06.2人の天使
インターホンを鳴らすと、母親が玄関を開けて出迎えてくれた。ドアが開いた瞬間、
「ただいま。」
「こんにちは。」
2人で同時に声を出した。
「賢太おかえり。ちょっとあんた大きくて見えないからどいて!」
とか言いながら、僕を押しのけていろはを家にあげる。僕の扱い、雑すぎると思うんだけど……
「いらっしゃい!賢太の母です。かわいい子だねー……もしかしてこれって夢?」
「おい。」
なんて失礼なことを言う母親だ。息子をなんだと思っているのか。
「北峰いろはと申します。賢太君とお付き合いさせていただいています。よろしくお願いします。」
僕の不機嫌な声をかき消すように、丁寧な言葉遣いでいろはが挨拶をした。礼まで美しくて、母親の前だというのに僕は見とれてしまった。いや、母親も見とれていたと思う。
「……かわいいだけじゃなくて、しっかりした子だねぇ。そんなに堅くならないで、自分の家だと思ってゆっくりしていってね!」
「ありがとうございます!お会いできること、すごく楽しみにしていました。これ、良かったら皆さんで召し上がってください。」
母の一言で緊張が緩んだらしく、自然な笑顔でお土産を渡すいろは。なんてできる彼女なんだろう。……というか、僕はお土産を持っていることにすら気付いていなかった。
「なんていい子……本当に賢太でいいの?」
なんてことを聞くんだ。その時……
カチャカチャカチャカチャ……リズムよく床を鳴らす爪の音が聞こえた。父と2階のベランダで遊んでいた柑梨がこちらに向かっている音だった。玄関前のガラス戸を開けてほしくて、二本足で立ちながら前足で扉をカリカリしている。かわいすぎる。久々に会えた愛犬を見て、僕は扉を開けて迎えに行く。
クリーム色の長い毛。垂れ下がった耳。まんまるな目。真っ黒の鼻。長い胴体との比率が合っているのかと不思議に思うくらいの短い足。ふさふさの尻尾をはち切れんばかりにぶるんぶるん振って、柑梨が僕の足の間に飛び込んでくる。後天的に見えなくなってしまった目は、前に会った時よりも顕著に光に反射していた。眼球の部分が赤く光って、ガラス玉のようであった。
「柑梨、ただいま!目が見えないのに、ちゃんと分かってえらいぞ!」
どこをどう見てもかわいくて、愛おしくて、すぐに柑梨を抱き上げた。柑梨は、ぺろぺろと僕の頬をなめるのに一生懸命だ。
「わぁー!柑梨ちゃんだー!めっちゃかわいいー!!」
いろはのテンションが一気にあがった。さっきまでのかしこまった言葉遣いは消えて、くだけた言葉遣いになった。
いろはの感激する声に、柑梨の耳がぴくっと動いた。ゆっくり床に降ろすと、恐る恐るにおいを確かめながら嗅いだことのないにおいのする方へ向かって歩いていく。
「手を出して、においをかがせてあげて?」
僕は、いろはに優しく語りかけた。
「こう?」
いろはは右手を柑梨の鼻の先に近づけた。柑梨は、その匂いを念入りに嗅いでいる。しばらく経った後、
「わ、なめてくれた!」
すごく嬉しそうな声が聞こえた。どうやら柑梨はいろはの手をなめたらしい。やはり、僕の思った通り、柑梨はいろはのことを好きになったらしい。
「こんなところで、立ち話をしていたら暑いから、どうぞ中に入って!」
母の言葉で、僕たちは家の中に入った。
リビングでは、妹がNetflixでドラマを見ていた。しかも、客が来たというのにパジャマで寝転んだまま動こうともしない。さすがだ。
「あ、おにぃおかえりー。」
「おまえ、なんか完全に休日満喫してるじゃんか。てゆーかパジャマってどうなの?」
「おにぃの彼女さんこんにちはー。」
なぜだ。またスルーされた。
「こんにちは!いろはっていいます。よろしくね。」
「めっちゃかわいいー!ぜひお姉ちゃんになってほしい!あ、あかりって言います!よろしくね!お姉ちゃん!」
おい、初っ端からお姉ちゃんって……。僕の方がいろはに嫁になってほしいって思ってるわ。思ったことをどストレートに言葉にするうちの妹は、ある意味最強種だと思う。
「あかねちゃんね!お姉ちゃんって呼んでくれるのなんか嬉しいな!」
なんか仲良くなってる。歳が近い同性だと、仲良くなるか悪くなるかな気がしていたので、あかりが懐いたのはなんだか、すごく嬉しい。それにしてもお姉ちゃんってあかりが呼んでるの見ると……にやける。
「そうだ……ベランダから帰ってきたばっかりだけど、少し柑梨と遊んでみる?」
「え、いいの?」
「父さん、いいよね?」
一応、僕は隣の部屋で新聞を読んでいた父に確認をとることにした。
「行ってきてやれ。」
「ご挨拶が遅れてすみません。賢太君とお付き合いさせていただいている、北峰いろはです。よろしくお願いします。」
「いらっしゃい。賢太のことよろしくね。」
新聞をたたんで椅子から立ち上がり、父はいろはに優しく語りかけた。唯一普通に接してくれる父に、僕は心の中で感謝した。寡黙な父と騒がしい母、謎な妹、目は見えないけれど最高にかわいい犬。久しぶりに帰ってきた我が家が、いろはにどう見られているのか気になる。
「ベランダに行こう!」
柑梨を抱き上げ、いろはに声をかけて階段を上がる。階段を上がってすぐに部屋があり、そこには大きな窓があり、ベランダに通じている。ベランダは広く、ドッグランのようなものだ。
柑梨を優しく床に下ろし、おやつとボールを手に持つ。ベランダ用のサンダルをいろはにも履いてもらい、柑梨と一緒にベランダに出る。ベランダに出る時、目が見えないのに段になっている窓の桟を軽々と跳び超える姿にいろはが感動していた。
「目が見えなくても、においとか感覚を覚えていて、分かるみたいなんだよね」
「賢いね!犬ってすごいなぁ!」
「ここからがもっとすごいんだよ。柑梨!いくよ!レディー……」
僕の指示を聞いた柑梨は近付いてくると、僕の体の周りをくるんと回り、左隣にお座りをする。
「え。おりこう……」
いろはの言葉で、なぜか僕の鼻が高くなる。お座りしたことを確認した僕は、ボールを遠くに投げた。柑梨はまだ走らない。
「GO!」
僕の指示と同時に走り出した。壁に近くなると、においを辿りながらボールを探す。そして、見つけるとまっすぐに僕の元へ持ってくる。
「え、え、すご!」
持ってきた柑梨の口元に手を出すと、そこに丁寧に置いてくれる。
「柑梨、いい子!」
べた褒めしながら、なでくりまわす。嬉しそうに尻尾をふる柑梨は、体を預けて甘えてくる。ひとしきりかわいがった後、
「じゃあ、お座りね。」
言葉に反応して、きちんとお座りをする。
「お手。おかわり。ハイタッチ!」
声に合わせて、かわいらしい肉球が僕の手に触れる。
「柑梨、おりこうだね。伏せして。」
伏せの体勢を取って、いい子に待つ柑梨。いい子にしている時も、尻尾だけはぶんぶん振っている。かわいすぎる。
「よし。」
声と同時に、手に置かれていたおやつを食べる。
「えー!!何この子。おりこうでかわいすぎる。」
「でしょ?我が家のアイドル。柑梨だよ。いろはも遊んであげてよ。」
「私が投げたら取ってきてくれないよー」
「そんなこと絶対ないから大丈夫!やってみて!」
おやつとボールをいろはに渡す。柑梨は、見えない目を輝かせながら、遊んでもらえることに喜んで尻尾を振っていた。
「柑梨ちゃん、よろしくね!」
そう言って、しゃがんだいろは。
「まずは、レディーって言ってみて?」
僕の方を向いて神妙にうなずいた。
「レディー」
声を聞いた柑梨が、いろはの体を回り、左側についてお座りをした。
「あーもう……おりこう……かわいい……ねぇ、賢太君、もうおやつあげたい……かわいすぎて無理。」
「えーと……柑梨からするとここでおやつだと、ちょっと違うと思うんだけど。」
「……そうだよね。頑張る。」
何を頑張るのか謎だったが、いろははボールを投げた。
「柑梨ちゃん、GO!」
言葉に反応した柑梨は、ボールを探しに走る。そして、壁際のにおいをかいでボールを探す。
「もうこの走ってるところも、探してるところも愛おしい。あーかわいい……。好き。」
なんかいろは、目がハートになってる。2人ともかわいいわ。
ボールを見つけていろはの元に走って戻ってきた柑梨。
「あーおりこう!!かわいい!!世界一かわいい!!」
大興奮のいろはは、これでもかと言うくらい褒めちぎってなでまわす。初対面で、さっき会ったばっかりなのに、柑梨はすでにいろはに懐いていることが分かる。僕に甘える時と同じように、体を預けて顔を寄せているからだ。この天使2人がじゃれ合っている光景が尊すぎて、目が離せなくなってしまった。
「あれ……この後はおやつあげていいんだっけ?」
いろはに問いかけられてもめちゃくちゃかわいい光景に気を取られている僕は、夢見心地で返答した。
「うん。いいよー。」
「何個あげていいの?3つくらい?」
「うん。いいよー。」
「分かった!はい、柑梨ちゃん!食べていいよ!」
いろはの手から、柑梨は優しくおやつを食べた。ん?なんか何個も食べてない?ま、いっか。かわいいは正義。
その後も何度かボール遊びをして、柑梨の息が上がってきた頃にベランダを後にした。