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第二章

 秋祭りの太鼓の練習をする音が、聞こえてくるようになっていた。

 直射日光の下でしか、暑さを感じないようになり、長袖の服を引き出しの奥から出した。

 車のハンドルを左に切って、ケーキ屋の前に止めた。

 昼時を少し過ぎた頃で、店内に他の客はいなかった。

「何個、買っていくの?」

 彼女の視線の先には、ショーケースがある。ショーケースの中には、視覚的にも高揚感を誘発するような、カットケーキが整然と並んでいた。

 僕は、頭の中で人数を数えた。

「六人分かな?」

 彼女は、少し迷いながらケーキを選んだ。ガトーショコラは最後に指差した。

 目的の家が見えてきた時、縄跳びをしている少女の姿も目に入った。

 少女がこちらに気が付いて、手を振った。

 僕は車の窓を開けて、小さく手を振った。

「佳澄ちゃん。来たよ」

 家の前に止まった車から降りてきた彼女を、姪が凝視した。

「佳澄ちゃん。こんにちは」

 彼女の微笑に、姪も笑顔になった。

 僕の五歳違いの弟には、五年前に生まれた娘がいる。

 市役所に勤める弟は、実家で母親と暮らしている。実家には月に一度ほど遊びに行っている。

 僕の母親と弟夫妻に紹介が終わると、彼女は皆に言う。

「私も「はーちゃん」と呼んで下さい」

 彼女の呼び名は、昔からこれである。

 僕の母親と弟夫妻にとっては、前の彼女と同じ呼び方をすることに違和感があるのだろうが、すでに何度も同じことを経験して、慣れてきているようである。

 彼女と姪の佳澄は、ケーキを食べ終わる頃には、すでに打ち解けていた。

 佳澄は彼女の隣に座って、彼女から綾取りを教えてもらっている。

 何の変哲もない毛糸から、様々な形が作り出される度に、姪の口から歓声が漏れる。

 姪と遊んでいる彼女を見ながら、弟が小声で言った。

「兄さんの彼女は、いつも同じような人だね。外見は違うけど、性格というか雰囲気というか・・・」

 僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。

 弟には、結婚もせずに、毎年彼女を変える移り気な兄、と思われているだろう。しかし、実際は十七歳の時から、同じ人と付き合っているのである。

 空が夕焼け色に染まり始め、僕と彼女は車に乗り込んだ。

「はーちゃん。また来てね」

 五歳の姪は、小さな手を振り続けている。

 彼女は助手席側の窓を全開にし、それに応えて、手を振っている。

 国道は、流れが悪かった。行楽帰りの車が多いように見えた。

「佳澄ちゃんは、可愛いわね」

 彼女は、フロントガラス越しに前を見ながら呟いた。

「母親・・・香奈さんの育て方が良いんだろうね。素直に育っていると思うよ」

 彼女は僕に少しの間、視線を向けてから、戻した。

「純樹は子供が欲しい?」

 この質問は、これまでに何度も彼女が口に出してきたものであった。

「そうだね。いたら楽しいだろうけど、無理に欲しいとは思わないよ」

 そして、これも僕が何度も答えてきたものである。

 歩道を、三人の小学生が歩いているのが見えた。おそらく、小学一年か二年であろう。

「来年は、あれぐらいの子になって、戻ってこようかな」

 僕は首を細かく振った。

「止めてくれ。僕が誘拐犯になってしまうよ」

 苦い表情をしている僕の顔を見て、彼女は楽しそうに笑った。

「冗談よ。あなたが犯罪者になったら、私の帰る場所が無くなるじゃない」

 僕は横目で彼女を見た。

(今は僕が帰る場所だけど、彼女はこれまでに、いくつの帰る場所を無くしてきたのだろう?)

 信号機が青光を発すると、僕は車のアクセルを、ゆっくりと踏み込んだ。


 冬の気配が訪れた。紅葉していた樹たちは、すっかり葉を落し、身軽な体になって寒さに備えていた。

 その男は、何の前触れもなく現れた。

 僕と彼女が、買い物から帰ってくると、玄関の扉の前で黒い塊がうずくまっていた。両腕で膝を抱え、足裏だけを地面に接している。顔は、膝の上に伏せられていて、横顔の一部しか見えない。小学校の高学年ぐらいの少年だ。

「この家の人に、用があるの?」

 彼女が、少年に声をかけると、少年は背中を丸めたまま立ち上がり、ゆっくりと背中を伸ばし、最後に首を真っ直ぐにした。

 少年は彼女の顔を凝視した。顔を見ているというより、目の奥を覗き込んでいるような感じだった。

「やっと会えたね。美霊」

 少年は彼女の本当の名前を言った。口調は少年のものではなく、大人の、しかも年配の男のようなものだった。

 彼女の表情は強張った。

「誰なの?」

 少年は口の端に、笑みを乗せた。

「君は、いつから、この人の体を借りているの?」

 初対面の人にするような質問ではない。それどころか、人に対してする質問でさえない。

 彼女は、自分よりも首一つ分背の低い少年の顔を睨むように見ている。

「名乗りなさい」

 少年の顔から笑みが消えた。

「本当に分からないのか?それとも、そいつがいるから、分からない振りをしているのか?」

 彼女は、同じ言葉を繰り返した。

 少年は小さく溜息を吐いてから、彼女の問いに答える。

「俺の名は「明霊」だよ。覚えているだろう?」

 彼女は少年の顔を、しばらく睨むように見ていたが、首を振った。

「知らないわ」

 少年はもう一度、溜息を吐いた。

「今日のところは、そういうことにしておこう。今から塾に行かなければならないからな……近頃の小学生は、大変だよ」

 少年はそう言って、背中を見せた。小走りに、階段を駆け下りて、手摺越しに見下ろしている彼女に大声を出す。

「約束は必ず守るからな!」

 少年は明るい声を出し、走り去った。肩から提げた鞄が、踊るように少年にまとわりついていた。

 少年の姿が見えなくなってから、彼女は不安そうな視線を僕に向けた。

「見覚えはないの?」

 僕の問いに、彼女は頷いた。

「名前に聞き覚えはあるの?」

 彼女は首をゆっくりと振った。

「君のことを知っているようだったね。本当の名前も知っていた、ということは君と同じ…」

 彼女はもう一度、ゆっくりと首を振った。

 その少年は、二度と僕たちの前に現れなかった。

 しかし、一週間後、再び見知らぬ者が急に現れた。その時、僕と彼女は毎朝の日課である散歩をしていた。

 今度は、二十歳代後半の若者の姿であった。そして、男は「明霊」と名乗った。

「この姿なら、今の君に相応しいだろう?」

 男は長身で均整の取れた体、そして整った顔立ちをしていた。確かに、今の彼女と横に並べば、お似合いの二人である。

 僕と彼女は目を見合わせた。この男が、彼女と同類であることは間違いないようである。

「あなたに興味はないわ。帰ってもらえる?」

 彼女は冷たい視線を男に送った。

「せっかく君に気に入ってもらえるような、容姿になったのに…」

 男は彼女に顔を寄せた。

「いい加減にして!警察を呼ぶわよ」

 男は微笑を浮かべた。魅力的な微笑であった。

「そんなことをして困るのは、君だよ。その体の持ち主の家族や友人は、今の状態を知っているの?」

 男は彼女の目を覗き込むように見た。

「困ることなんて、ないわよ」

 彼女は男に素っ気なく言い捨てると、僕の袖を引いて、歩き始めた。

 男は矛先を僕に向けた。

「あんたは、この人の正体を知っているのか?」

 僕は、速足で追いかけてきた男の目を見た。

「明霊さん…僕は彼女…いろんな姿の彼女と二十年以上も一緒にいるんだ」

 明霊は小さく手を叩いた。

「すごいな。そんなに長い間、自分の人生について疑問を抱かないなんて!」

「どういう意味だ?」

「美霊にとって、君は束の間の同居人に過ぎないのだよ」

 彼女の手が、僕の手から離れた。

 明霊の呻き声が、聞こえてきた。

「いい加減にしろ!」

 見事な蹴りを放った彼女は、腹に手を当て背を丸めている明霊を睨みつけてから、僕の手を再び引いて、歩き始めた。

 僕は何かを彼女に聞きたかったが、言葉が口の外に出ることはなかった。何から聞けば良いのか分からなかった。

「また、会いに来るよ。もう少し、君の機嫌が良い時にね」

 明霊は、ゆっくりと丸めていた背を伸ばしていた。再び追いかけてくる気は、ないようである。

彼女は歩く速度を、少しだけ緩めた。

 自宅に戻り、彼女はソファに座った。

コーヒーの香りが部屋に充満してきた。

「本当に、私の同類だと思う?」

 もちろん、明霊と名乗る男のことである。

「可能性はあるけど、はっきりとは分からないよ」

 僕はコーヒーの入ったマグカップを、彼女の前に置いた。

「そうね。確かめてみるしかないわね」

 彼女はマグカップを持ち上げながら、自分の言葉に頷いた。


 三日後、明霊のことを、どうやって調べようかと考えていると、向こうから現れた。

 午後三時過ぎ、明霊は家にやってきた。

「ここで、店をやっている。今度、食べに来いよ」

 そう言って、明霊は洋食屋の小さなチラシを僕の手の上に置き、すぐに帰っていった。

 僕はリビングで本を読んでいた彼女の前のテーブルにそのチラシを置いた。

 彼女はしばらくチラシを眺めてから、本を置いて、チラシを手に取った。

「行ってみるわ」

 翌日、僕と彼女が店の前に着いたのは、午後四時過ぎであった。

「洋食クボ…」

 店の名前には、明霊が入っている体の持ち主、久保伸幸の名が入っている。

 扉の横に掛けられているオーク色の板には「支度中」の文字が、白い字で書かれていた。

 店は昼と夜の二部制で営業しており、夜の部は午後五時からであった。店の横に駐車スペースが五台分あり、こぢんまりとした店であった。外壁は、元は白い色だったものが、今は年月を経て、灰色がかっていた。

 店の近所を歩いていると、八百屋が目に入った。僕より少し年上の女性が、一人で店番をしていた。

 店先を眺めて、彼女が一盛のリンゴを指差した。

 袋に入れられたリンゴを受け取る時に、彼女は洋食屋の方を指差した。

「あちらにある洋食屋は、おいしいの?」

 彼女の微笑に、店員も微笑を返した。

「何度か行ったことがあるけど、おいしいわよ」

「こぢんまりとしたお店だけど、一人でやっているの?」

「お父さんと息子の二人でやっているわね。忙しい時は、お母さんが手伝いに来ているわよ」

「建物は古そうだけど、昔からやっているの?」

「確か、私が結婚した次の年だったから…十五年前からね。その前は喫茶店だったけど、今のオーナーが買い取って内部は改装したわ。オーナーであるお父さんは、その前はホテルのシェフだったと聞いたことがあるわ。息子も、どこかのホテルで五年ほど修行していたらしいわね。あの店を手伝い始めたのは、三年ほど前からよ」

 店員がさらに話そうとした時、別の客が店に入ってきた。

 僕たちは、店を出て、ゆっくりとした足取りで洋食屋の方へと戻っていく。

「明霊は久保伸幸として暮らしているのかな?それとも、久保伸幸が明霊を騙っているのかな?君と同類だとすれば、前者だろうね…」

 僕の問いに、彼女は無言で首を振った。彼女が知っているはずはなかったが…。

 店の前に着いた時、久保伸幸が店の前にかかっていた板を裏返し、最後の開店準備を終えたところであった。

 僕たちに気付いた久保伸幸、つまり明霊は、彼女と僕を交互に見てから笑みを浮かべた。

「いらっしゃいませ」

 明霊は僕たちを招き入れるために、扉を開けた。僕たちがその横を通って店内に入る時、囁くように言う。

「来てくれて、うれしいよ」

 自分に向って放たれたその言葉を、彼女は完全に無視した。

 店内は、予想していた通り、落ち着いた雰囲気のインテリアだった。木製のテーブルと椅子、壁紙はベージュ色、ダウンライトが黄色みがかった光を落としている。カウンター越しに調理場が見え、コンロ周りの油はね以外は清潔感がある。

 調理場の中央に立つ壮年の男は、この店のオーナーであり、久保伸幸の父親である寛司であろう。

 店の奥のテーブル席に案内され、僕たちは手渡されたメニューを見た。

「本日は、ビーフシチューがおすすめです」

 彼女は、その言葉を無視して、ステーキを注文し、僕はビーフシチューを注文した。

「毒は入れないでよ」

 店内に響いた声は、久保寛司の耳にも届いたはずである。

 明霊は笑った。

「大切な人に毒を盛ったりはしないよ」

 明霊は調理場に入って、僕たちを久保寛司に「冗談好きな友人」と紹介していた。

 運ばれてきた料理は十分に美味しいと言えるものだったが、明霊の様子が気になって、ゆっくりと味わっている余裕はなかった。

 僕たちの後から入ってきた客、馴染みのようであった、にそつなく対応し、久保寛治と息の合った様子で料理を仕上げていた。

「他人が体を乗っ取っているという感じではないよ。あいつは、明霊とかいう奴じゃなくて、久保伸幸じゃないのかな?」

 僕の言葉に、彼女は頷かなかった。

「それなら、どうして私のことを、あいつは知っていたの?」

 僕は過去に何度か浮かんできた疑問を口にした。

「君が体を借りていた人の中に、本当に君の記憶は残っていないの?記憶が残っていて、その人が他人に話したということも考えることはできるよ」

 彼女は、ゆっくりと首を振った。

「少しは記憶が残っていても、あまりに断片的で、何を意味しているのかは分からないはずよ」

 僕は不安を覚えた。

「記憶が残っていることがあるというのは、本当なの?」

 今まで、彼女の体の本来の持ち主は、彼女が体を借りている間のことは全く覚えていないのだと思っていた。

「ずっと昔のことだけど、前の体の持ち主と偶然に友達になったことがあったのよ。その人は夢で行ったはずのないところや、知らない人の顔が出てくることがあると話してくれたわ。夢にしては、鮮明な感じがすると、笑っていたけど、現実とは思っていなかったようね」

 洋食クボの入口付近の外灯が、午後九時になると消えた。店内には、僕と彼女の他には、客は残っていない。

テーブルの上に立てられたワインボトルの中身は、僕と彼女の胃の中に消えていた。

 久保寛司は、息子に店の片付けを任せて、店を出た。

「俺も、座って良いか?」

 僕たちの返事を待たずに、明霊は僕たちのテーブルの空いている席に座った。持っていた盆の上にあった三つのワイングラスを、僕たちの前に置いて、自分のグラスを持ち上げた。

「それでは、乾杯!」

 小さく呟いて、明霊は赤い液体を少しだけ口に流し込んだ。

 僕はワイングラスを持ち上げたが、彼女は半眼を明霊に向けただけであった。

「久保伸幸さん…」

 僕の言葉を遮るために、右手を胸の前に上げた。

「君たちには、「明霊」と呼んでもらいたいね」

 明霊は僕の方ではなく、彼女だけに視線を向けて言った。

 彼女は口を開かない。顔には、何の表情も浮かんではいない。

「僕には、あなたが久保伸幸以外の人であるようには見えなかったのですが?お父さんとも、店の常連客とも、違和感なく接していたように見えました」

 明霊は皮肉な笑みを浮かべた。

「俺は明霊だ。伸幸の記憶を引き出してきて、演じているだけだ」

 僕は驚きをどうにか隠した。体の持ち主の記憶を引き出すことができるとは、思ってもいなかったのである。

「でも、肉親であるお父さんのことを、簡単に騙せるのですか?」

 明霊は僕に冷ややかな視線を向けた。

「肉親だから簡単なんだよ。誰が自分の息子のことを疑う?容姿も、声も、完全に本人のものなんだ」

 僕は気になったことを、やはり質問することにした。

「記憶を引き出せると言いましたが、その体の本来の持ち主の全ての記憶を引き出すことができるのですか?」

 明霊は、彼女に代わりに答えるように促した。

「私は、記憶を引き出せないわ」

 明霊は、驚いた様子を見せた。

「なぜだ?」

 彼女は首を振る。

「知らない…あなたが、変じゃないの?」

 明霊は、さらに驚いた表情をした。そして、彼女の顔を凝視した。

「もしかして、美霊は自分の昔の記憶が全くないのか?」

 彼女は無言であった。表情には目立った変化がなかったが、目の奥に不安が広がっているように感じた。

 明霊は、彼女の目を覗き込むように、顔を近づけた。

「仲間のことを覚えていないのか?」

 明霊の口調には、棘が混じっていた。

 彼女は眉間に皺を作って、明霊を睨んだ。

「帰るわ」

 彼女は唐突に立ち上がった。テーブルの上には、いつのまにか、お札が数枚置かれていた。注文したものの料金よりも、少し多めの金額であった。

 彼女は僕の手を取って、立たせると、店の出入口に向って歩き始めた。

 僕は振り返って、一番気になっていたことを明霊に聞いた。

「他に君たちの仲間はいるのかい?」

 明霊は頷いた。

「数は少なくなったがいるよ」

 ドアを開けて外に出る時、明霊が「また来てくれ」と言った。

 辺りは、すっかり静かになっていた。人通りもなく、時折車が通り過ぎていくだけである。

 彼女は僕の左腕を掴んだまま、歩いていた。

 駅の近くまで来て、歩いている人の姿がちらほらと見えてきた頃、ようやく彼女が口を開いた。

「私は、何者なの?まともではないのは分かっていたけど…」

 僕はこれまで何度か言ってきた台詞を口にする。

「君は、君だよ。それで良いと思う」

 彼女は首を振った。

「そうじゃないの。私は自分が幽霊とか、背後霊とか、そういう類のもので、元は人間だったと思っていたのよ。だから、体は他人のものを借りていたとしても、仮にでも、人として生きていると思っていたのよ」

 彼女は口を閉じて、足元を見た。

 サラリーマン風の中年の男が、近づいてきて、横を通り過ぎた。

 風に枯れ葉が吹かれて、僕の体に当った。

 彼女は僕の方に体を向けて、俯いた。

「でも、私に仲間がいるということは、私は元から人ではなくて、全く別のものである可能性もある、ということよね?」

 僕は彼女の髪の毛に触れた。

「大丈夫…これまで、二十年以上も一緒にいた…これからも、一緒にいる」

 彼女は体を反転させて、歩き始めた。

 僕は彼女に左手を強く引っ張られて、また歩き始めた。


 翌日、明け方に弱い雨が降った。

 アスファルトの上が乾き始めた頃、明霊は僕たちの住まいに現れた。

「昨日、お釣りを渡せなかったから、持って来たよ」

 洋食クボの定休日は、今日であったことを思い出した。

「チップよ。取っておいて」

 彼女はぞんざいに言って、玄関ドアを閉めようとした。

 僕は、彼女越しに明霊と目が合った。

「俺に聞きたいことがあるだろう?話してやるよ」

 彼女はドアを閉めようと力を込めたが、明霊はドアから手を離さない。

「君の彼氏さんは、聞きたいことがあるようだ。君も、本当は聞きたいことがあるんだろう?それとも、知っていて知らない振りをしているだけなのか?」

 僕は彼女に近づき、肩に手を置いた。

「知っておいた方が、いいよ。それに、今は聞きたくなくても、後できっと聞きたくなる」

 彼女は、小さく溜息を吐いた。

「時々、あなたの方がずっと年上じゃないかと思うわ」

 明霊は靴を脱いで、入ってきた。手には、洋菓子店の包みが提げられている。

 僕がコーヒーと明霊の手土産のプリンを用意する間、明霊はリビングのソファに座って、彼女に洋食クボの料理のことについて話していた。

「さて、本題に入ろうか!」

 明霊はプリンを胃の中に納めると、そう言った。

「最初に確認しておきたいことがあるわ。あなたと私は、本当に同類なの?」

 明霊は苦笑いをした。

「そこから疑っているんだね。そうだ。俺たちは、同類だ。人間が、自分たちと類人猿を見分けられるように、俺たちは自分の種族を見分けることができる。そうしないと、子孫を残すこともできないからな」

 僕は首を傾げた。

「子孫を残す?君たちが、生殖を行っても、それは人間の子供が産まれるだけじゃないの?」

 僕の問いに、明霊は首を振る。

「俺たちの生殖は、人間が行うものとは全く違う。そもそも、子孫を残すとはどういうことだ?」

「自らの複製を作るということ…」

 彼女の言葉に、明霊は頷いた。

「さすがだね。人は、男と女の遺伝子の半分ずつを組み合わせて、子供を作る。そして子供は成長し、パートナーを見つけ、さらに子供を作る。そうやって、連綿と続いていく。それは、遺伝子というものを使ったコピー作業だ。単純なコピーではなく、二人の遺伝子を混ぜるというところが要だけどな」

 僕は口を挟む。

「君たちも遺伝子を持っているのかい?」

 明霊は言葉を続けた。

「俺たちには、遺伝子がない。それなら、どうやって子孫を残すのか?その前に、遺伝子とは、どういうものだ?」

「生命の設計図…」

 彼女は呟いた。

「そうだ。つまり、データだ。データを残す手段があれば、子孫を残すことができる」

「それで、はーちゃんが必要なんだね」

 僕は彼女に視線を向けた。

「そうだ。単なるコピーでは、劣化していくだけだ。しかし、二人のデータを合わせ、補うことで、進化する」

 明霊はそう言って、彼女を見た。

「分かったわ。あなたが私の同類だと仮定しましょう。それで、同類さんは、どういうものなの?動物ではないわよね。寄生生物?ウィルス?細菌?」

 明霊は首を振った。

「どれでもないよ。俺たちには実体がない。ウィルスにだって実体がある。俺たちは、人の脳の中に、データとして存在しているだけだ」

 僕は首を傾げた。

「君たち…君は、様々な人の体に入り込むことが可能なのだろう?どのように、人から人へと移り変わっていくんだ?」

 明霊も首を傾げた。

「俺たちの存在が知られていないことからも分かるように、俺たちについての研究はない。正確に言うと、俺たち自身によって研究され、公表されていない研究はある。それによると、俺たちが人から人へと移る時に、特殊な物質が人間の脳内で合成される。そして、それを通じて俺たちは別の人の脳内へと移動するという説がある。本当かどうか分からないけどな」

 明霊は他に質問はないのか、という目をした。

「同類は、どれぐらいの数がいるの?」

 彼女の質問に、明霊の表情が曇った。

「分からない。少なくとも、俺は知らない。七十年ぶりに君に会うまで、俺は一人だった。君以外の同類に最後に会ったのは、いつだったかな…覚えていないな」

 彼女は疑わしそうな視線を明霊に向けた。

「昔は、どうだったの?」

 明霊は視線を宙に向けた。

「年上の仲間は「昔は百人以上の集落を作っていた」と言っていたな」

「あなたは、何歳?」

「若いよ。三百七十歳ぐらいだ」

 僕は思わず口を挟む。

「君たちは、そんなに長寿なのか?」

 明霊は皮肉な笑みを浮かべた。

「俺たちにとって、人間の一生なんて、僅かの時間だ」

 僕は思わず彼女に視線を向けた。

「そうなんだ…」

 明霊は言葉を続ける。

「美霊は俺より年上だ。四百歳近いはずだ。あんたの十倍ぐらいか?」

 僕の中に急激に広がってきた無力感を感じ取ったのか、彼女は僕の背中に手を当てた。

「そんなに、おばあちゃんだったなんて知らなかったわ!」

 彼女が明るい声を出した。

「俺たちに、物理的な年齢なんて関係はないけどな。現に、君も、俺も、見た目は若い」

 彼女は急に冷ややかな視線を明霊に向けた。

「最後に、もう一つだけ聞いていい?私たちの関係は?」

 明霊も彼女の様子の変化に気付いた。表情を引き締めて、彼女をしっかりと見た。

「夫婦だった。もちろん、人間のような夫婦関係ではないけどな」

 彼女は何の反応も見せなかった。そして、そのまま黙り込んでしまった。

 明霊は、しばらく彼女を見ていたが、小さく溜息を吐いて立ち上がった。玄関まで見送りに出た僕を振り返って、微笑を見せた。

「君も、酔狂だな。人の人生は短いんだ。俺たちに付き合って、時間を無駄に過ごす必要はないぞ」

 僕も微笑を返した。

「自分が好きでやっていることです。お気遣いなく…」

 明霊は苦笑を浮かべて、ドアを閉じた。


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