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22話「風見坂の記憶—選ばれた過去」

主な登場人物


れい[探偵・調査チームのリーダー]

冷静で戦略的な思考力を持つ。元法務関連の調査官。シリーズ全体を通じて中心的存在。


伏見ふしみ 駿しゅん[情報解析スペシャリスト]

元セキュリティ技術者。記録改竄やサーバ解析を得意とする。


橘 奈々(たちばな なな)[会計担当/危機対応要員]

データ管理と現場判断を担当。現場では鋭い警戒感を発揮する。


加賀見かがみ 理子りこ[元記録管理局員]

消去された記録の復元に関する専門知識を持つ。物語後半で合流。


佐々ささき 昌代まさよ[心理捜査協力者]

後半から登場。心の動きを“読む”ことに長け、核心に迫る局面で重要な働きをする。


ひいらぎ 誠一せいいち[風見坂の記憶管理者]

物語終盤で登場。記憶管理システムを監視していた人物で、真相解明の鍵を握る。



特徴・テーマ

•高度な情報戦と記憶にまつわる心理サスペンス

•技術・行政・個人記憶が交錯する構造

•最終話では「記憶を取り戻した町」と「未来を選び直す人々」が描かれる

冒頭シーン——佐々木昌代の帰還


玲は事務所の扉を開け、荒れた室内を見渡した。焦げた壁、弾痕、散乱する書類、倒れたコーヒーメーカー。椅子に腰を下ろし、破れたカーテン越しに朝の光を見つめて呟く。


「……またボロボロだな。」


軽やかな声が背後から響く。


「あら、休暇中に何があったの?」


振り向けば、白いブラウスにジャケット姿の佐々木昌代が立っていた。伏見が書類の山から顔を出し、苦笑する。


「まあ、いろいろあったんだ。」


昌代は床の破片を見下ろし、玲に目を向ける。


「前回よりマシね。あの時は壁が消えてたでしょう?」


玲は苦笑しつつ頷く。「帰ってきてくれて助かるよ。」


端末を開き、玲は報告書を指でなぞる。眉間に皺が寄る。


——ある朝、一人の男性が忽然と姿を消した。


部屋には昨夜のコーヒーカップ、未送信の「助けて。時間がない。」というメッセージ。争った形跡はなく、玄関には揃えられた靴、机上の財布、最後のログだけが残されていた。


玲は端末を閉じ、静かに窓の外を見つめる。


昌代はログと乾いたコーヒーの時間的ズレに気づき、呟く。


「……これは単なる失踪じゃない。」


玲が頷く。「あなたがそう言うなら間違いないな。」


昌代は微笑む。


「彼は何かを知っていた。そして、それを伝えようとした。」


玲は端末を握り直し、低く呟く。


「足跡を探せ——消えた人の最後の行動。」


空気が張り詰め、追跡が再び始まった。


---


玲は端末を握り直し、画面を見つめた。

失踪した男の最後の行動——それを追うための手がかりは、限られている。


「伏見、奈々。彼の行動ログを洗い直せ。最後にアクセスした場所、通信履歴、監視カメラの映像——使えるものは全部だ。」


伏見は軽く頷きながら端末を操作し始める。「了解。だが、もし意図的に痕跡を消されていたら、通常の解析じゃ見つからないかもな。」


奈々が画面を覗き込みながら呟く。「それなら、別の視点から探るしかないね。」


玲は視線を昌代へ向けた。


「……何か感じるか?」


昌代は静かに目を閉じ、部屋の空気を感じ取るように息を整えた。

この場に残る痕跡——それは、ただの物理的な証拠ではない。


「彼は、ここで何かを決断した。」


玲が眉をひそめる。「決断?」


昌代はテーブルの上のスマートフォンを指でなぞった。


「未送信のメッセージ。『助けて。時間がない。』——この言葉には、迷いがある。」


玲は端末を開き、メッセージの入力履歴を確認する。


「……確かに。送信ボタンを押しかけて、止めた形跡があるな。」


伏見が画面を見ながら呟く。「つまり、彼は誰かに助けを求めようとしたが、何かがそれを阻んだ……?」


奈々が腕を組みながら考える。「それが外的な要因なのか、それとも彼自身の判断なのか……そこが問題だね。」


玲は静かに息を吐き、窓の外を見つめた。


「どちらにせよ、彼の足跡を追うしかない。」


伏見が端末を操作しながら答える。「ログの断片を復元できた。最後に訪れた場所は——**駅前の小さなカフェ**。」


玲は端末を閉じ、立ち上がる。


「行くぞ。」


昌代は静かに頷き、視線を落とした。

テーブルの上に残る微かな空気の揺らぎ——そこに、言葉にならない焦燥が滲んでいた。


「何かが、ここから始まったのね。」


玲はドアへ向かいながら呟く。


「足跡を追う——消えた人の最後の行動。」


---


玲たちは駅前の小さなカフェに到着した。

昼下がりの店内は穏やかな雰囲気に包まれているが、玲の視線はすぐにカウンター奥の監視カメラへ向かった。


伏見が端末を操作しながら呟く。「映像データを確認する……ん?」


玲が伏見の画面を覗き込む。


「どうした?」


伏見は眉をひそめ、映像のタイムラインを指でなぞった。


「妙だな。彼が入店した時間の映像が、抜けてる。」


玲の表情が険しくなる。「抜けてる?」


伏見は映像を再生しながら説明する。


「通常なら、カメラは連続して記録されるはずだ。でも、彼が入店したはずの時間帯だけ、数分間の空白がある。」


奈々が腕を組みながら考える。「意図的に消された可能性が高いね。」


玲はカウンターへ向かい、店員に声をかけた。


「すみません。数日前の昼頃、この席に座っていた男性を覚えていますか?」


店員は少し考え込むような仕草を見せた後、曖昧に答えた。


「ええと……いたような気もしますが、よく覚えていません。」


玲は店員の微妙な態度に違和感を覚えた。


「何か、覚えていることがあれば教えてください。例えば、誰かと話していたとか。」


店員は困ったように視線を泳がせる。


「一人だったような……でも、誰かを探しているようにも見えました。」


伏見が玲に小声で囁く。「証言が曖昧すぎるな。もしかすると、何か誘導されてるか、記憶が操作されてる可能性もある。」


玲は静かに息を吐き、昌代へ視線を向けた。


「……何か感じるか?」


昌代は目を閉じ、店内の空気を感じ取るように息を整えた。

この場に残る痕跡——それは、ただの物理的な証拠ではない。


彼が座っていた席へゆっくりと歩み寄り、指先をテーブルの表面に滑らせる。


「……安心。そして、焦燥。」


玲が眉をひそめる。「安心と焦燥?」


昌代は静かに頷く。


「最初は落ち着いていた。でも、途中から何かを気にし始めた。そして——誰かを待っていた。」


玲はテーブルの上に視線を落とし、低く呟いた。


「誰を?」


伏見が端末を操作しながら答える。「それを探るには、もう少しデータが必要だな。」


玲は静かに息を吐き、カフェの入り口へ視線を向けた。


---


駅前のカフェ「ミスト・ノクターン」

玲はカフェの入り口へ視線を向けた。

この場所で何が起きたのか——それを知るためには、さらに手がかりを探す必要がある。


伏見が端末を操作しながら呟く。「監視カメラの映像は抜けてるが、周辺の防犯カメラなら何か映ってるかもしれないな。」


奈々が頷く。「駅前の交差点に設置されてるカメラなら、カフェの出入りが確認できるかも。」


玲は静かに考えながら、店内をもう一度見渡した。

テーブルの上には、わずかに指の跡が残っている。


昌代がその痕跡に目を留め、指先をそっと滑らせた。


「……彼は、ここで何かを待っていた。でも、最後の瞬間——躊躇いがあった。」


玲が眉をひそめる。「躊躇い?」


昌代は静かに頷く。「ええ。何かを決めかねていた。そして、その直後に姿を消した。」


玲はテーブルの上に手を置き、深く息を吸い込んだ。

彼の意識は、まるで水面を漂うように、その場所に残された微かな“意志”の残滓を探っていく。

それは、言葉にならない感情の波紋であり、思考の断片的な映像だった。


——視線を落とす。

そこに、かすかな焦燥が残っている。

誰かを待っていた。だが、その時間は長くは続かなかった。


「……視界が霞む」


一瞬だけ、玲はテーブルから手を離し、深く息を吐いた。

それは“読める”がゆえに、受け取ってしまう感情の重さだった。


昌代が玲を見つめる。「……大丈夫?」


玲は短く頷き、再びテーブルに手を置く。


「誰かと連絡を取ろうとしていた。でも、途中でやめた。」


昌代が玲を見つめる。「それは、メッセージの履歴から?」


玲は首を横に振る。「違う。ここに残っている“意志”から。」


伏見が画面を確認しながら言った。「駅前のカメラ映像を解析する。もし彼がここを出たなら、その動きが残ってるはずだ。」


奈々が伏見の端末を覗き込みながら呟く。「駅前のカメラ、映像が出た……でも、妙ね。」


玲が振り返る。「何か映ってるのか?」


伏見が映像を拡大しながら答える。「映ってる。だが、彼がカフェを出た直後——**誰かとすれ違っている**。」


昌代が画面を覗き込み、目を細める。「その人物の顔は?」


奈々は腕を組みながら考え込む。「すれ違った瞬間、彼の動きが変わってる。何かを言われた?」


伏見が映像を一時停止し、別の端末を開く。「この場面を解析するには、専門家の視点がいるな。」


玲は端末を操作しながら答える。「すでに依頼済みだ。二十分以内に来るはずだ。」


数分後——静かに店の扉が開いた。


現れたのは、軽いコートを羽織った長身の男だった。端正な顔立ちと鋭い眼光。


「久しぶりだな、玲。」


玲は短く頷いた。「**水瀬瞬**。口の動きを読み取るスペシャリストだ。」


水瀬は軽く顎を上げ、伏見の端末を受け取る。「どれ……解析する。」


映像が巻き戻され、すれ違いの瞬間をズームされる。


水瀬はしばらく目を凝らし、画面の中の人物の口元を注視した。


「……なるほど。」


玲が静かに問いかける。「何を言った?」


水瀬は指を画面に滑らせながら答える。


「短い言葉だ。『時間はない』。」


沈黙が流れた。


昌代が静かに息を吐く。「それが彼の行動を変えた?」


玲は画面を見つめながら呟く。「その可能性は高い……。」


奈々が伏見の端末を見ながら言った。「じゃあ、彼はその言葉を受けて——駅へ向かった?」


---

水瀬は一瞬だけ玲の目を見てから、端末を閉じた。


「……言葉ってのは厄介だ。伝える意志と、受け取る覚悟がなければ、ただのノイズになる。」


玲は静かに頷いた。「あの時と同じだな。」


水瀬はそれ以上言わず、背を向ける。その後ろ姿には、過去の記憶が滲んでいた。


伏見が視線を落とし、静かに呟く。「駅前のカメラ映像を解析する。彼がどこへ向かったのかを確認しよう。」


奈々が頷く。「もし目的地がはっきりすれば、次に進めるね。」


昌代はカフェのプレートをもう一度見つめた。

「霧の夜想曲……名前の通り、記憶に溶けていく場所ね。」


玲は短く息を吐き、目を閉じる。


ミスト・ノクターンで拾った言葉、消えた人物の“意志”。

そして、水瀬が言った「伝える意志」と「受け取る覚悟」。


玲は目を開き、端末を開く。


「静雲町だ。彼は、ここへ向かっている。」


---


伏見が地図を拡大しながら呟いた。

「静雲町……郊外の住宅地だな。駅周辺に商店街があるくらいで、特に目立つ施設はない。」


奈々がスマホで確認する。「……でも、あの日の足取りは確かにそこへ向かってる。」


玲は頷いた。「なら、静雲町に何か“意味”があるはずだ。彼にとっての。」


昌代がぽつりと呟く。「記憶の中にある場所かもしれない。安心できる、何かの原点……」


玲は視線を伏せ、考え込むように言った。

「静雲町。彼の“消えた時間”を追う鍵になる。」


玲は端末を見つめたまま、静かに指を滑らせる。


「静雲町……何を求めてそこへ向かった?」


伏見がさらに地図を拡大し、周辺の詳細を確認する。「過去に大きな事件があった場所じゃないな。何か個人的なつながりか……。」


奈々が画面をスクロールしながら答える。「公式な記録には何もない。でも、その日は確かにそこへ向かった。」


昌代がテーブルの上のコーヒーカップをゆっくりと指でなぞる。


「記憶の中にある場所……“安心できる何か”かもしれないわね。」


玲は目を閉じ、静かに息を吐く。


「もし静雲町に何かがあるなら、それは彼にとって大切な場所だったはずだ。」


伏見が端末を操作しながら言った。「駅で降りた映像を確認できる。だが、その後の動きがはっきりしない。」


奈々が画面を拡大しながら呟く。「降りた直後、何かを気にしているな……周囲を確認してる?」


昌代が目を細める。「何か、誰かを探していた可能性もあるわね。」


玲は静かに端末を閉じた。


「静雲町へ行く。彼がそこで何を求めたのかを探る。」


---


静雲町の駅前は、どこか時間が止まったような静けさに包まれていた。

小さなバスロータリーと、昔ながらの商店街。近代化の波に飲まれずに残ったこの町には、過去の記憶がそのまま染み込んでいるようだった。


玲たちは駅を出てすぐに、通り沿いの交番に立ち寄った。

中には、若い巡査がひとり、書類をまとめていた。


玲が身分証を提示しながら声をかける。「少し伺いたいことがあるんですが。」


その巡査——胸元の名札には「河合」——は少し驚いたように目を見開いた。


「都内の……?はい、どうぞ。何か事件でしょうか?」


伏見が端末を見せながら答える。「数日前、この町に立ち寄った人物の足取りを追っています。駅のカメラには記録がありましたが、その後の行動がわかっていない。」


河合は真剣な表情に変わった。「うちにも照会が来てたかもしれません……少々お待ちください。」


奥の資料棚から帳簿を一冊引き出し、ページをめくる。


「……いました。午後一時頃、駅から商店街方向へ歩いていく男性を、商店街の防犯協会が目撃しています。」


奈々が顔を上げた。「その先に何がありますか?」


「正直、何もない場所です。商店街を抜けると、古い診療所と廃校になった小学校くらいしか……」


玲が静かに呟く。「何も“ない”場所、か。」


河合は少し間を置き、続けた。「あとは……“風見坂”という小道があります。町外れに続く、昔の抜け道です。」


伏見がすぐに地図を開き、確認した。「その先に、住居や施設は?」


「今は誰も住んでいません。十年前に最後の住人が引っ越しました。道も荒れてます。」


昌代が小さく首をかしげる。「なぜそんな場所に?」


玲は少し考え、答えた。


「誰もいないからこそ、向かう理由がある。そこに、誰かが待っていたか——何かを残したかだ。」


伏見が端末を仕舞い、顔を上げる。「行ってみよう。手がかりは現場に残る。」


河合が小さく手を挙げた。「よければ案内します。あの辺は地元の人間じゃないと迷いやすいです。」


玲は短く頷いた。「助かる。」


一行は交番を出て、風見坂へと歩き始めた。

静雲町の奥へ——誰かの“記憶”が、確かにそこにあると信じて。



玲たちは静雲町の駅を出ると、そのまま風見坂へ向かった。


町の中心から離れるにつれ、景色は徐々に古びたものへと変わっていく。

商店街の賑わいはすぐに途切れ、静けさだけが広がっていた。


河合が先導しながら呟く。「ここを抜けると、坂道になります。途中に廃校もありますが、今はもう誰も使っていません。」


玲は静かに周囲を確認しながら歩を進める。


「何か異常を感じたらすぐに知らせてくれ。」


奈々が地図を確認しながら言った。「廃校の先に、風見坂が続いてるね……この辺りで彼の足取りは途切れてる。」


伏見が端末を開き、駅での映像を再確認する。「降りた後、数分間は誰かと会話してるような動きがある。だが、その相手が映ってない。」


昌代が小さく息を吐く。「影のような痕跡……まるで、存在しない何かと話していたかのようね。」


玲は腕を組みながら考える。「この場所は、記憶の残滓を引き寄せる性質があるのか?」


河合がふと足を止め、坂道へと目を向けた。「この先に、昔の住人が残した物があるかもしれません。何か手がかりになるものがあればいいですが……。」


その言葉に、玲たちは視線を上げる。


霧がわずかに漂う坂道の奥——その先に、答えはある。


---


風見坂を上るにつれ、霧は濃くなり、あたりは次第に輪郭を失っていく。


足元の小石が転がる音だけが響く中、河合が立ち止まり、指を差した。


「ここです。……彼の足取りは、この門で止まっています。」


朽ちた木製の門扉がわずかに開いていた。かつての学び舎の跡地だろうか、背後には廃れた校舎の輪郭がぼんやりと浮かぶ。


奈々が端末を操作しながら言った。「GPSの履歴も、ここを最後に消えてる……誰かに消されたか、自分で遮断したか。」


伏見は門の脇にある金属製の表札を確認する。「『旧・風見第三小学校』……記録では1970年代に廃校。以降、使用歴なし。」


玲は静かに廃校の敷地に足を踏み入れた。


「“誰か”と話していたなら、ここで何かを受け取った可能性もある。」


昌代がうっすらと首を傾げる。「記憶の中にある場所……それをなぞるように動いていたのかもね。」


河合は小声で付け加えた。「このあたり、昔から“記憶の井戸”と呼ばれていて……あまり近寄らないようにと言われてました。」


奈々が振り返る。「言い伝え?」


「いえ、そういう名前の古井戸が校舎裏にあるんです。覚えておくべきことと、忘れたほうがいいことを選ぶ場所だって……」


玲は目を細め、その方角を見つめた。


「確かめよう。記憶が導いたのなら——そこに、何かがある。」



玲は門扉の前で立ち止まり、わずかに開かれた隙間を見つめた。

風に乗った霧が廃校の敷地へと流れ込み、あたりは音を飲み込んでいく。


「ここで彼の足取りが途絶えた。」伏見が静かに呟く。


玲は深く息を吸い、視線を巡らせる。


「校舎裏に“記憶の井戸”があるんだったな。」


河合が頷く。「はい。でも、誰も近寄りません。そこに何があるかを知っている人も少ないです。」


奈々が端末を確認しながら言った。「なら、まず廃校の中を調べてみよう。」


玲は門扉を押し開き、静かに一歩踏み出した。


校舎へ続く道の途中、足跡が不自然に途切れている——

そこに、誰かがいたのか。


「この場所の痕跡を読み取れる者が必要だな。」玲が端末を操作しながら呟く。


伏見がすぐに反応する。「それなら、専門家を呼ぶか?」


玲は短く頷いた。「すでに動いている。間もなく到着する。」


——数分後。


校門の外で足音が止まった。


「こんな場所に連れてきて、何を探るつもりだ?」


声の主は、長身の男——**結城透**。


玲は短く説明した。「この場所に残る痕跡を解析してほしい。」


結城はゆっくりと門扉に手をかけ、校舎へと目を向けた。


「“記憶の井戸”……なるほど、そういう話か。」


奈々が少し驚いた様子で結城を見た。「知ってるの?」


結城は静かに微笑んだ。「まあな。こういう場所の“声”を拾うのが俺の仕事だからな。」


玲は短く息を吐き、結城の視線を追う。


「頼む。ここで何が起きたのか——何を残していったのかを、解析してくれ。」


結城透——過去の“痕跡”を視覚化するスペシャリスト。


彼が静かに門をくぐると、廃校の空気が微かに揺れた。


霧の奥で、何かが眠っている。


そして、それを呼び起こす時が来た。


---


結城はゆっくりと校舎の前に立ち、霧に包まれた空気を吸い込む。

目を閉じ、指先をわずかに前へと伸ばした。


「……感じるな。重たい……迷いと、選択の痕跡だ。」


玲が一歩踏み出し、静かに見守る。


結城は胸ポケットから薄型のデバイスを取り出す。まるで古い写真機のような、だが光学センサーと触覚共鳴装置が一体化した特殊機器。

彼はそれを右手に持ち、校舎の壁際に沿ってゆっくりと歩いた。


「残留感情は、だいたい24時間から48時間の間に希釈される。でも、ここにあるのは……もっと深い層の記憶だ。」


奈々が呟く。「深い層……それって、本人が忘れてても、残ってるってこと?」


結城は頷いた。「自覚していない“動機”ほど、強く残る。ときに、それは本人より雄弁だ。」


装置が低く震え、微細な光が壁面をなぞる。すると、空間にわずかな歪みが現れ——


霧の中に、人影が浮かび上がった。


制服姿の青年。駅で降りた失踪者と一致する。

だが、その目は定まっていない。何かを探して、そして見つけられずにいる。


玲が目を細める。「あれが……彼の記憶の残像か?」


「そうだ。」結城の声は淡々としていた。「彼はこの場所に来て、“井戸の方角”へ目を向けた。だが、近づいていない。」


伏見がすぐに反応する。「ということは……誰かがそれを止めた可能性がある?」


結城はゆっくりと頷いた。「この場に、彼とは別の痕跡がある。」


すると、残像の青年のそばに、もう一つの影が浮かび上がった。

フードを被った細身の人物。顔は見えない。だが、まっすぐに彼の前に立ちはだかり、言葉を放った。


装置がその唇の動きを読み取る——


《戻れ。まだ、お前は“選ばれていない”。》


一瞬の静寂。


奈々が低く息を呑む。「選ばれていない……?」


玲がゆっくりと結城を見た。「この言葉……記録できるか?」


結城は頷き、装置を静かに閉じた。「録音完了。発話の意図までの特定は難しいが、“誰かが儀式的にこの場所を守っている”可能性がある。」


昌代が静かに呟く。「風見坂の“記憶の井戸”……誰かが鍵を握ってるのね。」


玲は校舎裏を見据えながら言った。


「井戸へ向かう。そこに、答えがある。」


霧は少しずつ晴れていくように見えた。

だが、深くに沈んだ記憶はまだ沈黙したままだ。



玲たちは静かに井戸の前に立った。


霧が揺らぎ、風が湿った空気を運んでいる。


結城透は装置を起動し、視覚化の準備を始めた。


「この井戸……通常の場所と違う。”記憶の層”が深い。」


伏見が端末を確認しながら言った。「周辺の地質的なデータを取っておく。もし何か埋められていたなら、そこに異常値が出るはず。」


奈々が井戸の縁を調べながら呟く。「これ……単なる古井戸じゃないね。誰かが”封じた痕跡”がある。」


玲は静かに頷き、結城を見た。「解析は可能か?」


結城は端末を構え、空間の波長を調整する。「可能だ。だが、かなり強い抵抗があるな……何かが隠されてる。」


そこへ、新たな人物が足音を響かせながら現れた。


「抵抗があるのは当然だ。この井戸は、ある目的で作られているからな。」


玲が顔を上げる。


現れたのは、端整な顔立ちの男性——**鷹宮黎**。

彼は言語の歴史解析を専門とし、“封じられた文書”や“消された言葉”を読み解くスペシャリストだった。


伏見がすぐに言った。「来てくれたか。こっちは発話痕跡を拾っている。記録できるか?」


鷹宮は軽く頷き、手帳を開く。「まずは、井戸の縁に刻まれた文字を読む。」


玲は井戸の縁を見た。


そこには、かすれた文字が彫られていた——


《選ばれし者、ここに記憶を返す》


奈々が息を呑む。「返す……?記憶を取り戻すんじゃなくて?」


鷹宮が静かに答える。「ここに来た者は、記憶を捨てる。捨てた先に、選択がある。」


昌代が井戸の中を覗き込みながら呟く。「失踪者は……この井戸で、何を選んだの?」


玲は視線を伏せ、ゆっくりと息を吐く。


「それを探る。」


結城が装置を操作し、井戸の記憶を視覚化する準備を整えた。


「今から”封じられた記憶”を呼び起こす。だが、何が出てくるかは保証できない。」


玲は短く頷き、井戸へ向き直った。


「構わない。」


そして——井戸の奥から、記憶の影が揺らぎ始めた。


---


結城の装置が静かに共鳴音を立て、井戸の縁に淡い光が広がっていく。

波紋のように、記憶の断片が空間に浮かび上がった。


霧が凝固したかのように、井戸の上に“影”が形成される。


ひとりの青年——失踪者だ。

彼は井戸の前に立ち、震える手で何かを握りしめている。

小さなメモ用紙。その文字は、すでに判別不能なほどに滲んでいた。


「視認レベル、安定。」結城が呟く。「これが最終記録——ここで彼は、決断をした。」


玲は一歩前に出て、浮かぶ記憶の映像を凝視する。


青年は、井戸の中をじっと覗いている。


すると、影の中から——“誰か”が手を伸ばす。

それは人ではない。

輪郭が曖昧で、声もなく、ただ存在するだけの“存在”。


《記憶を返すか——あるいは、持ち続けるか。》


声ではなく、脳に直接届くような共鳴。


奈々が震える声で言う。「記憶……選択肢は二つだけ……?」


鷹宮が頷く。「この儀式の構造は明確だ。記憶を捨てて、別の何かになるか。あるいは、記憶を保持して、立ち去るか。」


伏見が画面に表示された数値を睨む。「でも彼は、どちらも選んでないように見える……。」


玲が低く言った。「選べなかった。だから——消えた。」


結城の装置が、強い反応を示す。

記憶の影が乱れ、青年が苦しげに顔を覆った。


《選ばれぬ者は、存在の座標を失う。》


一瞬の閃光。そして——彼の影は、消えた。


井戸の周囲に、沈黙が戻る。

だがそれは、決して平穏ではなかった。


昌代が硬い声で言う。「この井戸は……記憶を“抹消”する装置と化してる。選べなかった者を、記録から外す仕組み。」


鷹宮が静かに頷く。「歴史的に、この構造は“封じの儀”に近い。情報の脱落を、“意図的に起こすため”の場所だ。」


玲はゆっくりと井戸から視線を外した。


「この町は……記憶を代価に、何かを得ている。」


奈々が問う。「何を?」


玲は短く答えた。


「忘却だ。……苦しみのない平穏という名のな。」


そのとき、伏見の端末に通知が入った。

彼が目を細め、内容を読み上げる。


「町役場の旧記録庫で、不自然な欠損データが見つかった。“風見坂記憶管理区画”——存在すら、抹消されてた。」


玲は静かに言う。


「次の目的地が決まったな。真実を残す“記録”の方を見に行こう。」


そして彼らは、再び歩き出す。

記憶を封じる井戸の前に、わずかに残された足跡を背にして——



玲たちは静かに歩き始めた。


風見坂を背にし、霧の残滓が薄くなるにつれ、空気が変わる。

だが、井戸の記憶が見せた光景は頭から離れない。


「風見坂記憶管理区画——それが削除されていた?」玲が伏見に確認する。


伏見は端末を操作しながら頷いた。「町の公式記録に存在しない。まるで初めからなかったかのように消されてる。」


奈々が眉をひそめる。「失踪者が選べなかった理由も、これと関係があるのかもね。」


昌代が静かに言う。「『記憶を返すか、持ち続けるか』。この町はその選択を仕組んでいた……。」


鷹宮が手帳をめくりながら考え込む。「記憶の抹消が町の意志なら、その記録を保管していた場所があったはずだ。」


玲は短く息を吐き、役場へ向かう道を確かめる。


「確認しよう。町がどこまで記憶を管理していたのか——その痕跡を探す。」


そして彼らは役場へと向かう。


静雲町の奥に眠る“記録”の真実へ——。


---


玲たちは町役場の建物前に到着した。静かな町に響くのは足音だけ、風が頬を撫でて通り過ぎる。


「ここだ。」玲は冷静に建物を見上げ、表情に変化を見せずに言った。


役場の扉を開けると、古びた空気が迎え入れる。職員が数人、書類を広げて忙しそうにしている。だが、玲の存在が部屋に入った瞬間、すぐに視線が集まった。


「所長、いらっしゃいませ。」受付の女性が、ちらりと目を合わせて言う。だが、その口調にはどこか遠慮が感じられた。


玲は一歩踏み出し、無駄な言葉を避けるように、まっすぐに目的の場所を目指す。「記録を見せてくれ。」彼の言葉には、誰もが無意識に従う力があった。


伏見が横で静かに言った。「町の記録の中に、隠された情報があると思われる。」


「それは、記憶に関するものだな。」玲が視線を向ける。


鷹宮が手帳をめくりながら、控えめに付け加える。「記録の抹消が町の意図なら、その痕跡を追えば、我々が探している答えに辿り着けるかもしれません。」


奈々が端末を手に、情報を整理しながら応じた。「でも、これは予想以上に難解な作業になりそうですね。おそらく、町全体で行われていた隠蔽工作です。」


玲は冷静にうなずく。「その通りだ。それにしても、失踪者が選べなかった理由も、記憶が消された過程に何か関連しているだろう。」


役場内にいる職員たちは、玲の指示を察して動き出し、書類を持ってきたり、コンピュータのデータを探し始める。


しばらくして、担当者が書類を持ってきた。「こちらが、町の記録を整理したものです。ですが……」彼は少し躊躇してから続ける。「いくつかのデータが失われているようです。」


玲はその書類を受け取り、ゆっくりと目を通した。目に入ったのは、風見坂に関する記録や、過去に行われた調査のデータ。しかし、その中には、どうしても解せない空白部分があった。


「……この箇所は?」玲が指摘すると、担当者は顔をこわばらせた。


「その部分は、長い間手を加えられていないものです。」


玲はその部分をしばらく見つめ、眉をひそめる。「風見坂の記録がなぜ消された?」


「すみません、詳細は……わかりません。」担当者は答えを避けるように言った。


その時、玲の視線が突然、別の書類に止まった。それは、町の中で管理されていた「風見坂記憶管理区画」に関するもので、何かしらの意図的な削除が記録として残されている形跡があった。


「これだ……。」玲は低く呟く。


伏見がすぐに反応する。「所長、どういうことです?」


「記録が削除されている。町の公式記録に、風見坂の管理区画は存在しないことになっている。」玲の目は鋭くなり、息を整えた。


その瞬間、鷹宮が手帳を閉じ、少し考える。「記憶の管理者が、何らかの方法で記録を抹消した。それを覆すためには、町の歴史と共に隠された目的を探る必要がある。」


玲は書類を机に広げ、その上に指を置いた。「この町、そしてその背後に隠された真実を——必ず暴く。」


町の記録に潜む闇が、静かに彼らを次の段階へと誘っている。



玲は書類を机に広げ、その上に指を置いた。


「この町、そしてその背後に隠された真実を——必ず暴く。」


その時、役場の奥にある記録室の扉が静かに開いた。


「探しているのは、この記録かもしれませんね。」


低く、穏やかな声が響く。


玲が振り返ると、扉の向こうに立っていたのは、薄墨色のスーツを纏った男——**加賀見慎**。


奈々が小声で伏見に尋ねる。「この人は?」


伏見は表情を変えずに答える。「元記録管理官——町の歴史を知る最後の人物だ。」


加賀見は机に数冊の古い帳簿を置く。「風見坂記憶管理区画——確かに、正式な記録では抹消されている。しかし、それ以前の文書には痕跡がある。」


玲は帳簿を手に取り、慎重にページをめくった。


そこには、1974年の記録が残されていた——


《風見坂第三管理区画、記憶調整に関する施行命令》


昌代が静かに呟く。「1974年……町の記憶の仕組みは、この頃に始まったのね。」


加賀見が続ける。「この町では、人々の記憶を均衡させるための“調整”が行われていた。選択しなければ、記憶の抹消が執行される。」


玲の視線が鋭くなった。「失踪者が選択できなかった理由は?」


加賀見は穏やかに答えた。「選ばれない者は、この町の記録からも消される——それが“風見坂の規律”だ。」


奈々が息を呑む。「つまり……町の人間は、この仕組みを受け入れていたってこと?」


伏見が端末を操作しながら分析する。「記録に異常値がある。特定の住民の過去のデータが断片的に消されている……誰かが“調整”を続けているな。」


玲は帳簿を閉じ、加賀見を見つめた。


「この町の記憶管理者は今もいるな?」


加賀見は静かに微笑み、ゆっくりと頷いた。


「そうだ。記憶を操る者は、風見坂の井戸だけではない——この役場の中にもいる。」


玲は短く息を吐き、役場の奥を見据えた。


「なら、その人物を見つける。町が隠し続けた記憶を取り戻すために。」


そして、新たな真実を追う捜査が始まる。


---


加賀見は静かに頷き、目を伏せた。


「そうだ。記憶を操る者は、風見坂の井戸だけではない——この役場の中にもいる。」


玲は短く息を吐き、役場の奥を見据えた。


「なら、その人物を見つける。町が隠し続けた記憶を取り戻すために。」


加賀見は机に置いた帳簿を指でなぞりながら、かすかに息を吐く。


「……だが、この町は記憶を手放すことで成り立っている。記録の改変は静かに、何年もかけて行われる。」


玲が目を細める。「それを知っているのなら、なぜ沈黙していた?」


加賀見はしばらく黙った後、低く言った。


「私にも……守るべきものがあった。だが、その選択は間違いだったかもしれない。」


奈々が慎重な口調で尋ねる。「あなたも、何かを失った?」


加賀見の指が微かに震えた。彼は小さく笑い、玲を見つめる。


「救ってほしいんだ。私は、この町の過去を知りすぎた……そして、それを消す役目を負わされた。」


沈黙が役場の部屋に満ちる。


伏見が端末を閉じ、玲に視線を向ける。「どうする?」


玲はゆっくりと加賀見を見据え、短く答えた。


「この町を救う。そのためには、まず——記憶の管理者を見つける。」


加賀見は微かに頷き、机の端に手を置いた。


「役場の地下に、かつて“記録保管庫”があった。そこで改変が始まったはずだ。」


玲は端末を開き、地下へのアクセス記録を確認する。


「案内してもらう。そこに、何が眠っているのか確かめる。」


そして、役場の奥へと進む。


静かな町に隠された、忘却の装置の核心へ——。


---

役場の地下は、外の静けさとは対照的に、無機質なコンクリートの壁と古びた蛍光灯に照らされた通路が続いていた。

湿気の混じる空気が、古い記録と時間の重みを感じさせる。


「……この奥にあるはずだ。」加賀見は足音を抑え、扉の前で立ち止まった。


奈々が扉のロックを確認する。「物理鍵と認証コードの併用。町の標準仕様じゃない。これは……封印レベルの管理下ね。」


伏見が端末を起動し、電磁認証を試みる。「解除には時間がかかる。だが、いける。」


鷹宮は壁に彫られた小さな文様に気づき、指先でなぞった。「ここの管理は、儀式的な意味も含んでいる。記録の“封印”そのものだな。」


玲は黙ったまま、扉の先を見つめ続ける。やがてロックが外れ、重い金属扉がわずかに軋んで開いた。


奥に広がっていたのは、無数の書類棚とデジタル記録装置が並ぶ、かつての記憶保管庫だった。

だが、その空間の中央には異様な装置が鎮座していた。


「これは……」結城が端末で即時スキャンをかける。「記憶抽出装置。しかも旧型じゃない、近年の構造だ。」


加賀見は静かに言った。「あれが、この町で使われていた‘選択装置’だ。」


玲はその装置に近づく。黒く光る筐体の上部に、小さなプレートが取り付けられていた。


《選択装置・第七型——設置認証:風見坂記憶管理局》


奈々が呟く。「第七型……。政府試験のはずじゃなかった?正式採用は凍結されたって聞いてた。」


「だから町が独自に使った。」加賀見が言う。「記憶を失った者はここで“選ばされた”んだ。残すか、捨てるか、そして——従うか。」


鷹宮が書類棚から一冊の記録ファイルを引き抜き、読み上げる。


「——被験者第43号、選択不能。精神負荷過大により消去処理。」

「——被験者第51号、従属状態へ移行。個人記録削除。」


沈黙が降りる。


玲は装置に手をかけ、冷たい金属の感触を確かめるように言った。


「これが、“選ばされていた”町の正体か。」


伏見が呟く。「選択なんて最初からなかった。町が記憶を管理し、人を作り替えていたんだ。」


奈々が深く息を吸い込む。「ここを開いたことで、町は——もう元には戻らない。」


玲はゆっくりと背後を振り返った。「……それでもやるしかない。記憶を取り戻すことが、失われた命の意味を照らす。」


加賀見は黙って頷いた。かつて守ろうとしたものの正体が、今、誰かの正義によって暴かれようとしている。


そして、記録装置の奥に、もうひとつの扉が見えた。

警告灯がわずかに点滅している。


《制限区域——管理者認証が必要です》


玲は端末を構えた。「ここが最後の鍵だ。」


物語の核心へ。

風見坂と“町の記憶”の真実が、いま明らかになろうとしていた——。



玲は静かに端末を構え、制限区域の扉を見据えた。


「管理者認証が必要……つまり、この装置を扱っていた者がいる。」


伏見が即座に解析を開始する。「ログを確認する……町役場のシステムに、この認証履歴が残っているはずだ。」


奈々が警戒するように言った。「でも、管理者が現存しているとは限らない。」


加賀見は静かに息を吐いた。「いや……まだいる。記憶を管理する者は、この町の中でずっと動いている。」


玲が短く頷く。「なら、認証解除の手段を探る。」


すると、扉の端末にわずかな応答があった。


《アクセス要求検知——管理者応答を確認》


伏見が息を詰める。「……これは。」


その瞬間、役場のシステムに通信信号が走った。


「誰かが応答した?」奈々が驚いた表情を見せる。


玲は迷わず言った。「管理者が……今、町のどこかでこの扉の動作を認識した。」


そして、扉の前に足音が響く。


「予想以上に早く来たな。お前たちは、何を探している?」


低く響く声。


現れたのは、黒いコートを纏い、端末を手にした男——**柊誠一**。


伏見が即座に確認する。「こいつが……?」


加賀見が静かに言う。「町の記憶管理者。風見坂の“選択”を監督してきた男だ。」


玲が柊を見据える。「なら、この扉の向こうに何がある?」


柊は微かに笑い、答えた。


「答えじゃない……お前たちが決める未来が、そこにある。」


そして、警告灯が一斉に点滅し——扉が、静かに開かれた。

---

扉の向こうに広がっていたのは、無音の中にひっそりと佇む白い空間だった。

中央には円形のプラットフォーム。その周囲に、頭部装着型の記憶転送装置、遠隔制御端末群。そして天井から吊り下がる無数のケーブルとチューブ。


「これが……第七型の“完全版”か。」鷹宮が呟いた。


柊誠一はゆっくりと部屋の中央に歩を進めながら言う。

「これは、記憶を“抜く”装置ではない。“再配置”するための制御システムだ。誰かの記憶を誰かに移す——感情ごと、痛みごと、意志ごと。」


奈々が鋭く問い詰める。「町の記憶は誰のものだったの? 本当の“所有者”は?」


柊は微かに笑みを浮かべた。「……この町全体が、記憶の保管媒体だった。“誰か一人”ではない。“すべての住人”が器になっていたんだ。」


玲の眉がわずかに動く。「個人の記憶を、町そのものに分散させる。それが……失踪の正体か。」


「そうだ。」加賀見が小さく頷く。「記憶を保存する方法として、町を記録装置に見立てた。“忘れる”ことで保持する。それがこのシステムの構造だった。」


だがそのとき、伏見の端末が警告音を発した。


「通信アクセス。外部からのシグナルが割り込んでる——誰かが、これを止めに来てる!」


その瞬間、天井のパネルが開き、セキュリティドローンが数体、警戒音を発しながら出現した。


「……予備封鎖プログラムか。自動迎撃モードに入ったな。」結城が低く言う。


玲が短く言い放つ。「奈々、制御信号を切れ。鷹宮、装置の構造を分析して弱点を見つけろ。伏見、外部通信の逆探知。柊……お前は、まだ黙って見てるつもりか?」


柊は目を伏せ、そしてゆっくりと端末を掲げた。


「私はこの装置の鍵を持つ最後の管理者だ。だが、それをどう使うかを決めるのは……お前たちかもしれない。」


その言葉と共に、玲の背後からもうひとつの声が届いた。


「制御解除プログラム、こちらでも用意してある。旧“記憶政策局”より移籍——特別支援要員・水城レナ、再配置。」


黒のスーツに身を包んだ若い女性が、脇の補助出入口から姿を現した。端末を両手に構え、冷静な目で装置を見据えている。


「水城……! 生きてたのか……」加賀見が目を見開く。


レナは静かに頷いた。「過去はすべて“記録”された。ただ、私は消されなかっただけ。必要な記憶を持ち続ける役だったから。」


玲がレナと視線を交わす。「旧制度の残骸を追っていたのか?」


「ええ。そして今、最後の“選択”を見届けに来た。」


ドローンがゆっくりと姿勢を変え、制御装置へとレーザー照準を合わせ始める。


奈々が端末を操作しながら叫ぶ。「数分以内に破壊命令が通るわ!今、決めなきゃ……!」


玲は装置の前に立ち、視線を柊へと向けた。

「この町の人間を守るために、記憶を返す。だが、過去の責任も残すつもりだ。——選べ、柊誠一。君自身の“記憶”を。」


柊は静かに息を吐いた。

「……わかった。私の記憶を装置に戻せ。すべての鍵を、君に託す。」


装置が起動する。光が走り、柊の記憶データが抽出され、かつて分散された記憶の再統合が始まる。


伏見がモニターを見ながら呟いた。「——これで、この町が取り戻す。奪われてきた、すべてを。」


そして、静かに一つの時代が終わりを告げようとしていた——。



玲たちは装置が起動するのをじっと見つめた。


柊誠一の記憶が回収されるにつれ、室内の空気が微かに変化する。

今まで抹消されていた歴史が、取り戻されようとしていた。


伏見の端末が警告音を発した。「再統合開始——町の記憶に再接続されてる。」


奈々が唇を噛みながらモニターを見る。「でも、まだ完全じゃない。欠損部分がある。」


鷹宮が確認する。「柊の記憶だけじゃないな。管理者の記録……いや、“副プログラム”が残っている。」


玲が短く言い放つ。「解析しろ。副プログラムの内容を確認する。」


水城レナが端末を起動し、素早くデータを開く。「……これは。」


その瞬間、室内の警告灯が赤く点滅し、装置の奥で何かが起動する。


加賀見が驚いたように呟く。「再統合だけじゃない——“選択”の最後のプログラムが走った!」


玲がモニターを睨む。「つまり……町そのものが、ある決断を下そうとしている。」


柊は微かに笑い、最後に言った。


「この町を救え。だが、その選択の重さを忘れるな。」


そして、最後の記憶が統合される。


---


装置の中央に、新たなホログラムが浮かび上がる。

それは町の地図。そして、“記憶干渉範囲”と“再構成予定エリア”の表示だった。


伏見が声を落とす。「副プログラムの内容、判明。……これは、記憶の再選別と抑制だ。」


奈々が目を見張る。「つまり、戻す記憶を“選ぶ”つもり……?」


レナが苦い表情で頷いた。「元の町の構造を保つために、“不都合な記憶”は再び抑制される。あらかじめ、柊が仕組んでいた……」


そのとき、装置の端末が新たなアクセス信号を検出する。


《外部資格認証:A-00》

《S級認証・記憶倫理監察官——久瀬槙也くぜ しんや


扉が開き、静かに男が現れた。

長身で端整な顔立ち、落ち着いた灰色のスーツ。鋭い眼差しに、長年記憶制御の倫理と闘ってきた者の静かな覚悟が宿っている。


「副プログラムは倫理違反の可能性がある。ここから先の判断は、君たち個々の意思ではなく、“町の全体意志”を問うべきだ。」


玲が眉をひそめる。「久瀬槙也……“記憶倫理機構”のトップか。」


久瀬は頷いた。「この装置を使うか否か。それは記憶の所有者、すなわちこの町の人々の“集団意思”に委ねられるべきだ。私はその決断を“代行”できる立場にある。」


玲は、柊の残した最終ログを開きながら言った。

「彼は言っていた。『救ってくれ』と。だが“救い”とは、記憶を戻すことなのか? 忘れることなのか?」


久瀬は一歩前に出る。「この町の過去には、人が人に行った抹消、裏切り、封印がある。戻せば苦しむ者もいる。だが、それも含めて“事実”だ。」


伏見が低く言う。「再統合を続ければ、町の意識に集団的反動が起こる可能性がある。過去を直視できるか、それが鍵だ。」


玲は沈黙の中、仲間たちを見渡した。


奈々は口を開いた。「……私たちには選ぶ権利がある。“どんな過去も意味がある”と信じたい。」


鷹宮が短く言った。「俺は記録者として、真実を捨てたくない。痛みも、証拠だ。」


レナが静かに添える。「装置は使える。でも、それをどう使うかは、倫理と勇気の問題。」


久瀬が問いかける。「玲、君が決めるか? それとも、町全体に選ばせるか?」


玲はわずかに目を伏せ、そして――はっきりと答えた。


「選ぶのは町の人々だ。私たちは、その記憶に手を添えるだけだ。」


久瀬が頷き、S級認証を実行する。


《全記憶復元モード移行》

《公開プロトコル発動》

《町全体へ告知——「あなたは記憶を取り戻すことを望みますか?」》


全住民の端末に問いが表示される。


「答えは、一つではない。だが、その選択が——未来を変える。」


沈黙の数秒後、最初の“YES”が点灯した。次々に“YES”が積み重なっていく。


玲が、わずかに微笑んだ。


「ようやくこの町は、自分の意思で歩き出す。」


そして、装置の中央に光が満ち、記憶が——町の全体意識の中に、再び流れ込んでいった。


過去を思い出す町。

罪を受け入れる町。

未来を選びなおす町。


そして、静かに一つの時代が終わりを告げた。



『消えゆく記憶 最終章:選ばれた過去』——完


玲は静かに目を閉じ、長い息を吐いた。


「……これで町は、自分で選んだ記憶のもと、未来を歩き始める。」


奈々が微笑む。「時間はかかったけど、必要な選択だったね。」


伏見が腕を組みながら言った。「町がどう変わるかは、これから次第だな。」


玲は仲間たちを見渡し、ゆっくりとした口調で言葉を紡ぐ。


「この場を支えてくれた皆に——心から感謝する。」


彼はまず加賀見へ視線を向ける。


「あなたの知識がなければ、記録の奥へたどり着けなかった。ありがとう。」


加賀見はわずかに微笑み、静かに頷いた。「私こそ……救われたよ。」


次に、結城透。


「痕跡を視覚化してくれたことで、真実を確かめることができた。感謝している。」


結城は肩をすくめ、冗談めかした口調で言う。「俺はいつでも解析できるさ。ま、困ったらまた呼べ。」


玲は鷹宮黎へ向き直る。


「隠された言葉を解読する力——最後の鍵だった。ありがとう。」


鷹宮は短く頷く。「記録のために。そういうことなら、俺の役目も果たせたさ。」


そして水城レナ。


「君がいてくれたことで、制御の仕組みを解いた。助かった。」


レナは静かに微笑んだ。「次に会うときは、もっと穏やかな仕事がいいわね。」


玲は最後に柊誠一へ視線を向けた。


「町の記憶は戻った。だが君自身の選択も、これから始まる。」


柊は静かにうなずいた。「……忘れられていたものを、ようやく見つめられる気がする。」


玲は全員へ向かい、最後の言葉を紡ぐ。


「またどこかで。」


そして、彼らはそれぞれの道へと歩き出した——新しい時間の中へ。


やがて夕暮れが町を包み込む頃、それぞれの足音が静かに遠ざかっていった。

記憶は戻り、選ばれた過去が、新しい未来を照らしていた。



エピローグ


数日後——


玲はひとり、かつての風見坂を見下ろす高台に立っていた。

風は穏やかに吹き、かつての霧はもう、そこにはなかった。


「……静かになったな。」


背後から声がした。振り返ると、奈々が手帳を抱えて立っていた。


「町の人たち、少しずつだけど前を向いてる。記録の修復作業も始まったよ。」


玲は小さく頷く。「過去を受け入れることができれば、人は進める。」


奈々は微笑んで言った。


「でも、会計人も欲しいな。資料の整理、大変なんだから。」


玲は肩をすくめ、どこか懐かしそうに空を見上げた。


「……なら、また誰かを探すか。記憶と向き合える者を。」


空は澄み、雲ひとつなかった。


風の中に、確かに未来の気配があった。


——終——


次回予告


静かな街で、ひとりの人物が忽然と姿を消した。

彼の名は、御影篤志みかげ あつし。穏やかな日常を送っていたはずの彼には、誰も知らない過去があった。


残されたのは、開きかけの扉と、机の上の古びた写真一枚——そこに写っていたのは、彼と見知らぬ人物の姿。

関係者の証言は食い違い、記録には不自然な空白が刻まれている。


誰が、なぜ、どこへ?

彼の足跡を追うごとに明らかになる、封じられた秘密とは。


真実を追う者たちの視線が、静かに交差する。


次回——「失踪」


追えば追うほど深まる謎。

その先にあるのは、消えた彼の真実か、それとも——。

この物語『消えゆく記憶』は、人の「記憶」がどれほど脆く、また同時にどれほど強靭であるかをテーマに描いてきました。

都市伝説のような設定から始まり、科学、心理、法、そして個人の人生といった現実の縁をなぞることで、虚構の中にリアリティを織り込もうと試みました。


主人公・玲を中心としたチームは、それぞれが異なる専門性を持ち、誰か一人の力では解けない事件に挑みます。

その姿は、現代社会における「真実追求」の困難さと、協働による突破の可能性を象徴しています。


後半に登場する柊誠一や佐々木昌代といった人物は、記憶の操作や読解といった、非現実的でありながら人間の本質に深く関わるテーマをさらに掘り下げる存在でした。

彼らの葛藤は、私たち自身が「どこまでを信じ、どこまでを疑うべきか」という問いを突きつけてきます。


完結にあたり、読者の皆さんにひとつだけ伝えたいのは――

記憶は消えるものではなく、「選び取り直すもの」でもある。

その選択の積み重ねこそが、私たちの生きる証になるのだと信じています。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

また新たな物語の中でお会いできることを願って。


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