第七章
ドアが開く音と足音、そして鈍い打撃音が響いた。その合間に、連続して弾けるような音が聞こえてきた。
和坂や晃霊の声は、聞き取れない言葉を発して、すぐに途絶えた。
僕は体を椅子の上で小さく丸めるようにしていた。耳だけは、周囲の音を聞き取ろうと必死で働かせていたが、何が起きているのかは理解ができなかった。
僕の右横から、声が届いてきた。
「ここから、出るぞ」
その声には聞き覚えがあった。
「明霊?」
「そうだ。仲間が助けに来た。すぐにここから出るぞ」
僕の右腕を強引に引いて、椅子から僕を立たせると、早足で歩き始めた。
「こっちだ」
明霊とは別の声が、僕たちを誘導していく。
非常灯が所々に光っている他は、建物内には暗闇が充満していた。
「和坂さんたちは、死んだのか?」
暗視ゴーグルを顔に着けた明霊に、僕は声をかけた。
「殺してはいない。スタンガンを使っただけだ」
立ち止まった。緑色に塗られた鉄製のドアが目の前にあった。
「このドアを出て、五十メートルほど先に白い車が止めてある。そこまで、足を止めずに走ってくれ。分かったか?」
明霊の横にいるがっしりとした体格の男が、僕を睨むように見ていた。
僕は非常灯の明かりの中で、しっかりと頷いた。
「走れ!」
ドアが開いた。
日差しが眩しくて目が眩むのではないかと心配していたが、予想に反して外は夜であった。
意外にも、そこは幹線道路に面した場所にあった。周囲には、飲食店やガソリンスタンド、医院などが並び、道路には車の通りが多かった。駅などからは少し遠いのか、歩いている人の姿はない。深夜であるからなのかも知れない。
振り返ると、今しがた出てきた建物には、研究所の看板が掛けられていた。
押し込まれるように、白い車体のミニバンに入った。
ドアが閉まると同時に、車は急加速し、幹線道路を走る車の波に乗った。車内には、ギシギシという異音が満ち、車体がかなり古いことを示していた。
「村瀬さん」
僕は車の後部の座席にいる村瀬瑠璃を見つけた。
村瀬はシートに深く身を沈め、目を閉じている。
「気を失っているだけだ。魂狩人に睡眠薬でも注射されたのだろうな」
団子鼻の男が、呟くように言った。
車内を見回すと、村瀬瑠璃、明霊、僕の他に、四人の男がいた。よく見ると、四人のうちの一人は、目深に被ったキャップを脱いで、暗視ゴーグルを外すと女であることが分かった。四人とも、全身を黒っぽい服装で覆っている。
車は急に曲がって、住宅街の中に入っていく。何度も、右折と左折を繰り返しながら、車は進んでいった。
半時間ほどすると、コンビニエンスストアに寄って、買ってきた飲み物を渡された。喉にそれを通すと落ち着いてきた。そして、質問する余裕が生まれてきた。
「あなた方は、何者ですか?」
答えたのは、二番目に年配に見える四十歳ほどの男だった。
「天霊長老が作った組織に属している者たちだ」
開霊と名乗る四角い顔をした浮遊魂は、ぶっきらぼうに説明を始めた。
天霊とは、四百歳以上の浮遊魂の長老である。九十年ほど前に魂狩人たちが管理する集落から抜け出た者たちを率いていた浮遊魂で、今も、その者たちの中心的存在である。自分たちの組織を便宜的に「真の里」と呼んでいる。
真の里の構成人数や本拠地などの情報は「お前には不要だ」という一言で、教えてもらえなかった。
しかし、その場にいるメンバーの名前は教えられた。魂狩人にも、知られているということであった。
女は「妙霊」、二十歳代半ばの短距離の陸上選手のような体格をしている。
半分ほど白髪の五十歳ほどに見える男の名は「観霊」。
高校生ぐらいに見える団子鼻の小柄な男は「称霊」と名乗った。
僕は、リーダー格らしい開霊を見た。
「僕たちの居場所は、どうやって分かったのですか?明霊から連絡が入ったのでしょうか?」
「違うよ。俺は、こいつらの連絡先を知らない」
明霊は苦笑を浮かべた。
僕たちの乗っている車は、速度を落として、住宅街の中に入っていく。
「偶然ですか?どこからか情報が入ったとか?」
「それも違うな。俺は、こいつらの連絡先や居場所は知らないが、こいつらに警告を発する手段は知っている」
僕は、首を傾げた。
明霊が次の説明を続けようとしないのを見て、開霊が口を開く。
「明霊が魂狩人たちに、「真の里」つまり、俺たちへの連絡先として教えたところは、連絡先ではなくて、俺たちが監視している場所だ」
僕は再び、首を傾げた。
「つまり、あなたたちの敵であるということですか?」
開霊は首を振った。
「そうではない。真の里と接触したいと思っている者が、その店に行けば、俺たちの知るところとなるということだ」
「連絡先ではなく?」
「店の店主も、従業員も、真の里のメンバーではない。それどころか、浮遊魂のことも知らない。何人かの浮遊魂は客として店に行っているが、それは店に真の里と接触したくて訪れる者がいないかを監視するためだ」
僕は小さく頷いた。
「そうか。それならば、接触してきた者にどのように対処するのか、あなたたちが決めることができる。訪ねてきた者の正体を確かめて、その後に、会うことも、無視することもできるということか…」
明霊が呟く。
「今回のように、魂狩人の裏をかくこともできる」
僕はさらに質問を続ける。
「なぜ僕たちを助けてくれたのですか?明霊も、美霊も、真の里のメンバーではないのでしょう?そして、僕は浮遊魂でさえない。それなのに、なぜ危険を冒してまで助けにきてくれたのですか?」
車が止まった。
開霊は運転していた観霊が頷くのを見て、ドアを開けた。
「その理由は、天霊に聞け。すぐに会える」
その店の駐車場には、十台以上の乗用車が止まっていた。
車の中で普段着に着替えた開霊たちは、店の自動ドアを入った。店員に予約している者の名を告げ、店の奥へと進む。
村瀬瑠璃は、車の中で眠ったままであり、妙霊と観霊も、車内に残った。
開霊の次に明霊と僕、最後に称霊が、店の奥へと入っていく。
店内は客たちの声で騒がしい。
「この店は、お前たちと関係があるのか?」
明霊の質問に、開霊は首を振った。
大衆的な居酒屋であるが、個室が多い店である。隣の部屋との仕切りが薄い分、喧騒が店内に充満し、隣の会話の内容を聞き取るのは難しい。
アルバイトらしき若い男が案内した部屋に入ると、そこには、恰幅の良い中年の男と、三十歳代の小柄な女、そして目つきの鋭い大柄な若い男の三人が並んで座っていた。
三人に向って、開霊が軽く頭を下げた。称霊も、頭を下げる。
「久しぶりだな。天霊」
明霊は、すぐに一番手前の席に座った。
「久しぶりね。明霊。あなたに最後に会ったのは、二十年ほど前かしら?」
僕は恰幅の良い男に向けていた視線を、小柄な女に向けた。やはり、人間の外見で浮遊魂を判断している自分がいる。
小柄な女、天霊は僕に座るように視線で指示した。
後から明霊に聞いたところによると、恰幅の良い中年の男は「斎霊」といい、真の里のナンバー2であるらしい。そして、目つきの鋭い大柄な若い男は「壮霊」といい、天霊の護衛役である。
僕が明霊の隣に座ると、僕たちを連れてきた二人も席に着いた。
「注文は済ませてあるわ」
料理と飲み物が並べられると、明霊は早速、腹に入れ始めた。
「食べましょう」
その天霊の声で、僕も空腹だったので、すぐに食べ始めた。
無言の時が続いた。店内の喧騒が、この個室だけには、その伝染力を発揮できないようであった。
十分ほどが過ぎて、明霊の食事の勢いが緩まると、天霊が口を開いた。
「美霊はしばらくの間、私たちの保護下で過ごすことになるわ。あなたは、私たちからの連絡を待っていてもらうことになるわ」
僕は天霊を思わず睨んだ。
「彼女…美霊とは、離れません。助けてもらったことは、感謝していますが、僕は彼女から、あなた方のことを聞いてはいない。全面的に信用することはできません」
明霊はビールジョッキをぶつけるように、テーブルの上に置いた。
「こいつは、仲間ではないだろうが、魂狩人のところから連れ出してきておいて、そのまま放り出すというのも、無責任じゃないか?」
明霊は、僕から天霊に視線を移した。
「峰久さんと言ったかしら?あなたは、仲間でもないし、浮遊魂ですらないわ。私たちは慈善団体ではないのよ。私たちの仲間を助けるために危険を冒すことはあっても、それ以外の目的でそうはしないわ。でも、明霊の言葉に従うからではないけれど、あなたを放り出すことはしないでおくわ。どこか、適当な隠れ場所を用意するわ。しばらくしたら魂狩人はあなたから興味を失うでしょうから、元の生活に戻ればいいわ」
僕は首を振った。
「僕は彼女と一緒にいます」
天霊は苦笑した。
「思っていたよりも、強情ね。美霊が目覚めた時に、この人が魂狩人のところにいると、利用されそうだから連れてきてもらったけど、間違いだった?」
この言葉は、隣に座っている恰幅の良い中年の男に向って、発せられた。
「構わないのではないですか?目覚めた時に、側に峰久さんがいた方が、美霊は落ち着くと思います」
微かに笑みを浮かべたような表情で、斎霊は答えた。次に、僕へ視線を向けて、笑みを消した。
「言っておきますが、我々はあなたの身の安全を優先しません。あなたを守る努力はしますが、あなたの行動によって我々に危険が迫ると考えられる場合は…分かってもらえますか?」
僕には頷くしか、選択肢はなかった。
食事の間、天霊と明霊の昔話でほとんどの時間が使われたが、話の端々に「真の里」のことが出てきた。
それを総合すると次のようなものになる。
真の里は、天霊を中心として、九十年前に魂狩人が管理する集落から抜け出した者たちで作られた組織である。決まった場所に定住せず、日本国内、時には海外にも拠点を移してきた。現在、メンバーは三十数人がいるが、三分の一は真の里の結成後に生まれた世代である。いくつかの小さな会社を運営していて、資金には余裕がある。
店を出ると、僕たちが乗ってきた車は、見当たらなかった。
「別の車を用意している」
開霊の言葉に、僕と明霊は視線を合わした。
「美霊は、どこだ?」
その明霊の質問には、天霊が答えた。
「こんなところで、待たせておくわけにもいかなかったから、先に医療設備のあるところに運んだのよ」
明霊は天霊に皮肉な笑みを浮かべた。
「本当は、俺たちが無理なことでも言ったなら、美霊だけを連れて行こうと思っていたのだろう?一度離れてしまえば、俺たちには、お前たちを見つけることができないからな」
天霊は、にっこりと笑みを浮かべた。
「私は美霊のことを心配しているだけよ。早く、車に乗りましょう」
僕と明霊は、開霊の運転するセダンの後部座席に乗り込んだ。
途中で、明霊はコンビニエンスストアに寄るように言い、僕と二人で店内に入った。店内を歩きながら、いくつかの商品を籠に放り込み、清算を済ませた。
その間に、明霊は僕にいくつかの言葉を残した。そして、最後に「頼むぞ」と言った。
僕は明霊の言葉を、しっかりと頭の中に刻み込み、頷いた。
車に戻り、開霊に缶コーヒーを渡すと、小さく会釈して受け取った。
すでに、時刻は午後十時を過ぎていた。
住宅街の中を走る幹線道路沿いの小さな診療所の駐車場に、車は入っていった。照明の消えた看板には少し離れた街頭が薄暗く照らす「飯山医院」の文字があった。すでに診療時間は終わっていたが、一台の車がすでに止まっていた。
横の道路を、車が時々通っていくが、それ以外は、ほとんど物音が聞こえてこない。
通用口から入り、奥に進んでいく。自宅と診療所を兼ねた建物のようである。
「先生、どうですか?」
医師も浮遊魂であるが、医師の体を使っているだけでなく、医師としての知識も技術も持っていると聞かされた。
「体の方は、特に問題はないが、意識の方が混濁しているようだな」
開霊に彼女の様子を問われた医師は、髪の毛がかなり薄くなっている頭頂部を掻いた。小太りで、低めの身長であることも手伝って、どこか愛嬌のある雰囲気を持っている。
「彼女の意識が表に出てくることはないのですか?」
開霊から僕と明霊のことついて、手短に説明を受けた後に、自分は治霊だと名乗ってから、僕の質問に答える。
「この体の本来の持ち主である村瀬瑠璃の意識が弱まった状態が続けば、美霊が表に出てくるだろうな」
「その可能性は高いのか?」
明霊は壁に背中を預けていた。
「おそらく魂狩人どもは、美霊を村瀬瑠璃の体から無理に追い出して、隔離しようとしていた。そこへ、開霊たちが救出に行ったが、その時に美霊の精神が傷ついてしまったようだ。そして、村瀬瑠璃の精神も傷ついた」
「つまり?」
開霊は少し苛立った様子を見せた。開霊はやはり明霊のことを快くは思っていないようである。
「早く回復した方が、肉体の主導権を得ることになる」
僕は静かに寝息を立てている村瀬瑠璃の横に立った。
「美霊、僕だよ。聞こえているかい?」
治霊は頷いた。
「今は、そうやって呼びかけてやることが、一番の治療かも知れんな」
しばらくの間、彼女が眠るベッドの脇に腰掛けていたが、治霊は僕のために用意した部屋で休むように言った。
開霊は妙霊と共に、彼女の警護役または監視役として、飯山医院に残ることになったようである。
僕がシャワーを浴びて、部屋に戻ると、明霊が待っていた。椅子に座っている明霊は、疲れているようだが、視線は強いままであった。
明霊も着替えているが、今から就寝するという感じではない。
「この体では、動き回ることができない。別の体を探すことにするよ。この体は気に入っていたから、残念だけどな」
「天霊は知っているのか?」
明霊は苦笑いを浮かべた。
「天霊に許可は必要ないだろう?俺は真の里には属していない」
「戻ってくるのかい?」
僕はこの時、明霊を頼りにしている自分がいることを自覚した。
明霊はそれには答えずに、椅子から立ち上がった。
「美霊を頼む。それと、俺の言ったことを忘れるな」
僕は心細さを感じながら、頷いた。
翌朝、開霊も妙霊も、明霊がいなくなっていることを気にする様子を見せなかった。理由を問うと「天霊様から、明霊の姿が消えても、放っておけと言われている」という返事が返ってきた。
次の行動を予測できるほどに、天霊は明霊のことを知っているということである。
「昨晩、美霊の側で少しの間、二人だけにしてほしいと言ったのは、別れを惜しんでいたのね」
妙霊が呟いた。
その日は、何事もなく過ぎた。美霊は目を覚ますこともなく、魂狩人が平穏を遮ることもなかった。
僕は昼食後、彼女が眠っているベッドの横に座っていた。
目の前に横たわっている村瀬瑠璃の中に、本当に彼女が存在しているのか、不安になる。そして、彼女の体を激しく揺り動かして、確かめたくなる。
もちろん、そんなことをしても、確かめることはできない。それに治霊から、強引に目覚めさせることは、美霊を大きく傷つけることになる可能性が高いと言われていた。
ふいに、ドアが開いた。
入ってきたのは、妙霊だった。
「変化はないのかい?」
その声は、今までのイメージと違い、優しいトーンだった。
僕は妙霊の引き締まった顔に、一瞬だけ視線を止めてから、頷いた。
「眠ったままだよ」
沈黙が落ちた。
妙霊が再び、口を開く。
「峰久は、なぜ美霊と一緒にいるんだ?お前は浮遊魂ではないから、美霊のパートナーにはなれない。そうかといって、お前は美霊のことをペットのように考えているわけでもないようだ」
僕は苦笑した。ペットという表現を使うならば、僕に対して使う方が相応しい。僕は、彼女の願いに逆らうことはできない。
子供の泣き声が、聞こえてきた。階下では、治霊が医師としての仕事をしている。小児科ではないが、母親が子供を連れて自分の治療に来ることも、少なくはないだろう。
退屈しているのか、母親が注射でもされるところを見て、痛みに共感しているのか分からないが、喉の奥から搾り出すように声を上げている。
「子供の泣き声は、なぜ、こんなにも耳に入ってくるのかしら?」
妙霊の目が見開かれた。
おそらく、妙霊の視線の先を追った僕の目も同じように動いていただろう。
「美霊なの?」
僕が口を開く前に、妙霊がベッドの上に向って言った。
「そうみたいね。ところで、純樹、この人は誰なの?」
僕を見つめる視線も、言葉を発する間も、美霊のものだった。
子供の泣き声が、止んだ。一台のバイクが、エンジン音を大きく響かせながら、僕たちのいる建物の前の道を通り過ぎた。
「お帰りなさい」
僕は彼女の左手を握った。
彼女はベッドの上で体を捻って、右手を僕の頬に当てた。
「待たせたみたいね。ごめんなさい」
僕の視界が、僅かにぼやけた。目から、一滴の液体が零れ落ちる前に、妙霊が前に出た。
「本当に美霊なの?」
妙霊は彼女の目を覗き込むように見た後、全身に視線を這わせた。
そして、小さく首を振り「分からないわ」と呟いた。
僕は彼女に矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「村瀬瑠璃さんの意識は、どうなっているの?君は、もう完全にその体を支配しているの?その体から出て、他の体に移ることはできそうなの?」
彼女は苦笑した。
「そうね。この体の本来の持ち主、つまり村瀬瑠璃さんの意識は、少し弱っているわね。だから、私の意識が一時的に表面に出ることができているのよ。でも、村瀬瑠璃さんはおそらく、すぐに回復するわね。待っている家族の元に帰ろうという意思が強いわ。それまでに、私が入ることのできる体を見つけることができれば良いのだけれど…」
妙霊がスマートフォンを取り出して、話し始めた。
「…はい…分かりました。…そう伝えます」
スマートフォンが妙霊のズボンのポケットに入った。
「明日中には、美霊が使える体を用意できるわ。それまで大丈夫?」
美霊は小さく肩をすくめた。
「努力はしてみるわ」
妙霊は軽く美霊を睨むように見たが、そのまま部屋を出て行った。
戸が閉じられるのを待って、美霊は僕に視線を向けた。
「何があったのか、教えてくれない?」
僕は美霊が事故に遭って緊急避難的に入った村瀬瑠璃を田神成美の納骨を理由に呼び出したこと。その村瀬瑠璃の中から美霊の意識を表に出そうとしたこと。しかし魂狩人が現れて、美霊、明霊、僕の三人が捕らえられたこと。これらを話している時、美霊は眉間に皺を寄せていた。
「どうしたの?」
僕の問いに、美霊は暗い微笑を返した。
「私の中にも、最近に起こったことの記憶の断片が残っているわ。でも、それが形にならないのよ。組み立てようとしても、すぐに形を失ってしまうわ」
ドアがノックされた。
入ってきたのは、治霊と妙霊であった。いつの間にか病室を出ていた妙霊は、午前の診察の終った治霊を呼びに行っていたようである。
治霊は少し驚いたような表情を浮かべた。
彼女は、治霊に静かな視線を向けている。
治霊は彼女のすぐ前に立ち、腰を軽く屈めて、彼女の瞳を覗き込んだ。そして、小さく頷いた。
「思っていたより、早く回復したな」
僕は彼女に、治霊の紹介をした。すると、彼女は治霊に視線を真っ直ぐに向けた。
「村瀬瑠璃の意識が回復するまで、どれぐらいの時間が必要か、分かる?」
治霊は苦笑した。
「どれぐらいのショックを受けたのか、そして、村瀬瑠璃の精神が、どの程度の強靭さを持っているのか、それによって変わるだろうな」
彼女も苦笑した。
「つまり、分からないということね」
治霊は微かに頷いた。
「確かに分からないな。しかし、その体の中にいる君は、それを感じ取ることができる。他人に聞くよりも、自分の中に意識を集中させることが大事だな」
彼女は治霊を睨むような視線を向け、すぐに表情を緩めた。
「少し疲れたわ。出て行ってくれない?」
治霊と妙霊、そして僕は病室の扉に向った。
僕が出て行く時に振り返ると、彼女は手招きした。
近づいていくと、彼女は囁く。
「あの人たちには、あなた自身のことを話さないでね」
僕が戸惑いながら頷くと、彼女は横になって目を閉じた。
(真の里は、味方ではないということか?)
夕方に病室から出てきた彼女は、僕にカレーが食べたいと言った。
「いつものカレーだね」
僕は安堵した。彼女が別の姿になって僕の元に戻ってきた時は、カレーを僕に作らせるのが、習慣になっていて、それを彼女が覚えていたのである。
洋食クボの店内に十一回目の電話の呼出音が響いていた。店は閉店時間を過ぎていたが、片付けのために、店のオーナーである久保寛司は一人で残っていた。普段は、息子が最後の片付けをするが、今は行方不明である。
さらに、もう一回呼出音が鳴った。
「はい。洋食クボです」
受話器を取ると、久保伸幸の声が、聞こえてきた。
「父さん。僕はしばらくの間、帰ることができなくなった。時々、連絡は入れるよ」
息子に、何があったのか訊ねたが、それに対する返答はなかった。
久保寛司は受話器を置いた後、誰もいない店内に向って、呟く。
「伸幸…何があった?そして、お前はなぜ急に変わってしまった?まるで、別人になったように感じるよ」
久保寛司は小さく首を振った。
それでも、こうして家に連絡を入れてくる息子に対して、期待めいたものを感じてもいた。
明霊は視線を上げた。
「無事なようだな。俺が帰らなければ、魂狩人たちが手出しをしてくることはないと思うが…」
財布の中を開けて、残りが少ないことを確認して、再び歩き始めた。