第三章
それから数日、彼女は朝食を済ませると、一人で出かけた。
「一人で考えたいことがあるのよ」
それが理由だった。
彼女の留守中に、明霊が訪ねてきたことがあったところをみると、明霊と会っていたわけではないらしい。
十二月に入り、厳しくなってきた寒さに対抗するため、僕は夕食に鶏鍋を作った。
彼女が淹れてくれた食後のコーヒーを前にして、僕は彼女に聞いた。
「君の仲間を探すつもりなの?」
彼女は視線を上に向けた。
「どうしようかな。見つけても、困るだけだから、止めておこうかな」
「困る?会いたくない人がいることを思い出したとか?」
彼女は苦笑した。
「まだ思い出せないわ。でも、長い間一度も会っていない仲間に会っても、うまくやっていけるとは思えないのよ。それに…私は今の暮らしが気に入っているのよ。手放したくないわ」
僕も苦笑した。
「心配をし過ぎているんじゃない?仲間に会っても、今まで通りに暮らしていけばいいよ。でも、何かが起こったときに、相談できる仲間がいると安心できるだろう?」
彼女はコーヒーをゆっくりと一口すすった。
「何か起こる…どんなことが起こると思う?」
「病気とか」
彼女は僕の目を見て、微笑んだ。
「決めた!仲間を探さないわ」
「でも…」
彼女は僕の言葉を遮るように、立ち上がって、コーヒーカップをキッチンに運び、そのままバスルームへと消えた。
(本当に、それでいいの?)
僕は言いかけた言葉を、口の中で呟いた。
それから、何度か明霊から電話があった。
彼女は、その電話に出ようとはせず、会いたいという申し入れも断っていた。
明霊は「気が変わるまで待つよ。俺たちには時間があるからな」と僕に言って、連絡をしてこなくなった。
師走が訪れ、正月が過ぎた。
「まだ、初詣に行っていなかったわね。遅くなったけど、行こうよ」
僕と彼女は連れ立って、近所の神社へと歩き始めた。
自宅から歩いて十分ほどの距離にあるその神社は、正月と秋祭りの時ぐらいしか、人の姿がほとんどない神社である。それでも、今のマンションに引っ越してきてからは、毎年、初詣に来ていた。
風が耳に当ると、痛みを感じるほどの寒い日であった。昨日の夕方に少しだけ降った雨が、道路の所々で凍り付いていた。あと三時間もして昼になれば、その氷もすっかり溶けてしまうのだろうが、まだ溶けきっていない上に足を置くと、滑りそうになる。
「きゃっ!」
足を滑らせてバランスを崩した彼女は、見事に体勢を立て直した。
「大丈夫?」
僕の問いかけにこっくりと頷いて、足早に歩き始めた。
僕が追いかけようとした時、エンジン音が耳に入ってきた。車ではない、大型バイクのエンジン音である。
バイクの姿を確かめようと視線を前に向けると、緩やかなカーブを曲がってくるバイクが見えた。外国製の大型バイクである。法定速度は十分に越えている。
「危ないな…」
僕の口から、白い息と共に漏れた言葉が冷気の中に拡散する前に、金属でアスファルトを削る音が響いた。
凍った水溜りで前輪を滑らせたバイクは、すぐに横転し、勢い良く道路上を滑り始めた。
バイクのライダーは、道路上を転がって止まった。ヘルメットが、割れていた。
バイクが滑って二車線道路の反対車線を横切った先には、彼女がいた。
彼女が避けてくれることを祈りながら、僕は何かを叫んだ。
激突音が、響き渡った。
バイクは、民家の塀に激突して止まっている。
彼女は…。
彼女はバイクと塀に挟まれていた。
「はーちゃん!」
僕は彼女に駆け寄った。
彼女は高さ二メートルほどの黄土色がかった塀の下の方に、斜めに座り込むようにして倒れていた。そして、彼女の足の上に、バイクが乗っている。
恐る恐る伸ばした僕の手は、明らかに震えていた。
彼女の顔には大きな傷はなかった。
彼女の頬から首の辺りに触れた手の平から、湿った感触が伝わってきた。
彼女の痛みが、僕の中に侵入してきて、大きな震えが全身を襲った。
「目を開けて!」
僕の右手には、彼女の血がべっとりと付いていた。
その血は、塀にも染み込んでいる。
彼女は薄く目を開けた。
「すぐに、これを動かすから、少しだけ待っていて」
微かに頷く彼女に、引きつった笑みを向けてから、バイクを動かそうと、ハンドルに手をかけた。中型のバイクの免許はあるが、こんなに大きなバイクに乗ったことはない。
久しぶりに、バイクを扱ったので、引き起こす方法をすぐに思い出せない。
(そうか!てこの原理だ…)
コツを思い出したが、すぐにはそれを行動に移せない。
ようやくバイクが動き始めたが、なかなか持ち上がらない。その時、急にバイクが軽くなった。
横を見ると、若い男がバイクに手をかけて、手伝ってくれていた。
引き起こしたバイクを、そのまま反対側に無造作に倒し、彼女の体を支えながら、顔を覗き込んだ。眼球だけを動かして、僕の方を見た。
彼女の左足から流れ出た血は、ズボンを半分近く赤で染めていた。
「救急車を呼びました!」
女性の声が背後から聞こえてきた。
僕は振り返ることも、頷くことも、できなかった。
目の前の彼女の目の焦点が、どこにも合っていなかった。息もほとんどしていない。
首に人差指と中指の腹を当てた。弱々しい脈動が伝わってくる。
彼女の目が閉じられた。
「私は…この体…」
彼女は言葉にならない声を微かに発した。
救急車のサイレンが聞こえてきた。
「もう少し頑張れ!」
彼女の体から、力が急に抜けた。
救急隊員が、僕と彼女を引き離した。彼女を救急車の中に運び込むと、僕に一緒に乗っていくのかを尋ね、僕が頷くと救急車に押し込んだ。
すぐに救急車のドアが閉められ、エンジン音が大きくなった。
サイレン音と救急隊員の応急処置の動きを感じながら、僕は彼女を凝視していた。
病院に到着すると、すぐに緊急手術が始まった。
僕は手術室の出入口近くのベンチに座っていた。どうやって救急車を降りたのか、どうやって廊下を歩いてきたのか、全く覚えていなかった。
警察官が事故の様子を聞きに来たが、何を答えたのか覚えていない。事故の様子と彼女との関係を、簡単に聞かれただけのような気がする。
時間の感覚が消えていた。
手術室に入っていた医師が、僕の前に立った。
彼女の死亡を宣告された。
しばらくして、看護師がベンチに俯いて座っていた僕の前に立った。
「ご遺体に、会われますか?」
僕は口の中で「はい」と呟いて、立ち上がった。
小さな部屋の中央に置いてあるベッドに横たわった彼女の顔には、白い布が被されていた。
白い布を外して、彼女の顔、田神成美の顔と言った方が正確か、を見た。顔に付いていた血は、きれいに拭い去られていた。
「ご家族に連絡をされましたか?」
僕は首を振った。彼女の体の持ち主である田神成美には、家族がいなかった。
「家族はいません」
「それでは、ご葬儀は…」
二度目だと思った。
「僕が行います」
前に自分の父親の葬儀を手配した時は、母親も弟も手伝ってくれたが、今度は自分一人で行うことになる。
看護師が事務員を呼びに行くと、僕は部屋に一人で残された。
スマートフォンのアドレス帳から葬儀屋の電話番号を探していると、ドアが開いて、一人の女性が入ってきた。グレーのスーツを着た女性だった。
「ごめんね」
スーツを着た女性は、遺体に向ってそう言った。
遺体を見つめているその女性に、見覚えはなかった。
「彼女の知り合いでしょうか?」
スーツを着た女性は、僕の目を見た。
「二十三年前のカキ氷の味は、覚えているわ」
僕は目を見開いた。
「君なのか?」
「そうよ。田神成美の体の心臓が止まる直前に、私はこの体に入ったのよ」
スーツを着た女性は、事故現場にいて救急車を呼んでくれた女性であった。外見は…。
「君を受け入れてくれる人があの場にいたなんて、すごい幸運だね」
彼女は首を振った。
「受け入れてくれたわけではないのよ」
彼女は持っていた鞄から、財布を取り出した。免許証を僕に手渡す。
「どうするの?」
「すぐに、この体の持ち主のことを覚えておいてほしいのよ。私の意識は、もうすぐこの体の持ち主の意識に飲み込まれるわ。もし私がこの体を支配できなかったら…」
僕はスマートフォンを取り出して、彼女が差し出した免許証を写した。続いて、彼女のスマートフォンを取り出して、スマートフォンと自宅の電話番号を確認した。
「村瀬瑠璃という名前で、二十九歳。服装からして、会社勤めかな。自宅は、隣の市だね。もしかして、結婚しているかも知れないよ」
村瀬瑠璃のスマートフォンの待ち受けには、二、三歳の男の子の写真が使われていた。
「もう時間がないわ。村瀬瑠璃の意識が、私を押し退けようとしている」
彼女の顔に、汗が浮かんでいた。
「君はどうなるの?」
「村瀬瑠璃の意識の片隅に避難はできるけど、次は、いつにこの体を使えるか分からないわ。村瀬瑠璃は、強い意思を持っている人なのよ」
彼女は小走りに、部屋を出て廊下を走り出した。
部屋の外まで追いかけた僕に「村瀬瑠璃の意識が戻った時に、あなたがいるのは良くないわ」と言い捨てて、廊下の角を曲がっていった。
僕は、少し距離を開けて、彼女を追った。
彼女は病院の待合室まで来ると、ソファに倒れ込むように座った。
十秒ほどして、彼女は再び立ち上がったが、周囲に視線を向けて、何度も自分のいる場所を確認しているようである。
(自分が今どこにいるのか、やはり分からないのか…)
村瀬瑠璃は、病院の出入口に向って歩き始めた。
僕は追いかけたかったが、田神成美の遺体を病院に残して去るわけにはいかなかった。
葬儀は、僕の弟とその家族だけを呼んで、小さなものにした。
葬儀が終わった日、僕は明霊に連絡を入れ、翌日に会う約束をした。
明霊は店のランチとディナーの間の休み時間に僕を「洋食クボ」に招いた。
「親父はパチンコに行っているから、俺たちだけだ。美霊は君がここに来ていることを知っているのか?」
僕は示された椅子に座った。
「知らない。それどころか、彼女が今、どうなっているのかも分からない」
明霊の顔に、皮肉な笑みが浮かんだ。
「彼女と喧嘩でもしたのか?その仲裁を俺にして欲しいなんて言うのではないだろうな?」
僕は、その冗談に対しては反応せずに、話を続けた。
事故のこと、彼女が村瀬瑠璃の中に入ったこと、彼女が村瀬瑠璃の意識の片隅に追いやられていることを話した。
「どうしたら良いと思う?あなたの意見を聞かせて欲しい」
明霊は立ち上がって、店の中をゆっくりと歩き回り始めた。そして、立ち止まる。
「このままでは、美霊は消えてしまうかもな」
僕は思わず、身を乗り出した。
「そんな…」
明霊は苦笑を浮かべた。
「すぐに消えるというわけではないから、落ち着け。村瀬瑠璃という女が、どのような精神状態かによって違うが。少なくても数ヶ月は、大丈夫だ」
僕の中の焦燥感が少しだけ後退したが、不安は減らない。
「彼女を救う方法は?」
明霊は、人差指と中指を立てた。
「二つある」
「二つ?」
「一つは、美霊が入っている体の主が精神的に弱っている時に、美霊が自力で意識の主導権を奪い、美霊の支配を受け入れる別の人の中に入り直すという方法」
「弱っている時とは?」
「親しい人が死んで落ち込んでいる時、重病であることが分かって余命宣告を受けた時、将来の希望がなくなった時、そんな感じの時だ。つまり、精神的にかなり大きな衝撃を受けて、不安定になった時だな」
「もう一つは?」
「村瀬瑠璃の精神を壊す方法だ」
「どうやって壊すんだい?」
「俺が壊す。俺たちの種族には、その力がある」
「村瀬瑠璃は、どうなる?」
「精神的に大きな障害を負うことになる。一生、介護が必要になるだろうな。美霊が村瀬瑠璃として暮らしていけば、表面上は問題ないが…」
僕は明霊に対して、初めて明確な恐怖を覚えた。
(明霊は、人間を自分たちが利用するための存在としか見ていない)
僕は椅子から立ち上がった。
「教えてくれて、ありがとう。僕に何ができるか分からないけど、やってみるよ」
明霊は横を通り過ぎようとした僕の肩を軽く叩いた。
「頑張らなくていいぞ。後で俺が美霊を救って、感謝される予定だからな」
明霊の顔には、嘲りの色が浮かんでいた。
僕は苛立ちを感じながら、店のドアを開いて外に出た。