02.僕がアベルになった理由~記憶~
ママ……どこ?怖いよ。どうして返事してくれないの?この人だぁれ?
ママの姿が見えなくなってから、どれくらい経ったんだろう。さっきまで身を寄せ合っていたはずの兄弟たちもいない。たった一人。知らない匂いがする人に抱っこされて、狭い箱に入れられた。狭いはずなのに、たった一人にされると広く感じられて、恐怖は更に大きくなった。
「~~……。」
何て言ってるか分かんない。当たり前だった『おうちの匂い』が遠ざかる。
どうして?ママといたいのに。どこに行くの?ママ!助けて!
必死で叫んだけれど、声は誰にも届かない。
知らない匂いのする人、知らない匂いのする箱。知らない匂いのする乗り物。遠ざかっていくおうち。唯一の救いがあるとすれば、体の下に敷いて必死にしがみついている、ママの匂いがするタオル。
叫び疲れて、いつの間にか眠ってしまっていた。ママの匂いがそうさせたんだ……
乗り物が停まった気配がして目覚めた。どれくらい寝ちゃったんだろう。ママはどこだろう……
「~~て……」
知らない人に話しかけられた気がするが、分からない。箱から出されて、透明のケースのようなものに入れられた。ここはどこ?
次の日からは、見せ物にされた。怖い。知らない人がたくさん来て、じろじろと見ていく。ここから出してほしくて、怖くて、うずくまる。
「だ……~~く……よ」
相変わらず何を言っているか分かんない。
誰も彼も、笑顔を浮かべてじろじろ見るくせに、誰も助けてくれない。
中にはだっこをしてくれる人もいたけれど、いつになったらおうちに帰れるのか……それだけを考えていた。
特に、夜になるのが怖かった。真っ暗な場所で、たくさんの似たような仲間がいたけれど、みんな別々のケースに入れられて、ただ孤独だった。寂しくて鳴き出す子につられて、鳴いてしまうこともあった。いくら呼んでも誰もいない……。毎日それを実感した。
何日も何日も、孤独に時間は過ぎていった。その中で気付いたことがあった。昨日までいた子が、急にいなくなることがあるということだ。おうちに帰れたのかな……帰りたい。寂しいよ。
ここに来て何日が経ったんだろう。いつも通りにうずくまって寝ていたら、男の子と目が合った。知らない人と目を合わせるのは怖いのに、その子の目は茶色く透き通っていて、離せなくなった。
その子は、すぐにいつもお世話をしてくれる人を呼んだ。その後ケースから出してもらって、彼のまだ頼りない腕に抱かれた。
「おま……も……と……な……か」
何日も何日もここにいて、いろんな人の言葉を聞いてきた。少しずつ聞き取れる言葉も出てきた。それでも、彼が何を言いたいのかは分からなかった。けれど、彼がすごく寂しそうな目をしていたから、初めて人をなめた。
「僕、この子がいい」
決意を宿した目で、彼はつぶやいていた。言葉なんて分からないはずなのに、伝わってくる愛情の波。
寂しそうな目だったのに。決意を宿した目で、優しくほころぶ笑顔に再び釘付けになる。
ボクも、君がいい。
はっと目が覚めた。7年前の記憶。今でもこうやってあの時の夢を見る。
賢太が僕を見つけてくれて、あの嫌な場所から連れ出して助けてくれた。
あの時の賢太が僕と同じ寂しい目をしていたから、僕の寂しさを取り払ってくれたから、賢太のそばにいたいって思ったんだ。
「柑梨、起きたのか?おはよう」
賢太、僕はまだ眠たいよ。遊ぶのは後にしてよ。
そう思いながら、尻尾を1回だけぶるんと回す。
「まだ眠そうだね。おやすみ」
あの時みたいに優しく微笑みながら、僕をなでる大きな手の感触に酔いしれる。夢見心地の僕は、賢太の匂いに包まれて、更なる眠りに落ちていった。
「か……な、僕、がっ……でい……られてて、だ……にも……せない……だ」
賢太は、いつもボクに泣きついてくる。少しずつ、少しずつ何を言っているのか分かってくる時もあったが、長いこと話されるとわからない。それでも、何かつらいことがあることだけはわかった。
そういう時は、そばに寄り添って寝てあげた。ボクは一人でいるのが寂しかったから、きっと賢太も寂しいんだ。だから、ボクがいるよって、ちゃんとわからせてあげるんだ。
賢太が夜、みんなに隠れてボクをぎゅーってして泣いている時だって、ボクが賢太の涙をあげるんだ。賢太は泣き虫だから、ボクが守ってあげないと。
賢太の『家族』になってから2ヶ月が過ぎた頃。それは、寒い冬の日だった。
賢太はいつも、ボクを散歩に連れていってくれる。その日も、二人でお出かけしている時だった。
前から、賢太よりも体が大きな男が歩いてきた。そいつからは、嫌な匂いがした。
「犬な……れて……てんだよ。……れとも……で……れよ!」
にやにやしながら、賢太に近付いてくる男。賢太の匂いが緊張に包まれるのを感じた。ボクが賢太を守らなきゃ!
「うぅうぅーわんわんわんっ!」
賢太の前に出て、生まれて初めての威嚇をした。できるだけ低い声を精一杯出して、びっくりさせてやろうと思った。したことがなくても、ちゃんとできるものなんだとボク自身もびっくりした。賢太を守るためなら、大きいやつだけど、ボクだって噛むくらいしちゃうんだからな!
男はたじろぐと思ったら、逆に向かってきた。怒っているにおいがした。
「あ?な……だこ……犬。おまえが……てく……のか?かいぬ……一緒……まいき……な。……めてん……ねーぞ!」
男は何かを怒鳴って、ボクを蹴ろうとしたみたいだった。あんな大きな足で蹴られたら、ボクなんてひとたまりもないだろう。怖い。それでも、ボクは賢太を守らなきゃ!
その時だった。あと少しで蹴られそうなボクの前に、賢太が飛び出してきた。ちなみに、ボクはその時、賢太に引っ張られて後ずさりした。肉球をすりむいて、ちょっと痛かったのは内緒だ。
「ふざ……んな!」
賢太の匂いには、もう恐怖も緊張もなかった。自分より大きいはずの男を、賢太は軽々突き飛ばしていた。なんだ、賢太やるじゃん。
「おま……にやっ……かわかっ……のか?」
無様に倒れた男が、怒りと驚きの混ざった匂いをさせ、うるうるしながら賢太にすごんだ。よっぽど尻もちついたのが痛かったんだろうな。
もうすでに恐怖を乗り越えていた賢太は、男に食ってかかっていた。これはもう、ボクも参戦するしかない。1回くらいこいつのこと噛んでも、バチは当たらないだろう。
「ううぅー……」
体勢を低くして、歯をむき出しにしながらじりじりと近寄るボク。
転んでいるから、さっきより高くないし怖くないぞ。賢太をいじめたら、ボクが許さないからな!
「くそ。おぼ……ろよ」
よく分からない言葉を吐いて、男は逃げ去っていった。ボクたちの勝ちだ。
ボクは、二度と戻ってこないように男の背中が見えなくなるまで吠えてやった。あいつはボクに恐れをなして逃げたんだ。
そう思って賢太の方を振り向くと……賢太は力なく膝と手をついて崩れ落ちた。
心配になって近寄ると、安堵の匂いがした。賢太は頑張った!ボクがほめてあげないと。
そう思って、賢太に飛びついた。四つんばいのような格好で顔を下げて荒い息をしていた賢太の顔に、後ろ足で立って近付いてたくさん頬をなめた。
賢太は少しリラックスしたようで、そのままボクを抱きあげてくれた。腕に力が入っていてちょっと苦しい。
「柑梨、ありがとう。僕、柑梨が……からたた……よ。怖いお……せてごめんな。僕が……と守る……ね」
違うよ。ボクが賢太を守るの。でも、賢太がボクのこと守ってくれたのも分かった。これから先も、ボクがいるよ。賢太は一人じゃないよ。
その後、ボクらはいつもの公園に行った。賢太は、いつもここに連れてきてくれる。海辺の公園で、海岸沿いのデッキにはいくつかのベンチがあって、そこに座りながら一緒に海を見るのがボクたちの日課だ。
「柑梨、僕、柑梨がかぞ……になっ……れて、しあ……せだよ。ありがとう」
賢太の言葉、だんだん何を言ってるのか分かる言葉が増えてきた。
でも、もっともっと分かるようになりたいから、首を傾けながら集中して聞くんだ。聞き取れないこともまだまだあるけど、すぐに分かるように頑張るからね。
あのね、賢太がボクって言うから、自分のことをボクっていうって分かったんだよ。
賢太が泣き虫だから、ボクが守らなきゃって思うんだよ。
賢太が連れてきてくれるから、ボクもこの公園が大好きだよ。
賢太がいるから……僕は幸せだよ。
いっぱいありがとう。




