第四章
目の前の家の門柱には「村瀬」と、石の表札に刻まれていた。
大きくはないが、十分な大きさの一軒家である。夕陽に照らされた家は、築三十年は経っていると思われるが、手入れが行き届いていて、古ぼけた感じはない。
僕は家の前のインターホンを押そうとして、手を止めた。
(村瀬瑠璃は、会社勤めだったな)
急に家を訪ねて、不審に思われるのを避けようと思い、足を最寄り駅に向けた。
日が落ちると、急激に寒さが体を侵食するように感じられた。
駅の改札が見える場所に陣取って、二時間近くが過ぎた。
冷えすぎて、足先の感覚が遠くなっている。僕は缶コーヒーを買いに行こうと、自動販売機を探し始めた時、ベージュ色のコートに、白いマフラーをした村瀬瑠璃が駅から出てきた。
僕は、すぐに歩き出した。かける言葉は、何度も心の中で練習した。
「間違っていたら、すいません。この前のバイク事故の時に、救急車を呼んでくれた方ですよね?」
怪訝そうな表情の村瀬瑠璃に、僕は微笑を向けた。できるだけ好印象になるように努力したつもりであるが、寒さで、顔が引きつりそうにもなっていた。
村瀬瑠璃は視線を、僕の顔の上に何度も投げた。そして、納得したような表情を浮かべた。
「事故に遭った人と、一緒にいた…」
僕は表情を引き締めた。
「そうです。彼女と暮らしていました」
「あの人は…?」
「病院に運び込まれて、緊急手術をしてもらったのですが、亡くなりました」
村瀬瑠璃は小さく頭を下げた。
「ご愁傷様です」
その時、村瀬瑠璃の表情が変化した。
神妙な表情から、微笑へと変わり、僕を見つめた。
「私よ。瑠璃があなたの言葉で心を乱された隙に、意識を支配したわ。でも、長い時間は無理ね」
彼女は寂しそうな表情を浮かべた。
「どれぐらいの時間?」
「居眠りするぐらいの時間ね」
僕たちはすぐ側にあったカフェに、入った。暖かい場所で座っていた方が、村瀬瑠璃が目覚め難いと考えたのである。
店の奥まった席に座ると、すぐにコーヒーを注文して、話し始めた。
先に、僕が明霊から聞いたことを彼女に伝えた。
彼女は少し考えてから、口を開いた。
「この村瀬瑠璃という人は、精神的に安定しているわ。夫と三歳の子供、そして自分の両親との五人で暮らしているの。仕事は、臨床検査技師をしているわ。夫婦仲も良いし、同居しているのが自分の両親だから、嫁姑の問題もない。はっきり言って、幸せで充実していますという感じね」
「それじゃ・・・君が村瀬瑠璃の意識を封じることはできないということだね」
「かなり難しいわね」
「つまり、明霊の力に頼るということになるのか…でも、村瀬瑠璃の精神が壊されたら、君がその体を去った後は、どうなるの?」
彼女は首を振った。
「私が少しは回復させてあげられるとは思うけど、破壊の程度によっては、普通の生活を送ることは難しいわね」
「君は今まで、体を借りる代わりに、精神や肉体の病を癒してきたのだろう?今回も同じようにできないのかい?」
彼女は、再び首を振った。
「私がしてあげられるのは、本人が持っている治癒力を増幅させることだけなのよ。明霊のやろうとしていることが、どんなことなのか分からないから、治せるのかも分からないわ」
そこまで話して、彼女は急に目を閉じ、俯いた。
「瑠璃が目覚めるわ」
村瀬瑠璃の体が、小さく揺れた。
もう一度、目を開いた時、発する雰囲気が変わっていた。
「あれ?」
村瀬瑠璃は、僕の顔、店内、自分の前に置かれたコーヒーカップを順番に見てから、僕に何かを言おうとした。
僕はその言葉を制するように、先に口を開く。
「そうですか。墓参りに行って頂けると、彼女も喜ぶと思います。納骨が終わりましたら、先程に教えて頂いたスマートフォンの方に連絡します」
僕の笑みにつられて、村瀬瑠璃も笑みを浮かべようとしたが、引きつったような笑みだけが顔の表面を覆っただけであった。
(私…連絡先を、この人に教えたかしら…)
そう言いたげに村瀬瑠璃は首を傾げながら、席を立ち、店を出た。
それを見送りながら、僕は大きな罪悪感を覚えていた。
(彼女を救うために、村瀬さんを犠牲にする…そんなことが、許されるのか?)
僕は帰る前に、一人で居酒屋に寄った。少しだけ飲んで帰るつもりだったが、杯を重ねてしまい、酔いが回っていた。
(誰だ?)
マンションの前の道で、僕たちの部屋の辺りに視線を向けている者がいた。少し離れているので、顔までは判別できなかったが、中背の男である。
近づいていくと、男は僕から離れる方へと、歩き出した。
僕は足を速めて、後を追う。
男が角を曲がり、視界から消えた。
僕は走った。角を曲がって、男の姿を探す。
「どこに行った?」
男の姿は消えていた。
急に走ったためか、酔いが回ってきて、足元が揺れていた。
僕は自分の部屋に入って、泥のように眠った。彼女を失うかも知れない不安を、一時的にでも忘れることができた。
翌日、明霊が訪ねてきた。
村瀬瑠璃のことや彼女のことを話すと、明霊は勝ち誇ったように、口の端に笑みを浮かべた。
「俺が美霊を救ってやるよ。そして、美霊はお前じゃなくて、俺が必要なんだと気付くことになる」
僕は首を振った。
「村瀬瑠璃に、また会うことになっている。その時、明霊も来てくれ。彼女の真意を確かめるんだ。強引に彼女を救おうとしても、できないだろう?」
明霊は、少し考えた様子だったが、すぐに頷いた。
「とりあえず。お前の案に乗ってやるよ」
次に、昨晩に見たこの部屋を見上げていた男のことを話すと、明霊の目に焦りが浮かんだ。
「なぜ、すぐにそのことを話さないんだ?」
明霊は窓に近づいて、カーテンを僅かに開け、外の様子を伺った。
「あれは、明霊の仲間なのだろう?」
なぜか、そんな気がした。
僕の言葉に苛立ったように、明霊は睨んできた。
「俺に仲間はいない」
僕は明霊の言葉を思い出していた。
「前に、数は少なくなったがいると…」
明霊は窓の外から、僕の方へ一瞬だけ目を向けた。
「生き残っている仲間はいるだろうが、俺は一人でやっている」
僕の中に不安が、成長してきた。
「夏の盛りの頃から、何度か見かけた人は、明霊とは関係がない?」
明霊の眉間に皺が寄った。
「お前たちの居場所を知ったのは、十一月になってからだ。夏には、北海道にいた」
僕はテレビのニュースを思い出した。
「ストーカーというやつか?昨日もテレビで報道していたな」
明霊は馬鹿にしたように、鼻で笑った。
「それなら良いけどな」
僕は思わず反論した。
「ストーカーを甘く見ることはできないんじゃないか?殺人とか起こることもあるんだ」
明霊は窓から離れて、椅子に座った。
「ストーカーなんて、俺に任せれば、どうとでもしてやる。体を乗っ取り、犯罪でもやって、刑務所にでも入れば、問題解決だ。しかし、そんなに簡単じゃない奴らがいる」
明霊の表情は厳しいものに変化していた。
明霊は、その一族について語りだした。
その一族は自らを「魂狩人」と呼んでいる。魂狩人は、持って生まれた特殊な力と、それを使うための技術を数百年も、代々受け継いでいる。魂狩人は明霊の仲間のことを「浮遊魂」と名付け、それを駆除することを使命としていた。実際、魂狩人によって、浮遊魂はほとんど姿を消してしまった。一族は、今では日本で有数の財閥の庇護の下で活動を継続し、警察や政府組織にも、入り込んでいる。
その一族は「魂狩会」と、自分たちの組織を呼んでいた。
「駆除するというのは、どんな方法を使うんだ?」
僕は思わず質問していた。
「多くは、俺たちの仲間が入り込んだ人を捕獲して行う。まずは仲間が入った肉体に苦痛を与え続ける。仲間が耐えきれなくなって、乗り移っていた体から出ようとしたところへ、特殊な人形を側に置く。この人形を作り出す技術は、魂狩人の一族の秘術だ。魂狩人は、仲間に体を乗っ取られないように訓練を受けているから、苦痛を受けた仲間は近くにいる誰にも乗り移れない。すると、仲間は人形の中に逃げ込むことになる。そして…その人形を仲間ごと燃やす」
明霊は冷静な口調のまま語り終えた。
「酷いな…」
僕の呟きに、明霊は鼻を鳴らした。
「乗り移られた人にとっては、意識がない状態とはいえ、体を痛めつけられるからな。そう言いたいんだろう?しかし、まだ、ましさ。もっと前は、仲間が入った肉体ごと殺していたからな」
僕は明霊の皮肉に反発を感じた。
(僕は彼女も、その仲間も人間と同じだと思っているよ)
僕は疑問を口にする。
「そんな奴らなら、彼女を見つけたなら、すぐに殺そうとするだろう?何もしてこないなら、魂狩人ではないよな?」
明霊は視線を、カーテンの閉まった窓に向けた。
「魂狩人のやり方は、ある時から変わった。ある学者が、浮遊魂は人類の進化に寄与していると言い出した。種は突然変異の繰り返しで進化するということだが、その突然変異は浮遊魂が乗り移ることによって起こったものが人間の進化にとって重要だったと言うんだ」
「だから、浮遊魂は生かしておくべきだと?」
僕の言葉に、明霊は目だけで頷いた。
「この学者は、魂狩会の長老の一人で発言力が大きかった」
「魂狩人たちは、その考えを素直に受け入れたのか?」
「いいや。浮遊魂を駆逐することが使命だと思っていた魂狩人たちは、浮遊魂を野放しにはできないと反発した。そこで、ある案が示された」
「どんな案だ?」
「少なくなった浮遊魂を監視して、人に害を成すものだけを排除する」
「かなりの手間だな」
「そうだ。俺たちが住んでいた地域を取り囲むように、魂狩人が住んでいたよ。あいつらは、普段はこちらに干渉してこなかったが、何かあると入り込んできた」
「何かとは?」
「周辺で殺人事件が起こったり、行方不明者が出た時に、あいつらは俺たちのことを、調べ回った。そして、俺たちの誰かが疑わしいと判断すれば、そいつはすぐに抹殺された」
「目の前で殺されたのか?」
明霊は首を振る。
「どこかに連れて行かれるんだ。戻ってきた者はいない」
僕は、ふと疑問を感じた。
「ところで、魂狩人はどうやって君たちを、見分けるんだ?君のように、様々な人の中に入って、その人として暮らしている者は、分からないだろう?」
明霊は頷いた。
「はっきりするには、捕えてから、調べるしか方法はない」
「何か、科学的に調べる方法があるのか?」
「科学的に調べる方法があるのかは知らないが、魂狩人は代々受け継いだ力を使って儀式を行い、俺たちを見分けることができる」
「儀式とは、どんなものなんだ?拷問じみたものなのか?」
明霊は首を振った。
「苦痛を与えるのは、俺たちを追い出す時だ。俺たちに乗り移られていない同類を痛めつけるのは、あいつらでも気が進まないらしい。儀式は、三人の魂狩人が、浮遊魂に入られた可能性のある者を取り囲んで行う」
そこまで言って、明霊は窓に近づき、外を見た。
「あの男か?」
僕も窓に近づき、外にいる男を視界に捉えた。
「そうだ。あの男が昨晩、この部屋を見ていた」
僕の言葉を聞くと、明霊はカーテンを閉めて、玄関に足を向けた。
「俺は、しばらくはここに近づかないことにする。俺に連絡をする場合、気を付けてくれ、美霊を救うには俺の助けが必要だろう?」
「そうだな…」
僕の方に、明霊は鋭い視線を投げた。
「俺が魂狩人の追跡を振り切るのに、どれぐらい苦労したのか分かっているのか?簡単なことではないんだ。もう、奴らに俺の存在を知られてしまっているかも知れないが…」
明霊は小さく溜息を吐いた。
僕は、明霊の話を信じるべきか迷っていた。
二カ月ほど、明霊からは、何の接触もなかった。
一年で最も寒い時期は過ぎたが、僅かな暖かさは日差しがある昼間だけ、そんな日々になっていた。
僕は、毎日でも彼女の様子を探りに行きたかったが、彼女の体の主に怪しまれることは避けたかった。そこで、週に一度だけ、用心しながら村瀬瑠璃の様子を探った。しかし、彼女が村瀬瑠璃の意識を少しの間だけ奪った時に教えてくれたことを再確認しただけで、他に分かったことはなかった。
公衆電話から、僕の携帯に着信が入った。
僕は小さく息を吸って、スマートフォンを耳に当てた。
「俺だ。何か進展はあったか?」
明霊、久保伸幸、の声であった。声に緊張感はない。
「何もないよ。彼女の意識が、村瀬さんの意識を奪えると思っていたけど、無理なようだ。彼女から、何の連絡もない」
明霊は小さく笑った。
「やはり、俺の出番になったな」
僕は苛立ちを覚えたが、明霊に頼るしか、方法はなかった。
「何か手伝えることは?」
明霊の声に真剣みが加わった。
「村瀬という女を、一人で呼び出すことはできるか?」
僕は頷いた。
「できると思う」
「どうやる?」
「田神成美の遺骨を納骨する時に、村瀬瑠璃が来てくれることになっている」
「いつだ?」
「来週の土曜日、午前十時から」
僕の言葉に、明霊は頷いた。
「久保の親父には、何か適当に理由を言って、店を休むことにする」
僕と明霊は、無言で通話を切った。
村瀬瑠璃に納骨の立会いについて電話すると、子供の世話を自分の両親に任せて、一人で来るということであった。何か一人で来てもらう理由を考えたが、何も思いつかなかったので、通話を切ってから安堵の息が漏れた。
当日、玄関を出ると、暖かい日差しが、略礼服の黒に染み込んだ。
駅に向かう遊歩道の脇に生えている桜の木の花芽が、膨らんでいたが、咲くまでにはしばらく時間が必要なようである。
目的の駅に着くと、明霊の姿が見えた。村瀬瑠璃に伝えてある集合時間の、三十分前に、会う約束をしていたのである。
明霊も、略礼服に身を包んでいる。
「魂狩人らしき者は?」
明霊は、持っていた缶コーヒーを飲み干した。
「気を付けて見ていたが、いないようだ」
僕と明霊は、それから二十分ほど、魂狩人らしき者がいないか警戒しながら、村瀬瑠璃の到着を待った。
駅の改札から、出てきた村瀬瑠璃は視線を何度も、周囲に視線を走らせた。
「おはようございます。今日は、ご足労頂いて、ありがとうございます」
僕と明霊は、村瀬瑠璃の後をつけている者がいないのを確認してから、近づいた。
村瀬瑠璃は、僕の顔を見て、ほっとしたように微笑を浮かべた。
挨拶と共に頭を小さく下げた村瀬瑠璃は、明霊に気付いた。
「こちらは僕の友人で、亡くなった田神成美とも親しかった久保です」
明霊は、僕に紹介されると、笑みを浮かべて、近づいていく。その笑みは、僕に向ける皮肉の混じった笑みではなくて、見た人に好印象を与えるものだった。
明霊と村瀬瑠璃は互いに挨拶を交わした。
「車を近くの駐車場に止めています。こちらです」
車に乗り込んだ三人は、明霊の運転で、郊外にある小さな霊園に向った。
「この霊園は、個々の墓ではなくて、納骨堂に遺骨を納めるシステムになっています」
車を降りた村瀬瑠璃は、公園のような霊園に視線を向けた。
駐車場の横に、木造平屋建ての事務所があり、その奥に芝生や樹々が植えられている。さらのその向こうには、石版の外壁のずんぐりとした建物があり、「納骨堂」と外壁に文字が彫られていた。
「事前に手続きは終えています。係の人を呼んでくるので、少し待っていて下さい」
僕が事務所から、係員を伴って出てくると、村瀬瑠璃は明霊の話で笑っていた。その笑みは、僕が抱えている骨壷に向けられると、すぐに消えた。
三人と係員だけで納骨を済ませると、車に戻る途中で、僕は提案をした。
「三人で、昼食でもいかがですか?近くに、蕎麦の美味しい店があるみたいですよ」
村瀬瑠璃が蕎麦好きなことは、前に彼女が意識を一時的に奪った時に話の端で出てきたのを覚えていた。
村瀬瑠璃は、腕時計を見た。
「これから予定があるのですが。思っていたよりも、早く終わったので…遠くなければ行きたいですね」
三人で車に乗り込み、車を走らせていくと、人家が次第に少なくなってきた。
「こんなに田舎にあるのですね」
村瀬瑠璃は、時計に視線を向けた。
「もうすぐ、到着しますよ。古民家を改装して、七年前に蕎麦屋になったらしいのですが、数年前にテレビの取材が来た後は、かなり混んでいたみたいですね。今は少し落ち着いて、待たなくても店に入ることができるみたいです」
僕の言葉に、村瀬瑠璃は興味を示した。
「それは楽しみですね」
十一時半を少し過ぎた頃、明霊は車を蕎麦屋の駐車場に止めた。すでに、四台の車が止まっていたが、店に入るとすぐに席へ案内された。畳敷きの広い部屋には、六つの座卓が並べられている。
僕たちが座ると、残り一つしか座卓が空いていない。
「もう少し遅かったら、満席だったかも知れませんね」
僕の言葉に、村瀬瑠璃は微笑して頷いた。
四十分ほどで昼食を終え、村瀬瑠璃が化粧室に入っている時に、明霊が僕に顔を寄せた。
「しばらくすれば、睡眠薬が効いてくる。そうしたら、行動開始だ」
明霊は隙を見て、村瀬瑠璃の食事に睡眠薬を入れていた。
「もし、駅に着くまでに眠らなかったらどうする?」
「車のダッシュボードの中に、スタンガンがある。それを使え!」
化粧室から帰ってきた村瀬瑠璃は、僕が支払いを済ませていたことに礼を言い、微笑した。
僕は後ろめたさを感じて、自分の顔が引きつっていないか気になった。
車の後部座席に、僕と村瀬瑠璃が乗るのを確認すると、明霊はゆっくりと車を発進した。丁寧な運転で、カーブを曲がっていく。
十分もしないうちに、村瀬瑠璃は目を閉じ、舟をこぎ始めた。
明霊がルームミラー越しに、僕を見た。
(完全に寝入っているか?)
明霊の無言の問いかけに、僕は頷いた。
車が速度を落し、道の脇に止まった。冬場の路面凍結時の待避場所になっている。そこには、他に車も人もいなかった。
明霊が運転席から降りて、ドアを閉めた。
車内には、大きな音が響いたが、村瀬瑠璃は目を覚まさない。瑠璃の横のドアが開いて、冷気が入り込んできても、眠ったままである。
(スタンガンは、必要ないか…)
僕はそんなことを考えながら、村瀬瑠璃を見ていた。
「こいつの頭を動かないように固定してくれ、俺の頭とこいつの頭をしばらくの間、触れさせる必要があるんだ。途中で頭が動くと、術がうまくいかない」
僕はゆっくりと前に垂れていた村瀬瑠璃の頭を起こして、明霊の方に向けた。
明霊の額が、村瀬瑠璃の額に近づいていく。
「違う方法を探さないか?」
僕の言葉に、明霊はあからさまに不快そうな表情を浮かべた。
「ここまできて、何を言っている?いいから、黙っているんだ。すぐに村瀬瑠璃の意識は消えて、美霊が現れる」
明霊は僕を睨んでから、さらに額を村瀬瑠璃に近づけた。
僕は村瀬瑠璃の頭を明霊から守ろうと、抱きかかえようとした。
その時、唐突に見知らぬ者の声が響いた。
「はい。そこまで!」
いつの間にか、明霊の背後に人が立っていた。がっしりとした体格の男である。
「くそっ!」
明霊がいきなり背後に向って、拳を振った。
背後の男は、それを軽く受けて、明霊の腕を掴み、柔道の体落しのように投げた。
明霊は武道の心得があるようで、受身をとるとすぐに立ち上がって、対峙した。
現れた男は明霊に蹴りを放ち、明霊はそれを受けた。男の体格は身長で十センチほど明霊より高く、いかにも鍛えていそうな体格をしていた。
明霊は男の攻撃を受け流し、反撃もして善戦していたが、実力の差がはっきりと出てきて、逃げようと体を翻したところを一気に畳み込まれた。
僕は、車のドアが開いたかと思うと、勢い良く引きずり出され、結束バンドで両腕を縛られると、黒いミニバンに放り込まれた。
数十秒後には、明霊も同じように両手を背後で縛られて、ミニバンに放り込まれてきた。