表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/10

第三章

 それから数日、彼女は朝食を済ませると、一人で出かけた。

「一人で考えたいことがあるのよ」

 それが理由だった。

 彼女の留守中に、明霊が訪ねてきたことがあったところをみると、明霊と会っていたわけではないらしい。

 十二月に入り、厳しくなってきた寒さに対抗するため、僕は夕食に鶏鍋を作った。

 彼女が淹れてくれた食後のコーヒーを前にして、僕は彼女に聞いた。

「君の仲間を探すつもりなの?」

 彼女は視線を上に向けた。

「どうしようかな。見つけても、困るだけだから、止めておこうかな」

「困る?会いたくない人がいることを思い出したとか?」

 彼女は苦笑した。

「まだ思い出せないわ。でも、長い間一度も会っていない仲間に会っても、うまくやっていけるとは思えないのよ。それに…私は今の暮らしが気に入っているのよ。手放したくないわ」

 僕も苦笑した。

「心配をし過ぎているんじゃない?仲間に会っても、今まで通りに暮らしていけばいいよ。でも、何かが起こったときに、相談できる仲間がいると安心できるだろう?」

 彼女はコーヒーをゆっくりと一口すすった。

「何か起こる…どんなことが起こると思う?」

「病気とか」

 彼女は僕の目を見て、微笑んだ。

「決めた!仲間を探さないわ」

「でも…」

 彼女は僕の言葉を遮るように、立ち上がって、コーヒーカップをキッチンに運び、そのままバスルームへと消えた。

(本当に、それでいいの?)

 僕は言いかけた言葉を、口の中で呟いた。


 それから、何度か明霊から電話があった。

 彼女は、その電話に出ようとはせず、会いたいという申し入れも断っていた。

 明霊は「気が変わるまで待つよ。俺たちには時間があるからな」と僕に言って、連絡をしてこなくなった。

 師走が訪れ、正月が過ぎた。

「まだ、初詣に行っていなかったわね。遅くなったけど、行こうよ」

 僕と彼女は連れ立って、近所の神社へと歩き始めた。

 自宅から歩いて十分ほどの距離にあるその神社は、正月と秋祭りの時ぐらいしか、人の姿がほとんどない神社である。それでも、今のマンションに引っ越してきてからは、毎年、初詣に来ていた。

 風が耳に当ると、痛みを感じるほどの寒い日であった。昨日の夕方に少しだけ降った雨が、道路の所々で凍り付いていた。あと三時間もして昼になれば、その氷もすっかり溶けてしまうのだろうが、まだ溶けきっていない上に足を置くと、滑りそうになる。

「きゃっ!」

 足を滑らせてバランスを崩した彼女は、見事に体勢を立て直した。

「大丈夫?」

 僕の問いかけにこっくりと頷いて、足早に歩き始めた。

 僕が追いかけようとした時、エンジン音が耳に入ってきた。車ではない、大型バイクのエンジン音である。

 バイクの姿を確かめようと視線を前に向けると、緩やかなカーブを曲がってくるバイクが見えた。外国製の大型バイクである。法定速度は十分に越えている。

「危ないな…」

 僕の口から、白い息と共に漏れた言葉が冷気の中に拡散する前に、金属でアスファルトを削る音が響いた。

 凍った水溜りで前輪を滑らせたバイクは、すぐに横転し、勢い良く道路上を滑り始めた。

 バイクのライダーは、道路上を転がって止まった。ヘルメットが、割れていた。

 バイクが滑って二車線道路の反対車線を横切った先には、彼女がいた。

 彼女が避けてくれることを祈りながら、僕は何かを叫んだ。

 激突音が、響き渡った。

 バイクは、民家の塀に激突して止まっている。

 彼女は…。

 彼女はバイクと塀に挟まれていた。

「はーちゃん!」

 僕は彼女に駆け寄った。

 彼女は高さ二メートルほどの黄土色がかった塀の下の方に、斜めに座り込むようにして倒れていた。そして、彼女の足の上に、バイクが乗っている。

 恐る恐る伸ばした僕の手は、明らかに震えていた。

 彼女の顔には大きな傷はなかった。

 彼女の頬から首の辺りに触れた手の平から、湿った感触が伝わってきた。

 彼女の痛みが、僕の中に侵入してきて、大きな震えが全身を襲った。

「目を開けて!」

 僕の右手には、彼女の血がべっとりと付いていた。

 その血は、塀にも染み込んでいる。

 彼女は薄く目を開けた。

「すぐに、これを動かすから、少しだけ待っていて」

 微かに頷く彼女に、引きつった笑みを向けてから、バイクを動かそうと、ハンドルに手をかけた。中型のバイクの免許はあるが、こんなに大きなバイクに乗ったことはない。

 久しぶりに、バイクを扱ったので、引き起こす方法をすぐに思い出せない。

(そうか!てこの原理だ…)

 コツを思い出したが、すぐにはそれを行動に移せない。

 ようやくバイクが動き始めたが、なかなか持ち上がらない。その時、急にバイクが軽くなった。

 横を見ると、若い男がバイクに手をかけて、手伝ってくれていた。

 引き起こしたバイクを、そのまま反対側に無造作に倒し、彼女の体を支えながら、顔を覗き込んだ。眼球だけを動かして、僕の方を見た。

 彼女の左足から流れ出た血は、ズボンを半分近く赤で染めていた。

「救急車を呼びました!」

 女性の声が背後から聞こえてきた。

 僕は振り返ることも、頷くことも、できなかった。

 目の前の彼女の目の焦点が、どこにも合っていなかった。息もほとんどしていない。

 首に人差指と中指の腹を当てた。弱々しい脈動が伝わってくる。

 彼女の目が閉じられた。

「私は…この体…」

 彼女は言葉にならない声を微かに発した。

 救急車のサイレンが聞こえてきた。

「もう少し頑張れ!」

 彼女の体から、力が急に抜けた。

 救急隊員が、僕と彼女を引き離した。彼女を救急車の中に運び込むと、僕に一緒に乗っていくのかを尋ね、僕が頷くと救急車に押し込んだ。

 すぐに救急車のドアが閉められ、エンジン音が大きくなった。

 サイレン音と救急隊員の応急処置の動きを感じながら、僕は彼女を凝視していた。

 病院に到着すると、すぐに緊急手術が始まった。

 僕は手術室の出入口近くのベンチに座っていた。どうやって救急車を降りたのか、どうやって廊下を歩いてきたのか、全く覚えていなかった。

 警察官が事故の様子を聞きに来たが、何を答えたのか覚えていない。事故の様子と彼女との関係を、簡単に聞かれただけのような気がする。

 時間の感覚が消えていた。

 手術室に入っていた医師が、僕の前に立った。

 彼女の死亡を宣告された。

 しばらくして、看護師がベンチに俯いて座っていた僕の前に立った。

「ご遺体に、会われますか?」

 僕は口の中で「はい」と呟いて、立ち上がった。

 小さな部屋の中央に置いてあるベッドに横たわった彼女の顔には、白い布が被されていた。

 白い布を外して、彼女の顔、田神成美の顔と言った方が正確か、を見た。顔に付いていた血は、きれいに拭い去られていた。

「ご家族に連絡をされましたか?」

 僕は首を振った。彼女の体の持ち主である田神成美には、家族がいなかった。

「家族はいません」

「それでは、ご葬儀は…」

 二度目だと思った。

「僕が行います」

 前に自分の父親の葬儀を手配した時は、母親も弟も手伝ってくれたが、今度は自分一人で行うことになる。

 看護師が事務員を呼びに行くと、僕は部屋に一人で残された。

 スマートフォンのアドレス帳から葬儀屋の電話番号を探していると、ドアが開いて、一人の女性が入ってきた。グレーのスーツを着た女性だった。

「ごめんね」

 スーツを着た女性は、遺体に向ってそう言った。

 遺体を見つめているその女性に、見覚えはなかった。

「彼女の知り合いでしょうか?」

 スーツを着た女性は、僕の目を見た。

「二十三年前のカキ氷の味は、覚えているわ」

 僕は目を見開いた。

「君なのか?」

「そうよ。田神成美の体の心臓が止まる直前に、私はこの体に入ったのよ」

 スーツを着た女性は、事故現場にいて救急車を呼んでくれた女性であった。外見は…。

「君を受け入れてくれる人があの場にいたなんて、すごい幸運だね」

 彼女は首を振った。

「受け入れてくれたわけではないのよ」

 彼女は持っていた鞄から、財布を取り出した。免許証を僕に手渡す。

「どうするの?」

「すぐに、この体の持ち主のことを覚えておいてほしいのよ。私の意識は、もうすぐこの体の持ち主の意識に飲み込まれるわ。もし私がこの体を支配できなかったら…」

 僕はスマートフォンを取り出して、彼女が差し出した免許証を写した。続いて、彼女のスマートフォンを取り出して、スマートフォンと自宅の電話番号を確認した。

「村瀬瑠璃という名前で、二十九歳。服装からして、会社勤めかな。自宅は、隣の市だね。もしかして、結婚しているかも知れないよ」

 村瀬瑠璃のスマートフォンの待ち受けには、二、三歳の男の子の写真が使われていた。

「もう時間がないわ。村瀬瑠璃の意識が、私を押し退けようとしている」

 彼女の顔に、汗が浮かんでいた。

「君はどうなるの?」

「村瀬瑠璃の意識の片隅に避難はできるけど、次は、いつにこの体を使えるか分からないわ。村瀬瑠璃は、強い意思を持っている人なのよ」

 彼女は小走りに、部屋を出て廊下を走り出した。

 部屋の外まで追いかけた僕に「村瀬瑠璃の意識が戻った時に、あなたがいるのは良くないわ」と言い捨てて、廊下の角を曲がっていった。

 僕は、少し距離を開けて、彼女を追った。

 彼女は病院の待合室まで来ると、ソファに倒れ込むように座った。

 十秒ほどして、彼女は再び立ち上がったが、周囲に視線を向けて、何度も自分のいる場所を確認しているようである。

(自分が今どこにいるのか、やはり分からないのか…)

 村瀬瑠璃は、病院の出入口に向って歩き始めた。

 僕は追いかけたかったが、田神成美の遺体を病院に残して去るわけにはいかなかった。

 葬儀は、僕の弟とその家族だけを呼んで、小さなものにした。

 葬儀が終わった日、僕は明霊に連絡を入れ、翌日に会う約束をした。

 明霊は店のランチとディナーの間の休み時間に僕を「洋食クボ」に招いた。

「親父はパチンコに行っているから、俺たちだけだ。美霊は君がここに来ていることを知っているのか?」

 僕は示された椅子に座った。

「知らない。それどころか、彼女が今、どうなっているのかも分からない」

 明霊の顔に、皮肉な笑みが浮かんだ。

「彼女と喧嘩でもしたのか?その仲裁を俺にして欲しいなんて言うのではないだろうな?」

 僕は、その冗談に対しては反応せずに、話を続けた。

 事故のこと、彼女が村瀬瑠璃の中に入ったこと、彼女が村瀬瑠璃の意識の片隅に追いやられていることを話した。

「どうしたら良いと思う?あなたの意見を聞かせて欲しい」

 明霊は立ち上がって、店の中をゆっくりと歩き回り始めた。そして、立ち止まる。

「このままでは、美霊は消えてしまうかもな」

 僕は思わず、身を乗り出した。

「そんな…」

 明霊は苦笑を浮かべた。

「すぐに消えるというわけではないから、落ち着け。村瀬瑠璃という女が、どのような精神状態かによって違うが。少なくても数ヶ月は、大丈夫だ」

 僕の中の焦燥感が少しだけ後退したが、不安は減らない。

「彼女を救う方法は?」

 明霊は、人差指と中指を立てた。

「二つある」

「二つ?」

「一つは、美霊が入っている体の主が精神的に弱っている時に、美霊が自力で意識の主導権を奪い、美霊の支配を受け入れる別の人の中に入り直すという方法」

「弱っている時とは?」

「親しい人が死んで落ち込んでいる時、重病であることが分かって余命宣告を受けた時、将来の希望がなくなった時、そんな感じの時だ。つまり、精神的にかなり大きな衝撃を受けて、不安定になった時だな」

「もう一つは?」

「村瀬瑠璃の精神を壊す方法だ」

「どうやって壊すんだい?」

「俺が壊す。俺たちの種族には、その力がある」

「村瀬瑠璃は、どうなる?」

「精神的に大きな障害を負うことになる。一生、介護が必要になるだろうな。美霊が村瀬瑠璃として暮らしていけば、表面上は問題ないが…」

 僕は明霊に対して、初めて明確な恐怖を覚えた。

(明霊は、人間を自分たちが利用するための存在としか見ていない)

 僕は椅子から立ち上がった。

「教えてくれて、ありがとう。僕に何ができるか分からないけど、やってみるよ」

 明霊は横を通り過ぎようとした僕の肩を軽く叩いた。

「頑張らなくていいぞ。後で俺が美霊を救って、感謝される予定だからな」

 明霊の顔には、嘲りの色が浮かんでいた。

 僕は苛立ちを感じながら、店のドアを開いて外に出た。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ