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24話 「帰る場所、守る影」

佐々木家・関係者

1.佐々木朱音あかね

•年齢:10歳

•圭介と沙耶の娘。事件の中心人物で、行方不明となる。

•純粋な直感と観察力を持ち、事件解決において重要な手がかりを提供。

•絵日記やスケッチブックに日々の記録を描く習慣がある。

2.佐々木沙耶さや

•朱音の母。事件当時は仕事中で現場には不在。

•家族の安全を第一に考える母親。事件後は家庭と仕事の両立に新たな決意。

3.佐々木圭介けいすけ

•朱音の父。沙耶の夫。

•家族を守り切った安堵と責任感を持つ。

4.佐々木昌代まさよ

•沙耶の母、朱音の祖母。

•玲探偵事務所のメンバーとしても行動。孫の安全を守るために依頼を持ち込む。

5.佐々木啓一けいいち

•圭介の弟。過去の事件と今回の誘拐事件の関係に重要な手がかりを持つ。

•朱音誘拐事件の現場情報や端末データを通して真相に迫る役割。



玲探偵事務所

1.れい

•探偵。冷静沈着で分析力が高い。

•事件全体を指揮し、影班や奈々と連携して捜査を進める。

2.橘奈々(たちばな なな)

•探偵助手。高度な情報処理能力を持つ。

•証拠整理、防犯カメラ解析、聞き込み情報のまとめを担当。

3.影班

•秘密裏に動く精鋭チーム。

•成瀬由宇:暗殺・対象把握担当。漆黒の戦闘服、冷静で無口。

•桐野詩乃:毒物処理・痕跡消去担当。紫の瞳と白手袋が特徴。

•安斎柾貴:精神制圧・記録汚染担当。黒髪短髪、高身長で筋肉質。

•朱音の安全確保のために動き、任務後は家族のような存在として意識を持つようになる。



地域・関係者

1.商店街の人々

•目撃情報や防犯カメラを提供。

•事件の協力が地域安全意識の向上につながる。

時間:11月末・午後3時

場所:玲探偵事務所・執務室


事務所の静けさを切り裂くように、ドアが勢いよく開いた。

佐々木昌代が息を切らし、肩で荒く息をしながら駆け込んでくる。


「孫が……孫がいなくなったんです!」


玲は机の書類から顔を上げ、眉をひそめた。

「孫……? どなたのことですか?」


昌代の手がわずかに震え、声が詰まる。

「私の孫です。今日、家に帰ったら……いなくて、見当たらないんです……!」


窓の外では、晩秋の冷たい風がビルの谷間を吹き抜け、乾いた落ち葉がゆらりと転がっていた。湿気を含んだ空気が、事務所の緊張感を一層際立たせる。


玲は静かに立ち上がり、落ち着いた声で指示した。

「まず落ち着いてください。順を追って状況を整理しましょう」


昌代は肩を震わせながら深呼吸し、震える手で鞄を握りしめた。

「どうか……協力してください……」


奈々がタブレットを取り出し、画面に情報を書き込む。

「まずは最後に孫さんを見た時間と場所を整理します。手がかりは一つずつ確認するしかありません」


事務所の空気が、一瞬で緊迫した調査の場へと変わった。


事務所のメンバーは、初めて聞く“孫の行方不明”という話に一瞬息をのみ、すぐに行動に移した。奈々はタブレットを取り出し、情報整理の準備を整える。


「まず、どのくらいの年齢の方ですか?」玲が尋ねると、昌代は写真を差し出した。


写真には、ふんわりした栗色の髪と大きな瞳をした10歳の少女が写っていた。朱音――昌代の孫である。


「これは……今日の朝の写真です。学校から帰るときまで元気だったのに……」昌代の声が震える。


玲は写真をじっと見つめ、冷静に分析を始める。

「名前と年齢、最後に見た場所と時間、服装……情報はすべて整理しておく必要があります」


奈々が聞き込みや防犯カメラの確認など、具体的な調査手段を確認する。


「何か手がかりはありますか?」奈々が尋ねると、昌代は首を振る。

「いえ……家の中にもいないんです。玄関の鍵は閉まっていました……」


玲は静かに深呼吸し、次の行動を決めた。

「わかりました。まずは状況を整理し、目撃情報や防犯カメラの確認から始めましょう」


昌代の目には、僅かに希望の光が差した。

「お願いします……どうか助けてください」


午後の淡い日差しが窓から差し込み、事務所内の空気を一層冷たく、そして緊迫したものに変えていた。


時間:11月末・午後3時30分

場所:玲探偵事務所・執務室


玲は写真を手に取り、静かにメンバーに指示を出した。

「まず、状況を整理しよう。最後に朱音ちゃんが目撃された時間と場所を正確に把握する必要がある」


昌代は深呼吸して、声を落ち着けながら答える。

「学校から帰宅したのは午後2時半ごろです。その後、家の中には誰も来ていません。午後3時前には家に帰ってきていなかったことを確認しました」


奈々がタブレットを操作し、近隣の防犯カメラや通行人の目撃情報を検索する。

「近所の交差点、駅前、商店街……通学路のカメラ映像は順次確認します。まずは家から半径500メートル以内を重点的に」


玲は昌代の写真を再びじっと見つめる。

「服装は? 特徴は?」


昌代は写真を指さしながら答えた。

「今日の服装は、赤いコートに紺のスカート、リュックは黄色です。靴は白いスニーカー……目立つ色です」


奈々がメモを取りつつ、次の手を考える。

「目撃情報も収集します。付近の住民や登校途中の子どもたちに聞き込みを行い、スマホで映像も回収可能です」


玲は机に広げた地図に印をつける。

「家から学校までのルート、そして最近朱音ちゃんが通っていた場所をすべて洗い出す。動線上の防犯カメラも確認する。逃走や誘拐の可能性も視野に入れ、すぐに行動に移そう」


昌代の手が小さく震える。

「お願いします……本当に、どこに行ってしまったのか……」


午後の日差しが事務所に差し込み、机上の資料と写真を照らす。静かだが張り詰めた緊張感が、部屋全体を包んでいた。


奈々が立ち上がり、タブレットを手に決意を込めて言う。

「すぐに聞き込みを開始します。手分けして情報を集めましょう」


玲も立ち上がり、冷静にメンバーに指示する。

「昌代さん、ここで情報の整理と連絡調整を。私は防犯カメラの映像解析を担当します。すぐに行動開始」


事務所のメンバーはそれぞれ動き出した。小さな緊張の中に、希望の光が差し込む――朱音を救い出すため、行動は始まったのだった。


時間:11月末・午後3時45分

場所:玲探偵事務所・執務室


奈々はすぐにスマートフォンを取り出し、朱音の母である沙耶と父・圭介に連絡を入れる。

「沙耶さん、朱音ちゃんが行方不明になりました。詳しい状況は後ほどお伝えします。今は落ち着いてください」


昌代は電話口で震える声を聞きながらも、メモを取り続ける。

「お母さん……大丈夫ですか? 今、事務所で情報を整理しています」


一方、玲は事務所の防犯カメラ解析用パソコンの前に座り、朱音が通学路で通った可能性のあるカメラ映像を順に確認していく。

「ここから学校までのルートは、交差点A、商店街B、駅前C……この順に確認する」


画面には、時間ごとに撮影された映像が並ぶ。玲は集中した目で、一コマずつ慎重に見比べていく。

「午後2時45分、交差点A……通学途中の子どもたちの映像に朱音の姿はなし……」

「商店街B、午後2時50分……ここも確認……あ、リュックの黄色が映った。通り過ぎたかもしれない」


奈々が別の端末で住民や通行人の目撃情報を整理しながら報告する。

「近くのコンビニ前で午後2時55分ごろ、朱音ちゃんを見たという情報が一件あります。周囲の人にも聞き込みを進めています」


玲は地図と映像を照らし合わせながら、指でルートをなぞる。

「この時点で、学校から家までの主要ルート上での移動が確認できる……逃走ルートも把握しておく必要がある」


昌代は資料を手に、深く息をつく。

「どうか、無事で……」


玲は静かに頷き、冷静な口調で指示する。

「奈々、目撃情報の精査を進めつつ、防犯カメラの映像もさらに半径を広げて確認して。昌代さん、沙耶さんと圭介さんには連絡を取り続けて。朱音ちゃんの情報が入り次第、すぐに知らせる」


午後の光が差し込む事務所で、画面に映る小さな黄色いリュックが、メンバー全員の目と心を集中させる。時間との戦いが、今、始まっていた。


時間:11月末・午後4時30分

場所:商店街周辺


奈々は資料と朱音の写真を手に、商店街の路地を足早に歩いた。

人通りはまだ多く、買い物袋を提げた人々が行き交う。


「すみません、少しお時間よろしいですか?」


奈々は通行人に声をかけ、朱音の写真を見せる。

「この女の子を見かけませんでしたか? 午後2時半〜3時ごろです」


商店街の店員や通行人が足を止め、写真を覗き込む。

「うーん……黄色いリュックの子……あ、確か交差点で見かけたかも」

「急いでた感じで、一人で走っていったような……」


奈々は丁寧にメモを取り、さらに質問を重ねる。

「そのとき、周りに付き添いの大人はいませんでしたか?」

「いや、いなかったと思います。背後に誰か気配があったかどうかは……よく覚えていません」


少し離れた自転車置き場でも、別の目撃者が名乗り出る。

「この子なら見ました。バス停の方向に向かって走っていったのを覚えています」


奈々は深く頷き、写真をもう一度見せる。

「ありがとうございました。何か思い出したことがあれば、すぐにご連絡ください」


午後の柔らかい日差しが商店街を包む中、奈々の足取りは止まらない。

次の聞き込み場所へ向かいながら、頭の中で映像と証言を重ね合わせる。


「交差点A、バス停B、駅前C……つながるルートがあるはず」


小さな情報の断片が、朱音の足取りを浮かび上がらせ始めていた。


時間:11月末・午後5時

場所:玲探偵事務所


奈々が事務所に戻ると、手には商店街周辺の防犯カメラのSDカードがしっかり握られていた。


「お疲れさま。手がかりはあった?」


玲が静かにモニターを指さす。奈々はうなずき、SDカードをパソコンに差し込む。


画面に映し出された映像は、午後2時半過ぎの商店街の様子。

小さな黄色いリュックを背負った朱音が、歩道を歩く。だが、よく見ると、朱音の後ろを不自然に影のような人物がついてきていた。


奈々は再生を止め、画面の一コマを静止する。

「この子……一人で走ってるんですけど、後ろに……誰かいます」


玲は眉をひそめ、ズームで影の人物を確認する。

黒っぽい服装、フードをかぶって顔を隠している。

「近づきすぎず、遠すぎず……朱音を追っているようだな」


奈々はメモを取りながら続ける。

「交差点A、バス停B……映像でも追えるかもしれません。歩き方や姿勢から特徴を絞れるはずです」


玲は頷き、SDカードをもう一枚挿入する。

「別の角度の映像を照合してみよう。時間差で追いかけ方が分かれば、人物の動線も予測できる」


モニターに映る商店街の景色は、午後の柔らかい光を受け、普段は穏やかな通り。しかし、画面の端に映る黒い影は、事件の緊張感を静かに増幅させていた。


奈々が唇をかむ。

「……この人、朱音を連れ去るつもりだったんでしょうか」


玲は黙って画面を見つめ、指で映像の軌跡をなぞる。

小さな手がかりが、やがて全体像を浮かび上がらせる。

そして、次の一手を導く光となるはずだった。


時間:11月末・午後5時30分

場所:玲探偵事務所


奈々が防犯カメラの映像を解析していると、玲の電話が鳴った。

「もしもし、こちら玲です」


電話の相手は、商店街近くのカフェ店員だった。

「今日の午後、黄色いリュックを背負った小さな女の子を見かけました。フードの黒い男性がずっと後ろを歩いていたんです。角を曲がった後、青い自転車に乗った青年とすれ違ったのを覚えています」


玲はメモを取りながら、画面の映像と照合する。

「角を曲がった方向……モニターの映像では商店街の北側通路に入っていますね」


奈々は手早く地図に軌跡を書き込む。

「防犯カメラの映像とも合致します。フードの人物と朱音が北通路へ進んだのは、午後2時40分前後です」


玲は顎に手を当てて考える。

「青い自転車の青年……もしかすると、偶然ではなく、何らかの関わりがあるかもしれない」


さらに、奈々はもう一つの手がかりを提示した。

「近くの公園で、保育園の先生から“黄色いリュックを持った女の子が泣いていた”と目撃情報がありました。時間は午後2時45分。フードの人物の姿は確認できません」


玲は地図上で通り道を線で結び、指でなぞる。

「映像・目撃・時間軸すべてがつながってきた。北通路から公園に向かった可能性が高い」


奈々が一息つく。

「……急がないと。午後3時には、さらに情報が必要です」


玲は決意を固めるようにうなずいた。

「手分けして確認だ。目撃情報、近隣の防犯カメラ、そして可能であれば通行人への聞き込み。朱音の居場所を少しでも早く特定する」


小さな黄リュックの少女の姿が、街の隅々に点在する手がかりの光として、事務所の中で静かに浮かび上がった。


時間:午後3時30分

場所:佐々木家・居間


玲と奈々は佐々木家の居間に到着した。暖炉のかすかな火が揺れる薄暗い部屋で、昌代が手元のファイルを広げ、写真を差し出す。


「これが朱音です。10歳です。昨日までは元気に学校へ通っていました」


奈々が写真に目を落としながら質問する。

「最後に目撃されたのは、どのあたりですか?」


昌代は少し間を置き、低い声で答えた。

「午後2時半、家の近くの商店街を通りかかったところです。それ以来、姿が見えません」


玲は静かに写真を見つめ、眉をひそめる。

「まずは手がかりを整理しましょう。通行人の証言や、防犯カメラの映像を確認します」


昌代はファイルをめくり、学校や習い事先の連絡先、近所の目撃情報などを書き込んだメモを渡す。

「できる限り協力します。どうか、朱音を……」


奈々はメモを手早く整理し、調査の準備を整える。

「まずは近隣の目撃情報を確認し、商店街の防犯カメラ映像を集めましょう」


玲は静かに頷き、外に出るための準備を始めた。

「一刻も早く朱音の行方を突き止めます」


居間の空気は緊張に包まれつつも、仲間としての連帯感が漂う。

昌代と玲、奈々は寒さの残る午後の街へと駆け出した。


時間:午後4時

場所:商店街周辺


奈々は手早くメモ帳を取り出し、商店街で遊ぶ子どもたちや買い物中の保護者に声をかけた。

「すみません、少しお話を伺えますか。こちらの女の子、朱音ちゃんを見かけませんでしたか?」


近くの子どもが指をさし、口をもごもごさせる。

「さっき…学校から帰る途中で見かけたよ。あの角を曲がって……」


保護者の一人も頷き、補足する。

「私は商店街の入り口で少し買い物していました。その時間、女の子はひとりで歩いていましたね」


奈々はメモを取りながら、確認を重ねる。

「ありがとうございます。どちらの方向に行ったか覚えていますか?」


「そうね…あの本屋さんの角を曲がった先、かな」と保護者は言う。


情報を整理する奈々の目は真剣そのものだ。

「学校からの帰り道、最後に目撃されたのはこの商店街の辺り…防犯カメラの映像と照合すれば、手がかりが見つかるかもしれません」


夕方の冷たい風が通りを吹き抜ける中、奈々は商店街の防犯カメラ設置場所を確認しながら、次の行動へと移った。


時間:午後5時

場所:玲探偵事務所


奈々は商店街の防犯カメラ設置場所を回り、管理者に事情を説明してSDカードを受け取った。

事務所に戻ると、すでにパソコンを前に待機していた玲が目を上げる。

「奈々、SDカードは?」

「こちらです。午後4時頃、商店街の通りを歩く朱音ちゃんの姿が映っているはずです」


奈々がカードを渡すと、玲は迅速に映像を再生した。

小さな画面に、午後4時前後の通りの様子が映し出される。


――確かに、画面の中央に小さな女の子の姿。朱音だ。ランドセルを背負い、少し早足で歩いている。


玲の指が一瞬止まる。

「この角を曲がった後、右手に黒い車が停まっている。動きが不自然だ…」


奈々はメモを取りながら頷く。

「映像に写る通行人や車のナンバーもチェックしました。こちらの黒いワゴン車は、近くでの目撃情報とも一致します」


画面を拡大しながら、玲は冷静に分析を進める。

「女の子はその後、画面の外へ消えている。付近のカメラ映像をさらに確認すれば、進行方向が分かるはずだ」


手がかりは少しずつ繋がり始めていた。

「まずは次のカメラ映像を取得しましょう。移動のルートを追い、可能な限り朱音ちゃんの足取りを特定します」


奈々はSDカードを整理し、次の解析準備に取り掛かった。

静かな事務所に、キーボードを打つ音だけが響く――朱音の行方を追う、新たな手がかり探しが始まった瞬間だった。


時間:午後5時30分

場所:玲探偵事務所


奈々は事務所のテーブルに、商店街で得られた目撃情報とSDカードから解析した映像を広げた。


「午後4時すぎ、八百屋の前で朱音ちゃんを見たという目撃情報があります」

奈々が地図上に目撃位置を示す。


玲はモニターの映像をスクロールし、画面の女の子の動きを確認する。

「この八百屋の前を通ったのは、午後4時3分だ。目撃情報とほぼ一致する」


奈々はうなずき、他の目撃情報も確認する。

「次はコーヒーショップ前。こちらでは、ランドセルを背負った女の子が自転車に気を取られて立ち止まったとあります」


玲は地図上で通りを追いながら、映像と照合した。

「午後4時5分。確かに映像でも一瞬立ち止まる様子がある。この後、画面の右端に消えている。通行人に紛れて、車の影に入った可能性がある」


奈々は次の手がかりを探る。

「付近のカメラ映像を確認すれば、車や人物が追跡できるかもしれません」


玲は静かに頷き、指示を出す。

「目撃情報と防犯カメラ映像を照合することで、女の子の移動ルートを正確に割り出せる。可能な限り時間ごとの動きを整理してほしい」


奈々はパソコンの前に座り、次々と映像と証言を照合していく。

手がかりはまだ断片的だが、確実に朱音の足取りの輪郭が見え始めていた。


事務所には緊張感が漂いながらも、冷静な作業の音だけが響く――行方不明の少女を追う初めの一歩だった。


了解です。小説形式で描きます。



時間:午後5時

場所:玲探偵事務所


玲と奈々は、解析済みの防犯カメラ映像をモニターに映して確認していた。


「ここで朱音ちゃんが通り過ぎているのが分かります」

奈々が指で画面をなぞる。


玲は映像の一時停止ボタンを押し、細部を確認する。

「周囲に怪しい人物は映っていない。だが、この角を曲がった後の映像が消えている」


奈々はSDカードのデータを追加解析用にパソコンに取り込む。

「角の先に別のカメラがあるはずです。そこから次の映像を引き出せれば、移動経路が追えるかも」


玲はうなずき、静かに指示する。

「同時に朱音ちゃんの両親にも連絡を。警察には行方不明の届け出を確認させて、追加映像の入手を依頼する」


奈々は手際よく電話をかけながら、モニターで映像の確認を続けた。

「午後4時10分、商店街の別角度カメラに映っていました。通行人の影に隠れるようにしている……」


玲は目を細め、映像を凝視する。

「よし、ここまでの手がかりで移動ルートの輪郭は掴めた。あとは両親と警察との情報を照合して、見落としがないか確認する」


防犯カメラ映像の解析と目撃情報の照合――小さな断片が、少女の行方を照らす光となりつつあった。


時間:午後5時30分

場所:玲探偵事務所


奈々は、警察から提供を受けた新たな防犯カメラ映像のデータをパソコンに読み込んだ。

画面には、商店街の北側通路――朱音が姿を消したとされる地点が映し出される。


玲が椅子を引き寄せ、モニターに目を凝らす。

「再生、お願い」


奈々が頷き、映像を再生する。

午後4時15分。

人通りの少ない路地に、黄色いリュックを背負った小さな背中が現れた。

朱音だ。


「ここまでは確認できる……その後――」


玲の声が途切れた。

画面の右端に、黒いフードを深く被った人物が現れる。朱音との距離は十メートルもない。

人物は足早に近づくが、決して追いかけるような速さではない。まるで“タイミングを計っている”かのような歩き方だった。


奈々は映像を一時停止し、拡大する。

「顔までは確認できません。でも、この人、右手に何かを持っています。スマートフォン……いえ、無線機のようにも見えます」


玲は映像をさらにズームし、慎重に確認する。

「服の特徴は黒いフード、手袋、そして腕時計。特徴をまとめて警察にも共有しましょう。監視カメラの別角度で同一人物を確認できるかもしれません」


奈々は手際よく映像の切り出し作業を進める。

「午後4時17分、この地点で朱音ちゃんの姿が完全に消えています。時間的に、この人物の行動と重なっています」


玲は腕を組み、深く息をついた。

「つまり――朱音はこの通路で、何者かに連れ去られた可能性が高い」


事務所の中に、冷たい緊張が走る。

暖房の音すら遠のいたように感じる沈黙の中で、玲は静かに言葉を続けた。


「今夜中に、この人物の足取りを突き止める」


奈々は頷き、キーボードを叩く。

その音だけが、静まり返った部屋の中に確かに響いていた。


時間:午後6時

場所:佐々木家・居間


玲と奈々は、解析した映像データを持って佐々木家を再び訪れた。

居間では、朱音の両親が沈痛な表情で待っていた。

暖房の音だけが、張りつめた空気の中で小さく唸っている。


玲はノートパソコンを開き、静かに口を開いた。

「朱音ちゃんの姿が最後に確認されたのは、商店街北側の通路です。午後4時17分。その直後に、黒いフードの人物が近づいているのが映っています」


母親は顔を覆い、震える声を漏らした。

「そんな……朱音が、誰かに……」


奈々がやさしく言葉を添える。

「まだ連れ去られたと断定はできません。ですが、警察にもこの映像を提出して、捜索範囲を拡げてもらうよう手配しました」


父親は唇を噛みしめ、声を振り絞った。

「この人物は……誰なんですか?」


玲は慎重に答えた。

「顔は映っていません。ですが服装、動き、そして持ち物から、周囲のカメラで同一人物を特定できる可能性があります。警察の協力を得て、今夜中に照合を進めます」


昌代は落ち着いた声で息子夫婦に言った。

「玲さんたちは確実に動いてくれている。私たちは待ちましょう。朱音は必ず見つかります」


沈黙が流れた。

玲はゆっくりと立ち上がり、決意をこめて言う。

「次は現場周辺の車両の動きを追います。黒いワゴン車の姿が複数の映像に映っていました。これが事件の鍵になるかもしれません」


奈々はうなずき、パソコンを閉じる。

「事務所に戻ってすぐ解析を続けます。夜までには新しい情報をまとめます」


玄関を出ると、外の空気はさらに冷え込んでいた。

街灯の下で息が白く浮かび上がる。


玲は空を見上げ、低く呟いた。

「朱音……どうか、まだこの街のどこかにいてくれ」


その言葉は夜風に溶け、遠くへ消えていった。


時間:午後7時

場所:玲探偵事務所


夜の帳が街を包み始めた頃、玲探偵事務所の灯りだけが静かにともっていた。

奈々は複数の防犯カメラ映像を並べ、黒いワゴン車の走行データを解析していた。


「玲さん、この車です。朱音ちゃんが最後に映っていた北側通路のそばを、午後4時18分に通過しています」

奈々が画面を指さす。


映像には、黒い車体がゆっくりと通りを抜ける様子が映っていた。

ナンバープレートは一部が泥で汚れ、読み取れない。

玲は映像を停止し、唇を引き結ぶ。

「この車、商店街の入口でも映っている。通過時刻は午後3時59分。つまり朱音ちゃんが商店街に入る少し前に現れている」


奈々が息をのむ。

「狙っていた可能性がありますね……」


玲は小さく頷き、ファイルをめくりながら言った。

「同じ車が午後4時30分、郊外の橋の下を通過しているのが確認された。警察の交通カメラ映像だ」


奈々は瞬時にパソコンで地図を開き、経路をなぞる。

「商店街から橋までは車で約10分。時間的に矛盾はありません。朱音ちゃんを乗せたまま移動していたと考えると……」


玲は冷静に続ける。

「運転席の影、見えるか?」


奈々が映像をズームする。

「……見えます。黒いフード、同じ人物です」


玲の表情が引き締まる。

「一致だ。防犯カメラの人物と、車の運転手は同一と見て間違いない」


奈々が素早くメモを取り、次の行動を確認する。

「警察には車両の特徴と映像を送ります。橋の周辺に設置された監視カメラの映像も依頼済みです」


玲は頷き、視線を画面から離さずに言った。

「影のような人物……黒いフード、泥で汚れた車。これまでに同様の特徴を持つ事件がないか、警察のデータベースとも照合を」


奈々はすぐに作業を始めた。

キーボードを叩く指が止まらない。


「……ありました。二ヶ月前、隣町で発生した未解決の誘拐未遂事件。犯人の目撃証言に“黒いワゴン車、フードの男”が記録されています」


玲の目がわずかに鋭く光る。

「同一犯の可能性が高いな。今夜中に橋の監視映像を解析して、車の行方を追う」


事務所の窓の外では、冬の風が看板をかすかに揺らしていた。

玲は静かに立ち上がり、コートを手に取る。


「奈々、現地へ行く。橋の下で何か見落としているかもしれない」


奈々は頷き、資料をまとめて立ち上がる。

「了解です。朱音ちゃんがまだそこに――何かを残しているかもしれません」


夜の街へ出る二人。

その背後で、事務所のモニターには一瞬だけ、車の後部座席に揺れる小さな影が映った。

それはまるで、助けを求める小さな手のように見えた。


時間:午後7時30分

場所:玲探偵事務所・作戦室


モニターの光が、薄暗い部屋の空気を切り裂くように広がっていた。

玲は机の上に指を置き、静かに考えを巡らせていた。

画面には――黒いワゴン車の映像、そして不鮮明ながら映り込んだ“フードの人物”。


その傍らで奈々が口を開く。

「警察との連携は進めます。でも、このままでは動きが遅い。あの車が今どこにいるのか、すぐに掴まなければ」


玲は一度だけ深く息を吐き、携帯端末を手に取った。

画面には、暗号化された連絡アプリ。

短い文面を打ち込む。


“影班、コード:追跡。対象――黒いワゴン車。位置特定を最優先。”


送信音が鳴る。

数秒の沈黙のあと、画面に次々と返信が届いた。


【成瀬】了解。北エリア監視カメラ網をハイジャックする。

【桐野】現場近くに残留物があるか確認する。

【安斎】心理パターン解析を開始。運転手の行動軌跡を再構築する。


玲は端末を閉じ、短く呟いた。

「――影班を動かす。昌代さんの依頼、正式に受理した。朱音ちゃんは彼女の孫だ」


奈々の表情が引き締まる。

「本気ですね」


玲はわずかに頷く。

「警察が動く前に、あの車の行き先を突き止める。彼らなら痕跡一つ見逃さない」


その瞬間、事務所の空気が変わった。

まるで目に見えぬ影が、街のどこかで一斉に動き出したような気配。


――数分後。


時間:午後8時

場所:市外・旧河川敷道路付近


暗闇の中、一台の黒いバイクが無音で走り抜ける。

成瀬由宇。

黒の戦闘服に身を包み、ヘルメット越しに視界を切り取る。

風を裂く音すら、夜の底に吸い込まれて消えていった。


通信機から、桐野詩乃の冷静な声が流れる。

『由宇、北側橋梁下の路面に異常反応。熱源センサーがわずかに反応してる。通過は約三時間前。おそらくワゴン車のエンジン熱の残留』


「位置、送ってくれ」

由宇は短く応じ、バイクを停めた。

河川敷の風が頬を刺す。

遠くで街灯の光が川面に揺れ、冷たい銀色の線を描いている。


ヘルメットを外し、由宇は夜視ゴーグルを装着した。

足元には、わずかに乾ききっていないタイヤ痕。

しゃがみ込み、手袋越しに路面の温度差を感じ取る。

「間違いない、ここを通ってる」


詩乃の声が再び響く。

『後部座席のドアの跡も見つけた。開閉痕がある……誰かを乗せていた可能性が高いわね』


由宇はわずかに眉を寄せる。

「朱音ちゃんを降ろした可能性も……」


通信が一瞬だけ途切れ、代わりに低い男の声が割り込んだ。

『こちら安斎。心理軌跡の再構築完了。犯人の行動パターンから推測して、車両はこの地点で停車後、徒歩で東側林道へ向かったと考えられる。隠しルートの可能性が高い』


由宇は即座に立ち上がる。

「了解。林道へ向かう」


足音を殺しながら、冷えた土を踏みしめる。

林の入口は、風で枯葉が渦を巻くように舞っていた。

その中で、ひときわ小さな“布切れ”が枝に引っかかっている。


ライトの光がそれを照らした瞬間――由宇の呼吸が止まる。

それは、黄色いリュックの肩紐の一部だった。


通信が震えるように鳴る。

『由宇、報告を』


「朱音ちゃんの持ち物を発見。位置データを送信する」


玲の声が事務所から届く。

『よくやった。警察にも連携を入れる。周囲の捜索を優先してくれ。……もう一歩だ』


夜風が冷たく頬を撫でた。

由宇は静かにリュックの欠片を手に取り、拳を握る。


「必ず見つける」


その瞳には、まるで冬の夜空のような深い決意が宿っていた。


時間:午後8時

場所:玲探偵事務所・モニタールーム


奈々はモニターに映る地図データを見つめ、指先を走らせていた。

複数の監視カメラ、交通センサー、影班から送られてくるリアルタイム映像。

すべてが複雑に交錯しながら、一つの点へと収束していく。


「……朱音ちゃんの足取り、見えてきました」

奈々の声は静かだが、その奥に確かな緊張が宿っていた。


玲が椅子を引き寄せ、画面を覗き込む。

「どこまで追えた?」


奈々は地図上のルートを指でなぞる。

「商店街北口から黒いワゴン車に乗せられたと仮定すると、午後4時30分には郊外の旧河川敷道路に到達。

 そして、影班の報告通り――橋の下で一度停車しています。停車時間はおよそ二分。

 その後、信号を避けるように林道へと進入しています」


玲の目がわずかに細まる。

「つまり、誰かに追われることを警戒していた」


奈々が頷く。

「はい。経路は複雑で、一般のナビでは表示されない旧道を選んでいます。まるで……地元の地理に詳しい人間のような動きです」


玲は唇に指を当てた。

「内部の人間か、あるいは……以前からこの地域を監視していた者かもしれない」


奈々の指が止まる。

モニターの一角に、微かな熱反応が浮かび上がった。

影班からの生中継映像。暗い林の中で、由宇が黄色い布片を拾い上げていた。


「……朱音ちゃんのリュックの一部です」

奈々の声が低く響く。


玲は頷き、静かに言葉を落とす。

「確実に、ここを通った。朱音ちゃんはまだ、生きている」


奈々は再び指を動かし、データを重ねる。

「この先に古い小屋があります。五年前に取り壊されたはずですが、航空写真にはまだ屋根の影が残っています」


玲はすぐに通信機を取り、短く指示を出した。

「影班へ。座標を送る。林道奥の廃小屋を確認。――必ず安全に、朱音ちゃんを見つけ出せ」


モニターの向こう、闇の中を走る影たちが一斉に動き出す。

奈々は息を整え、画面を見つめながら小さく呟いた。


「朱音ちゃん……どうか、もう少しだけ頑張って」


玲の瞳は冷たく光る。

「この夜の終わりと同時に、必ず取り戻す」


外では、風がガラスを叩いた。

乾いた空気の中に、冬の夜が一段と深く沈んでいった。


時間:午後8時30分

場所:林道奥・廃小屋前


月の光も届かないほど濃い闇の中、三つの影が音もなく動いていた。

成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴――影班の三名。


小屋の外壁は半ば崩れ、風が隙間から笛のように鳴っている。

由宇が手信号を出す。

詩乃が頷き、指先のライトを最小出力にして前へ進む。


足元に散らばるタイヤ痕、乾きかけた泥の跡。

――車は確かにここに来ていた。


安斎が耳元の通信機に触れる。

『玲主任、現着。内部に反応が一つ。微弱ですが、人の熱源です』


玲の声が、静かに返ってきた。

『慎重に行け。朱音ちゃんの可能性がある。決して騒がせるな』


由宇がドアノブに手をかけた。

冷たく、重い鉄の感触。

視線を交わし、三人は無言でカウントをとる。


――3、2、1。


音もなく、扉が押し開かれる。

中は暗く、湿った埃の匂いが漂っていた。

壁には古びた木材、床には散乱した紙屑。

詩乃のライトが一点に止まる。


「……これ」


木箱の上に置かれていたのは、小さなスケッチブック。

表紙の角が擦り切れ、そこには小さな文字が書かれていた。

『Akane S.』


由宇は慎重にページをめくる。

そこには、家族の絵――笑顔の母、父、祖母。

そして、自分の手を握る“知らない男”の姿。

絵の隅に、黒い影のように描かれたその存在に、由宇は息をのんだ。


「朱音ちゃん……これを残していった?」


そのときだった。

背後の闇が、わずかに動いた。

三人が同時に構える。


「出ろ」

由宇の声に応えるように、影が一歩前へ出た。

だが――その動きは敵意を感じさせなかった。


月明かりが差し込み、その顔を照らす。

黒いパーカーのフードを外した青年が、静かに手を上げた。


「……撃たないでください。俺は――ユウタです。玲さんに頼まれて動いてます」


安斎が一瞬、表情を変える。

「ユウタ……? “記憶の証人”の?」


青年――川崎ユウタはゆっくりと頷いた。

「朱音ちゃんの記憶を“見た”んです。ここに来るように導かれた。あの子は、まだ近くにいる」


小屋の中に、一瞬だけ風が吹き込んだ。

紙片が舞い上がり、朱音のスケッチブックのページが勝手にめくれる。

最後のページには、拙い文字でこう書かれていた。


“まっくらなところに もうひとりいる

でも そのひとは わるいひとじゃない”


由宇は静かにページを閉じ、低く呟いた。

「……“もうひとりの影”」


詩乃が息を詰める。

「つまり、朱音ちゃんは誰かと一緒に隠れてる?」


ユウタは目を閉じて言った。

「そう。彼は……あの子を守ってる。けれど、限界が近い」


玲の声が通信機から響く。

『ユウタを保護しろ。位置を特定して、朱音ちゃんを最優先で探す。――この件、完全に“二重構造”だ』


由宇はスケッチブックを大切に抱え、決意をこめて言った。

「了解。……行こう、朱音ちゃんを迎えに」


外では、冷たい風が再び吹き抜ける。

その風の中に、確かに小さな声が混じっていた。


――「おばあちゃん……」


闇はまだ深い。

だが、その中に確かに“希望の灯”がひとつ、揺らめき始めていた。


時間:午後9時

場所:林道奥・地下の抜け道


小屋の床板を剥がすと、下から冷たい空気が吹き上がった。

由宇がライトを差し込み、狭い地下への階段を照らす。

古い木材の軋みとともに、湿気を帯びた土の匂いが広がる。


「地下道がある……」

安斎が低く呟く。

詩乃は手早く周囲の空気を分析し、反応を確認する。

「呼吸反応、微弱だけど確かにある。誰かが下にいる」


由宇が先頭に立ち、静かに階段を下りていく。

ヘッドライトの光が、長く続く土のトンネルを切り裂いた。

壁には誰かの手形がいくつも残り、その一つひとつが小さな子供のものだった。


「朱音ちゃん……」


進むほどに、空気は重くなる。

遠くで水が滴る音、そして微かな嗚咽。


その瞬間、由宇が手を上げた。

ライトの先に、小さな影が見える。

毛布に包まれ、膝を抱えて座り込む少女。

朱音だった。


「朱音ちゃん!」

詩乃が駆け寄ると、少女は怯えたように顔を上げた。

目の奥に、かすかに光が宿る。


「……おばあちゃんは?」


その声は震えていたが、確かに生きていた。

詩乃がやさしく微笑む。

「大丈夫。おばあちゃんも待ってる。もうすぐ帰れるからね」


だが、その直後。

背後の闇が動いた。


由宇が即座に構える。

「出てこい――!」


暗がりの中から、一人の男が現れた。

黒いフード、だがその目は敵意ではなく、深い疲労と焦燥に満ちていた。

手には何も持っていない。


「待ってくれ……俺は、彼女を傷つけていない」


安斎が冷静に分析するように声を落とす。

「心理パターン、敵意なし。防衛反応……守っていた側の動きだ」


男は震える手で、朱音の肩越しに何かを差し出した。

それは、一枚の紙だった。

朱音が描いた“笑顔のスケッチ”。

そこには、彼と朱音が一緒に笑っている絵が描かれていた。


「……あの時、車の中に置き去りにされていたんだ。彼女を泣かせたくなくて……逃がした。でも、外は危険で……ここしか隠れる場所がなかった」


朱音が小さく頷く。

「このひと、助けてくれたの。こわい音がしたときも、ずっとそばにいてくれたの」


詩乃が息をつく。

「“もうひとりの影”……この人だったのね」


由宇はゆっくりと拳を下ろした。

「誤解して悪かった。君がいなければ、朱音ちゃんは……」


男は微かに笑い、壁にもたれかかった。

「もう動けない。でも……ありがとう。来てくれて」


安斎が手早く通信を入れる。

『玲主任、朱音ちゃんを確保。保護完了。加えて、保護者と思しき男性を発見。怪我あり、搬送が必要です』


通信の向こうから、玲の安堵の声が響く。

『よくやった。すぐに救護班を向かわせる。朱音ちゃんを安全圏へ』


由宇は朱音を抱き上げ、地上へ向かう。

その小さな手が、彼の胸元を掴む。


「……おにいちゃんも、いっしょにいこ」


由宇は小さく微笑んだ。

「もちろん。みんなで帰ろう」


地上に出ると、夜風が頬を撫でた。

遠くでパトカーのサイレンが近づく音がする。

朱音の瞳が、夜空の星を映した。


――その瞬間、確かに“影の夜”が終わりを告げた。


時間:午後10時20分

場所:玲探偵事務所・応接室


雨上がりのように湿った風が、開け放たれた窓から入り込んでいた。

部屋の空気は静かで、緊張が少しずつ解けていく。


玲は机の上に置かれた報告書を一瞥し、影班の三人を見渡した。

「朱音ちゃんは無事か?」


由宇が静かに頷く。

「はい。軽い脱水と擦り傷だけ。現在、医療班が保護しています」


「よかった……」

玲は短く息をつき、わずかに表情を和らげた。


奈々がモニターを操作しながら続ける。

「現場で発見された男性ですが、身元の確認が取れました。名前は西園寺蓮。

地元の配達業者で、朱音ちゃんを保護したあと、自身も逃げ込む形で廃小屋に隠れていたようです」


玲は顎に手を添えた。

「“もうひとりの影”――つまり、犯人ではなく保護者だったわけだ」


詩乃が報告書をめくりながら言葉を継ぐ。

「彼は朱音ちゃんが攫われる瞬間を偶然見ていたようです。

黒いワゴン車から逃げる彼女を見て、助けようと飛び出した。

だがその直後、別の影に襲われ、負傷。そのまま小屋に逃げ込んだとのこと」


「別の影……?」

奈々が眉をひそめる。


由宇が思い出すように低く答えた。

「あの地下通路には、明らかに“二人分”の足跡があった。

ひとつは朱音ちゃんと西園寺のもの。もうひとつは――途中で消えていた」


玲は深く息を吐いた。

「消された、ということか。つまり、朱音ちゃんを攫った“本当の影”はまだ外にいる」


部屋の空気が再び緊張を帯びる。

奈々がモニターを切り替え、防犯カメラの解析結果を映し出した。

「これを見てください。朱音ちゃんが映っていた商店街の防犯カメラ、

映像の一部にノイズ処理がされています。外部からの改ざんです」


玲の瞳が鋭く光る。

「つまり、意図的に“攫った瞬間”を隠した者がいる」


由宇が拳を握りしめる。

「救出は終わったが、事件はまだ終わっていない」


玲は静かに頷いた。

「その通りだ。朱音ちゃんを守ることはできた。だが――

彼女が“何を見てしまったのか”を突き止めるまでは、

この事件はまだ“始まり”に過ぎない」


沈黙の中、窓の外で風が木々を揺らす音がした。

その音はまるで、これから始まる真の追跡劇を告げているようだった。


時間:翌日・午前9時30分

場所:佐々木家・居間


朝の光がカーテンの隙間から差し込み、木の床を静かに照らしていた。

テーブルの上には、朱音が描いたスケッチブックが置かれている。

そのページの一枚には、あの日の情景が、幼い筆致で描かれていた。


玲と奈々、そして昌代が向かい合って座る。

朱音は毛布を肩にかけ、温かいミルクを両手で包み込んでいた。

まだ少し怯えた様子を見せながらも、その瞳には確かな意志が宿っている。


玲が穏やかな声で問いかける。

「朱音ちゃん、少しでいい。見たこと、覚えていることを教えてくれるかな」


朱音は小さく頷き、ページをめくった。

「……車の音がして、黒いクルマがゆっくり来たの。

でも、その中には誰もいなかった。……なのに、ドアが開いたの」


奈々が目を見開く。

「遠隔操作……? いや、それだけじゃ……」


朱音は首を振った。

「それから、黒い服のひとが出てきたの。顔が見えなかった。

でも、声が聞こえた。“見なかったことにしろ”って」


昌代が思わず口元を押さえる。

玲は静かに手を上げて制した。

「その“声”を覚えてる? 高い声? 低い声?」


朱音はしばらく考え、ぽつりと答えた。

「……お母さんが電話で話してたひとに、ちょっと似てたの」


奈々が記録端末を見上げる。

「お母さん……沙耶さんの?」


玲は黙って視線を落とした。

その時、居間の扉がノックされた。

入ってきたのは警察の連絡員だった。


「報告です。商店街の目撃者の一人が、昨夜の証言を撤回しました」


奈々がすぐに反応する。

「撤回? 何か脅されたんですか?」


「詳細は不明ですが……“もう話したくない”とだけ言い残して姿を消しました」


空気が一瞬で張り詰めた。

玲は椅子から立ち上がり、視線を鋭くする。

「つまり、“影”はまだ動いているということだ」


奈々が息を呑む。

「朱音ちゃんが見た黒い服の人物――彼が、証言を消して回ってる?」


玲は無言で頷き、外の曇り空を見上げた。

「恐怖が口を閉ざすとき、真実は最も深く隠される。

……ここからが本当の再捜査の始まりだ」


朱音はスケッチブックを胸に抱き、かすかに震える声で呟いた。

「“影”は、まだ外にいるの……」


外の風が木々を鳴らし、窓ガラスを微かに叩いた。

それはまるで、“見えない誰か”がそこに立っているかのようだった。


時間:午後1時

場所:玲探偵事務所・分析室


室内は静まり返り、コンピュータのモニターが青白い光を放っている。

奈々がキーボードを打ち込み、声のサンプルを次々と再生できるように整える。

玲は机の前に座る朱音を優しく見下ろし、手元のスケッチブックをそっと抱かせた。


「朱音ちゃん、少しだけ協力してほしい。

お母さんの知り合いの声を、いくつか聞いてもらうんだ」


朱音は小さく頷き、耳を澄ませる。

最初の音声がスピーカーから流れる。

柔らかな笑い声、慌ただしい電話の声、そして短い会話――


奈々が注意深くメモを取る。

「どれか、聞いたことある声はあるかな?」


朱音の小さな手がスケッチブックのページを握りしめ、眉を寄せる。

「……ううん、まだ違う……」


数十種類の声を聞かせた後、朱音の目が突然輝いた。

「この声……この声!」


奈々が慌てて再生ボタンを押すと、確かに朱音の指差した音声が流れる。

低く、落ち着いた声――しかしどこか冷たさを含んでいる。


玲はじっと聞き入り、わずかに眉をひそめる。

「……なるほど、朱音ちゃん。これが“影”の声だね」


朱音は小さく息を吐き、ページに描かれた影の絵を握り直す。

「お母さんの知り合い……だけど、でも、違うの……本物じゃない」


奈々が眉をひそめる。

「ということは……誰かが声を加工して、朱音ちゃんを脅した?」


玲は静かに頷く。

「遠隔操作による脅迫の可能性が高い。

この声の主を特定できれば、“影”の正体に近づけるはずだ」


朱音は小さくうなずき、決意の色を帯びた瞳で玲を見上げる。

「私……ちゃんと覚えてる。見たことも、聞いたことも」


奈々は端末に手を置き、声の解析を続ける。

「よし……これで次の手が打てる」


窓の外、午後の光が事務所に差し込む。

だがその光の先には、まだ見えない“影”が潜んでいる――。


時間:午後2時

場所:玲探偵事務所・分析室


朱音の指差した音声データを再生し、室内には微かに低い声が流れる。

玲と奈々は端末に目を凝らし、朱音はスケッチブックを抱きしめたままじっと耳を澄ます。


そこへ沙耶が事務所に駆け込む。

「ごめん、仕事を抜けてきたわ」


玲が手元の端末を沙耶に差し出す。

「沙耶さん、この声、覚えはありますか? 朱音が聞き分けた声です」


沙耶は少し戸惑いながらイヤホンを取り、音声を聴く。

一瞬、眉をひそめ、口元を押さえた。


「……これは……」

小さな声で、沙耶は朱音を見つめる。

「……あの人……圭介のお兄さんよ」


朱音の目が驚きで大きく見開かれる。

「え……おじさん?」


沙耶は頷く。

「うん。だけど……この声、普段と違う……加工されてる、または遠くから流れてる感じ。何かに脅されてるのかもしれない」


玲は眉を寄せ、端末の波形を凝視する。

「なるほど……これで、朱音ちゃんの聞いた“影”の声の正体が明確になった。

声の主は家族の関係者……だが、状況は操作されている」


奈々がメモを取りながら、声を分析する。

「加工の痕跡も確認できます。この声を手がかりに、居場所の特定が可能かもしれません」


朱音は小さくうなずき、スケッチブックの影の絵を握りしめる。

「私……もう怖くない。見つける」


玲は沙耶に軽くうなずき、朱音を見守る。

「よし……次は、居場所の特定だ。朱音ちゃん、協力してくれるね?」


朱音は力強く頷いた。

事務所の中に、緊張と決意が同時に漂う――

そして、ついに“影”の居場所を追う動きが始まる。


時間:午後2時30分

場所:玲探偵事務所・追跡準備室


朱音の聞き分けた声のデータを手に、玲は影班に指示を出す。

「成瀬、桐野、安斎。朱音が聞き分けた声を手がかりに、現場へ。接触ルートの特定を最優先に」


三人は軽く頷き、黒い戦闘服に身を包んで出発の準備を整える。

朱音は小さく手を握りしめ、沙耶と玲に見守られながら声の波形を指でたどった。


奈々が端末に地図と音声波形を重ね、指示を補足する。

「このルートを辿れば、黒いワゴン車の痕跡と一致する地点に接触できます」


その瞬間、玲は朱音を見て小さくうなずく。

「朱音ちゃん、君が聞き分けた声の持ち主は家族の人間だ。圭介さん、協力をお願いできるか」


その声に応えるように、圭介が事務所に駆け込む。

「どうした……何が起きたんだ?」


玲は圭介に手短に状況を説明する。

「あなたの弟です。朱音が接触した声の持ち主は弟さんのようです。圭介さん、詳しいことを教えてください」


圭介は顔色を変え、深く息をついた。

「弟……啓一か……あの日、奴が突然姿を消して……でも、まさかこんな形で関わっているとは……」


朱音は恐る恐る口を開く。

「おじさん……弟さんは、どこに?」


圭介は痛ましい目で朱音を見つめ、手元の資料を取り出す。

「正確な居場所はわからない。ただ、奴はあの廃小屋周辺で目撃されていた。君が聞いた声は、おそらくそのときのものだ」


玲は端末に表示された波形と地図を照合する。

「では、影班はその廃小屋周辺を重点的に監視し、朱音ちゃんが聞き分けた声の痕跡を追跡する。圭介さん、情報提供をお願いします」


圭介は頷き、弟の特徴や過去の行動を朱音に語り始める。

朱音は聞き入りながら、スケッチブックに影の人物の姿を描き加えた。

「わかった……絶対に見つける」


玲は沙耶に目を向け、静かに告げる。

「朱音ちゃんの直感と声の手がかりがあれば、追跡は可能だ。影班、準備はいいか?」


影班の三人は全身の緊張を解き、無言で頷いた。

外の冷たい風が窓を揺らし、午後の光が薄く差し込む。

朱音の目には決意が宿り、事務所は緊張感と希望に包まれた。


時間:午後3時

場所:玲探偵事務所・情報解析室


奈々は端末に向かい、黒いワゴン車の運行記録を呼び出そうと指を滑らせた。

「……おかしい。データが……消されてる」


玲は眉をひそめ、冷静に端末画面を覗き込む。

「誰かが意図的に消した可能性が高い。だが焦るな、朱音ちゃんの記憶と目撃情報がある」


朱音はスケッチブックを握りしめ、何度も視線を落として考え込む。

「この道……この角を曲がった……」


玲は朱音に向き直る。

「君の直感に従えば、影班は現場へ向かえる。成瀬、桐野、安斎、準備はいいか?」


三人の影班は無言で頷き、事務所の裏口から暗い街路へと出て行く。

冷たい風が吹き、落ち葉がカサカサと音を立てる。

夜に近い薄明かりの中、黒い戦闘服が街に溶け込む。


時間:午後3時30分

場所:廃小屋周辺


影班は廃小屋の陰に到着した。朱音が指差した方向に慎重に進む。

「ここ……この道を通った……」


成瀬が低く呟く。

「足跡……まだ乾いている。誰かが通った形跡だ」


桐野は周囲を警戒しながらも、落ち葉や泥の痕を確認する。

「影が近くにいる。間違いない……」


安斎が端末で波形を再確認する。

「朱音ちゃんの声の位置と一致する。あの方向だ」


朱音は小さく頷き、手にしたスケッチブックを胸に抱きしめる。

「行こう……見つける……絶対に」


玲は影班に静かに告げる。

「足跡と声の手がかりに従い、追跡を続けろ。圭介さん、君は朱音ちゃんを守りつつ、連絡を待ってくれ」


廃小屋の影が長く伸び、三人の影班は慎重に、しかし確実に“影”の痕跡を追う。

街路の冷たい空気が張りつめ、朱音の直感と影班の鋭い感覚が交差する。


時間:午後4時

場所:廃小屋内部


夕方の光が差し込まない、薄暗い廃小屋。

割れた窓から吹き込む風が、壁に貼られた古い新聞紙をはためかせる。

影班の三人は、無言で配置についた。


成瀬由宇が先頭に立ち、わずかに開いたドアの隙間から内部を確認する。

「熱反応、二つ……ひとつは微弱、もうひとつは動いている」


桐野詩乃が頷き、腰の端末で周囲のガスと粉塵反応を確認する。

「異常なし。突入可能」


安斎柾貴は通信機に指を添えた。

『こちら影班、玲主任。廃小屋内部に生命反応を確認。これより接触ルートに入ります』


『了解。朱音ちゃんのスケッチと一致するなら、慎重に動け』

玲の声が冷静に響く。


由宇はドアを押し開け、暗闇の中へと踏み込んだ。

床には靴跡がいくつも重なり、古い机の上には何かが落ちている。

それは――朱音のスケッチブックの破れた一枚。

描かれていたのは、昨日見た「影」の姿だった。


詩乃が紙片を拾い上げ、息を呑む。

「これ……昨日の朱音ちゃんのスケッチと同じ構図」


その瞬間、奥の暗がりで物音がした。

安斎が手信号を出す。

由宇がライトを向けた瞬間、黒い影が横切った。


「逃げるな!」

由宇が一歩踏み込むが、影は軽やかに奥の通路へと姿を消す。


安斎がすぐに分析を始める。

「速度、平均より早い。訓練を受けた動きだ……素人じゃない」


詩乃が低く言葉を漏らす。

「つまり、“影”はまだ生きていて――目的を果たしていない」


由宇は拳を握り、通信に声を入れる。

『玲主任、目視で黒い影を確認。人間の動き、逃走経路は北の林道方面』


『追え。ただし、無理はするな。朱音ちゃんが描いた“もう一つの影”の正体を確かめることが優先だ』


由宇は短く返事をし、再び足を踏み出す。

薄暗い廊下を抜け、外の風が頬を打つ。

その先――林道の影に、一瞬だけ黒いコートの裾が翻った。


「……見つけた」


由宇の目が鋭く光る。

詩乃と安斎が背後に続き、三人は無言で“影”を追って林道へと走り出した。


背後で、古びた廃小屋の扉が風に揺れ、ギィ……と不気味な音を立てた。

まるでそこに残る“もうひとつの影”が、笑っているかのように。


時間:午後6時10分

場所:郊外・廃倉庫裏手


夜の帳がゆっくりと降り始め、倉庫裏は濃い闇に沈んでいた。

冷たい風が吹き抜け、枯葉がアスファルトを滑る。

影班の三人――成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴は、息を殺してその場に潜んでいた。


「ここだ……朱音ちゃんを保護した現場と同じ座標」

由宇が赤外線スキャナーを構え、周囲の熱反応を確認する。


詩乃が囁く。

「玲主任からのデータ更新。音声の発信源が、この倉庫裏にある可能性が高いって」


安斎が無線機に指を添える。

『こちら影班、玲主任。現場到着。周囲に人影なし――だが微弱な電磁反応あり。録音機器か、残留信号と思われます』


『了解。音源を特定しろ。例の“模倣された声”の残響が拾えるかもしれない』

玲の声が通信越しに返る。


由宇が懐中ライトを低く構え、金属コンテナの裏に回り込む。

そこに、小型の録音機が置かれていた。

コードは切断され、焦げた痕が残っている。


「……これが“声”の発信源か」

詩乃が静かに息を吐く。


安斎がデバイスを接続し、音声データの一部を復元する。

ノイズ混じりの中から、微かに女の声が流れた。


――「朱音ちゃん、動かないで」


それは、沙耶の声と寸分違わぬ音色だった。


詩乃が眉をひそめる。

「完璧にコピーされてる……人間の声紋とは思えない精度」


安斎が周囲の壁を調べながら低く言う。

「声の発信者は近くにいたはずだ。だが――」


その瞬間、由宇が顔を上げた。

「……待て。誰か、いる」


倉庫の影がゆらりと揺れた。

暗闇の奥、鉄骨の隙間に、人の形が浮かび上がる。

黒いコート、マスク、無音の足取り。


「……影、確認」

由宇が囁き、即座に身構える。


詩乃がナイフを抜き、安斎が通信を開く。

『玲主任、“影”の姿を確認。廃倉庫裏、方角は北西。追跡開始します』


『気をつけろ。そいつは朱音の声を誘導できた。何か“人ならぬ手段”を持っている可能性がある』


由宇は短く頷き、闇に飛び出した。

倉庫の裏手を駆け抜け、月明かりの差す角を曲がる。


その一瞬――“影”が振り向いた。

瞳だけが光を反射し、冷たい銀色に瞬く。


「お前は……誰だ」

由宇の声が、冷たい夜気を切り裂く。


だが“影”は何も答えなかった。

わずかに肩を傾け、林道の奥へと消える。


安斎が後方から叫ぶ。

「待て、由宇! 今は追うな、罠の可能性が――」


しかし、由宇の足は止まらなかった。

彼の脳裏に、朱音が描いたスケッチが蘇る。

“ふたつの影”――守る影と、導く影。


どちらが敵で、どちらが味方なのか。

その答えを確かめるように、彼は闇の中を駆け抜けた。


冷たい風が吹き抜け、遠くで雷鳴が小さく響く。

季節は晩秋から初冬へと変わりつつあり、夜の空気が鋭く肌を刺した。


時間:午後6時40分


場所:玲探偵事務所・分析室


朱音のスケッチブックが机の上に置かれていた。

ページには、ふたつの影。

一方は黒いコートの人影、もう一方は朱音を庇うように立つ人物。


玲がモニター越しにスケッチを見つめながら呟いた。

「この構図……明らかに守る動作だな」


奈々が解析を進める。

「映像データとの照合、完了しました。……一致率、八七パーセント――佐々木啓一。」


「啓一……?」

昌代の手が止まった。

「それって……圭介さんの弟さんの……?」


玲が静かに頷く。

「ええ。十年前、“倉庫事件”で行方不明になった人物です。

 朱音ちゃんが描いた“もう一人の影”は、彼の可能性が高い。」


奈々が別のモニターを操作する。

「朱音ちゃんが言っていた“お母さんの声”――音声データを復元しました。

 聞こえた声の波形と沙耶さんの実声を比較した結果、

 九割以上一致。ただし微細な変換痕が確認されました。」


玲が補足する。

「つまり、人工的に“沙耶さんの声”を再現していた。

 その通信元が、啓一さんの旧型端末――十年前に登録されたものです。」


昌代は小さく息を呑む。

「……あの子、十年前に亡くなったと聞いていたのに……。

 まさか、朱音を守ろうとして……」


奈々が振り返る。

「朱音ちゃんが描いたもう一つの影――それは“犯人”ではなく、

 朱音ちゃんを導いた“声”の持ち主かもしれません。」


玲が静かに言葉を継ぐ。

「十年前の倉庫事件。

 啓一さんは、あのとき何かを封じようとしていた。

 そして今、彼の“影”が朱音ちゃんを守った。

 ――これは、過去が再び動き始めたということです。」


風が窓を叩いた。

朱音のスケッチブックがぱらりとめくれ、

次のページには、黒い倉庫と、背を向ける“ふたつの影”。


昌代の視線がそこに釘付けになった。

「……あの子の声が、まだ残ってるのね……」


玲は小さく頷いた。

「ええ。――影として、記録の中に。」


時間:午後8時10分


場所:旧倉庫跡地・周辺林道


夜気は冷たく、乾いた風に冬の匂いが混じっていた。

倉庫跡の周囲には、影班が無音の動きで監視網を敷いていた。

成瀬由宇が闇の中で短く通信を入れる。


「南側異常なし。詩乃、東のフェンスラインは?」


「感知反応ゼロ。熱源反応もないわ。」

桐野詩乃の低い声が返る。


安斎柾貴が中央ルートを確認しながら言った。

「玲さん、記録波長に微弱なノイズがあります。

 旧事件時の通信波形と一致する部分が。」


玲の声が無線に入った。

「それが――“もう一人の影”の信号だ。啓一の残した記録。

 ……だが同時に、“模倣された声”も近くで再生されている。犯人が動いてる可能性が高い。」


奈々が玲の隣でモニターを睨む。

「朱音ちゃんの証言どおり、“お母さんの声”が二重で響いてる……。

 波形Aが本物の沙耶さん、波形Bは犯人の擬似音声。

 重なるタイミングを計算すると、倉庫裏に二人の影が存在したことになるわ。」


玲が頷く。

「――“ふたつの影”。

 十年前の倉庫事件と、今夜の現場が重なった。」


その瞬間、成瀬のイヤーピースが小さく鳴った。

「北側入口に微かな動体反応。……人影一つ、確認。」


影が風の中から姿を現す。

黒いフードの人物。

手に通信端末を持ち、耳に装着された小型送信機から“沙耶の声”が再生されていた。


『朱音、こっちに来なさい……』


あの声だった。

柔らかく、母親のように優しく――だが、何かが違う。

音の奥に、人工的な震えが混じっている。


詩乃が囁く。

「この音声、完全に模倣されてる。……でもなぜ、今さら“母親の声”を?」


玲が低く答える。

「朱音を再び呼び寄せるためだ。

 “影”を再現することで、過去の事件を再演しようとしている。」


安斎が拳を握る。

「十年前と同じ構図で……また子どもを?」


玲は目を細めた。

「いや――違う。今回は“もう一人の影”をおびき出すためだ。」


成瀬が倉庫の屋根から望遠スコープを覗く。

「……啓一の“影”を、か。」


沈黙の中、電波がかすかに揺れた。

“啓一の端末”が発信する信号が、再び動いたのだ。


奈々が息を飲む。

「玲さん、通信記録に応答あり――。

 “沙耶”の名が呼ばれてる。」


スピーカーから微かな音声が漏れた。


『沙耶……すまない……守れなかった……今度こそ――』


昌代がその声に顔を上げ、唇を震わせた。

「……啓一……」


玲は短く指示を出した。

「影班、包囲を維持。――“声の主”を捕捉する。」


風が止む。

倉庫の闇に、二つの影が揺れた。

ひとつは、朱音を狙う黒い人影。

もうひとつは、その前に立ちふさがるように現れた淡い影。


“ふたつの影”が、十年の時を越えて再び交錯した。


時間:午後8時30分


場所:倉庫内部・暗闇


倉庫内の空気は冷たく、埃の匂いが漂う。

静寂を切り裂くように、微かな足音が響いた。


成瀬由宇が低く報告する。

「北側、人物接触。……黒い影、接近中。」


玲は無線で指示を出す。

「影班、警戒を最大に。朱音は安全な位置に。」


暗がりに現れたのは、黒ずくめの人物――犯人だ。

その横で、もうひとつの影が微かに光る。

啓一の端末から漏れる信号で、淡い影が朱音を守っている。


不意に、空気が振動した。

「朱音、こっちに来なさい……」

犯人が再生した“模範された声”は、まるで沙耶の声そのものだった。

しかし、波形には人工的な震えが混ざり、どこか不自然だった。


朱音は一歩後ずさる。

「……お母さん……?」

本物の沙耶の声も重なり、二重の音が倉庫内に響く。


玲は耳を澄ませ、二つの声の源を特定した。

「波形Aは本物の沙耶さん、波形Bは犯人の模倣音声。

 そして“もうひとつの影”――啓一の端末信号が守っている。」


奈々がモニターを操作しながら呟く。

「犯人は朱音を誘き寄せようとしてる……でも、啓一の影が盾になってる。」


昌代は息を飲む。

「……啓一……あなた、まだ……」


その瞬間、影班が倉庫内に一斉に展開する。

犯人ともうひとつの影、ふたつの存在が同時に倉庫内に立ち現れた。

声は重なり、光は揺らぎ、時間が一瞬止まったかのようだった。


玲は冷静に指示を出す。

「朱音、後ろ! 影班、包囲を強化!

 声の主を追跡、同時に保護も!」


倉庫内に緊張が張り詰める。

“ふたつの影”、そして“二つの声”。

十年前の事件の残響が、今、再び現場を覆った。


時間:午後9時


場所:倉庫外・影班待機位置


朱音は震える手を啓一の端末が導く光に沿って、影班の安全圏へと誘導された。

成瀬由宇がさっと彼女を抱き上げ、暗闇から安全な場所へ運ぶ。


「大丈夫、もう安全だ……」

彼の声は低く、しかし確かな安堵が込められていた。


玲は倉庫内に残る黒ずくめの人物を見据える。

「逃がすな……!」

影班の動きは速く、犯人は瞬く間に包囲される。


奈々は端末の画面に目を凝らす。

啓一の端末には、十年前の倉庫事件の記録が詳細に残されていた。

「……ここだわ。十年前、この場所で何が起きたのか……犯人は同じ黒ずくめ……」


昌代は息を飲む。

「やっぱり……あの事件と……繋がっていたのね……」


朱音はまだ震えていたが、絵を描くように手元のスケッチブックを握る。

そこには、当時の黒ずくめの人物の特徴や、不可解な声の模倣の痕跡が描かれていた。


玲は冷静に確認する。

「犯人は10年前の事件の再現を狙っている……

 声を模倣し、影を操り、標的を誘き寄せている。

 でも、啓一の端末がその動きを遮っている……」


暗闇に残る黒ずくめの人物の姿は、焦燥の色を帯びていた。

逃げ場を失った彼の目に、十年前の記憶がフラッシュバックする。


沙耶の声が無線越しに響く。

「朱音、泣かなくていいのよ。お母さんはここにいる。」


朱音は小さく頷き、端末の光に導かれるまま、影班のもとへ歩みを進める。

十年前の事件の“真相”は、ついに動き出した──。


時間:午後10時


場所:玲探偵事務所・作戦室


奈々は端末に向かい、取得した証拠をひとつずつ整理していた。

防犯カメラ映像、目撃者の証言、車両の運転記録──消されていたデータもあったが、朱音のスケッチや影班の追跡ログが欠けた部分を補っていた。


「……なるほど、やっと繋がったわ」

彼女は声を落としながら、画面上に矛盾点を色分けして並べる。

運転記録の消去、声の模倣、黒ずくめの人物の移動経路……すべてが一つの線で結ばれる。


玲が静かに横から覗き込む。

「この矛盾を整理すれば、犯人の行動パターンと十年前の事件の手口が丸わかりになる」


奈々は深く息をつき、証拠を指でなぞる。

「車両は改ざんされ、目撃者は恐怖から証言を覆した……でも朱音ちゃんのスケッチと現場痕跡で、すべての経路と手口が判明した。

 犯人は……あの黒ずくめの人物。声も模倣して子どもを誘導していた。十年前と同じ手口よ」


玲は静かに頷く。

「これで十年前の事件の“真相”が明確になる。

 圭介さん、そして啓一さんが知りたかったことも……これでようやく」


昌代も肩の力を抜き、やっと少し安堵の表情を見せる。

「朱音が無事でよかった……そして、あの事件の謎がここで終わるのね」


奈々は画面を閉じ、最後の確認を行う。

「はい。犯人の手口、十年前の事件、そして今回の誘拐。すべて整理できました。

 後は警察に引き渡して、正式に解決に持ち込むだけです」


事務所の空気が、やっと落ち着きを取り戻した。

影班も、倉庫から戻る途中で任務を終え、疲れた体をほっと休める。


玲は窓の外を見つめながら、小さくつぶやいた。

「真相は明らかになった……でも、守るべきものはこれからも変わらない」


外は深い夜に包まれ、静かに事件の幕が閉じられていった。


時間:翌朝・午前7時


場所:佐々木家・リビング


朝日がリビングの窓から柔らかく差し込む。

朱音はふかふかのソファに座り、母・沙耶と父・圭介に抱きしめられながら、無邪気な笑顔を見せていた。


昌代は隣でほっと息をつき、目を細める。

「もう、これで本当に安心ね……」


玲探偵事務所のメンバーも、それぞれ肩の力を抜きながら、静かに場を見守る。

奈々は報告書を整理しつつ、朱音を見て微笑んだ。


その時、ニュースの速報がテレビ画面に映る。

キャスターの藤堂が冷静な声で伝えていた。

「昨夜、行方不明となっていた佐々木朱音ちゃんが無事保護されました。事件は十年前の未解決事件との関連もあり、関係当局が引き続き調査を進めています。犯人はすでに特定され、追跡・取り締まりが行われております」


リビングには、安堵と静かな余韻が広がった。

朱音はまだ少し眠そうな瞳で、母を見上げる。

「ママ、怖かったけど……みんなが守ってくれたんだね」


沙耶は優しく頷き、手を握り返す。

「そうよ、もう大丈夫。これからはずっと一緒にいる」


昌代も微笑みながら、孫の肩を軽く抱き寄せる。

「これで、長い長い夜は終わったのね……」


玲は窓の外を眺め、静かに言った。

「事件は終わった。でも、守るべきものを守る責任は、これからも続く」


外では、初冬の朝日が街を温かく照らし、冬の冷たい空気に光が溶け込んでいった。

朱音の笑顔は、家族と仲間たちの努力と勇気の証として、静かに輝いていた。


時間:翌日・朝

場所:佐々木家・リビング


窓の外には、うっすらと霜が降りた冬の庭が広がる。朝日が差し込み、リビングのテーブルに柔らかな光の筋を作った。


朱音はお気に入りの色鉛筆を手に、昨日のことを思い出しながら小さな絵日記に向かっていた。ページには、家族の笑顔や温かい食卓の風景、そして影班が守ってくれたあの日のことが描かれている。


「お母さん、見て見て!」

朱音の声に、沙耶はコーヒーを置き、隣に座った。

「うん、よく描けたね。昨日のこと、ちゃんと覚えているんだね」と優しく微笑む。


圭介は新聞を片手に座り、娘の描く絵を横目で見ながら静かに頷いた。

「昨日は大変だったけど、こうして無事に朝を迎えられてよかったな」


朱音はページをめくりながらつぶやく。

「影さんたち、ありがとう…」


その言葉に沙耶は微笑み返し、圭介も小さく頷く。家族の絆は、昨日の恐怖を乗り越え、より深く、確かなものになっていた。


朝食の匂いと笑い声がリビングに満ちる。窓の外の冷たい冬の空気も、この家の中では温かさに包まれている。朱音は絵日記を閉じ、満足そうに顔を上げた。


「今日も一緒に朝ごはん食べようね」


家族の声がそろい、守られた安心感が小さなリビングに溢れた。昨日の影たちの存在はもう見えないけれど、確かに彼女たちの心に残り、日常を優しく支えていた。


時間:翌日・午前

場所:佐々木家・キッチン


キッチンからは、トーストの香ばしい匂いとコーヒーの湯気が立ち上る。沙耶は手早く朝食を整えながら、ふとリビングの方に目を向ける。朱音は小さなスケッチブックを前に、昨日の出来事を絵に描きながら笑顔を浮かべていた。


沙耶は深呼吸し、母としての安堵を胸に抱く。

「昨日は本当に怖かった……でも、こうして無事でいてくれてよかった」


仕事の書類も隣に置かれ、彼女は家庭と仕事のバランスを考えながら新たな気持ちで取り組む決意を固める。事件を通じて、守るべきものの優先順位がより鮮明になったのだ。


朱音がふと顔を上げ、沙耶に向かって小さく笑う。

「お母さん、今日も一緒に朝ごはん食べよう」


沙耶は微笑み返し、手を止めて娘の横に座る。

「もちろんよ。あなたと一緒にいる時間が一番大切だからね」


トーストを分け合い、笑いながら食卓を囲む。昨日の恐怖はまだ記憶の片隅にあるが、沙耶の心には確かな決意が芽生えていた。娘の安全を第一に、仕事も家庭も丁寧に守る――母としての覚悟が、新しい一日の始まりを優しく包んでいた。


時間:翌日・午前

場所:佐々木家・リビング


朝日が差し込むリビングで、圭介はソファに腰かけ、深く息を吐いた。朱音がスケッチブックに向かって絵を描く姿を見ながら、事件の緊張感が少しずつ溶けていくのを感じる。


「無事でよかった……」


胸の奥にあった不安と恐怖が、安堵へと変わった瞬間だった。家族を守り切れたことに、圭介は小さな誇りを覚える。沙耶がキッチンで朝食を準備する音が、温かく耳に届く。


朱音が振り返り、にっこり笑った。

「パパ、おはよう!」


圭介は微笑み返し、立ち上がって娘の頭を軽く撫でる。

「おはよう、朱音。今日も元気そうだな」


家族が揃ったリビングで、圭介は静かに心に誓った――これからも守るべきものを守り、笑顔を絶やさずに日々を重ねていくのだと。


外には寒さが残る晩秋の空気が漂うが、家の中は温かく、確かな家族の絆で包まれていた。


時間:翌日・午前

場所:玲探偵事務所


玲はデスクに座り、事件報告書の最終チェックを終えた。画面に映る防犯映像や聞き込みメモを整理しながら、ふと佐々木家のリビングで見た光景を思い返す。朱音の笑顔、沙耶と圭介の安堵に満ちた表情。


「やはり、守るべきものがある人たちは強い……」


達成感とともに、家族の絆の大切さを改めて胸に刻む。探偵としての使命感だけでなく、人としての温かい感情が静かに心を満たす。


奈々が書類を手渡しながら声をかける。

「玲さん、これで報告書も完了です。佐々木家の件も整理されました」


玲は軽く頷き、窓の外に広がる晩秋の街を見やる。

「ありがとう、奈々。これでみんな、少しは落ち着けるだろう」


事件は解決した。しかし玲の胸には、守るべきものの存在と、家族の絆の力を再認識する静かな余韻が残っていた。


時間:翌日・午前

場所:玲探偵事務所


奈々はデスクに向かい、昨日の膨大な証拠や映像データを改めて整理していた。指先はキーボードの上を軽やかに滑り、解析ソフトが示す結果を確認する。


「こんなに複雑な情報を整理したのは初めてかもしれない……でも、やり遂げられた」


今回の経験で、奈々は自分の情報処理能力の幅が確実に広がったことを実感する。細かな証拠の矛盾点や、ほんのわずかな手がかりも見逃さず、事件の核心へと繋げられた自信があった。


ふと、事務所の窓から差し込む朝日を眺め、昨日の朱音の無事な笑顔を思い浮かべる。

「守るべき人のために、私の力も役立ったんだ……」


奈々は深く息を吐き、今日もまた、新しい案件に備えて準備を始めた。心の中には、確かな達成感と静かな誇りが満ちていた。

時間:翌日・午前

場所:玲探偵事務所


昌代は事務所の一角で、珈琲を片手に窓の外を眺めていた。昨日の騒動が夢だったかのように静かな朝だ。


「朱音が無事でよかった……」


胸に広がる安心感と同時に、事務所のメンバーとの信頼関係もより強固になったことを感じる。自分の直感や行動が、仲間たちの判断や行動を支えたことに、ささやかな誇りを覚える。


奈々や玲が忙しそうにデスクで動き回る姿を見ながら、昌代は微笑む。

「私も、まだまだ役に立てるんだ……」


孫の安全を守り、仲間と共に戦い抜いた達成感が、静かな喜びとなって心に満ちていた。


時間:翌日・午前

場所:影班の隠れ家


成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴は、任務後の静かな朝にそれぞれの装備を片付けながら、昨日の出来事を振り返っていた。


「……無事でよかったな、朱音」

成瀬の声は普段よりも柔らかく、無言の重みがあった。


桐野も、普段は冷静沈着な表情のまま微かに笑みを浮かべる。

「あの子の勇気、強かった……守る価値があった」


安斎は背を伸ばしながら深く息を吐き、静かに頷く。

「単なる任務じゃなくなったな。あの笑顔を守るために動いたんだ」


任務の成功に安堵すると同時に、朱音の純粋さが彼らの心に影響を与えた。かつては影の存在として淡々と任務をこなしていた三人だが、今や守るべき「家族」としての意識が芽生えている。


そしてチーム間の視線が自然に交わる。

昨日の戦いを経て、互いの信頼は以前よりも強く、揺るぎないものとなっていた。


時間:翌日・午前

場所:商店街


商店街の人々は、昨日の事件の余波を静かに受け止めていた。


「無事でよかったね、あの子」

八百屋の店主は、店先で買い物客に声をかけながら、朱音のことを思い返す。


防犯カメラや目撃情報で協力した経験が、住民たちの間で密かに話題になっていた。

「ちょっとした協力でも、こんな形で役立つんだな」

「地域の安全って、みんなで守るものなんだな」


普段は何気ない日常の一部だった防犯意識が、昨日の事件をきっかけにぐっと高まる。


朱音を助けた小さな勇気と、町の人々の協力が結びついたことで、商店街には以前よりも穏やかで安心できる空気が漂い始めていた。


時間:翌日・午前

場所:倉庫跡地


倉庫はすでに取り壊され、事件の痕跡は跡形もなく消えていた。


更地を見下ろす奈々がつぶやく。

「ここも、もう何もない…でも、あの日のことは忘れられない」


成瀬由宇、桐野詩乃、安斎柾貴も静かに立ち尽くす。

「あの影の足跡も、もう残っていない」

「でも、守ったものは確かにある」


かつての緊迫した現場は静寂に包まれ、過去の影を思い返す者たちにとって、倉庫跡地は“終わった戦いの証”として心に刻まれた。


事件の物理的な痕跡は消えても、朱音や家族、影班の記憶に残る日々の重みは、確かにそこに息づいていた。



時間:翌日・午前

場所:玲探偵事務所


奈々はパソコンの前で、防犯カメラ映像や聞き取りメモを整理しながら、深く息をついた。

「これで、証拠と記録の整理は完了です」


玲が隣で頷く。

「提供してくれた地域の人々や目撃者のおかげで、事件の再現と記録がすべて整った」


事務所内は静かな充足感に包まれる。

過去の映像や情報が体系的にまとめられ、今後の捜査や地域の安全対策に活かせる形となったことで、事件は確かに“記録として残された”。


奈々は小さく笑みを浮かべ、朱音の無事を思い出す。

「守るべきものを守った証拠――これもまた、大切な家族の記録ですね」

朱音からの手紙


玲お兄ちゃん、奈々さん、成瀬さん、詩乃さん、柾貴さんへ


こんにちは。

わたし、もうおうちにかえれたよ。

おうちのリビングでママとパパとごはんをたべて、ねむるまえにスケッチブックにえをかいてるの。

あのときはこわかったけど、みんながまもってくれたから、わたし、だいじょうぶだったよ。


みんなにあえなくてさみしかったけど、わたし、ちゃんとありがとうっておもってるよ。

これからもずっとげんきでいたいし、えをかくのもつづけるね。

お兄ちゃんたち、ほんとうにありがとう。


朱音

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