第8話 佐藤壱葉
中枢区域の南西に広がる特別教育指定区域。
総合大学に加え様々な分野に特化した機関や人材を集結させ、最高峰の教育が受けられる区域として人気の高い地域である。
医療領域の研究員として第二医科学研究機関で働いている佐藤壱葉は、日々の自身の研究と人々の命を守る医療業務に加え、先日勃発した通信障害による事件の際に被害を受けた病院が単独ネットワークを構築していたことによって被害が少なかったことから全国の病院システムの確認調査を任され、多忙を極めていた。
「なんで俺が調査の責任者に任命されるんよ」
医療研究員の詰め所となっている研究室で、壱葉は眠気覚ましのコーヒーを口に含みながら愚痴をこぼす。
自身の元に回ってくる書類や連絡が多すぎて、もう3日は家に帰っていない。
同僚であり、調査の補佐を任されている木下太一は壱葉の顔を見て苦笑いを浮かべた。
「ひどい顔だな、佐藤」
「お前に言われたくないね」
壱葉は向かいのデスクに座る太一をジト目で睨んだ。
補佐と言えど何だかんだ自分の仕事も手伝ってくれている彼に、壱葉は少しばかりの感謝を込めてチョコレートを放り投げる。
太一はそれを短い感謝の言葉と共に受け取った。
「まあ、佐藤の電子技術がこの研究所で一番だから仕方ない」
「電子科学領域に要請出せばいいのに」
「向こうは向こうでこの前の事件に追われてるらしいぞ。電子犯罪特別対策班の方から手伝いの要請が来ているらしい」
「電子犯罪特別対策班ねえ。結局この前の通信障害事件の詳細は伏せられたままだしね」
北、東、西の一部の地域で起こった大規模な通信障害事件。事件自体は1日で収まったものの、近年まれにみる被害の大きさに全国ニュースとなった。
しかし、その対応に当たった電子犯罪特別対策班からはシステムの不具合との報道のみで、詳細は明かされていない。
「システムの不具合ごときであんなに広範囲のものが同時に起こるわけないよなあ。…佐藤、鬼の仕業っていう噂信じる?」
「鬼?」
ニヤッと笑った太一に、壱葉は怪訝そうな表情を向ける。
「電子犯罪特別対策班が対応している時に近くにいた人たちからの情報なんだけどさ。対策班の一人が、鬼がいるって呟いてたって」
「鬼がいる…」
壱葉の脳裏にとあるゲーム画面がよぎる。
鬼紀伝という名前のそれは、自身が数年前まで熱中していたオンラインゲームだった。討伐隊として参戦していた壱葉のプレイヤー名は、鬼を倒しゲームをクリアしたチームの一員として界隈では有名だ。
考え込んでしまった壱葉の顔色を太一が伺おうと立ち上がった時、研究室にノック音が響いた。
「失礼します」
長い髪を一つにくくった女性が研究室に入ってくる。研究員兼現場の医師も任されてる彼女、野田美咲は目当ての人物を見つけてホッと安心したように笑った。
「佐藤さん、電子犯罪特別対策班の方がお見えですよ」
「は?俺?」
「はい」
話題に上がっていた組織からのまさかの来訪に、壱葉は疑問符を浮かべる。しかし用件を知ってそうにもない彼女の反応に、仕方なく立ち上がった。
「お?遂にスカウトか?」
「茶化すな。木下、それやっといてね」
「えー!」
壱葉は太一の不貞腐れた声を聞いて笑いながら部屋を出ていった。
***
第二医科学研究機関棟の入口入ってすぐ横。厳かな応接室に通された咲夜はソファに座りながら緊張した面持ちで姿勢を正した。
咲夜にとって壱葉は大学の先輩に当たり、ゲームの中でも知り合いと分かってからは遠慮なく会話をする仲となっていたが、いかんせん卒業してから会っていない分緊張が増してくる。
「失礼します」
ノック音が鳴り、目当ての人物が入室してくる。
筋肉の均衡が程よく取れた中肉中背の体躯に白衣をなびかせ、昔から変わらない眼鏡の奥にある細い目を見た瞬間、咲夜は無意識のうちに強張らせていた身体を緩めた。
「久しぶり。壱葉先輩」
壱葉の瞳に一瞬疑問符が浮かんだ後、すぐにハッとした表情を浮かべる。
「鳥谷…?鳥谷咲夜か!久しぶりだね!」
嬉しそうに笑う壱葉に、咲夜も学生時代に戻ったかのような若々しい笑顔を浮かべた。
壱葉は咲夜の向かいのソファに腰を下ろす。
「君が電子犯罪特別対策班って…。鳥谷、自衛隊辞めたの?」
「ああ。電子犯罪特別対策班ができた時にスカウトされて」
「てことはもう4、5年前の話か。時の流れは早いねえ」
のほほんと過去に思いを馳せ始める壱葉に、咲夜は流されそうになる意識を必死に戻した。
「ってそんなことは今はどうでもいいんだ。シーラ」
「…!」
突然呼ばれた分身の名前に、壱葉は目を見開く。その目は真っ直ぐと咲夜の真剣な瞳とかち合った。
「シーラ。頼みがある」
「……先日の通信障害事件のことかな?」
「相変わらず察しが良いことで」
咲夜が苦笑いを浮かべると、壱葉は口元だけで笑みを浮かべた。
「俺のその名前を呼ぶってことは、鬼の仕業っていうのは本当だったわけだ?」
「なんだ、知ってたんか」
咲夜が驚いた表情を浮かべる。
「噂になってるらしいよ」
「あちゃあ。五十嵐に情報規制ちゃんとしろって言っておかないとな」
咲夜は顔を歪ませて困ったように頬をかく。その様子をジッと見つめる壱葉に対して、咲夜は一瞬視線をずらしたのち、覚悟したように向き合った。
「この前の通信障害事件。犯人はラセツとウロボロス。あいつら鬼紀伝のシステムを使って電脳世界で好き勝手暴れやがった。目的は、ラセツの力を取り戻すこととこの世界を壊すことだと…」
緊張感を伴って吐き出される咲夜の言葉を、壱葉は一切口を挟まず受け止める。
「でも、そんなことを今の世界でさせると国民の生活が脅かされてしまう!だから、あいつらは何としてでも捕まえないといけないんだ」
グッと咲夜の右手が握られる。その力のこもった手を一瞥して、壱葉は立ち上がった。
「シーラ…?」
「そっか。なら、頑張ってね。鳥谷。あ、ちなみにここは医療領域だよ。電子科学領域はあっちだから。じゃあね」
「は…?」
さっと踵を返して応接室から出ようとする壱葉の肩を咲夜が慌てて掴んだ。
「ちょっ!ちょっと!待てよ!」
「なに?俺忙しいんだよね。協力要請するなら電子科学領域でしょ?」
何とか前に進もうとする壱葉の足は止まるが、迷惑そうなオーラがにじみ出る。
「いやいや。言っただろ、シーラ。今回の犯人はラセツたちだって。鬼紀伝のシステムは生きてるんだ。シーラの見抜くスキルであいつらを捕まえる手伝いをしてくれないか?」
断られるなんて微塵も思っていなかった咲夜の手に力がこもる。壱葉はその手を無造作に振り払いため息をついた。
「鳥谷…。俺は、もうシーラではないよ」
「え…?」
不安そうに揺れた咲夜の目が壱葉の眼鏡に反射する。
「たとえ今回の件の犯人がラセツたちであったとしても、ゲームとリアルは違う。…ナイト。俺たちがやっていたのは只のゲームだ」
壱葉の言葉が、咲夜にとっては喉元にナイフを突きつけられたかのように恐ろしかった。
一瞬息を止めた咲夜から壱葉は距離を取って言い放つ。
「とにかく。俺はもう鬼紀伝に関わるつもりはない」
「あ、ちょっと!シーラ!」
応接室には呆然とした表情の咲夜のみ取り残された。