時間内崩壊錠
ぐにゃり。
手のひらサイズの光が視界を埋め尽くす。視界の先に繋がれる。文字情報だけの世界に放り込まれる。そして、追い出される。
ここはどこ? 知ってる。分からない。
どうしてここにいるの? 知ってる。思い出せない。
いまいち繋がりを見いだせない――自己同一性――の手掛かりを探そうとして、藁をつかむように片手を握ろうとして。
ガタン。
スマートフォンを落とした。
いつの間にか、身体の輪郭がないことに気付いた。
「ぅ、」
大小が掴めない声が染み渡る。不意に漏れた、私とそっくりな声。
まるで別人かのように錯覚する、くぐもった声。
この世界に反響するような感覚をもって、やっと思い出した。
……アレを飲み込んでからもうそんなに経ってたんだ。そっか。ずっと、xxxとグレープフルーツの混じった地獄、酷くざらつくケミカルな苦みを思い出すたびに、この吐き気も思い出すんだ。そう考えると、余計に気持ちが悪くなってきた。
手を小さく振り回し、ビニール袋を掴み、吐き出す。
どうしてこんなことをしちゃったんだろう。全部私が悪い。だって、悪いことをしてる。誰にも言えない、お母さんに知られたら絶対に嫌、そんな、私は恵まれてるのに。それはそれは、毒親がどうだなんて、言おうと言えばいくらでも言えるけど、違うよ。違うの。これからどんな言い訳をしても、自分が悪いことの証明にしかならないの。絶対。全部そう。ごめんなさい、どうしてこんなことをしちゃったんだろ?
あえて思考をひとまとめにするなら、後悔だ。それはxxxを飲んだことの後悔でもあるし、この人生の後悔かもしれないし、生まれてきたこと自体の後悔かもしれない。
はやく。もがき苦しむ思考から逃れたい。
丁度よく。視界。いつの間にかはっきりと見えていた閉眼時幻覚に、意識を預けることにした。
――
白、黄、緑、見渡す限りの花畑。真一文字を引いた上には、青空が広がっていた。数羽、速い何かがはためいている。鋭くフォーカスするみたいに、それぞれの羽毛を解像度高く見つめることができる。
ぽてん。
尻もちをついて、そのまま寝転び、脚を投げ出す。
いまは肉体由来の知覚のひとかけらもなく、切り傷のない自由な身体で感じる、解放感と万能感に酔いしれていた。
――
崩れる。
そう直感したわずかのち、気付いたら部屋は開け放たれ、廊下に転げ落ちる。と、同時に、内臓そのものが反応する吐き気がした。
相変わらず輪郭のない身体で、ロボットのようにひょこひょことトイレに足を進める。胃に留めようとする意思に反して自動的に吐き出しそうになる肉体を恨みながら、階段を降りてゆく。それは永遠に続くような、無限の階段に対峙したみたいだった。
ひょこひょこ。ひょこひょこ。
何歩目?
あと2/3も先がある。
あと何歩?
どうやって歩いてるの?
そんなことを思考した直後、ううん、意識が飛んでたかも――とにかく、トイレが目の前にあった。
まるでそびえ立つようなトイレのドア。
カチャ。
音が遅れて聴こえてくる。
蓋を開け、強烈な吐き気の波がせり上がってくる。
べしゃあ、と、便座にかかるように吐き出したものは、なぜか赤かった。どこまでが幻覚かわからないけど。
口内に残る酸っぱさが、逃避しきれない現実を突きつけている。
ごめんなさい。
もうやりません。
惨めだ。
惨めだ。
飛び散った吐瀉物を掃除しようとして、ふと思う。
そうだ、吐瀉物の片付けができないくらい狂ったと思わせよう。
入院できるかも。
お母さんが自分を責めちゃいそう。
やだ、やだ、やだ。
でも。
何も考えたくない。
どうでもいい。
だから目をつむって、全てを投げ出すことにした。
――
気付いたら、知らない、冷たい部屋にいた。
きっと精神病棟なのだろう。
ぺた、ぺたと這いずる。
また意識が、遠のく。
――
さっきまでの私は、何を考えてたの?
妙にスッキリとした、羽のように軽い身体を踊らせる。
トイレットペーパーを引きちぎる。まずは、目の前の吐瀉物を回収しておこう。
ええ。すっかりと常識を取り戻した私は、旅行帰りの余韻すら思い出せないでいたけど。しばしの休符は途切れ、多分また休符を挟み、そして日常は続く。
そんなわけで、部屋に戻りました。
暇つぶしが欲しいな。そう思った私は、手慣れた仕草でスマートフォンでもいじることにした。