すみのかほり
第19回春日井市掌編自分史作品集掲載「かおりのきおく」の掲載作品です。Twitter(@twikestar)にも投稿してます。
食事が苦手な私が、会食恐怖症を知った話です。
「ごめん。車に戻ってるね」
目の前で焼ける肉の匂いに吐き気がする。曖昧な笑みを浮かべながらの一言に、父はこれ見よがしに溜息をつき、母は車の鍵を渡してくれた。外に出ても換気扇から暴力的なまでの、肉の匂いが漂ってくる。ポケットに隠していたミントタブレットを一粒噛んで、車の中に逃げ込んだ。吐き気がする時の対処法の一つ。ミントタブレットを食べる事。あとは極力、身体を冷やすこと。冬の車内は、十分にその条件を満たしてくれた。
私は食べることが苦手だ。
正確には外での食事が苦手なのだ。家族や親友、気の許せる人達との食事でさえ緊張してしまって、お腹は空いているのに上手く食べられない。挙句の果てに気持ち悪くなり吐いてしまう。人間の三大欲求の内の一つが苦手なんて、居るかどうかは分からないけれど、カミサマに生きるなと宣告されたようなものだと思う。
私のことを心配した母が、精神科医に連れて行ってくれたことがある。
「あーなるほど。要はストレスですよね。気の持ちようですよ。病は気から、ともいうでしょ」
そう言って医師は軽く笑い飛ばした。二度と行かなかった。
吐いてしまうかもしれない、と思うと電車に乗るのも怖かった。何より電車の中の充満した他人の匂いたちに吐き気がした。
そして私が至った結論は、吐くのが怖いなら吐くものがないように食べなければ良いということ。大好きな漫画の祭典が東京であること知り、新幹線に乗っていくのが怖かった私は朝食も摂らずに出かけた。そこで自分の限界を思い知ることになった。
帰って来てからも、気絶したことは両親に言えなかった。
「東京に行きたい。声優になりたい」
夢を追いかけるという目的で、私は逃げるように上京を決めた。今思えば、夢を追いかけるのは建前で、ただ食べられない私を見て溜息をつく父と心配そうな顔をする母の側にいるのが辛かったのかもしれない。
東京に出てきたからと言って何かが変わる訳でもなかった。二十歳を過ぎ、初めて持ったスマホには気を紛らわすためのゲームアプリばかりだったけれど、ふと私みたいな症状の人が居るのかもしれないと思って調べてみた。
「外食 怖い 吐く」
会食恐怖症。嘔吐恐怖症。その言葉が目に飛び込んできた。東京でそういう人達の集まりもあるらしい。出会い系とかではないだろうか。一抹の不安がよぎったけれど、私は出かけてみることにした。
苦手な電車に乗って、待ち合わせ場所の飲食店に入る。飲食店独特の食べ物の匂いに圧倒されながらも、席に着いた。私より年上の三十代から四十代の男女七人くらい。
「それじゃ、軽く何か注文しましょうか」
主催者の一言に、ほぼ全員が疑惑の眼差しを送ったのが分かった。外での食事が苦手、食べられない、という人の集まりだと思っていたのに。かつての精神科医と一緒か、と心の中で落胆する。
「もちろん注文しなくても良いし、飲み物だけでも良いです。僕が飲みたいだけなんで」
あっけらかんと言う、二十代後半くらいの主催者に一瞬唖然とする。参加者たちは目線で会話をすると、飲み物だけならと主催者に続いて注文した。もちろん私も。
全員に飲み物が配膳されるまで、主催者を軸に自己紹介が始まる。
「給食って、悪癖だと思うんですよね」
少し打ち解けてきたところで主催者が、この集まりの本題に入ろうとしていることが分かった。
「別に給食自体が悪い訳じゃない。栄養バランスも考えられてるし。ただ、給食を完食するまで居残りとか、そういう習慣が悪い所だと僕は思うんです」
「……たしかに。私も小学生の時、お残しを許してくれない先生で、ずっと居残りさせられてました」
「会社での飲み会とか、そういうのも悪い所です。共通するのは、食べる事を強制することなんですよね」
なるほど。たしかにそうだ。と私も、参加者たちも思うところがあるのか、頷いたり目線を交わしたりしている。
「別に食べられないことが悪いことじゃない。飲食店で残すなと誰が決めた? 別に誰に言われた訳でもない。僕だって、皆さんと同じように悩んでいた時は、しょっちゅう飲食店でお残しをしてました」
今は食べ歩きが趣味ですけどね、と付け足しながら太陽みたいにカラッと爽やかに笑んだ主催者に、私は涙が出そうになった。
私だけじゃなかった。ちゃんと、この症状に名前があった。同じように悩んでいる人がいた。克服した人がいる。ゼリーとおかゆしか食べられない時もあった。空腹で、それでも食べられなくて、このまま栄養失調か餓死してしまうんじゃないかって、そう思った時もあった。
「吐いたって良いんです。人間そこまで冷たくない。誰かが助けてくれます。食べたくなかったら、食べたい時に落ち着ている時に食べればいい。会社の飲み会だって逃げればいい。逃げたって吐いたって大丈夫。仲間がいる」
大丈夫。私は生きていける。そう勇気をもらえた。
・・・・・・
「お父さんがね、溜息をつくのは心配してる印なのよ」
「え、そうだったの? 分かりにくいなぁー」
こそこそ、母と二人で話しながら、父の後ろでクスクス笑う。
「何か言ったか?」
「何でもないよ」
振り返る父に笑顔を返して、私は勢いよく開閉ボタンのスイッチを押した。ちりんちりんと、綺麗な鈴の音と共に、全身肉の焼ける匂いにふわっと包まれる。
「大丈夫か、気持ち悪くないか」
席に着いた時、久々に言葉に出して気遣う父に、思わず目を丸くすると、父の隣に座る母がウィンクを寄越してきた。私が東京に行って、会食恐怖症のことを両親にカミングアウトしてから、父も変わったらしい。
「うん、大丈夫」
もう私は大丈夫。食べることも、吐いてしまうかもしれないことも、怖くない訳ではない。でも、大丈夫。東京では一人で食べ歩きしてみたり、飲食店に入ってみたりしてトレーニングをしてきた。完全に克服出来た訳じゃないけれど、今日は頼もしい両親がいる。ポケットの中には、いつものミントタブレットもある。店内は効き過ぎなくらいに冷房がかかっていて、袖から伸びた素肌に吹き付けている。
運ばれてきたお肉は、じゅうじゅうと文句を言いながらも母の手によって良い感じに焼けていく。その香りが肺を満たすことに抵抗は感じなかった。声優学校で学んだ腹式呼吸で、むしろ体中に匂いを駆け巡らせる。
「いただきます」
食べること、それは生きること。私は今日を生きていく。
はじめまして、こんにちは。無月華旅です。
随分とお久しぶりですね……。現在執筆中の作品たちみたいに、途中にならないように、完結してから作品を投稿したいと思ってあたためている作品を書き始めて、早3年。物語の登場人物たちが、頭の中で、早く早くと急かしている毎日です。
さて、今回の話ですが、今まで書いているファンタジーとは少し毛色が違って、私自身の話を書いています。こういう人がいて悩んでいるんだっていう事を多くの人に知ってもらいたいですし、同じ悩みを抱えている人がいるんだよ、ということを分かち合いたいです。
最後になりましたが、ここまで読んで頂いてありがとうございました!
願わくば、次回の作品でお会いできますことを。