目を細め、短く頷く。


「……だからこそ、あの子の声が、コウキをここまで導いたんだな。」


昌代は手元のスケッチブックを握りしめ、静かに息をつく。

「忘れられた声が、命を救う力になった……まさか、こういう形で繋がっていたなんて。」


ユウタはそっと目を閉じ、深く息を吸い込む。

彼の中で、過去と現在が静かに交差する瞬間だった。


【時刻:/B‑3倉庫・最奥】


玲は短く息を吐き、視線をコウキに向ける。

「これが、“川並が最後まで恐れた記憶”だ。」


九条凛は手を組んだまま、静かに補足する。

「川並研究所は、ある記憶を完全に抹消しようとした。しかし消せなかった。それは、コウキ自身の記憶ではなく、他者と同期された“共有記憶”だったからです。」


水無瀬透が端末を見つめながら続ける。

「ユウタ君は、その記憶に残滓として生き続け、コウキ君を導いた。つまり、消されるはずの過去を守る“生きた証人”として機能したんです。」


昌代はスケッチブックを胸に抱き、静かに呟く。

「忘れられた声が、こんな形で命を救っていたなんて……。」


コウキは目を閉じ、微かに頷いた。

過去と現在が静かに交差する中、部屋に深い静寂が訪れた。


【時刻:/B‑3倉庫・入り口付近】


玲が端末から視線を上げた瞬間、倉庫の入り口から静かに少年が姿を現した。


その瞳は、15歳ほどに成長した身体に不釣り合いなほど虚ろで、過去に閉じ込められた時間の影を宿していた。


玲は一歩前に出て、声を落とす。

「……君は──?」


少年はゆっくりと顔を上げ、微かに口を開いた。

「……川崎ユウタ。……覚えていてくれたんだね。」


室内の空気が一瞬にして張り詰め、過去と現在が重なり合うような静寂が広がった。


【時刻:/B‑3倉庫・内部】


玲の視線がユウタに注がれる。少年の瞳に、かつて小学生だった時の面影が、微かに重なって見えた。


水無瀬が驚きを隠せず声を上げる。

「まさか……記憶の証人、ユウキが抱えていたのは、“成長したユウタ自身の記憶”だけではなく、ユウタ本人がここにいるという事実か。」


玲は短く頷き、静かに付け加える。

「そうだ。小学生の姿で閉じ込められていたあの頃のユウタも、今ここにいる。彼の意識は、過去と現在の両方を同時に抱え、あの日の声と記憶を保持している。」


ユウタは少し震える手で自分の胸を押さえ、囁くように言った。

「……僕は、ずっとここにいたんだ……忘れられないために。」


室内に流れる静寂は、過去の痛みと現在の救済が交錯する特異な空間を映し出していた。


【時刻:午後3時過ぎ/場所:ロッジ・ファミリー部屋】


静寂の中、川崎典子の瞳が揺れる。息を詰めたまま、目の前の少年を見つめる。


15歳のユウタ――しかし体格は小学生に近く、声もどこか幼い。

その瞳には、閉じ込められた時間の影が深く刻まれていた。


ユウタは小さく肩を震わせながら、一歩前へ踏み出す。

「……僕だよ、お母さん。」


典子は思わず手を伸ばすが、言葉はまだ出ない。

長い間封じられていた声が、やっと、確かに彼女の耳に届いた瞬間だった。


ユウタの唇がわずかに動き、続ける。

「ずっと、ここにいた……忘れられないために。」


室内の空気が、一瞬、過去と現在の記憶で満たされる。

涙と共に、母と息子の再会の時間が静かに流れた。


【時刻:午後3時30分/場所:ロッジ・リビング】


沙耶は書類の束を手に、静かに目を通しながら告げた。

「川並研究所の記録を公表する準備は整っている。ユウタ君の証言が、すべてを変える。」


玲は端末から目を上げ、短く頷く。

「記録と証言、両方揃えば、隠蔽はもう通用しない。」


朱音が隣で小さく鉛筆を回しながら、微笑む。

「ユウタくん、やっとみんなに伝えられるんだね。」


15歳になったユウタは、少し緊張しながらも静かに目を伏せ、深呼吸をひとつ。

「……僕、話すよ。あの日のこと、全部。」


室内に、決意と安堵が入り混じった空気がゆっくりと広がった。


【時刻:午後3時35分/場所:ロッジ・リビング】


典子は涙を拭いながら、ユウタの手をそっと握る。

その手は、長い間閉ざされていた時間を経ても、確かに温かかった。


「……ありがとう、生きていてくれて。」


ユウタは目を細め、かすかに微笑む。

「うん……もう、ひとりじゃない。」


昌代と沙耶も静かに頷き、部屋の空気が少し柔らかくなる。

朱音がそっと手を差し伸べ、ユウタの隣に座る。

「みんなで、これからだね。」


玲は端末を閉じ、落ち着いた声で告げる。

「ここからが本当の意味での“回復”の始まりだ。」


【時刻:午後6時15分/場所:報道スタジオ】


大きなスタジオセットには、最新の映像技術を駆使した大型スクリーンが設置され、淡いライトが空間を柔らかく照らしている。


司会者が静かに口を開く。

「本日、長らく謎に包まれていた『倉庫事件』に関する全貌が、ついに明らかになりました。」


スクリーンに映し出されるのは、川並研究所の内部資料や、倉庫内で回収された遺留品の写真。

「被害者や関係者の証言により、過去に意図的に記録が改ざんされていた事実も確認されました。」


カメラがゆっくりとスタジオ内を移動し、司会者が続ける。

「本日の特別報告では、事件の真相と、関係者が歩んできた復元の軌跡を、詳細にお伝えします。」


画面の端に、川崎ユウタや柊コウキの笑顔の写真が表示され、スタジオの空気は一瞬、温かさに包まれた。


【時刻:午後6時20分/場所:報道スタジオ】


川崎ユウタはカメラに向かって静かに語りかける。

「僕は、あの事故で亡くなったと思われていた。けれど、記憶の中で生き続けていました。今、こうして話せることは奇跡だと思う。」


スクリーンには、10年前の倉庫の映像や、封じられた記憶を示すCGが重なり合う。

司会者が補足するように口を挟む。

「川崎さんの証言により、事件は“消された記録”だけでなく、そこに生き続けた記憶の重要性も明らかになりました。」


ユウタの瞳は真っ直ぐ前を見据え、言葉のひとつひとつに重みがあった。

カメラが引き、司会者とユウタ、そしてスクリーンが同時に映る構図。

静かな感動がスタジオを包み込む。


【時刻:午後6時25分/場所:報道スタジオ】


ユウタは小さく息を整え、さらに口を開いた。

「僕の記憶を守ってくれた人がいました。川崎家の皆さん、そして玲さんやチームの皆さんです。僕は一人じゃなかった。」


カメラがスタジオ全体を映し、朱音や昌代、沙耶、啓一、御子柴、奈々の姿も映り込む。

全員が静かにユウタを見守っていた。


司会者が軽く頷く。

「10年間、表に出ることのなかった真実。皆さんの協力があってこそ、今こうして証言できるのです。」


ユウタは視線を下げ、手に握られた小さなスケッチブックを見つめる。

その中には、倉庫での記憶を朱音が描いた絵が静かに残っていた。


「……この絵を見て、思い出せたんです。僕が忘れかけていたこと、閉じ込められていた声……」

言葉は震え、だが確かに響いていた。


司会者がさらに質問する。

「川並研究所の関与も明らかになりました。ユウタさん、今の気持ちは?」


ユウタは一呼吸置き、真剣な眼差しで答える。

「僕は、もう隠れません。記憶も、声も、すべて証拠として残します。あの日、倉庫で起きたこと――それを、皆に知ってほしいです。」


スクリーンには、ユウタの言葉と共に、倉庫内部のCG映像がゆっくりと映し出される。

視聴者は静まり返り、報道スタジオは感動と緊張が入り混じる空気に包まれていた。


【エピローグ/時刻:午前5時30分】


夜が明け始め、柔らかな光が森を淡く照らす。

静かな湖面には、朝霧がゆっくりと漂い、空気は凛と澄んでいた。


倉庫での一件から数日。

佐々木家のリビングでは、朱音がスケッチブックを広げ、微笑みながら絵を描いている。

昌代はその隣に座り、穏やかな表情で彼女を見守る。


玲は窓際に立ち、遠くの森を眺めながら静かに呟く。

「すべての記憶が、やっと光の下に戻った。」


柊コウキは15歳になった体ながら、まだ小学生のような幼い面影を残しつつ、ユウタと肩を並べて座る。

二人は互いに微笑み合い、言葉はなくても理解し合える距離にいた。


川崎典子はユウタの手を握り、穏やかな笑みを浮かべる。

「生きていてくれて、本当にありがとう。」


外では、風が針葉樹の枝を揺らし、遠くの小鳥のさえずりが朝の静寂を満たしていた。

深く息を吸い込み、すべてを受け止めるように森の空気が胸に流れ込む。


玲は短くつぶやく。

「過去は変えられない。でも、記憶は未来を照らす光になる。」


小さな笑い声が室内に響く。

朱音が描いた絵の上で、ユウタがそっと鉛筆を取る。

二人の手が重なり、未来への一歩を静かに踏み出した。


夜明けの光が、すべてをやさしく包み込む。

事件は終わり、しかし記憶と絆は、これからも確かに生き続けるのだった。


ユウタが静かに前に出た。

深く息を吸い、言葉を綴り始める。


【エピローグ/時刻:午前6時15分/佐々木家リビング】


玲は静かに立ち、ユウタとコウキの前に膝をついた。

その表情は柔らかいが、目には確かな覚悟と鋭さが宿っている。


「二人とも、これからは過去を背負いながら生きることになる。だけど忘れないでほしい――記憶に囚われたままでは前に進めない。過去を認め、整理して、必要な時には声を出して助けを求めるんだ。」


ユウタは深く頷く。

「……わかりました、玲先生。」


コウキも、小さく肩を落ち着けるようにして答えた。

「俺も、怖くても逃げない。自分の記憶も、他の人の声も、大事にする。」


玲はさらに助言を続ける。

「二人には“記憶の証人”としての役割もある。誰かの声を拾うこと、忘れられた真実を守ること――それは簡単ではないけれど、だからこそあなたたち自身の心も大事にしなきゃいけない。無理に背負いすぎるな。」


沙耶と昌代もそっと頷き、二人を見守る。


玲は最後に短く言った。

「過去を恐れるんじゃない。過去を理解して、未来を選ぶんだ。君たちはもう、一人じゃない。」


ユウタとコウキは互いに視線を交わし、静かに息を整える。

朝の光が、二人の決意と希望をやわらかく包んでいた。

圭介のスマートフォンが静かに震え、メール受信を告げた。

画面を開くと、差出人は――


川崎ユウタ


「お父さん、お母さんへ。

ありがとう。僕は無事だし、もう怖くない。

これからは、皆と一緒に前を向いて歩いていくよ。

記憶の中で生きていたあの日々も、今は僕の一部になった。」


続いてもう一通。


差出人は――


柊コウキ


「父さん、母さん、そして圭介さんへ。

長い間、僕の名前すらなかった。でも、今はここにいる。

これからは、自分の記憶も、僕自身も大切にしていく。

みんなに出会えて、本当に良かった。」


画面の文字を眺めながら、圭介は深く息を吐く。

胸の奥で、十年分の重みが静かに解けていくようだった。

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