13.絶望と祈り
呼吸が止まってしまった柑梨を、僕はしっかりと抱いた。呆然としてしまって、体の震えが……涙が止まらない。
病院の先生にお礼を言う父の後ろ姿が見えた。話し声が聞こえてきた。
「今日は、お代は結構です。助けられず、力不足です。すみませんでした……。お腹からの出血がひどかったようですが、ここに来る前に、どこかにぶつけていましたか?」
父が知るはずない。家にいなかったんだから。ちゃんと見ていなきゃいけなかったのは僕だ……。ごめんなさい……。いつ、どのタイミングで柑梨がケガしたのかも、僕は分からなかった……。
「気休めかもしれませんが、柑梨ちゃんからすると、血がお腹の中でたくはん出たことで『あれ?なんかフラフラする』という貧血を起こした状態だったと思います。だから……恐らく、痛みや苦しみはほとんどなかったと思います。」
先生の言葉が、異国の言葉のように頭の中でぐにゃぐにゃと曲がったような音で聞こえて、整理ができない。
父は再度深々とお礼をしていた。僕は、頭すら下げることができなかった。
「賢太、行こう。」
父の腕が背中にまわり、軽くぽんぽんっと前に押された。その勢いのまま歩き始めて、動物病院を出た。
「賢太、俺はこのまま仕事に戻らないといけない。柑梨のこと……頼めるか?」
院内では気丈にしていた父の目が、潤んでいるのを見た僕は、無言で頷いた。
「ゆっくり、気をつけて帰れよ。ダメそうだったら、車を停めて深呼吸して……落ち着いてから帰れ。柑梨を、ちゃんとうちに送り届けてくれ。頼んだぞ。」
父の頼みは、僕の使命になった。そうとでもとらえないと、崩れ落ちて、歩けなくなってしまいそうだった。
こんな状態で運転ができるのかと、自分でも自信はなかったが、柑梨を無事に実家に連れて行かなければ……と言い聞かせてハンドルを握った。時折、無意識になでてしまう柑梨の肉体はまだ温もりがあって、今すぐにでも僕のことをなめてくれそうだった。動き出してくれそうだった。
家に着いてから、僕は1人だった。車からは出たが、家の中に入ることもせず庭の石垣に座って、硬くなってきている柑梨の体を抱いて、なでていた。
耐えきれなくなった僕は、気づいたら電話をかけていた。
「もしもし。賢太君、どうしたの?」
「……。」
自分で電話をかけたのに、声が出なかった。鼻をすする声だけが受話器越しに伝わったようだ。
「……何かあったんだね。大丈夫?」
いろはの優しい声に、僕の感情はあふれた。
「ない……大丈夫じゃ……ない。ううう…」
「落ち着いて。何があったの?」
「かん……な……俺……守って……やれ……なかっ……」
「……柑梨ちゃんに、何かあったの?」
「死ん……じゃった。俺……病院……つれてった……けど……間に……あわなく……て……助ける……って……俺……やくそ……したのに……。」
「……賢太君。ごめん……私も涙出てきちゃった。賢太君のこと……慰めてあげないといけないのに……ごめんね……。」
いろはの声が震えている。
「柑梨……に、俺……何も……して……やれなかった……。」
「それは違うよ。柑梨ちゃんは、大好きな賢太君といられて、看取ってもらえて、幸せだったと思う。」
「……さっきまで、あったかかったのに……どんどん……冷たくなってく……。ふわふわで……やわらかかったのに……硬くなってくんだよ……。」
「うん……今も、抱いてあげてるんだね。」
「動けない……。何も……したくない。」
「大丈夫。それでいいよ。いっぱい一緒にいてあげて。」
寄り添ってくれるいろはの声に、だんだん気持ちが落ち着いてきた。
「うん……。急に、電話かけてごめん。耐えられなくて……。」
「こういう時、頼ってくれるの嬉しいよ。電話なんて、いつかけたっていいに決まってるでしょ。」
「うん……。ありがとう。いろはともまた、散歩したかった……」
「私も、同じ気持ちだよ。」
「1回しか会ってないのに……柑梨のために泣いてくれてありがとう。」
「当たり前だよ。賢太君の大事なものは、私も大事だから。」
いろはの気持ちが嬉しかった。なんだか泣いてばっかりの僕だけど、いろはが思ってくれているように、僕自身もいろはの大事なものを守れる男でありたい……そう思った。
「賢太君、お母さんたちは?」
「両方仕事……」
「私、今から行くね。」
「え……だって……バイトは?」
「今日、午前中バイトだったから、さっき終わったところ。待ってて!」
そう言って電話は切れた。
『支度終わった!今から電車に乗るね。』
いろはから、LINEが届いたのは、電話が切れてから30分後だった。きっと、すごく急いでくれたんだな……。
『駅まで迎えに行くよ』
返信すると、すぐ返ってきた。
『だめ!ちゃんと道分かるから、柑梨ちゃんといなさい!』
『ありがとう。』
優しさが、ただただ嬉しかった。1時間30分ほど経った頃、いろはが来てくれた。僕はと言えば、まだ庭の石垣に座って、柑梨をなでていた。
「いろは……」
「賢太君?おうち入ろ?柑梨ちゃんも、きっと暑いって言ってるよ?」
後ろから僕を抱きしめてくれたいろはは、優しい声で語りかけた。
自分がまだ外にいたという事実に驚きながら、静かに頷く。いろはに手を引かれて、家の中に入る。リビングのソファーに座った。
それでも、柑梨を抱き続けていた。
「いろは……ありがとう。」
「何にもしてないよ。」
「俺のせいなんだ……」
「そんなわけないよ。」
「本当に……」
心が痛い。
「賢太君、落ち着いて。」
「ごめん……病院で……父さんが先生に言われてたんだ。」
「なんて?」
「お腹をぶつけたんじゃないか……って。」
「そっか……」
「お腹の中でたくさん……出血しちゃったって……」
「そう……だったんだ……」
「俺がそばにいたのに……ぶつけたことにすら気づけなかった……」
朝の柑梨の行動を何度も思い返す。朝の鳴き声……あの時は元気だった。目が見えないのに……僕はちゃんと寄り添えてなかった。
「賢太君……悔しいよね。」
「くそ……なんで俺は……大事なのに。」
「賢太!しっかりしなよ!」
急に大きな声を出したいろはに、びっくりする。
「なんだよ……急に……しっかりなんてできるわけない……」
「……って、柑梨ちゃんは賢太君に言ってると思うよ。」
「いろはに柑梨の何が分かるの……?」
最低だ。心配してかけつけてくれた人に言うべき言葉じゃない。それなのに、今の僕はその言葉を受け止められない。
「分かんないよ……でも、柑梨ちゃん、すごく穏やかな顔してるから。」
「え……?」
視線を柑梨の顔に落とす。柑梨の顔は、穏やかで、後悔とか苦しさとか、そんなものは少しもなく……なぜか慈愛を感じた。そういえば、あの時病院の先生が、柑梨は苦しまないで逝けただろうと伝えてくれていたことを思い出した。
「ほんとだ……。なんだよ……。こんな顔して……人の気も知らないで……勝手に行かないでよ。」
いろはが僕の隣に座って、僕の頭を自分の膝に乗せる。柑梨は、僕の胸の上で……いつもみたいに眠っているようだった。
「もう寝ちゃいな。いっぱい疲れたでしょ。一生懸命守ろうとしたんでしょ。最後まで賢太君の腕の中にいられて、柑梨ちゃん、幸せだったんだよ。」
「柑梨……最期の瞬間に、僕を見て鳴いたんだ。」
「大好きだって、賢太君にちゃんと伝えたかったんだね。」
目の端から、再び涙がこぼれた。いろははそれをハンカチで拭いたあと、そのハンカチを僕の目の上に乗せた。
「本当は泣いてるところ、見られたくないでしょ。」
そう言いながら、僕の頭をゆっくりなでてくれている。
「でも……なんか俺、いつも泣いてばっかりだ。」
「弱いところも見せてくれるの、私は嬉しいよ。それに、こんなの耐えられわけないじゃん。私だってつらいんだもん……賢太君の悲しみとか苦しみとか……ちゃんとは分かってあげられないのは分かってる。こんなことしかしてあげられなくてごめんね……」
いろはの声に、涙がにじんだ。
「いろは……ごめん。」
「ん?……何が?」
「せっかく来てくれたのに、さっき、ひどいこと言った……」
「そんなの、気にしてないよ。」
「……ありがと。」
優しい手のひらの感覚に甘えながら、柑梨との最後の睡眠の時間を過ごす。思ったよりも疲れていたらしい僕は、すぐに眠ってしまったようだ。。
柑梨……ずっとずっと大好きだよ。僕のこと、これからもずっとそばで見ててほしい。
神様……柑梨を守りきれなかった僕だけど、そんな僕を大切にしてくれるいろはを……守れる力を僕にください。




