Lost!
講義の教科書は何回読んでも理解できなかった。数式が立ち並び、その間に挿入されている言葉も専門用語ばかりで、日本語に擬態した何か別の文字の集まりであるかのようだった。文字に視線を滑らせ続けたが、脳は処理することなく、そのまま排泄していた。いつも講義中にスマホをいじってゲームやSNSをしていて、まともに話を聴いていなかったツケが廻ってきたのだろう。
教科書を読むことを諦め顔を上げると、教授はひたすら黒板に方程式を書き並べ、定理の証明を説明していた。連続する小気味よいチョーク音が執拗で、責め立てているようだった。それでいて、教授の話す声はぼそぼそとしていて、聴き取りづらかった。
座っている椅子が何故か気になった。何度も座り直して、最適な椅子の座り方を探したが、どの位置に座り直しても僕の尻と椅子は敵対した。立ち上がりたかったが、そんなことをして周りに奇怪がられるのが嫌だったので、なんとか座り続けた。
「机が揺れるからそれやめて」
隣にいる生徒がそう言って、僕の膝を指をさした。いつの間にか僕は貧乏ゆすりをしていた。すぐに静止させたが、気づいたら、また膝が上下に細かく振動していた。隣の生徒は睨み付けてきた。
授業はまだ一時間ほど残っていたが、筆記用具や教科書を乱雑にバックにつめて席を立った。四方八方から異様な者を見る視線を感じて後悔したが、そのまま講義室を出た。
大学内にいても特にすることがなかったので、アパートの家に帰ろうと思い、駅に向かった。
電車内は中途半端な時間帯だったため、人はそれほどいなかった。ドア横の手すりに寄りかかって、イヤホンをして音楽を聴いた。
車窓の外の景色をなんとなく眺めた。窓の端から所狭しと乱立する木々や建物が現れ、すぐに過ぎ去って窓枠から消えた。その奥で地平から生えた鈍重な高層ビル群が、のっぺりと佇んでいた。
イヤホン越しに奇声が聴こえた。座席に座っていた人たちは、顔を強張らて立ち上がり、隣の車両へと移っていった。声のする方へ視線を移すと、四十代の男がつり革に両手でぶら下がり、体をくねらせていた。妖怪のような奇怪な動きだった。その男は淋しい禿頭しており、よれよれのシャツを着て、シミだらけのジーンズを穿いていた。見るからに不潔だった。だが、顔は満面の笑みで、少年のような純朴な笑みだった。つり革にぶら下がり前後に体をくねらせているのは、純粋な衝動の遊びのように思えた。
この男は社会の悪意にあてられ狂ったのだろうか。日々の軋轢、悪意の必然的な逃避として狂ったのだろうか。だが、男の笑みはその悪意の片鱗も見受けられなかった。男は全てが幸福に満ちた世界に独立して存在していた。
僕は男に見惚れてしまい、降りるべきだったアパートの最寄り駅を過ぎて、終点の池袋まで電車に乗っていた。僕は電車から降りたが、男は電車に乗ったままだった。男は乗車してきた人達に埋もれ見えなくなった。
改札を通り、東口から駅を出た。街の空気は重く淀んでいて、皮膚を逆なでしてきた。車の排気ガス、香水、汗、皮脂、ゴミ、混濁した匂いを吸って、少し気持ち悪くなった。吸った空気が喉に絡まり、腐食してくるように感じた。
錯綜とする人混みの中、のろのろと駅に沿って歩いた。すると、褐色の肌の色をしたアジア系の女の人に話かけられた。
「すいません、募金の協力をしてもらってもいいですか」
不意に話かけられて、僕は立ち止まってしまった。女の人は続けていった。
「アフリカでは病気や飢餓によって、死んでしまう子供たちがたくさんいます。あなたが募金をしてくれることによって、ワクチンや食料を援助してこの子供たちを救うことができます」
黒い肌をした丸刈りの少年が笑顔でピースをしている写真を見せながら、たどたどしい日本語で説明された。本当に募金したお金が援助に回されるのか怪しかった。訝しげに彼女を見ると、彼女は畳み掛けるように声を強めた。
「あなたが募金をしてくれば子供が生きることができるんです。あなたが五百円でも払えば、三十人分のワクチンを確保できて、その子供たちを助けることができるんです」
何の繋がりのない見知らぬ子供を助けたいとは思わなかったが、ここで募金をせずに立ち去ると、間接的な殺人者になるような気がして、財布を取り出した。財布の中には五千円札とちょっとの小銭、学生証や免許証、保険証などのカードが入っていた。
僕は財布ごと彼女に差し出していた。財布ごと渡さなければいけないような気がした。手垢にまみれたカードや財布を彼女に渡すことにより、緊縛された僕の臓器が解きほぐされ、弛緩していくようだった。
「財布ごとでいいんですか。大丈夫なんですか」
彼女は困惑した表情で僕の財布を手に取った。
「いいんです。大したものは入っていないので」
ぎこちないな笑みをして、僕は答えた。彼女は濃い眉をひそめて、不審がっていた。
「いいんです。いいんです」
財布を無理やり押し付け、僕は彼女から逃げるように、駅の地下への階段を下りた。しばらくの間、顔に張り付いた笑みは抜けなかった。