05 招待
「……そちらの世界へ行くことができるのですか?」
頭に警報が鳴り響くけれど、喰いつかずにいられない。
異世界。今まで見たことのない世界。海外どころか世界外旅行。なんて心惹かれることだろう。
「はい。この窓を通って」
「安全ですか?確実に元の世界に帰れるのでしょうか」
茶色の髪の男性が割り込んできて熱く語る。
「保証します。気圧や重力や人体の構成要素も同じです。行って帰って無事育っている彼が証拠でもあります。更に、この窓は彼を使って行われた実験より遥かに進歩しています」
私は思わず顔がひきつる。
先程も引っ掛かったのだが、この男はあまりに無神経ではないか。
彼の巻き込まれた非道な犯罪を、自分の研究の安全保証として引き合いに出すな。しかも被害者を前に。
……余程、私をそちらの世界に招きたいらしい。
やりとりの全体像を見渡して、分かったことがある。
黒髪の青年と茶色の髪の中年男性の、目的ーーと言って悪ければ、立場が異なるらしいということだ。
青年は私に感謝を示すのが目的ーー仮に演技だとしたらかなり演技派ーーだ。そして茶色の髪の中年男性は、科学者として私と彼によって生じた現象について研究や実験をするのが目的。青年は科学者でなく、両者の望みが一致したというところか。
12年間かけ「異世界に窓を開く」に至ったとのことだか、それだけの労力と予算を、青年の望みを叶えるためだけに注ぎ込む科学者はそうはいないだろう。
この科学者にとって、青年と私の協力を得てこの実験を行うことこそ目的であり大きなメリット、と考えるのが自然だ。
私と青年の会話が成立したとたんチューニング精度が上がったのをみても、『アンカー』とやらだけでなく、私達2人も引き合う作用に寄与しているのかもしれない。私が「あの子」に、彼が「恩人」に意識を向けることか、そんな何かが。
青年がどこまでそれを了解しているかは知らないが、人が好さそうな彼は、多分にこの科学者に利用されたのではと心配になってくる。
「『窓』は、初めて成功したとのことですね。自分が初の被験者としてそちらにいくのは、私も不安があります。まずそちらから来て頂けませんか」
作った笑みを浮かべ、様子見にあえて慇懃無礼を滲ませて言ってみた。
茶色の髪の男は目を眇めた。あぁやっぱり。
……嫌な表情だ。見下していた女に都合の悪いことを指摘されて不快感を表す勘違い男の顔。職場や取引先やプライベートで無数に見ましたよ、ええ。
「残念ながら、今回の装置の物質移動はそちらからの一方通行なんです。往復するのは問題ないのでそんな怖がらなくても。帰りまできちんと安全にお送りすると、このカーライル研究所が責任もって保証しますからご安心ください。こちらでは権威がある研究所ですよ」
このやろう。
……そこまで組織として責任を持つと明言するなら乗ってもいいのかもしれないが、権威を自称したカードを切る割に安全の担保の方法に具体性がないのが胡散臭い。
この男が聞かれもしないのに異世界やアンカーの構造を延々話したのは、技術に優れたイメージを与えて、私が『旅行』実験に協力するよう誘導したかったのだろう。しかも私にリスクを伴う協力を「お願い」するのではなく、恩を売る立ち位置で。
青年は私達二人の間に流れる冷えた空気に気付いたようだ。
「ハナ、ご不安に思うのは当然です。失礼な申し出をしてしまいお詫びいたします。ジョン。この場を作ってくれてありがとう。『窓』の実験も成功おめでとう。ーーそれだけで十分すぎる成果だと思う」
……彼は、一方的に利用されて気づかない程愚かではなかったようだ。しかもそう示して牽制して、あの男の反論を封じて私の援護射撃をしてくれている。「あの子」はこんないい子に育ったのか。
「ハナ、12年間、またお会いしたいと思っていました。あの日を境に俺の人生や世界観が変わりました。ありがとうございます。今後ともご健勝を祈っております」
彼は背筋を伸ばし、金色の目でまっすぐに私を見据えそう言って深く頭を下げた。
こちらこそ、と返せば別れの挨拶として完結する。
窓は閉じ、2つの世界は分かれていく。
茶色の髪の男は気に食わない。
気に食わないが…
この青年と、これを最後に永久に別れたくない、と思ってしまった。
これが青年の計算ずくとしたらうまいこと乗せられてしまったということだが、そうだとしてもまあいいか、と思えるくらいにはほだされた。
「私も貴方に会いたいと思っていました。そして私もそちらの世界には興味があります。つい不安を口にしてしまった上で大変恐縮ですが、よろしければお招き頂けないでしょうか」
ぱっと顔を上げた青年はみるみる満面の笑みになり大きく頷いた。何故か、昔近所で飼われていた柴犬が尻尾をパタパタした姿を唐突に思い出した。
私は10分待って欲しい、と言い置いてクローゼットへ駆けていく。バックパックに化粧水や絆創膏などを入れたいつもの旅行用衛生用品ポーチを放り込む。下着と靴下とインナーは2セット、つまり今着ている分を含めて3セット。これが洗濯のローテーションの最小限で旅行時の定番。
ボトムは行き先の文化によるので悩ましい。今回はお招き頂く以上失礼のないよう、マキシ丈のワンピースに着替える。ワンピースは洋装の第一礼装で少々のドレスコードならクリアするし、足を出さない文化圏でもいけるだろう。あとチノパンも鞄に押し込む。
パスポート、お金、飛行機のチケット、宿のバウチャーやガイドブックは今回は不要だ。
スマホは向こうでまともに使えないだろうし、今は怪しい受信機になってるので持参を諦め、ノートと筆記用具を一応入れる。アナログな手法は不確定要素に強い。
冷蔵庫以外のブレーカーを落とし、ガス水道の元栓を閉める。
歩き慣れた靴といらないチラシを持って例の窓まで戻り、チラシの上で靴を履いて準備完了。
締めて8分。旅行慣れしていてもこれは新記録だ。
宙に浮かぶ40cm四方の四角い窓を睨み付ける。
……もしかしなくても、この四角から出入りするのだろうか。
出入りするんですよね、そうですよね。
まず荷物を、と言われ差し出すと窓越しに青年が受け取って、くるくる裏表を見せた。
窓を通しても全く無事だ、と示してくれているらしい。少し安心した。
さて自分の番だ。
アジア系女性だからいいけれどもっと体格いい人は通れるのかと益体もないことを心で叫んでいると、窓の向こうで青年が手を差し伸べてくれた。
窓の中に恐る恐る手を入れ、その手に載せると、そっと壊れ物のように掴んで、窓を跨ぐ私の体のバランスを支えつつ、私のペースに合わせゆっくり引いてくれたので、思ったより楽に通れた。……エスコートの力って偉大だ。
小説の異世界トリップって、トラックに跳ねられたり地面の穴に落ちたり荒っぽい招かれ方が多いから、こんなに丁寧に招いて貰えるのは貴重かもしれない。
地面に降り立つと、手を握ったままの青年が金色の目を細めて綺麗に微笑んだ。
「ようこそ、こちらの世界へ」