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12.喪失

 8月10日。目が覚めた僕は、大きなあくびをして帰省の準備をする。準備といっても、何日か分の服さえあればそれでいい。結局、リュック1つで荷物はまとまってしまった。

『おはよう。今日から実家行ってくる。あーいろはに早く会いたい。』

 朝からいろはに会いたいアピールのLINEを送る。

『私もだよ。気をつけて行ってきてね?』

 返ってきた返事1つで、心が温かくなる。

 支度と朝食を済ませた僕は、リュックをつかんで家を出た。

 実家に着くと、柑梨が大歓迎をしてくれた。母親や妹に塩対応されたとしても、柑梨だけはいつも僕を癒してくれる。

「柑梨!ただいま!」

 尻尾をぶんぶん振って、走って突進してくる柑梨を両手を広げて迎え入れ、抱きとめた。

 あー幸せー。

 犬は、人への愛情をいつも全身で表現してくれる。それをストレートに感じるから嬉しいし、愛情を与えたくなる。

 帰省してから、柑梨とずっと一緒に過ごした。散歩も遊ぶのも寝るのも、全部一緒だった。僕はその時間を愛おしく感じていたし、柑梨が幸せそうにしてくれていることも嬉しかった。

 事件が起きたのは、8月12日。僕はあの日のことを決して忘れない。

 朝食を済ませて、一息ついていると、柑梨がいつものように甘えてきた。

「お腹すいた?ご飯にしようか。」

 そう声をかけると、嬉しそうにくるんとその場で1周まわって、尻尾を振る。ご飯の準備をして、「よし!」と声をかけると、柑梨はいつものようにご飯をたいらげた。

「よしよし!いい子だね!」

 いつもしていることなのに、ついつい顔が緩む。その後、『遊ぼう!』という風に僕を見て一声鳴いた。

「食べてすぐだとお腹痛くなっちゃうから、もう少ししたら遊びに行こうな。」

 柑梨に声をかけて、ソファーで少し休憩する。しばらくすると、両親が仕事に出た。あかりも、今日は夏期講習があるらしい。高校生は大変だ。

 家族を見送った僕は、柑梨をだっこしてベランダに連れていった。母から洗濯物を干してと頼まれていたので、濡れている洋服たちをハンガーにかけていた。その間、柑梨はいつものように、ベランダを自由に歩き回っていた。干すのが終わって、いつものようにボール遊びをしようと声をかけた。

 柑梨は、僕のそばまで来たが、その日はなぜかボールを追いかけなかった。こんな姿を見たことがなくて、僕は困惑した。何度か遊ぼうと試みたが、動く気配がなかったので、柑梨を抱き上げて一階に戻り、母に電話をかけた。

「ねえ、なんか柑梨が変なんだけど。」

「んーそんなこと言われても……仕事だから帰れないよ。様子見ててあげて。」

「分かった。少し様子見てみる。」

 電話を切って、すぐに柑梨の姿を探した。いつも日向ぼっこをしていたカーテンの後ろで、倒れていた。ただ寝ころんでいたのではないことは、すぐにわかった。近くにうんちが漏れていたからだ。いつもちゃんとトイレでするはずなのに、トイレまで歩けなかったんだ……僕は青ざめた。

「嫌だ……なんで。柑梨。」

 必死に駆け寄って、抱き上げる。親に電話している時間も、待っている時間もない。車の鍵を探し、丁寧に柑梨を抱いて玄関を出る。

「なんで。絶対助けるから。待ってろ。」

 柑梨に声をかけながら、スマートフォンで母の職場に電話をかける。スピーカーにした電話を胸ポケットに入れて、柑梨を助手席にそっと横たえる。柑梨は、クリーム色のふわふわの毛を上下させながら、必死で呼吸して生きていた。電話がつながった。

「三井です。母をお願いします。」

 早口でまくしたてる。同時に車のエンジンをかけ、気持ちを落ち着かせながら運転を始める。ここで事故をしたら、元も子もない。

「どうし……」

 母が何かを話そうとするのを遮った僕は、必死で叫ぶ。

「やばい!病院につれてく!」

「え……待って。説明して。」

「無理。そんな時間ない!今すぐ出る!」

 電話を無理やり切った僕は、運転に全力になる。左手は柑梨をなで、ずっと声をかけ続けた。人間でいうと、顔面蒼白な柑梨。犬にも顔色があるということを、僕はあの日初めて知った。まだ意識がある柑梨は、僕がなでたり、声をかけたりすると、必死でそれに応えようと頭を持ち上げようとしたり、尻尾を微かに振ってくれていた。

「柑梨、いつもの病院行こうな。大丈夫だから。無理しなくていいよ。着くまでゆっくりして?」

 柑梨が不安にならないように落ち着こうと努めたつもりだが、心は焦る。思ったように進まない車。信号にさえイライラする。やっと病院に着いた時、先に父がいた。どうやら、母からの連絡で飛んできてくれたらしい。

「駐車場に車を停めてくるから、早く連れてって!」

 ハザードランプを点灯させて、車を端に寄せ、父に柑梨を託す。父が病院に入る姿を確認する時間も惜しんで、車を駐車場に入れた僕は、急いで後を追いかけた。病院に入った瞬間、僕は怒りがわいた。なんと、父は順番待ちをしていたのだ。この状況が分からないのか?すごく優しくて、寡黙な父親で、尊敬している。でも、この瞬間、僕には許せなかった。

「なんでだよ!待ってたら、柑梨が死んじゃうだろ!この状況が分かんないのかよ!大人しく待ってるなよ!お願いだよ!!助けてください!!」

 僕は、周囲の様子も確認せずに必死に大声で喚いていた。受付の人の困惑する姿も、待合室の飼い主たちの戸惑いの表情も見えていたが、その時の僕には関係ない。

 僕の声に驚いた先生たちが、処置中だった動物を一度放置して、診察室から出てきてくれた。

「落ち着いて。わんちゃんがびっくりしちゃいますよ。でも、教えてくれてありがとう。……お預かりします。すぐに手術室の準備して!」

 柑梨を抱き上げ、スタッフに指示を出す女医の先生。手術室に向かう柑梨とスタッフの方々。僕は夢中でついていった。

 大きな病院ではないこの動物病院は、民家を改装した建物のようだ。処置室は明るいイメージではあったが、手術室は処置室の奥に位置していて、なんとなく薄暗かった。扉は少しだけガラス張りの部分があって、様子がうかがえるようになっていた。

 診察が始まった。すぐに何かの注射を打たれている。柑梨は動かない。呼吸していることだけは分かる。心臓が飛び出しそうだ。状況も分からずにただ待っているこの時間は、きっと本来は三、四分だったんだろうけど、僕には長く長く感じられた。しばらくすると、一人の先生が処置室から出てきた。

「お腹の中で、かなり大量に出血しているようです。今止血剤を打ちました。出血の量がひどく、お腹を開かなければ処置できません。ただ……七歳で若くはないことと、今のこの子の体力からすると……麻酔をしただけで、そのまま逝ってしまうと思います。」

 声が、出なかった。ただ涙が頬を伝って、僕は、理解ができなかった。

「分かりました……ありがとうございます。意識がなくなってしまう時まで、一緒にいさせてください。」

 父が言った言葉。なんで……どうして助からないの?助けるって、大丈夫だって……約束したのに。

「かん……ごめ……。」

 止めどなく涙があふれたけれど、言葉にならなかった。ただ一緒にいたかった。手術室に入らせてもらい、手術台に横たわる柑梨の体に頬を寄せた。柑梨の呼吸がだんだんなくなっていくところを、なでながら何度も「大好きだ」と伝えて、ただ見つめていた。何もしてやれない自分が嫌いだった。

「くぅーん……」

 声を出す力なんてないはずなのに。呼吸するだけで精一杯のはずなのに。柑梨は僕の方を向いて、一声鳴いて、僕の頬を伝う涙を優しくなめた。

その声の直後、柑梨は静かに息を引き取った。

柑梨……いつも君は僕のことばっかり……。ねぇ柑梨……最後に僕に……なんて言ってたの……。行かないでよ……。

心の声は、誰に伝わることもなく、涙となって頬を伝った。

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