19 引っ越し
そして引っ越しが始まった。
といっても私の荷物はバックパック一つである。先代の部屋は服などは先代が隠居先に持って行き、残りは売ってしまったそうでがらんとしているが、家具やカーテンなどはそっくり残っていた。
先代が出た後一時置きされていた店の荷物が少しあったので、それを運び出して貰う。
「この部屋、綺麗にとってありますね。大事に使うつもりですが、先代のものとか大切なものがあったら先に持ち出して下さい」
「いや特には」
思い出の部屋としてとっておきたかったのだろうかと思ったが、アレクはさばさばした様子で特に拘りはないらしい。
しかし片付けが進むうち、アレクは僅かに棚に残っていた2、3の小物に目を留めた。彼の背後からちらりと見えたものは花の形をしていたので、女性だという先代の持ち物だろう。
懐かしげに見ていたので、私が促すと、今度は頷いて自分の部屋に持っていった。
うん、私よりも、縁が深かったアレクが持っていた方がいいだろう。
荷物の持ち出しが済んだら掃除。アレクは手伝うと言ったが断った。
「掃除は自分でやりますからアレクは店に戻って下さい。多分やることが沢山あるでしょう。時間を割いてくれてありがとう」
「……分かりました。留守番を帰して、いくつか溜まってる仕事を片付けます」
綺麗に見えても意外と埃が溜まっていて、何度も雑巾を濯ぐ。
何度目かキッチンに下り、床に置かれた桶で雑巾を濯いでいたら、ふらりとアレクが現れ、2枚の皿各々にパンやピクルスやベリー等を載せた。その間5分。腹がぐうと鳴る。昼時だったようだ。
「すみません、今朝はバタバタしてたもので家に何もなくて。夜は腕を振るいますね」
「とんでもありません!何から何までありがとうございます」
一つの皿は私に渡し先程のダイニングで食べるよう言い、自分の皿を持って店に戻った。
完璧過ぎる男、アレク。ありがたく頂いた。
この家は南北に長く、基本的に北側が店舗だ。北向きなのは本が陽に焼けないようにするためだろう。
1階は北に店舗、南にキッチンと水回り、南北を繋ぐ廊下の左右は書庫。
2階は北端にリーディングルーム、中央は作業室と書庫で、南端にさっき私達が居たリビング兼ダイニング。
3階は居住スペースで、やや天井が低く一部は壁や天井が斜めになっているのがむしろ可愛い。北端はアレクの部屋、南端は先代のーー私の部屋で左右対称の同じ広さの部屋らしい。二つの部屋の間には納戸と廊下がある。
住居部分の1、2、3階を繋ぐ階段は南端寄りの西側の壁に沿ってある。
これと別に店舗には1、2階を繋ぐ階段があり、客が店とリーディングルームを行き来できる。
アレクが私を初めに連れてきた時、何故住居部分の階段でなく、店舗側の階段を使ったのだろうと疑問に思ったが、多分婦人を連れているので「家」でなくあくまで店舗という公的スペースを意識したのかと想像する。
実は大きくはないが地下室もあって、食材や石炭の貯蔵庫などがあるそうだ。
まだ入ってないが、外から見たら一階の足元にいくつも換気窓があった。地下室の天井近くと思われる。定期的にこれを開けて空気を通すのだろう。
昔のヨーロッパの家に地下室があることが多い理由は諸説ある。地面を掘って出てきた石を建材にして家を建てて、家の下の穴はそのまま地下室にしたって説も本で読んだけど、なんか凄いな。
南端最上階は一番いい部屋で、普通なら店主部屋ではなかろうか。東、南、西と天井に窓があり日当たりも風通しも最高だった。真夏は温室かもしれないが日本程蒸し暑くはないだろう。この街に生えてる木々や草花を見た限り、気候は日本より涼しくて湿度が低めじゃないかと予想する。
先代が出た後アレクはこの部屋に引っ越さなかったのかと訊いたら、弟子時代から長年住み慣れた部屋をわざわざ引っ越す理由がなかったと話していた。物理的なことにあまり拘りがない人なのかもしれない。
さて、部屋の主がいなくなってから一年分の埃を被ったシーツを剥いで一階へ持ってくる。
洗濯場はキッチンの隣にあった。そこの床は土間や木でなく石が敷かれているので水に濡れても始末がしやすい。
勝手口の外で軽く埃をはたいてから洗濯桶に水を張り洗う。汚れは埃だけなので水だけで洗う。この土地は硬水だから石鹸は多分お湯でないと泡立ちにくい。わざわざ湯を沸かすまでもないと判断した。
何故洗濯場に鍵があるのだろうと思ったけれど、風呂場としても使うようだ。成程。この辺は私は文献で見たことがないのでこれが普通なのかは知らない。
キッチンの勝手口から出てすぐ、つまり家の南側の立ち木に渡された洗濯紐にシーツを干す。
この辺りは住宅街で建物が近接しているが、建物の高さが高く密集した街中心部からやや離れており、階数は低めで比較的敷地に余裕があるので物干しによく陽が届く。贅沢だ。
燦々と陽を浴びるシーツを見上げ、そのまま勝手口の脇の石に腰かける。
朝からの怒涛の展開に流石に疲れた。
今日は自宅に帰ってSNSチェックして風呂に肩まで沈んでまったりするつもりでいた。
多分どちらも当分できないし、一生できないかもしれない。
私はガンガン海外飛び回るし、仕事モードに頭を切り替えれば、研究所に請求するとか組織相手に交渉することも慣れている。
自分では精神的体力的にある程度タフな方だと思っているが、それは必要に迫られて後天的に努力と経験で身につけたものが大半で、別にスーパーウーマンの人外生物ではない。
気力は無尽蔵ではなく、知識で摩擦を回避して気力を節約したり、充電と放出をコントロールしたりして使っている。
ていうか普通の人類はそういうものだろう。ストレス多すぎたりして慢性的に気力が枯渇するのが鬱だ。
流石に今回は放出が多すぎて電池残量ゼロで強制シャットダウンだ。
とりあえず今夜からの寝床と今後の見通しがすぐに確保できたのは途轍もなく安堵した。その確保は頑張りどころだった。
それがない間は急速放電ですごい勢いで自分の中の電池残量が減っていって我ながら怖かった。
今はカラカラの雑巾を絞りきった気分である。
「湯船浸かりたい……」
日本人の充電装置に心からの愛を囁いた。




