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闇夜の真実  作者: ysk
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1話 消えた影、揺れる真実

『闇夜の真実』第1話「消えた影、揺れる真実」に登場する主な人物とその背景情報、年齢は以下の通りです。

1. 神崎かんざき れい

* 年齢: 29歳

* 職業: 私立探偵

* 背景: 元警察官であり、かつては正義感に満ちていたが、警察内部の腐敗を目の当たりにして失望し、退職。現在は探偵として真実を追い求め続けている。過去に信頼していた同僚を失った経験が、彼の心に深い傷を残している。冷静沈着で鋭い洞察力を持つが、心の奥には消せない痛みがある。

2. 美波みなみ まこと

* 年齢: 28歳

* 職業: ジャーナリスト

* 背景: 社会正義を信じ、真実を追い求める熱意を持つジャーナリスト。警察の汚職に関する情報を掴み、危険な調査に踏み込んでしまう。失踪前には不穏な気配を感じていたが、真実を暴く使命感が彼を止められなかった。正義感が強く、時に無鉄砲な一面もある。

3. 優子ゆうこ

* 年齢: 22歳

* 職業: 大学生(文学部在籍)

* 背景: 誠の妹で、兄を深く尊敬している。兄の失踪で心に大きな穴が空き、絶望と希望の狭間で揺れている。内気な性格だが、兄への思いが強く、真実を知るために勇気を振り絞って玲に依頼する。心優しく繊細だが、芯には強さを秘めている。

4. 西条さいじょう 隼人はやと

* 年齢: 35歳

* 職業: 元刑事、現在はフリーランスの情報屋

* 背景: 玲の元同僚。かつては理想に燃える刑事だったが、警察内部の腐敗や仲間の裏切りを経験し、冷酷なリアリストに変わった。現在は情報屋として闇の世界に生きており、表向きは無関心を装うが、過去への未練が彼を苦しめている。皮肉屋だが、内心では正義への未練も持っている。

5. 黒田くろだ 圭司けいじ

* 年齢: 40歳

* 職業: 警視庁刑事部所属の刑事

* 背景: 表向きは誠実な刑事として知られるが、警察内部の汚職と深く関わっており、二重生活を送っている。誠と接触していたが、彼の正義感に内心揺さぶられていた。自らの立場と正義の間で葛藤しながらも、真実を隠す役割を担っている。冷徹な一面と心の奥底にある罪悪感が交錯している。


各キャラクターは年齢と背景が物語の深みを増し、それぞれの過去と葛藤を抱えながら事件の真相に迫っていきます。

《消えた影、揺れる真実》


— 第一章:雨の足跡 —


東京、午後11時20分。

空から降る雨は、音を立てるでもなく静かに街を濡らしていた。

街灯の光が舗道に淡く滲み、通りを行く影が何重にも揺れる。だが、その中の一つ——美波誠の影だけが、突然、何の前触れもなく途絶えた。


まるで最初から、存在しなかったかのように。


彼の部屋は整頓され、生活の痕跡はそのままだった。湯呑みには半分残った冷たい緑茶。机の上にはメモ帳と、赤くマークされた新聞記事。

鍵も財布もそのまま。スマートフォンだけが消えていた。


依頼が持ち込まれたのは、その翌日。


「兄が突然、姿を消しました。探してほしいんです……」


依頼人の女性、美波由佳は、声を震わせながら玲探偵事務所の扉をくぐった。

目は腫れ、手の甲には強く握った痕跡がくっきりと残っていた。


「昨日の夜10時過ぎに電話をかけました。でも、いつもはすぐ折り返してくれるのに……朝になっても、連絡が取れなかったんです」


玲は静かに頷き、言葉を挟まないままメモを取っていく。

藤堂が低い声で尋ねる。


「美波誠……あの記者か。確か最近、区政スキャンダルを追ってたはずだ」


「ええ。何か危険なことに関わってるって、そんな気がして……」


玲の視線が、一枚の封筒に留まった。

それは由佳が震える手で差し出したものだった。


「兄の机の引き出しに、これが残ってました」


封筒の中から出てきたのは、破られたレポート用紙と、USBメモリ。

メモには乱れた文字で、こう記されていた。


「記録が消される前に、誰かに預ける必要がある。

もし何かあったら、“K-204”を調べろ。真実はそこに眠っている——M」


“K-204”。

それは、都内の警察庁舎内部文書で見かけたことのあるコードだった。


玲は立ち上がり、傘を取った。


「まずは、彼が消えた雨の夜を追う」


雨が、音もなく窓を打つ。

そして、静かな真実がゆっくりと動き始める。



玲はその不自然な空白に、言いようのないざわつきを覚えた。

監視カメラの映像では、美波誠が駅へ向かう途中、黒い傘を差して歩く姿がはっきり映っていた。だが、その直後、次の地点に設置されたカメラには、彼の姿は映っていない。そこには数分の“沈黙”があった。まるで、そのわずかな時間の間に彼がこの世界から“切り取られた”かのように。


玲の眉がわずかに動く。


それは単なる心配ではなかった。探偵としての直感が強く警鐘を鳴らしていた。

誠がただの行方不明者ではなく、明確な意志か、あるいは力によって“消された”可能性。その線が玲の中で濃く浮かび上がっていた。


そして、もう一つ——

玲の胸の奥底に、得体の知れない影が差し込む。


それは過去の記憶。

数年前、玲がまだ駆け出しだった頃に手掛けた、ある未解決事件。

同じように失踪した一人の青年。

あのとき、わずか数分の見逃しが、彼の命を奪った。

その痛みと悔いは、今も夜になると脳裏に浮かび上がっては、静かに彼女の心を苛む。


——誠は、同じ轍を踏ませない。


玲は唇を引き結び、手元の映像記録を再生し直す。

「この沈黙には理由がある。無意識に見落としている“異物”が、どこかに紛れているはずだ」


彼の目がわずかに細まり、再び画面の時刻表示をにらむ。

探偵としての視線が、“記録に残された空白”に鋭く切り込んでいく。


──その先に待つのが、誠の真実か、それとも別の闇かは、まだわからなかった。


冷たい雨が降る東京の夜。街のネオンが濡れた舗道に揺れ、ビルの谷間に沈む光が、まるで記憶の断片のように霞んでいた。

神崎玲はその夜、かつて守れなかった者たちの記憶に苛まれていた。美波誠の失踪を追うことは、玲自身の過去と、決して終わっていない“失敗”と向き合うことを意味していた。


「偶然じゃない……何かを、誰かが、隠している。」


その声は低く、しかし確信を含んでいた。


誠が最後に残した音声メモが、玲の頭から離れない。

「……K-204……リークされたデータ……警察の中に……」

ぷつりと切れた録音の余韻とともに、玲の胸に再び“あの事件”の名がよみがえる。


K-204──玲が5年前、あと一歩のところで手放した極秘案件。

闇に葬られた内部告発。失踪した協力者。あのとき、玲は“鷹取慎吾”を止められなかった。


探偵事務所に戻ると、助手の奈々が無言でデバイスを差し出した。

「駅前の映像。誠さんのあと、妙な人物が映ってた。映像処理で薄れてるけど、分析済み。これ…見て」


玲は画面を覗き込む。

防犯カメラの映像には、フードを深くかぶった長身の男が映っていた。

傘の持ち方、わずかに傾いた左肩、そして足取りのクセ。


玲の目が細く鋭くなる。


「……間違いない。奴だ……」


低く絞り出した声には、驚愕と怒りが入り混じっていた。

「生きていたのか、鷹取慎吾……」


玲にとって、あの名は許しがたい過去そのものだった。

今、再びその影が、誠の失踪の奥にちらついている。


玲はゆっくりとコートを羽織った。

「行くぞ。奴が動いた以上、これはもうただの依頼じゃない」


──闇は再び蠢き始めている。

そして玲は、すでにその中心へ足を踏み入れていた。


玲はひとり、事務所の照明を落としたまま、静かな闇の中に座っていた。


「俺は本当に、真実を知る覚悟があるのか?」


その問いは、彼の胸の奥深く、まるで古い古傷をなぞるように、じわじわと広がっていった。

あの夜、K-204の告発者が姿を消したときの光景。

自らの無力さが刻まれた、取り返しのつかない過去。


誠の失踪は、それを再び目の前に突きつけている。

真実に近づくたび、誰かが傷つく。

あるいは、また誰かが消える。


──それでも。


玲は机の上の写真に目を落とす。依頼人の女性、美波由佳ゆかが、かつて誠と一緒に映った家族写真。写真の中の兄は、やや疲れた顔をしながらも、妹の肩に手を置き、穏やかに笑っていた。


その表情の裏に、彼は何を隠していたのか。

どれほどの恐怖と覚悟を、ひとりで背負っていたのか。


玲はゆっくりと立ち上がる。

コートを羽織り、デバイスを手に取ると、深く息をついた。


「俺は…知るしかない。もう、後悔しないために。」


雨はまだ降り続いていた。

しかし、その冷たさに、玲の歩みは揺るがなかった。


階段を降り、夜の街へ出る。

濡れたアスファルトに映る彼の影が、ゆっくりと伸びていく。


過去と向き合い、恐れと対峙し、それでもなお進む。

それが彼にとって、唯一残された“赦し”の道だった。


誠の真実を追い求めるその先に、玲自身の赦しがあることを──

彼は、どこかでわかっていた。



玲はひとつひとつの証言を丹念に聞き取っていった。誠の職場、取材先、友人たちの声は、どれもがどこかよそよそしく、隠された何かを匂わせていた。


職場の同僚は冷たく視線を逸らし、彼が握っていたスクープについて話すことを拒んだ。

「誠は最近、変わってしまった。何か大きな問題に首を突っ込んでいたんだが…」

言葉は途切れ途切れで、明らかな恐れと葛藤が感じられた。


友人の一人は、明らかに狼狽していた。

「誠くんは、ある日から連絡を絶ったんだ。彼が何を知っていたのか、俺たちにはわからない。だが、あの頃から変な奴らが周りをうろついていた…」


玲の胸に、過去の重い影が迫る。

かつて、自らが信じた正義に裏切られ、仲間を失った痛み。

だが今、その傷は誠のために再び開く。


警察の一部は明らかにこの事件に関心を示さず、書類の山の中に彼の失踪を埋もれさせようとしていた。玲はそれが偶然ではなく、明確な圧力の存在だと確信した。


彼は静かに拳を握りしめた。

「これが、真実の闇か。」


玲の中の探偵魂が再び燃え上がる。

過去と現在が交錯する中、誠の失踪の謎を解き明かす決意が彼を突き動かした。


新宿のバー「ナイトフォール」の薄暗い一角。古びた木製のテーブルに置かれたグラスから、わずかに氷が鳴る音が響く。煙草の煙が静かに揺れ、壁の古いレンガに淡く溶け込んでいた。


玲は無言でテーブルの端を握りしめる。指先が微かに震え、過去の痛みが静かに胸を締めつける。対面に座る西条隼人は、冷ややかな笑みを浮かべ、まるですべてを見透かすような目で玲を見つめていた。


「久しぶりだな、玲。お前がまだこの世界で足掻いているとは思わなかったよ」

西条の声は低く、刃のように鋭い。彼の冷笑の奥底には、かつての正義感が歪み、裏切りと挫折に染まった影が宿っていた。


玲は拳を握り直し、静かに答えた。

「俺はまだ、終わっていない。」


二人の間に沈黙が降りる。言葉では語り尽くせぬ過去の痛みと裏切りが、その空間を凍らせていた。


西条はグラスを持ち上げ、冷えたウイスキーを一口飲むと、やや声を潜めて続けた。

「美波誠の失踪は、お前には手に負えない。関われば、また誰かが傷つくことになる。」


玲の瞳に炎が灯る。

「真実を知ることを、俺はやめられない。」


雨音が窓を叩き、二人の対峙する影をさらに深く、長く伸ばしていく。

沈黙の壁は厚く、高く、しかし確かに崩れ始めていた。


西条隼人は情報屋として裏社会に深く根を張っている男だった。闇の取引や警察の裏情報、失踪者の足取りまで、その網目は広く細かい。彼の言葉はいつも真実の一部を切り取り、時には残酷な刃となって相手に突き刺さる。


「お前、深く入りすぎてるぞ。」


その言葉は、ただの忠告ではなかった。西条の声には、知りすぎた者だけが背負う重い呪縛と、これ以上近づけば破滅を免れないという警告が込められていた。玲はその言葉を受け止めながらも、簡単に引き下がることはできなかった。


「俺には引き返せない道だ。」


玲の目は鋭く、西条の目をまっすぐに捉えた。互いの視線が交錯し、その瞬間、二人の間に長い沈黙が流れた。情報屋としての冷徹な判断と、探偵としての熱い信念が、まるで激しい波のようにぶつかり合っている。


西条は一瞬ため息をつき、懐から小さなUSBメモリを取り出した。

「これが今、動いてるやつの一部だ。誠の件も、この中に絡んでる。」


玲はそれを受け取りながら、胸に新たな決意を抱く。情報の海は濁っているが、そこにこそ真実が眠っているのだと。


西条は手元のグラスを静かに揺らしながら、視線を逸らした。氷が音を立てて溶ける間、時間が重たく流れる。


「誠はな、単なる失踪じゃない。やつは、ある署内文書にたどり着いた。それは正式には存在しない、内部でも“幻の報告書”と呼ばれてる。」


玲の眉がわずかに動いた。


「それが何を示していた?」


西条は言葉を選ぶようにして、低く続けた。


「数年前の傷害致死事件。公式には事故で処理されたが、実際には捜査幹部が証拠を捏造していた。それに気づいた若い巡査が告発文を書いたが、もみ消された。その文書が、誠の手に渡ったんだ。」


玲は静かに息を吐いた。思った以上に深く、そして重い闇だった。


「誠はそれを掘り起こそうとして消えた……」


西条が頷いた。


「あいつは、自分が何を手に入れたのか分かってなかった。ただ、正義のために暴こうとした。それだけだ。だがその正義は、やつを飲み込んだ。」


玲は拳を握り締めた。かつて自分が背を向けた「信じたはずの正義」が、またしても誰かを呑み込んでいた。


「どこの署だ?」


「……新橋第七署。」


西条の答えに、玲の目が鋭く細まった。


「そこは——」


「そうだ。お前が昔、担当していた署だ。」


その瞬間、玲の中で封じていた記憶が揺らぐ。

あのとき、自分が見過ごしたかもしれない歪みが、いま誠を呑み込もうとしている。


玲は立ち上がり、言った。


「その報告書、俺が引き継ぐ。」


雨音が窓を叩く中、再び戦うべき真実への扉が静かに開かれていった。


玲は椅子の背もたれから身を起こし、ゆっくりと立ち上がった。照明に照らされたその横顔には、抑え込まれた激情と、長く張り詰めてきた静かな覚悟がにじんでいた。


西条は目を細めてその変化を見逃さなかった。「お前、やる気か。」


「当然だろう。」


玲の声は低く、それでいて異様なほど澄んでいた。かつての仲間が正義に敗れ、そして今また別の誰かが、同じように“闇”に呑み込まれようとしている。その連鎖を、自分の手で断ち切らなければならない。そう悟った瞬間だった。


「誠が残したものを調べる。PC、手帳、通信履歴、取材記録。全部だ。新橋第七署にも足を運ぶ。」


「危険だぞ、玲。向こうもお前のことは覚えてる。」


玲はわずかに笑みを浮かべる。それは皮肉でも強がりでもなく、覚悟を背負った者だけが見せる、冷たい微笑だった。


「なら都合がいい。あの時、見過ごした過去を——今度こそ清算できる。」


静かにテーブルの上に残された伝票を押し出すと、玲は雨の止まぬ夜の街へと歩き出した。街灯の下に映るその影は、かつての迷いを脱ぎ捨て、ただ真実だけを照らす強さを帯びていた。


西条は一人残されたカウンターで、ぽつりと呟く。


「…昔と変わってねえな、お前は。」


グラスの氷が、ひとつ、音を立てて砕けた。


防犯カメラの映像は荒く、濡れた駅前の風景が粒子の粗いモノクロームで映し出されていた。その片隅、ちょうど柱の影に一瞬だけ現れた男の姿に、玲の目が止まる。


「…止めろ、そこだ。」


映像を一時停止させ、玲は男の姿を見つめた。コートの襟を立て、顔を隠すようにして歩くその男の動作、そしてわずかに首元に光ったバッジのようなもの——玲はその紋章に見覚えがあった。


「黒田圭司……警視庁組織犯罪対策課。だが今は、表の名簿には載っていない。」


玲の背後から、柔らかな声が差し込んだ。


「あなた一人でここから先に踏み込むのは無謀よ、玲。」


振り返ると、そこに立っていたのは九条凛くじょう りんだった。心理干渉分析官としてK部門に所属し、玲と何度も危機を共に乗り越えてきたスペシャリスト。彼女の存在は、玲が理性を保つための最後の砦でもあった。


「黒田は汚職捜査の表と裏を知り尽くしてる男。迂闊に近づけば、あなたも“消える”わ。だから——」


彼女は端末を開き、防犯映像の解析データを転送し始める。


「私が先に精神動作パターンを分析する。黒田がどこで何を仕掛けようとしていたか、過去の事件との一致率も調べる。あなたはその間、別ルートを使って誠の足取りを追って。」


玲は黙って頷いた。彼の心には、誠を救いたいという想いと同時に、黒田という“組織に守られた敵”への怒りが渦巻いていた。だが、無闇に突っ込めば彼もまた、誠のように“存在を消される”可能性がある。それを九条凛は誰よりも理解していた。


「俺が前に出る。君は……その影を分析してくれ。」


「任せて。真実は、心理の輪郭に浮かび上がるものだから。」


防犯映像が再生され、再び男の姿が揺れる。

その影の奥に潜む闇を、玲と九条は確かに見つめていた。

——真相はすぐそこに。だが、同時に“危険”もまた、静かに足音を忍ばせていた。


「一時停止。」


玲の声が冷静に響く。

映像が止まり、モノクロのフレームの中で、黒田圭司の横顔がぼんやりと浮かび上がった。だが、その一瞬に、玲の目は確かな違和感を捉えていた。


再生、停止、ズームイン——。

無言のまま、玲は同じ手順を何度も繰り返す。

映像内の黒田が、歩きながらわずかに首をかしげる動作。視線の流れ。手の動き。

それらが、無意識のようでいて“ある一点”を正確に追っていることに、玲は気づいた。


「……このカメラを認識してる。」


玲の呟きに、隣にいた九条凛が画面を覗き込む。

「彼は通りすがりの一般人を装ってるけど、目の動きが不自然にカメラの位置を避けてるわね。」


玲は再び映像を止め、カメラの位置情報を呼び出した。

「この区画のカメラは都の監視ネットとは別系統の、民間ビルの設置だ。警察のアクセス権があるはずがない……にも関わらず、黒田は“視られている”ことを分かっていた。つまり——」


「事前に位置を把握していた。」


凛が玲の言葉を継ぐ。その声には、確信と警戒が滲んでいた。


「つまり、ここは偶然の通行ルートじゃない。黒田は“映らない動線”を選んで動いてる。しかも一部は誤誘導もしている。誠が映っていたカメラは、黒田があえて仕組んだ可能性があるわ。」


「……誠を消すための舞台だった。」


玲の拳がテーブルの上で静かに鳴る。

冷たい目で画面を見つめながら、彼はその奥にある意図を読み解こうとしていた。黒田はただの刑事ではない。視線の誘導、カメラ位置の把握、動線の管理。まるで舞台演出家のように、誠の「消失劇」を仕組んでいたのだ。


「この男……裏で動いてる誰かの指示を受けてる可能性が高い。」


玲の言葉に、凛が静かに頷いた。


「だからこそ、私たちも“視えない視線”で追わなきゃいけないわね。」


彼らは黙って再び映像を再生する。

その影に潜む真実と、仕掛けられた罠の全容を、冷静に、確実に——暴くために。


玲は再び再生を止め、画面の隅に映る黒田の動作に視線を固定した。指先がかすかに震える。その震えを悟られまいとするかのように、彼はゆっくりと右手をコートのポケットへ滑り込ませていた。


「なぜこの角度を気にしている?」玲は低く呟き、手元のメモ帳にペンを走らせる。

「ポケットに差し込む手の動きも、妙に慎重だ…。明らかに“見られていること”を意識している動作だ。」


隣で凛が映像を巻き戻し、再びその一連の仕草をスローモーションで再生する。

黒田の視線が一度、対角線上の街灯に設置されたカメラを鋭く捉える。次の瞬間、彼の姿は街路樹の影に吸い込まれるように消えた。


「このタイミング……」玲は映像のタイムコードを書き留めながら、さらに別の映像へ切り替える。

誠が映っていた最後のフレーム、その直前に黒田がいた別角度の映像。

2人は接点を持っていない。だが——


「この半径20メートル以内にいた。黒田は、誠がそこを通ると知っていた可能性が高い。」


「待って。」凛が端末を操作し、別の角度のカメラからの映像を呼び出す。

「この通りに設置されてる防犯カメラの配置、いくつか“死角”があるわね。しかも、その死角を結ぶように黒田は動いている。…これ、偶然じゃない。」


玲はゆっくりと顔を上げる。

「つまり、黒田は“消す手順”を知っていた。誠を“映らないようにする”ルートとタイミングを——誰かから指示されていたか、自分で構築していた。」


「……その証拠は、まだ微細なズレの中にしかないけど。」


玲は黙ってうなずき、手元のメモに小さく記した。


・視線誘導:監視カメラの位置把握済み

・手の動き:ポケット内、デバイス操作or証拠保持の可能性

・死角連携:計画性の高い動線操作


そしてその下に、重く、静かに記す。


「誠は“選ばれて消された”。」


玲の中で、点と点が静かにつながり始めていた。真実の輪郭が霧の中から浮かび上がるには、あと一歩。

その“あと一歩”を踏み出すには——慎重に、確実に、そして…玲自身が危険にさらされないように、専門のスペシャリストの協力が不可欠だった。


玲は防犯カメラ映像を切り替えながら、映像解析のスペシャリストに通信を繋げた。

通称アレイス。裏社会にも知られた、都市監視システムへの侵入と記録照合の天才だ。玲は彼に、映像データの詳細な時系列照合を依頼する。


「アレイス。例の防犯映像、黒田の動きが不自然すぎる。別アングルとのタイムコード突き合わせて、動線の齟齬を洗ってくれ。」


通話の向こうでわずかな打鍵音とともに、低く落ち着いた声が応える。


「了解。都内西部監視網のミラーリングは既に取得済み。3地点分の監視データ、既に“死角計算”に入ってる。……やはり黒田は“見えない場所”を選んでいるな。」


玲は画面に映し出された交差点の地図に注目する。

複数のカメラ位置、映像の重なり具合、そしてその間を縫うように黒田の足取り。


「ここ。」アレイスが画面の一点を指示した。「誠が最後に映った地点から、ちょうど3カメラ分のブラインドスポットを通過してる。しかも、通過タイミングのブレがまったくない。“知ってる”動きだ。」


玲は眉をひそめた。「事前に配置と角度を把握していたってことか。……やっぱり警察内部の人間じゃないと不可能な精度だな。」


「さらにおかしいのは、映像のフレームに微細な“揺れ”がある。複数カメラで同期して比較した結果、映像の一部が“後から書き換えられてる”形跡が出た。物理的な改竄か、ハッキングだ。」


「消されてるんだな……“映してはいけないもの”を。」


「おそらく誠は、この死角の先で“ある人物”に接触している。しかもその瞬間だけ、カメラがごっそり抜け落ちてる。編集ログを遡ってみたが、アクセスログそのものが上書きされてる。」


玲は静かに息を吐いた。「黒田の動きは計算されたものだ。そして、その“誰か”が黒田に命じていた。“映すな”と。」


アレイスの声がやや低くなる。


「玲。ここから先は、お前自身が危険になる。データの出処に触れるな。俺は“事実”だけ出す。それ以上を追うなら、覚悟しろ。」


玲はしばらく沈黙し、そしてゆっくりと頷いた。


「ありがとう、アレイス。ここから先は……俺がやる。」


彼の目は、真実に向けて冷たくも静かに燃えていた。黒田の背後にいる存在、誠を“消した”理由——それが、今、浮かび上がろうとしていた。


玲は、再び心理干渉分析官・九条凛くじょう りんと作業室に向き合っていた。

白色LEDの下、複数のモニターに映し出される防犯映像の断片。その静寂を破るのは、キーを叩く凛の落ち着いた手の動きだけ。


「ここ。」玲が指差したのは、誠の失踪直前、交差点付近の映像。

「黒田はこの位置で一度立ち止まってる。一見すると信号待ち…だが、ここに注目してくれ。」


凛は映像をフレーム単位でスロー再生。すると、黒田の視線が一瞬だけ斜め後方に流れた。そこに、フードを被った小柄な人物が通り過ぎる。すれ違いざま、視線が交差する――その“わずかな一瞬”。


「……アイコンタクト。ほぼ確実ですね。無意識ではない。」


凛はAI補正で映像の解像度を上げ、歩行者の目線の動きまで追いながら分析を進める。


「黒田の瞳孔収縮が起きてます。覚醒反応。視線が“無意識の警戒”ではなく“確認”をしている。つまり、合図を交わしている可能性が高い。」


玲が頷く。「この一瞬が鍵だな。さらにここ、通り過ぎた後、黒田が左ポケットに手を入れる。だが……音が違う。」


凛は別角度のマイク音源を抽出して重ねる。ごく微かな衣擦れの中に、金属の擦れる音、微細な“カチリ”という接続音。


「USB接続か、ICチップの読み込み音に近い。つまり、すれ違いざまに情報の受け渡しをした?」


玲は口を結んだまま、別のフレームを表示させた。「そしてその直後、黒田は一瞬、別のカメラの位置を“確認”してから歩き出す。」


凛が言葉を添える。「意識的な死角選択。複数カメラの設置情報を把握した上で、動線を組んでいる。……玲、黒田は警察の枠を越えた動きをしてるわ。」


玲の目が細められた。「それが“警察の誰かの指示”か、“警察を装った誰かの命令”か、見極める必要がある。」


凛はデータ処理を進めながら、玲に静かに問いかける。


「……本当に踏み込むの?ここから先は、記録が“消される側”になるかもしれない。」


玲は躊躇わずに言った。


「もう始まってる。止められない。」


画面に映る黒田圭司。その瞳の奥に、まだ誰も知らない“東京の深層”が静かに蠢いていた。


都内・某所。夕暮れの赤みが差し込む会議室。

静かな部屋に、わずかに空調の音だけが流れる。玲はテーブル越しに、黒田圭司と向かい合っていた。

警視庁所属の刑事として長年表舞台に立ち続けてきた男。だが、その瞳の奥にあるのは、ただの警察官のそれではなかった。


「黒田さん、少しだけ時間をいただけますか?」


玲の声は落ち着いていたが、視線は鋭く、まるで観察するかのように黒田の目を見つめていた。


「君、何が聞きたい?」

黒田は椅子にもたれ、感情の読めない笑みを浮かべる。


玲は映像を収めたタブレットを静かに差し出した。画面には、防犯カメラに映る黒田の姿。そして例の“一瞬”の映像。


「この場所、この瞬間——あなたは誰かとすれ違いざまに視線を交わし、その直後にポケットへ手を入れている。そして、次のカメラに映る直前、立ち止まり、角度を確認してから動いている。」


黒田はしばらく無言のまま映像を見つめていた。その表情に変化はなかったが、頬をかすかに引きつらせたのを、玲は見逃さなかった。


「刑事であれば、カメラの位置を意識して行動することもある。それに、これは証拠になるのか?」


「まだ“証拠”じゃない。けど“兆候”です。あなたが誰かと接触し、何かを渡した、あるいは受け取った。その一瞬が、誠の失踪と同じ時間軸で重なっている。」


沈黙。空気が張りつめる。


玲はさらに言葉を続けた。


「あなたはカメラの死角を知っている。それは内部情報がない限り、ありえない。……誠が何かに触れた。あなたはそれを知っている。少なくとも、“見ていた”はずだ。」


黒田の目が、わずかに揺れた。その瞳の奥で、何かが崩れかけている。


「——やめておけ、玲。」

低く、絞り出すような声。


「その先に踏み込めば、引き返せなくなる。」


玲の答えは即答だった。


「誠が消えたのは、偶然じゃない。誰かが消した。あなたが、それに関わっているのか、それとも——止めようとしているのか、それを確かめる。」


黒田の目が玲を射抜いた。そして、苦笑とも、諦めともつかない微笑を漏らす。


「……あいつ、ジャーナリストの癖に本当に危ない情報を掴んだ。俺は、ただ……あいつが死なないように動いたつもりだった。」


「じゃあ、今もどこかに生きてるのか?」


その問いに、黒田は答えなかった。ただ、一言だけ、言った。


「“次に動く”のは……君か、あるいは、彼らのほうだ。」


そして黒田は立ち上がり、言葉を残す。


「止まるなよ、探偵。けど、振り返るな。戻れなくなる。」


ドアが閉まった後の静寂。玲は、席を立てずにいた。

誠の行方、その背後に広がる巨大な闇。

その片鱗が、ようやく姿を見せ始めていた——。


薄明かりの中、玲は黒田の言葉を一つひとつ噛みしめるように反芻していた。

「彼は何かに怯えていた」

その一言が、玲の記憶の奥にある過去の事件と重なった。


黒田の視線は、テーブルの上に投げ出した手に落ちていた。まるで、かつて握りしめた正義が今や砂のように指の間から零れ落ちたかのように。


「誠は、何を見たんですか。」


玲の問いに、黒田は即答しなかった。静かな空白が数秒続き、その沈黙自体が真実の輪郭を示すようだった。


「彼は取材を通して、ある“リスト”に辿り着いた。」


「リスト?」


黒田は頷く。だが、声は慎重だった。


「警察内部の不正に関する名簿。裏金、情報売買、不正操作……組織の中枢に触れるものだった。だが、そのリストは公になれば、ただじゃ済まない。誰も信じられない、そう言っていた。」


玲の眉がわずかに動いた。誠のジャーナリストとしての強さと、同時に彼が感じていた孤独が浮かび上がる。


「俺は忠告した。深入りするなと。だが、あいつはこう言った——“真実は、誰かが踏み込まなければ、誰も救われない”ってな。」


その言葉を聞いた瞬間、玲の胸に鈍い痛みが走った。それは、自分もかつて似たようなことを誰かに言った記憶からくる痛みだった。


「つまり……誠は、そのリストを手にしていた?」


黒田は顔をしかめ、かすかに首を横に振った。


「断言はできない。ただ、俺の知る限り、彼は“それを託そうとしていた”相手がいた。……が、その相手が誰なのかは知らない。もしくは、知っていても、俺に言わなかった。」


玲は立ち上がり、タブレットを再び手に取った。


「最後に一つ。あの時、あなたがすれ違った男——彼は、“受け取った”のですか? それとも、“渡した”のはあなたの方ですか?」


黒田の口元がわずかに動く。しかし返ってきた言葉は、質問に対するものではなかった。


「探偵。君にはまだ“守るもの”があるか?」


その問いに、玲は答えなかった。ただ、目を逸らさずに言った。


「誠が見た真実、その続きを俺が見る。それが答えです。」


黒田は、ゆっくりと頷いた。そして、それ以上何も言わず、背を向けて立ち去った。


——部屋に残されたのは、静寂と、玲の胸に灯った決意だけだった。

誠が残した“リスト”という手がかり。

玲はその真相に辿り着くため、再び歩き始める。

そしてその先には、“彼”に繋がる人物——かつて影の中で生きてきた、もう一人の証人が現れることになる。


玲は警察庁庁舎の地下にある旧資料室に足を踏み入れた。そこはすでに現役から外れた記録や、事件性なしと判断された書類が眠る“忘れられた部屋”だった。薄暗い蛍光灯の下、書類の山と埃の匂いが、玲の記憶の奥にある“あのときの空気”を呼び起こした。


凛から送られてきた映像解析データと、紙媒体でしか残されていなかった報告書の記録とを照合していく中で、ひとつの矛盾が浮かび上がる。


――ある日付を境に、誠に関する記録の時系列が歪んでいる。


交通カードの履歴、防犯カメラの映像、出入り記録。すべて正常に見えて、よく見ると“誰かの手”で巧妙に改ざんされていた。その調整された時間の中に、玲が凛と共に見出した小さな痕跡――映像のフレームに映った、見落とされていた古い社員証のロゴ――があった。


「このロゴ、廃止されたはずのサテライト・オフィスだな。」


そのオフィスは、警察庁の外郭団体がかつて使用していたもの。今は閉鎖されたことになっていたが、実際には“身を隠すための場所”として一部の人物に利用されていた。そこに、誠が“保護されている”可能性が浮上する。


玲は身元がバレないよう、K部門の協力を得て慎重にその場所へ向かった。凛が遠隔で監視支援を行い、バックアップに控える。


古びた雑居ビルの一室、扉をノックすると数秒の沈黙のあと、ゆっくりと開いた。


そこにいたのは、やつれた表情の誠だった。髭を伸ばし、以前の快活な雰囲気は失われていたが、その瞳だけはまだ燃えていた。


「玲…? 本当に来たのか…」


「お前が沈黙を選んだ理由を、俺は知りたかった。」


誠は一瞬言葉に詰まり、やがて小さく息を吐く。


「すべては、“リスト”のせいだった。」


彼が入手したのは、警察幹部と政財界をつなぐ裏金ルートに関するリスト。そこには実名が載っており、証拠写真と電子記録も含まれていた。


「黒田が忠告してきた。“これに触れたら消えるぞ”って。でも、止められなかった。正義感ってやつかな…」


彼は身の危険を感じ、独断で姿を消したのだった。告発のための手段もすべて封じられ、誰にも信用できなくなっていた。


玲は黙ってうなずいたあと、静かに言った。


「今なら、証拠を守れる。俺たちがいる。」


誠の目に、わずかに涙が滲む。


「それを…待っていたのかもしれない。」


こうして玲は、誠の手に残っていた原本データをK部門に託し、ジャーナリズム倫理に則った外部協力者に資料の一部を引き渡すことで、誠の命と証言の安全を確保する段取りを取った。


そして、誠の沈黙は――ようやく終わりを告げようとしていた。


誠が手に入れた「リスト」は、ただの内部文書や告発メモではなかった。


それは、ある刑事部門の経理担当から流出した“裏金管理台帳”と、消されたはずの操作記録ログ、内部捜査報告書の断片、そして複数の実名が記された映像付き証拠を束ねた機密フォルダだった。なかには、過去に不可解な形で幕を閉じた事件の“再編集された真相”も含まれていた。


誠が気づいたのは、単なる個人の不正ではなく「構造そのものが腐っている」という現実だった。


公開すれば、大きな波紋を呼ぶ。しかし、それ以上に彼が直面したのは、“誰も信じられない状況”だった。


最初の異変は、自宅マンションの共用インターホンに見知らぬ“着信履歴”が残っていたことだった。次に、資料を共有しようとした信頼していた元上司が、突如連絡を絶った。直後から、誠のスマートフォンには不審な電池の消耗、再起動、データの改ざんが見られるようになった。


そして、“家族の尾行”。


小学生の息子が塾帰りに「ずっと同じ人が後ろにいた」と話したとき、誠の背筋は凍った。彼はそれまで幾度も命の危険に晒されてきたが、「他者を巻き込む恐怖」をこの時、はじめて本当に味わった。


そして、最後の決定打となったのが黒田圭司の登場だった。


黒田は旧知の刑事であり、誠が何度も取材で顔を合わせた相手だった。ある夜、誠の自宅前で待ち伏せしていた黒田は、タバコをくゆらせながら静かに言った。


「お前が動けば、お前だけじゃ済まない。…“あの人たち”は、そういう連中だ。」


黒田の目は、どこかで「正義を失った者」のものだった。だがその言葉には、誠を本気で“止めたい”という、切実な警告が宿っていた。


その夜、誠はすべての通信機器を破壊し、バックアップを分散して保管。ジャーナリストとして最も苦渋の選択、「発信を止める」ことを決断した。


それは逃亡ではなかった。臆病でもなかった。


彼にとっての“最後の記者倫理”は、「家族を守ること」「確実に情報を託せる者が現れるまで、生き延びること」だった。


その後、彼は匿名で生き、リストの原本を秘密裏に保管。信頼できる数少ない知人を介して、やがて玲にその存在を託す日を“待ち続けていた”のである。


彼の沈黙は、犠牲ではなかった。

それは、反撃のための“静かな猶予”だった。


玲が誠を見つけたのは、都心から電車で1時間ほど離れた郊外の街にある、木造二階建ての古びたアパートだった。すでに廃墟のように見えるその建物の一室、102号室だけがかろうじて人の気配を残していた。


玄関のチャイムは反応せず、玲は静かにノックする。返事はなかったが、数秒後、ドアの鍵が内側からゆっくりと外れる音が聞こえた。


扉の隙間から現れた誠の姿に、玲は言葉を失う。


痩せこけた頬、無精髭、荒れた指先。だが、彼の瞳の奥には、決して折れていない強い意志の炎が灯っていた。


部屋の中は電気を最小限しか使わず、窓には遮光カーテン。テーブルの上には、すでに数日以上整理されたままのメモ、断片的な新聞の切り抜き、そして古びたノートPCがあった。インターネットには繋がっていない。誠は情報を外に出さず、誰にも発信せず、ただ「守る」ためだけに生きていたのだ。


玲は言葉を選ばず、静かに口を開く。


「ずっと、君の足跡を追ってきた。」


誠は何も言わず、部屋の隅に腰を下ろし、震える指先で湯呑みに残った冷たい茶を持ち上げる。それが彼なりの“招き入れ”の仕草だった。


玲は手にしていたファイルの封を解き、誠が遺したデータの解析結果、凛とともに再構築した証拠の全容を示す。


「これは、君が遺した“火種”だ。今度は俺が背負う。」


その言葉に、誠の手がわずかに震える。彼の目には光が宿り、眉間の険しさが、ほんの一瞬だけ緩んだ。


「俺は……真実を、埋もれさせたくなかった。でも、怖かったんだ。家族も……仲間も、誰も守れないと思った。」


玲はうなずくだけで、口を挟まなかった。沈黙が二人の間に流れ、それがすべてを語っていた。


数十秒の後、誠は小さく笑った。痛みを抱えたような、だがどこか救われたような、壊れそうな微笑だった。


「君が来るって、どこかで信じてたよ。……あの夜、黒田に言われたんだ。『信じられる人間が一人でもいるなら、生きて逃げろ』って。」


玲はその言葉に、心の奥で何かが静かに繋がったのを感じた。


そして今、沈黙の奥で交わされたのは言葉ではない。「真実を託す」という決意と、それを受け取る「覚悟」だった。


――その夜、誠はファイルの最後のページを指でそっとなぞりながら、玲にこう言った。


「今度こそ、あの場所に光を当ててくれ。」


玲は、わずかに頷いた。それは“決意の継承”だった。


【詳細:玲の静かな決意と、終幕の静けさ】


午後の柔らかな陽射しが、雨に濡れた街を淡く照らしていた。玲は事務所の窓辺に立ち、ガラス越しに濡れたアスファルトと、その上を行き交う人々を見下ろしていた。傘の花がまばらに咲き、季節外れの冷たい風が街を吹き抜ける。


机の上には、K部門の協力により検証された「リスト」の抜粋と、外部の信頼できる調査ジャーナルへの匿名リークを完了した報告書が整然と並んでいた。玲の手には一枚の新聞があった。社会面の片隅に、控えめな見出しでこう書かれている。


「元ジャーナリストによる告発資料、ついに公開へ」


玲の名前はどこにもなかった。誠の名前すら出ていない。ただ、「ある人物が遺した記録」として、その事実だけが記されていた。


だがそれでよかった。名前ではなく、行動が語るべきものだと、玲は信じていた。


誠は今、遠く離れた安全な土地で新たな生活を始めている。完全な自由ではないが、過去を終わらせ、再出発を許された存在だ。


黒田は、自らの意志で警視庁を辞めた。あれから何度か玲に接触を試みた形跡はあったが、玲は返答しなかった。最後の忠告、最後の罪、そのすべてが彼の中で熟し、沈黙のうちに終わっていくのを玲は理解していた。


西条は姿を消した。携帯も、連絡手段も、全て断たれていた。情報屋として生きてきた彼にとって、それは自らに下した“幕引き”だったのかもしれない。


玲はゆっくりと椅子に腰を下ろし、雨上がりの街に視線を戻した。


不正は一掃されたわけではない。沈んだ真実はまだ数多く、明るみに出ることのない記録もある。だが、それでも、何かが確かに変わり始めていた。


静かな波紋。それが誰かの心に届き、次の火種となるのなら——


玲は目を閉じ、小さく息を吐いた。


「俺は…ようやく一歩、進めたのかもしれないな。」


そして再び目を開けたその先には、濡れた街が、少しだけ晴れやかに映っていた。


玲と由佳が立っていたのは、新宿の外れにある古い展望台だった。街の灯が点々と瞬き、足元には冷たい風が吹き抜けていく。遠くには、かつて誠が通っていた出版社の入るビルの輪郭がぼんやりと浮かんでいた。


「本当のこと、知りたい?」

玲の問いかけは、ただの好奇心ではなかった。今の由佳にとって、それは“選択”だった。


由佳は一瞬だけ沈黙した。目を伏せたまま、過去の記憶に手を伸ばすように、ぽつりと呟いた。


「兄は、昔からずるかった。全部自分で抱え込んで、私には何も話さなかった。でも…あの夜だけは違った。」


玲が視線を向けると、由佳は遠くを見つめていた。


「あの日、兄は家に来て、“これを預かってほしい”って言った。鍵のかかったUSBだった。『誰にも見せるな、でも、もし俺がいなくなったら…玲という男に渡してくれ』って。」


玲は息を呑んだ。彼の知らない“誠のもうひとつの行動”が、ようやく浮かび上がる。


由佳はカバンから、小さな銀色のUSBメモリを取り出した。長く手放せなかったその小さな金属のかけらは、彼女の手の中で微かに震えていた。


「これが、兄の残した“火種”。私、ずっと怖くて開けられなかった。でも、玲さんなら…」


玲は静かに頷いた。そして、慎重にそれを受け取る。

手のひらに伝わる重みは、ただのデータではない。誠が命と引き換えに守ったもの、そして由佳がずっと抱えてきた“沈黙”だった。


「必ず見つけるよ。」


その言葉に、由佳はようやく目を閉じた。頬を伝う涙が、風に吹かれてひと雫、闇に溶けていった。


玲はUSBを見つめながら、再び前を向いた。

次の闇はすでに始まっている。そして、そこにはまた新たな“声なき者”たちの影が潜んでいるはずだった。


街は眠らない。

真実が、また別の形で沈黙しようとしている。


だが、玲の目はそれを見逃さなかった。


——次の物語は、ここから始まる。

あとがき

この物語を通じ、私が描きたかったのは「真実の追求」と「過去との対峙」という普遍的なテーマです。冷たい雨が降る東京の夜、その冷たさの中で神崎玲が追い求めたのは、単なる失踪事件の解明ではなく、自身の心の奥深くに潜む痛みと向き合うことでした。


誠の失踪事件は、見えない闇に隠された真実への扉を開くだけでなく、玲自身の未解決の過去とも向き合わせました。この物語は、困難や恐怖の中でも真実を求める勇気がいかに重要か、そしてそれが人を成長させ、変える力を持つことを示しています。


また、沈黙や隠された事実の背後には、常に誰かの葛藤や選択が存在することも描きたかった要素です。玲の旅は、真実を知ることが必ずしも安らぎを与えるものではないと示しつつも、それでもなお、その過程が人間を強くし、前に進ませる原動力になるというメッセージを込めています。


この物語が、読んでくださった皆さんにとって、それぞれの心の中で響く何かを残せたなら幸いです。真実を求めることで見つかるのは答えだけでなく、自分自身との新たな対話かもしれません。ご一緒にこの旅路を歩んでいただき、心より感謝申し上げます。

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