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25話 2重の声

佐々木家・川崎家関連

•佐々木圭介

•朱音の父で沙耶の夫。冷静で判断力に優れる。家族を守る責任感が強く、事件解決では重要な判断を下す。

•沙耶

•朱音の母。母親としての強さと直感を持ち、家庭と仕事を両立する女性。事件中は主に現場外から情報をサポート。

•佐々木朱音(10歳)

•事件の中心人物。絵やスケッチを通して重要な手がかりを示す。無邪気ながら直感が鋭く、家族や影班の心を動かす存在。

•川崎ユウタ(当時5歳)

•2015年に行方不明となった少年。倉庫事件に巻き込まれる。事件後は安全な環境で保護され、過去の記憶の整理を経験。

•川崎典子

•ユウタの母。倉庫事件当時、園長として判断を迫られ、事件の経過に関わる。



玲探偵事務所関連

•玲

•探偵。冷静沈着で分析力に長け、事件の解明の指揮を取る。記憶や証言の整理に優れる。

•橘奈々

•情報解析・端末操作担当。防犯カメラ映像や記録の解析を得意とし、事件の手がかりを迅速にまとめる。

•佐々木昌代

•朱音の祖母。事務所メンバーとして行動。サイコメトリーによる“感覚読み取り”で手がかりを得る。



影班(特殊行動チーム)

•成瀬由宇

•暗殺・追跡担当。冷静沈着で無駄のない動きをする。

•桐野詩乃

•毒物処理・痕跡消去担当。緻密で慎重な作業に定評。

•安斎柾貴

•精神制圧・情報汚染担当。高い身体能力と戦術眼を持つ。



記憶・心理・証言関連スペシャリスト

•神垣惟道

•東北在住の霊媒師。対話仲介・記憶読み取りを行う。サイコメトリーを活用。

•杉本剛

•記憶復元調査員。間接証言や本人の記憶の正確な再現を専門とする。

•伊月光哉

•催眠療法・トラウマ再構築専門。記憶に囚われた人物を安全に解放。

•葉山静巳

•心理司法調査官。証言確保と心理的負担の最小化に長ける。

•藤堂透

•元犯罪心理分析官。行動パターン分析と行方不明者捜索の専門家。

•西園寺結

•法医学鑑定官。痕跡解析、行方不明者の過去事例照合を行う。

•東雲葵

•深層心理視覚化スペシャリスト。沈んだ記憶の断片を映像化する技術を持つ。

時間:6:58

場所:ロッジ・ファミリー部屋


朝の光が緩やかに差し込む中、朱音はリビングのテーブルにノートを広げていた。

郊外にある広めのロッジに、佐々木家と事務所の面々も含めて一緒に引っ越してから数日が経つ。


朱音の紙には、不気味で異様な建物のスケッチが描かれていた。歪んだ屋根は崩れかけたようにねじれ、窓の位置には深い闇へと繋がるかのような底知れぬ黒い“穴”が口を開けている。


「……昨日のこと、まだ忘れられないな」

朱音は鉛筆を走らせながら、小さな声でつぶやく。ノートには事件で見たものや感じたことが、絵日記として描き込まれていた。


外では鳥のさえずりと、木々の葉を揺らす風の音が静かに響く。

事件から解放された日常の穏やかさが、ゆっくりと、しかし確実に家族の心を満たしていた。


時間:7:02

場所:ロッジ・ファミリー部屋


玲は言葉を挟まず、朱音の描いた絵をじっと見つめた。

紙の上でねじれた屋根と、底知れぬ黒い“穴”が存在感を放っている。


「……この窓、すごく深い闇に見えるね」

朱音が小さな声でつぶやく。指先で黒い穴をなぞりながら、視線を玲に向ける。


玲は黙ったまま、息を飲む。

胸の奥を冷たいものが走り抜け、指先がわずかに震えた。

「……どうしてここまで、怖い感じに描けるんだ?」

玲の声は低く、しかし問いかけるように柔らかかった。


朱音は少し首をかしげ、絵をじっと見つめる。

「だって……ここ、怖かったんだもん」


部屋には、朝の光がゆるやかに差し込み、二人の間に静かな緊張が漂った。


時間:7:08

場所:ロッジ・ファミリー部屋


沙耶がテーブルの端で、手帳を指でなぞっていた。

「誰か……この夢の場所に行ったこと、あるのかしら……」

声は小さく、まるで自分に問いかけるようだった。


朱音は気にせず笑顔で絵を見せる。

「ばぁば、ここに行きたいな!」

その純粋な希望に、沙耶はふと息を止め、指を止めた。


玲は無言のまま、黒い“穴”を見つめ続ける。

心の奥で、過去の影と重なる不穏な感覚が静かに芽吹いていた。


三浦が朱音のノートを覗き込む。

「……これ、取り壊し予定だった施設じゃないか……地図にはもう載ってないはずだ」


朱音は興奮気味に指差す。

「でも夢で見たのと同じだったの!」


玲は静かに絵を見つめる。

黒い“穴”が、ただの夢の産物ではなく、現実のどこかに繋がっているかのように感じられた。


玲は指先でそっとデスクを叩く。

「……朱音の絵、ただの夢じゃない。過去の記憶が残っている」


昌代は目を見開き、声を潜める。

「記憶……ですか?」


玲はノートに触れ、静かにサイコメトリーを行う。

手のひらに伝わる微かな感覚。黒い“穴”から、淡くも冷たい時間の残像が流れ込む。

「ここには……事件の気配が、まだ残っている……」


朱音は無邪気に首をかしげる。

「でも、ばぁば、あの穴……怖くないよ」


玲の目は、黒い穴に潜む過去の痕跡を追うようにじっと動かない。


時間:7:18

場所:ロッジ・ファミリー部屋


玲の指先がノートに触れた瞬間、部屋の空気がわずかにひんやりとした。

息を吸い込むと、微かに埃と古い木の香り、そして長く封じられた感情の残滓が混ざった匂いが鼻腔をくすぐる。


指先を通じて伝わる感覚は、静かで複雑だ。

朱音の絵に描かれた黒い穴――その一点に、恐怖と孤独、そして誰かの強い意思の残像が重なっている。


玲は呼吸を整え、集中を高める。

手のひらを通じて「過去の時間」が波のように流れ込む。

遠くで、低い声が響くような気配。金属が擦れる音、扉が軋む音、誰かが足を止めてこちらを見つめる視線……。


「……これは、ただの想像じゃない……。ここで、何かが起きた……」


昌代も無言で玲の手元を見守る。

空気の変化と指先の感覚から、玲が感じ取る過去の事件の断片が、部屋の静寂をわずかに震わせていた。


時間:7:20

場所:ロッジ・ファミリー部屋


昌代もノートに手を添えた瞬間、微細な振動が掌を通じて伝わった。


玲とは異なる感覚――温かさと切なさ、そして守りたいという強い思いが混ざる感触だ。

過去にこの場所で感じられた、子どもたちの笑い声や、見守る大人たちの静かな緊張が波紋のように広がる。


昌代は目を閉じ、記憶の残滓に耳を澄ませる。

黒い穴に秘められた、子どもの恐怖と孤独、そして必死に守ろうとする誰かの意志が、指先から胸の奥にまで響く。


「……これは……ただの絵じゃないわね……」

彼女の声は小さく、震える。だがその瞳は確かに、朱音の体験と絵に込められた記憶を読み取っていた。


二人のサイコメトリーが重なり、静かな部屋に過去の記憶の輪郭が淡く浮かび上がる。

温度の変化、微かな匂い、そして“声なき声”――それらが、これから起こる出来事の序章を告げていた。


時間:6:45

場所:ロッジ・ファミリー部屋


朝の柔らかな光が差し込む中、圭介は朱音のランドセルの金具をひとつひとつ丁寧に整えていた。

「よし、今日は忘れ物ないね」


朱音は嬉しそうに頷き、小さな手でランドセルの肩紐を直す。

圭介の目には、事件を経て無事戻った娘の健やかな日常が、朝の静けさに包まれて輝いて見えた。


「行ってらっしゃい、気をつけてね」

微笑みと共に父の手がランドセルを軽く押さえ、朱音は元気にリビングを飛び出した。


時間:6:50

場所:ロッジ・駐車場


圭介はハンドルを握り、車を静かに発進させた。

ふとフロントガラス越しに遠くの山並みを見つめ、心の奥で呟く。


「……これからも、守らなきゃな」


過去の事件の記憶が脳裏をよぎるが、窓の外に広がる朝の光と、無垢な娘の笑顔の記憶が、その重さを少しだけ和らげていた。

アクセルにかかる足に軽く力を入れ、圭介は深く息を吸い込み、今日という一日を静かに迎える。


時間:6:58

場所:ロッジ・駐車場


助手席の朱音が小さく鼻歌を口ずさみ、車内に柔らかな朝の空気を運ぶ。

「お待たせ」と圭介が微笑みながら運転席に座る。


昌代は少し離れた玄関先から、二人を見つめながら軽く手を振った。

「気をつけてね」


朱音の鼻歌が、まだ眠気混じりの朝の空気にほのかな温もりを添える。


時間:6:58

場所:ロッジ・駐車場


助手席で鼻歌を口ずさむ朱音を横目に、圭介は後部座席の小さな封筒に気づいた。手に取ると、控えめな紙の折り目から透ける文字が見える。


「――これは……退職届の控えか。」

圭介は小さく呟いた。声には驚きもなければ慌てもない。ただ、日常の一コマを受け止めるように、静かに言葉を紡ぐ。


「お父さん、お待たせ!」

朱音の声が車内に明るく響く。鼻歌の合間から聞こえるその声に、圭介は微かに笑った。


「ありがとう、朱音。」

返事は穏やかで、朝の冷たい空気をほんの少し和らげる。


駐車場の端で腕を組み、二人を見送る昌代。目は優しく二人を追うが、その胸の奥では一日の無事を祈っている。


(心の中で)「無事に帰ってきますように……」


封筒は静かに座席に横たわり、朱音の鼻歌が車内に広がる。朝日が差し込む駐車場で、家族の小さな時間が、確かに流れていた。


時間:午前7:15

場所:ロッジ・業務スペース


ロッジ内の業務スペースには、事件や調査に関わる資料がきちんと並べられていた。机の上には防犯カメラの映像記録、聞き込みメモ、写真、地図が整然と置かれ、空気は静かに張り詰めている。


橘奈々はデスクの端に座り、開いたノートに目を落としていた。指先でページをなぞり、メモを確認しながら、新しい手がかりや目撃情報の整理を頭の中で組み立てていく。


「……この証言とカメラ映像を照合すれば、行方不明の時間帯が特定できるかもしれない」

小声で呟く奈々の声は、緊張感の中にも冷静さを宿していた。


机の向こう側には他の資料も並び、朝日が差し込む窓から柔らかい光が資料の端を照らす。

今日もまた、調査の一日が静かに始まろうとしていた。


時間:午前7:17

場所:ロッジ・業務スペース


その時、沙耶がデスクの隅で小さく息を飲んだ。


「……これは……」


手にした書類に目を落とし、わずかに眉を寄せる。ページには昨日整理された防犯カメラ映像の解析結果が細かく記され、朱音の行動範囲や目撃情報と照合されたタイムラインが明確に示されていた。


奈々は沙耶の反応に気づき、顔を上げる。


「どうしたんですか?」


沙耶は息を整え、視線を上げて静かに答えた。


「……この時間、朱音が一度だけ誰かに呼ばれて立ち止まった形跡があるわ……」


業務スペースに微かな緊張が走る。静かな朝の光の中で、ふたりの間に新たな手がかりが浮かび上がった瞬間だった。


時間:午前7:20

場所:ロッジ・業務スペース


沙耶は手早くファイルをめくり、朱音のノートに描かれた建物と酷似する構造図を見つけた。


「……これ、朱音の描いたものと同じ……」


奈々も顔を寄せ、図面とノートのスケッチを並べて確認する。


「間違いないですね。歪んだ屋根の角度も、窓の配置も一致しています。」


沙耶は唇をかみしめ、しばらく沈黙する。


「……朱音、やっぱり何か見ている……」


奈々は指を走らせながら、解析した目撃情報と防犯カメラのタイムラインを照合する。


「この建物……もう取り壊し予定になっていて、地図にも載っていません。でも、朱音の行動範囲にピッタリ重なるんです。」


二人は視線を交わす。静かな業務スペースに、朝の光が差し込む中で、事件の核心へと近づく冷たい予感が漂っていた。


時刻:10:40

場所:ロッジ・業務スペース


玲は朱音のノートと、沙耶が見つけた古い構造図を机に並べた。

ノートの紙面に描かれた黒い“穴”や歪んだ屋根の線と、構造図の正確な建物の線が重なる。


「……朱音が見たものと、建物の設計図がほぼ一致している。」


玲の声は低く、しかし確かな重みを帯びていた。指先でノートの黒い穴をなぞると、微かに部屋の温度が変わるかのような感覚が走る。


「ここ……朱音は、この窓や穴をちゃんと覚えて描いている。普通の子どもが描くには、あまりにも正確すぎる。」


沙耶は肩をすくめ、目を細めて図面とノートを交互に見つめた。


「玲お兄ちゃん……これ、どういうこと……?」


玲は一瞬、言葉を止め、慎重に答える。


「まだ推測に過ぎない。でも……君が描いた場所は、何か重要な意味を持っている可能性が高い。」


奈々はパソコンの画面をスクロールさせ、防犯カメラ映像の解析結果を指し示す。


「目撃情報やカメラ映像と合わせると、この建物の周辺に朱音が立ち寄った痕跡があります。取り壊される前のわずかな時間に……」


玲は頷き、静かに窓の外を見る。朝の光に照らされたロッジの木々が揺れる中、胸の奥に冷たいものが走った。


「……この先、慎重に動かないといけないな。」


部屋には、緊張と覚悟がひそやかに広がっていた。


時刻:10:45/ロッジ業務スペース


橘奈々が手元のファイルをめくりながら、静かに補足した。


「保育園は約十年前に廃園になっています。書類上では町へ一括返還されたことになっているんですが……」

彼女は資料のページを指でなぞりながら続ける。


「ただ、その倉庫棟だけは譲渡記録が抜け落ちています。存在自体が書類上にはほとんど残っていない状態です。」


玲は眉をひそめ、朱音のノートの黒い“穴”と倉庫棟の位置を重ね合わせる。


「……なるほど。記録にはないけど、実際にはまだ残っていた可能性がある、と。」


沙耶は手を口元に当て、小さく息を飲む。


「十年前……あの建物がまだあったなんて……」


奈々は軽くうなずき、資料をまとめながら言葉を添える。


「だからこそ、朱音が見た建物と一致している可能性があるんです。子どもの記憶が、廃墟の存在を示唆しているわけですね。」


玲は静かに頷き、机の上のノートと構造図をじっと見つめる。

「……慎重に調べる必要がある。ここに何か、十年前の事件の痕跡が残っているかもしれない。」


部屋には、緊張感と同時に、確かな探索の手がかりを得た期待がひそやかに漂っていた。


時刻:10:50/ロッジ業務スペース


玲が朱音のノートと古い構造図を睨みつける中、昌代がふと横から口を挟んだ。


「玲さん……でも、もしあの倉庫に何か残っているとしたら……」

彼女の声は少し震えていたが、意思の強さも滲んでいた。


「……孫が言った“夢で見たおうち”と、あの黒い穴……関係があるかもしれません。」


奈々が横目で昌代を見やり、静かにメモを取りながら言った。

「昌代さん、その感覚も重要です。朱音ちゃんの直感と重なる部分が多いですから。」


玲はゆっくりと頷き、目をノートから離さずに言った。

「……わかった。昌代さん、君の直感も頼りにする。行くべき場所はほぼ絞れそうだ。」


昌代は深く息を吐き、握りしめた手を少し緩める。

部屋の空気に、決意と期待が静かに満ちていった。


時刻:10:52/ロッジ業務スペース


その瞬間、橘奈々が眉を上げ、声をひそめて言った。


「……夢で見たおうち、ですか?」


昌代が少し驚いた顔で頷く。

「はい、朱音が言っていたんです。夜に見た夢で、あの倉庫のような建物が出てきたと……。」


玲は無言のまま、朱音のスケッチを指先でなぞりながら考え込む。

「夢……か。しかし、この黒い穴の描写は、ただの想像では済まされない気がする。」


奈々は資料に目を落としつつも、興味深そうに言う。

「朱音ちゃんの感覚、もしかすると現実の手がかりとリンクしている可能性がありますね。」


昌代の目にわずかに光が宿り、静かに息を吐く。

「やっぱり……行くべき場所はあそこかもしれません。」


部屋の空気が、一気に緊張と期待で引き締まった瞬間だった。


時刻:10:58/ロッジ業務スペース


玲が静かに眉間に皺を寄せ、朱音のスケッチと古い構造図を見比べた。

「けれど……もう一つの可能性が浮かび上がる。あの場所に、誰かが入っていたのではないか。」


昌代が息をのみ、手を組んだまま微かに身を寄せる。

「入っていた……ですって?」


奈々がデスク越しに目を細め、資料のページをめくる。

「倉庫棟には長い間、人の出入りはなかったはずですが、目撃情報や記録の抜け落ちがある以上、完全に無人だったとは言い切れません。」


玲は朱音のスケッチに描かれた黒い“穴”をじっと見つめ、声を潜める。

「……あの穴。夢に出てきたということは、朱音の潜在意識が何かを感知している可能性がある。」


昌代は小さく頷き、決意を滲ませる。

「なら……調べに行かなくちゃ。朱音のために。」


業務スペースの空気は、期待と不安の入り混じった静けさに包まれた。


時刻:11:15/旧緑町役場・台帳室


圭介は机に並べられた古い台帳を前に、慎重にページをめくっていた。

「……ここに記録はあるはずなんだが」


古びた紙の手触りに指先が触れるたび、過去の時間の重みが伝わってくる。

役場の静寂の中で、ページをめくる音だけが響く。


「倉庫棟の譲渡記録……やっぱり抜け落ちている」


圭介は小さく息をつき、拳を机の上で握る。

「どうして……誰がこんな重要な記録を……」


彼の視線は遠く、朱音のスケッチに描かれた黒い“穴”を思い出す。

「この場所……何か隠されているのかもしれない」


ページを閉じ、圭介は決意を新たに立ち上がる。

「……今日中に確かめる。絶対に」


時刻:11:18/旧緑町役場・台帳室


圭介の指が、ページの隅にひっそりと挟まった別資料に触れた。

「……これは……」


紙を取り出すと、印刷はやや薄れ、角は折れ曲がっている。

緑町保育園(1991年建築・2015年閉園)

川辺管理社 倉庫番号B-3

2016年度契約書控(未済印)


圭介は眉をひそめ、資料をじっと見つめた。

「未済印……この契約、正式には成立していない……つまり……」


頭の中で、朱音の描いた歪んだ建物と倉庫の番号B-3が結びつく。

「……やっぱり、あの場所だ」


机の上に資料を広げ、圭介は小さく息を吐く。

「今日中に確かめる……必ず」


背筋を伸ばし、決意を固めるその姿に、過去と現在を結ぶ影が静かに差し込んだ。


時刻:11:20/旧緑町役場・台帳室


机の上の古びた照明が、圭介の横顔を淡く照らしていた。

その瞬間――スマートフォンがポケットの中で小さく震えた。


「……」


画面には〈沙耶〉の文字が光る。

だが圭介は一瞥しただけで、通話ボタンには触れなかった。


「今は……まだ話せない」


低く呟く声が、静寂の部屋に溶ける。

彼は資料を封筒に戻し、台帳を丁寧に閉じると、椅子を押し戻して立ち上がった。


外の窓から差し込む光は淡く、冬の気配を帯びている。

圭介は一度だけ深呼吸をして、胸の内に溜まった迷いを押し込めた。


「――あの倉庫へ行く」


決意の言葉は小さく、しかし確かに、誰にも届かぬ空気の中に刻まれた。


時刻:11:22/旧緑町役場・台帳室


薄暗い部屋の中で、古い壁時計が静かに時を刻む。

圭介が封筒を胸ポケットへしまい、出口へと歩き出したその瞬間――


もう一度、スマートフォンが震えた。


今度は短く、しかし先ほどよりも強く。

まるで何かを訴えるように。


ポケットの中で光る画面には、〈沙耶〉の名が再び浮かび上がっている。

圭介は一瞬、足を止めた。


指先がスマートフォンに触れる。

そのわずかな距離が、まるで心の底の葛藤を映すようだった。


「……ごめん」


小さく呟き、圭介は着信を切る。

そして振り返ることなく、扉の向こうへと歩き出した。


扉の閉まる音が、静まり返った台帳室に重く響いた。


時刻:12:27/旧緑町・廃倉庫B-3前


圭介が扉を押し開いた瞬間、湿った空気がじわりと広がった。

閉ざされた年月の匂い――土と鉄と、長く誰も触れていない木材の腐臭が混じり合っている。


「……ここか」


低く呟き、圭介は足を踏み入れた。

靴底が埃を踏むたび、乾いた音が虚ろに反響する。

外の陽光は届かず、倉庫の奥は闇が支配していた。


彼はスマートフォンのライトを点け、壁沿いに歩を進める。

古びた棚、朽ちた木箱、そして――床に散らばる子どもの落書きのような紙片。


圭介はしゃがみ込み、ひとつの紙を拾い上げた。

それは、朱音が描いたスケッチと酷似していた。

歪んだ屋根、黒い“穴”、そしてその下に、かすかに残るインクの滲み。


〈B-3〉


「……やはり、ここだったのか」


圭介の喉が乾く。

その瞬間――背後で、何かがかすかに動いた。


“コツ……コツ……”


微かに響く足音。

振り向いた圭介の瞳に、わずかな光が揺らめいた。


時刻:12:29/旧緑町・廃倉庫B-3内部


崩れた棚の隅に、何かが落ちている。

圭介は慎重に近づき、ライトの光を向けた。


粉塵が舞い上がり、薄暗い空間に光の粒が漂う。

錆びた鉄の破片――いや、それは何かの金具だった。

子どもの靴につけられる、反射板のような小さな部品。


「……朱音?」


圭介の声が、低く震える。

彼の指先がその金具に触れた瞬間、

“コツ……コツ……”


再び、音がした。

まるで誰かがゆっくりと、闇の奥から近づいてくるように。


圭介は息を止め、身構えた。

ライトをその方向へ向ける――が、何もいない。

ただ、崩れた梁の下に、わずかに人の影が揺らめいた。


「……誰だ」


静かな声が、空気を切り裂く。

返事はない。

代わりに、床の奥で何かがゆっくりと転がる音が響いた。


“カラン……”


――それは、小さな赤い髪留めだった。


時刻:12:31/旧緑町・廃倉庫B-3内部


圭介のライトが、床に散らばったものを順に照らしていく。

紙の束。

古びたファイル。

そして――未開封の小さな箱。


“カラン……”


足元で何かが転がり、光の輪の中に滑り込んだ。

それは――朱音がいつも髪につけていた、赤い髪留めだった。


圭介の心臓が、一瞬で強く打つ。

「朱音……!」


声が震え、喉の奥が詰まる。

彼は膝をつき、震える手で髪留めを拾い上げた。

その冷たさが、現実を突きつける。


「ここに……いたのか……」


圭介は顔を上げ、再び箱に目を向けた。

古びたテープが巻かれ、誰かの手で封をされたまま。

“川辺管理社”のロゴがかすかに残る。


箱の側面には、朱音の名前が走り書きのように記されていた。

〈SASAKI AKANE〉――黒インクの跡が、時間を越えて残っている。


圭介は唇を噛み、静かに呟いた。

「……誰が、これを……」


その時――背後で、微かな足音。

“コツ……コツ……”


また、あの音が響いた。

だが今度は、確かに――人の歩みだった。


時刻:12:33/旧緑町・廃倉庫B-3内部


薄暗がりの中、埃舞う静寂が箱を包んでいた。

圭介のライトが揺れ、その光に浮かぶ粒子が、まるで過去の記憶を形にするように漂う。


箱の表面には、かすかに指の跡が残っている。

最近、誰かが触れた――。


「……川辺管理社、か」

圭介は低く呟き、その社名をなぞった。

頭の奥に、忘れられない記憶が滲む。


十年前――同じ名を、彼は“倉庫事件”の記録で見ていた。

だが、あのときの書類には「解体済み」と記されていたはずだ。


「まだ……終わっていなかったのか」


冷たい汗が背を伝う。

圭介は箱に手を伸ばす――その瞬間。


“コツ……コツ……”


足音が、再び響いた。

先ほどよりも、近い。

倉庫の奥、闇の奥底から――確かに人の歩みがこちらへ向かってくる。


圭介は息を止め、ライトを構えた。

埃が光の筋に舞い上がる中、暗闇の向こうで何かがゆっくりと形を成していく。


――それは、人の“影”だった。


時刻:12:35/旧緑町・廃倉庫B-3内部


埃まみれの箱は、村瀬が以前報告していたものと同じ形だった。

側面にはかすかに「川辺管理社」の刻印――時間に侵食された文字が、錆の中に滲んでいる。


圭介は指でその刻印をなぞり、かすかな震えを押し殺した。

「……やはり、あの“倉庫事件”と繋がっていたのか」


胸の奥が重く沈む。

あの事件で、いくつもの記録が抹消され、真相は闇に葬られたはずだった。

それを今、朱音の描いた絵が――掘り起こそうとしている。


圭介のスマートフォンが、ふたたび震えた。

今度はメッセージ。差出人は――玲。


『圭介さん、場所はどこですか?

通信が一時途絶えました。朱音ちゃんのスケッチと一致する倉庫が他にも三箇所あります。

……無理はしないでください。必ず、連絡を。』


圭介は小さく息を吐き、画面を見つめた。

玲の文面には、冷静さの裏に滲む“心配”の色があった。


「……玲」


呟きながら、彼は箱をそっと持ち上げた。

埃が舞い、光に溶けていく。


その瞬間――また、背後で“コツ……コツ……”と足音が響いた。

圭介はゆっくりと振り返る。


闇の奥に、誰かが立っていた。


時刻:12:36/旧緑町・廃倉庫B-3内部


圭介は箱を抱えたまま、ふと動きを止めた。

空気が変わった。

埃の流れが途切れ、倉庫の奥の闇が、ゆっくりと形を持ちはじめる。


“コツ……コツ……”


乾いた音が、今度は確実に近づいてくる。

圭介は呼吸を浅くし、ライトを構え直した。


その光が届く先――そこに、誰かが立っていた。


黒いコート。

顔の半分を覆う影。

わずかな光に反射する金属の光沢。


圭介の手がわずかに震える。

「……誰だ」


沈黙。


ただ、相手は微動だにせず、ゆっくりと首を傾けた。

光の輪の中に入ってくる気配もなく、

まるでこの世のものではない“影”のように、存在そのものがぼやけて見えた。


「朱音に……何をした」


圭介の声が、倉庫に反響する。

それでも――相手は何も言わなかった。


ただ、闇の中でわずかに唇が動いた。


――「……まだ、終わっていない」


時刻:12:38/旧緑町・廃倉庫B-3内部(旧緑町保育園跡地)


圭介のライトが、暗闇の奥をゆっくりと切り裂いた。

光が届いた先――そこは、倉庫の奥に続く“封鎖された扉”だった。

板で打ち付けられ、錆びた鎖が絡まっている。


「……閉園の奥……?」


圭介は小さく呟いた。

ここは、もともと緑町保育園の付属棟――

十年前の“倉庫事件”の現場として、一度は閉鎖された場所のはずだった。


だが、扉の隙間からわずかに吹き出す冷気が、生きた空間の存在を示している。

まるで、誰かが中でまだ息をしているかのように。


圭介の指先が鎖に触れた瞬間――

“ギィ……”と、微かに音がした。

錆びついた鎖が自ら軋み、緩んでいく。


「……何だ……?」


ライトの光が、扉の隙間を照らす。

そこには――小さな手形がいくつも重なっていた。

古びた埃にまみれながらも、指の跡は生々しい。


圭介の呼吸が止まる。

「誰かが……ここに……」


そのとき、

背後で“コツ……コツ……”と再び響いた。


闇の向こうから、

――子どもの笑い声が、かすかに混じった。


時刻:12:42/旧緑町・廃倉庫B-3内部


圭介のライトがゆっくり揺れるたび、埃が空気に舞った。

その光の先、床に散らばった小さな手形は、まるで誰かがここを歩いた痕跡そのものだった。


「……朱音?」


口に出してみる。だが返事はない。

かわりに、奥の闇から“コツ……コツ……”と規則的な足音が響き、圭介の心拍は徐々に早まった。


扉を押し開けた隙間から漂う空気は、ただの廃倉庫とは違う“生きた空間”の匂いを帯びていた。

鉄と木の古い匂い、そして、湿った土のような香り――まるで、誰かが長くここに身を潜めていたかのようだった。


圭介は慎重に一歩ずつ足を進める。

ライトが照らす先に、埃の積もった古い箱や散乱した紙束があり、その中で、赤い髪留めがかすかに光を反射している。


“ギィ……”


また、扉の向こうから軋む音。

圭介は息を整えながら、そっと声をかける。


「出ておいで……安全だから……」


闇の中、足音は止まった。

そして――微かに、子どもの小さな声が聞こえた。


「……だれ……?」


圭介の胸の奥が、鋭く締めつけられる。

暗がりの向こうに、朱音の姿がある――そんな確信が、彼を前へと押し出した。


時刻:12:46/旧緑町・廃倉庫B-3内部


崩れた棚の隅で、古びた小箱を見つけ、圭介の手が無意識に伸びる。

その箱の隙間から、小さな足音がかすかに響いた。


“コツ……コツ……”


振り返ると、薄暗がりの奥で、縮こまった小さな影がじっとこちらを見ていた。

朱音だった。


「……朱音!」


圭介は声を震わせ、ゆっくりと手を差し伸べる。

小さな子供は、一瞬目を大きく見開き、恐る恐る足を踏み出した。

埃と影に包まれた倉庫の中で、二人だけの静かな再会の瞬間が訪れる。


朱音の手が圭介の指先に触れた瞬間、周囲の倉庫の冷たさが和らぐような気がした。


圭介が箱を手に取り、ほっと息をついた瞬間、床に落ちていた古い写真に目が留まる。

埃を払うと、そこには小さな少年が写っていた。


その瞳が、まるで生きているかのように圭介を見つめ返す。

胸にざわりとした感覚が走るが、幸いにも死傷者はなく、倉庫は無事であったことが確認できた。


「……よかった……無事だったんだな」


圭介の声は、ほとんど囁きのように倉庫の静寂に溶けていった。

小さな少年の瞳が、静かに安堵の光をたたえている。


圭介は小箱と写真を抱え、手元の書類を改めて確認した。

書類には赤鉛筆で次のように記されていた。


――《報告済案件:川辺第3保育棟設備内 備品棚崩落》

――《死傷者記録:該当なし(園児帰宅済)》


埃と廃材の香りの中、圭介は胸をなでおろす。

廃棄された倉庫での事故報告書には、当時の園児や職員に怪我はなかったと明記されていた。


「……事故はあったけど、誰も傷ついていない……」


棚の崩落で散乱した古い備品や書類、そして小箱。

圭介はその静かな現場を見渡し、当時の子どもたちの無事を確認する。

小さな手形や足跡の跡は残っているものの、命に別状はなく、過去の安全が今も守られていることを改めて実感した。


周囲の湿気と薄暗さが、倉庫の歴史と記録の重みをそっと圧し掛ける。

しかし、死傷者記録の「該当なし」の文字は、圭介の心にほんの少しの安堵と希望を灯した。


時刻:12:55/旧緑町・廃倉庫B-3内部


圭介は写真と小箱を手に取り、ふと視線を上げる。

薄暗い倉庫の奥に、まるで吸い込まれるような黒い穴が口を開けているのを思い出した。


それはただの廃材の隙間ではなく、歪んだ構造の隙間が生む“穴”――

冷たく深く、どこまでも暗く沈み込むような、底知れぬ空洞だった。


彼の胸の奥で、過去の記憶がざわりと揺れる。

暗い穴の底に、幼い子どもたちの声、笑い声、そしてかすかな足音……

――「コツ……コツ……」


その音は、今も廃墟の空気の中で残響しているかのように、圭介の意識を微かに震わせた。


「……あの穴の中、何かが確かにあった……」


思い出の断片が、冷たい闇の中で生々しく蘇る。

それは事故の痕跡だけでなく、消えかけた記憶と、守られた命の証でもあった。


圭介は崩れかけた棚の隅で見つけた古びた小箱を、慎重にテーブルの上に置いた。

埃にまみれた箱はひんやりと冷たく、手に伝わる感触だけでも時間の重みを感じさせる。


「……ただいま」


小さな声で、思わず呟いた。周囲には誰もいない。

圭介は深呼吸をひとつして、箱の蓋に手をかける。

中身が何であれ、この瞬間、十年前の記憶の一部が確かに彼の目の前に戻ってきたのだった。


時刻:13:18/旧緑町・廃倉庫B-3内部


しかし、その瞬間――


「コツ……コツ……」


微かだが規則的な足音が、崩れた棚や埃に覆われた床を伝って響いた。

圭介は思わず手を止め、呼吸を整える。

「……誰だ?」と、声に出しかけるが、乾いた空気の中でかすかに震えるだけで言葉にならない。


足音は徐々に近づき、暗がりに影が差し込む。

薄明かりに浮かぶのは、玲だった。

その冷静な目と、静かに歩む姿は、まるで倉庫の空間そのものに溶け込んでいるかのようだった。


圭介は胸の奥で何かがざわつくのを感じながらも、無言で箱を置き、玲の到着を見守った。

「……遅くなったな」と、玲の声は低く、しかし確かな安堵の色を帯びて響いた。


玲が静かに足音を止め、圭介の方へ目を向ける。

「ったく、一人で何やってんだ」と、軽く呆れた声を漏らす。


圭介は肩をすくめ、わずかに笑みを浮かべる。

「いや……つい、気になってな」


倉庫の埃っぽい空気が二人の間でわずかに揺れ、静かな緊張感が残る。

玲は視線を箱に落とし、細かく息を吐きながら状況を把握しようとしていた。


次の瞬間――


静寂を切り裂くように、薄暗い倉庫の奥から「コツ……コツ……」と軽い足音が響いた。


玲は瞬時に体を低くし、目を細めて音の方向を探る。

圭介も箱から手を離し、耳を澄ませる。


影が倉庫の隅を横切る――人影か、それとも何かの残響か。

二人の視線が交わり、無言のまま緊張が走った。


圭介が信じられないように目を見開いた。


その影は、わずかに揺れる埃の中で形を取り、足音とともに確かに存在感を示していた。

「……玲、あれは――」

声にならない言葉を吐きながら、圭介は身を固くする。


玲は一歩前に出て、冷静に影を観察する。

「落ち着け。慌てるな……奴の動きはまだ読める。」

倉庫内の空気がさらに重く、時間がゆっくりと流れるように感じられた。


玲が腕を組み、低く言った。


「ここに何かある。匂いや気配だけじゃない――確かに、誰かが最近まで動いていた形跡がある。」


圭介は息を呑み、目の前の影を見つめたまま答えられなかった。

倉庫内の薄暗さが、二人の間に静かな緊張を張り巡らせている。


倉庫の床に散らばった埃を踏みしめる音が、二人の間に重く響く。


圭介はそっと箱に手をかけながら、口を開いた。

「……ここに、朱音は?」


玲は視線を上下に巡らせ、慎重に答える。

「まだ分からない。だけど、この場所が事件に関わっていることは確かだ。」


薄暗がりの中、二人の足音だけが“コツ……コツ……”と、古い建物に反響していた。

圭介は胸の奥で、幼い娘の無事を願いながら、玲の後ろに続いた。


【時刻:13:25/倉庫棟内】


玲はゆっくりと息を吐き、箱の蓋を閉じた。その手つきは、慎重さと覚悟に満ちている。

「圭介さん、この中身は直接触れずに調べる方が安全だ。」


圭介は小さくうなずきながらも、視線を箱に向けて離せない。

埃の匂いと古い木材の感触が、二人の間に張り詰めた静寂をさらに濃くする。


玲の足音がわずかに床に響き、倉庫の奥深くまで届いた。

「誰か――いや、何かがここにいた痕跡がある。」


圭介は息を飲み込み、箱の上に手を置いたまま玲を見つめる。

「……あの声は、やはり……」


玲は答えず、倉庫内に残る微かな足音や空気の揺れを注意深く探った。


玲は圭介の肩越しに箱を見下ろし、低く静かに問う。

「圭介さん……この箱の中身、覚えていることはあるか?」


圭介はぎこちなく首を振る。

「いや……でも、なんだか……見たことがあるような……そんな気もする」


玲は微かに眉をひそめ、倉庫の影を見渡した。

「気配は確かに残っている。声や足音……そして、ここに封じられた記憶も。」


圭介は小さく息を吐き、掌の感触に意識を集中させる。

「……分からない……でも、胸の奥がざわつく……何かが……」


玲は頷き、静かに箱の周囲を慎重に確認しながら言った。

「焦るな。全ては順序立てて確かめる。まずは安全を確認してからだ。」


圭介は喉を鳴らすように息を呑んだ。

箱の奥から、微かに冷たい空気とともに、見覚えのある匂いが漂ってくる。


玲はその様子を静かに見守り、低く声を落とす。

「感じているのは……過去の残響だ。恐れる必要はない。ただ、記憶はゆっくり戻していくものだ。」


圭介は指先で箱の縁に触れるが、体が小さく震える。

「……なんだ……この感覚……胸が締め付けられるようだ……」


玲は静かに息を吐き、落ち着いた声で促す。

「その感覚こそ、忘れられた記憶の扉だ。無理に開ける必要はない。順を追って確かめよう。」


圭介は深呼吸を一つして、少しずつ気持ちを落ち着けた。

その瞳には、恐怖と好奇心が交錯していた。


玲は静かにスマートフォンを取り出すと、即座にメッセージを打ち始めた。

「啓一、すぐにこちらに向かってくれ。重要な発見があった。」


画面を見つめる圭介の横顔を、玲は冷静に確認する。

「彼に来てもらえば、記憶の整理がより早く進むはずだ……」


圭介は小さくうなずき、箱から目を離さずに息を整える。

倉庫内の静寂に、スマートフォンの通知音がわずかに響く。

玲の目は冷静そのものだが、その背後には鋭い警戒心が隠れていた。


その時――


「リン――ン……」


微かな金属音が倉庫の奥から響き渡った。

圭介は思わず体を固くし、玲は素早く周囲を見渡す。

埃っぽい空気の中、足音のリズムとは違う、かすかな規則性が耳に残る。


玲が低くつぶやく。

「誰かいる……いや、何か……」


圭介の視線は、箱の中身と倉庫の暗がりを行き来し、緊張が体を包む。

金属音は、冷たい空気を震わせるように、再び「リン――ン……」と繰り返された。


【時刻:13:37/倉庫棟内】


控えめな足音と共に、倉庫棟の入口にひとりの男が現れた。


着流し姿で、肩に風呂敷包みを掛けた五十代半ばの痩身の男性。腰には繊細な刺繍が施された組紐帯を結び、首元には小さな数珠を下げている。手には木製の数珠玉が付いた杖を携え、その澄んだ眼差しは静けさの中にも深い洞察力を湛えていた。佇むだけで、周囲に不思議な存在感と伝統的な気配を漂わせる。


玲は短く声を発した。

「お待ちしていました。神垣惟道さん。東北で活動している霊媒師で、“対話を仲介する者”のスペシャリストです。」


圭介は慎重に視線を送る。

神垣は静かに頭を下げ、包みを地面に置くと杖を軽くつきながら歩を進めた。

「状況は承知しました。では、朱音さんの見た“家”と、そこに潜む何かと対話を始めましょう。」


朱音は小さく息を詰め、昌代も手を握り締める。

橘奈々もノートに手を置いたまま、緊張した空気を見守る。

倉庫棟の埃まみれの空間で、朱音の描いた暗い記憶と向き合う静かな儀式が、今、始まろうとしていた。


男は静かに一礼し、低く穏やかに囁いた。

「朱音さん……恐れることはありません。私たちは、あなたの見たものと話をするだけです。」


その声は柔らかくも芯があり、倉庫の冷たい空気の中でさえ、安心感を伴って朱音の心に届く。


玲がそっと朱音の肩に手を置く。

「大丈夫だ、朱音。霊媒師さんも、一緒だから。」


朱音は小さく頷き、目を閉じて深呼吸する。

神垣は杖を軽く地面につき、慎重に箱の蓋に手をかけた。

「さあ、見てみましょう。あなたが感じた“穴”の奥に、何が潜んでいるのか。」


倉庫棟内の静寂に、微かに埃が舞い上がる。

外の風の音さえ届かない空間で、朱音と霊媒師、そして家族たちの時間が、緊張と期待の間でゆっくりと流れ始めた。


玲は神垣惟道をじっと見つめ、小さく頷いた。

「忘れられた時間に、声を届けたいんだ……」


神垣は目を閉じ、ゆっくりと息を吐く。

「承知しました。朱音さん、目を閉じて、心の中でその声を思い浮かべてください。」


朱音は小さく頷き、手を胸に当てる。

昌代もそっと背中に手を添え、安心させるように微笑んだ。


倉庫棟の冷たい空気の中、静寂が深まり、かすかな光が埃の粒を浮かび上がらせる。

まるで時間そのものが止まったかのような空間で、忘れられた声が再び届く準備をしていた。


神垣は杖を床に軽くつき、ゆっくりと声を発した。

「過去の記憶よ、ここにいる者たちに語りかけよ――」


朱音の目が閉じられ、指先がわずかに震える。

昌代の手のひらにも微かな熱が伝わり、胸の奥がじんわりと温かくなる。


すると、倉庫内の空気が微かに震え、かすかな足音や囁き声の残響が重なる。

朱音の額に浮かんだ汗を、昌代はそっと拭った。


「聞こえる?」玲の声は低く、しかし確かな強さを帯びていた。


朱音は小さな声で答える。

「……うん……お母さんの声、他の人の声……」


神垣は微笑みながら頷き、杖を静かに握り直す。

「この声たちは、過去に封じられた記憶の残滓です。彼女たちを導き、あなたたちの手に真実を委ねます。」


玲は深く息を吸い、目の前の光景を見据えた。

忘れられた時間と声が、今、再び繋がろうとしている。


朱音が小さく手を伸ばすと、空気の中でかすかな振動が指先に伝わった。

神垣は杖を軽く振り、倉庫の奥から微かな囁きを呼び寄せる。


「お母さん……?」朱音の声に、微かに震えが混じる。


「沙耶さんの声です。朱音ちゃん、心を澄ませて」神垣は静かに促す。

昌代がそっと朱音の肩に手を置き、優しく頷く。


倉庫内の暗がりで、もう一つの影がゆっくりと動いた。

玲の目はその存在を捉える。

「影……もう一人いる」


神垣は杖を置き、深呼吸して目を閉じる。

「この影は恐怖ではなく、導きのための存在です。朱音ちゃん、声を頼りにその形を見つけて」


朱音は息を整え、小さく頷いた。

「うん……お母さんと、もうひとり……わかる……」


倉庫の中、埃舞う光景の中で、封じられた記憶の声と影が交錯し、次の瞬間――朱音の指先が小さく光を掴むかのように揺れた。

玲は静かに息を吐き、チームに目配せした。

「追跡を開始。朱音の声が示す方向へ」


影班の三人は身を低くし、音もなく倉庫内を進む。

朱音の小さな導きが、失われた時間と影を結ぶ道標となる。


【時刻:14:02/倉庫棟内】


神垣惟道はゆっくりと箱に手を伸ばす。指先が触れると、かすかな振動とともに空気が微妙にざわめいた。

「忘れられた時間の声……ここに封じられている」神垣は低く囁く。


昌代がそっと朱音を抱き寄せ、背中を撫でる。

「大丈夫、怖くないわよ」


玲は箱の上に手を置き、目を閉じる。

サイコメトリーの感覚が、箱の中に閉ざされた過去の記憶を探り始める。


微かな子供の足音、囁き、そして扉の軋む音――

神垣の指先を通して、箱の中で眠る「声」が静かに蘇る。


朱音が小さく息を呑み、神垣に向かって囁く。

「この声……お母さん?」


神垣は頷き、箱の上で手をゆっくりと円を描く。

「そうだ、朱音ちゃん。沙耶さんの声がここにある。恐れずに耳を澄ませてごらん」


倉庫内の薄暗い光が、封印された記憶の輪郭をぼんやりと照らし出す。

玲は静かに箱を開ける決意を固め、影班に視線を送りながら言った。

「朱音、導かれるままに動いて」


その瞬間、箱の中から微かな温もりと、遠い記憶の音が立ち上がる。


室内の空気がわずかに重く、ひんやりと変わる。神垣惟道の指先から伝わる微細な振動が、箱の中の時間と空間を揺らしていた。


「名前……何か、短い音。繰り返し響いている」神垣は静かに、しかし確信を帯びた声で言った。


朱音の小さな手が箱の縁に触れる。目を細め、耳を澄ます。

「……お母さんの声?」


神垣は頷き、杖を軽く床に置く。

「そうだ、朱音ちゃん。沙耶さんの声、そしてもう一つの影の声もここに残っている。混じり合いながら、時を待っていた」


玲は深く息を吐き、影班のメンバーに目配せする。

「気をつけろ。これはただの記録じゃない。動き始める記憶だ」


倉庫内の暗がりで、声が少しずつ形を帯び、微かな光とともに部屋全体に広がり始める。


【時刻:14:08/倉庫棟内】


神垣は静かに息を整え、目を閉じた。空気が一層重く、静寂の中に微細な振動が漂う。


しばらくして、低く囁くように声を漏らす。

「……“ユウ”。」


玲は息を呑み、箱の中に意識を集中させる。

影班の成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴も無言で神垣の周囲を囲み、微かな気配を探る。


神垣の指先がわずかに震える。

「この声は、封じられた記憶の名。誰かを呼び、誰かに呼ばれている」


朱音の目が細まり、小さな声でつぶやく。

「ユウ……?」


玲はそっと箱の蓋に手を添え、覚悟を決めたように言った。

「聞き分けるんだ、朱音。君が導くんだ」


倉庫内の薄暗がりで、二つの影がじわりと浮かび上がるかのように見え隠れし、時間が静かに軸をずらしていく。


圭介が瞬時に視線を上げた。

「ユウ……」


神垣惟道は目を閉じたまま、指先で箱の縁をそっと撫でる。

「この子の声……封じられた記憶の中に潜む“ユウ”。呼ばれているのは確かだ」


朱音は小さく息を飲み、指先で箱の角に触れる。

「ユウ……会いたいの?」


玲は低く頷き、影班に指示を送る。

「慎重に。ユウの所在を特定する。追跡は朱音の導きに従え」


倉庫内の空気がさらに張り詰め、古い木材の軋む音や埃の匂いさえ、二人の“影”の存在を知らせるかのように感じられた。


圭介の胸中に、十年前の記憶の影がさざめく。

「…ユウ、あの子か……」


朱音は小さな手で箱を握り、心の中で声を辿ろうとする。

静寂の中、時が止まったかのような倉庫に、二つの“影”が静かに近づきつつあった。


【時刻:14:12/倉庫棟内】


橘奈々が素早く端末を開き、指先を滑らせながら画面を操作する。

「まずは最新の行方不明者リストと、倉庫周辺の通報履歴をクロスチェックします」


ディスプレイには膨大なデータが次々と表示され、地図上には赤いピンが点在する。

奈々の目はスクロールしながらも一点に集中し、マウスの動きは正確無比。


「このエリア、過去三日間で異常な目撃情報が三件…うち二件は未報告。移動手段が特定できません」


隣で玲が腕を組み、朱音の反応を観察する。

「朱音の直感を信じろ。端末のデータはあくまで補助だ」


奈々はキーボードを叩き、瞬時に警察データベースと照合する。

「確認できました。行方不明者リストに“ユウ”に類する名前はありません。ただ、仮名登録されている可能性があります。次に匿名通報や近隣防犯カメラの動きを解析します」


周囲の空気は緊張で張り詰め、埃の匂いと古い木材の軋む音が響く中、奈々の指先は止まることなく動き続ける。


「映像解析の結果、黒いワゴン車が倉庫付近を周回していた記録を確認。時間帯は昨日の午後三時から六時まで。車両のナンバーは部分的に判読不能ですが、移動パターンが不自然です」


玲が低く呟く。

「やはり……計画的に動かしている。ユウの所在はまだ明確ではないが、追跡可能だ」


奈々はさらにマップ上にピンを打ち、時系列データを重ねていく。

「これで、倉庫から出た“影”の移動ルートが予測できます。朱音ちゃん、そちらの感覚と照合して下さい」


朱音は小さく頷き、箱の中の小さな声に耳を傾ける。

「ユウ……ここにいる気がする……」


奈々の画面には、微かな時間差で動く赤い点が示され、倉庫の外周を縫うように進む軌跡が浮かび上がった。


「これで、ユウの現在位置と移動ルートがほぼ特定できました。影班は準備を開始してください」


倉庫内の緊張は最高潮に達し、神垣惟道は静かに目を閉じ、空気の波動を読み取る。

「記憶に呼ばれた声が、もうすぐ導いてくれるだろう……」


奈々は端末を閉じ、玲に軽く頷いた。

「準備完了です。次の行動は影班の指示で」


静まり返った倉庫に、わずかな足音と埃の匂いだけが残り、これから始まる追跡劇の幕開けを告げていた。


【時刻:14:30/倉庫棟内】


橘奈々が端末の画面を切り替え、古いPDFファイルを開く。

タイトルははっきりと目に入った。


「2015年 川辺地区 行方不明事件報告書」

サブタイトルには小さな文字で 「ユウタ・カワサキ(当時5歳)」 と記されている。


奈々は画面をスクロールしながら読み上げる。


「事件発生日時は2015年11月27日午後2時頃。川辺地区自宅前にて失踪。目撃証言によると、ユウタくんは母親と一緒に庭先で遊んでいたが、数分後には姿が消えていた」


圭介は肩越しに覗き込み、眉をひそめる。

「数分で消えた……?」


奈々は淡々と説明を続ける。

「周辺の防犯カメラ映像は、当時は解像度が低く、車両や人物の判別は困難。警察は通報を受け、周辺の聞き込みを行いましたが、有力な手がかりは得られず」


玲は静かに視線を巡らせる。

「場所は倉庫棟から半径500メートル圏内……か。やはり、あの倉庫と無関係ではない可能性が高い」


奈々はスクロールを進める。

「報告書には、ユウタくんの家族構成も記録されています。母、父、当時は祖母と同居。近隣住民の証言によると、ユウタくんは好奇心旺盛で、危険な場所に入り込むことがあったとのことです」


神垣惟道が静かに箱へ手を置き、低くつぶやく。

「記憶の欠片が、この場所に導いた……」


朱音は小さく手を伸ばし、箱を指差す。

「ユウ……あそこにいる」


奈々は端末を閉じ、玲に視線を送る。

「これで、2015年の事件と現在の手がかりが繋がりました。次の行動は影班の追跡で確定です」


倉庫内に緊張が走り、時が止まったかのような静寂の中、朱音の小さな声だけが確かに響いていた。


【時刻:14:42/倉庫棟内】


玲は腕を組み、じっと朱音の描いたノートと神垣が手を添えた箱を見つめながら、低く静かに言った。

「家族に確認を取ろう。」


橘奈々は端末を操作し、携帯番号を入力して送信ボタンを押す。

わずか数秒後、呼び出し音の後に応答が返った。


「はい、川崎です……」


奈々の声が落ち着きながらも少し緊張を含む。

「川崎さん、こちらは玲探偵事務所の奈々です。2015年に行方不明となったユウタくんについて、今こちらで情報を得ました。ご本人様とお話できますか?」


受話器越しに父親の川崎さんの声が震える。

「ユウタ……? 本当に……今、どこに……?」


玲は横で静かに頷き、神垣惟道も黙って箱の方へ視線を落とす。

「落ち着いてください。こちらで確認したところ、無事です。これからお会いできます」


朱音は小さく口を開く。

「ユウ……よかったね」


奈々は端末を手元で固定し、冷静に次の指示を待つ。

「今から、影班を現場へ向かわせます。家族との再会まで、安全を確保します」


倉庫棟内の空気は、一瞬の緊張の後、希望の光に染まり始めた。


【時刻:14:50/倉庫棟内】


ユウタは小さく首をすくめ、まだ警戒心を隠せない様子で立っていた。

その目には、長い時間閉ざされていた不安と孤独がうかがえる。


玲はゆっくりと歩み寄り、静かに声をかけた。

「ユウタ……怖くない。君はもう安全だ」


ユウタは小さな声で答える。

「……10年も経った僕のこと、覚えていてくれますか?」


玲は微かに笑みを浮かべ、肩越しに倉庫の奥を見つめながら言った。

「もちろん覚えている。君のことは、ずっと探していた」


ユウタの瞳が少しずつ柔らかくなる。

「……じゃあ、母は……」


玲は頷き、手を差し伸べた。

「母さんもすぐに会える。怖がらなくていい。今は、ここから家族の元へ帰ろう」


ユウタはしばらく黙ったまま玲を見つめ、やがて小さく頷いた。

その瞬間、倉庫棟の空気はほんのわずかに温かさを帯び、長く閉ざされていた時間の壁がゆっくりと崩れ始めた。


【時刻:15:05/倉庫棟内】


電話の受話器を握る玲の耳に、微かに女性の声が届く。

「……ユウタ……? 本当に……あなた……なの?」


ユウタは震える声で答える。

「うん……僕、ユウタ……」


玲は静かに頷き、受話器をユウタに手渡した。

「直接話してみなさい。声を聞けば、わかるはずだ」


ユウタは少し戸惑いながらも受話器を握る。

「……母さん……僕だよ……ユウタだよ……」


電話の向こうで、女性はしばらく言葉を失い、やがて嗚咽交じりに答える。

「ユウタ……ずっと探していたのよ……よく帰ってきてくれた……」


ユウタの目が潤む。

玲はそっと背中を支え、倉庫棟内の冷たい空気の中で、長く断絶していた親子の時間がゆっくりと再び流れ始めるのを感じていた。


橘奈々は端末を手に、慎重に言葉を選びながら玲に報告する。

「玲さん……リストと照合しました。ユウタ・カワサキ……間違いありません。行方不明になった当時、まだ5歳でした」


玲は眉をひそめ、静かに頷く。

「なるほど……ずっと記録から消えていたわけか」


奈々は続ける。

「今回、神垣さんの介入で記憶の痕跡が呼び覚まされました。ユウタ本人がここにいる可能性が高いです」


玲が指先で資料を軽く叩きながら言った。

「ならば、慎重に接触する。焦れば逃げられる。今は声だけで確かめる段階だ」


倉庫棟の冷たい空気の中、奈々の目には解析結果の数字と照合記録が光り、緊張感が張り詰める。

一歩間違えれば、ユウタの存在はまた闇に紛れてしまう――それを全員が理解していた。


【時刻:15:12/倉庫棟内】


沈黙。


空気が張り詰め、倉庫棟内の埃っぽい匂いと冷気だけが支配する。

玲は腕を組んだまま静かにユウタの存在を感じ取り、神垣惟道もじっと箱を見つめている。

橘奈々は端末を手元に置き、画面の光だけが微かに彼女の顔を照らす。


誰も言葉を発さず、ただ静かに呼吸の音だけが響く。

その沈黙の中で、ユウタの存在が、まるで呼吸をするかのように静かに倉庫棟に溶け込んでいた。


【時刻:15:13/倉庫棟内】


室内の空気が静まり返る。木箱の周囲に漂っていた埃の粒子さえ、まるで息を潜めたかのように微動だにしない。圭介は片手をポケットに入れ、唇をかみしめながら沈黙を守る。玲は腕を組み、眉間にわずかな皺を寄せ、静かにユウタの存在を探ろうとしていた。


神垣惟道がゆっくりと目を閉じ、低く囁く。

「声を、忘れられた時の彼に届ける……」


その声は倉庫内の壁に柔らかく反響し、埃っぽい空気をかすかに揺らす。神垣の手はそっと箱の上に置かれ、指先が木目をなぞるように動く。


橘奈々が端末を手に握りしめ、息をひそめる。

「行方不明者リストと照合……準備は整いました。ですが……慎重に。」


玲は静かに頷き、低く言った。

「声に応える者がいるか、まずは確認だ。焦らず、ゆっくり。」


再び倉庫に沈黙が広がる。紙の束や箱が積まれた古い棚の影が長く伸び、わずかな風もなく、ただ時間だけが緩やかに流れる。


神垣が息を整え、さらに低く呟く。

「聞こえるか……ユウタ。ここにいるぞ、もう怖がるな。」


圭介の胸は高鳴り、指先が自然と箱の縁に触れる。

玲がそっと声をかける。

「ユウタ、私の声が届いているか?」


倉庫の闇が微かに揺れ、木箱の奥から小さな息遣いのような音が、かすかに反応しているのが感じられた。橘奈々が目を細め、端末の画面を確認しながら呟いた。

「……生きている、間違いない。反応があります。」


その瞬間、圧倒的な静寂の中に、かすかな希望が差し込むような感覚が皆の胸に広がった。時間は止まったようで、しかし確かに動いている。ユウタの存在が、忘れ去られた時の影の中からゆっくりと姿を現しつつあった。


【時刻:15:27/川崎家・玄関】


玲は軽く頭を下げ、穏やかな声で告げる。

「川崎ユウタくんのことについて、お話を伺いたくて参りました。」


年配の女性は一瞬眉をひそめ、戸惑いの色を見せたが、すぐに小さく頷く。

「ユウタ……ですか……。まあ、どうぞ、中へ。」


圭介はゆっくりと一歩前に出て、声を落として言った。

「お母さんに、僕のことを覚えてもらえるか……確認させてほしいんです。」


橘奈々は手元の端末を握りしめ、必要以上に口を挟まず、静かに場の空気を保つ。


玄関先の薄暗がりで、女性は少し視線を逸らしながらも、震える声で答えた。

「……ええ、もちろん覚えています。ユウタ……あなたですよね……?」


玲は優しく頷き、低く続ける。

「はい。長い時間が経ちましたが、無事に見つけることができました。」


静かな玄関に、短い沈黙の後、微かな安堵の息が漏れ、時折小鳥の声が庭先から差し込む。

圭介の目には、長く抱えていた不安が少しずつ溶けていく光景が映っていた。


【時刻:15:28/川崎家・玄関】


彼女の目元には、わずかに疲労の影がにじんでいた。

長年抱え続けた心配や不安が、微細な皺となって刻まれている。


玲はその様子を見逃さず、静かに言葉を添える。

「長い時間、不安な日々を過ごされたことでしょう。でも、もう大丈夫です。」


圭介も深く息をつき、肩の力をゆるめた。

「ユウタ、よく頑張ったね……無事に会えて、本当に良かった。」


橘奈々は端末をそっと閉じ、二人の会話に割り込まず、見守るように静かに立っている。

玄関先に差し込む柔らかな午後の光が、微かに三人の顔を温め、緊張の糸をほどくように室内を包んでいた。


【時刻:15:30/川崎家・居間】


小さな男の子、ユウタの顔に笑みが戻った。

緊張の影はもうなく、瞳には好奇心と安心が宿る。

その笑顔は、長い年月に刻まれた不安を一瞬で溶かすかのようだった。


玲は軽く微笑み、低く声をかける。

「ユウタ、もう怖くないよ。ここが君の居場所だ。」


圭介も肩の力を抜き、優しく手を差し伸べる。

「よく頑張ったね。これからは、安心して毎日を過ごせる。」


橘奈々は書類を片付けながらも、男の子の笑顔に心を和ませる。

窓の外から差し込む柔らかな午後の光が、居間をあたたかく包み込み、まるで新しい日常の始まりを祝福するかのようだった。


ユウタの笑い声が、ひかり園の思い出をそっと呼び覚ます。


【時刻:15:35/川崎家・居間】


ユウタの声はかすかに震え、語り始める。

「……あの日、急な雨で園の裏手がぬかるんで。予定してた園庭イベントを急遽、屋内と倉庫側に振り分けたと聞いています。でも、職員が足りてなかった。引率の確認も不十分で……」


玲が静かに問いかける。

「ユウタ、そのとき、君はどこにいたんだ?」


ユウタは少し間を置き、低く答えた。

「僕……倉庫の隅に隠れてたんです。誰も僕を見てくれなくて……怖かった……」


圭介が息を詰め、声を震わせながら言う。

「誰も…助けてくれなかったのか?」


ユウタは小さく首を振る。

「うん……でも……その後、声が聞こえて……誰かが僕を見つけてくれたんです。」


橘奈々が端末を操作しながら静かに確認する。

「その声……記録として残ってますか、ユウタ?」


ユウタは少し笑みを浮かべ、目を潤ませながら答えた。

「うん……お母さんの声でした……でも、ほんとのお母さんじゃない人も……混ざってた。」


玲が小さく息を吐き、腕を組んで視線を落とす。

「よく話してくれたな、ユウタ。君の記憶を信じるよ。」


圭介が肩を落としながらも、そっと言った。

「ありがとう、ユウ……君が無事で本当によかった。」


室内の静けさの中、ユウタの言葉がゆっくりと部屋の空気を満たしていった。


【時刻:15:42/川崎家・居間】


圭介は小さく頷きながら、深く息をついた。

「転落……つまり、倉庫の中で何かに躓いたり、段差で落ちたりした可能性もあるんだな。」


玲が静かにうなずき、視線をユウタに向ける。

「そうかもしれない。自力で抜け出したんだろう。恐怖の中で必死にね。」


ユウタは小さく肩をすくめ、声を震わせながら答える。

「うん……怖かったけど、なんとか出られた……でも、誰かの声が聞こえたから、怖くても歩けたんです。」


橘奈々が端末を操作し、倉庫の構造図と映像記録を重ね合わせながら説明する。

「倉庫内部は複雑で、通路や棚の配置で死角が多い。自力で脱出したのなら、ユウタ君の記憶通り、狭い隙間を通った可能性が高いです。」


圭介は拳を軽く握り、穏やかながらも緊張の残る声で言った。

「よく頑張ったな……ユウタ。本当に、無事で良かった。」


ユウタは小さな笑みを浮かべ、目を伏せながら頷いた。

室内には、安堵と静かな余韻が広がった。


【時刻:15:45/川崎家・居間】


ユウタは写真立ての縁をぎゅっと握りしめ、指先に力を込めた。

「ぼく……自分から出たんだ。園の中には、もういなかったんです。」


玲がそっと近づき、低く問いかける。

「一人で……よく怖くなかったか?」


ユウタは小さく首を振り、震える声で答える。

「怖かったけど……でも、あの声が……お母さんの声が聞こえたから、歩けたんです。」


圭介は深く息をつき、目を細める。

「そうか……声があったから、前に進めたんだな。」


橘奈々が端末を手に、倉庫内の経路図とユウタの証言を重ね合わせる。

「記録と照合すると、ユウタ君の通ったルートは最短距離。しかも棚の死角をうまく避けている。自力での脱出は十分に可能ですね。」


室内には緊張の残る静けさが漂う中、ユウタの小さな決意と勇気が、皆の胸にじんわりと伝わった。


【時刻:15:50/川崎家・居間】


玲は椅子に腰かけたまま、ユウタの言葉に耳を澄ませる。

「君は……あの時、どうやって消えてしまったんだ?」


ユウタは視線を床に落とし、つぶやくように答えた。

「みんなが探してる間、ぼくは……自然に消えちゃったみたいに思ったんです。気づいたら、誰もいなくて……」


玲は静かに頷き、声を荒げずに問いかける。

「自然消失……怖かったな?」


ユウタは小さくうなずき、肩を震わせた。

「怖かった。でも……お母さんの声があったから、ぼく、歩けたんです。暗くても、ひとりじゃなかった。」


圭介は深く息をつき、拳を軽く握りしめる。

「そうか……無事でよかった。声があったから、生き延びられたんだな。」


室内には静寂が漂い、ユウタの小さな体から放たれる強い意志が、皆の胸にしっかりと刻まれた。


【時刻:15:55/川崎家・居間】


女性はうつむいたまま、かすかに頷いた。

「はい……あの日、保育中に不幸な事故がありました。園庭の裏手で、子どもたちを全員見て回るには人数が足りず、目を離してしまった瞬間に……」


玲は静かに頷き、言葉を選ぶように問いかけた。

「事故の詳細を教えていただけますか? どのようにして……」


女性は深く息をつき、震える声で続けた。

「園の倉庫棟に入った子どもが一人、足を滑らせて……幸い怪我は大事には至らなかったのですが、その混乱の中で、行方が分からなくなってしまったのです。」


圭介は額に手を当て、静かに息を吐いた。

「なるほど……事故だったのか。でも、無事だったとは……」


橘奈々は手元の資料に目を落としながら、小声で確認する。

「つまり、あの時の混乱が、ユウタくんの“消えた”理由だったんですね……」


室内には静かで重い空気が流れ、事故の真相が徐々に言葉として紡がれていった。


【時刻:15:57/川崎家・居間】


玲は低く、重々しく言葉を紡いだ。

「つまり……彼がそこにいた痕跡は残っていたが、事故の混乱で消えてしまった。棚の下敷きになった瞬間、誰も気づけなかった……」


圭介はぎゅっと拳を握り、息を呑む。

「そうか……それで、あの倉庫に……」


女性は小さく頷き、視線を床に落とした。

「はい……本当に申し訳ありません。あの日、十分に見守れなかった私たちの不手際です……」


玲は腕を組み、静かに周囲を見渡した。

「事故だった。けれど、生きていた。記録には残らなかったけれど……確かに存在していた。」


空気が沈み込む中、誰もがその事実の重みを感じていた。


【時刻:15:58/川崎家・居間】


典子の手が震え、写真立ての中の写真がかすかに揺れた。

「……こんなことになるなんて……」


玲はその手元を見つめながら、静かに言葉を添える。

「でも、確かに彼は無事だった。記録に残らなくても、存在は消えなかったのです。」


圭介は肩を落とし、ゆっくりと息を吐く。

「長い間、心配して……でも、やっと……」


典子は涙をぬぐい、視線を朱音の姿に向けた。

「本当に……ありがとうございます……」


室内に静かな安堵が広がり、過去の影が少しずつ溶けていくようだった。


【時刻:16:05/川崎家・居間】


玲はゆっくりと立ち上がり、深く一礼した。

「典子さん、長い間不安な日々を過ごされたことと思います。しかし、ユウタくんは確かに存在していました。過去の記録に残らなくても、消えたわけではありません。」


典子は小さく頷き、手元の写真をしっかり握る。

玲は続ける。

「今後は、日々の変化や些細な異変にも敏感でいてください。彼が安心して成長できる環境を整えることが、最も大切です。」


圭介も隣で頷き、静かに補足する。

「これからは焦らず、家族と共に歩む時間を大切にしてください。」


典子の目に、初めて長く留まる安堵の光が宿った。

室内の空気は、過去の影を静かに払いのけ、新たな日常の温かさに包まれていた。


【時刻:16:10/川崎家・居間】


典子の頬を、一筋の涙が伝った。

「……あの日から、ずっと……忘れたことはなかったのに……」


玲は静かに頷き、柔らかく言葉をかける。

「その気持ちを無駄にせず、これからの彼の人生を支えてください。」


典子は深呼吸をひとつして、決意を固めるように目を閉じ、再び開いた。

「ええ……これからは、しっかり向き合って、守り抜きます。」


圭介も静かに微笑む。

「一緒に歩んでいけば、きっと大丈夫です。」


部屋には、過去の不安を超えた温かい光が満ち、これからの日々に向けた力強い意志が静かに芽吹いていた。


【時刻:16:15/川崎家・居間】


圭介はゆっくりとポケットから小さな箱を取り出し、掌の上で軽く転がすように見つめた。

「ユウタ、これを君に渡してほしい」と、穏やかな声で言う。


箱を差し出されたユウタは、戸惑いと好奇心が入り混じった表情で見つめる。

「これ…僕にですか?」


圭介は微笑みながら頷く。

「うん、君に返すべきものだから。大事にしてくれ。」


ユウタは慎重に手を伸ばし、箱を受け取る。その手の感触に、圧迫されていた時間の重みが少しずつ溶けていくようだった。


玲は静かに見守り、神垣惟道も微かに頷く。

「これで、忘れ去られた記憶に光を届けられる。」


部屋には、過去と現在が交差する静かな安堵の空気が漂い、未来への小さな一歩が確かに刻まれた瞬間だった。


【時刻:16:18/川崎家・居間】


玲はゆっくりと深く息を吐き、静かに短く言った。

「これで、一区切りだ。」


圭介は肩の力を抜き、ユウタを見守る。

ユウタはまだ箱を手に抱え、じっと見つめながらも、少しだけ微笑んだ。


橘奈々はノート端末を閉じ、淡い安堵を胸に感じる。

神垣惟道は静かに箱に視線を落とし、囁くように言う。

「忘れられた時間に、ようやく声が届いたな。」


部屋には柔らかな静寂が満ち、外の光が温かく差し込む。

過去の影は消えずとも、その先に家族の時間が確かに存在することを示していた。


【時刻:16:20/川崎家・居間】


橘奈々は端末を手に持ち、画面をじっと見つめながら慎重に付け加えた。

「事故当時、園の職員は総勢12名。だが、その後の異動や退職で、現在の所在が判明しているのは5名だけです。」


玲は軽く頷き、沈黙の中で思考を巡らせる。

圭介はユウタの手元の小箱をそっと見守り、微かに安堵の息を吐く。


神垣惟道は端末の表示には目もくれず、静かに呟いた。

「残りの者たちの声も、いつか届くだろう。」


部屋の空気は穏やかさと、まだほんの少しの緊張感を混ぜながら、午後の光に包まれていた。


【時刻:16:21/川崎家・居間】


玲は腕を組み、わずかに眉を寄せながら答えた。

「なるほど……つまり、事故の全容を把握するには、現存している職員の証言をひとつひとつ拾い上げるしかないということだな。」


橘奈々は頷き、端末の画面を指でなぞりながら補足する。

「はい。過去の記録や防犯カメラの解析と照合すれば、見落としていた痕跡も浮かび上がる可能性があります。」


圭介はユウタの手元の小箱を握りしめ、静かに息を整える。

神垣惟道は穏やかに立ち、言葉少なに二人を見守っていた。


部屋の中は、静けさの中に緊張感と希望が混ざり合い、午後の光が柔らかく差し込んでいた。


【時刻:16:45/ロッジ・業務スペース】


控えめな足音と共に、40代半ばの男性が室内へ入ってきた。

端正なスーツに身を包み、落ち着いた立ち居振る舞い。手には小型のタブレットと資料ファイルを携えていた。


玲は短く頭を下げ、周囲に紹介する。

「こちらは杉本剛すぎもと・ごう。過去の証言収集を専門とする“記憶復元調査員”です。」


杉本は軽く会釈を返し、柔らかな声で言った。

「皆さま、お世話になります。できる限り正確な記憶を引き出すために、慎重に作業を進めたいと思います。」


橘奈々が端末を操作しながら補足する。

「過去の証言や記録と照合し、事件当時の状況を復元していく予定です。無理に思い出させるのではなく、自然に引き出すのが杉本さんの手法です。」


玲は腕を組み、窓の外の光を眺めつつ静かに言った。

「ユウタや当時の関係者の記憶が、事件の真相に少しずつ光を当ててくれるだろう。」


室内には緊張感が漂いながらも、希望の気配が確かに混じっていた。


【時刻:16:47/ロッジ・業務スペース】


杉本剛が静かに会釈を返す。

「眠った証言を無理なく呼び覚ますことが、私の役目です。」


圭介がわずかに眉を寄せる。

「眠った……というのは、消されたわけじゃなくて、ただ忘れてしまっただけですか?」


杉本は穏やかに頷く。

「はい。記憶は感情や状況によって封じられることがあります。特に子どもや強い衝撃を受けた場合、脳は安全策として一部を“眠らせる”のです。」


玲が腕を組み、低く言った。

「その眠った証言を引き出すことで、過去の曖昧さや矛盾を解消できる。」


橘奈々が端末を操作しつつ補足する。

「記録や映像と照合すれば、事件の時間軸や行動経路を再現できます。杉本さんの手法は慎重で、心理的負荷も最小限です。」


室内は静まり返り、誰もが杉本の言葉に耳を傾ける。

眠っていた記憶が、やがて真実の光を映し出す予感を帯びていた。


【時刻:16:50/ロッジ・業務スペース】


杉本剛は静かに息を吐き、目を細めながら穏やかに答えた。

「私が行うのは、間接証言をもとに、本人の記憶を正確に再現する技術的手段です。映像や音声だけでは確認できない心の動きや視界、感覚の細部まで呼び覚ますことができます。」


圭介が眉をひそめる。

「それって……心理操作のようなことですか?」


杉本は首を横に振る。

「いいえ。決して操作はしません。記憶の扉を静かに開けるだけです。本人の意思を尊重しながら、眠った情報を引き出すための“仲介”に過ぎません。」


玲は腕を組み、低く言った。

「なるほど。過去の断片を再現し、矛盾を整理する。これがあれば、失われた真実に近づける。」


橘奈々が端末を操作しながら補足する。

「映像や証言と組み合わせれば、事件の再現と検証が可能です。杉本さんの手法は心理的負荷を最小限に抑えつつ、精度の高い情報を引き出せます。」


室内には静謐な緊張感が漂う。

眠った記憶が、やがて事件の真実を明らかにする光となる予感が、誰の胸にも広がっていた。


【時刻:16:55/ロッジ・業務スペース】


玲は腕を組み、低く短く言った。

「当時の職員の中に、微かな記憶を保持している人がいれば……事故の瞬間を、正確に再現できるかもしれない。」


圭介が静かに頷く。

「なるほど……つまり、眠った証言を呼び覚ますことで、真相に近づけるということか。」


杉本剛は目を細め、穏やかに答えた。

「はい。その記憶が微細であっても、慎重に誘導すれば正確な映像や感覚として蘇らせることができます。本人の意思を尊重しつつ、事故の瞬間を再現することが可能です。」


橘奈々が端末を操作しながら言葉を重ねる。

「過去の記録と突き合わせることで、矛盾や抜け落ちも整理できます。これがあれば、事故か、それとも別の可能性か、見極める手助けになるでしょう。」


室内には静かな緊張が漂う。

誰もが、記憶の奥底に眠る“真実の断片”が、事件の全貌を映し出す日が来ることを予感していた。


【時刻:16:57/ロッジ・業務スペース】


橘奈々が端末を操作しながら、慎重に口を開いた。

「事故当時の職員たちですが、一部に原因不明の記憶障害が見られます。過去の出来事の一部が断片化しており、本人たちも正確に思い出せない状況です。」


玲は腕を組んだまま、静かに頷く。

「なるほど……記憶の抜けがあるため、直接の証言だけでは全貌が掴めないと。」


杉本剛が穏やかに言葉を継ぐ。

「だからこそ、私の方法で眠った記憶を誘導し、微細な断片を慎重に繋ぎ合わせる必要があります。本人の意思に沿いながら、事故の瞬間を映像のように再現することが可能です。」


圭介が眉をひそめ、静かに言った。

「つまり、断片化した記憶を呼び覚まし、失われた部分を補う……それで真相に迫れると。」


室内には、緊張と期待が入り混じった沈黙が広がった。

事故の瞬間を呼び覚ます“眠った記憶”が、やがて答えを示すことを、皆が知っていた。


【時刻:16:59/ロッジ・業務スペース】


玲は腕を組み、静かに視線を室内の全員に巡らせた。

「断片化した記憶も、慎重に紐解けば真実の一端が見えてくるはずだ。」


杉本剛が微かに頷き、手元の機材を整える。

「被験者の心理的負担を最小限に抑えつつ、事故の瞬間を再現していきます。」


橘奈々も端末に視線を落としながら、淡々と付け加える。

「記録されている証言や資料との突合で、矛盾点も確認可能です。慎重に作業すれば、全貌が浮かび上がるでしょう。」


圭介は深く息をつき、静かに言った。

「娘が無事でよかった……でも、これでようやく真実に向き合えるんだな。」


室内には緊張と決意が漂い、静かながらも確かな覚悟が満ちていた。

事故の断片を繋ぎ、失われた真相を呼び覚ます――その作業は、今まさに始まろうとしていた。


【時刻:17:35/ロッジ・業務スペース】


川崎家を後にした玲たちは、園の当時の職員リストを広げ、再確認を行っていた。

橘奈々が端末を操作しながら指を走らせる。

「橋爪美加……当時の保育士です。現在は定年退職されていますが、記憶の保持は可能かもしれません。」


玲は静かに頷き、リストに目を落とした。

「事故当日の状況を知る人物は限られている。橋爪さんに接触できれば、微かな記憶の糸口が見えるはずだ。」


杉本剛は書類を整理しながら補足する。

「本人の記憶を呼び覚ます際には、当時の環境や物品、音声などの“トリガー”が重要です。過去の記録を元に慎重に進めます。」


圭介も肩越しに覗き込み、静かに言葉を重ねた。

「娘のためにも、一つずつ確実に。曖昧な記憶で無理に突き進む必要はない。」


室内には、緊張と冷静な決意が混ざり合う空気が漂った。

朱音の安全を守りつつ、失われた真実を取り戻す作業――それはまだ始まったばかりだった。


【時刻:17:40/ロッジ・業務スペース】


昌代がゆっくりと顔を上げ、深く息を吐いた。

「……でも、玲さん、もし橋爪さんが当時のことを覚えていなかったら……どうします?」


玲は腕を組んだまま、落ち着いた声で答える。

「可能性が低くても、試す価値はある。微かな記憶でも、糸口になり得るからだ。」


昌代は静かに頷き、机の上に置かれた朱音のスケッチブックに視線を落とす。

「私たちが守らなければならないのは、真実だけじゃない……朱音の記憶や感覚も、ね。」


杉本剛が穏やかに口を開く。

「記憶は壊れやすいが、慎重に導けば目覚めることもある。焦らず、少しずつ。」


室内の空気が、静かな決意と温かい家族の思いに満たされる。

朱音の安全と、失われた真実を取り戻す作業――その両方を胸に、調査は次の段階へ進もうとしていた。


【時刻:17:55/ロッジ・業務スペース】


橘奈々が端末から目を離し、静かに神垣惟道に問いかけた。

「……もし、何か危険な兆候があったら、どうすればいいのでしょうか?」


神垣はしばらく視線を下に落とし、深く息を吐いた後、小さく頷く。

「……逃げるんです。危険が迫った時、まず身を守ることが最優先。記憶や真実は後からでも取り戻せます。」


その言葉に、橘奈々は一瞬息をのみ、周囲を見渡した。

圭介も昌代も、慎重に頷き、朱音の安全を第一に考える覚悟を再確認する。


室内の空気は、一瞬張り詰めた緊張で満たされる。

しかし、その緊張の中に、確かな信頼と決意が静かに根を下ろしていた。


【時刻:17:57/ロッジ・業務スペース】


一同が息を呑む。


その瞬間、静寂を破る重たい音が響いた。

「ガシャッ……!」

倉庫のように積まれた棚が倒れ、埃が舞い上がる。


その直後、微かに聞こえたのは――子どもの声。

「お兄ちゃん……!」


あの日と同じ、あの切実で幼い声。

圭介の胸を鋭く突き、昌代の手が思わず震える。

橘奈々は端末を握り締めながら、視線を朱音のノートに落とした。


玲は沈黙のまま、ゆっくりと眉間に皺を寄せる。

あの日の音が、今、この空間に蘇った。

そして、誰もがその声の主を探し、目を凝らす。


【時刻:17:58/ロッジ・業務スペース】


圭介が低く、震える声で呟いた。

「……聞いていたんだ、あの声……」


昌代が肩を震わせ、小さく頷く。

「忘れられないわ、あの日のこと……」


橘奈々は端末から目を離さず、冷静に状況を整理しようとする。

玲は腕を組み、静かに目を閉じたまま、声の余韻を頭の中でたどる。


部屋に残る静寂の中、あの日の子どもの叫びが、時を越えて響いていた。

そして一同の胸に、再び“あの瞬間の記憶”が重くのしかかる。


【時刻:18:02/ロッジ・業務スペース】


玲は端末を手に取り、低く速い口調で指示を送った。

「杉本。橋爪美加。2015年当時“ひかり園”勤務。その後、失踪扱いになっている。戸籍、保険、携帯の動き……すべて追えるか?」


杉本剛は静かに頷き、端末に目を落とす。

「確認します。可能な限り全記録を追跡し、異常な動きや失踪の経緯を洗い出します。」


橘奈々が補足する。

「彼女の過去の勤務履歴と保険記録、スマホの位置情報、メール・通話ログも照合可能です。リアルタイムではありませんが、10年間の軌跡を再構築できます。」


玲は腕を組んだまま、室内の空気を見渡す。

「頼む。これが橋爪美加の行方と、あの事故の隠された真相に繋がるはずだ。」


静寂の中、杉本は作業に取りかかり、橘奈々も端末の操作に集中する。

圭介と昌代は互いに目を合わせ、固く息を呑む。

あの日から封じられた記憶の扉が、今、ゆっくりと開かれようとしていた。


【時刻:18:47/ロッジ・業務スペース】


夕暮れの柔らかな光が窓から差し込み、室内の端末の青白い光と交錯する中、玲は杉本からのメッセージを読み上げた。


『居た。橋爪美加。事故後に名字を変えて転居。登録先は“災害ボランティア施設”のスタッフ名簿。今は郊外の小さな共同生活施設で暮らしてる。行政には届け出てるが、本人希望でSNSも通話も一切オフ。』


圭介の眉がわずかに寄る。

「なるほど……。自分の意思で身を隠していたのか。」


橘奈々が端末を操作しながら補足する。

「位置情報や通信記録は追跡できませんが、施設側の登録情報と行政記録から、ほぼ確実に所在は特定できます。」


昌代は少し息を吐き、手を胸に当てた。

「長年、誰にも気づかれず過ごしてきたのね……。」


玲は腕を組み、静かに頷く。

「これで、橋爪美加さんと事故当時の状況を直接確認できる可能性が出た。次の段階は、慎重に接触だ。」


室内には緊張と期待が交錯する静けさが漂う。

10年前に途切れた記憶の糸が、今、再び紡がれ始めていた。


【時刻:18:52/ロッジ・業務スペース】


玲の目が鋭く光り、空気が一瞬ピリリと張り詰めた。

「場所は?」


杉本からの返信がすぐに端末に表示される。

『愛知県側の山間部。“白茅のしらかやのいえ”という静養施設。そこに“美加・北田”という名前で登録されてる。』


圭介が小さく息を吐いた。

「山間か……。交通も少ないだろうな。」


橘奈々は端末を操作しながら、地図上で山道やアクセスルートを確認する。

「最短でも車で30分以上。さらに山道が入り組んでいるので、慎重に動かないと。」


昌代が目を細め、静かに言った。

「十年もの間、誰にも気づかれずに暮らしていたんだ……。ここなら安全だったのね。」


玲は腕を組み、鋭い視線を端末から上げる。

「よし、行く。安全を確認したうえで、事故当時の話を聞く。これが最後のピースになる。」


室内に沈黙が流れる。

外の夕暮れと相まって、十年の時を経た真実への扉が、今まさに開かれようとしていた。


【時刻:18:55/ロッジ・業務スペース】


奈々は即座に端末を操作し、詳細な地図を画面に展開した。

「三年前に起きた土砂災害の避難支援活動の中で、橋爪美加さんはボランティアとして確認されてます。ただ、記録はそれっきりで、それ以降の動きは不明です。」


玲が地図をじっと見つめ、指で山道やアクセスルートをなぞる。

「なるほど……十年前の事故後、一度は記録に残り、その後は完全に潜伏していたと。」


昌代が深く息を吐き、静かに付け加える。

「やっと、彼女が守られていた場所が見えたのね。」


圭介は腕を組み、険しい表情で頷く。

「これ以上、遠回りは許されない。直接確認して、安全を確かめる必要がある。」


室内に再び沈黙が広がる。

夕暮れの光が窓から差し込み、緊張感をさらに際立たせていた。


【時刻:18:58/ロッジ・業務スペース】


神垣惟道は目を伏せ、静かに言葉を紡いだ。

「“あの声”を、ずっと抱えて生きてきた人です……誰よりも苦しんできた。」


玲はわずかに眉をひそめ、唇を引き結ぶ。

「その声……つまり、事故当日の子どもの叫びや混乱を、今も胸に残しているということか。」


昌代が肩に手を置き、そっと頷く。

「だからこそ、無理に思い出させるのではなく、静かに受け止める必要があるのね。」


圭介は拳を軽く握り、深く息を吸った。

「なら、俺たちはその人の安全と心を守りながら、真実にたどり着かなきゃいけない……。」


奈々は端末を閉じ、画面を静かに机に置く。

「これ以上、焦らず、順序を追って。無理に突っ込むのは危険です。」


室内には重みのある沈黙が流れ、夕暮れの光が机の上の資料を淡く照らしていた。


【時刻:18:59/ロッジ・業務スペース】


圭介が小さくうなずき、声を低く震わせながら言った。

「それでも、彼女の記憶がなければ、ユウタはずっと“倉庫の闇”に閉じ込められたままだ。」


玲は腕を組んだまま、圧のある視線を神垣に向ける。

「その通りだ。焦らず、だが確実に導く。無理やり引き出すのではなく、彼女自身が心を開く瞬間を待つ。」


神垣はゆっくり頷き、杖を軽く床に置いた。

「そうです……私がその媒介となり、忘れられた時間に光を当てる。」


昌代は目を細め、圭介の肩に手を置く。

「大丈夫。私たちも支えます。無理をさせないように。」


奈々は資料の束を軽く押さえ、端末を確認しながら言う。

「準備は整いました。あとは慎重に、順を追って接触するだけです。」


室内に差し込む夕暮れの光が、重苦しい空気をほんの少し和らげていた。

窓の外では、風に揺れる木々が静かにざわめく。


【時刻:19:12/ロッジ・業務スペース】


夕暮れの光がわずかに差し込むなか、玲は腕を組んでいた。

机の上には、橋爪美加――いや、“北田美加”と記された新しい身分記録が並べられている。


彼は視線を落とし、低く呟く。

「十年……ずっと、記憶の中で足を止めたままだったのか。」


橘奈々が端末の画面を指でスクロールしながら答える。

「事故のあと、彼女は一切の職歴を断ち、外部との接触も遮断しています。唯一の活動記録は“白茅の家”での支援業務。それも、顔を伏せての参加です。」


玲はその言葉に、わずかに眉をひそめる。

「罪悪感か……あるいは、誰かに“そうさせられた”のかもしれないな。」


圭介が静かに息を吐いた。

「真実を知るのが怖かったのかもしれません。あの日、何が起きたのか――自分の中で閉じ込めてしまった。」


神垣惟道は目を閉じ、手にした数珠を軽く揺らした。

「封じられた記憶は、本人がそれを“見たい”と願うまでは決して開かれません。だが……彼女の中で、声はまだ鳴っている。幼い“ユウ”の声が。」


沈黙が訪れた。

誰もが、その言葉の重さを飲み込むように口を閉ざす。


玲はやがて視線を上げ、短く言った。

「準備を進めよう。明朝、白茅の家へ向かう。」


窓の外では、群青色の空が山の稜線を包み、遠くで鳥の鳴く声が静かに響いた。


【時刻:19:14/ロッジ・業務スペース】


橘奈々が端末を確認しながら、慎重に口を開いた。

「……“あの瞬間”の記録、ひとつだけ残っています。」


玲が顔を上げる。

「瞬間?」


奈々は画面を指で拡大し、古びたデータを示した。

「保育園の監視記録。事故当日の午前10時42分――倉庫棟の出入口カメラ。

でも、ファイルは途中で途切れてます。音声データだけ、5秒間だけ生き残っていました。」


圭介が息を飲み、身を乗り出す。

「音声?」


奈々はうなずき、スピーカーを接続した。

わずかなノイズのあと、かすれた声が響く。


《……ユ……タ……》

《……ミ……か……せん……せ……》


沈黙。

圭介の指先が机の上で止まる。

玲はその音を最後まで聞き、ゆっくりと息を吐いた。


「確かに、そこに“いた”んだな。」


奈々は画面を閉じ、静かに続けた。

「事故として処理されたあの一瞬――彼の声だけが、記録に残っていたんです。」


神垣惟道が目を閉じ、数珠を軽く揺らす。

「声は、記録よりも確かです。たとえ誰かが消そうとしても、魂が覚えている。」


玲は腕を組み直し、低く言った。

「……その“声”の主を、もう一度この世界に立たせる。それが俺たちの仕事だ。」


窓の外では、夜の帳が山影を包み、ロッジの灯だけが静かに揺れていた。


【時刻:19:18/ロッジ・業務スペース】


玲は短く目線を向けた。

その瞳には、いつもの冷静さの奥に、わずかな熱が宿っていた。


「――まだ、間に合うかもしれない。」


奈々が顔を上げる。

「……救える、ってことですか?」


玲は無言でうなずいた。

テーブルの上のファイルを指で軽く叩きながら、静かに続ける。


「“声”が残っているなら、道はまだ途絶えていない。

たとえ十年の時を越えても、彼の“記憶”は生きてる。

なら、俺たちがやるべきことはひとつだ――救いの手を伸ばす。」


圭介がわずかに顔を上げた。

「それが……彼に届くと思うか?」


玲は短く息を吐き、わずかに笑った。

「届かせるさ。俺たちは“記録”を掘り起こすだけじゃない。

――消えた時間を、取り戻すためにいる。」


神垣惟道が数珠を静かに揺らし、目を閉じて言った。

「声は、待っています。救いの手が、再び届くその時を。」


部屋の空気が、どこか祈りのような静けさに包まれた。

窓の外では、夜風が木々を揺らし、遠くで小さく、鈴の音のような虫の声が響いていた。


【時刻:19:22/ロッジ・業務スペース】


玲が短く答えた。

「心理救済のスペシャリスト――伊月光哉いつき・こうや。」


その名を口にした瞬間、室内の空気がわずかに変わった。

橘奈々が小さく目を見開き、端末の手を止める。

「伊月……まさか、“共鳴療法”の?」


玲は静かに頷いた。

「そうだ。心的外傷の中に残された“声”を聴き取り、本人が封じた記憶を穏やかに再構築する専門家だ。

警察にも医療機関にも属さず、依頼ごとに独自の方法で動く。」


神垣がゆっくりと息を整えながら言う。

「彼が来るということは――“魂の残響”が、まだ消えていないということですね。」


玲は目を伏せたまま、静かに言葉を重ねた。

「橋爪美加の記憶を開くには、外部の介入が必要だ。

……それに、彼はかつて“倉庫事件”の資料にも関わっていた。

十年前、あの現場で心の断片を拾い上げた唯一の人物でもある。」


圭介がわずかに息をのんだ。

「……その伊月って人、今どこに?」


玲は端末に視線を落とし、短く答えた。

「今夜、ここに来る。彼にしかできない“救済”がある。」


沈黙が落ちた。

窓の外では風が止み、ロッジの灯りが静かに揺れていた。

それはまるで――誰かの記憶の底に残る、小さな希望の灯火のようだった。


【時刻:20:03/ロッジ・業務スペース】


軽やかな足音と共に、室内に入ってきたのは30代半ばの男性だった。

落ち着いたダークグレーのジャケットを身にまとい、穏やかでありながらもどこか人の心を見透かすような静かな眼差しをしている。

髪はやや長めに整えられ、光を受けてわずかに栗色を帯びていた。


彼は一礼し、柔らかく微笑む。

「はじめまして。伊月光哉です。……お話は、玲さんから伺っています。」


【時刻:20:05/ロッジ・業務スペース】


玲が腕を組みながら、静かに口を開いた。


「伊月光哉――“心理救済のスペシャリスト”だ。

催眠療法とトラウマ再構築の技術を駆使して、“記憶に囚われた者を解放する”ことが彼の専門だ。」


その言葉に、室内の空気がわずかに引き締まる。

伊月は淡い笑みを浮かべながらも、その瞳の奥には一切の迷いがなかった。


「過去の出来事を“思い出させる”ことと、“癒やす”ことは、似ているようで全く違います。

無理に開けた記憶は、心を再び壊す。――だから、私は“心の側から”扉を開く。」


橘奈々が小さく息を呑む。

「つまり、彼女自身の意志に寄り添いながら、過去の映像や感情を再現できる……?」


「ええ。」伊月は頷いた。

「ただし、再構築には“触媒”が必要です。

記憶を呼び戻す鍵――たとえば、“あの日”と繋がる声、物、または残された痕跡。」


神垣が数珠を軽く鳴らし、視線を合わせた。

「その鍵は――ユウタの“声”かもしれません。」


玲はゆっくりと立ち上がり、テーブルに置かれた小箱を見つめる。

「その声が、まだ倉庫の闇に取り残されているのなら……」


伊月は深く息を吸い込み、言葉を重ねた。

「彼女の心の中で、いまだ幼い誰かが呼んでいる。“ユウ”と。

――私が、その声の場所まで案内します。」


その瞬間、外の風が窓を揺らした。

ロッジの灯が微かに揺れ、十年前の闇が、再び静かに目を覚ましたかのようだった。


【時刻:20:12/ロッジ・業務スペース】


伊月は目を細め、静かに言葉を落とした。


「……彼女は、話せる状態にあります。」


玲が眉を動かす。

「確かか?」


「はい。」伊月はゆっくりと頷いた。

「ただし、心の奥にある“あの日の光景”には、強い拒絶反応がある。

記憶の断片を無理に掘り返せば、彼女は再び心を閉ざすでしょう。」


橘奈々が端末を閉じ、緊張した面持ちで問いかけた。

「じゃあ、どうすれば?」


伊月は少し考えるように視線を落とし、淡く微笑んだ。

「――まず、“今ここにいる”ことを思い出させる。

過去ではなく、現在に立っているという感覚を取り戻してもらうんです。

そのうえで、彼女の内側に残っている“声”に耳を傾ける。」


神垣が静かに言葉を添える。

「声……“ユウ”の呼びかけですね。」


伊月の瞳が一瞬だけ揺れた。

「ええ。彼女の中では、まだ“あの日”が終わっていない。

――でも、“声”が届けば、彼女はもう一度、扉を開けられる。」


玲は腕を組んだまま深く頷いた。

「……準備を整えよう。明日、白茅の家に向かう。」


伊月は立ち上がり、穏やかな笑みを見せた。

「大丈夫です。彼女は、“もう一度”語るために、生きてきた人ですから。」


窓の外では、夜の気配が山を覆い始めていた。

わずかな灯が揺れ、倉庫の影のように長く伸びて――

十年前の「止まった記憶」が、いま再び動き出そうとしていた。


【時刻:20:14/ロッジ・業務スペース】


玲が腕を組んだまま、深く息を吐いた。

沈黙のあと、低い声で言葉を落とす。


「――彼女を、過去から救い出せるか。」


その一言に、室内の空気がわずかに張り詰めた。


伊月は少しだけ目を伏せ、ゆっくりと答えた。

「“救い出す”というより……“連れ戻す”ですね。」


玲の視線がわずかに動く。

「連れ戻す?」


伊月は頷きながら、穏やかに続けた。

「彼女はいまも“あの日”の倉庫の前に立っています。

時は十年経っても、心はそこから動いていない。

だから僕たちがすべきことは――彼女を無理に引っ張り出すことではなく、

『帰ってきてもいい』と伝えることなんです。」


橘奈々が静かに息を呑む。

圭介はその言葉を噛みしめるように、拳を握った。


「……過去は消せない。でも、形を変えることはできる。

そのための“証言”を、彼女自身の言葉で取り戻す。」


伊月はその言葉にうなずき、穏やかに微笑んだ。

「ええ。その瞬間、彼女の時間も、そして――“ユウタ”の時間も、動き出します。」


玲は静かに目を閉じた。

短く、しかし確かな声で言う。


「ならば……行こう。

止まった記憶を、再び“今”へ。」


窓の外では風がざわめき、木々の影が夜の灯に揺れていた。

十年前に閉ざされた“声”が、確かにそこに、息を吹き返そうとしていた。


【時刻:翌日 10:42/愛知県・白茅のしらかやのいえ前】


山道を抜けた先――視界がふっと開けた。

霧に包まれた山腹の奥に、古い木造の平屋がひっそりと佇んでいる。

手入れの行き届いた花壇には白い小菊が並び、建物の軒下からは風鈴がかすかに鳴っていた。


木の壁には長い年月の跡が残り、しかし不思議と温かい。

「白茅の家」と書かれた木札が玄関脇に掲げられ、その文字は柔らかく滲むように風雨で磨かれていた。


玲が車から降り、ゆっくりと周囲を見渡す。

その視線は慎重でありながら、どこか確信を帯びていた。


「……ここだな。」


橘奈々がタブレットを確認しながら頷く。

「間違いありません。“美加・北田”の登録住所。行政記録とも一致しています。」


背後から、神垣惟道が静かに降り立つ。

その手には小さな数珠が握られていた。


「この場所……“穏やかな静けさ”の奥に、痛みが眠っています。」

彼の言葉に、空気が一瞬だけ冷たくなったように感じられた。


伊月光哉が短く息を整え、低く言う。

「呼びかけには慎重にいきましょう。

彼女の記憶はまだ――あの日の音の中にいます。」


玲は頷き、圭介と奈々に目をやった。

「どんな形であれ、真実を確かめるのは俺たちの役目だ。

ここから先は、言葉ひとつで揺らぐ世界だ。気を抜くな。」


圭介が静かに答えた。

「わかってる。……ユウタのためにも。」


その言葉に誰も続けなかった。

ただ、木々の間を抜ける風の音だけが――まるで十年前の記憶を呼び起こすように、

白茅の家の前を通り過ぎていった。


【時刻:10:45/白茅の家・玄関前】


玲は一歩前に出て、古びた木の扉を静かに見つめた。

指先で軽く呼吸を整え、

――コン、コン。


二度だけ、控えめにノックする音が山の静寂に溶けた。


中からは、わずかに空気が揺れるような気配。

靴音も、声もない。

けれど、確かに誰かが“こちらの音”を聞いている。


伊月光哉が目線だけで玲に合図を送った。

「……反応があります。」


玲は頷き、言葉を選ぶように低く声を出した。

「北田美加さん。

私たちは“ひかり園”で起きた事故について、

あなたの記憶をお借りしに来ました。」


その名を呼んだ瞬間――

扉の向こうで、金具がかすかに震える音がした。


神垣惟道が数珠を握り、目を閉じる。

「……心が揺れています。閉ざされたままの扉ではない。」


圭介が小さく息を呑み、

橘奈々は端末を胸に抱きしめるようにして待った。


静かな時間が、長く伸びていく。


そして――

「……どなたですか。」


か細い声。

擦れたような、長く使われていなかった声が、

ゆっくりと木の扉の隙間から漏れた。


玲がその声に向け、静かに頭を下げた。

「玲探偵事務所の玲です。

十年前の“あの日”に、あなたが見たものを――聞かせてください。」


数秒の沈黙ののち、

中で錠がゆっくりと外れる音が響いた。


――カチャリ。


【時刻:10:47/白茅の家・玄関前】


伊月光哉は穏やかに頷き、声を落とした。

「美加さん、安心してください。思い出すのは無理にではありません。私が導きます。心が受け止められる範囲だけを少しずつ。呼吸を整えながら、ゆっくり、過去の光景に触れていきましょう。」


玲が目を細め、静かに頷く。

「急がず、焦らず。必要な時は、私たちもすぐに手を差し伸べます。」


神垣惟道が数珠を軽く揺らし、柔らかく囁く。

「感情の波が来ても大丈夫。恐れず、思い出を受け止める準備ができています。」


圭介が肩を少し落ち着け、息を吐く。

橘奈々は端末を閉じ、資料に目を落としながら静かに待つ。


美加の小さな手が扉の縁に触れる。

震えながらも、彼女は少しずつ心を開き――

過去と向き合う、最初の一歩を踏み出した。


【時刻:10:50/白茅の家・室内】


やがて、美加のかすれた声が静寂を破った。


「……あの子……あの子は、まだ、あの倉庫の中で……」


伊月はすぐに手を伸ばし、優しく肩に触れる。

「大丈夫です。あの子の場所も、状況も、今ここで安全に確認できます。怖がらなくていい。」


玲が静かに補足する。

「ユウタ・カワサキ。今は安全な場所にいる。君が思い出すことで、ようやく繋がるんだ。」


神垣が低く囁く。

「記憶は痛みを伴うかもしれません。でも、その声を聞き届ければ、過去の闇も少しずつ光に変わります。」


美加は小さく頷き、震える指で小箱を抱えながら息を整えた。

「……ごめんなさい。ずっと、私のせいで……」


圭介が静かに言葉をかける。

「謝る必要はない。君が覚えていてくれたこと、それだけで十分だ。」


橘奈々が端末を閉じ、深呼吸を促す。

「まずは、思い出の断片を一つずつ確認しましょう。急がず、順序立てて。」


美加の瞳に、わずかに決意の光が宿る。

「……あの子に会いたい……」


空気が一瞬、暖かくなり、室内に希望の気配が満ちた。


【時刻:11:15/白茅の家・個室】


簡易ベッドと間接照明が柔らかく室内を照らす。


ユウタは父の手をしっかり握りながら、静かに部屋に入った。

美加はその姿を目にした瞬間、息をのむ。


「……こんなに大きくなって……今、いくつになったの?」


ユウタは少し照れくさそうに笑い、口を開く。

「もう十歳……あの日から、ずっと……」


美加は声を詰まらせ、手で口元を覆った。

「十年……ずっと心配していたのに、会えなかった……」


圭介が静かに横に立ち、優しく肩に手を置く。

「もう大丈夫だ。君は安全な場所にいる。」


伊月はそっと後ろから声をかける。

「過去を思い出すのは怖いけれど、今ここで一緒にいることで、傷も少しずつ癒えていく。」


ユウタは小さく頷き、父の手を握り返す。

美加の目には、安心と懐かしさが入り混じった涙が光った。


空気は穏やかに満ち、十年の時を経た再会の瞬間が、静かに部屋を包んでいた。


【時刻:11:20/白茅の家・個室】


伊月は穏やかな声で美加に語りかける。

「ここは安全な場所です。何があったとしても、あなたもユウタも、もう守られています。怖がる必要はありません。」


美加は小さく肩を震わせながら頷く。

「でも……あの子のことを思い出すと……胸が痛くて……」


伊月は優しく手を差し伸べ、静かに続ける。

「思い出すことは、決して悪いことではありません。過去を理解することで、今の安心をより確かなものにできます。ここにいるみんなが、あなたとユウタを守るためにいるのです。」


美加は涙をこぼしながらも、目に光を取り戻す。

ユウタもそっと手を握り返し、互いの存在を確かめ合った。


室内の空気は穏やかで、十年に及ぶ不安と孤独の重みが、ゆっくりと溶けていくようだった。


【時刻:11:25/白茅の家・個室】


玲の背後で、神垣惟道が低くつぶやく。

「……あの子……ユウタだ。」


声は静かだが、確信に満ちていた。

手元の箱や小物をじっと見つめながら、過去の記憶の余韻を感じ取るように目を閉じる。


玲は振り返らずに応じた。

「確認は取れたか?」


神垣はゆっくり頷く。

「彼の気配、持ち物の痕跡、そして声――全てがこの子に通じている。十年の時を経ても、心の奥で繋がっている。」


圭介は胸の奥で静かに安堵の息を吐く。

ユウタが今、目の前にいる現実が、ようやく形を成していた。


室内は静寂に包まれつつも、確かな希望の温度で満たされていた。


【時刻:11:35/白茅の家・個室】


伊月光哉は静かに美加の前に座り、穏やかな声で誘導を始める。


「深く息を吸って、ゆっくり吐きましょう。体の力を抜いて、心を安全な場所に置くように意識してください。」


彼は催眠療法の基本手法である逐次的緩和法(Progressive Relaxation)を用い、身体の各部位の緊張を意識的に解きほぐすよう促す。


「まず、両肩から腕、手の指先まで順番に力を抜いて……次に背中、腰、脚、足先まで。すべての力を床に預けるように。」


さらに、伊月はガイド付きイメージ法(Guided Imagery)を組み合わせる。

「あなたの中に、安らげる小さな空間を思い浮かべてください。そこは安全で、誰にも邪魔されない場所です。その場所に意識をゆっくり沈めながら、過去の記憶を優しく呼び戻しましょう。」


声のトーンは低く、一定のリズムで、呼吸と意識のタイミングを合わせる。

「過去の瞬間を思い出しても、ここは安全です。あなたは守られています。無理に思い出す必要はありません。ただ、浮かんできたものを静かに受け止めて。」


部屋の空気が落ち着き、微かに深呼吸の音だけが響く中、伊月は美加の心に寄り添いながら、失われた記憶の断片にアクセスする準備を整えていた。


【時刻:11:37/白茅の家・個室】


伊月光哉は、美加の前に穏やかな目線を落とし、ゆっくりと問いかけた。


「……美加さん、今は大丈夫です。ここは“安全な場所”ですから、何が浮かんできても、すぐに離れることができますよ。」


彼は声のリズムを一定に保ちながら、逐次的緩和法(Progressive Relaxation)を続けた。


「もう一度、肩の力を抜いて、深く吸って、吐いて……今度は頭から足先へ、力が抜けていく感覚を感じてください。息を吸うたびに、不安がゆっくり遠ざかっていきます。」


美加の呼吸が徐々に深くなり、肩がわずかに下がる。


伊月は今度はガイド付きイメージ法(Guided Imagery)に切り替えた。


「目を閉じたまま、頭の中に“場所”を思い描いてください。あなたが安全だと思える場所です。誰にも邪魔されない、小さな部屋や光の中、森の中でも構いません。その場所にあなた自身を置いて、ゆっくり深呼吸を続けてください。」


美加の表情が少し柔らかくなる。伊月はその反応を見逃さず、声をさらに低く優しくした。


「……今、その安全な場所から、十年前の“あの日”を少しだけ遠くから覗いてみましょう。決して近づかなくていい。上から、窓の向こうから、映画のように見るイメージで……」


数秒の沈黙。美加の瞼が微かに震える。


伊月はその間合いを取り、静かに問いかけた。


「――ユウタくんは、どこにいますか?

あなたの心の中に浮かぶ“景色”の中で、彼はどこにいますか?」


言葉は鋭さを持たず、まるで柔らかな羽のように空気に漂い、美加の深層に優しく届いていった。


【時刻:11:45/白茅の家・個室】


その次の瞬間、美加の声がかすかに震え、掠れた声でぽつりと漏れた。


「……先生……ユウタくん、倉庫の奥に……机の下……あの日の景色……床に散らばった玩具の間に……光は入ってこなくて、暗くて……でも、ちゃんと私を見てる……」


伊月は優しくうなずき、言葉を挟まず美加の呼吸に合わせた。


「そう……よく思い出せましたね。怖い場所でも、あなたの心の中で安全な感覚を保ちながら、ユウタくんの位置を確認できた。もう大丈夫。」


美加は目を伏せ、震える手で胸元を押さえる。息が細かく荒い。


伊月はさらにゆっくりと、ガイド付きイメージ法を続ける。


「今度はその暗い倉庫の奥でも、あなたの“安全な場所”を思い描いてみましょう。ユウタくんをそこに導くように、心の中で手を伸ばすだけです。触れなくてもいい、ただ光を向けるだけで大丈夫。」


美加は目を閉じ、口元を震わせながらも、心の中でその暗がりの景色を辿り、ユウタくんの位置を確かめ始めた。


静寂の中、微かな呼吸音と、心の奥で反響するあの日の残像だけが、部屋を満たしていた。


【時刻:11:52/白茅の家・個室】


美加はゆっくりと目を開け、かすかに頷いた。


その瞬間――ユウタの小さな手が、美加の指先に触れ、ぎゅっと握る。


「……ユウタ……?」


美加の声は震えるが、確かな温もりを感じ取っていた。


伊月は穏やかに微笑みながら、逐次的緩和法を用いて、二人の意識が安全に結びつくよう誘導する。


「そうです。今、彼はここにいます。怖がらなくていい、ゆっくり手を握って確かめてください。」


ユウタの目も、初めて本当に安心したように、柔らかく微笑む。


室内の空気は少しずつ和らぎ、長く閉ざされていた時間が、二人の手のひらのぬくもりと共に静かに解けていった。


【時刻:11:53/白茅の家・個室】


その瞬間――美加の視界に、幼いユウタの記憶の中の光景が重なった。


廃れた倉庫棟、埃に包まれた棚の隙間、遠くで響く微かな足音――


ユウタの小さな手はまだ震えている。


伊月は静かに声をかける。

「大丈夫、これはもう過去の映像です。あなたも、ユウタも、今は安全です。」


美加は深く息を吸い込み、手を離さずに優しく握り返す。


「……ユウタ、怖かったね。でも、もう大丈夫……」


二人の存在が、長い年月の孤独と恐怖を少しずつ解きほぐしていった。


【時刻:11:55/白茅の家・個室】


ユウタの両親が揃って、美加に向けて語りかける。


「ユウタ、ずっとどこにいたのか、僕たちは知ることができなかった。でも、ずっとあなたのことを思い続けていたんだ」

「毎日、毎晩、君の笑顔を想像して待っていた。どんな時も、忘れたことはなかった」


美加は手を握りしめ、涙ぐみながら静かに聞き入る。

「ずっと……思ってくれていたのですね……」


伊月光哉が優しく声をかける。

「安心してください。ここは安全です。記憶を思い出しても大丈夫ですよ」


ユウタの両親は続ける。

「事故のあと、僕たちは探し続けた。でも行政の記録には残っておらず、行方が分からなかったんだ。だけど、これからはもう離さない」

「ユウタ、君はもう安全だ。ずっと一緒だ」


美加はかすかに頷き、胸に手を当てる。

「……ありがとうございます。こんなに長く、思い続けてくれていたのですね……」


その場には静かな温かさが流れ、過去の不安と孤独が、家族の想いと再会の光に包まれる瞬間だった。


【時刻:12:30/白茅の家・リビング】


セッションを終えた美加は、白い毛布を肩にかけ、ソファに静かに座っていた。


窓の外から差し込む柔らかな光が、部屋の隅々まで温かさを届ける。

ユウタの両親は隣に腰を下ろし、言葉少なに手を握る。


伊月光哉がそっと声をかける。

「美加さん、今日はここまでで大丈夫です。思い出すのは少しずつで構いません」


神垣惟道は静かに頷き、空気の変化を感じ取る。

「彼女の心が、少しずつ安心を取り戻している」


美加は目を伏せ、深く息を吐いた後、静かに微笑む。

「……ユウタくんも、もう安心ですね……」


ユウタの両親は軽く頷き、そっと肩を寄せる。

部屋の空気は、穏やかで満ち足りた家族の温もりで包まれていた。


【時刻:12:35/白茅の家・リビング】


伊月光哉は、少し距離を保ったまま、温かい紅茶を美加の前に差し出した。

湯気がゆらりと立ち上り、穏やかな香りが部屋に広がる。


「ゆっくりでいいんです。ここが安全な場所だと、少しずつ心が理解すればいい」


美加は紅茶を手に取り、深く息を吐く。

「……ありがとうございます。やっと、少し安心できそうです」


ユウタの両親もそっと微笑み、目を合わせる。

部屋の空気には、これまでの闇と恐怖を越えた“家族としてのつながり”が満ちていた。


玲は背後で静かに観察し、神垣も微かに頷く。

「終わりと同時に、また新しい日々の始まりが訪れる……」


光と影をくぐり抜けた全員の胸に、静かな決意と希望が宿る。

――ここから、家族の時間が、再び動き出すのだった。


【時刻:12:40/白茅の家・リビング】


伊月光哉は微笑を浮かべ、静かに頷いた。

「これで事実が整理されました。解釈の混乱も整理され、心理的真実が明確になりました。つまり、記憶に基づく誤認や不安の原因を取り除き、出来事の核心が理解できる状態です」


美加は目を潤ませながらも、安心した表情で頷く。

「……なるほど、あの時のことも、私の心の中で正しい位置に収まるのですね」


伊月は続ける。

「はい。これは逐次的緩和法とガイド付きイメージ法の併用によって、記憶の再構築と感情の安定化を図った結果です。感情の暴走や混乱を防ぎながら、事実としての記憶と心理的理解を結びつけました」


玲は静かに頷き、神垣もその言葉を受け止める。

部屋の中には、これまで隠されていた真実が柔らかく光を差し込み、家族の絆をさらに強く照らしていた。


【時刻:12:42/白茅の家・リビング】


美加の手がわずかに震える。

しかし、ゆっくりと息を整えると、静かな声で答えた。


「ユウタ……ずっと、あの倉庫の中にいました。雨や暗闇の中で、誰にも見つからず、私たちが迎えに来るのを待っていたんです」


伊月は軽く頷き、言葉を添える。

「正確に記憶を取り戻せましたね。感情も整理され、恐怖や不安が減少しています」


玲は深く息を吐き、圭介と沙耶の顔を見渡す。

「これで、長く閉ざされていた時間がようやく終わる」


神垣も静かに頷き、室内には安堵と静かな決意の空気が漂った。


【時刻:12:45/白茅の家・リビング】


伊月は微笑を絶やさず、しかし小さく首を横に振った。

「まだ完全には外へ出る準備が整っていません。心の扉の“鍵”を、徐々に解きほぐす必要があります」


美加は肩をすくめ、小さく息を吐いた。

「……わかっています。でも、もう怖くありません」


玲は静かに椅子に腰掛け、柔らかい声で言った。

「焦らず、少しずつ。今日からが本当の再出発です」


伊月は落ち着いた手つきで、毛布をそっと整え、心理的安全領域を守るように見守った。

室内には、少しずつ希望の光が差し込むような静謐な空気が満ちていた。


【時刻:13:05/白茅の家・リビング】


美加は静かに息を整えながら座っていた。

肩にはまだ白い毛布がかかり、両手は膝の上でそっと組まれている。


伊月はその隣に腰を下ろし、低く柔らかい声で語りかけた。

「心の中で、安全な場所を思い浮かべて。その場所から少しずつ、あの日の記憶を取り出しましょう」


玲は穏やかに頷き、距離を保ちながら見守る。

橘奈々は端末を手元に置き、記録と進行の補助を静かに行った。


神垣惟道もまた、背後から微かな存在感で空気を整え、言葉にならない安心感を場に添えている。


美加は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込んだ。

その瞳の奥に、微かな光が戻り始めるのを、伊月は静かに見届けていた。


【時刻:13:12/白茅の家・リビング】


その時、入口のチャイムが静かに鳴った。


柔らかな足音と共に、40代後半の男性が姿を現す。

アイボリーのジャケットをきちんと着こなし、落ち着いた立ち居振る舞い。眼差しは優しくも、確かな鋭さを湛えている。


玲は短く紹介した。

「こちらは葉山静巳。心理司法調査官です。記憶の曖昧さを考慮しつつ、心理的負担を最小限に抑えた証言確保を専門としています。」


伊月は軽く頭を下げ、葉山の到着を静かに見守る。

美加の表情にはわずかな緊張が残るが、葉山の落ち着いた雰囲気に次第に安堵が混ざる。


玲は目線を葉山に向け、短く言った。

「これで、証言と記憶の両面から、ユウタくんの居場所を確かめられる。」


室内には、静かだが確かな緊張と期待が漂っていた。


【時刻:13:15/白茅の家・リビング】


葉山は静かに美加を見つめ、一礼した。

その視線には威圧感はなく、ただ穏やかに「安心して話してよい」という意思が伝わってくる。


美加は肩の力を抜き、深く息を吐く。

伊月はそっと後ろに下がり、葉山が主導権を握る場面を尊重する。


玲は腕を組んだまま静かに見守り、橘奈々は端末を閉じて控える。

圭介もまた、ユウタのことを思いながら、言葉少なに美加の表情を追った。


葉山は低く、穏やかに問いかける。

「美加さん、あの日のことを、できる範囲で思い出して教えてもらえますか?」


その声に、室内の空気がゆっくりと落ち着き、安心感が満ちていった。

美加は小さく頷き、静かに話し始める準備を整える。


【時刻:13:17/白茅の家・リビング】


葉山は優しく微笑みながら、美加に語りかける。

「美加さん、これはあなたが前へ進むための時間です。怖がらなくて大丈夫。」


伊月は横で静かにうなずき、セッションの流れを見守る。

玲は腕を組んだまま、しかし視線は温かく、静かに美加の心の動きを追った。


葉山はさらに柔らかい声で続ける。

「ユウタくんの両親も、あなたが安心して話せることを心から応援しています。あなたはひとりではありません。」


美加は小さく肩を震わせ、目に光る涙を拭いながらも、少しずつ口を開いた。

室内には静かな緊張と、同時に安堵の空気がゆっくりと広がっていく。


【時刻:13:20/白茅の家・リビング】


葉山静巳は、録音機と記録タブレットを前に置き、落ち着いた声で告げた。

「美加さん、これからお話しいただく内容は、すべて安全に記録されます。焦らず、思い出せる範囲で構いません。」


伊月光哉がそっと肩に手を置き、補足する。

「無理に細部まで思い出そうとせず、浮かんでくる感覚や記憶を順に言葉にしていきましょう。逐次的緩和法で、心の負担を軽減しながら進めます。」


玲は静かに見守りながら、橘奈々は端末を手元に置き、必要な情報を整理する準備を整える。

葉山の落ち着いた声と伊月の優しい視線が、美加の緊張を少しずつほぐしていく。


【時刻:13:22/白茅の家・リビング】


美加はゆっくりと頷き、背筋を伸ばす。

「……倉庫、探しに行きましょう。」


伊月光哉は優しく微笑みながら静かに言った。

「その意志があれば、心の準備はできています。安全な範囲で進めましょう。」


葉山静巳も穏やかに頷く。

「過去をたどる作業は、無理のない段階で行います。記録はすべてこちらで管理します。」


玲は軽く頷き、橘奈々に目配せする。

「準備が整ったようだ。行動に移ろう。」


部屋の空気が静かに張り詰めつつも、希望の光が差し込むかのような緊張感に包まれる。


【時刻:13:25/白茅の家・リビング】


伊月光哉はそっと美加の手を握り、温かさを伝えながら落ち着いた声で問いかけた。

「美加さん、先程の証言を思い出してください。ユウタくんはどこにいましたか? あの日、倉庫で何が起きていたのか……順を追って話せますか?」


美加は手のひらに伝わる穏やかな圧力に背中を押されるように、深く息を吸い込む。目を閉じ、記憶の奥へと意識を集中させた。


「……倉庫の奥、暗い棚の間……ユウタくんは小さな箱のそばにいたの。足元は散らかっていて、光はほとんど差し込まない場所……でも泣いてはいなかった。怖がってもいなくて……ただじっと、待っていたの。」


伊月はゆっくりと頷き、誘導を続ける。

「その時の音、匂い、周囲の物の配置……できるだけ詳細に思い出して。焦らず、順を追って。」


美加は小さな声で続ける。

「棚の上には古い書類や箱が積まれていて……その影に隠れるように、ユウタくんは静かに座っていた。誰も近づかず、声も届かない……でも、彼はちゃんと私のことを認識していた。」


葉山静巳は記録タブレットに視線を落とし、慎重にメモを取りながら、時折美加の目を見つめて安心感を与える。

「今の感覚を大切に。思い出すことは、あなたを傷つけるのではなく、解放への一歩です。」


玲はそっと後方に控え、部屋の緊張を見守りつつ、事実をひとつずつ確認するような目で伊月と美加のやり取りを追った。


静まり返った室内には、過去の“倉庫事件”の断片が、徐々に現実の輪郭を帯びて浮かび上がってきていた。


【時刻:13:28/白茅の家・リビング】


葉山静巳は、そっと美加の肩に手を置き、落ち着いた声で補足を促した。

「美加さん、その時、周囲に誰かいましたか? どんなやり取りがあったか、思い出せる範囲で大丈夫です。」


美加は目を伏せ、震える声で答える。

「……倉庫の中、他の子や職員もいたはず。でも、誰かが『こっちは危ないから外に出て』って言ったの。私はその声に従って外に出るはずだったけど……ユウタくんはまだ棚のそばにいたのに、扉を閉められて……置いて行かれたの。」


伊月は優しく手を握り直し、ガイド付きイメージ法を続ける。

「その時の扉の感触、ユウタくんの様子、周囲の音や匂い……順を追って思い出してみましょう。焦らなくていいです。」


美加の目にかすかな涙が滲む。

「……暗くて、静かで……でも、泣き声もなくて、じっと私のことを見ていた……怖がってもいなかった。扉の向こうには誰もいなかったのに、閉じ込められたまま……。」


葉山は静かに頷き、慎重にメモを取りながら、安心感を持たせるように微笑む。

「その感覚を正確に覚えていて大丈夫です。今思い出すことで、ユウタくんを助けられる手がかりになります。」


室内の空気は静まり返り、過去の記憶と現在の現実が交錯する中、ユウタが置かれていた状況が徐々に明確になっていく。


【時刻:13:35/白茅の家・リビング】


美加の視線が、遠く倉庫の暗闇を彷彿とさせるように沈む。

その目は、まるで時間を遡るかのように、当時の空間を見つめていた。


伊月は穏やかに促す。

「思い出せる範囲で構いません。ユウタくん、その時どうしていたか、心に浮かぶことを教えてくれますか?」


ユウタは小さくうなずき、震える声で口を開く。

「……ぼく、怖くなかった。暗くて、狭くて……でも、扉の向こうに誰もいなくて、でも……でも、手が届くところに光があった。ばぁばの声みたいに、でもちょっと違う声が遠くで聞こえて……ぼく、じっと待ってた。誰かが来るのを……」


葉山が柔らかく言葉を挟む。

「その“声”は、誰か知っている人の声でしょうか? ユウタくん、思い出せる範囲で教えてください。」


ユウタは小さく目を細め、記憶をたぐり寄せる。

「……お母さんの声……でも、違う。優しい声……それから、ばぁばの声も……ぼく、どっちを信じていいか迷った。でも、怖くなかったのはその声があったから……。」


美加はそっと息を吐き、ユウタの手を握る。

「ユウタ……そう、あなたはずっと待っていたんだね。怖くなかったのは、私の声じゃなくても、誰かが見守ってくれていたから……。」


伊月は静かに頷き、誘導を続ける。

「その感覚を大切に。ユウタくんの記憶と美加さんの記憶が交わることで、事件の全貌がはっきり見えてきます。」


室内は静まり返り、過去の暗闇の中で交錯した二つの視点が、ようやく重なり始めた。


【時刻:13:42/白茅の家・リビング】


美加はゆっくりと首を振り、かすれた声で言った。

「……中に、ユウタがいるって……叫んだんです。でも……もう、いい。もうこのことは、忘れてください……」


伊月が静かに手を握り、穏やかに諭す。

「美加さん、その感情もすべて重要です。無理に忘れようとする必要はありません。安全な場所で、心が整理されるまで話してください。」


葉山も補足するように促す。

「ユウタくんのご両親も、あなたの言葉を待っています。記憶を閉ざすよりも、語ることで真実が整理されます。」


美加の視線が沈み、手元の毛布を握りしめる。

「でも……園長が、あのとき……“もういい、このことは忘れろ”って……」


伊月は小さく頷き、静かに語りかける。

「園長の言葉も、あくまで当時の混乱の中での判断です。今はあなた自身が話すことで、真実を整理し、ユウタを守ることができます。」


葉山もやわらかく付け加える。

「誰かを責める必要はありません。ただ、あの子のために、今ここで思い出すことが大切です。」


美加はゆっくりと目を閉じ、震える手を毛布に絡めながら、封じていた記憶を少しずつ呼び覚ます。


【時刻:13:45/白茅の家・リビング】


美加はしばらく沈黙したまま、手元の毛布をぎゅっと握りしめていた。

やがて、かすれた声で小さく口を開く。


「……あのとき、忘れなきゃいけないって……自分に暗示をかけていました。『もう、ここにいなかったことにしろ』って……でも、先生は、待っていてくれました……」


その言葉に、ユウタの視点がフラッシュバックする。


――暗い倉庫の隅、冷たい床に座り込む自分。声は届かず、助けを求めても誰も振り向かない。目の前で箱や棚が倒れ、影の中で震えながら、ただ“忘れろ”と繰り返す大人の声だけが響いた。


ユウタの耳に残るのは、園長の低く緊張した声。

「もういい、このことは忘れろ……。君を責めるわけじゃない、ただ事態を早く収めたいだけだ。」


園長の行動背景も同時に浮かぶ。

職員不足、急な雨による園庭イベントの混乱、そして目の前の子どもたちの安全確保。パニックの中で、彼が下した決断は、最も無難な方法だった。だが、その一言が、ユウタと美加の心に深く影を落とした。


美加はゆっくりと目を閉じ、震える手を毛布に絡めながら続ける。

「ユウタくん……あのとき、本当に怖かったんですよね……でも、今、ここで会えて……安心してもいいんですよね……」


伊月が優しく頷き、手を軽く握り返す。

「ええ、その通りです。恐怖や痛みを忘れさせるのではなく、安全な環境の中で受け止めることが、心の回復につながります。」


葉山も静かに補足する。

「記憶を閉ざす必要はありません。語ることで整理され、ユウタくんを守るための力になります。」


美加の手が少しだけ緩み、震えながらも安心の色が混じる。

暗闇だったあの日々の影が、今、少しずつ光に変わり始める瞬間だった。


【時刻:13:50/白茅の家・リビング】


玲が静かに声を落とす。

「……ユウタ君は、川崎を“先生”と呼んでいた。」


その言葉が空気に漂う瞬間、ユウタは小さく顔を上げた。

目には不安と戸惑い、そしてほんのわずかな決意が混ざっている。


「……ぼく……あのとき、倉庫の奥で……ずっと、怖かった。暗くて、誰もいなくて……でも、先生が来るって信じて……待ってた。」


声は震え、言葉は短く途切れ途切れだったが、その一言一言に、あの日の恐怖と希望が凝縮されていた。


伊月はそっと頷き、安心できる環境にいることを示す。

葉山も優しい声で付け加える。

「大丈夫、ユウタくん。もう安全な場所にいる。誰も傷つけない、守られた環境だ。」


ユウタは小さく息を吐き、肩の力が少しずつ抜けていく。

倉庫の暗闇に閉ざされた記憶の影はまだ残るが、今、彼は初めて自分の言葉であの日を語った。

そして、その声は確かに、周囲の大人たちに届いたのだった。


【時刻:13:52/白茅の家・リビング】


沙耶はペンを握ったまま、ふと手を止めた。

手元のメモは途中で止まり、視線はユウタに向いている。


「……あのとき、ぼく……誰かに止められてたんだ。動いちゃダメだって……でも、待ってるって言われて……」


言葉は小さく、しかし確かな響きを持っていた。

ユウタの表情は曇り、あの日の行動の制限と、見守られるしかなかった感覚を思い出す。


伊月が穏やかに促す。

「その声も、覚えていていいんだよ。安全な場所だから。」


沙耶は小さく頷き、再びメモを手に取る。

止められていた行動も、今はただ、過去の事実として書き残すことができる。

部屋には静かな呼吸だけが響き、ユウタの言葉がゆっくりと現実のものとなっていく。


【時刻:13:54/白茅の家・リビング】


葉山はそっと頷いた。

「その感覚、覚えていますね……誰かに止められるような、意志に逆らえない感じ。今はもう、安全な場所だから大丈夫です。」


ユウタは沙耶の方を見た。

その目には、あの日の恐怖と混乱がわずかに残っているが、同時に、沙耶がそばにいて見守ってくれるという安心感もあった。


沙耶も目を細め、ユウタに向かって小さくうなずく。

「大丈夫、ユウタ。今はもう止める人もいないし、怖くないよ。」


ユウタの肩の力が少しだけ抜け、彼の視線は少しずつ柔らかくなる。

葉山は静かにその場を見守り、二人の微かな信頼の交わりを確かめるように、軽く息を吐いた。


意志に逆らえなかった過去――

それは今、二人の視線の中で、安全と理解に置き換わり始めていた。


【時刻:13:56/白茅の家・リビング】


美加はしばらく沈黙したまま、唇をぎゅっと噛んでいた。

小さな手で膝を抱え、深く息をつく。


「大丈夫……大丈夫……」

かすれた声が、静かな室内にぽつりと響いた。


伊月はそっと彼女の手を握り、穏やかに促す。

「焦らなくていい。思い出す必要があるのは、ユウタくんの安全のためです。」


美加の目がわずかに潤み、ユウタを見つめる。

その瞳の奥に、長い間押し込められていた後悔と恐怖、そして守らなければという決意が同時に映っていた。


葉山は静かにうなずき、彼女の傍に座ったまま、言葉をかける。

「大丈夫。ここでは、もう誰もあなたを止めることはありません。」


美加は再び小さく息を整え、震える手をゆっくりと膝から下ろした。

部屋の空気は少しずつ落ち着きを取り戻し、過去の痛みと現在の安全が静かに交差する瞬間だった。


【時刻:13:58/白茅の家・リビング】


玲の低い声が室内に静かに響く。


「……心理暗示か、認知誘導……。川崎は、それを彼女に施していた。」


美加は一瞬、目を見開き、指先がわずかに震える。

ユウタもその言葉を耳にして、顔を強張らせた。


葉山が柔らかく促す。

「怖がらなくていい。今ここでは、もう誰の意志にも従う必要はない。」


伊月は沈黙のまま、美加の肩に手を置き、ゆっくりと頷く。

部屋の空気は重い静寂の中で張り詰めているが、同時に、少しずつ解放への道筋が見え始めた。


美加は唇を噛みながら小さく息を吐き、ユウタの顔を見つめる。

その瞳に、長く抱えてきた罪悪感と後悔、そして守りたいという強い意志が混ざり合っていた。


【時刻:14:05/白茅の家・リビング】


玲が低く告げた。


「川崎は、ユウタを閉じ込め、美加に記憶の改変を行った。」


美加の肩がわずかに震える。

ユウタはその言葉を聞き、唇を固く結び、目を伏せた。


葉山が優しく声をかける。

「もう大丈夫です。ここでは誰もあなたを縛りません。安全です。」


伊月も静かに頷き、手元のノートに誘導手順を確認しながら続けた。

「これからは記憶を整理し、必要な事実だけを安全に取り戻す。恐怖や強制はもうない。」


美加は目を閉じ、小さく息をついた。

ユウタもまた、深く息を吸い込み、揺れる胸の内を抑えつつ、目の前の大人たちの存在に少しだけ安心を覚えた。


【時刻:14:15/白茅の家・リビング】


玲は書類と録音機を前に整理しながら、低く助言した。


「ユウタ君。無理に思い出す必要はない。必要なのは、今の君が安全だと感じることだけだ。」


葉山が隣で穏やかに付け加える。

「恐怖や罪悪感に囚われず、自分の記憶を受け止められるペースで構いません。」


伊月は手元のノートを閉じ、静かに微笑む。

「そして、美加さん。彼を守る気持ちを強制ではなく、優しさとして示してください。それが彼にとっての安心になります。」


ユウタは目を細め、深く息を吸い込んだ。

小さな肩の震えが少しずつ落ち着き、部屋には静かな呼吸だけが響いた。


【時刻:14:17/白茅の家・リビング】


玲は美加に目を向け、静かに助言した。


「美加さん。無理に過去を振り返らせる必要はありません。ユウタ君の記憶の扉は、彼自身のペースで開かれるものです。」


葉山もそっと補足する。

「彼の体験を引き出すときは、必ず安全な環境を整え、感情的負担が最小限になるよう配慮してください。焦りは逆効果です。」


伊月はさらに具体的な方法を伝える。

「ガイド付きイメージ法や逐次的緩和法で、恐怖心や混乱を和らげながら、必要な情報を導き出す。美加さんはサポート役として、見守る立場に徹してください。」


美加は深く頷き、肩に掛けた毛布をぎゅっと抱きしめる。

「わかりました。彼のペースで…安全を守りながら見守ります。」


室内には、安心感と緊張の残る静けさが漂った。


その時、ロッジの入口のチャイムが鳴る。


落ち着いた足音とともに、スーツ姿の男性が室内に現れた。

鋭い視線に、的確な分析力を感じさせる。


玲が短く紹介する。

「こちらは藤堂透とうどう・とおる。元犯罪心理分析官。

行方不明者捜索と行動パターン分析に長けている。」


【時刻:14:42/白茅の家・リビング】


藤堂は短く言葉を切り、端的に告げた。

「川崎の現在の動向を掴む。すでに過去の経歴を照合中だ。」


玲が軽く頷く。

「情報が揃い次第、すぐに共有してください。」


伊月は美加の肩にそっと手を置き、穏やかに言った。

「心配しないで。安全な場所で全てが整理されている。焦らず、ゆっくりと事実を受け止めましょう。」


美加は小さく息を吐き、目を伏せる。

「はい…わかりました。」


室内には沈黙が漂い、だがその空気には、少しずつ前へ進もうとする力が含まれていた。


【時刻:14:45/白茅の家・リビング】


藤堂は資料を広げ、落ち着いた声で続けた。

「もし心理誘導を用いていたなら、次の行動も“記憶操作が可能な環境”へ移行するはずだ。」


玲が腕を組み、低く呟く。

「場所の特定は急務だ。安全確保と同時に、監視ルートも押さえる。」


伊月は静かにうなずき、美加に向けて優しく声をかける。

「君はここにいる。外のことは心配しなくていい。私たちが整理する。」


美加は手を握りしめ、少しずつ安心を取り戻す。

「……わかりました。」


室内には、緊張と静寂が混ざった空気が漂いながらも、行動の方向性が少しずつ見え始めていた。


【時刻:14:50/白茅の家・業務スペース】


橘奈々は端末に目を走らせながら、過去の行方不明者データと照合を始めた。

「川崎の過去の居住地、職歴、行方不明者リスト……全てリンクできる情報はここに集約します。」


玲が肩越しに画面を覗き込み、低く言った。

「矛盾や空白を見逃すな。小さな手掛かりが全体を繋ぐ。」


奈々は指を滑らせ、注意深くデータをチェックする。

「……あ、この記録。2015年の倉庫棟行方不明事件と川崎の動きが重なります。時間軸も合致。」


伊月が静かに補足する。

「心理誘導の可能性を考えると、環境や人物との接触も再現すべきです。ここから解析に必要な条件を洗い出せます。」


室内の空気は緊張感に包まれつつも、情報の整理と分析によって、少しずつ行動の方向性が見えてきていた。


【時刻:14:55/白茅の家・業務スペース】


室内のドアが静かに開き、一人の女性が入ってきた。白衣を整え、冷静な眼差しで周囲を見渡す。


玲が手短に紹介した。

「こちらは西園寺結。法医学鑑定官です。行方不明者の痕跡解析、過去の事例照合を専門にしています。」


西園寺は軽く頭を下げ、端末や資料を手に取った。

「過去の事件記録と現状を突き合わせ、痕跡や証拠の見落としがないかを確認します。」


橘奈々がすぐに画面を指さす。

「川崎の移動履歴と倉庫棟の監視記録、そして過去の行方不明者情報。ここを中心に解析してもらえますか?」


西園寺はうなずき、静かに作業を開始した。室内の空気に、緊張感と確かな専門性が混ざり合う。


【時刻:14:58/白茅の家・業務スペース】


西園寺結は端末を開き、過去の行方不明者データベースと川崎の行動履歴を照合し始めた。


「対象者は、行方不明・潜伏・記録不整合の三つのカテゴリに分かれます」と、西園寺は端的に説明する。

「行方不明……公式記録上、所在が不明な人物。

潜伏……所在は判明しているが、連絡手段が途絶している人物。

記録不整合……公的データや証言に矛盾がある人物です。」


橘奈々が端末画面を覗き込みながら確認する。

「川崎の移動履歴と倉庫棟周辺の監視記録を合わせると、潜伏カテゴリに一致する動きが見えます。」


西園寺は静かに頷き、解析を続ける。

「これで、過去の事件や行方不明者情報との突合が可能です。痕跡の繋がりや異常点を整理すれば、次の行動予測にも役立ちます。」


室内には、確実な手順で真相に迫る専門家たちの緊張感が漂っていた。


【時刻:15:12/白茅の家・業務スペース】


西園寺結は端末を閉じ、静かに周囲を見渡した。

「骨・衣服・血痕――すべてが鍵になります。まずは現地再確認が必要です。」


玲が軽く頷き、低く言った。

「過去の痕跡を見逃すわけにはいかない。奈々、現場情報の整理を頼む。」


橘奈々は手元のファイルをめくりながら応答する。

「はい。防犯カメラ映像と現地記録、過去の証言をすべてまとめます。」


静かだが張り詰めた空気の中、専門家たちは手際よく次の行動を確認し合った。

真実に至るための準備が、着実に進んでいく瞬間だった。


【時刻:15:45/白茅の家・業務スペース】


神垣惟道は穏やかな呼吸を繰り返しながら、静かに口を開いた。

「箱に残された記憶は、ただの物理的な遺留品ではありません。……人の想いが染み込んだ“記録”です。」


玲が視線を向け、短く頷く。

「つまり、物理的な証拠だけでなく、心理的痕跡も同時に読み取れるわけだな。」


神垣は静かに頷き、手元の小箱を軽く触れた。

「はい。時間の経過とともに忘れ去られた記憶の残滓が、まだこの箱に宿っています。……それを、慎重に引き出す必要があります。」


橘奈々が端末に手をかけ、微かにメモを取りながら言った。

「心理的痕跡と物理的証拠の照合……解析は同時進行ですね。」


室内の空気は張り詰め、静謐さの中にわずかな緊張が漂った。

忘れられた記憶と向き合う、この瞬間の重みが全員の胸に響いていた。


【時刻:15:50/白茅の家・業務スペース】


東雲葵が静かに室内へ入ると、その場の空気が一瞬、軽くざわめいたように感じられた。落ち着いた佇まいと鋭い感受性を宿した瞳が、机の上に置かれた小箱を瞬時に捉える。


玲が短く紹介する。

「こちらは東雲葵。深層心理視覚化のスペシャリストです。意識の奥に沈む記憶の断片を、映像として具現化することが可能です。」


葵は軽く一礼し、手元の機器を確認しながら静かに言った。

「対象の記憶に直接干渉することは避けつつ、映像として確認できる形に変換します。無理のない範囲で、心の中の断片を浮かび上がらせることが可能です。」


玲は腕を組み、わずかに頷く。

「なるほど。物理と心理、そして映像化――このチームなら、あの日の記憶を限界まで掘り起こせるはずだ。」


室内の空気は再び静まり返り、全員の視線が小箱と葵の機器に集中した。

ここから、新たな“記憶の可視化作業”が始まろうとしていた。


【時刻:16:15/白茅の家・業務スペース】


美加の証言、倉庫で発見された遺留品、そして川崎の端末に残された操作履歴。すべての情報が、静かにだが確実にひとつの線で繋がっていた。


玲は腕を組んだまま、書類と端末画面を順に確認する。

「この三つの証拠が揃ったことで、あの事件の流れが初めて正確に把握できる。」


橘奈々が端末を操作しながら補足する。

「時間軸、位置情報、接触履歴……これまで不明だった矛盾点もすべて整理されました。これで捜査は大きく前進します。」


神垣惟道は静かに頷き、深い呼吸を一度吐く。

「ここからは、残された微かな記憶や心の傷に触れずに、真実を紡ぎ出す段階です。」


伊月光哉が穏やかに手を差し伸べる。

「被害者や関係者の心の安全を最優先に、記憶の整理を支援しましょう。」


室内には、緊張と集中が入り混じった静寂が漂う。

この瞬間、全員が確信していた。――あの日の真実は、確実に姿を現そうとしている。


【時刻:16:18/白茅の家・業務スペース】


伊月光哉は穏やかに目を細め、深くうなずいた。

「心理的トラウマと記憶抑制の影響が、事実の認識を曇らせていました。しかし、証拠と証言の整理、そして安全な環境での逐次的緩和法やガイド付きイメージ法の適用により、真実を語る準備が整いました。」


玲が端末の画面を指でなぞりながら確認する。

「事故の瞬間、閉鎖された倉庫内での状況、誘導されていた心理状態――これらがすべてつながった。ユウタの体験も、証言も、矛盾なく再現可能です。」


橘奈々が補足する。

「証拠照合と記憶復元を組み合わせることで、心理的抑制や誘導の影響を排除した“事実のみ”が浮かび上がりました。」


室内には静かな緊張感と、しかし確かな前進の空気が満ちていた。

これで、誰もが納得できる形で真実を確認できる段階に到達したのだ。


【時刻:15:55/白茅の家・業務スペース】


午後の柔らかな陽光が室内に差し込み、静かな空気が流れる。

美加はユウタの母、川崎典子と向かい合い、互いの過去を赦し合うように言葉を交わしていた。


「あの日、ずっと心に閉じ込めていた……ごめんなさい」

美加の声はかすかに震え、けれど誠意が滲んでいた。


典子は深く息を吸い、ゆっくりと頷く。

「あなたも、よく耐えてくれたわね……ありがとう」


伊月光哉は隣で静かに観察しながら、優しい声で補足する。

「今、記憶の整理が進み、心の中の迷路も少しずつ形を取り戻しています。安全な空間で話すことが、心理的回復には欠かせません。」


葉山静巳は記録タブレットを操作しながらも、視線は二人に注がれていた。

「証言と感情の整合を確認しながら、正確な心理証拠を残すことができます。」


美加は静かに目を閉じ、深呼吸をひとつ。

「ユウタ……ずっと怖かったね。でも、これからは大丈夫……」


部屋には、和解と再生の静かな空気が満ちていた。


【時刻:06:58/ロッジ・ファミリー部屋】


昌代の部屋のドアが開き、10歳の朱音が元気よく飛び出してきた。

「ただいま!」


朝の柔らかな光がロッジのファミリー部屋を包み込み、朱音の小さな足音が床に軽やかに響く。

昌代はベッドのそばで微笑み、手を差し伸べた。

「おかえり、朱音。朝ごはんはもう少ししたらね」


朱音は手に握ったノートを差し出し、興奮気味に言った。

「ばぁば、見て!みんな仲良くしてるところ描いたんだよ!」


ノートを開くと、朱音の家族や事務所の仲間たちが笑顔で手を取り合い、温かく過ごしている様子が描かれていた。

昌代はその絵を見て微笑む。

「ふふ、ほんとにみんな仲良くしてるね。朱音の願いがそのまま絵になったみたいだわ」


朱音は得意げに頷き、ノートを胸に抱えた。

「うん!みんなが笑ってると、わたしも嬉しいんだ!」


その瞬間、部屋には笑い声と柔らかな光が満ち、今日一日の始まりを優しく告げていた。


【時刻:07:05/ロッジ・ファミリー部屋→リビング】


朱音は笑顔を弾ませながら、ノートを抱え、軽やかにリビングへ駆けていく。

朝の光に照らされ、髪がふわりと揺れる。


リビングで座っていた玲の膝に、ぴょんと飛び乗る朱音。

「玲お兄ちゃん、見て見て!みんな仲良くしてる絵描いたんだよ!」


玲は一瞬目を細め、静かに微笑む。

「そうか……朱音が描いたんだな。みんな笑顔だな」


朱音は嬉しそうにノートを差し出し、興奮気味に絵の説明を始める。

「ここがばぁばで、ここがパパで……奈々さんもいるの!それから、影班の人たちもね!」


玲は膝に乗った朱音をそっと抱き、優しく頷いた。

「うん……みんな、本当に仲良くしてるな」


窓から差し込む朝日が二人の輪郭を柔らかく照らし、リビングには穏やかな空気が満ちていた。


【時刻:07:07/ロッジ・リビング】


玲は膝の上の朱音をそっと抱きながら、その視線を窓の外へと移した。

庭先の木々は朝の光にほんのり色づき、風に揺れる葉の音が静かに響く。


「……こうして朝を迎えられるだけでも、悪いことは続かないな」

心の中で小さくつぶやき、朱音の笑顔を確認する。


朱音は窓の外には気づかず、ノートの絵に夢中だ。

「玲お兄ちゃん、見て!ここ、影班の人たち、みんなちゃんと笑ってるんだよ!」


玲は再び朱音を見つめ、軽く微笑む。

「うん……本当に、みんな笑ってるな」


外の景色と、家の中の温かさが静かに交わる瞬間。

一日の始まりが、ゆっくりと、確かに動き出した。

ユウタからの手紙(10歳の文章)


【時刻:/】


玲お兄ちゃんへ


ぼくはもう、ひとりじゃないって思えるよ。

圭介さんがいてくれて、本当に安心しています。

倉庫のこと、最初はこわかったけど、もう思い出しても泣かないよ。

毎日、学校に行って、おうちに帰ったらみんなと笑って過ごしています。


ありがとう。


ユウタ



美加先生からの手紙


【時刻:/】


皆さまへ


この度は、ユウタ君の件で大変お世話になりました。

圭介さんをはじめ、玲さん、奈々さん、そして影班の皆さまのおかげで、ユウタ君は安全で穏やかな日々を取り戻すことができました。

彼にとって、血のつながりではなくても「安心できる大人」がそばにいることの大切さを改めて実感しました。

これからも彼の成長を温かく見守ってくださることを心よりお願い申し上げます。


美加

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